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高市由美・特殊漫画家 山田花子を偲んで──父・高市俊皓

1992年に投身自殺した伝説の漫画家・山田花子
彼女の生涯からは、ある種の“信念”とも“業”とも言える「何か」が見え隠れしてならなかった。彼女の父でトロツキスト高市俊皓(2012年没)の寄稿(山田花子著/高市俊皓編『自殺直前日記』あとがき)から山田花子の抱えていたカルマ(業)の正体について探ってみることにしよう。


高市由美・特殊漫画山田花子を偲んで

高市俊皓(父)

一流高校―東京大学―上級国家公務員試験合格―高級官僚に。私の親父は、私を典型的な立身出世型の人間に育て上げようとした。親父は常日頃、私に昔の修身の教科書そのままの道徳を説いた後で必ず「お前の人生の目的は東大を首席で卒業して偉い役人になることだ」と言って聞かせた。

人生のある時期まで、私はそんな親父を尊敬していた。親父の期待に応えたいと思ってきた。しかし、成長するに従って、私は親父の人生観や価値観に疑問を持つようになった。親父の偽善に気付いたこともあった。また、私には親父の期待に応えられる能力がないことに気付いたこともあった。しかし、最大の問題は立身出世して富や社会的な地位を追い求めることが果して人生の目的たり得るのかという疑問であった。大学受験も真近に迫った高三の時のことだった。

高校を卒業して一年後、私は家を出て、東京の新聞店で働きながら受験勉強を続けることにした。「独立」しなければ、親父のお仕着せでない、自分自身の人生を歩むことはできないと考えたからだ。この頃、私は懸命になって哲学書を読み、人間如何に生きるべきかを真剣に考えた。当時、私が到達した結論は、たとえ貧しくとも、自分自身の信念に忠実に、人間らしく生きたいということであった。

一九六〇年四月、私は東京学芸大学に入学した。相変わらず新聞店で働きながら通学した。親からの仕送りはなかった。親父と喧嘩したからじゃない。生活保護とお袋の僅かばかりの稼ぎで暮らしている両親に、仕送りする余裕はなかったのだ。この頃には親父も私の生き方を認めていた。

私が大学に入った年は、御存知「六十年安保」たけなわの頃だった。連日、クラス討論―全学集会―国会デモへ、というのがお決りのコースだった。ところが、我が級友達(中学理科教師課程)の殆どが集会やデモに参加しようとしなかった。平穏無事に卒業したい、学生運動に参加して就職不利にしたくない、というのが本当の理由なのに、「学生の本分は勉強だから…」などともっともらしいことを言うので、むしょうに腹が立って騒ぎまくっていた。気がついたら何時のまにか執行委員になっていた。

安保闘争が終った後、ストライキを決議する為に開かれた学生大会で、賛否両論が伯仲してなかなか決着が付かなかった時、私が激烈な大演説!?をぶって、決議を通過させたこともあった。私が先頭に立って会場の体育館に突入して、教授会を流会させてしまったこともあった。学校側に「十分反省して、二度としませんと誓えば退学だけは許してやる」みたいな事を言われたが、私は拒否して帰ってきてしまった。お陰様で、その後間もなく退学になった。学生運動の渦中で、私はマルクスエンゲルスレーニントロツキーなどの著書を夢中になって読んだ。中でも、以後の私の生き方に決定的な影響を与えたのはトロツキーだった。トロツキーの思想や理論に共鳴したことは言うまでもないが、私はより以上にトロツキーの生き方に共感・共鳴した。一九二〇年代末~三〇年代にかけて、十月革命を担ったかつての同志達が、保身の為に次々とスターリンに降伏していく中で、トロツキーは敢然とスターリンに闘いを挑んだ。トロツキーは一九二九年に国外追放になり、一九四〇年にスターリンの放った暗殺者に、頭にピッケルを打込まれてその生涯を閉じた。私はとてもトロツキーのようには生きられないと思ったが、トロツキーのように生きたいという志だけは持ち続けたいと思った。

安保闘争が終って三年もたったころ、一人また一人と運動から去って行った。私は数少なくなった仲間と共に運動に踏み止まり、現在も社会主義を目指す文筆活動を続けている。

私事について長々と述べてきたのは、他でもない、由美の人格形成に私の生き方や考え方が色濃く投影しているように思われるからだ。日記に、「作家としての魂を売り渡して、つまらねー漫画描くくらいならバイトしながら好きな漫画描く」「素敵な大人(実は他人を踏み台にして知らん顔してる奴)より、傷だらけになって頑張ってる硬派の方が私は好きだぜ!」と書かれているのを見た時、とりわけその感を深くした。

私は、親父に価値観・人生観を押し付けられて育ち苦しい思いをしたので、自分の子供達は自由にのびのびと育てたいと考えてきた。しかし、日記を読んだ時、私もまた自分の暑苦しくてくっさい「前向き」の価値観を知らず知らずの内に子供達に押し付けてプレッシャーをかけてきたことを知って愕然とした。由美が日記に書いている通り私は偽善者だったと思う。

親父とのこと、学生運動のことなど自分の若かりし頃のことを、私はただ一度だけ真紀に話した。高校時代、学校の宿題で父親について書くことになった時のことだった。子供は親の背中を見て育つと言う。子供は親の日頃の言動ばかりでなく、人生観や価値観から実際の生き方まで、いわば親の全人格を見て自分の人格を築いていく。私は親父の価値観や生き方を反面教師として自分の人格を形成してきた。反対に由美は、多くの部分で批判や反発もあったが、コアの部分では、私の生き方や価値観の影響を受け、それを取り込んで自分の人格を形成していったように思える。そうであればこそ逆に、由美から見て、常に前向きに硬派として生きてきた私の存在が、「自然体」で生きようとする由美にとって、大きなプレッシャーになったのだと思う。これは確かに、親の意思でそうしたわけではないので、どうにもならない事なのだ。しかし、どうにもならない事であるだけに、あの時あんなこと言わなければ良かった、またあの時、何故もっと真剣に由美の話を聞いてやれなかったのか、という数多くの悔悟の念と重なり、私の気持ちを一層重苦しくする。

大小二十冊余りのノートに書かれた膨大な分量に及ぶ日記を読了した時、私は改めて、由美・山田花子の、人間としての、また表現者としての凄まじい生き方と自分自身に対する厳格さに驚嘆した。私は由美に比べれば遥かに不純だった。幾度も妥協したし、自分をごまかしもした。それでも、私は自分に寛大なので葛藤にならなかった。反対に由美の場合、余りに純粋で、余りに自分に厳格であり過ぎた為に、妥協したり自分をごまかすことができず、より正確に言うならば、一旦は妥協したり、ごまかそうとした自分が情けなくなり、葛藤が生じて苦しみ続けていた。

ヤングマガジン』『ガロ』『リイドコミック』など、生前、私は山田花子の作品を可能な限り入手して読んでいた。山田花子の作品を読むことは私の最大の楽しみの一つだった。しかし、当時の私には、山田花子の作品が持つ深刻きや本当の面白さが分かっていなかった。ただ漠然と「自分の体験を描いているんだ。この娘は苛めで負ったトラウマを一生引きずって行くのかな」などと思っていた。『ガロ』九十年九月号から連載され始めた「オタンチン・シリーズ」に主人公(作者)マサエの他にもう一人、作者の分身と思われる事態の冷静な観察者としての「山本さん」が登場する。楽天家の私は当時、「由美も少しは自分を突き放して客観的に観察することができるようになったのかな」などと考えていくらか安心していたものだった。しかし、由美の死後、遺品の中から出てきた「ノゾミカナエタマエ」という作品を読んだ時、もしかしたら「山本さん」の登場は、山田花子の精神生活上もっと深刻な意味を持っているのではないかという疑問を抱くようになった。

九三年夏~秋に、芸術家としての山田花子に深い関心を抱かれた香川医大精神科の石川教授が我が家を訪れた時、私はかねてからの疑問をぶつけてみた。教授はおおむね以下のような話をして下さった。

普通、作家は自分自身の冷静な部分を作中人物として登場させるようなことはしません。作家はそれを自分自身の内面に確保しておいて描くからです。山田さんが自分自身の冷静な部分を、作中人物として登場させたということは、当時自分自身で精神のバランスを維持することが極めて困難になっていたということを意味します。つまり、作中に自分自身の冷静な部分を具象化することによって、辛うじて精神のバランスを維持していたと言えます。

しかし、この段階では、ほとんどの精神科医は「病気」とは診断しないでしょう。この段階では有効な治療方法がありません。薬を与えますと、かえって発病を早めてしまいます。もし、どうしても発病を阻止しようとするならば、自分自身に関心を向けさせないこと、自分自身のことを描かせないようにするしかありません。しかし、そうしますと、その人の芸術家としての才能を殺してしまうことになります。ここに精神科医としての私と芸術愛好家としての私のジレンマがあります。

芸術家は、特に自分自身のことをそのまま作品にするタイプの芸術家は、「正常」と「異常」との間にいるような時に、もの凄い創造的なエネルギーを発揮して、常人では到底できないような素晴らしい作品を生み出すことがあります。山田さんの場合がそうです。自分自身のことをそのまま作品に描く芸術家は、たいてい最後には心の病になります。これは悲しいことですが事実なのです…

山田花子は九一年五月ごろ、『ヤングチャンピオン』誌に「ノゾミカナエタマエ」と題する作品を連載していた。主人公(作者)山田花吉が我儘女のセックス奴隷になり下がり、遂には自分自身のもう一つの分身として作中に登場する“プライド”に見放されてしまうというストーリーの作品である。

山田花子はまた九一年十二月に、『アライビー』九二年二月号に掲載する予定の「新智恵子抄」と題するコラム原稿を書き残している。この作品では、近所の主婦の噂話という形をとって、同じ団地に越してきた若妻が追い詰められて発狂し、精神病院に入院してしまうまでの過程が淡々と語られている。この作品のコンセプトを指示する紙片に「自分自身の現実の姿を他者の視点で徹底的に客観視して描く」と記されていた。

山田花子は、プロデビューして以来一貫して、自己の内面の葛藤と苦悩を、作中人物に託して描き続けて来た。山田花子は最後の一年余り、「正気」と「狂気」の狭間をさまよいながら、創作活動を続けていたのであろうか?

嘆きの天使」「ファントム・オブ・パラダイス」「忘れられた人々」「エル」「マルチプル・マニアックス」「ポリエステル」等々、私は由美が見ていた映画を片っ端からみた。蛭子能収丸尾末広根本敬山野一など諸先生の作品も読んだ。中でも「四丁目の夕日」は凄い作品だった。ジョン・ウォーターズ山野一の素晴らしいところは、山田花子の言う「常識の嘘」を徹底的に暴き出し木っ端微塵に粉砕してしまうところだ。見ていて爽快な気分になる。

(月刊『ガロ』1986年6月号より山野一『四丁目の夕日』扉)

由美と私は元々趣味の周波数が近かった。由美や真紀が子供の頃、赤塚不二夫水木しげる小林よしのり日野日出志などの漫画を一緒になって読んでいた。映画も好きだった。主流はフィルム・ノワールロジャー・コーマン系のB級ホラー。しかし、私は漫画や映画を単なる「娯楽」としてしか見ていなかった。私が怖くて見ることができなかった、人間存在の真実に迫る芸術作品に引き合わせてくれたのは、由美・山田花子だった。

最近読んだ本では根本敬『因果鉄道の旅』が素晴らしかった。私にはこの本に出てくる内田という男の話が格別面白かった。内田が「実際にやっている事」と「自分がやっていると思っている事」の落差の大きさから笑いがこみあげてくる。根本氏の凄いところは、内田に「お前もうやめろよ」とかおためごかしの忠告などせずに「情報」を集めて、内田の思考回路や行動パターンを冷静冷徹に観察しているところだ。たぶん、根本氏は、この「とんでもない奴」を冷静冷徹に観察することによって、人間存在の真の姿を、人間の冷酷残酷さ、業の深さを見極めようとしていたのだと思う。

人間は自己の様々な欲望を充足する為に、他者を踏みにじり収奪する。また人間はエゴや保身の為に他者を差別し抑圧する。意識的であるか、無意識的であるか、また、犯罪にまで走るか、合法の枠内に踏み止まっているかは別として、これは誰もがやっていることなのだ。動植物など他の生命体を破壊することなしに生きていけない人間は、本来的に残酷で、“業”の深い生き物なのかも知れない。

