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ロリコンマンガブームの裏に潜む現代社会の抑圧された性(吾妻ひでお・内山亜紀・千之ナイフ・川本耕次・高桑常寿・蛭児神建・原丸太)

ロリコン漫画ブームの裏に潜む現代社会の抑圧された性

今、女子高生はオバン!  感じる女というのは3、4歳から中学生までというロリコン時代。しかし、こんな小さな子供たちの近親相姦、輪姦、SM、レイプなどで興奮したりするのはいったい何故だろうか? また、彼らの宝物は小学生の赤いランドセルや制服、着せ替え人形などだそうだ。ロリータ・ブームをつくったというべきマンガ家や編集者たちに、このブームについて尋ねてみた。





 

このブームはどこからきたのか

「やあ、マーちゃん大きくなったね(半年ぶりかな……マーちゃんのお尻にさわるのも)」

「いやんお兄ちゃん、ここじゃいや……早く早くおへやに行こっ!」(中略)

「あふあふ お兄ちゃん。お、願い痛くしないで…ネ」

「さあマーちゃん、足の力を抜いて」

「あっ痛い…お兄ちゃん! 痛い」

「やっぱりまだ無理だなあ」

「ごめんね、お兄ちゃん」

内山亜紀ロリコンABC」久保書店より)

これ、今、大ブーム「ロリコンマンガ」よりの1節。ロリコンマンガ2大双璧のひとり、内山亜紀氏のマンガからの抜粋だ。はやりのロリコンモノを、片っぱしから読んでみた。登場ロリータは3、4歳から中学生。レイプあり、近親相姦あり、輪姦あり、SMあり(Sが男でMがロリータ)、排泄物嗜好あり、グロありで純粋ロリータも出てくれば、いつもミダラなロリータもいっぱい。はたまたひと昔前なら、小学生しか相手にしないような純情アニメ・キャラクターもゾクゾクいる。マンガのみでは足りなくて、実物ロリータ写真集なんてものは溢レテイルノダ。なんでこんなにもロリコンがはやっちゃったんだろう。ロリコン雑文家と称する蛭児神建氏は「青春ヤング雑誌だ!」というし、ロリコン同人誌研究家・原丸太氏は「“ボク、ロリコンなの”は若者のコミュニケーション手段」というし、でもこのブーム、いったいどこから出てきたんだろうか?

 

ロリマンガに火をつけた同人誌

かれこれ10年程前「エウロペ 12歳の神話」(ブロンズ社)という少女写真集が出た。その後「聖少女」(フジアート出版)や沢渡朔の「少女アリス」(河出書房新社)「リトルプリテンダー」(ミリオン出版)などの着服あり、ヌードありのさまざまな美少女写真集が次次と出版された。「リトルプリテンダー」などは52年出版の軽装版が、この8月「フォーエヴァー」という副題がついて、豪華版として発売された。これ、なんか知らん間にジワジワ売れ出した。買う層は、仕事疲れしたような40歳ぐらいのオジサン。その中の一部には、おとなしそうなナヨッとした大学生も含まれている。出版元では、なんで売れるか理由がわからなかったそうだ

大人のワレメはだめだけど、子供のなら許される。おんなじワレメが写ってて、ちゃんと見えるから売れるんだベェ」。そんな風に推測していた。確かにそういう意味で買う人もいた。でも、実際はもっと違った兆しを内包していたんだよね、今考えると。

このころと時を一にして、テレビ界ではタレントの低年齢化が始まっていたのです。単純に考えれば子供が早熟になったんで、それに見合ったヒーロー、ヒロインが誕生したってわけだけど、いやいや、ヒロインのファンの年代は低年齢層も増えたけど、今まで通りの年代層もそのまま存在していたんだよね。

原氏はアグネス・ラムちゃんの登場、つまり体は大人だけど顔は子供のようなヒロインの登場は、この前兆だったとにらんでいる。でも究極的に(大ゲサかな)のロリマンガブームに火をつけたのは、同人誌の世界だった。

