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【ぼくら語りの起源】高宮成河「なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?」(所載『まんがジャーナル』創刊号/1973年5月4日発行)

要約:なぜ、ぼくらはそれでもまんがを読むのか?

コミックマーケット創設メンバーにして「迷宮」の御意見番(バックボーン)でもあった高宮成河は、迷宮結成以前の1973年、批評同人誌『まんがジャーナル』を創刊した。その巻頭辞「なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?」で彼は「まんがは面白いから読むのではなく、“まんがであること”自体が読む理由だ」と述べている。

また、そうした意識を内在化させた自分たちを“純粋まんが世代”と位置づけ、「ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらだ」とまで言い切った。

批評を抜きに、まんがと分かち難く結びついたこの感覚は「まんが世代を自任するまんがファンが何であり、また何をなしうるのか」を運動理論として取りまとめた「迷宮」のマニフェストにして初期コミケットの理念でもある「マニア運動体論」の原型になったと推測される(亜庭じゅん主筆だが、高宮による助言も相当あったという)。

以下、要約と本文を掲載する。「ぼくらのまんが」はここから始まったのだ。

①まんが批評への違和感から出発

高宮は冒頭、「まんが批評なんて必要ない」とする大方のファンの声を紹介しつつ、自らが文字だらけの『まんがジャーナル』をつくる動機を説明する。
批評を否定する声の裏には「今までの評論は面白くなかった」という不満があり、実際はファン同士が熱く語り合っている。そのことから、既存の評論とファンの実感との間にズレがあると主張する。

②そのズレの正体:「純粋まんが世代」としての自覚

評論家たちと自分たちの違いは、まんがを同じ意味で所有できていないことにある。
高宮たちは「まんががオモシロイから読む」のではなく、「まんがだから読む」。優れているかどうかではなく、まんがであること自体が読む理由となっている。

③「まんがこそ」という感覚:まんが化した精神の自覚

彼らは、ある朝ふと、自分が「まんが的精神」に覆われていることに気づく。そして、まんがを読むというより、まんがそのものになっていると感じている。
そうした感覚の中で彼らは、「まんが」という言語で構成された世界を内面化しており、それが彼らの現実=「第二のリアリティ」を成している。

④「第二のリアリティ」とは

  • まんがについて語り合うファンの間にだけ成立する特殊なリアリティ

  • ラーメン店で立ち読みするような“たかがまんが”という醒めた視線も内包

  • まんがにどっぷり浸かりながら、それを突き放して見る自分もいる——二重性

⑤ズレを生む3つの論点

評論とファンのズレは、次の3点で生じていると高宮は述べる。

  1. 評論の背後に「第二のリアリティ」があるか

  2. 扱う作品が「まんがであること」をベースにしているか

  3. 「たかがまんが」と言えるような、醒めた視線を持っているか

つまり、現実のリアリティ(政治・思想・芸術性など)だけでまんがを評価する姿勢は、ファンの実感と決定的にズレている

⑥ファンの資格:まんがと一体化した世代

高宮は、まんがを「共犯関係」として語る言説(当時の流行)すらも否定する。

「ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらだ」とまで言い切る。そこに“犯”の意識すらない。ただひたすらに、まんがと無媒介に結びついているのだ。

⑦「まんがエリート」としての意識と「第一のリアリティ」不要論

まんがが自分のために描かれている」くらいの意識で作品を読むのが、まんが世代の感覚。現実の社会性や芸術性は“第一のリアリティ”にすぎず、自分たちの中に構築された“第二のリアリティ”こそがまんがを支える基盤である。

⑧結論:「なぜ」という問いは不要

あしたのジョー」が終わっても、まんがだから読む。作品の出来・不出来を超えて、「まんが」であることそれ自体が読む理由だから、問いは無用。「ぼくらは それでも まんがを読むのだ」——それが答えである。

補足

高宮は、評論に否定的なのではなく、「まんが世界を内側から語る批評」が不在なことに問題意識を持っている。そのため「まんが=たかがラーメン」という比喩を冷笑ではなく肯定的に用い、二重の感覚を受け入れる懐の深さも本稿では示されている。

以下、本文。

(所載:どくろ仮面社『まんがジャーナル』Vol.1/1973年5月4日発行)