根本氏の観察の対象が主に他者であったのに対して、山田花子の観察の対象は自分自身だった山田花子は自分を苦しめるいじめっ子を軽蔑していた。しかし、彼等を軽蔑することで、実際には、彼等にどーしてもかなわない自分自身のふがいなさをごまかしている事に気付いて一層惨めになり苦悶した。山田花子はまた、いじめっ子同様、自分自身の内面にも、冷酷さ、残酷さ、差別意識等がある事に気付いて苦しんでいた。山田花子が「自分自身の内面にある冷酷さ、残酷さ、差別意識」と言う場合、それは第三者からみれば、ほんのちょっとしたエゴ、保身、意地悪程度のものであった。しかし、繊細でナイーブな山田花子にとっては、それが耐え難い苦痛になり、激しい内面の葛藤の源になった。山田花子ほど厳格且つ深刻に自分自身の業の深さを見詰めて、それをそのまま作品化してきた作家はそう多くはないだろう。山田花子はやはり、特殊漫画家―真の芸術家だったと思う

山田花子がプロの漫画家として活動した期間は、僅か四年余りの短いものであった。この間に山田花子は、多くの方々―漫画家、ミュージシャン、イラストレイターなど様々な分野の芸術家や編集者、読者の皆さん―と出会い、何らかの形で交流を持った。これらの方々にとって、山田花子と関わりのあった期間は、長い人生に比べれば、ほんの瞬きする間ほどの短いものだった。にもかかわらず、山田花子の作品とその死は、何故か多くの人々に強烈なインパクトを与えた。生前山田花子と親しくお付き合い頂いた方はもちろんのこと、ほんの一~二度しか会ったことのない方や、恐らくただの一度も会ったことのない読者の方々までもが、真心のこもった追悼文を寄せて下さった。

山田花子は、ジーコ内山さんのライブに行った時に配られたアンケート用紙に「人生一回きりなんだから、どんどん好きなことやった方がいいですよ」と書いたという。山田花子は、妹と一緒にバンドを組んでライブハウスに出演した。演劇もやった。同人誌を作り、エッセイを書き、イラストも描いた。そして何よりも漫画を描いて、数は少なくても、どんな有名漫画家でも出会えなかったような熱烈な支持者、読者に巡り会えた。また、根本さん、蛭子さん、井口さん、知久さん、友沢さん、みぎわさん等を初めとする多くの素晴らしい芸術家の方々と出会い親しくお付き合い頂いた。一見すると、由美・山田花子は全くの絶望のドン底で自ら命を絶ったように見える。しかし、私には深い絶望感と共に、「やりたいことは一通りやった。この先生きていても辛いことばかり。もう終わりにしたい」というような諦めの気持ちも入り混ざったささやかな満足感もあったように思えるのだ。前日までの悲し気で苦し気な表情とうって変わって、その死顔は静かに眠っているかのように穏やかであった。


一九九四年二月末 父記す


佐山哲郎インタビュー『コクリコ坂から』原作者初告白「ポルノ小説家から住職になるまで」

公開後3日間で45万人を動員したジブリの新作『コクリコ坂なら』(宮崎吾朗監督)。原作を書いた佐山哲郎さん(63)は、現在は寺の住職、かつてはなんとポルノ小説も書いたという、波乱に富んだ経歴の持たち主なのだ。

映画は1980年に『なかよし』に連載された少女マンガのアニメ化。佐山氏が当時を振り返る。

初回が新年号の巻頭カラーでした。作画の高橋千鶴さんを売り出そうと、編集部が力を入れた作品だったんです

しかし連載6回目までいったとき、あと2回で打ち切りと決まった。

映画の脚本を手がけた宮崎駿氏は、原作について、〈不発に終った作品〉〈結果的に失敗作に終った〉と厳しい評価を下しているが、佐山さんは、「大長編にするつもりで伏線を張るだけ張って、これから面白くなるところだったのに……」と苦笑する。

佐山さんは1948年、東京に生まれ、67年に都立大人文学部へ進んだ。「学生運動と麻雀ばかりしてました。学内バリケードで火炎瓶の投げ方を教えたり、麻雀は生計を立てられるほどの腕前になった

四年間在籍したのち、大学は中退。小さな広告代理店に勤めていた、あるとき。旧知の編集者から、「老大家が書いた少女漫画の原作あまりに古めかしいのリライトしてほしい」と頼まれた。二晩徹夜したその仕事のギャラは、もらっていた月給の三倍だった。これを機に、佐山さんはサラリーマンを辞め、少女マンガの原作者になったという。

 

名著『性生活のワル知恵』

コクリコとは、フランス語でひなげしのこと。

タイトルをつけるのだけは上手いんですよ(笑)。少女マンガの原作は、ホラーやサスペンスものを中心に20本ほどやりました。『タランチュラのくちづけ』というのもあった。男装してアマゾン奥地の探検隊に加わった少女が、実は毒グモの末裔で……というお話。少女の心理なんて書けないから、ストーリーで引っ張り回すだけ(笑)

その後、誘われて群雄社という新しい出版社の編集長になった。当時作った本を挙げると、『性生活のワル知恵』は、著者・山本晋也、挿絵・黒鉄ヒロシ、帯は吉行淳之介という豪華な顔ぶれ。その内容は、

SMを利用してダイエットする、メチャクチャな本でした(笑)

色単~現代色単語辞典』は、ポルノ小説に出てくる“色ごと用語”を数千も集めて分類。05年に復刊された“隠れた名作”だ。

 “編集家”の竹熊健太郎君が、持ち込んできた企画。擬音も入れることにしたら、あるページには『ヌルヌル』『ネチョネチョ』みたいな項目ばかりに(笑)

その後、二、三のペンネームを使い分けてポルノ小説を書いた時期もあった。しかしこの仕事は、

向いてなかった。根っからエッチじゃないと、あれは書き続けられません

その頃には、生家である台東区根岸の浄土宗西念寺に戻って、すでに住職の仕事を始めていた。原作者から見た映画の感想は、

設定が1963年に変わっていますが、ちょうど僕自身が、登場人物と同じ高校生だった時代。当時の風俗が細かく描かれていて、感動しました。試写会のとき、作画の高橋千鶴さんは隣で泣いていましたね

多才ぶりはいまも変わらない佐山氏。六月には『童謡・唱歌がなくなる日』(主婦の友新書)という著書を出したばかり。最新の句集も近々刊行されるという。

(初出『週刊文春』2011年8月4日号)

【蔵出】幻の『色単』について: たけくまメモ

ロックバンドがフジを電波ジャック 生番組の怖さまざまざ

ロックバンドがフジを電波ジャック 生番組の怖さまざまざ

 

フジ系の生番組「ヒットスタジオR&N」で十三日深夜、タイマーズというロックバンドが、二曲目に突然、―FM東京腐ったラジオ、最低のラジオ……などと、わいせつな言葉を交えながら歌った。

このバンドは、正体不明というふれ込みの四人組だが、実は中心人物がRCサクセション忌野清志郎。彼は昨年、反原発の思いを一部に込めたアルバム「カバーズ」を発表、これが一時発売中止となって話題を集めた。その時、FM東京原発問題を扱った曲の放送を自粛した。

加えて、忌野が別のバンドのために詞を書き、九月に出た「谷間のうた」が、FM東京FM仙台で放送自粛の憂き目に遭っている。この曲は、思わせぶりな表現が続くものの、コードに触れるような言葉はない。それで、―何でもかんでも放送中止さ、という怒りにつながったようだ。

この“抗議行動”を、よくぞやったと評価したり、面白がったりする人もいるだろう。だが、電波ジャックをしての特定局の中傷は、少なくとも公平ではない。また、アルバム発売を来月に控えているだけに、宣伝、話題作りと勘ぐられても仕方がない。

フジの幹部は「リハーサルをやりながら、このような発言が出たことは遺憾」と言い、FM東京に陳謝した。今回の出来事は、深夜を中心に増えている生番組の怖さの一例。(ま)

 

読売新聞 東京夕刊 1989.10.19 芸能  13頁

フジの『ヒットスタジオR&N』(89年10月13日放送)にタイマーズが生出演して起こした”あの騒動”は読売新聞の芸能面にも載っていた。

が、結局のところ「やりすぎではないか」という見せかけだけの正論に終始した、実にくだらない内容だった。ていうかゼリーの正体を忌野清志郎ってバラすなよ(笑)そもそも「深夜を中心に増えている生番組の怖さ」とは何なんだ(笑)もっともらしく語っている感じが鼻についてしょうがない卑怯なやり口の記事だった(了)

 

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ロリータ順子インタビュー「私が何で一部で支持されたかっていうと、白痴性とロリータ性とヴァージニティ、その3つだと思うの」

ロリータ順子インタビュー

ロリータ順子(本名・篠崎順子)

1962年(昭和37年)3月11日生まれ。A型。ニューウェーブ雑誌『HEAVEN』『月光』にエッセイ等を執筆した他、バンド「だめなあたし」「タコ」で山崎春美町田町蔵らと共にボーカルとして活躍し、戸川純とも交友を持っていた。持ち曲にタコの「嘔吐中枢は世界の源」がある。1987年(昭和62年)7月1日、夏風邪をこじらせ、咽喉に嘔吐物を詰まらせて永眠。享年25。

創作活動

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タコの時、私が何で一部で支持されたかっていうと、白痴性とロリータ性とヴァージニティ、その3つだと思うの。自分の中で創作活動をしてる意識って全く無かったから。自分はアーティストではないと…。音に走るよりは活字の人だから、まあそれをやりたいなと。じゃあ何をすべきかっていうと、活字を好きっていうのは単に活字中毒っていうのもあるんだけれど、活字を信用してるっていうのは全然無くて。創作活動って常に新陳代謝していないと、自分の中におりかたまっていくようでそれが気になって。

 

ロリータ順子のイメージ

山塚アイさんと同じ待遇を受けてると思ったわ。Phewみたいに伝説になってて、復活したというだけで、みんなに「あーっ」と言われるのと、私が復活して「あのバカ何やってんだ」と言われるのじゃホント差があるからね。イメージが先行してるから、ホントやりにくいと思う。例えば山塚アイさんとやるという具体的なプランがあったとしても、そういうジャンルでは意味が無いと思うの。商品鮮度が落ちてて。何でかっていうと、女の子ってヌードだし、売春婦でしょ。そういう意味で自分にはそういうものが全く失せていると…。

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(19才のロリータ順子)

 

ケンカ

(町田)町蔵が流血沙汰起こすっていうようなイメージが、相当浸透してることに驚いたんだけど。実際活動してて、あの人は他人から殴りかかられても殴りかえさないし、争わないし、自分からケンカ売るようなことも全くしないのよね。だけど最初に「イヌ」を出した時点で、攻撃性=パンクで、テロリズムっていうのがみんなの中に成立しちゃってて、イメージがどんどんて先行して損してるのね。そこへいくと山崎(春美)はずるかしこくて。山崎がケンカ売るだけ売って、あとはひっこむから、自分が殴られる前に。いつも町蔵は「あーやめーな」とか言ってる内に殴られる。

私は争いはいや!個人個人が自分の中で超越したのをもっていると、他人はどうでもよくなるのよね。そういうのってすごいコワイ世界だと思う。だからノータッチでいたいし、争いは嫌だし。

 

深みにはまると愛情って死に向かうところがあるてしょう。だから、「心中しよう」とは殆どの人に言われたんだけど。さすがに今はセーブしているんですけど。愛憎裏腹っていうけれど、例えば男の人とつきあっててよく「母性的だね」って言われるのね。でもそれは、人間の母親が赤ちゃんを抱いて可愛がるというようなものではなくて、「あーどうしよう、この子だめになっちゃうわ」と思ったら食べちゃうような。私はいつもお母さん役と子供役両方やっちゃうから。それに女を加えると、女って娼婦でもあり、妹でも姉でもあるから。だから1人で5役演じなきゃならない。

私、「男を殺す」とか悪口言われるけれど、それはすごく悲しいのね。相手とつきあっている時に、私の中のエナジーを「あー吸い取られてるな」って思うのね。こっちも吸い取ってるけど。吸い取る量がすごく多い気がするのね。

 

男たらし

マイナー業界の女の人達がねぇ、私の一番嫌いなことが何かっていうと、イメージでね、私は知らなかったんだけれど、「男たらし」だって言われた。それが悲しいです。私は「男たらし」になれないから、自分の中のストイックな面を保とうとしている方向にあるのに、みんな違うベクトルに解釈してる気がする。

ミニコミ誌『ラフレシア』より/1986年

 

娼婦は処女、非処女に関係なく女であるということですべからく娼女であり、それは或る意味でグロテスクな迄に美しい」(『娼婦と少女と―売春考』)

(ロリータ順子と戸川純

 

自殺未遂ライブ(1982年9月1日)

山崎春美(痙攣自傷、出刃包丁)

ロリータ順子(ヴォーカル)

篠田昌已細川周平向島ゆり子(伴奏)


www.dailymotion.com

 

 

TACO/ガセネタ

1983年夏に行われたタコのライブ

 

山崎春美&雑誌『HEAVEN』が主宰していた伝説のコンサート「天国注射の昼(Live at 日比谷野音 1983.08.21 / 09.17)

 

浜野純インタビュー「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」

伝説かガセネタか

浜野純──You are so foolish man,my friend.

