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雑誌周辺文化研究互助

故・青山正明氏が『宝島30』で語ったロリコンにまつわるエトセトラ

日本を代表するサブカル雑誌『宝島』が1990年代前半に「単なるヌード雑誌」になってしまった頃、かつての『別冊宝島』編集部が中心になって『宝島30』というサブカル誌を立ち上げました。

根本敬の『人生解毒波止場』やオウム事件ルポルタージュなど尖った内容が多かった雑誌でしたが、経営上の問題で1996年にあえなく廃刊。休刊後、大塚英志は「執筆者同士が互いにオウムをめぐっての発言で糾弾しあい言論装置としては自壊していった感のあるおたく系論断誌」と片付けてます。

『宝島30』掲載のオウム記事は、別冊宝島229『オウムという悪夢』に多数再録されているので、オウムネタに興味がある人はそちらを見てくれれば良いのですが、今回取り上げるのは1994年11月号の特集「ロリータの時代」。企画・編集協力として『危ない1号』を世に送り出すことになる伝説の編プロ「東京公司」の名前がクレジットされています。

この号では主に「芸能」「映画」「音楽」「コミック」「パソゲー」など多ジャンルにおけるロリネタを横断的に紹介されているわけですが、とくに青山氏は「ロリコン史」「身近なロリコンのヤバいエピソード」「ロリコンが誕生した社会的背景」などを詳細に説明しています。

以下に「青山正明×志水一夫×斉田石也の鼎談記事」および「青山氏の記事2本」を再録いたしました。

青山正明

伝説のキャンパスマガジン『突然変異』で慶応大学法学部在学中から頭角を現し、親父向けエロ雑誌『ヘイ!バディー』をロリコン路線に変えさせ、『危ない薬』でドラッグ文化を広め、世紀末に『危ない1号』で悪趣味/鬼畜をトレンドにした、80~90年代の日本に最も悪影響を与えた天才編集者。チンピラ系シンクタンク「東京公司」代表。2001年に自殺で他界。享年40。

青山正明×志水一夫×斉田石也・鼎談「受験と女権とロリータ文化」

ロリータ・メディアに創成期から関わった三氏が語る、現在のブームの背景とは!? 高度大衆社会が産んだ、あまりにキッチュなロリータ文化!

構成・武市太

 

──フレンチロリータという言葉がありますが、今日はいわゆるジャパニーズロリータについて、お話をうかがいたいと思います。日本のロリータブームの特殊性、それが生まれてブームになった背景、その動向について、できるかぎり大きな視点から捉えてみたいのですが、まず、日本に初めてロリータなるものが誕生した頃の話をしていただけますか?

 

斉田:1966年、『12歳の神話』という写真集が最初でしたね。

 

──それは商業的、ビジュアル的な展開の最初と考えていいわけですか。文学の世界では、たとえば澁澤龍彦などが、もっと早い段階でロリータを語ってますが。

 

斉田:そこまでたどっちゃうと、ものすごいことになってくるんですよ。たとえば、読み方によっては川端康成の『伊豆の踊子』とか『雪国』もその範疇に含まれてくる。

 

青山:川端には、中編で『眠れる美女』というモロのがありますものね。

 

志水:『伊豆の踊子』はたしか14歳ですよ。『セーラームーン』と同い年(笑)。

 

斉田:そこでいきなり、『伊豆の踊子』が『セーラームーン』につながるか(笑)。

 

青山:いいなぁ、今のひと言効きましたよ(笑)。厳密に言えば、絵画の世界、文学の世界ではかなり前からありますね。たとえば、富士見ロマン文庫から出た『ペピの体験』。71年、『えろちか』というエロ専門のアングラ雑誌に何回か連載されて、後に富士見ロマン文庫に入ったから、原作自体はそうとう前です。まあ、そんな絵画や文学作品を個人の趣味として楽しむような素地はあったにせよ、ひとつの世界としては確立されてなかったわけですね。それがある種ジャンル的な兆しとして出てきたのが『12歳の神話』。

 

斉田:そうです。でも、ロリコンを意識してつくられたものではなかったですよね

 

志水:あのときは、いちおう純粋な写真家の。

 

青山:芸術でした(笑)。で、それがけっこう続いて、オランダとかデンマークとか海外で70年代初頭あたりにポルノが解禁されて、チャイルドポルノというのが出てくる。それがダッーと日本に流れ込んだのが『モペット』とか……。

 

斉田:『ニンフ・ラバー』とかね。少女と男がほんとに絡んでるヤツが77、8年ぐらいからちょこちょこ日本に入るようになった。

 

志水:『リトル・プリテンダー』が大きいでしょう。ワレメがちゃんと写ってるというんで、みんな探し回った(笑)。そしたらすぐ増刷された(笑)。代用品だったんですよね。今のようにヘアヌードが解禁されてなかったから

 

青山:毛はダメだけど、ワレメならいいだろうって。そういう理屈だったですよね。

 

斉田:あの当時はそうでした。野坂昭如の裁判だとか、関根恵子のヌードだとか、ともかくヘア、ヘアだったから。ヘアが生えてなければ性器じゃない、と。まして子どもの性器というのはまだ性器になってない、ただの排泄器官だっていう

 

志水:あと、年齢が低ければ実際には大人の体でもかまわなかった。でも、そうなると本当の意味でのロリコンと違うんですけどね。

 

斉田:そういうニーズを一身に集めたのが完全に大人の体だった『少女M』。

 

青山:『少女M』なんか見て、潜在的な欲求を再確認して、ああよかったんだというエキスキューズになったという安堵感があって……。

 

