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マンガ、映画、雑誌、文学……を面白くする「Hカルチャーから育った天才・鬼才」(週刊『SPA!』1992年10月28日号所載)

マンガ、映画、雑誌、文学……を面白くする

Hカルチャーから育った天才・鬼才

低予算、タイトなスケジュール、それに人手不足。Hメディアの条件は厳しい。

そのかわかり、制約は少なく、自由。個人の裁量も最大限、生かせる。

だからこそ、Hメディアで奔放な才能を生かし、伸ばした人は数多いし、

「バブルがはじけて予算管理ができるおれたちにようやく仕事が回ってきた」(若松孝二監督)という強みさえある。

バブルなカルチャーズが死の状態に追い込まれつつある今、注目すべきはH系カルチャーの天才・鬼才だ!

漫画―Hでマイナーな舞台だからこそ、個性が磨かれる!

いしかわじゅん(漫画家)「デビューできたのも、新分野を開拓できたのも、エロ劇画だった…

オレがデビューした‘76年前後には、業界内に’70年安保の頃、学生をやってた連中がたくさん入ってきててね。学生運動の中心だったヤツは、もちろんまともな仕事には就けないし、積極的にやってなかった学生たちでも、体制側に入るのは何となく抵抗があるといった具合でさ。で、その受け入れ先がエロ映画とかエロ劇画とかいう“エロ系”のメディアだった。間口は広かったし、出版業界なら、いちおう“腐っても出版”だし、「オレはエロ本作ってるけど“意識”を持って作っている!」みたいなね。彼らが編集者になって、エロ本は変わってきた。それまでは、エロ本イコール“どれだけたくさん裸を見せられるか”だったのが、彼らは現場で仕事しているうちに、「7割エロを入れ込めば、残りの3割は何をやっても売れ行きには関係ない」って気づいたんだ。一冊の雑誌の3割を好きに作れるなんて、大手出版社に入った連中には考えられないほど自由な状況だよね。その3割のページにひきつけられて、いろんな才能が集まった。『劇画アリス』『漫画大快楽』『漫画エロジェニカ』の御三家が部数を伸ばし、いわゆる“三流エロ劇画ブーム”になった。まあ、この3割を拡大しすぎて全体がポシャっちゃったけどね(笑い)。

オレは最初、メジャー系雑誌に持ち込んだんだ。でも、ストーリーギャグだったから「赤塚不二夫のマネ」とか言われてさ。マンガ知らないバカばっかりだなあと思って、エロ劇画誌に行ったら、あっという間にエロ本界の売れっ子」になった。‘79年に、今は劇作家になっている高取英(当時『エロジェニカ』編集長)が、「どんな内容でも何ページでも、描いただけ載せるから連載をやって」って言ってきたんで、『憂国』って漫画を始めた。自分の中では、ひとつのジャンルを作った作品なんだけど、これも高取があんなに自由な場をくれたからできたと思う。もう一度あんな仕事やってみたいね。

 

小谷哲(三流劇画誌『漫画大快楽』元編集長)「こだわりすぎるやり方が作家も編集者もイキイキとさせていた?」

あの頃って、ずうっとお祭りやってたような気がしますね。70年代の後半ですから、まだ全共闘運動の名残みたいな気分もあったりして、戦闘的なイメージっていうのが、けっこうリアリティあったわけです。

で、エロ漫画といわずに、エロ劇画っていってましたね。ハードで先鋭的な感じが欲しかったのと、「劇画」10年の歴史の総決算みたいな意味も込められていたというか。好きなマンガと好きなエロを好きに作れたんですから、そりゃあもう楽しくてウハウハでしたね。

ウハウハ言いながら仕事してました。ぼくの編集してたのが『漫画大快楽』で、高取英(現・劇作家)が『漫画エロジェニカ』を、亀和田武(現・作家)が『劇画アリス』ですね。この3誌が“エロ劇画界の御三家”と呼ばれ、多くの雑誌を引っ張っていたという格好です。

劇画家の先達として、石井隆がいました。この人が一番エライです。現在は“マンガも描く映画監督”などと冗談で言われるほど映画の仕事が多くなってますが、当時はちょっと上のほうの雑誌で、エロにこだわりすぎる作家として、ペースをつくっていたわけです。このこだわりすぎるっていうのをやりたくて、マイナー出版社特有の1人1冊的な編集状況ですし、広告が入ってどうの、という世界じゃないから、いろんな突出の仕方ができたわけです。要するに民主主義じゃないんですね。

