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雑誌周辺文化研究互助

震源地で大阪北部地震を体験して思ったこと

地震もそろそろ落ち着いてきたことだし、大阪北部地震が起きた時のことを回想してみよう。

地震発生時の8時前はまだ夜更かしして寝ていた。

そして緊急地震速報と同時に突き上げるような揺れで叩き起こされ、寝ぼける暇も地震だ!」と思う暇もなく、「あ!この世の終わりだ!」「宇宙が終わった!」とトチ狂っては布団の上で小さくなり、断末魔のようなものを心か声かで叫んでいた。

被害に遭った自宅は震源地帯にある高層マンション8階で、もはやP波どころの話ではなかった。実質、体感で震度6強はあったと思う。

そんでもって、頭を隠す暇も余裕もなかったのだが、小さくなってたことで四方から飛んでくる家具から奇跡的に逃れた。ほーんの数センチずれてたとしたら、きっと大ケガしてるかしていたろうし、もし頭上をめがけて家具が倒れたかもと想像すると、架空の痛みがリアルに感じられる。

弟の部屋も家具が倒れていて、すでに弟は出社していたが、もし寝ていたら、ひとたまりもなかったろうと思う。地震においては本棚が一番の凶器たりえるのだ。

とかなんとか偉そうに言ってみたが、震源地かつ直下ってもう何もできないし、ぜんぜん手も足も出ない。なおかつ今回の場合、下手に逃げたらケガをしていた。せめて出来ることはまくらで頭を守ることくらいだ。あー疲れた。

 

被害に遭った虫塚虫蔵のだらしない部屋







 

地震から2時間後ぐらいの摂津富田駅




 

茨木市の被害状況
瓦の落下、古寺の倒壊、壁の剥がれなど







(※上掲した画像の一部は手塚千夏雄のHNでWikipediaの「大阪北部地震」にもUPしました)

不幸の原因と不幸にならない対処法ーラッセル『幸福論』から

不幸の原因とは何か(ゼミの報告書より)

今回は1930年刊行の『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)から「不幸の原因と不幸にならない対処法」について発表された*1。著者のバートランド・ラッセル(1872年–1970年)は、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家、平和活動家としての顔も持ち、それぞれの分野で多大な功績を残した現代イギリスを代表する思想家である。

彼が58歳の時に著した『幸福論』はヒルティ、アランのそれと並び「世界三大幸福論」のひとつに数えられる名著で、本書は全17章2部構成からなり、1部で「不幸の原因」を、2部で「幸福をもたらすもの」についてを、ジョン・ロックの大成した経験主義*2の立場に沿って、具体的経験をもとに議論が展開されている。

今回の発表では各章で述べられた「不幸の原因分析」と、その「解決策」についてそれぞれ論じられている。

 1「バイロン風の不幸」

まず1つ目に、不幸の原因として「バイロン風の不幸」が取り上げられた。

この不幸の原因は、理性によって厭世的になってしまうことで、つまり自分で勝手に不幸な世界観を理性によって築き上げ、ひたすら悲観主義的(ペシミズムとも)な思いに走ってしまうことにあるという*3

ちなみにラッセルは「どうしても行動を起こさなければならない必要に迫られた」ことによって、空虚的な気分から脱出した経験があるといい、不幸のループに陥った時には内的な「自己没頭」を繰り返すのでなく「外的な訓練」こそ「幸福に至る唯一の道」であると述べている。

 2「競争」

2つめの不幸の原因として「競争」が挙げられる。なお、地位や名声、富を得るため、ある程度の「競争」をすることは幸福をもたらすが、それがある一点を超えたところで不幸になるとした。なぜなら、成功は競争の一要素でしかなく、その競争に他の要素を全て犠牲してしまうからだ。

ラッセルは人生の主要目的としての競争を「あまりにも冷酷で、あまりにも執拗で、あまりにも肩ひじはった、ひたむきな意志を要する生き様」として捉え、「余暇すら退屈に思えてリラックスすることも出来なくなり、薬物に頼っては健康を害するだろう」と結論付けた。これに対する治療法はひとえに「人生のバランスを取る」ことである。

 3「退屈と興奮」

3つ目の不幸の原因は「退屈と興奮」である。人は現状と理想を対比しては、ひたすら退屈に感じ、それとは逆に興奮を求める(なお、求愛行為や戦争も興奮のうちに含まれる)。しかし、過度の刺激を求める事にはキリが無い。

ラッセルは「いくら偉大な人物や書物にも退屈な期間や部分が含まれている」として、ある程度「退屈を味わう、または楽しむ」ことを主張した。なお、人は「退屈」という感情そのものに否定的な先入観を抱いており、そうした当然の意識から脱却して目の前のことに楽しみを見いだすことが解決策となる。

 4「疲れ」

4つ目の不幸の原因は「疲れ」である。なお、運動による体の疲れは、ある程度の幸福感をもたらし、休めば充分回復するので、ここではあまり重視されない。問題は神経の疲れである。この疲れの多くは「心配」からくるもので、何も打つべきことが出来ないにも関わらず、あれこれひどく思い悩んで疲れを引きずる、といったものだ。

