雑誌文化研究互助
【コミケの起源】迷宮'75「運動宣言―テロルとパロルのアラベスクから状況の明日を撃て!―」(所載『漫画新批評大系』創刊準備号)
所載:迷宮'75『漫画新批評大系』創刊準備号(1975年7月26日発行)
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今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した。
沈滞と倦怠のどんよりとたれこめる中、想像の翼はその重みに耐えかね、感性の扉は、カーテンを閉ざしたまま晴れる日を知らない。果てしないルーティン・ワークの果てには、模倣の跳躍する不毛の季節(とき)が待っている。かつてCOM誌上においてほのかにみえた地平線の拡がりこそマンガの行く道であったにも関わらず、最早それは、いくばくかの郷愁(ノスタルジー)と自嘲をこめて以外、語られることはない。吸血鬼へとすべての幻想(ファンタジィ)が集約される時代とは、いっさいの新たな生命の創造が行なわれず、いたずらな自己増殖とエナジイの水増しのみが、はびこる時代なのである。
我々は、このような状況に対し、渾身の力をこめて“死刑!”と宣告するものである。マンガに秘められたあらゆる面白さの可能性を、マスコミのバスチーユから解放せねばならない。と同時に、このマンシャンレジームを側面的に支持している、現在のファンダム状況もまた、変革の対象となろう。右に大手出版資本、左に固執的大手マニア・グループを相手に回し、今こそ自己満足の孤峰から下りて語る時が来た。
マンガとは、マンガ状況とは、それを一つの遊び空間と認識したうえで、我々にとって、その中で生き、息づいている世界である。チェシャー猫が出没するアリスの国であり、上帝の支配する門の世界である。我々の求めるのは、まさしく、この世界の国境線を、無限のかなたへと爆発させることなのだ!
だが、状況のすべては、全く逆である。「マンガ」のあらゆる分野において、顕著にみられるのは、現状の固定化―作家の、作品の、そして読者の、商品化と消耗品化なのである。スーパーマーケット的規格品、安モノ化が横行している。連載は、興奮へのクレジット販売のこととなる。その中で、いかに多くの変革の意志が、すりきれ、自滅していったかを、我々は知りつくしている。だが、それ故にこそ、我々がやらねば誰がやる!? マンガの滅亡の日は近いのだ!
我々=迷宮'75(ラビリンス)は、とりあえず批評集団として出発する。状況の直接の変革の力は、作品にこそあることを知りつつ、あえて、ことばを武器として選択した。その理由は、何よりもまず、自らの内に、自由の砦を築くことこそ急務であると考えるからである。状況に押し流されず、状況のすべてに対峙し、それを受けとるためにも、我々はまず意識としてあらねばならない。状況の変動の一つ一つを厳格にチェックし、絶えず自らのテーゼを掲げるために、あるいは、可能性の芽をのばすためにも、今、意識としての批評の復権が必要なのだ。
同時に、我々は、運動体としても、出発しようとしている。鳥合の衆と化した現在のファンダムを、一つの世界として再構築し、作品世界と同等以上のリアリティを持つ空間とするために、分散し、孤立している各種ファン・グループ、同人の連絡機関、情報センターとしての方向を探っている。さらに、創作活動をも含んだトータルなものとして、まさしく、マンガ状況内部における状況(カウンターカルチュア)として、ファンダムを射程に入れている。
マンガが好きだからマンガをよむ。マンガが好きだからマンガに関わる。それはそれでいい。しかし、我々とマンガの関係は、それをこえて密接なものになってしまっている。マンガは、理由もなく、我々の一部として在る。そのことのイヤラシサを媒介にして、我々は、灰色の未知の大地へと旅立つのだ。パイオニアの栄光は我々の上にはない。ただ、自ら踏みしめる旅程の一歩一歩が、後から来るものへの、道標となることを願って、情熱の残り火をかきたてる——。
我々と共に、明日のテロリスト、今日のパロリストになるか否か? それは、諸君ら自身の問題だ。だが、我々は、決して、いつの日か月よりの使者として還り来ることはない。もし、諸君が、白いマントのデウス・エクス・マキーナを求めるならば、諸君自身が「変身!」と叫ぶしかない。
要は、決断の問題である。
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付記:右の宣言を理論化したものが「マニア運動体論・序説」として巻末にのせてある。興味のある方には一読をおすすめする。
(引用者注)「今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した」という挑発的な一文から始まるこの運動宣言は、商業漫画に対する問題意識を提示すると同時に、漫画ファンダムの変革を訴えるものであった。とりわけ、孤立・分散している創作者や同人のネットワークを結び直す必要性が強調されている。ただし、この時点でコミックマーケットの構想は具体化しておらず、イベントとしての明確なかたちは未確定だった。
まんが同人活動と「日常」 (原田央男)
(まんがの)同人とはまんがを介在として、ほかの「同好の士」と関係を持つということになるだろうか。つまり単なるまんが愛好者にとどまらず、まんがを通してつながる人間関係も含めてそれを受け入れた者ということになる。
早すぎる死までの30年(40年?)余りをみずから「同人」と規定して生きた亜庭じゅん(本名・松田茂樹)はあまり人付き合いの得意な男ではなかったが、まんがを通して人とつながりつつ、同人活動に意義を見出そうと情熱を傾けた。まんがを同人と関わった初期は活動のなかに身を置きながら、一人でも活動可能な評論の執筆で才能を見せたが、同志として加わった批評集団「迷宮」が創設したまんが同人誌即売会「コミックマーケット」がやがて迷走を始めるに及んで、みずから「創作同人誌即売会」と銘打った「MGM(まんがギャラリーマーケット)」を設立。以来、「FOR LADYS」「A LONG LONG STORY」などMGMのなかで様々な企画を立ち上げ、参加者を鼓舞して、まんが創作同人による新たな作品世界の開拓を模索した。
だが皮肉なことに、「迷宮」の「コミックマーケット」を出発点とするまんが同人誌即売会の急増と盛況によって、MGMはみずからの独創性を発揮し切ることなくそのなかに埋没。それでも亜庭じゅんはMGMの開催を続けたが、そのスタンスはまんがの可能性の開拓から、MGMを好む常連参加サークルのために場を確保することへと変わっていった。そのように愛されたMGMのなかに身を置くことは彼にとって不本意ではなかったはずだが、お互いのぬくもりだけを求めて同人を続ければ、活動は自閉していかざるをえない。それは目的のために他者に働きかける「運動」を目指し、かつ実践した亜庭じゅんにとって受け入れがたいものでもあったはずだ。その時点でもはや運動に勝利はないとしても、ただ敗北を認めない証として、彼はMGMを続けたのかもしれない。
とはいえ本稿の目的は、そのように生きた亜庭じゅんの軌跡に杜撰な解釈を施すことではない。まんがを中心にプロの評論家として食っていけるほどの才能を持った男が、最後まで本業の傍ら、アマチュアの代名詞ともなっている「同人」の立場を守り続けたのはなぜなのか。かつては「迷宮」で活動を共にした自分であればこそ、(まんが)同人とはなんなのか、死別をきっかけに改めて考えてみたいと思う。
まんが同人といっても亜庭じゅんがこだわり続けたのは「創作同人」であり、同じ「同人」という言葉でくくられながらも、愛読者であることを自認して作品に没頭しようとするコスプレイヤーや二次創作者のようなファン(愛好家)とはその立場において真逆にある。
「まず作品ありき」の受け手に甘んじる彼らに対して、創作同人はみずから作品を生み出すからだ。
しかし「創作」という言葉が響かせる前向きなニュアンスとは裏腹に、実際にアマチュアの立場で(おもにストーリー)まんがを創作し、かつ創作し続けることは容易なことではない。小学生時代に誰もが一度はノートに描き付けたであろう「まんが」は、だがストーリーの発案・構成からコマ絵の執筆すべて(登場人物、小道具、背景、セリフに至るまで)を個人が引き受けなければならないその作業量において、本格的に描こうとすれば尋常でないエネルギーを要求される表現でもあるからだ。むろんのことストーリーの長さや描画のスタイル、描く速さなどのそれぞれにおいて個人ごとの作業量は大きく異なるため、ここではあくまで一般論として話を進めているのだが、趣味の範疇でとらえるとしても数ページから数十ページ(あるいはそれ以上)の作品を手掛け、完成させるというのは、日常生活のなかに組みこむうえで相当ハードルの高い作業である。
もっともまんががそういうものであるというのは、最初からそうだったわけではない。日本にストーリーまんがという(西洋由来の)表現が定着するのは大正時代以降であり、そのころの作品というのはもっぱら短いストーリーと簡略な絵柄で構成されていて、現在のまんがとは雲泥の開きがある。それが現在のようなまんがとなったのは、手塚治虫を始めとする戦後まんが家たちの精進の結果であるが、商品として広く流通した彼らの作品が今ある「緻密かつ克明に描かれた」まんがのスタイルとイメージを形作ったと、大雑把にいってしまえばそういうことだ。同人たちの描くまんがも基本的にそれらの商業作品をモデルとしたものであり、「それに近い表現のものを描かなければまんがとして認められない」という描き手と読み手、双方の思いこみがまんが制作のハードルを上げていることになる。そして高めるだけ高められてしまったこのハードルによって、描き手においては同人(アマチュア)とプロとが峻別されるといってもいいだろう(現状において、もはやプロと同人の区別が曖昧になってしまっている事実については、ここではあえて注目しない)。
即ち、作品の執筆に必要な膨大な手間と時間とを「日常」のなかで費やせる者だけが、作品の「長編」や「連載」をこなしうる者として、まずプロとなる資格を持つ。そのほかにもプロとなるための条件はいろいろあるが、とにかく大前提として、「まんがを描くために生活のそれ以外の時間を犠牲にしろ」ということである。まんがを「仕事」とするのであればそれは当然のことともいえるが、そのかわり作品は「商品」となることを求められ、商品性を高めるために編集者の指導に従うことを求められることにもなる。この時に作家と編集者の間で齟齬が起これば、いわゆる「漫画家残酷物語」が始まってしまったりするわけだが、その是非うんぬんということになると話の筋道がそれてしまうので、ここではさておく。肝心なことはまんがを描くことを日常とし、生活をそれに賭けたプロ作家たちによって「まんが」のイメージを大きく決定する作品が生み出されているということであり、「商品」としてのレベルを保ち、かつ量産されているまんが(そうでない商業作品もいくらもあるが)に対して、プロでない同人の作品はどのような独自性、あるいは独創性を持ちうるかということだ。
学生やサラリーマンなど、本業を別に持つ同人は、おのずから膨大な手間と時間とを「日常」のなかで作品執筆に費やすことができない。つまり原稿生産の「量」において、創作同人は最初からプロに太刀打ちできるはずがないのであり、なおかつ作品執筆に生活を賭けているプロ作家と比べれば、それを描き上げる気迫も劣らざるを得ないだろう。余談を許してもらうなら、大学生世代を中心とする同人作家(二次創作も含む)が次々と現れては消え、同人誌即売会の盛況を支えているというのは、学生ならではの余りある時間が執筆原稿の「量」を可能にし、同時に気迫に代わる若さを持ち合わせているからである。極限すれば大学生時代に限って、創作同人は誰でもまんがの本格的な執筆に挑むことができる。ただしそれらのほとんどは一過性で、入れ代わり立ち代わり現れる彼らのその時限りの勢いが、コミケを祝祭化させる大きな要因となっているともいえるだろう。
話を戻そう。だから、かつては創作同人のほとんどがプロ作家予備軍であり、もとより生活を賭ける覚悟がなければ、まんがは高校・大学を卒業してまで描き続けるものではなかった。それでも描き続けるのであれば仮に同人に加わったとしても、孤立したサークルのなかで孤独な作業に埋没するほかはなかったろう(もちろん例外も、ないわけではない)。従ってこの時代、まんがを本格的に描こうとする者はプロ作家を目指さざるを得ず、その限りにおいて作品とは商業作品(娯楽作品)のことであり、それに対する同人作品の独自性が問題にされることはなかった。いや、それ以前にプロ「未満」のアマチュアとしてしか、創作同人の身の置所はなかったのである。
ところがまんがの可能性の追求を目的に一つに掲げた『COM』のような雑誌の出現によって、まんがが娯楽にとどまらない自己表現の手段ともみなされるようになると、同人作品はそれ独自の可能性を追求すべきだという声も読者などからあがるようになる。彼らにしてみれば商品価値のあるなしに関係なく、執筆においても連載などを前提とするような商品としての制約から離れて、まんがの可能性を純粋に追求するのが創作同人だという立場である。同人誌はそのような目的を追求するために作るものであり、プロ作家になることとは別に、同人としてまんが創作に関わり続けるという流れがこの時生まれたことになる。「コミックマーケット」もまた、そういう創作同人支援の場として生まれ、ファンクラブや二次創作サークルを受け入れつつも、初期はその姿勢を貫こうとしていた。