斉田:うん、だから、オレだけじゃないぞっていう。

 

志水:みんなやってんだ、よかった♡みたいな(笑)。

 

青山:それからもどんどん本が出てきて、新たにロリコンに目覚めちゃったという人もかなり多かったでしょう。少女を性の対象にする欲望というか、メンタリティの芽生えというか、急速にすそ野が広がったという感じですね。

 

斉田当時はロリコンであるということがファッションみたいな、流行の先端みたいに考えてる大学生なんかがいましたものね

 

志水:浅草でSF大会をやったら、近所のビ二本屋からロリコン系のヤツだけがゴソッと消えたって話がある(笑)。SF大会に来たヤツがみんな帰りに買ってったって。彼らはシャレで何でもやるからねえ。

 

青山:僕もその話聞いたんですよね。SF大会で盛り上がったんじゃないかな、一気に。

 

先祖返りとしてのロリコン

──ロリータヌードが代替品として出回ったにせよ、たとえば西洋との違いを考えると、西洋には性に対してキリスト教的倫理観がありますし、子どもの扱い方にしてももっと厳格ですよね。なぜ、日本は成熟した女性じゃなくてロリータになるのか……。日本は特殊なんですかね。

 

志水:仏教で普通の男女の性欲的な関係を禁じてしまったことと関係があるのかもしれませんね。日本では昔から変態はいいことになっていて、歌舞伎や宝塚はかまわないけども、そのくせ男女の普通の関係は規制されるというね。戦場に女は連れていかないというのが前提ですから伝統的に同性愛はあるし、あと少女愛もそれこそ『源氏物語』の時代からの伝統でしょ。同性愛は日本では大正ぐらいまではタブーじゃなかったんでしょう。大正デモクラシーあたりで急にダメになった。どうしてなのか分からないんですけどね。

 

青山:『性の世界記録』という本を読むと、江戸時代に吉原で赤ん坊としか呼べないようなのがフェラチオ専門で飼われているんです。当時は結婚だって12、3歳で嫁入りしたりとか。今の小6とか中学生ぐらいが結婚してもうやっちゃうというのが、当たり前と言えば当たり前の話なんですね。

 

──そうした日本の特殊な土壌を考えると、海外からロリータの写真集が来て、ショックを受けて、先祖帰りしたように思えますね。

 

青山:そうですね。それまでずーっと当たり前だったのが抑圧されて、アレが来たおかげで、今度は変態とかおかしな奴っていうイメージが付いてまた浮上してくるんですね。

 

──当時のロリータが百花繚乱状態だったのは、どれくらいの間ですか。

 

青山『ヘイ!バディー』が出てた80年代の頭から半ばぐらいまで。80年前後はタウン情報誌の『ぴあ』が人気を集めて、ようするに男も女も遊ぼうよということで、遊び場がどんどんできて、実際、いっしょに遊んだものの、どうもキツイと。そこで幻想が破れて少女に走る軍団が大量にいたんですよ

 

斉田:その頃って『ヘイ!バディー』なんかの語調に、たんに写真集集めて本読んでるだけじゃダメだぞっていうような感じがあったでしょう。どんどん街に出て写真を撮れ、と。で、チャンスがあれば物陰に連れ込め、みたいな(笑)。“少女いたずら写真”なんていうページがあって、間違いなく部屋に連れ込んで脱がしてるというような……。

 

志水:「ほとんど犯罪写真」でしたっけ。

 

斉田:犯罪以外の何物でもない(笑)。ただ、読者がすぐ作る側になれた時代でしたね。今の投稿雑誌のハシリもあのへんじゃないかな。『ヘイ!バディー』あたりから読者投稿のページがバーッと増えてきて、ある日突然、「僕こんな少女の写真撮りました」とかいって、ダンボール箱ひとつ、ドンッと持ってきたら、そいつがそのまま先生になっちゃうとか。僕自身も『CANDY』に投稿したのがきっかけだったな。

 

青山:僕も大学のミニコミヨーロッパのチャイルド・ポルノの入手法を書いてて、『ヘイ!バディー』の編集長(高桑常寿)に呼ばれたんですよ(笑)。ロリータ本作るようになっても付き合ったのはプロの物書き、絵描きじゃなくて、当時の斉田さんのようなサラリーマンやってた人とか、そういう人しかいなかったですよね。

 

志水:アニメがブームになったときも同じことがあったんですよ。アニメ知ってる人っていうと、ファンしかいないんだから。で、予算も少ないっていう問題もあって、ムック一冊、編集者がバックに付いて素人に作らせたという例があったからね。自主制作で突然、映画一本作っちゃってそのままプロになったっていう例すらありますよ。

 

斉田ロリコン誌という見方をすると、マンガの『レモンピープル』と写真の『ヘイ!バディー』が横並び一線みたいに見られてましたよねあと『漫画ブリッコ』とか、大洋図書の『アリス・クラブ』とかが続いて

 

志水:『漫画ブリッコ』って、それまでそうじゃなかったのに、突然、ロリータに移行したんですよね。ロリコン系マンガ家の作家特集を次々とやってた。

中森明夫の「おたくの研究」が掲載された『漫画ブリッコ』1983年6月号)

 

青山:『ヘイ!バディー』もそうですもんね。それまで単なるエロ本だったのが、ロリータにしてみようということでパッと。

 

志水:70年代末の『少女アリス』が重要な存在なんじゃないですか。自販機本。その中で吾妻ひでおさんがロリータマンガを描いてた。これが大きかった。あの頃の自販機本って、ほんといろんな人が描いてて面白かったんですよね。

 