こういう場合の解決策としてラッセルは、心配事を四六時中不十分に考えるのでなく、「考えるべき時に十分考えて」から決断し、それ以上の優柔不断をやめることを示した。次にラッセルは悩みを宇宙規模で考えることで、悩みの原因となる事柄がいかにつまらないことかを悟ることができ、疲れの原因となる心配事が減らせると解説している。

ラッセルいわく「講演で上手にしゃべろうと下手にしゃべろうと、どのみち宇宙に大きな変化はない、と感じるよう自分に教え込んだ」ことで「下手にしゃべることが減り、神経の緊張もほぼ消滅した」という*4

 5「ねたみ」

5つ目の不幸の原因は、人間の情念の中で最も普遍的で根深いもののひとつであるとされる「ねたみ」である。この「ねたみ」が人間を不幸にするのは「自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人の持っているものから苦しみを引き出しているため」と本書では説明される。これの解決策として、「世の中には上には上がいるのを自覚し、比較はやめて無益なことは考えない」「不必要な謙遜はねたみを持ちやすいのでやめる」「今置かれている状況を明一杯楽しむ」ことをラッセルは推奨している。

 6「罪の意識」

6つ目の不幸の原因は、子供の頃に形成された「罪の意識」に、大人になっても無意識的に縛られることである。これについてラッセルは「幼児期の道徳教育」の中に原因があると指摘している。例えば幼少期に親のしつけなどで、何らかの遊びを禁じられると、大人になってからも、その行いに罪を無意識のうちに感じ、自身を束縛・抑圧することがこれに当てはまる。これを克服するには、「無意識まで浸透した合理的で裏付けのない教えを、無意識的に働きかけることで、意識的な考えを支配している合理的な信念に注目させる」ことが挙げられる。つまり、理性によって精神を無意識のレベルまで統一することで、無意識下にある「罪の意識」も払拭させることが望まれるわけである*5

 7「被害妄想」

7つ目の不幸の原因は、おおよその人が多かれ少なかれ患っているといわれる「被害妄想」が挙げられる。なお、軽度な範囲の被害妄想については自分自身で治癒することも可能であり、ラッセルは4つの予防法「そこまで自身の動機が利他的ではないこと」「自身を過大評価しないこと」「自分が思うほどの興味を他の人も持つと期待しないこと」「たいていの人はあなたのことを貶めようとは思ってはいないこと」を提示し、これら四つの公理を理解することを解決策としている。

 8「世評に対するおびえ」

8つ目の不幸は「世評に対するおびえ」であり、自分が他人にどう思われているのか気にしすぎてしまうことが原因である。これに対する有効な解決策として、自己と社会が調和するよう環境を変えるか、世評を気に留めず、自己の信念を貫くことが挙げられた。しかし、近年はやたらとマスコミが何かをかきたてるようになってきたことで、このやり方が通用しにくくなっているとラッセルは指摘する(現状では社会的迫害ないしメディアスクラムは、SNSによって一般人相手にも拡大した)。

これら害悪に対する治療法は、一般大衆が寛容になっていくことで他人に苦痛を与えることを楽しみとしない人間が増えることである。

総論「思考のコントロール

ラッセルは総論として、これら不幸の原因は、いずれも日常の習慣における「思い込み」であり、それらは「自己没頭」によって生じるとも語っている。これは「習慣を変えること」で解決することであり、それには「思考のコントロール」が最適であると語る。具体的に「思考のコントロール」とは、「ある事柄を四六時中、不十分に考えておくのではなく、考えるべき時に十分考えておく習慣」だといい、またそれは無意識下においてもコントロールできるようにしておかねば今まで挙げてきた解決法も余り役に立たないという。そのためには精神を訓練して意識の無意識への働きかけを実現することが必要で、そこではじめて幸福を能動的に捉えることができるという。

結論として、幸福になるにはポジティブに思考をコントロールすること、そして自己の内面でなく外界に興味を向けることの2つにまとめられる。

 質問と回答

今回の発表で出た1つ目の質問は「無意識下での思考のコントロールにおける精神の訓練なるものは、ここまで挙げられてきた解決策と同義であるのか」というもので、発表者は「その通り」であるとし「それらを実践することで意識を正し、無意識レベルにまで刷り込んでいく」ことを述べた。2つ目の質問は➀で挙げられた「バイロン風の不幸とは具体的に何か」というもので、発表者は「バイロン風の不幸」の典型例として「伝道の書」から以下の悲観的結論を引用した*6

既に死んだ人を幸いだと言おう。更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽のもとに起こる悪いわざを見ていないのだから。(伝道の書 第4章)

付記

*1:レポートの参考文献は、ラッセルの『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)のほか、本書を解説したムック『100分de名著 ラッセル幸福論―客観的に生きよ』(NHK出版、2017年、小川仁志)も含まれている。本書は2017年11月にEテレで全4回にわたって放映されたテレビ番組を再構成したもので、各回のサブタイトルは「自分を不幸にする原因」「思考をコントロールせよ」「バランスこそ幸福の条件」「他者と関わり、世界とつながれ!と実に端的で分かりやすいものとなっている。