そしてコミケの誕生以後、同人誌即売会の普及によって創作同人を取り巻く環境は一変。作家と読者をつなぐ出版社と取次会社のシステムとは別に、即売会(や同人誌専門店)が作り手と受け手をつなぐようになり、まがりなりにも創作同人が作家(プロとかアマとかではなく)になりうるサイクルが成立する。しかしファンクラブから二次創作サークル、コスプレイヤーまでもが押しかける同人誌即売会の盛況のなかで、そのような創作同人はむしろ少数派にとどまり、同人誌即売会の創出を画策した「迷宮」の目論見は、肝心要の部分においてはぐらかされることになった。
その理由となったのは先に示したような作品創作のハードルの高さであり、商品として蓄積されたまんがをモデルにするのであれば、もとより作業量と気迫でプロに及ばぬ同人がそれ以上のものを描けるはずがない(ただしこれも、例外がないとはいわない)。だから創作同人サークルが望むほどには増えない(創作に挑む同人が少ない)のは道理であったし、作品についていえば、創作同人は商業作品がドラマとボリュームで見せつけるジャンルからは離れ、もっぱらエッセイコミックや短編、イラスト集といった小品の発表をもってプロ作家と棲み分けることになる。商業作品のファンによって構成されるファンクラブや二次創作サークル、コスプレイヤーと同様に、それの展開する作品ジャンルの穴を埋めることで、創作同人は出版社を補完するアマチュア作家として機能することになったとさえいってもいい。なんのことはない、出版社を頂点とする「まんが業界」からの決別を目指したはずの創作同人たちは、みずからしっかりとその業界のなかに取りこまれていたわけだ。「コミックマーケット」にしても「企業ブース」を設けることで逆に「業界」をそのなかに取りこんだように見えるものの、参加サークルの大半が二次創作サークルやファンクラブで占められているということは実質、業界の一部になってしまっているということにほかならないし、「創作」ならぬ「自主制作」のための即売会を謳う「コミティア」も、出張編集部を取り入れるなどして業界との融和のなかに存続の道を探っている。むろんのことそれらも同人誌即売会のあり方の一つとして、責めているわけではないのだが。
創作同人に限れば、彼らがどんなにがんばろうとも出版社が支配する業界と対峙できないのは、誰でも描けるように見えて実は完成までのハードルが高い「まんが」という表現(ただし商業作品)の特殊性に由来するものであり、それを回避して片手間で描けるエッセイコミック等(もちろん優れた作品もある)でお茶を濁す以外のことが、果たして同人に可能なのかということになる。しかしプロ作家が「日常」をまんがに捧げているのであれば、一方で本業その他の日常を維持しつつ、なおプロには描けない(あるいはプロと同等かそれ以上の)作品を描いてみせるのでなければ、創作同人である意味がない。亜庭じゅんもまた創作同人というものをそのようにとらえ、彼らに対してMGMを主催することでその実践をうながし、さらにはみずから語りかけたのだと僕は思う。創作同人にしか描き得ない世界を「作品という形で示せ」と。けれどもまんがという表現の持つハードルの高さの前にその試みは年と共に勢いを欠き、プロ作家の気迫と生産量に対抗するメソッドを確立できないまま彼は没した。MGMが発行する「MGM新聞」のなかでついには「みんなでうまくなろうやんけ!!」の連載を始め、即売会主催者自身が参加する創作同人に対して物語の作り方まで指導せざるを得なくなった時、そこまで追い詰められた彼のあせりはいかばかりだったろうか。
それでもMGMの開催を重ねることで亜庭じゅんは同人誌即売会を「日常」に取りこんでみせ、最後まで添い遂げた。日常をまんがに捧げるのではなく、みずからをまんがと同等の存在として、日常のなかで両立させたのである。確かに日常をまんがに捧げてプロ作家になってしまえば同人作家に追随は出来ないかもしれないが、同人なりに「量」や気迫をフォローしつつ新たな作品世界を開拓する方法があるのではないか。創作の困難さよりも好きな作品に追随する二次創作の道を選んだ多くの同人たちを尻目に、彼はその方法を模索しつつ、まんがと対等に向き合う同人であり続けたといえるだろう。
そして一番最初に書いたように、同人とは「まんがを通してつながる人間関係」のなかに身を置く者である。まんがを描くことは孤独な作業だが、同人はそれを通して、同じく創作する他者とつながることができる。だからといってつながることが目的ではなく、つながった者同士で前を目指し共に歩く。同人の持つ意味と醍醐味は、そのような前に向けたまなざしを共有すること以外に何があるだろうか。逆にいえば前を向く者どうしだからこそつながれるのであり、今いる場所にとどまり、変化を恐れるようになれば、それは同人ではなくただの馴れ合いということになるだろう。本来分かり合えないまんがを描くという作業を、意識のうえで分かち合えるのが創作同人であり、プロ作家どうしの持つ同業者意識とそれとはおのずから異なる。だから同人でいたいと自分でも思うし、亜庭じゅんも同じか、それに近い思いがあったはずだ。「日常」のなかで同人と「共に前を向き、歩く」ことで見えてくるまんがの新たな世界を目指して、まだ歩みを止めるわけにはいかない。
所載:迷宮'13『MGM100カタログ』(2013年1月27日、迷宮内MGM、自費出版)
【コミケ前夜とCOMの残滓】高宮成河「時は流れて日が暮れる――遙か彼方のCOMに寄せて――」(所載『いちゃもん』No.3/1975年8月2日発行)

10年はひと昔というけれど、それなら5年前だと半分昔で、それ以前ならもっと昔なのだろう。
COM創刊の時点は最早「昔」という言葉に含まれつつあり、ぼくらにとってCOMは徐々に時の暗闇の中に姿を消しつつある。今ぼくらにとってCOMを語ることは、奇妙な苦痛と少しばかりの恥ずかしさの入り混じった懐旧の念を伴わせる。現在大学生である連中は、高校生の時にCOMに接しており、結構青くさい熱っぽい感情でCOMを読んでいたことにより、ぼくらはCOMの世代だと胸を張って言える資格は十分なのだけれども、誰もそう言おうとはしない。逆にCOMを意識的に忘れ去ろうとしているようにも思える。それは後期COMの醜態と、アホらしい論争、そしてそれを見ていた自分という構図がもたらす白けた開き直りの結果なのだろう。だが何はともあれ、COMはもう過去のものだ。時々気の向いた時に想い出すだけで十分なものとして静置しておきたいと思う。
けれど、そのような気持ちとは別に、ぼくらにCOMを単なる過去として置き去りにすることを許さぬ何かが存在することも事実だ。ぼくらは未だCOMを振り切ってはいない。そうさせる力は恐らくCOMの内に、ぼくらが何を見ていたかに拠っている。ぼくらがCOMを振り切り、その上でぼくらなりの第一歩を踏み出すためには、COMをひとつの座標系の中に位置づけねばならない。
ぼくがCOMに終始見続けていたのは《ぐらこん》の問題に外ならない。ここで《ぐらこん》と言うと、何を今さら……と言う声が聞こえそうな気がする。
確かに《ぐらこん》の実際はオソマツ極まるものだったし、それをここで言うつもりは更々ない。しかし、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい。そして(ぼくの知る範囲で)《ぐらこん》についてまともに論戦されているのを聞いたことはなく、皆は思考以前に《ぐらこん》という言葉自体に拒否反応を起こしていた。だがCOMを理解するには《ぐらこん》を理解することが必要であり、それが殆んど全てだった。
一昨年の夏、ぼくは、誰に見せるのでもなく、状況がそれを必要としたのでもなかったが、《ぐらこん個人的総括》というものを書いた。COMはすでに不様に崩壊して無く、自分自身がCOMにどう関わっていたかも定かではなかったけれど、自分の内側のCOMを切り捨てるためには、どうにかして自分なりのCOMを《ぐらこん》掴むことが必要だったからだ。その内容の概括は『威嚇弾』No.3に載っているので読んでくれると有難いが、ここでその内容を書くと……
(1) ぐらこんとは何か
ぐらこんとは何か、ではなく、ぐらこんは何であるべきだったのかと言い直すべきだろう。ぼくにとってぐらこんは、COMの発行期間中一度もぐらこんであったことはなかった。何をもってそう言い得るのか、それはCOM '67・3号に発表された《ぐらこん構想》の内容に拠ってぐらこんを捉えようとするからだ。実際のぐらこん(その組織さえ在ったかどうか疑わしいのだが)を全く無視して、'67・3号の発表内容のみに従ってぐらこんを捉えようとするのがここでの当面の目的である。
’67から’73に至る5年間、ぼくにとってぐらこんは2種類あった。ひとつは読者とまんが家志望者によって構成され、COMの《ぐらこん》と名づけられたページに活動報告が載る、一般の同人活動と何ら変わることのない実際の活動体であり、他方は’67・3号に暗示された、少なくともぼく個人にとっては、あるべきぐらこんである。その2つの間にあるギャップが終始ぼくを悩ませ続けた。しかしぐらこんは遂に自己を明確にすることなく自滅した。現実の対象が無くなっても尚モヤモヤを振り切れなかったぼくがやらねばならなかったことは、ぐらこんの確認に他ならなかった。
結論から言えばぐらこんとは組織を指すのではなく、状況それ自体を示す言葉なのだ。ぐらこんを理解するにはその構成員を見つめなければない。読者、まんが家志望者、作家(手塚・石森・等)、批評家(尾崎秀樹・草森紳一・等)、出版社(COM編集部)が加わった組織とは何を意味するのだろう。状況を構成する要素が何の過不足なく組み入れられた組織は、もう組織などではなくひとつの状況であるに違いない。ぐらこんは、まんが状況の内に意識的状況をつくるために生まれた。
とすれば、その目的は、単にまんが家が作品を創り、読者がそれを読むといった風な一般的地平を越えて、まんがに関わる者(関わろうとする者)全てが総体として発展していこうとする、もう一段高次の地平に在った筈だった。言ってみればぐらこんはまんがに関わる者によるコミューンの匂いをふりまいていた。――それがCOM ’67・3号を読んだぼくらがぐらこんに予感した内容であり、期待だった。まんがを軸とする共生感に支えられた、在る状況から在るべき状況への移行、それがその時ぼくらを魅惑したものの内容だった。「まんが世代」は、それを幻視し得る程に熟していた。(或いは未熟だったと言うべきか)それに加えて当時手塚神話は未だ有効であり、しかも絶対だった。続く一年間のぐらこんは、その予感とそれを裏付ける神話で支えられていた。だが支えていたものは、あくまで予感であり神話であったに過ぎなかった。
(2) ぐらこんにおけるCOM
COMがその内容はどうあれ、一般まんが商業誌の範囲で捉えられるのは、創刊から《ぐらこん構想》発表までの2号であるに過ぎない。《ぐらこん構想》以後は、COMは自らその性格を投げうち、同人誌としての性格を自己に課すことになる。ぐらこんにCOM編集部が加わっていることが、COMをそう位置づける。COMはぐらこん構成員の面をつなぐ機関誌に変化したのだ。換言すれば'67・3号以後のCOMはぐらこんのための雑誌に他ならず、日本で最初の、商業軌道にのったまんが同人誌だと自己規定したのだ。COMはぐらこんを生み落すと同時に、逆にぐらこんに呑み込まれてしまったのだ。かつてCOMとガロの両誌を並置することが流行ったが、この点においてCOMとガロとは決定的に次元を異にしている。COMが、一般まんが状況からの集約点としての意識的小状況を目的とした言わば状況の中心を志向していたのに対して、ガロは状況の突出部だったのだ。
'67・3号の《ぐらこん構想》に従ってぐらこんを捉えようとすると以上のようになるのだが、現実のぐらこんは単なる読者組織でしかなかった。何故そうなったのかという原因は、COM編集部を含む他の全ての構成員がぐらこんについて無思考だったからだと思われるのだが、直接的な原因としては、他ならぬ《ぐらこん》と名付けられ、毎号COMによってその存在を確認させられるページが挙げられる。
《ぐらこん》……成程、COMの末尾を占めるあのページは、そう名付けるのが妥当だったかも知れない。だが、そう名付けたとたんに、ぐらこんは一気に坂道を転がり落ちていった。’67・3号に忠実に思考するならCOM全体がぐらこんのページであるべきだった。それがCOM末尾のページをぐらこんと名付けることによって、ぐらこんの精神はあの一角に押し込められることになり、次第にぐらこんの意識からは、その構成要素としての作家、批評家、等が抜け落ちてゆき、読者、まんが家志望者だけが後に残ることになる。それはもう状況などでは有り得べくもなく、単なる同人活動でしかなかった。当初、予感したものに向かって回転すべき車輪は半分に欠けており、欠けた車輪は回る筈もなく、しかも、残った部分も自分が何であるかを忘れ果てていた。
――ぐらこんは遂に状況であることは一度もなかった。 かつて「ぐらこんはCOMの購買層確保のための組織だ」と言われたことがある。その言葉は嘲笑の意味を含めて発せられたのだが、ぼくはその言葉に、無思考な嘲りの響きとは別に、他の意味を見付けた。読者としてのぐらこんはCOM購読者であることが当然なのだ。読者としてのぐらこんはCOMを購入することによって最低限の自己の位置を保障する。言い換えるとこういうことになる。読者は、状況の構成員としてCOMを購入する時、単に読者であることから上昇し、COMの全てのページが自分宛てのメッセージであることに気づく。『火の鳥』その他の諸々の作品、評論、研究、等は、ぼくらに向けて発表されたものであり、それ以外ではなかった。他ならぬぼくらが『火の鳥』を、岡田史子の作品を、その他のCOMが生んだ数々の作品を支えたのだ。ぼくらはぐらこんという状況(場)を通じてCOM全体との共生感を求めていた。少なくともぐらこん構成員である作家がCOMに発表する作品は、全てぐらこんの作品なのだ。そしてぼくらはぐらこんの作品としてそれらを受け取る。作品はただの作品であることをやめ、”ぼくら”の共有物に変化する。ぼくらは”ぼくら”という言葉に、旧作家、新人作家等を取り込み、まんがをあるべきものとする世代全体を意味する言葉として使用できるようになる。
