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大魔神・蛭児神建の怒り─なつかしの業界ケンカ史

大魔神蛭児神建の怒り──なつかしの業界ケンカ史

池本浩一




吾妻ひでおの漫画に登場した蛭児神建

 

この記事は池本浩一が1990年12月から1991年7月まで『レモンクラブ』(現『コミックMate』編集者の塩山芳明が90年代に編集していたエロ漫画誌)に連載していたコラム「なつかしの業界ケンカ史/大魔神蛭児神建の怒り」の全容である。

今は昔の80年代のコミケ事情やドマイナー系エロマンガ誌をめぐる当事者間の「いざこざ」をコミケ黎明期の怪人・蛭児神建とモルテンクラブを中心に据えて回想した読み物で、これ以上に詳しい資料は今後も出てくることはないだろう。

残念なことに本連載は単行本化されておらず、次章「ブリッコ盛衰記」や「クラリスマガジン騒動記」も興味深いが到底読むことは出来ない。このたび掲載誌から全文を書き起こしたのは、時代の隙間に眠った原稿から80年代のロリコン漫画界の黒歴史ミッシングリンクを暴き出すためである。なお副読本として蛭児神建出家日記―ある「おたく」の生涯』(05年刊)を事前に読んでおくことを推奨する。

さて、このくそ長いケンカ話は、まず池本の独り言から始まる…。

 

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そんでもって先月からの続きというわけじゃあないんですけれども、なんとも前回とりあげたネタ雑誌の…というか『ロリポップ』が遂に休刊てゆーことになっちゃって、ウチんところの塩山編集長なんかも「亜流誌である『ロリタッチ』としても休刊〇〇号なんってのを出さなければ」と頭をひねっている始末で(まぁそれはさておいて)。それにつけても『ロリポップ』の川瀬編集長ってお人はよっぽど「お詫び」に縁のあるご様子で今回もまたなんと最終刊号にまで目次のある最終頁んところに「お詫び」を載せちゃってるんだから、懲りないというのか懲りているというんだか。こと最期におよんでいても角川書店までケンカを売りにいってるんだから(いや!?―お詫び文を書いているワケなんだからケンカ売ってることにはならんのかな?)。フツーだったらイチャモンつけられても「その雑誌だったらもう今月号で休刊となりました。ゴメンなさい!」てぇ理由だってつくとは思うんですけれどもね。

それにしても先月号に載った漫画についての苦情が翌月号でお詫び書いてあるんだからスゲエおお急ぎのクレームが編集部あてに来たんだろうね。直接に確認したワケじゃないから断定的なコトは言わないけれども、やっぱり“御注進組”みたいな連中でもいるんじゃあないスかね?―ほら、かならずクラスなんかにも幾人かいるでしょう。こっちの仲間うちだけってゆうような話しの内容で誰かさんのカゲ口みたいな話題をやってるとよろこんで聞いているクセに、今度はアッチのグループへいって「誰々がこんな悪口をいってましたよ」ってモトの話しを10倍にしてこ報告するようなヤツ。そのくせ今度はまたこっちにやってきて「あいつら、ケンカ仕掛けるつもりで準備していましたよっ」って向こうの情報まで提供してくれたりなんかしてわざわざ人間関係を複雑に仕組んでくれるようなマッチポンプの連中(彼らにしちゃあ親切と真実に目覚めての行動のつもりなんだけれども結局のところは騒動の渦中てな状況に「まぁどうしましょう」ってんでドタバタしているのが嬉しいだけのジャマな輩なんだけどね)。

べつに『ロリポップ』にそういう連中が蔓延っているっていうコトじゃあなくて、どこの世間にもギョウカイにも雑誌の中にだって読者や漫画家やライターや編集なんかのあいだに山ほどもいるんですネぇ、これがっ。

てなところで今月号の本題となりますけれども。今回の塩山指令によれば「蛭児神建とスタジオバトルとのケンカ」をアラ探しせよ―つうことでありまして。舞台となる時代は前回までと全くおんなじ昭和60年(1985年)から昭和62年(1987年)にかけての頃。

なんのこともナイ、この時期っていうのがロリコン漫画オタクの皆々様にとっては豪華オールスターキャストが大勢揃いの華々しい夢のようなエポックの時代だったというワケ。現代より以上にアクの固まりみたいな目立ちたがり屋で個性の強いセミブロの編集者や構成作家たちが、やはり絵柄にクセばっかり強いセミプロ漫画家たちと、我が天下とばかりに跳梁跋扈して暗躍死闘を繰り広げていたハードな時代だったというワケ(善く云えば《宮本武蔵》みたいなこと考えている連中が即売会場に行けばウジャウジャいたということなのだけれどね)。そして、そんな彼らにとってのメインステージこそが晴海へ会場を移してさらに拡大を続けていたコミックマーケットだったという状況。

まぁちょっと読者の皆様や、この前後のコミケットシーンっていうのが、これから後に蛭児神建氏がスタジオバトル批判にいたるまでのまえふりに非常にかかわってくるんですねえ。蛭児神氏としては『レモンピープル』の創刊当時からすでに東京の同人誌界においてはそれなりに名を成していたと自負していて、ロリコン同人界の重鎮をめざしていたという時期になるのだけれども。これからさらに数年前にさかのぼった頃、当時マイナーまんが誌の神様をやっていた吾妻ひでお先生のマンガにキャラクターとして登場したりしてファンのあいだで有名化したのを皮切りに、『ロリコン大全集』(群雄社)みたいな蛭児神建の責任編集と冠したムックが出てしまったり、あげくにはテレビやラジオからも出演依頼がくるといった彼にとっては寵児的な時代があったワケで当然のごとくに彼の周辺には取り巻きの連中もワンサと集まってきていた頃のこと。彼としてはいまだったら自分とこの同人誌も大部数を充分に売れるだろうと踏んで―当然のごとく大部数の同人誌を売ればステータスになるわけだから…。

ところが彼の『幼女嗜好』は思ったほども売れなくってけっこう在庫が残ってしまったという暗い過去のような状況もあるのですよ。これが、彼を儲け主義批判に奔らせた内因とみることもできますけれどもね。そして、そんな―、2年のあいだに東京のコミックマーケットでは或る新興の売れ線サークルが大型の猛威をふるっていたというワケなのです。午後になっても消えない長蛇の列をつくり、これまでにないような高価格の同人誌を売りつけて暴利を貪る悪徳サークルという評判を物ともせずに大量部数を捌いてゆく―コミケ1日で数百万円を売り上げてそれをまた1日で使い果たしちゃったともいう伝説を生んだ、その同人サークルの名をモルテンクラブという…。

蛭児神氏は言う。

「月産20ページが限界の漫画家に本人の迷惑も考えずベッタリとへばり付き、〆切り寸前でもムリヤリに同人誌の原稿を描かせ、その結果として商業誌の連載が遅れたり落ちたりしても平然としてる奴。有名人の手抜き原稿ばかりを集めて同人誌を作り、原価の数倍の高値で売って大儲けする奴。脱税する奴。昔から同人誌をやっている人達──特に、大部分の漫画家からマムシの様に忌嫌われながら、それに気付かずにいる奴。そんな連中を、まとめて漏転と呼ぶわけ」──『レモンピープル』昭和61年3月号「魔界に蠢く聖者たち」第40話〈新春放談!! コミケットに見る漏転文明〉より。

蛭児神氏からみれば自分の知っている作家がモルテンクラブの同人誌に執筆をさせられて、その締め切りに追われているがために氏が「常に王様でいて欲しい」と想っている『レモンピープル』の連載を落としているんだと解釈したときからその闘いは始まったともいえるでしょうか。

