Source:『月刊OUT』 1982/6/1
アニメ★ジュンの大発見/プティ・アンジェ狩り——ことのついでの物語——
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某アニメ雑誌で”プティ・アンジェル研究なる記事をみつけた。それもカラーだ。
——一体どうなってるんだろう!ロリコン・ブームの流れに沿ってとはいえ、かのダ作「女王陛下のプティアンジェ」を一応マトモに取り上げている。どうして?「プティ・アンジェ」を流行らせたのは吾妻ひでおだけれど、あれは彼一流の、冗談じゃなかったのか?
——技之一・ロリコンとはタマネギである——
冗談と本気の区別もつかず、ブームが一人歩きを始めている。もともとブームとはそんなもんだが、まんがとアニメにとりついて増殖し続けるロリコンが、どんな腫瘍(しゅよう)になろうと知ったことではない。かといって悪性のそれ、すなわちガンになってまんがやらアニメを蝕むことだけは願い下げだ。
だから、現在ロリコンて何なのさ?とその輪郭だけは、はっきりさせておきたい。ロリコンが病気なら、処方箋はともかくカルテだけは作っておくべきだと思うから。
で、少女をではなくロリコンを裸にする。
まず、ロリコンとはロリータ・コンプレックスのことではない。
”ロリコン・アニメファン、幼女を誘拐!”なんて記事には、お目にかかった事もない(この先は知らんけど、やるなよ!)。あたりまえだ。アニメのロリータ・キャラ、美少女少年まんが、ロリコン劇画のファンはいても、町の少女を追っかけ回してるファンなんかまずいないだろうし、いたところでその手のアニメ、まんがファンが仲間とみなすとも思えない。はえー話、自称ロリコンなる連中はブラウン管やスクリーン、ページの上のキャラに恋こがれる限りにおいて、正確にはロリコンというよりフェティシスト(物神嗜好者)なのだ。
空想のなかで、もて遊べる対象にコーフンするのだから、ついでにナルシス(自己愛主義者)の変形でもあるだろう。実体の無い虚像(もしくは描かれた実像)を追いかけるのだから、その嗜好は無意味を承知のエスカレーションを無限に続ける他はない。こんなことはやる者の勝手であっても、他の者に対してだからどうだといえるものじゃあない。一人ごっこに徹するのがキャロルセンセー以後の正統派ロリコンなら、自称ロリコンと声を限りのアホたちにはゴクローさんというしかない。
そして、正統派であろうとなかろうとロリコンが行きつく先を持たないタマネギ・ゲームである事には変わりはないのだ。ロリコン・ブームというなら、ロリコン=ブームという言い方自体ひどい矛盾ではないか?
——技之二・ロリコンとは“アニメ”である——
アニメーションなんて言い方が一般的に使われる様になったのは、案外最近の事だ。それまでは動画といった。
ロリコンもこれに似ている。
ロリコンなんてコトバが出回る様になってから、アニメ美少女やそれに夢中の若者たちが、いっそうクローズ・アップされる様になってきた。けれどそれ以前にロリコンにあたるアニメ、まんがファンがいなかったわけでももちろんない。雑誌連載の頃からウランを見ると目の色を変える手塚治虫のフアンなんてザラにいたし、ヒルダだってそうだ。ただの美少女キャラ好みのまんが、アニメファンにすぎない。
それが現在の美少女のためにアニメ、まんがをあさるファンへと変質(!?)していったのは、まさしく。”ロリコン”というコトバによる。美少女大好き少年がロリコンなるコトバをテコに、自分をロリコンと逆定義したときから、彼は美少女しか目に入らない少年に変わったのだ。こうなると彼は自称ロリコン"をとなえ続けるしかない。ロリコンという名刺を持たない彼は、ただの少年でしかないからだ。
これが少年でなくても少女でも、オジンでもいい。もともとカワユク描かれた美少女がキライなアニメ・まんがファンなど殆どいない。だから、個人名の他に何か自分を特徴づける呼称を持たないと不安な人にとっては、ロリコンは最もたやすく手に入るパスポートなのだ。誰でもなれるロリコン。