メインのエロ作品が7に対して、ヘンなもの作品を3という比率にして、一般的なエロ(笑い)ではなく、できるだけ個人的なエロを突出させようという方針を徹底させてました。

メインのほうの御三家が、あがた有為羽中ルイ能條純一で、ヘンなものの御三家は、ひさうちみちお平口広美蛭子能収でした。ほかに、宮西計三丸尾末広、ひろき真冬、三条友美ですか。おわかりのように、エロ系とガロ系の合体です

この流れは伝説の(?)『漫画ピラニア』などに受け継がれましたが、今思うと、一人ひとりの作家が個人的であるがゆえに、それぞれが独立したメディアだったというか、Hメディアは制約がないといわれますが、その分、ヤケになった感じで、自分のこだわりを拡大表現しちまうわけです。

今はコンビニの審査に迎合してますからね。人畜無害になっちゃって。むしろこの傾向は“男も読めるレディスコミック”としての矢荻貴子や森園みるくなどに見られます。

※『漫画大快楽』=三大エロ劇画誌のひとつ。蛭子能収ひさうちみちお、平ロ広美、能條純一などの鬼才を数多く育てた。

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吉田戦車西原理恵子とがしやすたか。メジャーな青年コミック誌の巻末2色などで活躍中の3氏はそろって、H系雑誌のイラストなどを描くことから仕事を始めた。けしてメジャーとは言えない彼らの作風、感性はそこで磨かれ、一般に受け入れられるようになっていったのだ。

吉田戦車(漫画家)「マンガ以外もAV評や風俗体験ルポをこなしたH本業界での日々」

高校の同級生が、ビック出版(=スーパー変態マガジン『Billy』編集部)というところにいて、そこでイラストとか四コマの仕事をもらい始めたのが、H本との関係の始まりです。漫画家としてもそこからデビューしました。8年ぐらい前のことです。

その頃はまだ学生で、H本の熱心な読者でもあったので、H本の世界というのはとても面白かった。マンガ以外でも、アダルトビデオのレビューを毎月10本とか、風俗体験ルポとか、ライターのような仕事もして、H本をみんなでワイワイ言いながら作っている、という感じでね。

で、その頃、ぜんぜん行ってなかった大学をやめようと思って、両親に「漫画を描くからやめます」と言ってモメたんです。その時に連載していたH本の名前をつい言っちゃったら、両親がそのH本探して買ってしまったんです。初めて自分の漫画を両親に見られ、わけわからないもの描くなと、ひどく怒られました。ちょうどマンガを描き始めて1年ぐらいのコトでした。

その業界で、4年ぐらい仕事をしていましたが、H本は自分の好きなコトを始めるきっかけを与えてくれた場所であり、原点のようなものですね。

よしだせんしゃ●1963年8月11日、岩手県生まれ。'85年、『ポップアップ』(ビック出版)でデビュー。『コミックボーイ』、『漫画ピラニア』、『アップルJr.』などのエロ本系で活躍後、『コミックバーガー』で、「戦え!軍人くん」の連載を始める。平成元年『ビッグコミックスピリッツ』の巻末2色カラーページで「伝染るんです」の連載を開始する。平成3年、第37回文藝春秋漫画賞を受賞。主な単行本は『鋼の人』『伝染るんです。』など。

 

とがしやすたか(漫画家)「エロ本だから誰も見ていないと思って好き勝手にやってました」

知り合いが、サン出版の『GANG』という雑誌で仕事をしていて、その人が病気になっちゃったんで、その代役で、というのがデビュー作なんです。サン出版にはたくさん雑誌があって、その後、だんだん社内のいろんな雑誌から声がかかるようになったんです。みんなエロ本ですから、Hモノの四コマとか、ギャグ漫画を描いていましたね。この時代のペンネームは“ピストンやすたか”で。で、エロ本だから誰も見てないだろうと思って、“交尾クン”とか、“ただマン君”とか、とんでもないタイトルで好き勝手にやっていました。デビューから半年ぐらいした頃、同じ社内の『さぶ』から、「ちょっと描いてみない?」って依頼がきたんですね。いや~、この時はさすがにキンチョーしましたね。最初はホモのことがよくわからないので、「こーゆー時ホモの人はどーするの?」って編集部の人に取材しながら描いていました。『さぶ』には現在も連載中です。でも、ぼくは違いますよ。エロ本系を中心に仕事をしていたのは約3年ぐらいで、もう好き勝手にやっていて、そのうちに現在の四コマの基本が-すべてできたんです。また、仕事をしているとH情報がたくさん入ってくるのと、忘年会でAVギャルに会える!というようなフロクもあるから少し続けてます。

