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昭和初期の“エログロ”出版のオルガナイザー梅原北明の生涯について──梅原正紀

北明について

梅原正紀(息子)

梅原北明は無姓ヒロヒト氏と同じ年に生まれている。もっともそれは梅原北明の責任ではない。全くの偶然である。

「ボクは天ちゃんと同じ年だよ」

とは、生前に北明が年齢を聞かれたさいによく答えていた言葉だった。ところがこれまで梅原北明について書かれた文献はそのほとんどが一八九八年生まれとなっている。無姓ヒロヒト氏と同じ年齢なのだから、実際は、一九〇〇年生まれである。なぜこのような誤差が生じたのだろうか。

北明が敗戦の翌年に死んでから数年後、北明を紹介した文章が『あまとりあ』という雑誌に載った。書き手は北明の友人であり先輩でもある少雨荘こと斎藤昌三だった。斎藤はその時、「梅原北明は明治三十一年(一八九八)、富山市の士族の子として生まれる」と書いたが、そのため、それから以降、北明について書かれた文章は、一八九八年生まれとして、扱うようになったものと思れる。

野坂昭如梅原北明をモデルにした『好色の魂』という小説を書くのに先だって北明の長兄で現在、北海道・小樽市で歯科医院を開業している梅原貞勝から取材したおりに、こう述べたことがある。

「北明サンはずいぶん若い時から活躍したのですね。仕事の内容と業績からいって、二十代から三十代初めにかけて行なったとは思えませんね」

斎藤昌三の記憶違いというより、周囲から若く思われないために北明は自ら年齢をごまかしていたと推定されるのである。北明の従事してきた職業を思いつくままに並べてみると医局生、下級官史、雑誌記者、新聞記者、文献収集家、作家、翻訳家、雑文屋、出版業者、興業師、教師、貿易商、宗教屋などであるが、二十代から三十代前半にかけて自らも書き、出版業者として精力的な活動をくり広げたさい、「若くみられたくない」という多分に営業性を帯びた計算から、年齢詐称を行なったのではなかろうか。

梅原北明の名前がクローズ・アップされたのは大正末年から昭和初期にかけてであり、一般には官権を嘲弄しながらエロ本の出版を行なった人物ということで知られている。城市郎はその著書『禁じられた本』の中で北明のプロフィルを次のようにスケッチしている。

梅原北明は伝説の人である。昭和初期“エロ”出版のオルガナイザーといわれ、やみくもに、“ワイ本”を出版して罰金刑・体刑をなんどもくらう。刑務所からでてくるたびごとに、金鵄勲章ならぬ禁止勲章授与、数十回と読者に声高らかにアピールする。役人に追われシャンハイへ逃げ、かの地で“ワイ本”をせっせとつくって、珍書愛好家たちからわれらが梅原とうたわれ、反面、ケイサツから正気だか気ちがいだか、ワケのわからぬ“ワイ出版狂”と見なされる。自分の雑誌の『グロテスク』が発禁になると、「急性発禁病のため永眠」という黒ワクがこみの死亡記事をアカデカと新聞に出して、世人をビックリさせる。罰金刑がかさなると“罰金祝賀会”を大々的に開いて、当局のハナをあかしたりする。こういう北明伝説にはキリがない。ちゃめっ気があって、奇行も多かったが、そのうえ、話をおもしろおかしくして聞き手にサービスする精神に富んでいたので虚像的な伝説がかなり流布されていることは事実である。

 

ニンジン的悲哀感

ともあれ、北明の生年は一八九八年であるということが定説化されているが、事実は一九〇〇年に富山市で生まれたのである。梅原貞義、きくい夫婦の二男として生まれ、貞康と名づけられた。生家の家業は生命保険の代理店であり、息子たちを東京に遊学させ得たのだから、生活にはゆとりがあったものと思われる。

父の貞義は富山市きっての剣道家であり、後に北明が早稲田大学に入学したさい、戦前の日本では有数の剣の使い手として知られた中山博通が貞義の門人であったことから、東京での保証人となっている。梅原家は士族の出身であり、北明の祖父は富山藩の勘定奉行であったという。後年、北明が権力にさからったり、からかったりした下地は、少年期に“士族の家風”になじまず、その不合理さに反逆心を燃やすことによって形づくられていったからだと思われるふしが多い。

たとえば年齢差から長兄と小遣いの面で差がつけられているのだが、北明にとっては不愉快だった。菓子屋で長兄が「あれをくれ、これをくれ」と金の支払いを気にせず、むしゃむしゃ食べている姿が北明にとって、ひどくうらやましいものに思えたという。北明に与えられている小遣いではとてもそうしたまねはできなかった。計算しながら食べねばならず、それも、もうこれでいいと思うまで買食いできなかった。しょっちゅう満たされない思いで菓子屋を出なければならなかった。そうした長兄なのに食事のさいにもオカズの面で北明と差がつくのである。いや、それだけではない。庭掃除などでも北明のほうが兄よりも“負担部分”が多かった。兄は跡とりであり、よけい勉強しなければならないというのがその理由だった。文句をいおうにも“長幼序アリ”で絶対服従が要請された。

差別がつけられるのは、「ひょっとすると自分は両親の本当の子ではないのか……」と少年北明は考えた。ニンジン的悲哀を感じたのであるが、北明とニンジンが違うのは、そのフラストレーションをイタズラで発散する点であった。富山市を流れる神通川で泳いでいる最中、北明少年がおぼれて行方不明になったというデマを友人の少年に家へ知らさせに行かせ、自分は土堤の陰にかくれて、ふだんは謹厳な父親が家人と一緒に河原で取り乱している様子を安堵の思いと「ザマアみやがれ」といった気持で眺めていたという。

