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偉大なるロリコンの先駆者・杉本五郎(つゆき・サブロー)ロング・インタビュー 「日本のルイス・キャロルと呼ばれた男」


水木しげる墓場鬼太郎』『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する吸血鬼エリートこと霧の中のジョニー)

(世界的フィルムコレクターとしての杉本五郎

杉本五郎大塚康生/1979年撮影)

 

 

ある少女愛好家の告白

杉本五郎ロング・インタビュー

●以下の文章は、80年代に刊行されていたロリコン専門誌『Hey!Buddy』(白夜書房)1985年9月号~11月号(休刊号)に掲載された、杉本五郎つゆき・サブロー)インタビュー記事の再録です(本記事は太田出版から刊行されたつゆき・サブロー名義の単行本『寄生人』に再録された文章に基づいています)。

●文中、つゆき・サブローの氏名表記は、すべて杉本五郎(フィルム・コレクター名)に統一されており、文中の小見出しは初出とは異なります。また元記事に掲載されていた写真や資料は再録しませんでした。

第1回 日本人版ルイス・キャロル登場! 今だに少女に操を立てて童貞を守る・杉本五郎・60歳。

真のロリータ・マニアがここにいた。戦前から少女の写真を撮り、絵を描き、そのモデルのヌード写真を撮り、小説を書き、人形を作る、という、それこそルイス・キャロル顔負けのロリコン者だ。そして60歳にして今だに童貞。その杉本五郎氏の全体像を浮かび上がらせる杉本氏の作品、コレクションを公開しよう。次回からはモデルの少女などについて個々に追って行くつもりなので、期待するように。

ロリコン。という言葉が使われ出してから、どれほどの月日が経ったというのだろう。今ではロリコン雑誌も増え、少女の写真もふんだんに見られるが、それもここ2年ばかりのことであり、『12歳の神話』*1が出たのもたかが10年前のことである。

それ以前に少女のハダカが掲載されたものというと、医学書等、ごく限られた範囲でしか見出せなかったはずだ。

ところがここに杉本五郎さん(60)という方がいる。その年齢からも分かる通り、まさに昭和の時代そのものを丸がかえに生きた人で、戦後は読売アンデバンダン等に少女の裸体の絵を発表。かたわら少女の裸体写真を絵を描く上での参考に処すため、数多く撮られていたという。

えっ、戦後すぐの少女のハダカ写真がある? そりゃ、凄ェー、ってんで、さっそく東京は西のハズレ、立川まで行き青梅線に乗った。降りた駅で横田米軍基地めざし、八高線の線路をまたぐと米軍のジェット機が低空飛行。轟音とどろかし、ひたいをかすめ飛ぶと(感覚的には決してオーバーではない)、単線の線路がグニャッ。杉本さんは別に基地の中にいるのではなく、その周辺に散らばった米軍ハウスのなごりのひとつに、今住まわれている。お宅にお邪魔すると、フィルム蒐集家で古いフィルムが五千本ほど。物珍しいものが多く、テレビ局に貸し出しては生活のなりわいとしている。

ところで本業とは別、肝心の少女の写真だが、惜しいことに昭和46年7月の出火であらかた焼いてしまった、という。だが、かろうじてスクラップ帖7冊に、その難をまぬがれたものが残っていた。フチが焼け焦げていたりで、紙焼きの状態は決してベストとは言い難いが、昭和20年代から30年代の少女の裸体写真はまぎれもなく存在した。そして8mmに撮ったものも、わずかだが残っている。

今回はその一部と、蒐集家として集められた写真集等の一部を掲載させてもらい、いろいろお話をうかがったのだが、戦後に少女の裸体写真を撮る以前、戦中戦前にすでに独自にロリコンしているので、今回はそのあたりから堀りおこしてみよう。

 

戦前ロリコン雑誌の状況

杉本さんが生まれた時代の雰囲気をまず伝えるには、昭和2年の杉本さんがまだ二つだった頃だが、いやに鮮明に憶えているという浅草の光景の一コマを伝えるのが一番だろう。

ひょうたん池があり、噴水があり、ズラリと並んだロック映画街。ハズレには花やしきがあって、その手前にはヘビを首に巻いてる薬屋がいるし、かつらや衣裳が置いてあって、それを付け、白粉を塗って写真を撮ってくれる写真館もそこにあった。その隣りは木馬館で、当時はまだ水族館で、つまらない魚ばかりがいて、だがその上はカジノ・フォーリーといって、まだ無名のエノケンがレビューをやっていた。金曜日になると、女優がズロースを落とす、ってんで大変な人気だったとか。エログロナンセンスと言われてた時代で、杉本少年の親父さんは上でレビュー、哀れ少年は下でつまらない魚を見て待っていた。

だが、この親父さん、いいところがあって、当時は浅草のオミヤゲといえば、日本髪の赤いカスリの着物の女の子がひく大正琴だったのだけれど、12歳の時にチャカチャカと手でまわす、オモチャの映写機を買い与えてくれたのだ。以来、少年は8mmのクズフィルムを骨とう屋を廻っては買い集めるようになる。

さて杉本少年があとひとつ買い集めたのが雑誌であり、それが昂じて戦後、貸本屋も開くようになるのだが、何を読んでいたかというと『少女クラブ』であり『少女の友』だったのだ。もちろん『ヘイ!バディ』などあるはずがない。『少女の友』は対象が少し上で中学生ぐらい。『少女クラブ』は小学四年生ぐらいから。『幼年クラブ』になると小学三年生以下で、男の子も女の子もいっしょになってしまう。『少女クラブ』は講談社発行の歴史の長い雑誌で、大正15年には百号記念号をすでにもう出していた。漫画はまだ少なかったが、『のらくろ』の田河水泡が、『風船だぬき』といって、オバケのQ太郎みたいな風船のたぬきが迷い込んで生活を共にする、夢のあるお話を描いていた。井元水明は絵物語で『長靴三銃士』という、なんと長靴を頭にかぶった少女三人が外国を旅するお話を連載していた。

それより楽しみだったのは、なんといっても口絵だったそうで、蕗谷虹児中原淳一の少女の絵が何より印象に残っているとか。

他に写真物語といって、物語を写真で撮ったようなものがあったそうだが、モデルはなぜか、みなブスだったという。音羽ゆりかご会等の童歌手がよくモデルに使われていたらしいのだが、歌や踊りはうまくても、モデルとしては美形とはいえなかったようだ。

あと挿絵は随分うまい人がいて、小説の挿絵に出てくる女の子はちょっとした仕草でも上手に描かれてあったとか。『少女の友』は妙に気取ってお嬢さんぶって、杉本さんはつまらなかったと。

その上を行くのが『令女界』という雑誌で、いきなり16、17の名家令女が映っていて、なんとか華族何々さんのお嬢さんと写真がまず冒頭に入っていて、いわば見合い写真みたいなもので、中には少女小説が入っているけど、かなり大人っぽい。男の方だとちょうど『新青年』にあたり、そちらは江戸川乱歩がよく書いていたけど、『令女界』のほうは結婚予備軍というよそおい。当時は15、6でもう結婚予備軍だし、20歳過ぎれば売れ残りといわれた時代でもある。

SEX記事は『婦人クラブ』に行くとやっと見受けられ、男の方では『キング』あたりになると、犯された人妻の話などが出てきた。江戸川乱歩の『黄金仮面』とか『パノラマ島奇譚』は『キング』連載で、やっと女の人のハグカの挿絵が出てくるといった塩梅。