文=中山義雄(音楽評論家)

(“ガセネタ”たった一度のチラシ)

 

伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか

浜野純というのは、逢った当時から、物事を達観したようでいて、自嘲的な、とにかく独特の物の言い方をする人間だった。

それはいまも変わらない。

アングラってさ、伝説になりやすいんだよ

“伝説”はいまも口から口へと木霊(こだま)している。

ラウドで、凶悪なエレクトリック・ギターは都市空間の物怪だろうし、浜野純は、憑かれていたし、走っていたし、血を流していた。彼はいまも鬼っ子として座敷にでも幽閉されていたほうがいいような風情は多分にある。浜野純は違いの解る奇形児であり、大人になれなかった神童として、わたしの青春に登場した。

浜野がギタリストとして在籍した、ガセネタの伝説は、山口冨士夫ラリーズに求められている肉体の軋みをそのまま音像化したようなロックという日本のロック永遠の課題の模範解答だったというもので、その推定30人の目撃者の内訳の関係者含有率ではないかと思う。活動時期も、東京ロッカーズが始動したのと同時期のロック過渡期だったし、東京ロッカーズとアヴァン・ギャルド隣接するような場所で活動していたのだった。

見取り図のうえではそうかもしれないけど、現実には吉祥寺のマイナーくらいしか演奏できる場所はなかったという情ない事情もあってね。実際、東京ロッカーズ観たときは、単純に上手いな、と思った。これは大事なポイントでさ、要するに、アレはパンクじゃなくて、ハード・ロックとか演っていた人たちが、新しいロックに飛びついたんであって、ぼくらみたいにムチャクチャやってたわけじゃないわけですよ。それに東京ロッカーズ聴いて、ギターの音を厚くしたくなったけど、どうすればいいか解らなかった(笑)。でも、音の本質的な激しさとディレイとか使った厚みや激しさは違うものだからね。ラリーズにしても、エコー・マシーン使う前のほうが断然良かった。久保田麻琴が出たり、入ったりしてた時期だけど

 

浜野はそうとう早熟なロック・マニアだったのである。わたしが浜野と出逢ったのは、江古田の掘越学園こと、日本大学芸術学部の入学式でのことだった。

マニアなら必ず通る、中古盤屋、トニー・レコードの袋を持って、入学式に臨んでいる不思議な男(シド・バレットの目をしたブースカを想像してください)がいたので、わたしが声をかけたというのが、真相だ。お互いホーリー・モーダル・ラウンダーズが好きだったので、意気投合し、彼は「俺はベース弾きで、不二家のペコちゃんの袋にモズライトのベースを入れている。君はギターを弾くのか? 昔、一緒に演っていたドラマーに逢いに行こう。バンドの名前は……

そういうと浜野はくしゃくしゃになった紙に“コクヨ”と書いたのだった。

いま思えば、ここまではローリング・ストーンズと同じだったな(苦笑)。

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シド・バレットの目をしたブースカ

1981年当時、本人曰く“生傷が耐えなかった”という凶暴なギター、と灰野敬二の不失者で、“福生のライヴ・ハウスの壁をくずした”大音響のベースで、浜野は伝説だったのだ(東長崎の安アパートで、出入り禁止になったような類の話をタイニー・ティムをかけながら自嘲的に話してくれたというわけだが)。

派手に暴れたくても演奏する場所も、技術もない──結構、気味悪がられていた。日芸の頃の中山みたいなもんだな(笑)。それに、ピストルズやパンクを意識したことってなくて、中山は知ってるだろうけど、わたしは泣きのバラードというか、普通の音楽が好きなわけで、ドニー・フリッツとか、スプナー・オールドハム、ロニー・レインやヘロンとか。高校の頃は、ブラックホークに入って、レコード係を恫喝して『トラウト・マスク・レプリカ』とかかけさせていたけど、まあ、若気の至りです(笑)。中学の頃に灰野(敬二)さんと遊びでやっていたセッションは、モロにビーフハート風だったけど。大学で逢った頃、最低ビーフハートくらいは出来ないと駄目だ、とかいったけど、あれはハッタリです

連続射殺魔のHPにこう書かれていた。

浜野純は、俺と同じ中学(世田谷区松沢中学校)の一学年下である。彼はいつも構想について色々語ってはいるのだが、実際に曲を作って持ってきたことは一度もない。いかにして才能があるかと思われる振る舞いに、全存在をかけているようであった。

中学/高校時代の浜野と大学時代の浜野の違いは、“いかに才能がないように思われるかという振るまいに、全存在を賭けていた”ことになるだろうか。

その変化がガセネタと不失者の活動にあるのだろうと思う。確かに、わたしの知っている浜野は、大瀧詠一の「みだれ髪」やあがた森魚の「リラのホテル」が好きな男だった。

削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ

これもウェッブで拾った浜野の言葉。やっぱりオマエは激しい奴だよ。

 

ガセネタ『Sooner or Later』(1993)

録音:1978年春 明治大学和泉校舎 学生会館1F仮設スタジオ

間章氏が推薦の辞を寄せているからというわけではないが、ガセネタの音楽にはロックやパンクよりもむしろ、フリー・ジャズ的な混沌が刻まれているように感じる。いちばん近いのは、やはりオーネット・コールマンだろうか。和声進行をはじめ既成のジャズの様式を解体したことで知られるオーネットだが、彼の音楽はまた、自らの内面に迸る情動を絞り出すようにして爆発させた、“ブルース”でもあった。息が詰まるほど濃密な想念が、知らぬ間に既成の様式を追い越し、最終的には徹底した解体に向かわせる。そんな過程は、本作にも確実に見て取れる。スタイルだけ取り出してみれば、3コードに8ビートというきわめてオーソドックスなパンクだが、実体を持たない個人の過剰な想いが、空気の振動となって確実に聴き手に伝わってくる。(土佐有明

 

(ガセネタのレパートリーは「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」のたった4曲しかなかった

 

ブルース・インターアクションズ

『ロック画報 08』(2002年)より

高杉弾の昭和ポルノ史~印刷ポルノの黄金時代 自販機本から裏本まで~

以下の文章は伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長の高杉弾自販機本からビニ本、アダルトビデオまでの“ポルノ黄金期”を3時間に渡って語り下ろした講演録の抜粋です講演の全内容は『霊的衝動 100万人のポルノ』朝日出版社・絶版/入手困難)として85年に書籍化されているので、お求めは古書店でどうぞ

貧しい僕らの性生活、そしてポルノ

まずは女の子の登場

フェラチオでね、しゃぶられるフェラチオって当たり前でしょう。汚なくも何ともないんだけど、それをほっぺたにすりつけたり、瞼にすりつけたりした女がいたわけ。これはいやらしい。で、硬くなる。興奮するよね。

それはやっぱり相手との関係性を如実にしていきたいっていうのがあるから気持ちいいんだよね。

あるいは女の子がおちんちんを入れてもいい場所って規定してるのが、ある女の子は穴だけだったりして、もう一歩進むと口もいいって、でも、まだ口じゃ終りじゃないよって。肛門(けつ)もいいわっていう女の子がいて、そこらじゅうにすりつけてほしいっていう女の子がいるっていうのは、やっぱり段階があるでしょう、タブーの程度があって。

風俗営業でさ、マッサージで口内発射っていうのがずっと常識だったんだけど、そろそろ顔面発射っていうのが出てきてるからね。とりあえずどこに出してもいいみたいな、おまんこ以外ならどこを狙ってもいいっていうのがあるしね。鼻の穴に出したい人は鼻の穴。

えらいと思うんだね。裏ビデオに精液すりつけてる子なんか出てくると。ああいうふうに女が自主的に自分の感覚で動いたりしてるようなのが面白いのね。言われた通りしかやんないモデルはダメだね。これはセックスに関しては女は甘えてるものね。一方的にやってもらうだけでいいんだって。いまの女子大生、腰振んないもんね。いや、振る子と振んない子が極端。でも、あれはその子の発想とか、社会との関わり方とだいぶ関係あるみたいだな。

一つには、すごく可愛い顔して、上流階級の子供みたいな顔してる女子大生が、どんな助平なことでもするっていう幻想があるけど、ほんと幻想じゃないかと思うのね。あの子たち、やっぱりそこまで出来ないよね。育ってきた環境、教育とかあるからね、住んでる世界が。あの子たちがあそこにいるっていうことは、その価値につなぎとめられてるわけでしょう。同じ価値がセックスも支えてる。やらないし、とりつくろうね。そういう場面になると、すごくね。

モデルの撮影なんかでもそういうことがあってさ。こっちはこういうの撮りたいなと思うでしょう。そうするとね、そのモデルの反応見てると面白いんだよね。拒否してるんだけど、撮られてもいいなとか思ってるのね。でもやっぱりそういうふうには、文句言わずに撮らしちゃいけないんじゃないかみたいなね、そこで社会が発動するんだね、面白いよ。でもアウトローやっちゃってる女の子って、やっぱり自由だよ。昨日ね、『裏ビデオ通信』(KUKIのビデオソフト)の撮影の時にね、オナニー・シーン撮るんでモデルが来たんだけど、その子が助平でねえ。ぜんぜん言わないことまでするんだよね。それで、撮影だからコマ切れで撮るんだけど、ぜんぜん自分が満足しないって言うんだよね。ほんとにやってほしくなるって言うんだよね。スタッフは「まあまあ」とか言ってさ。やればいいんだよね、あれ。

まず初めに言っとかなくちゃいけないのは、僕はいつだってポルノに対して野次馬的な立場にいるということなんだ。一時、ポルノの現場に接近して実際に出演したこともあったけど、編集者の立場で純然たるポルノ本を作ったことは一度もないからね。外から楽しんでる方が好きなんだよね。

そんなわけで、ポルノグラフィをこよなく愛してるマニアの人にはしかられるような意見をばんばん言っちゃったりして、そのへんは最初にかんべんしといてもらわないといけない。なにしろシロートだから。でも僕ね、ポルノって大好きなんだ。なんだかすごく脳天気な世界でしょ。それにポルノにはいろんな暗号がいっぱいある。

 

高杉弾 霊的衝動 100万人のポルノ

印刷ポルノの黄金時代 自販機本から裏本まで

『Jam』をつくっていた頃の話

僕が知ってるポルノ界というか、業界というのはね、自販機本以降なんです。

『Jam』という雑誌をつくりはじめて、その頃がちょうど自販機本の全盛期だったんです。七九年かな。七八、九年。これは僕が大学途中でやめてブラブラしてた頃ですよね、何にもしないで。原宿でTシャツ屋やったりしてたんだけど、その時たまたまよくゴミ捨て場に、エロ本てまとめて捨ててあるでしょ、引っ越したりなんかしたのか知らないけど。そういうの夜中にパッと見つけてね、わりと僕、ゴミ漁りの趣味あったんでまとめて拾ってきちゃったんです。

ぱらぱら見てたら、どうも書店売りの雑誌ではないということに気づいた。でね、文字が全然ないんだよ。全部写真写真でね。へんだなあと思って。そこにすごくいい写真が一つ載ってたんです。それはね、下半身素肌でパンツはかないでストッキングを直接はいてる、それを前から撮ってある。つまりストッキングの表面がちょうどぼかしみたいな作用になってね、うっすらと見える。そういうのがあってね、それすごくフェチっぽくていい写真だなあと思って、それで翌日電話したんですよ。この写真撮った人に会いたいんだけど、っていう感じで。

それが当時のエルシー企画っていって、それとアリス出版というのが一応その当時の二大エロ本屋だったんだよね。亀和田(武)さんがいたのがアリス出版。

それでね、そこになんか一週間後ぐらいに遊びに行ったんだね。で、行ってみたら何のことはない自販機専門のメーカーだったわけで、その写真を撮ったのがそこの社長だったんだ。これがのちの群雄社、VIPエンタープライズを設立する明石(賢生)という男で、僕が会いに行ったその日のうちに、たまたま八ページつくんなきゃいけないというページがあって、そこをまかされた。行った日というところに業界の体質が出てる。あるいはいちばんの大きな原因としてね、その当時すごく儲かってたんですよ、自販機業界が。儲かってたんだけど、出せば売れちゃうみたいなわりとイージーな状態でもあった。そこでそういうことに甘んじてるよりはもっと新しい人材を入れてって、紙面に新しいものをつくっていこうみたいな意識もあったんだと思うんだ。

