夢の記憶・記憶の夢
―コミケット私史―
所載『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会・1985年8月発行)
丸井屋上の頃…
あれは、もう随分昔のことだ。そう、およそ十年ばかり前の春、迷宮'75(ラビリンス)は結成された。
結成の時、カトレアに居たのは四人。
非会員制萩尾望都FC"モトのトモ"代表にして漫画情報批評誌"いちゃもん"の主筆である原田央男氏、大阪のまんが批評誌「まんがジャーナル」の主筆だった亜庭じゅん氏、京大SF研のI氏、それにぼくが加わった形でスタートした。
人脈及び母胎としては、ダイナヴィジョン「11月のギムナジウム」を製作した"MJ"(モトのトモJR)、「まんがジャーナル」の背後に「あっぷるこあ」「チャンネルゼロ」、明大SF研などがあった。つまり、大阪と東京の「COM」世代のマンガマニア、さらに言うなら萩尾望都を中心とする少女マンガの新しい胎動に奮を感じていた男共が寄り集って作ったのがマンガ批評集団「迷宮」だったのだ。
その第一の目的はマンガ批評同人誌の創刊だった。タイトルは当時男共のアイドルだった山上たつひこの「喜劇新思想大系」をもじって「漫画新批評大系」とつけられ、夏の「漫画大会」での発行を目標に製作に入った。そこに、CPSのメンバーの一人から持ち込まれたのが、「漫画大会」の参加拒否問題だったのだ。簡単に言うと、「漫画大会」のあり方を批判した手紙を申し込み書と共に送った一ファンが、参加を拒否されたということだった。開かれたマンガファンの為の場をモットーにしている大会の理念を考えれば、これはおかしいのではないか。
が然、集会は騒がしくなっていった。その頃、迷宮の集会はもっぱら、新宿丸井の屋上のテラスで行われていた。イスと机があり、冷水飲み放題(う〜ん、貧乏)といううれしさ、その上何時間ねばっても追い出されないというよさがあった。なんと、この「マルイ」テラスの集会は、同年9月から「コミケット定例企画集会」として毎週日曜開かれるようにさえなっていた。
迷宮から派生する形で「漫画大会を告発する会」が結成されたのは7月のことだ。さらにそれは、迷宮の活動の場を再考させることでもあった。
もともと、読者状況の変革を目指していた迷宮の中には、恒常的なマンガファンの為の「場」の構築という発想があった。要するに同人誌の為の場であるコミックマーケットのことだ。それが、この年の夏から動き出し、12月には第一回目という早い実現に至ったのは、対漫大という状況があったからだろう。
「漫画新批評大系」「コミックマーケット」「漫画大会を告発する会」は三身一体だったのだ。
丸井の集会を続けられ、やがて夏が来、漫大を見切った形で、迷宮はコミケットのプロジェクトに向けて動き始めていった。パロディ「ポルの一族」、評論と硬軟から迫った為か一冊作るのに20分もかかるぶ厚い青コピー誌「漫画新批評大系」はかなり売れ、それがコミケットの資金源となった。原田氏がコミケットの代表となり、亜庭氏が「漫画新批評大系」の編集長となり、学生だったぼくが両方を補佐する形で、冬の第一回目に向かって迷宮は動き出していたのである。ぼくが丸井を利用したのはこの頃だけなのだ。
全ての始まり!
