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対談◎根本敬(特殊漫画家)×山野一(漫画家)「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

対談◎根本敬特殊漫画家)×山野一(漫画家)

「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

山野 デビューの頃の話から始めましょうか。当時、すでに結婚して一緒に住んでいたんですが、僕が漫画を描いてるときに、彼女は仕事を持っていなかったので、ヒマじゃないですか。それで落書きをしていたんです。そのネコの絵が面白かったので、これを漫画にしたら面白いんじゃないかということで始めたのがきっかけです。それを『ガロ』に投稿したら載っけていただいたというのが最初で。当時は漫画家になるとかそういうことはまるで念頭になかった感じでしたね。

 

根本 最初は名前が違ってたよね。「ねこじるし」。

 

山野 そうです。適当につけた名前で(笑)。変えた理由も明確なわけじゃないですけど、途中から本人がそっちのほうがいいということで。最初からコンセプト的にやってたわけではなくて、とりあえずできたものを載っけてもらった、よかった、ぐらいの感じでしたね。だから、漫画家としての訓練──私も別に受けちゃいませんけど(笑)──は何も受けてない。描いていたのもペンとかじゃなくて、フェルトペンやマジックで描いてましたし。そのへんは根本さんもよくご存じでしょうけど。

 

根本 デビュー前から知ってるけど、たまたま旦那が漫画家で、紙の空いたところに描いたネコの絵がいつの間にか独り歩きして、すごく大きくなっちゃったという感じだった。でも、俺にとっては別に区別はないから(笑)。いつの間にか周りが「ねこぢるねこぢる」って騒ぐようなっただけで。

 

山野 根本さんにすれば、「なんで漫画描いてるの?」みたいな感じだったんじゃないですか。

 

根本 でもね、意外と「なんで?」って感じはしなかった。山野さんと知り合う前から、俺の『花ひらく家庭天国』とか読んでたらしいしね。

 

山野 あ、僕と会うもうずっと前から根本さんの作品は熟読してましたね。

 

──山野さんは彼女の絵のどこがいい思ったんですか?

 

山野 ちょっと口では説明しづらいんですけど、何ていうのかな、尋常ではない何かがあって、無表情なのにかわいい、それでいてどっかに狂気が宿ってる、みたいな部分。

 

根本 目に見えないものとか、言葉にできないものとか、ね。

 

山野 同じネコの絵を執拗に描く。ほっとくといつまでも描き続けてるみたいなところも尋常でないものを感じましたね。

 

根本 それを自分で説明できる子だったら、かえって表現できない世界だよね。

 

山野 たとえば、初期の蛭子能収さんの、何も考えないで描く人間の顔なんかも、当の蛭子さんが無自覚な狂気みたいなものまで、見る者に伝えたりするじゃないですか。それと似たようなもの、言語化不可能なある種の違和感かもしれないけど、大人に解釈されたものではない生々しい幼児性というか、かわいさと気持ち悪さと残虐性が入り交じった、奇妙な魅力みたいなものがあったんだと思いますよ。

 

──そのうち、原稿の注文が増えてくるわけですよね。

 

山野 注文が来るなんてまったく思ってもいなかったから、不思議な気がしましたね。普通、漫画家はほかの出版社に漫画を描くときは、別のキャラクターを作るじゃないですか。でも、うちの場合、『ガロ』を見たいろんなとこから来たのが全部このネコの絵でやってくれということだったので、出版社によってキャラクターが変わるということがなかった。

 

根本 タイトルが変わっただけでね(笑)。

 

山野 タイトルも多少、文字が変わってるぐらいで、ほとんどねこぢるナントカですから、よくそれで出版社がOKだったなと思いますね。

 

根本 ねこぢるじゃなくて「ねこぢる」に仕事が来てたんだよね。

 

山野 まあ、そういうことだと思いますね。

 

──彼女の中で「ねこぢる」は、自分だけの作品だったのか、山野さんとの共同作業だったのか、どちらだったんでしょう?

 

山野 仕事とかにもよりますが、役割みたいなものも描いてる連載によって違いますし。どっちにしろ混じっていたのは確かですね。ただ、漫画好きではあったけど、漫画を描いたことがなかったので、いきなり商業誌で「八ページでこんなものを」と言われても無理なんです。アイディアは当人が出すにしても、それを漫画という形にして、いただいたページ数におさめるという作業は僕がやるという感じでしたね。

 

根本 漫画ってちょっと特殊ですもんね。面白いアイディアがあっても、それを具体的なセリフや、コマ割りで展開するというのは、小説とも違い、ある種の特殊技能ですよ。

 

山野 本人は多分、漫画家になろうという意志もないままになってしまったんだと思います。ですから、ある程度、事務性の高い作業は僕が代わりにやるという感じでしたね。

 

──ねこぢるの漫画のセリフはほとんど書き文字ですが、何かこだわりがあったんですか?

 

山野 本人が書いた字がなかなか味わいがあると思ったので、「そのままでいいんじゃないの」と僕が言ったのが最初だと思うんです。それで、普通なら鉛筆で書いて写植を入れるようなところをフェルトペンとかで書き込んじゃって、出版社のほうでもそれでいいという感じだったので、そのまま印刷されちゃったんだと思いますね。

 

根本 それがもう、ごく自然な流れでそのままスタイルとして定着して。

 

山野 そうです。でも、あんなに原稿が大したチェックも入らず、スイスイ入っていくというのは驚きでしたね。僕なんかエロ漫画誌で描かせていただいて食ってましたけど、「これはおっぱいが小さいじゃないか」とか言われて、「すいません」ってその場ででっかく描き直したりとかしていて、うるさく言われるのが当たり前だと思ってました。ねこぢるの場合、差別表現とかどうしても外せない部分ではあるでしょうけれども、それ以外の制約はほとんど受けてこなかった。許されてる枠内で割と自由にやらせてもらっていましたね。

 

根本 そういうところをひっくるめて“才能”なんだよね。

 

年を取ることを異常に嫌っていた

山野 以前、ねこぢるが二の腕の内側の静脈瘤というのかな、もつれた細い静脈のかたまりみたいなものを取り除く手術を受けたことがあるんです。座ったままできる簡単な手術なんですけれど、僕は体に刃物が入るとか、怖くて見ていることができないんです。でも、ねこぢるはずーっと手術の様子を凝視してたんです。医者も妙な顔をしてました。それがすごく印象的で。きっとどんなのが出てくるのか見たかったんでしょうね。そうやってじーっとまっすぐに、ある意味無遠慮に、いろんな物や人を見つめるみたいな性質はありましたね。

 

根本 「にゃーこ」の目にそれが象徴されてますね。

 

山野 あるとき、新宿駅で歩いてたんですよ。そしたら、今までおとなしく座ってたプー太郎がいたんですけど、いきなり宇宙語みたいなのをわめきながらまっすぐねこぢるのとこに走ってきて、腕をガツーンとつかんだんです。なぜあの無数に歩いている通行人の中から彼女のところにまっすぐ走ってきて腕をつかんだのかは謎ですね(笑)。

 

根本 それ、ポイント、絶対に何かあるんですよ、そこに。

 

山野 あと、ねこぢるって異常に年を取らなかった。容貌もあまり変わらないですけれども、精神的にずーっと子供のままみたいなところがありましたね。年を取ることをすごく嫌ってましたね。

 

──最後まで、お二人だけで描いていたわけですよね。

 

山野 そうです。でも、スクリーントーンとか、ベタとか、そういう仕上げの作業みたいなものは主に僕がやってたんで、最後まで働いてるのは僕みたいな感じではありましたね(笑)。

 

根本 マネジャー兼チーフアシスタント。あと、まかないのオバさん(笑)。

 

山野 そうなんですよね。

 

──背景とかは、山野さんが描いてるわけですか?

 

山野 いや、背景もペン入れは全部彼女がやってますけど、たとえば背景の下書きみたいなものは僕がやる。

 

根本 だからある意味、世に出た最初からねこぢるは絶頂期のフジオプロの赤塚不二夫先生だったんですよ。山野さんは一人で古谷三敏から高井研一郎から長谷邦夫から何から兼ねてたんですよ、もう全部(笑)。

 

山野 でも、何かやっぱり持ってるものが僕とは全然違っていたと思いますね。

 

──根本さんは「ねこぢるブーム」みたいなものをどういうふうにみていたんですか?

 

根本 ねこぢるブーム! そんなのがあったんですか(笑)。

 

山野 わかんないですけどね(笑)。

 

根本 まあ、傍から見れば、東京電力のコマーシャルにキャラクターが使われるようになったり、アチコチで見かけるから、ああ、すごく儲けてるなって思ったくらいですかね。

 

山野 でも、家賃六万のアパートにずっと住んでましたし(笑)。とくには何も変わりないという感じでしたけど。

 

根本 だって、それで変わるようだったら、そもそも「ねこぢる」は生まれない。でも、皮肉にも忙しくなったよね。

 

山野 そうですね。ある漫画を描きながらも次、その次の漫画のネタを練ってるみたいな状態ではありましたね。

 

根本 いつの間にか気付いたらプロの漫画家になってて、しかも売れっ子の(笑)。

 

山野 本人の中にも仕事をちゃんとこなしたい、もっとやりたいという気持ちと、もうやめたいというのが両方あった気がするんです。意外と責任感があるんで。でも、やっぱり時間的な制約の中で、背景をもっと描きたいんですけども、減らされていったということはあったと思いますね。元の絵が単純といえば単純なんで、劇画とか描かれてる方よりは早く終わるとは思いますけど。でも、それでも、たった二人でやってますから、できる量というのは限られてきますよね。

 

──二十四時間、ずっとお二人一緒だったんですよね。

 

山野 まあ、不健康っちゃ不健康なんですけどね。生活も仕事もみんなその狭いアパートで二十四時間一緒に共にしてるわけですからね。すごく売れてる頃とかでも、近所のコンビニでおでん買ってきて二人で食ってるとか、そんなんでしたから。ただ。僕が仕上げで二日か三日ぐらい徹夜でやってて。起きてきた彼女が「『ジャンプ』」と言うんです。『ジャンプ』の発売日っていうと五時に店頭に並ぶから、朝五時に寒い中急いで『ジャンプ』買いに行くわけです。で、まだコンビニで荷ほどきされていない『ジャンプ』の横で、「まだ? もう五時だよね? さあ早く」という顔で待っとるんですね(笑)。帰ってきて俺が仕事を続けてる横で『ジャンプ』を読んでる。『ジョジョの奇妙な冒険』がお気に入りでした(笑)。まあ、私もヘトヘトですからね、いくらか理不尽な思いはありましたよ。でも、そこで何か言い合いを始めるより買いに行ったほうが早いんで。

 

根本 でしょうね~、それはねえ~、うん。

 

遺骨と丸一年暮らす

──ねこぢるさんが亡くなった直後、山野さんはどんな感じだったんですか。

 

山野 白木の遺骨と丸一年暮らしてました。世間的には非常識な事らしいですが、葬るべき墓が無かったのでいたしかたないです。その後近所の霊園に墓を建て、一周忌の法要の時にようやく墓に入れました。自分はまあ家に引きこもって、持病の椎間板ヘルニアが出た時などは、コンビニの出前で暮らしてました。二百円払うと何でも配達してくれるんですよ。