でも基本的にはカネがだぶついていた。なんかやりたいわけ、みんなで。そこへたまたま僕らみたいな変なのが行っちゃったんでおもしろがってくれて、取りあえずその八ページをやろうということになったんだけどね。で、俺まったくの素人だから八ページひとりで編集するの大変だから友達を誘ったわけ。そいつと二人でとりあえず八ページつくったのが“Xランド”というタイトルのやつで、これがそのあと『Jam』のコンセプトになってったわけです。

(Xランドは高杉弾隅田川乱一コンビが、商業出版として初めてこしらえた八ページ。内容は独立宣言、架空のヒットチャート、Xインタビュー、ロックアルバム紹介、小説など。『Xマガジン』~『Jam』の原型となった)

それでね、一ヵ月ぐらいあって、それがたしか寒い時だったから暮だったと思うんですけど翌年の一月ぐらいから『X magazine』というのを創刊したんですよ。八ページやったその次に。いま古本屋で五千円ぐらいするらしいけど。

特集ページは例えばドラッグ。つまりエロ本をつくろうみたいな気がないんだよね、もともと。でも流通経路は取次ぎじゃなくて自販機でしょう、つまり器はエロ本なわけで、自販機のエロ本という形態の中でなんかへんなことやらなきゃいけない。少なくとも表紙とか、巻頭巻末のカラーに関してはヌードをやらなきゃいけないわけでね。一応入れてある。で、いきなり的にそこから突然……。買った人おどろくよね。最初からどっかで本作れるチャンスがあったらドラッグ特集をやりたいなと思ってたんだ。









(幻の自販機本『X magazine』より)

それからその頃ちょうど『ポパイ』がすごく人気ある頃で、ポパイの形式にしてるよね。安易にパクッたり、笑気ガスつくったり、もうほとんど遊びでやってんだね。部数は、一万四、五千じゃないですか、せいぜい。売り方として自販機本というのは大体おおよその発売日は決まってるんだけど、はっきりしたもんがない。売れないとすぐ引っ込めちゃう。でね、いわゆる自販機本に二種類あって、文字の入ったやつは実話誌っていうのね。もう一つはグラフ誌という。それは六四ページぐらいで全部カラー、オール四色。グラフ誌は全部ハダカだけど、実話誌として『X magazine』はいろいろと遊んだわけ。例えば、書評のページ。全部架空の本でね、その紹介が。実在しない本の紹介っていうのは、すごく最初からあったアイディアで、いまだにやりたい気が残ってる。スタニスワフ・レムとか、ボルヘスがやってるでしょ、たしか。

やってる時は知らなかったけど。そういう細かいアイディアはたくさんあって、架空のヒット・チャートとかさ。それからケネス・アンガーの紹介とかもやった。そういう前から持ってたアイディアをどんどん入れてやったわけ。基本的に嘘のつけるメディアだということもどんどん利用した。ちょっとなんていうのかな、儲かってる業界ってさ、自由がきくでしょう。何やっても文句言われないんだよね。それで図に乗って毎月出しまくった。結局『Jam』は十何冊か出たね。上いくとあんまり嘘つけないでしょ。

一回目だけが『X magazine』というタイトルで、二号目からがもう『Jam』。創刊号がまず山口百恵のゴミ漁りという大問題企画のあった号でね。どうして名前が変ったかというとね、コードがあるのね、自販機本の中にも。その関係で新雑誌を創刑する形にしなきゃならなかったんで、『X magazine』というタイトルよりもっと、その頃の自販機本のネーミングみたいなのがあって、その時は『スープ』とか、要するにどろっとした雰囲気の。これも追っていくと流行りがあるんですね、『メッセージ』とか。自販機本独特のネーミングっていうのはおもしろいね、考えてみると。

 

(『Jam』創刊号より「芸能人ゴミあさりシリーズ」)

 

ニュー・ウェイブ・エロ




(自販機本では「もう書店では文化は買えない」など編集者によるアジ風の自社広告が、いやがおうにも目を引かされた。ただしアリス出版およびエルシー企画の二社に限っての話)

でね、ポルノグラフィに関しては自販機本独特のポルノグラフィというのがまだ僕の目からははっきり見えなかったのね。ただね、最初のきっかけになったパンティ・ストッキングの写真にしてもそうなんだけど、つまりカメラマンじゃない人が写真撮るわけです、明石なんてのは社長のくせにプロのカメラマンが撮る写真が気に食わなくて、しまいには自分で行って撮っちゃうんだよね。そういう人でね、そういう人の写真のほうがかえっておもしろかったりするの。けっこう素人がやれるメディアだったわけね。というのは自販機本以前の段階があるでしょう。本屋で売ってる猥写真集みたいな、エロ本の流れが。詳しくは知らないんだけど、『奇譚倶楽部』だとか、一つのマニア本の流れと、もう一つグラフ誌のほうのいわゆる三流エロ本みたいなものとの流れがあって、それが自販機本の世界にも残ってたんだよね。

つまりそういうエロ本をつくってたおじさん達が自販機がいま儲かるっていうんで自販機本会社をつくった人もいるし、あるいは全く違うところからきた人もいるし、いわばオールド・ウェーブとニュー・ウェーブが接し合ってた場所なんだね。

オールド・ウェーブってつまりモデルにまず制服を着せるっていうことだよね。代表的なのはセーラー服、それから看護婦、スチュワーデス、OL、そういう感じでね。制服着せて最終的に大股開き。あとは決まりポーズがいくつかあって、いろんな形をさせるとか、バック・スタイルだとか、で、“単発”って呼ばれる、一人のモデルを女の子だけで撮るやつと男がからむやつを“からみ”っていうんだけど、大体その二種類なんだよね。たまにレズ。レズだとモデルが二人いるから高くつく。そういう場合は二、三冊分撮るとかするんだけどね。たいていはグラフ誌用に撮るんだよね。六四ページのグラフ誌をつくるために撮影をして余ったポジを実話誌のほうに流用というかたちで使うことが多い。

そういう制服ものっていうのはやっぱりポルノの伝統であるんだね、これが。末井(昭)さんが書いてた土方が喜ぶかどうか。土方に買ってもらわないといけないわけね、こういうポルノっていうのは。自販機本なんていうのはほんとにそうでさ、工事現場の近くに自動販売機があったりとか、飯場のへんにあったりするわけでしょ。あと貧しい学生。だからいわゆる実用誌なわけだよね。実用誌っていってましたね。オナニーさせるため一本抜けなきゃいけないっていう。

土方をたたせるには制服っていうのがいちばん有効だったんだね。

すごく古い感じの写真と、ものすごくへんな雰囲気を持ったアートっぽいような写真とが一緒の雑誌に載ってたりするわけ。そういう時代に飛び込んでいくのがいちばんおもしろいわけだよね。で、行ってみたらそうだったということなんだけど。

古いほうのポルノっていうのを少し言うと、たとえばモデルの問題なんだけど、モデルをどういうふうに調達するかっていうと、モデルクラブというのがまだいまほど確立されてなくて、あったことはあったんだけどね。大体、スカウトしたり、募集したりするんだよね。会社で広告出して。それ見て全くの素人の人がくるわけ。児童福祉法でいちおう十八歳未満の人は使えないんだけど本人は二十歳(はたち)ですとか十九ですとかって言ってくるんだよね、これが。あとで十六だったりしてパクられちゃったりするんだけどさ。

ところがね、恐しいことにオールド・ウェーブのほうでいうとすごい年のモデルにセーラー服着せて、女子高生ですとかいうわけだよね。やみくもな大股開きとか。そういうのがまかり通ってた世界なわけでしょう、エロ本の世界って。つまりつくる人も読む人もモデル本人も、自分は要するに二十八だとか知ってるくせに、みんながなんか暗黙のうちにそれでもセーラー服っていう世界なわけだよね。

でね、なんか一回あったのはね、モデルがまず二十一だとかって言ってきたんだね。それで見た目はどう見ても二十五ぐらいになってるように見えるんです。だから二十一って言ってるけど嘘だねあれは、とか言ってたわけね。でもまあ、いいやってセーラー服着せて、“十七歳、処女”とかいって写真撮るわけだ。本人は二十一って言って、おれ達は二十五、六だと思ってて、本に出す時には十七だといってる。でもまあ取りあえず本はできる。それがしばらくたって、そのモデルのほんとの年がわかったりしたのね。なんかのきっかけで。実は二十八だった。十も下いっちゃうわけね。

それが恐しいことに、そのへんがすごく自販機というメディアのマジック性だと思うのね。つまりポルノっていうメディアのマジック性なんだろうけど。そんなこんなでいろんな自販機本が一社から出てて、大体平均十誌ぐらい出してたのかな、一社で。アリス出版、エルシー企画とか。まとめて東雑グループっていうんですよ。“トウサツ”って普通言ってたけど。でそこが何社かの製作会社を持ってて、土曜漫画とか。それを全部自分のとこの自販機に入れるわけ。それ全部ひっくるめると東雑グループでは五十何冊か出してるわけだ。グラフ誌、実話誌含めてね。すごくいろんなのがあって、徐々に自販機本のグラフィズム自体が変りつつあったわけ。

そこへ突発的におれ達がいっちゃったもんで、おれ達のほうも少しそういう世界のことを考えて、ちょうどいいようなものをつくればよかったんだけど、いきなりやりたいことをやっちゃったわけだよね。若気のいたりで。向うはびっくりするわけよ。ほかのスタッフ達は。なんでお前らみたいなへんな奴が来るんだみたいな圧力もあるし。でもこっちはお構いなく作っちゃったわけだよね。低予算で。大体、製作費は五十万ぐらいですね、一冊。そんなもんでつくっちゃう。デザイナーのギャラだとかイラストのギャラとかも入れてだよ。

その後八十万ぐらいにはなったんだけど、でもそんなもん。たいして変らない。だからこういうのはデザイン料なんか払ってられないわけですよ。全部自分で線も引く。版下までやっちゃう。

結構いまちゃんと印刷知ってる人っていうのはここの出の人が多いですね。いわゆる普通に出版社に入っちゃった人はわかってないんですよね、版下作業のノウハウを。ここにいた人っていうのは自由にやってるからよく知ってるんですよね。実験がきいちゃったから。ある紙にある色だとどう出るかとか、結構複雑な高等テクニックを知ってる。つまり編集者でもデザイン知らなきゃいけないし、製版のことも知ってなきゃいけないし、印刷、紙、みんな知らなきゃいけないというのあったよね。大きい(大企業出版社)と分業体制になっちゃってるもんだから、デザインは外注、何も外注って、結局編集者っていうのがコーディネーターみたいになっちゃってね。

えーっと、話を戻すと向う(オールド)にとってはある種のへんなカルチャー・ショックだったのかも知れなくて、へんな奴がきたっていう。初めは『Jam』だけつくってたんだけど、そのうちほかの雑誌を手伝ってくれとかって言われて、でも、できないからさ。じゃ、モデルやりますとかいってね、「男役モデル」ってあるでしょ。“からみ”。それの男役をね、僕は十何誌かやったな。編集者、とにかくこの業界ってね、新人の男は全員“からみ役”をやらされるんだよね。

だからたぶんどっかの古本屋探すと僕が出てるよ。自分ではあんまり持ってないけど、どっかへいっちゃった。べつにいまでもやれっていったらやりますよ。ギャラは飯食わしてもらうぐらい。すごく食えなかったからね、女の裸が見れてね、いじれてね、それで飯が食えりゃ、オンの字っていう感じだった。

 

自販機本ワンダーランド

そういう感じでつくってて、その当時もちろん自販機本だけじゃなくて、取次本をやってる会社もあったわけですね。それの代表的なのがセルフ出版(現・白夜書房)。セルフ出版は別会社でグリーン企画っていう会社を持ってて、そこがビニ本をやってたんだよ。ビニ本が登場するのは自販機本後期というか、だからメディアとしてはビニ本のほうが新しいと思う、自販機本より。で、アリス出版がどんどんでかくなってって、結局エルシー企画と競合状態になってきて、同じ東雑傘下の中でね。それである時アリス出版とエルシー企画を合併させようと、両方の力を結集してよりよいものをつくろうとか言い出して、たぶん東雑のほうの人間が言い出したんだと思うけど。それで合併することになったんですね。それで池袋の東口のビルに移って、合併したのちは自販機本の帝王の座に君臨したわけだけれども。