題名に反して、この文章はまんが批評のことから始まるのだ。何故かと云えば、まんがジャーナルは御覧のとおり文字ばかりで、まんがに関するゴタクをいろいろ並べている小冊子だ。そしてぼくの限定されている、まんがに関するつき合いの中での大方の意見と云えば、「まんがに関する批評なんて必要ないサ、要はまんががオモシロけりゃいいんだ」というヤツなので、一応ぼく、あるいはぼくらがどうして、どんな立場でこの本を創ったかを説明する必要があると思うからだ。

上記の意見の裏ガワには、まんが評論(又は批評、又はゴタク)の全否定ではなく、ただ単に今まで発表されてきた、いわゆるまんが評論なるものは全くオモシロクないという気持があるような気がする。現にそう云う人間に限って、同様のが二・三人集まると、かなりノッてまんがについて話をしている。つまり手短に云うと、横行しているまんが評論と、ぼくらがまんがについて考えたり感じたりしていることと、かなりのズレがあるということだ。

では、そのズレは一体どんなものか?と考えてみれば結局のところ、彼ら(評論家諸先生)とぼくらとは、まんがを同一の意味で所有できない。云い切ってしまえば、ぼくらは面映ゆくも純粋まんが世代であり、彼らはそうじゃないということになるのだ。

さてそれでは彼らとぼくらとはどう違うのか、と云っても、ぼくらは彼らをよく知っているワケじゃないから、主にぼく、あるいはぼくらについて云いたいと思うんだ。よく知らない彼らを引きあいに出して、よく知らないことを云っても仕方ないじゃないかというムキもあるかも知れないが、現実に彼らのまんが評論とぼくとの間にズレを感じていて、そのズレの内容はこうじゃないかナという風に考えているだけなので、アシカラズ。いよいよ本題に入る。ぼくらは大量に発表されるまんがを買い読み、立ち読み、貸り読みして消化し、消化しつつある世代だ。別になんていう理由はない。ただ、それがまんがである限り消化し続けている。ここで「マンガである限り」という言葉が重要だ。

突然、引用を開始する。

現代において、自己を表現するために、我々が、たちむかう芸術は多様多種である。それは絵画であり、文学であり、映画であり、カメラであり、音楽である。そしてここに明確に漫画が加わるのだ。かつて「漫画など」と云われた(今でも30以上の老寄連はそう云うのだ)ものは、いまやわが世代にとっては「漫画こそ」なのだ。*1

「漫画など」から「漫画こそ」への推移。つづめて云えばこうなるのだが、この言葉に含まれている或る種の気負いを別にして、こんな風な認識が、当然の事として、逆に云えば認識されるまでもないから、ぼくらは純粋まんが世代と云い得るのだ。ぼくらは特定の作品、各様の意味で優れた、あるいはオモシロイ作品のみを(勿論、優れている、オモシロイとは認めながらも)それだけの理由で読んでいるのではない。それよりも、もっと大きなエモーションで、それらが他ならぬ「まんが」だから読むのだ。簡単に云えば、そのまんががオモシロイ、オモシロクナイというのは二の次だ。最初にそれが「まんが」であることが必要なのだ。

ぼくらは、ある晴れた朝突然に、まんがが自分にとって、あるものからあるべきものに変化しているのを自覚して、ガクゼンとするのではなくニヤリとする。そして自分とまんがとがイヤラシイ程ピッタリくっついているのに気づいてヒヒヒと笑い出す。文体を変えれば、その時ぼくらは、日々消化されるまんが作品を材料に、そしてすでにまんが化してしまった精神によって支えられる或る透明な結晶化した世界を所有し、またその世界に所有されてしまっている、ということになる。

その世界は、「まんが」という言葉をベースとして総ての意味と価値が決定される。解りやすく云えば、まんがファンが、二・三人集まって、マンガについて談合しているとする。(別にヨタ話でも構わないのだが)そいつを離れて眺めると、彼らだけの世界を構成してるのが解る。それは彼ら、当人どおしの間にのみ(換言すれば、まんが世代にのみ通用する)話の内容を意味づける特殊なリアリティが存在するということだ。そこで、この特殊なリアリティを、ホイジンガが、遊戯という純粋で透明な世界に名づけたように「第二のリアリティ」と呼ぶことにする。別に気どってカッコよく「第二のリアリティ」と云わなくてもいいと思うのだが、或る概念に対する適当な条件がなくちゃ先に進めないので、当分これで押すことにするのだ。

「第二のリアリティ」について注意することがある。又々引用すれば、

まんがはラーメンか、という疑問があります。まんがとは、中華料理屋に入って、そこでつんである雑誌を、ラーメンをすすり、おつゆを飛ばしながら見るものか、ということです。或る意味では、まさにその通りだ、と云えると思います。痛烈な反語の意味で“たかがマンガじゃネェか”とほざいてみるのも我々に取っては必要なのではないでしょうか。*2

