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雑誌周辺文化研究互助

『ヘイ!バディー』編集長が語る「少女写真講座」

以下の文章は80年代の少女雑誌*1に掲載された少女写真講座である。

現在では不適切な表現も使われているが資料的観点や筆者のオリジナリティを尊重し、そのまま再録した。

白夜書房『Billy』1981年6月創刊号所載「少女の時代」第1回。のちに同社発行の『Hey!Buddy』が少女雑誌化したことで連載はそちらに移籍する。なお撮影者の高桑常寿は同誌編集長で、後に少女写真から足を洗い、1991年よりアフリカ人ミュージシャンのポートレート写真を撮影することが現在まで続くライフワークとなる)

 

ロリコン写真術講座・少女写真とはエロ写真のことだ

文と写真/本誌編集長・高桑常寿

これは本誌編集長であり一方「少女の時代」を本誌連載中の高桑氏の独断的少女写真論だ。軟弱ロリコン写真青年よ。少女写真のあり方を再考せよ!

自分の撮り方にあくまでもこだわれ! などと挑発してみたりして......。しかしそうなのだ、犯罪写真だろうと、パンチラ写真だろうと、始めるなら最後まで完徹すべきである。信念を持って少女写真と取り組むべし。

 

 

少女写真とはエロ写真の事である。そのエロとは極私的なものである。

しかしそれはロリコンムックにあるような割れ目が写っていなくては何のインパクトも持ち得ない少女ヌードや、パンチラを強調するためにワザと顔をカットした写真や、尻と足の線をきれいに見せるために広角レンズでそのアップを狙った写真等が、スケベでオナニーの対象として実用できるからと言うわけではない。

それは単にスケベな写真ではあるが、エロではない。単に盗み撮りであり、単にモデルを使ったヌード撮影にすぎない。エロとはもっと極私的であり、その手ざわりが伝わってくるべきものである。

写真機を通して少女と正面から向き合う。写真機を向けた瞬間に僕とすれ違う、少女の残酷にも成長し続ける肉体自体がエロなのだ。僕はその肉体を写真機で切り盗ればいい。切り盗られるものは、少女の肉体なのか、それとも僕の時間なのか、それは知らない。知らなくてもいい。だがその傷口が、少女写真―エロ写真として痛みのように定着される。その痛みがエロと感じられ、そうして写された、少女と撮影するものとの関係が透けて見えるような写真がエロ写真と呼ばれるにふさわしい。

何もこれは少女写真に限った話ではない。物を撮るにしろ、少女以外の人物を撮るにしろ、撮影する者と撮影される者との関係がエロであり、その関係が何らかの形で見る者を打つ写真がエロ写真だ。撮影する者とされる者との関係は、芸術でもなんでもなく商業主義でもない。もちろん写真を見る者に対するサービス精神は忘れてはならないが、僕には少女といかに関わって写真を撮るかという意識のあり方の方が、少女写真を撮る者にとって、はるかに重要に思われてならない。

何やら荒木経惟氏がずっと言い続けている「写真とはエロである」という主張を、少女写真について言い替えただけのような形になってしまったが、要するにそういう事なのだ。

荒木氏は廃刊になった『絶体絶命』や、今人気の『写真時代』等に少女写真を発表しているが、氏の写真の中でも、少女写真と妻である陽子さんの写真を、僕が特に愛するのは、撮影する者とされる者との関係があらわに写真に表れているからだ。

荒木氏は、林静一氏との対談(『少女』河出書房新社に収められる)の中で次のように語っている。

「私の一種の口説きっていうのは、どういうところを見てどういうところを撮っているかっていうことを的確に教える、シャッター音を聞かせることなんだ。たとえば、あそこから見てれば私のパンツ見えちゃうんじゃないかしらってあたりからカシーンと押す。上に登って跳んでごらんてっていうときは、登ったところを撮るんじゃなくて、降りるところを撮る。そうすると、何を撮ってるのかわかってくるわけ、このおじちゃんいやらしいって。少女の場合は音で、それを連続的にやっていってわからせる。そのとき、嫌がったり、逆に開き直ってくるという女の本性を表すんだね。たとえば、学校で決められた黒い水着を持って一緒に海へいった子がいるんだ。夏の終わりの海は人がいないから、秘密めいた場所、となると、女はカンがいいから“二人だけの空間だ”というふうになるわけね。そこには一種の警戒心と同時に開放的な気分もある。そこからはじまるんだ。」

