Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

マンションで開業した同人漫画誌即売に押し寄せる中・高生のロリコン嗜好(1982年当時におけるロリコンブームの考察)

『アサヒ芸能』1982年6月3日号所載

貼り合わせ・書き起こしする時間がありませんでした。近々修正します。

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「おたく文化」の祖、体験ギャグで復活 漫画「失踪日記」の吾妻ひでおさん

読売新聞 2005年3月30日付 東京夕刊

「おたく文化」の祖、体験ギャグで復活 漫画「失踪日記」の吾妻ひでおさん

ギャグ漫画家・吾妻ひでおさん(55)が自らの失踪(しっそう)、ホームレス体験を赤裸々に描いた『失踪日記』(イースト・プレス)が話題だ。おたく文化の祖とも言われ、1970~80年代にカリスマ的人気を誇った作家の新たな代表作となるか。吾妻さんを直撃した。(石田汗太記者)

吾妻ひでおはついに『不条理日記』を超えた!」

70年代からのファンとして、まずはこう叫びたい。それまでもかわいい女の子の描き手として既に定評があったが、78年、「別冊奇想天外」に発表された「不条理日記」は、作者のSFマニアぶりとシュールなギャグが絶妙に融合し、漫画史というより「おたく」史上の記念碑的作品となった。が、この作品を境に吾妻さんの作風はどんどん実験性を強め、自らを追い詰める結果にもなる。

89年と92年の2回、吾妻さんは仕事も家庭も捨てて失踪する。そのてんまつと、アルコール病棟での強制入院生活を描いた本書は、あきれるほど深刻な実体験を、あくまでカラッとした吾妻ギャグで描き、往年のファンだけでなく新たな読者も獲得している。現在6万部。

1回目の失踪ではホームレスとして冬を越し、凍死しかけたことも。てんぷら油をそのまま飲んだり、生ゴミを廃物利用のコンロで「調理」したり、奇想天外のサバイバル生活を送った。

「腐った魚の目玉食って食中毒になりかけたこともある。でも、意外と平気だった」とさらりと言う。

それでも、「カッターやシャーペンなど、マンガを描く七つ道具だけはいつも持っていた」というのが泣かせる。ガス会社の下請け配管工になった2回目の失踪時には、会社の社内報に本名(※ガテンネームの東英夫)で4コマ漫画を描き、それでも周囲が気づかなかったというエピソードさえある。

「文章も下手、しゃべりも苦手。やはり僕の唯一の自己表現は漫画。漫画だけが僕を理解してもらえる手段なんだと気づきましたね」

最初の失踪は、マニアックなファンとの摩擦が原因だった。

不条理日記』以上の作品が描けなかったから。僕のようなナンセンス志向の作家は、自己模倣のマンネリ化が避けられない。ペーソスの方向に逃げられれば楽だったけれど、自分のギャグを捨てたくなかった

つげ義春の『無能の人』や花輪和一の『刑務所の中』にも比肩する本書だが、吾妻さん自身は「いつも通り描いただけで、何の気負いもなかった」という。「ギャグ漫画家は自分を笑い物にするのが基本だから、自己憐憫(れんびん)とは無縁なんです

一時は完全なアルコール依存症に陥ったが、今年で断酒5年目。精神状態はかなり落ち着いたという。「家で待っていてくれた妻のおかげです。でも、昨年は月産4ページでほとんど収入ゼロ。今のおたく文化はよくわからないけれど、コミックマーケットで同人誌売って、生活の足しにしています」

 

◆本当の「私小説

評論家の大塚英志さんは「美少女キャラクターも不条理も『萌(も)え』も、みんな吾妻さんが原点。こういう先人に対して、僕らは黙って頭を垂れるしかない。この本は真の意味で『私小説』だと思うし、ギャグ漫画家として、まだ十分に現役であることを証明している」と語る。

現在書店で入手可能な吾妻作品は、『ななこSOS』『オリンポスのポロン』(ハヤカワコミック文庫)、『やけくそ天使』(秋田文庫)、『吾妻ひでお童話集』(ちくま文庫)など多くはない。本書を機に、この“全身ギャグ漫画家”に再び光が当たることを期待したい。

    

写真=「続編の予定もあります」と吾妻さん

◇イラストは描きおろし(掲載紙の画像は再録せず)

吾妻ひでおの『夜の魚』に見る80年代の不毛と地続きの今

大塚英志教養としての〈まんが・アニメ〉』では吾妻ひでおの『夜の魚』という短編について10頁ほど紙幅を割いて取り上げている。

この作品は「吾妻本人の無意識」が非常に顕著に出ており、おそらく吾妻本人も大塚の指摘で、この作品の真価を知ったのかもしれない。


例えば『夜の魚』にある、男たちがリアルな女性に怯みながら「昆虫のような異形の存在とは、かろうじで性交可能」という描写は「記号絵を介してしか女性の身体性と向き合えない男たちの性意識」を冷徹に表現していると大塚は語る。

大塚はこうした1980年代のロリコン文化(おたく)が生んだ現代まで地続きの「不毛」*1を『夜の魚』に見い出だし、やはり、それを「ロリコン漫画の生みの親」である吾妻ひでお以外が描き得なかった事に、真の価値を置いているのだろう。

また吾妻の描くリアルな女性像は、例えばつげ義春作品の「リアリズム調に描かれた醜悪な女性や老女」(ガロ時代の『沼』『紅い花』『もっきり屋の少女』などに登場する「おかっぱ頭の幻想的処女」とは対照的な生々しい存在としてのそれ)とよく似ている*2

もっとも『夜の魚』は、つげ的な「個人の心象風景」の体裁を取りつつ、80年代という特殊な「時代性」をも反映しているところに価値があるんだろうけども。


『夜の魚』は1984年の作品だが、大塚がそこに見い出した批評性は未だに薄れていない。そもそもロリコンブーム自体が「成熟を拒む不毛さとねじれ」の表出であったはず。また大多数のおたくは「おたく表現の負の側面」に対峙せず、それどころか年々おたく文化は人口に膾炙して、現在も余計な軋轢を生んでいるが、それをここで言及する余裕はない。

結局、現実を直視せず都合の良い方向に流れていくだけで、理想の女性像を空想(二次元)に仮託することは、ある意味で不健康であり、しかも自閉的かつ非生産的だ。突き詰めれば、おたくのいう「理想の女性像」とは都合の良さに尽きる。

ロリでもオネでもショタでもレズ(百合)でもインピオでもふたなりでも男の娘でもSFでも異形(メタモルフォーゼ)でもモブ顔(規則34)でも何でもいけるというのも、よく考えれば壮絶な話だ。業が深い。

受験体制と性産業の発達とも連動して現実の体験は乏しく妄想はよりたくましく。そして、おたく文化はそれを許容する「空想に仮託する文化」として大成長し、いつしか、おたく本人もそうした不毛をフラットに受け容れてしまえる強靭なメンタリティ(カルマ)が培われていった*3

そして根は同根である僕は彼らを責める理由も資格も持っていない。

(文責/ケラ)

「実際(生身の女性と)付き合うと面倒臭い、何々を奢らなければいけない、どこどこに連れて行かなければいけない、セ○クスしてみると重いし臭いし(笑)そこらへんのギャップってすごくデカイでしょ」とは25年前の故・青山正明の言葉。

*1:ロリコンだけに不毛。

*2:吾妻ひでおは、COM的な要素とガロ的な要素を両方とも兼ね備えている、稀有の存在。/常に、自己否定から入ってくる。少女漫画や少年漫画で地歩を築いていたという枠を、自ら壊す。SFで評価され、神様扱いされるようになると、居心地悪くなるのか、またそれを破壊して、そこから出ていこうとする。/吾妻ひでおの革命は、手塚系の絵でエロを描いたところ。絵柄は手塚、中味はつげ。吾妻氏が偉いのは、採算を度外視して挑戦し続けるところ(確立したルーチンを守っていれば、安泰なのに…)」(川本耕次

*3:初音ミクとの結婚が最近話題になったけど、個人的に否定的感情が沸かない(昔なら完全に変態扱いだろう)。大人になって「おたく的なもの」を排除(卒業)するのでなく、自ら取り込めるだけの業をフラットに培ってしまった彼らこそ「真のおたく」だと思う。

成熟した女を愛せないロリコン・ボーイの世界からキミは本当に脱出しているか(1982年当時におけるロリコンブームの考察)

(左から少女、四谷永一郎、沖由佳雄、早坂未紀、蛭児神建

(大衆週刊誌におけるロリコンブーム特集に言及した米沢嘉博の記事)

下記の文章は雑誌『GORO』1982年3月11日号に掲載された「ロリコン」についてのルポです。1982年春というと少女写真集やコミケロリコン同人誌が隆盛していた頃ではあるものの『ヘイ!バディー』はロリータ路線前で『レモンピープル』は創刊間もない頃。そもそも『漫画ブリッコ』に至っては創刊(82年9月創刊/83年4月新装)すらされていません(つまり「おたく*1という言葉も当時はありませんでした)。この記事は、まだまだ知られざる存在だった「ロリコン」という得体のしれない人種にフィーチャーした、最も初期の記事のひとつになります。


成熟した女を愛せないロリコン・ボーイの世界からキミは本当に脱出しているか────少女の下着に胸をときめかせ、人形遊びに興じる“80年代ビョーキ・ヤング”の悪しき実態

少女写真集のヒットでロリコン・ブームと思ったら大間違い。ロリコンの世界はキミの想像以上にエスカレートしている。ロリコン同人誌の激増、隠れたブームの“人形遊び”......、そこにはギョッとするようなビョーキの世界が展開されている。成熟した女には興味が持てない、やさしい少女に心を魅かれる──ナニ、キミもそう?