父親から、しおきをされるのは毎度のことで、たいていの場合、カシの木でつくられた双六盤に一晩中、静座されたが、父親の寝すますのを弟に監視させ、「寝た」と聞くと家を抜けだして友人の家で泊まり、早朝、家にもどってきて何くわぬ顔をして双六盤の上に静座をしているのだが、父親にばれるようなヘマはしなかった。

少年期の北明が生気を取りもどすのは、やはり家庭外での生活であった。近所の子どもたちのガキ大将的存在であり、北明がタバコと女の味を覚えたのは小学校六年生の時であるという。もちろん、こうした事実は非行化という側面を持つが、北明をとりまく“壁”への抵抗、実体もないのにいばっているものやとりすましているものへのいやがらせのほうにウエイトが置かれた行為であったといえよう。

中学校は三回かわっている。二度退校処分にされているのである。退校理由はいずれもストライキの有力加担者、あるいは首謀者としてである。結局、最後に卒業した学校は京都の平安中学だが、ここではあまり問題を起こさずに卒業できたのは、野球選手として練習に余念がなかったためであるという。北明の左手の小指は、人なみに屈伸できなかったが、これは野球のさい、つき指したためで、ポジションはショートだった。当時の中学生は正課として剣道か柔道を選ばなければならなかったが、北明は柔道をまなんだ。剣道家である父へのつらあてになるからである。後年、北明は人名薄をつくるためにアンケートが送られてくると“趣味”の欄に「柔道」と書きこんでいた。武道家がことさらに強調したがる精神修養的な面へのあざけりであり、いやがらせでもあった。北明の趣味は正確には釣なのだが、彼は決して釣とは書かなかった。

中学卒業後、北明の放浪生活がしばらく始まる。上京した北明は上級学校に進学しないで医院の書生となるのだが、薬局から高価な薬を持ち出して売り払い、吉原通いに専念する。結局、露顕して医院から放逐され、手づるを求めて郵便局員になるのだが、中学時代からやたらとストライキを起こさせるような性分の北明に長く勤まるわけがない。辞めたり勤めたりのくりかえしが続き、とうとう行き詰まってしまった。この時はよほど困ったとみえて、血判を押した詫び証文を生家に送って、入試勉強をするための学資を送るよう頼みこんでいる。

こうして北明が入学したのは早稲田大学予科(当時は高等学院だったかどうか不明)だが、それも両親には慈恵医大に入ったからとあざむいているのである。両親は北明を医者にするつもりだった。医者になれば、生活が安定するという利点があるし、それに北明の性癖に手こずっていた両親は、文科にはいればますますその性癖が助長されることを恐れていたからである。

北明は医学書を買うという名目で送らせた金で文学書を買いあさっていたが、チェーホフの英訳版の全集が買いたくてたまらず、病気を理由にして送金させ、チェーホフ全集を下宿の本だなに並べて悦にいっていた。ところが両親が北明の病気見舞いをかねて、突然、予告もなしに上京し、北明の下宿に訪ねてきてしまったのである。

本だなには医学書など一冊もなく、文学関係の書籍ばかりである。いっぺんにニセ医学生であることがばれてしまい、以降、学資の送金が途だえてしまった。こうして北明は苦学生活を余儀なくさせられるわけだが、この時、北明にアルバイトを世話したのが片山潜の友人・後輩たちだった。翻訳をやったり、雑文を書いたりしていたが、だんだん慣れてくるにしたがって収人がふえてきだした。学生なのに、当時の大学卒のサラリーマンより収入が多いし、片山らのグループから左翼思想の洗礼を受けたためもあって、通学することの無意義さを感じ、早稲田を中退してしまうのである。

片山の影響を受けて北明が取り組んだのは部落解放運動だった。関西の部落でセッツルメントに従事するが、部落民の大会を開くことを企画する。北明たちが選んだ大会の会場は本願寺の境内だった。というのは部落民には門徒が圧倒的に多かったからである。本願寺の信仰、つまり浄土真宗の教義は来世での往生を約束する。この世での生活は、まるっきりダメな者でも、ナムアミダブツと唱えれば、西方浄土の極楽にまちがいなく生まれかわるという教えである。現世で不当な差別をうけている部落民にとって本願寺の教えは、魅力的であった。さらに僧侶たちが、その教えをよりアヘン化して部落民に説いた。せめてあの世で救われたいと願う部落民たちは、きそって布施に応じた。

部落民本願寺教団のドル箱だったのである。そうした義理からいっても、本願寺では部落民に境内を貸さなければならないと北明は判断した。北明はその場所で、本願寺が長い間、部落民を搾取し、だまし続けてきたことへの弾劾演説を行なう予定でいた。ところが事なかれ主義本分としている本願寺側は、この申し出を断ってきたのである。

北明たちは、やむを得ず大阪・中之島公園で大会を開いた。後年、北明は自分が主宰して刊行した雑誌『グロテスク』で、「世界の内房」と題する座談会を行ない、本願寺法主の性生活を暴露して、シッペ返しをしている。

部落解放運動に従事したのち、北明は上京し、震災後の雑司ヶ谷に落ち着き、『青年大学』という二流雑誌社に勤めた。雑誌記者をするかたわら『真面目な放浪者』という小説をかいたが、次作の『殺人会社』というその小説が北明の処女出版となる。二十五歳の時の作品だが、同書には梅原北明著とあり、このとき北明というペンネームを用いたものと思われる。

ペンネームのいわれは、北が明るい──ということであり、ロシア革命への期待感がこめられている。とはいうものの、この小説の内容からわかるように北明は“純血左翼”では決してない。北明はこのほかに鳥山朝太郎、談奇館主人、ずっと後に吾妻大陸というペンネームを使っているが、このうち烏山朝太郎はシナ研究家の後藤朝太郎にあやかったものであり、談奇館主人は永井荷風の偏奇館主人という名を慕ったものである。ガンで死んだ正岡容ほどではないが、北明の荷風への傾倒はかなりのものであった。

