Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

青林堂創業者/漫画雑誌『ガロ』初代編集長・長井勝一インタビュー「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

古き良き青林堂をしのぶ。追憶・長井勝一

生前最後のインタビュー

「漫画雑誌『ガロ』会長・長井勝一(現代の肖像)」

『ガロ』編集長・長井勝一「貧しかったけど、心は貧しくなかったよな」

漫画家・白土三平に口説かれた。「漫画雑誌をやろう」。忍者漫画を通して人間の本質を描く白土の真摯さに、本気になった。

水木しげるつげ義春───。思想をもった作品を生んだ『ガロ』は、創刊者長井の度量が人をひきつけ、作家の個性を伸ばした「学校」でもあった。

土曜日のある夜、長井勝一(ながい・かついち)宅を一組の夫婦が訪れた。4コマ漫画の、あの勝又進である。長井は、さっそく自宅近くの天ぷら屋で一席設けた。

「授賞式に遠くから来てくれてありがとうな」

長井は小柄な体を縮め、かすれた小さな、少し高めの声でお礼をいう。勝又は恐縮する。

今年の6月下旬、長井は第24回日本漫画家協会賞の特別賞をもらったばかり。漫画雑誌『ガロ』を30年以上も発行し、多くの漫画家を発掘、育てたのが、その理由である。勝又もまた、作品発表の場が『ガロ』であった。学生と機動隊の衝突を、明るくのんびりと描いていた。

長井はキスの干物を手でむしり、食べながら、つぶやいた。

「これ、うまいなぁ。……魚に骨がなければ、もっといいのにな」

こんなことをいう人は初めてだ。勝又に、「長井さんは、どんな人ですか?」と水を向けると、

勝又が照れ笑いを見せ、

「オヤジさんという感じ。こうして顔を見るだけで安心するんです。実家に来るみたいですね」

と、話し終わるや、「来れば、おれも楽しいさ」と、長井は、うれしそうにいう。

長井が『ガロ』を創刊したのは、1964年7月24日である。B5判130ページで定価130円。東京オリンピック開催の2カ月半前だ。創刊号からスタートの予定であった白土三平の『カムイ伝』が登場したのは、4号目の12月号だった。

勝又は、隣の長井をちらりと見て、「『カムイ伝』が始まったあとでしたね。いつも、『ガロ』の編集部にいりびたっていたんですよね。松田さんも学生で上野さんも、みんな遊びに行っていた」と話す。

「貧しかったけど、心は貧しくなかったよなぁ。漫画が好きだ、描きたいという人が集まってきた。それでいて、人まねなんかしたくない人ばかりでなぁ」

長井は淡々とした口ぶりだ。

「それでいて、長井さんにはなんでもいえましたね」

勝又が、そういうと、

「おれはエバルような人とは付き合わないよな。いまでもそうだ」

長井はなんでもないようにいう。あまり飲んではいけない酒を口にしながらである。一滴一滴を、本当にうまそうに飲むのだ。

二人の間で名前の出てきた、松田さんは筑摩書房松田哲夫、上野さんは評論家・上野昂志である。そんな『ガロ』を舞台にした漫画家を少しあげてみる。白土三平水木しげるつげ義春、楠勝平、勝又進池上遼一永島慎二滝田ゆう佐々木マキ林静一つげ忠男矢口高雄高信太郎やまだ紫近藤ようこ蛭子能収……。作家・赤瀬川原平もいる。評論家・呉智英もいる。井上迅もいる。編集部育ちでは、南伸坊渡辺和博たちがいる。

個性的な顔と、その作風が浮かんでくる。目がくらむようだ。集団として徒党なんて組むことのない、まさに群像である。

『ガロ』育ちの人たちを、評論家・鶴見俊輔は次のように表現する。

「戦後の学問の歴史でいうと、今西錦司さんの作った今西学派というのはたいへん大きなものですが、そうした区分を超えて思想史を考えるとき、ガロ学派は今西学派に匹敵すると私は思っています」

“ガロ学派”───。鶴見はこうもいう。

「『ガロ』は漫画雑誌というだけでなく、一種の総合雑誌としての気分を持っている。これは、初期から上野昂志さんが『目安箱』というコラムを書いていることでもはっきりしている。とても鮮やかな評論で『中央公論』や『世界』の評論より鋭いっていう場合がある。そういうのを出し続けていった雑誌でもあるわけで、そこに出てくる漫画も思想性がある」

 