ここでようやく現実(COM)と夢想(ぐらこん)がクロスする。’67・3号のぐらこんを追っていって、今ぼくはCOMに追いついた。ぼくらが終始COMに対して感じていた或るもの、それはぼくにとって’67・3号の《ぐらこん》だった。これが先に、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい、と言った理由だ。ぼくらは月光仮面体験、アトム体験に似たものをCOMで体験しかけたのではないだろうか。そして今もなおCOMをもし振り切れないでいるとしたら、それは「体験しかけた」故ではないだろうか。
ぼくらはCOMに何を視ていたのか。それは全て「ぼくら」という言葉に関わってくる。COMに抱いていたもの、それはCOMを通じて、過ぎることによって「ぼくら」という言葉に特殊な内容を持たせるということであっただろうか。COMを意識して「ぼくら」という言葉を使用する時、それは或る種の具体的な内容を持った言葉に変化する。言ってみればその時ぼくらはひとつの体験を共有するのだ。単にまんが世代としてのぼくらを指して「ぼくら」を使用するのではなく、その言葉の中に作家や批評家、まんがというカルチャーに関わる全ての人達を含め、同一の地平に在るものとして「ぼくら」を使用する。換言すれば「ぼくら」を使用する時、それはコミックゲマインシャフト(漫画共同体)の一員としての自己確認であり、体験であり、しかもその体験は共有されている。ぼくらの、同様の意味で「ぼくら」を使用する他者に対する感情は、セックスを共有する男女が持つ親しさに似てはいまいだろうか。
ともあれ、COMはそれに関わる人間に或る種の共同幻想を抱かせたままに崩壊した。
COMは過去のものであり、現実に携わろうとする者にとっては、その名は忘れ去るべきなのかもしれない。しかしCOMがぼくらに幻視させたものは今だに尾を引いている。その結果が現在までに東京で3度開かれた漫画大会であり、各種のファンクラブであり、そして何よりも各地に散らばっている、まんがに関わる(関わろうとしている)人間どうしの結びつきなのだろう。それらの活動は、結びつきは、この先どのように、どの方向に伸びていこうとするのだろうか。ぼくらにもう一度、あの確実さで「ぼくら」に新しい意味を付与し使用できる時が来るのだろうか。
―――時は流れて日は暮れる

『COM』と『あっぷる❤︎こあ』——ぐら・こん関西支部顛末記——(中島隆)
『COM』と『あっぷる❤こあ』——ぐら・こん関西支部顛末記——
中島隆
年をとると、新しい事に出会う事がなくなり、もうこの世で心驚かされる事はないと思っていましたが、やはり人生にはとんでもなく長い伏線があって、小説のように物語がつながっていくのだと、映画「インセプション」のように「迷宮」巡りの、目も眩むような体験をしました。『ビランジ』にこの文を書かせて貰うという、思いもかけない事になったのも、そうした伏線の一本でした。皆さんにこうして読んで貰えるのは、奇跡のような巡り合わせがあったからこその事でした。
25歳から大阪で家業の文房具屋をやってきて、一昨年、2009年の1月迄は、33年間漫画とほぼ無縁の生活を送って来ました。「創世記」のように初めに光があったのですが、それが『コミックマーケット創世記』でした。コミックマーケット初代代表だった原田央男さんの、丁度出版されたばかりの本を、僕の弟が「兄貴の事載ってるで」と、僕に見せてくれた。それが始まりでした。
『COM』をご存知の方は多いと思います。手塚治虫さんの虫プロ商事出版部で発行していた漫画専門誌で、1966年12月に創刊されました。その読者ページが「ぐらんど・こんぱにおん(略称ぐら・こん)」と名付けられていて、漫画研究会の全国組織を作ろうと呼び掛けていました。『コミケ創世記』の第2章が「COMとぐら・こん」で『COM』の創刊から休刊まで詳しく書かれていました。そして3章で、「ぐら・こん」を消滅させないために、COM編集者の大塚豊さんと、ぐら・こん関西支部長のぼくとで作った連絡情報誌『マンガジュマン』の、顛末が書かれていました。ガリ版刷り700部の小冊子に、深く言及して貰っているのに驚きました。また、文中ぼくはN氏となっていました。
息の詰まる思いで読みました。ぼくがN氏のままにされる事が段々辛くなってきました。それではなんだか、この世から消えてしまってるみたいじゃないかと、そんな思いがつのってきました。
思い切って、原田さんに手紙を出しました。じきに電話がかかってきて、声を聞いた時は本当に、ああ良かったと思いました。原田さんは礼儀正しい、穏やかな話し方で、信頼感が持てる人柄でした。そして、原田さんとぼくとの共通の友人だった高宮成河君と3人で、2ヶ月後にお会いする事になりました。高宮君とも三十数年ぶりの再会でした。
さすがに最初は浦島太郎状態で、2人の話について行けず、仲間に入れて貰うのは無理かと思いましたが、その後すぐ、原田さんが「COM座談会」を企画されたので、そこから一挙に様々な事が起こり始める事になりました。
最初は8月2日、京都国際マンガミュージアムで、漫画家が矢代まさこ、真崎守、みやわき心太郎の3氏。COM編集者が萩原洋子、大塚豊さん、そしてぐら・こん山形支部長井上肇さんとぼくが出席して行われました。しかし、観客が凄かった事もお伝えしておきたいです。漫画家の竹宮恵子さん、大学教授の村上知彦さん(かつて『あっぷる・こあ』編集に加わっていました)、その他著名人ばかりで、一緒に行った2次会の席で、観客席のほうが豪華だったじゃないですかと、皆さんに言ったほどです。
2回目は、昨年2010年5月4日、東京ビッグサイトで行われた漫画創作同人誌即売会「コミティア」会場内で開かれました。漫画家は、前回と同じ3氏と、ちばてつやさん。COM編集者は、石井文男、野口勲さんら8氏。ぐら・こん支部長が井上さんとぼくでした。この時にも、会場で夏目房之介、みなもと太郎さんらに再会できました。
この2回の座談会のおかげで、色々と思い出しただけでなく、誰もがぼくの疑問に率直に答えて下さったので、知らずに終わるはずだった事があれもこれもわかり、そうだったのかと、謎解きのような面白い経験をする事ができました。同時に、失敗も新たに見つかり、悔恨もあり、恥ずかしい事も多いのですが、それも含めて全て書かせて頂こうと思います。
出来る限り正確に書くつもりですが、ぼくの認識が間違っている部分や、文章のまずさで、誤解を招く事もあるかと思いますので、その点はご指摘頂ければ幸いです。
ぼくが『COM』に出会ったのは、高1の終わり、67年の1月でした。創刊号ではなく、2号でした。当時余りなかった新人賞を設けていたり、漫画家志望者に各地方での支部結成を呼び掛けたりしていたので、毎号夢中で読むようになりました。
ぼくは貸本漫画を読んでなかったので、永島慎二、みやわき心太郎さんの青春漫画も衝撃的でした。4月、朝日ソノラマから新書判で永島慎二さんの『漫画家残酷物語』が出ました。1ページ目から話の中に吸い込まれ、ドキドキしながら読み、最後のページで我に返るという引き込まれようでした。当時人気だった「巨人の星」や「あしたのジョー」をつまらなく思い、——やはり漫画を卒業する日は来るんだ——と思っていた頃でしたから、我ながら驚きました。漫画ファンでしたが、漫画を真剣に書いてもいなかったぼくが、デッサンが大事だと思って、高2の5月から美術部にはいったくらいですから、その衝撃の大きさというものが解って頂けるかと思います。
つまり、まるで熱病に罹ったみたいに、突然漫画家になりたくなったのです。
ぼくの世代で、ぼくのように急に漫画家になりたくなった人が、当時多かったと思います。この頃漫画家志望であった人がどれくらいだったかと想像してみると、『COM』の発行部数が最高の時で7万部、これはCOM編集部が言う数字で、実売部数かどうかは怪しいですが、他に『ガロ』や少女漫画誌の新人賞を目指していた人も大勢いますから、この7万はおよその目安になると考えていいと思います。ずいぶん大雑派な数字ではありますが。
一方『ガロ』『COM』創刊前から漫画家志望であったという人は、従来の少年、少女漫画家志望ですから、貸本漫画という受け皿もありましたが、とても1万人に届かなかっただろうと思います。まず、漫画仲間を見つける事自体が難しい時代でしたし、石森章太郎さんの『マンガ家入門』が出る前は、原稿の書き方も知られていませんでした。そして、給料が保障されている職業ではありませんから、大卒は手塚治虫さん以外何人もいませんでした。大学を出て目指す職業ではなかったのです。
漫画と言えば、子供のものであったのが、青年漫画が青春を題材にし、永島慎二、つげ義春、岡田史子らが文芸的、美術的に描く事ができる事を見せてくれ、小説や映画に負けない世界に変えたのです。それで、漫画家がとても魅力的な職業に見えだして、どっと若者がなだれ込む事になりました。
今「お笑い」が高学歴化してきたのと同じで、漫画界ではこの頃から高学歴化が始まったでしょう。そういう歴史的ターニング・ポイントであったと思います。かくして、志望者が1ケタ増えただろうと、ぼくは考えています。そして、漫画家志望者だけでなく、漫画を卒業しない漫画ファンもまた大量に生まれ、大卒で出版業界に就職し、一生漫画に関わるという事も起こってきます。
『COM』の「ぐらこん」のページでの呼びかけで、本当に各地に支部が作られていきました。最初はCOM編集者が、幾つもの同人会の会長を集め、人選して支部長を依頼していたようです。その後は前任者の推薦という形になり、COM編集者が選ぶという事は無くなっていったようです。
東京、関東、中部、北海道とでき、ぼくが心待ちにした関西支部は、翌68年4月にようやく結成集会をしました。この後、東北(仙台)、九州(福岡)とできますが、中国、四国にはできませんでした。
さて、その結成集会ですが、大阪の近鉄布施駅近くで開かれました。集まったのは、凡そでしか言えませんが、2、3百人ではなかったかと思います。ぼくが着いたら、広い原っぱにポツンとある小さな集会所を、高校生らしいのが十重二十重に取り巻いて、静かに立ち話をしています。なんでみんな外にいるんだろうと怪訝に思いながら、入ってみたら中には四、五〇人いたでしょうか。ごった返して座る場所もなかったので、みんなが取り巻いていた理由が解りました。支部長は、こんなに集まると予想していなかったようでした。
ぼくはこんなチャンスはないので、近くにいた何人かに声をかけ、会を作ろうと持ちかけました。昨日まで一人の漫画友達も持たなかったぼくが、僅か一〇分で会を作れました。
かくて、関西支部はスタートしました。漫画友達を一人見つけるのも困難であったのが、突然何百人が集まる「場」が出来上がったのです。この事が、何にも勝る「革命」であったのですが、実体験しながら、事の重要性を認識した人は余りいなかったと思います。
支部長は「作画グループ」の馬場よしあきさんでした。確か、馬場さんはぼくより2、3歳上だったと記憶しますが、「作画グループ」は、『COM』が創刊される前、貸本漫画誌で会員募集をしてきた会でした。そういう場があったという事をぼくはその時初めて知りました。また、肉筆回覧誌という物も、初めて見せて貰いました。それを見ると、作画グループの会員数も僅か十数人でした。その中に聖悠紀さん六田登君がいました。
ですから、貸本漫画の読者ページをモデルに、峠あかね(漫画家、真崎守)さんは「ぐらこん」を作られたのだろうと思います。また、関西支部がなかなか出来なかったのは、馬場さん世代では、大都市の大阪ですら幾つも会がなかったのだろうと、推測します。ぼくはこの後一年馬場さんの家に押し掛け、漫研運営のイロハを習います。馬場さんと副支部長の宇和田義則さんに、沢山の事を教えて貰ったので、今も感謝の思いを持っています。
ぼくと同じように家に押し掛ける者が大勢いました。20代と言えばみなもと太郎さんくらいで、ほぼ全て会活動を始めたばかりの中学生、高校生でした。「COM」創刊前と比べれば、その後に生まれた漫研の数は、まさしく爆発的でした。
それから8月、関西支部は同人誌『ぐるーぷ』を発行しました。馬場さんが関西支部長になる前から計画していたそうでした。ですから、関西支部にはいっていた漫画研究会の紹介ページはありましたが、ぼくらが編集に加わる事はありませんでした。資金20数万円は、ばばさんと宇和田さんが出したという事でした。
『ぐるーぷ』は貸本出版社の曙出版を通じたので、ほぼ貸本ルートに流れただけでした。そのため、数百冊がばばさんの部屋に山積みになっていました。宇和田さんの家でも山になっていると聞きました。これで懲りるのだろうと、ぼくは思っていたのですが、しかし、翌年7月『ぐるーぷ2』を発行します。
思いつきで作ったのではありませんでした。馬場さんはマネジメントの才覚のある人でした。馬場さんが書いた漫画を見た事がありますが、もうその頃には、書くことよりも、会長として「作画グループ」の会員数を増やすことに精力を注いでいました。また、たびたび上京して出版社に売り込みにも行っていました。自分の商才を、自分の好きな漫画で活かした、珍しいタイプの会長でした。
