安田邦也インタビュー(元エルシー企画、アリス出版、群雄社編集者)
所収『Quick Japan』Vol.15(構成:但馬オサム)
はじめに
群雄社時代、ヤッさんの姿は、常に明石賢生社長の隣にあった。「そんなことはないよ」と本人は否定するだろうが、少なくとも僕の心象風景ではそうなのだ。その若々しさも手伝って、さながら殿様に仕えるお小姓(ここでヘンな想像した人は取り敢えず忘れて下さい)みたいでカッコよかったぜ。
事実、安田氏は、わずかな離脱時期を除けば、エルシー企画→合併アリス→群雄社→VIP→アトラス21と、明石船長の漕ぐ船すべてに同乗した唯一の編集者(クルー)なのである。まさに群雄伝説とともにタンブリングし続けた男といえよう。 イエイ!
(バンドマン時代の安田邦也氏)
1日1冊はザラ
俺がエルシー企画にかかわり出したころは、自販機を始める少し前で、まだいわゆる“袋モノ”*1のエロ本を作っていたんだ。俺は、大学の卒業見込み単位ひとつ足りなくて、それでまあ自分のバンド続けながら、公務員でもやろうかなと思って採用試験受けて一次を受かった後で、ちょっとヒマだったんだよね。それ以前に俺バイトでライフガードやってたことがあるんだ。要するにプールの監視員のことなんだけどね。そのときの友達からある日、電話があって、「実は今エロ本の会社にいるんだけど、ちょっと手伝ってくれないか」って話でさ。
へえ、面白そうじゃん、てノリで顔出したの。それがいわゆる、64ページのグラフ誌*2。
で、写真を組むためのストーリーをでっち上げてくれと。例えば、女子高生モノで行くとすると、まずセーラー服の女の子がニッコリみたいなカットがあって、それをじーっと陰から見ている男がいて、次に強姦があって……みたいなストーリーで六四ページ構成するわけ。だから何て言うの、映画のコンテみたいな感じだね。それで、ストーリーとか作っているうちに、いつの間にか撮影つき合えってことになって、気がついたら男役で“絡み”までやらされていたよ(笑)。
ま、そのときのノリとしては、ネエちゃんの裸見られてお金もらえて、ラッキーじゃん、てとこかな。そのまんまバイトみたいな感じでいついちゃったんだよね。
当時のエルシーの事務所、高田馬場のね、神田川沿いの1DKの畳敷きのマンンションでさ。さっき言った俺の友達、唐沢君ていうんだけど、彼と明石さん*3と経理のおばさんの三人しかいないの。風呂場が倉庫になっていて“袋モノ”のエロ本がダーッと積まれていて、見たところ、あんまり売れてるって感じはしなかったな。明石さんは当時29歳か、俺と10も違わないんだけど、それにしてはオヤジ臭い印象というか、40くらいに見えたね。まあ“社長”らしく見えて本人は得してたんじゃないかな。
でさ、グラフ誌って、撮影とかないと結構ヒマなんだよ。で、ポジがグジャグジャの山になっていたから、それをモデル別、カメラマン別にせっせとファイルしたんだ。それが気に入られたのか明石さんから「社員になれ」みたいなこと言われて。そのころには「これから自販機本作るから忙しくなるよ」みたいな話は出ていたね。だから東雑*4があってその傘下にエルシー企画ができたというわけではないんだ。まあ“袋モノ”を卸している過程で、東雑の中島さん*5との間に接点はあったんだろうけど。だから明石さんの中ではあくまで東雑に商品を供給する外部製作出版会社というスタンスだった。まあ、最終的には東雑の系列会社みたいになっちゃったけどね。
社員と言われてもね、俺そのころバリバリのバンドマンだったから、練習とかライブとかツアーとかあるんで、普通のサラリーマンのようにはいきませんよ、て言ったんだけど、明石さんは、まあ、やりたい事はやれ、と。応援するからツアーでも何でも行ってこい、てね。それじゃあ、お言葉に甘えますって(笑)。本当にいいの? て感じだよ。ちょうど、バンド*6も売れ初めて来た時だから、完全に二足のわらじだったね。その分、逆に仕事は真面目にやったよ。でも、俺にそんな特権与えたことを明石さん、あとあとになって後悔してたんじゃないかな。俺、クリスマスとかのころ会社出てこなかったりするもん、ライブとか入って…。他のヤツらだって、じゃ俺も、ってなるでしょ。要するに群雄社の「まっ、いいか!」っていう体質を作っちゃたのが俺かもしれないね(笑)。