この荒木氏の語りは何もパンツを撮る方法を語っているのではなく、少女を撮るときの少女と荒木氏の関係のあり方を語っている。少女をどういうふうに撮っているかをわからせて撮る、と荒木氏は言っているのだ。

荒木氏の場合は、事前に少女を撮るという了解を得て撮影に出かけている。だが、スナップの時に少女との関係を作るためにはどうしたらよいのか。それは簡単である。隠し撮りをしなければよい。「あなたを撮ってますよ」という撮り方をすればよい。少女が自分が撮られていると意識できる位置から写真機を向ければよい。それを意識した時に少女から伝わってくる感情、それは驚きであったり、はにかみであったり、喜びであったり、あるいは拒否であったりするが、それに撮る者が反応すればいい。シャッターを押せばいい。それが撮る者と撮られる者の関係である。

少女ヌードもいいし、隠し撮りのパンチラにも存在価値はある。それを撮ることにエロを感じて撮り続けている人も、それはそれなりの写真であるのだから、否定はしない。撮り続けるべきだと思う。いや、僕はそうした、両面に定着されたエロ、撮る者と撮られる者の関係性のないスケベ写真を好んで見る。そうした写真を見たいという欲望は大きい。だが、自分自身で撮ろうとは思わない。ヌードを撮るにしても、割れ目が見えなければ何のショックもないような写真を撮ろうとは思わない。

 

エロ写真=少女写真にはいわゆる技術など必要ない。必要なのはその意気込みだけである。

僕が少女写真を撮り始めるきっかけを作ってくれたのは、倉田和彦というカメラマンだった。倉田氏と始めて(原文ママ)会ったのは四年近く前になる。東京のあるビニ本製作会社に彼と僕は相前後して入社したのだった

それまで彼は京都に住み、ずっと少女のスナップを撮り続けていて、膨大な量のベタと紙焼きを持っていた。「京都新聞には競技会や運動会の案内が出ているから、それを調べて日曜になると自転車で走りまわって撮るんだ」と言って、山と積まれた写真を見せてくれた。ブルマーからすらりとした足を出した少女、体操競技用のレオタードがはちきれんばかりの少女。競泳用の透けるような水着に身を包んだ少女、制服を着て電話をかけながら写真機をいぶかしげに見つめている少女などなどなど、僕はそれらに完全に圧倒されてしまった。そして彼は言った。

ブルマー写真はエロ写真の原点だ」

何がなんだかわからぬうちに、僕は85ミリを付けた一眼レフを買っていた。彼の写真には少女と彼との関係がはっきりと写しこまれていた。だからこそ僕が圧倒されたのだ、と今にして思う。彼の少女写真=エロ写真だったのだ。エロ写真は感動的なのだ!! と言ってもいいのではないかしらん。

エロ写真にはいわゆる技術なんて必要ない。少女写真を撮り始めた僕に当時技術があったわけでもなく、今もそうである。いいなァと思えるものがエロ写真=少女写真であるというだけの事だ。そういう感情が引き起こされる写真は、撮る者と撮られる者との関係が透けて見える。

だいたい今の写真機は、いわゆるバカチョンをはじめとして、一眼レフまで、シャッターを押せば写ってしまう。被写体さえあれば写真機のほうで写真を撮ってくれるのだ。だから技術に関しては写真機に任せっぱなしで一向に差し障りない。それでも不安だという向きは、その辺の本屋でよく見かける「スナップ撮影方入門」とか「ポートレート入門」とかをちょっと立ち読みするくらいで十分だ。

それよりも撮る以前の意識の問題の方がクローズアップされるべきだ。その前にももう一度断っておくが、以下にのべる少女写真=エロ写真とは、少女と撮る者との関係が透けて見えるような写真のことである。

