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今こそ「鬼畜」になれ! 「アングラ/サブカル」が必要なわけ(村崎百郎)

今こそ「鬼畜」になれ!

「アングラ/サブカル」が必要なわけ

談=村崎百郎

構成=STUDIO VOICE


なぜ「アングラ/サブカル」なのか? あるいは、「腑抜けたブタ」どもへ!

アングラ/サブカル的な文化に対する欲望を持つかどうかというのは個人の問題であって、世代や年代の問題ではないと思う。求めるか求めないか。そこでハッキリと分かれてしまう。求めない人間は、基本的に全てに対して批判精神が脆弱な人間であって、普通にマスメディアから受け取る娯楽や文化で充分に満足してしまっている。下らないお笑いタレントのバラエティを見て満足なわけでしょ? まあ、昔はとんねるずからこっちの世界に入ってきたという人たちがいてびっくりしたこともあるけど(笑)。

要するに現状に満足できない人間がアングラ/サブカルを求めるんだよね。アングラ指向そのものが「自分をとりまく日常や現実に対する異議申し立て」なんだから、必然的にそういう人間は反体制的・反社会的な反骨性質を持つことになる。80~90年代のアングラ・カルチャーを見ればわかるけどね。

ところが今はみんな飼い慣らされちゃってるよね。結局、反抗しなくてもアングラ/サブカル的なものに触れることが出来る世界になってしまったということなんでしょ? とにかく、まともな知識欲と好奇心を持っている人間なら、絶対に現状で満足するわけがないんだよ。逆に言うと、アングラ/サブカルが衰退した(境界線があやふやでメジャーとサブカルの区別がつかなくなった現状も含む)ということは、現状に満足して何もしない腑抜けたブタが増えたという、体制にとって実に都合の良い状態になったということだよね。

 

「アングラ/サブカル」は消滅したのか? あるいは、きっかけとしての「サブカル雑誌」

きっかけはなんでもいいんだよ。中世ドイツの神秘家ヤコブベーメは、25歳の時に錫器に反射する光を見てはじめて世界の神秘に気づいて、以後昼は靴職人をしながら夜はカバラの秘儀を学び、大宇宙の神秘に近づいたんだから。でもかつては、「アングラ雑誌」や「サブカル雑誌」がそういうきっかけやとば口になっていたんだよね。雑誌を読むということが、単なる暇つぶしではすまされないという時があるんだよね。『血と薔薇』『牧神』『月下の一群』『パイディア』『幻想と怪奇』『迷宮』『思潮』『レヴ』『幻想文学』などの幻想文学関係はもちろん70~80年代の『遊』の存在と影響力は大きかったし(80年代ニューアカブームのインフラを築いた)、70後半~80年代の『夜想』もそうだし(現在復刊中)、『メディテーション』『現代詩手帖』『ユリイカ』『現代思想』『イマーゴ』などあげれば沢山ある。『季刊NW-SF』『パピエ・コレ』とか武邑先生の『デコード』ってのもあったね。いまだにグレードアップしてがんばってんのが『トーキングヘッズ』とか……。きっかけはいつの時代も、ちょっと探せばどこにでも転がってたんだよ。それに気づいて追及するかどうかは各人次第だったわけで。今は、出版点数そのものは増えてるはずなのに、そうしたアングラ/サブカル雑誌がほどんどないことも一つの特徴だね。

そうすると、ネット社会の到来とともにサブカルもアングラもなくなったという話になるわけでしょう? 別になくなったわけではなく、膨大な情報の洪水の中に埋没したというだけで、目覚めて求める人間の数や割合はそれほど昔と変わらないのが現状じゃないかな。だから、いろんな意味で過渡期なんだろうね。せっかく誰もが手軽にネットを利用できる時代になったのに、人間そのものが進化する傾向はまだまだ見られない。膨大な情報群の前でとまどっていて、どうしていいのか分からずにいるサルのごとき人類の姿がイメージとして浮かぶだけ(笑)。雑誌とか本とかが一冊も無くて、もう一生部屋の中に籠もって過ごせるだけの情報がネットに転がっているのもかかわらず、そこから目を瞠むるような新しいものが出てきているわけではない。みんな情報にくっついてるだけで精一杯なんだよね。

 

ネットと「言語ウィルス」あるいは、「引きこもり」はキッチリ引きこもれ!