75年の10月1日だな、正式採用が。これはよく覚えているんだ。うん、で、入社して半年もしないうちに一冊作れということになってね。東雑の関係で、グラフ誌の他に、読み物も入った実話誌もやることになったんだ。こっちは経験も何もない。写真誌だって見よう見まねで作っているのに、いきなり文字物は自信ないわけよ。
そしたら「大丈夫だ、文章は佐山*7をつけるし、デザインは大賀*8をつけるから」って。それが『ハスラー』という雑誌でね。それから、俺と同時入社の岡さん*9、カメラマンの。この人はそれ以前は幼児教育の教材の写真なんか撮っていたんだって。で、それがいきなり裸(笑)。彼にはいろいろ伝説があってね、絵葉書の仕事で阿蘇山行ったとき、噴火の中でも写真撮りに行くってほどの、ガッツの人なんだ。
で、佐山さんは佐山さんで、一冊分の原稿を一人で書くという荒ワザをやってのけるんだ。それも一昼夜だよ、一昼夜、小説から風俗ルポルタージュ物、告白手記と、文体変えて次から次へとササーッとでっち上げて行く。あんなに筆の速い人って後にも先にも見たことないよ。もっとも俺にしても、64ページのグラフ誌なんかだと、岡さんと撮影行って帰って来ると前日の写真が上がっているから、それをセレクトして徹夜でレイアウト上げて、一日一冊なんてことザラだったけど。
あのころのことを言えば、とにかく、“走ってた”ね。当時の撮影は完全にゲリラだったし、公園とか工場の庭とか浜辺とか、撮影できそうなところをみつけるとサッと行ってサッと脱がせて……。岡さんていうとスニーカー履いたカメラマンて印象があるくらいでさ。「よし、次!」。カメラぶらさげた岡さんが走り出す。その後から機材かついで、女の子の手ひっぱって俺が追っかける。ロンドンブーツ履いて走ってましたから、俺なんて(笑)。
佐山さん、大賀さん、岡さんと、こんな贅沢な家庭教師はいないよという環境で、本作りのノウハウを覚えていったんだ。俺、英才教育だったのかね、今思えば。
安田氏が早川修平名義で、今はなき月刊『ボディプレス』*10(白夜書房)84年12月号から1年間に渡って連載していたのが「自販機本グラフィティ・栄枯盛衰」である。“早川”こと安田氏を初め、エルシー、アリスの主要メンバーが実名・仮名で登場するこのエッセイ、いってみれば安田氏の青春邂逅小説の趣がある。
その中から、エルシー当時の伝説のエピソードを紹介してみよう(……部は中略)。
「撮影経費? 金庫にお金無いわよ」
「えぇっ!? 無いわって……参ったなあ、どうする撮影? オレ持ってないし」
まったく情けないったらありゃあしないぜ。
普段の撮影なら誰も困惑した顔ひとつしなかったろうが、この日は例外中の例外だったんだぜ。理由? それはズバリこの日の撮影モデルだったのよ。この日のモデルは、太田智子という19歳のOL。
キャバレーのホステス風、シャブ中毒のヤクザ情婦風、家出娘風、スケバン風等のスレにスレまくったモデルが横行していたエロ本業界に彗星の如く出現しちゃった、純情可憐、ウブな容姿、性格、今のブリッコの先端的な存在だった太田智子というモデル。黒沢くん、丘さん、ボクの全員がイカれていたわけよ。
……あっちっこっちへ電話して借金工作する黒沢くん。思いつめたように黙りこくったままの丘さん。社長の行方を追って電話で追跡するボク。各々がそれなりの方策でムキになってはみたものの、成果は上がらず、時間は迫る一方。そしてタイムアップ寸前‼︎
「黒沢! オマエ先週の中山競馬でツキまくってたはずだよな、昨日、そう言ってたよな」
これまで黙して語らずの丘さんが、突然、弾けるような口調で黒沢くんに同意を求めていた。
