所載:迷宮'75『漫画新批評大系』創刊準備号(1975年7月26日発行)
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今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した。
沈滞と倦怠のどんよりとたれこめる中、想像の翼はその重みに耐えかね、感性の扉は、カーテンを閉ざしたまま晴れる日を知らない。果てしないルーティン・ワークの果てには、模倣の跳躍する不毛の季節(とき)が待っている。かつてCOM誌上においてほのかにみえた地平線の拡がりこそマンガの行く道であったにも関わらず、最早それは、いくばくかの郷愁(ノスタルジー)と自嘲をこめて以外、語られることはない。吸血鬼へとすべての幻想(ファンタジィ)が集約される時代とは、いっさいの新たな生命の創造が行なわれず、いたずらな自己増殖とエナジイの水増しのみが、はびこる時代なのである。
我々は、このような状況に対し、渾身の力をこめて“死刑!”と宣告するものである。マンガに秘められたあらゆる面白さの可能性を、マスコミのバスチーユから解放せねばならない。と同時に、このマンシャンレジームを側面的に支持している、現在のファンダム状況もまた、変革の対象となろう。右に大手出版資本、左に固執的大手マニア・グループを相手に回し、今こそ自己満足の孤峰から下りて語る時が来た。
マンガとは、マンガ状況とは、それを一つの遊び空間と認識したうえで、我々にとって、その中で生き、息づいている世界である。チェシャー猫が出没するアリスの国であり、上帝の支配する門の世界である。我々の求めるのは、まさしく、この世界の国境線を、無限のかなたへと爆発させることなのだ!
だが、状況のすべては、全く逆である。「マンガ」のあらゆる分野において、顕著にみられるのは、現状の固定化―作家の、作品の、そして読者の、商品化と消耗品化なのである。スーパーマーケット的規格品、安モノ化が横行している。連載は、興奮へのクレジット販売のこととなる。その中で、いかに多くの変革の意志が、すりきれ、自滅していったかを、我々は知りつくしている。だが、それ故にこそ、我々がやらねば誰がやる!? マンガの滅亡の日は近いのだ!
我々=迷宮'75(ラビリンス)は、とりあえず批評集団として出発する。状況の直接の変革の力は、作品にこそあることを知りつつ、あえて、ことばを武器として選択した。その理由は、何よりもまず、自らの内に、自由の砦を築くことこそ急務であると考えるからである。状況に押し流されず、状況のすべてに対峙し、それを受けとるためにも、我々はまず意識としてあらねばならない。状況の変動の一つ一つを厳格にチェックし、絶えず自らのテーゼを掲げるために、あるいは、可能性の芽をのばすためにも、今、意識としての批評の復権が必要なのだ。
同時に、我々は、運動体としても、出発しようとしている。鳥合の衆と化した現在のファンダムを、一つの世界として再構築し、作品世界と同等以上のリアリティを持つ空間とするために、分散し、孤立している各種ファン・グループ、同人の連絡機関、情報センターとしての方向を探っている。さらに、創作活動をも含んだトータルなものとして、まさしく、マンガ状況内部における状況(カウンターカルチュア)として、ファンダムを射程に入れている。
マンガが好きだからマンガをよむ。マンガが好きだからマンガに関わる。それはそれでいい。しかし、我々とマンガの関係は、それをこえて密接なものになってしまっている。マンガは、理由もなく、我々の一部として在る。そのことのイヤラシサを媒介にして、我々は、灰色の未知の大地へと旅立つのだ。パイオニアの栄光は我々の上にはない。ただ、自ら踏みしめる旅程の一歩一歩が、後から来るものへの、道標となることを願って、情熱の残り火をかきたてる——。
我々と共に、明日のテロリスト、今日のパロリストになるか否か? それは、諸君ら自身の問題だ。だが、我々は、決して、いつの日か月よりの使者として還り来ることはない。もし、諸君が、白いマントのデウス・エクス・マキーナを求めるならば、諸君自身が「変身!」と叫ぶしかない。
要は、決断の問題である。
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付記:右の宣言を理論化したものが「マニア運動体論・序説」として巻末にのせてある。興味のある方には一読をおすすめする。
(引用者注)「今やマンガ状況は混迷と退廃の時代に突入した」という挑発的な一文から始まるこの運動宣言は、商業漫画に対する問題意識を提示すると同時に、漫画ファンダムの変革を訴えるものであった。とりわけ、孤立・分散している創作者や同人のネットワークを結び直す必要性が強調されている。ただし、この時点でコミックマーケットの構想は具体化しておらず、イベントとしての明確なかたちは未確定だった。

