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日本テレビ版ドラえもん中間報告書

ドラえもん 中間報告書 1973/05/31

中間報告書は表紙を含めて全18枚のシートとなる。提出先も配布先も不詳だが、番組終盤の作品作りに影響を与える重要な証言である。

この中間報告書がテレビ局にいつ頃提出されたのかは定かではありません。第21話として6月10日に放送された「ふしぎなふろしき」が中間報告書では25話だったことや、第26話として放送された「おしゃべり口紅(おしゃべりナンバーワン)」が21話として書かれている事から推し量るに、5月末には提出されていたと思われます。(真佐美ジュン氏HPより)

本報告書は放送開始まもない5月末には提出されている模様だが、現物を保管されていた制作主任の真佐美ジュンさんも、どなたの筆によるものかは失念されたとのこと。上梨満雄監督は、製作陣が集って考えたことをまとめたものではないか、と述懐されている。

本報告書では約8割の作品の概説が記されていることから、フィルムが容易に目に触れることない本作品の内容を推し量る上でも有力な資料となっている他、記された作品の現状とこれから目指すべきコンセプトが、たいへん目を惹くものなので、ここに全文を掲載したいと思う。

 

○原作の解釈

山のような宿題をかかえて、時間表とにらめっこしながら、箱詰めの日常を送る子どもたちが、何かにつけ、変身人間のように何でもやってのける超能力の持主の実在を期待したとしても不思議ではないでしょう。

もしぼくが超能力の持主だったら...と夢を数える子どもたち。そんな現代っ子の典型である野比のび太君の生活の中に、突然、未来の国から、ネコロボットのドラえもんが割り込んできた。

ドラえもんは変身人間のようにカッコいい正義の味方ではないけれど、どうにかこうにか超能力の持主らしい。ポケットから取り出す秘密兵器の威力で、何をやらせても駄目な野比のび太を出来のいい少年にしようとやっきになってガンバルのだ。

だけど、ドラえもんの秘密兵器は余りにも珍無類で、それを使うタイミングもまた余りにもとっ拍子もなく、野比のび太はいつもテンテコ舞でズッコケ放っし。その上、野比家全体を、いや、町中を被害に巻き込んで、ドラえもん駄目なネコロボットと言われる一歩手前にいる。かろうじて一歩手前に留まっていられるのは、ドラえもんがここ一番とガンバル超能力のかすかな効き目と、もう一つ、ドラえもんの憎めないほのぼのとしたユーモアに満ちた性格のおかげである。

そんな児童まんが『ドラえもん』は、原作者・藤子不二雄のこれまでの作品と同様に、ホームコメディーを基調としながらも、その表現は、たとえば、『オバケのQ太郎』のようにストーリー性を強調するのではなく、かなりスラップ・スティックな工夫の試みを特色としている。それは、もちろん、主人公ドラえもんが秘密兵器を使って引き起こす、現実の常識をでんぐり返した世界の面白さを効果的に描き出すための方法である。

その原作の狙いは、読者とアイデンティティにある野比のび太の日常生活が異次元へ変化する興味を見事にキャッチし、『ドラえもん』を雑誌まんがとして成功させているといえる。

 

○テレビ化に際して

当初、原作の持つ長所を強調するために、原作『ドラえもん』を忠実にアニメ化することを構成の第一の要点とした。したがって、秘密兵器の世界の面白さを番組の売りとし、それを最も効果的に表現するためのキャラクター設定とシリーズ構成を行った。

すなわち、野比のび太の周囲に、のび太と対立関係にあるキャラクターを配置し、のび太を側面から補助する役割としてドラえもんを登場させた。当然、ドラマは野比のび太を中心に展開し、シリーズの流れは野比のび太を中心とするキャラクター関係を広げることで進んでいった。

この当初の構成方針は、主人公ドラえもんの性格描写を忘れ、主人公でありながら、ドラえもんを影の薄い存在にしてしまった。その上、主人公の存在がドラマの中心からはずれたために、ドラマのテーマ性の希薄という結果を招いた。しかも、演出テクニックとして、原作の特色であるスラップ・スティックな表現を禁じたために、迫力に欠ける単調なコメディの次元に留まってしまった。

 

○基本設定の確認

まず、子どもの現実を深く理解すること、そこから、テレビまんが『ドラえもん』の構成が再スタートしなければならない。何故ならば、『ドラえもん』のドラマを支えるのは、もしもぼくがー...という夢を追っかける現実の子どもと同一次元のキャラクターたちであり、『ドラえもん』のシリーズのねらいは、現実の子どもの世界を夢にでんぐり返して、ユーモアに彩られた子どもの日常を描き出すホームコメディーだからだ。