原氏によると、日本初のロリコン誌は「愛栗鼠」(東京・アリスマニア集団・キャロルハウス出版部)で78年12月創刊(創刊号のみだった)。コミケ(コミック・マーケット/コミック同人誌即売会)10で紙袋に入れられ、人目を忍ぶように売られていたという。ロリコンの元祖といわれる「シベール」(東京・シベール編集部)が創刊されたのは少し遅れて79年4月。「愛栗鼠」の増刊「ロリータ」も79年4月に創刊されたが、まだまだブーム到来には至らない。80年夏のコミケ15では性描写のないアニメ美少女キャラクターの登場する「クラリス・マガジン」(東京・クラリスマガジン編集室)が現れた。ロリコン誌「ロータリー」(東京〈チヨダ〉・ロータリー・クラブ)も登場したが、わずか13部のコビー誌だった。そして80年12月号のアニメ雑誌「OUT」で、米沢嘉博氏による「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」が発表され、「ロリコン」なる言葉が一躍、脚光を浴び始めることと相成るのである。

同人誌の世界ではその後、続々とロリコン専門誌が発表されていく。

それが一般誌に飛び火した、というのが実際のようだ。少年マンガの世界は主流がアクション。ことの成り行きは叙事的、プラス、ギャグ。それに飽きた人々は一時、少女マンガの世界に手を出した。そしてそこからのおみやげが精神的な抒情世界。でも、やっぱり少女マンガじゃピッタリこなくて男性読者向けに出てきたのが、美少女を中心にしたロリコンマンガ。

化粧品CFではやった「処女と少女、娼婦と」───そして「人形」は寺山修司氏によると「自由にできる」という意味で同一なんだそうだけど、「自由にできる美少女」が主流になってきた。当然、エログロ・SM、その他が付随してくるわけだけど「ロリコン大全集」(群雄社発行)編集の川本耕次氏によると、SMや変態には流行があるのだそうな。20年前は切腹や女性のフンドシ、生首がはやったそうで、今はその対象がロリコンなんだ、という。

ロリコンのエロはもとは中・高生、あるいはエロ本を見ない、いい子の大学生が求めた結果だったんだけれど、エロ劇画本も新しいロリコンエロに便乗しちゃった、ということだ。新開発の分野ってところかな。そこでマンガの世界・空想の世界、ロリマンガはいいようにエスカレートしていく───。

ついでながら、ロリマンガを支持できたのはアニメ世代でもある。アニメというのは、ほとんどが子供っぽいキャラクターが登場する。超常現象などの研究家である志水一夫氏によると、3等身というのはホ乳類においては共通の愛着・親しみを覚えるという。そこらへんを突いたのがアニメの等身分割だが、アニメで育った世代はアニメから離れられない。ロリマンガには珍しい女流作家・火野妖子氏は「彼らは自分の年齢がアップしているのに、アニメにしがみついている」という。結局、性的対象もアニメの登場人物、つまり低年齢の女の子ということになり、ロリマンガを支える重要な人々になっちゃうのだね。性的官能描写、あるいはレイプやSMなど過激なシーンが多いのを称して「ハード・ロリコンマンガ」と呼ぶんだそうだ。それに対して、「ソフト」が存在する。

少年マンガのなかで「ウジウジマンガ」というのがあるそうで、少女マンガの精神面は取り入れたけど、少年誌なのでハデに女の子とやっちゃうわけにもいかない。状況設定なんかは少年モノなのでハードにできない。でもこれはソフトとは言えない。真正ソフトの多くは、アニメ世代に存在する。対策はロリータちゃん。でも、頭の中であらん限りの空想をするなんてとんでもなくて、ロリータたちが服を脱ぐのもイヤ、という人たちがいる。そんな彼らの部屋はマンガ家・千之ナイフ氏によると「まるで女性的。女の子のもつ物やレースのカーテンなんかがある」なんていう風で、彼らはひたすらロリータたちとの自己同一化に進むということになる。

 

ロリータ・コンプレックスとは

さっきから「ロリコン」とか「ロリータ」とかいってるが、果たして「ロリータ・コンプレックス」とは何なのだろう。もとをたどれば、起源は1955年のソビエトにまでさかのぼる。