コミケット準備委員会が発足し(というより、そういう名称をつけただけで実質的には迷宮である)、200余りのサークルに「コミケットNEWS NO1・申込書」を送付したのは、9月の終り頃だった。が、反応はあまりよくなかった。それでも、ある程度安心していたのは、仲間内のサークルで十五・六は集る見通しがあったからだ。
問題は人が集るかどうかだった。はっきりいって、イベントではなくただのマーケットである。そんなところに来るファンがいるのだろうか。当時の状況はそれが難しいことを告げていた。そこで、幾つかのイベント企画をたて、『別冊少女コミック』等にお知らせを載せた。ビラもまいた。この頃、12月に創刊する新雑誌で、同人誌の特集をやりましょうと言って来た編集者がいた。しかし、この編集者は新雑誌が出来る前にいなくなってしまって、全ては幻の企画となった。この新雑誌が『OUT』である。で、さて11月になると問題が持ち上がった。予定していた杉並産業会館の抽選にはずれてしまったのだ。公共の会場のほとんどは即売会としての使用を禁止しており、コミケットに使用できる会場は非常に少なかった。しかも予算はわずかだ。あわてたこちらは急拠新会場を探して歩き回った。「ビックリハウス」編集部にもちかけて、パルコが使えないかとも考え、やってみたが、まったく相手にされなかった。コミケットはまだ始まっていなかったのだ。
それが決まったのは12月に入ってから。全ての変更事項は「コミックマーケット企画会議」(事前集会)で伝えることになっていたからサークルにさほどの動揺はなかったようだ。この事前集会は新宿カトレアで行われている。が、喫茶店の方からの苦情が来た為、第三回目からは集会場を借りるようになっていった。
「こんなもんだろーなー」。会場に入った企画参加者(サークル)のつぶやきだ。確かに20坪の虎ノ門日本消防会館会議室は狭く、みすぼらしかった。が、開場前の十時半には入口に百人以上の列が並び、それがなだれ込んでくると、途端、会場は活気をおび、混乱の中熱っぽいムードがあふれていった。中心は女子高生の少女マンガファン達だった。
この日、『漫画新批評大系』のコピー製本に徹夜をしていた迷宮編集部が到着したのは12時半。購入希望者がそれに殺到し、一時は机もゆがむ混乱状況。それ以外はさほど問題もなく、散発的に懐マン、アニマンの合唱が起こったり、サークル紹介が自発的に行われたり、展示、紙芝居もあるなど和気あいあいと進行していた。
2時半からは準備会の用意した「古本叩き売り」(定価をこえず珍本を売る)、「コミケット赤字救体宝くじ」等々が行われた。そしてダイナビジョン上映、反省会と続いて、終了を迎える。この日、サークルは、自分たちの作った本が売れていく悦びの魔力を知り、一般参加者はマンガの新しい世界を知った。同人誌は麻薬のように人をむしばんでいく。ぼくも泥沼にこの時足をふみ入れたのである。
木馬館の夜はふけて
以前にも出したかもですが、1977.7.30, コミケット6の際の木馬館合宿の様子。左から、高宮成河、亜庭じゅん、米澤嘉博、坂野(米澤)英子(結婚前)。良く残ったと思います。#お前よくぞそんなもん撮ってたな選手権 pic.twitter.com/yj8OqumRu5
— Calci (@Calcijp) 2021年1月12日
夏は地方のサークルが多いから二日間やって、ついでに合宿もやろうという話は3回目の頃からあった。しかし、金銭的余裕もなく二日間会場を借りるのは難しかった。それでとられた案が、土曜日は原画展、日曜日即売会という変則的二日開催だった。そうして、コミケット6は77年7月24日楽書館、アズ、スクランブル残党の原画展で幕をあけたのだ。
