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米沢嘉博「ロリコンブームに物もうす──そりゃカワイイ女の子は好きさ。でも、ちょっと考えてくれ──ファッションとしてのロリコンなんて歪んでると思わないか」(月刊OUT 1982年4月号)

隆盛するロリコンブーム(二次元コンプレックス)に警鐘を鳴らす故・米沢嘉博の記事。最下段にそれまでの流れも概説。


 
ロリコンブームに物もうす by 米沢嘉博

みのり書房月刊OUT』1982年4月号

今、世の中はロリコンブームの絶頂期。そして、マスコミはこのロリコンブームに乗じていろいろ考えているらしい。しかし、ちょっと待て、ロリコンが大手を振って歩き始めるなんておかしんじゃないか、と米沢嘉博氏。

世にロリコンと病気を広めた人と言われる米沢氏が今度はゆがんだ方向に走りつつある今のブームの姿勢を問う!

 

美少女キャラはうれしいが

少女マンガに少女が出てくるのは当たり前だと思うし、少年マンガでも、ほとんど少年が主人公だから、相手役として少女が出てくるのが当然。もちろん、アニメだってほとんどが子供向きに作られてるから、少年少女が主人公であることは、まったく当然なわけだ。つまり、マンガとかアニメとかは、誰がなんと言おうと、少年・少女の世界なのだ。

どうしたって、アニメやマンガでは少年・少女が中心となる。で、その少年や少女は魅力的であるにこしたことはない。いやいや、パロティでもなければ、ヒーロー、ヒロインはできるだけたくさんの人間が魅力的と思う像で創ろうとするだろう。こうして、アニメやマンガには、カッコいい魅力的ヒーローがあふれるわけだし、ヒロインはかわいく美しく描かれるというわけだ。なんの話かって? 要するにマンガやアニメの中にかわいい自分好みの女の子像を発見することはたやすいってこと。同じく、理想のヒーロー像を見つけることもたやすい。現実に目を向けてみりゃ、それはものすごく難しいだろう。周囲を見回しゃブスにブ男。だったらマンガやアニメの中の、理想的二次元の恋人に目を向けてた方が精神衛生上いいのかもしれない。

少女マンガが魅力的少年を主人公に描きだした方が早かったようだけど、少年マンガも魅力的少女を前面に押しだしてきた。女の子が、オスカーとかジルベールと言いだしゃ、男の子だって負けてはいられない。というわけで少年マンガの美少女達ってのか注目されはじめたんだ。パンチラのいずみちやんとか「翔んだカップル」のケイちゃんとかがはしりだろう。

そんで、マンガの美少女見てカワイイーとか言ってたんだけど、これにくっついたのが「ロリコン」って言葉。中年男が幼い少女に魅了されてしまう「ロリータ・コンプレックス」とは全く違う意味で、「ロリコン」は動き始めちゃったようだ。マンガやアニメの中の美少女を「カワイイー」って言うたけで「おまえはロリコンだ!」と言われるようになってしまった。

だって、マンガとかアニメに描かれてるカワイイ少女ってのは、カワイクみんなに愛されるように描こうって意図で描かれてるんだから、それをたくさんの人間が「カワイイー」と思うってのは、作者の狙いがあたっただけであって、ケッコーとしか言えないような気がする。作者が「かあいいんだん」と思って描いた女の子を、みんながかわいいと思ったら、それは作者の力量や波長であって、読者のせいでもなんでもない。

かわいい女の子見てるのは気持ちいいし、マンガやアニメでもかわいく思える美少女が出てれば、そりゃうれしい。別にそういった傾向は歓迎されこそすれ、悪いことは全くない。女の子の絵姿やキャラクター作りに創り手が力を入れることは正しいと思う。

でも、それに身も心も入れこんでしまうとか、ロリコン遊びに熱中してしまうのは、ちいっとばかり問題かもしれない。なぜなら、しょせん、彼女達は作品の中でしか生きていないのだから。それもかろうじてである。

 

疑似体験を重くするなんて

で、問題があるとしたら、たぶん作品の読み方や読まれ方かもしれないと思うのだ。あるいは、それはマンガやアニメにとどまらぬ世界の読み方、読まれ方まで広がる読者の、認識、生き方の問題かもしれない。