*2:経験主義とは「人間は生まれたときは白紙であって、人間の心は経験を重ねることによって形成されるもの」という西洋哲学から生まれた考え。ここから報告者は、東洋哲学(=仏教)の“空”の思想に基づく「自受用三昧」を連想した。「自受用三昧」とは曹洞宗の開祖である道元が提示した思想で、すなわち「経験になり切る」ことで「自分を忘れて何かに没頭する」という考えである。これはいわゆる「瞑想状態」「忘我状態」「フロー状態」「ピークエクスペリエンス」「無我の境地」と呼ばれる「究極的にリラックスした心理状態」に近い。また「自受用三昧」には「自分=経験である」と捉える面があり、自我や個性の存在は「元から存在しないもの」として否定される。言い換えれば、存在しない「自我」に固執するのは全くもってナンセンスで「自分」を捨て去って「経験」になり切り充足した日々を送る、という考えが「自受用三昧」なのである。今回の主題と「自受用三昧」は全くもって関係ないが「幸福論」という主題と妙に近似性を感じたことから注釈の形でここに記載した。なお「自受用三昧」はラッセルが提示した「自己没頭」とは対極に位置する概念である。

*3:ちなみに本章では、理性によって不幸になった者の具体例として、知識階級層のペシミストたちと、彼らのペシミスティックな言行を取り上げている。

*4:なお、報告者も過去に壮大な宇宙と矮小な自己を相対化して幾分か救われた経験があり、昔から人の考えることは多かれ少なかれ余り変わらないものだと実感したが、一部の聞き手は「宇宙規模で悩みを相対化して解決する」ことに関して少なからず「飛躍した解決策」という印象を抱いたようである。

*5:この章で扱われている無意識的な罪の意識は「超自我による過剰な罪悪感や劣等感に起因する」という解釈もできる。この「超自我」(スーパーエゴとも)は自身を監視して抑圧する心理的なシステムで、幼少期に親などから学んだ道徳的良心や道徳教育によって形成されるといわれる。この解釈でいくと、罪の意識による不幸の解決策は「子供時代に親によって作られた超自我(言うなれば親の呪縛)をぶち壊して新たに自分の超自我に作り直す」ことになる。この「超自我の解体」とも言える現象は、自我が目覚め出した思春期に「親への反抗」という形で自然と表れてくる。

*6:空の空、空の空、いっさいは空」という言葉で始まる「伝道の書」は紀元前に書かれた旧約聖書のひとつでエルサレムの王である伝道者の言葉と伝えられている。なお、引用した文章のような悲観的思考から脱却するためには、ひとえに「思考のコントロール」が必要不可欠である。

チャンネル争い史—三丁目の猟奇

チャンネル争い史ー三丁目の猟奇

はじめに

テレビの「チャンネル争い」は誰しもが(たぶん)経験する、家族間での代表的な揉め事であった。「あった」という過去形から、まず結論を言っておこう。「チャンネル争い」という家庭内紛争は少なくとも日本国内では、ほぼ終戦状態である。

もっとも、チャンネル争いは一台のテレビのチャンネル権を家族内の誰かが占有するという条件/状況下で発生するもので、現代でもないとは言い切れないが、すでにテレビは「一家に一台」から「一人一台/一部屋一台」という時代になり、そもそも娯楽多様化でテレビそのものを見なくなっているという人も多い。

だが、昭和中~後期まではビデオデッキも普及してなかったし、「録画して後で見る」ということはまず不可能で、ゆえにこの頃が最もチャンネル争いがヒートアップしていた時期であるといえよう。

ここでは、過去の新聞報道から国内のチャンネル争い史を振り返ってみよう。

1960年「毒薬入りウイスキー事件/大阪」

国内のチャンネル争いについて、『朝日新聞』や『読売新聞』といった全国紙では1963年頃からチャンネル争いに起因する「事件」を報じている。

しかし、チャンネル争いを扱った国内における最古級の記事は『毎日新聞』1960年(昭和35年)5月11日付・東京朝刊5頁に掲載された「深刻なチャンネル争いーテレビと家庭の問題」という記事である。

この記事内では冒頭にチャンネル争いに起因する大阪の殺人事件を紹介している。

最近、大阪で見たいテレビ番組のことで姉とけんかし、父にしかられてなぐられた男の子(一三)=中学三年生=が、この父をうらんで、ウイスキーに毒薬を入れて殺してしまったという事件がおこりました。

警察の調べによると、もちろん少年には“殺意”というものはなく、病気になって病院にいけばうるさくなくなるというほどの気持ちからだったようです。それに少年も平素の素行もよくなく、父も酒のみという特別な事情があったようです。それがテレビチャンネルの争奪というきっかけで爆発してしまったといえそうです。それにしてもテレビのチャンネル争いは、多かれ少なかれどの家庭でもみられることです。

のちに紹介する事件にも共通することだが、チャンネル争いに関係する事件は、チャンネル争いに敗れたことが「引き金」となって鬱憤が爆発し、殺人、傷害、自殺に発展するケースが目立つ。

されど、こうした諸々の問題を抱えた家庭において、致命的な「事件」が起こるというのは遅かれ早かれ、時間の問題だったろう。事件のきっかけとなる「チャンネル争い」なんて、結局のところ、事件を起こす動機の一要因に過ぎないのである。

