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Vivian James―ゲーマーゲート(#GamerGate)のマスコットについて

Vivian James(ヴィヴィアン・ジェームス)は、#GamerGate(ゲーマーゲート)から派生したサブミーム

誕生の経緯

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8chan‘s Erika Polina & Vivian James & Gilda Mars

Vivian Jamesは、4chanの /v/(ビデオゲーム板)と、インディーゲーム開発者グループ・The Fine Young Capitalists(以下、TFYC)のコラボレーションによって考案されたキャラクター。ゲーマーゲートのマスコット的存在である。

ゲーマーゲート論争で生まれた姉妹キャラにErika PolinaGilda Marsどがいる。

2014年8月21日、4chanの/pol/(Politically Incorrect/政治的に正しくない板)の住民がchanボード(画像掲示板)全体のイメージを高めることを目的として、TFYCを支援するアイデアを思いついた。まもなく、オペレーションに/v/も参加することを決定。これは翌日、ゲームメディアのWebサイト「Attack on Gaming」でも取り上げられた。

4chanは、少なくともTFYCに23,500ドルの寄付を行い、同社のゲームにキャラクターを配置する権利を獲得した。さっそく/v/民はキャラクターデザインのアイデアブレインストーミングするため、複数のスレッドを作成する。これがVivian Jamesのアイデアとデザインにつながった。

(Vivian Jamesは典型的な4channerが好むタイプの女の子である。彼女はゲーマーゲート論争のマスコットとして使用され、その過程で数多くの二次創作物が作られた。彼女に著作者は存在せず、いわゆるパブリックドメインとなっている)

性格・容姿

Vivianは、/v/を擬人化したアバターと見なすことができる。これ以前に /a/(アニメ・まんが板)でも『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の根暗な女主人公が4ちゃん民に支持されたことがある。Vivianもまた非モテオタクという4ちゃんねらーのペルソナを体現したキャラクターとなった(反ゲーマーゲートコミュニティのゲーマーガジは彼女を「非常に多くのミソジニーを内面化している」と批判した)。

キャラクターとしての特徴は次の通りである。

  • ノンフェミのゲーマーで、不正とDweebs(偏屈なガリ勉)が嫌いゲーム業界に対する激しい怒りは父親(/v/)と比較すると乏しいが、お気に入りのゲーム界隈に蔓延している政治的な問題については公然と軽蔑している。

  • 毎日同じ服を着用している(洗う必要のないデニムジーンズと、シグネチャーグリーン&パープルスウェットのパーカー)。

  • 長いゲームセッションで一晩中起きてるため、常に寝不足で目にクマがある。

  • しかめっ面、そばかす、赤髪パーマのヘアスタイルにヘッドバンドがトレードマーク。またヘッドバンドには四つ葉のクローバー(4chanのロゴ)、またはメビウスの輪(8chanのロゴ)のいずれかを着用している。

  • 彼女の父親の名前は、そのまんま /v/ である。2014年9月に4chanでゲーマーゲートの話題が前管理人のMootによって禁止された後、/v/は眼帯を着用して描かれることが多くなった。これはMootとの戦いで /v/ が負傷したことを示している。なお、負傷したMootは4chanを手放し、2ちゃんねる創設者の西村ひろゆきが2代目管理人となった。

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Vivian and /V/

ファンアート

参考サイト

#GamerGateを知る

#GamerGateの詳細は以下のサイトを参考にされたい。

ゲーマーゲートの総括記事 - The New York Times

2014年大きな論争を巻き起こした#GamerGate関連騒動 - Kultur

【特集】今も余波続く「ゲーマーゲート騒動」―発端から現在までを見つめ直す | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

RONIN WORKS — ゲームから”美少女”が消える日 ~GamerGate参加者が語る欧米社会の今~ Part-3...

オルタナ右翼とゲーマーゲートの関係 – mhatta's mumbo jumbo

女性としてゲーム文化に生きるということ - i-D

Access Accepted 第440回:北米ゲーム業界を揺るがす“ゲーマーゲート”問題

ゲーマーゲートの発掘:インターネットの歴史における暗くて非常に泥だらけのページを振り返る

Gamergate - YouTube

https://4usoivrpy52lmc4mgn2h34cmfiltslesthr56yttv2pxudd3dapqciyd.onion.blue/404/res/235.html(8chanから派生したTor版サイト)

昭和時代というポリコレに反するMONDOな世界―2ちゃんねるのインターネット老人会から

犯罪を越える娯楽があった。死ぬより多く生まれていた。貧困を覆い尽くす発展があった。過去より未来を見て生きていた。(名無しさん)

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1972年4月23日、墨田区東武鉄道亀戸線春闘の賃上げ要求で24時間ストに突入したが、好奇心あふれる子どもはどこでもすぐ遊び場にしてしまう。(共同)