「ああ、中穴ふたつ含めて6レース適中だったそれだ、それ!! オレも単勝の当たり馬券3枚もってっから、これでなんとかなりそうだぜ、よし! 行こう‼︎」
会社を飛び出して、丘さんはモデルの太田智子の待ち合わせ場所の喫茶店へ、ボクと黒沢くんは、当たり馬券を握りしめて、渋谷の場外馬券売り場へと走っていた。
エルシー企画水没
エルシー企画はその後、高田馬場から池袋に事務所を移すんだけど、そのきっかけというのが実は“洪水”なんだ。今はどうか知らないけど、あの当時神田川っていうのは1年に2、3度は氾濫してね。
俺はその時、駅前の喫茶店でイラストレーターと『ハスラー』の表紙のことで打ち合わせしていたんだ。ちょっと雨脚は激しかったけど、事務所出るときはそんな兆候まったくなくてね。打ち合わせ終わって戻ったら、坂の下にザーと水が溜まっているわけ。じゃあ反対側から行こうと思って途中から石階段降りたらそこもまた水が溜まってるんだよ。人が傘さしてワイワイやってるわけ。階段でわからないじゃない? どうせ膝小僧あたりだろうと思って入ったら、腰までドボーン、だよ。しょうがないからそのままズバズバ掻きわけて、ようやく事務所にたどりついたんだけど、何せ1階だから、もう玄関のドアの5センチ下くらいまで水が来ているんだ。
「俺だよ、開けてくれよ」って言ったら、佐山さんと唐沢君が、「ダメだよ。今開けたら水が入ってきちゃうから」って。俺はどうなるんだよ(笑)。
どうにか入れてもらって、大急ぎでドアの下のすき間を雑巾で詰めて。もう、煙草でも吸いながら水が引くのを気長に待つしかないわけだ。1階のベランダというか庭側の方の窓をふと見たらさ、こう水位が上がってるのが見えるの。
「さすがサッシだけあって水は漏ってこねえや」なんて佐山さん、強がっていたんだけどね、そうしているうちに畳がモア〜と(笑)。
「佐山さん、これ下から水来てるよー!」。
とりあえず、機材とかポジとか濡れちゃヤバいものを皆で机の上に乗せて。乗せ終わったとたん、畳がブカーブカーと浮き出したんだ(笑)。ポジはどうにか助かったけど、風呂場に積んであるエロ本はもうプカプカ泳いでる。
当時、同じ高田馬場の早稲田通りを隔てた反対側にもうひとつ事務所を借りていたんだ。でさ、そっちに避難しようってことになってね。ちょうど明石さんから電話かかってきたからさ、「こっちは洪水で大変なんです。水浸しっスよー」て言ったら、「何馬鹿なこと言ってんだ、お前」。
信じてくれないんだよ(笑)。
(水没したエルシー企画・高田馬場のマンション・オフィスは、関ビル102号室にあった)
アリス・エルシー合体
で、池袋新事務所というのがね、両隣がトルコ風呂(ソープランド)という、実にエロ本屋らしい環境でさ(笑)。佐内*11や近藤*12が加わるのもこのころだね。実話誌の点数も増えて、活気づいてきてたね。
『ハスラー』は3、4号で潰れて、『ガールハンター』*13に名前を変えたんだな。要するに『ハスラー』は編集者のお遊びのページ*14が多すぎたから、もっとドロドロの実話誌を作れという東雑の方からのお達しでね。それから『スノッブ』、『メッセージ』、あとこれも俺がやっていた『スキャンダル』あたりが当時の実話誌のラインナップ。で、『スキャンダル』が後に『X-マガジン』『Jam』になるんだよ*15。
でさ、池袋といえば、アリス出版のお膝下、目と鼻の先にあるわけじゃん。で、俺たちにとっちゃ意識しないわけにはいかないわけよ。何たって、そのころの社訓が「叩き潰せ! アリス出版」だもん(笑)。アリスはアリスで「ふざけんなよ、エルシー」ってノリで。
あとで群雄社で一緒になる古山*16とか川本*17とかのアリス一派のグループと俺とか岡さんのグループは完全に反目し合ってたもん。と言ってもね、それはあくまで商売上の対立であって、東雑に呼び出されて同列の席に座らせられて、この表紙はどうだ、これは売れない、とかやられて行くうちに、お互いの対立意識が対・東雑の方に向いて行ったのは事実だよね。