主人公ドラえもんは、現実の夢化作業にガンバルのだが、夢といっても、現実離れのしたファンタジックな奇想天外ではなく、ありきたりな出来事への子どものささやかな願望をいたずらしたものにすぎない。したがって、『ドラえもん』のドラマの面白さは、ガンバレばガンバルほど現実へのめり込む。20世紀という文明の人間社会で、未来の国からやって来たネコロボットのドラえもんがいかに生活していくか、そのありさまから『ドラえもん』というドラマが生まれてくる。そして、そのドラえもんの活躍ぶりが『ドラえもん』の毎回のテーマなのである。

 

○今後の『ドラえもん』構成の要点

原作のキャラクター設定を生かしながらも、主人公ドラえもんの個性のスケールを拡げ、ドラえもんを中心とするキャラクター関係を設定しなければならない。つまり、これまでのように、のび太を通して他のキャラクターと間接的に接触するのではなく、直接的に関係を持ち、野比家の家族の一員として、食事、入浴、お使い、など、のび太と同一の生活を営み、行動するようにすべきである。

ドラえもんの個性と秘密兵器は諸刃の剣であって、ドラえもんの活躍が現実生活にのめり込めばのめり込むほど、現実生活に密着した秘密兵器が登場するはずである。ドラえもんの個性から滲み出るほのぼのとしたユーモアの世界と秘密兵器がもたらす面白さを見せ場とするギャグっぽい世界を二つの大きなシリーズ構成として確立させたい。

ドラえもん」は15分もの2本立というフォーマットの強みを持ち、いわんや、視聴対象者は、個性の定まらない子どもたちである。さまざまなドラえもんの姿、さまざまなキャラクター関係、バラエティーに富んだにぎやかなドラマの構成を心がけるべきではなかろうか。〈了〉

 

一冒頭部分の「原作の解釈」に初期の原作マンガのムードが正確に捉えられているならば、史実として非常に興味深い。

一方、「テレビ化に際して」以降に、愛読者・視聴者は、のび太にこそ自分の姿を重ねて作品を共感を以て迎え入れることを的確に捉えているのにも関わらず、製作者にとって、マンガ『ドラえもん』の主人公は作品タイトルの「ドラ」本人であってほしい、という不文律を背負ってしまっている「ねじれ」が見受けられる

製作陣はTVアニメとしては、その性向を「単調なコメディ」と自虐的に捉えたのは時代的な背景も関係しそうだし、本企画書以降の映像作品が、優先的にドタバタ作品を原作に選択した感も残るものの、確認できた範囲だが、のび太の生活描写・日常描写を描くことを忘れてはいなかった事を、お伝えしておきたいと思う。(舘)

 

最後に「日テレ版」と「テレ朝版」の制作方針の違いを推し量る上で重要な資料となる高畑勲の企画書(再アニメ化の際に用意された覚書)を以下に記す。

 

ドラエモン“覚書”

高畑勲

ドラエモンは何者か、どこから来たか、のび太とどういう関係なのか、をはじめからわからせるために、特別な第1話を指定することはしない。

ドラエモンの出現とのび太のおどろきをみせない方が良いということを積極的に主張する根拠はないが、ドラエモンとのび太の友情の発展していく過程とか、パパやママのそれを受け入れていく過程などを描くことが予定されていない以上、第1話それ自体としての問題でしかなく、要は如何に面白い話を第1日目に提出するかという点で考えたい。

「ドラエモン」の魅力はドラエモンという不可思議な存在が、その存在のリアリティを子供に植えつけることで増加するわけでなく、ドラエモンがポケットから出すものによって、平凡な日常生活が急に活気を帯び、楽しく夢のあるものになったり、なりかけて駄目になったり、イタズラ心や子供っぽい復讐心に刺激を与えられて、笑いを解き放たれるところに、その魅力があるのだから、短刀直入(ママ)に個々のエピソードを展開しはじめたほうが良いだろう。

同じような意味で、のび太、パパ、ママ、しずか、スネ夫ジャイアンなども、最も一般的なタイプを代表していて、ドラエモンの道具によって異変が持ちこまれるべき「日常生活の世界」を最もシンプルな形で構成しているのだから、この藤子不二雄的人物達とその関係は子供達に一目瞭然であり、余計な説明も肉づけも不要である。

以上の点から、このシリーズの場合、シリーズの構成といったものは不要であり、いかにバラエティを考えるかだけが重要である