ちなみに注目すべきは堀秀彦*1が寄稿した以下のコメントであろう。

テレビがうんと安くなって個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)この問題は解決するが、それまでは、いまのままではいつまでも多かれ少なかれつきまとうのではなかろうか。

結果的に堀の予言は的中することになるが、この予言が実現するまでには3、40年は待たねばならない。

また堀の「個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)…」という一文であるが、事実、現代の小中高生の多くはポケットに収まるスマートフォンで、親の目を離れては「好きなもの」を自由気ままに見れるようになっている。またその結果「どんな人間が生まれた」かも、皆様はよく御存知であるはずだ。

1978年「中二の兄、小六の妹刺す。両親、共働きの留守/埼玉」

1978年(昭和53年)4月20日夕方、埼玉県与野市で、木曜日の夕方5時に日本テレビで再放送されていた『さるとびエッちゃん』を中学2年生の兄が、小学6年生の妹はTBSで再放送していた『みつばちマーヤの冒険』を見たいと喧嘩

以前からふたりの間には喧嘩が絶えなかったらしく、兄の鬱憤が爆発、チャンネル争いの末に妹を果物ナイフで刺殺、ビニール袋を被せて段ボール箱に死体を入れてから警察に通報して自首するという事件が起こる。

Wikipediaより一部改稿)

この事件はWikipediaにも記載されているほか毎日新聞』『読売新聞』『朝日新聞』『週刊サンケイ』など主要紙でも報じられ、当時は結構話題になったらしい。

毎日新聞 1978年4月21号 東京朝刊 23頁)

事件翌日には、東京都小金井市立小金井第二小学校の六年三組で本事件に合わせてチャンネル争いにまつわる「学級討論会」が開かれた*2

以下、チャンネル争いにまつわる子供たちのエピソードをそれぞれ列記する。

大学の姉さんとけんかして、ブラウン管まで割っちゃった」と男子。取り合っているうちに、チャンネルのつまみが壊れた」と女の子も負けない。

兄ちゃんにいつもぶたれるよ

二年生の妹を突き飛ばしたら、障子がはずれてしまった

みそ汁をひっくり返したことがある

プロレスで決着をつけることにしてるけど、戦ってるうちに番組が終わってしまうんだ

 

その紛争を、家庭内では、どうやって解決しているか。体操着の男の子が不服そうに「うちのお母さんはいつも『あんたは兄さんだから我慢しなさい』という」と発言すると、賛同の拍手。

いい合いをしてると、うちの母さんは『二人とも外に出て考えなさい』と追い出してしまう」「ナイターを見たいお父さんとけんかしてると、最後はお母さんが入ってきて自分の好きな番組にしてしまう」という報告もあった。

ちなみにチャンネル争いで「けんか」をしたことがある六年三組の児童は出席39人のうち38人、実に97%にのぼった。

なお、解決方法に「テレビ2台論」や「ビデオデッキ」を求める児童の声もあったが、それに対して先生は「やはり高度成長時代に生まれた子ですね」と苦笑いし、「欲しいものは何でも買える、もらえる、という発想はこわいな。昔の子は我慢、あきらめ、という美徳を持っていた」とぼやかれになられた。

正直、年長者に多い「我慢と忍耐」を美徳とする日本人的根性論をこんな場面でも持ち出されるとは、正直辟易とさせられるのだが、こうした世代間でのジェネレーションギャップは今も昔も変わりはない、ということか。

1980年「中一の弟、中二の姉を射殺/徳島」

(読売新聞 1980年2月4日号 東京朝刊23面)

1980年(昭和55年)2月3日、徳島県三好市(現・三好郡東みよし町)で中1の弟が中2の姉を父の散弾銃で射殺した“昭和の田舎で起こり得るであろう最悪なチャンネル争い事件”が発生した。以下事件の内容である。

2月3日午後7時、地元の警察署に「姉を猟銃で撃ち殺した」という110番があった。

同署員がAさん宅にかけつけたところ、Aさん方の階下六畳間で少年B(13)が立ちすくんでおり、足下に長女C子(14)さんが散弾銃で頭を撃ち抜かれ血まみれになって倒れていた。C子さんは約10キロ離れた県立病院に運ばれたが、出血多量で死んだ。

Bの自供によると、姉弟二人はこの日の午後二時すぎからテレビを見ていたが、バレーボールの試合を見たいというC子さんに対し、Bが漫画番組を見るといって譲らずけんかになった。その後もチャンネルをめぐって口論を続けた結果、Bは父親の銃を持ち出し、姉に一発発砲した。銃は階下の勉強部屋にあった。

近所の人の話では、Aさん一家は五年前、二階建て約60平方メートルの家を新築、その支払いのため父親は茨城県内の建設作業現場に出稼ぎに行き、母親は同郡池田町内で飲食店を経営、毎日通っており、祖母(65)が姉弟の世話をしていた。姉弟の仲はよかったという。

猟銃は父親が昭和50年9月、許可を受けて購入した単発銃で、出稼ぎ中は銃を分解、二階の部屋のキャビネット式の保管庫に入れて施錠、隠していた。しかし、Bはカギと弾薬の隠し場所を知っており、銃も自分で組み立てていることから父親が銃を扱うのを見ておぼえたらしい。

