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雑誌周辺文化研究互助

最初それ(=ロリコン漫画)は邪道を自覚した遊びのはずであったが!?(蛭児神建)

最初それは邪道を自覚した遊びのはずであったが!?

蛭児神建

所載『ロリコンKISS』(1986年4月/東京三世社

 

まず最初に、漫画同人誌界が有った。漫画家予備軍の素人衆がとにかく自分が描いた作品を他人に見てもらいたいと、自費出版した本を持ち寄って売り合う、そんなママゴト遊びの様な即売会が有ったわけだ。少々鼻につく自己満足的な部分も強かったが、それはそれとしても情熱に燃えた心の底から描く事を愛する若者の集まりであった。

そんな中から「ロリコン同人誌」と呼ばれる物が出始めたのは、70年代末から80年代初頭にかけての事だった。アニメや少女漫画の影響下で育った世代であるアマチュア作家達が、そうした絵によるエロ漫画を描き始めたのである。

最初それは、一種の座興…邪道を自覚しながらの遊びであった筈である。心の底には常に、いつの日か立派なプロとなって描くべき正当な漫画が有った。だからこそ、売る側にも買う側にも一種の羞恥心が存在し、それがかえって屈折した仲間意識を生んでいたのである。

そして、そんな流れの中で漫画を愛しながら純文学を目指していた私自身も“少女”をモチーフとしたエロ小説を黙々と書き続けてコピー誌を作っていた。一番最初のロリコン漫画同人誌を『シベール』と言い、私がやっていた文章ロリコン誌を『幼女嗜好』と言った。

全ての歯車が狂い始めたのはそれがブームとやらになった時からだった。シビアに言えばたかがエロ本である筈の同人誌に照れも恥らいも無い若者達が行列を作る様になり、同様のエロ同人誌が雨後の竹の子の如く生じた。

それは、まあ良い。劇画的な絵ではチンポの立たない世代が、はじめて自分達を興奮させられるメディアに出会えたわけだから。しかし奇妙なのはそんなたかがエロ本を、何か高尚でナウイ流行と誤解した不思な風潮が生じた事である。とはいえ、ここまではまだ東京ローカルの閉鎖的同人界内部でのみの出来事だった。

これに目を付け、ロリコンの商品化に先鞭を付けたのがマニア向けの漫画評論誌『ふゅーじょん・ぷろだくと』の56年10月ロリコン特集号であった。

ここの編集部に、例の大塚某と緒方がいた。その上にまた、例の高取英氏や川本耕次氏まで出入りしていたわけだ。あのクソ馬鹿馬しいロリコン・ブームとやらゆう騒ぎは、ほとんどこの四人がでっち上げた物である。

マチュア作家にとって、どんな代物であれ“商業誌”とは巨大な魅力をもった存在である。それに目がくらみ、成行きでデビューしてしまった私は、幸か不幸か遊びでやっていたエロ小説がマジの仕事になってしまったわけである。人間、何処で道を踏み誤るか分からない。

最初の美少女漫画専門誌である『レモンピーブル』の創刊は57年。同人誌「人形姫」のメンバーが、内山亜紀氏によって久保書店に紹介された事から始まった。彼等もまた、世間知らずのまま、遊び半分でやっていた事でプロとなってしまったのである。私も便乗して読物記事を担当し、初めての連載を持った。

作家のほとんどが元より一緒に遊んでた仲であり、その仲間意識は「皆で雑誌を盛り上げよう」という意識の原動力となった。その為、初期の『レモンピープル』は異常な程のパワーを持つ雑誌となった。しかしそれは、やがてナレアイを生む結果となり、久保さんがハッキリと物を言わぬ性格である事もあいまって作家の心に甘えを生じさせた。

その上、同人誌の世界からも縁が切れず「オレ連のミウチから出た英雄」とでも言う様な扱いをうけ「オレは××先生の友達なんだぜ」と自慢す太鼓持ち人種を生み「先生、先生」とおだてられ…こうして厳しい出版界全体から隔離され、あの雑誌は余りに居心地の良いヌルマ湯と化したのである。

自業自得として、作家は脱皮する事も出来ぬまま進歩が止まり、メジャーへ行くチャンスが有っても、それを利用するだけの強さを失ってしまった。この甘えの体質が、やがて業界全体を支配し始める。編集に少し厳しい事を言われただけで、傷付き、被害者となり、陰で悪口を言い触らす幼児的な作家ばかり増えたのだ。

それでも2年間続いた『レモンピープル』の独占体制を崩し、太平の夢を覚ましたのが、大塚某が白夜書房から出した『漫画ブリッコ』である。その後『メロンコミック』やら緒方の『アリスクラブ』やら、多くの亜流誌が生まれては消え、現在は戦国の様相を呈しているが、例の体質だけは伝統的に継承されてきた。

どんな雑誌であれ最初は面白くとも、やがてナレアイに堕す。最近思うのだ。この業界、作家も編集も雑感そのものさえ、共に消耗品ではないかと。

(プチパンドラ編集長/蛭児神建