リンク

【調査】今では考えられない昭和の常識「運動中に水を飲んではいけない」「電車のトイレは線路上に垂れ流し」「土曜日は半ドン」★14

ai.2ch.sc

trend-at-tv.com

newskenm.blog.fc2.com

kougasetumei.hatenablog.com

よろず

  • 電信柱が木でできてた
  • 昭和のお祭りには「見世物小屋」と「ひよこ売り」は定番だった。
  • お年玉は、500円札とか100円札だった
  • 医者がタバコ吸いながら診察してた
  • 盆踊りで太鼓敲いてるのは、近所のやくざばかりだった。
  • 待ち合わせに目印の一つに公衆電話の色があった。
  • 家の玄関の鍵や窓を開けて眠っても大丈夫だった
  • 真冬でも男の子供は全員半ズボンだった
  • ブレザーにネクタイ、半ズボンが小学生の男の子の晴れ着
  • バスの車掌は女で、でっかいがま口みたいなバッグから切符取り出して売ったりはさみいれたりしてたけど、全然ころびもせず器用なものだったな。
  • コーラの500ml瓶の自販機あったよね 自力で引っこ抜くやつ
  • 石焼き芋屋は見なくなったなあ おっちゃんが雪国から冬の間だけ出稼ぎに来てるって言ってた
  • よくパチンコ屋のネオン看板のパだけ消えててチンコになってた。
  • トイレの出口に吊るした水タンク(下の金属触ると水が出る)
  • 普通に立ちションや野グソしてるおっさんが多かった
  • ズボンのチャックのことを社会の窓なんて言ってたな
  • デパートの屋上には遊園地の遊具があった。 あと、デパートには必ずアドバルーンがあった。
  • コカコーラの自動販売機は瓶売りで横に飲んだ瓶を返す瓶入れが斜めに置かれてた。貧乏人の俺は横の噴水式始動販売機でチクロ入りのオレンジジュースを飲んでた。
  • ジュースが粉末だった。 渡辺のジュースの素です。もう一杯というコマーシャルがあった。 いつも、舌をオレンジ色に染めながら舐めていたのを思い出す。
  • 正月明けは商店街のクジ引きがあった。 今では、シャッター街どころか更地か駐車場かコンビニになってる
  • 雑誌に文通コーナーとかあって男も女も本名と住所を普通に晒してた。; イタズラで人の名前で出した奴も結構いたそうな 特に異性のペンフレンド募集コーナー
  • 「私の恥ずかしい写真差し上げます」切手千円分送ったら、オール3みたいな感じの通信簿の写真が届いた
  • 電電公社・専売公社・山一證券国鉄営団地下鉄東京都立大学
  • テレビだけでなく洗濯機も蹴ったり揺らしたりしてると たまに直ったことあった
  • 土曜日は半ドンだけど、それほど忙しくない普通のサラリーマンのお父さんは 平日夜7時にはもうお茶の間でくつろいでたからね。 で、ビール片手に夕食でテレビの巨人戦中継。 今は夜7時に帰宅できないほどみんな残業してんだから、 そりゃー野球の視聴率落ちるわ。
  • 子供は日没までに家に帰る。 日没後、外出していいのは、 祭りと花火と初詣の時だけ。 誰に言われるでもなく、それがあたりまえだった。 てか、今もそうあるべき。
  • 神田川の世界観がまんまだったな
  • みんな色々と今より適当でおおざっぱで、確かにイキイキしてたわ。人情があったとかは分からん。

 

学校編

  • 学校に遊び道具を持って行ってた。 メンコ、ヨーヨー、ヌンチャク、ルービックキューブ他・・・休み時間に遊んでた、今は絶対無理だろ! へたするとナイフも、持ち歩いてた。
  • >>中学の時ナイフや警棒持ってる奴結構いたけど、刺したりする奴はいなかった
  • 僕が小学校の低学年の頃は給食の牛乳はまだ瓶だった。給食当番のときは、その重たい牛乳瓶のケースを抱えて、両腕をおもっいきり伸ばした状態で教室まで必死に運んだ記憶がある。途中でケースを落としてしまい、何本かの瓶が割れてしまって、泣きながら担任の先生の謝っている女の子とかもいたな。ああいう重労働は今もやらせているのだろうか?
  • センコーの気に食わん連中いたら、授業中にも拘らず片っ端から、殴る、しばく、蹴る。キチで叫ぶ。脅す。日常茶飯事
  • 小学校で色盲の検査があった。色弱で引っかかり、親を呼ばれて怒られた。どうしろってんだ。
  • 昭和で印象的なのは、まだ小学校も低学年だったけど、教師からの半端ない体罰?だな。臨時教師が3年生に対して両手でこめかみグリグリしまくり。耳たぶ引っ張って耳内でブチブチと音がした。黒板下のチョーク入れを頭からぶっかけた。
  • 女教師が2年生に対して手をつかまれてハサミ持って指切るよ!とか、5年生時に100kg超えの巨漢デブ男教師が、体育座りしてた俺の背後から脳天強烈ゲンコツ! 生まれて初めて目から星が出てパニクったわ。
  • 昔の教師は怒りと憎しみの憎悪を小学生対してもストレートに体罰としてぶつけてたな 。教師の教育レベルは間違いなく低かった。今も昔も変わらないのは男教師は左翼系以外全員ロリコン。小中高とも男教師は職員室でカワイイ子いました?って会話してるの聞いた。
  • 学校で道徳の時間があって「にんげん」と言う本で勉強させられた。 今思えばあの本の半分くらいは嘘っぱちだな
  • 昔は女性が差別されていたって言う人がいるが、昭和の昔から、小学校、中学校、高校と、クラス委員長はずっと女で、小学校の頃からクラスの女はみんな強くて勝ち気だった。
  • >>高校3年の理系クラス。女が過半数。理系の女が少なかったから、1クラスにまとめた結果がそれ。俺は男としてそのクラスに入った。やっかみ半分、同情半分。クラスメートの女は押しの強い、快活おてんばタイプが多くて圧倒されていたわorz でも根は善人だったと思う。
  • 土曜日の半ドンは結構すきだったな。低学年だったけど、集団下校で校庭に1000人以上の児童がいて、軍隊みたいに班で出発していくのが楽しかった 。
  • 小学生は真冬でも半ズボンだった。小6のとき健康優良児ってのがあって、年中ランニングシャツと半ズボンの奴が選ばれてた。
  • 夏休みの終わりごろに「クロんぼ大会」があり、日焼けを競い、テレビのニュースになった。今じゃ差別や皮膚がんの問題でありえない。
  • 病院ではアルミのコップが水道の蛇口にチェーンでつながっていた。小学生時代は軍人あがりの教師がいてイタズラがばれるたびに「歯~くいしばれ~」と強烈なビンタをもらってた。毎日のように発令される光化学スモッグ注意報のなか、みんなで夢中になって遊んでたな。
  • 校庭の水道は死ぬほどうまかったけど、 誰々が口つけて飲んだ場所とかで飲むと、 菌の付け合いが始まった。

性の話

  • 昔はエロ本がよく捨ててあり、それを発掘しにいくのがほの暗い愉しみだった。今は紙媒体すら買うやついねーだろーな
  • ビニ本を深夜自動販売機でこっそり買ったのをはっきりと覚えている
  • 昭和の時代は普通におっぱいとか乳首とか乳輪とかでてたし。だれだだめだと言ったのは。
  • 成人映画の看板もエグかった。あとあれだ、エロビデオなんかのピンクチラシを勝手に一般住宅にばらまくのとかあったw
  • それいえば都内の公衆電話なんかすごかったよな。テレクラやダイヤルQ2のエロチラシでwww これは90年代半ばまですごかった
  • 私が小学三年か四年生頃かな。近所のおじちゃんが「○子ちゃん、おっぱいがとんがってきたね」って言って、シャツの上から乳首触った。当時(昭和35年ころかな)の女の子は胸がふくらみ始めると、どこでもおじさんにやられた。今じゃ考えられないこと。
  • 女がセクハラに寛容だったなあ。小学生とかでも今よりエロい事してたと思う。
  • おおらかだったな
  • 軽いのぞきや痴漢程度じゃ逮捕すらなかったし、警察官ですら普通に飲酒運転しまくってた。
  • テレビで強姦ものドラマ、おっぱい丸出し、ショッキング映像放送など、今ではありえないくらい放送基準がゆるかった
  • お立ち台で女の子がミニスカでパンツ見せまくってた。TVもおっぱい出しまくってた。エロに寛容な世の中じゃないと、明るい雰囲気にはなれないよな。

