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雑誌周辺文化研究互助

山野一「食えませんから」(ガロ1993年6月号)

 
自分が初めてガロに投稿したのは83年だから
もう今年で漫画家生活10年になる。
 
しかし偉そーに漫画家と言っても始めの2年は掲載してくれたのはガロだけ、よって収入はゼロ、アルバイトで飢えをしのいでいた。世間ではこーゆー人の事を漫画家とは言うまい。初めて単行本が出て印税というものを受け取った時は思わず目頭が熱くなった、あんまり安くて。それも旋盤工の月給程度の金額を御丁寧にも5分割で払って下さるのだ。商品としての自分の漫画の価値がいかに低いものであるかという事をつくづく思い知らされた。
 
それからSM誌とか土方向けエロ本なんかに描くようになりアルバイトをやめる。ところが不愉快な労働から解放され、やれ嬉しやと思ったのもつかの間、この手の零細雑誌はすぐ廃刊してしまうため、たちまち窮乏する。
 
家賃2万風呂無し共同便所の殺風景な四畳半。
あるのは醤油で煮しめたようなふとんと殺風景なスチール机だけ。ふとんは学生時代友人から貰ったもので、机はその友人と2人で大学から盗んだ物だった(真昼間に堂々と運び出したら別に誰にも見咎められなかった)。ガスや電話(漫画家の命綱)も止められ、コーヒーのお湯は電気炊飯器で沸かしていた。今思えばよく生きて来られたものだと自分でも感心するぐらい。
 
そんな荒廃した生活で自分は身も心も腐りはてていたが、どんなに惨めだろーが、どんなに落ちぶれ果てよーが、二度と再び働きに出るよーな事はすまい、ほんの少しでも世間の方々のお役に立つよーな事はやるまいと秘かに心に誓っていた。そんな心がけのせいであろうか、その後もこの世界ではひたすら冷遇され続けた。
 
自分の能力のうち評価されたのは多少絵が描けるという一点だけで、注文が来るのは明るいお色気物とかほのぼのサラリーマン漫画とか自分の性質とは縁もゆかりもないものばかりであった。
 
2、3年前ギガという漫画誌が創刊され、そこにルーキーリーグなる企画があった。数十人の新人漫画家が、秋元康とか高橋源一郎とかどーでもいーよーなやつらの審査の元、勝ちぬき戦をやるというバカバカしい物であった。本物の新人ばかりだと内容が希薄になるので誰も知らないよーなプロが何割かヤラセで雇われており、その一人が自分であった。
 
担当編集者が 「ウチはねえ、まともな商業誌ですから、ガロとかに描いてるよーなのは困りますから、なんかエッチな女子高生物とかそーゆのを描いて下さいよ」と言うのでその通りの物を描いてやった。完全になめられてるなァと思いつつもギャラの小銭が欲しかったのだ。結果はわずか2回戦でブザマに敗退した。
 
グランドチャンピオンという漫画誌の編集はめずらしく理解があり、最低限の規制はあるもののほとんど自由にやらせてくれた。うんうんここはいい会社じゃわいと思っていっしょうけんめい描いていたところたったの7回で打ち切りになった。7回すべてが読者の不人気投票No.1であったそーな。まあこの手の話を挙げれば枚挙にいとまがない。
 
自分の友人(日雇いガードマン32才)はこう言った。
「仕事とはそもそも不愉快なものだ。味あわされた苦痛や屈辱、そーゆーものの代価としてわずかな銭を受け取るのだ。」けだし事実であろう。そう思えば諦めもつくし何かこう安らかな気持ちになる。個人的な実感としてはガロで描き続けていた事はペルーの通貨を貯金していたよーなものであった。それなりの満足があるにはあるが、他所のどこへ持って行っても通用しなかったし、時にはマイナスにすらなった。
 
ガロというのは何でも描かせてくれるがそれで食っていくのは不可能。普通の雑誌は拘束されるが金はもらえる。
 
これから投稿して漫画家になろうというよーな人は、好むと好まざるに関わらずこの両極の間のどこかに自分の位置を見つけていかざるをえないという事を知っておいて損はないだろうと思う。
 
青林堂『月刊漫画ガロ』1993年6月号203頁より転載)