Bは日ごろ家に猟銃があるのを自慢にし、最近も友達を呼んで見せびらかしていたという。

とにかく少年Bがクソ過ぎると思ったが、まあ好奇心旺盛な中学生の悪ガキに本物の銃を与えたら、こうなっても仕方ないのかなと思える。普通、人間は頭に血が上ったら「脅し」で包丁や銃を持ち出すことはあるとしても、情緒が欠落した小中生は本当に刺したり撃ったりするからコワイ。なんの解説にもなってませんが(笑)元々仲良しの姉弟だったという点で前掲した埼玉の事件より残酷に思える。

また同時期には小学生男子がいたずら目的で幼女を殺害してしまった事件もあったことから、記事内には東に西に凶悪犯罪の低年齢化現状を憂いた文章も書かれていた。(文◎虫塚虫蔵)

*1:東洋大学教授 / 1902年~1987年

*2:朝日新聞』1978年4月23日号

高杉弾インタビュー「ぼくはプロの編集者であったことなどなかったし、むしろ編集者に変装した変質者でした」

何人?高杉弾

数々の伝説を生み出した、あの80年代ニューウェーブ雑誌『Jam』『HEAVEN』の編集長にインタビュー

追体験は無益なことだろうか? 理解への一歩は追体験ナシにははじまらない。だから過去にこだわりたい。自販機雑誌『HEAVEN』は過去の遺物だ。しかしそれを振り返らなければならない現実は今、ここにある。テーマは自らを追体験することにある。そして今現在の自分をいかに理解するかだ。『HEAVEN』の1コラムにそのヒントを見つけたいと思うのである。

いつのまにか新しい雑誌がはじまってしまって、また細かい雑文を書きとばしたり、わけのわからない企画に頭をおかしくしたりという日々をおくらなければいけなくなった。

雑誌ブームみたいな現象が起きていて、本屋の雑誌売場にはもうありとあらゆる雑誌がひしめいている。こないだなど本屋の店員が雑誌をまとめてチリガミコーカンに出していたぐらいだ。作る方も雑誌はもーかるというので、いいかげんな文章にいいかげんな写真をくっつけて安易に雑誌コードにのせ、お気軽にもうけたりしている。それでも去年あたりからそろそろ淘汰の時期に入ったらしく、つぶれる雑誌が出たり、笑う編集者がいたり、走る車があったりで、ものいりが後をたたない。むずかしい世の中である。

大手出版社の出す殆どの雑誌は各ライターの個性や、取材力、情報収集力、宣伝力に負うところが多く、なんでもない企画を編集力によって面白い物にしていこうという視点がない。いまだに雑誌は読者やライターのものであって、編集者のものではないのだ。これがいけない。もっと編集力ということを考るべきだ。音楽、美術、文学、ファッション等の世界にニューウェイブが起こって、雑誌のニューウェイブが出ないのは実に編集者の怠慢と言わざるをえない。つい最近まで出ていた自動販売機雑誌「Jam」が、書店に置いたところ、月80冊売れたというデータから考えても、雑誌のニューウェイブが読者から拒否されるはずはないのである。

編集力とは変態力である。事態の伝達ではなく事態のカット・アップを。精神の表出ではなく精神の延展を。素材はその辺にころがっている「変態は自身の裡(うち)にある」というパーナリッツの言葉に従えば、誰もが「もうひとつの道」を歩んでいることになる。そしてもうひとつの道を紙面に照射することこそ編集だろう。編集には終わりがない。そして編集とは生き方であることを了解しなくてはならない。

終わりのない小説、終わりのない音楽、終わりのない事態に前から興味を引かれていた。これに「病気」という概念が加わってひとつの方向性を得た。世界とセックスをするなら、終わりのないセックスに限る。すなわちオーラル・セックスである。

 

(アリス出版『HEAVEN』創刊号「高杉弾のオーラルセックス」より)

 

高杉 前回東京の某誌からインタビューの連絡を受けたのも二年前のコサムイ滞在中で、FAXで返送した回答の補足を、バンコクのワット・ポー境内からGSMで長電話したことをよく憶えています

最近は一年の半分近くを海外で過ごす隠居生活を送っており、日本の友人とさえ音信不通の日々ですが、まだぼくのことなどを覚えている見知らぬ人がいるのですね。不思議な感覚です。東京に滞在しているときでさえ日本人マインドから遠く離れて久しく、自分の位置を自らナビゲートしなければ、まともに生きていくことさえおぼつかない毎日です。

さて、20年も前に『メディアになりたい』という本を出してしまっているぼくにとって、すでに〈メディア〉になどあまり興味がなく、ひたすら気になるのは〈メディアマン〉の消息だけです。このニュアンスをご了解いただければ幸いです。

 

───高杉さんが「自販機本時代」に編集された『Jam』とその後の『HEAVEN』は、相変わらず古本屋価格ではべらぼうな値段が付けられていますが、自分で持ち込んでプレミア価格で買い取ってもらったりしたことはありますか。なければさぞかし悔しい思いなのではないかと思うのですが…。

 

高杉 他誌の前回のインタビューもそうでしたが、また20年も昔の話ですね。『Jam』も『HEAVEN』も、過去の自分が戯れに作っていた物で、「過去の自分」など現在の自分から思えば他人同然ですから、これからぼくは「他人」について語らねばなりません。しかし、他人について語るのは自分について語るよりよほど面白いし、しかも楽だ。