そんな時代だから、少女のハダカの絵もなければ、写真とくれば何をかいわんやだ。

今回杉本さんにお借りした昭和30年頃の『少女』の巻頭カラー・グラビアをかざった少女スターの入浴写真ですら、その頃婦人会やPTAが騒ぎ出し、レコード会社に編集長の黒崎勇氏が詫び状を入れるという問題にまで発展しているぐらいなのだ。

まして戦前、杉本さんはC・H・シュトラッツの『子供の体』のような医学書を見るしかなかったのだ。

ただ『少女クラブ』でも、まれに口絵で、小学二年生が用水路みたいなところで水浴びしている写真が遠目で載ったりしたことはある。それもエロというより、あくまで健康的なものとしてのあつかいで、そういった感じで映画館が『朝日こどもニュース』で子供たちがウジャウジャ、プールで泳ぐシーンを映したことがあるが、その時は本編はどうでも、映画館にねばってそこのところだけ二度見たりしたとか。あと、ハダカ体操で上半身ハダカの小学六年生が映ったりした貴重品がなかった訳ではない。

要するに健康という意味のハダカに対しては非常にオオメに見られていたのだ

昭和17年頃の『写真週報』に載った、ちょうちんブルマーに上半身ハダカで片手に大根をかかげた少女のふくらみかけたオッパイは鮮烈だったという。けなげにも農家を手伝う少女ということで、掲載されたようなのだが、存外、少女のエロスが匂うような写真だった。

ところでちょうちんブルマーなのだが、あれは当時スカートの上から履くものであって、体操の時スカートがまとわりつくのを防ぐためで、現在のようにズロースの上から直接履くものではなかった。

ついでにいえば、それ以前の体操着はハカマで、杉本さんは明治時代の少女が平均台の上で、裁っ着け(ママ)バカマに、上は儒袢をきて体操しているフィルムを持っているとか。

 

ロリータ・スナイパー

さて少女雑誌が当時ロリコン雑誌の代用になっていたのを見てきたのだが、杉本さんは戦争中、すでにカメラを手にロリコンしていたのだ。

新宿のジャブジャブ池でプロカメラマンの渡羅さん(編註・カメラマン兼ライター。現在は『アリスクラブ』で活躍中)が400mmのカメラをタオルでくるんでうずくまり、どこを撮っているのか分からないように、距離を置き用心して撮っているのを見たことがあるが、まさに杉本さんもそれと同じようなことをしていたのだ。

えっ? 当時、新宿のジャブジャブ池みたいなものがあったのか? しかり、あったのである。

東京は荒川の日の丸プールといって、真ん中が荒川放水路につながった細長い池で、片側はプールになっていたが、もう片方は開放されていて誰でも自由に使えるようになっていた。こちら側はプールと違ってタダで見張り人もいないので、学校帰りの子供がよくこっそり泳ぎにきては、泳ぎ疲れて草原の中で昼寝をしていたという。ジャブジャブ池と違ってるところといえば、廻りが都会のジャングルではなく、芦草がおい茂っていたことだろう。放水路には犬の死骸がプカプカと浮かんでいたりしたが、水は透明で魚が泳いでいるのが分かり、ポンポンと足にぶつかるぐらいだったという。

杉本さんはカメラを新聞紙にくるんで、随分撮りに行ったという。それもコダックのハガキ判のボックスカメラで、これはレンズの焦点距離が11・5でライカ判の小さなフィルムを装填して、超望遠で撮っていた。ファインダーは目見当で、おまけに超望遠ということで、いいものはなかなか撮れなかったとか。

あと東京湾に面した洲崎の先端に防波堤があり、ちょうど川が流れこんでくるところがあって、そこが小さな滝になって海に入るまでは、かっこうの水浴び場になっていた。

ところが戦争が激しくなって、そこに赤い旗が立ち、どうやら要塞化していたらしいのだが、知らないで海岸へ出ようとした杉本さんは、憲兵に呼び止められ、あわてて逃げたが、もしつかまっていたら新聞紙にくるんだカメラを持っていたことから、スパイ容疑で怪しまれ、今思うとどうなっていたかと、ゾッとするそうだ。

それまで洲崎は毎夏、お化け大会があって、ろくろっ首や猫の化けものが電気仕掛けで動く小屋が置かれ、途中ところどころ細い道があって、アルバイトの学生がお化けを棒の先に付けたのをグッと出したりしていた。

お化け大会は夜から始まるので、それまでは海岸で泳いで、夜になると家族連れがやってきたという。真ん中にかなり大きい大入道がしつらえてあって、それが鈴なんかチリンチリンと鳴らして、かなり遠くからも見えたとか……。

 

等身大の少女人形

早見裕香(編註・当時のロリータ・アイドル)の『不思議の国の少女』の中に等身大型どり蝋人形と関節人形が二体でできたのは記憶に新しいが、なんと杉本さんは戦時中に同じように等身大人形を二体、やはり作っているのだ。

最初は石膏で少女の全身を型どりしようとしたが、石膏は少しでも散らかるし、子どももいやがるので、張り子で作ることにした。

当時立体写真像という会社があって、立体写真で像を作る方法で人間を立てておいて、そこに細い光線をタテにあて、人間をまわしながら、3度の角度で光をあてて写真で順ぐりに撮り、その引き伸ばしたやつを銅版に焼きつけてハサミで切り、組み立てて、彫像を作っていた。写真のように彫像ができる、って訳なのだが、かえってソックリすぎて似ない、って感じもあったらしい。

杉本さんはそれを『子供の科学』の記事かなんかで読んで、これで少女のものを作れば面白いと思ったのだが、そんな大掛かりのものは出来ない。というので結局は物理的に細い棒でヨコに1センチづつ少女の体の寸法を取り、ボール紙で型を取ったのを地図のように重ねていくと、中は空洞の張り子となり、日本紙を張り、その上からかなり厚く胡粉を塗ると、等身大の日本人形みたくなる。

関節を作ると、立ったり坐ったりは出来るが、その部分がどうしても出っ張ってしまうので、そちらはモンペを着せてカバーし、ガラスの箱に入れ、床の間に飾ったが、もうひとつのほうは自分の好みの立ち姿で関節は作らず、少女そのままの裸体を楽しめるようにした。

だが関節人形のほうは、いつかネズミに食われて、構造が複雑なぶん、バラバラになってしまう。というのは張り子は基本的に紙で出来てるゆえ、うどん粉で出来たような糊を使うのと、胡粉の中にもニカワでなくフノリが入っていたので、ネズミに穴をあけられるはめになったのだが、裸体人形のほうは戦後の火事で焼けるまでは残っていたという。

この裸体人形のほうを少し詳しく述べれば、髪は髪文字屋(カモジャ)でツケ毛を買ってきて、市松人形がやっているオカッパの長いような頭にした。目は豆電球のガラスを切り、裏から瞳を描きハメ込む。歯はセルロイド板。手だけは石膏で型どり。だが型を取られた近所の子は翌日は手に包帯を巻いてきて、もう取られるのはイヤと意思表示をしたとか。

もちろんワレメもあるが、一番苦労したのが肌の色で、いろんな絵の具をつかったが、結局、歯磨き粉にちょっと黄色い染料を入れると、ちょうど肌の色に近くなったが、しばらくはハッカみたいな歯磨き粉の匂いがプンプンしていた、とか……。

初めて人形が出来、微用で出掛け帰ってきて、ひょいと戸を開け、人形が立っているのを見てギョッとしたそうだ。等身大の人形っていうのは自分で作っておきながら、なんか人間がいるみたいな実在感で恐いものだそうだ。

