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不幸の原因と不幸にならない対処法ーラッセル『幸福論』から

不幸の原因とは何か(ゼミの報告書より)

今回は1930年刊行の『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)から「不幸の原因と不幸にならない対処法」について発表された*1。著者のバートランド・ラッセル(1872年–1970年)は、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家、平和活動家としての顔も持ち、それぞれの分野で多大な功績を残した現代イギリスを代表する思想家である。

彼が58歳の時に著した『幸福論』はヒルティ、アランのそれと並び「世界三大幸福論」のひとつに数えられる名著で、本書は全17章2部構成からなり、1部で「不幸の原因」を、2部で「幸福をもたらすもの」についてを、ジョン・ロックの大成した経験主義*2の立場に沿って、具体的経験をもとに議論が展開されている。

今回の発表では各章で述べられた「不幸の原因分析」と、その「解決策」についてそれぞれ論じられている。

 1「バイロン風の不幸」

まず1つ目に、不幸の原因として「バイロン風の不幸」が取り上げられた。

この不幸の原因は、理性によって厭世的になってしまうことで、つまり自分で勝手に不幸な世界観を理性によって築き上げ、ひたすら悲観主義的(ペシミズムとも)な思いに走ってしまうことにあるという*3

ちなみにラッセルは「どうしても行動を起こさなければならない必要に迫られた」ことによって、空虚的な気分から脱出した経験があるといい、不幸のループに陥った時には内的な「自己没頭」を繰り返すのでなく「外的な訓練」こそ「幸福に至る唯一の道」であると述べている。

 2「競争」

2つめの不幸の原因として「競争」が挙げられる。なお、地位や名声、富を得るため、ある程度の「競争」をすることは幸福をもたらすが、それがある一点を超えたところで不幸になるとした。なぜなら、成功は競争の一要素でしかなく、その競争に他の要素を全て犠牲してしまうからだ。

ラッセルは人生の主要目的としての競争を「あまりにも冷酷で、あまりにも執拗で、あまりにも肩ひじはった、ひたむきな意志を要する生き様」として捉え、「余暇すら退屈に思えてリラックスすることも出来なくなり、薬物に頼っては健康を害するだろう」と結論付けた。これに対する治療法はひとえに「人生のバランスを取る」ことである。

 3「退屈と興奮」

3つ目の不幸の原因は「退屈と興奮」である。人は現状と理想を対比しては、ひたすら退屈に感じ、それとは逆に興奮を求める(なお、求愛行為や戦争も興奮のうちに含まれる)。しかし、過度の刺激を求める事にはキリが無い。

ラッセルは「いくら偉大な人物や書物にも退屈な期間や部分が含まれている」として、ある程度「退屈を味わう、または楽しむ」ことを主張した。なお、人は「退屈」という感情そのものに否定的な先入観を抱いており、そうした当然の意識から脱却して目の前のことに楽しみを見いだすことが解決策となる。

 4「疲れ」

4つ目の不幸の原因は「疲れ」である。なお、運動による体の疲れは、ある程度の幸福感をもたらし、休めば充分回復するので、ここではあまり重視されない。問題は神経の疲れである。この疲れの多くは「心配」からくるもので、何も打つべきことが出来ないにも関わらず、あれこれひどく思い悩んで疲れを引きずる、といったものだ。

こういう場合の解決策としてラッセルは、心配事を四六時中不十分に考えるのでなく、「考えるべき時に十分考えて」から決断し、それ以上の優柔不断をやめることを示した。次にラッセルは悩みを宇宙規模で考えることで、悩みの原因となる事柄がいかにつまらないことかを悟ることができ、疲れの原因となる心配事が減らせると解説している。

ラッセルいわく「講演で上手にしゃべろうと下手にしゃべろうと、どのみち宇宙に大きな変化はない、と感じるよう自分に教え込んだ」ことで「下手にしゃべることが減り、神経の緊張もほぼ消滅した」という*4

 5「ねたみ」

5つ目の不幸の原因は、人間の情念の中で最も普遍的で根深いもののひとつであるとされる「ねたみ」である。この「ねたみ」が人間を不幸にするのは「自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人の持っているものから苦しみを引き出しているため」と本書では説明される。これの解決策として、「世の中には上には上がいるのを自覚し、比較はやめて無益なことは考えない」「不必要な謙遜はねたみを持ちやすいのでやめる」「今置かれている状況を明一杯楽しむ」ことをラッセルは推奨している。

 6「罪の意識」

6つ目の不幸の原因は、子供の頃に形成された「罪の意識」に、大人になっても無意識的に縛られることである。これについてラッセルは「幼児期の道徳教育」の中に原因があると指摘している。例えば幼少期に親のしつけなどで、何らかの遊びを禁じられると、大人になってからも、その行いに罪を無意識のうちに感じ、自身を束縛・抑圧することがこれに当てはまる。これを克服するには、「無意識まで浸透した合理的で裏付けのない教えを、無意識的に働きかけることで、意識的な考えを支配している合理的な信念に注目させる」ことが挙げられる。つまり、理性によって精神を無意識のレベルまで統一することで、無意識下にある「罪の意識」も払拭させることが望まれるわけである*5

 7「被害妄想」

7つ目の不幸の原因は、おおよその人が多かれ少なかれ患っているといわれる「被害妄想」が挙げられる。なお、軽度な範囲の被害妄想については自分自身で治癒することも可能であり、ラッセルは4つの予防法「そこまで自身の動機が利他的ではないこと」「自身を過大評価しないこと」「自分が思うほどの興味を他の人も持つと期待しないこと」「たいていの人はあなたのことを貶めようとは思ってはいないこと」を提示し、これら四つの公理を理解することを解決策としている。