このモルテンクラブに対して力をふっかけていた当時の蛭児神氏はというと『レモンピープル』でのエッセイのほかに『プチ・パンドラ』編集長としてもメディアを持ってたワケで、対同人誌サークル相手に仕掛けたケンカにしてはかなりのハンディをモルテンクラブ側は負っいることになるんじゃないかとも思えるかもしれないですけどね。自己顕示欲の人一倍強い―というよりも蛭児神建というかりそめのキャラクターが存在しなければ世間にパフォーマンスすることができないなわけだからこそ、意地になってもあちこちにケンカを売りまくっいたともいえる次第。しかし、この時期の蛭児神氏による一連の“漏転文明批判”っていうのが、結果的にちょうど美少女漫画誌ブームの面を象徴する位置にちゃんときちゃってるんですね(これが彼のねらっていたところなのかもしれないけど)。

で、かんじんのケンカを吹っかられたモルテンクラブ側の言い分といえばちょうど『レモンピープル』昭和61年1月号で戸山優氏が担当する「同人誌ページ・ジャック」にモルテンクラブがとりあげられていのですが「我々が作ろうとしていのは、古くからある『同人誌』ではなく、いわば『自主制作コミック』なのです。運営が成り立っているミニコミ誌みたいなものですね。そのためにも資本回収は完全に行われるよう頑張っています」といった具合で蛭児神氏とはまるで噛み合わなワケ。(本当の闘いはこの数ヶ月後開始される…)

【以下次号】

 

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え~と、前回からのお話しの続きというワケなのですが。ほんとうのところ読者の皆様には果たしてこんな5年以上も昔のギョウカイ状況についてどの程度の予備知識があるんでしょうかねえ。

老婆心ながらに思ってみたところで、そのころにすでに刊行していた美少女系漫画誌のうちでいま現在にまだ生き残っている雑誌なんて究極老舗創始誌の『レモンピープル』くらいなものだし、そんな『レモンピープル』が現行のB5平綴じスタイルになったばかりの当時に亜流誌をしていた『ペパーミントコミック』も『ペリカンハウス』も『メロンコミック』なんてのもみんななくなっちゃっているワケだし、『漫画ブリッコ』だとか『ロリポップ』なんていうA5版の平綴じモノだってみんな消えちゃっているし…。例にするならば『いけないコミック』という名前の美少女漫画雑誌があったかとうかさえも知っている読者が現時点でどれくらいいるのだろうかとも思っちゃうワケ。たとえば、こんど『少年サンデー』で漫画連載のはじまったみやすのんきロリコンメーカーなんていうペンネームをつかってアニメエロパロなんかを劇画ジッパーなんかへ描いていたコトとか、彼が主催していたサークルはコミケットでは超売れ筋のサークルだったりしたような(これってもう7~8年くらい前のことでないんかい)ことなんかもう知らないようなコミケットが晴海以前にどこの会場で開催されていたのかも知らない世代ばかりになっちゃったんだろうなあとも考えちゃうような次第。それこそ『ロリコン大全集』のときの蛭児神建氏じゃないけど「吾妻ひでお先生が描いたロリコン実録漫画に出てくる登場人物をことごとくに全員とも知っていた―というような狭いギョウカイじゃなくなってしまっているのは事実なんだけれども…。

本当にあのころにコミケットに参加していたロリコン系の同人誌サークルの数なんか(いまじゃコミケットに一般創作系サークルとして参加しているような非エロ系統の美少女創作サークルまで含んだとしても)現在の即売会でいうならばコミックレヴォリューションあたりの中規模即売会に参加している男性向け創作サークルの参加数と比べたとしても同じ程度くらいのサークル数しか出ていなかったワケだし、あるいは現在みたいに全国各地の田舎からだってもコミケットに参加してくるなんていうことはありえなかったわけだから当然のように東京近郊あたりでちょっと気のきいた同人誌ゴロみたいなことやっているような連中だったならばコミケットに参加している同人誌関係者なんかすべてお友達っていうような状況だってありえたようなワケ。だからこそ本格的に同人誌オタクをやろうなんて思ったならば、それこそ関東地方の同人誌即売会は言うに及ばず大阪から名古屋あるいは福岡やら新潟にいたるまでの同人誌即売会に出かけていってあちらこちらのサークルと友好関係を築いてコネクションをひろげておかなければ、ほかの同人誌ゴロみたいなことをやっている連中に対して自慢にもならなかったわけだし自分の商売もはかどらないということで(つまるところがオタクにとって絶対に必要不可欠であるところの他人と差別化できるような情報量の格差を見せびらかすようなことができないというコトね)自分の努力圏をある程度に拡大しちゃったならば、あとは19世紀の帝国主義世界とおんなじことでおたがいの系列作家の引き抜きと囲い込み。外の同人誌ゴロなことやっている連中の悪口を並べて風評をおとしめて人望なくしてやろうっ!ていう作戦。みんな人見知りのさみしがり屋で偏執狂なモンだからこうでもしないと友人関係をつくるための基礎もつくることができないのだ。

だからこそ「寄らば大樹の陰」っていうことで協商関係をむすぶために同人誌ゴロの大多数はいつの間にか漫画誌なんかの編集部ゴロを志すことでみんな権力志向、商業誌(とりあえず美少女漫画誌の同人誌紹介のページなどを担当することでサークルに対して圧力をかけ、作家を商業デビューさせることで出版社からはマネジメントの手数料を取り、作家には恩を売りつけて系列作家として捕り込んでゆく)志向してゆく。

そんななかで一番にコネクション作りに精力を使っていたのが『ベパーミントコミック』の編集をやっていた金子順氏。九州方面の即売会にまで進攻していった一番に早かった御仁。とにかく営業範囲がてびろく一時期にはどこかの出版社で美少女アンソロジー本が発行されるとなると必ず絡んでいたほど。いまでもアグミックスのパソコンゲームソフトなんかをてがける一方で東京アニメーター学院で漫画原稿の売り込みの仕方も講師しているらしいけれども。

そして漫画家をブランド化して売り出すのにもっとも成功していたのが戸山優氏。彼が『レモンピープル』の「同人誌ページジャック」で紹介した作家は必ずや同人誌売り上げが伸びて、商業デビューすればヒット間違しというジンクスすらもあったのだ。そして彼がフェアリーダストの契約社員として『くりぃむレモン』シリーズを裏で支えていたというのも周知の事実であったりもする。

あるいは今回白夜書房からの本格青年誌として『コミッククラフト』を創刊させたスタジオ編集部の村上嘉隆氏や、または今夏に新貝田鉄也郎のカードゲームを発売した松永宏樹氏など。ヘタすりゃ、コミケットに行けばみんな、いまだにネタを探しにやって来たりしているモンだからたいへん。そしてさらにはそういった業界人の近くで利益を得ようと巻いている連中も山ほどいたりして―。

そんなわけで美少女漫画誌の編集部周辺にひそんでいたりするとゴロくずれの腰巾着エロ漫画家(コレがまたケッコウ多いんだけれども)あたりからカゲ口みたいな話しがいろいろ聴けてまた面白かったりもする次第。まあ彼らにしたところで、そのみみっちい政治的野望(コミケットでデカイ顔をしたいみたいな)を大看板作家先生や担当編集者を利用してダマすことで明日への希望をつないでいるんだけれど。

とくにこの時期、蛭児神建とモルテンクラブの間に始まったケンカ騒動の頃といえば、もりやねこ、くらむぽん、わたなべわたる、虚遊群など後にブームを起こすような作家が本格デビューをしてきて、あるいは森山塔あたりがまだ元気でいて、または阿乱霊や池田一成が『レモンピープル』でかわらずに原稿を落とし続けることで新人が量産されていった頃。

たしかに、この時期だったならばある程度のエロっぽい漫画さえ描ければポンとデビューだけは出来るというような期待感が同人誌新人の問にあったのも間違いのないところ。

しかしどう転んだところでも原稿料の安さという問題がつねに漫画家にとって頭のいたいトコロで創刊当時の『ハーフリータ』みたいに漫画が連載扱いになるくらいだったら毎月投稿して採用賞金をもらったほうが金額が高いと言われたくらいに安かった(レモンピープルにしたところで現在の一般的な新人漫画家の原稿料からくらべても、その半額くらいにしかあたらないような値段の原稿料だったのだけれど)―とてもじゃないけれども美少女漫画を描いて自立して生活をするなんていうことが夢のような時代だったという背景をわかってもらえるとウレシイ。

ハッキリいって同人誌で原稿料をもらっていたほうが高額だったワケなのだ!―が、しかし蛭児神氏からすれば札束で頬を叩くようなコトをする原稿依頼編集制のサークルなど許せるはずさえなかったのである!!

