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米沢嘉博が語る「やおい」の検証―少女は普通の恋をやめて、何故少年愛を愛するようになったか

所載『imago』1991年10月号「特集・現代マンガの心理学」

やおい」の検証

少女は普通の恋をやめて、何故少年愛を愛するようになったか

米沢嘉博(批評集団「迷宮」同人/コミックマーケット準備会代表/漫画評論家

やおいの隆盛の意味

やおい」と呼ばれているマンガのジャンルがある。少年マンガ、少女マンガ、あるいはSFマンガ、ギャグマンガといったジャンル分けとは若干ニュアンスの違ったものではあるが、その言葉はマンガファンの間には定着しており、まだ表だって取り上げられてはいないものの、数十万人のオーダーがあると考えられている。

この言葉はもともと同人誌の世界で使われ始めたもので、「ヤマなし、オチなし、イミなし」を略した言葉だ。短いページ数で既製のアニメ、マンガ、小説等の設定、キャラクターを借りて描かれるパロディ風マンガのことを、描き手達が半ば自嘲的に命名したものである。そうして、そこでは既製のキャラクターの少年達が友情を超えた恋愛、ホモSEXを行なう。つまり「やおい」とはホモアニパロを指す言葉だと考えてもよいだろう。

それが一部同人誌にとどまっていたならば、単なるマニアックなお遊びですんだのだが、「キャプテン翼」のパロディ・ブームから始まったこの流れは、「聖闘士星矢」「鎧伝サムライトルーパー」といったアニメも巻き込んで、合せると全国に一万近い同人誌サークルを生むことになってしまったのだ。さらには「シュラト」「グランゾート」「沈黙の艦隊」「ドラゴンボール」、小説「銀河英雄伝説」「魔王伝」......少女達は青年、美少年の入り乱れる作品のほとんとを「やおい」のエジキにしていった。

アニパロと呼ばれる同人誌を手がけている女の子達の半数以上がこの「やおい」系と言われており、同人誌の創り手達の数は二~三万人、読者は十万人を超えているだろう。『ぱふ』『COMICBOX』といったマンガ情報誌では、一年以上前から「やおい」が是か非かという論争が行なわれている。こうした「やおい」系の人気が、ここ数年の同人誌の隆盛を作りだしたことはまちがいのないところであり、そうした同人誌の作品の再録を中心にしたアンソロジーが、商業出版物としてここ数年かなり出回っている。

それだけではなく、「やおい」系同人誌の人気作家の商業誌への進出も目立つようになっており、八八~九〇年にかけてマンガ情報誌の人気投票で上位を占めている高河ゆん尾崎南CLAMP等は、オリジナルでも「やおい」の方法論で作品を手がけ、少女マンガに新しい流れを作り出した。「Patsy」「KIDS」「サウス」といった、そうした描き手達を中心にした少女マンガ誌も創刊され、それなりに定着している。

やおい」という言葉にこだわるならば、それは短かいページ数で「マンガ」を描かざるをえないという同人誌故の方法論であたろう。マンガは、まず設定、世界、キャラクターを効率よく説明しなければ物語を始めることはできない。少女マンガの主流を形成した「学園ラブコメ」は、日本の学園、何処にでもいる少女と少年という、もっとも世界に入り易く説明を要しない設定ということで、一つのパターンを提供していったわけだが、アニパロもまた、既製の設定、キャラクターを借りることで、いっきに核心だけを語ることを可能にした。

何十ページも描くことはアマチュアの描き手には時間の制約があって、かなり根気のいる作業だ。その点アニパロならば、工ヒソードだけを、ギャグだけを描いても成立する。2~16頁という手軽な枚数で、それなりのマンガを描けるのである。学園ラブコメのパターン《枠組》の持っていたシステムをさらに進めたものがアニパロという枠組であったのである。もちろんラブコメは一般性を持つのに対し、アニパロは既製の作品を知っていなければならないという前提があり、そのことが同人誌という特殊な場での発生という形をとったのではあるが、もはやマンガやアニメのもたらす情報空間はマスの域に近付いていた。八〇年代そのものが、マスメディアによってもたらされた情報のパロディを進行させていたことも力を貸した。

そうした枠組の中で語られ、伝えられるのは、描き手の絵のスタイルであり、ギャグやファッション、センスであり、趣味であり感性であり、妄想だった。読者によって読みとられるものも、同様である。元の絵、物語との類似性はそこにはない。あるのは、例えば「キャプテン翼」のアニパロにおいては、サッカーをやっている少年、ライバルかチームメイトかという帰属の関係という点だけである。女の子達は思い思いの自分のスタイル、絵によって、少年達に恋愛をさせる。