とがしやすたか●1959年11月17日、東京都生まれ。劇画村塾に通い同期の山本直樹氏たちと同人誌を制作。処女作を発表。商業誌デビューは25歳のとき。現在、『ヤングサンデー』(小学館)をはじめとして、青春四コマを人気連載中。趣味はゴルフと野球。主な単行本は『8%のしあわせ』「闘え!サラリーマンくん』など。

 

西原理恵子(漫画家)「絵で食べていきたかった漫画家デビューは成り行きです」

高校は中退なんです、私。で、逃げるように上京して、大検を受けて美大に入学したんです。とにかく絵で食べていければ何でもよかったから、在学中からエロ本にイラストを描きまくってましたね。最初の頃は自分の作品なんてないから、高橋春男さんとか原律子さんのイラストをトレースして編集者をダマしてた。お二人には本当に感謝してます(笑い)。その当時の私の「売り」は、締切厳守と作品を出版社に持参すること。他の人に仕事を取られるのが怖くて、その場で描いたり……ただ、その絵とサンプルで見せた絵が全然違ってて、編集者が首をかしげたりするとドキドキしちゃって。根が小心者ですから。

イラストの仕事は、紹介の紹介の紹介でネズミ講的に増えたんだけど、エロ本って小さな編集プロダクションで作ってることが多いから、単価が安い上にちゃんとお金をくれないところまで…。でも、そのイラストがマンガ雑誌の編集者の目に留まったらしいんですよ。でも、「マンガを描いてみないか」って言われても、描き方を知らない。Gペンも丸ぺンもスクリーントーンの使い方すらわからなかったんですから。それでも強引にマンガを描き始めたのは、経済的に安定するんじゃないかという理由からですね。それもすぐに勘違いだとわかりましたけど。ごく最近ですよ、どうにか人並みの生活ができるようになったのは。ただね、今度はいつ仕事がなくなって、坂道を転げ落ちるかが心配なんです(笑い)。

さいばらりえこ●1964年、高知県生まれ。武蔵野美術大学卒業。大学3年の時に現在も『ヤングサンデー』連載中の「ちくろ幼稚園」で漫画デビュー。その後『ビジネスジャンプ』『まんがくらぶ』『近代麻雀ゴールド』などで活躍。単行本『ゆんぼくん』『まあじゃんほうろうき』など。最新エッセイ&コミック集『サイバラ式』が発売中。童顔で小柄な外見とはうらはらに、大歓みでバクチ好き(という噂)

 

映画―厳しい制作状況にいた者こそ強い!

中原俊(映画監督)「人々が本当にいいものを求め、映画界に自然淘汰が起こる」

本当に自分のやりたいことを考えなければいけない時代がきたっていう感じがするよね。戦後の日本の発展は、統一されたファッションで流れてきた。その申し子がバブルの人たち。で、その価値観が弾けたわけだから、いろんなものが出てくる可能性がある。

広告代理店やテレビ局が一番苦しいんだろうけど、映画界だってそんなに変わらないと思うよ。もともと映画にはバクチ的要素があったわけで、カネのあるヤツを利用するみたいなね。制作会社は苦しいんじゃない。本来、カネ集めも映画制作者の重要な能力なんだけど、ここ2~3年は何もしなくても集まってきたから。ただ、映画がころがしの道具に使われたり、素人監督がゾロゾロ出てくるなんて

ことはなくなるだろうけど。ロマンポルノがつぶれた時、スタッフが言ってた。「苦しくなれば映画の好きでないヤツは離れていく」って。そしてその通りになった。今回はその拡大版みたいなもんでしょう。