「某漫画家の連載が毎度あんな状況なのはまず60%以上が連中のせいなんだぜ。地方の読者だって、怒るベきだ。東京でしか買えん同人誌にかかされたしわよせで、あんたらが好きな漫画家を雑誌で見れなくなるんだ。一番の被害者は編集でも漫画家でも無く、あんたら一般の読者なんだぞ!」

蛭児神氏は『プチパンドラ』の誌上で吼え続ける。

【以下次号】

 

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さて時代は昭和61年の春まだ明けぬ頃のこと。いよいよ、《プチ・パンドラ》編集長であるところの蛭児神建氏と同人誌サークルであるところのモルテンクラブによる同人誌業界人戦争が開始されようとしていた!!

この年《レモンピープル》の1月号で戸山優氏が担当をする「同人誌ページ・ジャック」におけるインタビューに応えて「ゆくゆくは小さな企画・編集スタジオを作ってまんが雑誌の編集請負や自社出版を始めるのが夢です」と語っていたサークル代表のO氏こそ、蛭児神氏が業界生命をなげうって打倒・撲滅に励んでいた犬漏転の首領であるところの大久保光志氏。そして、このときすでに彼が実質的な編集長として白夜書房営業部の藤脇氏を通じて刊行することが確定していたモルテンクラブによる新創刊誌こそが、後に再燃する第2次の商業誌美少女漫画ブームへ火をつけた伝説の《パンプキン》であったのだ。

この当時、白夜書房の営業部では社内の編集部に拠らず営業独自によって漫画本を作ろうとの画策をしていた!!―これまでの漫画編集部に依存をしたやりかたでは「漫画誌に1年以上もかけての連載をしなければ単行本にできるページ数が集められない」といった制約や「描き下ろし漫画原稿とか表紙用カラーイラストといった単行本の発行に必須のさまざまな予定が、雑誌連載中の別仕事といった漫画編集部だけの都合によるスケジュールのせいでいつも妨害をされる」といった難点があり、そのためせっかく「時期をにらんだタイムリーな話題性のある単行本発行を狙っている」営業サイドとしては、雑誌というステップを排除したダイレクトな単行本の発行こそが当然の帰結としてあったワケなのだ! 雑誌編集部経由によらない直接的な単行本という発想と、単行本ならば1万部も売れれば充分に採算がとれるといった状況こそが《パンプキン》にいたる下地にはあり、すでに実績としての万部単位での販売実績のある同人誌サークルとしてのモルテンクラブの存在と、その潜在的読者層の存在から大量部数の売り上げが充分に可能であるとした漫画専門書店のフィクサー高岡書店(あのヒゲの店員で有名な)の証言に動かされた取次による営業後押しもあり、まんがの森という販売手段さえも所持しているといった諸条件がそろってはじめて印税12%という超高率な制作費による単行本形式の新雑誌が誕生したというしだい(一般的に美少女系の漫画単行本での印税なんて平均しても5~8%くらいのもので、まぁ10%以上なんていうことは通常ありえないような数字で、しかもそれをふつうの単行本の初版部数と比べたらン倍の発行部数にもなるような《パンプキン》で刷るんだからまたそうとうなモン。この印税金額を当時のそのほかの平均的な美少女漫画雑誌の製作費と金額で単純比較した場合にしたって、まぁ実際の発行部数にもよるけれども少なとも3倍に近い金額にはなるだろうっていうくらいに余裕があるって具合。当時のメジャー系の漫画誌にもまけない以上の製作費がかけられていた雑誌なのだ)。そして《パンプキン》の編集部としてモルテンクラブは名称も新たにスタジオバトル(翌年さらに有限会社オーエスビー出版と改称)となり再出発を果たしたのだった!! これにおいて東京地区の美少女同人誌関係者向け全員参加可能な誌上戦争の舞台がついに完成になったワケだ。

論戦の主戦場となる2つの漫画誌。かたやB5判ひらとじのレモンピープルサイズで蛭児神建という性格派編集長が日本土俗的おどろしい百鬼夜行な作家達の個性をコレクションしたようなカルト漫画誌。対するはA5判の単行本サイズで美少女同人系の売れっ子作家勢ぞろいという大義のため主義主張の違いも呉越同舟して編集個性を極力排した物量威力にたのんだ究極の同人誌を商業ベースにのせた新機軸のアンソロジー。この《プチ・パンドラ》と《パンプキン》はどっちにしたところで現在の美少女漫画誌の主流となっている《ペンギンクラブ》タイプのコンビニストアでの流通をメインに据えたB5判中とじ雑誌とは傾向も対策もことなった異形の漫画本ではある。

共通点としてはどちらも同人誌系作家によるマニア向け美少女漫画本で、当然のことくにコンビニストア置きを前提とはしていない限定流通指向のモノ。いくらメジャー指向性のある《パンプキン》が逆立ちをしたところで10万部単位を前提にしている雑誌とは違うわけで、ましてや単行本(とくにわたなべわたるの単行本)を出すことを前提の目的として結合している白夜書房営業&スタジオバトル連合にとって大部数の雑誌を作ることなど眼中にないわけでB5中とじ誌は唯一わたなべわたる特集号を市場調査の意味もふくめて13万部刷ったことがあるだけなのである〔このときには白夜書房の営業側がたいへん強気にでた結果にスタジオバトル側が同意したもので、スタジオバトル側としてはオフセット印刷で書籍用紙に刷っている本誌とくらべて活版印刷による刷り上がりの見栄のわるさと更紙の紙質を気にして「売り上げ結果が悪かったらどうする」「単行本の売り上げに影響したらどうする」とかなり気をもんでいたのではあるがその結果としては多く一般書店までも含めた配本であったにもかかわらずに即刻完売という白夜書房の営業側にしてすら予想より以上の売れ行きに驚きを示したのだった―が、この件についてはさらに後日談もある。わたなべわたる特集号の売れ行きに注目した取次よりスタジオバトルに対し「コードはこちらからあげるからわたなべわたるの単行本は白夜書房なんかで出さないで自社発行にしたほうがいい」という誘い掛けなんかまであったりしたのだ。もともとわたなべわたるの単行本というエサは《パンプキン》を出すために白夜書房へ向けた方便としてだけに使っていたにすぎないスタジオバトルとしてはこの魅惑な攻勢にかなり揺らめいてしまい白夜書房との関係が亀裂する遠因とまでなってしまった…〕。どちらの本にしたところで、それまでの商業誌上においてはマニアックすぎて敬遠されていたような「SFネタ」あるいは「ホラーやスブラッター的な刺激臭のつよい内容」の作品も掲載したり、または絵質やストーリーなどでクセがつよ過ぎて一般大衆へのウケがたいへん絶望的なほどに無器用な描き手(絵的には巧いんだけれどもそれまでの少年誌的なワクのなかでは冷や飯をくわされているような作家)を取り込むことによって、既存の同人誌に飽きたらずにより高度な同人誌をもとめていたオタクを絶対的読者層に設定した、嵐獣郎太氏がいうところのインディーズコミックという半アンダーグラウンドな商業レーベルを分野として確立していったのだ〔余談になるが《パンプキン》の白夜書房から社内の漫画誌編集部によって少し遅れて4月に創刊された《ホットミルク》のこと―《漫画ブリッコ》の番頭生活から始まって、幕引きのお務めまでもしたばかりの斎藤O子編集長がいっていた「畳が出てくるような普通の漫画が載っている本(マニア狙いなメカだとか触手が絡みついて女の子を襲うような話が出てこない、日常生活が舞台になってアパートだとか学校なんかで展開するHモノ)にしたいネ」というセリフが《パンプキン》創刊の際にスタジオバトルが目指したところの「インディーズの道」とは対照を際立たせていた。同年の10月に創刊となった《ペンギンクラブ》的な路線を先駆けて初めて美少女漫画誌において同人誌マニア系以外の大衆を読者層として指向した雑誌だったのよね―現況の主流を形成しているコンビニ派とはまったく異なった道を歩みながらA5判中とじ誌として唯一に生き残っているんだから。

それにしても《パンプキン》《プチ・パンドラ)の両誌ともで描いてる作家までが多いのなんて? じゃあ両誌の違いってナニなの?

