雑誌文化研究互助
米沢嘉博インタビュー「ディティールにこだわるのは私には向いてないし、そういう見方をしていないと思う」 (足立生徒「漫画の教室」『クイック・ジャパン』Vol.34所載/2000年12月)
新連載 漫画の教室
▲コミックマーケット公式サイトより
足立生徒
TEXT by ADACHI,Seito
●聞くところでは、日本にマンガが誕生して300年を過ぎたとか。マンガが世に溢れ、ここ数年マニアックな関連書やガイド本が多数出版、アンダーグラウンドではマンガ史の研究が活発になってきてるというのに、何か物足りなく思うのは何故なんだろう。
●あ、ご挨拶が遅れました、足立守正と申します。マンガ読みなどという肩書きを名乗るわりに、実はそんなにマンガを読んでない、むしろマンガを呪うことでマンガから離れられない俺が思いますに、みんなマンガに近づき過ぎ。こんなにマンガは面白い、と声高に語ることの恥ずかしさを、最近つくづく感じる。
●そういうわけで、マンガの年表が欲しい。出来事を順番に並べるだけなのに時折何かを語っているような「年表」という形式の、無責任でクールな視線でマンガを見てみたい。そんな軽口を叩いたら、「じゃあ、作ってみてちょうだい」というお言葉をいただいた。評論家もコレクターも身構えるような大仕事のにおい。でも俺、恐れを知らない素人だから引き受けちゃうもんね。ただ、流石にちょっと勉強がしたい。まだまだマンガには、語られていない歴史があるはずだから。
●そこで設けられたのがこの教室。ここで、先生方にお話を伺い、メモを取り、年表を組み立ててみるつもり。生徒は俺ひとり。もう、分かりやすいように、ペンネームも「生徒」に改名! では、夏休みの宿題に取り組むような気持ちで、漫画の教室、開室いたします。いたしまーす。
【今回の先生】
米沢嘉博
1953年、熊本県出身。明治大学入学後、マンガ批評集団「迷宮」に参加、マンガ評論を始める。著書に『戦後少女マンガ史』を含む「戦後マンガ史三部作」、『アメリカB級グッズ道』(晶文社)など。監修に平凡社『別冊太陽』『子どもの昭和史』シリーズ、『乱歩の時代』など。独特の柔軟さで、長らくコミックマーケットの代表を務める。
***
「マンガ年表」と考えて、一番はじめに頭に浮かんだのが、米沢嘉博さん。雑誌別、テーマ別と、あらゆるマンガのジャンルの流れについて、理路整然と語ることのできる、マンガの語り部。作った年表も数知れない。米沢さんはストレンジなものが大好きで、マンガもその一環でしかないと俺は感じるのだけれど、そのマンガへの視線が微妙に歪んでいるところが信用できるところで、それがストレートなマンガ評論家としての評価じゃないか。ついでに玉砕覚悟の心得も聞かせて戴ければ、これ幸いと思いまして。
マンガリストの必要性
●――米沢さんはマンガ史をいくつも手掛けていますが、そのためには独自のマンガリストみたいなものを作っているんですか。
米沢 『ヤングコミック』とかの劇画誌が、何周年記念企画とかで、過去の作品リストを載せていた時期があったんだけど、それが無いマンガ雑誌のリストを作ろうとしたことがある。とりあえず、編集部にはバックナンバーが揃っているだろうと、各出版社の倉庫に入って。無いやつもあったんだけどね。8、9割がたできた。ただ、85年までの資料だけどね。当時は『少年ジャンプ』のリストすら無い頃だったから。
●――しかし、そういうものは、読んでみると、それ程面白いものではないですよね。
米沢 そう、図書館用や、研究者用にしてもらうしかないわけで。ただそういう基本的な資料はマンガに関しては無かったからね。でもまず、作れるうちに作れと。「マンガ史三部作」*1を終わらせた後に『戦後マンガ資料集成』をやっておけば他のことをやる時にラクになるだろうと思って。当時、群雄社*2というところが、作ってる間の交通費と経費を調べに行く学生さんのバイト代を出してくれるというので。まあ、そんなに高くはなかったけど。1冊の雑誌を15年分調べるのに3日泊らないといけないの。その学生さんの中に赤田祐一くん*3もいた。どんどん造りながらやってたんで、版下も半分くらいできてたんだよね。でも群雄社が潰れちゃった。
●――もったいないなあ。
米沢 少女マンガと少年マンガのめぼしいところについては、最近は毎年『ぱふ』が杉田健一くん*4の作った作家別のリストを載せてるでしょ。あれは雑誌別リストにも変換できるものなの。だから、85年以降のその辺のリストはやる必要がなくなっちゃった。でも青年マンガは抜けてんの。
●――いつになってもそこは抜けてるんですね。
米沢 うん、だから個人の作ったリストを集めまくるしかない。私には1人の作家の作品リストをあんなに細かく作るという事はできない。性格上作れないんです。しかし、年表となると、小さい部分は抜けていてもいいから作れるんです。
●――米沢さんは、パソコンは使わないですか。
米沢 周りのものがやってるんで、投げちゃってます。
●――インターネットにも大勢のマンガの好きな人たちが、大量にリストを放り出しているんですが、それぞれが極端なもので、思ってるより使えないんですよ。これは、個人個人の努力がもったいないなあと思って。せっかく世界と繋がってるのに。
米沢 既にやってることをやらなくていいようにしてあげるべきだよね。それは本当は出版社がやるべきことなんだよ。そういった研究者や研究機関がデータを交換しあってまとめていこうって、確か川崎市民ミュージアム*5が中心になって始めたんじゃなかったっけ。それも結構、少女マンガがメインなんだよね。ホームページを作っているような人は他人に見てもらいたい気があるからいいけど、1人でコツコツとリストを作って発表もせずオンラインなんて人もいるし。
●――高野文子*6の完全作品リストなんて、ネット上に有りそうで無いんですよ。あんなに作品少ないのに。
米沢 そういえば、ダウンロードしてもらった宮谷一彦*7のリストももうひとつだったなあ。蛭田達也*8作品リストなんて無いでしょ。1本載せれば済んじゃうのに。
マンガ年表の心得
●――年表作りのお手本みたいなことを聞こうと思ってるんですが、発表年月日ってどういう基準になってるんですか。
米沢 難しいんですよね。いつ発行されたか、って言うのは発行年月日しかないわけです。でも、実際はその2、3カ月前に出てる。単行本とかもそうでしょ。2月号だから、年表の2月に載せていいかというと、実は前年の12月に出てるんですよ。こちらも混乱してて、各年表なんかも結構混乱してる。「69年に出て、70年2月号スタート」とか描くのが親切なんだろうけど。この2カ月前に出るというのは、今は慣例になってるけど、昔は慣例ではなかったらしい。貸本マンガに奥付がないのというので、表記の月まで長く書店に置いてもらえるからなの。
●――地方まで輸送される時間に関係あるという話を聞いたことあるんですけど。
米沢 地方定価っていうのがあったのは昭和20年代くらいまでで、30年代には無くなったのかな。それも5日くらいしか変わらなかったみたいだよ。戦前は台湾とか外地があったから、ちょっとズラしたりもしたらしいけど。
●――年表を見るうえで、正確な発行年月日はやっぱり重要なとこですか。
米沢 そこをうるさく言う人もいるね。自分のことで言うなら、例えば『COM』なんか、67年2月創刊なんだけど、実際には66年の12月にもう出てるのね。8月に発売予告を見て、10月、11月と待ってやっと手に入れた中学2年生の感覚があるから、この年の秋でないとダメなの。よく覚えてるんですよ。そういう自分の中の思い出というか、時代の感覚が、年表作ってるとムチャクチャになっちゃうの。だから、今までやった年表や年譜は、やっぱり混乱してる。一時はマニアの人にいろいろ言われるし面倒なので、月号で統一してその年へ入れちゃえってやってたし。ただ、貸本については前に言ったように、奥付が無いので発行について何もわからない。で、この辺りじゃないかな、って見当をつけるワケ。値段とか貸本新聞の予告でだいたい特定できるものもある。あと、作家が作品の最後にたまに製作年月日を書いてることがあるんで、まあそこから1カ月後くらいだろう、という感じで入れちゃうとか。記載法に関してはいろいろあるんですけど。
●――以前『宝島』から『日本ロック大百科』*9って出たことがあって、日本のロックに関する詳細な年表なんて無かったから、スゲエ本だと思ったんですけど、実際手に取ったらかなり地味なもので、そのスゴさがちっとも伝わってこなかったんです。マンガに関する出来事や、マンガが引き起こした出来事の年表なら、楽しく読める気がするんですが。
米沢 それで年表作るのは大変だと思うよ。
●――米沢さんに「大変だよ」と言ってもらいたくて、今日会いに来たんです。もうひとつ緊張感ないんで引き締める意味でも。スッパリ諦めつくかもしれないし。どんな難点がありますか。
米沢 関係性の問題で、マンガに類して起きた出来事となると、特定できないことが多すぎる。あるスポーツ新聞では記事になっているけれども、他では一切とりあげられていないこととかいっぱいあるし。まあ、ブームであれば、年のアタマのとこに事件として「この年、○○が起きる」としか書けないワケですよ。ではどの時点でブームと言うのか。たとえば『ハロウィン』*10が創刊した年にホラーマンガのブームが起きたんじゃなくて、ブーム自体は次の年になっちゃうでしょ。「のび太植物人間説」*11なんて噂の類も特定できない。
●――マンガの研究書の巻末にはたいていマンガ年表が載ってますよね。
米沢 権威があるように見えるんだよね。だから私もすぐ付けたがるの。それに文章を補完してくれるからね。
●――例えば、清水勲の『漫画の歴史』*12なんか、中尊寺ゆつこ*13が凄くフィーチュアされてたり。これ、他の年表にはないですよね。面白いですよ。
米沢 恣意的に選び出すからね。ヒット作の取り方にしても、好みは出るよね。年表を作るというと、だいたいその倍以上のデータを用意して、どの事項を捨てるか決めていく。連載ものは、まあ1年続けばそれなりに人気があったんだろうということで残すけど、半年となると余程周囲に影響がない限り削るとか。ただ、ブームには亜流が必ず現れるものだから、それを分からせるのに少しとっとかなきゃいけない。関係性でいうと、どうでもいいような小さな記事が問題になる場合もあるでしょ。結局そこから恣意的になっちゃうわけ。『漫画主義』*14の人たちが年表作ったら、貸本劇画のことが大事件のように書かれているワケですよ。ところが、さいとう・たかをはあまり出てこないんだよね。実際、貸本屋は2冊仕入れないと対応できなかった程さいとう・たかをは売れてたのに。貸本に触れるなら、こちらとしてはこれはもう入れないわけにはいかない。さらに自分の趣味で『人間時計』*15とか入れちゃうとどんどん膨らんじゃう。でも年表は歪んでた方が面白いよ。インデックスと年表は違うからね。
●――30年前と今とでは、マンガの数も違いますよね。マンガ雑誌の初期の頃なんて、ヒット作くらいなら全部載せられたんじゃないですか。
米沢 そうね、事例が少ない年は、さみしいんで多めに作品名を拾って、帳尻あわせるところもある。あと、マンガ雑誌の創刊は何年かに1度ドッとあるんだけど、その翌年は何にも無かったりと波がある。80年以後はセレクトしないと収まりきれない。
●――そういや、米沢さんは発売されるマンガ雑誌ほとんど読んでんですよね。最近レディスコミ、ヤング全部は読めないとか聞きましたが。
米沢 レディコミと4コマね。4コマ誌は性に合わない、ってのもあるけど諦めたの。送ってくるものしか読まない。『巨乳ちゃん』*16は吾妻ひでおさん*17が載ってるんで読んでたんですよ。レディコミはウチの奥さんが買ってくるものと貰ってくるものの10冊くらい。少年・少女・青年誌は読んどかないと読めなくなっちゃうので読んどくし。
●――結局読んでんじゃないですか。でも、それをいちいち憶えてますよね。
米沢 まあ、細かいとこは憶えてないからね。こんなマンガだった、とかどんな影響下にあったかとかは憶えてる。
●――あの、言ってしまいますけど、頭おかしいですよ。割とケロッとしてるし。米沢さんには、マンガのジャンルひとつひとつの細い流れがより合わさって、ひとつの大きな流れになっていく様子がいつも見えているんじゃないですか? それをほぐしたり元を辿ったりして見る事ができるんでしょう?
米沢 楽しんだ後に、そういう風に関連づけて記憶しているのかもしれない。ディテールにこだわるのは私には向いてないし、そういう見方をしてないと思う。(思い出したように)昔の映画評論家って、いくら映画観たかなんて記憶として話せるでしょ。でもビデオになってから細かくチェックする映画評論が出てきた。でもそれが面白いかっていうと、やっぱり観てきたものを楽しく語ってる淀川さんの方が信用できるような気がしちゃうことあるよね。
●――でも、僕は米沢さんに淀長さんを感じてたりしましたよ。
米沢 まあ、そうありたいと思ってるから。あの人、名作も語るけどヘンな映画も好きなんだよね。どこか良いところを見つける人でね。最終的にああいう人は長生きできるんだなと思った。
●――でも、淡々と正確にマンガの流れを追った『マンガ伝』*18て本がありますが、失礼ですが、わくわくするものが何もないマンガ史でしたね。
米沢 アレはマンガが一番盛り上がらない時代を選んでるのが悪かったんです。あの時代はほんとにこれといって何もなかったんですよ。分類というのもよくなかったと思う。バラバラだと物語が生まれないんです。歴史はドラマがないと面白くなれない。
●――あ、いしいひさいちの描いた全ッ然似てない米沢さんの似顔絵*19は面白かったですよ。それはいいとして、思うのは、年表を作る上でも、楽しいものを作るために、大ネタを拾った後はちょっと小ネタを続けてまた大ネタ、といった具合に波をつけることは可能ですよね。その結果、何か歴史がねじ曲がるような気もしますが。
米沢 どういう人がどうやって読むかにもよるけど、結局年表作りのノイズが入りっぱなしだから難しいよね。最終的なインデックスを作るのがいいんだろうけど、それは年表として意味をなさなくなっちゃう。流れとねじれが見えないと面白くないから。出来事の羅列だけでそこから物語を読みとるには、読者に知識が必要とされる気がする。それに歪んだ年表を作ったとき、その時はいろいろ言われるんだろうけど、10年経ったら資料になっちゃうからね。そうして歪んだものばかりが残ってゆく。それは分かっているんですが。
鳥羽が先か手塚が先か
●――「戦後」という括りについて伺いたいんですけど。
米沢 まあ、マンガ前史として少しは考えて入れてあるんだけれど、まず本が高価い。現物を持ってる人にコレクターの方が多くて、出してくれないんですよ。戦後の手塚治虫*20から読みはじめた人たちは、こっちよりちょっと上の、いわゆる団塊の世代程度なので、まだ貸してもらったり見せてもらったりできるんだよね。それにやっぱり、マンガは戦争で一度流れが切れてるからね。今言うところのマンガと戦前言っていたマンガとはカタチが違う。今あるマンガはストーリーマンガっていうことで、手塚を始まりに置いた方がラクだったの。主人公としての手塚を配するとわかりやすい。
●――「日本で一番最初のマンガは鳥羽僧正*21の『鳥獣戯画』だ」って言い方がありますが、それに対して昔、呉智英*22が「その論法の無意味なことは、新聞が戦争記事を報道する起源を、琵琶法師が平家物語を演ずるのにもとめるのと同じである」と書いたのを読んだ時、そっちの方が面白いじゃんと思ったんですが。
米沢 戦前に出たマンガの歴史書ってのが有るんですよ。そこには必ず『鳥獣戯画』や法隆寺の落書きとかが載ってたの。そこにあった権威づけのための言い回しなの。まだ手塚の登場しない時代にマンガについて書かれたとしたら、そうならざるを得ないよね。講談が「書き講談」に移って立川文庫みたいなものが生まれて、戦後になると紙芝居が絵物語に続いてゆくことを考えると、語りモノと紙芝居との間に「物語を演ずる」という共通項があるし、また、簡単な絵で表現するということを考えれば、ラクガキみたいなものがマンガの起源と考えられるよね。まあ、どうでもいいんだけど。
そんなにムキになる必要ないから、学生さんに評す時は「こんなに古い歴史があるぞ」と言った方が「おお、そうか」と思うワケだし。分かってる連中に話す時は手塚から始めればいいワケで。アルタミラの洞窟がアニメのスタートとしたほうがやっぱり面白い。
●――そういえば、マンガ年表の下敷きとして、石子順造の『戦後マンガ史ノート』*23が使われることが多かったと聞きますが。
米沢 やっぱり基本にしちゃうよね。あの時点であったのはアレだけだから。そういうモノが有るとラクなんで、削ったり足したりして。ファンが同人誌で出したリストや、社史は結構使える。大手の出版社は社史は出すものだけど、エロマンガ史なんてやってると、参考になるのは芳文社の社史『芳文社20年のあゆみ』しかないんですよ。まあ、『週刊漫画TIMES』についてはこれで20年くらいわかるわけなんだけど、巻末に「漫画雑誌発行総覧」というのがあって、日本出版協会出版科学研究所というところが書いてる。ここには、知らないマンガ雑誌がたくさん出てるんだよね。でも、創刊年しか書いてないんだ。こういうものを見ながら、例えば『漫画ボイン』という雑誌の5号を手にいれたとしたら、隔週水曜日発売というのを見て、逆算して創刊月を出すの。それから、賞のリストなんかも、不完全なモノでもあるとラクなので。
●――マンガ史の中ではどういう扱いなんですか。言ってしまえばお祭りのダシみたいなモノですよね。
米沢 ただ、この年何が売れたかということだし、事例としては分かりやすい。
●――でも、漫画協会賞なんて趣味にかなり走ってるように見えますけど。そのワケわかんないところが面白いですが。手塚賞とかはどうなりますか。
米沢 新人マンガ賞だから、藤子不二雄賞、手塚・赤塚賞、ちばてつや賞*24なんかは、マンガ史にはあまり意味がない。佳作まで拾わないと。デビュー作というのはあるんだけどね。
●――この前、大西祥平*25によるインタビューで、早見純*26が高橋留美子*27と同じ賞を受賞してた話、そういう話はエピソードとして面白いですよね。ちばてつや賞なんて、斬新な作家が出てきますけど、アレは本当にはやってるんでしょうか。だとしたら、流石のセンスだなあ。
米沢 わかりません。でも『モーニング』の趣味は確かにヘンだから、そういったものを編集者が何本か選んで、それを更にちばさんが見て選ぶのかもしれない。すごくレパートリー広い作家だから、自分みたいなマンガじゃないとダメって感じでなく選ぶと思うから(選者としても)良い人みたいね。そういえば、娘さんが同人誌やってて、この前挨拶された。「『幽白』*28やってるんですよ、よろしくお願いします」って。
マンガの星座を造る人
●――「もしも細川たかしがパトカーだったら」とか栗田貫一*29のネタみたいな、残像の重ね合わせの快感に重きを置いたマンガ批評って多いですけど、その比較が一目でわかったら面白いですよね。面白いだけで何も生まれませんが。
米沢 少女マンガの目の形の変遷、幾つかやったことあるけどね。インパクトあるけど、一作家、一ネタのワンアイデア一発ネタでしかないよね。
●――辰巳ヨシヒロの『劇画の星座』(『劇画大学』*30所収)みたいな人脈図も面白いですね。
米沢 『COM』に『漫画山脈』*31みたいなのもあったよね。
●――個人的な質問なんですが、画の影響について、ひとつ謎に思っている事があって、花輪和一*32のデビュー作のキャラクターが、どうして成熟した形で日野日出志*33の描くキャラクターに似ていたのかって事なんですけど。
米沢 杉浦茂*34の影響じゃないかな。
●――そうなんです。両者とも杉浦茂から影響を受けたというのは聞くんですが、目の離れた子供の絵はそれでいいとして、老人の顔が似ているのはどういうワケなんでしょう。
米沢 老人ねぇ。あの頃のマンガにはつげ義春の描く老人も強い影響与えてると思う。あれにしても土門拳とかの写真から取ってきてるんじゃないかと思うんだ。花輪和一もその頃デビューしたと思うんだけど、通常マンガに描かれるのは少年少女であってあまり老人なんて描かないんだよね。って、手近なものをモデルにしてしまうことも多かったと思う。自己流にアレンジしてね。
●――じゃあ、花輪和一が日野日出志を模したというのもあり得る?