青山:自販機本はロリータだけじゃなくて、スカトロにしてもドラッグにしてもオカルトにしても無法地帯でしたから、アレはほんとにいちばん面白いメディアでしたね。

 

マンガ同人誌とロリコンの関係

青山:マンガ同人誌の連中がどんどんロリコン風に描くようになって、それが広がっていく様子はどうだったんですか。

 

斉田最初はパロディでしたよね。『アルプスの少女ハイジ』とか、『キャンディキャンディ』とか、『うる星やつら』とか。

 

志水:その少し前に、アニメでバストがあるヒロインが初めて登場したんですよ。現在は推理作家として活躍してる辻真先さんがメインでシナリオを書いてた『魔法のマコちゃん』。それまで胸はなかったんです(笑)。そのあと同じスタッフが『キューティハニー』を作って、『魔女っ子メグちゃん』にいくんです。同じメイン・スタッフで。

でね、そのしばらく後に吾妻ひでおさんのところに出入りしてた人たちが、彼らは漫画画廊で知り合ったそうですが、吾妻さんをゲストに招いて『シベール』という同人誌を作った。吾妻さんの作品というのは、少年誌の絵柄で青年誌に描いた作品の先駆だったし、しかもハッキリとセックスものでしたからね。

(日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』創刊号。扉イラストは沖由佳雄。1979年4月8日発行)


(『シベール』創刊号の吾妻ひでお赤ずきん・いん・わんだあらんど』より)

で、ドーンとブームになったところで、突然、廃刊しちゃうんですね。それでみんな欲求不満になって、つぎつぎに同人誌を出しはじめるんですよ。もう、盛り上がったところで消滅しちゃったもんだから、どんなモノでも売れたの、あの時期は。だって、僕の絵の載ってたヤツが売れたんだから(笑)。

あと『ガンダム』の存在が大きい。『ガンダム』は素晴らしいですよ。女性キャラクターの体つきがぜんぶ丁寧に描き分けてあって、顔を隠しても同じ服着てても誰だか分かるの。で、同人誌で『ガンダム』のヌード起こしをやったのが、一般化するんですよね



それまでは密かにコピーでつくって、回したりはしてたんですが、同人誌でハッキリやったのは、現在プロで活躍してるみやすのんきさんがやってた『のんき』という同人誌の『ガンダム』の女性キャラ・ヌード特集が最初でしょう。それとその姉妹誌みたいな本で、ようするにアニメ版のビニ本だった『ヴィーナス』があったんです。この二つは印刷屋がビビッて回収したことがありました。

それから、今の『コミックボックス』、当時の『ふゅーじょんぷろだくと』の美少女特集で「ロリコン同人誌とは何か」って記事がありました。81年に私が書いたんですけども(笑)、そこで『シベール』は内容を紹介したんですが、ほかのものは表紙しか載せなかったのね。そうしたら、一番いい『シベール』だけ中身が載って、ほかのヤツは載ってないから、みんなが幻想を持っちゃって(笑)。それで、次のコミケット行くと、みんなそれをチェックリスト代わりにして買ってるわけですよ(笑)。あの頃なんか、アニメでもヌードシーンが大流行しましたしね。ラムちゃんの影響もあるし、アニメに出たヌードシーンだけをビデオ撮りして同人誌出せるぐらいあったんですから(笑)。


ただ、アニメでのヌードシーンのはしりは、『ハニー』を別とすれば、『ヤマト』のワープシーンの森ユキのやつ。それからロリコンという言葉は、今をときめく宮崎駿さんの『ルパン三世 カリオストロの城』で使われてたのと、それを受ける形での『アニメック』の美少女特集がきっかけでしょう。その特集の担当者だったのが、今『ニュータイプ』編集長のIさん。この頃ロリコンに関係した人はみんな出世してる(笑)。

 

(本格的なブームの先駆けとなった1981年3月発売『アニメック』17号での25ページにもわたる大特集「“ろ”はロリータの“ろ”」。『カリオストロの城』のヒロイン・クラリスほか、名作アニメの少女評、ライターの安座上学によるSFとロリコンを関連づけた評論ルイス・キャロル研究家の高橋康也インタビュー、そして吾妻ひでお村祖俊一中島史雄らへのインタビュー、『シベール』『クラリスマガジン』など美少女同人誌の紹介など掲載。表紙に使われた『カリオストロの城』のシーンが「妬かない、妬かない。ロリコン伯爵。や〜けどすっぞ〜!」というルパンの台詞の直後であることは非常に象徴的であり示唆的)

 

理想の女性象としてのロリータ

青山:アニメ、マンガ系のほうも写真誌とか実践派と同じなんですね。もともと根があったものが、あるきっかけがあって、じゃあ、オレもオレも、と。そのなかから今度は描き手に回る奴も出てくるし、グルグル膨らんでいく。僕はそういうブームと並行して、相対的に男性の地位がだんだん下がってきたことの影響があると思うんです。女性が強くなれば、それだけウブな部分が欠落していくのは当たり前の話ですからね。

 

志水ちょうどロリコンブームの頃に逆にお姉さんブームというのもあったじゃないですか。ようするにロリコンのほうは騙せそうな女の子、で、お姉様のほうは騙されてやってくれそうな女性だ、と。根は同じだという説があるんですよね

 

斉田:ピーターパン・シンドロームなんて言葉も流行りましたね。

 

青山:それに、受験体制と性産業の発達も連動してると思うんですよ。たとえば、昔の男だったら16ぐらいで赤線に行くとかするんだけど、今は大学に入るまでお預けになるのが暗黙の了解ですよね。で、抑圧される。