女の子達はホモセクシュアルな関係が大好きなのである。それは「やおい」だけでなく、耽美系と呼ばれる『JUNE』といった雑誌のマンガのテーマであり、さらに拡大するならば『花とゆめ』『LaLa』といったマンガファン達を中心に読まれている少女マンガの底流となっている。そこでは「少年」が描かれているのだ。今、少女マンガは、かつての流れにある少女と少年の恋を中心に描いた流れと少年を描く流れとに二分されてしまったといってもいいだろう。「やおい」的なものは、少女達にとって一般性を持つフィクションとして定着してしまっている。女の子たちは何故、少女と少年の恋を読むことを止め、少年同士の恋を愛するようになったか。それを検証してみることにしたい。

少年愛からやおい

少年、そして少年愛というものが少女マンガの中に現われたのは、七〇年の「雪と星と天使と」(竹宮恵子)からだと言われてる。七一年には竹宮恵子が陽気な少年スリ、ダグ・パリジャンを主人公にした「空が好き!」を連載。萩尾望都が少年のナルシスティックな世界を描いた「雪の子」、少年達だけの世界を捉えた「11月のギムナジウム等を発表。竹宮恵子萩尾望都はその時代、マンガマニア、アマチュア、プロを問わず描き手に熱狂的に支持されていき、この「少年愛」、少年の世界も大きなテーマとして少女マンガの中で浮上していくことになるのだ。

少年は天使と呼ばれた。男でも女でもない未分化の性、子供ても大人でもない不安定な時。それは「少女」を主人公にした時には描くことのできない、もう一つの世界を少女マンガにもたらした。「恋」「家」「母」「性」といった、少女にまつわる制度的なものから自由であることで、「少年」は「生」「死」「関係」といったものを描くことを可能にしたのだ。さらに、戦い、肉体関係を抜きにした友情、社会と個、といったものも少女マンガは手の内にしていった。

少女マンガにおける「少女」は、読者と繋りあい、代弁者であらねばならぬが故に、日本の社会における少女像から逸脱することができなかった。オスカル(ベルばら)は、男装しなければ戦うことはできなかったのだ。アンドレとの愛は、そのコスチュームを脱いだ時に初めて確かめあわれることは象徴的だ。外国の美少年という、虚構の存在によって、少女マンガはまちがいなく、少女の抱いていた妄想の幾つかを体現することができるようになったのである。

ここから「少年」は少女マンガの重要なテーマとなっていく。さらに青年、男性までが描かれるようになっていくのだが、描き手達の意図はどうあれ、「少年」はアイドル的な恋愛の対象として捉えられていくと同時に、少年同士のホモセクシュアルな関係は疑似恋愛として楽しまれていくことになる。七六年にはホモセクシュアルな関係、おかまといったものをギャグのネタにした、ホモホモコメディ「イブの息子たち」(青池保子)が人気を呼び、七八年には少年愛をテーマにしたマンガ・文芸誌『JUNE』が創刊されることになる。

「少年」「ホモセクシュアル」は、ロック、デカダン、SM、バロック等、それにまつわる様々なものを巻き込んで、ある意味では文学少女的な歪んだ「新少女趣味」を生み出していった。『JUNE』『アラン』、さらには『月光』『牧歌メロン』といった雑誌はおかまにくっつくオコゲというシャレから「おこげ雑誌」と一部では呼ばれるようになっていった。そうして、八〇年代に入ると、少女マンガの世界では、少年はごく当り前のものとして作品の中で主役をはっていくようになる。エイズで死んでいく少年の物語(?)「眠れる森の美男」(秋里和国)、オナニーさえ話題になる等身大の日本の少年達をリアルに描こうした「河よりも長くゆるやかに」(吉田秋生)。ジルベールとセルジュという二人の少年の魂のふれあいを描き、リアルなホモSEXシーンがセンセーショナルな話題となった「風と木の詩」(竹宮恵子)、双児の美少年を描いた「サイファ」(成田美名子)等は八〇年代を代表する大長編少女マンガとなっていった。一方、同人誌界では、七五年に萩尾望都作品等をパロディにした作品が人気を呼び、ホモパロディの流れが形作られ、七〇年代末にはロボットアニメを元ネタに、美形悪役をおちょくった多くのアニパロが生まれていった。しかし、ここでのアニパロとは、既製の作品の絵柄やスタイルを借り、ギャグネタとしてホモを扱っていたのである。つまり従来の意味でのパロディが主流だったということだ。