時代が平和でヌルくなっているだけに、孤立感や漠然とした存在の不安みたいなもんだけは大きく膨れ上がっていって、わけのわからない不安につつまれる。自分はこれでいいのか? みんなは……どうなんだろう? とか。そこで、2ちゃんねるのようなメディアに群がる人間が増えるわけ。アレは自分に自信のない、漠然とした不安をかかえた人間には、何かを確かめたような気になって安心できる便利なもので、人生に何の目的も目標も持たない暇な人間が時間をつぶすには格好のメディアなわけだから。

だから、2ちゃんに代表されるものこそ、バロウズの言ってた「言語ウィルス」が悪意をもって活発な活動を展開する拠点だと思うんだよね。「言語ウィルス」はひたすら言語を消費させればいいんだから。そこにはただ消耗しかない。だからオレはあまり入れ込めないんだよね。単に生存時間を削られているだけ、って感じがするでしょ? バカが使ったらネットに使われているだけになるんだよ。ネットはニュースや調べモノをする時だけに有効な「道具」であって、自分に関して言えば、いまでもネットを利用してる時間は読書時間よりも短いね。ネット・サーフィンってのもそもそも「電脳ゴミ漁り」なんだけど、現実のゴミ漁りが好きなオレにはやっぱりバーチャルのゴミ漁りは物足りなくて現実に夜中に外を徘徊してゴミを漁る方が好きです(笑)。昔に比べれば、知識の採取はネットのおかげで格段に時間短縮できるようになったんだから、今の若いヤツらは昔の若者よりもスマートで、昔の若者以上のことはできて当然って気がするんだけど、現状見ててもそこまで上手くやってるヤツらってのはあんまり見えてこないね。これからなんだろうと期待してんだけどまだみたいで残念だよ。だいたい、今言われている引きこもりだって、引きこもりでもなんでもないだろ。引きこもるんなら完全に情報を遮断して孤立した状態でひたすら考え続けたら、それはそれで成熟につながるんだと思うけど、中途半端にネットに繋がっているから社会に繋がっているような錯覚を起こすんだよ。それでは何も生まれない。

 

「鬼畜系」は如何にして生まれたか? あるいは、「激動」の90年代

90年代と、00年代に入ってからの文化の区別があんまりつかないでしょ? 世紀末的なものが一掃されたかというとそういうこともないし。ただ、どんどん多くの若い人が育ってきているのは事実。累積してきた過去のアングラ/サブカル物件も増えてきて、それをどんな順番で体験するかで見方も評価も完全に変わってくるだろうね。たとえばファミレスのBGMで流れてきたツェッペリンを聞いた女子高生が「なによこれ! B'zの丸パクリじゃないのよ!」と憤るような事態がそこかしこで見られるようになるわけです。「最低な連中がいるな!」って(笑)。でもそれはしようがない。そういう子たちにとっては、先に聞いた方がオリジナルなんだから、時間軸自体がぐちゃぐちゃになってるんだよね。60年代のアングラもアングラに見えなかったりして。情報量が多すぎると、ないのと同じ状態になるんだよね。そもそも人間は年を経るに従って精神の状態も変化するわけで、そうすると世界の捉え方そのものは変わっていくから年齢毎の真理があるはずなんだよ。だからオレ自身は年代で区切って考えることがないし、文化運動は年代で区切るんじゃなくて個人の意識の問題として区切られるべきだと思う。

でも振り返ってみれば昭和終わったのは89年だけど、それをみんながちゃんと実感したのは90年代に入ってからでしょ? バブル崩壊と95年のオウム事件阪神大震災という大きな「激動」も一応みんなが経験したわけで、それがアングラにも反映されて10年は食えたって感じだよね(笑)。