抑圧されれば妄想が膨らむのは当然で、そこに乗じてエロメディアというのが発達して、裏本も出てきたし、どんどん豊かなオナニーをするようになっていくわけですね。それもビデオだ、雑誌だと、妄想がどんどん膨らんでいって、ほんとだったらもう本番をやってる年齢になってもオナニーで済ましちゃう。否が応にも女性に対する妄想がガンガン膨らんでいって、大学に入ってようやく解禁ですよね。

ところが、実際、付き合うと面倒臭い、何々を奢らなければいけない、どこどこに連れて行かなければいけない、セックスしてみると重いし臭いし(笑)。イメージしていたピンクの乳首なんか、なかなか出会えない。そこらへんのギャップってすごくデカイでしよ

 

志水:フィフティ・フィフティの関係を女性は求めるけど、男は結局、それじゃやってられないというのがありますものね、実際。

 

青山:『ヘイ!バディー』が潰れた頃に、『プレイボーイ』の座談会で高杉弾さんが言ってたのが、ようするに高校3年生まではチンチンをビンビンに立ててオナニーして、元気で、精力絶倫だったのが、大学に入って女とやったところで、もういくらやっても面白くないみたいな感じで立たなくなっちゃったと、そういうのがずいぶんいたっていうんですね

 

志水:それはけっこう象徴的な話だなあ。

 

青山:もう大学生には求められなくなっちゃって対象年齢を下げるか、お姉さんとか母親とか上に行く。妄想の洪水の中で豊かなオナニーライフを送ったというね。そこらへんがブームのベースになってるんじゃないかという気がしますね。アソコって綺麗で美しくて、と思ってたのが、実際にはすき焼きの残り肉みたいなのを見せられて。なんだ、これはって(笑)。そうすると疑似世界に走りますよね。まずマンガとか写真とか何かに。そこで求められるのはロリータ的なウブな理想の女性ですよ。綺麗で、淡い色の乳首で肌の張りもあってという。

 

志水:いわゆるロリコン同人誌から出たマンガ家さんのなかにも、自分で使うために書いてた人がけっこういるんだ(笑)。

 

斉田:それは、たとえば、小説の世界でも、私にしてもそうだったし(笑)、作家の○○や××なんか、今でもそうですよね。描きながらヌいて、著者校正しながらまたヌいて、で、上がってきたのを読みながらまたヌいちゃう(笑)。

 

大人なのにロリータ

──ロリータの世界では、細分化とセッションがいつも起こっているような印象があるんですが、例えばロリータで巨乳とか、そんなものが現実に存在するのか疑問なんだけど、そこでは何の問題もないわけでしょう。

 

青山:マンガ、アニメの世界で純情な成人女性を描くと、いかにも作り物、嘘だなって誰が見ても分かるような設定にしかならないんですよ。ある程度のリアリティを持たせるには、年齢を下げるしかない。

 

斉田:小説を書く立場から言えば、もうシチュエーションというのは退行させちゃわないと。今の最先端で実際に生きてる小、中学生を頭に描いてやっていくとコケますね。それほどセックスの知識のない純な中学生に、たとえば塾の先生、進学塾とか、そういう現実のものを用意するんです。ただ、やってることはもう昔から出てくる子どもと同じです。

 

志水:マンガだと、宇宙人だったり、アンドロイドだったりとか。可愛がってる猫が女の子に化けちゃったみたいなさ、そういうパターンもありますよね。ようするにペットですよ。

 

青山:昔風にしてみたり、猫を持ってきたり、宇宙から来たり、神様だったり(笑)。そうやって考えるしかないんですね。結局、ウブでふくよかな大人のボディを持った、それこそ箱庭的な完成品が求められるんですよ

 

斉田:そういう意味では、アニメとかコミックの世界のほうが、そういうものをパッと作って持ってこれるよね。

 

志水:その前哨戦というか、前触れとして、アグネス・ラムがいたという話があるでしょう。童顔でボディが発達していて。『うる星やつら』のラムちゃんに直接つながってる。

 

コレクション化するリビドー

斉田:表メディアは分かりませんけど、現在のいわゆるエロ本系の読者で言えば、昔からのロリコンが一方にいて、もう一方で昔は女子大生あたりに夢中だったのが、とてもじゃないけど感情移入できなくなって高校生にしたら、今度はブルセラが摘発されて冗談じゃねぇぞというんで、とうとう中学生に流れ込んだ。

だから今、ワッと膨れ上がった層はブルセラから流れ込んできた連中なんです。ハッキリ言うと、今の業界を賑わしてるのは、ロリコンというより気弱なスケベなんじゃないですか。後者のほうが圧倒的に多いと思います。朝日新聞の記者の事件とか吉本興業の芸人が干された事件とかが大々的に報道されると、下手に手を出しちゃ怖いということになるし、結局、メディアの世界に逃げ込んでくるしかないわけですよ。

 

青山:専門誌の『アリス・クラブ』が8万部出てるとかそういう世界ですもんね。

 

斉田:で、そうなってからの最も特徴的な変化というのが、志向がカタログ化したこと。読者の投稿を見ると、どこどこの本屋でプレミアムの相場が3万円ぐらいだった本を2万円で手に入れて、「わぁーい、得したぞ」とか。故・清岡純子が撮った写真集『プチフェアリー』を45万円出して買った、とか。単なるコレクションなんですよね。少女じゃなきゃ勃起しないとか、毛が生えたら気持ち悪くて嫌だとか、そういうごく一部のマニアはより深く狭い世界に潜行してるのかもしれないけど、『アリス・クラブ』の読者なんかにはあんまりいないような感じがします。それと、メディア的だなと感じるのは、僕のところに来る投稿で、「よくまあこんな一瞬のモノを」というようなのがあるんです。何月何日のニュースで、急に暑くなったから、川で子どもがパンツ一枚で遊んでたとか、どこかの学校で事件があって、画面の隅にブルマの女の子がウロチョロしてるとか。

 

志水:四六時中、ビデオを回してるんだ。

 

斉田:そうなんですよ。そういうものを常に求めてる。じゃあ、いったい何のために求めてるのかというと、やっぱ、採用されて満足を得るのかなという

 

青山:リビドーが射精よりもコレクションに向いちゃったりしてるというのがあるんですねぇ。オーガズムよりもいいものは何かという方向で、まあコンピュータもあるだろうし、いろいろあるんだろうけれども……。

 

ジャパニーズ・ロリータが世界を席巻する!