でもさ、明石さんが会議から帰ってきて一言、「おう、アリスと合併するぞ!」と言ったときは全員拍子抜けしたね。
「アリスを潰せ! って言ってたのは明石さんじゃん!」って。明石さんと小向さん*18の間でどんな話があったのかは知らないけど、東雑傘下からの独立で意見は一致してたんだな。
明石さんにしてみれば、自販機の使い方がエロ本だけで終わってしまうのには潔いとしないというか、いずれはエロ本以外の本を自販機に入れて、何かムーブメントを起こしたい。一般流通の書籍や雑誌のカウンターとしてね。そういうもくろみはあったみたいなんだ。これは実際に明石さんの口から俺聞いているよ。
一方、東雑はあくまで、「もっとパンツを薄くしろ!」「表紙のタイトルをもっとお下劣にしてチョーダイ!」ってノリだからね。
女子大生の編集長
合併アリスというのもエルシーとはまた違った面白さがあったよ。人も多いし、第五編集部まであってそれぞれ毛色が違っててね。『メッセージ』のような実話誌系の強いとこもあれば、石垣*19みたいな破天荒なことやるヤツもいる。その横で佐内(順一郎=高杉弾)たちは『HEAVEN』を作ってて…。机の上に“ラッシュ”の空ビンがゴロゴロしているヤツもいてさ。連中、ないときはカメラのブロワー用のフロンまで吸うんだぜ(笑)。
そうかと思えばさ、ある日、会社行くと、副社長、つまり明石さんの車にペンキで色塗ってたりね。で、何やってんだって聞いたら車をパトカーにして婦人警官モノを撮るって(笑)。
俺は第四編集部の編集長というわけでね、突然の出世をしちゃったのよ。ま、相変わらずギターケース背負って会社行ってたけど。
で、俺のところではわりと美少女路線というか、ポップな感じで行こうというわけで、『少女激写』*20というのを作ったんだ。これは大ヒットしたんだよね。タイトル考えたのは明石さん、ちょうど篠山さんの「激写」が流行ったころでね。KUKIが『シスター』というやはり美少女系のエロ本出していたから、それにぶつける形でね。どうしても、〇〇を潰せ! ていうノリになっちゃうんだな(笑)。
それから、小暮祐子*21という女子大生モデルがいたんだ。エルシーが池袋に移ったころ、募集見て面接に来た子なんだけどね。大学行っててヌード・モデルやるなんて当時は珍しかったし、頭の回転が恐ろしく早い子でね、それが逆に周囲からは浮いているように見えるようなヤツだったのね。で、俺は彼女を表向きの編集長にして、女子大生が作るエロ本みたいな感じで売り出したわけ。『ティーンズ』ていう雑誌。これ、結構早かったと思うよ。一般誌からわざわざ取材が来たくらいだから。
この小暮祐子女史の印象を安田氏は「自販機本グラフィティ」にこう書いている。
……サッスーンのファッション・ジーンズに、大胆なアロハシャツの胸元はだけた、音楽業界用語で言えば「デーハー」ないでたちの祐子は、そのナリとは逆に控えめな話し方をする。よく言う言葉で「女の腐ったようなヤツ」というのがあるが、まさにそのものと言っていいかもしれない。但し、祐子の場合は女だから、それが妙なイロ気にすり替わっている。
因みに、車をパトカーに塗って云々のくだり、実に自販機本らしいエピソードだと思う。
現在のメジャー系エロ本(書店売り)やアダルトビデオでは、このテの警察オチョクリネタは絶対の絶対の絶対のタブーだからだ。件の自販機本『発情婦警』*22も、さすがに横っ面に「警視庁」と手描きしたニセ・パトカーで公道を走ったのはマズかったのか、その部分は一応あとからスミベタで消してあるけどよく見るとうっすらと読めるんだよね、これが(笑)。
さて、「自販機本グラフィティ」からもう少し。アリス出版、ありし日の昼下がりの情景──。
中田(引用者注・おそらく田中一策)の指さしていた小ビンは「ラッシュ」というシンナー系の、ま、簡易ドラッグ。