白土三平さんと会うまで金もうけりゃいいってね、漫画本出してた」

戦後という時代について、ふと考えるようなとき、今後に思いをはせるとき、『ガロ』の人たちの影響力は無視することは出来ない。

それを育てたのが出版人・編集人の長井勝一である。だが、長井は、アッケラカンと語る。

「創刊してから、ぼくが現場にいたころまで、編集会議なんて一回もしたことなんてないんです。会議をしたっていう奴がいたら、インチキだよ。ナベゾ渡辺和博)にしたって、南(伸坊)にしたって、ぼくの顔なんて見ませんよ。好きなようにやっていた。『来月号は誰と誰の漫画を載せる』。これだけ。ワンマンなんかじゃないんですよ。編集会議するような雑誌じゃないもの。原稿並べるだけなら誰でもできますよ」

それから、右手の指でマルを作り、

「これの話はよくやったよなぁ」

と、妻の香田明子に確認する。香田は、遠慮気味に「ウーン」と、うなずく。彼女は、『ガロ』発刊以前からのパートナーで、経理をみてきた。

f:id:kougasetumei:20180522183346j:plain

こんなエピソードが語り継がれている。南伸坊が編集部にいたころである。

「そりゃあそうだよ、人間だからな」

長井の口癖だ。人間だから失敗することもあるし、人をだますことだってある。

原点は50年前の8月15日である。日本は敗れた。腹の奥では、いままでの日本はないと思う。だが、人間の日常は同じ。飯を食べトイレにもいく。ナーンも変わらない。理屈ではない。それだけだ。

そして、その2日後、長井は浅草に出来た露店の一角に店を出した。捨てられた雑誌をバラし、表紙だけを新しくしたものを売るのであった。それがなくなると、クズ屋に出た漫画本を、適当に束ねなおして売る。途中に別の漫画が飛び出してくる代物だ。これが売れたのだった。娯楽なんてない。子どもへのお土産である。人間はいい加減なのだ。オレもそうだった。

ある日、長井に南が、「人間だから、といったって毛沢東はエライんじゃないですか」といった。「この名前さえ出せば、一本取れる」。南はそう思った。毛沢東という名前に全く意味はない。世間で有名だったからだ。返ってきたのは、

毛沢東だって、人間だからな……」

返品されてきた単行本のカバー替えをしながら、そういったという。

長井によると、こうである。

「人間って、誰もさ、日常に流されるじゃない?たとえ孔子だって流されるよ」

長井勝一は、大正10(1921)年生まれだから、今年で74歳である。4年前の91年、『ガロ』発行元の青林堂を身売りし、会長になった。『ガロ』の顔としての名誉職だ。それ以来、経営にも編集にもタッチしていない。長井に30年前の回想をしてもらう。『ガロ』発刊の動機だ。“ガロ学派”が生まれる舞台の始まりでもある。

白土三平さんと出会うまで、金もうけりゃいいやってね、漫画本を出してたんです。バクチはするわ、女とは遊ぶわ。ところが、三平さんの漫画を制作する態度をみていて、自分もきちっとやらなきゃと思うようになったんです」

戦後の体験から、そのまま漫画出版の世界に入る。56年、「日本漫画社」を始め、翌年の夏の終わりごろ、白土三平に会う。

出会いは、いつも必然である。貸本屋に卸すため、仕入れた漫画本のなかから、面白い本を見つけたのであった。白土の『こがらし剣士』である。ストーリーがいい。絵もいい。どんな人だろう。一週間後、長井のもとに、その白土三平が作品を持ち込んできたのである。返事はもちろんオーケーだ。白土は、「ここでもし、ダメだったら、もう漫画を描くのはやめよう」と思っていた。出会いは偶然、とよくいうが、そんなことはない。相思相愛がある。長井は、「願ってもない偶然」と振り返る。看板は白土の作品にした。貸本屋向けの単行本『嵐の忍者』『甲賀武芸帳』を立て続けに出し、59年暮れには、『忍者武芸帳』第1巻の刊行を始める。

 

「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

長井勝一白土三平コンビによる作品にいち早く注目したのが、のちの文化人類学者・山口昌男である。60年6月のある雑誌で、こう書いている。

「私の近所の貸本屋でも(白土三平は)人気ベスト・ワンであり、子供たちの中に割り込んで新作を借り出すのは仲々困難である」

白土作品の特徴として、上手な漫画、人間的な息吹、忍者をテーマにして組織の残酷さの強調などをあげ、「大人のマンガがエロのムードに酔っている時、残酷非道のムードを導入して単にそれによっているのではない白土の世界の方が、人間世界の把握では却ってその先のところにあるのかもしれない」と記している。