この人形の最後もゾッとするもので、昭和46年の火事で焼けてしまうのだが、こちらの人形のほうは胡粉のかわりに外側に石膏を溶かして塗ってあったので、焼け残ってところどころ焦げてるものだから、まるで焼死体そっくりに転がって、気持ち悪いことおびただしい。焼けあとに、髪の毛が焼けちぢれた、少女の死体そのものがあるみたいで、杉本さんはすぐにぶちこわしたのだが、なんか怪奇な雰囲気を感じさせる話だ。

戦後になると、この火事のいきさつといい、杉本さんと少女にまつわる話はいよいよ佳境へとつづく。

 

第2回 中1の少女に求婚/少女はお尻を撮られたがらなかった/ヌードを撮った少女は35人

前回の約束どおり、今回は杉本氏の撮影した少女ヌード写真を中心に紹介しよう。その写真のほとんどが焼失してしまっていて、厖大な量のはずだった写真のすべてを見ることができない事は残念でしかたないが、ここに掲載したその一部から、少しはその全貌をうかがう事はできると思う。また、次回にもここに掲載できなかった写真を公表する予定なので期待するように。

昭和20年3月9日、当時杉本さんは横須賀の海軍工廠に徴用でとられ、工場まで荒川区小台銀座から通勤していたのだが、B29の東京空襲が益々激しくなってきたので、リヤカーを引っぱって埼玉の大宮市で見つけた売家にひとまず荷物を疎開することになる。

だがちょうどその日に赤紙(招集令状)が来て、『館山海軍航空隊に入営せよ』との通知。そしてまた因果なことに、3月10日の東京大空襲で荒川の家は跡形もなく焼けてしまう。8月15日の終戦は、やはり疎開先の大宮に居をかまえることになる。その戦後の話に移る前に、館山海軍航空隊での、ちょっとしたお話から入ろう。今回はインタビュー形式で。

 

少女スタア高峰秀子

──戦後の話に移る前に、戦前戦中に、ロリータ・アイドルというか、そうとまでいかなくとも少女スターみたいな人はいたんですか?

杉本五郎(以下杉本):高峰秀子がカワイくて凄い人気だったですね。『綴方教室』とか、少女が主人公の映画は彼女がほとんど主演してましたからね。

 

──デビューはいくつぐらいだったんです?

杉本:三つかな。たしか四歳か五歳の頃は男の子役ばっかりやってましたね。それは昭和の初めでまだ映画がサイレントだった頃で、トーキーになってから、秀子の何々という調子で、秀子の車掌さん、秀子の応援団長という具合で盛んに出てましたね。非常にカワイイ少女で人気がありましたね。今は憎らしいことを言うオバサンですけどね。ズケズケ言うオバサンでね。かなりカワイクないオバサンですけどね。

 

──その憧れのスターと映画に出られたとか。

杉本:館山航空隊に『アメリカ本土爆撃隊・アメリカようそろ』(“ようそろ”とは海軍用語で宜しく候の略)という映画の撮影に東宝のロケ隊の一行としてきたんです。『ハワイ・マレー沖海戦』などに続く一連の航空映画で、円谷英二が特撮を担当して、最後はアメリカ本土に向って爆撃隊が、片道の燃料を積んでまっすぐに突っ込んでいくシーンで終わる映画でしたね。昭和20年12月8日の開戦記念映画として封切られる予定で、8月に撮影してたんです。その時エキストラに駆り出されて、4カットですけど、分隊長役の岩井半四郎の戦友役で並んで映ってたんで、封切になったらと楽しみにしてたら、15日に終戦になったでしょ。そのフィルムが全部燃やされちゃったわけで、封切りされずじまいですよ。残念! 高峰秀子も隊長の娘役で出てましてね。当時余興で歌をうたったりもしましたね。

 

──へー。当時高峰秀子はいくつだったんです?

杉本:私と同い年ですから、もうロリータとは言えないですけど、ズバリ憧れの女優と一緒に映画に出られたことで凄く印に残ってますね。

 

―そして終戦、ですね。

杉本:まさかバンザイとは口には出せませんけど、気持ちはいっしょで、あんまりニコニコしてるもんだから、古参兵に「この野郎、白い歯なんか見せやがって、非国民め!」と睨ましたけどね。でももうブン殴られはしませんでした。

 

ロリコン漫画家の頃

──杉本さんは戦後すぐロリコン怪奇小説を書かれてますね。

杉本:怪奇小説江戸川乱歩をはじめとして、いくらでもありましたけどね。ただしみんな相手が大人なのを、それを少女に置きかえて書いたもので、時代が変わればこういうのも出るかと思って、戦後すぐに書いてみたんだけど、やはり受け入れられなかったですね。

戦前から少女関係の事件記事は犯罪から美談まで切り抜いて集めてましたけどね、それも全部無くなっちゃったですね。

 

──すると昔から幼児を犯すとか、少女犯罪みたいなものは結構あったんですか?

杉本:随分あったです、あったです。少女売春で8歳の娼婦がいたとか、そんなのもありましたね。戦前の『犯罪実話』なんて完全なエロ本で、警察の調書から取った実際の事件をみんな仮名にして抜き書きしたりしてましたけど、その中に少女ものがあると切り抜いといたんですけどね。わりと、なまなましく書かれてましたね。

 

──そういうのが小説のヒントにもなっていたと思いますけど、少女怪奇マンガもまた描かれていたとか?

杉本:それは少しあとで、昭和30年代になってからで。当時貸本マンガというのがあって、少女モノは描き手が少ないというので、ページ70円で頼まれて描いてたんです。あと怪奇マンガも描いていたんですけど、自分としては少女怪奇モノで、少女のヌードが出てくるやつが描きたかったんですけど、それは全部ダメでした。全部蹴られましたね。

 

──それはどんなモノだったのです?

杉本:少女が恐いめにあって、しかもヌードになるなんて、絶対受け入れられない! 少女が石膏づめにされて型を取られるような話でしたね。

 

──アレレ今なら受けそうですね。

杉本:石膏をぶっこわして、助け出される時、どうしてもハダカのシーンが出てきちゃうんです。その頃のことですから、腰にキレは巻いてあるんですけど、ダメでしたね。煽情的であるし、いくら貸本でもそこまで落ちたくないとかいって、許可されなかったです。たしか日の丸文庫で、ネームまですっかり入れて、印刷の直前で止めちゃったのが二つあったな。残念だったなー。

 

──早見裕香の全身型どり記事が『ヘイ!バディー』に載って、あれは面白かったけど、同じようなことを、怪奇モノでマンガで描かれていたわけですね。

杉本:でもマンガからはすぐ足を洗いましたね。あれは手間ひまはかかるし、一日仕事で写真は撮れないし、少女となんにも出来ないこともあって、また兎月書房がつぶれた時は一時、水木しげると二人で売り込みにまわったことがありました。水木さんは週刊誌で賞をとって急遽売れていくんですけど、自分は少女モノでいくのか怪奇モノでいくのか方向性が決まらないうちに、結局やめてしまいましたね。

 

少女裸体画

──でも、少女の絵は随分描かれていたみたいですね。

杉本:読売アンデパンダン展に10回、独立美術展に5回、少女の絵ばかり出してましたね。少女のヌード自体珍しかったし、絵の前にじいっと動かないで立っている人を見てはその気のあるヤツだなと、大体見当が付きましたね。

 

──展覧会の時はずっと自分の絵のそばにいたんですか?

杉本:ひとまわりしちゃ、人がたかってると、後ろ行って聞いてるわけですよ。どんな批評してるかなと思って。この絵変わってるなー、とみんな言ってましたね。それから「アッ、またこの人の絵出てるよ。この人の絵のとこに来ると、ウチの女の子がヤダといって見ないで、むこうへ駆けていっちゃうんだ」なんて話しているのもありましたね。

 

──もう完全な常連さんになってたわけですね。ひとまわりしても、まだ同じ人が見てたりとかありました?