それから家か二〇〇mぐらいのとこにあるカウンターのみの汚い居酒屋に呑みに出るようになりました。七十過ぎで江戸っ子のおじいちゃんと、三十後半のちょっと天然な息子さんがやっていて、ナイターを見ながら野球をまるで知らない僕に色々教えてくれましたよ。何一つ覚えちゃいませんが(笑)。でもそんなこんながちょうど居やすかったんでしょうね。他に客はめったに来ないので、仕入れた肴をどんどんただで出してくれました。これが当時の主食でしたね(笑)。ところがこの店が、ある日予告もなく潰れてまして。おじいちゃんに何かあったのかもしれません。それから製麵所を兼ねた蕎麦屋兼居酒屋みたいなとこにトグロを巻いてて、ここも客の入りはサッパリで、ただでつまみをくれるのはいいのですが、程なく潰れましたね、やはり(笑)。食べ物の善し悪しにうるさかった店主がコンビニで弁当チンしてもらってるとこに出くわしたのはバツが悪かったなあ(笑)。僕が通う店はなぜかみんな潰れちゃうんですよね、僕が載っけてもらってた雑誌がことごとく潰れたみたいに(笑)。

 

根本 そこは僕も負けませんよ!(笑)。

 

山野 まあそんなアル中もどきな明け暮れで、健忘症みたいになっちゃって、人とした約束をみんな忘れてしまうんですよ。何もしないでいるのが良くなかろうというので、貰ったまま放置してたMacを、何だかいじくりはじめました。

 

──その後、山野さんは「ねこぢるy」として作品を発表されました。それを拝見すると、やはり以前の「ねこぢる」とは作風が違いますね。

 

山野 そうですね。どちらかというと僕は、側にいて翻訳する係、漫才でいうツッコミ的位置づけだったかもしれない。

 

根本 そう、そうなんですよね!!

 

山野 すごく面白い人がいても、その面白さを表現するのが上手とは限らないじゃないですか。だから、その面白さみたいなものを翻訳する係のような位置づけというと、わりと近いかもしれない。

 

──あっちとこっちをつなぐ人みたいな。

 

山野 たとえば、「ぶたろうは、のろまだけどおいしいにゃー」みたいな言葉を本人はまるで無自覚に言ってるんです。ブタの「のろま」という性質と「おいしい」という性質のあいだにあるギャップみたいなものは、それを意外に思ってハッとする隣の人間がいないとなかなか捕らえられないんです。本人は無自覚なので、それが面白いと思ってもいないから流れてしまうんです。根本さんもいろんな電波な人と会ってるでしょうけど、それを傍で聞いていて面白いと思う人がいて、通訳しないと、その人はそれがとりたてて面白いと思っていないから、そこで流れてしまいますよね。

 

根本 そうなんです。

 

山野 それを拾い上げるのが俺の役割だったんだと思います。

 

根本 うん(深く頷く)。

 

幼児を金しばりにするジワッと来る衝撃力

山野 今でも、ねこぢるの夢を繰り返し見るんです。死んだのか、いなくなったのかがたいてい曖昧になってる夢で、ある日、急に帰ってくるんです。それで、家を普通に歩き回って、「どこ行ってたの? 何してたの?」みたいなことを言ってもちゃんとした返事もなく、というか、そんな質問に興味がないって感じで、何日かうちをウロウロしたあと、またいなくなっちゃうんです。冷淡この上ないですよね(笑)。

 

根本 夢に出てくるんですね。

 

山野 出てきますね。あと、レイブのようなカルトのような一種独特な雰囲気の若者達が、運河の近くの廃墟のようなビルに住み着いていて、商売をしたり、なにかの装置で化学的な実験をしたりしているんですよ。雰囲気はちょっと異様なんだけどまあ平和なかんじで、雑草だらけの庭にはそこにはいないはずの昆虫や小動物がいたりするんですが、そこにいるんですよね、ねこぢるが。「なんでこんなとこにいるの?」と聞くんですが、まあ適当な受け答えするんだけど、やはりそっけなくて(笑)、結局、事情がよくわからないままに夢が終わる。それもけっこう見ますね。

 

根本 それはいつ頃からですか?

 

山野 いや、もう死んでからずっとですね。パターンはいろいろありますけれども、まあ、そっけないってことでは一貫してますね(笑)。

 

根本 ハーン、成程。しかしわかります、それこそ言葉以前のところで。ところで、うちの息子が三つぐらいの頃かな、テレビのアニメとか見だした頃、ねこぢるのアニメを見せたんですよ。子供だから、退屈だったら飽きたとか、イヤだったらイヤだとか、そういう感情とか表現するでしょう? そうしたら最初から最後まで一時間、固まったまま(笑)。本人、どうしていいかわからなくて。

 

山野 そうですか(笑)。釈然としないまま見たんですね。

 

根本 俺も、ちょっと問題あったかなと思ったんだけど、本人が画面を見つめて動かないし、しょうがないから時間が経つのを待つしかなかった(笑)。ねこぢるの漫画は、それぐらいジワッと来る衝撃力があるんだよ。今読んでもまったく古びていないしね。それは十年後、二十年後でも絶対に変わらないと断言しますよ。

 

所収『ねこぢる大全 下巻』p.790-796(絶版)

 

「本物」の実感 根本敬

大抵、自殺は不幸なものだ。

だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。

ねこぢるの場合がそうだ。

死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。

そのねこぢるが「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。もちろん、個人的には、数少ない話の通じる友人であり、大ファンであった作家がこの世から消えた事はとても悲しい。が、とにかく、ねこぢる当人にとって今回の事は、世間一般でいうところの「不幸」な結末などではない。

とはいえ、残された山野さんにとっては、とりあえず今は「不幸」である。

何故“とりあえず”が付くかというと、ある程度の時間を経ないと、本当のところは誰にも解らないからである。

ねこぢるの漫画といえば、幼児的な純な残虐性と可愛らしさの同居ってのが読者の持つイメージだろう。それも確かにねこぢる自身の一面を表わしてはいるだろうが、「ねこぢるだんこ」(朝日ソノラマ刊)に載っている俗や目常の遠い彼方に魂の飛んだ「つなみ」の様な漫画は、ねこぢるの内面に近づいてみたいなら見のがせない作品だと思う。まだ読んでないファンがいたら、是非読んでほしい。

年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。

 

俗にいう“あの世”なんてない。

丹波哲郎のいう“大霊界”などあってたまるか。

だが、“この世”以外の“別世界”は確実にあると思う。

ねこぢるは今そこにいる。

 

文藝春秋『月刊コミックビンゴ!』1998年7月号より再録)

 

人物紹介

ねこぢる

1967年、埼玉県生まれ。漫画家。高校卒業後、漫画家の山野一と結婚。90年、『月刊ガロ』6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこじるし」で、後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博す。著書に『ねこぢるうどん』『ねこ神さま』『ねこぢる食堂』『ねこぢるだんご』『ぢるぢる旅行記』『ぢるぢる日記』『ねこぢるせんべい』『ねこぢるまんじゅう』など。1998年5月10日死去。享年31

山野一

1961年生まれ。1983年、『ガロ』でデビュー。著書に『四丁目の夕日』『どぶさらい劇場』『混沌大陸パンゲア』『貧困魔境伝ヒヤパカ』など。妻であったねこぢるの死後、「ねこぢるy」として『ねこぢるyうどん』を発表。

根本敬

1958年生まれ。特殊漫画家、文筆家、その他。著書に『生きる』『亀ノ頭スープ』『キャバレー妄想スター』『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』など。「幻の名盤解放同盟」として廃盤レコードの復刻も手がける。

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

前説1. 前回の蛭子能収インタビューで聞き手の山崎春美「やはりバイオレンスは、平和な笑顔とウラハラに産まれるもんだなァと、つくづく実感したものである」と記している。

確かに蛭子さんの漫画はすぐ人が死ぬし、まったく意味が分からない作品(というより漫画の体裁を装った訳の分からない何か)ばかりである*1

それなのに本人の風貌はいたって「カワイイおじさん」であるため、昔はよく「漫画と本人にギャップがあり過ぎる言われていた。

一方、鬼畜系特殊漫画根本敬山野一は若い頃いわゆる「二枚目」で、蛭子さんとは逆のベクトルでギャップがあったものである。

ちなみに蛭子さんがテレビ露出する以前、読者がイメージしていた作者像の特徴を総合すると「神経質で青白そうな美大くずれのインテリ青年」だったのだが、今にして思えば、だいぶ可笑しな話である。

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情報手段が発達していなかった当時、みんなのイメージでは図版右(裸のラリーズ・ブート)のような人が描いていると思いきや、実際は図版左(『私立探偵エビスヨシカズ』書影)のような人だった*2

いつもはスッとぼけて無意識過剰に見せている蛭子さんであるが、さすがに自身の風貌と作品とのギャップについては強く自覚しているようで、花輪和一*3と初めて会った際の印象も交えて著書『ひとりぼっちを笑うな』の中で蛭子さんは次のように語っている。

花輪和一さんという、結構おどろおどろしい漫画を描く人がいて、彼の漫画のファンだったんです。でも、実際にお会いした花輪和一さんは、漫画のイメージとまるで違う感じの人でした。お笑い芸人さんみたいな見た目の方だったかな。

花輪さんも、勝手にイメージしていた風貌と漫画とにギャップがあったんです。そのときに感じました。「おどろおどろしい漫画を描いている人が、意外とひょうきんだったりすることもあるんだな」って。でも、よくよく考えてみたら、むしろそっちのほうが多いかもしれない。

漫画家に限らず、本人と作品のイメージって必ずしも一致しませんよね。歌手のように表に出る機会の多い人は顔と作品が一致するかもしれないけど、漫画家や絵描き、小説家など、普段あまり表に出ることのない人は、得てしてそういうことが多い気もします。

だから、僕の顔を見て、がっかりしないでほしい……な。

 

前説2. 赤塚不二夫の名言に「常識人でないとギャグは生み出せないんだよ」「ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバカになんなきゃいけないの」というのがある。

娘のりえ子いわく赤塚不二夫常識が分かるからこそ常識のどこを壊せばギャグになるかが、すごく分かっていたという。常識に縛られず、新しい物事に挑戦していくには、やはり「常識」から入らなくてはならないものだ。

そもそも世間一般的に「アウトサイダー」と言われる、まるで常識とは無縁であるように思える異端派の送り手たち(例えば鬼畜系作家や、80年代のエロ本関係者など)にこそ教養ある文化人や常識人が多いことに薄々感づいていたが、これを如実に表したのが根本敬「だいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね」という言葉だった。

まあモノホン精神異常者(いわゆる電波系)や、人間味のない鬼畜(ほか特殊全般)といった壊れた人達は「非常識がデフォ」なので、勝手に見世物にはなるだろうが、彼らが送り手の立場になってコンテンツ大衆相手に創造できるかどうかは、かなり怪しい

つまり「非常識な人間」が意味不明なモノを作ったとしても相手にはまず伝わらない。だから「非常識をよく知る常識的な人間」の方が意味不明なモノでもキチンと処理できるし、コンテンツの形にして相手に広く伝えることが出来るのだ。

やはり「悪趣味」を創造する送り手には、知性・教養をかね備えた上、変態的な才能とユーモア精神(あと少しの社交性)が無いといけない。これらのどれかが欠けると途端に「悪趣味」は陳腐な悪趣味」になってしまうものだ*4

 

前説3. 前置きが超長くなったが、海外アニメの『サウスパーク』や『Happy Tree Friends』は見事に大衆化に成功した「悪趣味」の例である。

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両者とも作品世界は、常軌を逸していて、とても常識的とは言えないが、あの手この手で常識を破壊し続ける精神は、まさに知性&変態&常識を知る「完全無欠の常識人」だからこそ出来た業である。

だが、視聴者の大半は「作者は頭おかしいし、正気じゃない」とか「そもそも何を考えて、これを作ったのか理解できない」といった失礼かつ当然の感情を抱かずにはいられないであろう。

ここでサンフランシスコにある『Happy Tree Friends』の制作会社Mondo Media社のインタビューをご覧いただく。このインタビューは特に「作者は頭おかしい」なんて見当違いな誤解をしている人にこそ読んで貰いたい。

 

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

Special interview about HTF in Mondo Media

2011年10月現在、120話以上を公開するハピツリの生みの親、モンドメディア社。ハピツリの誕生秘話や、どのような工程を踏んでストーリーができるかなど、クリエイター陣に突撃インタビューをした。

 かわいいキャラクターが残虐でグロテスクな死に至るなど、バイオレンスな描写のギャップが人気の核となるハピツリ。このストーリーは一体どのように誕生したのか、共同制作者のケン・ナヴァロ氏をはじめとする、クリエイター陣に直撃インタビューをした。

ケン・ナヴァロ(以下、KN)/ケン・ポンタック(以下、K)/ジョン・エヴァーシェッド(以下、J)/ウォレン・グラフ(以下、W)

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──ハピツリはどのような経緯で作られたのですか?