名前はアリス出版という名前でやったんです。合併した頃ちょうど『Jam』から『ヘヴン』に発展しようみたいな話になってて、『ヘヴン』も前半はね、自販機でやった。

それをアリス出版から出してたんです。自販機の中に入れて。

自販機っていうのはまたこれが厄介でね、機械の関係で束(ツカ)が五ミリ以上ないと入らないんだよね。落ちないわけ。ハードの問題がものすごくあるんです。それから版型は天地がB5サイズまで。僕は、A4を入れたかったんだけど無理だったんで、じゃ横を拡げちゃえっていうんでね、AB版にしたんです。とにかく機械がまずある。機械に入んなきゃいけない。束も合わさなきゃいけない。ほんとは違う紙を使いたかったんだよね。欲が出てくる。結局、『ヘヴン』のザラッとした、あの紙になったわけだけど。

その時ロスでロゴは違うけど同んなじ「ヘヴン」ていうシャツが出て、あれは宣伝になったね。

それと自販機の隆盛とエロ劇画の時代というのがすごくダブってる。亀和田さんが片方でエロ劇画を盛り上げていったわけだよね。で、もう一人は高取英という、いま評論家的な仕事している、その人が『エロジェニカ』っていう雑誌をやってて、これは取次だったと思うんだけど、その二人がエロ劇画を支えてたわけだよね。石井隆がまず起爆剤になって、つつみ進清水おさむあがた有為……、みんなが自分の感覚から出発した過激なエロを追求しはじめた。それに、ひさうちみちお平口広美蛭子能収だとかも登場してきた。ま、蛭子さんに関しては『ガロ』に描かなくなっちゃった時期なんで、僕が会いに行って、取りあえず『Jam』に描いて下さいっていってね。『ガロ』に描いてたって食えないでしょ。『ガロ』は原稿料出ないから。漫画家をほぼあきらめてたみたいな状態だったのね。僕は『ガロ』に描いてた蛭子さんが忘れられなくて、自分が雑誌やるようになったら描いてほしいなと思ってたから、すぐ行ってね。

最初はエロは描けないというんだよね。女の裸描けないからっていう理由で。でもね、エロ雑誌だけど、エロの部分は写真でやってますから、漫画は特に意識しないで昔『ガロ』に描いてたようなのでもいいし、好きに描いて下さいって言ったの。それで一回描いてもらって、それからだんだん、カムバックっていうか、描き始めたんだね。

その頃はね、ひさうちみちおだとか平口さんだとかがどんどん出てきてね、それから渡辺和博に関しては、ちょうど『ガロ』の編集を辞めるとか辞めないとかって言ってた時で、じゃ描いて下さいっていって、ロボットの話だとかを描いてくれた。蛭子さんにしろ渡辺さんにしろ『Jam』から描いてくれてたんだ。

 

(『Jam』4号より蛭子能収「不確実性の家族」※再デビュー作)

(『Jam』5号より渡辺和博ハード・キャンディー」)

オールド・ウェーブが伝統的にやってきた古典的なポルノの世界は世界で守りながら、そこに新たになんか違った要因を加えていったり、違ったものとバイブレーションさせていままでなかったポルノができると簡単に思っちゃったんだね。まったく若気のいたりだ。

それで考えたコピーというのがさ、「オナニー&メディテーション」というわけ。一度聞いたら忘れない。これは全くあほらしい、なんとも言いようのないばかばかしさだけど。すごい。つまりすごくはっきり言っちゃったわけだよね。片方で実用書としてのオナニーというのがあればさ、もう一方では読んで楽しめる、オナニーしたあとは頭を使ったり、というようなノリで、メディテーションって大きく言っちゃったわけ。

これはさすがに業界の人にとってはインパクトがあったらしくて、たとえばこういうふうに言うと写真も変ってくるわけよ。たとえばセーラー服を着せて大股開きをさせて、その横に宗教書がうず高く積んであるとか要するに異質なものを入れちゃったわけでしょ。異質なものとの組み合わせでへんな感覚が出てくる。非日常みたいなことにもなっていく。たとえばオフィスの机の上でヌードになってるとか、町なかで、道路で全裸になってるとか、あとスタジオで撮る場合なんかでも全身に包帯巻いちゃうとか。そういうのはなかったからね。あとね、テレビの画面と組み合わせるとかね、ヌードをね。アンドロギュヌスなんかもやった。股間にさ、詰め物をして男の股間にしちゃう。こういうのはなかったわけ、オールド・ウェーブには。あるいは、消しをどうせ入れなきゃいけないんだから、実際に初めから自分の股間にマジック持たせる。マジックインキを自分の股間に当てといて、自分で消しを入れているように。あとここまで局部にマクロレンズを使って五センチとか寄っちゃうような写真はなかったよね、“局部アップ”。毛剃りもね、自販機の半ばごろからじゃないかな、たぶん。最初にやったのは荒木(経惟)さんだとか、末井(昭)さんだとかという説と、自販機の人が最初にやったっていう説とあるけど。毛剃りも新しかったね。

さらにいくと、テレビの上に乗っかったりとかね。それからアメリカン・ポルノ風にごちゃごちゃいろいろ出てくるのとか。乱交風に。そういうのを撮ろうとか言ってたんだけど、でもモデル代がないからブスしか雇えないとかね。

要するにいままでのカメラマンがやらなかったようなへんなことを写真でいろいろやってみたわけ。女体を物体化して。たまたま僕達のスタッフにフェチの強いやつが多かったからだんだん顔がなくなっていくんだよね、写真の中から。まず顔切っちゃう。顔出るとそのモデルの人格の部分が出てくるでしょ。性格とか。まず顔切っちゃったりする。

そういうフェチっぽい写真というのもあんまりなかったみたいね。それまでの自販機には。だからある種の実験場だったと思うんだよね。自動販売機というのはね。ポルノグラフィズムの実験場。デザイナーだって相当楽しんでいろんなことやっていたしね。羽良多平吉さんなんていうのは『ヘヴン』のメイン・デザイナーだったんだけど、あの人は『ヘヴン』でもって製版のいろんな遊びを、実験をいっぱいやってたね。こっちも好き勝手にやっていいって言ってたわけだからね。ところが泣くのは製版屋さんね。製版屋さんはさ、ヌード写真をそのまま印刷するだけのことをやってたのが、突然わけのわからない指定をしてくるデザイナーに会っちゃったわけだよね。なんでこんなエロ本でこんなややこしい指定するんですかってね、怒ってたね。ほんとに怒ってた。楽して稼ぎたいのにね。









(自販機本のニューウェーブ『HEAVEN』)

そのかわり製版代はものすごく高くついたんだよね、『ヘヴン』の表紙とかに関しては。ところがギャラはすごく安かったけどね。羽良多さんに払う分は。

だけどみんな楽しんでやってたと思うんだね、いろんなことをさ。儲かってたからできたことなんだけど。

ところがビニ本にだんだん移行してって自販機業界がだめになったわけだよね。ほんとに潰れる寸前になったけどね、自販機会社はどんどん潰れたり、かつて黄金期を誇ったアリス出版がほんとに潰れる寸前になったけどね、いまは。

あと言っとかないといけないのは、肝心なことでどうして『ヘヴン』がなくなっちゃったかという話になるんだけど、例のアリスとエルシーの合併のあとにエルシー企画の社長だった、合併したあとはアリス出版の副社長なんだけど、明石賢生が独立したんだよね。独立して高田馬場群雄社出版というのをつくったわけ。で、僕達は明石に世話になっていたから、『ヘヴン』を持ってついてっちゃったわけ、群雄社のほうに。群雄社出版発行『ヘヴン』になったわけね。

明石というのは『ヘヴン』はどう考えても自販機で売るような雑誌じゃないから、のちのちは取次を通してちゃんとした形で書店売りをしようと考えてくれていたんで、僕らの方でもそのほうがやりやすいなと思って、取次に持ってったりもしたわけね。

ところが群雄社としてはもう自販機本ではカネが入ってこないわけだからなんか違うことでカネ稼がなきゃいけないんだよね。それで明石が、その頃徐々に出てきたビニ本をつくり始めたわけ。群雄社っていうのはビニ本をメインにやってく会社で、『ヘヴン』は将来の取次用にとっとこうという感じになっていた。

ところがそうこうしてるうちに、明石がビニ本でパクられちゃったんだよね。一斉取締りみたいなのが何度もあって。要するに社会的に相当問題になってる時期だったから。一回、締めつけがきつい時があったしね。社長がパクられちゃってどうしようもなくなって、『ヘヴン』というのももともとそんなに売れる雑誌じゃないから、一万部いくかいかないかで。第一その頃は直販をメインにやってたしね。アリスやめちゃったから自販機には入れられないわけ。アリス時代も直販と平行だったんだけど、群雄社になってからは直販だけ。でも紀伊國屋なんかでは一ヶ月に二百近く売ったこともあったよ確か。まあ知れてるけどね。それで結局、『ヘヴン』はやめようということになったわけ。それで終った。

 

ビニ本の時代へ

自販機時代とビニ本というのはダブってる。なんとなく交代の感じでしっかり一世風靡ビニ本時代につながる。ビニ本ていうのはいまから考えてみると過渡的なメディアだと思うんだよね。というのは自販機本がいまのポルノグラフィをすごく開拓したわけね。いろんな実験をしたんだよね。つまり儲かってた業界だからさ、へんな実験がいっぱいできたわけだよね。でさ、こんなのもいいんじゃないかって、たとえば“局部アップ”なんていうのは自販機本が開拓したグラフィズムなわけでしょう。で、いまから考えると、つまり裏本が登場する、裏メディアが登場するための過渡的なメディアだったと思うんだね。裏本へのつなぎというか。

“裏メディア”というのは非合法メディアということなんだけどね。僕が考えたの。つまりポルノというのがいままで合法的なもんと完全に非合法なものが並行してきてたわけじゃない。昔から非合法ポルノはあったわけだから。ところが最近はもう境い目がなくなっちゃつたわけだね。つまり裹本を町なかで売ってるわけだから。そのちょうど中間にあったのがビニ本だったわけで、表現的には自販機本の写真なんかよりももっとストレートなんだよね。つまり局部ばっかり撮ってる。最初、けっこうレイアウトも雑誌雑誌してたんだけど、何にもなくなっちゃって、なりふりかまわず。局部の嵐。

消し方も自販機本なんかよりよっぽど雑で、ほとんど消してない状態みたいな、一版しか削らないとか、昔は二版ぐらい、黄版と赤版ぐらい削ったんだけど、一版しか削らないとかね。ほとんど見えるわけだよね。それで問題になって。消し方をもう少し詳しくいうと、四色印刷でしょう。黒版、墨版ていうんだけどさ。墨版、赤版、黄版、藍版。ブラック、マゼンダ、イエロー、シアンね。それで消す時、大体、人間の肌って赤版と黄版が入ってるでしょう。それを削るわけよ。そうすると局部がギザギザになるんだね。黄色くギザギザになったりするでしょ。あれは製版フィルムをカッターで削る。あんまり削りすぎちゃうと見えなくなっちゃうし、あんまり削らないと捕まっちゃうし、板挾みの世界なんだけど。カッター一本の勝負。大体削る役っていうのは編集者、あるいは社長、製版屋あたり。ブローカーに近いような製版屋も多かったからね。

社長がやる時は自分のクビがかかってる。人にやらせる時はもっと消せって。社長はとにかく消せっていう。編集者はさ、そんなに消さないで下さいっていうんだよ。

墨塗りっていうのもあって、墨塗るのは要するに消し忘れで印刷されちゃったような場合にマジックで塗ったり、そういうのもあった。最初から墨を印刷しちゃうというのも勿論あったけど削りのほうが猥褻だからね。隙間から見えるわけだから。

社会問題化してパクられるようなことになったのはその辺の見せ方のエスカレートもあったけど一つは自販機じゃなくて本屋になったというところが問題になりやすかったんじゃないかな。自販機も結構問題になったけど。本屋のほうが規制が強かったでしょう。自販機っていうのは社会問題っていう感じにはならなかったよね、確か。結局一部で売ってる、隔離されたメディアではあったから。

でね、ビニ本に関しては、ビニ本がやったことですごいと思うのはモデルをすごく大量に動員させたんだよね。つまりモデルを掴えることにおいてはビニ本の世界が最高だったんじゃないかと思う。歩いているそのへんの娘をさ、なんとか言って騙くらかしてビニ本に出しちゃうっていう、そういう専門の役目の人もいたし。