杉本:ありましたね。高校生なんか随分同じ人が立って見てましたね。

 

──あと、どんなことが言われてましたか?

杉本:私の絵はズロースのゴムのあとや、細い血管が見えるのまで青く描かれてあったんで、なんか不思議な感じがする。フツーの絵と違うなー、って言ってましたね。妙にリアルだ、と。それから、目がみんな、こっち向いてると言われましたね。それはモデルを写真に撮ってから描いているので、シャッターを切る時、みんなこっち見るわけです。ヨコ向いてても、目はこっち向いてるんです。

それから少女を写真に撮る時、後ろ向きは嫌いますね。後ろ向きは撮らせたがらないですね、なぜか。後ろ、ヤダって言いますよね。自分で鏡見て、見られないポーズって嫌いますね。だから後ろ向きって余り写してないですね、ヤダっていうから。

 

──結構ポーズなんかつけたんですか?

杉本:相手に自由にさせといて、それをただ撮る方針でしたね。足の位置がちょっと悪いと直したら、とたんにキマリ悪がっちゃって、あとポーズが固くなっちゃって、どうしようもない。ちょっとでも体、触られたことがね。

 

──逆に淫らなポーズされちゃって困ったりとか?

杉本:それはよく、淫らというより、子供だからふざけてね。何人かをいっしょに撮ると、いく人かがふざけるんです。わざと片足あげたりとかね。そういうのも随分撮りましたけど、でも当時、エグイという言葉は知らないけれども、そういうものが印刷物になるなんて想像もつかない時代でしょ。みんな火事で焼けちゃいましたね。

 

──それは惜しいことを。モデルの少女はどこで見つけていたんですか?

杉本:当時、大宮で貸本屋をしてまして、そこに本を借りにくる少女の中から、モデルに使ったりしてましたね。

 

──アトリエとお店はくっついていたんですか?

杉本:ええ、壁をへだててくっついてたんですけど、真ん中に小さな窓がありまして、額がかかってたんですよ。その額をどけると、後ろ側から向こうへ出入りできる穴があるわけです。向こうで用が足りない時は、そこを開けっ放しにして、アトリエのほうから店へ顔を突っこんでいって、店のほうと話をしたりしてましたけど、店番がいる時はそこをバチッと閉めちゃって、向こうからは開かないんです。こっちから鍵をかけてあるから。こっちから用がある時は開けて、向こうから用がある時は、トントンと叩いてもらって、ナニって開けて聞くわけです。

 

ヌードを撮ったモデル35人

──ヘー、面白い! それでモデルですが、何人ぐらい、写真に撮られたんですか?

杉本:35人ぐらいですか。いろんな子がいましたね。絶対脱がない子もいましたね。バンツは脱がない。上はハダカになってもズロースだけはどうして

も脱がない。そこだけはウチでお母さんに脱いじゃいけない、って言われてるから脱がない。って子がね。それからボーズつけるのに、触ってもいいけど、おヘソから膝までの間は、触っちゃダメ。それから胸は触っちやダメ。胸触ると赤ちゃんができた時、オッパイが出なくなるから、なんて変なこと言う子もいましたね。それ以外ならボーズつけるのに触ってもいいという、そういう限定がありましたね。子供らしいというか。

 

──ヌード写真を撮られるまでに、少女をどんなふうに説得していくんですか?

杉本:その前にフツーの写真を随分撮りますよね。それをあげたりして、その内に、いろんな衣装が用意してあって、カツラだとか装飾品がいろいろあって、そういうのをつけさせて撮っているうちに、だんだん脱がせちゃいますね、結局。この辺までいいだろうで、だんだん。結局はみな同じ手じゃないですか。それから絵とか彫刻をやっている芸術家である、ということで、彫刻なんかはヌード当たり前ですからね。それとなく感じてくるんじゃないかな。ま、相手の相談にも乗ってやるし、勉強も見てやるし、絵も教えてやるし友だちになって、その内に向こうから、いろいろ世話になって欲しいモノ買ってもらったりすれば、自分のほうから奉仕するものがないから、結局、「モデルになってお礼しよう」になるんじゃないかしら。そんな気分になるまで、自然に持っていくしかないし、だから撮るつもりが、結局ダメだった場合が随分ありますよ。

 

──結構、時間がかかるもんですね。それだけ時間をかけて脱がしても、存外モデルに不向きだった場合もありましたか?

杉本:ありますね。ヤセて、お腹ばかりが長かったり、脚がひどくまがってたりね。

 

──脚が曲がってるってどんなんですか?

杉本:脚がガニ股で、O脚ですか、脚にスキ間が大きいのは、絵としてカッコウが悪いですね。

 

──当時の体型は今と違って、なんか特徴ありますか? やっぱりO脚が多かったです?

杉本:O脚多いですね。座ってますから、膝がしらが出っ張ってる子が多いんです。お尻がデンと下がって、膝がしらが出っ張ってる、いかにも日本式でね。それから胴が太い、ズン胴。バスト・ウエスト・ヒップが同じ52センチという、計ってみると。バレエの衣装をこしらえるので、小学四年生か五年生の子で、完全に同じ子がいましたね。でも女の子は一年ぐらいの内に急速に変わっていきますけどね。そのカタチの変わりようは早いです。逆に一回カタチが良かったと思うと、バカにくずれちゃったりとかもありますね。

 

──あと、今と違うところというと?

杉本:米のメシとオコウコの時代だから、なんかポチャッとしてんですよね。今のように肉を食ってるように、しまってないんですよね。なんか水っぽくて、ポテッとしてますよね。柔かくて、いかにも植物質の感じですね。大根みたいな感じでね。ブヨブヨとしててね。なんか水でふくらんでいる感じですよね。今のように、油でって感じじゃないですよね。

 

──当時は初潮も遅かったんですか?

杉本:13、14ぐらいですか。

 

──当然下の毛がはえるのも遅い?

 

杉本:私の場合、一番長く撮った、オサゲの子だけですね。うっすらと毛がはえてきたのを見たのは。結局映画のフィルムの蒐集と貸し出しのほうが忙しくなって、貸本屋のほうを助手にまかせたら、少女をモデルに使うのはお店のほうに影響するから、やめてくれと言われて、モデルをオサゲの子ひとりに絞っちゃって、その子は中学二年になるまで、一番多く撮りましたね、二千枚ほどですか。だから最後は劇団フジなんかに本格的少女モデルを頼んだりしてましたね。

 

──オサゲの子とはいつ頃からですか?

杉本:小学二年生から撮ってますか。

 

──それでは体や性器の発達もつぶさに見てこられたわけですね。

杉本:性器のカタチもどんどん変わってきますね。最初はハミ出さないんですが、左右にちょうどチョウチョの羽みたいに小陰唇がでてきて、急速にカタチが変わってきますね。乳房が発達すると同時に、左右の小陰唇が出っ張ってきますね。

 

──あと写真を見て感じるんですけど、髪の毛が短い子が多くて、このオサゲの子は珍しく長いですよね。

杉本:髪の長い子って、なかなかモデルになってくれなかったですね。それで初めての髪の長い子がオサゲの子で、古くさい三つ編みでね。それが気に入って随分撮ったんですよね。

 

──当時は短いのがハヤってたんですか?