『Jam』や『HEAVEN』が古本屋でかなりの高値で売られていることは、知人などに聞いて知ってはいました。しかし、自分の目で確かめたわけでもないし、もちろん売りに行ったことなどありません。そもそも、ぼくは『Jam』や『HEAVEN』を数冊しか持っていません。美沢真之助が死んだときに、全冊揃えるのに苦労したほどです。

それにしても、あんなものにプレミアを付けて高値で売り、それを買う人がいるなどということ自体が狂っている。深夜、退屈しのぎに見る自販機本ですよ。しかも20年も前の。「さぞかし悔しい思い」ですって? 人を舐めるのもいい加減にしていただきたい。ぼくは、そんな「架空の金銭」と交換する仕事をした覚えはありません。

 

───「いつのまにか新しい雑誌がはじまってしまって、また細かい雑文を書きとばしたり、わけのわからない企画に頭をおかしくしたりという日々をおくらなければならなくなった」(以下引用はすべて『HEAVEN』創刊号「高杉弾のオーラルセックス」より)

「自販機本時代」から「AV監督時代」などを経て「MEDIAMAN」となった高杉さんとしては、最近ではどのようなメディアに面白さを感じますか。また、今はどのようなわけのわからない企画などに頭をおかしくされているのでしょうか。

 

高杉 「高杉弾のオーラルセックス」という連載をしていたことさえ完全に忘れていたので、そこに書いていたことについて聞かれても、なんだか「今さらなあ」という感じを否めません。

つまり、ぼくは20年前からプロの「編集者」であったことなどなかったし、むしろ、編集者に変装した変質者でした。変質者が一時的な退屈しのぎに好き勝手な紙の切り張りをしていた。要するに、ゴミをカットアップしたスクラップブックですね。それに程々のお金を払い、それなりに楽しんでくれた人たちがいた、というだけのことでしょう。

ぼくが「わけのわからない企画に頭をおかしくしたり」とか、メディアがどうのこうのと偉そうに語っていたとしたら、それはもう若気の至りというものでしょう。はっきり言って、若い頃のぼくは単なる「馬鹿」です。

ですから、「今はどのようなわけのわからない企画などに頭をおかしくされているのでしようか」というご質問にはお答えしにくいです。わけのわからない企画どころか、「わけのわからない世界」に常に頭がぐらぐらになっています。昔のぼくは単なる「馬鹿」でしたが、今のぼくは「人間のクズ」です。これに関しては、確実に自覚があります。

外から日本を見ると、日本という国は完全に気が狂っていて、もはやどこの国からも相手にされていない「終わってしまった国」のように感じます。

世界が興味を持っているのは、日本ではなく日本円です。しかし世界は常に激動している。日本人の田舎臭いマインド・レベルは、もうどこの国に行っても通用しないでしょう。人間のクズと自覚しているぼくとしても、もう日本という国にはあまり興味が持てなくなっています。

興味のあるメディアといえば、「人間の脳味噌またはマインド」としか答えようがありません。

 

───「雑誌ブームみたいな現象が起きていて(中略)作るほうも雑誌はもーかるというので、いいかげんな文章にいいかげんな写真をくっつけて安易に雑誌コードにのせ、お気軽にもうけたりしている

90年代中ごろからのPCの成熟安定化と廉価化によって、雑誌はそれをつくる手段がほぼPCに移行し、i-Mac一台でもカンタンにつくれるほどに安易なものになってしまいました。しかしそのクオリティはといえば、その横着が悪いかたちで表われてしまい、合理的な文章、合理的な画像、合理的な企画で安易な内容のビジュアル重視のものがさらに増えてまったような気がしますが、それについてはなにか思いますか。

 

高杉 端的に申し上げて、「インターネットなど、もう古い」ということでしょう。インターネットはその発展と同様に、ものすごいスピードで「過去の遺物」になりつつあります。ぼくがずっと以前から言い続けていたのは「人間の脳味噌こそが地上唯一最大のメディアである」ということです。コンピューターに代表されるデジタル文化など、日本人洗脳の道具にしかすぎないということなど、心ある人ならすでに気づいていることです。

そもそも「合理的な物の考え方」などという貧しい発想が現在の地球を混乱に陥れているのは自明の理です。黒人を400年間奴隷にし、搾取して富と利権を蓄え、「合理主義」という窮屈で陳腐な思想が蔓延してクレイジーなデジタル信仰と経済原則がまかり通っている日本や西欧世界に、もう未来などありません。

日本人も陳腐な白人思想にかぶれてしまい、メディアという言葉をはき違えてきたように思います。腐ってしまった味噌や豆腐に毒物を添加して作った味噌汁を「あまり美味しくないなあ」と無自覚に思いながら食べているのが日本人の現実です。「洗脳は舌から」、これがGHQ以来の戦略だったのでしょう。そして、メディアや文化についても同じことが言えるのです。

 

───「大手出版社の出す殆どの雑誌は各ライターの個性や、取材力、情報収集力、宣伝力に負うところが多く、なんでもない企画を編集力によって面白い物にしていこうという視点がない。いまだに雑誌は読者やライターのものであって、編集者のものではないのだ