青山:今後、日本のロリータは、海外に進出すると思いますよ。というのは、日本の風俗はおカネを払えば、同じサービスをしてくれますよね。ところが、この前、ハワイ取材に行ってさんざん聞かされたんだけど、アメリカは違うんですよ。買ってからが交渉で、あんたとはやりたくないからダメと言われたり、そこからさらにおカネを積んだり、ようするに普通の男と女の関係に持ち込まれちゃうらしいんですね。風俗ですら男の従性が求められるという状況だから、オタクみたいのいるの? って聞いたら、もういるいるって(笑)。流入する下地は充分にあるんです。

 

斉田:実際ブームの頃にね、都内の某ロリコーンショップに書籍の取次ぎの海外事業部がまとめ買いに来てたって。『CANDY』とか『アリス』とか書店コードのない本を。

 

──アメリカなんかでもちょっとずつ受けてるみたいですね。

 

青山:『うる星やつら』と『ああっ女神さまっ』がもう出てるという話でしたからね。

 

志水:『オオ、マイ、ゴッデス』というタイトルでね(笑)。

 

斉田:そういう表メディアもそうだけど、ちょうど『プチトマト』がおかしくなったのもアメリカのポルノショップが日本のものをどんどん輸入して、問題視されたかららしいんですね。聞いて笑うに笑えなかったのは、日本人の少女が出てるぶんには問題がなかったらしいんです。でも、白人の三人娘の本がいっしょに向こうに流れて、これはとんでもねえっていうんで摘発された、と。で、日本はいったい何をやってるんだ、というようなことになって、慌てて『プチトマト』が摘発されたらしい。

 

青山:僕がロリータものやってたときも、オランダから何度も手紙が来ましたよ。日本のロリータ写真を送ってくれ、高く買うからって。

 

斉田アメリカなんかでは絶対あり得ないはずのものだから、絡んでようが絡んでなかろ,うが、ただ裸で突っ立ってるだけで、非常に貴重なものだというのがあるわけですよね。

 

男はつらいよ

青山:幻想の再生産は今後も続くだろうけど、やっぱり男は現実世界で少女なるものを求めるのかな。それとも、法的に不可能なんで、国際結婚が流行したりするんですかね。多いんですよ、ロリータじゃないけど、なるべく純情そうなアジアの女性と結婚する男って。これはロリータ現象と直接には結びつかないけど、同じような流れだと思いますよ。純情って、メディアの世界と第三世界だけで生きてるって感じがしますね。つまり、男のマインドのなかでね。

 

斉田:ビジュアルの世界でも、実際問題、そんな奴はいねえよというぐらい純情に作ってあげないと、読者には受けないですよ。

 

志水:SM小説でも、言葉遣いが『東京物語』してる(笑)。山のあなたの空遠く、純情住むと人の言う……(笑)。

 

斉田:そうなってくるとやっぱり、ロリータメディアというのも、今のまんまでずーっともう行くのかな。叶わぬ夢みたいなところで。

 

志水:それはそうでしょうが、ロリコンマンガは飽きるんです(笑)。体験のない人がほとんどで、他人のマンガの真似してるだけなんですよ。みんな同じだから。

 

青山:メディアの状態で飽きちゃうというのは大きい問題ですよ。ロリータだけじゃなくて、スカトロでも、妊婦ものでもなんでも、メディアでゲップっていう

 

斉田:願望そのものは、もうどんどん膨らんでるし……。

 

青山:どんどん行っちゃってるから、逆に、並の女見てもお前ぐらいじゃダメだっていうね。僕なんかが模索してるのは、女以外のものでチンコ立たせてくれるものはなんかないかなってこと。なかなかないけど(笑)。まあ、男と女の対立というのは、ロリータとは離れても、これから際限なく拡大するでしょう。女は圧倒的に現実感覚で、どこかに行くとか、セックスばんばんしましょうとか。一見進んでるみたいだけど、それは昔の男がやってたことなわけで。

 

──女性にスイッチを合わせて、遊びに付き合うって男はバカっぽいですもんね(笑)。

 

志水:それは言えてるんだよなあ。

 

青山女が三高の男を望むというのもおかしいんです。だってそういう男は受験制度の真ん中を突き進んだ人だから、ある程度擬似世界に浸ってるはずなんです。むしろ女は土方とか、専門学校生とかを選ぶべきなんですよ土方だけど、顔は草刈正雄っていう(笑)

 

斉田:そんな奴はいねぇって(笑)。

 