ラナちゃん着せ替えセットで遊んでるヤツがいる

キャンパスやストリートを闊歩する“成熟した女”や“手垢のついた女”には、まるで関心がない。砂場でお遊びしている小学生の少女をチラチラと眺め、ブランコで春めいた暖かい日差しを蹴る少女のひらめくスカートから一瞬見えたパンツに、ハッと男の胸をときめかす。

ゆたかなオッパイ、揺れる乳房の雑誌ヌードにはホルモンが分泌されず、少年マンガ誌(断じて少女マンガ誌ではない)の幼い少女のヒロインの、まだふくらまない胸が好き。

部屋に帰ってやることは、少女人形を抱きしめて、切り抜きのイラスト人形〈ラナちゃん着せ替えセット〉でのお遊び──。この着せ替えセットには、ラナちゃんの全裸の切り抜きに、下着はパンティー、スリップ、上着はワンピースにセーラー服。テニス・ルックやバニースタイルはもちろん、スクール水着(!)もあるのだよ。

ロリコン・ボーイ! キミは心優しきビョーキ少年か?

ロリコンという名称の由来は、むろんかのナボコフの中年の少女愛の傑作『ロリータ』で描かれたロリータ・コンプレックスだが、いつのまにかヤングのものになって、ロリコンの語意も説明不用のありさま。

推定だが、日本には、ロリコン・ボーイが約3万人もいる。

だが、詳しく説明しようとするのはむずかしい。だって〈少女愛〉は、マニアにいわせるとペトフィリア(幼児愛)、少女フェチ、ロリータイズム、人形愛、といろいろ複雑らしいのだ。その程度にしても、最悪の犯罪型から、真性ロリコンロリコン・ブームで少女ヌードの審美的美しさに目をひらかれたゲイジュツ型、ブーム便乗型というのもある。

また愛しちゃう対象の少女の年齢でも細分化され、マニアによると、小学生以下の幼女が好きなのはハイコン(ハイジ・コンプレックス、『アルプスの少女ハイジ』なのだ)、アリコン(アリス・コンブレックス、『不思議の国のアリス』なのだ)というんだそうだ。

ヘーッ、おかしなやつがいるもんだ──と、軽蔑しちゃいけない。キミは、薬師丸ひろ子のあの「カ・イ・カ・ン」にハートがおののかなかったか。キミは薬師丸ひろ子よりも、年上ボーイではないか?

ロリコン・ボーイの一般的定義は、大学生なら女子高生、高校生なら女子中学生、中学生なら小学校以下の年齢の女のコに魅かれる男なのだ。

 

ロリコン同人誌一覧

ことにロリコンが多いのは大学生。同好というか同病というか、グループで“ロリコン同人誌”を作っている。東京と大阪で顕著だが、81年春にはせいぜい10誌だったのに、今年に入って大激増して、本誌がつかんだだけでや関東34誌、関西8誌、その他4誌。

●関東版の誌名。

〈人形姫〉〈愛栗鼠〉〈口リータ〉〈幼女嗜好〉〈AMA〉〈ヴィーナス〉〈アニベール〉(のんき〉〈CARICON〉〈クラリス・マガジン〉〈月刊カーシャ〉〈キッチン・ファイター〉〈セント・ローレンス〉〈ままぜる〉〈FRITHA〉〈ティンカーベル〉〈ぼっくす・ぷりーつ〉〈美少女草紙〉(その他6誌)=以上東京。

〈LP〉〈プレザンス〉〈方程式〉〈お気に召すまま〉〈美少女自身・イマージュ・ソフィ〉〈ラナリータ〉〈TO FROM〉=以上神奈川。

〈collection〉〈七色の花〉=埼玉。

〈キャロリータ〉=茨城。

●関西8誌。〈ろりこんCOMPANY〉〈グリフォン〉〈CHINA・DOLL〉〈VOLL〉〈璐麗〉=大阪。〈ネコリータ〉〈どこでも会誌〉=京都。〈美少女学〉=神戸。

●地方4誌。〈聖裸〉=石川。〈すずらん〉=愛知、〈VELVET〉=富山、〈月桂冠〉=愛媛。

なんとまあ、宝塚調、少女チズム、ちらりほらりの嗜虐趣味のこの誌名。

 

6年使用した赤いランドセルをナデナデします(蛭児神建

どーいうのが載ってるか?──例をあげると、同志社大アニメ研と、奈良大映画制作研合同の〈CHINA・DOLL〉(14ページ・150円)は、どうやらアリコン派で、イラストは小学生くらいの女のコ。ヌードは当然ヘアレス。その記事は『ガールウォッチングのすすめ』(公園の少女の盗み撮り法etc)、『少女学特論』……。
ロリコン・ワールドのアジテターは、「女は14歳をすぎたら年増」と断言し、ハンチングにコートを着て、顔はマスクとサングラスの変態スタイルだと噂され、ロリコン世界では過激派として有名な〈幼女嗜好〉の主宰者、蛭児神建クン(24)、吾妻ひでお氏の『スクラップ学園』(秋田書店刊)に出てきたキャラクターといえば「あ、そうか」と思いあたる読者もいるだろう。

まさしくあのキャラクターの本人、蛭児神クンの告白を聞け。

「女性との性体験は一度もないし、成熟したオンナなんてグロテスクなだけですよ。私が興味あるのは、10歳前後の少女の平らな胸。だから子役のころの杉田かおるはカワユイと思ったんですけど、いまはまったく魅力を感じませんよ。

自分のロリコンに気づいたのは中学3年のころです。同級の女のコにはまるで興味がなく、幼稚園のコを見ていると、すごく楽しいんですね。そんな気持ちが高ぶって、悩んで自殺まで考えたけど、少女マンガやアニメからロリコンに入って、この世界で生きてく証として、同人誌を出すようになった。

ま、そういう衝動はありますが、少女にイタズラなんかしない。“少女の敵”になる連中には腹がたちます」

成熟した女は不潔だし、聖少女は自らのタブー。それで「一番つらいのは性処理」で、その方法は、オナニーと、お人形になる。蛭児神クンは、リカちゃん人形20体、骨董に属して入手困難な“プティ・アンジェ人形”を大小あわせて14体も持っていて、次のごとく遊ぶ。

「人形と人形を性的にからませたり、SM風なことをやらせたり。着せ替えもフツーに遊んじゃつまりませんネ。ウルトラマンの人形にリカちゃんの服を着せるとね、これがなかなかカワユイ。それから先日、6年使用した少女のランドセルをもらってナデナデしては想像の世界を愉しんでいるんです」

なんかこう、ヒッチコックのスリラー世界じゃないか……。

●柴田出・医博

「そういう男性が非常に多くなった。だがロリータ・コンプレックスとは内容がちがって、18~19歳で性的に成熟しているのに、勃起しない、性欲がないなどのインポテンツ傾向がある。つまり、愛してるというその少女と同じ程度にしか成熟していないんです。やはり親の過保護の問題が非常にからんでいるようです」

満たされないロリコン・ボーイは、スクリーン、ブラウン管、マンガ誌に、こうして救いを発見することになる。そして、好きなキャラクターごとに分派を作る。同人誌名〈クラリス〉の由来が、『ルパン三世』のカリオストロ城のヒロイン“クラリス”からきているのがピーンときていたら、キミは潜在的ロリコン・ボーイの〈クラリス派〉に属する。クラリス派はお嬢サマ風のコが好き。これに対抗するのが、『未来少年コナン』のおてんばヒロインの〈ラナ派〉。

ロリコン・ボーイ人気マンガ少女キャラクター、ベスト5。

①〈陽射し〉
②〈水底〉
③〈水仙
=以上、吾妻ひでお作品に登場する少女。
④〈みゆき〉の妹=あだち充
⑤〈ポーの一族〉のメリーベル=萩尾望都

●アニメ少女ベスト5。
①ラナ
②ハイジ
③〈女王陛下のプティ・アンジェ〉のアンジェ
④〈魔法使いサリー〉のサリーちゃん
⑤〈ワンダー3〉のボッコ

もー、ガックリきちゃうナ。

●シネマ少女俳優ベスト5。
①〈シベールの日曜日〉のパトリシア・ゴッジ
②〈タクシー・ドライバー〉のJ・フォスター。
③〈ロリータ〉のスー・リオン
④〈ねらわれた学園〉の薬師丸ひろ子
⑤〈小さな恋のメロディ〉のトレーシー・ハイド。