支部長になって半年ほどで、「作画グループ」の会員が百人になったと、馬場さんが誇らしげに言いました。関西支部にはいっている人達を、さかんに勧誘していると知った時はすでに遅く、ぼくの会「マンガジン」の4人の会員も全て引き抜かれていました。
その時、馬場さんがぼくまで勧誘してきたので、事の次第がわかりました。知らぬはぼくだけだったと解って、愕然としました。ひどいやりようだと思いました。しかし、結局抗議はしませんでした。大きな会に魅力を感じて移って行くのは、本人の自由と考えたからです。とは言え、馬場さんに対しては、先輩がそんな事をしていいのかという反発がありましたから、ぼくへの勧誘は拒否しました。軍門に下るくらいなら、活動自体を止めようと、悲壮な決意をしました。
反省もしました。会活動も受験勉強も、どちらも中途半端な事しかしていなかったからです。
十一月、関西支部の京都集会に行った時、声をかけた女の子2人が入会してくれました。馬場さんに勧誘されていたけれど、大きな会なので敬遠した、と言うのです。救う神があるものです。彼女たちがいなければ、その後のぼくはありませんでした。更に翌年、共に大学浪人となった高校同級の辰巳隆俊君が入会してくれました。
69年4月、大阪、天王寺区上本町六丁目の「大阪府教育会館」で、手塚さんが来るという大イベントが行われました。テレビ放映が始まる『どろろ』のパイロットフィルムが上映され、朝日新聞が取材に来ました。また、二、三百人が集まりました。しかし、手塚さんの出席はキャンセルになり、宮谷一彦、岡田史代子さんのサイン会に変更になりました。夕方会場を引き上げる時に馬場さんが「支部員みんなが怒っていたから、編集者にずいぶん文句を言ってやった」と言いました。
ぼくは、忙しい手塚さんなんだから仕方ないだろうと思っていました。だから、馬場さんや宇和田さんらには、腹立たしい事だったんだろうけど、みんなが怒ってたという言い方は賛成できない、と思いました。
こんな事があったので、COM編集部では、関西支部はうるさいのが揃ってると思われるようになったそうでした。
同じ4月、「マンガジン」の会員募集が『COM』ともう一誌に載り、その結果、ぼくの毎日は仕事のように待ち合わせ場所に走る、忙しい日々に一変します。
そうして半年でぼくの電話帳が二百の電話番号で埋まっていきました。3月まで無気力な普通の高校生だった自分には、予想もしない変化でした。会がつぶれかけた反省から、中途半端はしないと決めたからでしたが、予備校に週1日しか行かないで漫研活動に入れ込んでいるという、自分を崖っぷちに追い込むような事をしてかしていました。しかし、漫画の話をするのが楽しく、男女集まってワイワイにぎやかに会を運営するのが面白く、能天気な毎日を送っていました。自分が選んだ道の先に何が待っているのか、考えてみる事もありませんでした。
『COM』の会員募集を見てくれたのが、高宮成河君でした。ぼくと同じ区に住んでいた高校3年の高宮君が、ぼくがどんな奴か確かめに家に来て、そうして会員になってくれました。会長の人間を見てから、会にはいった会員は、後にも先にも彼だけでした。性格が堅実なだけでなく、漫画もうまく、数ヵ月後、50ページの作品を2本も持ってきました。宮谷一彦風の絵で画力も構成力もありました。しかし、ぼくよりずっと上手いと思ったので、かえって正直な感想が言えませんでした。昨年高宮君とその話になって、山上たつひこさんにも見せに行ったというので、漫画家になるかどうかの決断をその時したのだと解り、人をほめる心の広さのない会長で申し訳なかったなぁと反省しています。
会員募集が載ったもう一つは『ビッグコミック』でした。この年は、大手の商業誌でも新人賞を設け始め、漫研の会員募集まで載せてくれるという、とんでもない事が起こっていました。大手も漫画ファンの変質、急増に対応しようとしたのでしょう。ですから、会員集めはさらに容易にできるようになっていましたし、漫画家志望者も一層増えて行ったと思われます。
一方で「ぐら・こん」は『COM』編集部が支部活動に力を入れてくれと、うるさく言ってくる割に、向こうは何にもやってくれないと、各地の支部長が不満を募らせ、支部活動をやめてしまって、段々有名無実化していきます。かくて、創刊当初の熱気も冷め、『COM』の発行部数も減っていきます。
馬場さんもこの69年の終わり頃、「支部長をやめるから、後任になってくれないか」と、ぼくに持ちかけてきました。この時僕は断りました。ぼくの会も会員が50人になっていました。大阪在住の漫画家・山上たつひこ、美内すずえ、川崎ゆきおさんらや、交流のある会やら、つきあいが幾らでも広がっていました。もう「ぐらこん」に頼る必要がなくなっていたのです。
それで、次の支部長は中室よしひろ君に回って行きました。70年、ぼくは大学生となり、4年のモラトリアムを手にして、親からすればけしからぬ生活を続ける事となりました。そして中室君が1年後、またぼくに支部長の後任を頼みに来ました。
そういう巡り合わせで、71年初め、COM最後の年に、後任の関西支部長を引き受けました。この時引き受ける気になったのは、ぼく以外にやる者はいないだろうと思ったのと、ずいぶん失望させた「ぐら・こん」だけど、こっちからアイデアを出せば、幾らでも活用できるんじゃないかと考えたからでした。ぼくが高3の時経験したように、これはすごいツールだから、活用しなければ勿体ないと。
実際、思いがけない活用法が、向こうから飛び込んできました。
ぼくが新支部長になったという記事が「ぐら・こん」のページに載ると、すぐに関西テレビのディレクターから電話が来ました。『COM』を読んでたそのディレクター平井誠信さん(後にイタリア特派員、関西テレビ取締役)も面白い人で、長い付き合いになったのですが、その時、なんと子供番組の手伝いを依頼されたのです。それで、これ以後2、3年漫画やイラストの仕事をしました。また、番組に出演していた「カバゴン(阿部進)」に頼まれ、絵本の仕事もしました。貰ったギャラはアルバイト程度でしたが、これも、『COM』の知名度のお陰でした。辰巳隆俊、高宮成河、ほそかわ春(後に小学館から漫画家デビュー)君らとこれらの仕事をやりました。
ぼくはこの後、朝日新聞や週刊朝日に取材を受けた事もあります。漫画に対してマスコミの関心は非常に高いものがありました。ぐら・こん関西支部として、マスコミと永続的に関係を築くのは、可能だったろうと考えています。付随して漫画の仕事がはいってきたら、活動の基盤もしっかりしたものになっただろうと思います。
また、ぼく、六田登、松下保君らで実験アニメを作り、篠原ユキオさんの会と一緒に、関西テレビの一室で上映会をしました。これが、「七月弐拾五日乃夜労宴」で、『コミケ創世記』101ページの亜庭じゅんさんをぼくがこのイベントに誘ったというのは、誤りです。後述しますが、その1ヶ月後の大阪府教育会館での「まんがフェスティバル」で、亜庭さんと初めて会います。ですから、『コミケ創世記』112ページの「まんがフェスティバル」が75年4月開催というのも誤りです。『COM』の71年9、10月号に告知、記事が載っているので確認可能です。
こんな風で、山上たつひこ、美内すずえさんの臨時アシスタントに呼ばれる事もあり、大学生なのを忘れるくらい大学には時々しか行かず、「漫画」にずっぽり浸かって忙しくしていたのですが、前触れもなく、COM編集部の大塚豊さんから、「7月27日に支部長集会を開きます」という連絡がきました。そんな訳で、関西テレビでの上映会の翌日、ぼくは集会に間に合うだろうかと内心焦りながら、ヒッチハイクで行こうという六田君に引っ張られ、名神高速、豊中インターから東京を目指しました。
結局、一睡もできず朝を迎え、まだ神奈川県だったので、電車に乗り換えました。渋谷大向区民会館にはギリギリに着きました。
集まった支部は、北海道、関西、九州、そしてなぜか県単位の山形だけでした。
当時のぼくは各支部長とは初対面で、他支部の事も、COM編集部の考えも、よく知らずにいました。一昨年の「COM座談会」で、支部長会から38年ぶりに、元山形支部長の井上さんと再会し、その頃の山形支部の活動を知り、「ぐら・こん」に期待をかけて活発に活動していた人達だったのを知ったのですが、遅きに失する事でした。
井上さんのブログに詳しく書かれていますが、東北支部がなくなった後、村上彰司さんが中心となって活動され、山形各市の漫研と密な連絡網を作り、支部一本に統合されたそうです。他支部ではそれぞれ会は独立していましたから、大いなる実験モデルとして、COM編集部の期待が懸っていたのではないかと思われます。また、山形市、米沢市と2年続けて漫画展を開き、手塚さんは2度とも漫画展に出席されるという力の入れようだったそうです。
村上さんは企画力、統率力を買われたのでしょう。COM編集者に迎えたいと誘われてもいたそうです。その村上さんが支部長集会を提案し、COMの編集部がそれに乗った、というものでした。
ですから、一番経験がある山形支部が集会をリードして、活性化のために何をしよう、と提案してくれたら良かったのですが、そうした提案はなかったように記憶します。最近、井上さんから聞いたのですが、「他支部は、漫研のゆるい連合体のようなので、詳しく聞いてみたい」とか、事前の相談をあれこれしていたそうでした。そういう話でもよかったのに、それも聞いた覚えがありません。
後から考えれば、山形支部が最後のチャンスを作ってくれたのに、そのチャンスを生かせなかったのですから、残念な事でした。
この日、手塚ファンクラブの石井托さんが集会場に来ました。半月ほど前に大阪であった彼らの集会に、ぼくが呼ばれて行って、そこで初対面の彼に、支部長集会があると話したからでした。
そこは手塚、石森などの、漫画家別のファンクラブの集会で、お互いを「お宅」と呼び合っているのを、ぼくはとても奇異に感じました。漫研とは全く異なる雰囲気でした。彼らが最初の「お宅族」ではないでしょうか。また、石井托さんは、手塚さんの絶版本を復刻するのがクラブの主たる活動と言っていましたから、ずいぶんお金のかかる話で、実現性は薄いんじゃないかと思いました。
しかし、行動力は凄かった。その石井托さんが当然のような顔をしてぼくらの席に座っていたのです。彼が来る積りだったとは考えもしなかったので、ドッキリしましたが、ぼくはまだ彼の目的がわかっていませんでした。
石井托さんは、支部員だけの集まりと勘違いしていたようで、いきなりCOMの悪口を言いだし、5・6月合併号から編集方針が変わったことに不平を並べました。その事についてはぼくも同感でした。『COM』の読者で同感だった人は多数派であったと思います。
「そこにいるのが編集長だ」と誰かが言ったので、石井托さんはそれで黙りこみました。ぼくが石井托さんに支部長集会の話をした事が、こんな結果を招くとは予想のつかない事でしたが、これが、山形支部の意見が聞けなくなる原因になったかもしれませんでした。これも去年、元山形支部長井上肇さんに聞いたのですが、「過激派みたいだと思いました」と言うので、それで山形支部は衝撃を受けて沈黙してしまったのか、と想像しています。COM編集長石井文男さんも、手塚さん出席キャンセル事件で、馬場さんらに糾弾されていますから、「大阪は怖い」と思われていたそうです。この後、池袋の虫プロ商事に場所を変えて、編集の大塚さん、北海道支部長西沢裕君、とぼくで、徹夜で相談をするのですが、なぜか山形支部は、これもなぜか石井托さんと一緒に漫画家訪問に行ってしまい、山形支部の貴重な経験を聞く機会を、ぼくは失います。もし聞いていれば、翌日のぼくの行動が全く違うものになったはずでした。「公称5万だけど、実際は大分少ないんだ」と大塚さんが言うので、売れ行きに貢献してくれ、というのが『COM』の本心か、とぼくは察しました。「なら、手塚さんに動いてもらわないと」と言うと、手塚さんが尻込みするので、「ぼくが直談判に行きます」と言って、賛同した西沢君を引き連れ、西武池袋線富士見台にあった手塚プロへ直行しました。手塚プロでは、手塚さんは衝立の向こうで、応対は手塚卓さんという手塚さんのいとこの、少し前まで朝日ソノラマ編集長をされていた方でした。
卓さんはぼくの話を少し聞いただけで、ずっと家に帰っていないんだと話しだし、相槌を打てないぼくらを前にほとんど一人で喋り続けました。うまくはぐらかされるのかと予想したら、最後に「私が責任を持って大阪へ行かせますから」と請け負ってくれたので、ぼくらは狐につままれた顔で、帰っていく事になりました。COM編集部から、電話が行ってた、と、この時気づいていたらよかったのですが、情けない事に去年まで気がつきませんでした。
一昨年の「COM座談会」で再会した大塚さんの顔を見て、急にひらめき「ぼくが行くって、手塚プロに電話入れたよね」と探りを入れたら、即座に、「入れたかも知れません」と笑いながら答えたので、昨日の事のように覚えているんだと驚き、やはりそうだったのかと確信しました。手塚さんは大変に多忙な人だったので、作家業以外は他の人に任せているだろうと思い込んでいましたが、実際はそうではありませんでした。自分の会社の事は些細なことまで知っていて、細かく指示を出しておられたのだそうです。
手塚さんが衝立の向こうから出て来られなかったのは、仕事中だからマネージャーに任せたというのではなく、相手の承諾も得ず乗り込んでくるような、不躾な者には会いたくないと思われたからだったろうという気がします。そして、関西支部は学生運動家の集まりと誤解される面もありましたから、マネージャーも手塚さんに直接会わせない方がいいと判断されたのだと思われます。