杉本:そういうことよりも、髪の長い子は性格的にハダカになりたがらなかったですね。髪の短い、オカッパ頭の子って、性格的にも活発で冒険心もあって、なんか変わったことがやりたいふうで、撮りやすかったんですね。

 

貸本屋とそこに集まる少女

──モデルの子は貸本屋に遊びにきた子ということで、みんな大宮の近所の子ですよね。

杉本:ところが適当に手練れたなと思う頃に、引っ越して行っちゃうんですよ。遠くに行っちゃうとなかなか来ないんですよね。呼び出そうにも今みたく各家庭に電話が無いから、電話で呼び出すこともできないんです。だから手紙しか使えないから、本を送るんですよ。それも暗号で、本のページのところに丸がついてたら、その日に来い、という。つまり前もって話しといて、今度本送るから、そこに丸が付いてる日はウチはヒマな時だから、その日に来いよ。と言っとくわけです。

 

──なんか女の子の冒険心をくすぐる、いい手ですね。ほんとに来ました?

杉本:ええ、来ます来ます。

 

──貸本屋に少女が本を借りにくるのは、いくつぐらいまでなんですか?

杉本:高校生になるともう来ませんね。中学生になっても最初のうちは来てるけど、来なくなったら不良化したと思ってまず間違いない。そうすると貸本屋行ってますというので、親がたずねてくるのです。「おたくへいっつも来てるそうですが?」「いやー、かれこれ5カ月ぐらいウチに来てませんね」。じゃー、どこに行ってんだろうとなると、ボーイフレンドとどっか、しけこんじゃってるんです。

 

──それはいくつぐらいで?

杉本:中学二年、三年になると、怪しくなりますね。口紅を付けるとか、服装がそれとなく、だらしなくなるとか、逆にハデになるとか、この子少しおかしくなってきたなって分かりますね。

 

──ちょうど異性をハッキリと意識し始める頃ですよね。ちなみに子供たちはどんな本を借りてったんですか?

杉本:『りぼん』とか『なかよし』ですね。男の子なら『少年マガジン』とか。それからゲームの機械も置いといたんですよ。ピンボールっていうんですか。あれは買うと高いので、電磁石で引っ張るようにして、いろんなオモチャをくっつけては、ウチでこしらえたんですよ。景品に最初アメ出したんですけど、遊技場になるから出さないでくれとケイサツのほうから言われて、玉を集めると本を借りられるようにしたんです。コンピューターのブロックくずしのゲームが出る前で一カ月に一回、必ず工夫して手製のゲーム機を置いといたんです。

 

──でも女の子はやらない?

杉本:いや、女の子でもいましたよ。中一の女の子で、うつむくとブラジャーしてないから、胸のかすかな膨らみが見える子で、その子には結婚を申し込んだんですけどね。

 

──えっ、中一の子に!

(残念、次回につづく)

 

第3回 日本人版ルイス・キャロル 杉本五郎、60才、童貞/高峰秀子似の中一少女に求婚/少女へ8回も求婚/でも、すべて流れてしまう

何と、杉本さんは少女に8回も求婚していたのだった。前号の最後に触れた中一の少女への求婚から、杉本さんはずっとストイックに少女との結婚をめざしての人生を送っているのだ。それはルイス・キャロルのストイックさに通じてると言えるだろう。今回、連載の最後は、その求婚した少女と杉本さんとの悲しい顛末を詳細に追う。

初めて求婚した少女

──先月号で中一の子に求婚とのことでしたけど、どんな子だったんですか?

杉本:『プチトマト』の24号の子が非常によく似てんです。

 

──ビデオの『花嫁人形』にも出てましたね。

杉本:その子と高峰秀子を混ぜたような顔で割りと小柄でやせてて、体格も似てるんですよね。ちょっと発育が悪い感じで。

 

──どんな感じで結婚を申し込まれたんですか?

杉本:中一の夏休みだったから、12歳だったかな。私はその頃30いくつだから、二まわり以上、上ですよね。でも、この子カワイイ子だと思って、「君、お嫁に来るか?」って言ったら、子供のほうが「いいよ」って言う訳。

 

──OH、なんたるEASY、ウラヤマシイ。

杉本:じゃ申し込みに行くからって、母子家庭ですから、その家に行って母親に会って、「お宅のお嬢さんをお嫁にもらいたいけど、どうだろう」と言ったら、「この子の姉さんに相談してみる」って言うんです。姉さんが芸者してんですよね。

 

──それじゃ、お袋さんもそういう仕事で?

杉本:お袋はなんにもしてないんですよ。どうもどこかの2号さんであるような気もするけど、なんにもしてない。そいで、芸者の姉さんがウチに見に来ましてね。店で働いているような人はダメだけど、この人は主人だから、これなら大丈夫ということで、姉さんも承知しました。外交官やってる兄さんもいまして、それも承知しましたということで、じゃ、いいでしょう、この子を嫁に行かすことにします、ということになったんだけど、もう少し大きくなってからじゃないとしょうがない、ということで……。

 

──即結婚とは行かず、婚約したみたいなもので、待ちの態勢ですね。

杉本:それから夜、貸本屋の店が閉まるのが10時ですから、夜遅くよく訪ねていくわけです。もう夜中に近いのに向こうは起きてるわけです。30分ぐらい話して、いざ帰る段になると、その子が送って行きますと言うんで、夜のガード下暗いんですよね。そこを通って送って来て、するとこっちも暗いとこ帰すのが心配になっちゃって、また送って帰って、歌の文句みたいに、行ったり来たりを2、3回やって帰って来る、みたいなことをしてましたね。

 

──いやー、危うい道行きですね。そんな時間を共有してくれる子って、きっと素敵な子なんでしょうね。ウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ!!

杉本:そのうちに母親が家にある、ありあわせのものですけど、オミヤゲにって、なんかフワフワしたぬいぐるみみたいなものを新聞紙にくるんだやつをくれたんですよ。ウチに行って開けてみたら、これが枕なんですよ。

 

──マクラですか? なんと意味深な!

杉本:その家行ったら、やっぱり、同じ枕があるわけです。作った時材料が余りましたから、作りました、って。

 

──いやー、暗い夜道をわざわざ送って来る娘といい、枕を送る母親といい、卑猥ですねー。そういうのは大好きですけど。

杉本:でも、ことによると、オッカサンのほうが気があるんじゃないかなー、と思って、こりやー、串だんごになっちゃうといけないな、って気になってたんですけど、別にどうってこともなくて、そのうち母親が、うちの子、14歳の春かな、初潮がありました。もうじき大人になりますから、16ぐらいになったら差しあげますから、と言ってきたんです。

 

──それがどうして、なんの関係もなしに、ダメになっちゃったんですか?

杉本:母親がそのうち変な宗教に凝りだしましてね。地区の代表みたいな具合になって、こっちも宗教入ってくれなきゃ、ダメだと言いだして、ちょっと付いて行けなくなったのと、上の兄さんが結婚して、3つぐらい年上の女の人と一緒になって、その嫁さんが子供に言うわけですよ。「女ってのは、自分より年下の若い男と結婚するのが福なんだよ。私なんか幸福の絶頂にいる。年の離れた人と結婚したってロクなことないよ」て吹きこむもんだから、気が変わってくるわけですよ。

 

──ひでえオバサンだ。

杉本:それで4年目くらいに話がくずれちゃって、ハッキリ別れましょうということで、なんの関係のないまんまに。

 

──もったいない話ですね。

杉本:ウチのオヤジが後で言うには、早く引き取っちゃえばいいのに! 朝起きるのは大変かもしんないけど、学校やんのはウチから出してやればいいんだから、早いとこ結婚しちゃったほうが良かったよ。

 

──そうですね、まったく。もったいない。

杉本:それと同時にもうひとつ、私がやんなったのは、少女の手相が自分の我がままから離婚する相なんですよ。こりゃ。ちょっとムズカシイ性格もってるな、と思ったんです。そしたらやっぱり少女は18の時に19の工員と結婚して、2年目に別れちゃいましたね。それから数年経って、子供連れで訪ねてきましたよ。女の子ひとり連れて。ヨリ戻したいって気があったんじゃないですか。少し、オバサンになった感じでね。

 

──今度はその子供のほうがカワイかったりして。

杉本:そう。女の子がカワイイんですよ。こりゃまずいな。まただんごだって。断っちゃいましたけどね。

 

少女への求婚歴8回

──求婚は全部で何回ぐらいですか?