米沢 あり得るかも知れないけれど、もっと他の理由かも知れない。『週刊新潮』の谷内六郎*35なんかが描いたノスタルジーに関係あるかもしれない。郷愁を帯びた民芸的な絵や、郷土玩具にもああいった老人の顔は珍しくないんですよ。川上澄生とかね。
●――確かに、木版画や切り絵の人物は、どれも顔が似てしまいがちですね。
米沢 童画や民話の挿絵とかも含めてそういうモノの中には、いつも子供と老人が居るんですよ。そういうことだと思うんですけどね。
●――ああ、この質問について納得する推測を初めてもらった。もう、御本人に聞くしかないと思ってたんですが、その答えで充分です。やっぱり米沢さん、そうやって図像で星座を作るのが見事ですね。風が吹けば桶屋が儲かる話のウキウキする感じが。マンガの流れって、結局米沢さんが作ったもので、それに俺らが巻き込まれてるような気がしてきたなあ。
米沢 結局、図像文化や大衆文化を評論するには直感が一番正しいと思うんですよ。ピンと来るかどうかなんだよ。間違ってたらすぐ訂正すればいい。そこに潜む謎や物語を読みとれるかどうか。私のマンガ評論が何でエログロナンセンスに行きつくかっていうと、(マンガ読者は)エログロナンセンスが好きだからなんだよね。そこに捉えられている。でもみんな、恥ずかしいのかあまりそれを言わないんだ。
●――手塚治虫をエログロだって言ったのも米沢さんが最初ですよね。僕も多分、エログロナンセンスにしか興味無いんで、米沢さんの仕事にピンと来ちゃうんです。だから僕には空想上の米沢塾の一番後ろの席でよそ見したり鼻ほじってたりしてる自分というのがいつも有るんです。で、一番前の席では赤田さんとかが、真面目にキチンとノート取ってんです。
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「マンガはそぎゃん甘かもんじゃなかばい!」空想上の熊本弁で一喝されるシミュレーション訓練が全く無駄になるほど、つつがなく授業終了。色々勉強になりました。
米沢さんという人は博覧強記であるにも関わらず、微塵も偉ぶらない人で、こんなインチキマンガライターにも同じ高さの目線で話してくれる人です。でも、「○○やってる人たちは頭が悪いから」とか「もう○○から新しい話なんか聞けるワケないでしょ」とか「○○は○○から告訴されて○○を憎んでる」とか、穏やかな口調で割と言っちゃう人なんですよ。そこは、文中からスッパリ削りましたが。こういう悪態は若手の役目でしょう。
「年表は歪んでた方が面白い」という言葉は印象的でした。油断のならない言葉でシビレます。どうせ作るなら、ひとつふたつは米沢さんにウケを取りたいというのが今の気持ち。嘘を書いてでも。いや嘘はいかんですね。こんな調子で授業は続きます。今回はここらでチャイム。
*1:戦後マンガ史三部作
80〜81年、新評社から刊行された米沢嘉博の著作。『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』『戦後ギャグマンガ史』からなる。マンガの流れの細やかな追跡が魅力で、後年「マンガライターの虎の巻」として長年重宝されてきたが、絶版となって久しい。しかし、これが弱冠27歳の仕事という驚き。米沢氏には、この後も『戦後怪奇マンガ史』の構想があったが実を結んでいない。『戦後エロマンガ史』は、現在『アックス』(青林工藝舎)で連載中。
*2:群雄社
エロ本からNYカルチャーマップまで。薬師丸ひろ子本から筒井康隆本まで。豪華本『陽炎座』から『ロリコン大全集』まで。B級ならではの面白ければ何でもありな魅力に溢れていた伝説の出版社。その伝説は竹熊健太郎&但馬オサムの「天井桟敷の人々」(QJ12〜17号にて連載)を。
*3:赤田祐一(1961〜)
編集者。80年代初頭には『宝島』での「マンガ至上主義!」他、マンガに関するコラムを執筆。飛鳥新社に入社し『磯野家の謎』でマンガ謎本ブームを起こし、後に雑誌『クイック・ジャパン』を立ち上げ太田出版へ。ここでもQJマンガ選書で復刻マンガブームを起こした、マンガ出版の風雲児。現在まんだらけ所属。
*4:杉田健一
マンガ研究家。特に少女マンガ系に詳しく『少女フレンド』他主要少女誌の掲載作品リストなどを作成。『別冊太陽』などのムック本では資料協力として必ず登場。
*5:川崎市民ミュージアム
マンガ担当学芸員・細萱敦を中心に、これまでに「ガロ三十年展」「鳥山明展」「少女マンガ展」「畑中純展」などを手がけてきた美術館。97年より、有志に自発的な団体「マンガ史研究会」を発足、月1度例会を開くなど活発な活動を続けている。
*6:高野文子(1957〜)
マンガ家。新潟出身。同人誌活動を経て79年『絶対安全剃刀』でデビュー。その寡作ぶりには拍車がかかる一方だが、新作を発表するたびに斬新なマンガ表現を提示する。気負いを感じさせない、しかし完璧な仕事は日本の宝(きっぱり)。代表作『棒がいっぽん』(作品集/マガジンハウス)。マンガ家初期に並行して病院勤務をしていたと聞いて、看護婦のような繊細と逞しさが同居した作風に納得するのは俺だけか。
*7:宮谷一彦(1940〜)
マンガ家。急進的無政府主義者。『COM』67年5月号に『ねむりにつくとき』でデビュー。緻密な描写で、ジャズや革命のにおいをマンガに持ち込み若者の支持を得る。近年は沈黙が続いていたが、太田出版からの単行本化などで新たなファンを掴んだようだ。数年前『コミックビンゴ』終刊号に久々に描いた作品中にはQJ創刊編集長・赤田祐一の名前も見える。
*8:蛭田達也(1961〜)
マンガ家。81年、少年マガジン第27回新人賞に『コータローまかりとおる!』で選ばれ、以降現在まで『コータロー』をまかりとおらせたら右に出る者はいない(文中、作品が『コータローまかりとおる!』のみのように書かれているが、そんなことはない。少なくとも新『コータローまかりとおる!』があるので)。代表作『コータローまかりとおる!』。
*9:『日本ロック大百科』
91年、JICC出版局。50年代のロカビリー期から90年代のバンドブーム期までの日本ロックの歴史を、緻密な年表のみで追った力作。
*10:『ハロウィン』
朝日ソノラマより、86年に創刊した、ホラー少女マンガ誌の先駆けとなった雑誌。新人賞として「楳図賞」を設け、伊藤潤二らを輩出。98年に突然廃刊。
*11:のび太植物人間説。88年頃、小中学生を中心に流行した噂。『ドラえもん』の最終回は、実はのび太が植物人間で、『ドラえもん』の物語はすべてのび太の夢の中の話だった、というもの。98年になってパソコンが流通すると、今度はこの話を小説仕立てにしたものがメールでばらまかれるいたずらが行われ、小さな騒ぎとなった。
*12:『漫画の歴史』(清水勲/岩波書店/1991)
現在最も手に入れやすいマンガ史書の定番。著者は近代マンガの研究者として知られ、3分の2を読み進んでやっと手塚治虫が登場するような感じだが、目のつけ所がマンガのオモシロ表現に集中しているため、現在お馴染みの表現方法の誕生が絶妙な図版入りで綴られ退屈しない。赤塚不二夫の描く、レレレのおじさんの足のようにいくつも足を描いて動きを表す手法、あれは1847年にもワーグマンがやっていたことなど、興味深い話が目白押し。明治期の画家出身の風刺マンガ家、小林清親の今となってはグロテスクな魅力は、比喩の意味がちっとも分からない不勉強な者にも面白く、そんな読者もよしとしてくれそうな清水氏の茶目っ気も伺える(清水勲といえばビゴーにも詳しく、岩波文庫『ビゴー日本素描集』は50ページにわたる年譜が圧巻だが、こちらも解説の茶目っ気がまたいいんだ)。堅い本だと思われがちだが、読みやすく内容の濃い一冊。
*13:中尊寺ゆつこ(1962〜)
マンガ家。少女モデル時代を経て駒沢大学。卒業時から青年誌を中心に活躍、即物的な女性上位ギャグを描く。90年、「オヤジギャル」で流行語大賞受賞。学生時代に「ロシアバレエ団」というバンド活動をしていたことも知られるが、タレントとしても露出。91年、ヒット作『お嬢だん』がドラマ化されたが、その主役を作者が演じるという、マンガ映像化史上類を見ない業を成し遂げる。何故か、清水勲の琴線に触れたためマンガ史に名を残すハメに。小学校1年生の時にテレビ出演、谷岡ヤスジに天才マンガ少女と絶賛されたエピソードはポイント高い。
*14:『漫画主義』
67年3月、石子順造、梶井純、菊池浅次郎、権藤晋の4人の同人が中心になって創刊された初の難解マンガ評論誌。つげ義春、水木しげる、白土三平などの作品を論じ、作品リストを掲載するなど、貸本・『ガロ』の系譜にこだわる。74年4月までに22号を数えた。赤瀬川原平によるパッケージのカッコ良さは特筆すべき。
*15:『人間時計』
徳南晴一郎作、貸本時代の怪奇SFマンガの奇書として、カルト的に支持される。入手困難であったが現在小社より発売中。
*16:『巨乳ちゃん』
ぶんか社より発行された岩谷テンホーを主軸としたお色気系4コマ雑誌『みこすり半劇場』の増刊雑誌。マンガ雑誌のタイトルの抽象性を明らかにする直球。少年ジャンプって何よ、少年飛び?とでも言いたげ。
*17:吾妻ひでお(1950〜)
マンガ家。北海道出身。『リングサイドクレージー』で『まんが王』よりデビュー(吾妻日出夫名義)。ギャグマンガ家として少年誌で活躍するが、70年代後期より独特のシュールなギャグがSFファンに注目されはじめ、マンガマニアにも圧倒的な支持を受ける。『不条理日記』で星雲賞受賞。代表作『やけくそ天使』。研究書に『吾妻ひでお大全集』がある。ここで吾妻ひでおの名がわざわざ出されたのは、米沢氏が、吾妻ひでおを評論するという名目のみで「阿島俊」というペンネームを持っていたことに関係する。このペンネームでの文章は米沢名義よりもやや軽いイメージがあり同人誌評などにも使用された。米沢氏には他にも「相田洋」などいくつかのペンネームを使用していた。
*18:『マンガ伝』(村上知彦・高取英・米沢嘉博/平凡社/1987)
70年から87年までの日本のマンガの流れを各人がジャンル別に総括。巻末に70年から86年までのマンガ年表もついているので、データ本としては非常に使えます。『戦後マンガ史ノート』の年表のあとの年代もフォローしているのであわせて使うといいかも。
*19:米沢さんの似顔絵。これです。
*20:手塚治虫(1928〜1989)
マンガ家。マンガの神様の異名を持つ虫。
*21:鳥羽僧正
文学者・源隆国の子である天台僧・覚猷(1053〜1140)が、鳥羽離宮内に住んだ時の呼び名。平安時代後期から鎌倉時代にかけて作成されたとされる『国宝鳥獣人物戯画』(通称『鳥獣戯画』)の作者とされる人物。
*22:呉智英(1946〜)
たぶん、本名で『漫画主義』に投稿した原稿が評論活動のスタート。評論分野はマンガのみにとどまらないが、現在マンガ評論を手がける評論家の中で最も影響力を持つ1人。この人の仕事を振り返ってみると、樹勝平、山松ゆうきち、鈴木漁生といった地味な作家の作品もきちんとリアルタイムで評価していたことが分かる。『アックス』誌上で毎年「マンガ評論新人賞」を自腹を切って主催。
*23:『戦後マンガ史ノート』(石子順造/紀伊國屋書店/1975)
『漫画主義』同人の中心メンバーである石子が、日本の戦後マンガを状況論的に点検。同人の中では一番客観的な視線を持つ石子によって戦後マンガの流れが捉えられており、劇画へのこだわりも好感を持って読める。巻末には長谷川正信作成による詳細な「戦後マンガ史年表」が付され、今も類書の定番として読みつがれている。
*24:ちばてつや賞
講談社が主催するマンガ新人賞の1部門。みうらじゅん、山田花子、三本義治、華倫変などの才能を見い出した。ちばてつやの目に注目。文中の他の賞、手塚・赤塚賞は集英社、藤子賞は小学館が主催している。
*25:大西祥平(1971〜)
新進マンガ探検家。『マンガ地獄変』(水声社)でブレイク。積極的な作家本人への接近と、一見マンガ批評とは無関係なエピソードにマンガを読み取るようなグルーヴィな文章が同世代の共感を得る(たぶん)。劇画史研究家・斧田小(浅川満寛)とともに「ひよこ書房」を結成。松本正彦の一番の失敗作『パンダラブー』を敢えて一番に復刻。ひよこ書房では2001年も松本作品をはじめとする復刻を企画中とか。
*26:早見純(生年不明)
マンガ家。77年『雪山の対決』で第2回小学館新人コミック大賞に佳作入選、翌年同作品で『増刊少年サンデー』よりデビュー。83年にエロマンガ家として再デビュー。パーソナル感の無い美少女殺戮を描き続け、リアルタイムで触れた読者にはそこそこ名前を聞いただけでブルーになる者も多い。90年代後半になって、見落とされがちだった情緒やユーモアも良識あるマンガファンの眉をひそめさせる。
*27:高橋留美子(1957〜)
マンガ家。「けも・こびる」の名もある。新潟県出身。小池一夫の劇画村塾1期生。77年『勝手なやつら』で第2回小学館新人コミック大賞に佳作入選、翌年同作品で『週刊少年サンデー』よりデビュー。日本の土俗を感じさせる怪奇的なキャラクターが跳梁する、エログロナンセンスSFコメディー『うる星やつら』で81年小学館漫画賞受賞。主人公の艶に多くの男性が悩まされ、マシュー・スゥイートはその姿を我が身に彫り込んだ。代表作『めぞん一刻』。
*28:幽白
マンガ『幽遊白書』(冨樫義博)の愛称。特定のマンガファンがタイトルを愛着こめて短縮呼称するのは、79年にアニメファンが『銀河鉄道999』を「銀鉄」と呼んだあたりが始まりかと思われ、その後も『キャプテン翼』を「キャプ翼」「つば」、『ぼくの地球を守って』を「ぼく地球」「ぼく球」など多くのバリエーションを生む。マンガタイトルの短縮呼称自体は「オバQ」がよく知られるが、遡れば、大正13年に『ノンキナトウサン』(麻生豊)が「ノントウ」と呼ばれたことが最初。
*29:栗田貫一(1958〜)
声帯模写芸人。「もしも〜が、だったら」という声帯模写のパターンを考案。モノマネ四天王のひとりとして活躍。自身の持ちネタでもあり、ゴルフ仲間でもあった山田康雄の死後その意志を継ぎ、声帯模写の域を越えて『ルパン三世』の声の再生に努める。
*30:『劇画大学』(辰巳ヨシヒロ/ヒロ書房/1968)
劇画の創始者・辰巳ヨシヒロが著した、劇画の発生前後の流れを俯瞰し「劇画とは何か」を問う本。「劇画星座」のコーナーは『COM』の「まんが火山連峰」と見た目は似ているが、あくまで対象は劇画。現在マンガ作品をかいているが、将来劇画作品を描く可能性のある作家も加えたってわざわざ書いてあるところが泣かせる。「劇画家のプロフィール」コーナーでは白土三平など28名の作家の談話が載っており、貴重。
*31:『漫画山脈』
『COM』1967年8月号掲載の「まんが火山連峰」のこと。マンガ家間のつながりをいくつかに系統分けし、ファミリーツリー的にあらわしたもので、当時のマンガ家の勢力関係がわかる(?)。同誌では峠あかね(マンガ家・真崎守の別ペンネーム)によるマンガ研究的なていねいな記事がよく掲載されていた。
*32:花輪和一(1947〜)
マンガ家。71年『かんのむし』で『ガロ』よりデビュー。昭和初期の挿絵画家を思わせる画で、猟奇ナンセンス、中世を舞台にした奇譚を描く。94年、改造銃所持をきっかけに実刑3年、その経験を描いた『刑務所の中』が代表作。下図は『繭』(青林堂)より。
*33:日野日出志(1946〜)
マンガ家。満州出身。67年『冷たい汗』で『COM』よりデビュー。70年『蔵六の奇病』を発表以降、子供の悪夢のような独特の怪奇マンガを発表し続ける。代表作『毒虫小僧』ほか。下図は日野日出志『七色の毒蜘蛛』(ひばり書房)より。
*34:杉浦茂(1908〜2000)
マンガ家。東京出身。油絵を学んで後、田河水泡に師事。1933年『どうも近ごろ物騒でいけねえ』で題する1コマで東京朝日新聞よりデビュー。1950年代に人気を博した奇天烈でやんちゃなマンガは、70年代に入ってシュール・ポップ・サイケの視点からも再評価され、以降度々注目を浴び、多くの表現者に愛されている。総合的な作品集『杉浦茂マンガ館』が筑摩書房から出ている。バラエティ本『まるごと杉浦茂』(ペップ出版)は研究書に止まらぬ面白さで、自筆年譜も貴重。マーク・バイヤーが訪ねてきた際、おでんを出したというエピソード他、赤田祐一によるインタビューも見どころ。