ソ連出身の作家ウラジミール・ナボコフが、「ロリータ」という小説を発表したのだ。ハンバート卿というオジサンが、ロリータという少女を愛してしまう小説なのだが、アメリカの精神分析学者ラッセル・トレイナーの「ロリータ・コンプレックス」という本には、「出版後すぐに臨床医たちの報告書に、ロリータとかハンバートという名称が使われるようになった」とされている。ナボコフは、「ロリータ」は9~11歳、「ハンバート」(愛する側)はロリータと最低10年、一般的には30~40年の年齢差が必要、としている。まあ、大学生のロリコンなら9~14歳の条件はなんとか満たせるけど、中学生ともなると5歳以下の幼児、ということになってしまう。しかし、ロリコンマンガファンやロリコンの人たちは、こんな定義なんてあんまり関係ない。言葉だけ借りてきた、というのが実状だ。では、現在の「ロリコン」の定義というと、これ実に難解。

大人の女になりかけの少女のいい人、まるっきりの少女がいい人、いやいや幼児のいい人などさまざまである。年齢上からロリコン、アリ(アリス)コン、ハイ(アルプスの少女ハイジ)コンという分類もある。

千之ナイフ氏によるとロリータ=少女婚婦、アリス=少女処女とも分けられるのだそうだ。それに前述の「ソフト派」「ハード派」が加わる。「レモンピープル」(あまとりあ社)という「ロリコン&美少女コミック」と銘打った雑誌では「ロリコン激論」というのが繰り広げられているがハード、ソフトの双方に言い分があるようで、決着はいつまでたってもつきそうにはない。

でも、中学生ぐらいはまだいいとしても、高校生や大学生がそんなアニメックなヒロインのことでケンケンガクガクするなんてなんか変な感じ。それほど夢中になるほど魅力あるのかな。実際にさわれる、ワレメちゃんだって見せてくれる、セックスだって可能な本モノの3次元に生きてる女の子の方が、どれだけいいかしれないのに───と考えるのは、アナタ、分かってない。彼らは同年代の女の子が嫌い(中には同年代の彼女を持ってる、純粋ロリコンから言わせると無節操なヤツラ、もいるそうだけど)なんだ。「ロリコン童貞説」というのがあって、前述の川本氏も「ロリコン白書」(白夜書房)編集の高桑氏も、太鼓判を押して「事実です!」というのだ。

高桑氏はこれを「ザコンなどの要素も入り混じっての処女願望ですね」という。セックスに引け目を感じた青年たちが、「女」の代償に少女を求めるというのだ。書店で本が品切れで、発売元を直接訪れる人がいる。そんな彼らは共通して「おとなしそうでナョッとしてて、決して女なんて口説けてうもない」風貌なんだそうだ。

かのバンカラで鳴らした早稲田大学にも「童貞同盟」とか「ふくらんだそでの会」(つまりセーラー服の愛好会ということ)があるという。彼らは、遊びでカッコつけてやってるのかもしれないけど、案外それをタテマエとする仮面をつけて、ホントの部分をカムフラージュしているのかもしれないのだ。

川本氏の話はもっと手厳しい。ロリコンの彼らは、母親の言いつけをハイハイと素直に聞く、とってもいい子なんだそうだ。ビニ本裏本なんて見ちゃいけないもので、平凡パンチやプレイボーイも「エロ本」なので見ちゃいけないから見ないという。マジメでデリケートで、それでもってセックスは「罪悪」と思ってるんだって! 同い年の女の子の発展ぶりには到底ついていけないというより、大人の女性の性器は変な物がついていてとてもキタナイ! と思っているらしいのだ。でも、体の発達は順調な男の子。当然、ギャップが生じるワケだけど、その欲求を拡張するスべを知らない。そこで、少女の性器はキレイとなる。川本氏のキツイ言葉だと、彼らは「暴走」か「ホモ(実行)」か「ロリコン(空想)」に走るしかないのだ。

 

何故架空の少女を求めるのか?