【以下次号】

 

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いよいよ創刊した《パンプキン》です。この後にスタジオバトルは在庫処理およびに会員向け通販などをのぞいて急速に同人誌そのものからは撤退をしていくことになるワケですが…。

破壊的な同人誌改革を企てるモルテンクラブに対して蛭児神建氏が反敗する武装論拠は結局のところ同人誌出版の違法性についてと脱税問題に関する批判へと展開してゆきます。

「同人誌での金儲けが、何故いけないか? これは道徳観以前の問題なのですよ。つまり、同人誌という存在自体が非常に法的にあいまいな…ハッキリ言えば出版法規に抵触した違法出版物なのです。これが罰せられずにいるのは、単に“子供のお遊び”という観点から、大目に見られているのに過ぎません」「誰であれ収入の全てに課税されるのが現代日本の法律ですが、同人誌の利潤を申告する人などいませんね。でも二、三万ならともかく数十~数百万単位となりますと“脱税”という実刑判決の伴う犯罪行為になるのですよ」

同人誌界のおばけであるモルテンクラブから商業誌界のおばけをめざすスタジオバトルへの華麗なる転身は変わり身のよさとさえもいえるべき!! この転身こそ、もしも同人誌サークルと商業誌の編集部を兼ねて続けていたとしたら当然に生じたであろうもろもろな非難ごうごうを避けるためのケジメとさえもいえるモノであり、またこれは復讐のための開始宣言であったのです!!

それまでモルテンクラブは同人誌のサークルであるというだけで商業誌関係の連中から蔑まれうとまれてきました。

商業誌の編集者は「モルテンの同人誌なんか原稿おとしたってかまわないから」と自分トコの雑誌用の原稿を作品の質のよしあしにも関係なく、ただ締め切りという日付だけを押しつけてむりやり作家にいそがせて原稿をあげさせようとしている…こっちのほうが先に原稿依頼だってしているのに、そんな商業誌というのは偉いのか―大久保光志氏からしてみれば同じ出版というメディアに携わる同士なのになぜ差別を受けるのか理解できなかったでしょう。商業誌の編集たちは自分よりも大きなマスメディアにはへこへこするくせに、相手のメデイアが自分よりも小さいとみれば急にデカイ態度にでて他人を踏みにじる。口では仁義がなんだと言いながら他人を陥れることしか考えないで、とにかく難クセをつけてくる──。

作家に原稿を依頼するという行為だけをとっても同人誌のくせに商業誌作家に原稿を依頼するなんておこがましいと批判され、また原稿科を出しているといえば同人誌らしからぬ行為と罵られるし、その金額が商業誌より高いといってはまた、それこそ札束で顔をはたくような外道と貶されるのです(原稿料が高いとなんで怒られなければないないのか、新聞なんかに載ってる囲碁対局だって伝統ある名人戦よりもずっと最近にできた棋聖戦のほうが賞金額が高いからこそ最高位なんじゃないか)。

復等への対象は商業誌の撮集部に対してだけではありません。原稿依頼を受けてる張本人、かんじんの商業誌作家のセンセイさえもその照準のなかにあったのです。

よりよい本をつくるためにはよりよい作家(つまり商業誌で連載を持つようになったトップランクの漫画描きたち)に作品を描いてもらえばよい―当然の論理です。そのために商業誌よりも高額なまでの原稿料を支払っているにもかかわらずに同人誌だからという理由にもならない理由でいつ原稿をおとされるか判らない。あげくのはてにそのセンセイたちが商業誌の原稿をおとしたときにつかうセリフが「同人誌なんかの原稿を無理やりに依頼されて商業誌の原稿が描けませんでした」じゃああまりに詮ないじゃあないですか。

そういった、これまで自分たちを嘲ってきたすべてもろもろの旧来勢力に対して復讐をする、そのためにはみずから相手と同じ商業誌という土俵に登るということが絶対に必要であったワケです。

そんな《パンプキン》という直接的メディアを保持したからには作家集めのために同人誌サークルを興すような手間はもう必要はなかったということにもなるでしょうし、また単に同人誌も面業誌でも同じ内容のコトをやっていくならば、より収益率のよい方面に戦力を集中させたほうが利益効果もあるわけで、作家に対しても《パンプキン》のみ1本をメインにして描かせたほうが作品の品質を低下させないためには絶対によいという当然の論理!! そのためにほかの商業誌や同人誌に浮気させないよう実質の《パンプキン》専属作家として扱えるだけの体制にすることが重大事だったのでした。

だからこそ彼らはページあたりで1万円以上という現在においてすらも超高額といえるほどの原稿料を作家に対して保証したのです。

掲載誌を何冊もかけもって原稿の枚数をあげなければ生活ができないような環境にいつまでも置かれていたからこそ作家たちは裏切るのだ。そして作家に裏切られ続けたからこそ、あれら面葉誌の編集者たちのように卑屈な大人が生まれてしまったのだと大久保光志氏はそのときに悟っていました。

そんな彼は出版社にいる編集部関連の人間を相手としませんでした。ヒトの企画は盗むし手柄は横取りする―そんな腐った編集部よりも彼は純粋に仕事としてお互いに儲けるということ以外の邪念をもたない営業部の人間ともっぱら付き合っていたのです。

だからこそ出版企画の持ち込みを編集部の頭越しに会社上層部と直談判して決めてしまうようなスタジオバトルのことを編集部の人間は自分たちの存在をおびやかすアウトサイ・ダーとしてよけい毛嫌いするようにもなったのは当然のことではあるかもしれません。しかし大久保光志氏は純枠であったのです。

あまりにもストレートすぎる行動パターンに周囲の出版関係者は翻弄されてしまいました。

大久保光志氏の思考方法を子供じみていると蛭児神建氏は批判します。

「簡単に言えば、作家にヘバリ付いて腐らせ、メジャーへ脱皮するのを邪魔する足枷となり、思い通りにならず甘やかしてくれぬ作家の悪口を言い触らし、逆に自分が批判されれば『名誉毀損だ訴える』などと毎度だだっ子の様に騒いで口を塞ごうとする連中」「集団でしか行動出来ず、一般常識すらない精神的幼児で、自分達の利益しか考えない連中」と罵倒し大久保光志氏に対して名指しで批判してゆきます。

「私はもう二年近くも、ハラワタの煮えくりかえる程お前さんを憎み続けてきた。この手で絞め殺せたらどんなに楽しいかと夢見る程に。間に挟まれて苦しむ奴のことを考えて、出来るだけ表面に出さない様にしてきたけれどね」