くさい話―東京もこんなもんだった

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トイレット博士』第4巻「黄害列車の巻」。クソをまき散らす列車の話は圧巻。
  • 表通り以外は未舗装で、雨上がりには水たまりができてドロドロになっていた。 道端にコンクリート製のゴミ貯めがあって、生ごみはそこに放り込んで、時々リヤカーで回収に来ていた。 夏なんか臭くてたまらん。
  • 下水がないからトイレはすべてポットン式。定期的にバキュームカー(死語)が来て吸い上げていく。 これも臭くてたまらん。
  • 列車の進行方向に向かってトイレから後三番目の窓に撒き散らされた小便が飛んでくるとか言われてたぞ(汗) だから絶対に窓を開けるなって。引用者注:かつて走行中の電車のトイレは線路上に垂れ流しだった
  • 踏み切りまちのときに霧を浴びたのは 気のせいじゃなかったのか。キタネー! 猛暑日にはとりあえずクールダウンになるから、知らない人には一時の涼感だったw
  • アンモニアは冷媒になるくらいに潜熱が大きいから、水より清涼感いいだろうなww 電車の鉄橋下で遊んでると、紙とブツが降って来たよ。
  • 駅で停車中の電車はトイレ使用禁止なんだが、それでも強引にトイレ使うやつがいて、電車の下からウンコがボトンと線路上に落ちるのが反対側のホームから見えるんだ。最後にケツをふいた紙が落ちてくる。電車が走り去った後の騒ぎを見たかったが、俺の待ってる電車が来たから、その後の様子はわからない。

テレビの話

  • マスコミがえぐかったな。ビート君も暴れちゃったし、岡田有希子は晒されちゃったし、御巣鷹も一部映してたな。芸能レポーターも○○さんと肉体関係があっんですか、なんて今の常識ならぶっ飛んだこと聞いてきたし; 「ままー、にくたいかんけいってなぁに?」 って悪気なくきいちゃった昭和の小学2年生

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  • 「ザ・ガードマン」で、嫌がる女を無理やり押し倒してオッパイ揉むと、 その内嫌がらずに無抵抗になるのを見て、理解不能だった。「口じゃ嫌がってても体は正直だな」が常套句だったり。テレビが子供に悪影響及ぼすってんなら昔のテレビ番組のほうが よっぽど危なかったよな 
  • >>「やらせろよ減るもんじゃあるまいし」 っていうのもあったな
  • 昼メロがかなりエロかった 「犯される」とかタイトルからしてヤバイのまであったな
  • 年末年始エマニエル婦人放送してたね
  • 『驚異の世界』や『知られざる世界』などのドキュメンタリー番組
  • テレビのチャンネルを「回す」という言われかたをしていた。 類例:電話の番号を「回す」、計算機を「回す」 電灯を「灯す」、電気を付ける、蛇口を「ひねる」、。。。
  • ラジカセでテレビ録音しようとするたびに かあちゃん「ごはんよー!」 あの時死ねって言ってごめんよ。
  • カラーテレビが買えない人は、色つきフィルターをつけて我慢。 小さなブラウンカンテレビの画面を大きくするレンズフィルタートランジスの数でラジオの音質を競っていた。あのころ電話のない家庭の連絡簿には(呼)の文字。BCLでバチカン放送。まだまだあるな。
  • アニメの劇中で、当時の流行歌が流れてた 特に東京ムービー系に多かった印象。天才バカボンで「ハチのムサシは死んだのさ」 ルパン三世で「お祭りの夜」 あと新オバQで、おはよう子供ショーの番組内特撮「レッドマン」の主題歌が使われてた
  • 子供の頃の夏休みの再放送の定番(鉄板)と言えば、『ハクション大魔王』『ろぼっ子ビートン』『さるとびエッちゃん』やったかなー?またー?と言いながら結局見てたww
  • 学校が早く終わった時の黄金コンボ 時代劇アワー 2時のロードショー/3時のあなた&フジテレビのアニメ&日本テレビのアニメ&テレビ東京のアニメ
  • 土曜日のテレビ
    18:00 料理天国
    18:30 JNNニュースコープ
    18:50 ヤンボーマーボー天気予報
    19:00 まんが日本昔話
    19:30 クイズダービー
    20:00 8時だョ!全員集合
    21:00 Gメン75  
  • 40年前、火曜夜7時は子供達の間で「サザエさん再放送」派と「ろぼっ子ビートン」派に分かれていた。シャープ「スターアクション」派は少数だった。オレはサザエさん再放送派で、ろぼっ子ビートンは再放送で見た。ガキオヤジという奇怪なキャラがいて、声が永井一郎だったので妙にドスが効いてたな。
  • 昭和時代に放映されてたヒミツのアッコちゃん 放送禁止用語の連発だった。あんなキチガイ放っといて行きましょ。 なんか言いなさいよアンタ唖者 このーツンボーバカ~とか平気で言ってた。その代わり、金の卵とか受験勉強し過ぎで死んだ人の話とか、社会派のネタも満載 あとマジに人に生き死にに関わる話も多い。大将が煙突登ろうとして梯子壊れて落ちそうになったり、少将がかくれんぼで捨てられた冷蔵庫に隠れてたら、回収業者に持って行かれたり
  • 子供がテレビを見てもいいのは夜の10時まで 大晦日は特別に、紅白が終わるまで見ても良かった。11PMが見れるのは、家族全員が寝静まってから
  • 局は忘れたが 奇人変人。土井まさるが司会して出演者はアホな一芸を披露。合格ライン行けば ギターがもらえる。あと、テレビ三面記事だっけ? 変態系の事件を面白おかしくリポートしてる番組があった。ゴキブリ食った奴が死んだって噂になった。

