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うそかまことか、まことかうそか、うそからでたまこと──メディアリテラシーは現代を生き抜くためのサバイバル術!?

僕はよくウィキペディアの編集を行ってる。もちろん書き込む内容は分かりやすく要約している。森達也著『たったひとつの真実なんてない』という本では「分かりやすくする」ことの危険性が色々と書かれているが、それでも伝えるべき情報を切り下げたり切り上げることなく、過不足なく伝えることが出来ていると自負しています。

そもそもウィキペディアには文字数の上限がないので、自身が編集した記事(下記にURLを記載)を見て貰えば分かると思いますが、ものすごく膨大な内容になっているものが多々あります。逆に言えば、これほど膨大な内容でないと、些末な事柄であったとしても、その全体像は伝わってこないってことかもしれません。そしてこれはありとあらゆる事物に対しても言えるのです。

しかし、新聞やテレビなどのマスメディアでは制約(文字数や頁数、放送時間など)があるため、一部を切り取ってでしか伝えることが出来ない。ゆえにマスメディアからの情報だけでは、出来事を正確に捉えることが出来ないというわけです。

…まあ自身がウィキぺディアに散々雑文を書き散らしておいて言うのも何ですが、不特定多数の人間が書き込めるウィキペディアを、これまた多くの人間が何の疑いもなく信頼(盲信?)している現状については、僕は決して良いといえないと思っている。

「分かりやすく」「出典を明確に」「推測は必要最低限」をモットーとしている自分にとって、これは絶対にありえないことですが、僕であろうと、誰であろうと、例えば悪意ある人間がいたとして、それで悪意ある記述を、もっともらしくウィキペディアに書き込むっていうことは、十分にあり得ることでございます。

なにせ適当に出典を明示して、有ること無いことを書けば、いくらでも誤魔化せてしまえるのですから。

これは、恐ろしいことですよ。

事実、僕がウィキペディアに書いた文章は多くの人によって「事実」として支持され、しばしば引用されたりもしますよ。つまり誰が書いたかわからないよーな胡散臭い文章が「信頼」をもって迎えられているわけですね。これはイケナイ。

話は飛びますが、本書にあるように20世紀初頭は映画・ラジオ・新聞などの「マスメディア」が急速に普及しました。しかし、それからわずか数十年で人類は悲惨な世界大戦を二度も起こしてしまいました。

本書の著者は、マスメディアの登場以前にファシズムなんて危険極まりない政治思想は存在しえなかったと書いています。もちろんマスメディアだけが悪いわけでなく、戦争の原因はそれを支持する「大衆」と、それに迎合する「メディア」との「共犯関係」の上にあるということも、しっかりと書かれてありました。

しかし、近年の諸外国からは、送り手(マスメディア)と受け手(国民)の間で激しい乖離が起きているという印象を受けます。

その最たる例が米大統領選で勝利したドナルド・トランプ大統領で、彼はSNSを巧みに扱って大衆の支持を集めて、リベラル寄りのヒラリーを支持していたマスメディアの予想を大きくぶっち切って、ついに大統領になってしまいました。

そしてトランプ大統領はここぞとばかりにナショナリズム国民主義)を政策で打ち出します。当時の西欧諸国は難民問題などもあって、国民感情としては排外主義(あるいは右傾)が強まってましたが、建前上は良い子ちゃんメディアであるマスメディアには、とても「不法難民を追い返せ!」なんて口が裂けても言えないような状況でした。

この選挙戦は、本音と建前でメディアとSNSが揺れた歴史的出来事であり、同時にテレビという“オールド・メディア”が、SNSという“ニュー・メディア”に敗北した歴史的瞬間でもある、と僕は思っています。

念頭に置いてほしいのはSNSにしろインターネットにしろ、その本質は「真偽の分からない情報が玉石混交に入り混じった、中立なんて程遠い無法空間みたいなもの」ということで、知的余裕と感情的余裕のない垂直思考の持ち主には、これら情報を分別できる能力はありません。日本が急速に右傾化したのも、この前の杉田水脈騒動も、私にはネットの影響が強く関わっているように感じます。

悪意を伝播するのにインターネットというメディアは残念ながら非常に効率的です。たった一人の工作活動で世論・印象を人為的に操作してしまうことが十分に可能なのですから。