KN:最初は当時のスタッフのロードやウォレンと、仕事の合間にとてもかわいいキャラクターが残虐な目に遭うというイラストを冗談で描きあい、お互いにふざけあっていました。ある日、ロードがスプレッドシートポスターにカドルスの原型になる黄色いうさぎを描き、抵抗は無駄だと書き添えて、社内の人々に見えるように自分のデスクに貼り付けたんです。

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「このキャラクターを使うように」という“洗脳作戦”が成功を収め、企画会議で提案するようにプロデューサーのジョンに勧められ、短編アニメ制作のチャンスが与えられました。当初は「Banjo Frenzy」バンジョー・フレンジー)というタイトルでしたが、後に現在のハピツリに改名しました。

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──どのように人気が出ていったのですか?

W実は、人気があったことはまったく知らなかったんです。2000年はインターネットの全盛期でしたが、まだダイヤルアップの時代で、視聴回数もまだ出ない時でした。私たちは、ただ週に1度、ストーリーをウェブ上にアップするという作業を続けていただけです

KNもっとも子供用のアニメではないですし、メッセージ性もありません。だから、スポンサーはつかないですし、売りようもないですね(笑)。DVDをリリースすることになった時、800本の販売目標がありました。私は毎日ウェブをチェックして数字を追っていたのですが、日ごとに数字が伸びていき、1ヶ月も経たないうちに目標はクリアするどころか、さらに数字が伸び続けていたので、驚いたのと同時に、「ひょっとして、すごいことになっているのでは?」と気づいたんです。

J:まだ、ダイヤルアップ接続だったインターネットが全盛期を迎えた2000年や、YouTubeが初期の時代(2006年〜)に、すでにウェブ公開を開始していたこと。これが成功につながったのでしょうね。

 

──マーケットの反応に対する感想を聞かせてください。

K:もちろんうれしいです。これまでプロとして自分がやってきたことの選択は、まちがっていなかったと思わせてくれました。

KN:全米最大のコミックイベント「コミコン・インターナショナル」では、「あなたが原作者のケン・ナヴァロ氏?」と声をかけてきてくれ、私だとわかるととてもエキサイトしてくれました。しかし、ある日、自宅に電話がかかってきて「ハッピーツリーフレンズ」と言われた時には、さすがに引きましたけどね。

 

──なぜ、あのようにグロくて暴力的なのですか?

K:暴力とは神経質になり、不快だという意味合いがあると思いますが、私たちのストーリーで使用する暴力は、ただの副産物でパンチラインのひとつに過ぎません。

KN:「トムとジェリー」のトムが、ジェリーをぺしゃんこに押しつぶしても、ただ意味もなくおかしいと思えるように、「実際にこんなことはありえない」とか「こんなこと、ばかげている」と思えるものは、ユーモアの一部になりえます。アニメだから行き過ぎると面白い。

 

──このストーリーで伝えたいことはなんですか?

K特にメッセージ性があるわけではなく、何かのレッスンがあるわけでもありません。ユーモアをベースに作っている私たちが、楽しくて笑っているから、視聴者たちにも楽しく笑ってもらいたい。そんな純粋なエンターテイメントです

W:80年代のかわいらしいキャラクターが登場して物語がスタートし、それぞれのキャラクターの個性を生かしたユーモアとジョークが満載のストーリーが展開される。「楽しかったね、はい、おしまい」。そんな感じで、とにかく楽しんでもらいたい。ただそれだけです

 

──普段は暴力的な人たちなのでしょうか?

K:ケン・ナヴァロという人はネガティブなことがあっても、必ずポジティブに捉える、いい意味でとても楽観的な人です。温厚でとてもステキな人格者ですね。ストーリの源がやさしい心を持つ人にあること、それがクオリティにつながるのだと思います。また、私たちは大きな子どもで、決していじわるが好きな集団ではありません

KN:ストーリーを考案するためのミーティングを毎回8時間持ちますが、今日の取材のように、とにかく私たちは四六時中笑っています。たわいもないことを話し合って笑い、その笑いがピークに達したものを、最後の40分でハピツリのストーリーに仕上げています

K:ケン(ナヴァロ)は小心者なんです。目玉が2つに割れた時の中身をアニメに描写するために写真のリサーチをしていましたが、吐き気を催して、リサーチが続行できなくなりました

KN:アニメだから正確さは求められていないので、グレープフルーツを輪切りにした状態を想像して、それを描くことで代用しました(爆)

 

──制作過程中、おもしろいことはありましたか?

W:通常8時間のミーティングでは、よく話し、よく笑うと話しましたが、ハピツリのストーリーになったエピソードを話します。私が幼いころ、母が料理中にコンロの火がエプロンに燃え移り、洋服まで燃え始めたんです。それを見た父が急いで毛布を持ってきて母を抱きしめ、火を抑えたということがありました。今となって笑い話ですが、その話をした時、父が持ってきた毛布にも火が移って、一緒に燃えてしまったというストーリーにしてみたらどうかという案が出ました。それが現在公開されている「Who 's to Flame」というストーリーです。

 

──今後、新しいエピソードはいつ制作される予定ですか?

J:2011年の秋には製作に取り掛かる予定ですので、また、みなさんに観てもらえる日が近いと思います。

KN:私たちのコンセプトスケッチブックには書き溜めているストーリーがたくさんありますし、ストーリーはエンドレスです。

Wすべてストーリーにするまでは死ねないと思っていますから、期待していてください。

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インタビューに答えてくれたモンドメディアのスタッフたち

 

Kenn Navarro

(ケン・ナヴァロ)

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「HTFのキャラクターはすべて私の大切な子どもです」とハピツリの生みの親らしい発言のケン・ナヴァロ氏。

共同制作者、ディレクター、脚本、作画、演出、Flash制作、絵コンテ、アニメーター、イラストレーター、カドルス、フリッピー(通常時)、リフティ、シフティの声優と、なんでもこなすHTFの心臓みたいな人。

しいて言うならランピーが好き。「いつもばかげていて、いつもおもしろい。自分の性格の一部を表していると思います」と語る。

 

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「今ではアドビフラッシュがあるので、修正も瞬時に、しかも簡単に行えるんですよ」と、修正もお手のもののケン・ナヴァロ氏。アドビフラッシュを使用して動画にするのもアニメーターのケン・ナヴァロ氏が担当。

 

Ken Pontac

(ケン・ポンタック)

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アニメーションライター。「ストーリーがクリアであること、できる限りおもしろくすることを心がけています。また、ストーリーが各キャラクターの性格に基づくようにしています」と、マジメに答えているが、「いつも赤ちゃんを危険な状態に陥れる父親の行動を見るのが好き」という理由で、好きなキャラはポップ&カブ。

 

Warren Graff

(ウォレン・グラフ)

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アニメーションライター。トゥーシーの声優。複雑なストーリーを作ろうとするとかえって煮詰まるので、極力シンプルに、そしてキャラクターの行動が理にかなうように、それでいておもしろくなるように考えているんだそう。やっぱりランピーが好き。「すごくおもしろくて、ばかげているキャラクター。これは自分の一部にも当てはまりますね」とどこかで聞いたようなコメント。 

 

John Evershed

(ジョン・エヴァーシェッド)

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モンドメディア代表取締役社長、エグゼクティブプロデューサー、共同経営者、CEO。ライターの3人にとって自由な環境を整えるよう気を配っている偉い人。HTFでは、ランピーが好き。「どのような役割になってもベストを尽くそうとするところに、自分自身を見いだすことができます。ばかげている性格も憎めないですね」。偉い人はマジメ。

※このインタビューは『HAPPY TREE FRIENDS e-MOOK 宝島社ブランドムック』(2011年12月発行/絶版)に掲載されたもので、最新の情報とは異なります。

*1:読者は作品の「意味のなさ」から感じる「狂気」を追体験することで、ある種のカタルシスを得ていたのかもしれない。本来の蛭子漫画の読まれ方はここにあると勝手に推測。

*2:青林工藝舎『アックス』113号 12頁 2016年

*3:猟奇的な作風を得意とする『ガロ』出身の漫画家。

*4:少なくとも知性&教養&変態&諧謔すべてを併せ持つような人間は天才か変態か、あるいは両方だと思います。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第3回/蛭子能収編)「女房の流産を心底喜んだ!? 異端漫画家 蛭子能収」




 

【解説】「ボクは妻の流産を喜ぶ男を、はじめて見たのだった」以上が再デビューの仕掛人山崎春美による蛭子能収初期のインタビュー記事である(ちなみに管理人が現在確認している蛭子能収インタビューの中では、これが2番目に古い)。

蛭子能収恐怖伝説のひとつ「女房の流産を喜んだ」というのは、おそらくここが初出であろう*1

話は飛ぶが、このインタビューが掲載された『Billy*2「スーパー変態マガジン」になったのは何の因果か1982年3月号、つまり本号からである。その為か連載1回目の記事がやたらと多い。

 
山崎春美*3は、漫画家をやめていた蛭子さんを見つけるため『ガロ』編集長の渡辺和博に問い合わせるなどして捜し出し、高杉弾の伝説的自販機本『Jam』で1979年に再デビューさせた張本人のひとりでもあるのだが、結局このインタビュー記事を最後に、タコのCDボックス発売記念イベントで2012年に再会するまで、2人とも世紀をまたいで30年間一切会わなかったという、実に「らしい」後日談も残っている。
 
後日談をもう一つ。
実は山崎は蛭子の他にもう一人、ある“カルト”漫画家を発掘しようとしていた。あの怪作『怪談人間時計』で知られる伝説の漫画家・徳南晴一郎である。
 
徳南晴一郎『怪談人間時計』曙出版 1962年)
 