*35:谷内六郎(1921〜81)
マンガ家。画家。1930年より20年余りを持病のゼンソクにより、病床で過ごす。昭和21年『真実一郎くん』を民放に発表。昭和30年第1回文藝春秋漫画賞受賞。直後に自殺未遂。復帰が懸念されたが、昭和31年創刊した『週刊新潮』の表紙を、以降25年休まず描き続けた。自分のことを「おさな心専門のマンガ家」と称していた。
相田洋「まんが同人誌の現況―コミケットを中心に―」(迷宮'78『漫画新批評大系』第2期第3号/1978年7月29日発行/頒布=コミケット9)
『漫画新批評大系』第2期第3号では「まんが同人誌'78」と銘打った特集が行われた。ここで相田洋(米沢嘉博が『漫画新批評大系』で用いたペンネーム。以後「米沢」とする)は、1978年当時の同人誌界とコミケットの現状を批判的に総括している。『COM』廃刊後の停滞を経て、1975年冬にコミケットが始まると、少女まんが、ファンクラブ、アニメ、批評誌など多様な活動が集まり、安価な印刷所の登場もあって同人誌は急速に量的拡大を遂げた。一方、米沢はその隆盛を無条件には肯定せず、商業作家の模倣や仲間内の遊び、編集方針を欠いた粗製濫造を厳しく批判した。まだ当時のコミケットは草創期にあり、急成長と同時に生じた矛盾を内部から捉えた貴重な同時代資料である。(引用者注)
相田洋「まんが同人誌の現況―コミケットを中心に―」(特集/まんが同人誌'78)
プロになる為に腕を磨く。かっての同人会は、その為の場としてあった。肉筆回覧誌に発表されたそれぞれの作品を、それぞれが批評し、互いに切磋琢磨する。肉筆同人誌とは、皆が共に前進する為に乗り込んだ船のようなものだった。小説等の同人会がプロの前段階としての意味を持つのと同じにマンガ同人の目標とは「プロ」だった。
「COM」のグラコンの設定、コピー、ガリ等の産業革命もあって、多くの人に見せる、あるいは個人が所有するという形に同人誌がなった時、それは場としてより、プロ意識の意味を持つ。「COM」と永島慎二は自己を仮託できる「青春マンガ」という幻想を送り出し、マンガを自己表現として捉える文学青年的志向とそれは重なり、自らの作品を一般に向けて撃ち出していくという方向も生まれる。だが、大方はマンガと陶酔とマスターベーションに終始していた。そうした連中が求めるのは「COM」で作品を発表することだったのだ。一方、ファン、マニアの形成も進みつつあり、SFファンダムを模しながら、読み手側の動きとしてFCも生れ始めていた。それはCOM幻想を基盤として成り立っていたということだ。
COMの廃刊を機に、グラコンの流れを受け継ぐべく、アップルコアの出現、作画グループの動き等も含めて、商業誌とは違った形のファン出版、不特定多数相手の作品を見せる本が出てくる。だが、グラコン以後、多くのサークルは沈黙したまま、幾つかのグループだけが地道に活動を続けていく。折から起ったミニコミ運動の中に呑み込まれていくグループもあり、個人活動は沈滞していく。作画グループ、アズ、奇人クラブ等現在も活動を続けているグループだけが残る。
マンガファンの活動としてはマンガ大会だけが突出し、同人誌は集約的にここに集まることになった。が、創作同人誌は少なく、FC関係が伸びていた。アップルコアは四号出してつぶれ、大学漫研が創作同人誌の大勢を占めることになる。
S50年、不思議な仲間たちの創刊。火の消えていた同人誌界に、かつてのCOMの流れにある「本当におもしろいマンガを目指した非商業誌」が出て来たのだ。まだ、オフセット誌は同人誌の中では少なく、仲間内のコピー誌等が多かった。
この年の12月にコミックマーケットが開始される。マンガ大会の機能の一部を拡大した、マンガ同人誌即売会=コミケットは、沈滞した同人界に熱をもたらす為に、迷宮を土台にしたコミケット準備会によって企画された。
第一回目は三十余りのサークルによって開かれた。その内わけは、FC少女、創作同人誌が大勢を占め、コピーという形式もかなり多かった。クイーン、漫画新批評大系、ラブ・モトに人気が集まり、少女マンガファンのお祭り的イメージが想定された感もあるが、二回、三回と続く内にサークル数は二十単位で増え、前回の第八回には百四十のサークルが集まり、FC、アニメ、批評誌なども含めた多様化したファン活動が展開している。
見た目には同人誌は花盛りだ。長く活動していた隠れたサークルがコミケットに参加してきたこともあるが、折からの萩尾少女マンガブーム、コミケットの一般参加者が次の回には売り手に回るというサイクルの確立と共に、量だけは膨大なものになっていく。
安い印刷所が出てきたこともあり、かってのコピー、ガリといった形は駆逐され、同人誌はオフというのは常識になってしまった。まともに印刷すること、さばくのには何年もかかるという状況は、コミケットという売り場の定着、そして一般書店からの色目の前に打破され、百〜三百といった部数はどんなものでもさばけるという状態ができあがってしまったのだ。
編集不在、作品不在、姿勢不在の、好きなものが集まって作りました式の同人誌も多く、同人活動という新しい遊びにとびついた連中も少くない。
また、そこに寄せられた作品の多くは、描き手の好きな作家が色濃く反映しており、誰それ先生風の絵ということで、それなりの人気を得ているのだ。はっきりいって、数百部のオフにして見せる必要のないものもそこには多い。自分達の同人誌を売る為に、人気のある作家を利用するという風潮もあり、同人誌の買い手側の姿勢すら問題になってくるのだ。
何故、プロよりも劣る作品が集まった同人誌を買うのかという問題がある。本屋に行けば最低のおもしろさを保証してくれるマンガ本がゴマンとあふれているではないか。小学生と中学生の出した同人誌という謳い文句で売っていた同人誌すらマンガ市にはあふれているといえる。
何の為にオフで印刷して多くの人に見せるのかという問題は全てのサークルにのしかかってくるはずだ。手軽に本が出来、好きなように作れるというのは同人誌の特権なのだが、かつて同人誌の為にバイトをして印刷費を出していたような時代があったことを考えると、甘い状況に寄りかかっている今の状態は、サークルの甘さを助長していくような気がする。
それを力として、進むことこそ必要だ。
同人誌にとって、読者がおり、安い印刷所があるということは、最良の状態のはずだ。だとしたら、もっとおもしろい作品が、おもしろい同人誌がでてこなければならない。総体としてのマンガの中に、同人誌マンガという形を一つの位置として確立する方向に動くのは、まちがいなく一つの突破口だ。プロより劣るマンガが同人誌マンガなら、やっている意味は何処にもない。おもしろい作品を、新しい作品をの言葉だけはからまわりしたまま、明日を待ち望むには、もうあきた。結実のカケラでも示してくれればいいのだが――。
では、「現在の状況は」といったら、作品に限ってもかなりの幅を持って展開されている。というより、マンガ総体の幅を踏襲した形のパロディといった方がいいかも知れない。いや、それに同人誌的作品が加わった分だけ幅はプロのそれより広いかもしれない。にしても、その一つ一つに力(インパクト)がないのは同人誌という場所のせいと、個々の作家のせいもある。つまり、同人誌で読んだという前提、加えて、手を抜く、短篇(というよりショート、ショート)という状態がある。投稿原稿には手を抜かずとも、同人誌はお遊びで充分という状態は、サロン的お遊びに埋没していく同人誌の状況を如実に反映しているといえるだろう。そういった形の作品、サークルは確かに多い。そのお遊びが同人誌の楽しさに転化している所もあるにはあるのだが。
まずは、ロックを媒体としてマンガイラスト中心の雑誌を出すところだ。ロックのイメージに視覚的に結構シビアに取り組んでいるMETYは、ブティック系のロックをバッグボーンに持っているところがあり、そのせいもあってか、ハードな姿勢を見せている。だが言葉と絵とがからまっていず、マンガか?という点には疑問が残る。
ロック系の大物・薔薇十字団は、ツェッペリン、パープル、クイーン、エアロといったハードロック系グループへの傾斜を見せ、イラスト、ロッカーを扱ったお遊びで紙面を埋めている。ロックを糸にして読者を掴み、人気を得ているが、作品そのものを生みだせないFCの性格をもっている。これが作品という形をとりはじめると、プロのアシスタントを母体とするクイーンの系列へとつらなっていく。
美形アーティストへ寄せる想いと、木原敏江系の絵とが合体した華麗なイラストと、プロの力を借りた紙面作りは確かに人気を得る要素を持っているが、新しい画というものをそこに感じることはできない。
だが現在、コミケットにおけるスターというものが形成されている中、その急先鋒にたつのは、このロック系少女マンガ同人誌の作家達なのだ。所謂マンガと呼ばれるものは、ロッキンオンのスター竹田やよい、北河悠梨、石真琴、そうびりんこ、といった連中がいる。
これに美少年趣味というか、同性愛指向を前面に押し出しているのに、バップグラフ、サンジェルマン通りのペデ達、アリスなどがこれらホモ系の代表格だろう。同人誌でしか出来ない露骨な、お遊びの精神を含んだホモへの傾斜がその特長だが、ここには特異なホモマンガのスター達が存在する。あさやいをみ、萩美穂、くるまなち、といった作家がそうだ。
そういったある意味での趣味をコアにしたグループがある。一方、少女マンガの動きを敏感に察知しながら流動位置づけとして、実力のある少女マンガ系サークルとして、風変りな詩人達、サバト、SMクラブ、蘭丸boy boy boyといった派手な所、オーディン、ハイポリオン、フライミイといった力のあるサークルなどがある。こういったサークルは、プロを生みだす体質と環境、力を備えている。
もっともプロになっても同人誌に作品を描くといった部分があり、人間関係がそれを支えているところがある。この手のグループは別に同人誌にこだわっている事はまったくないようである。かなりには、ほとんど商業誌の路線を追っているといえるだろう。横沢亜利沙、イ・S土門、みかみなち、水星茜、芳村梨絵などがそこにはいる。
だが、少女マンガ系サークルの多くは、プロのまね的稚拙なマンガと一人の比較的まともな描き手によって形成されている。つまり、一冊におもしろいのが一作程度という同人誌自体の現状そのものが、それらだ。
個人誌的性格を撃ちだし、粒のそろった絵魔、めるへんめーかーのアティック、二月館、青い卵一人の会のような、個人それ自体を軸といった形態の方が、ある意味ではおもしろさを保証していくと思われる。そのクラフトマガジン的性格を現わしているといえる。――というところが少女マンガ系同人誌のアラカタだ。
少年マンガ系というのは本当に少なく、SFを媒体にしたコスモ、かってはコスモの目標であった作画グループなど、大手サークルの他は少ない。かえって、アニメ、少女マンガの部分を持ったメチオールなどの方が、おもしろい部分も多い。
以上書いたサークルの殆くは、同人誌的ということへのこだわりは少ない。マンガを描くという事を楽しみ、同人活動を楽しみ、あわよくばプロに――という関わりだ。それはそれで正解なのだ。だが、同人誌の作品と、マンガの地平の拡大へ向けて編成するという方向性のなかでは、単なる増殖作用のこれらの部分は、核にはなりえない。
COMの流れから、所謂自己の表出という表現にしぼって作品を描く、古い形の同人誌もある。もちろん、それは多数の問題だ。かつてのCOMの表層マンガをそのまま踏襲するイモくささはないが、少年マンガにこだわらず新しいスタイルを模索していくというには、もう一つふっきれていない部分がある。日漫研、奇人クラブ、そのへんくらいでは、そのまじめさと地道な活動は評価できるが、インパクトのある作品を生みだしてはいない。そういった意味ではサロン的な部分で良質の作家を抱える楽書館、独自の活動を続けるチャネルゼロといったサークルの方が、状況の中でより翔べる可能性を持っているといえるだろう。
テーマなどは比較的軽いのだが、そのセンスにおいて、受ける要素と新しさを備えている点が強い。彼らのほとんどがCOM体験を経てきているのとは違って、その下の世代からもいくつかのオーソドックスな同人誌も出て来ている。ギャグに強いアングラ、学園の匂いのあるぷあこーぽ、意欲的に誌面の作品を描こうとする心情的に戻るべきCOMを持たないだけ、新しいものを生みだしていく姿勢が強い。ただ、それが再生産でないとは決していえないのだ。
歴史の古いアズなどは、そういった部分を残しながら、少女マンガも少年マンガも取り込んでしまって、なおかつ、アズのカラーを持つサークルだ。地方に定着した活動故の強さが、トータルな意識と幅、それをまとめる一本の線をとおしている。だがそれぞれの作家がある意味でぶたまってしまっている為、それから先――という点には期待薄だ。
青年マンガ――ガロ、ヤンコミ的流れも少ないながら生きている。その多くは、学内サークル誌の中にある。もっとも、学内サークルは、誌の主張、統一性の点では欠ける部分があり、ごたまぜの感はまぬがれない。ただ、女子大系のサークルには、知的部分を活かすことで、読み応えのある作品、意識的作家を生み出すこともある。ばるぼら、やっぱるー、びびっとなどは、コミケットでの人気も高く、湯田伸子、葉村ふみ、愛川真理、高橋留美子などのスター的描き手もいる。
青年劇画の手法で同人にこだわりながら、カルチャーにまで拡がる運動を展開しようとするバサラ。私的にそれを展開する蜃気楼などは70年代の匂いを伝えることはあっても、その熱を感ずることは少ない。
これが現状だ。
自らの作品に対する方法論の欠如と、プロのエピゴーネンとお遊びの乱舞のなか、お祭り騒ぎは最高潮だ。ファッションの時代は、うわべの喧騒だけを演出する。少女マンガブームの次の餌食にされたり、ブームの下請けに終始している限り、同人誌はいたずらに水増しされたマンガファンのふきだまり化していくだろう。
かといって、同人誌にこだわるのはゲットーへの囲い込みを意味する。言葉だけでもいい、状況を乗り越える熱と、方法論の構築を提示する時期にきているのかもしれない。
――了――
【コミケの起源】迷宮'75「運動宣言―テロルとパロルのアラベスクから状況の明日を撃て!―」(所載『漫画新批評大系』創刊準備号)
所載:迷宮'75『漫画新批評大系』創刊準備号(1975年7月26日発行)
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今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した。
沈滞と倦怠のどんよりとたれこめる中、想像の翼はその重みに耐えかね、感性の扉は、カーテンを閉ざしたまま晴れる日を知らない。果てしないルーティン・ワークの果てには、模倣の跳躍する不毛の季節(とき)が待っている。かつてCOM誌上においてほのかにみえた地平線の拡がりこそマンガの行く道であったにも関わらず、最早それは、いくばくかの郷愁(ノスタルジー)と自嘲をこめて以外、語られることはない。吸血鬼へとすべての幻想(ファンタジィ)が集約される時代とは、いっさいの新たな生命の創造が行なわれず、いたずらな自己増殖とエナジイの水増しのみが、はびこる時代なのである。
我々は、このような状況に対し、渾身の力をこめて“死刑!”と宣告するものである。マンガに秘められたあらゆる面白さの可能性を、マスコミのバスチーユから解放せねばならない。と同時に、このマンシャンレジームを側面的に支持している、現在のファンダム状況もまた、変革の対象となろう。右に大手出版資本、左に固執的大手マニア・グループを相手に回し、今こそ自己満足の孤峰から下りて語る時が来た。
マンガとは、マンガ状況とは、それを一つの遊び空間と認識したうえで、我々にとって、その中で生き、息づいている世界である。チェシャー猫が出没するアリスの国であり、上帝の支配する門の世界である。我々の求めるのは、まさしく、この世界の国境線を、無限のかなたへと爆発させることなのだ!