モデルやりませんかっていうんだね。歩いている子をね。それでどんなですかっていったら、コマーシャルだとか雑誌のヌード、そういうことを言うんだよね。海外ロケだって行けますよとか。今の子たちテレビ文化に負けちゃってるからね。出たがり女子大生の雰囲気になってきている最初だったんじゃない。

出す方だって可愛いきゃなんでもいいんだし。ほとんどそれだけだし。僕もやつだよ。原宿とか新宿で声かける。喫茶店とか行ってさ、詳しく話して、うちのプロダクションはいろんなの扱ってるから、広告もあれば雑誌もあればヌードもあるし、ヌードがいちばん高いとかなんとか。お金を稼ぎたい場合はヌードがいちばんお金になるし、でもどうしても脱くのやだって子は水着とか言ってさ。なんか独特の口調があるね、あれ。相手をリラックスさせる、安心させる。

女の子によってはすぐお金がほしいみたいな子もいるわけじゃない。あの頃で大体一日のギャラが三万から五万だったから。一日で、五時間拘束とかになるんだけど。それで二、三冊になるね、大体。やっぱりモデルは少ないからさ、それでも。一人のモデルで一日で二冊分撮っちゃう。撮られる子はそのことは知らない。何冊になるか、どういう本になるか。わからないでしょうね。

で、乗ってきた子はさ、じゃ、こんどの日曜日にテスト撮影しましょうとかっていって、それが本番なんだね。現場に行っちゃえば何とかなるっていうのがあるわけ。どっかのラブホテルかなんか取っといて、あと京王プラザとかね。それでどんどん喋りでもって脱がしちゃうわけ。で、どんどん撮って。いまみたいに裏ビデオで本番させるわけじゃないから、全裸である程度のポーズがつけられれば本になっちゃうわけだし。あとビニ本のモデルって名前が三つ四つある。それっていうのは、他社から出す時に名前変えちゃったほうが新鮮な感じがするんだよね。あれ不思議で、買うほうも結構名前嘘だってわかって買ってる。知らない人がいるからだろうけど。

それで名前だけじゃなくてさ、生活も変るわけよ。つまり女子大生だったのが女子高生になったり、OLになったりするわけね。紹介をつけてるのもあったから。この子はどういう子で、みたいな。ひと夏のあの体験の、っていう、詩みたいなのとか。

なんかそういう幻想が必要だったんだよね。ああ、この子はさ、そういう子なんだなあみたいな、ふだんこういう生活してるんだな……で、そういう読者もたぶんそんなのは嘘だってわかってるんだろうけど……。

ともかくビニ本ていうのは書店売りで、しかもビニール・パックされてて、中身を見せないで書店で売る。つまりいままでの本というのはどんな本だって書店にある以上、なか見て買えたわけじゃない。ところがエロ本だから中身見せないでビニールでパックしちゃって、それでも書店で売ろうというのがビニ本なんだよ。芳賀書店なんかはビニ本で儲けたし、新宿歌舞伎町にはビニ本屋がどんどんできたわけだね。それで社会問題になったわけだけど。ところがビニ本もだんだんだんだん変になってきちゃった。ある意味でビニ本はわりと恵まれなかったよね。裏本が出るのが早かったし。でも自販機本みたいな工夫がグラフィズムの面でなかったからね。

いまでもビニ本てあるけど全盛期のビニ本ていうのは単にほとんど透けて見えるだけみたいな世界でしょ。実用書でね。自販機本のよけいな部分全部取り除いて実用書としてのものをつくっちゃったわけだよ。

自販機本の消し方と比較してビニ本の消し方は消さなくてすむように考えてるんだよね。“透けパン”ていう。つまりビニ本のグラフィズムでいちばんすごいのは“透けパン”。つまり見えるか見えないか微妙な透けぐあいをするようなパンティを買ってくるんだよね。筋が見えるみたいな。毛がうっすらと黒く見えるぐらいな。だから“透けパン”に尽きるでしょ、ビニ本は。削りも勿論あったけど、“透けパン”に尽きるね。つまりあのマジックというかさ、もともと刑法百七十五条というのは基準がなかったわけだよね、どこまでがよくてどこまでがだめと。つまり性器が見えちゃいけないけども、性器が透けて見えるのは、じゃどうなのかっていうところがね。

あと“ベール”とか。

それから食い込みぐあいで見せるとかね。しかし局部ばっかりを出しすぎたというか。それが結局はだめで、工夫がなかったから。そこへもってきてこんどはっきり露骨な非合法の裏本が出ちゃったからね。

ただあれだけ多数動員をかけるようになったんだから当然というか人気モデルが出てくるんだよね。寺山久美とか。桂まゆみとか、人気ありますよ、いまだに。ちょうどディスコ・ヴァージョン用というか別テイクみたいな感じのビニ本の「再生本」というのがあるのね、全盛期につくったフィルムをもう一回使うの、いま。三人分のフィルムを三冊に使ったやつをちょっとずつ集めてきてもう一冊つくっちゃう。

とにかくビニ本の場合はモデルでしょうね。あの子がいいとかね。僕もね、詳しく知らないんだよね、モデルに関しては。調べればすぐ判るんだけど。つまりファンがつくのね。そのモデルに。その子が出てるビニ本はみんな持っていたいみたいな。

やっぱり顔がよくないと売れないってのがあるからね。ビニ本全体に顔がどんどんよくなっていくっていうのはあまりに出すぎた結果だろうからね。だけどそうなったらそうなったであんまり激しくやらなくても顔だけで売れるようになっちゃったわけね。顔がよければほとんど見えなくても売れるんだね。

通して見てみると一回過激になって、それで取締りがきて、そのあとしょうがないから顔で売るっていうような感じで、風営法直前は顔が可愛くてなおかついいとこまで見えちゃうというのがあったけど、それでまた新風営法でまた見えなくなっちゃった。

今の時代になるともう状況が全然違うんですよ、昔と。というのは非合法メディアがあまりにも出すぎたわけだから。だからいままでのことっていうのは、いっさい非合法メディアがなかった時代のね。なくはないんだけど表面化してなかった時代の話だからね。

 

ウラ本は誰がつくってる

ここへきてようやく非合法メディアになるわけだ。八一年の秋。

新宿歌舞伎町の歌舞伎書店だとかあるでしょ。ああいうところが一応ビニ本屋だったわけだよね。それで裏に行くと裏本売ってるわけだよね。ドアの向うで。一冊大体一万円。『法隆寺』とかね。『法隆寺』なんかは売れまくったよね。あ、でその頃っていうのはね、僕らは取りあえずエロ業界、さる業界から一回離れてるの。正確にはビニ本全盛期に離れたわけだ。それでフリーのライターみたいになっちゃってたんだけど。その直後に出したのが『プライベート写真術』(二見書房)っていってつまり写真ブームになってきたわけだね。

『アクションカメラ術』のちょっとあとじゃないかなあ。要するに真似した企画だったわけだけどね。それを自販機本とのつながりがあったということもあって書いた。五ヵ月で十版出てるのね。自販機の写真を撮ってた人が写真を半分以上撮ってくれて、つまり自動販売機のエロ写真ぐらいのことなら自分でもできますよっていうことを書いた本なんだよ。

ま、この本のこと言いたいんじゃなくてその時期以降は完全に外側からエロ業界を見物するような立場になったということなんだけど。だから裏本が出始めた頃は完全に野次馬で。歌舞伎町うろうろ歩きまわってそういう書店へ行って裏本見て歩いたりして。

見ためのほうでいうと、これも工夫がないのね。つまり非合法でいままで見られなかったものが見られるようになったんだよということですごくインパクトが強いわけだから、性器を露骨に出しちゃって。それがまあいちばんでしょうね。それからファック・シーンね。当然ポーズとかは変んないわけよ。いままでの消してた部分が消してないだけだから、何の工夫もないんだね、これも。出た当初は人体を使ってやれる限りのことをやってるなんて言われてたけど実際にはそうじゃないと思うんだ。つまりカメラマンの側の工夫がなくて、モデルの側にへんな形をさせたりするぐらいのもんでさ、結局中心になるのはセックスでしょ。セックス行為をどこの方向から撮るのがいちばんいやらしいかっていう工夫しかないんだよね。

むしろ重要なのは非合法のポルノがね、オーバーグラウンドに出てきちゃったってことだよね。一般書店ではないけれども、つまり裏本屋さんができちゃったみたいな。

それはもうちょっと、一、二年経ってから、ビニ本屋さんが陰で裏本売ってたのが、こんど裏ビデオを売り出すわけだよね。そういうふうに変ってきた。

それにしてもとにかく中身に関しては裏本もへんなことをやらなかった。本番シーンをひたすら撮り続けただけなんだ。勿論スカトロとかそんなのもいくらかあったけど、結局はファック場面を角度変えて、ポーズ変えて撮っただけでね。

で、あと残ってるとすればね、結局のところおかしいのは業界の内側がどうなってるかぐらいに読んでる側の人が想像力働かすだけだと思うんですけどね。

でもやっぱりビニ本裏本もあんまり頭の良さそうな人がつくってるんじゃなくて、やくざがつくってるんじゃないかっていうイメージが外側からあるでしよう。それだから強いよね。お金が欲しいだけの人は強い。

『Jam』とかはどう見たって絶対やくざがつくってると思わないでしょ。なんかしたい人達がつくってるっていう。だから自販機本と取次本ですよね、ちょっと頭がある人がいたのはね。だから自販機本、取次本というのはすごくいまでもね。昔、自販機本つくってた人がいまは取次本つくってるっていうようなことがあるわけ。

ところがビニ本裏本をつくってた人っていうのはほとんどいないですよ表の業界には。

というか最初から姿がわからなかったっていうかね。それでどれくらい続いたのかな。裏本がよく売れてたのは結局ビデオが出てくるまでなんだけどさ。丸二年ぐらい、でも、わりとね、長く続いたみたいな気がするな。

 

エロス・ライジング・オーバーグラウンド

取次本に関しては終始そのほかのアンダーグラウンド・メディアだとかいろんなものを見ながらうまくやってきたんだと思うんだ。取次本の代表はやっぱり、おもしろいということでは白夜書房はおもしろいですよ。セルフ出版がある時期から白夜書房と言い出したでしょう。、いまは全然セルフ出版って言わなくなっちゃったけどね、ついに。

それというのも、いままでは取次本には載らなかったような写真が取次本の世界で認められてきて、ある種の市民権を得てしまったからね。『写真時代』というのももともとはエロ本なわけだよね、発想は。エロ本を店頭に出して売っちゃおうっていう、そのために写真雑誌だというような言い方が必要だったわけで、エロ本コーナーに置かせないためにさ、カメラコーナーに置かせるために『写真時代』とつけたわけだから。

ところがある日紀伊國屋書店で『写楽』を抜いてしまった。その頃からもう、みんなが認め始めて、それとなんか白夜書房という言い方をしはじめたのがたぶん連動してるんだと思う。実際その業界がどうなってるかっていうと、たとえば小説の『沙耶のいる透視図』だっけ。伊達一行の。あれはさ、おそらくモデルは『Jam』の頃の僕と、『Jam』やアリス出版の写真を撮ってた岡克己というカメラマンで、岡克己のほうが主人公になってんだよね、たしか。僕は編集者で、へんなね、宇宙人ぽい男と、いうふうになってて、あれはモデルとの関係ですごく暗くてどろどろしてて、しかもなんていうのかなあ、文学にしようっていう気があったんだろうね。そういうふうに書いてあるけど、あれは現場を全然取材してない人だよね。業界の人だけど。一度だけ会ったことあってそんだけで書かれちゃったの。取材する必要もなかったんだろうけどさ。あれ、現場があまりに違うんだよね。

伊達さんの雰囲気っていうのは社会的には認知されているね。たぶん僕の印象ではあまりにあの世界を文学作品として高めようとしたあまりに暗くなってしまったんじゃないかと思うけどね。新人賞とったのはたぶん、文学の世界のほうがああいうものをめずらしがったからじゃないかと思うんだ。題材としてだけ。

でもほんとは完全にあっけらかんの世界。たとえばその日初めて会った女の子が三時間後にはもううんこして帰っちゃうとか、そういう感覚。フィスト・ファックの写真拡げて、これA子ちゃん? いや、違うよ、B子ちゃんだよなんていって、へえ、B子ちゃん、手が入るようになったんだア、っていう会話だとか。明るい。