当時、徳南氏はとっくに漫画家を廃業済みで、山崎の話にも全く応じてくれなかったといい、1996年に太田出版『怪談人間時計』晴れて復刻に漕ぎ着けるものの、その出版の経緯も特異で『Quick Japan』の編集者が復刻を申し入れるため、徳南宅何度も訪れるも、その都度、ほとんど門前払いに近い形で拒絶され続け、その挙句「出版するなら勝手にしろ。ただし印税の受け取りはお断りする」といった主旨の手紙を送り付けられたという。
 
こうして復刻された『怪談人間時計』であるが、それ以前に山崎春美徳南氏に接触を試みたことを書いた文章を以下に再録しておく。
 
 X-LAND 今月の一冊
 
『怪談・人間時計』徳南晴一郎

曙出版・170円

僕の大好きな秘蔵本なんす。めったに門外不出を、ま、出してきました。折角のゲリラ号なので特別大サービスなんよ。

エビスさんねぇ、ハナワさんねぇ、木木しげるねぇ、つげ義春ねぇ、好きなマンガ家は多々あれど、一味ちがうのね。明らかに光っている。

理屈ヌキにスゴイから、ダマされたと思って……一度でいいから……。

今、どこでどうしてるのか、生きてんのか死んでんのか、もし消息を知ってる人がいたら、お願えでごぜえますだ、教えて下せえ。というわけで、読みたい人は連絡して下さい。賃貸しします。面接あり。(ハルミ)

 

  

 

※1981年、自動販売機本『HEAVEN』8号掲載

こうしてボクが『人間時計』を紹介した

山崎春美

 

つい今しがた、マンガ専門誌『ふゅーじょん・ぷろだくと』のバック・ナンバーが送られてきた。グロ専門なエロ雑誌として勇名の誉高き『BILLY』に載せた、蛭子能収なるアブノ漫画家のインタビューについて、一部分掲載に稿料ナシ、の代替えとして、呉れ、と頼んでたのだ。つらつらと眺むるに、思い出されるのは、やはり〈幻の『HEAVEN』10号〉用の漫画を(サイズを間違えつつも)喜々として描いてくれた折の清水おさむ、や、コンサートの機材運びを快くも手伝ってくれた蛭子能収であり、『タコ』のジャケット絵を、それこそ二つ返事に引きうけてくれつつも、相好一つ崩さぬ花輪和一の、がっしりボクサー並みにふしの強い腕と、そんな(かいな)に連なる、いまにもフルエだしそうな指先、などなのだ。

 

ところで『HEAVEN』8号でお披露目した、徳南晴一郎の『怪談・人間時計』を憶えてくれているだろうか。実は、あの時点で既に、早稲田の「現代マンガ図書館」にて件の「人間時計」だけが、ひっそりと復刊されていたらしい。マニアックなものらしく、知る人も少ない、とのこと。中野にある、有名な中古マンガ屋さんに訊いても「ああ、徳南サンねぇ。確か十冊くらいは出たはずだけど、今やどこで手に入るのやら」

 

いずれにしても、一年もたってからそんな経緯を知らされたわけだが、急ぎ問い合わせてみると、もうこれは一介の主婦に成りはってらっしゃる往時の「曙出版」編集長(女性)は、御年四十にも及ぶだろうか、記憶を辿り辿り、しかし「なにしろ、二百部しか作ってないような本のことですから、ねぇ~」。

それはそうだろう。

しかし、蛭子さん時〈ジ〉も、そうだったが、この手の話に、すぐ飛びつく癖が病まないボクとしては、早速に現在の連絡先を訊いたりしたのである。自宅の方は引っ越されたようで不明だったが、勤務先だけは、わかった。大阪の業界新聞だそうだ。

 

関西なんだ、と、ボクは感慨に耽った。

「でも、ムツカシイかも知れませんよ。今はもう昔の興味をすっかり失われてたみたいだし…。それに…なんというか、こう…ちょっとカタワというか生まれつきセムシみたいな身体つきの…。あ、ですから絶対に、その点には触れないよーに」とは、二代目「アケボノ出版」編集長(男性/エロ雑誌関係者らしい)助言。それにもめげず勇鼓を奮ったボクの脳裏には、たとえば、宴会の席で、酒も煙草もやらず、食事に箸さえ付けず、一人ポツンと誰とも喋らずじっと独り居た、とか、夜中、急ぎの原稿を描きながら、唐突に意味もない空笑いが止まらなくなる、などという逸話の数々が、徳南氏自身の人となりに、ダブッて視えたのだろう。

 

早朝だった。なにしろ(たより)といえば手元にある電話番号だけ。(午後に電話しても、判で押したような女事務員のツッケンドンな応答が『取材で居ません』『連絡先? さあ』『自宅をですか? 知りませんけど』と埒が開かなかった)。意を決し、深呼吸する。

 

もはや何度目かの「徳南晴一郎さん、いらっしゃいますか?」と、どうだ。「少々お待ち下さい」。

 

ああ、そして胸も焦がれる、その瞬間は、来た。

「もしもし、あのォ、ヤマザキと申しましてぇ、はじめてお電話する者なんですが……」

「ハイハイ、アノねえ~(強い関西、訛り)いまいっちゃん(=一番)忙しいときなんですわ。用件は? え? いるのアンタ、いらんの?」

「あ、あ、あのォ、ボ、ボク…」

「いらんのね、アンタ、要らんのやね」

ガチャッ。〈電話の切れる音〉

この間、約二十秒。

 

(編集家)

 

※1982年、自動販売機本『フォトジェニカ』掲載『アングラ・コミックス秘話』より抜粋。原稿中明らかに不適切な表現がございますが、この文章の歴史的意味を考慮し、そのまま再録いたしました。

*1:『ガロ』1982年4月号にも本人が女房の流産をネタにした漫画を描いている。

*2:白夜書房発行の伝説的なエロ本。後の鬼畜系ないしアングラ系のサブカルチャーに多大な影響を与えた。有害図書指定を受けて1985年に廃刊。

*3:伝説的自販機本『Jam』編集者のち『HEAVEN』3代目編集長。1979年に解散したロックバンド「ガセネタ」のボーカル。ニューウェーヴ音楽集団「タコ」主宰。このインタビューから半年後の1982年9月1日、中野plan-Bにて“ハードコアという枠を飛び越え、多くのパンクファンを色んな意味で震えあがらせた”伝説のギグ「自殺未遂ライブ」を行った。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第2回/明石賢生編)「ウンチでビルが建った!? 群雄社代表取締役 明石賢生」

山崎春美のスーパー変態インタビュー(その2/前科者編)

ウンチでビルが建った(!?)群雄社代表取締役 明石賢生

第一回目のスターリンのミチローさんはヘンタイだけどちっとも変態ではなかった、というのが一部結論でした。群雄社の明石社長も、随分以前から変態呼ばわりされて久しいけれど、最初本人に、今ビリーはヘンタイ捜してるんです。って話したら、オレ、変態じゃないよ、って一瞬逃げかけたのでした。明石賢生は変態じゃ決してなかったけど、ココロは一流のヘンタイで、ビンビンのナウです。

さて今回は、カツモクのヒット企画《お名前だけはかねがね》の巻なのだ。いったいに《噂の真相》等では今や、スター並みの扱いの、それは誰かと聞いたれば……名を聞くだけでトイレも行けぬ中小企業群雄社出版」社長明石賢生、その人御自らの御登場なのでありんす。まさに破格の実験インタビューというのもフツー、この手の人種は、出たがり屋と出たがらずとがはっきりわかれておりまして、いくら写真家・武蔵野大門として傑作をあまた発表しておろうと、人徳で売る明石さん個人は決して、出たがりビトではないのれす。そこを何とか……是非に無理を重ねがさねて時間をすけて下すった。ああ有難い。

オマケにかてて加えてフツー、取材側が接待を完備すべきところを、年末締切りの忙しさと若気の至りと弱少出版の悲しさ、ロクな用意もできぬのを見越して、「しゃぶしゃぶ」から新宿のクラブ「門」まで、あろうことか「取材陣が馳走に預かった」という由々しき事態、これ全て明石さんのオゴリとゆう太っ腹、ああ、いくら彼の人生訓が「金は、持ってる者が払う」であったにせよ、感涙のあまりナミダナミダの有難さ。

と、いうわけで以上、本気の感謝の念を込めて御報告の段でした。

 

まずは、なれそめから入るのが礼儀というものですね。明石賢生って誰? なんて自称・エロ本愛読者がもしいたら、そんなモグリは片端から蹴っとばしてやんなさい、と断言できるほどに、隠れ大立者のひとりである。そんなエライさんにどうやって知り合えたのか、何せ生れてから今まで、エロ本など1冊も「買った」ことのない私と致しましては、ただただ偶然の神を問いつめるよりない。

あれはジャムの創刊の頃ですから、かれこれ丁度3年前。根からオツムのテッペンまで暗さで決めたパンク文学青少年だった私は、プライドを持って(!)佐内順一郎(現・高杉弾ヘヴン前編集長や、隅田川乱一先生や、八木真一郎御大とオツキアイ頂いていたわけですが、ある日ふとした拍子に佐内氏が拾ったエロ本に端を発して、エルシー企画という、その当時はアリス出版と並んで自販機界の売り上げ1、2位を争っていた会社へ遊びに行った、のかな? そうすっと八木氏も隅田川先生も、かつて明石社長の開いていたスナックの常連だったりして顔見知りのよしみ、“あ、あの時のあなた”とゆーわけで、トントン拍子に「ジャムの創刊が決まり、てな、ま、大体は、んな調子ですが、しかしところで、合言葉のように明石氏を巡って繰り返される「太っ腹」なる表現は、何も彼の「ユビュ王」もどきの風貌からだけではなく、内面よりニジミでる人徳、必ずしも人の良さだけではない天啓みたいな育ちの良さから来るものらしい。

見るからにサマにハマった経営者然とした御人柄の口から直接、「集団組織は好きじゃない」「強いものはキライだ」「安定指向は全然ない」などの御言葉を耳にすると、やはり、当人の好き嫌いをはるかに超えて、運命的に経営者としてしか生を完うできない彼の、人間性がほの見えるのであった。


─去年から一年、大変でしたね(笑)。

うん。いやァ…。(笑)うん。激動の一年。(笑)だったなァ。アリスと合体したのが、丁度二年前ぐらいで、で、それを半年で止めて群雄社作って、それから佐内の問題があって、ヘヴン作り直して、逮捕されて、ヘヴン潰して、方向転換して…

 

──過渡期、ですか?

ううん。いつもこんなもんよ。だから今は、意識的に宣伝したり売れる要素のものを出したりした半年間が終わって…

 

──あ、例のスカトロの…。

うん、まあそれも含めてね。あんまりいい加減に作ってると、潰れで人間、イージーになっちゃって、それしかできなくなったら困るからね。ま、まわりは風が吹きまくってるわけだし、ひしめて

 

──なるほど。でも、今やスカトロの群雄社ってぐらいで、相当評判というか、マニアなんか来ません?

