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ロリコン同人誌レビュー「幻の『シベール』伝説にはじまるロリコン同人誌の覚醒期を経て今日のブーム到来までをロリコン雑誌研究家・原丸太がドキュメント」

ロリコン同人誌レビュー(原丸太 with 志水一夫

幻の『シベール』伝説にはじまるロリコン同人誌の覚醒期を経て今日のブーム到来までをロリコン雑誌研究家・原丸太がドキュメント

所載:アニメージュ増刊『アップル・パイ美少女まんが大全集』徳間書店 82年3月

同人誌界は、ロリコンがブームであるといわれる。

どこまでをロリコン系ファンジン(以下、「ロリコン誌」と略す)に入れるかという問題もあるが、その数は百の大台に乗ろうとする勢いである。

さすかにまだケガ人こそ出ないものの、日本最初で最大のファンジン(同人誌)即売会「コミケット」(以下「コミケ」と略す)では、毎回いくつかのロリコン誌を争って買う人々の行列ができるようになっているし、プームの過熱ぶりを示すような色々な好ましくない噂も、耳に入ってくる。このブームは、どのようにして起さてきたものなのだろうか。

 

かつてロリコンはマイナーであったのだ

言うまでもないことだが、かつてロリコンはマイナーであった。日本最初の(外国のことは知らない)ロリコン誌は、ロリコン文芸誌とも言うべき内容の『愛栗鼠』(東京「アリスマニア集団・キャロルハウス出版部」78年12月創刊号のみ)だと思われるが、同誌は「コミケ10」の会場の片隅で、紙袋に入れられ、人目を忍ぶようにして細々と売られていたという。

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C10(1978年冬のコミケ)で頒布された日本初のロリコン同人誌『愛栗鼠』(1978年12月創刊号のみ)。アリスマニア集団・キャロルハウス出版部(蛭児神建の個人サークル)発行。数十部程度のコピー誌(蛭児神すら現物を所持していない)かつ性的要素がない文芸誌のためか『シベール』ほどの知名度はない。その後、吾妻ひでおらと協賛関係を結び『シベール』の作家陣も参加した同誌増刊号『ロリータ』(1979年4月発行、同年7月の2号で休刊)が創刊される。

それがどうして、現在のようなブームにまでなったのであろうか。しばらく、その経緯を追ってみることにしよう。

後に多くのロリコン誌に影響を与え一般にロリコン誌の元祖だと思われているロリコン・マンガ誌『シベール』(東京「無気力プロ/シベール編集部」)が創設されたのは79年の4月のことである。

以後、80年春の「コミケ14」まではシベールと『愛栗鼠』の増刊『ロリータ』(79年4月創刊号、7月2号)または『機動戦士ガンダム』のポルノ・パロディー『AMA』(「東京アニメニア・アーミー」79年12月創刊、81年7月4号で終刊)の二誌だけという時代が続くことになる。この時点で現在のようなロリコン誌ブームを予言した人がいたとしたら、ちょっとした超能力だと言えよう。

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『愛栗鼠』臨時増刊号として蛭児神建がC11(1979年春のコミケ)で頒布したロリコン同人誌『ロリータ』。同年7月の2号で休刊。アリスマニア集団・キャロルハウス出版部発行。『シベール』と協賛関係を結んだ唯一の同人誌で、吾妻ひでお沖由佳雄孤ノ間和歩も原稿やイラストを寄稿した。

80年夏の「コミケ15」には、いわゆるロリコン誌のもう一つの方向、即ち必ずしも性的な描写を含まず、ただひたすらアニメの美少女キャラにこたわるという形を持った、クラリス狂専誌『クラリス・マカジン』(別名『クラマガ』、東京「クラリスマガジン編集室」80年8月創刊、同12月2号で体刊)が登場。また早坂未紀の個人画集『FRITHA(フリス)』(東京「トラブル・メーカー」80年9月)の発刊もこの時だった。この頃、『シベール』の影響を直接受けた『ロータリー』(東京「(チヨダ)ロータリー・クラブ」80年7月創刊、現在8号)も創刊しているが、当時は限定わずか13部のコピー誌で、オフ化してコミケに参加し、多くの人々に知られるようになるのは、まだ先のことであった。

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さえぐさじゅんによる『ルパン三世 カリオストロの城』の非エロ同人誌『クラリスマガジン』。1980年8月創刊。同年12月の2号で休刊。ロリコンファンジンの中核としてコミケで人気を博すが、増刷時の未発送トラブル(サークル関係者ではなく再販時の関係者の不祥事)で再販予約を募った『アニメック』誌を巻き込んだ「同人誌史上最大の詐欺事件」と呼ばれる「クラリスマガジン事件」を引き起こした。