これではまるでメディアと世代を賭けた、さらには私怨のいりまじった業界内代理戦争でしょう…。

この闘い〈バトル〉には各誌上でコラムを執筆していた戸山優氏、秋山道夫氏、嵐獣郎太氏などの論客や金子順氏、村上嘉隆氏、松永宏樹氏、川瀬久樹氏などの編集者、あるいは《レモンピープル》《ホットミルク》《ロリポップ》《プチパンドラ》などの雑誌編集部そのものまでが次々と巻き込まれて(スキ好んで突入していった連中もけっこう多いけれど)東西の陣営に色分けられていったのです(もちろん漫画家にしたところ雨宮淳氏をはじめ、超積極的に巻込まれていった者も数知れず…)。そして、もっとも最初に戦禍のなに飛び込んでいったのが《ホットミルク》で同人誌欄を執筆することなったばかりの戸山優氏でした。

コミケの混沌とした現状に対し批判や挑発の姿勢をとっている同人誌の異端児」として蛭児神建&新体操会社両氏の「喜劇漏転文明」を取上げてゆきますが―。

【以下次号】

 

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どうも、ややこしい状況へと集態の拡大をねらっているかのように蛭児神建氏が操りひろげる〈スタジオバトル批判〉。これに対して《ホットミルク》誌上の「同人誌COLUMDUM」において戸山優氏は「コミケの抱えるさまざまな矛盾に対するアンチテーゼとして、この頃目立って増えつつある」傾向として、同人誌即売会で販売していながら即売会や同人誌に対しての批判と挑発的記事をメインに売っている「問題同人誌」の特集をあえて企画することで新体操会社&蛭児神建の両氏によるコピー同人誌「喜劇漏転文明」を「ほとんど中傷そのものではないか」と俎上に載せ、さらには《レモンビープル》で蛭児神氏が展開しているスタジオバトルへの批判キャンペーンまでも「蛭児神さん、LP読みましたケド、未成年者の実名を出しちゃうのはやっぱマズイですよ」と非難攻撃したのです!―戸山優氏はなにしろ蛭児神建氏と同じ《レモンピープル》の誌上においても「同人誌ページ・ジャック」というページをもっており同人誌批評については自分が専門家という自負もあるワケ。それが、よりによって自分が《レモンピープル》の1月号で同人誌をとりあげて紹介したばかりのサークル〈モルテンクラブ〉のことを蛭児神氏が3月号で非難罵倒したってゆーコトになるモンだから、やっぱり戸山優氏としては立場がない(うっかりすると自分まで悪役になりかねない)ワケでありますが…。

それにしても、これがまた世間をビックリさせたーというのが大久保光志氏がまだ未成年であったという事実について―。まぁ東京近郊の同人誌即売会の周辺にいる関係者なんかではトーゼンに彼の年齢はみんな知っていただろうし、そんな彼の若さがまた周囲の彼を見るイロメガネのひとつになっていたことも事実なんだけど…(この戸山優氏による発言の結果、大久保光志氏の行動について「大人げない」と批判することが出来なくなってしまったというのも言えてしまった。なにしろ彼は事実コドモだったわけだから)。

それにしても、まあ《パンプキン》の編集やっていたメンバーのなかに写植の級数指定(ようするに文字の大きさや種類を決めることなんだけれど)の出来る者すらひとりもいないで編集部をやっていたのだからたいしたもの。当然にデザインとかレイアウトなんていうモンにしたってなんにも考えてないし、作家が持ってきた漫画原稿をほとんどそのまま白夜書房の営業部のデスクに持っていくだけの作業しかやってなかった状況―とてもじゃないけれど商業誌で編集作業をやっているなんて書えないレベルなんだけれども。同人誌だってすらほかのサークルじゃあ表紙のデザインやら文字のレイアウトに気をつかっているというのに―さすがに売れている雑誌んところは違うネ(きっと写植屋さんや印刷屋さんが苦労をしていたんだろうけれどネ)。たぶん白夜書房の藤脇さんが細かいところはなんとかしていたんだろうけれども、とにかくお互いの連絡がいいかげんなものだから指定2色刷りページ(ふつうに1色で描いた漫画原稿に〈ココはナニ色で刷る〉と別紙などに指定して書いておいて印刷段階で色を付ける多色刷り印刷方法)にするはずが、色指定の仕方がムチャクチャで理解できずに印刷屋さんがなやんだあげく、4色刷り(ふつうフルカラー印刷のこと)で赤墨2色の原稿を刷り上げてきちゃったコトだとか(なにしろ4色ページが何ページあるのか、1色ページが何ページあるのか、なんて誰も考えてつくっていないから印刷屋さんもワケわからないまま刷ってたみたい。こんなんでよく本を発行できたものだ)、あるいは原稿の縮小率(たとえば普通、B5判の漫画雑誌の原稿はB4の紙に描いた原稿を82%くらい小さく印刷して使用する)を指定していなかったものだから前り上がりのサイズがページによって合わなかったり、写植文字の大きさも「写植20級以下同じ」って(一般的な漫画文字の大きさはこれくらいワープロの活字でいえば、ポイント相当)扉ページに書いてそれだけで終り―なモンだから写植屋さんも打ち上がった写植文字が大きすぎて貼り込み作業が出来なかったり…。

原稿の取り扱いがズサンなところといえば当時の白夜書房の営業部にしたところでひどいもの。単行本の広告用の図版に使用するために必要とあれば原稿用紙の束から1ページだけ引っこ抜いちゃ床にそのまま置きっぱなし。ソレの繰り返しなものだから原稿はバラバラのまま床に山積み状態。だれかが勝手に持っていこうと思えば簡単にできるような状態。まあパンプキン編集部そのものにしても原稿の取り扱いのワルさではあまり感心できるような状態ではない五十歩百歩―というか大久保光志氏はナント事務所のなかでネコを飼っていたのだ。

飯田橋の木造アパートから新宿のワンルームマンションに移ると同時に、ときに多いときにはネコが3~4匹もスタジオのなかでうろついていたのだからどういう状況なのかはわかろうというもの。サカリがついたのノミがわいたのと、騒ぎの連続で、なにしろ密閉状態のワンルームのなかで、トイレの始末もろくに出来ないような仔猫があっちこっちに粗相をするものだから臭いだけでも最悪(輪をかけてペット用消臭剤の匂いまでが狭い密室の中に充満していて頭が痛くなるような環境。玄関のネコ用トイレに足を絡ませて砂をブチ搬けそうになるし、とてもじっくりと編集作業なんかできるような場所じゃないスタジオ情景だったのだ。あまりにも作業効率が悪かったためか、じきにもう少し広い事務所にスタジオは移ることになるのだが…)そんな状況なものだからこそ作家先生たちからはあまりよい印象はとてもじゃないけど得ることができないワケ。

ようするに単にいいかげんだっただけなのだけれども。そんな状況のもとで昭和62年2月発行の《PETITパンドラ⑩》において雨宮淳氏による告発記事「スタジオバトルおよび『パンプキン』編集関係者諸氏に告ぐ!」がそのようなスタジオバトルの実体を世間にあからさまにしたのだっ。

「白夜系雑誌の《パンプキン》の予告にじゅんちゃん先生を執筆者として載せるのをやめてほしいっ! じゅんちゃん先生は貴誌に作品を描く予定はないし、またその気もないっ! これだけ言ってもまだ貴誌の予告が改まらない場合はしかるべき行動をとるつもりだからそのつもりでいるよーに!」と《パンプキン》の次号予告にいつまでも名前が載っていることに不快をしめすとともに「雨宮じゅんが作家生命をかけて描くかもしれない・パンプキン帝国の謎」として「スタジオバトルの社長の月収はなんと260万円? 未だかつて誰も見たことがないという《わたなべわたるテレフォンカード》の謎、創刊号のカラー生原稿はネコのツメとぎ用として使った? おかかえ作家の原稿料はページ1万円!等々… ホントかウソか? その全貌が今、明かされる! 刮目して待て!」という1ページ全面にわたるスタジオバトル攻撃をおこなったのである。

