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チャンネル争い史—三丁目の猟奇

チャンネル争い史ー三丁目の猟奇

はじめに

テレビの「チャンネル争い」は誰しもが(たぶん)経験する、家族間での代表的な揉め事であった。「あった」という過去形から、まず結論を言っておこう。「チャンネル争い」という家庭内紛争は少なくとも日本国内では、ほぼ終戦状態である。

もっとも、チャンネル争いは一台のテレビのチャンネル権を家族内の誰かが占有するという条件/状況下で発生するもので、現代でもないとは言い切れないが、すでにテレビは「一家に一台」から「一人一台/一部屋一台」という時代になり、そもそも娯楽多様化でテレビそのものを見なくなっているという人も多い。

だが、昭和中~後期まではビデオデッキも普及してなかったし、「録画して後で見る」ということはまず不可能で、ゆえにこの頃が最もチャンネル争いがヒートアップしていた時期であるといえよう。

ここでは、過去の新聞報道から国内のチャンネル争い史を振り返ってみよう。

1960年「毒薬入りウイスキー事件/大阪」

国内のチャンネル争いについて、『朝日新聞』や『読売新聞』といった全国紙では1963年頃からチャンネル争いに起因する「事件」を報じている。

しかし、チャンネル争いを扱った国内における最古級の記事は『毎日新聞』1960年(昭和35年)5月11日付・東京朝刊5頁に掲載された「深刻なチャンネル争いーテレビと家庭の問題」という記事である。

この記事内では冒頭にチャンネル争いに起因する大阪の殺人事件を紹介している。

最近、大阪で見たいテレビ番組のことで姉とけんかし、父にしかられてなぐられた男の子(一三)=中学三年生=が、この父をうらんで、ウイスキーに毒薬を入れて殺してしまったという事件がおこりました。

警察の調べによると、もちろん少年には“殺意”というものはなく、病気になって病院にいけばうるさくなくなるというほどの気持ちからだったようです。それに少年も平素の素行もよくなく、父も酒のみという特別な事情があったようです。それがテレビチャンネルの争奪というきっかけで爆発してしまったといえそうです。それにしてもテレビのチャンネル争いは、多かれ少なかれどの家庭でもみられることです。

のちに紹介する事件にも共通することだが、チャンネル争いに関係する事件は、チャンネル争いに敗れたことが「引き金」となって鬱憤が爆発し、殺人、傷害、自殺に発展するケースが目立つ。

されど、こうした諸々の問題を抱えた家庭において、致命的な「事件」が起こるというのは遅かれ早かれ、時間の問題だったろう。事件のきっかけとなる「チャンネル争い」なんて、結局のところ、事件を起こす動機の一要因に過ぎないのである。

ちなみに注目すべきは堀秀彦*1が寄稿した以下のコメントであろう。

テレビがうんと安くなって個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)この問題は解決するが、それまでは、いまのままではいつまでも多かれ少なかれつきまとうのではなかろうか。

結果的に堀の予言は的中することになるが、この予言が実現するまでには3、40年は待たねばならない。

また堀の「個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)…」という一文であるが、事実、現代の小中高生の多くはポケットに収まるスマートフォンで、親の目を離れては「好きなもの」を自由気ままに見れるようになっている。またその結果「どんな人間が生まれた」かも、皆様はよく御存知であるはずだ。

1978年「中二の兄、小六の妹刺す。両親、共働きの留守/埼玉」

1978年(昭和53年)4月20日夕方、埼玉県与野市で、木曜日の夕方5時に日本テレビで再放送されていた『さるとびエッちゃん』を中学2年生の兄が、小学6年生の妹はTBSで再放送していた『みつばちマーヤの冒険』を見たいと喧嘩

以前からふたりの間には喧嘩が絶えなかったらしく、兄の鬱憤が爆発、チャンネル争いの末に妹を果物ナイフで刺殺、ビニール袋を被せて段ボール箱に死体を入れてから警察に通報して自首するという事件が起こる。

Wikipediaより一部改稿)

この事件はWikipediaにも記載されているほか毎日新聞』『読売新聞』『朝日新聞』『週刊サンケイ』など主要紙でも報じられ、当時は結構話題になったらしい。

毎日新聞 1978年4月21号 東京朝刊 23頁)

