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蛭児神建『出家日記―ある「おたく」の生涯』解題(大塚英志)

特集・真説おたくの精神史──解題

大塚英志

今回から三号に亘って蛭児神建──というより、かつて蛭児神建と名乗ったことのある、今は僧籍にある彼の「自分史」を掲載する。

蛭児神建について説明するのは、ある意味、吾妻ひでおについて説明することよりも更に困難だ。彼は吾妻ひでお以上に忘れられた名であると同時に、吾妻ひでおがあの時代の不毛さや困難さを一方的に背負ってしまったのだとすれば、蛭児神建吾妻ひでおに唯一、しかも、過度に殉じてしまったかのようにさえ思えるからだ。

改めてページをめくってみればわかることだが、吾妻ひでおの八〇年代の作品に帽子にサングラス、白いコートというキャラクターが時に登場する。「おたく」が公然化する以前の、いわば「変質者」としての“プレおたくのパブリックイメージをなぞったこの人物こそが蛭児神建である。

そのようないでたちで実際に彼はコミケなどのイベントに現れた。彼が同人誌及び出版界における「ロリコンまんが」の起源にいかにコミットしたかは、今回、彼自身が語っているので繰り返さないが、そのような表現を公然化しようとする時、当然、人々から向けられるであろう視線を彼はそのようないでたちをあらかじめ自らまとうことで相応に自覚していた記憶がある。

それは「コスプレ」と言ってしまうほどに軽くもなく、「パロディ」というには余りに捨て身で、かといって「自虐」や「露悪」と切り捨てるにはやはり厄介で、ぼくにしてもあまり直視したくない存在であった。しかし、そのことはあの奇異ないでたちが同時代の中でぎりぎりの批評になっていたことの証しである。中森明夫が「おたく」の語をもって外からコミケに集う人々をカリカチュアライズするより前に蛭児神建の異装は既におたく自身による「批評」としてあったことは事実として記しておくべきだろう。ぼくにとっても彼の異装は目を逸らさずにはおれないほどには充分に厄介なものだった。だから、ぼくの中にぼんやり残る最後の彼の唯一とも言ってもいい記憶は、かがみが逝った日かその翌日、白夜書房かどこかで彼とすれ違って会釈とも目礼ともつかない挨拶をかわした一瞬である。

吾妻ひでおの許に集まった創世記のロリコン/美少女まんがの描き手たちは、その後にやってきた世代に呑み込まれる形でフェードアウトしていかざるを得なかったが(たいてい新しいジャンルやスタイルのおいしいところは二世代ぐらい後にやってきた一群が全てさらっていくものだ)、その中にあっても蛭児神建の消え方は吾妻ひでおとは違う形でぼくたちを困惑させた。ある時期から、殆ど都市伝説のように蛭児神建は出家したという噂が繰り返し囁かれたのである。それは話としては出来過ぎていて、正直、ぼくは信じられなかったが、彼の話が出る度に、誰もが彼は出家したらしいと言い、しかし、噂の出所はわからなかった。確かに彼のあのいでたちは「おたく表現」の業の深みみたいなものを誰から言われたわけでもないのに一方的に背負ってみせたようなところがあったから、彼が出家した、というのは半分は出来過ぎた冗談として受けとめられ、しかし、半分はもしかしたら一人ぐらいそういう生き方をしてくれてもいいという勝手な願望が同時代のどこかにはあったのかもしれない。

だから『comic新現実』を始めなければ、あるいは彼の記憶は一編の都市伝説の如き挿話のようにのみ、ぼくの中にあったままだったはずだ。

しかし、前号で、二度めの失踪からの帰還以来、久しぶりに吾妻ひでおに会いにいった時、思いがけなく彼の名が出た。突然、手紙が届いた、誰に見せてもいいと書いてあるので、と言われ、コピーを渡された。全く、目の前にいる『失踪日記』の作者を直視するだけでも難儀なのに、蛭児神建の「現在」といきなり心の準備もなく再会したのだ。
手紙には彼のかつての名とは違う名があり、それは僧侶としての彼の名だ、と手紙にはあった。

つまり、彼は本当に出家していたのである。都市伝説などではなかったのである。そして、彼が自らフェードアウトしていった決定的なきっかけの一つがかがみの死であったことのくだりを読んで、ぼくは腑に落ちた。