だが、状況のすべては、全く逆である。「マンガ」のあらゆる分野において、顕著にみられるのは、現状の固定化―作家の、作品の、そして読者の、商品化と消耗品化なのである。スーパーマーケット的規格品、安モノ化が横行している。連載は、興奮へのクレジット販売のこととなる。その中で、いかに多くの変革の意志が、すりきれ、自滅していったかを、我々は知りつくしている。だが、それ故にこそ、我々がやらねば誰がやる!? マンガの滅亡の日は近いのだ!
我々=迷宮'75(ラビリンス)は、とりあえず批評集団として出発する。状況の直接の変革の力は、作品にこそあることを知りつつ、あえて、ことばを武器として選択した。その理由は、何よりもまず、自らの内に、自由の砦を築くことこそ急務であると考えるからである。状況に押し流されず、状況のすべてに対峙し、それを受けとるためにも、我々はまず意識としてあらねばならない。状況の変動の一つ一つを厳格にチェックし、絶えず自らのテーゼを掲げるために、あるいは、可能性の芽をのばすためにも、今、意識としての批評の復権が必要なのだ。
同時に、我々は、運動体としても、出発しようとしている。鳥合の衆と化した現在のファンダムを、一つの世界として再構築し、作品世界と同等以上のリアリティを持つ空間とするために、分散し、孤立している各種ファン・グループ、同人の連絡機関、情報センターとしての方向を探っている。さらに、創作活動をも含んだトータルなものとして、まさしく、マンガ状況内部における状況(カウンターカルチュア)として、ファンダムを射程に入れている。
マンガが好きだからマンガをよむ。マンガが好きだからマンガに関わる。それはそれでいい。しかし、我々とマンガの関係は、それをこえて密接なものになってしまっている。マンガは、理由もなく、我々の一部として在る。そのことのイヤラシサを媒介にして、我々は、灰色の未知の大地へと旅立つのだ。パイオニアの栄光は我々の上にはない。ただ、自ら踏みしめる旅程の一歩一歩が、後から来るものへの、道標となることを願って、情熱の残り火をかきたてる——。
我々と共に、明日のテロリスト、今日のパロリストになるか否か? それは、諸君ら自身の問題だ。だが、我々は、決して、いつの日か月よりの使者として還り来ることはない。もし、諸君が、白いマントのデウス・エクス・マキーナを求めるならば、諸君自身が「変身!」と叫ぶしかない。
要は、決断の問題である。
***
付記:右の宣言を理論化したものが「マニア運動体論・序説」として巻末にのせてある。興味のある方には一読をおすすめする。
(引用者注)「今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した」という挑発的な一文から始まるこの運動宣言は、商業漫画に対する問題意識を提示すると同時に、漫画ファンダムの変革を訴えるものであった。とりわけ、孤立・分散している創作者や同人のネットワークを結び直す必要性が強調されている。ただし、この時点でコミックマーケットの構想は具体化しておらず、イベントとしての明確なかたちは未確定だった。
【コミケ前夜とCOMの残滓】高宮成河「時は流れて日が暮れる――遙か彼方のCOMに寄せて――」(所載『いちゃもん』No.3/1975年8月2日発行)

10年はひと昔というけれど、それなら5年前だと半分昔で、それ以前ならもっと昔なのだろう。
COM創刊の時点は最早「昔」という言葉に含まれつつあり、ぼくらにとってCOMは徐々に時の暗闇の中に姿を消しつつある。今ぼくらにとってCOMを語ることは、奇妙な苦痛と少しばかりの恥ずかしさの入り混じった懐旧の念を伴わせる。現在大学生である連中は、高校生の時にCOMに接しており、結構青くさい熱っぽい感情でCOMを読んでいたことにより、ぼくらはCOMの世代だと胸を張って言える資格は十分なのだけれども、誰もそう言おうとはしない。逆にCOMを意識的に忘れ去ろうとしているようにも思える。それは後期COMの醜態と、アホらしい論争、そしてそれを見ていた自分という構図がもたらす白けた開き直りの結果なのだろう。だが何はともあれ、COMはもう過去のものだ。時々気の向いた時に想い出すだけで十分なものとして静置しておきたいと思う。
けれど、そのような気持ちとは別に、ぼくらにCOMを単なる過去として置き去りにすることを許さぬ何かが存在することも事実だ。ぼくらは未だCOMを振り切ってはいない。そうさせる力は恐らくCOMの内に、ぼくらが何を見ていたかに拠っている。ぼくらがCOMを振り切り、その上でぼくらなりの第一歩を踏み出すためには、COMをひとつの座標系の中に位置づけねばならない。
ぼくがCOMに終始見続けていたのは《ぐらこん》の問題に外ならない。ここで《ぐらこん》と言うと、何を今さら……と言う声が聞こえそうな気がする。
確かに《ぐらこん》の実際はオソマツ極まるものだったし、それをここで言うつもりは更々ない。しかし、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい。そして(ぼくの知る範囲で)《ぐらこん》についてまともに論戦されているのを聞いたことはなく、皆は思考以前に《ぐらこん》という言葉自体に拒否反応を起こしていた。だがCOMを理解するには《ぐらこん》を理解することが必要であり、それが殆んど全てだった。
一昨年の夏、ぼくは、誰に見せるのでもなく、状況がそれを必要としたのでもなかったが、《ぐらこん個人的総括》というものを書いた。COMはすでに不様に崩壊して無く、自分自身がCOMにどう関わっていたかも定かではなかったけれど、自分の内側のCOMを切り捨てるためには、どうにかして自分なりのCOMを《ぐらこん》掴むことが必要だったからだ。その内容の概括は『威嚇弾』No.3に載っているので読んでくれると有難いが、ここでその内容を書くと……
(1) ぐらこんとは何か
ぐらこんとは何か、ではなく、ぐらこんは何であるべきだったのかと言い直すべきだろう。ぼくにとってぐらこんは、COMの発行期間中一度もぐらこんであったことはなかった。何をもってそう言い得るのか、それはCOM '67・3号に発表された《ぐらこん構想》の内容に拠ってぐらこんを捉えようとするからだ。実際のぐらこん(その組織さえ在ったかどうか疑わしいのだが)を全く無視して、'67・3号の発表内容のみに従ってぐらこんを捉えようとするのがここでの当面の目的である。
’67から’73に至る5年間、ぼくにとってぐらこんは2種類あった。ひとつは読者とまんが家志望者によって構成され、COMの《ぐらこん》と名づけられたページに活動報告が載る、一般の同人活動と何ら変わることのない実際の活動体であり、他方は’67・3号に暗示された、少なくともぼく個人にとっては、あるべきぐらこんである。その2つの間にあるギャップが終始ぼくを悩ませ続けた。しかしぐらこんは遂に自己を明確にすることなく自滅した。現実の対象が無くなっても尚モヤモヤを振り切れなかったぼくがやらねばならなかったことは、ぐらこんの確認に他ならなかった。
結論から言えばぐらこんとは組織を指すのではなく、状況それ自体を示す言葉なのだ。ぐらこんを理解するにはその構成員を見つめなければない。読者、まんが家志望者、作家(手塚・石森・等)、批評家(尾崎秀樹・草森紳一・等)、出版社(COM編集部)が加わった組織とは何を意味するのだろう。状況を構成する要素が何の過不足なく組み入れられた組織は、もう組織などではなくひとつの状況であるに違いない。ぐらこんは、まんが状況の内に意識的状況をつくるために生まれた。
とすれば、その目的は、単にまんが家が作品を創り、読者がそれを読むといった風な一般的地平を越えて、まんがに関わる者(関わろうとする者)全てが総体として発展していこうとする、もう一段高次の地平に在った筈だった。言ってみればぐらこんはまんがに関わる者によるコミューンの匂いをふりまいていた。――それがCOM ’67・3号を読んだぼくらがぐらこんに予感した内容であり、期待だった。まんがを軸とする共生感に支えられた、在る状況から在るべき状況への移行、それがその時ぼくらを魅惑したものの内容だった。「まんが世代」は、それを幻視し得る程に熟していた。(或いは未熟だったと言うべきか)それに加えて当時手塚神話は未だ有効であり、しかも絶対だった。続く一年間のぐらこんは、その予感とそれを裏付ける神話で支えられていた。だが支えていたものは、あくまで予感であり神話であったに過ぎなかった。
(2) ぐらこんにおけるCOM
COMがその内容はどうあれ、一般まんが商業誌の範囲で捉えられるのは、創刊から《ぐらこん構想》発表までの2号であるに過ぎない。《ぐらこん構想》以後は、COMは自らその性格を投げうち、同人誌としての性格を自己に課すことになる。ぐらこんにCOM編集部が加わっていることが、COMをそう位置づける。COMはぐらこん構成員の面をつなぐ機関誌に変化したのだ。換言すれば'67・3号以後のCOMはぐらこんのための雑誌に他ならず、日本で最初の、商業軌道にのったまんが同人誌だと自己規定したのだ。COMはぐらこんを生み落すと同時に、逆にぐらこんに呑み込まれてしまったのだ。かつてCOMとガロの両誌を並置することが流行ったが、この点においてCOMとガロとは決定的に次元を異にしている。COMが、一般まんが状況からの集約点としての意識的小状況を目的とした言わば状況の中心を志向していたのに対して、ガロは状況の突出部だったのだ。
'67・3号の《ぐらこん構想》に従ってぐらこんを捉えようとすると以上のようになるのだが、現実のぐらこんは単なる読者組織でしかなかった。何故そうなったのかという原因は、COM編集部を含む他の全ての構成員がぐらこんについて無思考だったからだと思われるのだが、直接的な原因としては、他ならぬ《ぐらこん》と名付けられ、毎号COMによってその存在を確認させられるページが挙げられる。
《ぐらこん》……成程、COMの末尾を占めるあのページは、そう名付けるのが妥当だったかも知れない。だが、そう名付けたとたんに、ぐらこんは一気に坂道を転がり落ちていった。’67・3号に忠実に思考するならCOM全体がぐらこんのページであるべきだった。それがCOM末尾のページをぐらこんと名付けることによって、ぐらこんの精神はあの一角に押し込められることになり、次第にぐらこんの意識からは、その構成要素としての作家、批評家、等が抜け落ちてゆき、読者、まんが家志望者だけが後に残ることになる。それはもう状況などでは有り得べくもなく、単なる同人活動でしかなかった。当初、予感したものに向かって回転すべき車輪は半分に欠けており、欠けた車輪は回る筈もなく、しかも、残った部分も自分が何であるかを忘れ果てていた。
――ぐらこんは遂に状況であることは一度もなかった。 かつて「ぐらこんはCOMの購買層確保のための組織だ」と言われたことがある。その言葉は嘲笑の意味を含めて発せられたのだが、ぼくはその言葉に、無思考な嘲りの響きとは別に、他の意味を見付けた。読者としてのぐらこんはCOM購読者であることが当然なのだ。読者としてのぐらこんはCOMを購入することによって最低限の自己の位置を保障する。言い換えるとこういうことになる。読者は、状況の構成員としてCOMを購入する時、単に読者であることから上昇し、COMの全てのページが自分宛てのメッセージであることに気づく。『火の鳥』その他の諸々の作品、評論、研究、等は、ぼくらに向けて発表されたものであり、それ以外ではなかった。他ならぬぼくらが『火の鳥』を、岡田史子の作品を、その他のCOMが生んだ数々の作品を支えたのだ。ぼくらはぐらこんという状況(場)を通じてCOM全体との共生感を求めていた。少なくともぐらこん構成員である作家がCOMに発表する作品は、全てぐらこんの作品なのだ。そしてぼくらはぐらこんの作品としてそれらを受け取る。作品はただの作品であることをやめ、”ぼくら”の共有物に変化する。ぼくらは”ぼくら”という言葉に、旧作家、新人作家等を取り込み、まんがをあるべきものとする世代全体を意味する言葉として使用できるようになる。
ここでようやく現実(COM)と夢想(ぐらこん)がクロスする。’67・3号のぐらこんを追っていって、今ぼくはCOMに追いついた。ぼくらが終始COMに対して感じていた或るもの、それはぼくにとって’67・3号の《ぐらこん》だった。これが先に、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい、と言った理由だ。ぼくらは月光仮面体験、アトム体験に似たものをCOMで体験しかけたのではないだろうか。そして今もなおCOMをもし振り切れないでいるとしたら、それは「体験しかけた」故ではないだろうか。
ぼくらはCOMに何を視ていたのか。それは全て「ぼくら」という言葉に関わってくる。COMに抱いていたもの、それはCOMを通じて、過ぎることによって「ぼくら」という言葉に特殊な内容を持たせるということであっただろうか。COMを意識して「ぼくら」という言葉を使用する時、それは或る種の具体的な内容を持った言葉に変化する。言ってみればその時ぼくらはひとつの体験を共有するのだ。単にまんが世代としてのぼくらを指して「ぼくら」を使用するのではなく、その言葉の中に作家や批評家、まんがというカルチャーに関わる全ての人達を含め、同一の地平に在るものとして「ぼくら」を使用する。換言すれば「ぼくら」を使用する時、それはコミックゲマインシャフト(漫画共同体)の一員としての自己確認であり、体験であり、しかもその体験は共有されている。ぼくらの、同様の意味で「ぼくら」を使用する他者に対する感情は、セックスを共有する男女が持つ親しさに似てはいまいだろうか。
ともあれ、COMはそれに関わる人間に或る種の共同幻想を抱かせたままに崩壊した。
COMは過去のものであり、現実に携わろうとする者にとっては、その名は忘れ去るべきなのかもしれない。しかしCOMがぼくらに幻視させたものは今だに尾を引いている。その結果が現在までに東京で3度開かれた漫画大会であり、各種のファンクラブであり、そして何よりも各地に散らばっている、まんがに関わる(関わろうとしている)人間どうしの結びつきなのだろう。それらの活動は、結びつきは、この先どのように、どの方向に伸びていこうとするのだろうか。ぼくらにもう一度、あの確実さで「ぼくら」に新しい意味を付与し使用できる時が来るのだろうか。
―――時は流れて日は暮れる

『COM』と『あっぷる❤︎こあ』——ぐら・こん関西支部顛末記——(中島隆)
『COM』と『あっぷる❤こあ』——ぐら・こん関西支部顛末記——
中島隆
年をとると、新しい事に出会う事がなくなり、もうこの世で心驚かされる事はないと思っていましたが、やはり人生にはとんでもなく長い伏線があって、小説のように物語がつながっていくのだと、映画「インセプション」のように「迷宮」巡りの、目も眩むような体験をしました。『ビランジ』にこの文を書かせて貰うという、思いもかけない事になったのも、そうした伏線の一本でした。皆さんにこうして読んで貰えるのは、奇跡のような巡り合わせがあったからこその事でした。
25歳から大阪で家業の文房具屋をやってきて、一昨年、2009年の1月迄は、33年間漫画とほぼ無縁の生活を送って来ました。「創世記」のように初めに光があったのですが、それが『コミックマーケット創世記』でした。コミックマーケット初代代表だった原田央男さんの、丁度出版されたばかりの本を、僕の弟が「兄貴の事載ってるで」と、僕に見せてくれた。それが始まりでした。
『COM』をご存知の方は多いと思います。手塚治虫さんの虫プロ商事出版部で発行していた漫画専門誌で、1966年12月に創刊されました。その読者ページが「ぐらんど・こんぱにおん(略称ぐら・こん)」と名付けられていて、漫画研究会の全国組織を作ろうと呼び掛けていました。『コミケ創世記』の第2章が「COMとぐら・こん」で『COM』の創刊から休刊まで詳しく書かれていました。そして3章で、「ぐら・こん」を消滅させないために、COM編集者の大塚豊さんと、ぐら・こん関西支部長のぼくとで作った連絡情報誌『マンガジュマン』の、顛末が書かれていました。ガリ版刷り700部の小冊子に、深く言及して貰っているのに驚きました。また、文中ぼくはN氏となっていました。
