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楳図かずおはゾクゾク毒電波だ(山野一エッセイ)/所載『図書新聞』1995年6月10日号

楳図かずおはゾクゾク毒電波だ

山野一

「身も心もボロボロになって、ようやく最後のページを閉じたとき、聡明な少女は気付くだろう。その作品がかくも自分を魅きつけたのは、その世界が実はずっと昔から自分の中にあり、自覚されずにいたものだからということを」(談)

あのくせっ毛頭の中にあっちの世界を見通す能力と冷徹な知性。さらにボランばりのパンタロンスーツで「まことちゃん」。つまりこのヒトはすでに...

「へび少女」「まことちゃん」「漂流教室」...。

日本中の深層に恐怖と笑いのトラウマを植えつけた漫画界の鬼才・楳図かずおが作家デビュー40周年を迎えた。その楳図ワールドのポップ、ハチャメチャ、無間地獄をめぐる漫画家・山野一氏のエッセイ。

 

もうどう見てもウメズカズオッ!

私が初めて接した楳図作品は、少年サンデーに連載された漂流教室だった。少年誌に掲載されているのが信じられない程シリアスな内容。独特の、一目見たら忘れられない絵。それは他のどんな作品とも明らかに異質の、特殊な電波を放っていた。当時小学生だった私はすぐその電波(たぶん毒電波)に当てられ、まるで売人を待つシャブ中患者のような気持ちでサンデーの発売日を待ち、なけなしの小遣いで作品集を買いあさるハメになった。

氏はよく異色の漫画家と評されるが、それはコピー作家がいないことをみても解る。普通人気漫画家は後進の漫画家にマネされるものだが、楳図かずおのコピー作家というのを私は知らない。大体絵一つとっても特異過ぎる。もうどう見てもウメズカズオッ!

画面はすみずみまで、その病的なほど神経質な線で埋めつくされている。氏が空間恐怖症で、激しい脅迫観念に責め苛まれながら、ガリガリ描いているのではないかと心配したくなるほどだ。これはコピーできまい。しかしマネできない最大の理由は、氏が作品を生み出す姿勢そのものにある。

漫画家には大雑把に分けて、二つのタイプがある。それは自分が表現したいものを描くタイプと、読者が読みたいと思うものを描くタイプ

しかしまあ現実には完全にそのどちらかということはありえず、すべての作家が、二つのタイプの間のどこかに位置していると思われる。

今の漫画の主流は、絶えず読者の意見を聴取し、作品にフィードバックさせるという出版社の方針どうり、後者のタイプに大きく傾いている。最もその傾向が強い出版社では、人気漫画のスジそのものが読者の要望で変更されるらしい。悪く言えば作家が、お手軽で日当たりのいい快楽ばかり求める読者の、奴隷に成りはてたということだ。コピー作家が氾濫するのは、この漫画の質の構造的な非個性化、陳腐化によるものだと思われる。

 

ある種、神話に通じる高貴さと普遍性

ところで楳図氏はどちらのタイプに近いのか?

少なくともご自身の中では限り無く前者に近いと想像する。普通作家の傾向が前者に近づけばそれに比例して、またその個性が強ければ強いほど、人気はなくなる。しかし楳図氏の場合、この図式は全く当てはまらない。極めて特異な個性をいかんなく発揮し、なおかつ四十年もの長きにわたり、常に漫画界の第一線で活躍されているのだ。これはもう私のような、常に漫画界の最底辺で蠢いてきた者にとっては、驚異以外のなにものでもない。

ではどうしてそんなことが可能なのか?

それは氏の作品が、他の漫画とは全く違うプロセスで読者にうったえているからだと私は想像する。ありきたりな漫画がファーストフードで、読者の舌先で味わわれるものとするなら、楳図作品はさしずめベニテングダケといったところか。暗い森にそそり立つ、見るからに気味の悪いその毒キノコを読者はなぜだか口にせずにはいられない。飲み下されたその菌類は、直接五臓六腑に染み渡り、その者の意識をも変容させずにはおかない。