だが、『忍者武芸帳』刊行途中に、長井は結核で倒れた。七本の肋骨を切るという大手術を受けたのだった。

「『忍者武芸帳』を最後まで出せなくてね。入院中、これまでぼくは何をしてきたんだろうと思うと力が抜けていくような感じになって……。これでは、死んでも死に切れないと、ね」

退院してきた長井に、白土は「雑誌をやろう」ともちかけてきた。単行本には読者に限りがある。雑誌には広がりがある。そういった。

三平さんの大きなテーマは、いわれなき差別をなんとかしていこうということが願いなんです。その思いを大勢の人にわかってもらいたいと思っていたんじゃないでしょうか。『カムイ伝』がそうですよね。それに、その頃はいまと違って、漫画は日陰の状態にあって、これを日向に出すというか、文化の面にまで押しあげることはできないだろうかといったんです

記憶をたどるという様子は、全くない。長井にとって忘れようにも忘れることのできない話だ。

普通なら仕事が切れれば縁の切れ目だけど、三平さんは、ぼくの手術代から入院中の小遣いまで出してくれてね。三平さんと話しているうちに、ぼくは『できる』と思ったんです。もう、いいかげんな気持ちじゃなくなっていました。漫画のいい作り手を育てよう。『ガロ』の骨子は、新人を育てること、漫画の水準を押しあげること、それに世の中から差別をなんとかなくしていくことを、どこか底の底に持った雑誌を出版していこうと二人で話し合ったんです

雑誌の名前は、すぐ決めた。白土作品に『大魔のガロ』がある。長井によると「心優しく、技量のすぐれた忍者だったが、その優しさを逆手にとられ、彼になついた子どもを使った術にかかって悲惨な最期を遂げた忍者」だ。そこからとったのである。

f:id:kougasetumei:20180520215059j:plain

『ガロ』創刊である。すでに「青林堂」という出版社を作り、白土の『サスケ』を出していた。その売り上げを資金に発行するのである。白土は、翌年の65年6月号で「おのれの実験の場として、この『ガロ』を大いに利用していただきたい」との、文を載せた。実験と刺激の空間である。それを求めて、人は集まってきた。反響は意外なところからもやってくる。雑誌もまた人である。出会いを作っていく。

「私は、白土三平氏の漫画を大変おもしろく、且つ、貴重なものと思いながら、愛読しています。私は、京大経済学部の大学院に在籍し、マルクスの革命思想を研究し、公式的な石頭的公認マルクス主義の再生を日夜祈りながら勉強しております」

同年11月号、『ガロ』が行った「読者の感想文特集」の一通である。投稿の主は竹本信弘。これから7年後、全国に指名手配を受けることになる、全共闘運動のリーダー・滝田修である。大学生が漫画を手に取り、熱中する。その始まりが『ガロ』である。部数も創刊時の8千部から、66年暮れには10倍に伸びた。もちろん、多くの新人が登場してきた。

書籍取次店「トーハン」の出版調査機関・出版科学研究所によると、漫画についてのデータを取り始めたのは七六年からだという。出版刊行点数で、それを外して考えられなくなってきた。市場が急激に膨れ上がり、漫画の量産体制が始まっていたのだ。大手資本出版社の本格的な参入だ。零細企業にとって厳しさは増すばかりである。この2、3年前から『ガロ』は部数が減り始めてきた。『カムイ伝』も第一部が71年7月号で終わっていた。長井風にいえば、右手の指でマルを作ることが多くなってきたのだ。

 

南伸坊渡辺和博がよくいうんですよ、学校みたいだったよな」

毎月、資金繰りに追われる。税務署から、「管轄外ですが、もう少し、社員の給料を上げたらどうですか」といわれたこともある。しかし、会社をつぶすわけにはいかない。援助してくれた漫画家の人たち、印刷、製版関係の人たちがいる。なによりも、「これをやめて、お前になにが残るのか」と励まされるとピリオドはうてない。だが、とうとう力尽きて、91年、倒産よりもと身売りを選んだ。

「いまは天国みたいなもんです。こうして、起きては好きな山本周五郎司馬遼太郎の本を読んでるだけですから。会社をやってたときは地獄ですよ」

白土三平は昨年9月号の『ガロ』で、長井さんがいたからこそ『カムイ伝』が描けたという。普通の雑誌社だったら、ストーリーにクレームをつけただろう、と。

南伸坊は、「ナベゾ(渡辺)がよくいうんですよ。『ガロは学校みたいだったよな』って」と話す。南が編集者として『ガロ』にいたのは、72年から7年間だった。入社して、いきなり写植をまかされた。台割りで凝ると、長井が近寄ってきて「あんまり凝らないでなぁ、南」とささやいた。夏の暑い日、クーラーがないので、長井が「もういいか、今日は」というと、そのまま、みんなで銭湯に行った。