だから、これからが本当のしのぎ合い、サバイバル競争でしょう。ぼく自身は、いくら低予算のポルノ出身とはいえ、会社のカネで作ってたわけだから、カネ集めの能力はない。でも、もっともっと不景気になってみんなが暇になったほうが面白い。暇になれば、いいものを探すし映画も真剣に観てくれると思うし。時代が自分のほうに向かってきたと感じてます。

ただ、現時点ではお客さんがいい映画を観ようと思っても、正しい選択ができないシステム的な問題がある。とくに地方に顕著なんだけど、正常な配給が行われていないんだ。そこまで含めての映画界編成しか道はないでしょう。

なかはらしゅん●1951年、鹿児島県生まれ。東京大学文学部宗教学特業。'76年、日活に助監督として入社。根岸吉太郎市川崑などにつく。'82年、『犯され志願』で監督デビニュー。同作品でヨコハマ・映画祭新人監督賞を受賞。以後、にっかつロマンポルノを9本撮った。'85年にフリーとなり、'86年には初の一般映画として小泉今日子主演の『ボクの女に手を出すな』90年制作の『櫻の園』では、同年度の映画賞を多数受賞した

 

細谷隆広(新宿武蔵野館副支配人)「ピンク映画は貧乏所帯だが、今でも夢の砦。これからの日本映画を担う天才・鬼才の宝庫だ!」

映画監督への最短コースのピンク業界は、いつの時代も血の気の多い映画バカの梁山泊だった。メジャー撮影所が国立大学なら、さしずめ私立文系浪人組か。とにかく、現場では誰でも即戦力、10人以下のスタッフの中でなんでもやらなければならない。だが、裸のカラミさえある程度あれば、自由な発想の映画作りができる。貧乏所帯だが、今でも~夢の砦」で、本当の意味での、日本唯一の映画学校ではなかろうか……。

ピンク映画が社会的に認知されたのは、若松孝二監督の登場なくして考えられない。そして、山本晋也高橋伴明、中村幻児、周防正行、田代広孝など、現在活躍中のフリー監督の多くが若松プロの洗礼を受けた。また、若松監督の「早く、安く、面白く」というプロの映画作りが見直され、いまでは売れっ子監督のひと

りとなった。片や、現在公開中の『死んでもいい』の石井隆監督は劇画家出身で、にっかつロマンポルノの人気シリーズ「天使のはらわた」の原作・脚本を4作手がけ、シリーズ5作目で監督デビューを飾った人だ。一方、同じピンク映画出身の和泉聖治は、現在ハリウッド映画に挑戦している。3本以上とったピンク時代の和泉監督はテンポのよさとシャープな映像が売り物だった。前述の周防監督は高橋伴明派の制作集団「ユニットファイブ」のひとり。3年に唯一のピンク映画『変態家族兄貴の嫁さん』で監督デビューした。この作品は小津安二郎への偏愛丸出しで、立教大学での恩師・蓮実重彦らの評価を受けた。今年の話題作『シコふんじゃった』では、ヒネリの利いた端正な演出を見せていたが、次回作が待たれる。これから(正月)公開の小泉今日子主演『病院へ行こう2』の滝田洋二郎監督も、喜劇からレイプものまで幅広く器用にピンク映画を撮り、獅子プロ時代には「滝田ブランドにハズレなし」とまで言われていた。このように、いまやメジャー映画会社の看板監督はピンク系、ロマンポルノ系ばかりである。

さらに、高原秀和(『新・同棲時代』)、広木隆一(『さわこの恋』)、小水一男(『星をつぐもの』)、水谷俊之(『ひき逃げファミリー』正月公開予定)など、若手ピンク映画監督の一般映画進出は目白押しだ。

ピンク映画人口は年々減っているが、第二の周防、滝田監督が出てくる余地はまだまだある。とりあえず、ピンクの現場のほうがTVやビデオより、映画作りの勉強になる。また、いつでもスタッフ募集しているほど安いギャラゆえに、貧乏でも映画が作れて酒が飲めればいいと考える者のみが生き残れる世界だからである。

 

望月六郎(映画監督・AV監督)「最低の部分を知っているから向上心さえあれば、何も怖くない」

ぼく自身が演出するAVは、現在月イチ程度ですね。2年くらい前までは、月に3本以上作ってて出口が見つからずにイライラしてたけど、最近ようやくAVを楽しめるようになった気がします。自分が(Hを)好きだということがわかってきたのかもしれない(笑い)。