平穏無事な一日目。だが、恐怖は合宿所で待っていたのである。
なにしろ、当時スタッフは半学生で貧乏、参加者の多くも、まあ、貧乏だった。まともな合宿所、つまり旅館だと最低2500円はかかる。どうせ、一晩中騒いで起きてるんだし、時は夏、死にはすまい。要するに夜露がしのげて、一晩騒げる場所だったら構わない。というわけで、実にいいかげんに、とにかく安くあげることを考えて決定された合宿所が、浅草の演芸場木馬館だったのだ。
この木馬館、確か一晩借りて二万円。それに貸毛布一枚500円。一人の合宿費が900円だったはずだ。参加者は約50名。ところが、この木馬馬館、浅草にあるのだが、目と鼻の先に山谷があり、夜になるととにかくムードが悪くなるのだ。
そのへん知ってか知らずか、恐れ知らずの参加者たちはいつもの調子でワイワイとその演芸場に集った。
座席に座った参加者を前に、まず舞台で高座よろしく準備会スタッフがゴアイサツ。現在残っているその連続写真を見ると、ぼく、式城京太郎、長谷川秀樹、川本耕次の四人がTシャツ長髪Gパンで正座しつつ土下座しているといった感じだ。
これが証拠写真。多分本邦初公開。良く撮ってたなと思いますw pic.twitter.com/xlIT2faPNC
— Calci (@Calcijp) 2023年1月4日
続いて熊本のダイナリア製作のダイナヴィジョン「模型の時代」「カルナバル」を上映。トラブルはこの時起こった。突然フィルムが炎上、さらに映写機の調子も悪く、上映中止。だし物がなくなった為、途端、マンガとは!? 同人誌とは!? との大激論が始まってしまった。
これが直してるところw すでにフジのシングル8はベースフィルムがポリエステルだったので燃えるってことはなかったのですが、上映中にフィルム送りが止まるとランプの熱で溶けましたw pic.twitter.com/9Glwb2xIkm
— Calci (@Calcijp) 2023年1月4日
まあ、今では考えられないことかもしれないけれど、当時は、マンガファン、同人誌の人間が集ると、だいたいこういった議論が始まったものだ。しかも、それらはほとんど結論の見えてこないものばかりなのだ。最初は、みな熱くなって話していたが、そのうち、シラケ始めた。その時、二人のマニアが酒乱気味入。木馬館は不毛のジャングルと化したのである。
さらに追うちをかけるように、幕の中からドスがギラリと光ったかと思うと「おんどりゃー! 今何時だと思っとんのだ!」と近所のアパートに住むヤーさんが怒気荒く殴り込んできたのである。とにかく平あやまりで静かにすることを約束してお引きとりいただいたという次第。
もう、こうなれば大人しくするしかない。ロビーでは暗〜く、百物語をやり、イス席ではポツポツと情報交換。そして舞台では数十人が毛布をまきつけてゴロゴロところがっている。次は殺られる。参加者はその時そう思っていたのかもしれない。夜が明けたのは、それから二時間ほどたってからだった。異常に長く感じたのは、ぼくだけだったのだろうか。
たった一日の馬鹿騒ぎ
第一回目から十五回目までの間、コミケットはずーっと赤字だった。サークルもお金を持っていなかったし、参加費はぎりぎりにするしかなかった。だから、ちょっとしたアクシデント、例えば映写機のランプがきれたりすると、途端、その費用分だけ赤字になるといった具合だった。迷宮からの借入金は増える一方だったのだ。
加えて、コミケット内でやっていた小イベント(古本叩き売り、懐マン大合唱、上映会)等が会場の都合で縮小傾向にあり、準備会内でイベントに対する飢えがあった。そういったところから企画されたのが77年のコミケットスペシャルだった。題して赤字救済イベント・コミケットスペシャル。