この時点では、それぞれの傾向を持ったファンジンが個別的に出てきてこそいるものの、またブームとしてのまとまり、ないしは方向性といったようなものはほとんどなく、ただ一冊一冊のファンジンにそれぞれ人気が集まっているという状態だった。ところが……。

アニメ雑誌ではじめて「ロリコン」なる言葉がクローズ・アップされたのである。『月刊OUT』(みのり書房)80年12月号の米沢嘉博病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータコンプレックス」がそれだ。

米沢がそこで対象にしたのはもちろんプロ作品だが、後にロリコン・マンガの二大宗家の如くに言われるようになる吾妻ひでおと野口正之(内山亜紀)との扱いがとりわけ大きいことは注目される。また「ロリータ・コンプレックス」いう言葉が元来学術用語だということを充分明らかにしていないことにも、注意を要する。意味があいまいなまま「ロリコン」という言葉だけを世に広めてしまったのである。このことは、後に本来のロリータ・コンプレックスとは異なるものまでが「ロリコン」と呼ばれるような状況を生み出してしまうきっかけになったと思われる。また『シベール』の名がはじめて商業誌に現われたのも、この時が最初だと言われる(引用者注:正確にはアリス出版の自販機本『グルーピー』において米沢嘉博が企画したアリス特集で『シベール』を取り上げたのが最初だと考えられる)。

80年冬の「コミケ16」では、『人形姫』(東京「サーカス・マッド・カプセル」80年12月創刊、現在4号)が新登場。またこの頃名古屋では、セーラー服研究誌『すずらん』(愛知「名古屋学院セーラー服研究会」80年12月創刊、現在2号)が出ている。

これとほぼ同時期の『OUT』は、81年1月号の付録の特大ポスター「吾妻ひでお版(青少年向)“眠られぬ夜のために”」によって、ロリコン路線に追い打ちをかけた*1。このポスターによって吾妻は、プティ・アンジェにドロレス(即ちロリータ)を演じさせるなどのアニメ少女キャラ服装バロディー(と呼んでおこう)を行ない、そのロリコン・マンガ家としての地位を不動のものにしたのであった。なお、このポスターの中の「クラリスGOGOチアガール」のイラストのキャプション(説明文)に「クラリスマガジンコミケで売ってた)見てからかぶれてしまったの/カリオストロ見てないのに……」として『クラマガ』の名が出てくるのに、注目しておきたい。

しかし、ここまではほんの前哨戦にすぎなかったのである。


 

ロリコンブームは予言されていた……?

ここに、あの『アニメック』17号(81年4月発行)のロリコン特集「“ろ”はロリータの“ろ”」が登場する。この特集は、その後のいわゆる「ロリコン・ファンジン・ブーム」の方向を決定づけた、あるいは予言した、一つのエポックであった。この特集の登場以前を、私はロリコン誌ブームの「覚醒期」と呼びたい。

この『アニメック』の特集は全25ページ。今から見ると、恐ろしいほどまでにその後のロリコン誌ブームの傾向がエッセンスされている。まず、ロリコン特集とはなっているものの、実はその半分ほどはアニメの美少女キャラ特集に近いものであったということ。このことは、後にいわゆる「二次元コンプレックス」もしくは単なるアニメ美少女キャラ・ファンまでもが「ロリコン」と呼ばれ、あるいは「ロリコン」を自称するようになる、一つのきっかけとなったものと思われる。

この点『アニメック』が「二次元コンプレックス」(この言葉が最初に商業誌に現われたのは、『アニメージュ』80年10月号の吾妻ひでおを囲んた座談会であろう)をロリコンに引き込んだと言っても過言ではない。しかしまた、このことがなければ、現在のようなロリコン誌ブームはなかったというのも、正しい見方であろう。

同特集の5分の1に当たる5ページ分を『ルパン三世カリオストロの城』のヒロイン、クラリスに関する記事で埋めていることも、注目に値いする。主人公ルパンが悪役カリオストロ伯爵を「ロリコン伯爵」呼ばわりする場面があるとは言え、16歳という本来ロリコンの対象となる年齢(14歳以下)とはかけ離れた設定の彼女がその後ロリコン誌の三種の神器の一つのように扱われるようになるのも、やはりこの『アニメック』の特集の影響が大きいのではなかろうか。

同特集では『シベール』と『クラマガ』の内容の一部を、アニメ誌としてはじめて紹介しているが、この二誌がその後のロリコン誌の手本とされたことを考えると、興味深い。

表紙だけとってみても、『シベール』は一部で「某黒本」などと呼ばれているように黒いラシャ紙の無地表紙、『クラマガ』は白のエンボスという特殊用紙に薄緑や水色の印刷という凝った表紙だったが、色こそ違え無地の色紙(特にラシャ紙)の表紙と、白のエンバスに薄色の印刷の表紙のロリコン誌が、後に続出したのである。