夏の暑さの違い

  • 親戚のおっさんが言ってたんだが30~40年前は今ほど夏が暑くなくて、 30℃超えたら今日は暑いな~っていう気候だったとか。 今は水飲むなとかしたら冗談抜きで死ぬレベルで暑いって言ってた。
  • 静岡での話なんだが、昔は今より夏が涼しかったのか?関東なら30度前半で凄い暑さだった。 今の方が暑い。
  • 今ほど暑くはなかったのは確かだが、それでもエアコンのない教室は暑くて辛かった。 前の席の女子学生のブラウスが汗で濡れてブラがくっきり見えて。実際に東京でも35℃超えなんて年に1、2回あるかないかだったし、一度もない年もあった。 今は夏となると連日35℃超えなんて状況だからな。
  • 体感できるほど今よりも涼しかった。全国でも最も気候が穏やかな静岡でこれだから盆地はなおさら。昔は夕涼みしたらクーラーなどいらなかったが、今の夕方の気温は昔の日中最高気温を超えてるからな。
  • 昭和40年代の小学生の頃だが、自宅でクーラーのスイッチを入れた記憶がない 。クーラー効いているのはデパートの中くらいのもんだった;実家に帰った時、昭和53年の漫画雑誌が残っていたので見てみたんだが、 その中に新聞記事の見出しとして「東京32度、猛烈な暑さ」という言葉が出てきた。 つまりは、そういう事だったんだろう。 実際、昔の暑さならエアコンなしでもどうにか過ごせたが、今の暑さじゃ無理だしね。
  • 北海道だが何故だか高校になると夏中ずっと学ランを脱がない奴が腐るほどいた。北海道とはいえさすがに今は無理だろうな;
  • 昔はクーラーなんて使ってなかったから暑さ耐性はあったな。だから夕方とかなると涼しく感じた。

まとめ

  • 学校も職場も社会も、権利は勝ち取るものって意識が強かった。権利を行使する連中はみんなジャイアンみたいだった。ハラスメントで秩序を維持していた土人文化だな。今はその反動からかあらゆることがマニュアル化してネットで即座に事案を共有するようになって、良くも悪くも世間のガイドラインから外れたことをすると炎上して軌道修正が図られる窮屈で規則正しい社会になったね
  • 最高学府東大がゲバ棒持った暴徒に占拠される昭和
  • 給食に鯨が出ていた
  • 自転車にスピードメーターが付いてて、皆で速度を競った
  • コロコロ&ジャンプに代わる瞬間が高学年になる瞬間だった
  • 待ち合わせをしても会えないことが多かった。テレビのチャンネルは回してた。リモコンも無かった。
  • テレビとか映画は昔の方が狂ってて面白かったな
  • 女は夜十時以降の深夜労働禁止。たまに摘発されると会社の社長が堂々と反論し、それが新聞記事になって出たw
  • 聞いた話だが昭和の金持ちは田舎で幼い少女を何人も買って 、その娘を家政婦が管理してたからな。田舎の金持ちも幼い少女何人も買って家政婦と同居させて管理してたからな。今でもあるのかは知らん。
  • 今に比べたら犯罪率格段に高いのに防犯意識なんて皆無の時代だったな
  • 小学生の時は近所の一人暮らしの物書きのおっさんちに勝手に上がり込んでたな
  • 醤油が切れたとか行って隣に貰いに行くのが普通だった。近所から晩のおかずが普通に回ってきた(餃子作ったから食べて~みたいな)。ただし夜中に突然「兄ちゃん何しとるん?」って隣のオバちゃんに窓を開けられる。寝てるかオナニーしてるに決まってるだろボケ。
  • 昭和はな、幼女におはようって声かけても通報されなかったんだぞ。世界は変わってしまった…
  • 今の時代は「便利すぎ」の欠点を感じる。必ずしも必要とは思えない便利さに気をとられ、本当に大事なモノを得る事を忘れてしまっている様に思う。
  • パソコン一つでほぼ全てのことをできるのだから外も内輪で群れるのみで他との繋がりもいらないわな
  • 規制が多く、挑戦者が少ない今日の日本。変な根性論が無くなりつつあるのは結構だけど、今はちょっと極端な気も。
  • 良くも悪くもずぼらだった。良い意味では、今ほど揚げ足取りや、隙に付け込むことは少なかった。悪い意味では、間違ってても一直線で突っ走る感じ。少数意見は抹殺。昭和・平成で区切るより転換はバブル前後かな。
  • イジメは今ほど陰湿じゃなかったしイジメがあったら先生がちゃんと介入してたな。TVゲームなんて無いし外で集団で遊ぶのが普通だったから子供の時からコミュ力が鍛えられていたと思う。後、今じゃ考えられない危険な遊びしてた。崖登ったり飛び降りたり公園の遊具の限界に挑戦したり。
  • 陰湿さは今の非じゃない。学校は体罰上等。下手なことすれば町内で村八分。子供は世間体のために勉強させられる。警察が今以上にクズ。公務員の舐めた態度。銀行員同士で世間話しながら客の応対。人情なんてないから
  • 昔のチンピラは殴られて警察に泣きついたりしなかった。 今のいきがった若い子は人に喧嘩売るような言動しといてこっちがキレると速攻謝ったり逃げたりするからよく分からない。 喧嘩する気ないならそういうジェスチャーをしないくれ。 オッサン疲れるわ。 そういう面だけは昔に戻りたい
  • 「こらゼンジ! また喧嘩してきたっちゃろ! 母ちゃんなよそん人に会うたんびに ほんなこて恥ずかしか思いばっかしとーとよ ほら、はよ断りば言うてきんしゃい、ほれ たまには~喧嘩に~負~けてこい♪」
  • なんかこのスレ読んでると、こりゃあ昭和本とか読んだ昭和マニアのガキには書けない書き込みだぜw  すげえなあ、昭和ネタ。
  • みんな未来に明るい夢を持ってたから、ブレードランナーみたいな暗い未来観の映画は理解されずに、速攻で上映打ち切りになったんだよね。
  • 犯罪を越える娯楽があった。死ぬより多く生まれていた。貧困を覆い尽くす発展があった。過去より未来を見て生きていた。

 

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丸宝行晴「俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと」大里俊晴追悼文集『役立たずの彼方に』から

俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと

丸宝行晴

 

仏様への追悼なのですが、何をどう書こうか、迷いました。お父様はこれを読むだろうし、九十歳になっても矍鑠(かくしゃく)としてらっしゃるから、彼がフェンシング部だった新潟高校時代ほか、生前の仏様の数かずの悪事(?)を書くわけにもいかない。

闘病中のことは、あらかた葬式でお話させていただきました。大学での素晴らしい業績を書くことは、先生方、学生、関係者にお願いしたい。プライベートな報告は、仏様の墓前にさせていただきます。

ということで、思いつくままに。命日がいつなのか、戒名は何か、今年(または来年)の十一月に覚えている人は少なかろう。でも、それは、大里が望んでいたことだよね? 大丈夫。今日も時は流れています。合掌。

 

◇一九八〇年頃

───どうして肉を食わないかって? 牛や鶏、豚を食べるなら、どうして人肉を食べないのか? ということになる。宗教的理由ではない。菜食主義ではない。菜食趣味だ。菜食者は気持ちがマイルドだって? 間違いだ。ヒトラーは菜食だった。