杉本:8回ですが、結婚を意識したのなら、いっとう最初は戦前まで測りますね。それは友だちの妹で、ウチに映画よく見に来た子で、11ぐらいかな。私、子供の頃からオモチャの映写機でカチャカチャやってましたからね、アツイ、アツイなんて、バサパサ、ハダカになって脱いで、ちょこっと見えたりして。あの頃、ほら冷房なんかないから、部屋しめちゃうと、アツクてアツクて。

 

──ユカタみたいの着てたんですか?

杉本:ええ、キモノですからね、あの頃は。帯とって、パタパタと、アツイ、アツイって。

 

──その子が嫁にもらおうかと思った最初の子ですか?

杉本:ええ。でも兵隊に行く前に16ぐらいになっていたかな。八人兄弟で一番下の子をおぶっているのに会いに行ったのが最後で、東京は丸っきり焼けちゃって、それっきり行方知れずなんです。そういえば、兵隊に行ってから、9歳の子にラブレター書いたなー。

 

──え、ラブレター? 9歳の子に?

杉本:それが兵隊に入ると、すぐにラブレターを書かせるんですよ。それを別に届けてくれる訳じゃなく、その人の性格を知るために。結婚してたら妻君に、好きな人がいたら、その女性に手紙を書かせるんです。入隊して3日目ぐらいですか。実はその人の文章力とか知能程度とか、国に対する考え方を知るために、ラブレターが一番具合がいいっていうんで、いつの間にか、どこの隊に入った連中もみな、それを書かされたんです。

 

──それで送ってはくれないんですか?

杉本:くれないくれない。ただその人を見るためだけのものですから。ただみんな気分が変わることもあって、また万一前線へ行って戦死した場合は、その人の遺品のひとつとして、届けることはあり得るわけで、訓練以外は時間が余ってますから、みな一生懸命書くわけです。

 

──結婚してた人はかなりいたんですか?

杉本:同時に入った300人の中で3人ぐらいでしたか。

 

──するとほとんどが好きな女性にラブレターを書いた?

杉本:ええ、だけど9歳の子供にラブレター書いたのは私だけだったらしい。しばらく評判になりましたね。

 

──どんなふうにですか?

杉本:「今子供で分かんないだろうけど、そのうち性に目覚めるような時が来たならば、私の考えも分かるでしょう」みたいなこと書いたんで、“性に目覚める”って言葉が班長室で、流行っちゃったんです。班長もみな若いですからね。あすこにおかしな奴がいるよ、みたいなことで。あの“性にめざめる”奴、呼んで来いとか言って、演芸会の時、あいつに何かやらせろ、ってなことで、『のんき節』のひとつでも唄うとか。で、要領がよくて面白い奴だってんで、重宝がられましたね。

 

──その9歳の子、っていうのは?

杉本:荒川で袋物商やってた時の、隣の米屋の娘で、入営の時も送ってくれたし、わりとカワイイ子だったし、ウチによく遊びに来てましたしね。写真も随分撮りました。

 

──それは戦時中のことで、フツーの写真ですよね。

杉本:それでも夏のことだから、ズロースひとつぐらいの写真は随分撮りましたけどね。

 

──荒川の日の丸プールですか?

杉本:荒川ではなくて、よく夏の夕方なんか、その辺を遊びまわってますよ。9歳ぐらいの子は当然、ハダカで遊びまわっていますよ。黒いズロース一枚で。あの頃、健康的な意味で、ハダカってそんなに気になってなかったんですよ。今のほうがむしろ、なんていうか、小さい子がハダカになりたがらないんじゃないかな。

 

──ということは当時、夏の夕暮れ、ズロース一枚のハダカではしゃぎまわり、路地を駆けぬける少女たちに自然と出っくわすことができたんですね。いいなー。

杉本:その9歳の子とは終戦後、疎開先の大宮で偶然再会することになるんです。

 

──少し大きくなってました?

杉本:翌々年だから、11になってたのかな。兵隊から帰ってくると、南方ボケみたく、しばらくはボケてんですよ。ウチの裏が芋畑で、そこが片付いて空地になっていて、子供たちが野球をやってるのをボンヤリ見てた訳です。食うものもロクにない時ですから、なるべく動かないで腹減らないように、ボンヤリしてたんです。そこをたまたま荒川の米屋のオカミサンが歩って通りかかったんです。

 

──当然話しかけた訳ですね。

杉本:すると今、越ケ谷にいるというんで、自転車で一時間半かけて訪ねていったら、その子が六年生になってて、あの頃から見るとポチャッとなって大人っぽくなって、割りと発育がいい子で、ユカタなんか着てね。そしたら今晩泊まっていきなさいということで、そこに泊まってって、田舎のことだから、行水かなんか浸かっているのをチラッと見て。

 

──胸なんかもすると…..?

杉本:ポチャッとなって、かなり体格良くなったなー、と、より好きになったわけですよね。前から好きな子だったから。あ、この子にしよう。この子を嫁にもらおうって気分になった訳ですよ。

 

──その子にも結婚を申し込んだんですか?

杉本:そのつもりで、あんまり訪ねて行くもんで、少しうるさがられましてね。訪ねていけば、向こうも歓待しなくちゃなんないけど、食い物苦しい訳ですよ。あんまり来てもらうのは迷惑だって顔しはじめたんで、しばらく行かなかったら、ちょっと会わないうちに、どんどん大きくなって、私より背が高くなっちゃったんです。うちのオヤジがそろそろ申し込んだら、って言うんで、いや、ちょっと待ってくれ、体が大きすぎる。で立ち消えです。

 

美少女姉妹を巡って

──これぞ美少女のキワメツケみたいな子いました?

杉本:初めて大宮へ疎開するんで、家を見に行った時に、その途中でお菓子屋の前で子供が地面に絵描いて遊んでるんですよ。それがもの凄い美人でね。中原淳一の絵に良く似てんです。目が大きくて卵型で。二人姉妹で、姉さんはどっちかというと原節子タイプの古風な美人で、妹が中原淳一の絵に似てんです。それが戦後大宮で貸本屋をやる前、袋物屋の店を出すんですが、その借りた店の持ち主が隣に住んでいて、美人姉妹がそこの娘だった訳です。だからよく上の子は店手伝ってくれましたね。下の子は気位が高くて手伝わなかったけど。

 

──その子らの思い出に残る写真あります?

毎年夏に、逗子に日帰りで、近所の子を連れて、その中にモデルにしたいような子を混ぜて、海水浴に出掛けたんですけど、昭和26年ぐらいまではちゃんとした水着なんか着てる子よりも、大きい子はシミーズで泳いでるし、小さい子は白いズロースで泳いでたんです。それでその美人姉妹ともうひとり近所の美人で、これは現代的由美かおるタイプでしたけど、美人三人組を水辺で撮ったのが印象に残ってますね。

 

──つまりズロースとシミーズ姿で?

杉本:ええ、姉さんは割りと開けっぴろげですから、ピチャッとなって、透きとおっちゃうようなシミーズ付けてましたね。妹のほうはオシャレだから、変な水着持ってましたね。下が黒で上が横縞になっている、田舎くさい水着、着てましたけどね。

 

──由美かおるタイプは?