メディア・リテラシーとは、情報化社会をサバイブするために、そして二度と大戦を起こさないために、全人類が自ずから備えておくべき必要がある「必修科目」になるに違いないでしょう。(了)

 P.S 虫蔵が編集した一部のウィキペディア記事については下記にURLを記載しておきます(いずれも初版記事を作成)。

https://ja.wikipedia.org/?curid=3642006

https://ja.wikipedia.org/?curid=3792893

https://ja.wikipedia.org/?curid=3241728

https://ja.wikipedia.org/?curid=3810236

https://ja.wikipedia.org/wiki/POSO

https://ja.wikipedia.org/?curid=2856251

https://ja.wikipedia.org/?curid=3032557

https://ja.wikipedia.org/?curid=3207612

https://ja.wikipedia.org/?curid=2723976

https://ja.wikipedia.org/?curid=3005467

https://ja.wikipedia.org/?curid=3732459

https://ja.wikipedia.org/?curid=3630309

また初版を書いたわけではないけれど、7~9割ほど編集に関わったことがある記事は以下の通りです。

https://ja.wikipedia.org/?curid=58462

https://ja.wikipedia.org/?curid=1114612

https://ja.wikipedia.org/?curid=128794

https://ja.wikipedia.org/?curid=527304

最後に、あとがき的な蛇足を2つ書かせてもらいます(本来の意味で「蛇足」この上ない内容なので、別に読まなくていいです)。

1.世の中の情報は「僕」または「あなた」というメディアを通して伝達されます。いま書いた僕の文章も、僕が外界で見聞きした情報や経験を、僕という「メディア」が集積して加工し偏見も交えて情報化したものです。

それは言葉に、文字に、態度に、意識になってありとあらゆる場所に伝達されて行きます。しかし、受信~発信の過程で「歪み」が生じる事があります。これが「認知の歪み」だったり「フェイク・ニュース」だったりの原因になっているのでしょう。人間は時代性と信憑性を事細かに反映しているという意味で、やはりメディアそのものなのです。

2.しかし、他人から知覚される「僕」は、しょせん「他人」と「僕」の「中間点」にある「フェイク・メディア」に過ぎず、決してそれが「本質」だったり「正体」だったりするわけではない。

たとえば僕のことが大嫌いなAさんから見た「僕」と、僕のことを好いてくれるBさんから見た「僕」とでは、ほとんど別人だっていうこともあるかもしれない。

それは私からしたら「僕」ではなく、ほとんど「誰」なんだって話だけど、この「誰」かと「僕」とで生じるズレは決して「フェイク」でなく紛れも無い「真実」であるわけです。

もちろん100人いれば100通りの僕がいて、そのいずれもが「真実」であり「フェイク」である、といえるかもしれない。

前述したように「僕」と「他人から知覚される僕」は基本的に別人です。僕からしたら「他人から知覚される僕」は、僕と他人が便宜的に用いている「フェイク・メディア」に過ぎません。

しかし「他人から知覚される僕」もまた、他人にとっては紛れもない「真実」であるわけなのです。

だって僕という「メディア」(フェイクにしろリアルにしろ)が成立するには、あなたという「メディア」(これもまたリアルにしろフェイクにしろ)が必要不可欠なんだ。だから感謝しなくちゃいけない。僕の話をここまで聞いてくれたメディアの皆さん、どうもありがとう。

3.最後に参考になるかは分からないけど、今手元にある「オカルティズムとアフリカン格闘技と昨年度のマット界」(美沢真之助/79年5月発行『本の雑誌』12号所載)という記事を紹介してみよう。

この記事では「ヨルバレ族」というスーダン北部ナンラ地区に住む民族が紹介されている。それによれば、ヨルバレ族は「嘘」と「事実」の間に余り「区別」を設けず、「以下の対話」を了解することが、通過儀礼(イニシエーション)において重要なポイントになっているという。

▲―完全に八百長であるとも、事実であるともいえないときはどうか?

〇―それは八百長ではないし、事実でもない

▲―では、一体、それは何なのか?

 〇―八百長であり、事実である。

これは、250年ほど前に、アフリカのヨルバレ族の首長と呪術師との間で交わされた対話だそうだ。「メディア表現論」の受講生を悩ます「うそかまことか、まことかうそか」といった禅問答的ないし社会的公案の「回答」は、きっと彼らの思想にあるのでは?と僕は勝手に解釈している。……世の中には「噓から出たまこと」だってあるのだから。