当時、ペヨトル工房をやめて、フラフラしてたとこに青山正明から「新雑誌をやるんで」と声をかけられて、彼らが「ごきげん&ハッピー系」を念頭に置いて作っていたさわやかな麻薬雑誌に、ゲスで下品で暗黒文化を無理矢理ねじこんで、気づくと、読むとイヤな気持ちになる雑誌にしてた(笑)。しまいにゃ「鬼畜系」ってキャッチ・コピーまでつけて出させたのが『危ない1号』。

あの頃は記名じゃない記事も書きまくってて、2号目なんて鬼畜記事の三分の一くらいはオレが書いてた。あと、酒鬼薔薇事件というのもあったけど、酒鬼薔薇は『危ない1号』の創刊号を読んでるんだよ。オレの犬肉喰いの記事も読んでるね。酒鬼薔薇が出した年賀状のイラストっていうのが、『危ない1号』の裏表紙に使われたLSDの紙パケのイラストの模写だったから。

賛否両論あったけど『危ない1号』は一応受けて、雑誌も売れて抗議も殺到。おかげで「鬼畜系編集者」の烙印を押された青山が鬱になって、この件も彼の自殺を早めた大きな要因だって、青山の周辺からはずいぶん恨まれました。謝って許されることじゃないから謝らないけどね。今でも悪かったとは思ってるよ。青山の名誉のためにも言っとくけど、青山は鬼畜とは対極にある本当に優しくて親切な良い人でした。彼の雑誌を「鬼畜系」にねじまげてしまったのは全てオレのせいです。他の連中に罪はありません。

考えてみると、80年代前半、藤原新也の『東京漂流』とか『メメント・モリ』が出た頃に死体ブームが起こったんだよね。都市があまりにキレイになってしまい死=死体が見えなくなったという事に対するアンチみたいなものだったんだけど、その後に屍体写真集『SCENE』や『夜想』の屍体特集が同時発生的に出た。『危ない1号』はそういう系譜を継ぐ存在だったんだろうね。

 

鬼畜とは何か? あるいはよりよい世界のために!

白状すると80年代の広告ブームの時にコピーライターになろうと宣伝会議の講座を受講してて(笑)、そこでいろんなコピーを作りながら自分が過激なキャッチ・コピーを作るのだけは得意だって自覚してたんですよ。だから暗黒文化を総称するような言葉で「鬼畜系」ってのはすぐにできた。ここまで流通するとは思ってなかったけど、作った手前と責任上、死ぬまで「鬼畜ライター」は名乗り続けますよ。「鬼畜ライター」なんてオレひとりだったしね(笑)。

だいたい、オレの定義する「鬼畜」っていうのは、人非人的な行為っていう意味だけではなく、より本質的なところで言えば、「他人に一切配慮せず自分の好きなことを貫く」っていう意味なんだよ。それが「鬼畜」の完成型だと思うし、それが社会的に見て良いことか悪いことかなんていうのはオレの知ったこっちゃねえよ、っていう。人間は二タイプしかいなくて、次の世代にいろんなものを手渡ししてゆくために存在している人間と、そこからいきなりジャンプして強烈な発明なりコトを起こす人間とに明確に分かれてる。

一歩先に進めるヤツらというのは、どう考えても周りの迷惑なんか考えず好きなことやったヤツらばかりだよ。そういう意味でも死ぬまで鬼畜でありたいと思うんだよね。だから、オレの言う「反・鬼畜」っていうのは、まわりに気を使ってまわりと同じ様なことをするヤツら。たとえば、巨大掲示板でみんなが悪口を言っている中で、一緒になって悪口を言うのは鬼畜じゃなかったりするんだよね。とにかく心がけているのが「他人の為には生きたくない」っていうこと。限られた生存時間なんだからさ。本当にみんながいちばんやりたいことをストレートに目指したら、今よりずっとましな世界が来るんじゃないかなって思うね。「やりたいこと」ってのが殺しでもなんでもいいんだけどさ。

だから今でも、というより今だからこそ、「鬼畜」であることが必要なんだよ。まわりの人間に律儀につきあったりせず、自分の好きなことだけを追求しろって言いたいね。これだけ情報にアクセスしやすくなったんだしさ。

(所載:『スタジオボイス』2006年12月号「90年代カルチャー」完全マニュアル)