ぼくは彼の死をきっかけにぼくの雑誌を殆ど「自殺」させたが(何しろ、勝手に休刊宣言して、取次で大問題になった)、それはもう、ここにいてはいけない、という感情に突き動かされていたからだと思う。しかも「ここ」ではないどこか、とは、具体的な場所ではなく、ああ、もうそろそろ歳をとらなくてはいけないのだなあ、という諦念とも決意ともつかない感覚であった。

雑誌を「自殺」させたことを今も恨んでいる書き手がいることも知っているが、しかし、ぼくも彼らもいつまでも「ここ」にいても仕方がない、というのが、かがみの死のぼくなりの受け止め方だった。

蛭児神建は直接、ぼくの雑誌に関わってはいなかったが、殆ど冗談のような企画であった「ロリコンまんが誌」なるものがなまじ売れ、版元やそこに集まった人々の目の色が変わっていく中で、かがみの死はやはり、物事の潮時を教えてくれていた。「冗談」には引き際がある、と。

蛭児神建もまた、かがみの死をきっかけに、あの場所から「出て」いったのだが、しかし、彼は文字通り「出家」していたのである。それは充分にあのばかげた時代に筋を通していたのだといえる。

今号から三回に亘って連載する彼の手記の原型は、吾妻ひでおの勧めによって書かれたものである。前号を出した後、ぼく宛に届いた。吾妻ひでおが書くことを勧めた、と記されていた。一読して、これは載せないわけにはいかない、と思った。

1つは当然、時代の証言として。「萌え」的なものの一番の起源についての当事者の証言は一次資料として極めて重要だ。ぼくは『おたくの精神史』を書いた時、同時代についてのいくつもの証言が出てくることを望む、と記したが、今のところそれは出てきていない。その意味で、まず、公にする価値がある。ぼくの本が「正史」になっては困る、というのはあの本のあとがきにも書いたとおりである。しかし、それ以上に、その後半の彼の生き方についての告白はやはりあの時代にあった者は受けとめておく責任がある、と感じたからだ。

若いライターの中には吾妻ひでおの『失踪日記』をぼくが同時代の記憶の中で読むことが気に入らない者がいるようだが、しかし、それは彼らが自分たちの時代の中でさえ受け止めるべきことがらを受けとめそこなっていることの言い訳でしかない。彼らの時代にも吾妻ひでお蛭児神建として生きてしまう者は多分、いるはずなのだ。

繰り返し記すことになるが、吾妻ひでおにせよ、蛭児神建にせよ、失踪したり出家したり、その事実そのものを「おもしろがっ」てみたところで、あるいはそのこと自体を持ち上げてみたところで、そのことに何の意味もない。「おもしろがっ」たところで、おもしろがれない何ものかがごろりと残る。

重要なのは、そのことばや存在がごろりと投げ出されている地点から目を逸らさないことだ。無論、読者が単に「おもしろがり」として興味から手を伸ばしてもかまわないが、その点で彼らはそのあたりの「文学」よりはるかに「芸」にも長けているし、しかし、多分、おもしろがるだけでは許してはもらえないことばにし難い澱みのようなものがあなたの中に残ってしまうはずだ。「おもしろがること」や「評価すること」といったスタンスは結局は異物としてのそれにただたじろいでいるだけであり、ならば素直にたじろぎ、ただ屈託を澱みとともに呑み込むことの方が大切だ。

呑み込んだ澱みはいつかそれぞれの読み手の中でそれぞれのことばになるはずだ。そして──。あとはどうしようもない。蛭児神建は雑踏の中で時に托鉢僧としているともいうから、街中で托鉢を見かけたら、彼であろうがどうかお構いなく、ポケットの小銭を喜捨でもして、しばし、マザー・テレサ好きの彼へのリスペクトとして世界の平和についてでも祈ろう。

蛭児神建は、ヤクザあたりが外国人に僧侶の格好をさせてお金を集める困った商売の人もいると笑っていたが、間違って偽托鉢僧に頭を垂れてしまっても、それはそれで悪くない祈り方だと思うのだ。

所載:大塚英志責任編集『comic新現実』Vol.4