来る来る。ホラ、さっきも一人来てたでしょ。九州からはるばる訪ねて来たとか、今、秋葉原でビデオ買って、すぐそっちヘうかがいます、とかね(笑)。現金10万円をポンと出したりして……

 

──そういうマニアとかソレモン一筋っていう人間像、なんかはお好き……

好き好き。もう、その手でスゴイ人がいたら是非、紹介してほしいね(笑)。イヤ、ホント。まじに

 

─じゃ、そろそろ明石さん御自身の経歴あたりから……。

ハハハ。喋るほどのもんじゃないですよ。ま、あれは何年かな、大学入ったのは。丁度、闘争の真最中で

 

─ブンドですよね?

そうそう。革マルとの闘争に明けくれてね。で、そのうち追いだされて、学校には近寄れなくなってね。ま、典型的な、思想うんぬんじゃないものがあったワケだから。20歳ぐらい、かな

 

──それからは?

ま、それで印刷屋をはじめたのよ。スポンサーがいてね、百二十万で印刷機買って、当時じゃ画期的なもんだったんだけど、ま、素人が講習会うけて習ってきてはじめたわけ。中核のビラなんかも刷ったりしてね(笑)。で、それがポシャって、今度はコンピュータのオペレーターをやってたのね。10何年も前だからね、『これからはコンピュータの時代だ』っていうんで、夜勤なんかだと誰あれもいないだだっ広いトコで、機械相手にポコポコやってたりしたんだけど、さすがにもうできないってんで、店をはじめて

 

──あ、クレジオですか?

うん。下落合でね。五ツボぐらいの絨スナックよ。たまたま知り合いにインテリア・デザイナーがいて、穴を掘って座る式にした方が能率いいからっていって、裸電球に黒のべっちんと、ユニークというかメチャクチャというか……

 

─クレジオって名は、やはりル・クレジオから……?

うん、そうよ。との頃は若かりし文学青年だったからね。もう、ここ10年は本なんて読んでないけどね(笑)。むき出しの壁のイメージが好きでねえ、店もそんな感じだったから変な奴ばっかり来てたよ。そうそう、真之助(隅田川乱一の本名)とか八木とか来てたね、よく

 

──変な奴らのたまり場?

うん。フジオ・プロが近くにあったし、及川恒平とか、あと暴走族の連中ね。音楽家の卵とか、色んなのがね

 

──結婚は、じゃその当時……?

うん、もう少し前かな。式なんか全然あげずにね。子供ができたから籍入れるみたいな。そういえば荒戸源次郎なんかもその頃から知ってて。ウチの女房と、自由劇場の同期でね。つい去年か、ヘヴンのインタビューの時に再会して、『お互い、醜くく太ったね』なんて……

 

──昔はやせてたとか……?

おおよ。50キロぐらいだったよ

 

──店はどれくらいの間?

うーん。オレが3年やって、女房が2年やって、あわせて5年か

 

──それから出版界へ?

うん、営業だけどね。盆裁の本を最初はやったのかな。それがまた……

 

ココはオフレコである。何、たいした内容じゃないんだけど、本をどっかへ通すために苦労して、そのどっかへのエライさんへ、親のコネを通じて持ってったら、ツルの一声で、そのオカゲで逆に担当者に意地悪された話や、そのどっかへの恨みつらみを述べているだけの話。文化と商売の二枚舌がどーしたこーしたなんて興味ないでしょ。ね。よってオフレコ。

 

……いや、もう大変でね(笑)

 

──それからは?

うーん、人に使われるのって、あんま好きじゃないんだよね。で、2年ぐらいぶらぶらしてて、そのうち佐山哲郎と出会ってね。(注・この佐山さんは群雄社刊のキンキラ本『陽炎座』の編集者で、その筋のユーメー人である)で、林さんって『えろちか』作った人と会って、『異端文芸』だとか復刊前の『地球ロマン』とか、そうそうエロ本時代のね、そういうのを扱い出して、ま、林さんも文学青年で商売はヘタでねぇ。今はビニ本業界の会長やってるけど(笑)、就任式の次の日に逮捕されちゃったけど


明石賢生の相棒こと佐山哲郎。その正体は浄土宗僧侶、官能小説家、群雄社編集局長、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者)

 

─性文化って意識はあったんですか?

うん、『えろちか』なんて買って読んでたからね。要するにアレね、タブーとかフタするもの、権力ってのがすごい嫌いなんだよね。で、『幻影城』やってる頃に、その資金造りでエロ本を作りはじめたわけだけど……

 

─最初に作ったエロ本、覚えてます?

おお、覚えとるよ。日活のコ生意気な女優使ってね、ちょうど暴走族のはしりみたいのが出た頃だから、オートバイとのからみでね、スペクターって書いた旗をなびかせて……

 

─ビ二本の前身ですよね?

そうねえ。丁度、激写が出てきたんだよね、こっちのすぐ後に。その頃は『裸の必然性』みたいのがいるってんで、ミニ・ストーリー仕立てにしたりしてね、強姦ものとか覗きとか評判は良かったよ。だからタブーがいろいろあったのを、知らない強みでバンバン作ってたからね。それがまた、今見ても結構いいんだよね

 

──そうね。取次がセーラー服をOKしたのが、ここ1年ぐらいかな。

そう。とにかく取次本は、決定的に遅れてるね

 

──解禁についてはどうですか?

うーん。どうでもいいっちゃ悪いけど、なればなったで、こっちは次の手を考えるからね。ただ見せる、見せない、女が可愛いい、可愛くない、だけじゃない何かってのを出せないとね。いや、ホント、エロ本こそ崇高に作るべきよ

 

──ヘヴン作ってた動機(笑)……ボクがきくのもオカシナ話だけど。

いや驚いたね。とにかくビックリしたっていっても内容じゃなくて、ただ面白いからやりたいっていう連中がいるって事実に驚いて、オレ、内容なんか、悪いけど全然見てないわけ。読んでもいないし。だけど、面白いから作りたいって、そう考えてる連中がいるって事にね。で、あと中途半端は嫌いだからね。面倒見るなら見るで、みないならみないって徹底したかったから、だからアリスと合体して辞めた動機のひとつもそこにあるんだよね。売れない本だからって切り捨てていっちゃ、そういう姿勢じゃ、いつまでたってもダメだと思うから。売れない本を売る姿勢が大切なんだ、と思うね

 

──どうも有難う御座居ます(笑)。で、群雄社を作って……

当初は大変だったよ。ヘヴン入れて15人ぐらいか。とにかく人を引き受けるってのが大変なんだよね。最近、非常にそう思うんだけど、蹴っとばすと、例えば今回ハルミをこれで、イヤ忙しいからとか言って打っちゃっちゃっと、必ずあとでそれが自分に返って来ちゃうんだよね。だから、それは、自分よりエライ人がたくさんいるって事だよね

 

──大体今の30から35ぐらいの僕って一番ヒカってますね。頑張って。

うん。変に安定するのはキライだしね。だから今も、社内をナアナアっぽくしないように手を加えてるとこなんだ

 

──でも、エルシーも群雄社も、社内のムードって、わりとファミリーっぽいですよねえ。

いやァ、それはやっぱ体質が出ちゃうんだなあ(笑)

 

───それでいよいよ、核心に触れてくるわけですが(笑)、逮捕前ってのは、事前にわかってたわけですか?

何が? 逮捕されるってのが? うん、まあ大体はね。2ヶ月ぐらい前から、もうこりゃやられるなってのは自分でも気付いてたし、あらかじめ情報は流れてるから、用意して待ってたんだ

 

───用意して(笑)

洗面用具とかタオルとか持ってね

 

───旅行に行くみたいだな(笑)

んで、風呂入って、そろそろ寝るかなって頃にね、丁度12時5分ぐらいよ。ぴったし。だから逮捕状が出て5分ぐらいでね、来たの。ヨメさんが手振って、『行ってらっしーい』『頑張ってね』(笑)って言うから、あとで刑事が、『お前の女房はスゲエな』って(笑)、ホラ、普通は泣かれたり大変じゃない。だから

───卒直に、どうでした? 房は(笑)

いやあ慣れたけどね、寒かったよ。でも面白かった、なーんてあんま書くと困るけど、でも面白かったね

 

───同居人とか……

うん。サギとスリとアキスと、あとヤクザがいたのかな。入ってって『明石といいます。よろしく』つったら、『あーあー』って感じで、誰が入ってこようが気にしないって態度でね。『何やったんだ?』『ワイセツです』『イタズラか?』『いや、ビニ本作って……』なんてね。んでその頃丁度、そこにあった平凡パンチか何かに、オレのことが出てたんだよね。『明石さん、これでしょ』なんていわれて、あとはメシの時も、『ハイ、ビニ本屋の社長』とかいわれてさ(笑)

 

───途中で誰か入って来ませんでした?

来た来た。池袋の銀行ギャングってのが入って来たよ

 

───あ、あの駅前の……

そうそう。そんなみすみすつかまるような真似を、池袋の、それも信用金庫なんかでするなって(笑)言ってたんだ。あとねえ、シャブの打ち方とか、アキスに入られない方法とかねえ、そう、アキス自身が教えてくれるわけ。普通の格好をしてね、奥さんの買物のあとをつけるんだって。んで、電車乗ったら二、三時間は帰ってこないから、それでヤるんだって。だけど中へ入る手口は教えてくんなかったけどね。オレのは特殊だからって

 

───ハハァ、雑誌の新企画みたい(笑)

でもアレだってね。お金なんて、貯金を引き出しに行くようなもんだってね。朝はいつも、出勤に行くようなもんだって

 

───ハハ。いいなあ。中での生活はどうでした?

うーん。夜が早いのね。もう8時には寝て、6時ぐらいに起きるのかな

 

───メシは?

メシはねえ、それがよく考えられてて何ーにもしないじゃん。だから、ゴロゴロしてて、丁度、腹がすいたなァって頃に昼メシなのね。んでまた、喰って、しばあらくして、また減ってきたなっていうと夕メシが来るのね。最初は少ないななんて思ったけど、そのうちこんなもんだなって

 

───寝れました? よく(笑)

いやあ、もう、いろいろ10年ぐらいやってきたからねえ、そろそろいい経験だと思ってたけど、オレなんか普段は何も考えないじゃん。それが雑誌がないからいろいろ思い出したり、小学生の頃の事とかね、考えないこと考えたりして、いったん寝ても、1時ぐらいに起きちゃうんだよね。で、本は読んだなあ

 

───20日……30日ぐらいでしたっけ。

そう、起訴されて、かれこれ30日かな。裁判で10ヶ月、執行猶予3年。だからヤバイんだよな、あんまり刺激すると(笑)方向転換して考え直したって書いといてよ(笑)

 

───本って、どんなの持ってったんですか?

いや、オレはイロイロ固いのを持ってたんだけど、あすこに、前の人が残してった松本清張とか司馬僚太郎とかがあるわけ。そういうストーリー、筋を追うものしか読めなくてね。でも30日居て、1日1冊ぐらい読んでたかなァ

 

───麦メシなんでしょ?