内容は下のプログラムを見てもらえばわかる通りの盛り沢山。まずは、当時マンガフアンの批難の対象になっていたマンガ評論家・石子順をいびるパネルディスカッション。客席からのバ声も飛び、石子順タジタジ。次に、なかなか見ることのできないアニメ上映。なかでも版画を使った「悪魔の発明」、実験アニメ、ノーマン・マクラレン作品は評判が良かった。もちろん、自主製作アニメ・ダイナヴィジョンも数本。
これらメイン会場の催しは、ラストの三大少女演劇集団「エイプリルハウス」「エロイカ」「ソロモングランディ」のそろいぶみで幕を閉じるのだが、その間、小会場では、ミニコミケット、銀玉銃撃戦、アニメソングコンサート、8ミリSF上映、原画展示、ゲーム、クイズ等が行われていたのだ。
白いタキシードで司会をするA・J、ワナにはまって「ピンクパンサー」のテーマで登場しアイサツすることになってしまった代表原田氏……。
とにかくにも、一日のバカ騒ぎを、「見せる」ということを目的に行われたこのイベント、参加した人にとってはケッコー面白かったはずだ。評判は悪くはなかった。だが、入場料400円、参加者約300人のこのイベントは、数万円の赤字を増やす結果になったのだ。もうけるのは難しい。それが実感できた一日だったということか。
JUNEとPEKE
最初の二年間ほどのコミケットの盛り上りと成長は、萩尾、竹宮、大島などの花の24年組少女マンガのブームと重なった為だった。古いタイプ、つまり「COM」世代の創作は退潮傾向にあり、少女マンガが圧倒的に強かった時代だ。それに拍車をかけたのが、「漫画新批評大系」連載のホモパロディ巨編「ポルの一族」、ヘトガー・マラン・ジングルベル・マホービンが折りなす狂気の変態世界は、少女たちを熱狂させ、ホモ・パロディを続出させることになる。
また、コミケットを中心に、アニメ、少女マンガ、ロック、絵画、SF等に影響を受けた新しい感性の描き手達も登場していた。さべあのま、めるへんめーかー、高野文子、高橋葉介、柴門ふみ、湯田伸子、etc。つまり、ようやっと、コミケットという場はプロダムとは違った世界を展開し始めようとしていたのだ。
そして、それをすくいあげようという若い編集者も出てきていた。マルイの頃から集会に参加していた佐川氏、板橋あたりからスタッフとなっていた川本耕次氏佐川氏は、半年かかって社長をくどきおとし、新雑誌創刊にこぎつける。なにしろ、毎朝毎朝、社長の机の上に。新しい同人誌を置いての攻勢だったらしい。新雑誌は、美少年をテーマにした「JUN」。やがて、タイトルは「JUNE」に変更となる。
川本氏は、三流劇画特集の取材時のコネを生かしてみのり書房に入社し、どういう甘言をろうしたのか、マンガ雑誌をまもなく創刊させることになる。三流SFマンガ誌『PEKE』がそれだ。共に、78年の夏のことだ。同時期には『プリティプリティ』『はーい』が創刊されており『奇想天外』のSFマンガ特集号も出ていた。時代がそういった波にのりつつあったのかもしれない。つまり、メディアのニューウェーブだ。の二誌は半年ほどで休刊となり、いわゆる“ぼくらのマンガ”は敗退することになるのだが、それから数年後『JUNE』は復活し、『PEKE』も『アゲイン』と名を変え再生、ニューウェーブブームを巻き起していく。
そんな、熱い期待を抱かせた時期、恒例となった夏の合宿に参加したメンバーには、『OUT』編集長T、なかなか出ない『漫金超』編集長・高宮成河、ロリコンの立役者となる蛭児神建、メカデザイナー出渕裕、青年マンガラブコメのはしりとなった野辺利雄、某アニメ雑誌編集者等々…。下の写真は一部では“日本のマンガとアニメをダメにした○○人”と呼ばれている……!?