青山:特に性欲の強い一流企業のOLには、土方とか専門学校生との組み合わせがしっくりくると思いますよ。やっぱり。あと、アダムとイブじゃないけど、アレって隠してるから楽しいんで、ヌーディスト村かなんかに参加しちゃったら、ぜんぶインポになったっていう話がアメリカであるでしょう。年中、チンチン、マンコ見てるわけだから。僕も写真を含めて何千のマンコを見たことか。もう飽きちゃいますよ。あんなもん。そこまで考えると、性の解放とかっていうのは、よくないんじゃないかな。裏ビデオとか裏本だって簡単に買えちゃうし、カネ払えば風俗に可愛い子がいてできるし。そんなのばっかりやりまくっちゃってたら、もう……思想を低めるだけですよね。

 

──まあ、女の人はいいのかもしれないけど、ほんと“男はつらいよ”ですね(笑)。

 

あおやま・まさあき

60年神奈川県生まれ。慶応大学法学部在学中からロリータ業界の仕掛人として暗躍。チンピラ系シンクタンク「東京公司」代表。著書に『危ない薬』(データハウス)。

 

さいだ・いしや

53年東京都生まれ。フリー編集者、ライター。ロリコン専門誌でデビュー。以来この道一筋。E・S・P代表。

 

しみず・かずお

54年東京都生まれ。作家、科学解説家、SF研究家。元アニメ雑誌編集者で、漫画やアニメへの造詣が深く、ロリコン同人誌について論じた最初の人物。

 

 (引用者注:青山はエロ漫画で抜けなかったそうだ。しかしながらデビュー後に一度だけ『シベール』の中心人物である蛭児神建と会っている

 

ロリータをめぐる冒険

芸術か、犯罪か。幻想か、妄想か──。

ロリータをめぐる冒険

評価の定まらないロリータへの旅は、つねにイバラ道だ。

日本男子の眠れるロリコン心に初めて揺さぶりをかけたのは、作者不詳の海外ノベル『ペピの体験』(富士見書店)と、アメリカから入荷された写真集『モペット』シリーズである。どちらも、市場に出回りはじめたのは77年の夏のことだ。『ペピの体験』は、少女をメインキャラに据えた究極のチャイルド・ポルノ小説。もう一方の『モペット』は、米ヌーディスト村にカメラを持ち込んでの、いたって健全な(?)単体少女ヌード写真集。とはいえ、幼い乳房とへアなしのワレメのオンパレードは、ポルノ後進国日本にあって、それなりのセンセーションを呼び、週刊誌などに取り上げられもした。

さて、『モペット』ショックからおよそ1年半。79年の1月にロリコン・ブームの実質的な火付け役と言われる『リトル・プリテンダー』がミリオン出版から発売される。海外ものではなく、日本人少女(5人)の全裸を日本人カメラマンが撮影したという点で、この写真集が世の男性、そしてエロ・メディアにもたらした影響は大きかった。このムックがきっかけとなって、その後、続々とロリータ・ヌード写真集が出版されることとなる。

白人少女ソフィーをフィーチャーした『ヨーロッパの小さな妖精たち』(79年)、超絶美形巨乳少女・花咲まゆ(13歳)の豪華箱入り本『潮風の少女』(82年)、少女の純朴な笑顔が印象的な『さとみ10歳の神話』(83年)、後に英知(英知出版)3部作と称される『心のいろ』(84年)、『君はキラリ』(84年)、『不思議の国の少女 早見裕香』(84年)、通巻42号を数え、質量ともにトップを誇った清岡純子写真集『プチトマト』シリーズ、などなど。80年代だけで、何と100タイトルを優に超えるロリータ・ヌード写真集が出たというから恐れ入る

 

『ヘイ!バディー』創刊

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1980年創刊。後にロリコン雑誌の先駆的存在となる同誌だが、創刊当初は至って凡庸な中年向けエロ本の一つだった。81年末から82年春にかけて青山正明氏の参入を経て徐々にロリータ記事が増えていき、1982年6月号からは完全にロリコン雑誌に移行する。とくに読者投稿コーナーでは少女の盗撮写真や連れ込み写真など犯罪の匂いがする危険な写真も平然と掲載する姿勢が話題を呼び、3年間で7万2000枚もの少女写真が集まった。しかし、85年に別冊『ロリコンランド8』が発禁となり、本誌も休刊を決断する。「ワレメが見えないロリコン雑誌はもはやロリコン雑誌とは呼べません」「以後ロリコン誌とは呼べなくなるHBを終刊することにしました」とは終刊号での編集長の談

ジャンルの区別なく、人気のあるテーマは定期刊行物、つまりは雑誌となって、ファンを拡大・再生産していくのが消費社会の常。ロリコンもその例に漏れず、80年に創刊された月刊『ヘイ!バディー』(白夜書房)が、ブーム過熱に多大な役割を果たした

創刊当初、ごく当たり前のアイドル系エロ雑誌だった『ヘイ!バディー』が明確にロリコン色を打ち出したのは82年の春。私事恐縮だが、実を言うとこの雑誌、僕が初めて原稿を書いた商業誌である。

74年、中学2年の夏に偶然、デンマーク製のチャイルド・ポルノ誌『チルドレン・ラヴ』を手に入れた僕は、以後、高校・大学時代を通してよからぬコレクションに血道を上げる。その成果発表する場が、ようやく与えられたというわけだ。

かくして僕は、80年代初頭小ら半ばにかけて興隆を極めた“第1次ロリータ・ブーム”の作り手のひとりとなる。いやはや……

思い返してみるに、『ヘイ!バディー』の誌面は毎号、とことん過激な企画で埋め尽くされていた。

少女のヌード・グラビアは当然として、読者が投稿してくる水着レオタード、パンチラ、犯罪すれすれの全裸スチール、最新ロリー夕写真集の紹介、素人撮りを含めたビデオの通販情報、さらには極めつけ、「内外のロリータ裏ビデオのレビュー」なんていう連載記事もあった

全盛期には7~8万部を売り上げていた『ヘイ!バディー』。なぜ、こんなマニアックな専門誌がそこまで部数を伸ばしえたのだろうか?