アニメック』の同ロリコン特集が、吾妻ひでお村祖俊一中島史雄のインタヴューを掲載していたことも、特筆しておきたい。これはロリコン誌への成人向劇画(いわゆる三流劇画、エロ劇画)の影響を促す、少なくとも原因の二つになったと思われる。ロリコン誌ブーム以前は、同人誌界はもっぱら少年・少女マンガ志向であって(隠れたファンは結構いたにしても)成人向劇画とはほとんど無縁の世界であったことを考えるとその意義は大きい。

更には同特集がSFといわゆるロリコンとを関連づけた記事(安座上学「少女愛好の双曲線──二次元コンプレックス処方箋」)を掲載していたことにも注意しておきたい。これ以後、それまで潜在的に存在していたと思われる SFファンのロリコン趣味を顕在化させるきっかけとなり、ひいては大学SF研を中心とするロリコンブームのSFファンダム(同人誌界)への蔓延の元になったとも考えられるからである。ただこの辺になるともう、一種のニワトリで、この特集があったためにその後の展開があったのか、その気配があったから特集にそれが現れて来たのか、判然とはし難い。しかし仮に後者だとしても、この特集がその後の動きを増幅したということだけは、間違いないと考えられるのである。

さて、『アニメック』17号の発刊とほぼ同じ頃に開かれた「コミケ17」にも、異変が起きていた。前出『ロータリー』のコミケ進出、FC的色彩を持った「シベールFC・ハンバート」(神奈川、会報『ブレザンス』81年4月準備号、同6月創刊、現在4号)の登場、更にアニメ・キヤラ・ヌード専門誌『ヴィーナス』(東京「ムーン・ライン製作室」81年4月準備号、同5月創刊、同11月3号で終刊)の出現、そして『シベール』の終刊である。

81年春というこの時点こそ、後のロリコン誌“ブーム”の「胎動期」だったと言えるだろう。その後『OUT』81年8月号ではカラーを含めた13ページの特集「ルナティック・コレクション“美少女”」をやっている。他各ア二メ誌上で『クラリス・マガジン』再版の予約者募集が行なわれた。これには一万通以上の応募があったという……。

 

ファンジンの世界はロリコンがいっぱい

そして、あの“ロリコンの夏”がやってきた。まさしく「発動期」の到来である。

皮肉なことに『シベール』の終刊は、むしろロリコン誌ブームを本格化・活発化させることになった。これまでは、ブームといってもしょせんは「シベール・ブーム」であり、あるいは「クラマガ・ブーム」であった。その『クラマガ』がなくなり、『シベール』がなくなったのである。残ったのは「もっとクラマガを」「もっとシベールを」という声だけであった。ポスト・シベールをねらい、あるいはポスト・クラマガをねらう人々が出てきたところで、何の不思議があろう。ましてこれまで『シベール』を買う人の列を横目で見ていた人々にとってみれば、正に「チャンス到来」の感があったに違いない。

81年夏の「コミケ18」では、それまでせいぜい10誌にも満たなかったロリコン誌が、突如数10誌にまでふくれあがったのであった。

この時点でのロリコン誌の傾向や種々相に関しては、拙稿「ロリコンファンジンとは何か」(『ふゅーじょんぷろだくと』81年10月号)に詳しい。そこで私は、いわゆるロリコン・ファンジンの中には、X=メルヘンチックなあるいはオトメチックなかわいいものに接したい(見たい、書きたい…以下同)Y=エロチックなあるいはまたセクシャルなものに接したいZ=(主にアニメの)ひいきのキャラクターに接したい、の3つのベクトル方向が様々にからみあって存在すること、そしてそのからみ具合によって、大別して3つ、更に分類して6つにほぼ区分できることを示しておいた。

その6つとは『シベール』に代表される「ロリコン・マンガ誌」的な'A群(主にX―Y方向)。それよりややZ方向の強い『愛栗鼠』のような「ロリコン文芸誌」的または『プレザンス』のような「ファン会誌」的性格を持ったA群。『AMA』や『ヴィーナス』のような「アニメ・パロディー」の延長線上にある'B群(主にY―Z方向)。その中でも『アニベール』(東京「シベール編集部」81年4月創廃刊)や『のんき』(東京「おとぼけ企画」80年12月創刊、現在4号)3号のようなロリ・キャラ専門誌の'B群(主にY―Z方向プラスX方向)。そして『美少女自身・イマージュ・ソフィー』(神奈川「EIRISHA」81年8月創刊)のような「アニメ少女キャラ・ファン会誌的な'C群(X―Z方向中心)、それに『クラマガ』に代表される「特定アニメの少女キャラ・ファン会誌」的なC群(ほぼX―Z方向のみ)である。