息の詰まる思いで読みました。ぼくがN氏のままにされる事が段々辛くなってきました。それではなんだか、この世から消えてしまってるみたいじゃないかと、そんな思いがつのってきました。
思い切って、原田さんに手紙を出しました。じきに電話がかかってきて、声を聞いた時は本当に、ああ良かったと思いました。原田さんは礼儀正しい、穏やかな話し方で、信頼感が持てる人柄でした。そして、原田さんとぼくとの共通の友人だった高宮成河君と3人で、2ヶ月後にお会いする事になりました。高宮君とも三十数年ぶりの再会でした。
さすがに最初は浦島太郎状態で、2人の話について行けず、仲間に入れて貰うのは無理かと思いましたが、その後すぐ、原田さんが「COM座談会」を企画されたので、そこから一挙に様々な事が起こり始める事になりました。
最初は8月2日、京都国際マンガミュージアムで、漫画家が矢代まさこ、真崎守、みやわき心太郎の3氏。COM編集者が萩原洋子、大塚豊さん、そしてぐら・こん山形支部長井上肇さんとぼくが出席して行われました。しかし、観客が凄かった事もお伝えしておきたいです。漫画家の竹宮恵子さん、大学教授の村上知彦さん(かつて『あっぷる・こあ』編集に加わっていました)、その他著名人ばかりで、一緒に行った2次会の席で、観客席のほうが豪華だったじゃないですかと、皆さんに言ったほどです。
2回目は、昨年2010年5月4日、東京ビッグサイトで行われた漫画創作同人誌即売会「コミティア」会場内で開かれました。漫画家は、前回と同じ3氏と、ちばてつやさん。COM編集者は、石井文男、野口勲さんら8氏。ぐら・こん支部長が井上さんとぼくでした。この時にも、会場で夏目房之介、みなもと太郎さんらに再会できました。
この2回の座談会のおかげで、色々と思い出しただけでなく、誰もがぼくの疑問に率直に答えて下さったので、知らずに終わるはずだった事があれもこれもわかり、そうだったのかと、謎解きのような面白い経験をする事ができました。同時に、失敗も新たに見つかり、悔恨もあり、恥ずかしい事も多いのですが、それも含めて全て書かせて頂こうと思います。
出来る限り正確に書くつもりですが、ぼくの認識が間違っている部分や、文章のまずさで、誤解を招く事もあるかと思いますので、その点はご指摘頂ければ幸いです。
ぼくが『COM』に出会ったのは、高1の終わり、67年の1月でした。創刊号ではなく、2号でした。当時余りなかった新人賞を設けていたり、漫画家志望者に各地方での支部結成を呼び掛けたりしていたので、毎号夢中で読むようになりました。
ぼくは貸本漫画を読んでなかったので、永島慎二、みやわき心太郎さんの青春漫画も衝撃的でした。4月、朝日ソノラマから新書判で永島慎二さんの『漫画家残酷物語』が出ました。1ページ目から話の中に吸い込まれ、ドキドキしながら読み、最後のページで我に返るという引き込まれようでした。当時人気だった「巨人の星」や「あしたのジョー」をつまらなく思い、——やはり漫画を卒業する日は来るんだ——と思っていた頃でしたから、我ながら驚きました。漫画ファンでしたが、漫画を真剣に書いてもいなかったぼくが、デッサンが大事だと思って、高2の5月から美術部にはいったくらいですから、その衝撃の大きさというものが解って頂けるかと思います。
つまり、まるで熱病に罹ったみたいに、突然漫画家になりたくなったのです。
ぼくの世代で、ぼくのように急に漫画家になりたくなった人が、当時多かったと思います。この頃漫画家志望であった人がどれくらいだったかと想像してみると、『COM』の発行部数が最高の時で7万部、これはCOM編集部が言う数字で、実売部数かどうかは怪しいですが、他に『ガロ』や少女漫画誌の新人賞を目指していた人も大勢いますから、この7万はおよその目安になると考えていいと思います。ずいぶん大雑派な数字ではありますが。
一方『ガロ』『COM』創刊前から漫画家志望であったという人は、従来の少年、少女漫画家志望ですから、貸本漫画という受け皿もありましたが、とても1万人に届かなかっただろうと思います。まず、漫画仲間を見つける事自体が難しい時代でしたし、石森章太郎さんの『マンガ家入門』が出る前は、原稿の書き方も知られていませんでした。そして、給料が保障されている職業ではありませんから、大卒は手塚治虫さん以外何人もいませんでした。大学を出て目指す職業ではなかったのです。
漫画と言えば、子供のものであったのが、青年漫画が青春を題材にし、永島慎二、つげ義春、岡田史子らが文芸的、美術的に描く事ができる事を見せてくれ、小説や映画に負けない世界に変えたのです。それで、漫画家がとても魅力的な職業に見えだして、どっと若者がなだれ込む事になりました。
今「お笑い」が高学歴化してきたのと同じで、漫画界ではこの頃から高学歴化が始まったでしょう。そういう歴史的ターニング・ポイントであったと思います。かくして、志望者が1ケタ増えただろうと、ぼくは考えています。そして、漫画家志望者だけでなく、漫画を卒業しない漫画ファンもまた大量に生まれ、大卒で出版業界に就職し、一生漫画に関わるという事も起こってきます。
『COM』の「ぐらこん」のページでの呼びかけで、本当に各地に支部が作られていきました。最初はCOM編集者が、幾つもの同人会の会長を集め、人選して支部長を依頼していたようです。その後は前任者の推薦という形になり、COM編集者が選ぶという事は無くなっていったようです。
東京、関東、中部、北海道とでき、ぼくが心待ちにした関西支部は、翌68年4月にようやく結成集会をしました。この後、東北(仙台)、九州(福岡)とできますが、中国、四国にはできませんでした。
さて、その結成集会ですが、大阪の近鉄布施駅近くで開かれました。集まったのは、凡そでしか言えませんが、2、3百人ではなかったかと思います。ぼくが着いたら、広い原っぱにポツンとある小さな集会所を、高校生らしいのが十重二十重に取り巻いて、静かに立ち話をしています。なんでみんな外にいるんだろうと怪訝に思いながら、入ってみたら中には四、五〇人いたでしょうか。ごった返して座る場所もなかったので、みんなが取り巻いていた理由が解りました。支部長は、こんなに集まると予想していなかったようでした。
ぼくはこんなチャンスはないので、近くにいた何人かに声をかけ、会を作ろうと持ちかけました。昨日まで一人の漫画友達も持たなかったぼくが、僅か一〇分で会を作れました。
かくて、関西支部はスタートしました。漫画友達を一人見つけるのも困難であったのが、突然何百人が集まる「場」が出来上がったのです。この事が、何にも勝る「革命」であったのですが、実体験しながら、事の重要性を認識した人は余りいなかったと思います。
支部長は「作画グループ」の馬場よしあきさんでした。確か、馬場さんはぼくより2、3歳上だったと記憶しますが、「作画グループ」は、『COM』が創刊される前、貸本漫画誌で会員募集をしてきた会でした。そういう場があったという事をぼくはその時初めて知りました。また、肉筆回覧誌という物も、初めて見せて貰いました。それを見ると、作画グループの会員数も僅か十数人でした。その中に聖悠紀さん六田登君がいました。
ですから、貸本漫画の読者ページをモデルに、峠あかね(漫画家、真崎守)さんは「ぐらこん」を作られたのだろうと思います。また、関西支部がなかなか出来なかったのは、馬場さん世代では、大都市の大阪ですら幾つも会がなかったのだろうと、推測します。ぼくはこの後一年馬場さんの家に押し掛け、漫研運営のイロハを習います。馬場さんと副支部長の宇和田義則さんに、沢山の事を教えて貰ったので、今も感謝の思いを持っています。
ぼくと同じように家に押し掛ける者が大勢いました。20代と言えばみなもと太郎さんくらいで、ほぼ全て会活動を始めたばかりの中学生、高校生でした。「COM」創刊前と比べれば、その後に生まれた漫研の数は、まさしく爆発的でした。
それから8月、関西支部は同人誌『ぐるーぷ』を発行しました。馬場さんが関西支部長になる前から計画していたそうでした。ですから、関西支部にはいっていた漫画研究会の紹介ページはありましたが、ぼくらが編集に加わる事はありませんでした。資金20数万円は、ばばさんと宇和田さんが出したという事でした。
『ぐるーぷ』は貸本出版社の曙出版を通じたので、ほぼ貸本ルートに流れただけでした。そのため、数百冊がばばさんの部屋に山積みになっていました。宇和田さんの家でも山になっていると聞きました。これで懲りるのだろうと、ぼくは思っていたのですが、しかし、翌年7月『ぐるーぷ2』を発行します。
思いつきで作ったのではありませんでした。馬場さんはマネジメントの才覚のある人でした。馬場さんが書いた漫画を見た事がありますが、もうその頃には、書くことよりも、会長として「作画グループ」の会員数を増やすことに精力を注いでいました。また、たびたび上京して出版社に売り込みにも行っていました。自分の商才を、自分の好きな漫画で活かした、珍しいタイプの会長でした。
支部長になって半年ほどで、「作画グループ」の会員が百人になったと、馬場さんが誇らしげに言いました。関西支部にはいっている人達を、さかんに勧誘していると知った時はすでに遅く、ぼくの会「マンガジン」の4人の会員も全て引き抜かれていました。
その時、馬場さんがぼくまで勧誘してきたので、事の次第がわかりました。知らぬはぼくだけだったと解って、愕然としました。ひどいやりようだと思いました。しかし、結局抗議はしませんでした。大きな会に魅力を感じて移って行くのは、本人の自由と考えたからです。とは言え、馬場さんに対しては、先輩がそんな事をしていいのかという反発がありましたから、ぼくへの勧誘は拒否しました。軍門に下るくらいなら、活動自体を止めようと、悲壮な決意をしました。
反省もしました。会活動も受験勉強も、どちらも中途半端な事しかしていなかったからです。
十一月、関西支部の京都集会に行った時、声をかけた女の子2人が入会してくれました。馬場さんに勧誘されていたけれど、大きな会なので敬遠した、と言うのです。救う神があるものです。彼女たちがいなければ、その後のぼくはありませんでした。更に翌年、共に大学浪人となった高校同級の辰巳隆俊君が入会してくれました。
69年4月、大阪、天王寺区上本町六丁目の「大阪府教育会館」で、手塚さんが来るという大イベントが行われました。テレビ放映が始まる『どろろ』のパイロットフィルムが上映され、朝日新聞が取材に来ました。また、二、三百人が集まりました。しかし、手塚さんの出席はキャンセルになり、宮谷一彦、岡田史代子さんのサイン会に変更になりました。夕方会場を引き上げる時に馬場さんが「支部員みんなが怒っていたから、編集者にずいぶん文句を言ってやった」と言いました。
ぼくは、忙しい手塚さんなんだから仕方ないだろうと思っていました。だから、馬場さんや宇和田さんらには、腹立たしい事だったんだろうけど、みんなが怒ってたという言い方は賛成できない、と思いました。
こんな事があったので、COM編集部では、関西支部はうるさいのが揃ってると思われるようになったそうでした。
同じ4月、「マンガジン」の会員募集が『COM』ともう一誌に載り、その結果、ぼくの毎日は仕事のように待ち合わせ場所に走る、忙しい日々に一変します。
そうして半年でぼくの電話帳が二百の電話番号で埋まっていきました。3月まで無気力な普通の高校生だった自分には、予想もしない変化でした。会がつぶれかけた反省から、中途半端はしないと決めたからでしたが、予備校に週1日しか行かないで漫研活動に入れ込んでいるという、自分を崖っぷちに追い込むような事をしてかしていました。しかし、漫画の話をするのが楽しく、男女集まってワイワイにぎやかに会を運営するのが面白く、能天気な毎日を送っていました。自分が選んだ道の先に何が待っているのか、考えてみる事もありませんでした。
『COM』の会員募集を見てくれたのが、高宮成河君でした。ぼくと同じ区に住んでいた高校3年の高宮君が、ぼくがどんな奴か確かめに家に来て、そうして会員になってくれました。会長の人間を見てから、会にはいった会員は、後にも先にも彼だけでした。性格が堅実なだけでなく、漫画もうまく、数ヵ月後、50ページの作品を2本も持ってきました。宮谷一彦風の絵で画力も構成力もありました。しかし、ぼくよりずっと上手いと思ったので、かえって正直な感想が言えませんでした。昨年高宮君とその話になって、山上たつひこさんにも見せに行ったというので、漫画家になるかどうかの決断をその時したのだと解り、人をほめる心の広さのない会長で申し訳なかったなぁと反省しています。
会員募集が載ったもう一つは『ビッグコミック』でした。この年は、大手の商業誌でも新人賞を設け始め、漫研の会員募集まで載せてくれるという、とんでもない事が起こっていました。大手も漫画ファンの変質、急増に対応しようとしたのでしょう。ですから、会員集めはさらに容易にできるようになっていましたし、漫画家志望者も一層増えて行ったと思われます。
一方で「ぐら・こん」は『COM』編集部が支部活動に力を入れてくれと、うるさく言ってくる割に、向こうは何にもやってくれないと、各地の支部長が不満を募らせ、支部活動をやめてしまって、段々有名無実化していきます。かくて、創刊当初の熱気も冷め、『COM』の発行部数も減っていきます。
馬場さんもこの69年の終わり頃、「支部長をやめるから、後任になってくれないか」と、ぼくに持ちかけてきました。この時僕は断りました。ぼくの会も会員が50人になっていました。大阪在住の漫画家・山上たつひこ、美内すずえ、川崎ゆきおさんらや、交流のある会やら、つきあいが幾らでも広がっていました。もう「ぐらこん」に頼る必要がなくなっていたのです。
それで、次の支部長は中室よしひろ君に回って行きました。70年、ぼくは大学生となり、4年のモラトリアムを手にして、親からすればけしからぬ生活を続ける事となりました。そして中室君が1年後、またぼくに支部長の後任を頼みに来ました。
そういう巡り合わせで、71年初め、COM最後の年に、後任の関西支部長を引き受けました。この時引き受ける気になったのは、ぼく以外にやる者はいないだろうと思ったのと、ずいぶん失望させた「ぐら・こん」だけど、こっちからアイデアを出せば、幾らでも活用できるんじゃないかと考えたからでした。ぼくが高3の時経験したように、これはすごいツールだから、活用しなければ勿体ないと。
実際、思いがけない活用法が、向こうから飛び込んできました。
ぼくが新支部長になったという記事が「ぐら・こん」のページに載ると、すぐに関西テレビのディレクターから電話が来ました。『COM』を読んでたそのディレクター平井誠信さん(後にイタリア特派員、関西テレビ取締役)も面白い人で、長い付き合いになったのですが、その時、なんと子供番組の手伝いを依頼されたのです。それで、これ以後2、3年漫画やイラストの仕事をしました。また、番組に出演していた「カバゴン(阿部進)」に頼まれ、絵本の仕事もしました。貰ったギャラはアルバイト程度でしたが、これも、『COM』の知名度のお陰でした。辰巳隆俊、高宮成河、ほそかわ春(後に小学館から漫画家デビュー)君らとこれらの仕事をやりました。
ぼくはこの後、朝日新聞や週刊朝日に取材を受けた事もあります。漫画に対してマスコミの関心は非常に高いものがありました。ぐら・こん関西支部として、マスコミと永続的に関係を築くのは、可能だったろうと考えています。付随して漫画の仕事がはいってきたら、活動の基盤もしっかりしたものになっただろうと思います。