でも一番あっけらかんとしているのは女の子だね、やっぱり。まだ男というか、撮る側のほうが罪悪感を持ったりするから。編集者の性格にもよるんだけど、なんかポルノ雑誌をいくらかロマンチックなとこでつくろうって思ってる人がいるんだよね。それはね、でも男らしい。そうじゃなくて全く淡々とつくってる人もいるし。そのどっちよりも完全にモデルの女の子のほうが明るいね。これは笑ってる表情のビニ本ていうのがあったでしょう。(『写真時代』BN)あれにすごく象徴されると思うんだけど、笑っちゃったりするんだね、おまんこ出しながら。何なのかなっていつも思うんだけどね、ナゾなんですね。ニッコリ、微笑っていうか。だって笑わなくていいわけじゃない。自販機本の世界はね、笑ったりしちゃいけなかったんだよ。よがってないといけなかった“よがり顔”っていうのが基本だった。それはオールド・ウェーブのことだけどね。僕はこれもやっちゃったわけだよ。笑わしちゃったんだよね。笑ってるポルノっていうのを意識してやったことがある。でもね、怒られるの。編集の上の人に。こういうポルノはモデルに笑わしちゃいけないんだって。ところがビニ本の方は平気でそれをやってた。おまんこ出したりが大事なことじゃない感じがするんですよね、笑われちゃったりすると。でも笑ったっていうことで、可愛い子が出たっていうイメージが強くなった。つまり猥褻感とエロティシズムとが分離しちゃってるわけよ、どんどんどんどん。猥褻でなくてもエロっぽければ、エロティシズムがあればいいというふうにいっちゃって、あっさりしちゃってるのね、味が。それはたぶんタレントに対する大衆のあり方もそうだと思うんだけども、アイドル志向みたいのがあるでしょ。ビニ本やなにかでも全部集めたりみたいな思い入れが出てくるでしょ。

写真の猥褻さよりも、むしろどんな雰囲気の可愛らしい子が脱いでるかっていうぐらいのものになっちゃってね、猥褻じゃなくてもよくなっちゃったんだよ

つまり猥褻なものは裏ビデオに求めるわけ、いまは。非合法メディアに求める。合法メディアにはアイドル性を求めるみたいなものがなんかあると思うね。そこでもって笑ってるポルノっていうの出てくるんだろうし、見る人のほうもさ、この子は平気で笑いながらこういうことをしたりするんだ。こういう子もいるんだっていうふうにはむしろ思わないと思うんだよね。つまり女ってみんなこれやるんだ、って思うんだよね。そこになんか徐々にみんな気付き始めてるんじゃないかと思うんだ。女って誰でもやる。実際、僕なんかはこういう世界を中に入ったり外から見たりして、ほとんどどんな女でも脱がせて撮る自信あるっていったらおかしいけど、みんな同んなじだと思うんですよ。モデルの子でもそうじゃない子でも。みんな同じような生理感覚を持ってて。それがなんか画面にどんどん出てきてる。

 

参加型自由ポルノ

あと残ってるのは“投稿写真”の話なんだけど、モデルは雇えないけど、自分の恋人なりガールフレンドなりを撮っちゃうっていうことでしょう。一方的に送られてくるポルノじゃなくてさ、自分が撮っちゃうみたいなね。アクション・カメラ術とか、“パンチラ・ブーム”とかのアレなんだけど。いまは“パンチラ”じゃなくて“パンモロ”の世界だからね。これはすごくてさ、タレントの“パンモロ”がついに来たんですよ、『スーパー写真塾』(白夜書房)に。一年前に絶対タレントの“パンモロ”まで行くって、予言はしたんだけど。いままでは、タレントは“パンチラ”だったでしょう。後ろからとか、ロウ・アングルで狙ったり。それがついにどっかのガキがね、公開番組かなんかに行ってね、タレントが歌いながら横通ったりとか近くにくる場面でそういう時に下から撮っちゃったらしいの。誰だったかな、堀ちえみだったかの“パンモロ”が送られてきたの。そいつだって証明するための写真も要るわけだから、その時のスカートはいてるのもちゃんと入ったやつと一緒に。

あれはすごいね。“パンモロ”っていうのはさ、図像学的に考えるとさ、ポスト・モダンなんじゃないかと上野(昂志)さんも言ってるけど、顔が写らないしさ、しかも“パンモロ”ってみんな同じでしょう、どれもこれも構図がね。足があって、パンツが真ん中。それでいて結構飽きないんだね。なぜか。みんないやらしいんだよね、あれ。どういうわけか。あれって何なんだろうなぁと思って。

小学校の頃に、たまに見た、たぶん温泉みやげとかのエロ写真と同じ匂いもするしとか。下手なとこがね。照明の加減や。

近距離でストロボたいたりしてるからね。ハイコントラストになっちゃうし、そういうのはかえってある種曼陀羅的なものがあるよね。図形って感じがするものね、むしろ写真ていうよりもね。そうなんだけど、でも距離感があって、いやらしいんだよね。

それに中学生が主だっていうところが面白いよね。この『週刊本』の前回分の渡辺(和博)さんの『ホーケイ文明のあけぼの』が出てて、あれは二次コン(二次元コンプレックス)にとうとう行っちゃったんだ、っていうことで笑って終っちゃってはいるけどね。

何かね、関係性が面白いんだな、あれ。その女の子の人間と自分との距離感じゃなくてさ、パンツと自分との距離感でしょう、あれ。あれがおかしいよね。

あれ撮る人たちっていうのは、もともとその子をこましたいという気持はないんですよね。それでおしまい、放棄してんのね。二次コンの子たちも、アニメセルの女とファック出来るわけないんだから、放棄してるでしょう。

女を口説く手段として、ビデオ撮り出したり、カメラ使ってる、例えばターボの教とかいるけどあれですよ、あれ。ぜんぜん違うもの。面白さはそこだよね。

ギター持つんだって、モテたい。昔は芸術でもそうだし、車とかを女を口説くためのネタに使ったわけだけどさ。そういう事態を“パンモロ”っていうのは、実に象徴してるね。“パンモロニューウェーブ”で“顔付き”っていうのもあるけど、面白いのはさ、そのパンツの顔との間にある何か妄想の部分が出てくるからね、見る人のほうに。まあ親切と言えば親切かもしれない。でも、基本的にはないほうがラジカルだね。

ぼくが好きなのはね、“顔付き”じゃなくて“後姿付き”っていうのが好きなんだよね。撮ったのが向こうへ行っちゃったっていうさ。知らないまま去って行ってしまったっていう感じが出るでしょう、“後姿付き”だと。それがおかしかったね。

投稿写真誌は、“パンモロ”以外にも、最近すごいのは、高校生の制服の男を制服の同級生の女の子がフェラチオしてるわけ。結構問題になってるらしくて、どこの誰だっていうんで。

学校かどっかでね、自宅かもしれないけど、撮ってるの。フェラチオさせて。セルフタイマーで。すごいよ、あれ。顔ももうモロね。雑誌に載せる時には目のところに線入れたんだけど。

あの線ていうのは、線の入った写真に知り合いがいたっていうのをまだ見たことがないからわかんないけど、そうだったらわかるでしょう、知り合いが見たら。あれはわかんなくしたいんですよっていう、出版社の良心を記号化しただけでしょうね。サングラスしちゃえば顔がわかんないかって言えば、わかるんだからね。

ところがね、その制服フェラチオ写真が他の投稿写真雑誌にも二重投稿されてたわけ。で、両方の雑誌に載っちゃった。撮った奴はおかまいなくあちこちの雑誌に送りつけるからね。それで両方見比べると、やっぱり白夜の『スーパー写真塾』の方が目のところを消す線が細い。あれは編集長の森田(富生)が偉いね。

でもって、スターのパンチラなんかも二重三重に投稿してる奴がいる。編集の方じゃいちいち調べてらんないから、おもしろけりゃ載せちゃうでしょ。今まではカメラマンが撮った一枚の写真が同時に何誌にも発表されるってのは少なかったけど、投稿写真の場合そのへんは無法状態だね。メディアの自由化現象が起きてる。

あと過激な投稿写真ていうので言えばさ、ホモ雑誌や変態雑誌に送られてくる写真はすごいですよ。工場で働いてるホモの人がね、仕事終ったあと、でっかい機械の前でやってんのね、油まみれんなって。ポーズつけたりして。全裸で。堀ってる。それもセルフタイマーで撮って送ってくる。それから変態の方では気違いみたいのいるよ。

化粧してレオタード着てる写真、自分でフェラチオをしてる写真、コカコーラのホームサイズを肛門に入れてピストン運動してる写真、自分の口で自分の小便うけてる写真、うんこが肛門から10センチぐらい垂れさがってる写真、そのうんこを割ばしでつまんで食べてる写真、それを一人で全部撮っていっぺんに送ってくる奴がいる。これなんか見たらすぐわかるキチガイだね。

こんど白夜からそういう過激な投稿写真の専門誌が出るらしいよ。あと裏本のファック・シーンとかにさ、堀ちえみの顔だとか早見優の顔だとかを貼りつけるのを趣味にしてる子が結構いるみたいね。あれも面白いんだよね。あれ最初ぼくはあんまり好きじゃなかったのね。つまんないなと思ってたんだけどね、最近面白いなと思うね。すごくばかばかしいでしょう。単純なことだもんね。でもいいよね、あれ。おかしいよね。普通はばかばかし過ぎてやる気しないでしょう。

わざとベタッと貼りつけたみたいなのが好きだな。首の角度が違ってるとかね。首だけ正面向いて。原始的な──プリミティブなアートに近いものになるなと思って。

 

ぽ・る・の、の響き

僕はポルノだけに限らず、人間をおかしくするもの、ラリッたようなもの、馬鹿ばかしいもの、脳天気なもの、それに極端なものが大好きなんだよ。だから、どっか間の抜けたところのあるポルノ屋さんっていうのは大好きなんだ

ぽ・る・の、ていう響きも好きだなあ。それにポルノの主役は女の子だからね。ぼく女の子大好きだよ。女の子は宝物だと思ってる。さんざんめちゃくちゃなこと言っといて宝物もないんだけどね。

仕事でエロ出版社に行くと色んなポルノ・マニアがいるんだよね。裏ビデオ評論で一千万かせいでいる人とか、ある裏本モデルの熱烈なファンで、その子が出てる裏本を何十万円も使って集めた人、あとSMビデオのことをしゃべらせると何時間でもとまらなくなる人とかね、ほんといろいろ。そういえば、ポルノ・モデルの私生活や人生にものすごい興味持ってる編集者もいるなあ。

で、僕はそういう人たちみたいにマニアックにはなれないんだけど、彼らからものすごくいろんなことを教えてもらったね。だから今回はみんなにお礼を言わなくちゃいけないんだよ。ポルノグラフィの素晴らしい世界を教えてくれたのは彼らなんだ。みんな、どうもありがとう。

『突然変異』創刊号から「ついに実現! 突然変異VSピチピチロリータ」(青山正明の原点)

これは青山正明(大塚雅美)が慶応義塾大学法学部在学中に編集・執筆していた伝説的な変態ミニコミ誌『突然変異』の創刊号(1981年・慶応大学ジャーナリズム研究会)に掲載されたロリータ記事(女子小学生へのインタビュー)の全貌である。





 

ついに実現! 突然変異VSピチピチロリータ

ロリコントリオ、柏に出陣〉

我々“突然変異”のスタッフ3人(車田・西村・大塚)は自他共に認める純粋培養のロリコン人間。そもそも、こんな手間と金のかかる雑誌作りなど始めたのは、女の子に声かけたり、写真撮ったりする口実をこしらえるためなのだ。そんな我々は2月9日の朝、カメラとメモ帳を手に、車田氏の母校、“柏第●小学校”に乗り込んだ。まず、小学生だった車田をさんざん殴ったY教頭の所に出向き、慶応大学心理学研究室を名乗り、「広告媒体と小学校」のレポート作製の名目で、昼休みに運動場で写真撮影する事を許可された。

いざ昼休みと思いきや、「慶応大学のおにいさんがみんなに質問があるそうです。話しかけられたらちゃんと答えてあげましょう。」という放送が全校に響き渡った。それからはもうたいへん。ガキの群れに追っかけられ、写真どころじゃない。どうにか美人小六生二人と放課後会う約束をし、その場を去った。午後4時、二人のかわいい子(A・B)は、かわいくないが性格が良さそうな子(C)と、かわいくなく、性格もねじ曲がってるけど頭の良さそうな子(D)の二人を連れて来た。いよいよ始まりだ。

 

〈大学生、小学生を破る!〉

所は、柏駅前のサーティーワン。広い店内には50人余の女子高校生。女子小学生4人を連れたおじさん3人はがぜん浮き出る。7人で腰を下ろし、まずは車田が口火を切る。

♂「現在の学歴社会をどう思う?」

♀「もっとやさしくしてー」

♂「うーん。ジョルジュバタイユの過剰消費の現状コンセンサスは?」

我々天才3人組の前に、女子小学生4人は為す術を失い茫然自失。その後、彼女らの発する難問に、我々は竹内均直伝の地球物理学を縦横に駆使した名答をもってし、圧倒的優位の下、対談をスタートさせた。

 

〈光一平〉

♂「好きなタイプの男の子は?」

♀「やさしくて、誠実で、浮気しない人」

車田「じゃあ、幼稚園ぐらいの男の子だね?」

A「生意気だからやだー。もっとチッチャナ男の子がいいー」

これをロリコンと言うのだろう。

B「光一平、光一平、光一平、光一平、光一平、光一平、光一平」

車田「それじゃ、嫌いなタイプは?」

♀「やらしい人!」

「こんな人?」と言って大塚を指示す。女の子一同うなずく。女の子の直観力に驚き、大塚うなずく。

 

〈突然変異〉

D「これ何の雑誌?」

西村「突然変異」

A「何、それ?」

D「本の名前は?」

西村「だから、突然変異」

B「何じゃ、そりゃ。きもちわるい名前だね。買う人いないよ」

D「バカみたいな名前だ」

A「ベストセラーの第……一番最後」

当ってる?!