もちろん、正解は、「熟れる寸前、少女の肉体はひたすら純粋に美しい」から。それともうひとつ、よく言われることではあるが、「男の理想とする女性像」「現実の女性」とのズレも、ロリコン男の形成に深く関わっていると思われる。

 

時代がロリコンを産んだ

栄養状態の向上にともない、早性の精通年齢は徐々に低下、ひと昔前に比べると肉体的に大人になる時期は早い。にもかかわらず、学歴偏重の歪みか、「大学に入学するまで、生身の女性と交わるのは禁物」というおかしな常識が流布。勢い、精通してから大学に入るまでの7~8年間、相当数に上る男性がマスターベーションのみによるオーガズム体験を繰り返す。あまつさえ、氾濫するセックス・メディアによって疑似セックスの質は高まるばかり。こうした視覚重視の長期にわたるマスターベーションが男性、とりわけ少年の性的メンタリティに深刻な作用を及ぼすことは想像に難くない。執拗なマスターベーションは少年が抱く「女性のイメージ」を現実から遊離させ、そのイメージは理想(美化)と逸脱(異常性欲)の狭間を揺れながら、いびつな形で肥大化し固定化していく。ところがいざ現実の女性に接してみると、彼女たちは決して従順ではないし、純粋でもないし、ひどく淫乱というわけでもない。疑似セックスによって培われた「女性のイメージ」は、「生身の女性」の前に脆くも崩れ去る。

それでもなおイメージにこだわる、というより疑似セックスから抜け出せずにいる男性は、自らのイメージに合致する装置なり対象なりを追い求める。前戯至上主義のイメクラしかり、即物的射精装置のピンサロしかり、年長女性にすべてお任せのマザコン男しかり、そして、心身両面にわたって優位に立たんとするロリコン野郎しかり、である。

男の性のヴァーチャル化とは別に、セックス産業におけるロリータ・メディアの盛り上がりは、「ヘアがダメなら、ワレメがあるさ」という商売上の安易な戦略と解することもできる。ただし、同じ少女を扱った性産業でも、70年代のヨーロッパを賑わせたチャイルド・ポルノと、日本のロリコン・メディアとはかなりの隔たりがある。欧州のチャイルド・ポルノは、少女のワレメを広げ、そこにペニスをぶち込む紛うかたなきポルノ。片や、日本のロリコン・メディアは、体験談や小説といった文章ものを除けば、単に小さな乳房やワレメの鑑賞にとどまるロリータ・ヌード。では、日本人はチャイルド・ポルノが嫌いなのか。いや、違う。

その証拠に『ヘイ!バディー』には、読者が女子中高生を部屋に引っ張り込んで撮影した「犯罪の匂いムンムンの全裸写真」や、ヨーロッパ・東南アジア・日本で製作された「少女との本番ビデオ」に関する写真付き記事ほぼ毎月掲載され、好評を博していたのである。しかし、そうした読者本位の過激な誌面を、お上が黙認し続けるはずがない。そうこうするうちに、本誌に次いで、投稿写真を集めた別冊『少女アングル』が当局から警告を食らい、85年11月号をもって廃刊となる。『ヘイ!バディー』が廃刊に追い込まれた理由は、当局絡みのトラブルだけではなかった。

84年12月に創刊された後発のロリコン専門誌『ロリコンHOUSE』(三和出版)に読者を奪われ、部数に翳りが見えはじめていたのだ。投稿に重きを置いたアングラ色濃厚な『ヘイ!バディー』に対し、『ロリコンHOUSE』は山添みづき、萩尾ゆかりなど、作り手が率先して次から次へとロリータ・アイドルを輩出。また、コミックスやアニメにも紙幅を割き、「美少女&二次コン」という今日にも通ずる新境地を開拓してみせた

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 (監修の川本耕次は元『Peke』『少女アリス』編集者。なお『ロリコンHOUSE』は89年の宮崎事件の余波を受けて『ロリくらぶ』に誌名を変更している)

 

撤退する少女のワレメ

80年代末、諸々のアブノーマル・エロ・メディアが復興を遂げるなか、ことロリータものに関しては、いまだにハード路線(ワレメ露出)はご法度のようだ。『ヘイ!バディー』が出ていた当時は、ビニ本ルートでも『みるく』や『CANDY』など、ワレメ盛り沢山の不定期刊行物が流通していた。しかし、いくつかの例外を除けば、その後のビニ本系のロリコン誌は、表メディアと軌を一にして、ソフト路線(ワレメ消し)に転向していく

グラビアから映像媒体に目を転じてみると、日本初のロリータ・ビデオは、82年8月に発売された『あゆみ11歳 小さな誘惑』。伊豆の別荘地で少女と出会った大学生の青年が、彼女にほのかな思いを寄せるという淡いラヴ・ストーリー仕立ての作品である。大学生ツトムの役を若かりし青山正明(当時大学4年生)が務めたこととはまったく関係なしに(トホホホホ……)、定価3万円の本作はあっという間に4千本を売り尽くした

『小さな誘惑』のヒットを潮に、写真集よろしく、あまたのロリータ・ビデオが矢継ぎ早に制作される。数量が増せば、おのずと内容もバラエティに富んでくる。12歳の少女の乳首を男が舌先でつつく衝撃作『小さな妖精』(84年)、14歳のEカップ少女を配した『尼寺の夢少女』(85年)。