また、ぼく、六田登、松下保君らで実験アニメを作り、篠原ユキオさんの会と一緒に、関西テレビの一室で上映会をしました。これが、「七月弐拾五日乃夜労宴」で、『コミケ創世記』101ページの亜庭じゅんさんをぼくがこのイベントに誘ったというのは、誤りです。後述しますが、その1ヶ月後の大阪府教育会館での「まんがフェスティバル」で、亜庭さんと初めて会います。ですから、『コミケ創世記』112ページの「まんがフェスティバル」が75年4月開催というのも誤りです。『COM』の71年9、10月号に告知、記事が載っているので確認可能です。
こんな風で、山上たつひこ、美内すずえさんの臨時アシスタントに呼ばれる事もあり、大学生なのを忘れるくらい大学には時々しか行かず、「漫画」にずっぽり浸かって忙しくしていたのですが、前触れもなく、COM編集部の大塚豊さんから、「7月27日に支部長集会を開きます」という連絡がきました。そんな訳で、関西テレビでの上映会の翌日、ぼくは集会に間に合うだろうかと内心焦りながら、ヒッチハイクで行こうという六田君に引っ張られ、名神高速、豊中インターから東京を目指しました。
結局、一睡もできず朝を迎え、まだ神奈川県だったので、電車に乗り換えました。渋谷大向区民会館にはギリギリに着きました。
集まった支部は、北海道、関西、九州、そしてなぜか県単位の山形だけでした。
当時のぼくは各支部長とは初対面で、他支部の事も、COM編集部の考えも、よく知らずにいました。一昨年の「COM座談会」で、支部長会から38年ぶりに、元山形支部長の井上さんと再会し、その頃の山形支部の活動を知り、「ぐら・こん」に期待をかけて活発に活動していた人達だったのを知ったのですが、遅きに失する事でした。
井上さんのブログに詳しく書かれていますが、東北支部がなくなった後、村上彰司さんが中心となって活動され、山形各市の漫研と密な連絡網を作り、支部一本に統合されたそうです。他支部ではそれぞれ会は独立していましたから、大いなる実験モデルとして、COM編集部の期待が懸っていたのではないかと思われます。また、山形市、米沢市と2年続けて漫画展を開き、手塚さんは2度とも漫画展に出席されるという力の入れようだったそうです。
村上さんは企画力、統率力を買われたのでしょう。COM編集者に迎えたいと誘われてもいたそうです。その村上さんが支部長集会を提案し、COMの編集部がそれに乗った、というものでした。
ですから、一番経験がある山形支部が集会をリードして、活性化のために何をしよう、と提案してくれたら良かったのですが、そうした提案はなかったように記憶します。最近、井上さんから聞いたのですが、「他支部は、漫研のゆるい連合体のようなので、詳しく聞いてみたい」とか、事前の相談をあれこれしていたそうでした。そういう話でもよかったのに、それも聞いた覚えがありません。
後から考えれば、山形支部が最後のチャンスを作ってくれたのに、そのチャンスを生かせなかったのですから、残念な事でした。
この日、手塚ファンクラブの石井托さんが集会場に来ました。半月ほど前に大阪であった彼らの集会に、ぼくが呼ばれて行って、そこで初対面の彼に、支部長集会があると話したからでした。
そこは手塚、石森などの、漫画家別のファンクラブの集会で、お互いを「お宅」と呼び合っているのを、ぼくはとても奇異に感じました。漫研とは全く異なる雰囲気でした。彼らが最初の「お宅族」ではないでしょうか。また、石井托さんは、手塚さんの絶版本を復刻するのがクラブの主たる活動と言っていましたから、ずいぶんお金のかかる話で、実現性は薄いんじゃないかと思いました。
しかし、行動力は凄かった。その石井托さんが当然のような顔をしてぼくらの席に座っていたのです。彼が来る積りだったとは考えもしなかったので、ドッキリしましたが、ぼくはまだ彼の目的がわかっていませんでした。
石井托さんは、支部員だけの集まりと勘違いしていたようで、いきなりCOMの悪口を言いだし、5・6月合併号から編集方針が変わったことに不平を並べました。その事についてはぼくも同感でした。『COM』の読者で同感だった人は多数派であったと思います。
「そこにいるのが編集長だ」と誰かが言ったので、石井托さんはそれで黙りこみました。ぼくが石井托さんに支部長集会の話をした事が、こんな結果を招くとは予想のつかない事でしたが、これが、山形支部の意見が聞けなくなる原因になったかもしれませんでした。これも去年、元山形支部長井上肇さんに聞いたのですが、「過激派みたいだと思いました」と言うので、それで山形支部は衝撃を受けて沈黙してしまったのか、と想像しています。COM編集長石井文男さんも、手塚さん出席キャンセル事件で、馬場さんらに糾弾されていますから、「大阪は怖い」と思われていたそうです。この後、池袋の虫プロ商事に場所を変えて、編集の大塚さん、北海道支部長西沢裕君、とぼくで、徹夜で相談をするのですが、なぜか山形支部は、これもなぜか石井托さんと一緒に漫画家訪問に行ってしまい、山形支部の貴重な経験を聞く機会を、ぼくは失います。もし聞いていれば、翌日のぼくの行動が全く違うものになったはずでした。「公称5万だけど、実際は大分少ないんだ」と大塚さんが言うので、売れ行きに貢献してくれ、というのが『COM』の本心か、とぼくは察しました。「なら、手塚さんに動いてもらわないと」と言うと、手塚さんが尻込みするので、「ぼくが直談判に行きます」と言って、賛同した西沢君を引き連れ、西武池袋線富士見台にあった手塚プロへ直行しました。手塚プロでは、手塚さんは衝立の向こうで、応対は手塚卓さんという手塚さんのいとこの、少し前まで朝日ソノラマ編集長をされていた方でした。
卓さんはぼくの話を少し聞いただけで、ずっと家に帰っていないんだと話しだし、相槌を打てないぼくらを前にほとんど一人で喋り続けました。うまくはぐらかされるのかと予想したら、最後に「私が責任を持って大阪へ行かせますから」と請け負ってくれたので、ぼくらは狐につままれた顔で、帰っていく事になりました。COM編集部から、電話が行ってた、と、この時気づいていたらよかったのですが、情けない事に去年まで気がつきませんでした。
一昨年の「COM座談会」で再会した大塚さんの顔を見て、急にひらめき「ぼくが行くって、手塚プロに電話入れたよね」と探りを入れたら、即座に、「入れたかも知れません」と笑いながら答えたので、昨日の事のように覚えているんだと驚き、やはりそうだったのかと確信しました。手塚さんは大変に多忙な人だったので、作家業以外は他の人に任せているだろうと思い込んでいましたが、実際はそうではありませんでした。自分の会社の事は些細なことまで知っていて、細かく指示を出しておられたのだそうです。
手塚さんが衝立の向こうから出て来られなかったのは、仕事中だからマネージャーに任せたというのではなく、相手の承諾も得ず乗り込んでくるような、不躾な者には会いたくないと思われたからだったろうという気がします。そして、関西支部は学生運動家の集まりと誤解される面もありましたから、マネージャーも手塚さんに直接会わせない方がいいと判断されたのだと思われます。
もし、山形支部に話を聞いていたら。夜行列車に乗り、さくらんぼをみやげに、礼儀正しくやって来るという、のどかな山形支部の話を聞いていたら、ぼくも見習ったと思います。それが、直談判と言って押し掛けてしまいました。手塚さんが「ぐら・こん」に不信感を持たれる原因を作ってしまったかもしれないと、今になって思っています。5ヶ月後には『COM』から追い出されますから、ぼくの胸中は複雑なものがあります。勿論、原因は経営不振が一番考えられるのですが。
そうして一ヶ月後の8月28日、大阪上本町六丁目の大阪府教育会館で、「まんがフェスティバル」をぐら・こん関西支部としてやりました。偶然なのですが、手塚さんが来なかった2年前と同じ場所でした。大塚さんが虫プロからフィルムを借りて来てくれて、「展覧会の絵」、初期の短編「しずく」ほか数本を上映しました。2年前との違いは、参加者が百人と言う事でした。この時のぼくは百人なら悪くないだろ、と思っていたのですが、今思い返してみると、手塚さんやCOM編集部は、関西支部にどれだけ力があるのか試していたのかもしれないという気がしています。つまりCOMの売れ行きにどれだけ貢献してくれるのか。少ない、と映った事が、「ぐらこん」を追い出す決定につながったのかも知れません。もし、あらかじめ沢山集めてほしいと言われていたら、二百人や三百人は可能だったし、新聞でもテレビ局でも呼んだのですが、なにしろ前回の事があるので、もしまた来られなかったらと思い、当日のスタッフとして頼んだ高宮君ら十人程以外は、漫画の友人にほとんど知らせていませんでした。ですから、この百人はぐら・こんのページの告知を読んだ人だけでした。映写の用意をしている時に、「手塚さんきてるで」と耳打ちされました。気後れして誰も応対していない、とわかって、ぼくだけでも挨拶に行かないとまずい、と急いで一階の食堂へ降りて行きました。「本日はどうも…」とお礼を言ったら、立ち上がってにっこりされました。漫画の中に登場する手塚さんは、ちんちくりんなので、てっきり小さいと思い込んでいました。それが180近いがっちりした体形で驚きました。そうして、その笑顔を見た瞬間に、子供の笑顔だと気づき、愕然としてその顔を見つめました。こんな笑顔をする大人には勝てない、となぜかそう思いました。手塚さんには私心がない、と感じたという事だと思います。これが二十歳の時初めて見た手塚さんの印象です。ぼくにとって長嶋、王よりもヒーローですから、感激の対面だったのですが、若気の至りで主催者顔で対してしまいました。若いころは大人を気取りたいもので、素直に小さい頃からファンですと言えば良いのに、言えませんでした。今頃になって色紙の1枚くらい持って行けば良かったと後悔しています。
アニメ上映後、手塚治虫、やまだ紫、石原春彦の3氏を囲んで、座談会を始めました。会場には百人、みんな手塚さん見たさに集まっています。その座談会の冒頭でした。司会のぼくが前振りの積りで、出版社にもう少し自由に描きたいものが描けるようにしてもらいたい、と話し、「手塚さんどうぞ」と促しました。すると、「僕はそうは思いません」と、予想もしない強烈なカウンターパンチを食らいました。『COM』を出している手塚さんが反対意見を持っておられるとは思いもしませんでした。なので、この時はとんでもない事になったという思いしかなかったのですが、実は手塚さんはこの時、71年5・6月合併号での編集方針転換の理由を述べておられたのかもしれない、と今になって思っています。「そうは思わない」から『COM』を変えたのだと。ならば、手塚さんのあの直裁な言い方も納得がいきます。ぼくは一般論として言ったのですが、手塚さんには新編集方針に対する反論と聞こえていたのかも知れません。『COM』創刊号を見せに行ったら「こんな汚い本は出せません。作り直してください」とおっしゃったと、元編集者の野口勲さんが証言されています。手塚さんはかつての『漫画少年』をイメージされていた、というのです。良き少年漫画を載せたかった、という事でしょう。しかし、時代は青年漫画を生み出し、児童漫画の時代から変化し始めていました。野口さんが依頼した漫画家は、貸本漫画出身の永島慎二さん、真崎守さん、みやわき心太郎さんといった青年漫画家でした。ですから、手塚さんは創刊時から掲載作品に反対しておられたという事になります。先の手塚さんの発言に戻ります。「僕はそうは思いません」と言われた後、本は売れなければならない。実験的な漫画で沢山の読者を獲得することは難しいと、最初の言葉ほど強烈でない言い方になったので、砕け散った気力を急いでかき集めて、ぼくは座談会を進めました。今となっては笑い話ですが、たっぷり冷や汗をかきました。
この少し前、ぼくは美内すずえさんからこんな話を聞いていました。美内さんは集英社の『別冊マーガレット』でデビューしたのですが、「描きたいものを描かせてくれないので、他社に移ろうと思う」と、相談ともなく話されたのです。そうして、「ガラスの仮面」が白泉社で執筆されます。デビューして一年余りで大変な決断をされる美内さんも、すごい人ですが、漫画家の方がしっかりしていれば、描きたいものは描けるのですから、ぼくの前振りは余り良い前振りではありませんでした。が、思いがけず手塚さんの考えを知るきっかけにはなりました。
そしてもう一つ、この日会場に亜庭じゅんさんが来ていました。観客の質問を受け付けると、待っていたように発言しました。説得力のある言葉で漫画を語るのにぼくは驚き、ただ者じゃないと思って、終わるとすぐ声をかけました。亜庭さんも応じてくれて、それで付き合いが始まりました。『あっぷる・こあ』で評論連載をしてもらう事になるとは、この時には夢にも思っていませんでした。
座談会の終わり頃、今日が原稿の締め切りだった山上たつひこさんが駆けつけてきます。手塚さんに握手して貰って嬉しそうでした。
半日てんてこ舞いして、疲れ切ったぼくたちに、手塚さんからはねぎらいの言葉ひとつ掛けてもらえませんでした。サービス精神旺盛な手塚さんにはない事だったと思います。一年前、山形に行かれた時には、十名程の支部員といろいろ話されたそうですから、それとは大違いでした。「僕はそうは思いません」といきなり言われたように、君たちとは意見が合わない、と思ってしまわれたからか、という気もします。無論、全く違うかもしれませんが。
手塚さんはぼくの前を通って会館を出て行かれました。あとをファンがぞろぞろついていきました。そのさまを黙って見送るだけでした。来られた時も、帰る時も一人でした。山形の時は何人も社員が付いていたそうです。虫プロ商事の経営状態が悪くなっていたのでしょう。ぼくは全く気付いていませんでしたが。
それから僅か2ヶ月後「『ぐら・こん』を『COM』から切り離す。上が決めた」と大塚さんから宣告されます。上が言われてぼくは、西崎義展社長が決めたのだろうと独り合点しました。手塚さんが社長を引いておられたので、新社長の決定だと思い込んでしまいました。しかし、手塚さんの承認があった、と考える方が自然だと気づきました。
一年前そう気づいた時は、我ながら大変驚きました。手塚さんがぼくらを追い出すなんて、考えもしなかったからです。勿論、経費削減の為仕方なくであったとは考えられます。しかし、1ページでも「ぐら・こん」のページがあれば、「場」の機能は持てたでしょうから、是非残して貰いたいものでした。実際、さらに売れなくなったのですから、最悪の決定でした。
そうして、12月号で『COM』は無くなり『COMコミックス』に誌名を変えて、それも一年で休刊。その8ヶ月後『COM』復刊号を出すと、すぐ倒産するのですから、編集方針の転換というより、倒産を恐れての混乱と言った方がよい有様だったと思います。
西崎社長が「俺が売れる本にしてやる」と豪語したという話を、その当時聞きました。『COM』が売れればまだ立ち直れる可能性があったのでしょう。後に『宇宙戦艦ヤマト』で名をあげる西崎社長が、この時作った『COMコミックス』は、平綴じで、ヌード写真がある、青年向け週刊誌みたいな本でした。平綴じも「ぐら・こん」切り離しも、製作費の切り詰めのためであったでしょう。しかし、結局、儲からないからと、本の出版をどんどん止めていき、編集者の解雇に移っていきます。石井編集長以外全員辞めさせられ、そのため一部の編集者は不当解雇で裁判を起こします。手塚さんは、自分が社員を解雇するという事態を避けるため社長を辞めておられたように思われますが、結果、倒産という不名誉と、億の負債で苦しまれる事となります。
話を戻します。「切り離すが、金は出す」と言う事で『マンガジュマン』という情報誌を作る事になりました。七月の支部長会議で出すことが決まっていて、未だに出せていない情報誌の事でした。誌名は西沢君の提案で北海道支部機関誌の名を借りました。
ここから時間との戦いが始まりました。『COM』に「ぐら・こん」のページがあるうちに、と最後の号に購読者募集を載せました。すると七〇〇通の申し込みがあり、「ぐら・こん」に期待している人がこんなにいるんだと意を強くしました。『COM』が『COMコミックス』に変わると、「ぐら・こん」らしい漫画の掲載の場もなくなるので、それなら漫画の本を作ろうかと、ぼくは無謀にも「ぐら・こんの本」を作る事を企てるようになって行きました。