こうした女の子達の同人誌故の楽屋落ち遊びに対して、男の子達からロリコンというキーワードを元に、少女が弄ばれるようになると、女の子達はおじさんをネタにしたアダコン(アダルト・コンプレックス)、半ズボンの少年をネタにしたショタコン(正太郎コンプレックス)といった遊びを生み出していくことになる。

このショタコンを経て、八五年にキャプテン翼のアニパロというジャンルが登場することになる。健康的で明るいスポーツ少年達、その友情と戦いは、女の子たちによって、恋と愛の淫靡な世界へと変えられていった。ここでの大きな変化は、それまで「美少年」が主に外国の美少年であり耽美的なムードを持っていたのに対し、その辺にいる等身大の少年がホモセクシュアルとして描かれるようになったことだろう。そして、若い同人誌の描き手は、はなっから、高橋陽一の絵、アニメのキャラクター造型を真似ることをしなかったのである。

中には、日野日出志いしいひさいちのタッチでパロディにすることもあったが、多くの描き手は、自前の少女マンガ的な絵で、思い思いに「キャプ翼」をパロディにしていったのである。そして、そこに「笑い」「風刺」といったものはなくてもよかった。そこでは、少年同士の愛が恋がSEXが、シリアスに描かれていったのである。───少年同士の組み合せによって細かく派が分れていった。主流は、若島津健日向小次郎カップルでどちらが受け身かでまた派が分れたが「小次ウケ」が大勢を占めている。続くのが源岬のカップルだ。そして、ここで生み出されたパターンは「聖闘士星矢」「トルーパー」へと適用され、一大勢力を有するに至ったのである。

やおいの謎

やおい」のパターンについては『しまうまJACK』という同人誌の中で上げられているものを引用してみよう。

「例えば日向君が練習してたりするでしょう。当然おっかけがフェンスに鈴なりになっているわけだ。この時、日向君は誰の握ったおむすびなら食べるだろうかと考える。若島津の握ったおむすびをガツガツと美味そうに食べる日向君を想像して、やおいはボンノーする」

やおい的なパターンでは、若島津は日向にホモ的感情を持ってるけど常識的にはマイナーだと分っているから泣いて身をひく。すると日向君は若島津にバカヤロッてだきしめんのよ」

「攻の若島津の場合だと、料理、洗濯、そうし、ゴールキーパーなんでもてきて、日向君より一・五割り増し肩幅が広い。ついでにいたずらもしちゃおうと…」

二人の少年のホモセクシュアルな恋愛を、まさに女の子達らしい細やかさで、エピソードをつづっていく───これが「やおい」なのである。時には激しいSEXも……。それが、何万人という描き手によって、何十万もの作品として描かれているのである。何故に、女の子達はあきもせずに描き、読むのだろう。前述のしまうまJACKでは、この「やおい」について女性の立場からこう分析する。

やおい読者って変形キャラに感情移入していない? やおい読者は女性化著しい方のキャラに自分を重ねて読んでいるのよ!……どうしてこんなちんぷなスジを面白いと感じるのか分らなかったんだけど、これって女の子の願望マンガだったからなのね」

やおいってホモの実際がわからないから男女のソレにすりかえてお茶をにごしてるんだと思ってたけど、全然違った。「耽美」とは違うやおいブームは女の子のハーレクイン・ロマンスだったわけだ。もしかしてやおいにレイプネタが多いのは読者に強姦願望があるって事。レイプ願望というより破壊願望。内心では壊されたいというやつ。イノセントな顔してても腹の底では男とやりたいと思っていたりして!

女性によって、こう書かれてしまうと、身もふたもないのだが、確かに、そこで描かれるホモ恋愛は少女と少年の恋愛をなぞっているのである。少年は、服を脱がされると、あるはずもない胸を隠そうとするのだし、女性的な方のキャラ(愛される側)は、恋する少女のような感情の動きを見せる。相手の少年に向けるまなさしは、かつてのオトメチックラブコメの少女の夢見るまなざしとそっくりだし、エピソードの多くはラブコメで見たようなものなのだ。

ここにはまちがいなく「仮装した少女」がいる。人気のある描き手は絵がうまいだけでなく、少女の恋の心理、そしてそれをどう充足させていくかをうまく演出できる作家だ。それは少女マンガが連綿と描き続けてきたことではなかったのか。───ただ、それが男女の恋愛であってホモのそれではないというのは若干違っているかもしれない。