更に私は、それ以後のロリコン誌の動向として、XYZ各軸の内のひとつを中心にしものへ移行していくのではないかとしたが、81年冬の「コミケット19」(実行委員会の内事情で、同じ日に晴海の「元祖コミケット」と秋葉原の「新コミケット」が開かれた。私のようなコレクターの身にもなってくれい!!)を見た所では、確かにそういう傾向もないわけではないが、『アンジェ』(東京「アンジェ編集部」81年12月)に代表されるような、A~C群のすべてをひっくるめたようなファンジンも、結構出てきているようである。

他にその後の新しい動きとしては、このロリコン誌ブームを契機として、成人向劇画のファン・クラブが登場してきたことがあられるだろう。「内山亜紀参加野口正之FC連合」(神奈川、会誌『妖精人形』81年12月創刊)の他、野口正之(内山亜紀)のFCがいくかできているようだし、谷口敬のFC「ふらすずめ」、また中島史雄のFCも結成の動きがあると聞いている。

なお、成人向劇画系の出版社から出た『レモンピープル』(81年12月創刊)は、ハッキリと「ロリコン・コミック」を謳っており、『人形姫』に書いていた人々が何人かデヴューをはたしている。

 

ロリコン誌ブームをどうみるか……?

ロリコン誌ブームはファン主導によって生じたものだ、とはしばしばいわれるところである。しかし実際は、かなりプロジン(商業誌)の影響があるということも、また事実てある。

ロリコン誌ブームが起きるに際して最も大きな役割を果たしたと見られるふたつのファンジン、『シベール』と『クラマガ』にしてからが、前者には最初から某有名ロリコン・マンガ家が参加していたし、後者にもさる少女マンガ家が中心スタッフに加わっていたことは、今や公然の秘密である。その他のアニメ・パロディー系ロリコン誌にしたところで、原作のアニメそのものにシャワー・シーンなとのヌード・シーンが多く登場するようになったことと無縁とはいえず、これではとても「ファン主導」などとは言い難いのではなかろうか。ただそれが、他ならぬ『ガンダム』によって最初になされたということに関しては、後の小説版によってより明らかにされることになる、ストーリーの底に隠されたセクシャルな香りをかぎとった、ファンの嗅覚は認めねばなるまいが。

更に、ロリコン誌を見てると、その関係者の中に成人向劇画のファンが結構いることに気付く。成人向劇画の美少女路線横行も、間接的にこのロリコン誌ブームに影響を与えているであろうことも、想像に難くない。何しろ最近の成人向劇画誌の中には、『劇画ロリコン』とか『漫画ロリータ』などという題名のものまであるくらいなのだから。

81年10月号の『OUT』では、阿島俊という人が、ロリコン誌ブームに苦言を呈している。しかも、『ふゅーじょんぷろだくと』の同年10月号のロリコン特集を、予告を見ただけで批判している(同号は『ふゅーじょんぷろだくと』全バック・ナンバー中でも最高に出来の良い一冊であった。ついでに言えば、阿島は同誌を「『ぱふ』から名を変えた」としているが、これは「旧『ぱふ』の編集部が独立した」が正しい)。

しかし 『F式蘭丸』にも書いてあるように、「否定からは何も生まれない」。

かつて同人誌界で、パロディー・マンガがえらく流行ったことがあった。パロディーものなら何でも売れる、という時期があったのである。しかし、パロディーはしょせんパロティーにすぎず、それ以上のものにはなり得ない。ましてやそのほとんどは(友人某君の言葉を借りれば)パロディーともいいがたい単なる似顔マンガにすぎないのであるから。

だが、いわゆるロリコン・マンガは異なる。こんなものであれ、そこにはあくまでマンガとしてのオリジナリティーが存在する(はずである)。かつて三流劇画よエロ劇画よとバカにされ軽蔑された成人向劇画をきっかけとして、あるいは踏み台として、多くのユニークな才能が出現してきたように、同人誌界のロリコン・ブームも、新しい才能を生み出す可能性を持っていると、私は確信している。

そして、かつてロリコンものを中心としていたファンジンやライターが、実力をつけるに従って、ロリコンばなれをしはじめているという現実が、そのことを裏付けているように思われるのである。

よしんば、破廉恥な奴よと笑われてもよい。私はこのブームの行く末を、この目で見極めたいと思っている。

(文中敬称略)

 

*1:このポスターイラストは1981年12月に奇想天外社から発行された『マンガ奇想天外』臨時増刊号「パロディ・マンガ大全集」にも流用され、単行本『ワンダー・AZUMA HIDEO・ランド』(復刊ドットコム)に収録された。