もし、山形支部に話を聞いていたら。夜行列車に乗り、さくらんぼをみやげに、礼儀正しくやって来るという、のどかな山形支部の話を聞いていたら、ぼくも見習ったと思います。それが、直談判と言って押し掛けてしまいました。手塚さんが「ぐら・こん」に不信感を持たれる原因を作ってしまったかもしれないと、今になって思っています。5ヶ月後には『COM』から追い出されますから、ぼくの胸中は複雑なものがあります。勿論、原因は経営不振が一番考えられるのですが。
そうして一ヶ月後の8月28日、大阪上本町六丁目の大阪府教育会館で、「まんがフェスティバル」をぐら・こん関西支部としてやりました。偶然なのですが、手塚さんが来なかった2年前と同じ場所でした。大塚さんが虫プロからフィルムを借りて来てくれて、「展覧会の絵」、初期の短編「しずく」ほか数本を上映しました。2年前との違いは、参加者が百人と言う事でした。この時のぼくは百人なら悪くないだろ、と思っていたのですが、今思い返してみると、手塚さんやCOM編集部は、関西支部にどれだけ力があるのか試していたのかもしれないという気がしています。つまりCOMの売れ行きにどれだけ貢献してくれるのか。少ない、と映った事が、「ぐらこん」を追い出す決定につながったのかも知れません。もし、あらかじめ沢山集めてほしいと言われていたら、二百人や三百人は可能だったし、新聞でもテレビ局でも呼んだのですが、なにしろ前回の事があるので、もしまた来られなかったらと思い、当日のスタッフとして頼んだ高宮君ら十人程以外は、漫画の友人にほとんど知らせていませんでした。ですから、この百人はぐら・こんのページの告知を読んだ人だけでした。映写の用意をしている時に、「手塚さんきてるで」と耳打ちされました。気後れして誰も応対していない、とわかって、ぼくだけでも挨拶に行かないとまずい、と急いで一階の食堂へ降りて行きました。「本日はどうも…」とお礼を言ったら、立ち上がってにっこりされました。漫画の中に登場する手塚さんは、ちんちくりんなので、てっきり小さいと思い込んでいました。それが180近いがっちりした体形で驚きました。そうして、その笑顔を見た瞬間に、子供の笑顔だと気づき、愕然としてその顔を見つめました。こんな笑顔をする大人には勝てない、となぜかそう思いました。手塚さんには私心がない、と感じたという事だと思います。これが二十歳の時初めて見た手塚さんの印象です。ぼくにとって長嶋、王よりもヒーローですから、感激の対面だったのですが、若気の至りで主催者顔で対してしまいました。若いころは大人を気取りたいもので、素直に小さい頃からファンですと言えば良いのに、言えませんでした。今頃になって色紙の1枚くらい持って行けば良かったと後悔しています。
アニメ上映後、手塚治虫、やまだ紫、石原春彦の3氏を囲んで、座談会を始めました。会場には百人、みんな手塚さん見たさに集まっています。その座談会の冒頭でした。司会のぼくが前振りの積りで、出版社にもう少し自由に描きたいものが描けるようにしてもらいたい、と話し、「手塚さんどうぞ」と促しました。すると、「僕はそうは思いません」と、予想もしない強烈なカウンターパンチを食らいました。『COM』を出している手塚さんが反対意見を持っておられるとは思いもしませんでした。なので、この時はとんでもない事になったという思いしかなかったのですが、実は手塚さんはこの時、71年5・6月合併号での編集方針転換の理由を述べておられたのかもしれない、と今になって思っています。「そうは思わない」から『COM』を変えたのだと。ならば、手塚さんのあの直裁な言い方も納得がいきます。ぼくは一般論として言ったのですが、手塚さんには新編集方針に対する反論と聞こえていたのかも知れません。『COM』創刊号を見せに行ったら「こんな汚い本は出せません。作り直してください」とおっしゃったと、元編集者の野口勲さんが証言されています。手塚さんはかつての『漫画少年』をイメージされていた、というのです。良き少年漫画を載せたかった、という事でしょう。しかし、時代は青年漫画を生み出し、児童漫画の時代から変化し始めていました。野口さんが依頼した漫画家は、貸本漫画出身の永島慎二さん、真崎守さん、みやわき心太郎さんといった青年漫画家でした。ですから、手塚さんは創刊時から掲載作品に反対しておられたという事になります。先の手塚さんの発言に戻ります。「僕はそうは思いません」と言われた後、本は売れなければならない。実験的な漫画で沢山の読者を獲得することは難しいと、最初の言葉ほど強烈でない言い方になったので、砕け散った気力を急いでかき集めて、ぼくは座談会を進めました。今となっては笑い話ですが、たっぷり冷や汗をかきました。
この少し前、ぼくは美内すずえさんからこんな話を聞いていました。美内さんは集英社の『別冊マーガレット』でデビューしたのですが、「描きたいものを描かせてくれないので、他社に移ろうと思う」と、相談ともなく話されたのです。そうして、「ガラスの仮面」が白泉社で執筆されます。デビューして一年余りで大変な決断をされる美内さんも、すごい人ですが、漫画家の方がしっかりしていれば、描きたいものは描けるのですから、ぼくの前振りは余り良い前振りではありませんでした。が、思いがけず手塚さんの考えを知るきっかけにはなりました。
そしてもう一つ、この日会場に亜庭じゅんさんが来ていました。観客の質問を受け付けると、待っていたように発言しました。説得力のある言葉で漫画を語るのにぼくは驚き、ただ者じゃないと思って、終わるとすぐ声をかけました。亜庭さんも応じてくれて、それで付き合いが始まりました。『あっぷる・こあ』で評論連載をしてもらう事になるとは、この時には夢にも思っていませんでした。
座談会の終わり頃、今日が原稿の締め切りだった山上たつひこさんが駆けつけてきます。手塚さんに握手して貰って嬉しそうでした。
半日てんてこ舞いして、疲れ切ったぼくたちに、手塚さんからはねぎらいの言葉ひとつ掛けてもらえませんでした。サービス精神旺盛な手塚さんにはない事だったと思います。一年前、山形に行かれた時には、十名程の支部員といろいろ話されたそうですから、それとは大違いでした。「僕はそうは思いません」といきなり言われたように、君たちとは意見が合わない、と思ってしまわれたからか、という気もします。無論、全く違うかもしれませんが。
手塚さんはぼくの前を通って会館を出て行かれました。あとをファンがぞろぞろついていきました。そのさまを黙って見送るだけでした。来られた時も、帰る時も一人でした。山形の時は何人も社員が付いていたそうです。虫プロ商事の経営状態が悪くなっていたのでしょう。ぼくは全く気付いていませんでしたが。
それから僅か2ヶ月後「『ぐら・こん』を『COM』から切り離す。上が決めた」と大塚さんから宣告されます。上が言われてぼくは、西崎義展社長が決めたのだろうと独り合点しました。手塚さんが社長を引いておられたので、新社長の決定だと思い込んでしまいました。しかし、手塚さんの承認があった、と考える方が自然だと気づきました。
一年前そう気づいた時は、我ながら大変驚きました。手塚さんがぼくらを追い出すなんて、考えもしなかったからです。勿論、経費削減の為仕方なくであったとは考えられます。しかし、1ページでも「ぐら・こん」のページがあれば、「場」の機能は持てたでしょうから、是非残して貰いたいものでした。実際、さらに売れなくなったのですから、最悪の決定でした。
そうして、12月号で『COM』は無くなり『COMコミックス』に誌名を変えて、それも一年で休刊。その8ヶ月後『COM』復刊号を出すと、すぐ倒産するのですから、編集方針の転換というより、倒産を恐れての混乱と言った方がよい有様だったと思います。
西崎社長が「俺が売れる本にしてやる」と豪語したという話を、その当時聞きました。『COM』が売れればまだ立ち直れる可能性があったのでしょう。後に『宇宙戦艦ヤマト』で名をあげる西崎社長が、この時作った『COMコミックス』は、平綴じで、ヌード写真がある、青年向け週刊誌みたいな本でした。平綴じも「ぐら・こん」切り離しも、製作費の切り詰めのためであったでしょう。しかし、結局、儲からないからと、本の出版をどんどん止めていき、編集者の解雇に移っていきます。石井編集長以外全員辞めさせられ、そのため一部の編集者は不当解雇で裁判を起こします。手塚さんは、自分が社員を解雇するという事態を避けるため社長を辞めておられたように思われますが、結果、倒産という不名誉と、億の負債で苦しまれる事となります。
話を戻します。「切り離すが、金は出す」と言う事で『マンガジュマン』という情報誌を作る事になりました。七月の支部長会議で出すことが決まっていて、未だに出せていない情報誌の事でした。誌名は西沢君の提案で北海道支部機関誌の名を借りました。
ここから時間との戦いが始まりました。『COM』に「ぐら・こん」のページがあるうちに、と最後の号に購読者募集を載せました。すると七〇〇通の申し込みがあり、「ぐら・こん」に期待している人がこんなにいるんだと意を強くしました。『COM』が『COMコミックス』に変わると、「ぐら・こん」らしい漫画の掲載の場もなくなるので、それなら漫画の本を作ろうかと、ぼくは無謀にも「ぐら・こんの本」を作る事を企てるようになって行きました。
翌72年になると、東京に行くと大塚さんのアパートに入り浸り、昼は沢山の漫画家や友人に協力を頼んで回り、夜は大塚さんのガリ版でせっせと『マンガジュマン』作りに励む事となりました。こうして1号ができましたが、その後、大塚さんがCOM編集部を解雇になり、デザイン事務所に再就職して、ぼくが相談を持ちかけても返事が無くなって行きました。慣れない仕事で疲れているように見えましたから、これ以上頼めないなと観念して、『マンガジュマン』2号を最後に、大塚アパートから出て行く事にしました。ずっと2人でやってきたのに、何も話すことなく大塚さんが離れて行くのは寂しい事でした。
『マンガジュマン』1号では、石井編集長以下元編集者が多数、「マンガジュマン」に期待する旨の文を寄せて『COM』のコントロール下という紙面だったのですが、大塚さんの離脱で『COM』との繋がりが薄くなってしまいました。かくて『COM』から頼まれた情報誌作りなのに、ぼく一人にされてしまうという、予想外の事態になりました。
しかし購読者は集めてしまったし、ぼくがやめれば、即「ぐら・こん」は消滅してしまう。妙な責任感まで押しつけられて、やめるにやめられなくなりました。
ぼくが『マンガジュマン』に寄稿を頼んだ高宮君も「ぐら・こん」の消滅は理不尽だと異を唱えてくれていました。それで、頼るべきはやはり気の知れた仲間だと、大阪で編集する事に決めました。大阪の漫画仲間は皆大学生でしたから、編集スタッフに最適でした。それで、ぼくは東京と大阪を頻繁に行き来する事にし、まさしく清水の舞台から飛び降りる覚悟で、漫画誌の出版を決めました。印刷同人誌は数冊作った経験がありましたが、百部位のものでした。売る本を作るというのは、お金の心配もしないといけない、大変な不安との戦いでもありました。
しかし、勢いだけでやってはいけなかったと、後になって後悔しています。継続する戦略も立てておかなければいけませんでした。『コミケ創世記』の102ページに「『(71年)七月弐拾五日乃疲労宴』において、N氏は創作まんが誌の立ち上げを公言していたというのだが、だとすれば元支部長の手によって『新ぐら・こん関西支部』は、その実態が不明な『ぐら・こん日本』に換骨奪胎され、有名無実のものになったといってもいいだろう。」と書かれています。原田さんの鋭い追及に、一読した時はドギマギしました。しかし、ぼくなんかのした行動を、こんなに的確に分析してもらえるなんて、逆に感謝しなければいけないと、思いなおしました。なにより、原田さんにとって重要な問題だったから、このように一文かかれたのでしょうから、ここは誠実に回答する責任がぼくにあると思います。
まず、71年7月ではありません。71年の末に「切り離す」と言われたのですから、出版を決めたのは72年になってからです。そして、ぼくは勝手に「ぐら・こん日本」と名を変えたので、変えた責任はぼくにあるのですが、理由は、『COM』から切り離されたのに「関西支部」はないだろう、と思ったからなのです。実際ぼくらはもう支部ではなかった。しかし、「ぐら・こん」の精神は引き継ぎたいと考えていたから、北海道も九州もない、みんなでやろうと、そういう思いで「ぐら・こん日本」と付け替えました。そういう過程で「換骨奪胎」しましたし、「実態不明」「有名無実」と言われる面が生まれたでしょう。
反論ではありませんが、「実態不明」「有名無実」になった原因は『COM』から追い出し、大塚さんを解雇した虫プロ商事にあるのですから、ぼくの責任と言われても、責任を取りきれません。元々ぼくに他の手立てはなかったのです。ただ、『あっぷる・こあ』に参加、協力、購読してくれた沢山の人達が、「ぐら・こん」が無くなる事に反対したので、その力に助けられて、「ぐら・こん」の消滅を防ごうと頑張っただけなのです。勿論、頑張っただけであった事に対しては、自分の力の足りなさをお詫びするしかないのですが。
関連する形でもうひとつ。亜庭さんの「マニア運動体論」を読ませて貰いましたが、「『COM』消滅時における『ぐら・こん』の活動が『マンガジュマン』から『アップル・コア』へと変遷してゆく過程で『COM』以降をになうべき『マニア』の連絡の場としての意図を失ない、創作同人へと変質していき、ついに姿を消した…」との指摘には、全く反論はありません。ここが核心だと、ぼくも思います。『あっぷる・こあ』に「マニア」のページを作るべきでした。「場」の必要性を良く知っていたのですから、ぼくの失敗であったと認めます。自分の考えの足りなさに、今更ながらがっかりします。この文の最後の方でもう一度述べますが、結局『あっぷる・こあ』を続けられなくなってから、集会を開いて打開策を見つけようとするのですから、協力者、購読者の方たちの声をもっと早くから聞いておくべきだったのです。せっかく沢山の人たちの協力を受けたのだから、みんなのエネルギーを生かせる仕組みにしなければいけませんでした。それを怠った事が続けられなくなった原因です。亜庭さんはそこに早くから気づいていられたのでしょう。