映画を撮りたいと思ったのは、大学を中退してから何となく通ってた「イメージフォーラム」で出会った金井勝さんの影響が大きい。居候までさせてもらって本当にお世話になりました。で、金井さんが、「お前はプロになったほうがいい」と言ってくれて。とりあえずプロになるにはピンクが早道だっていうんで、脚本を書いて持ち込みですよ。最初のうちは脚本ばかり書いてましたね。ようやく自分で撮らせてもらえるようになったら、AVの台頭でピンク映画の制作本数がどんどん減っていっちゃった。そんな時期に子供まで生まれちゃって(笑い)。あまり気が進まなかったんだけど、AVの仕事を始めたんです。フィルムがどうとかいうこだわりはないけど、気分的な問題ですよね。まあ、AVのおかげで好きな作品も撮れるようになったし、常に現場を味わっていられるんだけど。集務所の連中に言ってるんですよ、「向こう側に選ばれるんじゃなくて自分たちが選ぶ」心意気でやっていこうってね。ぼくらは、予算、日程その他の部分で最低を知っているんです。それ以上悪くなることはないだろうし、貧乏の方法が活かせる時代だと思うんです。ただ、どんな状況でも健全な向上心だけは持ち続けたいですね。

もちづきろくろう●1957年、東京都生まれ。慶應義塾大学中退後、イメージフォーラム付属映像研究所を卒業。ピンク映画、ロマンポルノの脚本を多作。’86年よりAV監督として、人気シリーズ『逆ソープ天国』『フラッシュバック』などを撮る。'90年には一般映画『スキンレスナイト』を監督し、世界10数か所の映画祭に招待された。現在、AV男優を主人公にした一般映画『ヌードマン』の撮影準備中である。

 

雑誌・文学―そこにはブンガク的熱気がある!

久住昌之(デザイナー・漫画家・コラムニスト)「タブーがあったから燃えた限界があったから楽しめた」

ぼくが自販機のエロ本に文章やマレンガを書いてたのは10年くらい前。あの頃は編集の人に元気があったね。その頃の編集の人はアングラ劇団みたいな謎のパワーがあったね。ゲリラ的な。それはエロの限界というタブーがあったからだろうね。AVもビニ本もなかったし。どうだまそうかと燃えるし、面白がれるし、よし、やっちゃおうと盛り上がってくるものもある。悪企みの楽しさだよね。

自販機そのものがなんかいかがわしいでしょ。後ろめたさってタブーの近くにあるじゃない。作り手に後ろめたさがあると、それを創造的な何かに転嫁して自分を納得させようとする。そういうのがあると力が出るじゃない。自分は本当はエロがやりたいわけじゃないんだ!という部分を少しでも主張したいとガンバっちゃってた。今のAVみたいに「明るい本」じゃないし、モデルもブスだし(笑い)。だからおよそエロに関係のないようなぼくらにマンガを頼んできたんだろうね。ゲリラ的な気持ちがあったから『ガロ』とかに描いてる人たちに共感したんじゃないかな。予算も時間もないからたいへんだけど、そのぶん楽しんでサービスして面白がろうぜという気持ちが編集者との共有感としてあったよね。

ぼくがエロ本から学んだのはそういうサービス精神。それこそたけしとかが浅草のストリップ劇場でギャグやってるのと同じ。誰もたけしを見に来るわけじゃないでしょ。だから露骨なサービスをしないとダメみたいな。自分は自販機なんだし、ゲリラなんだし、思いっきり独りよがりになってできるというのが一方にありながら、一方で、でも単にマイナーなことを書いてもダメだぜというのがあった。オナニーするために本買った男がついぼくの文章やマンガを見ちゃって、つい笑っちゃったっていうのを書きたかったから。マイナーもメジャーも関係ない、ギャラも損得も関係なかったね。

くすみまさゆき●1958年、東京都生まれ。法政大学社会学部卒業。学生時代からPR誌や社内報にカットを描くかたわら、自販機本にコラムを発表。また、泉晴紀と組み、泉昌之ペンネームで『ガロ』や自販機本にマンガを描く。そのほか、イラスト、デザイン、エッセー、作詞・作曲と多方面で活躍。著書に『いい大人』『かっこいいスキヤキ』など。最新刊は『脳天記』『ハイテクがなんだ!』