いや、あのね、拘置所は麦メシなんだけど、留置所はコメ、量は決して多くないんだけどね、でもあそこの生活になれちゃうと、差し入れなんかは喰えないね。とてもじゃないけど、腹いっぱいで

 

最近、別の事件の公判に、証人として呼び出された明石さん、証人という立場の気楽さからか、言いたい事を喋ったら、検事が突然「この証人を弾効します」

何事かと思ったら、証人・明石賢生の過去を、それこそ学生闘争時代のからひっぱり出してきて洗いざらいぶちまけられて、ビックリしたという。いったん休裁して、その後、「今の検事の発言は却下します」で救われたと。

 うん? 前科一犯? 二犯? 知らんよ

 

群雄社の本はリアリティーがある、とよく言われる。現在は「無理矢理に順調にしている」らしい出版状況らしいが、やはり作られるそのエロ本一冊一冊に、深くしみついた明石賢生氏の底抜けの姿勢が読み取れる、と言ったら誇張にすぎようか──なーんか言ったりして。

取材サイドの不備から、用意していったテープのうち一本しか使えない羽目にあって、「仕事」は早々のうちに、つまり90分テープ一本分の一時間半で終わってしまい、あとはたっぷり「しゃぶしゃぶ」を賞味し、新宿まで出て女のコとキャアキャア遊んできてしまった、ふがいない取材陣だが、どうもテープの切れたあたりから明石社長の言葉の切れには、ソラ怖しいところがあり、例えば、

闘争の時もそうだったが、二列目はダメだ。最前列、最先端にいる者のみが、すべてを状況把握できるのだ。まん中にいる奴は、実際に殴られないからいつまでたっても、ビビったり病気になったりしてラクなままなのだ

といった重要発言が随所にとびかい、かろうじでメモできた今の一言を除いてはすべて忘れてしまったこのだらしなさ、とするのが、重要発言を、あえてオフレコに踏みきった編集サイドの義務でもまたあるのかも知れない──なーんか言ったりして。でも、こればっかりはホントに、明石さんは女を、それもすべての女という女を、愛しているように見える。

女はきれいだ。猫みたいに美しい

なーんか言ったりして。

でも、ま、実際、「よく聴き取れませんでした」とせずにはおれない難聴の哀しさは、やはり、いくらショッキングで刺激的で面白い内容があったとしても、そのオカゲで別に、テメエのフトコロがあったかくもなりゃしないオフレコならば、あえて男一匹義理果たし、棒に振ってしまおうとする姿勢というのは、これは正しいのだろうか。

 

───結局ね、ハタから見てると、逮捕劇はあるは、スカトロのスゴイのは出すわ、ヘヴンみたいな雑誌は出すわで、群雄社っていうのは何なんだろうって疑問が、一般にあるようなんですけど……。

何にもないんですよ(笑)

最初にインタビューの話を持ち込んた時の明石氏の開口一番は、「オレ、変態じゃないよォ──」であった。事実、彼は変態では、どうやらない、とするのが今月の結論。皆さん、どうも御苦労さまでした。

あのね、もひとつ。明石さんの子供っていうのと遊んだことあるんだ。ヒマで、何かの日曜日みたいな日に、会社へ遊びに来てて。すごくシニカルで冷笑的で、とても子供(6つぐらい)とは思えないその態度に、驚いだ事がある。ハハァ、親がこうだと息子も……って思ったの。それだけ。

 

PS

身長170 体重78キロ

B105 W98 H100以上

好物 焼きおにぎり、メンタイ、タカナの油いため

以上

 

これが明石賢生の最初で最後のインタビューになってしまった。
 
白夜書房/スーパー変態マガジン『Billy』1982年2月号所載 

群雄社出版HEAVEN』1981年3月・通巻9号(廃刊号)

 

山崎春美/WHO'S WHO 人命事典 第3回

明石賢生〔あかし・けんせい〕

(1947~1996/享年48)

そりゃあ太ってはいたろうさ。(以下数十行をミスから消去してしまった。最後の文は)とどのつまり、ぼくたちは痩せっぽちすぎたんだろう。享年四十八歳で夭逝した葬式にはその、たった二年後に逝ってしまう美沢さんと行った。

「エルシー企画」社長から「アリス出版」副社長を経て「群雄社出版」社長に。「カネは出すが口は出さない」という自らの社是をあくまで貫いてX-BOYこと美沢真之助をして「(『HEAVENが奇跡的に成立できたのは』社長のこの社是にある」と言わしめたほどだ。この国のポルノ業界(自販機本~ビニ本~ビデオ)にあっては伝説の風雲児である。それだけではない。群雄社のなんと律儀なこと! 詳細は別(『天國の…』)に記したので省くが『HEAVEN』10号が未発売になって行き場を失ったぼくを同社に招いてくれたのは蟻がたかった、もとい有り難かった。とはいえ、たったの1か月しか在籍していない不良社員でさえないぼくにさえ(労働実績皆無!)社会保険を支払ってくれていたことが二十一世紀になって年金問題が騒がれた頃に国からの電話で知った。

また『BILLY』なるセルフ出版(白夜書房)のエロ雑誌に載せたインタービュ企画があり、“スターリン”全盛時だった遠藤みちろう蛭子能収に続いて明石さんに突撃取材を敢行したのだが、本来ならホストである我々『BILLY』編集者が支払わねばならない店の、取材飲食代金を奢って貰った!

 

「自殺されちゃった僕」刊行鼎談(吉永嘉明×山野一×根本敬)

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前回の記事では『自殺されちゃった僕』著者の吉永嘉明と、ねこぢるの元夫で特殊漫画家の山野一の対談をご覧いただいた。

今回は特殊漫画大統領の根本敬を交えた、吉永嘉明×山野一×根本敬の貴重な鼎談(DVD BURST 2005年2月号所載)をご覧いただく(それにしても根本さんがいるだけで鼎談の雰囲気も随分と変わった気がする。この鼎談自体が根本漫画と同じベクトルなのかもしれない…)

鼎談に入る前にまず3人のプロフィール。

吉永嘉明

1962年東京生まれ。明治大学文学部卒。バブル期に就職を迎え、出版界に入る。以来、ずっとフリーで雑誌・書籍の編集に従事。バブル末期には雑誌編集の傍ら就職情報誌や企業案内パンフレットなどを手がけ、「出版バブル」を体験する。海外取材雑誌『エキセントリック』編集部を経て、サブカルで勢いがあった頃の『別冊宝島』で編集・ライターをするようになる。95年~97年、雑誌形式のムック『危ない1号』(データハウス)の編集に従事。著書に『タイ〔極楽〕ガイド』『ハワイ〔極楽〕ガイド』(共に宝島社文庫)など、編・著書に『アダルトグッズ完全使用マニュアル』『危ない1号』(共にデータハウス)。『サイケデリック&トランス』(コアマガジン)など多数。現在、雑誌『BURST HIGH』にドラッグ&レイヴ小説を執筆。近年、編集より執筆の仕事に重きをおくようになる。

山野一

1961年福岡生まれ。立教大学文学部卒。四年次在学中に持ち込みを経て『ガロ』で漫画家デビュー。以後、各種エロ本などに漫画を執筆。キチ○イや障害者、差別、電波などを題材にした作風を得意とする。主著に『夢の島で逢いましょう』『四丁目の夕日』『貧困魔境伝ヒヤパカ』『混沌大陸パンゲア』『どぶさらい劇場』(共に青林堂)他多数。故・ねこぢるの夫でもあり、現在はねこぢるy名義でも活躍中。雑誌『BURST HIGH』に4ページのマンガ「火星波止場」を連載中(当時)。

根本敬

1958年東京生まれ。東洋大学文学部中国哲学科中退。『ガロ』1981年9月号「青春むせび泣き」にて漫画家デビュー。活動の場は多岐に渡り、かつての『平凡パンチ』から『月刊現代』、進研ゼミの学習誌からエロ本まで。自称・特殊漫画家。他にイラストレーション(しばしば便所の落書きと形容されるドギツク汚らしい)、文筆、映像、講演、装幀等、活動の場は多岐に渡る。主著に『生きる』『因果鉄道の旅』他多数。著者公式HP『因果鉄道の旅とマンガ

 

「自殺されちゃった僕」刊行鼎談

著者 吉永嘉明

×ねこぢるy 山野一

×特殊漫画家 根本敬

──妻、ねこぢる青山正明

身近な人間ばかり3人も「自殺」で失った

哀しみと怒りを綴った本「自殺されちゃった僕」。

その著者である吉永嘉明氏と、

ねこぢるの夫であり現在“ねこぢるy”として

漫画を描き続けている山野一氏、

それと2人の友人で、本に登場する人物達とも

親交のあった根本敬氏に集まってもらった。

本誌でしか読めない特別鼎談!

平沢端理●構成

2003年9月28日

妻、巽紗季が亡くなった。

2001年6月17日

僕の仕事仲間で編集者であり、たぶん日本一のドラッグライターだった青山正明さんが亡くなった。

1998年5月10日

僕と早紀の友人であり仕事仲間であった、熱狂的なファンをもつ異色の漫画家、ねこぢるが亡くなった。

共通しているのは、みんな僕のかけがえのない人間であったということ。

気むずかしいけれど、とても魅力的で、豊かな才能があったということ。

そして──。

自殺したということ。

(「自殺されちゃった僕」冒頭より)

明後日、電気が止まるんですよね……。

吉永 ……明後日、電気が止まるんですよね。寒くなってきましたから、電気止まると辛いなぁ……。今さもしい生活してますよ。人生で一番貧してます。

根本 四千万も貯金があった時代もあったのに(笑)。

吉永 二千万ですよ(苦笑)。まあ二千万なんて、うつ病でだらだらしてたら3年くらいでなくなりますよ。妻も稼ぎがなかったですからね、貯金を食いつぶす日々でした。いや、貯金がゼロっていうの本当にきびしいですね(苦笑)。

根本 今やマイナスですからね。

山野 僕らの仕事って、原稿料が入るのは半年後とかじゃないですか。さし当たってが困ちゃいますよね。

吉永 出版社も厳しいみたいで、印税率も下がってますし、この本の版元の飛鳥新社はまだ一応10%なんですけど……その飛鳥新社の編集の赤田さんとは、元々、他の企画の話をしていたんですよ。そんな時に妻が死んだんですね。それでめちゃくちゃな状態になってた時、赤田さんがわざわざ僕の家までみえて、「先に、この今起こったこと書いてみないか」と言われて……ちょっと考えたんですけど、他にもうやりようがないとも思いましたので、じゃあ書こうというのが、この本を書くことになった経緯です。内容については赤田さんから「率直に」ということでね。だから僕も率直に書いたんですけど、自分で見て……この本は非常に感情的な内容になってしまったかもしれないというのはありますね。

根本 奥さんが亡くなってから1年も経ってない今の状況だと、まだある程度感情的にはならざるを得ないでしょう。

吉永 もともと僕は分析的な文章が得意ではないですし、正直、まだ無理だなっていう部分はあったんで。じゃあ率直に感情の本にしちゃえ、ということで、こうなりました。その「率直に」という部分で、山野さんには「フルチンの文章だ」って言われたことがあるんですけど(笑)。僕としてはパンツくらいは履いてるつもりで、あと一息でフルチンになれるところを多少セーブはしたつもりです。とにかく、皆さんには率直であるということと、あと「楽天的だ」ということを言われますね。普段はあまり意識してないですけど、そう言われると確かに楽天的なのかもな、とは思いますね。