吾妻大陸というペンネームは、戦争中、北明が憲兵に追われ、地下にもぐったさい生活費をかせぎだすために大衆読物を書いたとき、使用したペンネームである。日本が大陸へ進攻していたご時世に合わせたペンネームであるが、北明が憲兵ににらまれて行方をくらます直前、後妻の初子と打ち合わせをしておき、このペンネームが大衆雑誌に登場しているかぎり、健在であるからということになっていたらしい。ベンネームで憲兵の目をかすめながら、妻に信号を送っていたのだ。こうした面からもペンネームを利用したのは、アイデアマンであった北明の側面を物語るものといえよう。

 

絢爛たる新聞記者、梅原北明

『殺人会社』を書いた後、北明は千葉県佐倉の中農の娘、美枝子と結婚し、居を千駄ヶ谷に移した。『青年大学』を辞めて新聞記者となったが、敏腕の法曹記者であり、犯罪物の大衆小説作家として知られている沢田撫松にひきたててもらったという。

北明は新聞記者時代の余暇をさいて訳をすすめていたボッカチオの『デカメロン』を一九二五年に朝香屋書店から出版した。それ以前に『デカメロン』の全訳は戸川秋骨、大沢貞蔵らによって行なわれていたが、戸川本は発禁のうき目にあい、また大沢本は当局の検閲がきびしく、伏せ字部分が多かった。ところが北明本は伏せ字部分が大沢本に比べてはるかに少なかった。『デカメロン』の跋文に北明は、「たとえどんなことであろうとも、この作品において私が用いましたようにできるだけ上品な言葉を持って物語ったならば、世の中に物語って悪いというものは一つもないのであります」と自負しているが、大量抹殺をまぬかれたのは、ほかにも理由があるからだ。

北明はその訳本をボッカチオの五百五十年祭記念出版という名目のもとに出したのである。そしてその序文で取締当局への牽制をたくみに行なっている。

まず、イタリアの文学者であるアッティリョ・コルッチから序文をもらっているが、その末尾は次のような文章でくくられている。おそらくは、北明の要請で書かれたものと推定される。掲げてみよう。

チェタルドの偉人(ボッカチオ)の歿後五百五十年の記念に際し、この世界的不朽の名典を、貴き日本国民に知らしめようとする梅原北明氏の計画は感謝されるべきである。又一面これは世界文明に与ること偉大な両国民の理解に、その交誼を深める堅固な且つ永続連鎖となろう。

この序文のほかに北明自身が書いた序文が取っているが、これは文学作品の翻訳本むけ一序文ではない。取締当局向けの作文といった面が強い。

本書は伊太利大使館の手を経て、伊太利皇帝陛下、同皇太子殿下、及び皇太后陛下の玉前に献上し、ムッソリニ首相、同文部大臣に、又コルッチ博士や、下位春吉氏の斡旋に依りて文豪ダヌンチオ氏に呈するの光栄を得たことは、日伊親善のために読者諸兄と共に慶賀に堪えない次第であります。

『殺人会社』などというニヒルでアナキーな小説を書いた男が、本気になってこんな序文を書くわけがない。もし、この本を発禁にしたら、イタリアの対日感情が悪くなるなぞというおどしを、内務省図書課の検閲係の役人にかけているのである。やれるものならやってみろと北明は序文の陰で笑っているのである。北明はさらに浅草の凌雲座で曽我道五九郎と組んでイタリア大使を招待し、はでにボッカチオ祭を催した。宣伝もかねたこの催しは各新聞のゴシップ欄に報ぜられたばかりでなく、人のいいイタリア大使は母国に申請して北明に勲章まで出しているのである。もっとも北明もその勲章は酔っぱらったさい、カフェの女給にくれてしまったらしく、すぐになくしてしまった。

こうして『デカメロン』は再版を重ね、北明の名は、徐々に知られていった。このあと続いてウイリアムスの『露西亜大革命史』を北明は翻訳している。

 

今東光とともに活躍

文芸春秋』が創刊されたのは一九二三年一月であり、翌年六月、『文芸戦線』が創刊、同年十月、『文芸時代』が創刊されている。このうち『文芸春秋』の総帥が菊地寛であることはあまりにも有名であり、『文芸時代』は新感覚派の拠点ということで知られているが、今東光がその発起人の一人であるということは案外知られていない。今東光はもともと菊地寛の『文芸春秋』の同人の一員だったのが菊地と対立して『文芸時代』創刊の推進力となるのだが、『文芸時代』の同人が必ずしもアンチ菊地寛派とならないのでカンシャクを起こして『文芸時代』を飛びだしてしまう。今東光の言葉を借りれば「『文芸春秋』の台所口から尾を振って出入する新進作家の群と混同しないで」ほしいという気持があったからだ。

こうして一九二五年七月、『文芸春秋』から飛び出した今東光は『文党』という同人雑誌を始めるが、同人に金子洋文、間宮茂輔、サトウ・ハチロー、水守亀之助、村山知義らがいるが、梅原北明もこの時、同人として参加し、彼のプランで発会を兼ねた街頭宣伝を行なった。同人の村山知義、吉頓二郎の二人に看板を描かせ、同人一行がその看板を胸と背にかけ、メガホンを口にあて桃太郎のメロデーで文党歌を歌いながら一大行列を行なったのだ。