液状で、ビンの口を鼻に近づけて気化成分を吸入すると身体がポカポカし始めて、軽い上昇気分が得られる。結局のところアンパンもどきだが……。で、当然ボクもアンパンもどきの輪に参加、小暮祐子に至っては言わずもがなである。小ビンが、手から手へと渡り歩いてゆく。昼の陽中、しかも就労時間中にアンパンやっている編集部の例をボクは知らない。アホである。
「アッ、ア──アッ、しょーがねーな、昼間っからやってんの?……もっとスゴイの知ってる?」
「ホント──ッ?」
「カメラのダスト・ブロワー」
サナイ(引用者注・おそらく高杉弾)が言うや否や、中田が写真部へと駆け出して行った。突然、気の効く良い男。
「そーすると、当然ビニール袋も必要になるよね」
完全に目がサバになっている近藤(オム)が、今度はキッチンへと駆け出していった。
隣の第三編集部では、プロレスの技の掛け合いが始まっているようだ。
小暮裕子がサナイのラジカセのスイッチを入れると、Tレックスの♪ゲット・イット・オン♪がオンエアされていた。
結局、その年、小暮祐子は日本女子大学を退学した。
デザイナーとしての出発
合併アリスの目的はあくまで、“脱”東雑なわけで、独立に向かっての計画は着々と練られていたわけだよ。言ってみれば、クーデターだな。毎週会議があって、かなり熱くなってたよ。
でも、どこでどうバレたかは知らないけど計画が東雑側に筒抜けだったんだ。それが明石一派の独立の前触れになるんだろうけどね、俺は決定的な場面は知らないんだ。バンドのツアーでロスとシスコに2カ月行ってたからね。休職して。
で、戻って来たら、会社がやけにガラーンとしているんだよ(笑)。
残っていたヤツに聞いたら、「明石さん、皆を連れて独立しちゃったんです」って。
「ええーっ!?」てな感じなわけじゃん。
とりあえず小向さんのところに挨拶しに行ったら、どうすんの? って話になって。
「一応、独立しようかと思うんですけど」て言ったら、小向さんがぽつんと、「じゃあ、明石さんところへ行くんだな」と。
そう言われても俺は別に何も考えていなくて。群雄社は当初馬場にあってね。ビニ本で大当たりする少し前だった。明石さんには「ウチへ来い」って言われたけど、自分としてはここでひとまずクールダウンしたかったというのがあって。ちょうど結婚した時期でもあるしね。
編集、撮影、デザイン、このうちどれかひとつ自分のスペシャリティを作ろうと思って、それでさっき言った大賀さんの事務所に入ってデザインの仕事を始めたんだよ。
明石・武勇伝
だから俺、群雄社でいえば、ビニ本でウハウハっていう時代って知らないんだよ。金庫開けて、皆を並ばせて5万円ずつ配ったとかさ、そういう場面には出食わしてないの。残念ながら。
明石さんというのは金のことを言えば、天国と地獄を見た人だよ。実際、金庫に3千円しか入ってないのも見たしね。馬券で撮影行ったのも実話だよ。俺は、明石さんというと金策に走る姿ばかりが思い浮かぶんだ。実際、金策は上手い人だったけど(笑)。
これは馬場時代の話だけど、金曜の夜になると森藤吉*23がやってくる。何が始まるのかというとチンチロリンなんだ。最初は天井百円でね、やって行くうちにだんだんレートが上がって天井が千円になって。で、明石さんの一人勝ちで、「ガハハ、おい、飲みに行こう」ってパターン(笑)。
だからね、やってることが一つ一つどこかギャンブルっぽいんだよ。ただ本人は麻雀は好きだったけど、競馬、競輪には手を出さなかった。一獲千金を狙うギャンブルじゃなくて、あくまでも、そこに人と人のコミュニケーションが成立する“顔が見えるギャンブル”なのよ。あの人の場合は。ここいらへん、やはり学生運動やってたから闘争本能みたいなもんだね。
そういう意味で、人を引き寄せる力というものは確かにあった。本人もね、きっかけになる人物との出会いがあって動かされるというかね。
『Jam』のころの話だけど、京都で大麻裁判で闘争中の芥川さん*24──確か八木が連れて来たんだっけな──彼のことを明石さんすごく面白がってね。まあお互い反権力ということで意気投合したんだね。それで芥川さんが、「毎麻新聞」という大麻解禁運動の機関紙出したいんですけど、印刷とかお願いできませんか、て話になって、じゃウチで作りましようって。最終的にはカラーの、とっても贅沢な新聞になってね。まぁこれなんかボランティアみたいなもんだよ。表向き「エルシー企画」って名前は出してないけどね。