雨宮淳氏は《パンプキン》が創刊した当時、休刊した《メロンコミック》に初出掲載した漫画を再録していたのだが、この際に大久保光志氏が雨宮淳氏に対し「いつまでもページを開けて待っていますからぜひ新作を描いてください」と依頼をしたのに対して雨宮淳氏が「スケジュール的に執筆は無理」ととりあえず連慮をしたような電話上での口約束による経緯があったようで…その後にこじれてしまったらしい。

それにしても雨宮淳氏による「パンプキン帝国の謎」とははたして本当に事実なのだろうか!? いよいよスタジオバトルと蛭児神との因縁に決潜がつくのだろうか。

【以下次号】

【編集部よりのお願い】

池本センセ3行も余っちまったざます。執筆前に行数は確認なすって下さいませね。

 

6

その当時、第1期の美少女マンガ商業誌ブームより以降の低迷からはやくも脱出して新たに再編されつつあった美少女マンガ業界は、あの進化獣〈モルテンクラブ→スタジオバトル→OSB出版〉VS最終妖怪〈蛭児神建―プチ・パンドラ〉による関ヶ原合戦へのと大きく巻き込まれ燃え上がろうとしていた―。

蛭児神氏サイドからコピー同人誌『喜劇漏転文明』という一方的な宣戦布告による第一撃、さらには《レモンピープル》誌上からおこなわれた「魔界に蠢く聖者たち」での商業誌上を利用した追撃に対して、モロに奇襲をうけてしまったスタジオバトルからは即座に《パンプキンNo.2》誌上において、抗議文という体裁をとっての反撃がなされたのである。

「お知らせ。今回発売が大きく遅れた事を読者のみなさんにお詫びするとともに、遅れる原因を作ってくれたプチパンドラ、ロリポップ両誌の編集長・蛭児神建・川瀬久樹に対して抗議する。両氏が作家のみなさんに流した8割返本・休刊した話によって、作家原稿の入稿を大きく遅らせている事は、明らかに悪意をこめた営業妨害であり、今後このような事態が再び起きた場合、当スタジオでは法的手段も考えている。スタジオバトル」。

これはあきらかに《パンプキン》の次号を読みたいと願っている一般読者に対してむけたプロパカンダではあった。読者世論をバックにつけるため、戦略工作の一環としてあえて誌上に掲載をされた抗議文にはちがいない。だが、しかし何人もの画家のあいだに以下のウワサ→〈パンプキンが創刊号だけで休刊になりそうだというのは確実らしい〉〈それなのに作家が動揺をふせぐためにとりあえずで原稿だけはあつめているようだ〉〈どうせ原稿料なんて出ないだろうからムダな原稿は描かないでおいたほうがいいぞ〉という話しが流されていて、それを理由に原稿を遅らせた作家がいたというのも事実なのではあった―。そして作家陣がそんなウワサに納得をしてしまうような素地こそがたしかに白夜書房という出版社そのものにもあったワケなのだ。

さかのぼること4ヶ月前のこと。白夜書房から(正確には少年出版社=コアマガジンから)創刊されたマボロシのビデオ雑誌〈ブイゾーン〉という悪夢の出来事が作家たちの頭の中をよぎっていたのである!!

その前後の状況を説明するためにちょっと《パンプキン》VS《プチパンドラ》戦争から脱線させてもらうことにはなりますが―。

まぁ読者の皆さんのなかには、その《ブイゾーン》というビデオ雑誌がどういうものなのか御存じもないでしょうが(中野の「まんだらけ」みたいなマニア向け古本屋へ行けば在庫はあると思いますんで一度くらい見てみるといいんじゃないでしょうか)、印紙の質はむかしの白夜書房刊の雑誌ではおなじみのパターンで、カラーグラビア32ページ+2色刷り8ページ+更紙の活版印刷始ページという構成。

《ヘイ!バディー》みたいなグラフ誌から《漫画ブリッコ》のようなコミック誌にいたるまで白夜書房ではほとんどの雑誌が、サイズの違いはあったとしてもほぼ似たようなページ割りでおんなじような更紙をつかってた。

これがたとえば文章記事をメインにした《ポルノマガジン》だとか、全ページが説者欄だけで出来ている《投稿写真JR》みたいな雑誌だったならばいいんですけどね、カラーページにいっぱい写真なんかを使わなくちゃいけないビジュアル雑誌の場合では…。

でもって《ブイゾーン》っていう雑誌ですが、表紙イラストが高田明美、巻頭折り込みポスターが田村英樹で―、執筆メンバーとしては、池田憲章・荒牧伸志・出淵裕・山本貴嗣徳木吉春―、どうもビジュアル雑誌というよりもアニメ&特撮マニア誌という気が…。この雑誌の編集をしていた〈STUDIOザガード〉のスタッフというのが、豊島U作、来留間慎一、くあTERO、森野うさぎあさりよしとお、ふじたゆきひさ、町田知之、と、なんなんだ!!―このメンバーでは、まるでスタジオ・アオークじゃあないか。

それにしたって巻頭カラーページ特集『正しい美少女アニメの見方』全14ページでは2ページにわたって、自分のところで作った《魔法のルージュ・りっぷ☆すてぃっく》を取り上げているし(さらには活版ページでも10ページにわたって設定集を載せている)…。連載記事も「あさりよしとおが描く『新日本機甲』―第1回は《空飛ぶ船》に出てきた巨大ロボット・ゴーレムについての解説」だとか「ふじたゆきひさが描く『フィギュアまるごとスクラッチ』で人形の作例がつくれなかった話」だとか「くあTEROが描く『東映TV怪人図鑑』では《秘密戦隊ゴレンジャー》の仮面怪人を1クール分まとめて紹介」なんていったかんじでスキなものを好きで本にしちゃった怒濤のカルトオタク雑誌だったのだ(くらむぼん先生の大昔のハガキイラストも戦っていたゾ)。

とうぜんの如くにこの《ブイゾーン》は創刊翌月には急休刊。そしてスタッフは総入れ替えでクビ。装丁から紙質にいたるまでまったく新しく「日本で初めてのホラー専門誌」ビジュアル・ホラー・マガジン《ヴイゾーン》として再創刊されることになってしまったのだ。

別に大塚英志氏の撤退以後における作家粛正というワケだけじゃないだろうけれども、この《漫画ブリッコ》の休刊から《ホットミルク》創刊にいたるまでの過程で―そんなややっこしい騒動があったばかりの白夜書房である。そのあとに創刊になったばかりの《パンプキン》では作家陣にしたところでやっぱり不安もあろうというもの。

そんな状況が背景にあったとはいえ〈パンプキン休刊〉のウワサにはわざわざと名指しになって、ご丁寧にもウワサの発信元として〈川瀬と蛭児神氏という両編集長が漫画家に対してしゃべりまくっている〉というオマケまでついて作家たちにまっていたのである(―と、それにしてもこんなところでまたも、あの《ロリポップ》誌の編集長であった川瀬氏の名前がでてきてしまった。なんとも彼にしてもよっぽど周囲のメンバーに恵まれているのか、どうもトラブルといえば、まるで相手の方からブチ突っ込んでくるようでよっほど彼に運がないのか、それなければまた…)。

こんどは蛭児神氏からの反駁でる。《プチパンドラ⑥》誌上の『嫌味わたしたち』においてスタジオバトル側からの〈名指し非難の件〉について。

「さぁて…この業界における噂の出所は、やっぱり川瀬の旦那みたいけれどね。あの人だって独自の情報源を持っている事だろうし」

「私に関しては、完全にイイガカリ。大体、私が最初にあの話を聞いたのは―本人の迷惑を考えて、あえて名前は言わないけど―問題の某誌に描いている漫画家からなんだぜ。それに私が知った時点では、既にかなりの漫画家が知っていて…『この世も、ちゃんと正義が有るんだな。読者も馬鹿じゃ無いんだな』と喜んでいた」