天下に生れた文党だ

値段が安くて面白い

既成文壇討たんとて

勇んで街へ出かけたり

この時のもようを高見順は「バカなまねをしたものだと今日の青年作家諸氏は思うかもしれないが、当時は人の意表に出るこうした振舞を一種の反俗的行為として面白がっていた時代である。いや、そうにしてもやや奇矯の感がないではないが、『文党』一派には村山知義をはじめとして、ダダイストアナーキストが、さよう“黒き犯人たち”が加わっていた」と『昭和文学盛衰史』の中で書いているが、表だってはダダイストでもなくアナーキーストでもなく、ましてコンミュニストでもない北明が演出者であったことまでは知らなかったようだ。ともあれ、この珍妙な行列は早速、新聞種となって、当世風にいうならば『文党』のパブリシティとなり、今東光を喜ばせた。

北明の死後、十年ほどして今東光から私がもらった手紙の中に「北明は偉大なジャーナリストであった」と書かれてあったが、偉大なジャーナリストであるかどうかは別として、北明は機を見るのに敏であった。北明は文章力というよりも、意表をついたアイデアとそれを生かすプロデューサーとしての能力にたけていた。その現われの一つが北明が主宰者となって創刊した『文芸市場』である。『デカメロン』で当てた北明には雑誌を出す資金的余裕があった。同人には『文党』から今東光村山知義、井東憲、金子洋文、佐々木孝丸らが加わり、当時の新鋭作家の顔ぶれをそろえることができた。そして『文芸市場』では創刊号の扉に北明の発案で次のような“文芸市場宣言”を掲げた。

芸術に対する迷信はながい間続いてきた。事実に於いて芸術は商品の取扱いをうけ算盤によって評価されているにかかわらず、美術のみ金銭を超越しているように過信している人々がまだこの世にいる。文芸市場はこの愚かな迷信を破って芸術を商品として徹底させるために生れた。これは芸術に対する冒瀆ではない。資本主義社会に於いて商品でないものは一切存在する意味がないからだ。

文芸市場は不正粗悪の商品を排除する。模造品、がん造品を蔑視する。中味を吟味することなくレッテルに依って価格を評定する現今の悪風をうち破る。

日本の芸術界はあまりにレッテルに眩惑されている。名によっての価格が評定される。これは明らかに商業道徳違反である。一切の商品が良悪によって評価されるように芸術も優劣によって評価されるべきである。

ごく当然なことをいったまでの青くさい宣言だったが、芸術を物神化したり、あまりにもロマンチックに考えすぎる手あいにとってはショックだったらしい。

ともあれ、作品イコール商品であるという考え方をつき進めて、北明は『文芸市場』に掲載した後の諸作家のナマ原稿も夜店のバナナの叩き売り同様、歳末の神楽坂で売りとばし、文壇人のヒンシュクや拍手を買って皮肉な新聞種を提供しつつ。雑誌の知名度を高めた。

一九二六年ごろから、文芸市場社の欠損がめだってふえてくる。金が入れば入っただけ使ってしまう北明には長期資金計画などたてられようがなかった。文芸市場には昔の新聞記者仲間やプロ派の作家、無名作家らがたえず出入りし、ほとんど毎晩のように酒もりが始まった。頼まれれば、いやといえない性分の北明は持ち合わせの金があるかぎり、小づかいをばらまいた。後に北明の片腕となってその出版事業を助けた花房四郎=中野正人は梁山伯と化した文芸市場社での北明について「梅原自身は自分の立場をプロ派ともブルジョア派とも思っていないので、誰とでも快く交際し。本人は清濁合せ呑んでいるつもりらしかったが、プロ作家側の中には、彼のことを八方美人だといってけなす者もいた」と述べている。

欠損つづきの雑誌をやっていながら、金をバラまいているのに、金をもらっていった当の相手から北明は中傷されていたのだ。そうしたあざとい一部のプロ作家を非難している中野正人は、それならブル派かといえば、決してそうではない。『文芸戦線』には古くから寄稿しており、一九二六年四月号の同誌には北明とともに執筆している。ついでながら、この号には佐々木孝丸、山田清三郎、前田河広一郎、林房雄、小牧近江、小野十三郎らといっためんめんも原稿を寄せている。中野正人は一九二七年五月に中野重治とともに同人となり、同年六月、『文芸戦線』の母体である“日本プロレタリア芸術聯盟”が分裂したさい、青野季吉、藤森成吉、蔵原惟人、葉山嘉樹らと“労農芸術家連盟”側に移行している。

一九二七年といえば、北明は性文献の出版に本格的に取り組んでいるころであり、そのため二人は別々の道を歩んでいた時期であるが、斎藤昌三にいわせると、両者の交情には変わりがなく、北明が出版法違反で刑務所から出てくるとまっ先に善後策を相談に行く相手は中野正人であったという。

北明が自由大胆に活躍できたのは実際には花房(中野正人)が陰にあったからで、花房は北明を肉親以上の兄として、時と場合によっては北明の代わりにブタ箱にも入り、当局との難問題に進んで接触したので北明も妻や実弟に打ち明けないことも、又は経済上のことや営業方針までも一任するほどの信頼があった。

広告に出版物に日本の出版史にかつてない華やかさと、大胆不敵の行動にふるまったのは無論北明の好みでもあったが、それを盛りあげ湧きたたせたのは花房である。そのくせ彼自身は、いつもサムザムとした風体で、平素は言葉の数もいたって少なかったが、いざ強敵に立向うとなると北明よりは勇猛であった。

後年、この斎藤の文章を読むにいたって中野が容易に権力とは妥協しない左翼文芸運動の闘士であったことを知ったが、それでもなお、信じきれない思いが残った。いかにも生活にくたびれたサラリーマンといった印象が強かったからである。またそれだけに、政実さがにじみでている人であった。斎藤昌三に“花房あって北明あり”とまで書かれた人だが、少しも功を鼻にかけることがなかった。戦後、北明が死んだ後、北明についての思い出を中野はこう書いている。