マンガやアニメってなんだろう。ジャーナリスティックに言やあ、大衆工ンターテインメントってことになるだろうけど、それじゃ何も言ったことにならない。ぼくらにとって、いや、読者にとってマンガやアニメってなんだろう? このへんから始めるべきだろう。

それはどんなにしたって、疑似世界でありフィクション(創り物)である。いかに現実を写し、リアルに事を進めようとし、どのように感動しその世界にひたり込もうと、現実には何処にもない虚構の世界である。

マンガやアニメを見ることによってほくらが味わう体験は、疑似体験でしかない。その昂奮や感動、笑いは紙やブラウン管の上にのみ存在する異世界の中だけのものなんだ。フィクションってのは、もともとそういうものだった。創りあげられた世界の中で、主人公に感情移入して、冒険や闘いや恋を楽しみ、共感し感動する。

それは、生きていくことが大事であるというあんまし面白くもない日常の中に居る者にとって、しばし日常を忘れ別の世界に生きる楽しみを与えたわけだ。大衆エンターテインメントと呼ばれるものは、みんなこうした要素を持っている。気分をリフレッシュさせ今一度日常の中で生きていこうとするためにフィクションは力を持っていた。

もちろんそれだけじゃない。今ある世界を別の目で眺めるためにも、異世界体験ってのは力を持っている。ユートピアをフィクションで体験したら、その後自分の住む現実の姿みたいなものを考え始めるだろうし、生き地獄を見たら、こういう世界には住みたくないと思うだろう。

銀幕の美しい恋人達に溜息をついたら、そんな恋にあこがれるだろう。が、いかに日常的な世界で話が展開しようと、リアルなディテールが備わっていようと、創り物の世界であることはまちがいない。だって、送り出す方ってのは、受け手を感動させ昂奮させ、魅了させるための「物」を創りだしているのだからだ。

そんなことはわかってるって? でも、なんかいつの間にかフィクションの疑似体験と本当の体験ってのの重みの差がなくなりつつあるような気がするんだ。フィクションの感動を自分の物にするのはいいんだけれど、その感動や気持ち良さの方をつい優先させようとしているような気がしてしまう。

ここで最初の方に話は戻るんだけど、つまり同じことで、フィクションの中の少年や少女の方が、かわいくってカッコ良くって気持ちいいからって、そっちの方を大事にしすぎるのは、やばいかもしれないってこと。

そりゃあ、女の子はカワイイ方かいいし、気持ちのいいことの方が好きなのも当然だし、感動し昂奮できる体験の方がステキだってことはわかってる。けど、体で感じるのと頭でわかるのって、同じ次元で比べるものじゃないと思う。フィジカル、フィジカル……って歌い出すつもりはないけど、アニメやマンガの体験は疑似体験であり、そこに描かれてるキャラクターは何処にもいないってことは、言うまでもないフィクションを楽しむための大前提だろう。

世の中には暗い人と明るい人しかいないそうだけれど、暗いってのは、重い、難しい、しんどいってのも含まれてるようだ。で、明るいというのは、「あ、軽い」のことらしい。──なんのことはない。これすなわち、現実とフィクションの関係そのものなんだ。日常は暗くって、疑似体験は明るい。もしかしたら、そんなのわかってるかもしれない。

けど、フィクション世界ってのはそんなに大切に守るべきなのだろうか。日常だってすてたもんじゃないし、それに、案外この安穏とした日常もあやふやなものかもしれない。日常があって初めて、疑似世界とか異世界とかが言ってられるのだ。

 

社会や世界にもう少し目を

で、まあ、マンガとかアニメとかTVとかの疑似体験を大切にして生きていくことを否定するわけじゃないけど、なんかカプセルの中にとじ込もってるような気がするのだ。人とのつきあい方とか、世界との関係とかいったメンドイ事は外にはじきとばされて、自分の気にいったもんだけで、自分のカプセルの中に入ってるなんてことになりかねない。