 

肝臓が弱り、死ぬか肉を食うか二択だ、と友人の阿部裕輔、青木裕太郎両医師に再三肉食を勧められたが、「わかった。食べるよ」と答えたものの、結局食べなかった。

 

───俺が出会い、買った本やレコードは、実は図書館とか、どこかに預けてあれば(俺でなくとも誰かが持っていれば)別に未練はないんだ。

 

◇一九九二年

丸宝、一生のお願いがある。何もいわずに、この原稿(『ガセネタの荒野』)を本にしてくれ。頼む。一円の印税もお金も受け取る気はない。ただし、一文字も変えずに出版してくれ。それ以外はすべてまかせる。古本屋で一〇〇円で売っている本のようなものであってほしい。これを出さないと、俺はこれから生きていけないのだ。パリからも帰れないのだ。

パリから郵送で届いた原稿を読んだ私は、「帰ってきて何が起こっても、覚悟はできて いるのか?」と当時高価だった国際電話で尋ねた。彼は静かに答えた。「できている」。余談だが、洋泉社の編集者は大里の承諾を得て、一文字だけ、内容、人名を変えた。また、『ガセネタの荒野』の表紙は当初、私は当時吉祥寺のライブハウスに来ていた、大竹伸郎さんにお願いする予定だった。

 

───フランスから帰って、何が嬉しかったかというと、ズズズ、と音をたててそばが食えることだな。パリでは決して許されない。成田に着いたら空港ですぐにそば屋を探した。帰国が決まって、金もなかったし、いくらか稼げるかやってみたかったので、パリのメトロ車内で、大道芸よろしくギターの弾き語りをした。ブリジット・フォンテーヌとか歌っても、誰も全然興味を示さない。『枯葉』とか名曲シャンリン歌うとみんな、黄色い猿がフランス語で歌ってるよ、てな感じで結構お金もらえた。ポンピドーセンターでも歌った。五日間毎日ずっと歌って三万円くらいだったかな?

 

◇一九九七年末

───俺が横浜国大の助教授になる。びっくりだろ?

 

◇二〇〇八年六月(すぐに来てくれないかと言われ)

───俺はもう長くない。何もしなければ二、三ヶ月と言われた。手遅れらしい。これは確実だ。手術はするが......。

こんなロックな生き方をしてきたのだから、こういう死に方は覚悟していた。痛いのはいやだが、怖くはない。後悔もしていない。最後の最後まで、人間的に生きたい。

そこで頼みがある。未帆ちゃんには一昨日、弟には昨日話した。ただ、主治医には父も母も死んでしまった、家族は弟しかいない、と伝えてある。だって、母が亡くなってから病気がちの親父に、入院、手術でもしもの時に病院から電話でも行こうものなら、ショックでそのまま死んでしまいかねない。だから絶対に親父にはいわないでくれ。もうすぐ「AA」のイベントで新潟に帰るから、元気なフリを親父に見せる。このことは俺がやる。それから、これとあれの処理を頼む。これはこうして、あれはああしてくれ。これはおまえに預ける。弟はどうしようもない奴だが、親父の面倒を見てもらわなければいけない。俺が死んだら、弟の就職相談にも乗ってやってくれ。

 

◇二〇〇八年十月(かなり体調悪し。友人たちは最後のことを相談した)

───恩師の墓参りに、できればパリに行けるといいが、それは講義が一段落した二月か三月にしたい。本とレコードも買いたい。体調的にどうしても無理なら、行きたいが諦める。

 

十一月の連休か年末年始に、友人数人がカンパして往復五日間くらいの渡航の計画を立てた。友人医師たちは越年は無理だ、というほどかなり状態が悪かったので、パリでの緊急医療体制も話し合っていた矢先、大里は大量吐血して入院。それ以来、パリ行きは断念せざるをえなくなった。大里もそのことを話さなくなった。

 

◇二〇〇九年四月(このころ新薬で一時奇跡的な回復)

───二月の誕生日が来るなんて、しかも4月まで生きてこんな綺麗な桜を見られるとは思わなかったな。奇跡だな。まだまだがんばるよ。可能性があって、しかもできることは何でもする。あきらめない。肉? うーん。考えてみる。

(本を売ったり、整理して、部屋の中に介護スペースを作れ、という助言に)どこにどんな本があるか、俺しかわからない。講義にも使う。だから整理できない。

 

◇二〇〇九年九月

───(友人たちの、講義続行、イベント出演等は自殺行為だ。もうやめたほうがいい。大学も休職しろ、との助言に)大丈夫だ、続ける。俺が行かないと…。

 

◇二〇〇九年十月

───わかった、わかった、こうなりゃ、肉食うよ。裕輔がそこまでいうなら。(死後に散骨とか、そういうこと考えるか?)いや、別に。

 

◇二〇〇九年十一月十六日二十二時三十分(危篤。ほぼ意識もうろう状態で)

───「ガセネタ」はすごいバンドだった。あんなバンド、ない。

 

◇二〇〇九年十一月十六日二十二時三十一分

───ジミ・ヘンはここで死なない。

 

皆が翌朝までもたないだろう、と予想した。早朝、弟が電話して親父さんも急遽上京し、午後大里と親子の最後の会話をした。私はそれだけは本当に良かったと安堵した。

夜、弟に頼まれて十五分ほどだけだが、病室で大里と二人だけの時間を過ごした。私はもうひとつ、闘病中の一年半どうしても聞いておきたかった(ここには書けない最後の)質問をした。大里はかすれる声を振り絞って答えた。

それがお別れだった。

 

 

エンディング。

終わること。

終わり続けること。

そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることが出来なかった。

エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。

僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。

だが、終わることが出来なかった。

終わりはやってこなかった。

どうやって終わるのだろう。

どうやったら終わることが出来るのだろう。

僕は、いつもそう思いながら演奏した。

エンディング。

僕らは、いつまでも終わり続けていた。

 

— 大里俊晴『ガセネタの荒野』

 

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大里俊晴(一九五八年二月五日~二〇〇九年十一月十七日)

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『役立たずの彼方に』オフィスOsato・2010年6月1日

 

亀和田武「劇画アリス総括」『劇画アリス』通巻22号/アリス出版

総括

亀和田武

すでに幾つかの雑誌などで取り上げられたりもしたので承知の読者もいるかも知れないが───私の編集する『劇画アリス』は前号で終わった。本来ならば、前号のうちに、〈総括〉文書の呈示とまではいかなくとも、“編集長が変わります!”といったたぐいのお知らせぐらいは載せるのが、毎月この雑誌を買い、読んでくれている読者への義務ではあっただろう。