キイワードの発見こそ、ロリコンをブームにのしあげた原因ではないだろうか。だとしたら自称ロリコン諸氏よ、ロリコンとはしょせんポーズなのだ。
吾妻ひでおが『プティ・アンジェ』とひとこと言えば、冗談かどうかも知らずワッと群がる。あげくの果てに、アレはすごかった——などと言いだすのだ。確かに処方箋など、書けるわけもない。誰かのセリフではないが、バカにつける薬はない——のだ。
——技之三・ロリコンとは商品である——
だからといって、ロリコンファンだけ責めるわけにもいかないかもしれない。流行ると見れば、それ、ロリコン特集だの、あげくの果ては雑誌丸々の特集号まで作ってみせる(一応、ちょっと種類が違うのでロリコン写真誌は別にしておく)。あおる方だって悪いといえば悪い。そーゆー意味ではOUTでもやっているのでデカイことは言え反ロリコン・キャンペーン(?)同時掲載してるので、マシな方だとは思う。
でも、総じて、まんが、アニメの美少女キャラ・カタログを作ってロリコン!ロリコン!と騒いでいるのだから、単なる商品以上にロリコンをマトモに扱ったものが、どれ位あるかということで、同罪といってもいいだろう。
こうしてロリコンは、マスコミレベルへと上昇(?)し、自称ロリコンすら不要になり、ちょこっとラナがかわいいなんて言おうものなら、即、ロリコンというムードが広がってしまった。そうなると又ぞろ雑誌が、まんがやアニメに関係ないたぐいのものまで、いいネタとばかりに飛びつき、その読者にまたロリコン命名症候群が伝染する。悪循環なのだ。かくてロリコン評論家が出現し、コミックマーケット?ああ、ロリコン同人誌の?ということにあいなる。そして悪循環と知ってなお、それを歓迎する雑誌、自称ロリコンファンらによって、ロリコン本来の意味も姿も完全に空中分解してゆくのだ。
この過程は美少女への道を聖化するどころか俗化し、手アカだらけにするものだ。美少女たちは君臨するのではなく、あくまでもて遊ばれているにすぎない。
——技之四・ロリコンとは物語・・・ではない——
少女まんがファンがロリコンとの間に一線を引くのは、少女まんがの絵そのものが少女の肉体のみの表現ではないからだ。大島弓子の絵ひとつとってみても、あのかぼそい線が少女という存在を抽象的に示すサインであり、物語とのからみのなかに少女の存在を浮かび上がらせてくることで、読者を魅了するのだ。
それに対して、自称ロリコンの目指すものは直接的に少女の肉体であり、アニメキャラの簡略な輪郭線であろうと、そこにさぐるのは美少女の身体のふくらみなのである。
そうなると物語はあくまでオマケであり、少女の体を描く口実にすぎない。
少女まんがが、少女のための、という前置きつきで様々な物語を語りだすのに比べて、ロリコンまんがは少女の体にからめて、物語を語ることしかできない。
それですら、吾妻ひでおら、それをできる作家の数が少ない以上、ロリコンにとって物語は事のついでに語るべきものにすぎない、といってかまわないはずだ。ロリコン作品の大半は美少女お絵描き帳であり、そのテクニックの優劣だけでもてはやされるロリコン作品の増加は、確実にまんが及びアニメからの、物語の、さらにはまんが及びアニメそのものの退却を教えている。
まんがもアニメも美少女を描くただの道具にすぎないのだ。
たとえば、吾妻ひでおは物語をパロディとして語る。その彼が物語のツマにちょっとシャレとしてさしはさんだプティ・アンジェが、いつの間にかロリコンファンの信仰の対象になっている。それもまたロリコンファンの冗談であるとしても、アニメファンにとっては立派に悪質な冗談であることに違いはない。
美少女キャラのカワイさとアニメのオモシロさとが持つ関係というのは、ささやかなものでしかないからだ。ボクの見たいのはあくまで第二第三のクラリスではなく、第二第三の『カリオストロの城』なのだという事をはっきりさせておきたい。なのにクラリスが先だというなら、あとはこう返すしかない。くたばれ!ロリコン!
(協力・霜月たかなか)