エロ写真を撮るためにはやはり「エロ写真を撮りたい。ボッキする写真を撮りたい」という止めがたい欲望をふくらませなければならない。少女にエロを感じるヘンタイにならなければならない。少女にエロを感じるという事は、ヘンタイに他ならない。それを肝に命じなくてはいけない。ロリコンってやはりヘンタイなのだ。自分はヘンタイなのだという罪の意識を持たねばならない。そういう意識を持たないロリコン写真青年が多すぎる。

そういう青年は一度少女に「ヘンタイ」と呼ばれてみるべきである。彼女らは残酷である。その眼は冷徹にロリコンを見すえている。「チカン」「ヘンタイ」等は彼女らの口ぐせである。それに恥じ入ってしまうようなロリコン青年は、少女写真など写そうと思わない方がいいだろう。それに快感を覚え、「ヘンタイ」と呼ばれるたびに、快感に身をわななかせて射精するというのも問題があるが......。

 

エロ写真にはエロ写真の規則が存在する。その第一条件は美少女であることだ。

ところでエロ写真にはいわゆる技術は必要ないと書いたが、エロ写真にはエロ写真の規則みたいなものが厳然と存在する。エロ写真は、実用に耐えなくてはならないのだ。写真をみながらマスターベーションにいそしむ、それがエロ写真の持つ効用であり、それが最低条件なのだ。芸術ではないのだ。その条件を満たすために、少女写真においてどうすればよいのだろうか。まず被写体―少女探しである。写真は写真機とフィルムがあれば写るものではない。街に出かけて行って被写体―少女を探さねばならない。写真はここから始まるのだ。それからである。被写体の条件探しは。

その条件とはまず顔である。何がなんでも第一に顔がよくなければならない。今まで書いてきた「少女」とは「美少女」以外の何ものでもない。ブスは「少女」とは言わないのだ。だからブスが写っている写真は「少女写真」とは言わないのだ。いくらスタイルが良く、その姿態がなまめかしくてもブスが写っている写真でマスをかこうという気になるか? 雑誌のグラビアの例を出さなくても、それは自明の事だ。

そして顔の写っていない写真も「少女写真」とは呼び難い。耳のアップだけでマスがかけるか!? 尻のアップだけでマスがかけるか!? 指先のアップだけでマスがかけるか!? それはフェチシズムでしかない。ロリコンはフェチとは対照的な位置にあるヘンタイなのだ。フェチで実用を行うのは他の人種にまかせておけばいい。ロリコンとは「この少女はこうするとどういう表情をするのだろうか?」と想像力をカキたてて実用を行う人種なのだ。

第二には少女の服装である。

これは肌の露出が多いほうがいいに決まっているし、ゆったりとしているより、体にフィットしているほうがいい。そしてブルマーがいい。これは説明するまでの事もないだろう。肌や体の線が露出するほど想像力を働かせる部分が少なくはなるが、刺激は大きくなるのだから。そうした意味では、コート、マフラー、手袋といったヨロイが登場する冬は最悪の条件である。

第三には少女の動きである。

少女が左を向いて直立しているとする。撮影しようとするものは少女にとって右横にいるわけである。その時少女が一歩足を前に出すとする。それは右足か左足かのどちらかであるわけだが、どちらの足を踏み出した時にシャッターを押すかという問題でもある。笑ってはいけない。これが大きな問題なのだ。

右足を踏み出した時に見えるものは、尻の割れ目である。その小さな尻の愛らしさには目を瞠る。

左足を一歩前に踏み出した時はどうか。見えるのはマタグラである。ショートパンツをはいていれば、その継ぎ目がツルリと輝く割れ目にくい込んでいるいるかもしれない。巻きスカートの時には、スカートから白い太腿が見え隠れしているかもしれない。

だったらどうするか? 答えは自明であろう。

お尻の割れ目にも未練は残るが、エロ写真の原点は何といってもマタグラなのだ。左足を踏み出した時にこそ、ためらわずシャッターを押すべきである。だがここでも忘れてはならない。必ず少女の顔も入れて写す事を。(おわり)

*1:所載:白夜書房『ヘイ!バディー』1983年11月増刊号『ロリコンランド3』(850円)pp.46-48(引用者が確認したのはテキストデータのみで掲載写真は1982年3月に徳間書店から出版された『アニメージュ増刊 アップル・パイ 美少女まんが大全集』より再録した)