翌72年になると、東京に行くと大塚さんのアパートに入り浸り、昼は沢山の漫画家や友人に協力を頼んで回り、夜は大塚さんのガリ版でせっせと『マンガジュマン』作りに励む事となりました。こうして1号ができましたが、その後、大塚さんがCOM編集部を解雇になり、デザイン事務所に再就職して、ぼくが相談を持ちかけても返事が無くなって行きました。慣れない仕事で疲れているように見えましたから、これ以上頼めないなと観念して、『マンガジュマン』2号を最後に、大塚アパートから出て行く事にしました。ずっと2人でやってきたのに、何も話すことなく大塚さんが離れて行くのは寂しい事でした。
『マンガジュマン』1号では、石井編集長以下元編集者が多数、「マンガジュマン」に期待する旨の文を寄せて『COM』のコントロール下という紙面だったのですが、大塚さんの離脱で『COM』との繋がりが薄くなってしまいました。かくて『COM』から頼まれた情報誌作りなのに、ぼく一人にされてしまうという、予想外の事態になりました。
しかし購読者は集めてしまったし、ぼくがやめれば、即「ぐら・こん」は消滅してしまう。妙な責任感まで押しつけられて、やめるにやめられなくなりました。
ぼくが『マンガジュマン』に寄稿を頼んだ高宮君も「ぐら・こん」の消滅は理不尽だと異を唱えてくれていました。それで、頼るべきはやはり気の知れた仲間だと、大阪で編集する事に決めました。大阪の漫画仲間は皆大学生でしたから、編集スタッフに最適でした。それで、ぼくは東京と大阪を頻繁に行き来する事にし、まさしく清水の舞台から飛び降りる覚悟で、漫画誌の出版を決めました。印刷同人誌は数冊作った経験がありましたが、百部位のものでした。売る本を作るというのは、お金の心配もしないといけない、大変な不安との戦いでもありました。
しかし、勢いだけでやってはいけなかったと、後になって後悔しています。継続する戦略も立てておかなければいけませんでした。『コミケ創世記』の102ページに「『(71年)七月弐拾五日乃疲労宴』において、N氏は創作まんが誌の立ち上げを公言していたというのだが、だとすれば元支部長の手によって『新ぐら・こん関西支部』は、その実態が不明な『ぐら・こん日本』に換骨奪胎され、有名無実のものになったといってもいいだろう。」と書かれています。原田さんの鋭い追及に、一読した時はドギマギしました。しかし、ぼくなんかのした行動を、こんなに的確に分析してもらえるなんて、逆に感謝しなければいけないと、思いなおしました。なにより、原田さんにとって重要な問題だったから、このように一文かかれたのでしょうから、ここは誠実に回答する責任がぼくにあると思います。
まず、71年7月ではありません。71年の末に「切り離す」と言われたのですから、出版を決めたのは72年になってからです。そして、ぼくは勝手に「ぐら・こん日本」と名を変えたので、変えた責任はぼくにあるのですが、理由は、『COM』から切り離されたのに「関西支部」はないだろう、と思ったからなのです。実際ぼくらはもう支部ではなかった。しかし、「ぐら・こん」の精神は引き継ぎたいと考えていたから、北海道も九州もない、みんなでやろうと、そういう思いで「ぐら・こん日本」と付け替えました。そういう過程で「換骨奪胎」しましたし、「実態不明」「有名無実」と言われる面が生まれたでしょう。
反論ではありませんが、「実態不明」「有名無実」になった原因は『COM』から追い出し、大塚さんを解雇した虫プロ商事にあるのですから、ぼくの責任と言われても、責任を取りきれません。元々ぼくに他の手立てはなかったのです。ただ、『あっぷる・こあ』に参加、協力、購読してくれた沢山の人達が、「ぐら・こん」が無くなる事に反対したので、その力に助けられて、「ぐら・こん」の消滅を防ごうと頑張っただけなのです。勿論、頑張っただけであった事に対しては、自分の力の足りなさをお詫びするしかないのですが。
関連する形でもうひとつ。亜庭さんの「マニア運動体論」を読ませて貰いましたが、「『COM』消滅時における『ぐら・こん』の活動が『マンガジュマン』から『アップル・コア』へと変遷してゆく過程で『COM』以降をになうべき『マニア』の連絡の場としての意図を失ない、創作同人へと変質していき、ついに姿を消した…」との指摘には、全く反論はありません。ここが核心だと、ぼくも思います。『あっぷる・こあ』に「マニア」のページを作るべきでした。「場」の必要性を良く知っていたのですから、ぼくの失敗であったと認めます。自分の考えの足りなさに、今更ながらがっかりします。この文の最後の方でもう一度述べますが、結局『あっぷる・こあ』を続けられなくなってから、集会を開いて打開策を見つけようとするのですから、協力者、購読者の方たちの声をもっと早くから聞いておくべきだったのです。せっかく沢山の人たちの協力を受けたのだから、みんなのエネルギーを生かせる仕組みにしなければいけませんでした。それを怠った事が続けられなくなった原因です。亜庭さんはそこに早くから気づいていられたのでしょう。
話を戻します。
『マンガジュマン』は4月、7月、10月と3号出しました。2号では、付録にB6判16ページのパイロット版を作りました。そんな付録誌なのに、樹村みのりさんが4ページの「昇平くんとさちこちゃんの夏休みの絵日記」という楽しい作品を描いて下さって、感激しました。樹村さんのような素晴らしい作家がぼくらに期待をかけてくれている。これはなにより心励まされ、自分たちの行動に自信を持たせてくれる事でした。これはどんなことがあっても、良い本を出さないと、と決意を強くしました。そして、作品の質の高さを一番に求めようと考えました。その方針はある程度貫けたという自負があります。
2ヶ月後、12月に、『ぐら・こんの本』、『季刊あっぷる・こあ』創刊と続きます。『マンガジュマン』は先細って無くなったという記述が『コミケ創世記』にありましたが、2号を作る頃から、ぼくは、『あっぷる・こあ』に引き継ぐまでの「つなぎ」という風に、その役割を変えていました。独断ですからぼくに責任があります。
その『マンガジュマン』の巻頭言。『コミケ創世記』の文中で大塚さんのものとして引用されていましたが、37年ぶりながら、この癖のある文章は、間違いなくぼくが書いたものだと確信しました。同時に気恥ずかしい思いにもなりました。
僕らは「ぐら・こん」の存在を無意味なものとは思えなかったし、「ぐら・こん」が自身で自滅するのではなくて、一出版社の編集方針の変更の為に、その犠牲となる事に非常な憤りを感じるし、だからこそ、ここに自らの滅亡を宣言するか、その存在性を主張するかの二者択一の最終行動を始める。「ぐら・こん」自身の初めての決断をここに下す。
どう思われるでしょう。ずいぶん大層な言い方だなあと、思われて当然です。ぼくもそう思います。しかしながら、昔の自分を今の価値観で判定することは正しくないとも、今回つくづく思いました。今読むと赤面ものですが、当時の時代と、自分の年齢と、そして孤立感を考えたら、全然おかしくなかったのです。そういう事も、考えに入れなきゃいけないと思い、ここに載せました。
巻頭言の如く気負ったぼくが、出版に向かって態勢を作り上げて行きました。編集は辰巳、高宮君らぼくの漫画仲間を中心にしました。竹内オサムさんが所属する漫画同好会の人達も参加してくれました。それに、辰巳君と大学が同じだった村上知彦さんにも加わってもらいました。誌名の『空飛ぶまんが―あっぷる・こあ』は高宮君の発案でした。そして、亜庭じゅんさんにも参加してもらいたかったので、大学が近かった高宮君に、京都の一乗寺下がり松へ訪ねて行ってもらいました。帰ってきた高宮君が「2人で漫画評論をやるからページをくれ」と興奮してしゃべるのを見て、やっぱり、自分が行けば良かったと悔やんだのを、今も覚えています。ぼくが行っていたら「マニアのページ」が生まれていたかも知れません。
「ぐら・こん」は北海道、九州支部長のほか、中部支部長だった小川茂さんにも協力を頼みに名古屋へ行きました。小川さんは『COM』新人賞の佳作まで行った方で、良き先輩として、有益な助言を頂きました。また、すでに「飛行館」という名で漫画誌や詩集を作られていて、協力関係を持てました。漫画家は、樹村みのりさんのほか、やまだ紫さん、芥真木さんに声をかけ、それで3人合作が実現しました。そして、雑賀陽平さん、六田登らはぼくの友人です。寺尾美代子さんは、『COM』新人賞の投稿作で注目していたので、ぼくから手紙を出して頼みました。チャンネルゼロ工房のみねぜっとさんは高宮君の友人でした。
芥さんの家に三女史が集まった日の事を今でも覚えています。三人ともとても楽しげに語りあい、『あっぷる・こあ』1号の三人合作ページそのままに「競作にしよう」「設定は?」と、話が盛り上がって行きました。いいものができると期待できました。「ちょっと待って」で始まる競作。樹村さんの「晩秋」。透明で穏やかな樹村さん独特の語り口で始まり、最後にあふれる感情を描き出す、樹村さんならではの繊細な心の世界です。芥さんは「ありがたくないプレゼント」。アメリカンコミック風の絵柄で、演劇調の対話劇。話の盛り上げが手の込んだものでした。
やまださんは原稿が間に合わなかったのですが、「必ず2号で描くから」という約束どおり、いや、約束以上の作品が送られて来て、驚きました。「性悪猫」。個人集の表題作にもなっていますから、広く読まれていると思いますが、内容は書きませんが、新境地を開かれた、と衝撃を受けたのを今もはっきり覚えています。『あっぷる・こあ』がA5版だった関係で、再掲載時に書き直しをされていますが、背景が入っただけで、構図、コマ割りは全く変わっていません。また、詩画「天空(そら)への憎言(うた)」も、やまださんの感性の鋭さをみせてくれて秀逸でした。
手塚さんからは推薦の言葉を頂きました。「若い人たちの新しい試みに期待します」ぼくにとってこの言葉は、額面どおり受け取れない、つらい思いにさせられる激励の言葉です。「切り離され」なければ、新しい試みは必要ではありませんでしたから。上村一夫さんからも詩的な言葉を頂きました。「定義なき現劇画界に漂うグライダー群に プロペラをつけてくれることを切に期待します」本の帯に載せようと思ったのですが、そんな予算がなく、使わずじまいで惜しい事をしました。
『COM』からの約束のお金は出ませんでした。ぼくらは郵送申し込み三〇〇人の購読料と、皆で奔走して集めた広告料で『あっぷる・こあ』を作りました。元々『COM』から支部運営費など支払われた事がありませんでしたから、あまり当てにしていませんでした。
大阪のミニコミ誌『プレイガイドジャーナル』社に協力をお願いして、書店ルートを紹介してもらいました。大阪、京都の大書店に置いて貰うことになったので、思い切って1000部刷りました。翌73年3月に2号を出し、3号の編集をやっていた頃、手塚さんからこんな葉書がぼくの家に来ます。
「虫通信というパンフレットが東京で発行されておりますから、一寸無理だと思います。何か別の名前を考えてください。東京のと混同します。64通信とでもしたらいいかが 虫」
走り書きでしたが、自筆のようでした。ぼくが『虫通信』を打診した覚えはありませんでした。推薦の言葉を頼んでくれた人が、『虫通信』にしたいと言ったのかもしれません。沢山の友人知人が手伝ってくれたので、誰が頼んでくれたのかもわかりません。こんなアイデアは他にも沢山ありました。友人知人がどんどんいない協力者が多数いました。日野日出志、政岡としやさんのイラストや、宮田雪さんの寄稿文が載っているのも、そうした人たちのお蔭です。それだけ賛同する人が多く、大変な広がりを持っていました。
その後7月になって、たまたま何か用があって、久しぶりにぼくは池袋の虫プロ商事を訪れました。たった一人残った石井編集長が『COM』の復刊号作りをしていた時です。石井さんに初めて応援椅子をすすめられ、「協力してくれ」と頼まれました。「ぐら・こん」もいれて、元の形にと考えておられたのでしょうか。しかし復刊号が出るとすぐ、虫プロ商事が不渡りを出し、虫プロ3社が倒産します。
翌74年1月、4号を第一期完了号と表紙に記して出しました。先に、三女史の作品について書きましたが、他にも良い作品が幾つもありました。3号で六田登君の「宴」。精神病院の入院患者達の中に自分の居場所を見つけるという、孤独な少年の心象風景が描かれています。竹内オサムさんは1号「トトンマさんの雨」、2号「大きらいや!」、4号「ちぢれ毛のトマ」の3作。童話風の話や、元気な小学生の男の子の話で、楽しい児童漫画です。手塚さんが読んだら「これこそ『COM』に載せたい漫画だ」とおっしゃるだろう、と思う作品です。子供漫画も才能のある人が出れば、面白いものが描かれるのだと、これらの作品を読んでぼくは気づかされました。4号のさいがようへい「われらは何故生きるか」も、彼らしい風刺精神が発揮された奇抜な展開の作品です。
1号で高宮君が書いた「大阪まんが史」。赤本時代からの漫画出版社、日の丸文庫が当時まだあったので、取材に行って出来たものです。貴重な記録になりました。2号で亜庭じゅんさんが書いた「銀色の少女たち」。深読みをして自分の主張を展開する、という当時多かった評論とはまったく違いました。平易に語って、亜庭さんの漫画に対する深い愛情を感じさせてくれる、そういう漫画評論でした。論の核心である西谷祥子、水野英子両女史の作品世界の違いに対する、鋭い分析にも感心しました。
つい昨年、原田さん、式城京太郎さんとお話しした時、『あっぷる・こあ』の作品はレベルが高かったと、言って貰いました。今もそう言って貰える事に、驚きましたし、作って良かったと、心底思える出来事でした。再度購読を呼び掛け、1年以上たった、75年春に終刊号、5号を出しました。この時、スタッフ、執筆者に感謝の意味で全員の名前を裏表紙に並べました。40名にもなりました。それ以外に協力者がいます。ぼくが知らない協力者はさらに沢山います。きっと倍で足りないでしょう。全員がボランティアですから、それがなにより素晴らしい事でした。まさしく運動であったと思います。こういう運動ができたという事を、みんなで誇りに思っていい、と今思っています。
終刊号とはっきり書いたのは『あっぷる・こあ』が続けられなくなったからでした。ここ一年で主要メンバーが就職した事も理由の一つでした。ぼくも家業を継ぐしかないか、と腹を決めました。漫画家になれず、出版社にも就職せず、漫画界で飯が食っていけるとは思ってもいなかったので、そう覚悟しました。
なんとか「ぐら・こん」を残したいと願っていたぼくは、この年のたしか9月に、東京で集会を開きました。引き継いでくれる人材を集めようと思ったのです。この1年半はずっと東京にいたので、高宮君ら大阪の編集スタッフとはほとんど話し合いができていませんでした。それで東京在住の仲間を当てにしたのですが、芥さんも六田君も、元九州支部長の原孝夫君も都合が悪く来てくれません。うまく行かない予感の中で、ぼくは集会場へ向かいました。
せっかく全国から50名、原田央男(この時ぼくと原田さんは会っていました)、米沢嘉博、亜庭じゅんの迷宮メンバー、CPSの式城京太郎、MOBの鈴木哲也、和光大漫研の三東宗一郎、明大漫研の尾沢祐司、日大文理漫研の渡辺協、奇人クラブの平塚宏、高橋誓、「ぐら・こん」山形の青木文雄、跋折羅、まんがの虫、EOS、そして夏目房之介、雑賀陽平さんら、それぞれ多方面で活躍されるすごい顔ぶれが集まっていたのに、話をうまく持って行けませんでした。まるでファンの集いのように、和気あいあいとしているだけで、誰からも建設的な意見が出ませんでした。なので、ぼくが新しいヴィジョンを持ってなかった事が一番の原因だったと考え、すべてはぼくのせいだと、ずっと今まで思ってきました。