「ここで某漫画家から電話連絡! 川瀬の旦那も例の噂を誰だか漫画家から聞いたそうだ。やっぱり本人迷惑を掛けたく無いらしく、その名前は言わなかったそうだけどね。誰だろう? 意外と連中の内部にいそうだな。それに川瀬の旦那も、せいぜい一、二人にしか話して無いそうだ」

「卑しくも商業誌で実名を出してイイガカリを付ける事自体、奴等が好きな言葉で言う『名誉毀損』に当るんだけどね」

と自分が噂の出所あるとういう指摘と非難について全面的な否認と反攻を開始した。蛭児神氏にとっては相手方が土俵に上りさえすればシメタもの。だが、敵方から旧知の盟友であったはずの怪僧バンリキ氏(現・妖奇七郎)が急先鋒として戦いを挑んできた!! ──危うし

【以下次号】

 

7

もとより結論が出ない泥沼と「わかっていながらもケンカ……」を始めてしまった蛭児神建氏とスタジオバトルの美少女漫画論戦。本来ならば蛭児神氏にはせめて建前だけでもモルテンクラブ批判をおこなうにいたった前提であるはずの、美少女漫画における資本主義経済上の成立過程についての分析と美少女系同人誌そのものに蛭児神氏が抱いている理想の定義などにも論陣を展開して欲しかったのではありますが…。

相手方が同じ土俵のうえで商業誌の編集をするような状況にいたった次元となってはただの泥試合(まあ「馬の耳に念仏」だったのが「蛙の面に小便」へ変わったようなレベルだろうか!?)。

「自分が過去に犯し、今は恥として記憶の彼方に忘れたがっている諸々の悪業をだね、目の前で再現されてごらんなさい。こりゃあもう、苦痛ですよ。余りの恥ずかしさに、思わず腹が立ってしまいます。―オタクの直し方・その一、二段目より抜粋」

蛭児神氏が当初に展開したモルテンクラブ批判の成立前提そのものが、〈美少女漫画界の生き神様であった吾妻ひでお氏のファンクラブにおいて誰もがその名前を知っている有名人であった蛭児神建〉〈美少女漫画界においてカルトに独自な展開をしている〈プチパンドラ〉誌の編集長でもある蛭児神建〉〈元祖の美少女漫画誌レモンピープル》誌上でも最古参の論説委員として社説を飾る御意見番としての蛭児神建〉といったエライ人間である自分の立場に対立するのが、モルテンクラブという〈美少女漫画界の新参者でありながら、ほかのサークルで執筆していた作家を金のちからで奪いとることで努力もなくイキナリ売れる本をつくり、同人誌界におけるサークルの序列を乱してのし上がり、大規模な販売戦略によって行列をつくり即売会の平穏をやぶった〉世間知らずのサークルであり、正義の使徒である蛭児神建としては〈彼らがサークル活動としておこなっている劣悪なる同人誌に執筆をさせられるがために、一ヶ月に16ページを描くことができないような遅筆の漫画家が倍額以上にもなるインフレ原稿料につられて神聖な《レモンピープル》の原稿をおとすにいたっている〉ような状況について美少女漫画界の重鎮である自分が美少女漫画界についてのルール〈新興の同人誌サークルふぜいが商業誌の本家である《レモンピープル》に迷惑をかけてしまう不埒〉を教えさとす役割を負い、あるいはまたその彼らが折伏されない場合には彼らを退治して美少女漫画界に平和を取り戻すための正義の戦いを自ら貫徹しなければならない宿命をもっているのだという前提条件があったワケですから―。

「今のコミケットには一種のカースト制度が存在します。この種の雑誌に描いてる作家を頂点として、作家のお友達を自称する連中の貴族階級…。―オタクの直し方・その二、四段目より抜粋」

商業誌、同人誌(つまりは先生と生徒)という状況のもとで、むかし自分が同人誌でオタクだった時代にエライ商業誌の先生に対して知らず知らずのうち迷惑をかけてしまった苦汁を活かして「締め切りどきに長電話をかけてはいけない」とか「むりやりサインをねだってはいけない」などなど…、同人誌界への新参者たちに対して〈カースト身分をわきまえた行動〉についてを教授しなければならないという呪縛にみずからのめりこんでしまっていたのです。

「貴方には、信頼されるだけの価値がありますか? その自信がありますか? だったら価値のある人間になってください。そう難しいことではないですよ。例えば、ほんの少しの才能と努力と運さえあれば誰だって私程度にはなれるのです。―オタクの直し方・その一、七段目より抜粋」

もしかしたら尊大すぎるかとも思える、この「信頼への自信」という言葉はすぐに崩されることとなります。スタジオバトルへの奇襲攻撃から6ヶ月。全面宣戦のノロシをあげてまだ半年を経過したばかりだというのに彼には焦りがでてきていたのかもしれません。

すでに《レモンピープル》誌上の漫画家にしても世代交代が進んでいて、彼とともに創刊当初から執筆していたメンバーはほとんどが入れ替わってしまっており、またこの1~2年のうちにデビューをした若手の執筆メンバーとは、彼が《プチパンドラ》の編集長であるという業務上の遠慮からかほとんど接触はなく、また古くからブレーンとなってくれていた同人誌サークル関係の仲間たちとも交流が途絶えがちとなっていた蛭児神氏はこの半年ほどのあいだに完全なまでに「孤高の人」となりつつあったのでした。

「それは結局(私にオタクの被害を訴え、あーゆー物を書く様にあおり立てた)漫画家の先生たちがその後もヘラヘラと笑いながらオタクさんたちの要求に応じ続けたせいでもありますが―オタクの直し方・その二、二段目より抜粋」

同人誌聖戦の段取りまでを買って出たまではいいけれども「笛吹けど踊らず」で誰もついて来てはくれない。当初に救助を求めてきたはずの漫画家の先生たちは相変らずの体たらく。裏切られたという事実に気がついた蛭児神氏にはもはやスタジオバトルとの地上戦に突入するだけの力は残っていなかったワケです。

あとはボロボロ。

「ある漫画家〔注・かがみあきら氏のこと〕の死を本気で怒り、泣いてくれた貴方…貴方の様な読者のために、できれば本を作りたい―ネコマタスペシャル2、欄外より」

すでに《プチパンドラ》本誌に逃避するべく戦線撤退の気配まで見せ始めた蛭児神建ではありました。が、それをさらに追い撃ちをかけようとする者さえもいたのです。恨まれるだけの悪役にまで成り下がってしまったのか!?―蛭児神建!!

蛭児神建氏の文章に時たま登場する「腐れ坊主」ということば…。その名前の主であるところの怪僧バンリキ氏が《パンプキン》誌上においてコラムライターとなっていたのです。蛭児神氏から罵倒されるだけの立場から今度は同等に言霊をあやつれる状況となっていたのです。

たとえば彼は《レモンピープル》誌上においてこのように書かれたこともありましたが―。

「以前の夏、ある漫画家が死んだ時さ。私の周囲には、それを嘲笑っている人間の方が多かったよ。『これで某〔注・大塚英志氏のこと〕が困るだろう』てな…。わざわざ笑いながら電話してくる腐れ坊主もいた―コミケットに見る漏転文明、五段目より抜粋」

怪僧バンリキ氏は蛭児神氏のことをあきらかなる偽善者と罵りウラミの反論を開始していくのです。

「言っておくと『某作家』が死んだ時に、一番喜び、どんな姿で死んでいったのだろうと楽しげに推測し、歌まで作っていたのはどこのどいつか御存じであろうか。ほかならぬHである―パンプキンNo.3」