 8「世評に対するおびえ」

8つ目の不幸は「世評に対するおびえ」であり、自分が他人にどう思われているのか気にしすぎてしまうことが原因である。これに対する有効な解決策として、自己と社会が調和するよう環境を変えるか、世評を気に留めず、自己の信念を貫くことが挙げられた。しかし、近年はやたらとマスコミが何かをかきたてるようになってきたことで、このやり方が通用しにくくなっているとラッセルは指摘する(現状では社会的迫害ないしメディアスクラムは、SNSによって一般人相手にも拡大した)。

これら害悪に対する治療法は、一般大衆が寛容になっていくことで他人に苦痛を与えることを楽しみとしない人間が増えることである。

総論「思考のコントロール

ラッセルは総論として、これら不幸の原因は、いずれも日常の習慣における「思い込み」であり、それらは「自己没頭」によって生じるとも語っている。これは「習慣を変えること」で解決することであり、それには「思考のコントロール」が最適であると語る。具体的に「思考のコントロール」とは、「ある事柄を四六時中、不十分に考えておくのではなく、考えるべき時に十分考えておく習慣」だといい、またそれは無意識下においてもコントロールできるようにしておかねば今まで挙げてきた解決法も余り役に立たないという。そのためには精神を訓練して意識の無意識への働きかけを実現することが必要で、そこではじめて幸福を能動的に捉えることができるという。

結論として、幸福になるにはポジティブに思考をコントロールすること、そして自己の内面でなく外界に興味を向けることの2つにまとめられる。

 質問と回答

今回の発表で出た1つ目の質問は「無意識下での思考のコントロールにおける精神の訓練なるものは、ここまで挙げられてきた解決策と同義であるのか」というもので、発表者は「その通り」であるとし「それらを実践することで意識を正し、無意識レベルにまで刷り込んでいく」ことを述べた。2つ目の質問は➀で挙げられた「バイロン風の不幸とは具体的に何か」というもので、発表者は「バイロン風の不幸」の典型例として「伝道の書」から以下の悲観的結論を引用した*6

既に死んだ人を幸いだと言おう。更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽のもとに起こる悪いわざを見ていないのだから。(伝道の書 第4章)

付記

*1:レポートの参考文献は、ラッセルの『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)のほか、本書を解説したムック『100分de名著 ラッセル幸福論―客観的に生きよ』(NHK出版、2017年、小川仁志)も含まれている。本書は2017年11月にEテレで全4回にわたって放映されたテレビ番組を再構成したもので、各回のサブタイトルは「自分を不幸にする原因」「思考をコントロールせよ」「バランスこそ幸福の条件」「他者と関わり、世界とつながれ!と実に端的で分かりやすいものとなっている。

*2:経験主義とは「人間は生まれたときは白紙であって、人間の心は経験を重ねることによって形成されるもの」という西洋哲学から生まれた考え。ここから報告者は、東洋哲学(=仏教)の“空”の思想に基づく「自受用三昧」を連想した。「自受用三昧」とは曹洞宗の開祖である道元が提示した思想で、すなわち「経験になり切る」ことで「自分を忘れて何かに没頭する」という考えである。これはいわゆる「瞑想状態」「忘我状態」「フロー状態」「ピークエクスペリエンス」「無我の境地」と呼ばれる「究極的にリラックスした心理状態」に近い。また「自受用三昧」には「自分=経験である」と捉える面があり、自我や個性の存在は「元から存在しないもの」として否定される。言い換えれば、存在しない「自我」に固執するのは全くもってナンセンスで「自分」を捨て去って「経験」になり切り充足した日々を送る、という考えが「自受用三昧」なのである。今回の主題と「自受用三昧」は全くもって関係ないが「幸福論」という主題と妙に近似性を感じたことから注釈の形でここに記載した。なお「自受用三昧」はラッセルが提示した「自己没頭」とは対極に位置する概念である。

*3:ちなみに本章では、理性によって不幸になった者の具体例として、知識階級層のペシミストたちと、彼らのペシミスティックな言行を取り上げている。

*4:なお、報告者も過去に壮大な宇宙と矮小な自己を相対化して幾分か救われた経験があり、昔から人の考えることは多かれ少なかれ余り変わらないものだと実感したが、一部の聞き手は「宇宙規模で悩みを相対化して解決する」ことに関して少なからず「飛躍した解決策」という印象を抱いたようである。

*5:この章で扱われている無意識的な罪の意識は「超自我による過剰な罪悪感や劣等感に起因する」という解釈もできる。この「超自我」(スーパーエゴとも)は自身を監視して抑圧する心理的なシステムで、幼少期に親などから学んだ道徳的良心や道徳教育によって形成されるといわれる。この解釈でいくと、罪の意識による不幸の解決策は「子供時代に親によって作られた超自我(言うなれば親の呪縛)をぶち壊して新たに自分の超自我に作り直す」ことになる。この「超自我の解体」とも言える現象は、自我が目覚め出した思春期に「親への反抗」という形で自然と表れてくる。

*6:空の空、空の空、いっさいは空」という言葉で始まる「伝道の書」は紀元前に書かれた旧約聖書のひとつでエルサレムの王である伝道者の言葉と伝えられている。なお、引用した文章のような悲観的思考から脱却するためには、ひとえに「思考のコントロール」が必要不可欠である。