杉本:もうズロースだけで、ピチャピチャにくっついちゃっていましたね。その子は小学四年生でしたから。

 

──美人姉妹は?

杉本:上が中学生で、下が小学五年生でしたか。いまだにあれほどの美人って知らないですね。

 

──その三人のいずれかに結婚申し込まれましたか?

杉本:3人が18から20歳になって大きくなってから、順ぐりに三人全員に結婚申し込みましたけどね。いずれも断られました。

 

──確か一番多く写真を撮られたオサゲの子にも結婚申し込んできますよね。

杉本:器量はよくないけど、色白で肌はキレイだし、“大福モチ”って呼んでたんですけど、性格はいい子なので、18になってもうそろそろ結婚を申し込んでもいいだろうと思って訪ねていったら、もうすでに結婚してて、しかもその日が姉さんの結婚式の前日で、ちょうど家に居たんですけど、フスマの陰に隠れて出て来なかったですね。

 

──また間が悪い時に。

杉本:それで“大福モチ”の下に“ニンジン”という赤ら顔でヤセた妹がいて、その下の妹を代わりにくれ、と言ったら父親が怒ったわけですよね。凄い憤概で、そのうち娘の写真がたくさん撮られていて、それがどんな写真かも大体分かっちゃった訳です。そうこうしてるうちに、火事になったんです。

 

昭和46年7月12日出火。蒐集フィルムの4分の3と少女写真の大方を消失。出火原因は不明。少女写真を燃やすための放火とも勘ぐれるが、その他にもいろいろ出火原因は考えられ、今となってはその真相を知る由もない。それを境に杉本さんは少女写真は撮っていない。

(協力/竹熊健太郎なみきたかし、高桑常寿、白夜書房

 

水木しげる特別インタビュー 友人・杉本五郎と兎月書房の思い出

──初めて杉本五郎さんに会った時というのは、どんな印象だったんでしょうか?

水木:変わったモンだと思った。かなり変わってましたよ。五郎ちゃんは。私のところへは、普通の人間というより、どっちかと言うと、変わり者が来てましたからね。(昔を思い出しながら)あの男は、いろんなものを収集してましたね。戦時中のフィルムを。……そういえば、杉本五郎っていう名前の中佐なんかいたでしょ? 戦時中に。彼は、それから名前を取ったんじゃないのかな。で、彼は、熱烈な水木サンのファンだったんですよ。だから、大宮(埼玉県)で貸本屋やってて、水木サンのマンガを少女たちに薦めるんだそうです。でも、なかなか少女たちは読んでくれないんだって。いっぺん読めばいいわけですけどね、水木サンのマンガを。いっぺん読めばいいわけです。面白いんですから。

 

──その頃、先生は『鬼太郎夜話』(三洋社・1960年)などを描いていた頃ですか?

水木:そうそう、描いてました。彼が私のところに訪問する時は、(両手を広げて)必ずこ~んな大きなプラモデル持ってくるわけですよ。アメリカの軍艦を。で、水木サンが「おおっ!!」って言うと、ものすごく喜ぶわけですよ。「驚かしてやろうと思いましてね」なんて言って(笑)。色の白さも普通じゃなかったですねー。白かった。で、唇が赤いから。口の中も赤いわけですよ。だから、あなた、「霧の中のジョニー」の主人公(編注・『墓場鬼太郎』に登場する吸血鬼のこと)に選ばれるわけですよ。血を吸ってもおかしくないような。その白さっていうのも、生き生きとした白さでしたからね。唇は赤いし、それで、彼はわりと四角い顔だからね。

 

貸本マンガ収集家

──知り合って間もなく水木マンガのキャラクターにされたんですか?

水木:ええ、間もなくですな。彼を見た途端に“吸血鬼”ってことを思い浮かべたわけですよ。なんか、日本人離れしてましたね。後は、スペインの血か何か入ってたんじゃないのですか。混血ってわけじゃないの? 日本人らしくない考え方でしたよ、彼は。顔も日本人らしくなかった。怪奇趣味も一歩か二歩進んだグロテスクでしたからね。それと、少女趣味なんかもね。(改めて杉本の写真を見ながら)しかし、ほーんとに変わった顔してますね。でも、わりとキビキビしてましたよ、彼は。そういえば……どうして死んだんですか?

 

──再生不良貧血で亡くなったらしいです。食事を作る時間を惜しんでフィルム収集に熱中していたから、自分はインスタント・ラーメンしか食べなかったって噂もありますけど。

水木:でしょうね。かなり(昔のフィルムを)集めてましたからね。水木サンは彼に「小学校の絵の審査員に来てくれ」って頼まれて2回くらい行ったような気がしたねえ。その時(大宮に)行って、杉本五郎の貸本マンガの収集がすごいってことが判ったんですよ。あれ。火事になって燃えたって話ですけど、ほんと、火がつけば早いと思いますよ。あのバラックみたいな建物の中に、膨大な量ですよ。

 

──どんな傾向の貸本マンガを集めてたんですか?

水木:どんな傾向もなにも、あれは全部に違いないです! おそらく、出版されたものは全部持ってたんじゃないですか。ものすごい量でしたよ。何列も本棚があって、もう何列あるか判らないくらいですよ。両側に山ほど(貸本が)あった。

 

──先生のマンガも、全部持ってたんでしょうね。

水木:ファンでしたからね、水木サンの。だから全部持ってたようですよ。2、3冊ずつ持ってたんじゃないのかね。

 

ロリコン趣味

──杉本さんは、少女マニアだったようですね。

水木:そうそう! いつも彼の周りには、少女がたむろしてるから、そのことを雑誌社の編集者に言ったわけですよ。そしたら、その人が杉本五郎ちゃんに話したらしくて、「水木さんがそういう風に言ってた」と。そしたら、怒って電話かけてきましてね。「私はそういう趣味はないですよーっ!」って、興奮してね。ところが、あるじゃないですか、ねー。こんな写真集(『杉本五郎アンティック少女写真館』さーくる社刊)まで出しちゃって(笑)。

 

──貸本屋に来る少女たちに、モデルになってもらったりして、撮ってたようですが。

水木:彼の周りには、いつも少女が5、6人いましたからね。で、ニコニコ、ニコニコしとるんですよ、彼は。あの、ずっと前に事件起こした宮崎……ナニガシ、アレもこういう趣味なの? “オタク”とかなんとか言われてたけど。その、いわゆるロリコン趣味については、最後まで水木さんには隠しとったな。いつも少女がいるから。多い時には7、8人いるわけですよ。それで、真ん中でニヤニヤしてるんですよ。その時の顔が、あなた、“吸血鬼エリート”の顔なんですよ! それで少女にお菓子をふるまうわけだな。大事にするわけですよね。そういう術も、不思議に持ってましたね。で、好かれてるような感じなんですよ。「変だな」とは思ってたわけです。

 

──今はロリコンって珍しくないですけど、当時(昭和30年代)ロリコンは、あまり公にできなかったんじゃないですか。先生は『寄生人』と『ミイラ島』のカバー画を両方お描きになってますが、これは杉本さん本人から依頼されたんですか?

木木:そう、頼まれたんです。彼は水木サンにいろんなものをくれたりして、便宜をはかってくれてたんでねえ。

 

──貸本版『河童の三平』に『寄生人』のカバーの絵と同じコマがありますよね。

水木:そうそう。彼はね、マンガの才能もあったんだから、描けばよかったんですよ。あんまりこっち(少女)の方にかまけてたから、時間がなくなったのかもしれん。

 

水木しげるファン

──杉本五郎のマンガについては、どうですか?