──いかん、ロリコンから話がはずれてしまった。えーと、マンガやアニメの中に自分好みの美少女見つけるのはケッコー。それをネタにして、ヌードにしたりパロティにしたりしてのも、面白ければケッコー。別に誰に文句言われるスジアイもない。そんな楽しみ方ができるのがマンガやアニメの強みなんだし、同人活動の楽しみでもあるんだからだ。

でも、今のブームと言われるロリコンは、なんかちょっと違うような気がしてしまうのだ。こんなに明るく健康的に「わたしはロリコンですよーっ」と言えるのがまずおかしいと思う。だって、「ロリコン」てのは誉め言葉でもなけりゃ、偉いわけでもない。本来ならケーベツされかねないはずなんだ。

ただの生身の美少女ならまだ構わない。四十、五十になった中年の場合だと機会的に問題はあるかもしれないけど、まあいいだろう。でも、マンガやアニメに登場する絵、記号としての美少女に血道をあげてることを、大きな声でいえるわけがないじゃない。そのキャラに美しさやかわいさを見つけた自分の気持ちを大切にするってのはまだ話がわかるけど、単なる絵やキャラそのものを偏愛の対象にするのは、こりゃやっぱり「恥ずかしい」ことだ。ましてやそれを広言するなんて。

さらには、ロリコンじゃない者を排撃するという逆差別や、ロリコン仲間で「自分はいかにロリコンであるか」を証明するためにエスカレートしていくってのは、やっぱり、「ちょっと待て!」と言いたくなる。

「こんなのが好きなんて、あなたロリコンの気があるでしょう」

「い、いや、そんなことはないですよ」

―これが普通の対応である。いわゆる美少女願望やロリコン傾向があることは悪いことでもなんでもない。それをマンガやアニメの中で楽しむこともままあることだ。

ロリコンブームにのって、女の子がかわいくなるのもいいことだし、少女そのものをテーマとしたマンガやアニメが登場することも好ましい。で、読者が自らの中に、そういった物にあこがれる自分を発見することも、自分を知るにはいいことだろう。

そこから生まれてくる遊びも、もしかしたらすごい可能性を持っているかもしれない。──ただ、遊びをエスカレートさせ、ロリコンに強くこだわろうとするならば、趣味やファッションを通り越して、かなりゆがんだものになっていくだろう。それでなくても、ファッションとしてのロリコンとは、ゆがんだ状況を思わせるのだ。

自分を対象化できる視点を持たぬままの、自己の視点は、そのまま世界対自己という関係をキャンセルしてカプセルに退避することだ。カプセリズムの時代とは、未成熱の個人主義の時代のことだ。

簡単に言やあ、もうちょっと社会とか世界かに目を向けて、知ることで自分ってのは何かっていう、永年の人類の宿題を自分なりに考えていく必要があるんじゃないかってこと。そうでなきゃ、人とうまくつきあえなくなっちゃうし、現実と折り合いもつけられなくなる。自分の住んでいる日常がひどくなれば、妄想してるヒマもフィクションを楽しんでることもできなくなってしまう。そういうわけだ。

 

ロリコンブームの流れと現状

ロリータ・コンプレックスという言葉が最初に流行ったのは、60年代半ば頃だ。アメリカで精神分析用語のひとつとして定着し、二、三年遅れで日本でも使われるようになる。
72年には『エウロペ・12歳の神話』(剣持加津夫)が出、少女ヌード写真集の先がけとなり評判ともなるが、これを受け継ぐものはなかった。が、一部でルイス・キャロル再評価と共に「アリス」の小ブームが起こる。沢渡朔の『少女アリス』という写真集がでたのもこの頃だ。

そして、78年『リトルプリテンダー』という少女ヌードのムック本が、爆発的な売れ方をし、この流行に便乗した少女写真集が、続々と現れることになる。79年にはアリス出版という自販本出版社から専門誌(?)『少女アリス』が創刊され、次の年には吾妻ひでおの「純文学シリーズ」が連載されることになる。また、この年アリス出版の『グルーピー』では“アリス特集”を行っている。

コミケットを中心とする同人誌界では、『幼女嗜好』『シベール』といった同人誌が、どちらかというなら細々と売られていた。しかし、この年、つまり80年には、野口正之(内山亜紀)が三流劇画界中心に売れ出していた。『エロジェニカ』等も美少女中心に傾きつつあった。