企画製作者として梅原はたしかに天才的な頭のよさがあり、宣伝のうまさに於いても実にずば抜けたところがあった。そのねらいは主として逆宣伝の形式を選んだが、それが彼の場合、いつも成功した。

『文芸市場』は一九二五年十一月創刊以来、執筆陣をプロ派の作家でかためてきたが、北明の放漫経営も手伝って、負債がふえだしてくる。北明は売れる雑誌にするため苦慮する。ともかく編集方針を変えようと尾崎久弥、藤沢衛彦などの文献や責めの性研究家として名高い伊藤晴雨などの原稿を載せるようにしていった。創刊の翌年のことである。

梅原北明が左派的編集方針を水うめして、軟派ものにウェイトを置いた出版にきりかえていった時期は、このことから一九二六年ごろであったことがわかる。もともと左翼原則論は北明の好むところではない、それとともに経済的な理由から変貌していったのである。こうして雑誌の性格を変えていくとともに赤字をうめるため、北明は単行本の出版に乗りだしていくこととなるが、まず手がけたのは“変態十二史シリーズ”の刊行だった。手持ちの金が心細いため、新聞広告に大きなスベースをとることができなかったが、例によってハッタリをきかせたコピーを案出し、その反響を待ってみた。

五百部限定の実費が一円四十三銭かかります。先着五百名厳守で、締切後は実費頒布値段の三倍になることは火を見るよりも明らかですから、後からの御申込みは謝絶。

北明の心づもりでは、千五百部ぐらい注文があれば上々と思っていたのに、六千に近い申し込みがあり、文芸市場者の債権者であることから、この出版に一口のっていた印刷屋の福山福太郎も大喜びし、名プランナーであると北明を神様扱いにした。発行所を文芸資科研究会と名づけ、印刷屋の福山福太郎の事務所においた。連日、為替が送られてきて、北明の収入はみるみるふくらんでいった。

生活にゆとりができると、北明は、四、五人の学生アルバイトをつれ、毎朝八時に家を出て、夕方四時まで日曜以外は一日もかかさず、上野の帝国図書館の特別閲欄室に通った。こうして明治初年以来の性的珍聞に関する新聞記事の抜書きを半年にわたって続け、原稿用紙三万枚分の記事を拾いだした。さらにこの中から特におもしろい記事を選んで後に『明治性的珍聞史』上下二巻を出版したが発禁になった。

古新聞あさりはその後も余暇をつくっては続けられ、単に性的な記事だけでなく、政治経済、社会にまで及び、のちに『明治大正綺談珍聞大集成』『近世社会大驚異全史』『近代世相全史』の刊行をみるにいたるのである。北明が古新聞の記事を集めてアレンジしたねらいはどこにあったのだろうか。一九三一年の『グロテスク・復活記念号』の裏表紙に『近世社会大驚異全史』の広告が載っているので、そのコマーシャルを次に写しとってみよう。

由来この種の著述はともすれば、御用学者に依って政府の御都合主義に迎合し、或は支配階級のみの利益を庇護するために粉飾され勝で、些細の虚飾もなき赤裸々の国民的歴史などというものはそれを望む事がすでに一種の徒労に終らざるを得なかった。斯かる悪弊を断乎として排撃し、終始一貫飽迄もあるが儘の世界を反映せしめたところに本書の真価は云々。

官製の“御用歴史”に対して新聞記事をアレンジすることで民衆史を作成しようというのが北明のねらいであった。それならばいわゆる“純血左翼”でもない北明がなぜそのような本を出そうとしたのであろうか。『明治性的珍聞史』の後をうけて出版された『明治大正綺談珍聞大集成』は、その広告文のわき見出しに“梅原北明氏決死的道楽出版”とあるように、採算ベースにのる出版ではなかったのである。だからこそ“決死的道楽”なのだろうが、それならばなぜ、決死的道楽を行なうのだろうか。中野正人と同じく北明のバートナーであり、電通共同通信の前身であった同盟の記者尾高三郎は同書の推薦文でこう説明している。

……原因は焼け糞です。梅原北明第三十一回の筆禍禁止勲章授与記念報告祭に要する焼け糞出版だからであります。

『近世社会大驚異全史』は菊判二千百ページに及ぶ分厚い本だが、序文の中で北明は「本書に採録した新聞原稿は四十万枚中の一部分にすぎません」と書いている。編さんに要した労力、費用は膨大であるが、採算を度外視してそのような行為をあえてしたのは、尾高三郎によれば焼け養ということになるのである。

北明をモデルにした野坂昭如の『好色の魂』をある文芸評論家が評したおり、「根なし草のような男をモデルとした云々」という一節があった。いわれるとうりまことに根なし草にふさわしい貴重な焼け糞ぶりであったといえよう。

 

会員雑誌『変態資料』スタート

『変態十二史』刊行の好調なすべりだしに気をよくした北明は、予約申込読者あてに、会員制の雑誌『変態資料』を発刊するから申し込んでもらいたいという案内状をばらまいた。すると三千近い会員が続々と申し込んできた。こうして『変態資料』が一九二六年九月スタートするわけだが、この会員名簿は後に北明が旺盛な出版活動を展開していくさい貴重な財産となった。会員の中には会社員はもとより、大学教授、高級軍人、検事までいた。たとえば軍人では東郷元帥の秘書をしていた小笠原長生海軍中将は会員であるとともに熱烈な北明ファンで、後に北明が財団法人科学技術振興会を設立したさい、海軍の将官を名誉理事長として紹介し、海軍から資金を出させるよう仲介の労をとったという。