 

白いパンツがよくにあうつかさちゃんが大人気

ロリコン病を病コウモウの域に達すると、ビデオを買いこむ。TV局はうかつにも、男ならだれにもあるロリコンに気がつかず、使い古しの性体験ホーフのタレントばかりうつす。そこでロリコン・ボーイは、一日中「おかあさーん」のハナマルキのCMに登場する田舎少女をビデオで見る。その押入れに隠しているのは、イトーヨーカ堂のチラシの子供用肌着を身につけた写真の切りぬきだったりする。「タカラ」のリカちゃん人形は欲しいけど、母に見つかったら怖いから母の目をくらませられるのはそこで少年誌になり、週刊『少年チャンピオン』は、ロリコン・ボーイ急増を肌で知ったか、「白いパンツがよく似合う小学5年の賢い少女」つかさちゃんがヒロインの『あんどろトリオ』を登場させた。ストーリーは、ま、毎回、ませガキ番長に「パンツを見せろ」とせがまれるだけ。

ただし同誌の阿久津邦彦編集長は、もうファンクラブまでできているが「読者の3分の1は女のコ」という。すると3分の2は男。

作者の内山亜紀氏は、ロリコンだからウケたとは思ってないんです。絵のおもしろさじゃないかな。私の描く線は細いから少女的で、少年マンガっぽくないから。それにぶっちゃけた話、ロリコンというと暗いイメージがありすぎるでしょ。ロリコンといったって、マイコンの一種と思う人もあるだろうし…」

語るに落ちた……とはいわないが、潜在的ロリコン願望をかきたてたといえるだろう。

●心とからだの相談センター代表・荒川和敬氏

ロリータ・コンプレックスの正確な意味は“早熟な思春期の少女に翻弄される中年男のどうしようもない情念”でしょう。いまいってるロリコンは、そうじゃなくって、若者の未成熟、精神構造の未発達で、女性に対する自信のなさがその内容ですね。
大人っぽい女なら“あなたダメじゃないの! もっと私を喜ばせてよ”というかもしれない。だったら、そんなことをいう危険性のない少女がいい。意のままになるカワイコちゃんがいいーということになる。バージンじゃなきゃイヤダという感覚はすでにしてロリコンの現われです。そもそも日本の男性が処女志向なのは、自分の性行動についての自信のなさの証明です」

大阪大学・梶田叡一助教授(心理学)

「私の高2の姪のボーイフレンドが大学生なんですよ。やっぱり女が強くなったんです。同じ年頃の女子大生ではやりこめられるから、高校生の女のコとつきあう。こういうのが、いま結構多いんですってね。まあ、これくらいなら、彼は年上、彼女は年下が自然でもあるし、病的じゃない。

けれど欧米で、一時期、少女ヌードの雑誌やフィルムがものすごく流行したことがあって、ことにスウェーデンデンマークのポルノは、SMと少女趣味になっていった。小さな女のコに関心がむくと相手が非力なだけに、男にはどうしてもサディスティックな心理が出てくるんです。

現代は、若者がまず第一に性的なものに関心をもたぎるをえない社会状況にあるし、一方、ロリコンが商品化の過程にある。オジンのひとりとして残念ですよ」

「残念ですよ」に──は、複雑な思いがこもっているのだ。スウェーデンは性犯罪がふえたので、15年前にボルノを解禁した。とたんに犯罪は減った。しかし、普通だった社会で、新しい性的方向を打ちだしたものが売れたら、性的犯罪がより減るのか増えるのか、証明はまだないのである。

 

かわいい少女のマンガをかいてれば満足なんです

ヤンングの心理にみなぎっているウツボツたるロリコン願望、バージン願望を証明したのは、昨年発売されてたちまち20万部の大ベストセラーになった少女ヌード写真集『リトル・プリテンダー』(ミリオン出版)だった。モデルの女のコは、オール11歳。同社の平田明社長は、「いま田中薫子ちゃんというコの6歳から9歳までの記録をとっていて、この夏ごろに出版します。隣のナントカちゃんとちがって、非常に気品のあるコですよ」

この夏、薫子派がブームか?

さらに、ロリコン君は、映像を見るだけでなく、実物にさわれるようになった! ロリコン・クラブが急増している。そのひとつ、『少女サークル』(仮称)は、東京・目黒駅付近のマンション5室を借りている。

オーナーの匿名氏が説明してくれる。

「少女といっても、18歳以上の女子大生で、まあ19歳以下に押さえています。一昨年あたりから男子大学生の少女に対する憧れに気づいて、昨年11月から始めたんです。やはり客層は、70歳の老人もいますが、20歳ぐらいの学生で、少女趣味や、妹に対して近親相姦的な願望をもっている人が多いんです。でも肉体的接触はできますが、ズバリはやってません。プロ的感覚でいえばサービスは劣ります」

しかしインポテンツ傾向の口リコン・ボーイならば、むしろズパリは不用だろう….…。肉体ではなく、心の空白を慰めてもらいたいのだから。このロリコン・クラブは、入会金3000円、コース料1万3000円。それでも電話は鳴りっぱなし。

けれど、ほとんどのロリコンボーイは、まだまだイメージのなかにだけ住んでいる。

その典型をあげるなら、同人誌〈璐麗〉のT・Sクン(関西大学法学部1回生)。

「ボクはかわいい少女のマンガを描いて、好きなポーズをとらせてれば満足なんです。大学の友だちのなかには、中学生の女のコとつきあうロリコンもいますけども。ボクですか? ハィ、童貞です。キスの経験もありませんよ。プロの女性は好きじゃないけど、処女志向でもないんです。でも、実行しないでもいいんです。イラストというはけ口がありますから」

「セーラー服……いいですね。ブルーマーは……これもいい。ミニスカートのパンチラは……すご~くいいです」という返事。

さて、その同人誌にのせた漫画『眠れない夜』は、ふと目がさめた少女が下着が濡れているのに気づいて外に出ると、そこに宇宙人がいて、じつにさまざまな体位で責められるもの。なるほど、絵による完全な代償行為。

ちなみに彼は5人家族で、2人の姉妹にサンドイッチにされた、たったひとりの男のコ。定期入れには〈璐麗〉に掲載の定期用ミニ・ブロマイド、ハンカチは青・赤・黄色・白の5色少女イラスト入り。

〈CHINA・DOLL〉の田頭泰クン(同志社大2回生)は身長180の筋肉マン。

「彼女? いますよォ。ぼくのこの趣味をおもしろがって笑ってます。ピンク映画だって、オレ、見るんだから。ロリータ趣味はだれにだってある。ナポレオンもそうだった。行動に移せば変質者ですが、ボクは日陰ものだったこの心理に市民権を与えたいだけ」

これがブーム便乗型!?

●性科学者・石渡利康氏

「英雄志向のアメリカにはロリコンは少ない。日本は女性的なんです。しかしロリコンは自分は優しく、性欲がギラついていない人間だと考えている。トルコにも行きませんからね。だから攻撃的でなく変質者でもない、けれど困ったことに、その未熟な性から脱出しようとも思っていないんです」

いま、人形趣味のロリコン・ボーイがかかっている最新のビョーキは《こえだちゃんシンドローム》。リカちゃんのタカラか発売した、身長5センチの2頭身半のブラ人形。抱きしめ、頬ずりをし、一緒に寝る。ロリコンの極致リカちゃん派をして「こえだファンは異常だ」といわしめるほどだ。

異常の有無は異常さの典型の形でわかる。ロリコン・ボーイよ、キミはやはり、ちょっと病んでいるんじゃないか──。


森野うさぎは『シベール』終刊号(1981年4月発行)に「こえだちゃん」のパロディを描いている。上掲記事には「最新のビョーキは《こえだちゃんシンドローム》」「ロリコンの極致リカちゃん派をして『こえだファンは異常だ』といわしめるほど」等という記述があるが元ネタはおそらく彼周辺の広めたパロディだろう。

*1:「おたく」という言葉がない頃、70年代末から出てきたオタク文化(若者文化)は80年代的面白主義と合流して「ロリコンネクラ族「ほとんどビョーキ」等と形容された。

幻の漫画雑誌『Peke』休刊のお知らせ(Peke 1979年2月号 編集後記)

幻の漫画雑誌『Peke』


1978年晩夏から1979年初頭まで半年間だけあった漫画誌『Peke』(みのり書房)。廃刊号では『COM』を大特集しながら自らも幻の雑誌となった。

全国のマンガファン諾君! とりわけペケに結集する戦斗的愛読者諸君!! 今や70年代を終わろうとするに当たって、我々は諸君に対し、熱い友情と連帯のメッセージを送りたいと考える!!