話を戻します。
『マンガジュマン』は4月、7月、10月と3号出しました。2号では、付録にB6判16ページのパイロット版を作りました。そんな付録誌なのに、樹村みのりさんが4ページの「昇平くんとさちこちゃんの夏休みの絵日記」という楽しい作品を描いて下さって、感激しました。樹村さんのような素晴らしい作家がぼくらに期待をかけてくれている。これはなにより心励まされ、自分たちの行動に自信を持たせてくれる事でした。これはどんなことがあっても、良い本を出さないと、と決意を強くしました。そして、作品の質の高さを一番に求めようと考えました。その方針はある程度貫けたという自負があります。
2ヶ月後、12月に、『ぐら・こんの本』、『季刊あっぷる・こあ』創刊と続きます。『マンガジュマン』は先細って無くなったという記述が『コミケ創世記』にありましたが、2号を作る頃から、ぼくは、『あっぷる・こあ』に引き継ぐまでの「つなぎ」という風に、その役割を変えていました。独断ですからぼくに責任があります。
その『マンガジュマン』の巻頭言。『コミケ創世記』の文中で大塚さんのものとして引用されていましたが、37年ぶりながら、この癖のある文章は、間違いなくぼくが書いたものだと確信しました。同時に気恥ずかしい思いにもなりました。
僕らは「ぐら・こん」の存在を無意味なものとは思えなかったし、「ぐら・こん」が自身で自滅するのではなくて、一出版社の編集方針の変更の為に、その犠牲となる事に非常な憤りを感じるし、だからこそ、ここに自らの滅亡を宣言するか、その存在性を主張するかの二者択一の最終行動を始める。「ぐら・こん」自身の初めての決断をここに下す。
どう思われるでしょう。ずいぶん大層な言い方だなあと、思われて当然です。ぼくもそう思います。しかしながら、昔の自分を今の価値観で判定することは正しくないとも、今回つくづく思いました。今読むと赤面ものですが、当時の時代と、自分の年齢と、そして孤立感を考えたら、全然おかしくなかったのです。そういう事も、考えに入れなきゃいけないと思い、ここに載せました。
巻頭言の如く気負ったぼくが、出版に向かって態勢を作り上げて行きました。編集は辰巳、高宮君らぼくの漫画仲間を中心にしました。竹内オサムさんが所属する漫画同好会の人達も参加してくれました。それに、辰巳君と大学が同じだった村上知彦さんにも加わってもらいました。誌名の『空飛ぶまんが―あっぷる・こあ』は高宮君の発案でした。そして、亜庭じゅんさんにも参加してもらいたかったので、大学が近かった高宮君に、京都の一乗寺下がり松へ訪ねて行ってもらいました。帰ってきた高宮君が「2人で漫画評論をやるからページをくれ」と興奮してしゃべるのを見て、やっぱり、自分が行けば良かったと悔やんだのを、今も覚えています。ぼくが行っていたら「マニアのページ」が生まれていたかも知れません。
「ぐら・こん」は北海道、九州支部長のほか、中部支部長だった小川茂さんにも協力を頼みに名古屋へ行きました。小川さんは『COM』新人賞の佳作まで行った方で、良き先輩として、有益な助言を頂きました。また、すでに「飛行館」という名で漫画誌や詩集を作られていて、協力関係を持てました。漫画家は、樹村みのりさんのほか、やまだ紫さん、芥真木さんに声をかけ、それで3人合作が実現しました。そして、雑賀陽平さん、六田登らはぼくの友人です。寺尾美代子さんは、『COM』新人賞の投稿作で注目していたので、ぼくから手紙を出して頼みました。チャンネルゼロ工房のみねぜっとさんは高宮君の友人でした。
芥さんの家に三女史が集まった日の事を今でも覚えています。三人ともとても楽しげに語りあい、『あっぷる・こあ』1号の三人合作ページそのままに「競作にしよう」「設定は?」と、話が盛り上がって行きました。いいものができると期待できました。「ちょっと待って」で始まる競作。樹村さんの「晩秋」。透明で穏やかな樹村さん独特の語り口で始まり、最後にあふれる感情を描き出す、樹村さんならではの繊細な心の世界です。芥さんは「ありがたくないプレゼント」。アメリカンコミック風の絵柄で、演劇調の対話劇。話の盛り上げが手の込んだものでした。
やまださんは原稿が間に合わなかったのですが、「必ず2号で描くから」という約束どおり、いや、約束以上の作品が送られて来て、驚きました。「性悪猫」。個人集の表題作にもなっていますから、広く読まれていると思いますが、内容は書きませんが、新境地を開かれた、と衝撃を受けたのを今もはっきり覚えています。『あっぷる・こあ』がA5版だった関係で、再掲載時に書き直しをされていますが、背景が入っただけで、構図、コマ割りは全く変わっていません。また、詩画「天空(そら)への憎言(うた)」も、やまださんの感性の鋭さをみせてくれて秀逸でした。
手塚さんからは推薦の言葉を頂きました。「若い人たちの新しい試みに期待します」ぼくにとってこの言葉は、額面どおり受け取れない、つらい思いにさせられる激励の言葉です。「切り離され」なければ、新しい試みは必要ではありませんでしたから。上村一夫さんからも詩的な言葉を頂きました。「定義なき現劇画界に漂うグライダー群に プロペラをつけてくれることを切に期待します」本の帯に載せようと思ったのですが、そんな予算がなく、使わずじまいで惜しい事をしました。
『COM』からの約束のお金は出ませんでした。ぼくらは郵送申し込み三〇〇人の購読料と、皆で奔走して集めた広告料で『あっぷる・こあ』を作りました。元々『COM』から支部運営費など支払われた事がありませんでしたから、あまり当てにしていませんでした。
大阪のミニコミ誌『プレイガイドジャーナル』社に協力をお願いして、書店ルートを紹介してもらいました。大阪、京都の大書店に置いて貰うことになったので、思い切って1000部刷りました。翌73年3月に2号を出し、3号の編集をやっていた頃、手塚さんからこんな葉書がぼくの家に来ます。
「虫通信というパンフレットが東京で発行されておりますから、一寸無理だと思います。何か別の名前を考えてください。東京のと混同します。64通信とでもしたらいいかが 虫」
走り書きでしたが、自筆のようでした。ぼくが『虫通信』を打診した覚えはありませんでした。推薦の言葉を頼んでくれた人が、『虫通信』にしたいと言ったのかもしれません。沢山の友人知人が手伝ってくれたので、誰が頼んでくれたのかもわかりません。こんなアイデアは他にも沢山ありました。友人知人がどんどんいない協力者が多数いました。日野日出志、政岡としやさんのイラストや、宮田雪さんの寄稿文が載っているのも、そうした人たちのお蔭です。それだけ賛同する人が多く、大変な広がりを持っていました。
その後7月になって、たまたま何か用があって、久しぶりにぼくは池袋の虫プロ商事を訪れました。たった一人残った石井編集長が『COM』の復刊号作りをしていた時です。石井さんに初めて応援椅子をすすめられ、「協力してくれ」と頼まれました。「ぐら・こん」もいれて、元の形にと考えておられたのでしょうか。しかし復刊号が出るとすぐ、虫プロ商事が不渡りを出し、虫プロ3社が倒産します。
翌74年1月、4号を第一期完了号と表紙に記して出しました。先に、三女史の作品について書きましたが、他にも良い作品が幾つもありました。3号で六田登君の「宴」。精神病院の入院患者達の中に自分の居場所を見つけるという、孤独な少年の心象風景が描かれています。竹内オサムさんは1号「トトンマさんの雨」、2号「大きらいや!」、4号「ちぢれ毛のトマ」の3作。童話風の話や、元気な小学生の男の子の話で、楽しい児童漫画です。手塚さんが読んだら「これこそ『COM』に載せたい漫画だ」とおっしゃるだろう、と思う作品です。子供漫画も才能のある人が出れば、面白いものが描かれるのだと、これらの作品を読んでぼくは気づかされました。4号のさいがようへい「われらは何故生きるか」も、彼らしい風刺精神が発揮された奇抜な展開の作品です。
1号で高宮君が書いた「大阪まんが史」。赤本時代からの漫画出版社、日の丸文庫が当時まだあったので、取材に行って出来たものです。貴重な記録になりました。2号で亜庭じゅんさんが書いた「銀色の少女たち」。深読みをして自分の主張を展開する、という当時多かった評論とはまったく違いました。平易に語って、亜庭さんの漫画に対する深い愛情を感じさせてくれる、そういう漫画評論でした。論の核心である西谷祥子、水野英子両女史の作品世界の違いに対する、鋭い分析にも感心しました。
つい昨年、原田さん、式城京太郎さんとお話しした時、『あっぷる・こあ』の作品はレベルが高かったと、言って貰いました。今もそう言って貰える事に、驚きましたし、作って良かったと、心底思える出来事でした。再度購読を呼び掛け、1年以上たった、75年春に終刊号、5号を出しました。この時、スタッフ、執筆者に感謝の意味で全員の名前を裏表紙に並べました。40名にもなりました。それ以外に協力者がいます。ぼくが知らない協力者はさらに沢山います。きっと倍で足りないでしょう。全員がボランティアですから、それがなにより素晴らしい事でした。まさしく運動であったと思います。こういう運動ができたという事を、みんなで誇りに思っていい、と今思っています。
終刊号とはっきり書いたのは『あっぷる・こあ』が続けられなくなったからでした。ここ一年で主要メンバーが就職した事も理由の一つでした。ぼくも家業を継ぐしかないか、と腹を決めました。漫画家になれず、出版社にも就職せず、漫画界で飯が食っていけるとは思ってもいなかったので、そう覚悟しました。
なんとか「ぐら・こん」を残したいと願っていたぼくは、この年のたしか9月に、東京で集会を開きました。引き継いでくれる人材を集めようと思ったのです。この1年半はずっと東京にいたので、高宮君ら大阪の編集スタッフとはほとんど話し合いができていませんでした。それで東京在住の仲間を当てにしたのですが、芥さんも六田君も、元九州支部長の原孝夫君も都合が悪く来てくれません。うまく行かない予感の中で、ぼくは集会場へ向かいました。
せっかく全国から50名、原田央男(この時ぼくと原田さんは会っていました)、米沢嘉博、亜庭じゅんの迷宮メンバー、CPSの式城京太郎、MOBの鈴木哲也、和光大漫研の三東宗一郎、明大漫研の尾沢祐司、日大文理漫研の渡辺協、奇人クラブの平塚宏、高橋誓、「ぐら・こん」山形の青木文雄、跋折羅、まんがの虫、EOS、そして夏目房之介、雑賀陽平さんら、それぞれ多方面で活躍されるすごい顔ぶれが集まっていたのに、話をうまく持って行けませんでした。まるでファンの集いのように、和気あいあいとしているだけで、誰からも建設的な意見が出ませんでした。なので、ぼくが新しいヴィジョンを持ってなかった事が一番の原因だったと考え、すべてはぼくのせいだと、ずっと今まで思ってきました。
しかし、昨年高宮君に聞いて解ったのですが、事実はぼくの想像とはだいぶん違っていました。当時のぼくは知らなかったのですが、集会から数ヵ月後の12月に「第1回コミック=マーケット」が開かれます。「迷宮」メンバーはその準備の最中だったそうです。高宮君いわく「『COM』とも『ぐら・こん』とも決別し、漫画とファンとの新しいフィールドを作ろう」と、考えていたのだそうです。それで、「ぐら・こん」の継続に賛成しなかったのだと、わかりました。
集会より少し前、高宮君からは「SF大会」のようなファンのためのイベントを漫画でもやりたい、という話は聞いていました。東京にいたぼくを訪ねて来てくれた時です。ぼくへの提案であったような気がします。彼は『あっぷる・こあ』のリベンジとして、それを考えたのだそうですから、あの時にそう言ってくれれば、ぼくも関心を持ったろうと思います。「リベンジ」とは言わなかったので、ファンのイベントが「ぐら・こん」の代わりになるとは、ぼくには、にわかに思えませんでした。なので、原田さんから「コミックマーケット準備会」の通知をもらったのですが、ぼくは参加する気になりませんでした。そうして、最後の望みをかけた東京の「集会」に失敗した後、ぼくは元九州支部長の原孝夫君と、ぼくの弟に頼んで「ぐら・こん」を続けてもらいます。原君は、「新生ぐら・こん」という名称で、情報誌を75年10月5日付けで出します(手塚さん、竹宮恵子さんのインタビューが掲載されています)が、2号まで出して終わります。それで本当に「ぐら・こん」を自称する者はいなくなりました。
それからぼくは、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、ずっと思い悩んできました。何年たっても悔しい思いが消えないのです。あの時、たまたま支部長を引き受けただけなのに、うまくやれなかった事を一生悔いないといけないとは、因果なことです。
それが、最初に戻りますが、一昨年1月『コミックマーケット創世記』を偶然読んで、どうも、自分の思いと少し違う形で実現しているようだ、と気がつきました。それまでは「コミックマーケット」は「何でぼくと関係ないんだろう」と不思議に思っていました。35年前の活動状況は大抵知ってたのですから、ぼくの知らない所から出てきたはずがない、という思いがあったからです。