しかし、昨年高宮君に聞いて解ったのですが、事実はぼくの想像とはだいぶん違っていました。当時のぼくは知らなかったのですが、集会から数ヵ月後の12月に「第1回コミック=マーケット」が開かれます。「迷宮」メンバーはその準備の最中だったそうです。高宮君いわく「『COM』とも『ぐら・こん』とも決別し、漫画とファンとの新しいフィールドを作ろう」と、考えていたのだそうです。それで、「ぐら・こん」の継続に賛成しなかったのだと、わかりました。
集会より少し前、高宮君からは「SF大会」のようなファンのためのイベントを漫画でもやりたい、という話は聞いていました。東京にいたぼくを訪ねて来てくれた時です。ぼくへの提案であったような気がします。彼は『あっぷる・こあ』のリベンジとして、それを考えたのだそうですから、あの時にそう言ってくれれば、ぼくも関心を持ったろうと思います。「リベンジ」とは言わなかったので、ファンのイベントが「ぐら・こん」の代わりになるとは、ぼくには、にわかに思えませんでした。なので、原田さんから「コミックマーケット準備会」の通知をもらったのですが、ぼくは参加する気になりませんでした。そうして、最後の望みをかけた東京の「集会」に失敗した後、ぼくは元九州支部長の原孝夫君と、ぼくの弟に頼んで「ぐら・こん」を続けてもらいます。原君は、「新生ぐら・こん」という名称で、情報誌を75年10月5日付けで出します(手塚さん、竹宮恵子さんのインタビューが掲載されています)が、2号まで出して終わります。それで本当に「ぐら・こん」を自称する者はいなくなりました。
それからぼくは、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、ずっと思い悩んできました。何年たっても悔しい思いが消えないのです。あの時、たまたま支部長を引き受けただけなのに、うまくやれなかった事を一生悔いないといけないとは、因果なことです。
それが、最初に戻りますが、一昨年1月『コミックマーケット創世記』を偶然読んで、どうも、自分の思いと少し違う形で実現しているようだ、と気がつきました。それまでは「コミックマーケット」は「何でぼくと関係ないんだろう」と不思議に思っていました。35年前の活動状況は大抵知ってたのですから、ぼくの知らない所から出てきたはずがない、という思いがあったからです。
なので、高宮君、亜庭さんが「コミケ」の創設メンバーだった事がわかり、東京での最後の集会に集まってくれた人たちの多くが「コミケ」のスタッフや参加者であった事を知り、そんなに側にいた人たちだった事に驚き、そして、やっぱりぼくの望みは共有されていたのだと思って、興奮して読みました。
高宮君が、リベンジが出来たと思っているのか、聞いてみたいのですが、ぼくのリベンジは代わり果たしてくれた、と思っています。長年悔しい思いに悩まされてきたのが、まったく無意味だった事がわかりました。本当に間の抜けた話で、お恥ずかしい限りです。素晴らしい仕組みを考案し、実現した、高宮君、亜庭さん、原田さん、米沢さんに感謝しています。
そして、昨年4月に竹内オサムさんと再会し、当時の事を書かないかと、言って貰いました。その時には、ぼくの体験が『ビランジ』に載せて貰う価値があるだろうかと不安がありました。文にして残すような価値のある事を、自分がやったと思ってなかったからです。
その半年後に、2回目の「COM座談会」があり、「コミティア」の会場に初めて行きました。漫画研究会、同人誌を読みたい人、有望な新人を見つけたい編集者、の三者が集まる場が出来上がっていました。それも、ぼくが『あっぷる・こあ』で作れなかった、永続性を持った場でした。そうして、スタッフはボランティアで、それから、みんな若くて、ぼくは誰一人知らないのですが、彼らの楽しそうな様子を見ているだけで、幸せな気分になり、ゆっくりと見て回りました。
また、「座談会」後、初対面の吉本たいまつさん(漫画研究者、ライター)からお礼を言われ、驚きました。「ぐら・こん」から、どのように「コミックマーケット」に移って行ったかが、解ったというお礼でした。若い研究者の間で「ミッシング・リンク」と呼ばれていた事を知りました。彼等からもぼくは呼ばれていたのかもしれません。感慨深いことでした。そして、有り難い事でした。
ぼくは《ここ》に戻って来る必要があったと、今一層強く思っています。ずっと三十何年あの時の事を思い返し続けてきたのだから、《知らなかった事実》を見つける日が来なければいけなかった。そのために更に失敗に気づかされましたが、それでも、知らないままでいるよりは、ずっと良かった。
そして昨年10月、思いがけない展開がまた起こりました。原田さんが「来年『COM』を1回だけ、出す」と言ってこられたのです。ぐら・こん関西支部の顛末を書いてほしいと依頼されました。まだ「迷宮」の続きがあるようです。
2005年、JR福知山線の脱線事故で雑賀陽平さんが亡くなりました。同じ年、宇和田義則さん。2006年、米沢嘉博さん。2008年、岡田史子さん。2009年、やまだ紫さん、ぐら・こん九州支部長だった原孝夫くん。2010年、みやわき心太郎さん。はや多くの方が亡くなられました。残念なことですが、皆様、それぞれに漫画界に足跡を残され、思い通りの人生を生きられたと思います。ご冥福をお祈りします。
これで書き終わるはずだったのですが、2日前に、亜庭さんが亡くなったと、原田さんから知らせが来ました。原田さんも相当落胆されていましたが、ぼくもずっと気持ちが沈んだままです。原田さんのお陰で昨年10月、三十五年ぶりで会えて、昔話ををし、またお会いしましょうと言って別れたのですが、会えなくなってしまいました。あの世で会えるだろうと、それに期待をかけようと思います。
最後になりましたが、竹内さんにお礼を言います。『ビランジ』に書かないかと誘って頂いて有難うございました。先にも書きましたが、ぼくの役割は大したものではありません。しかし、『あっぷる・こあ』の作品はレベルの高いものでしたから、参加して頂いた方々の為にも、この本を忘れられないようにしたいという思いが段々強くなりました。また「ミッシング・リンク」と呼ばれる事にもなってしまいましたから、どうして生まれたかという経緯を広く知ってもらう事も、必要であろう、と思うようになりました。それで、半年、夢中になって書きました。書きだしてみたら、ぼくしか知らない事が幾つもありました。
もう一言あります。『あっぷる・こあ』に竹内さんの作品を載せさせてもらった時に、もっと褒めておけば良かったと、後悔しています。てっきりプロ漫画家になられるものと思っていましたので、大学の先生になられて、吃驚しました。竹内さんの漫画は正統児童漫画と呼べるもので、少年の心情を実に良く捉えた物語を描かれていました。ぼくらの世代で児童漫画家を目指していた人は、皆無に近かったので、貴重な才能でした。そんな時代でしたから、手塚さんがあの時、「僕はそうは思いません」とおっしゃったのは、児童漫画に目を向けてほしいという強い願いが、理由の一つだったのかもしれません。後になって思う事は多く、どこまで切りがありません。
竹内さんは『あっぷる・こあ』の仲間ですから、ぼくのこの至らぬ文も、よく理解してもらえるだろうと思い、安心して書く事が出来ました。心より感謝します。
2011年1月23日
所載:竹内オサム編『ビランジ27』2011年3月18日発行
元ぐらこん関西支部長3代目で同人誌『あっぷるこあ』代表の中島隆さんが11月に享年73歳で逝去されました。近年ずっと毎年来られておられた京都MMのマンガカフェ後の忘年会でみんなで献杯しました。 pic.twitter.com/Bfh5Jj7ZND
— 小西@図書の家 (@torikotori) 2024年12月21日
中島隆さんと言えば、故・みなもと太郎先生がこの時代のことを話すたびに「中島の言うことは事実と違う」と言っていたことを思い出します。両者はぐら・こんやその後について別の「史観」を持っていたのだろうと思います。詳しく話をうかがえなかったのが本当に残念です。
— 吉本たいまつ 🌈️🦀️ (@taimatsu_torch) 2024年12月28日
1982年のロリコンブーム批判(アニメ★ジュンの大発見「プティ・アンジェ狩り——ことのついでの物語——」より)
Source:『月刊OUT』 1982/6/1
アニメ★ジュンの大発見/プティ・アンジェ狩り——ことのついでの物語——
***
某アニメ雑誌で”プティ・アンジェル研究なる記事をみつけた。それもカラーだ。
——一体どうなってるんだろう!ロリコン・ブームの流れに沿ってとはいえ、かのダ作「女王陛下のプティアンジェ」を一応マトモに取り上げている。どうして?「プティ・アンジェ」を流行らせたのは吾妻ひでおだけれど、あれは彼一流の、冗談じゃなかったのか?
——技之一・ロリコンとはタマネギである——
冗談と本気の区別もつかず、ブームが一人歩きを始めている。もともとブームとはそんなもんだが、まんがとアニメにとりついて増殖し続けるロリコンが、どんな腫瘍(しゅよう)になろうと知ったことではない。かといって悪性のそれ、すなわちガンになってまんがやらアニメを蝕むことだけは願い下げだ。
だから、現在ロリコンて何なのさ?とその輪郭だけは、はっきりさせておきたい。ロリコンが病気なら、処方箋はともかくカルテだけは作っておくべきだと思うから。
で、少女をではなくロリコンを裸にする。
まず、ロリコンとはロリータ・コンプレックスのことではない。
”ロリコン・アニメファン、幼女を誘拐!”なんて記事には、お目にかかった事もない(この先は知らんけど、やるなよ!)。あたりまえだ。アニメのロリータ・キャラ、美少女少年まんが、ロリコン劇画のファンはいても、町の少女を追っかけ回してるファンなんかまずいないだろうし、いたところでその手のアニメ、まんがファンが仲間とみなすとも思えない。はえー話、自称ロリコンなる連中はブラウン管やスクリーン、ページの上のキャラに恋こがれる限りにおいて、正確にはロリコンというよりフェティシスト(物神嗜好者)なのだ。
空想のなかで、もて遊べる対象にコーフンするのだから、ついでにナルシス(自己愛主義者)の変形でもあるだろう。実体の無い虚像(もしくは描かれた実像)を追いかけるのだから、その嗜好は無意味を承知のエスカレーションを無限に続ける他はない。こんなことはやる者の勝手であっても、他の者に対してだからどうだといえるものじゃあない。一人ごっこに徹するのがキャロルセンセー以後の正統派ロリコンなら、自称ロリコンと声を限りのアホたちにはゴクローさんというしかない。
そして、正統派であろうとなかろうとロリコンが行きつく先を持たないタマネギ・ゲームである事には変わりはないのだ。ロリコン・ブームというなら、ロリコン=ブームという言い方自体ひどい矛盾ではないか?
——技之二・ロリコンとは“アニメ”である——
アニメーションなんて言い方が一般的に使われる様になったのは、案外最近の事だ。それまでは動画といった。
ロリコンもこれに似ている。
ロリコンなんてコトバが出回る様になってから、アニメ美少女やそれに夢中の若者たちが、いっそうクローズ・アップされる様になってきた。けれどそれ以前にロリコンにあたるアニメ、まんがファンがいなかったわけでももちろんない。雑誌連載の頃からウランを見ると目の色を変える手塚治虫のフアンなんてザラにいたし、ヒルダだってそうだ。ただの美少女キャラ好みのまんが、アニメファンにすぎない。
それが現在の美少女のためにアニメ、まんがをあさるファンへと変質(!?)していったのは、まさしく。”ロリコン”というコトバによる。美少女大好き少年がロリコンなるコトバをテコに、自分をロリコンと逆定義したときから、彼は美少女しか目に入らない少年に変わったのだ。こうなると彼は自称ロリコン"をとなえ続けるしかない。ロリコンという名刺を持たない彼は、ただの少年でしかないからだ。
これが少年でなくても少女でも、オジンでもいい。もともとカワユク描かれた美少女がキライなアニメ・まんがファンなど殆どいない。だから、個人名の他に何か自分を特徴づける呼称を持たないと不安な人にとっては、ロリコンは最もたやすく手に入るパスポートなのだ。誰でもなれるロリコン。
キイワードの発見こそ、ロリコンをブームにのしあげた原因ではないだろうか。だとしたら自称ロリコン諸氏よ、ロリコンとはしょせんポーズなのだ。
吾妻ひでおが『プティ・アンジェ』とひとこと言えば、冗談かどうかも知らずワッと群がる。あげくの果てに、アレはすごかった——などと言いだすのだ。確かに処方箋など、書けるわけもない。誰かのセリフではないが、バカにつける薬はない——のだ。
——技之三・ロリコンとは商品である——
だからといって、ロリコンファンだけ責めるわけにもいかないかもしれない。流行ると見れば、それ、ロリコン特集だの、あげくの果ては雑誌丸々の特集号まで作ってみせる(一応、ちょっと種類が違うのでロリコン写真誌は別にしておく)。あおる方だって悪いといえば悪い。そーゆー意味ではOUTでもやっているのでデカイことは言え反ロリコン・キャンペーン(?)同時掲載してるので、マシな方だとは思う。
でも、総じて、まんが、アニメの美少女キャラ・カタログを作ってロリコン!ロリコン!と騒いでいるのだから、単なる商品以上にロリコンをマトモに扱ったものが、どれ位あるかということで、同罪といってもいいだろう。
こうしてロリコンは、マスコミレベルへと上昇(?)し、自称ロリコンすら不要になり、ちょこっとラナがかわいいなんて言おうものなら、即、ロリコンというムードが広がってしまった。そうなると又ぞろ雑誌が、まんがやアニメに関係ないたぐいのものまで、いいネタとばかりに飛びつき、その読者にまたロリコン命名症候群が伝染する。悪循環なのだ。かくてロリコン評論家が出現し、コミックマーケット?ああ、ロリコン同人誌の?ということにあいなる。そして悪循環と知ってなお、それを歓迎する雑誌、自称ロリコンファンらによって、ロリコン本来の意味も姿も完全に空中分解してゆくのだ。
この過程は美少女への道を聖化するどころか俗化し、手アカだらけにするものだ。美少女たちは君臨するのではなく、あくまでもて遊ばれているにすぎない。
——技之四・ロリコンとは物語・・・ではない——
少女まんがファンがロリコンとの間に一線を引くのは、少女まんがの絵そのものが少女の肉体のみの表現ではないからだ。大島弓子の絵ひとつとってみても、あのかぼそい線が少女という存在を抽象的に示すサインであり、物語とのからみのなかに少女の存在を浮かび上がらせてくることで、読者を魅了するのだ。
それに対して、自称ロリコンの目指すものは直接的に少女の肉体であり、アニメキャラの簡略な輪郭線であろうと、そこにさぐるのは美少女の身体のふくらみなのである。
そうなると物語はあくまでオマケであり、少女の体を描く口実にすぎない。
少女まんがが、少女のための、という前置きつきで様々な物語を語りだすのに比べて、ロリコンまんがは少女の体にからめて、物語を語ることしかできない。
それですら、吾妻ひでおら、それをできる作家の数が少ない以上、ロリコンにとって物語は事のついでに語るべきものにすぎない、といってかまわないはずだ。ロリコン作品の大半は美少女お絵描き帳であり、そのテクニックの優劣だけでもてはやされるロリコン作品の増加は、確実にまんが及びアニメからの、物語の、さらにはまんが及びアニメそのものの退却を教えている。
まんがもアニメも美少女を描くただの道具にすぎないのだ。
たとえば、吾妻ひでおは物語をパロディとして語る。その彼が物語のツマにちょっとシャレとしてさしはさんだプティ・アンジェが、いつの間にかロリコンファンの信仰の対象になっている。それもまたロリコンファンの冗談であるとしても、アニメファンにとっては立派に悪質な冗談であることに違いはない。
美少女キャラのカワイさとアニメのオモシロさとが持つ関係というのは、ささやかなものでしかないからだ。ボクの見たいのはあくまで第二第三のクラリスではなく、第二第三の『カリオストロの城』なのだという事をはっきりさせておきたい。なのにクラリスが先だというなら、あとはこう返すしかない。くたばれ!ロリコン!
(協力・霜月たかなか)