それをしなかったのは、ひとえに私の怠惰によるもので、この事に関しては弁解の余地はない。だが、あえてその間の事情を説明するなら以下の如くである。

前々号の校正が終わった時点で、私が『劇画アリス』の編集から手をひくことが決まった。そして、次の号の企画・題割りに関しては、従来通り私が責任を持ち、実際的な作業に関しては、私の後を引き継ぐ若い諸君=迷宮'79のメンバーが担うこととなった。この時点で、私は表2の編集長メッセージでその旨を語るつもりであった。しかし、時間が経過するに従って、私が読者に向けて語ろうとすることは徐々に膨らんでいった。とても、従来までの表2・編集長メッセージでは書き尽しせない程の量になることが明らかだった。

今までのはいってみれば、ごくごく簡潔なアッピールである。しかし、最後の“編集長アッピール”ならば、私は、それまで私の内に溜ってきたく劇画〉に対するさまざまな思いを吐き出したいと思った───それも、感情的な言葉を書きつらねる式のものではなく、一応整理された形でもって、しかも『劇画アリス』創刊から現在に至る経過を説きおこしながらの、〈総括〉文書的性格を有したものにしたいというふうに───。そして、そう思っているうちに時間が経ち、締め切りが迫り、考えはまとまらず……結局はヘッドコピーの「我、遠方より来たりて、遠方に行かん」と、出稿日の日に撮った3点のポラロイド写真でお茶を濁すことになった。

大して重要ではないが、あえて私の手から編集が離れた今になって、表2を使って〈総括〉を発表するに至った理由というのは、以上のようなものである。

さて、先程も書いたように、今、私は多くのことを語ろうと思っている。何人かの読者は気付いていたかもしれないが、私の表2における“メッセージ”を始めとする自分の雑誌上での発言というのは、実に控え目、かつストイックなものであった。そして、幾つかの雑誌に発表された私の〈劇画評論〉もその延長上にあった。

表2に編集長自らが、しかも上半身裸の写真入りで登場し、発言するという、そのショッキングな現象面だけが宣伝され、何やら私は自己顕示欲の塊の如くに思われもし、また、あえて私自身もそれを否定しないということて、劇画界周辺ではそれは定説にまでなってしまったが、事実は逆である。

別に、これは私の弁解でも何でもない。私は、『劇画アリス』をやめた少し後に、ある雑誌の身辺雑誌風エッセイで、現在の心境はといえば、案外アッサリと、かつ担々としたものであると書いた。また、次のようにも書いた私は、この雑誌しかないと思い込むほど純情な世間知らずでもなければ、また、たかが仕事じゃないかという具合いに自分の仕事を割り切っていくほどスレッカラシでもなかった、と。

要するに、そういうことなのだ。私は、クソでもない作品を載っけながら、編集後記やコラム・ページで、それと裏腹なことを舌足らずの文章で書きつづる“アノ手”の雑誌が大嫌いだった。そうした、語っていることと、現実のギャップが、その人間をひどくみすぼらしく、下品なものに見せているというそのことに気付きもしない連中が嫌で嫌で仕様がなかった。

そして、自分の脆弱な観念を投影する対象としてのみ〈劇画〉が存在するかのような、大方の〈劇画評論〉の在り方が嫌いだった。

私は、そうした一切の甘ったれた傾向を排そうと決意していた。私が、どのような雑誌にも、かたくなまでに「劇画アリス編集長」という肩書きを付けて臨んだのも、その表れであった。

私は、かなり本気で、自分をいわゆる〈三流劇画〉のスポークスマンであると自己規定していたのだ。それは、この『劇画アリス』に関しても同様だった。ある時期から、私は、この雑誌を〈三流劇画〉ムーヴメントの“機関誌”であると規定していた。

そんなふうに書くと、何やら悲愴に聞こえるかもしれないが、そんなことはなかった。
毎号、毎号、手応えは確実にあったから、その感触に比べたら、たかが自分の雑誌、たかが自分の劇画への想いに執着するのは卑少なことに思えて仕方がなかった。

私と、私の仲間が今なそうとしていることが、今までの脳天気な、あるいは陰湿な〈劇画〉理解、〈劇画〉への取り組み方を根底から覆えしているという確信があったから、私は必要以上に自己に抱泥せずに済んだのだ。効果を見据えた言動以外は一切しない、それが見込めないときには沈黙する───今、思い返してみても、私は自分のストイックな感情に忠実であったと思う。

それにしては───それにしては、この〈総括〉は、自分を語り過ぎているのではないか。───私もそう思う。しかし、今のところ、私は、私の関わってきた雑誌と、その雑誌が中心になって惹き起こしたムーヴメントの昂揚とを適切に解明し、読者に興味深く読んでもらえる方法を他に知らない。

私は、およそ“使命感”などという言葉とは無縁のような男ではあるが、少なからず関わりを持ってきた〈劇画〉に関しては、それに似た感情を持っている。そして、私が、自分のなしてきたことを当の雑誌で表現することは自分に課せられた“義務”だと考えている。

だから私は、これから、『劇画アリス』と、それが担ったムーヴメントについて・多くのことを語らなくてはならない。

 
承前

劇画アリスの創刊は、77年の9月8日である。昨日、編集部から持って来て貰った劇画アリスのバックナンバーを眺めながら、これを書いているところであるが、創刊号の体裁は、ザッと次のようなものであった。表紙(表1)が、『増刊SOUPX』、裏表紙が(私の手許にあるバックナンバーは、裏表紙が千切れているため、記憶に頼るしかないのだが)確か『劇画アリス』であった。

 表1には、『ヌードと劇画』という、かなり大きなコピーも入っている。表紙を描いたのは、辰己四郎で、彼の絵が、左右逆版にされて、裏表紙にも使われていたはずだ。この創刊号の特徴は何といっても、先程の謳い文句にもあるように、“ヌードと劇画”が一緒に入っていることであり、表1には、辰己四郎描くイラストのバックに、3点の写真が収まっている。定価も三百円である。

題割り的にいえば、最初の4ページが、カラー・ページで、次に16ページ、モノクロが
る。そして、活版ページがページ続く。それが終わると、また巻末に、モノクロが16ページ、カラーが4ページである。そして、この、カラー8ページ、モノクロのページにヌード写真が入っている。例の表2はどうなっているかというと、私自身も驚いたのだが、すでにメッセージ広告になっているのである。どこかから出来合いの写真を流用して使ったのだろう、こちらを見据えた黒人の写真が1ページ大に拡大されて、そこに自動販売機でなぜ悪い!”というコピーが横書きで大きく入っている。