 

〈不良予備軍〉

大塚「君たち、中学になって不良にならない自信ある?」

晃子「姉の影響に及ぼされて……」

西村「えっ、お姉さん何才?」

晃子「17」

西村「17で何やってんの」

晃子「この前迄、スカートたらったらにして、カバンペッシャンコにしてひどかったの」

回りの女高生、一斉にこちらを向く。

晃子「こないだなんかねー、うちのネーチャンの友達がね、水洗便所の中に頭突込ませて『あやまんなあ』なんてやってたの」

大塚「すごいね」

ココデ……〈要点整理〉

 

姉(17才)〈現役不良〉

〈特徴〉カバンペッシャンコにしてスカートたらったら

〈趣味〉湖北高校へ通う

兄(20才)

〈特技〉オートバイをプルンプルン

〈癖〉北村さんとテニス

〈特徴〉リーゼント→カーリーヘア

赤坂晃子〈不良予備軍〉

 

〈川島邦夫君、開成落ちる!〉

大塚「ねえ、さっき話してた川島君ってどんな子?」

D「いやなやつなの。私たちが発言すると、『あーそれは違うんじゃないかい』なんて言ってさー」

大塚「頭のいい子なんだね」

D「でも、テストの点なんて80点ばっかしね」

大塚「底が浅いんだね」

「川島君、海城受かって、開成は落ちたんでしょ」

A「そうなのよ。うちのお母さんに言ったら喜んじゃって、赤飯炊いてくれたワ」

 

会話の最中、私は確かに見た。

西村が勃起してるのを……

私は確かに見た。

車田が勃起してるのを……

そして、はっきりと感じとる事ができた。

私の物も見事に勃起している事を……。

 

独占スクープ  六年四組の学級新聞が松田聖子の過去を暴露!

♂「嫌いなタイプの女の子は?」

♀「松田聖子ー!」

♂「えっ、どうして? かわいいじゃない」

♀「あんなカマトト女!」

D「ウソばっかり言ってるんだもん。泣いてないから涙が出ないだけじゃないのよ」

B「なんか肌が汚ないんだよ。あの女は。ブスでさ」

A「足が極端にガニ股でさ。わざわざ高いクツはいてさー」

D「眼がいつも上の方向いて歌ってんの」

大塚「川島君とどっちが嫌い?」

♀「松田聖子ー!」

C「むかし不良で、金まきあげてたって本当なんでしょ」

D「本当よ。だって六年四組の学級新聞に載ってたじゃん。高校時代パーマかけててさ」

西村「ふーん。学級新聞に載るの?」

A「整形手術したカマトト女!」

 

ここで我々突然変異の3人は動揺の色を隠すことはできなかった。

我々が噂の真相で読んでいたあのスキャンダル記事は、柏第●小学校六年四組の学級新聞の盗用だったのだ

 

〈考察〉

ここで我々は、六年四組の学級新聞を調査検討する必要に迫られた。手許に原物がないので何とも言い難いが、今迄の彼女達の話だけから推測しても、現代マスコミ界の常識を遥かに越えた広範な情報網を有し、高度にカルティベイトされた取材陣によって組織されている事は否めない事実であろう。今後、我々突然変異は社運を賭けて六年四組学級新聞とのコンタクトを図るつもりである。我々が吸収されてしまう可能性も大きい。ダイエー高島屋みたいに提携できればよいが……。今、マスコミの死活は六年四組の双肩に……。

 

〈西村ふられる〉

西村「誰か僕と付き合って頂けません?」

ACD……無視して話を続ける。

B「うん、いいよ。末広にデートしに行こう。あたしビーフステーキ食べたい」

西村「あの.........、それ無理です」「じゃ、最後に握手して下さい」

女の子一斉に「手が汚れるー」

 

〈車田さんざん〉

車田「君、目大きいね」

A「君ほどじゃないよ。きもちわるいね」

安房國に車田正一といふ男あり、イキむ時に、目玉は忽ち蟹の目のやうに怒り出す。其突出した目玉に、小石を糸でくくって懸けるのは小手調べ。次に右の目玉に三組盃、左の目玉にチロリを釣下げる。それから次々に重箱や徳利など、糸でくくったのをぶら下げるので、最後に下座の鳴物に合はせ、両目玉を自由自在に出入れするのであつた。

 

〈まとめ〉

今回の対談は、予め計画されていた物ではなく、その場で決まった事だった。そして、事に不慣れな私たちは、この貴重な時間を何の脈絡もない雑談に終らせてしまった。しかしながら、我々はこの機会を持ってつくづく感じた。「子供は可能性に満ち満ちている」「我々には考えつかないような柔軟な思考をする」。あたりまえの事かもしれない、でも、少なくとも我々3人にとっては全く新鮮な経験だった。子供への興味も一段と深まった(?)。次回からはこの子供達の可能性を十分に生かせるテーマをもって、充実したパネルディスカッションを行いたい。(了)

 

 解説

2号以降、この記事は「六年四組学級新聞」として連載化された。さらに、これを見た白夜書房の編集者からの依頼で、青山正明は同級生の谷地淳平と共同で『Hey!Buddy』1982年2月号から9月号まで商業誌版「六年四組学級新聞」を連載する。その後、ロリ系のネタが尽きたのか、10月号から「Flesh Paper/肉新聞」と改題し、掲載誌がロリコン雑誌であることを無視してドラッグやフリークス、カルトムービーにスプラッタビデオの紹介などロリータと全然関係のない青山独自の連載に移行した同誌廃刊後も「肉新聞」は『Crash』(白夜書房)や『BACHELOR』(ダイアプレス)で継続され、いつしか青山のライフワーク的な連載となり、1996年まで、なんと足かけ14年間も続くことになった。ちなみに「肉新聞」は1999年刊行の『危ない1号』第4巻「特集/青山正明全仕事」に青山自選のもと年代順に並べられて収録されている。

 

谷地淳平は自身のブログで、創刊号の本記事が成立した経緯について次のように回想している。

『突然変異』創刊号の原稿は徐々に集まってきた。

(中略)

それでもまだ企画が足りない。困った。

それで誰だったか「小学生に取材して好きなおもちゃとか好きな食べ物とか聞いてまとめたらどうだろう?」と言い出した。

「子供の消費動向を探って記事にして、面白いか??」

「面白くないかもしれないけど、もう入稿が迫ってる。なんか穴埋め記事を書かないと」

と、いうわけで、穴埋め企画で、小学生を取材することになった。

取材は簡単だった。

小学生がいるのは小学校だろうと、谷地、緒形、青山の三人で緒形の母校に行き、教頭先生に「子供の消費動向を取材したいので、児童に話しかけるのを許可して欲しい」とお願いすると了承していただけた。

お昼休みになると子供たちは元気に外に飛び出してくる。すると「大学生のお兄さん方が校庭に来ています。話しかけられたら答えてあげてください」との校内放送。

あっという間にたくさんの子供たちに取り囲まれて、ワイワイガヤガヤうるさくて、とても取材どころじゃない。なんとか六年生ぐらいの女の子に放課後数人で会ってもらうように約束して、校庭を退散したのでした。

さて放課後、駅前のロッテリア(ママ)で女の子三人と我々三人の対談が実現し、めでたくテープ収録できたのでした。

これをテープ起こしして記事にするのは、青山正明に決まった。

「ついに実現!突然変異VSウキウキロリータ」(ママ)のタイトルで出来上がった原稿は、穴埋めなんてとんでもない。かなり面白い記事になった。

この記事で、青山が面白い文章を書けるやつだとわかった。

ミニコミ誌の思い出 その5(ウキウキ、ウォークマン日記)

結果的にこの記事は「六年四組学級新聞」~「肉新聞」のパイロット版になり、その後14年間も連載が続いたことを鑑みれば、これがライター青山正明出発点”となった記念すべき記事だと言って差し支えないだろう。ちなみに青山は創刊号にも『ロリコンの恋ものがたり』というロリータ私小説(正確には「青山正明の旧友」を名乗る人物が、青山の高校時代から大学時代までのロリコン遍歴を綴った自作自演の無記名原稿)を寄稿しており、ここで初めて「青山正明」という名前が出てくる。また当時は第1次ロリコンブーム(1980年~1986年)の真っ只中であり、谷地によれば創刊号で『ロリコンの恋物語を掲載したため「学生の間にブームとなっているロリコンについて聞きたいと、月刊誌からテレビまで取材に来るようになった」という。

書泉グランデ三省堂本店に平積みで置いてる慶大生が作ったミニコミ誌ということで、新聞社や週刊誌から取材の申し込みが相次いだ。

さらには、新聞は朝日、読売、日経など一通り来たけど、もっとも印象に残ってるのは日経のS記者だ。

とにかく雑誌を絶賛された。

六本木のディスコで四人にご馳走してくれて、それでは話し足りずに、六本木のご自宅のマンションにまで招かれ、創刊号と2号を手に「いやあ、いい雑誌だなあ」と、この言葉、この日何回目かな。突然変異を異常なほど気に入ってくれたのでした。

ミニコミ誌の思い出 その14(ウキウキ、ウォークマン日記)

そして、次々に原稿依頼がくるようになる。

マガジンハウスのブルータスから原稿依頼。突然変異に2ページあげるから好きに書いていいよというありがたいお話で、たった2ページなのに原稿料が14万円も。さすがマガジンハウス、凄い。これは第3号の制作費の一部となった。「取材するのに使ってよ」と、ブルータス編集部の名刺までいただいて、嬉しかった。

—前掲

出版不況の現在から考えれば、ほとんど素人同然の大学生相手に2ページで14万円の原稿料とは到底信じられない話であるよっぽど当時の出版業界には余裕があったのだろう。さらに谷地のブログでは興味深い記述が続く。

せっかく名刺作ってくれたんだからなんか取材しようか、ということになり、ブルータスに使えるかどうかわからないけど、漫画界のロリコン関係を取材しよう、御大吾妻ひでおの「ミャアちゃん官能写真集」が見てみたいと、僕と青山正明と二人で御大吾妻ひでおと親しいという蛭児神建さんにコンタクトを取り、新宿の喫茶店で漫画界のロリコン事情を取材したのでした

—前掲

 

蛭児神さんは友だちの千之ナイフさんと一緒に待ち合わせの喫茶店に現れた。

千之ナイフさんは、コミックマーケット出身の漫画家で、先月(だったかな?)商業誌デビューをはたしたばかりとのこと。

お二人の話は僕らのまったく知らない世界で面白かった。

お二人ともこの頃はまだ一般には知られていないコミックマーケットのことを熱心に語ってくれた。

そこが漫画のロリコンの発信源になっているようだ。

彼らは相手のことを「君は~」とか「お前は~」とか言うところを、「お宅は~」と言っていたのが強く印象に残ったが、のちに漫画のロリコンは「オタク」と呼ばれるようになり、なるほどと納得したのでした。

今では「オタク」は意味が広がって、漫画のロリコンに限らず、カメラオタクとか鉄道オタクとか、単にマニアという意味になってしまったように思う。

僕と青山は、まだオタクという言葉がなかった頃にオタクの元祖に会ってしまったのでした。

ミニコミ誌の思い出 その15(ウキウキ、ウォークマン日記)

何と青山正明ロリコン界の教祖的存在である蛭児神建と逢っていたのだった*1

この項おわり。


*1:蛭児神建は日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』の創刊に関わった伝説の人物。詳しくは蛭児神の自伝『出家日記―ある「おたく」の生涯』に詳しい。