水木:面白いとは思ってたけど……もうちょっと絵が上手くなればよかったなと思っとったわけです。だから、一年ほど一生懸命やればよかったわけです。でも、多趣味だったから、気が散るんだな。変わり者だったから。マンガ描けば面白いものができたかも判らんのに、完成せずに死んじゃった観がある。もうちょっとやってれば、面白いものができたかも判らん。面白い怪奇モノがね。と、思うんですよ。もうちょっと描き続ければねー、良かったと思いますよ。(原本のコピーを眺めながら)あー、これは水木さんの絵真似しとるな。はっはっはっ(笑)。

 

──水木先生をモデルにした話も考えてたらしいですね。水木しげるが肥溜めに落ちて死んでしまう、というマンガを描く予定があったらしいです。『寄生人』の主人公も水原しげる君っていうんですよね。

水木:はっはっはっ(笑)。彼は水木サンの熱烈なファンだったからね。私は肥溜めに興味持ってましたから、その話をしたのかも判らん。

 

兎月書房しかなかった

──兎月書房についてもお聞きしたいんですが。

水木:私はね、兎月書房は、一人の作家に一冊描かせないのが不満だったんですよ。原稿料が安いから、もう一人(短篇作品を)入れるって考え方は、いけないと思います。これはね、非常に卑しい考え方ですよ。(堰を切ったように)一生懸命描こうと思ってるのに、描けなくなるじゃないですか。全部任されてこそ、一冊を責任持ってやろうって気になるじゃないですか。それを、原稿料が安いからって、他の短篇をちょっと入れて、水木サンのマンガを3分の2くらいにするってやり方は、出版人として最低だと思います。私は前からそう思ってた。『鬼太郎夜話』(三洋社)はね、どんなに厚くても一冊でやらせましたからね、長井勝一さんは。これが正常なやり方だと思います。こういう兎月のやり方はきたないというか、

作品を評価するという考え方がぜんぜんない。編集と称するケイちゃんというのがおったんですよ。そいつが、何も分からんただの人なんです。それに随分やられましたよ。我々はいじめられましたね。待遇は悪かった。そういう点では、長井勝一は作家というものをよく理解してましたよ。だけど、長井さんが入院してから、なんか具合が悪くなってきて。それで結局、兎月書房に帰らざるを得なかったわけですよ、描くところがなくて。だから、大変でしたね、この頃は。原稿料は安いし。

 

──『寄生人』を出した頃は、兎月書房の末期ですよね。

水木:うん。だから、彼にとっては、末期で待遇が悪かったということもあったかも判らん。売れない作家に対しては、想像を絶する無愛想ですからね。そういうことも手伝って、彼はマンガを止めたのかも判らん。貸本マンガは、メシは食えないですからね。作家はね、がまんして描くわけですよ、貸本マンガの人たちは、作家と認めてないわけです。乞食を救済してるくらいの感覚しかないから。長井さんは、そういうことはなかったですね。ちゃんと作家として認めてた。兎月は描きにくかった。でも、描きにくくても、描くしかないわけですね、メシ食うためにね。みんな、食えないから(貸本マンガを)やってたわけです。他の仕事って言ったって、ないからね。当時はね、日本中、金がなかった感じでしたね。ビックリするほど金がなかった感じでしたね。

(於・水木プロダクション

杉本五郎が登場する水木しげる作の伝記漫画集)

 

 

日本のルイス・キャロルと呼ばれた男(解説・米沢嘉博

ずっと気にかかっていたマンガ『寄生人』のつゆき・サブローとフィルム・コレクター杉本五郎が結びつき、しかも彼が伝説的な「少女」コレクターであることを聞いたのは、86年頃、あるロリコン雑誌の編集部だったと思う。戦後まもなくから描き続けた少女の絵が3千枚、撮った写真が1万枚、大半を火事で失なったものの、それからさらにコレクションを集めたという。まさに日本のルイス・キャロルロリコンの先駆者というその存在は、業界では伝説となっていた。インタビューを編集部に進言したが、もたもたしている内に『ヘイ!バディー』に先を越されてしまったのだが、もたもたしていたのには理由がある。ロリコンであることを、「少女」コレクターであることをカミングアウトすることは、危ないおじさんであることを宣言することであり、活動の障害になるかもしれないということと、本物の危いおじさんを誌面に出すことは、当時ファッショナブルに「ロリコン」で遊んでいた雑誌をディープにしてしまうのでは、という危惧からだった。

だが、杉本五郎は何のてらいもなく、「少女」コレクターであることを語り、自らのコレクションさえ披露してくれたのである。そこには、筋金入りの、天に恥じることのないロリコン・マニアの姿があったのだ。まもなく、ロリコン系のマニア出版社であるさーくる社から『アンティック少女写真館』という一冊の杉本五郎コレクションとでもいうべき本が出た。そこには彼のロリコンとしての仕事とコレクションが、暗い情熱を持って展開されていたのだ。

また多くの少女写真は、戦後まもなくから撮っていたもので、経営する貸本屋に出入りする少女たちをモデルに、ある時はヌード写真集のポーズを真似させ、様々な衣装を着せ、割れ目もモロに裸体を写し撮っていた。プロの少女モデルを雇い、ボディペインティングをほどこしたカラー作品が最後の少女写真であったというが、昭和44年まで、計35人の少女たちを、つゆき・サブローはフィルムの中に収めている。時代を感じさせるその少女写真は、性的欲望ではなく、アンファンテリブルな妄想に満ちている。

そして、彼は、こうした少女写真を元に多くの油絵を描いた。昭和23年より「独立美術展」で4回入選、その後、「読売アンデパンダン展」に連続14回出品。「群像・世界の子供たち」「木の葉をもつ少女」など、その全てが裸体の少女たちを描いたもので、つゆき・サブローの名で描かれている。50号から150号という大作だ。これ以外にも発表する予定もなく、多くの少女画が描かれた。少女マンガ『磯千鳥の唄』で貸本マンガにデビューしたというのも、そうした流れからのものだったのかもしれない。

やがてそれらは、実験的手法のコラージュ・アニメへと発展していく。少女雑誌から切り抜かれた少女、自ら撮った裸の少女、自ら描いた少女イラスト、そうした素材を元に、少女をテーマに独自の世界が展開されていく。動かない、切り取られた時間の中の『少女』たちに生命を吹き込む作業が行なわれていくのは昭和40年代に入ってからだった。『少女たち』『12歳の神話』『てまりうた』『海と少女と貝がらと』『千代紙と少女』などが、今残されている。また、自ら挿絵を入れたロリコン怪奇小説なども書いていたという。

アニメについては一部に評価されているが、彼の情熱ほどには「表現」は受け入れられなかったというのが真実だろう。そうして、全ての「表現」に少女が大きなテーマとしてあったこともまちがいない真実なのだ。その点には、遠い子供の時間への逃避の欲望が潜んでいたようにも思う。日本のルイス・キャロルという伝説を生きたのではなく、後は少年の時の神話の中に生きようとしたのである。つゆき・サブローは様々な意味で、時代に早過ぎた人間だったのかもしれない。今だから、逆にそう、思えるのである。

太田出版刊『Quick Japan』16号「三つの顔を持つ男・露木三郎伝説」最終話)

*1:『12歳の神話』―まだロリコンなる言葉もない1969年(昭和44年)にノーベル書房から刊行された日本初の少女ヌード写真集。杉本氏は、この『12歳の神話』や他の写真集より写真を切り抜き、新たに描かれたアニメも挿入し、映像版『12歳の神話』(昭和45年・128mm・12分・カラー)を作成した。