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雑誌周辺文化研究互助

【コミケ前夜とCOMの残滓】高宮成河「時は流れて日が暮れる――遙か彼方のCOMに寄せて――」(所載『いちゃもん』No.3/1975年8月2日発行)

10年はひと昔というけれど、それなら5年前だと半分昔で、それ以前ならもっと昔なのだろう。

COM創刊の時点は最早「昔」という言葉に含まれつつあり、ぼくらにとってCOMは徐々に時の暗闇の中に姿を消しつつある。今ぼくらにとってCOMを語ることは、奇妙な苦痛と少しばかりの恥ずかしさの入り混じった懐旧の念を伴わせる。現在大学生である連中は、高校生の時にCOMに接しており、結構青くさい熱っぽい感情でCOMを読んでいたことにより、ぼくらはCOMの世代だと胸を張って言える資格は十分なのだけれども、誰もそう言おうとはしない。逆にCOMを意識的に忘れ去ろうとしているようにも思える。それは後期COMの醜態と、アホらしい論争、そしてそれを見ていた自分という構図がもたらす白けた開き直りの結果なのだろう。だが何はともあれ、COMはもう過去のものだ。時々気の向いた時に想い出すだけで十分なものとして静置しておきたいと思う。

けれど、そのような気持ちとは別に、ぼくらにCOMを単なる過去として置き去りにすることを許さぬ何かが存在することも事実だ。ぼくらは未だCOMを振り切ってはいない。そうさせる力は恐らくCOMの内に、ぼくらが何を見ていたかに拠っている。ぼくらがCOMを振り切り、その上でぼくらなりの第一歩を踏み出すためには、COMをひとつの座標系の中に位置づけねばならない。

ぼくがCOMに終始見続けていたのは《ぐらこん》の問題に外ならない。ここで《ぐらこん》と言うと、何を今さら……と言う声が聞こえそうな気がする。

確かに《ぐらこん》の実際はオソマツ極まるものだったし、それをここで言うつもりは更々ない。しかし、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい。そして(ぼくの知る範囲で)《ぐらこん》についてまともに論戦されているのを聞いたことはなく、皆は思考以前に《ぐらこん》という言葉自体に拒否反応を起こしていた。だがCOMを理解するには《ぐらこん》を理解することが必要であり、それが殆んど全てだった。

一昨年の夏、ぼくは、誰に見せるのでもなく、状況がそれを必要としたのでもなかったが、《ぐらこん個人的総括》というものを書いた。COMはすでに不様に崩壊して無く、自分自身がCOMにどう関わっていたかも定かではなかったけれど、自分の内側のCOMを切り捨てるためには、どうにかして自分なりのCOMを《ぐらこん》掴むことが必要だったからだ。その内容の概括は『威嚇弾』No.3に載っているので読んでくれると有難いが、ここでその内容を書くと……

 

(1) ぐらこんとは何か

ぐらこんとは何か、ではなく、ぐらこんは何であるべきだったのかと言い直すべきだろう。ぼくにとってぐらこんは、COMの発行期間中一度もぐらこんであったことはなかった。何をもってそう言い得るのか、それはCOM '67・3号に発表された《ぐらこん構想》の内容に拠ってぐらこんを捉えようとするからだ。実際のぐらこん(その組織さえ在ったかどうか疑わしいのだが)を全く無視して、'67・3号の発表内容のみに従ってぐらこんを捉えようとするのがここでの当面の目的である。

’67から’73に至る5年間、ぼくにとってぐらこんは2種類あった。ひとつは読者とまんが家志望者によって構成され、COMの《ぐらこん》と名づけられたページに活動報告が載る、一般の同人活動と何ら変わることのない実際の活動体であり、他方は’67・3号に暗示された、少なくともぼく個人にとっては、あるべきぐらこんである。その2つの間にあるギャップが終始ぼくを悩ませ続けた。しかしぐらこんは遂に自己を明確にすることなく自滅した。現実の対象が無くなっても尚モヤモヤを振り切れなかったぼくがやらねばならなかったことは、ぐらこんの確認に他ならなかった。

結論から言えばぐらこんとは組織を指すのではなく、状況それ自体を示す言葉なのだ。ぐらこんを理解するにはその構成員を見つめなければない。読者、まんが家志望者、作家(手塚・石森・等)、批評家(尾崎秀樹・草森紳一・等)、出版社(COM編集部)が加わった組織とは何を意味するのだろう。状況を構成する要素が何の過不足なく組み入れられた組織は、もう組織などではなくひとつの状況であるに違いない。ぐらこんは、まんが状況の内に意識的状況をつくるために生まれた。

とすれば、その目的は、単にまんが家が作品を創り、読者がそれを読むといった風な一般的地平を越えて、まんがに関わる者(関わろうとする者)全てが総体として発展していこうとする、もう一段高次の地平に在った筈だった。言ってみればぐらこんはまんがに関わる者によるコミューンの匂いをふりまいていた。――それがCOM ’67・3号を読んだぼくらがぐらこんに予感した内容であり、期待だった。まんがを軸とする共生感に支えられた、在る状況から在るべき状況への移行、それがその時ぼくらを魅惑したものの内容だった。「まんが世代」は、それを幻視し得る程に熟していた。(或いは未熟だったと言うべきか)それに加えて当時手塚神話は未だ有効であり、しかも絶対だった。続く一年間のぐらこんは、その予感とそれを裏付ける神話で支えられていた。だが支えていたものは、あくまで予感であり神話であったに過ぎなかった。

 