また北明が相次ぐ発売禁止処分をうけながらも再び出版活動を開始できたのも、会員の力によるところが大きい。北明が本を出すと予告すれば前金が集まるだけでなく、支払い条件のゆるやかな紙屋を紹介する人までいた。それも紹介者が栃木県知事なので、北明は実費以下で紙を入手し、そのうえ県知事から援助資金までもらったという。それだけ北明の手腕は信用されていたのだといえるが、それに北明は集まった金を友人と一緒に無駄使いすることがあっても、貯金をするという“美風”とは無縁の男であった。家を数軒建てられるだけの金がもうかった時が何度もあるが、一向に建てようとせず、借家住まいを続けた。北明が自分の家を持ったのは戦争末期でそれも疎開の意味もかねて、小田原に建てたのである。それさえ後妻の初子にせがまれて、つまり女の物欲のうるささに負けて建てたのである。

会員制の雑誌『変態資料』は順調なスタートを切り、ことに第三号に佐藤紅霞の『性欲学語家』を載せたさいには、会員の好評をよんだ。これを機会に北明は蛇本刊行を決意し、その第一弾として佐々木孝丸に『ふあんにひる』を訳させて出版し、続いてビアズレーの淫画集、さらに先に名前をあげた『明治性的珍聞史』などを出版していったが、一九二七年一月、警視庁検閲課の手入れを受け、ここに初めて北明は出版法違反の罪名で前科一犯となるのである

北明は屈せず、ただちに『変態資料』で「明治新聞雑誌資料筆稿文献」を特集し、その巻頭言で次のように宣言している。

……吾々の処される総決算の日も遂に訪れていたのでした。

十二史中の『変態崇拝史』も、番外の『明治性的珍聞史』も、『ふあんにひる』も──ここ一ヵ月に陸続と禁止を食い、警視庁特別高等検閲課にお百度を踏まされました。当時読売新聞の如きは、これを評して秘密出版扱いにし、更に其記事を持ち前の大袈裟にすべく、去る三月六日より十日まで拙者拘留さる云々の虚報を伝え、今や第二の怪文書事件でも出現したかの如くに、世間の人々をして得て勝手な想像をめぐらしめるに至つたが、豈図(あにはか)らんや大山鳴動して鼠一匹の例で、事件が単なる出版法の問題であり、結局責任者たる上森か拙者が罰金か体刑を受ければ其れまでの問題なのであります。

『ふあんにひる』は一寸面倒で、あれは単なる出版物として当局では認めないと云うのですが、それほど淫本に類似した猥褻本とは吾々には考えられないのです。若し出版法の範囲を越えて体刑に引掛るとすれば、此の猥褻罪とか構成如何で、一カ月か二カ月行ってくれば其れまでの問題なのです。いずれそれも気候が良くなってからでいいんです。

が、それはとにかく、たとえ内務省がどう云おうと警視庁が圧迫しようと、今度からは当方にも陣容を整えて合法的に喧嘩を始める決心で、玆暫らくの間、おひやらかしてやるつもりです。

感情で禁止しろ! 感情で馘(クビ)にしてやる! 何云ってやがるんだい! と云いたくなります。

さて諸兄よ。いくら吾々が彼等と喧嘩を始めたって、諸兄等には迷惑をかけません。対岸の火事見物の気持でいて下さい。その筋から雑誌を掠奪に来ても相手にしないで下さい。

三者の手に渡った以上、押収していく権利はないんです。が触らぬ神に祟りなしで理屈が五月蝿かったら知らぬ存ぜぬで通して下さい。その辺が一番安全な所でしょう。

イヤ早、損をするやら呼び出しを喰わされるやら、淋病がヒドくなるやら、テンヤワンヤの最中です。

北明はまた、『文芸市場』に“デカメロン伏字考”を発表し、自分が翻訳した『デカメロン』の読者の不満を解消させた。この“お礼奉公”的な記事を載せたのをきっかけに文芸市場は廃刊される。北明はさらに大胆なエロを基調とした雑誌『カーマシャストラ』を発行し、『バルカン・クリイゲ』『エル・クタープ』など世界的に名の通っている艶本を続々刊行しだす。その結果出版法違反に問われて罰金刑、さらに体刑まで食うのだが、斎藤昌三によれば「そうなるといよいよ反抗的に出たので、当局からは正気か気違いか正体のわからぬ出版狂とされ、罰金刑や入獄の量では外骨(宮武)以上の犯罪を重ねたのだった」ということになる。

青山繁の「ワイ本屋魂胆物語」からの一節だが、前記した雑誌『カーマシャストラ』は、伏字が一字もなく、治外法権下の上海で発行したものと思われる。その青山繁も述べているし、他の人もいっていることだが、はたして北明は上海に行って、出版活動を行なったかどうか疑わしいというのである。当局の弾圧をさけるための偽装工作の匂いもあるというのだが、ともあれ、一九二七年九月づけで北明は佐藤紅霞、酒井深の三名連記で「文芸市場を上海に安定せり」という移転通知を出している。

満二年間も小役人の跋扈する日本で雑誌を出して居るといい加減飽きが来る。そこで国際的に第一歩を踏むべく世界の浅草、言論の自由国、上海へと乗り出してきました……。

移転通知の文面だが、これとて上海で出したかどうか疑えば疑えるのだ。といって北明が上海へは行っていないとは断定できないのである。城市郎の考証によれば、一九二七年九月から一九二八年春先までという上海逃亡説をとっている。

 

『グロテスク』創刊

一九二八年十一月に戦前のセックス・ジャーナリズムの主流を占めた雑誌『グロテスク』が創刊される。奥付を見ると編集兼発行人は北明のもう一つのペンネームである烏山朝太郎となっている。創刊号の案内状は“亡者が裟婆に帰宅を許された話”と題され、読者に配られた。