──追悼の文章は、やはりこう始めるべきであろう。

「プリティ・プリティ」がつぶれ、続いて、三流SF誌、「ペケ」が今、つぶれようとしている。「ガロ」は相変わらず、気息奄奄だし、売れた! といわれる「JUN」だってコミック感としては、果たしてどうなのか怪しまれている。「COM」の廃刊に始まる70年代は、その「COM」つぶしの張本人と噂の高い西崎義展の「ヤマト」によって幕を降ろそうとしている。

青年劇画は、その後退戦を三流エロ劇画のゲットーのなかて果敢に戦っているが、今や警視庁が正面切って介入を開始した。

これはどういうことなのか70年代初頭、垣間見えた、「ぼくら」のまんがの敗北につく敗北の過程ではないのか!?「ペケ」の編集者は若い。「COM」世代の人間である。「マガジン」「ジャンプ」「チャンピオン」の既成まんがにあき足らず、一定の枠の内とはいえ、「ペケ」は自ら信じるまんがを求めて動いていたはずだ。「プリティ・プリティ」にしても、編集の意図はどうあれ、作家たちは、同人誌の隆盛という状況を反映して選ばれていただろう。その二誌がつぶれた!

まんがはクラス・マガジンを拒否したのである。このことを再度確認しておく。三流SF誌「ペケ」は、まんがにおける「奇想天外」「SFマガジン」の位置を占めようとした。だが、売れなかった。作家のせい、作品のせいとはあえて云うまい。現実の発行部数は、最低限は維持していたのだから。まんがの状況そのもの=まんがに対する資本の要求が、少数読者対象のアソビをゆるさなかったのだ。「ペケ」は、何よりも、百万二百万と回らなければまんが雑誌てないような現在の状況への突出としてあった。二万でも三万でもまんがであることを突きつけようとした。「ペケ」の価値はそこにしかない。それが敗れた。

我々はそれをこう総括しなければならない。それはCOMの縮少された再現であったと。「ぼくら」のまんがの再度の敗北であったと。

今日、まんが状況は、二つの頂点によって形成されている。(松田さんゴメンナサイ)

一方の極に樹村みのりをたてる。もう一方にさいとうたかををたてる。

樹村みのりとは、時代を生きていく一人の人間としての「生きて在る」ことへの様々な想いを、「問いかけ」として描き続ける作家である。その下に、萩尾望都以下の少女まんがの革新者たちが続く。少女まんがはぼくらの「生」をその基底におくことで変化した。

あえて云えば、少女まんがの70年代とは、貸本まんがの再来であり、青年まんがの内的なゲリラ戦であった。

少女まんがの裾野(火山灰の裾野)はさらに拡がり、同人誌を突き破り、三流エロ劇画へと潜っていく。

三流エロ劇画に「想い」はきれいすぎることばかもしれない。だが、ひたすらエロに走る彼らの営為は、決して娯楽に解消されることはない筈だ。エロを求めさせる、欲望もまた、ギリギリに押しつめられた「生」のエネルギーの別名ではないか。幻想とは、きれいであるとは限らない。三流エロ劇画の、女体ののたうちに、とびちる愛液にこそ女への怨みにも似たドロドロとした叫びをきくことができよう。それもまた想いだ。

少女まんがにおいて、読者は、描き込まれたものの中に作者を見つけ出す。一人の人間を見つけ出す。共感し、連帯する。三流劇画も同じだ。個としての作者はいない。だが、エロを求め、エロへと走らせる乾いた情念の存在を、しっかりとつかみとる。作品の中に、明らかに人間が生きていると感じることで、樹村みのり──三流劇画のラインは貫かれる。それは現実への否定的な契機であり、まんがに内包されていた、拒否の叫びである。

否定されるものとして、まんががその発生から備えていた対抗世界としての盾を、このラインは様々な形て突きつけてくる。まんがを描くこと自体が、現実への反対の表明であり、この現実にいつまでも語られてはいまい、という意志の宣言であった。

我々がまんがを選びとったということは、まんがが我々を育くんできた歴史の他に、我々がまんがを育くんできたのだ、という自負もある。70年、COMに、少女まんがに青年まんがに、その選択の跡は、くっきりと残されている。「巨人の星」の攻勢にもめげず、我々は「あしたのジョー」を、数々のものとして選びとった。救いあげたといってもいい。我々は、個が作品の中に入った時、それが擬制へと堕すると、直観的に知っていただろう。我々が求めていたのは、分析でも、告発でもなく、我々が生きのびていくための根拠であり、共に在ることの、確認であった。

それが、運動としてのまんがである。表現としてのまんがである。表現とは、個の内部の表白ではない。永島慎二にもはや用はない。

我々の表現とは、我々は、我々のものとしてのまんがにこだわりつづけることの表明でしかない。まんがが、不気味に動き続けるものであり、マネによって簡単に手に入るものであり、作家と読者がぎわめて近く、共に在るものである限り、まんががまんがである限り、我々はこだわり続ける。互いにそのことを確認し合い、読みとりあうことでまんがは成立してきた。

だが、一方で、まんがはマスプロダクションでもある。「想い」というごく私的なものが、まさしくマスプロダクションの内部に息づいてしまうこと、これがまんがの頂点でもあるだろう。音楽が、映画が似たようなことをする。しかし、まんが程には、それらのメディアが、受け手の内部に多様な反響をひびかせることはない。作品が作品であることを超え出て、受け手内部に確固たる世界を形成することはない。まんがは、作品でとどまりはしない。受け手の想像力が作品を媒介に、そのまわりに、種々雑多な神話的体系を生み出していくのだ。まんがは受け継がれていく。肯定と否定の交互にくり返される律動の中に、現実への反逆を培っていく。まんがの面白さとは、そこなのだ。

マスプロダクションのまんがを支配するのは、だが、こうしたまんがではない。さいとうたかおを頂点とするビッグコミック以下、多数の二流三流劇画誌、少年誌、少女誌の主流といわれる作品群。「一般性、娯楽性」を軸とするエンターテイメントのまんがは、そんな私的な思い入れは排除してある。現在、それはますます強化され、80年代に向けての主流になろうとしている。安定した技量、明確な物語、肯定しやすい世界観、“のたり松太郎”は確かに面白い。“浮浪雲”に感じ入ることもあるだろう。だが、あえて云えば、そうしたものの面白さを肯定するとは、現実を仕方のないものとして引き受けてしまうことでしかない。

SFまんがが、今日、きわめて重要な位置を占めねばならないのは、SFこそが、私的な想いを宇宙へととびたたせ、広大な時空への想いと結合させて、その巨大なゲームの視野から現実をうつからだ。個の想いを世界へと展開させた一つの例として手塚治虫がまんがにとって巨大な意味を持つのも、手塚治虫ただ一人が、まんがを、私的時空連続体としての力を充分知った上で、造りあげているからだ。松本零士と異なり、我々は手塚治虫に「個」を見ることはない。人間の息吹を感じることはない。ひたすら、「個」をのみ込み、拡がっていく巨大な誘惑としての世界があるばかりだ。

手塚治虫は例でしかない。まんがとは、我々にとって動いていくもの、激しく変化していくもの、常に否定するものであり、現実にNON!をつきつけるものである。それが、商業資本のただ中にあるからこそまんがはまんがなのだ。

つめる!(いい気分ですネ! 中島さん!)

今やまんがの戦場は商業誌へと戻らねばならない。まんがをついに捉えきれなかった齋藤次郎は、“だっくす”78年12月号て敗北宣言を出した。放っておけばよい。勝手に「弓子」や「みのり」をもてあそばせておけ! 重要なのは、同じく“だっくす”の中島梓だ。まさしく、まんが読者は、現在共闘を迫られているのだ! その共闘の軸に“だっくす”がなれるはずのないことは、斎藤次郎に対して、何の表明もしないことで明白だ。マニア向けにターゲットをしぼり、マニア向けの”情報”で作家の人気に寄りかかって売ろうとする“だっくす”に何がやれるというはずはない。

共闘の軸はない。そのことをはっきり知った上で、我々は危機の時代へと臨まねばならぬ。状況を見すえ、戦略をたて、まんがを、我々のまんがを断固として打ち進めねばならない。

読者諸君! まんがは、資本の論理によって支配されていることを忘れるな! まんがを擁護するとは、資本の論理の内部から、それを打ち果てさせること以外にない!

24年組を断固支持せよ!

三流エロ劇画を読み続けよ

評論家共をブチノメセ!!

まんがをまんがとして、求め続けよ!!

紙数がつきた。我々がまんがをあくまでも求め続ける限り、まんがを読みぬく限り、「ペケ」は幻になることはない。

さらば「ペケ」

その墓碑銘は、まんがへの戰いによって刻まれるのだ!!!