『バラコミ』というホモの為のマンガ誌で、ホモセクシュアルの男性の描いたマンガが掲載されていたが、そこでも恋愛感情は、少女マンガのそれと極めて似通っていたという覚えがある。そこでは男性が少女に仮装していると見るべきだろう

やおい」がそういうものであることは解っていたはずだ。問題は、ノーマルな学園ラブコメから「やおい」への転換の意味である。何故に少女ではなく少年でなければならなかったかということだ。少女達は少女と少年の恋愛を読むことを止め、少年同士の恋愛をより楽しいフィクションとして享楽していくことになったわけではあるが、それを男性恐怖症、イニシエーションとしてのSEXへの恐れと捉えることはたぶんにまちがっている。時代の中で、SEXは少女と大人を区分するものではなくなっているからだ。SEXしようとしまいと、少女は少女であることが、リアルなのである。

もちろん、少年愛の持つ「虚構性」は少女にとって、現実と作品、恋愛やSEXと自分、を切り離すアリバイである。少女は、自らの肉体や性に関わってこないからこそ、少年愛の内包する肉体関係、欲望について、能天気に語り、描くことができる。

自己と作品、自己と恋愛やSEXを、肉体や性の部分で切り離すこととは、男達の視線や妄想をシャットアウトする役目を果すと同時に、制度的な形での女性(少女)としての自分を、とりあえず何処かに置いてきてしまうものでもあるような気がするのだ。

そうして、やおいを演じさせられる少年達は見事に「家」から切り離されていく。親の元から外界に出た少年達は、少年達の共同体を自らの世界として生きていく。母物から学園友情物、そして恋愛と流れてきた少女マンガの中で、少年愛の世界は、学園友情物の形を換えた再生と捉えるべきだ。少女は、家と学園の間を振職してきた。恋愛とは、すなわち家を作っていく準備でもあるからだ。長い学園ラブコメの時代を経て、少女達が見つけ出した世界は、新しいアブノーマルなものであったと見るべきでない。

それは吉屋信子の「化物語」、大正末、戦後の宝塚ブーム、学園友情物と流れてきた、奇形的な共同体の中でのロマンスなのである。恋愛や結婚、SEXといったものの先に待ち受ける家庭、出産、老い、死といった予定調和的な物語を拒否し、一時の輝きに生きる物語にフィクションを見つけたといってもよい。

少女は「恋」とは自分でするものであり、読むものではないことに気がつき、そうしたリアルな形での打算や計算のある男女の恋愛ではない、非生産的な少年愛の中の純粋さに虚構を求め、積極的に参加していくことで、自らの「少女」を守ろうとしたと考えることもできるだろう。

歌舞伎、宝塚───日本はこうした一方の性をオミットした形での大衆娯楽の歴史を持つ。これらの仮構の世界の存在が、日本にゲイ文化の大潮流を作らなかった原因だとも言われている。ホモやレズ的なものが、明らかにあちら側の世界にあるといった認識を一般の中に定着させたのがそれらの大衆演芸であるということだ。そして、やおいも…

少女達のホモセクシュアルなものを扱った「遊び」は、また、少女の遊びが模倣を中心に流れてきたこととも無縁ではあるまい。お人形さんごっこ、おままごと、化粧遊び───それは母、妻、女性の模擬だ。そして、今、男達の洗練されたゲイ的恋愛、筋肉至上主義的なマッチョ風SEXといったものが、冗談で、半ばマジで、マンガという表現の中で模倣されていく。デフォルメした形でなぞられていくそれは、男性の目からは奇異に見えるかもしれないが、少女達にとっては不思議でも何でもないものなのだ。少女達は、あらゆるものを、少女にとっての遊び、少女によって演じられるフィクションへと変換し、楽しむことで、何ものからか自分を守り、バランスをとっていくのである。そこには、演じ続けることを自分に課した悲しさもあるのかもしれないが、それはまた別の問題である。

少女達は、自分が入り込めないが故に男同士の愛をガラス越しに眺める。少女は、そうしたマンガからは完全に排除される。作品の中に入り込む装置としてのキャラクターの少女は、もういらない。少女は、作品と向い合う形で、夢見ることを望む。マンガは、マニア達にとって、より虚構へと進んでいかなければならないのかもしれない。

───「やおい」についての説明、紹介にページをとられたこともあって、少女達の意識の底へと降りていくことはできなかったようだ。それは、何十万冊という「やおい」同人誌を実際見るところから始めるしかなかろう。まあ、それは、またいずれということにする。これは、一般にはまだ喧伝されていない、少女文化の大きな流れであることはまちがいないのである。

(よねざわ・よしひろ/マンガ評論家)