やア、諸兄。先づ以て暑中御見舞い申上げますると、人間並の御世辞を一寸ならべさしていただきまして、扨(さ)てお待ち兼ねの或は兼ねでない──そこまでは知らぬが、亡者の梅原北明、頗(すこぶ)る迚(とて)も立派なカラ元気で未決市ヶ谷刑務所から、亡者の戸籍第九三七号の襟番号から勘当を命ぜられて一時娑婆恋しやと地獄から泡を食って飛び出したら、明るい明るい世界が一どきに、グラッグラッと眼玉を襲って眩暈を起こさすという驚き……

『グロテスク』は度重なる発禁を未然に防止しようという編集意図があった。エログロのうち、エロよりもグロに重点を置いて編集すれば、発禁を回避できるのではないかという計算があったようである。だが、その『グロテスク』も三号目で発禁をくう。すると北明はこの発禁を逆手にとって大黒枠の死亡広告をつくり、すぐさま新聞に載せた。

愚息『グロテスク』新年号儀サンザン母親に生みの苦しみを味わせ、漸く出産致せし甲斐もなく、急性発禁病の為め、昭和三年十二月二十八日を以て『長兄グロテスク十二月号』の後を追い永眠仕り候、夭死する子は美しい、とは子を失った親の愚痴とは存じ候へども、お察し下され度候。生前御愛顧を蒙りし諸氏の御期待に抜きし段はなんとも残念の至り、愚息も草葉の陰にて口惜し涙にむせび居る事も存ぜられ候、遺骸の儀は好都合にも所轄三田署に於て一年間保存の上、荼毘に付してくれる事に相成り候へば、こればかりはせめてもの光栄と存じ居り候。

猶遺言に依り、供花放鳥の類は一切御断り申候へ供、第四子『グロテスク二月号』出産の場合は誕生祝として賑々しく御声被下様願上置候。

一九二八年一二月の暗い暖い夜

東京三田

喪主 グロテスク社

親戚総代 文芸市場社

もちろん、この間、単行本の発行も続けていった、『秘戯指南』『らぶ・ひるたァ』『世界好色文学史・二巻』『ビルダー・レキシコン』などだが、いずれも発禁処分を受けている。こうして一九三〇年一月、当局の追及が急となり、今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から“宣告”された北明は日本を脱出し、再び上海へ逃亡するのだが、ほとぼりがさめたとみるや日本に舞いもどり、廃刊になっていた『グロテスク復活号』の再建に努力する。

一九三一年二月、北明の最初の妻であった美枝子が死に、その葬儀が中野の天徳院で行なわれたが、今東光がお経をあげたのは、このときが最初であるという。『文芸市場』以米、常連の執筆者であった生方敏郎は、おりあしく手元不如意だったので「一金一百円也右借用仕り候。但し香典料として」という紙包みを出して哀悼の意を表した。

一九三二年、警視庁で特高警察部が新設された年、北明は性文献出版からすっかり手をひき後妻初子と子どもを連れて大阪に逃がれ、会員の一人である女学校の校長をたずね、英語教師となった。しかし、試験のさい、九〇点以下はつけない主義で通したので、バカまじめに勉強する女学生から反感を買い、再び東京に戻るのである。

 

日劇を大入満員に

東京に舞いもどった北明が就職したさきは靖国神社で、社史の編さんにたずさわった。北明の文献収集・整理の腕が買われたのだ。だが一箇所でしかも靖国神社では、とうてい落ち着いてじっくり仕事をすすめていられる男ではなかった。一九三三年末に建てられたものの、建ちぐされ同然となっていた有楽町の日劇の再建に今度はプランナーとしての腕を買われてのりだすことになるのである。北明はマーカス・ショーを招き、ラインダンスを踊らせたところ、好評をはくし、日劇は大入り満員となった。続いて北明はチャップリンの『街の灯』をかけたが、これまた大当りで日劇はすっかり生気をとりもどした。

ところが北明のよんだマーカス・ショーは実は三流のドサ回りだったのである。ドサ回りであろうとそうでなかろうと、当たったのだから、北明の狙いは成功し、日劇の経営者から感謝された。

浮き沈みが激しく、収入の度合いに応じてやたら大きな家に引っ越すかと思うと、その人は長屋住まいをするといった案配で、恐るべき引っ越し魔でもあった。一九三八年から一九四〇年にかけて、家族を残したままで、地下に潜ったことがある。野坂昭如の調査によると、友人のために陸軍大将の名刺を偽造し、その名刺を使ったからであるという。

北明を捕えようと憲兵が数人、泊まり込みで張っていたが、そのため後妻の初子はひどく苦労した。それより前、北明が街の大道易者をサクラを使って生き神サマにしたてて、おもしろがっていたことを思いだし、初子は以前から信仰していた日蓮宗中山法華経寺系の行者となって生活をささえた。

この間、北明は大衆雑誌に小説を書いて糊口をしのいだが、憲兵に追われている北明のために仕事を世話したのは、当時『少年俱楽部』の編集長をしていた須藤憲造らである。「吼ゆる黒竜江」という冒険小説が『少年俱楽部』に一年にわたって連載されたが、その連載が終わるころ、北明は公然と姿を歩けるようになった。

 

晩年

一九四一年、太平洋戦争が始まったが、そのころ北明は後の科学技術振興会の母体となった海外工業情報所を設立し、欧米の科学技術関係の図書を出版していた。山本五十六が海軍の司令長官となっていることを知った時北明はたいそう喜んだ。山本五十六は北明とバクチ仲間だったのである。「上海の大世界(ダスカ)でルーレットをやっていた時知りあったのだが、オレよりもバク才があるし、彼ならば……」と、はかない期待を抱いた。というより、生活ぐるみ戦時体制に北明は、はまりこんでおり、期待をかけねばならぬ必要があったのである。アメリカやイギリスを相手にケンカを売ることは、無謀なバクチだと戦争当初はバカでないかぎり北明も思ったのである。そしてそのパクチを勝たせるべく北明も五十六と同じように協力した。中立国経由やドイツの潜水艦で運ばれてくるアメリカの科学技術関係の図書の海賊版をつくる作業に精を出したのである。数年前までは憲兵を使って追い回していた男の出版事業を今度は政府が保護することとなったのである。