そして水掛論となった蛭児神氏の再反駁が…。

「こら、腐れ坊主よ。喧嘩を買ってくれるのは面白いが嘘を書くんじゃない(中略)私は二年近くもお前さんを憎み続けて来た…(以下略)」

このあと《レモンピープル》誌上において蛭児神氏が漏転批判を書くことはありませんでした。

そして彼は以下のような予言を残して去ってゆくのです。

コミケとは非常に危ういバランスの上に成り立っているのです(中略)いつまで国家権力が黙認しているか、大いに疑問です。いつか必ず手痛いしっぺ返しがあるでしょう。同人誌界全体と表現の自由に係わる重大な問題です。それが今年か十年先か予測もつきませんが、少しは次の世代に対する責任感を持つべきではないでしょうか。世間知らずで一般常識すらない精神的幼児で、自分達の利益しか考えない連中には無理かもしれませんがね

さてあれから5年がたちました。

 

8

いまから思えば(とにかくも作画レベルからしたところで作品内容の質からいったとしても)現在よくみかけるような手抜き同人誌より以下のホントどうしようもないような漫画ばっかりが大半を占めていて、まさに鑑賞に耐えられるような作品なんてのは毎回2~3本も載っていればマシというほどに読める漫画なんか載っていなかったパンプキン!!(まるで同人誌用に描きかけていた原稿をめんどうだからと、そのまま載っけてしまったかのように―背景がロクに描いていないというところの状況ではなくストーリーもオチもない、男と女のキャラが濡れ場シーンをやっているだけの12ページ以下のページ数しかないような短編ばかり、しかも「次号につづく」と書いたままで尻切れトンボになってしまうような低レベルの作品ばかりで大半のページ数を占めている―ゴチャゴチャと読みづらいばかり。850円という定価をつけられたパンプキンは、この時代にあってすら高すぎた雑誌であったのかもしれません。―が、しかしそんなにも劣悪な内容であった「パンプキン帝国」が2年半にもわたって業界をノシ続けていたんだゾ、という事実こそが、この第二次美少女コミックブームという〈同人誌からの成り上がりを目指していた作家や編集者〉たちの時代がいかに〈もの珍しさに惹かれた講読者〉たちのノリだけにのみ支えられて続いていた薄っぺらな時代であったのかという証明でもあるでしょう)。

はたしてこの水膨れした帝国にも最期のときはやってきました。が―しかし、それは決して蛭児神建氏による「パンドラ十字軍」によってもたらされた勝利などではありませんでした。

プチパンドラが隔月刊の定期発行になったのは昭和61年4月発行の6号から―。しかしカルト雑誌を目指してしまうという致命的な欠陥のためせっかくの美少女漫画誌ブーム絶頂期なのに波に乗りきれなかったという蛭児神建氏のキャラクター性による災いと、一水社で描いている作家関係には必ずつきものとなっているような、発行人の多田正良氏との私情もつれた人間関係がからんで、実質的には昭和62年4月発行の11号を以て戦線離脱。自滅的に敗退をしていったのです(本当の休刊号となる12号はそれから6ヶ月後の62年10月に発行はされていますが…)。

人間関係を叫んでいた蛭児神氏はその自身が、自らの分身であったはずのプチパンドラ誌との不審と軋轢に死んでいったのです―合掌。

そんないっぽう「パンプキン帝国」の総師である大久保光志氏はこれまで自分が居住しているワンルームマンションに名前だけを置いているにすぎなかったOSB出版をついに新宿厚生年金会館近くのオフィスビルに移して、さらにパンプキンの編集長をシロヲムラサメ氏にすり替えることで自らは表面に出ないかたちとなり院政を敷くことによって政治力と財力と機動力のすべてを手に入れるようになっていたのです。このとき昭和62年6月、パンプキンが17号をかぞえたころ―実はすでに帝国崩懐の前兆は始まっており、大久保光志氏の表面上の編集長退任は近い将来に必ず来るであろう滅亡の日を予知しての行動であったと後世の人は断言しておりますが…。

このころ朝日新聞での投書騒ぎからはじまった美少女ロリコン雑誌に向けての難クセがついたことから、マイナー出版系の業界全体が委縮し自粛ムードとなってゆきこれまでには考えられなかった〈白抜き〉という修正がおこなわれるようになってきていたのです。

いまでこそ、ナニの描写シーンについては白抜き+丸ごとべタ黒消しが当たり前ではありますが、とくにパンプキンの前半期あたりでは形式程度に薄めのスクリーントーンを結合部などに小さく貼っておくだけといったシースルー消しがほとんど―それが当たり前と思っていた読者たちにとっては、結合部どころか性器や恥毛にいたるまで全部が白抜き修正をされるという状況に当惑と不安が呼び起こされ、また販売部数の激減という事態からは後発のパンブキン亜流本を発行していた各社の市場撤退という〈冬の時代〉に移っていきます。

この事態において編集請負のOSB出版側と発行元の白夜書房との関係にも当然にきしみが生じてくることになります。以前にも書いたようにパンプキンの巻頭はページカラーをはじめとした贅沢な造りが「印税12パーセント」という巨額の制作費によって支えられていたことは書きましたが、これにしたところで4万部という発行部数であったならば400万円の制作費となるところが、もし発行部数を半数の2万部にでも減らされようものならばイッキに制作費が200万円にまで減らされてしまうのと同じこと。部数減を主張する白夜書房側の姿勢にOSB出版がウンというはずがない(なにしろ原稿料がページあたり1万円以上という単価で製作しているのだから2万部の発行部数になると完璧な赤字である)。次第に白夜書房と距離を置くようになったOSB出版では遂に戯遊群わたなべわたるの単行本作品集を白夜書房からではなくOSB出版の独自で発行するという手段を選ぶこととなるのですが…、この窮境の策がパンプキンにとっては死人にとどめをさすようなことになってしまうとは、誰ひとり想像すらしなかったことでしょうが―。

パンプキン22号から裏表紙に掲載された「わたなべわたる作品集・素敵に夢時間」および「戯遊群・セブンティーンの頃」の2冊の単行本の広告についてパンプキン23号の納本日に取次会社より《この広告にある書籍についてはウチで取り扱っているものではない。ウチで配本していない書籍の広告を表4に印刷したようなモノは問題があるから表紙を刷りなおすように》といったクレームがねじ込まれてきてしまったのでした。

あせったのはOSB出版。なにしろ前号にも載っているのにいきなり今回の納本日にクレームされるなんて!!―もし文句があるならもっと早く言ってくれたなら裏表紙の差し替えだって印刷に入る前にできたものを…。

けっきょくパンプキン23号については表紙上からさらにカバーをかけて発売をするということで決着することになるのですが―。このときすでにパンプキンは誌名変更をしてバナナキッズとなることが確定しており、いっぱんの読者からみれば事実上の廃刊をさらに濁したようにしか見られなかったのです。

そして大久保光志氏の強引すぎるといわれたほどの原稿の取り立てにくらべて、どちらかといえば「敵をつくることを嫌った」編集長のシロヲムラサメ氏によるパンプキン運営は結果として作家の原稿遅れや入稿のルーズへとつながり、21号あたりから目立ち始めた発行の遅れは、バナナキッズ2号にいたって2ヶ月の遅刊をするまでに陥ってゆきます。そして、ときは昭和63年の後半。

このころからOSB出版は白夜書房以外に稼ぎを拡げるため新規事業としてパソコンゲームへの進出をはかり予算を注ぎ込んで起死回生をねらいます。のですが…、肝心のソフト事業部が半年以上たってもなんら利益を産み出さない!!―漫画雑誌ならば3ヶ月もあれば利益が回収できるというのにバグ取りだなんだとパソコンソフトはいつまでたっても完成しない、明らかなる誤算です。そして運転資金の焦げ付きに決定的痛打となったのはパソコン誌に半年間の掲載し続けた広告費用の未払い。

―漫画以外に生き残りの活路を見いだそうとしたOSB出版の倒産。それは蛭児神氏が『幼女嗜好』の呪縛に倒れたのと同じように、OSB出版の彼らもまた『モルテンクラブ』から飛翔しようとして〈コミケの掌〉から逃れることのできなかった孫悟空―同じ穴のムジナなのだったのでしょうか。(この項・完)