怨霊のコミケ部屋
迷宮スタッフ準備会スタッフという構造は大田区産業会館の終りまで変らなかった。メンバー五人に手伝い数人といった小人数の構成だったが、大きくなり始めていたコミケットはそろそろ手に余り始めていた。ちょうどこの頃、原田氏の引退があり、机を壊した理由で大田区産業会館を追われたこともあって、準備会は再編成に入った。というより、始めて、準備会という形をとろうとしたといってもいい。次々と若い人達が入ってきた。警備隊、救護班等が生まれ、ブロック長制が導入され、あっという間に準備会は数十人の大所帯に膨れあがったのだ。
川崎市民プラザという格好の場を得て、コスプレは増加し、コミケットのお祭り的様相は強まっていた。これまでみたいに、誰かの家に集って事務作業をやることが不可能になると同時に、見本誌の山も大きくなっていき、何処かの場所を借りる必要が言われ始めていた。コミケットは大きな変化にさらされていたのだ。
そこで、事務所兼倉庫として部屋を借りることにしたのは79年の夏のことだった。家賃は、ここを使用する準備会メンバーが1000円ずつ払い、残りを準備会が負担するといった方式だった。場所は、渋谷駅から五分。汚いアパートだが、地の利は確かによかった。
しかし、ぼくには、どうもひっかかることがあったのだ。というのは、借りに訪ずれた時、そのコミケ部屋のドアに、小さな心霊写真がはられていたのだ。さらに、中に入って、窓を見ると、サッシには大きな十字架様にガムテープがはられているではないか。ぼくが問うと、大家は「いえね、前住んでた人が迷信深い人でね、でも、若い人には関係ないですよね」と笑った。この時、この部屋の気がおかしかったことに気付けばよかったのだろう。
とにかく、そうやって、コミケ部屋はスタートした。見本誌が並べられ、事務が行われといった具合だ。全てはうまくいっているように見えた。が、少しづつ人間関係はギクシャクとし始めていた。常駐メンバー達が異常に恐くなっていったのだ。若いスタッフと、旧スタッフの対立等も生まれていた。
それは、ドアの心霊写真が失なった頃から急激におかしくなったと、当時を知っている者は語る。また、時々そこに出入りしていた人に言わせると、あの部屋に泊り込んでいるメンバーの目の光りが違ったということになる。ぼくは、決してコミケ部屋に泊ることはしなかったが、それでも何らかの磁場の作用を受けていたのかもしれない。
やがて、それはコミケットクーデター事件へと発展していった。同時に、そこによく寝泊りしていたメンバーに、幾つか事故が起ったことも付け加えておこう。真実とはこういったものなのかもしれないと、今思えるのだ。
憧れと不安の晴海へ
「もうハルミしかないね。ハッハッハ」と笑っていたのはいつのことだったろう。使用していた会場が狭くなり始める頃になると、コミケットは何らかの問題を起こし、会場を追われ、さらに大きな会場へ移るというのがパターンになり始めていた頃だから、70年代末頃のことか。日本で一番大きな会場が晴海の国際貿易センターであることは準備会でも知られていた。しかし、金銭的な問題を含め、ハルミは夢のまた夢であり、最初の言葉も、よく出てくる冗談だったのだ。
ちょうど「ジェノサイド・コミケット」が描かれた頃かもしれない。なにしろ、川崎市民プラザ当時、一回にかかる費用は全てで四十万円足らず。なのに、ハルミは一番安い館で四十万、さらに机・イス全てリースなのだ。晴海で開催することは考えるのも、恐しいことだったのだ。市民プラザ当時のスタッフは「ハルミでやるなら止めますよ」というのが口ぐせだったぐらいである。
このアコガレのハルミにコミケットが進出したのは、81年冬のことだった。クーデターがらみで川崎市民プラザを追われることになったコミケットは、もはや晴海以外に行く場所がなかったというのが、真実である。
しかし、第一回ということで問題も多かった。普段この会場は、日本でも有数の企業によるイベントの為に使用されている。国際的な催し物も多い。別名・国際見本市会場と言うぐらいなのだ。一つのプロジェクトの予算は数千万円から億の単位である。ちなみに、国際貿易センターで開かれる催し物に企業がブースを出す場合、坪あたり二十万円ぐらいとられるらしい。コミケットで使用する机四つ分の広さで、この値段である。