北明は本造りに励むだけでなく、一般では配給以外は手に入らなくなった酒造りにもエネルギーをさいた。出版にはなんの関係もないのに軍に頼みこんでアルコールをドラム罐ごともらいうけ、さらにウイスキーにしたてるための香料づくりに取り組んだ。コリ性の北明はそれぐらいでは満足せず、自宅の地下室に蒸溜器をすえて米やイモからアルコールを抽出し、手製のウイスキー作りに励んだ。

そのウイスキーを小田原の自宅に訪ねてくる友人知己に気前よくふるまった。それだけではなく近所の魚屋や八百屋にいたるまでジャンジャンのませた。こうして終戦を迎えるのだが、北明の心境は複雑だった。やっとわれわれの時代が来たのだから、今度こそ北明の意のままに出版できるではないかと友人にさそわれてもなかなか北明は腰をあげなかった。しかし、生活のためには何かをやらねばならぬ。北明は迷った。その死の一カ月前ほど、長兄にあてた手紙を引用してみよう。

大正末期に左翼周辺知識人として出発し、性文献出版業者として官憲とわたりあい、反逆的な心情をもてあましながらも第二次大戦下、戦争協力をした北明が戦後の混乱期を暗い思いですごしていたことがわかる。

平和な故郷に幼き日をすごしたる吾等の姿を想いうかべ、兄をなつかしむこと限りなきままにこの書信を送ります。

兄さん、小生も既に五十路の坂の登り口にまで近づいてきました。ふり返れば実に夢のような過去です。今更ながら、少年の日がなつかしまれてなりません。その自分がすでに三人の子供を有しております。病妻はもう丸三ヶ年、臥床のままです。先日も一回、血を吐いて以来日毎に痩せてゆくのがなんとなく痛々しい気持に襲われております。

ひとたび外出すれば列車内の殺人的混雑、破れ放題の窓ガラス。こわれっぱなしの座席。栄養失調気味のひからびた乗客の顔。闇の話や食物の話ばかりでむせかえるような光景。駅から吐きだされればとたんにあさましい生活苦の舞台をさらけだしている青空市場です。

帰宅のため列車に乗れば折柄のラッシュアワーにも拘らず、半分が進駐軍の専用列車、あとの半分に空腹のサラリーマンが家路を急いでの喧嘩ごしの殺人的乗込み。それに比べてあとの専用車には口紅おしろいの色彩の鮮明な女どもがネッカチイフを髪に冠って兵隊と仲よく楽々席をとっての熱海行きです。復員した若者たちは「ちえッ!」と舌打ちしてくやしかること一度ならず……こんな調子で描写していた日には、この便箋が何百枚あっても書ききれません。何んともかんとも名状し難い敗戦風景です。

だが吾々は明治維新の実景を見ず、その生々しい息吹きも知らずして成長してきたのです。しかも有史以来の敗戦を実感した吾々です。人生のスリルを味うにはまたと得難き今日です。これほどに大きなバクチで負けた日本の姿など……夢にも見られぬ光景がしかも現実として各々の生活を脅かしつつあるのです。考えれば実に味うべき現実です。

あいつが悪い、こいつが悪い──なんて騒いでいても腹がふくれません。あいつに欺された! あいつに押えつけられていたからだ! などと愚痴ってみたところで始まりません。死んだ子供の歳を数えるようなものです。

この未曾有の雰囲気の中に微かな息使いをしてこたつの中に、借りてきた猫のように小さくうずくまっているのが昨今の老母の姿です。(後略)

歯医者をしていて、しごく常識的な生活者である兄にあてて書かれたものであるため、北明の文章にみられるいつものヒネリがないが、それでも北明の胸中を去来している悲傷がうかがえる。

この手紙が書かれたのは敗戦の翌年、一九四六年の三月である。戦犯の追放が叫ばれ、窮迫した民衆の生活とともに左翼的な風潮がにわかに高まっていった時期である。声高に戦争責任を追及する文化人の中に北明の知己も数多くいた。その連中が、戦前戦時を通じて、それらの人たちのいい回しを借りるなら“階層的背信行為”を行なっている事実を北明はあまりにも知りすぎていた。さらに戦争遂行の協力者であった自分にはその矛盾を指摘する資格がないことを北明は心得ていた。

前半生に反逆的な日々を送った自分であるが、この歴史の大きなうねりの中で何ほどのことがあったのだろうという苦い思いを北明はかみしめていたようである。

長兄に手紙を書いてから一ヵ月後、北明は発疹チフスで倒れた。清潔家で敗戦後の燃料難の時も毎日欠かさず風呂にはいっていた男がシラミから経由する伝染病で倒れたのだから運命は皮肉である。三十九度から四十度に及ぶ熱が続き、脳症を起こした北明の意識は混濁した。死ぬ前日、家人が北明の枕元に新聞を何気なく置いた時、北明の手がつと動いて新聞をとりあげ、手でかざして読もうとした。もうその時には人と話をすることができないほど体力もなく、気力がなかったのだ。活字とともに生きてきた男の反射動作の中に、まだ自分は生きて仕事をしなければならないのだという執念がこもっていた。しかし、その時はおそかった。北明が息をひきとったのは一九四六年四月五日のことである。(文中、登場者の敬称を略しました非礼をお詫びいたします)

 

※この文章は三崎書房刊『えろちか』42号(1973年)新年大特集号「エロスの開拓者 梅原北明の仕事」に掲載された序文から転載いたしました。