例えばいたいけな少女が、洗礼の一ページ目を開いたとしよう。その陰鮮な絵に、忌まわしい展開を予想しつつも、もうページをめくって読み進まずにはいられない。なぜならこの時すでに彼女は、画面から放出されている楳図電波に支配されているのだから。泣き叫び目をおおっても、そのおおった指のすきまから、次のコマを覗いている。驚き、おびえ、身も心もボロボロになって、ようやく最後のページを閉じたとき、聡明な少女は気付くだろう。その作品がかくも自分を魅きつけたのは、その世界が実はずっと昔から自分の中にあり、自覚されずにいたものだからということを。

こんな魔術師みたいな芸当ができるのは、氏が人間の心の世界に精通しているからに他ならない。どんなに異常で残忍で、見るもおぞましい修羅場が画面をおおいつくしていようとも、作品を通して見たときそこに、ある種神話に通ずるような高貴さと普遍性が感じられるのはそのためである。氏が自身の心の奥底、おそらくは深層心理と呼ばれる領域まで踏み入っておられるのは作品の様々な描写からも一推測できる。

例えば『神の左手悪魔の右手』に見られる、精神と現実の溶解融合、そしてもう明らかにドーパミン系の論理の飛躍等々…。これはもうあっち側まで突き抜けちゃった人しか知りえない世界だ。そしてさらに、私がすごいと感じるのは、これら収拾不可能とも思えるモチーフを、みごとに構成構築し、説得力ある完成度の高い作品に仕上げているということだ。

あっちの世界まで見通す能力(右脳系)と、蛇のように冷徹な知性(左脳系)が、あのくせっ毛頭の中に同居しているのだ。そんなお方が時には、マーク・ボランばりのパンタロンスーツでまことちゃんを描いたりもするのだから、もうほとんど人間の域を越えている。

 

深層心理という化け物

ところで私は過去に何度か、深層意識の世界をかいま見たことがある。ものの本に書いてあるとうり、そこはとほうもない、圧倒されるような世界であった。様々なビジョンが次から次とすごいスピードで現れて、あっけにとられ、身じろぎもできないまま、ただどんどん流されている…、そんな感じだった。もっと奥まで行くと、入ったら最後うっとりして二度と帰りたくなくなるような天国や、阿鼻叫喚の無間地獄が実在するそうだ。実際キャリアを積んだセラピストも、そんな領域に沈潜する場合は、同僚に誘導してもらい、危なくなったら引き戻してもらうという。

そんな物騒な世界に不用意に、あるいは不幸にして深入りした者は、まず例外なく現実への適応力を失っていく。それは例の教団の、ヘッドギアをつけたような方々の例を見ても明らかだ。現実の存在が信じられなくなり、ひたすら幻想世界に沈潜したあげく、悲惨(ご本人にとっては至福か?)な末路をたどる。私のまわりにもそんな人がたくさんいる。ある人はインド方面に旅立ったまま消息が知れず、またある人は十年来ビョーインで壁を見つめている。そしてある女性漫画家は、謎のような遺言を残して、団地の十一階から飛び降りた。

ミイラとりがミイラ、自分のアイデンティティーが、深層心理という化け物にいともたやすく飲み込まれてしまうのだ。

しかし、実に四十年もの間、人間の狂気を見つめ、テーマの主軸にすえてこられた楳図氏が、ご乱心なさったなどという話は聞いたことがない。あの重厚な作品世界を構築した大作家が、なんだかもうあっけない程ひょうひょうとしておられるのだ。けだし天才とはこんなもんかもしれない。とほうもないことを実に無造作にやってのけるのだ。

私にはこんなビジョンが浮かぶ。普通の人ならたちまち喰い殺されてしまうであろう獰猛な猛獣。そして襲い来る猛獣のキバやツメを、ひょいひょい気軽にかわしつつ、強靱なムチをふるって手なずけてしまう猛獣使い。

天才とキチガイ紙一重、という言葉がある。

巷に溢れるあまたのキチガイ諸兄が、全員天才であるなどということはありえない。しかしその逆は、アインシュタインやダリの例を引くまでもなく真理であろう。ところではなはだ失礼ではありますが、楳図かずお氏ほどこの、天才となんとか…という言葉がふさわしい人物はいないと、私は思うのである。(漫画家)

 

所載『図書新聞』2249号(1995年6月10日号)