そこで問題は、「少女」に向くのは何となくわかるとして、なんで紙の上の架空の少女たちへ向かうのかしら……。伊藤つかさ松本伊代だって十分、対象となるんじゃないかしらね。アニメ世代だという理由はうなずけるけど。それにはまず、彼らが普通の男の子たちの発展から、取り残された種属であることを考えなくちゃいけない。

彼らにとっては実在するヒロインというのは、直接的すぎるんだ。実在ということは生身ということ。自分のモノにならない生身の女性は、嫌悪で恐怖なのだ。そこで彼らは架空のヒロイン、つまり2次元の世界には安心して入ることができる。ロリコンは今、「2次元コンプレックス」とも言われている。でもね、今のテレビ界のヒロインで本当の清純派がいなくなった、という意見もある。昔は吉永小百合さん、なんていう今でも十分清純な人がいたけど、今のヒロインにそんな人はいない。

女子高校生や女子中学生の悪さは、とうに露見してしまった。少女雑誌の記事ときたら、男性雑誌が「女性がキミに気のあるときのOK仕草の見分け方」なんてやってるのに、ソノモノズバリ!  なんだよね。ディスコ殺人の中学は避妊リングを入れてたっていし、女の子はもうちょい、その露骨さを隠していた方がよかったのかもしれない。「ブリッコ」がはやるのは、女の子がその本性を隠すことのメリットを、本能的に感じた結果だと思うのだ。でも結局、ブリッコはブリッコで、純粋な男から見れば仮面の下の本性なんミエミエなんだよね

 

空想じゃなくて妄想の世界……

ここでロリコン雑文家・蛭児神建氏に登場いただこう。彼の名言をひとつ。

守ってあげたい、思ってあげたいと、いじめたい、襲いたいが交錯した心理」。

ああ、これがハードロリコンの真ズイなのかな。過去の歴史を振り返ると12歳はもう大人だった。彼の研究によると江戸時代に7歳で子供を生んだ、という記録があるという。確かに古代ローマやインド、ヨーロッパ、日本の平安朝、現在の原始民族、すべて女の子は幼くしてお嫁に行った。蛭児神氏の資料によると、初潮1年後が理想的初体験年齢だという。つまり、教育年数が長いとそれだけ子供期間が延び、肉体の完成度と社会的抑圧のギャップが増大する。だからロリコンというのは、そのギャップを超えた自然な姿なのだという。女子大生なんて全く魅力対象外なのだ

彼に言わせると「女性は神秘的で、分からぬもの」だから引かれる。今の女性は生の姿をむき出しにしすぎて、神秘性を衰失してしまったという。ある女性作家の言葉で「女性がひとりでいるときにすることを見れば、男は決して結婚しないだろう」というのがあるんだそうだが、確かに女性が男の支配下でぬくぬくと安住を求めるには、つくろったり化けたり仮面をつける必要がある、という無意識の知恵が働いたのだろう。しかし、今女性解放とか女性が稼げるようになると、女はその仮面をベリベリとはがし、それが女子中・高生にまで及んでしまったのかもしれない。

その魅力を感じなくなった女性への不信とゲンメツに社会的抑圧、例えば受験戦争や教育ママ(ママゴンという言葉があるけど、これも今思えばアニメ界から発祥しているようだ)の影響から、楽しかった幼いころへの回帰願望がプラス。

母親におまかせ、ママのいうなり(キャラメルママ)なんていうマザコンも加わって彼らは小さい女の子しか愛せなくなってしまった───。おとなしく善良でやさしい青年たちは、抑圧によるストレスで屈折した人間となってしまったのだ。彼らがひたすら求める少女たちは素直で純粋、それでいて分からないものへの憧れを満たしてくれる、小悪魔性を持った妖精のような神秘のベールをまとった生き物なのだ。