なので、高宮君、亜庭さんが「コミケ」の創設メンバーだった事がわかり、東京での最後の集会に集まってくれた人たちの多くが「コミケ」のスタッフや参加者であった事を知り、そんなに側にいた人たちだった事に驚き、そして、やっぱりぼくの望みは共有されていたのだと思って、興奮して読みました。
高宮君が、リベンジが出来たと思っているのか、聞いてみたいのですが、ぼくのリベンジは代わり果たしてくれた、と思っています。長年悔しい思いに悩まされてきたのが、まったく無意味だった事がわかりました。本当に間の抜けた話で、お恥ずかしい限りです。素晴らしい仕組みを考案し、実現した、高宮君、亜庭さん、原田さん、米沢さんに感謝しています。
そして、昨年4月に竹内オサムさんと再会し、当時の事を書かないかと、言って貰いました。その時には、ぼくの体験が『ビランジ』に載せて貰う価値があるだろうかと不安がありました。文にして残すような価値のある事を、自分がやったと思ってなかったからです。
その半年後に、2回目の「COM座談会」があり、「コミティア」の会場に初めて行きました。漫画研究会、同人誌を読みたい人、有望な新人を見つけたい編集者、の三者が集まる場が出来上がっていました。それも、ぼくが『あっぷる・こあ』で作れなかった、永続性を持った場でした。そうして、スタッフはボランティアで、それから、みんな若くて、ぼくは誰一人知らないのですが、彼らの楽しそうな様子を見ているだけで、幸せな気分になり、ゆっくりと見て回りました。
また、「座談会」後、初対面の吉本たいまつさん(漫画研究者、ライター)からお礼を言われ、驚きました。「ぐら・こん」から、どのように「コミックマーケット」に移って行ったかが、解ったというお礼でした。若い研究者の間で「ミッシング・リンク」と呼ばれていた事を知りました。彼等からもぼくは呼ばれていたのかもしれません。感慨深いことでした。そして、有り難い事でした。
ぼくは《ここ》に戻って来る必要があったと、今一層強く思っています。ずっと三十何年あの時の事を思い返し続けてきたのだから、《知らなかった事実》を見つける日が来なければいけなかった。そのために更に失敗に気づかされましたが、それでも、知らないままでいるよりは、ずっと良かった。
そして昨年10月、思いがけない展開がまた起こりました。原田さんが「来年『COM』を1回だけ、出す」と言ってこられたのです。ぐら・こん関西支部の顛末を書いてほしいと依頼されました。まだ「迷宮」の続きがあるようです。
2005年、JR福知山線の脱線事故で雑賀陽平さんが亡くなりました。同じ年、宇和田義則さん。2006年、米沢嘉博さん。2008年、岡田史子さん。2009年、やまだ紫さん、ぐら・こん九州支部長だった原孝夫くん。2010年、みやわき心太郎さん。はや多くの方が亡くなられました。残念なことですが、皆様、それぞれに漫画界に足跡を残され、思い通りの人生を生きられたと思います。ご冥福をお祈りします。
これで書き終わるはずだったのですが、2日前に、亜庭さんが亡くなったと、原田さんから知らせが来ました。原田さんも相当落胆されていましたが、ぼくもずっと気持ちが沈んだままです。原田さんのお陰で昨年10月、三十五年ぶりで会えて、昔話ををし、またお会いしましょうと言って別れたのですが、会えなくなってしまいました。あの世で会えるだろうと、それに期待をかけようと思います。
最後になりましたが、竹内さんにお礼を言います。『ビランジ』に書かないかと誘って頂いて有難うございました。先にも書きましたが、ぼくの役割は大したものではありません。しかし、『あっぷる・こあ』の作品はレベルの高いものでしたから、参加して頂いた方々の為にも、この本を忘れられないようにしたいという思いが段々強くなりました。また「ミッシング・リンク」と呼ばれる事にもなってしまいましたから、どうして生まれたかという経緯を広く知ってもらう事も、必要であろう、と思うようになりました。それで、半年、夢中になって書きました。書きだしてみたら、ぼくしか知らない事が幾つもありました。
もう一言あります。『あっぷる・こあ』に竹内さんの作品を載せさせてもらった時に、もっと褒めておけば良かったと、後悔しています。てっきりプロ漫画家になられるものと思っていましたので、大学の先生になられて、吃驚しました。竹内さんの漫画は正統児童漫画と呼べるもので、少年の心情を実に良く捉えた物語を描かれていました。ぼくらの世代で児童漫画家を目指していた人は、皆無に近かったので、貴重な才能でした。そんな時代でしたから、手塚さんがあの時、「僕はそうは思いません」とおっしゃったのは、児童漫画に目を向けてほしいという強い願いが、理由の一つだったのかもしれません。後になって思う事は多く、どこまで切りがありません。
竹内さんは『あっぷる・こあ』の仲間ですから、ぼくのこの至らぬ文も、よく理解してもらえるだろうと思い、安心して書く事が出来ました。心より感謝します。
2011年1月23日
所載:竹内オサム編『ビランジ27』2011年3月18日発行
元ぐらこん関西支部長3代目で同人誌『あっぷるこあ』代表の中島隆さんが11月に享年73歳で逝去されました。近年ずっと毎年来られておられた京都MMのマンガカフェ後の忘年会でみんなで献杯しました。 pic.twitter.com/Bfh5Jj7ZND
— 小西@図書の家 (@torikotori) 2024年12月21日
中島隆さんと言えば、故・みなもと太郎先生がこの時代のことを話すたびに「中島の言うことは事実と違う」と言っていたことを思い出します。両者はぐら・こんやその後について別の「史観」を持っていたのだろうと思います。詳しく話をうかがえなかったのが本当に残念です。
— 吉本たいまつ 🌈️🦀️ (@taimatsu_torch) 2024年12月28日
1982年のロリコンブーム批判(アニメ★ジュンの大発見「プティ・アンジェ狩り——ことのついでの物語——」より)
Source:『月刊OUT』 1982/6/1
アニメ★ジュンの大発見/プティ・アンジェ狩り——ことのついでの物語——
***
某アニメ雑誌で”プティ・アンジェル研究なる記事をみつけた。それもカラーだ。
——一体どうなってるんだろう!ロリコン・ブームの流れに沿ってとはいえ、かのダ作「女王陛下のプティアンジェ」を一応マトモに取り上げている。どうして?「プティ・アンジェ」を流行らせたのは吾妻ひでおだけれど、あれは彼一流の、冗談じゃなかったのか?
——技之一・ロリコンとはタマネギである——
冗談と本気の区別もつかず、ブームが一人歩きを始めている。もともとブームとはそんなもんだが、まんがとアニメにとりついて増殖し続けるロリコンが、どんな腫瘍(しゅよう)になろうと知ったことではない。かといって悪性のそれ、すなわちガンになってまんがやらアニメを蝕むことだけは願い下げだ。
だから、現在ロリコンて何なのさ?とその輪郭だけは、はっきりさせておきたい。ロリコンが病気なら、処方箋はともかくカルテだけは作っておくべきだと思うから。
で、少女をではなくロリコンを裸にする。
まず、ロリコンとはロリータ・コンプレックスのことではない。
”ロリコン・アニメファン、幼女を誘拐!”なんて記事には、お目にかかった事もない(この先は知らんけど、やるなよ!)。あたりまえだ。アニメのロリータ・キャラ、美少女少年まんが、ロリコン劇画のファンはいても、町の少女を追っかけ回してるファンなんかまずいないだろうし、いたところでその手のアニメ、まんがファンが仲間とみなすとも思えない。はえー話、自称ロリコンなる連中はブラウン管やスクリーン、ページの上のキャラに恋こがれる限りにおいて、正確にはロリコンというよりフェティシスト(物神嗜好者)なのだ。
空想のなかで、もて遊べる対象にコーフンするのだから、ついでにナルシス(自己愛主義者)の変形でもあるだろう。実体の無い虚像(もしくは描かれた実像)を追いかけるのだから、その嗜好は無意味を承知のエスカレーションを無限に続ける他はない。こんなことはやる者の勝手であっても、他の者に対してだからどうだといえるものじゃあない。一人ごっこに徹するのがキャロルセンセー以後の正統派ロリコンなら、自称ロリコンと声を限りのアホたちにはゴクローさんというしかない。
そして、正統派であろうとなかろうとロリコンが行きつく先を持たないタマネギ・ゲームである事には変わりはないのだ。ロリコン・ブームというなら、ロリコン=ブームという言い方自体ひどい矛盾ではないか?
——技之二・ロリコンとは“アニメ”である——
アニメーションなんて言い方が一般的に使われる様になったのは、案外最近の事だ。それまでは動画といった。
ロリコンもこれに似ている。
ロリコンなんてコトバが出回る様になってから、アニメ美少女やそれに夢中の若者たちが、いっそうクローズ・アップされる様になってきた。けれどそれ以前にロリコンにあたるアニメ、まんがファンがいなかったわけでももちろんない。雑誌連載の頃からウランを見ると目の色を変える手塚治虫のフアンなんてザラにいたし、ヒルダだってそうだ。ただの美少女キャラ好みのまんが、アニメファンにすぎない。
それが現在の美少女のためにアニメ、まんがをあさるファンへと変質(!?)していったのは、まさしく。”ロリコン”というコトバによる。美少女大好き少年がロリコンなるコトバをテコに、自分をロリコンと逆定義したときから、彼は美少女しか目に入らない少年に変わったのだ。こうなると彼は自称ロリコン"をとなえ続けるしかない。ロリコンという名刺を持たない彼は、ただの少年でしかないからだ。
これが少年でなくても少女でも、オジンでもいい。もともとカワユク描かれた美少女がキライなアニメ・まんがファンなど殆どいない。だから、個人名の他に何か自分を特徴づける呼称を持たないと不安な人にとっては、ロリコンは最もたやすく手に入るパスポートなのだ。誰でもなれるロリコン。
キイワードの発見こそ、ロリコンをブームにのしあげた原因ではないだろうか。だとしたら自称ロリコン諸氏よ、ロリコンとはしょせんポーズなのだ。
吾妻ひでおが『プティ・アンジェ』とひとこと言えば、冗談かどうかも知らずワッと群がる。あげくの果てに、アレはすごかった——などと言いだすのだ。確かに処方箋など、書けるわけもない。誰かのセリフではないが、バカにつける薬はない——のだ。
——技之三・ロリコンとは商品である——
だからといって、ロリコンファンだけ責めるわけにもいかないかもしれない。流行ると見れば、それ、ロリコン特集だの、あげくの果ては雑誌丸々の特集号まで作ってみせる(一応、ちょっと種類が違うのでロリコン写真誌は別にしておく)。あおる方だって悪いといえば悪い。そーゆー意味ではOUTでもやっているのでデカイことは言え反ロリコン・キャンペーン(?)同時掲載してるので、マシな方だとは思う。
でも、総じて、まんが、アニメの美少女キャラ・カタログを作ってロリコン!ロリコン!と騒いでいるのだから、単なる商品以上にロリコンをマトモに扱ったものが、どれ位あるかということで、同罪といってもいいだろう。
こうしてロリコンは、マスコミレベルへと上昇(?)し、自称ロリコンすら不要になり、ちょこっとラナがかわいいなんて言おうものなら、即、ロリコンというムードが広がってしまった。そうなると又ぞろ雑誌が、まんがやアニメに関係ないたぐいのものまで、いいネタとばかりに飛びつき、その読者にまたロリコン命名症候群が伝染する。悪循環なのだ。かくてロリコン評論家が出現し、コミックマーケット?ああ、ロリコン同人誌の?ということにあいなる。そして悪循環と知ってなお、それを歓迎する雑誌、自称ロリコンファンらによって、ロリコン本来の意味も姿も完全に空中分解してゆくのだ。
この過程は美少女への道を聖化するどころか俗化し、手アカだらけにするものだ。美少女たちは君臨するのではなく、あくまでもて遊ばれているにすぎない。
——技之四・ロリコンとは物語・・・ではない——
少女まんがファンがロリコンとの間に一線を引くのは、少女まんがの絵そのものが少女の肉体のみの表現ではないからだ。大島弓子の絵ひとつとってみても、あのかぼそい線が少女という存在を抽象的に示すサインであり、物語とのからみのなかに少女の存在を浮かび上がらせてくることで、読者を魅了するのだ。
それに対して、自称ロリコンの目指すものは直接的に少女の肉体であり、アニメキャラの簡略な輪郭線であろうと、そこにさぐるのは美少女の身体のふくらみなのである。
そうなると物語はあくまでオマケであり、少女の体を描く口実にすぎない。
少女まんがが、少女のための、という前置きつきで様々な物語を語りだすのに比べて、ロリコンまんがは少女の体にからめて、物語を語ることしかできない。
それですら、吾妻ひでおら、それをできる作家の数が少ない以上、ロリコンにとって物語は事のついでに語るべきものにすぎない、といってかまわないはずだ。ロリコン作品の大半は美少女お絵描き帳であり、そのテクニックの優劣だけでもてはやされるロリコン作品の増加は、確実にまんが及びアニメからの、物語の、さらにはまんが及びアニメそのものの退却を教えている。
まんがもアニメも美少女を描くただの道具にすぎないのだ。
たとえば、吾妻ひでおは物語をパロディとして語る。その彼が物語のツマにちょっとシャレとしてさしはさんだプティ・アンジェが、いつの間にかロリコンファンの信仰の対象になっている。それもまたロリコンファンの冗談であるとしても、アニメファンにとっては立派に悪質な冗談であることに違いはない。
美少女キャラのカワイさとアニメのオモシロさとが持つ関係というのは、ささやかなものでしかないからだ。ボクの見たいのはあくまで第二第三のクラリスではなく、第二第三の『カリオストロの城』なのだという事をはっきりさせておきたい。なのにクラリスが先だというなら、あとはこう返すしかない。くたばれ!ロリコン!