劇画の方の巻頭は、羽中ルイ『地獄の季節』、23ページの作品である。続いて、高信太郎のギャグが4ページ。その他の作品も順を追って列挙していくと次のようになる。あがた有為『魔の匂い』22ページ、飯田耕一郎『ちぎれた指』、玄海つとむ『獲物を漁る人妻』(またしても、この2作の間にまたがる数ページが紛失しているため、ページ数がわからないのだ)、大谷かおる『落のつっぱり姉ちゃん』18ページ、宍倉幸雄のギャグ4ページ、そして、最後が石原はるひこ『蝶』28ページ───これで全部である。

意味なく、体裁、内容を列挙した訳ではない。これらの、体裁、メンバーから、劇画アリスという雑誌が、発刊の当初から持っていた、あるいは持たされざるを得なかったある性格が浮かび上がってくるのだ。

私事に渉るが、私がアリス出版に入社したのは、その前年の76年の7月である。それまで私は、檸檬社という、やはり、実話、ヌード、エロ漫画誌を刊行している出版社に在籍していた。大学を卒業した年───74年の9月からだから、2年弱余りである。

この手の零細出版社の例に漏れず、4人で3冊の雑誌を編集する、といった形態がとられていたが、私が携わっていた雑誌の一つが、『漫画大快楽』という雑誌であった。この雑誌は、創刊から退社するまで編集スタッフとして関わった。途中で、『漫画バンバン』という雑誌も併行して出したが、4号だか5号でポシャッた。

私が、檸檬社から、アリス出版に移籍する際に、周囲の友人たちが、親切に忠告してくれたのは、「だって、キミ、あそこは自販機専門の雑誌社だよ。ああいうところに堕ちたら、もう二度と、マットウな編集者稼業は出来なくなるよ」というものだった。アリス出版は、当時は、編集者は私以外には、檸檬社で同僚だった社長のみ、他には事務の女のコが一人いるだけだった。現在は自動販売機に関連している雑誌社の数も多いが、その頃はアリと同じ販売ルートではLC企画があるのみだったし、他にも、千日堂出版、アップル社がるのみだった。出版文化の中でも、エロはその最底辺と言われてきたが、その中でも、自販機専門出版社はカーストの最底辺を形成していた。

入社してから、劇画アリスを創刊するまで、私が作り続けていたのは、現在600円で自販機で売られているヌード写真集だった。これは、実際、作りまくったといっていいだろう。その過程で、自動販売機台数の飛躍というデー夕を拠り所に、ヌード写真集以外の雑誌が企画される。その第一弾が、77年の初頭に刊行され、現在も続いている『ガール&ガール』と『SOUP・X』である。

それに続く第3弾が『劇画アリス』という訳である。企画の段階で、上司から出た発言は「とにかく、東日販を通している漫画誌にはないもの。自販機独自の漫画誌」というものであった。無論、エロも絶対に入れなくてはいけない───これは、当時の状況から考えれば言わずもがなであった。

こうした条件を満たそうとした苦肉の策が、定価600円の、ヌードと劇画を折衷した『劇画アリス』となったわけだ。結局、これは失敗ということになり、第2号からは、現在の劇画専門の体裁に落ち着くことになる訳だが、正直言って、創刊当時の私の心境は、決して明るいものではなかった。

すでに、漫画大快楽の編集を退いてから、一年余りのブランクが私にはあった。また、いちから劇画誌の発行を始めるのは、正直シンドイことだったし、この時点では、2号、3号が続いて出るということも確定していなかったのだ。(だから、創刊号と2号の間には、二ヵ月程のブランクがあったはずだ)劇画アリスの月刊化がハッキリ確定したのは、半年ぐらい経ってからのことではないだろうか。

私に劇画誌を出すようにという上司の好意は痛い程判ったが、有形無形の制約も私を憂鬱にさせた。私は、前の会社をやめた時点で、出来ることなら、職業と趣味は重ね合わせたくはない、劇画に関してはマニアのままでいたいという心境に傾斜していたのだと思う。実際、マニアにとって、不本意な形でもって、自分の趣味と職業を結びつけるのは怖ろしく辛いことなのだ。

気乗り薄ではあったが、私は企画作成と、原稿依頼を開始した。その結果が、先述のメンバーなのだが、結局は、前の編集部にいたときの人間関係が主になっている。しかし、その一年の間に、たとえば羽中ルイ能條純一は“売れっ子”になっており、羽中ルイは創刊号には御祝儀原稿をくれたが、その後は両者とも古原稿でお茶を濁すこととなった。

加えて、自動販売機専門誌ということでの、劇画家の方からの辞退も幾つかあった。
初期の劇画アリスは、そういったことに規定されて、そして私の劇画編集者としての流れからいえば、一種の“切れ目” “断続性”を余儀なくされていた。

そして、そのことが、結果的には、既成のルーティン化したエロ劇画編集とは異なる方向へと私を向かわせていくことになる。

第2号のメンバーは、安部慎一宮西計三羽中ルイ(ただし、古原稿)、飯田耕一郎玄海つとむ、あがた有為、じょうづかまさこ、森田じみい、清水おさむ(この人も、古原稿であった)、そして、ギャグが高信太郎高井研一郎という具合いだった。ちなみに、第2号の表2は、「本屋で買うよりも/自動販売機で買う方が/NOWだと思うのです。/僕たちは。/アリス出版」となっている───これは、友人のデザイナー、Hのアイデアだった。

怖らくこの段階(これに続く数号も含めて)では、後における劇画アリスの強烈な個性は未だ発見することはできない。控え目に言ってしまえば───飽くまでも控え目な語り方であって、傲慢なそれではない───担当編集者の趣味の良さが判る無難な劇画家のセレクト、あるいは、今まであるエロ劇画誌の中では一番マシな方じゃない、という形容に落ち着く、そして落ち着かざるを得ない種類の雑誌だったと思うのだ。表2のメッセージに、後の展開の萌芽が見えないこともないが、それも可能性の域は決して脱してはいない。

センスの良さといい、一風変わった感じといい───要するに、決して相対性の外には出ないものだったのだ。

しかし、そうした状況の中で、2号、3号と出し続けていくうちに、私に一種の覚悟といっては大げさだが、この雑誌を、何物かにしよう、してみせるといった決意が生まれてきていた。