でも、自分の肉体的欲望とのギャップ! 実際に少女を襲っちゃうのかな。本には、「少女のコマシ方」とか「幼女とのラーゲ」とか「幼女にチンポ汁を飲ませる」なんて出てるけど、あれはフィクションゆえの過激なんだそうだ。実行に及ぶヤツは、ロリコン仲間から見てもやっぱり変態でツマハジンキだという。それに日本の法律だと「13歳に満たない者」とナニスルと、強制や脅迫しなくとも(つまり合意であっても)ワイセツ行為・姦淫、ともども刑務所行きなのだ。結局肉体的欲求を満たすため、2次元世界はますます過激になる。少女にワルサすると、彼女たちはインランか、またはセックス大嫌いの彼らのイヤガル女になっちゃうことを、彼らは無意識に知っているのかもしれないのだ。そこで蛭児神氏は言う。「空想じゃなくて妄想、妄想ですよ。不毛だなあ、不毛の世界ですよ」と。いくら少女なら思うようになる、という大前提はあっても、所詮実行に至らない2次元世界ということか。奇麗な夢は奇麗なままで、犯すのは頭の中だけで満足なんだ。

 

ブームを作ったマンガ家たちは

では、実際の供給者であるマンガ家諸氏は、どういう頭ン中で作っているんだろうか。2大双璧のひとり、内山亜紀氏は大人を描いても子供になる、という人。彼は玉砕主義。ダメならダメで始めたらアタッちゃった。金を出して買ってもらうのだから面白くなくちゃ、というサービス精神をもって、「スカートめくりは終わった」という観点で描いたらこうなった。マンガは直接読者と対話しないので、初めはあったハジもどんどんかき消え、エスカレートしたという。「マンガはね、ワタシの排泄なんですよ」。空想の世界、実際はありえないことなのだから何をやってもいい。だったら、どんな人でも心の底に持っている外には出せないことや、オドロオドロしいものを全部出しちゃってやろう、というのがこの結果。自分のことを「ごく一般の変質者」という。全く正常。ちょっと陰湿なイメージの世界を描く千之ナイフ氏は、会ったらビックリ。明るく元気な人。「実生活では年上の女性の方が好きだし、恋人も年上」だなんていってる。「アニメや少女マンガの可愛いキャラクターと、官能世界の単純なドッキングです」と語る。今はもう美少女が出ればロリコン。遊びをやるならトコトン、という根性だ。でも「同世代の男が子供っぽい。少年のままって感じ」ともいう。この人も正常。女性作家・火野妖子氏も正常(顔写真、お見せできないのが残念。親に内緒でロリコンやってるのだそうだ。前出の蛭児神氏は親にばれて白い眼で見られている、ということ。ロリコンやるのも大変だ)。彼女は、学年誌のマンガを描こうと志したことがあるという。それで子供を描いていたら、いつの間にかロリコンマンガ家にされていた。ロリコンマンガ家といわれる人たちはおうおうにしてそうだが、人からロリコンマンガ家といわれてから、ハタと気がついている。双璧のもうひとり、吾妻ひでお氏はその呼称に抵抗を感じ、嫌がっている。氏のキャラクターには、昔からロリコン風の女の子が出ていた。だから、ブームとも思っていないのだそうだ。でも聞くところによると、彼は昔アグネス・チャンのフアン。今は和田アキ子。「アグネスというのは、母性と少女を兼ね備えていませんか?」というのは、ある編集者から受けた示唆。吾妻ひでおはマザコン、という説があるらしい。千之ナイフ氏もロリコンの人の口から母親の悪口、嫌悪をよく聞くという。ウルサすぎる母親、教育ママ、過保護の母親。ひっくり返すと、少女へという方、程式ができるのです。

内山氏から「処女願望」って言葉も聞いたけど、「マンガはみんな遊びですよ」というのは原氏。「だって男の処女願望、正真正銘“オレのモノ”だったら、そんなキャラクターのレイプシーンや官能シーンを読者に見せられるわけないでしょ。読者の目にさらせるキャラクターなんだから、やっぱり遊び!」これは鋭い指摘。同人誌の世界のハード化現象は、ただ単に買い手のニーズに合わせただけらしい。900から1000のひしめく同人誌の中、幻のロリコン誌などは1冊300円の物が、1万円にまでつり上がっているという。中には「もってるとつかまるよ」という本もあるらしい。同人誌の人たち、お金があってやってるわけじゃないから、コミケに売りに来たら売り尽くさなきゃ帰れない、という状況もあるんだそうだ。「ニーズ好みのロリコン」、それも一層「ハードに」というのが同人誌過激の現状らしい。マンガ世界はあくまでマンガ世界であり、案外単純な処女願望により落とされた年齢の美少女と、官能描写のドッキングをロリコンマンガに仕立てちゃったのは、どうも新しモン好きのマンガファンより、真正ロリコン者だったようだ。それに美少女ヌード写真集もその要素があったので引きずり込まれ、また禁止になったチャイルドポルノグラフィーやビデオファンまで巻き込まれてしまった。

 

女の子のロリコンが最近激増!