(協力・霜月たかなか)


【ぼくら語りの起源】高宮成河「なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?」(所載『まんがジャーナル』創刊号/1973年5月4日発行)
要約:なぜ、ぼくらはそれでもまんがを読むのか?
コミックマーケット創設メンバーにして「迷宮」の御意見番(バックボーン)でもあった高宮成河は、迷宮結成以前の1973年、批評同人誌『まんがジャーナル』を創刊した。その巻頭辞「なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?」で彼は「まんがは面白いから読むのではなく、“まんがであること”自体が読む理由だ」と述べている。
また、そうした意識を内在化させた自分たちを“純粋まんが世代”と位置づけ、「ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらだ」とまで言い切った。
批評を抜きに、まんがと分かち難く結びついたこの感覚は「まんが世代を自任するまんがファンが何であり、また何をなしうるのか」を運動理論として取りまとめた「迷宮」のマニフェストにして初期コミケットの理念でもある「マニア運動体論」の原型になったと推測される(亜庭じゅん主筆だが、高宮による助言も相当あったという)。
以下、要約と本文を掲載する。「ぼくらのまんが」はここから始まったのだ。
①まんが批評への違和感から出発
高宮は冒頭、「まんが批評なんて必要ない」とする大方のファンの声を紹介しつつ、自らが文字だらけの『まんがジャーナル』をつくる動機を説明する。
批評を否定する声の裏には「今までの評論は面白くなかった」という不満があり、実際はファン同士が熱く語り合っている。そのことから、既存の評論とファンの実感との間にズレがあると主張する。
②そのズレの正体:「純粋まんが世代」としての自覚
評論家たちと自分たちの違いは、まんがを同じ意味で所有できていないことにある。
高宮たちは「まんががオモシロイから読む」のではなく、「まんがだから読む」。優れているかどうかではなく、まんがであること自体が読む理由となっている。
③「まんがこそ」という感覚:まんが化した精神の自覚
彼らは、ある朝ふと、自分が「まんが的精神」に覆われていることに気づく。そして、まんがを読むというより、まんがそのものになっていると感じている。
そうした感覚の中で彼らは、「まんが」という言語で構成された世界を内面化しており、それが彼らの現実=「第二のリアリティ」を成している。
④「第二のリアリティ」とは
-
まんがについて語り合うファンの間にだけ成立する特殊なリアリティ
-
ラーメン店で立ち読みするような“たかがまんが”という醒めた視線も内包
-
まんがにどっぷり浸かりながら、それを突き放して見る自分もいる——二重性
⑤ズレを生む3つの論点
評論とファンのズレは、次の3点で生じていると高宮は述べる。
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評論の背後に「第二のリアリティ」があるか
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扱う作品が「まんがであること」をベースにしているか
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「たかがまんが」と言えるような、醒めた視線を持っているか
つまり、現実のリアリティ(政治・思想・芸術性など)だけでまんがを評価する姿勢は、ファンの実感と決定的にズレている。
⑥ファンの資格:まんがと一体化した世代
高宮は、まんがを「共犯関係」として語る言説(当時の流行)すらも否定する。
「ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらだ」とまで言い切る。そこに“犯”の意識すらない。ただひたすらに、まんがと無媒介に結びついているのだ。
⑦「まんがエリート」としての意識と「第一のリアリティ」不要論
「まんがが自分のために描かれている」くらいの意識で作品を読むのが、まんが世代の感覚。現実の社会性や芸術性は“第一のリアリティ”にすぎず、自分たちの中に構築された“第二のリアリティ”こそがまんがを支える基盤である。
⑧結論:「なぜ」という問いは不要
「あしたのジョー」が終わっても、まんがだから読む。作品の出来・不出来を超えて、「まんが」であることそれ自体が読む理由。だから、問いは無用。「ぼくらは それでも まんがを読むのだ」——それが答えである。
補足
高宮は、評論に否定的なのではなく、「まんが世界を内側から語る批評」が不在なことに問題意識を持っている。そのため「まんが=たかがラーメン」という比喩を冷笑ではなく肯定的に用い、二重の感覚を受け入れる懐の深さも本稿では示されている。
以下、本文。
(所載:どくろ仮面社『まんがジャーナル』Vol.1/1973年5月4日発行)
題名に反して、この文章はまんが批評のことから始まるのだ。何故かと云えば、まんがジャーナルは御覧のとおり文字ばかりで、まんがに関するゴタクをいろいろ並べている小冊子だ。そしてぼくの限定されている、まんがに関するつき合いの中での大方の意見と云えば、「まんがに関する批評なんて必要ないサ、要はまんががオモシロけりゃいいんだ」というヤツなので、一応ぼく、あるいはぼくらがどうして、どんな立場でこの本を創ったかを説明する必要があると思うからだ。
上記の意見の裏ガワには、まんが評論(又は批評、又はゴタク)の全否定ではなく、ただ単に今まで発表されてきた、いわゆるまんが評論なるものは全くオモシロクないという気持があるような気がする。現にそう云う人間に限って、同様のが二・三人集まると、かなりノッてまんがについて話をしている。つまり手短に云うと、横行しているまんが評論と、ぼくらがまんがについて考えたり感じたりしていることと、かなりのズレがあるということだ。
では、そのズレは一体どんなものか?と考えてみれば結局のところ、彼ら(評論家諸先生)とぼくらとは、まんがを同一の意味で所有できない。云い切ってしまえば、ぼくらは面映ゆくも純粋まんが世代であり、彼らはそうじゃないということになるのだ。
さてそれでは彼らとぼくらとはどう違うのか、と云っても、ぼくらは彼らをよく知っているワケじゃないから、主にぼく、あるいはぼくらについて云いたいと思うんだ。よく知らない彼らを引きあいに出して、よく知らないことを云っても仕方ないじゃないかというムキもあるかも知れないが、現実に彼らのまんが評論とぼくとの間にズレを感じていて、そのズレの内容はこうじゃないかナという風に考えているだけなので、アシカラズ。いよいよ本題に入る。ぼくらは大量に発表されるまんがを買い読み、立ち読み、貸り読みして消化し、消化しつつある世代だ。別になんていう理由はない。ただ、それがまんがである限り消化し続けている。ここで「マンガである限り」という言葉が重要だ。
突然、引用を開始する。
現代において、自己を表現するために、我々が、たちむかう芸術は多様多種である。それは絵画であり、文学であり、映画であり、カメラであり、音楽である。そしてここに明確に漫画が加わるのだ。かつて「漫画など」と云われた(今でも30以上の老寄連はそう云うのだ)ものは、いまやわが世代にとっては「漫画こそ」なのだ。*1
「漫画など」から「漫画こそ」への推移。つづめて云えばこうなるのだが、この言葉に含まれている或る種の気負いを別にして、こんな風な認識が、当然の事として、逆に云えば認識されるまでもないから、ぼくらは純粋まんが世代と云い得るのだ。ぼくらは特定の作品、各様の意味で優れた、あるいはオモシロイ作品のみを(勿論、優れている、オモシロイとは認めながらも)それだけの理由で読んでいるのではない。それよりも、もっと大きなエモーションで、それらが他ならぬ「まんが」だから読むのだ。簡単に云えば、そのまんががオモシロイ、オモシロクナイというのは二の次だ。最初にそれが「まんが」であることが必要なのだ。
ぼくらは、ある晴れた朝突然に、まんがが自分にとって、あるものからあるべきものに変化しているのを自覚して、ガクゼンとするのではなくニヤリとする。そして自分とまんがとがイヤラシイ程ピッタリくっついているのに気づいてヒヒヒと笑い出す。文体を変えれば、その時ぼくらは、日々消化されるまんが作品を材料に、そしてすでにまんが化してしまった精神によって支えられる或る透明な結晶化した世界を所有し、またその世界に所有されてしまっている、ということになる。
その世界は、「まんが」という言葉をベースとして総ての意味と価値が決定される。解りやすく云えば、まんがファンが、二・三人集まって、マンガについて談合しているとする。(別にヨタ話でも構わないのだが)そいつを離れて眺めると、彼らだけの世界を構成してるのが解る。それは彼ら、当人どおしの間にのみ(換言すれば、まんが世代にのみ通用する)話の内容を意味づける特殊なリアリティが存在するということだ。そこで、この特殊なリアリティを、ホイジンガが、遊戯という純粋で透明な世界に名づけたように「第二のリアリティ」と呼ぶことにする。別に気どってカッコよく「第二のリアリティ」と云わなくてもいいと思うのだが、或る概念に対する適当な条件がなくちゃ先に進めないので、当分これで押すことにするのだ。
「第二のリアリティ」について注意することがある。又々引用すれば、
まんがはラーメンか、という疑問があります。まんがとは、中華料理屋に入って、そこでつんである雑誌を、ラーメンをすすり、おつゆを飛ばしながら見るものか、ということです。或る意味では、まさにその通りだ、と云えると思います。痛烈な反語の意味で“たかがマンガじゃネェか”とほざいてみるのも我々に取っては必要なのではないでしょうか。*2
という、はなはだ醒めた意識が、「第二のリアリティ」の底には或るということである。「第二のリアリティ」の中に居る時のぼくらは殆ど二重人格者だ。「第二のリアリティ」つまり、まんが世界に頭までつかっている自分と、そんな自分を醒めた目で見ている自分とが、ほぼ同時に存在している。「たかがマンガ」と云いながら、その言葉に或る重さをこめて使用している筈だ。
さてここでようやく、先行横来する各まんが評論にもどることができる。それらとぼくらの間にあるズレは、つまり(一)この「第二のリアリティ」が各評論の言葉の裏にあるかないか、(二)又は、各まんが作品を扱うのに、そのベースとして「第二のリアリティ」が存在しているのか、(三)それに加えて「たかがマンガ」と云える醒めた目を所有しているかどうかによって発生してくるのだ。くだいて云えば、まんがが民衆の武器であるだの、戦後社会と漫画だのといった、現実のリアリティのみをベースとして、まんがを評価・評論するといった態度は、ぼくらにとってもはやナンセンスなのだ。とは云っても、ぼくらはそれらの態度を全く否定しようというのではない。問題は、まんがを現実のリアリティのみを基準として、評価・評論するというところにある。
もっと砕いて云うなら、ある一つのまんが作品を優れているというだけの理由で批評・評価したなら、つまり例を挙げれば、一人の美術評論家がカムイ伝を、美術的、文芸的、思想的etc.に優れていると批評したなら、それはぼくらとは決定的にズレているのだ。彼がカムイ伝を優れていると認めると云うことは、云いかえると、カムイ伝が彼の精神世界の一角に有意味な位置を占めるということだろう。しかし、その精神世界が、美術的、文芸的、思想的etc.なもので、まんががその要素として構成する世界でない限り、その批評・評価は、ぼくらとは永遠に無縁だ。そしてそのような批評をぼくらは僭越だと決めつける。どのような資格で?
ぼくらは、まんがをあるべきもの、共通言語として自覚しているということと、過去から現在まで、それが優れている・いないに関わらず、まんがだからこそ読んできたということ、加えて現在、自分の存在の主要素として、まんがという語を軸とする世界を所有しているということにおいてだ。
ぼくらは、まんがとぼくらとの共犯関係という言葉*3も振り切ることができる。ことさら共犯などという、まんがとぼくらとの間に電位差をつくり出し、使用しなくとも、ぼくらはまんがとはもうスキマなくくっついているのだ。共犯という言葉は醒めた、或る行為が“犯”であると認識する意識という内容を含んでいる。ところが、ぼくらは、まんがと一緒に行動するだけなのだ。一緒という言葉はもうここでは使えない。ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらなのだから。つまりぼくらは全く“犯”を意識しない。イヤしなくてもいいのだ。たとえ、他者が側で見ていて、それは“犯”だと云ったとしても……。それに開きなおって云えば共犯関係なんてコトバは、まんがに対して使用するにはイササカおおげさすぎるのだ。
又もや危険を覚悟で云い切ってしまえば、まんがに関して「第一のリアリティ」は必要ではない。「第二のリアリティ」をベースとして、発表されるすべてのまんが作品は、ぼく個人にのみ発表されている。ぼくは絶対君主の立場ですべてのまんが作品に臨むのだ。だからぼくらは、純粋まんが世代であり、エリートなのだ。
「あしたのジョー」が終了して、他に見合うだけの看板作品がない少年マガジンは、ある程度、発行部数が減少するだろう。しかし他ならぬそれがまんがだから、なお読みつづけている人達、その人達は「あしたのジョー」を読みつつ、それ以上に「まんが」を読んでいたのだ。そしてその人達は、ぼくらと世界を共有している。
なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?
その答は、いささかギマンめくのだが、「なぜ」という言葉は、ぼくらには必要ない。ぼくらは それでも まんがを読むのだ。と云えば、それで十分なのだ。
了
'73・4・29・朝