By バイ・バーディ

 

編集後記(川本耕次

☆今年の冬は寒くて長くなりそうな冬です。

大予言。これから漫画界は低迷期をむかえます。「出せば売れる」我が世の春をうたっていた少女漫画界も、萩尾・竹宮を喰いツブした後の新人がロクでもない連中ばかりでは維持できないだろうし、例によってマイナー作家の松本零士しかスターのいない少年漫画界では、ジャンプ以外には面白い雑誌はないし、三流劇画は清水おさむ次第でしょう。ガンバレ清水おさむ! 石井隆を越えられるのはキミだけだ!

☆PEKEは、そうした低迷期をむかえる漫画界に対するインパクト雑誌になれるはずだった──ということだけは最後に言っておきましょう。

さべあのまは少女漫画の世界を変えうる実力と魅力を持っているし、ああいう作家を見過ごしてきた漫画界はバカだ!としか言いようがないし、他の作家についても同じです。

☆リトルプリテンダーというロ●ータポルノの写真集がでてます。1●才くらいの少女が一糸まとわず、ワ●メちゃんさえむき出して…早く発禁になれ! 悪い子のロリコンマニアの男の子たちへ、おすすめ品です。ミリオン出版。千円。しかし世紀末ですなあ……。

☆いろいろ事情がありまして、みのり書房からさよならする予定てす。僕の寒くて長い冬がはじまります。そのうち読者の方とどこかの街角で出逢う事もあるでしょう。

☆近いうちに身銭をはたいてさべあのまの単行本を作ります。PEKEが送り出した唯一の新人。漫画界を変革しうる大型作家。「漫画新批評大系」という雑誌で連載もはじめるし、(5号、173ページ参照)彼女はますますがんばってくれるでしょう。OUTやだっくすに広告を出す予定でおりますので、出たら買って下さい。全作品未発表作です。(わっはは! 宣伝してもた)

☆というわけで、読者のみなさん、PEKEを買い続けてくれてありがとう。まだまだやり残した事はいっぱいあるような気もしますが、また言い足りない事もあるような気もするのですが、とりあえずはさようなら。これからはOUTをせっせと買ってやって下さい。何はともあれ、PEKEはこれで終りです。奇想天外のように復刊したり、幻想と怪奇のように復刊を予定して出なかったりする事はなく、おそらくもう二度と出る事はないでしょう。

…………さようなら。川本耕次

☆冷たい雨が降っています。冬の雨はつらい。濡れないですむならそれが一番いいけれど、今の僕はかなりぐっしょりと濡れているみたいだ。

人生を第三者としての立場で見るならば、一方でひとりの人間が勝ち、ひとりの人間が負ける、その一瞬が一番、面白い。残酷な言い方だけど面白いと言う。僕がスポーツ。その中でも、とりわけボクシングが好きなのも敗者と勝者、光と影のおりなす風景が僕自身の内部を写しだしてくれるからだ。ボクサーにとって勝つことは宿命。呆けた表情を浮かべてキャンバスに沈んて行く男を目にするたびにそう思う。負けた惨めさを償えるのは勝つことだけだ。女でもなく酒でもない。ひたすらカをたくわえることだ。ワンツーストレートの当て方。ウィーピング。ダッキング。軽ろやかなフットワーク。強靱な肉体。……。そして待つのだ。そうしたら、いつかきっと狙いすましたカウンターパンチが当ることだってある。

☆読者の皆さんには申し訳ないんだけど、6冊のペケを創ってくれた人達にこの場を借りてお礼を言いたいと思います。

関先生、どうも御苦労様、また麻雀やりましょう。

桑田先生、いつかお話して下さった先生のライフワークの完成お待ちしてます。

坂口先生、もっとたくさん漫画書いて下さい。

さべあさん、僕はあなたのファンです。

竹中先生、来年は先生の時代です。

日野先生、Bun(ブン)でガンバッテ下さい。

野口君、絵はもっとゆっくり書くように、絵を早く書く人とプロレスを八百長だという人は信用できないのだ。

吾妻先生、ロリコン少年の劣情をさらに刺激して下さい

いしかわ先生、ドラゴンは僕のヒーローです。

えびな先生、大学は卒業したのですか。

ひお先生、OUTでまた特集やります。

牧村先生、なかよしの漫画家さんを紹介して下さい。

絵でいえば佐藤まり子先生が好きてす。

めるちゃん、官能劇画の表紙書いて下さい。

それから、迷宮‘78の人達、深光君に水谷さん、いしいひさいち先生、柳沢健二先生、柳村亜樹先生、飯田耕一郎先生

どうもありがとうございました。そして何よりもペケを愛読して下さった読者の皆さんどうもありがとう。(一億人のお友達大山金太)

♡ペケ最終号記念プレゼント

スター☆シマックの関あきら先生の提供により、ペケも最終号にして、やっと大々的に読者プレゼントを実施します。内容はティーム・コスモカ・プロダクツ発行の『SOl』3をな、なんと50冊。関先生のサイン入り、シマックポスターを5名様にドカン、ドカンとパラッ、パラッとプレゼントしちゃうのだ。応募要領はペケ最終号で良かったもの三つとどうしようもなかったものを書いて、東京都文京区湯島1-10-4○○ビル2Fペケ残務整理ソルOrシマック係まで送って下さい。郵便番号は一一三です。

 

JUNEとPeke(米沢嘉博

最初の二年間ほどのコミケットの盛り上りと成長は、萩尾、竹宮、大島などの花の24年組少女マンガのブームと重なった為だった。古いタイプ、つまり『COM』世代の創作は退潮傾向にあり、少女マンガが圧到的に強かった時代だ。それに拍車をかけたのが、『漫画新批評大系』連載のホモパロディ巨編『ポルの一族』、ヘトガー・マラン・ジンガルベル・マホービンが折りなす狂気の変態世界は、少女たちを熱狂させ、ホモ・パロディを続出させることになる。また、コミケットを中心に、アニメ、少女マンガ、ロック、絵画、SF等に影響を受けた新しい感性の描き手達も登場していた。さべあのまめるへんめーかー高野文子高橋葉介柴門ふみ湯田伸子、etc。つまり、ようやっと、コミケットという場はプロダムとは違った世界を展開し始めようとしていたのだ。そして、それをすくいあげようという若い編集者も出てきていた。マルイの頃から集会に参加していた佐川氏、板橋あたりからスタッフとなっていた川本耕次氏。佐川氏は、半年かかって社長をくどきおとし、新雑誌創刊にこぎつける。なにしろ、毎朝毎朝、社長の机の上に新しい同人誌を置いての攻勢だったらしい。新雑誌は、美少年をテーマにした『JUN』。やがてタイトルは『JUNE』に変更となる。川本氏は、三流劇画特集の取材時のコネを生かしてみのり書房に入社し、どういう甘言をろうしたのか、マンガ雑誌をまもなく創刊させることになる。三流SFマンガ誌『Peke』がそれだ。共に78年の夏のことだ。同時期には『プリティプリティ』『はーい』が創刊されており『奇想天外』の“SFマンガ特集号”も出ていた。時代がそういった波にのりつつあったのかもしれない。つまり、メディアのニューウェーブだ。この二誌は半年ほどで休刊となり、いわゆる“ぼくらのマンガ”は敗退することになるのだが、それから数年後『JUNE』は復活し、『Peke』も『コミックアゲイン』と名を変え再生、ニューウェーブ・ブームを巻き起していく。

コミックマーケット準備会『コミックマーケット30’sファイル青林工藝舎 2005年7月 90頁(初出:米沢嘉博「夢の記憶 記憶の夢─コミケット私史─」の中「JUNEとPEKE」『コミケット年鑑'84』コミケット準備会 1985年8月 148頁)

三流劇画ムーブメント・エロ劇画ルネッサンス・ニューウェーヴが残したもの(1982年時点から見たニューウェーブ漫画の黄昏)

月刊『宝島』臨時増刊号『マンガ宝島』JICC出版局 1982年2月

三流劇画ムーブメント・エロ劇画ルネッサンスが残したもの―『アリス』『エロジェニカ』『大快楽』はニューウェーブを起用した

北崎正人

劇画アリス』『漫画エロジェニカ』が78年三流劇画ブームを荷なった劇画誌である。三流劇画誌の中で他のエロ劇画誌とこの2誌は、違った点があった。『劇画アリス』は表2で編集長自ら写真を掲載し、「劇画に愛を」などと、強烈なアピールをする点がそうであり、『エロジェニカ』は、『ガロ』のみで有名だった川崎ゆきおを起用する点である。この2つが、凡百のエロ劇画誌の中から、この2誌を、マンガマニアが注目することになった遠因で、あろう。『劇画アリス』の若い編集長の写真は、〈エロ劇画誌というものは、スケベな中年男が、スケベな変態マンガ家に描かせてつくっているものだ〉という、誤まったイメージを一掃するのに役立ち、『エロジェニカ』が川崎ゆきおを起用したことは、エロ劇画だけではなく、『ガロ』というマイナーな、マンガ誌に理解のある編集者もいるというマンガ・ファンにはうれしい事件であったのである。