いわゆるインディーズ・マガジンをやっている連中というのは、その部分にたいするアンチテーゼの意識がある者もいれば、発行者の自己顕示欲を満たすためだけのものなどさまざまです。そこでお伺いしたいのですが、大手出版社誌がこれだけ読者(返品率)に強張り、淘汰に怯えるという現実において、雑誌は「編集者のもの」になりうるのでしょうか。また、そういった意味でインディーズ・マガジンには存在意義があると思いますか。

 

高杉 この問題は大手出版取次店の存在を抜きには語れないでしょう。そして、ぼくは当初から雑誌を「大手出版取次店のもの」にしてしまう日本の出版事情にはまったく興味がありませんでした。せめて雑誌は「編集者のもの」であって欲しかった。

それから時は流れて「インターネットの時代」。しかし、ぼくがWEB上に作った〈JWEbB〉という雑誌でさえ、すでに一度リムネットの検閲を受けて一方的に全ページ削除(契約破棄)という理不尽な手段に出られた経緯があります。日本に言論、表現の自由など、もともと無いのです。そのことを、若いインディーズ・マガジンの編集者たちにもはっきりと自覚していただきたい。

そして、「媒体」などにかかわらず、人間は生きているだけで〈メディア〉です。アナログからデジタルに移行し、「発行」が「発信」に変わったからといって、それがいったい何だというのか。完全に文字化けした日本語を「世界に発信」して、いったい何の意味があるのか。

 

───「音楽、美術、文学、ファッション等の世界にニューウェイブが起こって、雑誌のニューウェイブが出ないのは実に編集者の怠慢と言わざるをえない。(中略)雑誌のニューウェイブが読者から拒否されるはずがないのである

ニューウェイブが起った80年代については、今では忌み嫌う声ばかりです。高杉さんにとって80年代とはどんな時代でしたか。

 

高杉 80年代に自分が何をしていたのか、ほとんど覚えていません。雑誌に雑文を書き散らしていただけのような気もしますし、毎日大麻やコカインを吸ってラリっていただけのような気もします。ロサンゼルスやサンフランシスコで豪遊していたのも80年代だったかな。重要なのは「時代」ではなく、「ムーブメント」でしょう。

しかし、日本の雑誌界にニューウェイブはもう永遠にこないでしょうし、逆に、コンドームのように使い捨てられる雑誌ほど売れるでしょう。ぼくには、もうどうでもいいことです。ただ、日本の80年代でもっとも重要なのは、日本が企業社会主義国になった、ということだけでしょう。

 

───「編集力とは変態力である

これを今ドキのバカギャルにもわかるように説明してやってもらえませんでしょうか。

 

高杉 「今ドキのバカギャル」などにはまったく興味がありませんし、彼女らに教えることなど何もないと思います。ぼくには「バカギャル」というのがどのような女性を指す言葉なのかも把握できていません。「編集力とは変態力である」などと書いたのは、メディアマンではなく高杉弾というウツケ者でしょう。「編集力」も「変態力」も、今のぼくには日常の埒外です。

 

───「終わりのない小説、終わりのない音楽、終わりのない事態に前から興味を引かれていた。これに『病気』という概念が加わってひとつの方向性を得た。世界とセックスするなら、終わりのないセックスに限る。すなわちオーラル・セックスである

名文であります。ところで、なにげなーく拠点をコサムイに移されているように見えまが、コサムイにはどんな終わらないものがあるのでしょうか。

 

高杉 もともと「拠点」などという発想を持ったことはありません。拠点って、なんだか左翼の活動家みたいで気持ち悪いじゃないですか。コサムイは、ただ気候的に気持ちのいい場所なので行っているだけで、それもせいぜい年に2、3か月程度です。海と、椰子のジャングルと、馬鹿な白人観光客用バンガローと、不味いレストランがあるだけの島です。

コサムイに限らず、気候的に温暖で、物価が安く人々が仏教徒で温厚であれば、ぼくの周囲に「終わりのない世界」はすぐに出現します。タイは今年2544年です。バリのサカ暦はそれ以上でしょうし、そんなことにさえ関係なく、南国には南国の「寛容な空気」が流れています。そして、これこそが日本にはない一番重要なものなのです。

バンコクやコサムイやウブドの部屋で目覚めるぼくの日常は、それこそ終りの無い日々。その日何が起きるのか予想さえできませんし、明日何をするのかなんて考える気もしません。死ぬまで続くそういう日々の連続が「終りの無い世界」への夢を増幅させるのだと思います。多くの人々が「金銭」やら「デジタル」やら「情報」やら「健康」やらといった幻想にうつつを抜かしている間に、ぼくは気持ちのいい夢を見ることにしただけなんです。

 

───雑誌とインターネット。高杉さんにとって両者はどのように違いますか。

 

高杉 雑誌はメディア、インターネットは「情報」の運び屋、つまり運送屋でしょう。新幹線ができて、ちょっと便利になったのとあまり変わりませんね。ぼくはもう雑誌にもインターネットにも何の期待感も抱いていません。そんなものはもう古い。過剰に管理されるメディアなんて、もううんざりだ。