事件翌日には、東京都小金井市立小金井第二小学校の六年三組で本事件に合わせてチャンネル争いにまつわる「学級討論会」が開かれた*2

以下、チャンネル争いにまつわる子供たちのエピソードをそれぞれ列記する。

大学の姉さんとけんかして、ブラウン管まで割っちゃった」と男子。取り合っているうちに、チャンネルのつまみが壊れた」と女の子も負けない。

兄ちゃんにいつもぶたれるよ

二年生の妹を突き飛ばしたら、障子がはずれてしまった

みそ汁をひっくり返したことがある

プロレスで決着をつけることにしてるけど、戦ってるうちに番組が終わってしまうんだ

 

その紛争を、家庭内では、どうやって解決しているか。体操着の男の子が不服そうに「うちのお母さんはいつも『あんたは兄さんだから我慢しなさい』という」と発言すると、賛同の拍手。

いい合いをしてると、うちの母さんは『二人とも外に出て考えなさい』と追い出してしまう」「ナイターを見たいお父さんとけんかしてると、最後はお母さんが入ってきて自分の好きな番組にしてしまう」という報告もあった。

ちなみにチャンネル争いで「けんか」をしたことがある六年三組の児童は出席39人のうち38人、実に97%にのぼった。

なお、解決方法に「テレビ2台論」や「ビデオデッキ」を求める児童の声もあったが、それに対して先生は「やはり高度成長時代に生まれた子ですね」と苦笑いし、「欲しいものは何でも買える、もらえる、という発想はこわいな。昔の子は我慢、あきらめ、という美徳を持っていた」とぼやかれになられた。

正直、年長者に多い「我慢と忍耐」を美徳とする日本人的根性論をこんな場面でも持ち出されるとは、正直辟易とさせられるのだが、こうした世代間でのジェネレーションギャップは今も昔も変わりはない、ということか。

1980年「中一の弟、中二の姉を射殺/徳島」

(読売新聞 1980年2月4日号 東京朝刊23面)

1980年(昭和55年)2月3日、徳島県三好市(現・三好郡東みよし町)で中1の弟が中2の姉を父の散弾銃で射殺した“昭和の田舎で起こり得るであろう最悪なチャンネル争い事件”が発生した。以下事件の内容である。

2月3日午後7時、地元の警察署に「姉を猟銃で撃ち殺した」という110番があった。

同署員がAさん宅にかけつけたところ、Aさん方の階下六畳間で少年B(13)が立ちすくんでおり、足下に長女C子(14)さんが散弾銃で頭を撃ち抜かれ血まみれになって倒れていた。C子さんは約10キロ離れた県立病院に運ばれたが、出血多量で死んだ。

Bの自供によると、姉弟二人はこの日の午後二時すぎからテレビを見ていたが、バレーボールの試合を見たいというC子さんに対し、Bが漫画番組を見るといって譲らずけんかになった。その後もチャンネルをめぐって口論を続けた結果、Bは父親の銃を持ち出し、姉に一発発砲した。銃は階下の勉強部屋にあった。

近所の人の話では、Aさん一家は五年前、二階建て約60平方メートルの家を新築、その支払いのため父親は茨城県内の建設作業現場に出稼ぎに行き、母親は同郡池田町内で飲食店を経営、毎日通っており、祖母(65)が姉弟の世話をしていた。姉弟の仲はよかったという。

猟銃は父親が昭和50年9月、許可を受けて購入した単発銃で、出稼ぎ中は銃を分解、二階の部屋のキャビネット式の保管庫に入れて施錠、隠していた。しかし、Bはカギと弾薬の隠し場所を知っており、銃も自分で組み立てていることから父親が銃を扱うのを見ておぼえたらしい。

Bは日ごろ家に猟銃があるのを自慢にし、最近も友達を呼んで見せびらかしていたという。

とにかく少年Bがクソ過ぎると思ったが、まあ好奇心旺盛な中学生の悪ガキに本物の銃を与えたら、こうなっても仕方ないのかなと思える。普通、人間は頭に血が上ったら「脅し」で包丁や銃を持ち出すことはあるとしても、情緒が欠落した小中生は本当に刺したり撃ったりするからコワイ。なんの解説にもなってませんが(笑)元々仲良しの姉弟だったという点で前掲した埼玉の事件より残酷に思える。

また同時期には小学生男子がいたずら目的で幼女を殺害してしまった事件もあったことから、記事内には東に西に凶悪犯罪の低年齢化現状を憂いた文章も書かれていた。(文◎虫塚虫蔵)

*1:東洋大学教授 / 1902年~1987年

*2:朝日新聞』1978年4月23日号