最近では女の子のファンも増えてきた。「私ロリコンよ!」というのは、ブリッコに代わる代名詞で「私、美少女よ!」いうことだなのだそうだが、彼女たちの本音は「私もあの主人公の少女みたいにされたい」ということらしいのだ。ハードについては、「あれは男の正常な欲望だから当然でしょ」と肯定的。ロリコンマンガファンの男の子たちは、「あれは空想の2次元世界だけのこと」と思って喜んでるのに、彼女たちはちゃっかり3次元に置き換えて「自分にもあんなことやって!」って思ってる。ああ、このギャップ! 男はデリケートで純粋なものを机上に求め、女は現実の肉に走るのかなあ。

今叫ばれているロリコン者のために一言。40過ぎのオジサンが幼い子にイタズラするのは別だが、ロリコン者はフツーの恋愛・セックス段階を通り越していない。通り越していなくても幼女強姦する人、あれは別。彼らは、ひたすら妄想の世界を超えないのです。実行者を彼らは、「変態」と呼ぶ。もうひとつ彼らの言う「変態」があるが、それは「ソフトロリコン」の変形で、少女との同一化を目指す人々なのです。

コミケでお祭りとしてアニメキャラクターの扮装をして、遊びを超えた人たちがいるそうだ。彼らは少女を「自由にする」なんて冗談じゃなくて、自分がその少女になってしまう。憧れの世界にもぐり込み、そのままになってしまうのである。セーラー服を買い込んでソデを通してみたり、部屋を少女趣味一徹にしてみたりする。少女のパンティー集めるとか赤いランドセルを撫で回すとか、フェチシズムの世界に入り込む人もいる。または、家帰ってお人形と遊ぶという人形嗜好になる人もいる、コレクターも多いが発達すると、むしろ偏執狂者になる。アニメキャラクター商品を全部集め(ときには人から盗みたくなる)、アニメやCFのロリータを残すためにビデオを買ったり、ポスターを何としても集めたり、ときには自分を偽って彼女たちの所属プロを調べ上げる。だけど、これは彼らの必死の哀しい存在証明なのだ。でも、そんな世界に生きてるなんてカワイソー!

川本氏が言うには、「ハード派は正常な肉体欲求があるんだから、まだ結婚できる可能性もある。でもソフト派には、1回なったらもう終わりだね」。ああ、ソフトに明日はない? だけど蛭児神氏や久保氏、原氏も言ってたけど、まだ清純な子供時代への願望は誰にでもあるんだよね。それが男性のみ自然発生的に表面化する、というのは、女性がいかに現実的で強いか、ってことの証明かもしれないけど───。女は自分自身に男の望むロリータを求め、男は自分のほかに心から愛せる女───ロリータを求める、ってところかな。だからロリータ願望は、誰の心にもひそむ清らかな心だと思うのです。

でも、年が経つうち体も大人になるし、社会的責任とか自分で自分を食わせなきゃ、なんて問題が出てそうもいっていられなくなる。その時、スムーズにロリータを心の奥底に大事にしまい込んで(または忘れて)鍵をカチャリとおろした人と、しまい込むなんてとってもできず、まだまだその中にひたり切って泳いでいる人と、その違いがロリータコンプレックスの始まりのように思えるのです。その飛び超える一線を渡してくれないのは、今の現実の世界や育った環境で、そこで彼らは「現実対処能力に欠ける」なんて言われることになる。でもできることなら、よい女性にめぐり会って(なかなかむずかしいことで、いたとしても彼女たちが、彼らを愛せるかどうかは疑問)楽しい3次元の世界を発掘してほしい、とひとえに思うのであります。(文/目方海里)

 

所載:サンデー社『Mr.Dandy』1982年11月号(No.129)