「ほら、学校で、先生が今日は外で遊ぼうか、ってあるでしょう、そんな感じでした」

雑誌『ガロ』で、作者に自由に描かせるのと同じ空間が編集部だった。勝又も松田も気ままに遊びに来ていた。南も、長井のことを「オヤジのような人」という。「長井さんに、自分のことがわかってもらえるのがうれしい」。“ガロ学派”は、「自分の好きなことをやる」と「長井さんにわかってもらうこと」が見えない校則かもしれない。人が人に出会う。すでに手垢にまみれてしまった、この言葉が、よみがえってくる。

出会いは次の出会いを用意する。9月、松田哲夫は『頓知』という新しい雑誌を創刊する。アートディレクターは、南伸坊だ。松田は創刊に向け多忙な日々が続いている。初めに考えた部数の2倍の数字を取次が出してきたそうだ。反響の大きさに驚いている。

長井勝一の周辺でいつのまにか出来上がった群像は、キーパーソンに満ちている。有名というのではない。何かが始まり、何かを始める、そんなときに“カギ”になっている人のことである。扇子を開いたときの要である。

(文中敬称略)

長井勝一=ながい・かついち(1921~1996)

青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

白土三平水木しげるといった有名作家から、つげ義春花輪和一蛭子能収矢口高雄滝田ゆう、楠勝平、佐々木マキ林静一池上遼一安部慎一鈴木翁二古川益三ますむらひろし勝又進つりたくにこ川崎ゆきお赤瀬川原平内田春菊丸尾末広ひさうちみちお根本敬南伸坊渡辺和博みうらじゅん杉浦日向子近藤ようこやまだ紫山田花子ねこぢる山野一泉昌之西岡兄妹東陽片岡魚喃キリコといった異才までを輩出していった名物編集長として知られる。

文・中川六平=なかがわ・ろっぺい(1950~2013)

ライター。編集者。1950年、新潟県生まれ。同志社大卒。学生時代、山口県岩国市で反戦喫茶「ほびっと」を経営。卒業後、新聞記者を経てフリー。日本の近代史に関心を持ち、雑誌『マージナル』編集長を務める。編著書に『天皇百話』(共編)など。2013年、逝去。

(所収『AERA』1995年8月28号)

 

漫画雑誌『ガロ』が30年間続いた秘密は

f:id:kougasetumei:20180520214003j:plain

『ガロ』。奇妙な月刊誌名である。白土三平の忍者漫画からもらった。

忍者「ガロ」は、優しさがあだとなって悲惨な最期を遂げた。「大好きな話だったんですよ」

1964年に創刊、20日には30周年の会が開かれた。

『ガロ』が育てた個性は多い。つげ義春林静一佐々木マキ川崎ゆきお蛭子能収……。「自分の感覚に合う作品を載っけただけなんです」。並外れていようとキラリと光る何かさえあれば、と。

「長期的な経営戦略はなかったねえ。その月、その月、好きなことでとりあえず食ってければいいってね」

大学生にも一目置かれ、67年、68年には8万部刷った。時代が熱かったころだ。しかし、70年代半ばに、部数はがくんと落ちた。原稿料を払えない状態が当たり前になった。

「楽しい思い出ねえ、うーん、浮かんできませんね。命を削るようにしてかかれた作品なのに、お金が出せなくて、悪いなあ、つらいなあってことばかりで」

「かかせてくれ」との申し出を、材木屋二階の編集部でひたすら待つ毎日。それでも芽吹き間近の才能が長井を慕い、『ガロ』の人間味を求めて集まった。何度か襲った雑誌存続の危機にも、どこからか支持者が現れた。

私の方が漫画家に面倒みてもらってきた感じです

3年前、山中潤社長に編集も経営も任せた。「お酒と本をやっと楽しめるようになりました」。ただし、今の漫画はまず読まない。

「漫画出版はお化けみたいな規模になっちゃった。その割に気の利いたものは少ない。若い人は活字離れするし。自分のやってきたことは良かったのかなんて思うけど、しょうがないよね。自分の器量では、ここまでがいっぱいいっぱいだから」

(文・鈴木繁)

所収『朝日新聞』1994年8月23日号

『ガロ』やる前は、金もうけもうまかったんですよ」。73歳。

 