マンガ・マニア「迷宮」が発行する『漫画新批評大系』で、三流劇画の特集が組まれたのは、77年のことである。やがで、その「迷宮」の司会によって『漫画エロジェニカ』『劇画アリス』『官能劇画』の編集長座談会が78年春『プレイガイドジャーナル』に掲載されることになった。いわゆる〈三流劇画ムーブメント〉は、この座談会を契機として始まった。

今、考えると〈三流劇画ムーブメント〉とは、日陰の存在であったエロ劇画にスポットライトを浴びせるマスコミ戦略のことを指していたといっていいだろう。言葉を変えれば、マンガ界のゲットーに市民権を与えることである。そして、〈三流劇画ムーブメント〉はそれ以上のものでもなく、それ以下のものでもなかった。まして、「劇画全共闘」などという愚かなレッテルは、誰がいったかは知らないが、ただの錯覚に過ぎなかったのである。

『報知新聞』が『劇画アリス』をとりあげ『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』が『漫画エロジェニカ』をとりあげその後78年9月に『11PM』が三流劇画の特集を組んだ。そして、『11PM』に出演したエロ劇画家4名のうち、中島史雄小多魔若史清水おさむ3名までが、『エロジェニカ』の執筆者であったことと、編集者の発言が、当局を刺激したために『エロジェニカ』は、ダーティ松本以下5名の作品によって78年、11月号が劇画史上初の発禁の栄誉を荷なうことになったのである。

また『別冊新評』が、当時、最も人気の高かったエロ劇画家「石井隆の世界」を出版し、続いて、79年初春に、「三流劇画の世界」を出版した。〈三流劇画ムーブメント〉は、ここで終止符をうったといってよい。

エロ劇画誌の中で突出した『漫画エロジェニカ』は、その後、いしかわじゅんを起用し「愛国」を掲載し、『劇画アリス』は吾妻ひでお起用し、「不条理日記」を連載する。この頃より、2誌は、エロ劇画誌というよりも、ニューウェーブといわれる作家に執筆を依頼することが多くなっていくのである。

それは、エロ劇画誌の中で『アリス』『エロジェニカ』とセットで〈御三家〉と呼ばれたもう一誌の『大快楽』が、ニューウェーブと呼ばれた、ひさうちみちお宮西計三平口広美を起用し、79年に名作を掲載する頃と一致した時期であった。『劇画アリス』は編集長が交代し、奧平イラ、まついなつきを起用し、『エロジェニカ』は、柴門ふみ鵠沼かを、まっいなつき、山田双葉を起用していくのである。

〈三流劇画ムーブメント〉の頃から、吾妻ひでおいしかわじゅん、その他ニューウェーブ系の作家たちが名作を生む時期までを総称して〈エロ劇画ルネッサンスと呼ぶ。

この3誌がニューウェーブ系の作家を起用する背景には、『大快楽』が『ガロ』の新人に注目した点と、『アリス』の編集に「迷宮」のメンバーが参画した点、『エロジェニカ』が、少年誌『ペケ』(『コミックアゲイン』)と交流があった点があげられるだろう。この3誌ともが、エロ劇画は、エロ劇画家が描けばよいという凡百のエロ劇画誌の持つ固定観念から自由な編集方針を持っていたのである。

劇画アリス』はまた、SF、ロックに理解があったために、平岡正明の他、鏡明征木高司などのコラムを掲載していた。

『エロジェニカ』は少女マンガに理解があったために、少女マンガ論を掲載し、マンガ作品に美少女路線をしき、ロリコン・ブームの先駆ともなっていた。コラムも、プロレス論(流山児祥)、SF論(岸田理生)、ロック論(平井玄)と、なかなかユニークなものであった。

その『エロジェニカ』と『大快楽』がケンカを始めたのが79年の秋のことである。流山児祥が『大快楽』の板坂剛を路上でKOするまでに論争はエスカレートするのであるが、これは、元全共闘とインチキ全共闘の戦いという60年代末期の香りがするいさましいものでもあった。そして、『劇画アリス』の元編集者が、やはりインチキ全共闘だと路呈するオマケまでついたのである。

『エロジェニカ』と『大快楽』の対立は、マニアの間では、少女マンガに理解のある『COM』派と、劇画主流の『ガロ』派の宿命の対決と呼ばれましたが、本当は、『大快楽』の冗談の度が過ぎたための偶発だったのだろう。

79年(引用者注:正確には80年)劇画アリス』は休刊となり、80年に『大快楽』の編集者は退社し、『エロニェニカ』は出版社がつぶれ、3誌の輝ける時期は終った。

そしてエロ劇画誌はエロ劇画家とニューウェーブ系のマンガ家が並んでかくことはなくなり、ロリコンの星内山亜紀谷口敬たちがどこまで名作を生むかを除いて、再び活気を喪いつつある。

エロ劇画ルネッサンスの名作は、その後、ブロンズ社、けいせい出版、久保書店などの単行本に収録されているが、当時の3誌は今では幻になってしまったのである。


ニューコミック派宣言 ニューウェーブ”から“ロリコン” “中道定着路線”、そして“ニューコミック”へ…

村上知彦

ニューウェーヴ」とは何だったのだろう。名付けられたブームのひとつにすぎなかったのか、それとも、やはり何事かが始まりつつあったのだろうか。

ぼくは今「ニューウェーブ」について、過去形で語っている。「二ューウェーブ」という言葉で語れるものについては、もはや過ぎ去った出来事のようにぼくは感じている。青年まんがと少女まんがと同人誌の結合として始まった「ニューウェーブ」は、それが少年まんがを欠落させていたゆえに、結局はメジャー雑誌の再編過程のなかに、個々の作家が召換されてゆくという結果を迎えており「漫金超」や「マンガ奇想天外」といった、時代を象徴する雑誌を生みはしたが、それらももはや創刊当初のようなインパクトはない。“波”は、たしかに去ったのだ。

ブームとしての「ニューウェーブ」は、すでに「ロリコン」へとその姿を変えている。その中にも、「ニューウェーブ」の影響は、たしかに流れこんでいるものの、それはすでに総体として質的な変化をとげてしまっているものだ。

「二ューウェーブ」とは、波であり流れであった。とすれば、それが向かっている方向こそが問題であったのだ。うねりの大小は、たかだか一時的な現象にすぎない。その波がいったいどこへ向かうのか、果たしてたどり着くことが可能なのか、そのためには何を、どうすればよいのか、それだけをほくらは問題にすべきだったのだ。

現状を分析する。1981年は分裂の年だった。まんが専門誌「ぱふ」の1ヵ月にわたる休刊と、そこからの「ふゅーじょんぷろだくと」の分裂。批評同人誌「漫画新批評大系」の80年2月発行14号から、81年12月発行15号まで一年間の空白と、その発行母体“迷宮”のメンバーが主要に担っていた同人誌即売会“コミック・マーケット”の分裂。その間、批評をもっぱら担っていたのは、ほとんど「マンガ奇想天外」1誌という有様だったが、その「マンガ奇想天外」も、SF誌「奇想天外」の休刊で奇想天外社危機説がささやかれる中、前途は決して明るくないし、「漫金超」は年4回発行を達成できないまま、部数が伸び悩んでいる状態だ。そこへ一周遅れで「マンガ宝島」が一参戦するわけだが、状況は大差ないだろうというのが率直な予想だ。

一方、78年末あたりで出揃ったメジャー系の「ニューウェーブ色」の強い新雑誌群も、模索期を終えてほぼ自らの位置を見定めた。その位置を一言で言ってしまえば、中道定着路線”である。「ニューウェーブ」でも人気のないものにはさっさと見切りをつけ、人気のあるものは、正面に押し出して売ってゆく。そして大半は、既成の作家、作品で埋めてゆくという方向である。ここでは「ニューウェーブ」は「ちょっと格好のいいキャッチフレーズ」といった扱いを受けている。「ギャルズコミック」「ヤングマガジン」「少年少女SFマンガ競作大全集」が生き残り、「ポップコーン」が「ジャストコミック」に変わり、「カスタムコミック」が縮小、「アクションデラックス」「ビッグゴールド」が撤退して行った経緯に、それは如実に現れている。「プチフラワー」が頑張っているのが不思議なくらいだ。

それらメジャーの「中道定着路線」に対し「ニューウェーブ」は何ら有効な対処ができなかった。阻止することはできなくても、利用することぐらいはできたはずである。メジャーに対する一定程度の影響力、発言力を保持することで、一種の二重権力状態をつくりだすひとつのチャンスを、ぼくらは逸してしまったのだ。その結果その後の旧雑誌の露骨な右寄り再編と、かっての「ニューウェーブ」がそれに、意識的と無意識的とにかかわらず、協力されられてゆくさまを、手をこまねいて見ているしかなくなってしまったのである。