根本 それは元々吉永さんの中にある、どうしても拭いきれない感性ですよね。

吉永 神経質で打たれ弱いくせに、最後のところでどこか楽天的な部分があるんですよね。先のことをきちんとシュミレートして、憂うことがない。

根本 まあ、そういうことができる人っていう方が少ないですよ。

吉永 うちの奥さんはしてたんですよね。若い頃からきちっと理屈で考えて、この先どうなるという悲観的なビジョンをずいぶん見てたみたい。そういったものを考えていくと、どうしても悲観的にならざるを得ない気がするんですよ。だから僕は考えないんですけど、その辺が、人から見たら楽天的だと言われるみたいです。でもすごい先のことを今考えて悲観的になってもしょうがないんですよね。とりあえず明日の飯が食えないと。

根本 そうですね、やっぱり、まず電気が止まらないってことは大事ですよ(笑)。

吉永 ホントね(笑)。明後日止まっちゃうんですよ。この寒い季節に。

根本 切ないなぁ〜、切ないなぁ〜。そういう本気でどうしょうもないときは、暖かいお茶一杯だけでも染みるんだよね。

山野 お酒が飲めればワンカップでもありがたい(笑)。

吉永 悪い影響としては貧乏ならではのうつ状態が来て、気持ちがしみったれてきましたね。そういうしみったれた気持ちが、身に染みつかないといいなあとは思っているんですが……染みついちゃうとまずいんじゃないかなと。

根本 大丈夫大丈夫、染みつかないですよ。吉永さんは絶対それを利用して何かしらまた商売しようと思う性質だから(笑)。

山野 吉永さん、僕はちょっと貴族的なところがあるように見えますね(苦笑)。

根本 そうそう、それが端から見れば楽天性に見えるんだけど、その部分が、よく言えば「全身編集者」みたいなところだと思うんですよ。あぁ…僕、今必死で吉永さんを褒めよう、立てようとしてますね。

一同 (笑)。

根本 ともかく、奥さんが亡くなった後、「今立ち止まっちゃったら自分はダメになると思うんで、とにかく仕事しないといけないと思うんですよ」っていうのを会う度に強調してたんで、今すごくつらい状況にはあるけど、この人は最終的に大丈夫なんだろうなっていうのは感じたんですよね。それで結局、途中でやめないでとりあえずちゃんと本にしたっていうのはね、本当に偉いですよ。

山野 吉永さんはすでに出版社に通ってる企画がたくさんあるじゃないですか。だから当面のお金を凌ぐの大変でしょうけど、先にやるべきことがあるって今すごいいいことですよ。

吉永 ええ、先にやるべきことはある。その先にやるべきことに集中したいはしたいんですけど……。

根本 したいんだけど、明後日には電気が止まると(笑)。

吉永 6千円くらいあればいいんですよね。それで電気代払える(笑)。

根本 いや~、目先のお金っていうのは本当、引っ張られてみないと分からないですからねえ。

吉永 一回貯金残高ゼロになってみないと、ホントに分からないものですよねえ(笑)。

 

苦しんで書かなければ伝わらない、売れない

──本についてのお話も少し伺いたいんですが、書くことで、3人の自殺について自分の中でなにか結末をつけるといった部分があったんでしょうか?

吉永 途中で気がついたんですけど、書くことではなにも変わらないんですよね。それでもなぜ書くかというと、さっきも話したように、どこまで率直にできるかというのがありました。僕は分析的ではないですから、理屈ではなく感情表現でどこまで伝えられるかと。あとはまあ単純に生きるため食うためですよね。生きる為に書いたというとかっこいいですけど、それは食うために書いたともいえるわけで売れることを見出してより率直によりリアルにするために嫌ですけど、思い出したりして、赤田さんにも言われましたけど、苦しんで書かなかったら伝わらない売れないだから苦しんでくれと笑いを得るために苦しむのはやっぱり物書きなんじゃないかなと思います。

山野 僕もね、一昨年の2月くらいでしたか、吉永さんが書きはじめられるときに、「まだ早いんじゃないか」と言うことは言ったんですよ。5年くらい経って、はじめて整理がついてくるんじゃないかと。でも整理がついてからじゃ、今とは全然違う本になっているだろうから、今書いたからこそ、あの本が出来たという気がします。

根本 ジミヘンだってさ、あの短い生涯で一杯録音残してて、いくらジミヘンとはいえ、中にはどうしようもない演奏のもあるわけじゃないですか。でもその不調な状態の演奏でも、やっぱりそれはそれで胸を打つものがあるわけですよね。そういうことなんじゃないかと思いますよ。本気で、調子の悪い自分をあからさまに残しているわけだから。まあ、そういうのも含めて……吉永さんはなおかつ売ろう売ろうという計算が頭にあるんだから大丈夫ですよ。しかしある意味、今日のこの鼎談が、一番「売る」っていうことにつながらないかもしれませんね(笑)。

山野 ええ、つながりませんね(笑)。

 

──読者から反応は来たりしましたか?

吉永 ポツポツとハガキは来てました。反応が早かったのは、自殺未遂常習者の人が「本読みました。来週精神科に入院するんですけど、この本を持って行きます」みたいな内容のが主流で……女性ばかりでしたね。精神を病んだ人が多くて。今までにない特徴としては、感想の最後にみんな必ず「ありがとう」って書いてあることです。これは、僕が今まで作ってきた本にはなかった特徴ですね。

 

──単純にねこぢるさんや青山さんのファンだったから、読みましたっていう人もいましたか?

吉永 いましたよ。でも、ねこぢる絡みで読んだんだけど、ねこぢるについて書いてる部分よりも、妻について書いてる部分の方が入り込める、とだいたいそういう感想でした。やっぱり僕のテンションの差なんでしょうね。ねこぢるや青山さんのときもショックでしたけど、どうしても、一緒に暮らしてた人っていのは別次元のショックでしたから。ねこぢるや青山さんのところとは同じテンションで書けていないんですよね。そこがばれちゃってる。

 

──山野さんから見て、ねこぢるさんについて書かれている部分が、自分の持っているイメージと一致していたり違ったり、ということはありました?

山野 ねこぢると吉永さんは友達で、僕は夫であったんですけど、友人として仲良かった以上、僕の知らない会話もしてたはずですから。吉永さんがねこぢるをどう捉えていたか、というのが率直に書かれていたと思います。僕は吉永さんの奥さんとは何度かしかお会いしたことがなくて、そんなには知らなかったんですよ。だから、吉永さんから奥さんのことはもちろん聞いてましたけど、それを本で読んで再確認したというか……よりわかったというのがありました。青山さんとも僕はそんなに親しくなくて、何度かお会いして、家に遊びに来てくれたことがあった程度だったんですけど、吉永さんの本読んで「ああ、こうだったのか」とあとから分かった感じですね。

 

──ねこぢるさんは「右脳人間」だ、と吉永さんの本の中で触れられてましたけど、そのあたりは山野さんから見てどうだったんでしょうか?

山野 そうだと思いますよ。なんて言うのかな……直感みたいなもので生きてる、という感じはしました。

吉永 直感が異様に鋭いんですよ(苦笑)。ちょっと予言者のようなね、鋭いところが。

山野 そういえば、吉永さんは32歳で死ぬ、とか言ってたことがありましたね。僕はもう忘れてたんですけど、意外とその言葉がこたえてたんだな、というのがを本を読んでわかりました。

一同 (笑)。

吉永 だって、予言者みたいだと思ってた人にそう言われたら、ちょっと困りますよ。やっぱりどこか楽天的なもので、どれだけドラックをやっても、死ぬって思わなかったんですよ。本当に死にそうになって、これはいかんと救急車に乗るんですけど、やっぱり死をあまり覚悟しないで遊んでたから、ねこぢるに「32歳で死ぬ」って言われて、ちょっとドキッとしましたね。

根本 あ、……、今32歳って聞いてさ、昨日たまたまザ・フーのキッズ・アー・オールライトのDVD見てたんだけど、キース・ムーン楽天的にドラッグやって32歳で死んでたな、とふと思い出した(笑)。

吉永 僕はそれより10も年取ってるんだ(笑)。なんだかんだで結構長生きしてますねえ。

 

大麻よりやっぱり電気代ですよ。

──この本について、新聞でも取材を受けられたとか?

吉永 取材に来た新聞記者の人に「いろいろ率直に書いてて、ドラッグの方で捕まったりはしないんですか?」とか言われましたけど……やらない、持ってないから書くのであってね、現役だったら書けないですよ(笑)。知り合いのライターの人たちも本当はドラッグについて書きたいんだろうけど、現役だから書けないっていうのがみんなあって。僕はバースト・ハイとかで書いちゃってて、悪いなとも思うんですけど……書くにはやめるしかないですよ(笑)。現役じゃ書けないですよ。マークされるに決まってるじゃないですか?

 

──マークされてる気配はないんですか?

吉永 どうですかねえ。まあ、とりあえず僕、今尿検査受けても家宅捜査されてもなにも出ないので、そこは楽天的に行きたい(笑)。一番やめにくいと思ってた大麻は、お金がないことでやめられましたし。大麻よりやっぱり電気代ですよ。

一同 (爆笑)。

 

──戻りましたね。話が(笑)。

吉永 いや、こういうパブリックなところで「電気代が払えない」なんて話をしてるのはどうかと思うんですけどね(笑)。包み隠さず話をしてきたとはいえ

 

──では、ここを読んでくれとか、こういう人に読んで欲しいとか、ありましたらお願いします。

吉永 まあ……僕の電気代の話もありきで(笑)、本当に生きるのは大変ですけど、それでも生きようと思っているわけですよ。だから……まあ、「生きましょうよ」と。楽天的にでいいんですよ。まだ実家にいたりで、僕よりは経済的に追いつめられてない人が多いと思うんです。僕はわりとギリギリですけど、楽天的に行きますので、経済的に追いつめられてないんだったら、もうちょっと人生を楽しく生きたらいいんじゃないかと思います。やっぱり生きてる方が、なんかね……楽しい気がしますよ。だから楽しくない人に読んでもらいたいですね。それで「少し割り切るか」と思って欲しい。空前のベストセラーになった「完全自殺マニュアル」は「死んでもいい」という本でしたけど、僕の本は「生きましょう」という本で、正反対なんですよね。同じように売れてくれたらどんなにいいかと思うんですけど、もし同じだけベストセラーになったら、僕は……ドラッグで死にますね。

一同 (爆笑)。

 

──駄目じゃないですか(笑)。

吉永 それは止められないと思うんですよ。そこまで売り上げ手に入れちゃったら、止まらなくなって死にますよ。

根本 いや、でもそういうもんなんだ人間っていうのは(笑)。

吉永 勿論、売れて欲しいですけどねもそんなに売れないから大丈夫ですよ。あと自殺した3人の話が書いてあるわけですけど、背景にはレイヴカルチャー、ドラッグってものがあります。青山さんを除いては、そんなにドラッギーな人ではないですけど、筆者の僕自身の話として、そういう90年代の東京のドラックカルチャーってものがある程度読めると思います。みんな、レイヴ第一世代だからね。僕が倒れてねこぢるに助けられたりとか(笑)、僕が倒れてばっかりなんですけど、まあ、そういうことが書いてありますので、読んでみてください。

 

リンク

対談◎吉永嘉明×山野一「自殺されちゃった僕たち【Vol.3】正しく失望せよ!」

今月は漫画家の山野一さん(ねこぢるy名義でも活動)をゲストに迎えての対談形式でお送りします。山野さんは約8年前、僕は2年半前に共に妻を自殺で亡くしています。同じ境遇の先輩として僕は妻に死なれた当時、山野さんにとても助けられました。2年と8年の違い──残された者はどのように立ち直っていくのか? そのへんを探ってみたいと思います。