付記「青林堂に関連する一連の報道について」(山中潤

2017年2月14日に『ガロ』元編集長である山中潤さんの声明が発表されました。以下全文のテキストを記載します。

創業者長井勝一氏および青林堂株主総会より正式な認証を得て青林堂を受け継いだものとして、最近の報道について、きっちり申し上げる責任があると思い、ここに記すことにいたします。

私は長井氏より「青林堂カムイ伝を連載するガロを出版するために作った」そして「ガロは差別を無くすために生まれた雑誌だ」という言葉をはっきりと聞いています。テーマも漫画家もいわゆるメジャー漫画誌では扱わないような「社会から零れ落ちそうな物を掬う」ということが根底にありました。

ガロに掲載された、芸術的作品も、面白主義や、差別や不条理を様々な方法で描いた作品も、全ての作品の根源には「カムイ伝」や「長井勝一の創業の精神」があります。

私もその魂を継続、拡大することが役目と思い、1990年より97年まで青林堂代表取締役兼編集長の職に挑んだつもりです。

会長の職に就いて頂いていた長井氏が96年に亡くなり、当時私が経営していたツァイトというパソコンソフトウェアの会社もWindowsの登場により、海外ソフトとの厳しい競争にさらされ、右肩上がりとは言えない状況ではありました。

そのとき、私をコンピュータの世界に引き上げたF氏にツァイトの社長を交代してもらい、私は青林堂に専念する事に決めました。ツァイトは自分で創立した会社だけれど、青林堂は私が預かっている“文化”であり、自分の事情でつぶすなどしてはならないと、本当に思っていました。

ところが、ツァイトの社長を頼んだF氏の父親が亡くなられ、F氏は心のよりどころを関西のO氏にゆだねるようになります。O氏は青林堂に興味を示し、青林堂の株式を取得するようにF氏を動かし始めました。

その様子が見えてきた時点で、私はF氏から距離を置くため、当時青林堂の株式を所有していた私の個人会社の印鑑を持って、極力東京から離れるよう努めました。

しかし、今、思い出しても胸が痛いのですが、私はF氏の様々な工作に乗せられ、無理やり青林堂まで腕づくで連れて行かれ、当時青林堂の実印と青林堂の株式を保有していた会社両方の実印をF氏に取られました。

その夜のことは、新聞などで大きく報道されたようですが、私は再度東京を離れたので、その後、ツァイトが私の社長名で倒産をしたこと以外は、詳しくわかりません。

その後の編集部の独立や新会社設立、その後の青林堂の動向は、内部の人間としてではなく、外部の人間として知る事になります。

とは言え、そこで踏ん張りきれなかったことは私の責任であり、今でも大きな悔恨として日々生きております。

報道されている現在の青林堂の社長であるK氏やW専務とは、97年以前より交流はありましたが、それは私個人の範囲であり、編集部との付き合いは極めて薄く、長井氏とは面識もありません。

つまり、現在報道されている青林堂は名前は同じであっても、創業者長井勝一氏とはまるで関係のない、単に株式を取得した人間が、元々の青林堂やガロの精神とは関係のないところで行っている全然別の事業に過ぎず、元々の『ガロ』とは無関係です。

私より、かつてのガロ・青林堂を愛して下さった、読者・作家・関係者、そして『ガロ』を今でも愛し続けてくださるファンの皆様が、様々な誤解や偏見に晒されることもあるかと思いましたのでこのような文章を記させていただきました。

『ガロ』元編集長・山中潤

図版

青林堂『月刊漫画ガロ』1971年12月号表紙(画・林静一

水木しげる『私はゲゲゲー神秘家水木しげる伝』角川文庫、2010年、194頁

勝又進作品集『赤い雪』青林工藝舎刊、2005年

高信太郎『ミナミトライアングル 解決編』(青林堂『ガロ』1977年6月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号表紙(画・山田花子

https://twitter.com/seirinkogeisha/status/966485502546161665

青林堂『月刊漫画ガロ』1972年5月号表紙(画・辰巳ヨシヒロ

白土三平他『忍法秘話19』青林堂刊、1965年

赤瀬川原平『おざ式』(青林堂『ガロ』1973年7月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1997年8月号表紙(画・Q.B.B久住昌之久住卓也)※休刊号(64年の創刊以来初の休刊、その後も断続的に復刊休刊を繰り返し、2002年の休刊を最後に今日まで『ガロ』は刊行されていない)

青林堂『月刊漫画ガロ』1983年4月号表紙(画・湯村輝彦

青林堂『月刊漫画ガロ』1968年5月号表紙(画・水木しげる