前年から引き続いて吾妻ひでおの人気は高まりつつあったし、少年マンガ週刊誌でもかわいい女の子が登場するマンガは増えつつあった。『少年サンデー』路線がもっとも顕著だった。

80年暮れ『OUT』の「病気の人のためのマンガ考現学」で「ロリータコンプレックス」が取りあげられ、それは冬のコミケットでの「シベール」の異常人気へなだれ込んでいく。この時にやはり『クラリスマガジン』が評判を呼ぶことになる。──すべては、80年のうちに用意されていたようだ。

もちろんアニメファンの間でのクラリス、ラナ人気*1も忘れてはならないし、アニパロでの美少女キャラの登場も増えつつあった。マンガ、アニメファンの割合が女性中心から少しずつ男性を増やしつつあったことも理由かもしれない。

そして、81年同人誌界中心に「ロリコン」のブームが起こっていく。春、夏とコミケットではロリコンをねらった同人誌が急増し、男性ファンが増える。『OUT』『アニメック』といったファン雑誌も美少女キャラをとりあげることが多くなり、「ロリコン」という言葉が少なくともマンガ・アニメファンの間では一般的な言葉となっていくのである。

一方、あだち充が『みゆき』を中心として人気が高まり、高橋留美子細野不二彦、柴田昌宏といった、かわいい少女を描くマンガ家も人気を得てい三流劇画誌の中でも美少女やロリータを銘打った雑誌が登場する。内山亜紀作品を掲載する雑誌が増え、『ヤングキッス』等も創刊される。

マンガ情報誌『ふゅーじょんぷろだくと』が「特集・ロリータ/美少女」を行ったのは、81年10月のことだ。美少女キャラ、ロリコン同人誌マップ座談会etc.を内容とするこの特集号は、評判を呼び、“ロリコン”という言葉は前にも増してあっちゃこっちゃを飛び回り始める。

すでに「ロリータコンプレックス」という本来の言葉を離れて、実に軽くも華やかに「ロリコン」という新語は生きている。TVや週刊誌に「ロリコン」が取りあげられ、81年の風俗ということで「朝日新聞」はロリコン族の出現を書きとどめた。

こういったブーム的現象は82年になっても衰えるようすはなく、『レモンピーブル』(あまとりあ社)という、ロリコンマンガ誌の創刊をうながし、さらには大手出版社にまで波及しようとしている。その第一弾が徳間書店発行による『アップル・パイ』だ。
マンガ・アニメファンの新しい「お遊び」的なものから、商業ベースへの取り込みは、いったいどうなっていくかわからないが、ついに『少年チャンヒオン』に登場した内山亜紀の『あんどろトロオ』は人気投票第一位であると聞いた。それにつれて、彼の単行本も次々と増刷ということになり始めたらしい。

あだち充の単行本も相変わらず、すこい売れゆきという、マンガ、アニメ界に起こった“ロリコンブーム”は、美少女キャラクターの再評価でもあったわけだし、男性ファンの復権も意味していた。作品の中に登場する美少女の魅力が注目されるようになったことは少年マンガにとって決して悪いことではないだろう。

ただ、アニメキャラの中に新しい美少女キャラが見当たらないという現状。さらにかわいい女の子とエロを出せばうけるというテクニックの定着。それはどちらにしても、未来にとって明るい材料ではない。

ロリコンという言葉は一人歩きをしはじめたその時から、本来の意味での「病気」であることをやめ、「趣味の傾向」みたいなものになってしまったようだ。さらには遊びの「道具」にだ。そうでなければ、ブームにはならなかったことは言うまでもない。──みんな失われた言葉を捜している……。

*1:東京ムービー新社ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインがクラリス日本アニメーション未来少年コナン』のヒロインがラナ。ともに宮崎駿キャラ。当時、吾妻ひでおさえぐさじゅんなどがパロディ風に描いたりしたこともあって、マニア的な人気を得た。またラナ人気やヒルダ人気はクラリスの流れでの再発見でもあったようだ。