ロリコン」ブームは、エロ劇画、少女まんが、アニメ、同人誌などの要素が混然一体となった、「ニューウェーブ色」の強いブームである。本来ならば、三流劇画が領導し、同人誌が補完して、他の全ジャンルに影響を及ぼしていたかもしれないブームである。それが結局のところ、あだち克(原文ママ)作品の売り上げに奉仕させられている。

あるいは、集英社鳥山明の「Dr.スランプ」を森永と原発のCMに売り渡すのを、ほくらはちょっとしたら、阻止できていたかもしれないと思うと、悔しさはかくせない。チャンネルゼロでは、今、いしいひさいちをモデルケースに、キャラクターの自主管理を考えているところだ。うまくいけば、他の作家にも声をかけようと思っている。すでに後手に回っている感はなきにしもあらずだが、手をこまねいているわけにはいかないのだ。

『波』は去った。残されたものは何か。幾人かの作家と、向かうべき方向への確信。とりあえず控えめに、それだけを言っておこうと思う。

大友克洋高野文子ひさうちみちお宮西計三吾妻ひでお高橋葉介さべあのま柴門ふみ近藤ようこ高橋留美子吉田秋生森脇真末味川崎ゆきおいしいひさいち、その他何人かの作家たち。彼らが示したのは、まんがは変わることができるという事実だった。それも、個々の作品ばかりではなく、誌者、出版、すべてを含めた状況全体として、まだまだまんがは変わらねばならないし、未知へ向って踏みだしつづけねばならないのだ。

再び現れようとしている亡霊、既知を粉砕せよ!

“波は去った。ひきしおに流されず、ふみとどまること。

その先に「ニューコミック」はみえるか?

米沢嘉博「ロリコンブームに物もうす──そりゃカワイイ女の子は好きさ。でも、ちょっと考えてくれ──ファッションとしてのロリコンなんて歪んでると思わないか」(月刊OUT 1982年4月号)

隆盛するロリコンブーム(二次元コンプレックス)に警鐘を鳴らす故・米沢嘉博の記事。最下段にそれまでの流れも概説。


 
ロリコンブームに物もうす by 米沢嘉博

みのり書房月刊OUT』1982年4月号

今、世の中はロリコンブームの絶頂期。そして、マスコミはこのロリコンブームに乗じていろいろ考えているらしい。しかし、ちょっと待て、ロリコンが大手を振って歩き始めるなんておかしんじゃないか、と米沢嘉博氏。

世にロリコンと病気を広めた人と言われる米沢氏が今度はゆがんだ方向に走りつつある今のブームの姿勢を問う!

 

美少女キャラはうれしいが

少女マンガに少女が出てくるのは当たり前だと思うし、少年マンガでも、ほとんど少年が主人公だから、相手役として少女が出てくるのが当然。もちろん、アニメだってほとんどが子供向きに作られてるから、少年少女が主人公であることは、まったく当然なわけだ。つまり、マンガとかアニメとかは、誰がなんと言おうと、少年・少女の世界なのだ。

どうしたって、アニメやマンガでは少年・少女が中心となる。で、その少年や少女は魅力的であるにこしたことはない。いやいや、パロティでもなければ、ヒーロー、ヒロインはできるだけたくさんの人間が魅力的と思う像で創ろうとするだろう。こうして、アニメやマンガには、カッコいい魅力的ヒーローがあふれるわけだし、ヒロインはかわいく美しく描かれるというわけだ。なんの話かって? 要するにマンガやアニメの中にかわいい自分好みの女の子像を発見することはたやすいってこと。同じく、理想のヒーロー像を見つけることもたやすい。現実に目を向けてみりゃ、それはものすごく難しいだろう。周囲を見回しゃブスにブ男。だったらマンガやアニメの中の、理想的二次元の恋人に目を向けてた方が精神衛生上いいのかもしれない。

少女マンガが魅力的少年を主人公に描きだした方が早かったようだけど、少年マンガも魅力的少女を前面に押しだしてきた。女の子が、オスカーとかジルベールと言いだしゃ、男の子だって負けてはいられない。というわけで少年マンガの美少女達ってのか注目されはじめたんだ。パンチラのいずみちやんとか「翔んだカップル」のケイちゃんとかがはしりだろう。

そんで、マンガの美少女見てカワイイーとか言ってたんだけど、これにくっついたのが「ロリコン」って言葉。中年男が幼い少女に魅了されてしまう「ロリータ・コンプレックス」とは全く違う意味で、「ロリコン」は動き始めちゃったようだ。マンガやアニメの中の美少女を「カワイイー」って言うたけで「おまえはロリコンだ!」と言われるようになってしまった。

だって、マンガとかアニメに描かれてるカワイイ少女ってのは、カワイクみんなに愛されるように描こうって意図で描かれてるんだから、それをたくさんの人間が「カワイイー」と思うってのは、作者の狙いがあたっただけであって、ケッコーとしか言えないような気がする。作者が「かあいいんだん」と思って描いた女の子を、みんながかわいいと思ったら、それは作者の力量や波長であって、読者のせいでもなんでもない。

かわいい女の子見てるのは気持ちいいし、マンガやアニメでもかわいく思える美少女が出てれば、そりゃうれしい。別にそういった傾向は歓迎されこそすれ、悪いことは全くない。女の子の絵姿やキャラクター作りに創り手が力を入れることは正しいと思う。

でも、それに身も心も入れこんでしまうとか、ロリコン遊びに熱中してしまうのは、ちいっとばかり問題かもしれない。なぜなら、しょせん、彼女達は作品の中でしか生きていないのだから。それもかろうじてである。

 

疑似体験を重くするなんて

で、問題があるとしたら、たぶん作品の読み方や読まれ方かもしれないと思うのだ。あるいは、それはマンガやアニメにとどまらぬ世界の読み方、読まれ方まで広がる読者の、認識、生き方の問題かもしれない。

マンガやアニメってなんだろう。ジャーナリスティックに言やあ、大衆工ンターテインメントってことになるだろうけど、それじゃ何も言ったことにならない。ぼくらにとって、いや、読者にとってマンガやアニメってなんだろう? このへんから始めるべきだろう。

それはどんなにしたって、疑似世界でありフィクション(創り物)である。いかに現実を写し、リアルに事を進めようとし、どのように感動しその世界にひたり込もうと、現実には何処にもない虚構の世界である。

マンガやアニメを見ることによってほくらが味わう体験は、疑似体験でしかない。その昂奮や感動、笑いは紙やブラウン管の上にのみ存在する異世界の中だけのものなんだ。フィクションってのは、もともとそういうものだった。創りあげられた世界の中で、主人公に感情移入して、冒険や闘いや恋を楽しみ、共感し感動する。

それは、生きていくことが大事であるというあんまし面白くもない日常の中に居る者にとって、しばし日常を忘れ別の世界に生きる楽しみを与えたわけだ。大衆エンターテインメントと呼ばれるものは、みんなこうした要素を持っている。気分をリフレッシュさせ今一度日常の中で生きていこうとするためにフィクションは力を持っていた。

もちろんそれだけじゃない。今ある世界を別の目で眺めるためにも、異世界体験ってのは力を持っている。ユートピアをフィクションで体験したら、その後自分の住む現実の姿みたいなものを考え始めるだろうし、生き地獄を見たら、こういう世界には住みたくないと思うだろう。

銀幕の美しい恋人達に溜息をついたら、そんな恋にあこがれるだろう。が、いかに日常的な世界で話が展開しようと、リアルなディテールが備わっていようと、創り物の世界であることはまちがいない。だって、送り出す方ってのは、受け手を感動させ昂奮させ、魅了させるための「物」を創りだしているのだからだ。

そんなことはわかってるって? でも、なんかいつの間にかフィクションの疑似体験と本当の体験ってのの重みの差がなくなりつつあるような気がするんだ。フィクションの感動を自分の物にするのはいいんだけれど、その感動や気持ち良さの方をつい優先させようとしているような気がしてしまう。

ここで最初の方に話は戻るんだけど、つまり同じことで、フィクションの中の少年や少女の方が、かわいくってカッコ良くって気持ちいいからって、そっちの方を大事にしすぎるのは、やばいかもしれないってこと。

そりゃあ、女の子はカワイイ方かいいし、気持ちのいいことの方が好きなのも当然だし、感動し昂奮できる体験の方がステキだってことはわかってる。けど、体で感じるのと頭でわかるのって、同じ次元で比べるものじゃないと思う。フィジカル、フィジカル……って歌い出すつもりはないけど、アニメやマンガの体験は疑似体験であり、そこに描かれてるキャラクターは何処にもいないってことは、言うまでもないフィクションを楽しむための大前提だろう。

世の中には暗い人と明るい人しかいないそうだけれど、暗いってのは、重い、難しい、しんどいってのも含まれてるようだ。で、明るいというのは、「あ、軽い」のことらしい。──なんのことはない。これすなわち、現実とフィクションの関係そのものなんだ。日常は暗くって、疑似体験は明るい。もしかしたら、そんなのわかってるかもしれない。