そういう関係で、その方面の人たちとも繋がりがあったんじゃないか。明石さん、どっかから封筒いっぱい“お土産”貰ってね、それをタクシーの中に置き忘れちゃった、て事件があったんだよ。それも社名の入った封筒で、ヤバいってんで、会社の連中で身に覚えのあるヤツらは家中の絨毯、ガムテープでペタペタやって大変だったらしいけど(笑)。
この話に尾ヒレがついてさ、「明石はリュックサックいっぱいのアレをタクシーに忘れた」て(笑)。一時期、業界の伝説になってたね(笑)。
(『Jam』2号より芥川耿インタビュー「神道には大麻の神様がいたという話」)
群雄社への復帰
「今度、武邑さん*26と組んで『ニューヨーク・カルチャー・マップ』*27という本を作るから手伝ってくれ」って。もう群雄社は神保町に移って、一般書籍に乗り出していたんだ。俺はフリーのデザイナーになっていたし、その前の『陽炎座』も少し手伝ったしね。まあ例の如く、というか、面白そうじゃん、てノリになっちゃった。
とにかく打ち合わせするから8時に池林房*28へ来い、てさ。
行ってみると八木と森、それから明石賢生に増田*29、佐山なんかの群雄社の“顔”がズラ〜と揃ってて宴会始まってるわけ。
「来た来た、遅いよ!」なんてノリで。
『カルチャーマップ』の話なんか一切出る気配なくてさ、ホラ、あそこ、コの字型のテーブルになってるじゃん、で、コの中に座わらされて、周り囲まれてさ、「まあ、飲め」。
で、「お前、戻ってこい」。いきなり(笑)。
何かこう、してやられたって感じだったね。
結局、明石さんとは最後まで付き合うことになっちゃたんだな、俺。
(ありし日の明石賢生氏)
*1:ビニール袋や茶封筒などに入れられ、大人のオモチャ屋やゾッキ本屋で売られていたマイナー系エロ本。のちの自販機本やビニ本のルーツといえる。
*2:全カラー64ページの写真集スタイルのエロ本の通称。一方グラビア+記事物の スタイルを実話誌という。
エルシー企画及び群雄社社長。合併アリスでは副社長だった。出版界に数々の伝説を残し96年急逝。この号が出るころ、一周忌を迎える。
*4:正式名称・東京雑誌販売。おつまみ自動販売機のリース業から転身、 自販機エロ本の取次として大躍進する。全盛期の月収は13億円とも言われた。しかも、すべて100円玉で、である。
*5:中島規美敏
東雑社長。『週刊新潮』1980年4月24日号によると、《容姿は達磨大師の絵にそっくり。リンカーン、ベンツを乗り回し、銀座、赤坂で毎晩のように豪遊》とか。
*6:“スティーラーズ”。安田氏によると「“クリエイション”とか“めんたんぴん”とかの中央線組の周辺に位置するブルース系ハードロック・バンド」とのこと。ちなみに安田氏はそれ以前、某アイドル・バンドに所属、『銀座NOW』にも出演していたこともあったらしい。
群雄社編集局長。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者。摩耶十郎の筆名で官能小説家としても活躍。現在は浄土宗僧侶。通称S。
*8:大賀匠津(おおが・たくみつ)
グラフィック・デザイナー。『Jam』創刊号より表紙デザインを担当。その後は一般誌からエロ本、広告まで幅広くデザインを手がけた。大賀が表紙を手がけた『ザ・ベストマガジン』の創刊号では大原麗子の顔に水をぶっかけ、その瞬間を表紙にするという斬新なデザインで100万部の金字塔を記録した。現在も各社雑誌のアート・ディレクターとして活躍中。
*9:岡克己