そういった感覚で開かれる催し物会場へ、手弁当ボランティアによる任意団体コミケットが入り込むのだ。問題がない方がおかしい。しかも、宮公庁、お役所の許可をいっぱい受けないといけないのだ。例えば駐車場を借りる為に、都庁に最低三度足を運ばなければならない。また消防計画や警察への申請も、決して一回行くだけでは済まなかった。企業レベルのイベントを当然と考えている人達にとって、コミケットの存在は、おそろしくイイカゲンで馬鹿馬鹿しく、不気味に見えたことだろう。ガードマンも雇わず、そうじは自分たちでやり、会場作りを当日の朝やるといった発想は、極めて危険なものに見えたのかもしれない。当時、かなりねちっこくいびられた思いがある。
でも、そうやって、なんとか、晴海でコミケットを開くことができた。同地で一番狭い南館の2階の半分というちっぽけなものだったが、それでもこれまでの会場に比べれば圧倒的な広さだった。しかも、その倍、数倍の広さの他館がひかえている。安心があった。だが、ここさえも追われたら、どうしようという不安もあった。
安住の地は求めるものではなく、作り出すべきものなのかもしれない。
このコミケット19のポスターは吾妻ひでおさんだった。実は、この時ぼくがポスターを依頼したのはシベールだったのだが、沖由佳雄氏が、彼の先生である吾妻氏に押しつけてしまったのだ。原稿受取の時驚いたのはこちらだった。丁度、この頃、ロリコンブームは最盛期で、吾妻ポスターの売りあげはよかった。赤字覚悟だったハルミ第一回めは、このおかげで、なんとかなったともいえるのだ。
これ以後、晴海のコミケットは定着していくのだが、「コミケットカタログ」「夏のうちわ」「紙袋」といった物を準備会は出していった。身が重くなった準備会は、その体を支える為に、自ら資金をかせがなければならなかったのだ。
そうして、南館2階の半分で始まり、次は南館2階全フロアー、さらに南館1・2階、続いてC館、新館2階の4分の3、東館、新館12階、新館1階と西館と異常な不気味さで増殖してきたコミケットは、そうじを業者にまかせるようになり、ガードマンを雇うといった、ゴク普通のやり方に近づいていった。それによって、警察や消防局の対応もやりやすくなっていった。なんと最近では消防局や警察にコミケット参加者がいたりさえするのだ。そうして、コミケットは一日あたりではもっとも動員数の多いイベントとなってしまった。このままいけば、ハルミ征服も近い。しかし…と、代表者は眉を曇らせるのであった。そんなものである。
まとめ
① 迷宮とコミケットの誕生
70年代半ば、萩尾望都ら少女マンガ新世代を支持するマニアたちが集結し、原田氏・亜庭氏・米沢氏によって、マンガ批評集団「迷宮」が結成された。
同人誌即売会「コミックマーケット」構想は、迷宮の中で自然に生まれた。同時期に「漫画大会」参加拒否事件もあり、自ら開かれた場を作ろうと動き出した。
② 第1回コミケット
1975年、準備会(実質は迷宮)が立ち上がり、サークル募集を開始。
会場探しに苦労し、虎ノ門の小会議室で開催。来場者は女子高生中心。
「漫画新批評大系」などの同人誌が人気を博し、活気に満ちたスタートとなった。
③ 苦労と赤字、そして拡大
第1回から第15回まで、常に赤字運営。
小イベントや自主アニメ上映など工夫するが資金繰りは厳しかった。
1977年、初の特別企画「コミケットスペシャル」を開催、盛り上がるが大赤字に。
④ 新しい才能とメディアの動き
「ポルの一族」などホモパロディブームが少女ファンを熱狂させた。
佐川氏・川本氏らが『JUNE』『PEKE』など新雑誌を創刊し、同人文化をメディアへ広げた。
⑤ 内部トラブルと"怨霊のコミケ部屋"
事務作業と倉庫機能のため渋谷に拠点を借りるが、そこが「心霊写真」のある曰く付きの部屋。
人間関係が悪化し、若手と旧スタッフの対立が深刻化、やがて「コミケットクーデター事件」に発展。
⑥ 晴海進出とプロ化