◎ ◎ ◎

吉永(以下、吉)どうも、お久しぶりです。今日はとんだ遅刻をしてしまって……。

山野(以下、山)2年くらい前は約束自体を忘れてましたよね? 僕も妻に死なれたばかりのとき、同じような症状がありました。音が聴こえづらかったり、温度が分からなかったり。12月なのにTシャツ1枚で過ごしていた時もありました。

吉 僕は未だに重い鬱状態になると自律神経が狂って暑さ寒さがわからなくなったりしています。健忘の方はだいぶよくなってきたんですが……。山野さんは今、(妻に死なれたことからくる)鬱状態を完全に脱しているように見えますが、解放されたという感じはありますか。

 鬱を脱したというより、ショックから遠のいたという感じですね。結婚する以前の状態に戻っていくという感覚ですね。

吉 僕はいまだに妻にとらわれていて、まったく解放されていないので、山野さんみたいな感覚にいつかなれるのかな? と思っているんですが。

 革命的にガラッと心境が変わるわけではなく、なだらかに変わっていくものだと思うんですよ。

吉 (亡くなった)二人は、生前から自殺願望を口にしていましたけど、その点に関しては、どう気持ちの整理をつけましたか。

山 自殺に関しては、健全な状態で選んだことではなく、欝という病気が背中を押したということもあるかもしれない。病気が死に至らしめたという面も否定できないと思っています。

吉 山野さんは僕からみるととても理性的に見ます。僕は山野さんと同じ時を経たとしても果たして同じ心境になれるかどうか……。

山 とにかく二人は世の中に失望していたんだと思います。諦めていなかったから失望するわけで、現実を失望しきることで治癒するということもあるかもしれませんね。

吉 確かに妻は、僕に会う前から失望していました。僕と一緒にいた時は、一瞬失望を忘れたのかもしれませんね。でも7年たって鬱病になって……。

山 でもおかげで、7年生きれたという見方もありますよね。

 僕は、「死なれちゃった。とても悲しい」という本をだして、それにくる手紙を通じて僕よりもヤバイ人、死にたがっている人がたくさんいることを実感しました。それで、どうしても今度は「なぜ生きるのか」ということを考えちゃうんですよね。

 僕はそれには違和感があります。死を選ぶのは能動的なことだと思いますが、生きることは積極的に生きようと思わなくても普通にしていれば生きますから。生きる意味なんてなくても、ささやかな楽しみで人は生きていけるんじゃないでしょうか?

吉 でもささやかな喜びを積み重ねることを人は忘れてしまうんですね。

山 生きる意味を考えずに生きることを虫のように生きているととらえられるかも知れませんが、虫で何がいけないのだろう? と思います。人は等身大の自分より大きな夢を持って、それが達成できないと失望してしまう。それは狂気なのかもしれません。

 山野さんは僕から見るとある種「乗り越えた人間」なんですが、身近な人に死なれて壊れてる人に何かメッセージをいただけますか。

山 ある時スッと抜ける場合もあるし、つらい欝がちょっとした出来事を機に好転する時もある……。とにかく浮き沈みや早い遅いはあっても、時間の経過とともに徐々に解除されるのは間違いないと思うんです。あと、えらそうなことは言えませんが、みなさん生真面目過ぎると思います。色んな事に前向きに正しく失望しろと言いたいですね。

◎ ◎ ◎

確かに人間は錯覚して生きないといきていけないのかもしれない。山野さんと話して、ささやかな喜びに生きるという謙虚な姿勢が自分にも欠けていたと思いました。

吉永嘉明

1962年、東京生まれ。海外取材雑誌『エキセントリック』編集部を経て、サブカルで勢いのあった頃の『別冊宝島』で編集・ライターをするようになる。95年から97年、編集者及びドラッグライターとしてカリスマ的存在だった青山正明氏と『危ない1号』(データハウス)の編集に従事。著書に『サイケデリック&トランス』(コアマガジン)、『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社)など。

 所収:ミリオン出版実話GON!ナックルズ』2006年5月号 p.111

『突然変異』創刊号から「ロリコンの恋ものがたり」(青山正明の原点)

ロリコンの恋ものがたり

青山正明(無記名)

 

昨今の街巷で、よくこんな会話を耳にする。

「おっ、いい脚してんなー、あの娘。」
「胸もなかなかのもんだぜ。」

ここで話題のあの娘とは、まだ白パンのようなお尻をした、かわいい女子小学生。

今、東京中にロリコン人間があふれている。チャイルドポルノの影響もあるだろうが、それだけではない。一昔前迄は女子高生が青い果実として重宝されていた。でも、今の女子高生は性知識をとっても、肉体をとっても、OLと何ら変わる所がない。男を見ればしっかり濡れる。女子高校生に“青春の光と影”を求めるのは、PTAと盲くらいだ。女子大生サロンは又の名をオバサマサロンという……。

こうなれば、甘ずっぱい無垢の果実を射らんとす性の狩人達の矢は、自然と中学生・小学生に向けられる。女子小学生のあどけない瞳は、私たちの心臓を熱く締めつける。幼い頃の思い出。昔日への郷愁。腐敗した性を、かくも美しく昇華せしめる無邪気さ。そして、カシミヤのように柔らかくしっとりとした天使の体。

高校生が売春をしても、今では話題にもならない。昔だったら女工とか、売春婦とかやってる年頃の女が、高校に行ける時代になったのだ。これからは小学生売春の時代だろう。それに、幼女を使った売春なんて、世界中、いつの時代でも存在してたのだから、無い方が異常だ。

ところで、私の友人“元祖ロリコン人間──青山正明”の事をお話しよう。私もかなりの好事家ではあるが、その生涯すべてを変態修養に注いできた彼にはかなわない。この雑誌の編集員であるSK氏は、青山を称して“動く変態陳列館”と言っておられたが、なかなか言い得て妙である。

高校入学当時の彼は、変態ではあったが今ほどグロくはなかった。学校の帰り道、友人共々書店に赴くと、彼はきまって子供服の雑誌や小学一年生に我を忘れて見入っていた。そうして、気に入った女の子の写真を見つけると、その雑誌を買って帰り、切り取ってファイルしていた。その当時、私は彼から、ニュービーズのCFの女の子が、「パパ、アデランスにしてヨカッタネ」の女の子であり、又、小学一年生のカバーガールでもある事を教わった。

秋になると、ここかしこの小学校で運動会が催される。彼が一番活気づく季節だ。彼は都内のあちこちの小学校の日程を調べあげ、したり顔。いつもながら私も付き合わされた。出発行進を待つ、ちっちゃな女の子達の回りでカメラを手に行きつ戻りつしていた青山の姿は何とも滑稽で一見の価値はある光景だ。

彼は、小学校の運動会を見終わると、必ず女の子の上履きを失敬してから退散した。彼の家には、そうしてとってきた上履きがたくさんあって、嘗めたのと嘗めてないのとちゃんと仕分けして、ビニール袋(香りが抜けないように)に包んであった。豊島区内のN小学校では、女子小学生のトイレの中から、血染めのナプキンを拾って狂喜していた。

大学に進んでから(もちろん私とは違う大学)、青山の手口は飛躍的な進歩を遂げた。かねてから彼の念願であった「子供の前で自分のモノを振って見せる」という希望も、春の昼下がり、大森の児童公園でほどなく実現された。

そうしたある日、ついに彼は孤児誘拐の決意を表明。綿密な計画をたてた後、彼は私を連れ都庁へ行った。都庁の第3棟の9階に児童部という所があって、そこで彼は嘘八百を並べたて、ロリコンぽい職員から“児童福祉施設名簿”を入手。破顔一笑。これは、都立・民営合わせて64の養護施設(いわゆる孤児院)の所在地・最寄駅・電話番号・定員等の書き込まれたかなり詳しい資料。子供誘拐を志す者にとっては、それはありがたい代物だそうだ。

さっそく、彼は掲載されていた養護施設にかたっぱしから電話をかけ、女子小学生と女子園児の数を言葉巧みに聞き出した。大田区久ケ原にある聖フランシスコ子供寮は、女子ばかり75名。でも男子禁制。男のボランティアはお断りとのこと。結局、都内の2つの民営施設に的が絞られた。慎重な彼は、権謀術数至らざる所のないよう、直接施設訪問は行わず、九段にある“東京善意銀行”という、ボランティアの斡旋所に出向き、そこで推薦状をこさえてもらった。そしてちゃんと登録をし、技術寄附者として東京新聞に名前まで掲載された。彼はその書状を手に、実に堂々と施設訪問をやってのけた。こうした行動の緻密さに、彼の変態躍如した偉大さが感じられる。

その後の彼の行動と成果は、公のものとするにはかなり問題があるので、読者のお怒りを覚悟の上、割愛させていただく。

そのかわりに、彼が最近口にしていた事を、そのまま読者に紹介しよう。

──畑山博が、「いんなあとりっぷ」で、こんな事を報告してたよ。先達て、八王子市のZ小学校で身体検査を行ったところ、女子児童のうち6人が妊娠してたんだって。教師っていうのは子供に接する機会が一番多いからね。羽二五郎によると、日教組に入ってこんな事しでかすと、懲戒免職(退職金無し)だそうだ。でも、文部省側、つまり組合に入っていなければ奨励免職(退職金2倍)というありがたい処分で済むらしい。子供の尻さわりたくて教師になる奴は、まず日教組には入らないことだな。

──教師になりたくない奴は、余暇として、塾教師やボランティアでもすればいい。岡本千代市という都庁職員が、鎌倉にある「黙想の家」で、ベトナム難民少女2人にいたずらをして捕えられたけど、詰めが甘かったんだな。

──とにかく、親っていうのが一番じゃまなんだよ。だから俺は親のない子供を狙うのさ。こいつら金もないしね。個室なんて与えられてないから、独りで考える機会がないんだよ。つまり単純でだましやすいのさ。愛情に飢えてるしね。

──今はやりのベビーホテルなんてのもいいね。でも、ただ赤ン坊の前にチンコ出してもしょうがないんだ。部屋を暗くしてから懐中電灯でチンコを照らすのさ。そうすれば、すごい力で握ってくれるよ。チョコでも塗って嘗めさせる時、先天性歯牙の赤ン坊は歯が邪魔だから医者に連れてって抜歯してもらうか、短く削ってもらうことだ。

──俺だって金さえあれば、ブラジルやインドでも行って、子供と思う存分楽しむんだが……。いつか、華南あたりで子供を買ってくるさ。もちろん養女という名目だけどね。高校生ぐらいになったら、トルコでも始めて使えばいい。送り返しちまってもいいんだ。高い金払って教育を受けさせてやったんだから、お礼されてもいいくらいだ。

最近、青山を“日本てんかん協会”の遠足で見かけたという児童文化研究会の友人の証言がある。折しも、今年は国際障害者年。ついに彼は身体障害者に迄触手を伸ばし始めたようだ。

 

青山正明の旧友を名乗る人物が青山の高校時代から大学時代までのロリコン遍歴を綴る自作自演の無記名原稿。青山の実質的な文筆デビュー作である。

所収『突然変異』創刊号/1981年4月15日発行