 

末井昭白夜書房取締役編集局長)「まず自分が面白いものを作る。そのパワーが読者に伝われば雑誌は売れる」―編集職人の主張

エロ本を作るつもりは全然ありませんでしたよ」──ビニ本以降のアダルト系出版界に新しい方向性を開いた雑誌として語り継がれる『写真時代』を作った末井昭氏は言う。

「エロ本とは、それでオナニーができることが条件ですよね。洒落や冗談はご法度で、真面目に作るもんなんです。どうも苦手なんですよね(笑い)。最初は荒木(経惟)さんだけの雑誌を作ろうと思ったんです。本人に相談したら、『売れないよ。だったら写真雑誌を作ればいい』って」

確かにアラーキーなしでは成立しえない雑誌だったが、執筆陣の顔ぶれもすごい。森山大道南伸坊嵐山光三郎赤瀬川原平渡辺和博……。「読者のことはあまり考えずに自分が原稿を頼みたい人に依頼していただけですよ」

もともと末井氏は、デザイン畑の人だった。白夜書房の前身セルフ出版、そのまた前身のグリーン企画で自販機本やビニ本のレイアウトをしていた。出せば売れる時代である。

「昭和49年、社長が予算35万円で書店で売る雑誌を作れと言ったのが、白夜書房の始まりです。試行錯誤して『写真時代』になったんですが、読者なんて見えてませんよ。誰が買ってるんだか……。イケイケ的パワーは作りながら自分で感じてましたけどね。その点、今、作ってるパチンコの雑誌は面白いですよ。発売日にパチンコ店に行くと必ずその号に載

せた攻略法を実行している人がいるし、はがきや電話も山のようにきますからね。情報が直接お金に結びつくわけですから、真剣ですよ」

そう、彼は『写真時代』でエロ本を書店の前面(たいがいエロ本は書店の奥のほうにコーナーがあった)に並べることに成功したばかりでなく、パチンコ専門月刊誌を日本で初めて成功させた人なのである。今でこそ、コンビニの雑誌コーナーには同様の攻略本がズラリと並んでいるが、すべて彼の『パチンコ必勝ガイド』の後追いなのだ。そんな独自の感性を持つ末井氏は、今の出版業界をどう見ているのか。

「他力本願のマガジンハウス的な雑誌作りはできないだろうし、アパレル誌なんかもタイアップがなくなって四苦八苦していると聞きます。そういう状況になると、現場で覚えた職人的な実力は強いと思いますね。安いコストで作るノウハウだけじゃ

なく、収益を上げないと次が作れないという強い意識。それがパワーの源になって面白いものができるんじゃないでしょうか。雑誌は“ちゃんとお客さんに買ってもらう”のが基本だし、面白いものが売れるのは当たり前のことなんだからね」

 

梶原葉月(作家・ルポライター)「ヘンなオトナとの出会いが印象深いエロ本ライターの頃」

高校1年の時に、原宿でサン出版の編集部の女性に声をかけられたのが、ライターを始めたきっかけ。その時は、写真入りのコメント取材だったけど、「作文書ける?」と誘われて、600~800字の告白モノや投稿モノを書くようになったんです。高校で話題になる身近なことだったから比較的ラクだったし、いろいろな立場のコになりきるのも、楽しかったですね。あまり注文もなく、自由に書けたし。でも、一番よかったのは、文章修行とかそういうんじゃなくて、編集部でヘンなオトナの人に出会えたこと。渡辺和博さんや南伸坊さんなど、今では有名になった方もたくさん出入りしてて、私はおマメ状態でウロチョロさせてもらったって感じ。それまで親と先生しかオトナを知らなかったから、こういう生き方もあるんだな、と教えられました。

今の仕象とは人脈やスタイルがまったく違うんで、直接つながってはないけど、高校の頃からそういういい意味で不良の、個性あるオトナに遊んでもらったことは、生きていると思います。

かじわらはづき●1964年、東京都生まれ。政大学法学部卒業。16歳からライターとしてH系の雑誌にかかわり、少女雑誌の編集のアシスタントもつとめる。大学卒業後、銀行に就職したが、1年で退職して『アイドルなんて大きらいっ!』で作家デビュー。その後、ルポも手がけ、現在、『アエラ』でコラム、『ストルーダ』で小説を連載中。11月に『僕らの恋の失くし方』『大好きって言って!』を出版予定。