数年前に「脳内リゾート開発」という概念を提供しましたが、できることならもっと多くの人々に、人間がもともと持っている優秀なアナログ機関である脳味噌の、未開の部分に注目していただきたい。気楽に、柔軟にね。

 

───今後高杉弾及びMEDIAMANは新しい雑誌などを仕掛けられる予定はありますか。

 

高杉 雑誌にもデジタル・メディアにもあまり興味がありません。最後に唯一読んでた『太陽』も休刊になってしまったそうだし。ぼくは気楽で暇な隠居の身です。もし日本に面白い雑誌があるなら、お教えいただきたい。

自分で印刷媒体を作ることなどないでしょうし、デジタルなんかもともと信用していない。そんなことをしなくとも、世界の現実は雑誌以上に面白いですよ。

それから、〈メディアマン〉というのは特定の個人を指す名ではなく、「高杉弾という個人に内臓されるメディアとしての脳味噌」を経由して表現されるすべての事象に因んで公案された〈概念〉であると理解していただきたい。

 (所収:ラクダ・パブリシング『創的戯言雑誌』2000年刊/絶版)

高杉 弾(たかすぎ・だん)

東京品川生まれ。4歳から9歳まで、川崎市等々力の水郷地帯で蓮の花に囲まれて育つ。1979年から1980年にかけて自販機雑誌『Jam』『HEAVEN』の編集長として数々の伝説を生み出す。

現在は"メディアマン"というコンセプトのもとに言語アーチスト、作家、編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家、ラリ公などと呼ばれながら"MEDIAMAN"としての国際的な隠居生活を楽しんでいる。競馬と散歩と昼寝、南の島やタイ・香港旅行が道楽。毎年11月~3月はバンコク、サムイ島、バリ島、香港のいずれかにいることが多い。

雑誌、単行本、インターネット等のメディアに突発的な仕事を発表することもある。仕事は一貫してジャンルではなくマインドで選び独自の世界観からの発言や表現活動を極めて気まぐれに続けている。金銭的利益追求を第一義とするマスコミや出版業界は大嫌い。

脳内リゾート開発事業団所属。ステレオオタク学会会員。〈imperialMEDIAMANinternational〉代表。

高杉弾オフィシャルサイトより

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す―漫画家・山田花子の自殺

連載[師走の街から](7)

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す

五月の運動会から数日後のことだった。四年生を担当する女性教諭(50)が三十四人の教え子たちに手紙を託した。

〈これからは、子供たちの声にならない声に、もっともっと耳を傾けていきます〉

先生はおかっぱ頭。やせてはいても、東京郊外の小学校で「一番の元気者」を自慢にしていた。ところが、運動会が近づいたころ、長女が飛び降り自殺してしまった。手紙は、この悲しい出来事を静かに見守ってくれた父母たちにあてて書いたものだった。

長女は二十四歳、漫画家だった。「山田花子」のペンネームで、一時、「週刊ヤングマガジン」や月刊「ガロ」などに連載を持ち、単行本も二冊出していた。人間関係の息苦しさや疎外感を強調した漫画だ。内向的で感受性の強い主人公がいじめにあい、傷ついていく。遺(のこ)された十五冊の日記帳は、主人公が作者自身で、描くことで生きるつらさを乗り越えようとしたことを物語っていた。

日記や漫画を読んで先生はがく然とした。自分そっくりの教師が主人公に言う。「あなた、お友達がいなくて淋(さび)しくはないの」。確かに、友達が少なかった娘を同じ言葉でよく送り出した。日記の中の娘は一人で時間をつぶしては自ら服に泥をつけ帰宅していた。初めて知った。

教師歴二十八年。「いろんな子がいて当たり前。弱い子も強い子も個性を生かしてあげなきゃ」が口癖だった。いじめや登校拒否にも体ごと取り組み、二人の娘を育てた。「自由を口にしながら自分の型にはめようとしていたのか」

それから、追われるように仕事をした。救いは死後も絶えない読者からの手紙だった。「悩んでいるのは自分一人ではなかったと力づけられた」「私の人生を変えるのは山田花子かもしれない」

愛読していたという人気バンド「たま」知久寿焼(ちく・としあき)さん(27)は、霊前で「自分の姿を見るようで身につまされた」と涙を流した。これほど人の心を動かした「山田花子」の感性とは何だったのかと考えるようになった。

夫婦で娘のことを本にまとめようと決めた。毎晩、日記や作品、彼女の聴いたテープ、愛読書を整理する。書き始めたばかりの目次には大きく「学校といじめ―教師と母親の構造」とある。

「娘の供養ではなく、自分がこれから生きて行くために書き上げなくちゃ」と、先生は思う。(若江雅子)

(おわり)

所収:『読売新聞』1992年12月25日号 東京夕刊

山田 花子(やまだ はなこ、1967年6月10日 - 1992年5月24日)は、日本の漫画家。本名、高市 由美(たかいち ゆみ)。

自身のいじめ体験をベースに人間関係における抑圧、差別意識、疎外感をテーマにしたギャグ漫画を描いて世の中の矛盾を問い続けたが、中学2年生の時から患っていた人間不信が悪化、1992年3月には統合失調症と診断される。2ヵ月半の入院生活を経て5月23日に退院。翌24日夕刻、団地11階から投身自殺。24歳没。