私にとって最も頼りになる相談相手=劇画に関する名ブレーンである飯田耕一郎との深夜の長電話も再開されていた。私は飯田耕一郎に実に大くのものを負っている。単に、有望新入作家の指適、あるいは、自分の編集した最新号の劇画家たちの問題点の抽出といった次元にそれは留まらない。劇画界全体を視野にいれ、将来の展望までを射程に入れた劇画アリスの雑誌活動=私の劇画理解は、彼というブレーンの存在がなかったから、もっと独善的、あるいは自閉的になっていたことだろう。

が、そうして培ってきた、“劇画理解”が更に尖鋭なものとなり、また、誌面に反映していくというのに際して、二つの事件が触媒とも言える様な役割を果たすことになる。

私が『本の雑誌』に載せた文章をめぐっての、『漫画主義』同人との論争と、井上英樹の登場である。(次号に続く)



檸檬社の倒産と三流劇画ブームの終焉(COMIC BOX 1982年11・12月合併号)

フロント・ニュース②

檸檬社の倒産と三流劇画ブームの終焉

北新宿Y男

「我々は三流エロ劇画界のあしたのジョーである」と宣言した『劇画アリス』、高取英が編集長をしていた『エロジェニカ』の二誌と共に『御三家』と呼ばれた『大快楽』の檸檬社が倒産してしまった。明日はどっちだ?

▲大快楽最終号 ひとえに残念です

エロ劇画ブームから5年

「78年は、まさにわがエロ劇画陣営にとっては、〈エロ劇画・元年〉とてもいうべき大飛躍の一年だった。」と、亀和田武がブチあげてから三年余り、エロ劇画状況は、いかなる様相を呈しているであろうか?

ひとことで言ってしまうと、それは沈滞である。

ビニ本、ウラ本などの他のエロメディアのブーム、『ヤングジャンプ』にはじまる新しいタイプの青年劇画誌の登場、紙代等の値上げによる定価の引き上げなどが、エロ劇画誌の売上げをニブらせる要因としてはたらいたようだ。

思えば、『エロトピア』(ベストセラーズKK、ワニの本のKKベストセラーズの関連別会社)が、エロ劇画専門誌として、つまり、青年劇画誌の中にエロが掲載されているというのではなく、エロを始めっから看板に掲げて売り出し、数十万部を売ったというあたりから、エロ劇画ブームは始まった。それに、石井隆の一連の作品に対する一般的な評価の高まりがあった。

『エロトピア』のあとを追って出たいわゆる三流泡末劇画誌グループのうちの何誌かは、新人作家の積極的な起用などによって、エロ劇画における作品性の再確認というところではたらいていた。それから、三流劇画御三家抗争というとても面白いオマケまでついて、エロ劇画状況は今までになく活性化していたわけだったが……。

老舗、檸檬社倒産す

そんな中で、エロ劇画界、というよりも広い意味でのエロ本業界の老舗である檸檬社が倒産した。

檸檬社は、いま述べたエロ劇画、三流劇画ブームの中では、非常に重要な位置を占めていた。三流劇画の御三家といわれた、もっとも活のいいエロ劇画三誌、『大快楽』『エロジェニカ』『劇画アリス』のうち、『大快楽』の版元としてがんばっていたのである。ブームを先行した二誌、劇画誌として初めて発禁処分を受けた『エロジェニカ』、自販機本ながら安定した独自の購読層を築いた『劇画アリス』を追いながら、79年に入って、ひさうちみちお平口広美宮西計三など次々に新しい作家を投入していったあたりは迫力があった。作家全集号などもまめに作り、ひさうちみちおの『仮面の告白』などは幻のコレクターズ・アイテムと今ではなっている。

劇画誌だけではない雑誌

ところで、この檸檬社という出版社、三流劇画誌ばかりを作っていたというのではない。それどころか戦後のカストリ誌のドサクサ時代から、ずうっと一貫してエロのみを扱ってきたという、まことに由緒正しきエロ出版社なのだといわれている。この手の出版社としては、他に『あまとりあ』を出していたあまとりあ社というのがあって、そっちの方が有名だが、まあ、この2社に比べればセルフ出版(白夜書房)など、まだヨチヨチ歩きと、いうところである。

ではこの檸檬社、いままでどのようなものを出してきたか?その中で一等光るのは、『風俗奇譚』と『黒の手帖』の二誌だろう。

文献資料刊行会(?)として出した『風俗奇譚』は、一種のSM雑誌で、きわめてマニアックなエロスを追求していた。今日のようにどこの書店の店頭にもSM誌がズラリと並んでいる時代とは違うのである。『風俗奇譚』は、後に『SMファンタジア』と名前を変えたり、つい最近になっては復刊と称し、『漫画快楽王』増刊、『オール読切』増刊という形で出ていたが内容はほとんど変わってしまっていたようだ。

黒の手帖』の方は、天声出版の『血と薔薇』と『話の特集』の中間みたいな感じの本で、ブラックユーモア、ドラッグカルチャー、サディズムなど、まとまった特集で読ませていた。ライターも、今ながめてみると割と豪華で、白石かず、伊東守男マッド・アマノ三木卓須永朝彦、谷川晃一、植草甚一石子順造平岡正明荒木経惟別役実中田耕治など、かなりバラエティにとんでいたし、イラストの方では、杉浦茂を復活させ、鴨沢祐二、吉田光彦をデビューさせている他、赤瀬川原平佐伯俊男、宮トオル中村宏などが描いている。うすっぺらな本ながら、古本屋さんでは、必ず千円単位の値がついているという代物である。

 こういう、マニアックで奇妙な本を作るという体質は、不思議にも『エロジェニカ』を出していた海潮社、『劇画アリス』を出していたアリス出版にも共通していて、海潮社の方は、唐十郎編集の『月下の一群』はじめ、それこそ数えきれないくらい妙な雑誌を作っていたし、アリス出版の方も、『少女アリス』はじめ一味違ったエロ本作りには定評があって、今でも『モニカ』という、普通の肉体労働者のオッサンが買ったら、怒って引きちぎりそーな、とてもエロ本とはいえないエロ自販機本を秘かに出しているのだ(是非御一読を!)。

というようなわけで、エロ劇画界、ひいてはマンガ界全般に、インパクトを与えた三流劇画のムーブメントは、この檸檬社の倒産によって、ほぼ完全に終焉したといわざるをえない。しかしそれは、観方を変えれば、三流劇画ムーブメントというひとつのパワーが、機能をはたし終えたということでもあるのかも知れないが……。

ともかく、またひとつ、奇妙な魅力のある出版社が消えたことを残念に思う。状況はなおキビシイ。

 

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