という、はなはだ醒めた意識が、「第二のリアリティ」の底には或るということである。「第二のリアリティ」の中に居る時のぼくらは殆ど二重人格者だ。「第二のリアリティ」つまり、まんが世界に頭までつかっている自分と、そんな自分を醒めた目で見ている自分とが、ほぼ同時に存在している。「たかがマンガ」と云いながら、その言葉に或る重さをこめて使用している筈だ。

さてここでようやく、先行横来する各まんが評論にもどることができる。それらとぼくらの間にあるズレは、つまり(一)この「第二のリアリティ」が各評論の言葉の裏にあるかないか、(二)又は、各まんが作品を扱うのに、そのベースとして「第二のリアリティ」が存在しているのか、(三)それに加えて「たかがマンガ」と云える醒めた目を所有しているかどうかによって発生してくるのだ。くだいて云えば、まんがが民衆の武器であるだの、戦後社会と漫画だのといった、現実のリアリティのみをベースとして、まんがを評価・評論するといった態度は、ぼくらにとってもはやナンセンスなのだ。とは云っても、ぼくらはそれらの態度を全く否定しようというのではない。問題は、まんがを現実のリアリティのみを基準として、評価・評論するというところにある。

もっと砕いて云うなら、ある一つのまんが作品を優れているというだけの理由で批評・評価したなら、つまり例を挙げれば、一人の美術評論家カムイ伝を、美術的、文芸的、思想的etc.に優れていると批評したなら、それはぼくらとは決定的にズレているのだ。彼がカムイ伝を優れていると認めると云うことは、云いかえると、カムイ伝が彼の精神世界の一角に有意味な位置を占めるということだろう。しかし、その精神世界が、美術的、文芸的、思想的etc.なもので、まんががその要素として構成する世界でない限り、その批評・評価は、ぼくらとは永遠に無縁だ。そしてそのような批評をぼくらは僭越だと決めつける。どのような資格で?

ぼくらは、まんがをあるべきもの、共通言語として自覚しているということと、過去から現在まで、それが優れている・いないに関わらず、まんがだからこそ読んできたということ、加えて現在、自分の存在の主要素として、まんがという語を軸とする世界を所有しているということにおいてだ。

ぼくらは、まんがとぼくらとの共犯関係という言葉*3も振り切ることができる。ことさら共犯などという、まんがとぼくらとの間に電位差をつくり出し、使用しなくとも、ぼくらはまんがとはもうスキマなくくっついているのだ。共犯という言葉は醒めた、或る行為が“犯”であると認識する意識という内容を含んでいる。ところが、ぼくらは、まんがと一緒に行動するだけなのだ。一緒という言葉はもうここでは使えない。ぼくらはまんがであり、まんがはぼくらなのだから。つまりぼくらは全く“犯”を意識しない。イヤしなくてもいいのだ。たとえ、他者が側で見ていて、それは“犯”だと云ったとしても……。それに開きなおって云えば共犯関係なんてコトバは、まんがに対して使用するにはイササカおおげさすぎるのだ。

又もや危険を覚悟で云い切ってしまえば、まんがに関して「第一のリアリティ」は必要ではない。「第二のリアリティ」をベースとして、発表されるすべてのまんが作品は、ぼく個人にのみ発表されている。ぼくは絶対君主の立場ですべてのまんが作品に臨むのだ。だからぼくらは、純粋まんが世代であり、エリートなのだ

あしたのジョー」が終了して、他に見合うだけの看板作品がない少年マガジンは、ある程度、発行部数が減少するだろう。しかし他ならぬそれがまんがだから、なお読みつづけている人達、その人達は「あしたのジョー」を読みつつ、それ以上に「まんが」を読んでいたのだ。そしてその人達は、ぼくらと世界を共有している。

なぜ ぼくらは それでも まんがを読むのか?

その答は、いささかギマンめくのだが、「なぜ」という言葉は、ぼくらには必要ない。ぼくらは それでも まんがを読むのだ。と云えば、それで十分なのだ。

'73・4・29・朝 

*1:『白痴有無』8号、岡崎義和《書評》宮谷一彦・性蝕記

*2:『まんがのむし』通巻9号 青木治道・編集後記

*3:『まんがコミュニケーション』斎藤次郎・まんがコミュニケーション宣言