(2) ぐらこんにおけるCOM

COMがその内容はどうあれ、一般まんが商業誌の範囲で捉えられるのは、創刊から《ぐらこん構想》発表までの2号であるに過ぎない。《ぐらこん構想》以後は、COMは自らその性格を投げうち、同人誌としての性格を自己に課すことになる。ぐらこんにCOM編集部が加わっていることが、COMをそう位置づける。COMはぐらこん構成員の面をつなぐ機関誌に変化したのだ。換言すれば'67・3号以後のCOMはぐらこんのための雑誌に他ならず、日本で最初の、商業軌道にのったまんが同人誌だと自己規定したのだ。COMはぐらこんを生み落すと同時に、逆にぐらこんに呑み込まれてしまったのだ。かつてCOMとガロの両誌を並置することが流行ったが、この点においてCOMとガロとは決定的に次元を異にしている。COMが、一般まんが状況からの集約点としての意識的小状況を目的とした言わば状況の中心を志向していたのに対して、ガロは状況の突出部だったのだ。

'67・3号の《ぐらこん構想》に従ってぐらこんを捉えようとすると以上のようになるのだが、現実のぐらこんは単なる読者組織でしかなかった。何故そうなったのかという原因は、COM編集部を含む他の全ての構成員がぐらこんについて無思考だったからだと思われるのだが、直接的な原因としては、他ならぬ《ぐらこん》と名付けられ、毎号COMによってその存在を確認させられるページが挙げられる。

《ぐらこん》……成程、COMの末尾を占めるあのページは、そう名付けるのが妥当だったかも知れない。だが、そう名付けたとたんに、ぐらこんは一気に坂道を転がり落ちていった。’67・3号に忠実に思考するならCOM全体がぐらこんのページであるべきだった。それがCOM末尾のページをぐらこんと名付けることによって、ぐらこんの精神はあの一角に押し込められることになり、次第にぐらこんの意識からは、その構成要素としての作家、批評家、等が抜け落ちてゆき、読者、まんが家志望者だけが後に残ることになる。それはもう状況などでは有り得べくもなく、単なる同人活動でしかなかった。当初、予感したものに向かって回転すべき車輪は半分に欠けており、欠けた車輪は回る筈もなく、しかも、残った部分も自分が何であるかを忘れ果てていた。

――ぐらこんは遂に状況であることは一度もなかった。 かつて「ぐらこんはCOMの購買層確保のための組織だ」と言われたことがある。その言葉は嘲笑の意味を含めて発せられたのだが、ぼくはその言葉に、無思考な嘲りの響きとは別に、他の意味を見付けた。読者としてのぐらこんはCOM購読者であることが当然なのだ。読者としてのぐらこんはCOMを購入することによって最低限の自己の位置を保障する。言い換えるとこういうことになる。読者は、状況の構成員としてCOMを購入する時、単に読者であることから上昇し、COMの全てのページが自分宛てのメッセージであることに気づく。『火の鳥』その他の諸々の作品、評論、研究、等は、ぼくらに向けて発表されたものであり、それ以外ではなかった。他ならぬぼくらが『火の鳥』を、岡田史子の作品を、その他のCOMが生んだ数々の作品を支えたのだ。ぼくらはぐらこんという状況(場)を通じてCOM全体との共生感を求めていた。少なくともぐらこん構成員である作家がCOMに発表する作品は、全てぐらこんの作品なのだ。そしてぼくらはぐらこんの作品としてそれらを受け取る。作品はただの作品であることをやめ、”ぼくら”の共有物に変化する。ぼくらは”ぼくら”という言葉に、旧作家、新人作家等を取り込み、まんがをあるべきものとする世代全体を意味する言葉として使用できるようになる。

ここでようやく現実(COM)と夢想(ぐらこん)がクロスする。’67・3号のぐらこんを追っていって、今ぼくはCOMに追いついた。ぼくらが終始COMに対して感じていた或るもの、それはぼくにとって’67・3号の《ぐらこん》だった。これが先に、ぼくにとってCOMを語ることは《ぐらこん》を語ることにほぼ等しい、と言った理由だ。ぼくらは月光仮面体験、アトム体験に似たものをCOMで体験しかけたのではないだろうか。そして今もなおCOMをもし振り切れないでいるとしたら、それは「体験しかけた」故ではないだろうか。

ぼくらはCOMに何を視ていたのか。それは全て「ぼくら」という言葉に関わってくる。COMに抱いていたもの、それはCOMを通じて、過ぎることによって「ぼくら」という言葉に特殊な内容を持たせるということであっただろうか。COMを意識して「ぼくら」という言葉を使用する時、それは或る種の具体的な内容を持った言葉に変化する。言ってみればその時ぼくらはひとつの体験を共有するのだ。単にまんが世代としてのぼくらを指して「ぼくら」を使用するのではなく、その言葉の中に作家や批評家、まんがというカルチャーに関わる全ての人達を含め、同一の地平に在るものとして「ぼくら」を使用する。換言すれば「ぼくら」を使用する時、それはコミックゲマインシャフト(漫画共同体)の一員としての自己確認であり、体験であり、しかもその体験は共有されている。ぼくらの、同様の意味で「ぼくら」を使用する他者に対する感情は、セックスを共有する男女が持つ親しさに似てはいまいだろうか。

ともあれ、COMはそれに関わる人間に或る種の共同幻想を抱かせたままに崩壊した。

COMは過去のものであり、現実に携わろうとする者にとっては、その名は忘れ去るべきなのかもしれない。しかしCOMがぼくらに幻視させたものは今だに尾を引いている。その結果が現在までに東京で3度開かれた漫画大会であり、各種のファンクラブであり、そして何よりも各地に散らばっている、まんがに関わる(関わろうとしている)人間どうしの結びつきなのだろう。それらの活動は、結びつきは、この先どのように、どの方向に伸びていこうとするのだろうか。ぼくらにもう一度、あの確実さで「ぼくら」に新しい意味を付与し使用できる時が来るのだろうか。

―――時は流れて日は暮れる