けど、フィクション世界ってのはそんなに大切に守るべきなのだろうか。日常だってすてたもんじゃないし、それに、案外この安穏とした日常もあやふやなものかもしれない。日常があって初めて、疑似世界とか異世界とかが言ってられるのだ。

 

社会や世界にもう少し目を

で、まあ、マンガとかアニメとかTVとかの疑似体験を大切にして生きていくことを否定するわけじゃないけど、なんかカプセルの中にとじ込もってるような気がするのだ。人とのつきあい方とか、世界との関係とかいったメンドイ事は外にはじきとばされて、自分の気にいったもんだけで、自分のカプセルの中に入ってるなんてことになりかねない。

──いかん、ロリコンから話がはずれてしまった。えーと、マンガやアニメの中に自分好みの美少女見つけるのはケッコー。それをネタにして、ヌードにしたりパロティにしたりしてのも、面白ければケッコー。別に誰に文句言われるスジアイもない。そんな楽しみ方ができるのがマンガやアニメの強みなんだし、同人活動の楽しみでもあるんだからだ。

でも、今のブームと言われるロリコンは、なんかちょっと違うような気がしてしまうのだ。こんなに明るく健康的に「わたしはロリコンですよーっ」と言えるのがまずおかしいと思う。だって、「ロリコン」てのは誉め言葉でもなけりゃ、偉いわけでもない。本来ならケーベツされかねないはずなんだ。

ただの生身の美少女ならまだ構わない。四十、五十になった中年の場合だと機会的に問題はあるかもしれないけど、まあいいだろう。でも、マンガやアニメに登場する絵、記号としての美少女に血道をあげてることを、大きな声でいえるわけがないじゃない。そのキャラに美しさやかわいさを見つけた自分の気持ちを大切にするってのはまだ話がわかるけど、単なる絵やキャラそのものを偏愛の対象にするのは、こりゃやっぱり「恥ずかしい」ことだ。ましてやそれを広言するなんて。

さらには、ロリコンじゃない者を排撃するという逆差別や、ロリコン仲間で「自分はいかにロリコンであるか」を証明するためにエスカレートしていくってのは、やっぱり、「ちょっと待て!」と言いたくなる。

「こんなのが好きなんて、あなたロリコンの気があるでしょう」

「い、いや、そんなことはないですよ」

―これが普通の対応である。いわゆる美少女願望やロリコン傾向があることは悪いことでもなんでもない。それをマンガやアニメの中で楽しむこともままあることだ。

ロリコンブームにのって、女の子がかわいくなるのもいいことだし、少女そのものをテーマとしたマンガやアニメが登場することも好ましい。で、読者が自らの中に、そういった物にあこがれる自分を発見することも、自分を知るにはいいことだろう。

そこから生まれてくる遊びも、もしかしたらすごい可能性を持っているかもしれない。──ただ、遊びをエスカレートさせ、ロリコンに強くこだわろうとするならば、趣味やファッションを通り越して、かなりゆがんだものになっていくだろう。それでなくても、ファッションとしてのロリコンとは、ゆがんだ状況を思わせるのだ。

自分を対象化できる視点を持たぬままの、自己の視点は、そのまま世界対自己という関係をキャンセルしてカプセルに退避することだ。カプセリズムの時代とは、未成熱の個人主義の時代のことだ。

簡単に言やあ、もうちょっと社会とか世界かに目を向けて、知ることで自分ってのは何かっていう、永年の人類の宿題を自分なりに考えていく必要があるんじゃないかってこと。そうでなきゃ、人とうまくつきあえなくなっちゃうし、現実と折り合いもつけられなくなる。自分の住んでいる日常がひどくなれば、妄想してるヒマもフィクションを楽しんでることもできなくなってしまう。そういうわけだ。

 

ロリコンブームの流れと現状

ロリータ・コンプレックスという言葉が最初に流行ったのは、60年代半ば頃だ。アメリカで精神分析用語のひとつとして定着し、二、三年遅れで日本でも使われるようになる。
72年には『エウロペ・12歳の神話』(剣持加津夫)が出、少女ヌード写真集の先がけとなり評判ともなるが、これを受け継ぐものはなかった。が、一部でルイス・キャロル再評価と共に「アリス」の小ブームが起こる。沢渡朔の『少女アリス』という写真集がでたのもこの頃だ。

そして、78年『リトルプリテンダー』という少女ヌードのムック本が、爆発的な売れ方をし、この流行に便乗した少女写真集が、続々と現れることになる。79年にはアリス出版という自販本出版社から専門誌(?)『少女アリス』が創刊され、次の年には吾妻ひでおの「純文学シリーズ」が連載されることになる。また、この年アリス出版の『グルーピー』では“アリス特集”を行っている。

コミケットを中心とする同人誌界では、『幼女嗜好』『シベール』といった同人誌が、どちらかというなら細々と売られていた。しかし、この年、つまり80年には、野口正之(内山亜紀)が三流劇画界中心に売れ出していた。『エロジェニカ』等も美少女中心に傾きつつあった。

前年から引き続いて吾妻ひでおの人気は高まりつつあったし、少年マンガ週刊誌でもかわいい女の子が登場するマンガは増えつつあった。『少年サンデー』路線がもっとも顕著だった。

80年暮れ『OUT』の「病気の人のためのマンガ考現学」で「ロリータコンプレックス」が取りあげられ、それは冬のコミケットでの『シベール』の異常人気へなだれ込んでいく。この時にやはり『クラリスマガジン』が評判を呼ぶことになる。──すべては、80年のうちに用意されていたようだ。

もちろんアニメファンの間でのクラリス、ラナ人気*1も忘れてはならないし、アニパロでの美少女キャラの登場も増えつつあった。マンガ、アニメファンの割合が女性中心から少しずつ男性を増やしつつあったことも理由かもしれない。

そして、81年同人誌界中心に「ロリコン」のブームが起こっていく。春、夏とコミケットではロリコンをねらった同人誌が急増し、男性ファンが増える。『OUT』『アニメック』といったファン雑誌も美少女キャラをとりあげることが多くなり、「ロリコン」という言葉が少なくともマンガ・アニメファンの間では一般的な言葉となっていくのである。

一方、あだち充が『みゆき』を中心として人気が高まり、高橋留美子細野不二彦、柴田昌宏といった、かわいい少女を描くマンガ家も人気を得てい三流劇画誌の中でも美少女やロリータを銘打った雑誌が登場する。内山亜紀作品を掲載する雑誌が増え、『ヤングキッス』等も創刊される。

マンガ情報誌『ふゅーじょんぷろだくと』が「特集・ロリータ/美少女」を行ったのは、81年10月のことだ。美少女キャラ、ロリコン同人誌マップ座談会etc.を内容とするこの特集号は、評判を呼び、“ロリコン”という言葉は前にも増してあっちゃこっちゃを飛び回り始める。

すでに「ロリータコンプレックス」という本来の言葉を離れて、実に軽くも華やかに「ロリコン」という新語は生きている。TVや週刊誌に「ロリコン」が取りあげられ、81年の風俗ということで「朝日新聞」はロリコン族の出現を書きとどめた。

こういったブーム的現象は82年になっても衰えるようすはなく、『レモンピーブル』(あまとりあ社)という、ロリコンマンガ誌の創刊をうながし、さらには大手出版社にまで波及しようとしている。その第一弾が徳間書店発行による『アップル・パイ』だ。
マンガ・アニメファンの新しい「お遊び」的なものから、商業ベースへの取り込みは、いったいどうなっていくかわからないが、ついに『少年チャンピオン』に登場した内山亜紀の『あんどろトロオ』は人気投票第一位であると聞いた。それにつれて、彼の単行本も次々と増刷ということになり始めたらしい。

あだち充の単行本も相変わらず、すこい売れゆきという、マンガ、アニメ界に起こった“ロリコンブーム”は、美少女キャラクターの再評価でもあったわけだし、男性ファンの復権も意味していた。作品の中に登場する美少女の魅力が注目されるようになったことは少年マンガにとって決して悪いことではないだろう。

ただ、アニメキャラの中に新しい美少女キャラが見当たらないという現状。さらにかわいい女の子とエロを出せばうけるというテクニックの定着。それはどちらにしても、未来にとって明るい材料ではない。

ロリコンという言葉は一人歩きをしはじめたその時から、本来の意味での「病気」であることをやめ、「趣味の傾向」みたいなものになってしまったようだ。さらには遊びの「道具」にだ。そうでなければ、ブームにはならなかったことは言うまでもない。──みんな失われた言葉を捜している……。

*1:東京ムービー新社ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインがクラリス日本アニメーション未来少年コナン』のヒロインがラナ。ともに宮崎駿キャラ。当時、吾妻ひでおさえぐさじゅんなどがパロディ風に描いたりしたこともあって、マニア的な人気を得た。またラナ人気やヒルダ人気はクラリスの流れでの再発見でもあったようだ。