 

荒木経惟(写真家)「写真は、わがまま自由にやっていかなきゃダメなんだ!」

『写真時代』は末井昭が俺だけの雑誌を作ろうといって始まったんだ。あいつのすごいところは広告を取らないというより、こないのをやろうって。そうじゃなきゃパワフルな雑誌は出せないわけ。内容だけで売ろうとなると、人間力出すだろ。それとあいつは作家たちには存分に自由にやらせたね。陰でみんな自分がかぶって作家には自由に萎縮しないようにさせてた。俺の場合だって、ヘアだろうが性器だろうがファックシーンだろうが、何をやったって止めなかった。彼が責任をもって、最後まで俺を警察に行かせなかったから。そういう編集者が最近少ないんだよな。

今、一番自由にやってるのは『S&Mスナイパー』だね。これも広告なんて取れないっていうか取らない。やっぱり公にやれないようなことがいいんだよ。そのかわりに自由。だから元気いいだろ。写真の場合、わがままな感じでやっていかなきゃダメなんだよ。『S&Mスナイパー』はこれからも連載をバンバン変えちゃうよ。もっとパワフルにもっとHに。だって、今みんな何もないじゃない。関係が乾いててもいいとかさ、気どってるだろう。やっぱりセックスは重なってやるもんだとかさ、女は態るもんだとかさ、そういう一番基本ていうか原初的なことをみんな今こそ一番欲してるわけなんだよ。それに刺激与えなくっちゃ。やっぱ、Hてのはさ、元気の要素だよな。

そのためにもやっぱりヘアぐらい解禁しなくちゃ。他力本願ふうでよくないけど、そうすれば、また雑誌も作家も燃え上がるんじゃない。

あらきのぶよし●1940年、東京都生まれ。千葉大学工学部卒業。'64年に「さっちん」で第1回太陽賞を受賞。以後、新婚旅行を撮った「センチメンタルな旅」、私写真”シリーズなど、話題作を続々と発表。'92年には写真展「写真狂日記」の展示作品が猥褻容疑で押収された。10月25日に写真集『天使祭』『10年目のセンチメンタルな旅』『東京は、秋』を発売。

 

山川健一(作家)「文学でも、雑誌でも、制度を超えようとするパワーが必要」

20擺くらい本を出しているけど、デビュー作を除くと、出版社から頼まれないで書いたのは『スパンキング・ラブ』が初めてなんです。その頃は、湾岸戦争があったりしてむしやくしゃしていて、すごく暴力的な小説を畫きたくて、『S&Mスナイパー』に連載を頼んだんです。この雑誌はSMというテーマで、編集者も作家も情熱的に作っているから、リアルに訴えかけてくるものがあって、梶井基次郎の停様の爆弾のようなパワー、危険さがある。

ぼくは制度を超えていこうとするものこそが、面白いと思っています。純文学であれ、エンターテインメントであれ、ポルノグラフィでも、雑誌であろうが、ワクのなかにとどまっているものは面白くないんだけど、最近はそういうものばかり。目の前にある(幻想としての)制度を、超えようとする意志に貫かれているか、そういうパワーがあるかが、今、問題なわけ。小説を書くのもそういう意志のためだし、またそういうパワーがある「S&Mスナイパー」を発表の場としたのも、制度を超えられなくとも、つかめることぐらいはできるのでは、と考えたからです。

やまかわけんいち●1953年7月19日、千葉県生まれ。早稲田大学商学部卒業。在学中に「天使が浮かんでいた」で早稲田キャンパス文芸賞を受賞、'77年に「鏡の中のガラスの船」で群像新人文学賞優秀作となり、作家デビュー。近作に『ザ・ベストMAGAZINE』に連載した『ジゴロたちの航海』。『S&Mスナイパー』に現在も「カナリア」を連載中。音楽活動も大学時代から続け、メジャーデビューも果たしている

自由に、ラジカルにHカルチャーは、これからも、疾走しつづける!

取材・文/泉淳一  土井千鶴  村田伸一  まくべろくろう

初出:週刊『SPA!』1992年10月28日号所載