カメラマン。1948年岡山県倉敷市生まれ、写真家・中村昭夫に師事。その後、月刊誌『おかあさんなぜ?』写真部、エルシー企画専属のヌードカメラマンなどを経て1980年からフリーランス、 以後、エディトリアルを中心に活動、現在に至る。なおライフワークで「日本の灯台」を撮り続けており、著書に『ニッポン灯台紀行』(世界文化社)がある。また一説によると、伊達一行の小説『沙耶のいる透視図』の主人公のビニ本カメラマンのモデルと言われており、映画ではこの役を名高達郎が演じていた。
*10:同時期にやはり群雄社出身の山本土壺や中野D児のエロ本回顧録が載るなど、同誌の自販機本へのリスペクトは強かった。編集長は東良美季。
筆名・高杉弾。『Jam』『HEAVEN』初代編集長。映画『沙耶のいる透視図」の土屋昌巳扮する編集者のモデルが彼、という話もあるが真偽のほどは定かではない。
通称オム。『HEAVEN』2代目編集長。彼については『QJ』12号インタビューを参照のこと。
*13:その後、何度かの編集長交替を経て、自販機本末期まで生き残った数少ない雑誌。但馬の群雄社への関わり合いは、この雑誌を拾ったことから始まる。
*14:いわゆる“抜けないページ”
しかし、自販機本の場合、こういったページの方が逆に面白かったりする。
「“新しいブームを作ろう”とか言って、“野球盤”改造講座とかやったりね。今の野球盤はピッチャーに不利だからって言って、バネを強くして玉を打てないようにしたり、本物の野球にどんどん近い感じにして」(安田氏・談)。
*15:安田氏の指摘によると『QJ』13号「エロ本三国志」の「『スノッブ』に“X-ランド”が載って」の部分はS氏の記憶違いで、正しくは『スキャンダル』であるとのこと。
*16:アリス出版編集員。のちに群雄社に参加。合併アリスでは第三編集部編集長。「自販機本グラフティ」には“合併以前のアリス出版のエンジン役”とある。
古山氏と同じく旧アリス勢から群雄社に参加。ロリコン・ブームの仕掛け人であり、現在は作家として活躍。合併アリスでは第五編集部編集長。著書に『ポルノ雑誌の昭和史』がある。
*18:小向一實
アリス出版社長。現在・陶芸家。詳しくは『QJ』15号の「エロ本三国志」参照。
*19:石垣章
カメラマン、ビデオ監督。緊縛写真個展『奇妙な果実』をNYで開催、フェミニズムのお膝下で、女を縛る写真が物議の対象に。身が軽く、寺山修司の映画『田園に死す』のラストではバク転を披露している。
*20:群雄社独立の後、デザイナーXが編集を担当。竹熊が編集員として参加していた。
*21:日本女子大学在学中にヌード・モデルとしてデビュー。『女子大生マガジン・ティーンズ』編集長として注目を浴びた後、作家に転身。著書に『な~んも知らん親』がある。
*22:デザイナーXの会心のヒット作。男役で絡んでいるのは某人気マンガ家。本書の誕生までの経緯は『QJ』5号の竹熊との対談に詳しい。
*23:森藤吉
明石社長の従兄弟にして群雄社の営業部長。『QJ』13号・近藤氏インタビューに登場した、“ヒスイの骨壺を売るMさん”。群雄社解散後はAVメーカー“レッツ”を旗揚げ。製作費“公称”五千万のSM人形劇ビデオなどを製作、AVバブリー時代を象徴する人物となる。現在は“母なる地球、その神秘とロマン”をテーマに新商売を模索中らしい。
*24:芥川耿
画家・大麻解禁運動家。大麻所持で逮捕起訴されるが、「大麻取締法は違憲である」と主張、法廷闘争を展開。その闘争の軌跡は『マリファナ・ナウ』(第三書館)に詳しい。
*25:八木真一郎
別名、ハマリの八木。オカルト雑誌『迷宮』編集員を経て、群雄社に参加。
京都造形芸術大学助教授。神秘学に造詣深し。シンクロエナザイジャーをいち早く日本に紹介するなど、その活躍は多岐に渡る。
*27:武邑光裕著。NYに長期取材し、80年代の最先端カルチャーとスポットを徹底紹介。その偏執的内容の濃さには定評がある。K・ヘリングもウォーホルもJ・ボイスもまだ生きていた!
*28:明石社長の盟友が経営する新宿の居酒屋。「明石さんにツケといて」が利いたため、群雄社の連中はよく利用した。毎月、会社にどれだけの請求書が廻ってきたかは定かでない。