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不幸論① 他人の不幸は「甘い蜜」あれば「まずい蜜」あり

他人の不幸は蜜の味、とはいうものの、メディアからは年がら年中、不幸なニュースが届けられては、ドヨーンと後味最悪な感覚を持ちつつ、いつしか忘れ、また…の繰り返しで御座いますよね。

一体何故でしょうか? 他人の不幸は蜜の味なはずなのに…

もしかしたら、他人の不幸を「エンターテインメント」として昇華するには、同情の余地がない「断罪的シチュエーション」と「カタルシス」が必須なのかもしれません。

唾棄すべき対象として心置きなく「ざまあみろ!」と思える感情しかり、現実ではなくフィクションの作品として「調理」された他人の不幸カタルシスが得られる場合ってのは、人間の理性で捉えられる良識や憐憫などの感覚が振り切れて、そのまま一周廻って「快感」として知覚・認識できてるって事なのでしょうね(これこそブラックユーモアの成立し得る仕組み・構造なのかもしれませんが)。

ちなみにブラックユーモアの対象が女子供ホームレス障害者不細工オタク少数民族といった社会的弱者だと「不快」の度合いが増し、権力者腰巾着DQN犯罪者バカップルといったクズ人間なら「快感」の度合いが増すという、典型的勧善懲悪型相関関係が存在するのではないかと思ってますが、前者も後者も平等に不幸になる蛭子能収氏や山野一氏の善型特殊漫画突き詰めた不幸描写においてもカタルシスが得られますし、ピカレスクロマンとかで、こうした典型的な「善と悪」という二項対立に基づく両者の関係性をいっそのこと置き換えたら、上記の相関関係が逆転する場合もありえますかね。

 

また「ギャグとホラー(と不幸)は紙一重」という特殊な方程式が影響してるのかもしれません。ギャグマンガ家の実録エッセイで、自身に降りかかった(あるいは起こした)不幸や逆境を「ギャグ」にしてしまうというのは、エッセイマンガの作劇手法としては比較的目立ちます(以下列挙)。

吾妻ひでお失踪日記
卯月妙子人間仮免中
花輪和一刑務所の中
沖田×華西原理恵子、まんしゅうきつこetc...

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また実録ではありませんが、不幸をギャグに昇華した作風の先駆者として、特殊漫画家の根本敬先生や山野一先生、そして限りなく実録に近い(であろう)作風だった故・山田花子先生などガロ系の偉大な漫画家達がいます。

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もちろん重苦しい壮絶な話を、重く、感動的、かつ社会派チックに描かれたら描かれたらで読みにくいのは確かですけど(笑)、いずれの方々の作品も、読者をむやみに感動させる方向に脚色して誘導してる訳でなく、「不幸のジェットコースター」の如く転落していく自分自身を淡々と描いていて、大手資本の好む美談とは全く無縁の、唯一無二と言っていい超然とした作品/作風に仕上がっています。

また純粋にギャグマンガとしてのクオリティーも非常に高く、近年のギャグマンガに見られる安易な不条理やシュールに逃げない(逃げようがない)正統なギャグの作風であることにも大変好感が持てます*1

彼らの場合、自身の不幸な境遇や過酷な体験を「安心」して「カタルシス」が得られるレベルにまで「調理」して読者に提供しているので、エンターテインメントとして成立している訳なのですが、もし(作品として昇華しきれてない)「生の状態」で目の前に出されたら、嫌悪感を抱くか、こんなやつ自業自得とか何とか思ってしまうかもしれません。

この「生の素材」こそ、まずい蜜の味の正体と言えるのではないでしょうか。

(つづく)

*1:また壮絶系エッセイマンガは現実にあったエピソードという「説得力」と「怖いもの見たさ」で、創作漫画とは違う方向でも話題になりやすく、ある意味で美味しいジャンルである。やはり一人ひとりの創造でしかない「創作」には限界があるし、このロクでもない「現実」こそ素晴らしいネタの宝庫なのだ。