しかし、80年代の半ば頃より方々からワレメ規制の声が上がり、88年夏になると、ビデ倫が「ロリータものを審査対象外にする」旨を通達。リリース数は急激に減少した。その前年には、『プチトマト42』が警視庁から摘発を受けており、これらふたつの事件をもって、少女のワレメは表メディアからの完全撤退を余儀なくされる

 

裏ビデオの中のロリータ

表があれば、裏がある。日本に出回っているロリータもののなかで、唯一『チャイルド・ポルノ』と呼べるのは、いわゆるロリータ裏ビデオである。これには、ヨーロッパ製8ミリ作品のビデオ起こし、東南アジアもの(ほとんどがタイ)、日本人ものの3ジャンルがあって、最も人気を集めているのは、言うまでもなく日本人少女の本番ビデオだ。

83年春に流通が始まったロリータ裏ビデオ第1号『処女の泉』(13歳)、小太り少女のヨガリ声が鮮烈な『少女伝説』(推定年齢13~14歳)、八木さおり似の美少女緊縛もの『ザ・変態』(13歳)、局部のアップ・シーンが話題になった『フィックス14歳』(14歳)、フェラチオありバックありの『夢まくら』(推定年齢14~15歳)……(いずれも裏ルートで現在入手可/引用者注:今は無理だろう)

少女の年齢は、流通当時、さる筋に確認を取ったものだが、なかには『少女の道草』や『変な感じ…』に出演した12歳の少女のように、製作者が逮捕され、新聞報道で年齢が明らかになるケースもままあった。余談ながら、これらの作品は、マニアのあいだで“お墨付き”ロリータ裏ビデオと呼ばれる。

ロリータ裏ビデオに対する当局の対応はきわめて迅速にして厳しいゆえ、ここ7~8年、コレといった新作は出ていない。まあ、『危険なおじさん』シリーズなど、東南アジア少女の本番ビデオは、ポツポツとリリースされてはいるらしいが……。

 

オタク文化としてのロリータ

85年の『ヘイ!バディー』の廃刊、87年のビデ倫通達、88年の写真集摘発。一連の事件を経て、一時下火となったヴィジュアル系ロリコン・メディアは、90年代入り、またぞろ勢いを取り戻した。

88年12月に創刊されたロリータ専門誌『アリス・クラブ』(白夜書房)は、隔月ペースながらも部数8万を達成。増刊のロリータ・データベース『ミルク・クラブ』(通巻4号)は眩暈を覚えるほどの充実ぶりだし、今年になって、女子中学生に的を絞った『プチミルク』(隔月)と『フィフティーンクラブ』(隔月予定)が少年出版社(現・コアマガジン)から相次いで発刊。また、読み物主体の『小説アリス』(綜合図書)は、8月売りから月刊になるという。

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ビデオのほうも盛況で、HAL、R&S、ランド企画といった通販メーカーが、続々と新作を放っている。何よりも驚きなのは、老舗のペペ(高田馬場)に追いつけ追い越せとばかりに、ロリポップ(上野)、ランド企画(駒込)、ミミィ(大久保)、エンジェル(新宿)と、昨年だけで4軒のロリー夕専門店が都内でオープンしたことだ。

今もってあからさまなワレメの露出はままならぬようだが、それでも、部数8万の定期刊行物が存在し、専門ショップは1軒からいきなり5軒に急増。これをして、“第2次ロリータ・ブーム”の到来!と見る向きは多い。このまま拡大していくのか、ハード路線が甦るのか、あるいはオタク文化のひとつとして海外に広がっていくのか。う~ん。

本稿の執筆にあたり、僕は方々に取材して最近の情報を収集した。が、結局、第2次ブームの実態については、表面をなぞる程度にとどめた。かつての作り手である僕としては、「一般誌で取り上げられたばかりにお上に潰される」という事態だけは避けたかったからだブルセラの例もあるしネ。詳しく知りたい人は、専門誌を買って読めばいい。メジャー誌の編集諸兄よ。ネタがないからって、マニアの“密かな愉しみ”を奪うようなマネはしないように!

 (青山の記事の3年後、1997年に書かれた斉田石也の記事)

 

番外・変態さんと犯罪者「真正ロリコン列伝」

ここまでやると、もうアウト。絶対マネてはいけません!

青山正明(文筆家)

いわゆるロリコン業界の現場から離れてもう10年近くになる。だが、今でも交遊関係だけは現役(?)で、ロリータ趣味を持った知り合いが何人かいる。雑誌作りに関わっていた頃の友達からその友達を紹介され……というようなアンバイで、“ロリコン仲間”の命脈は保たれてきたのである(偉そうに言うことではないが)。

ひと口にロリコンと言っても、何に悦びを見いだすかは個々人によって異なる。アニメのマニア、美少女CMのコレクター、ロリータのムックやビデオを見つつ、自己完結型リビドー処理、に励む者。分けても、僕の好奇心を刺激してやまないのが、正真正銘のロリコン野郎、専門用語で言う「ペドファイル」である

19世紀末、ドイツの精神病学者クラフト・エビングは、その著書『性愛の心理』(旧邦題『不完全なる結婚』)の中で、ペドフィリアという言葉を創出した。これは、ギリシア語のペド(子供)とフィリア(愛)から作られた用語で、一般に、“小児性愛”と訳される。そして、ペドファイルとは、ペドフィリアの性癖を持った人のことを指す。

 

少女に○○入りヨーグルトを!?

真正ロリコンペドファイルの願望はただひとつ。「少女とヤル」である。しかし、説明するまでもなく、この行為は違法なため、ペドファイルはなかなか本懐を遂げられない。そこで、仕方なく代替行為に及ぶのである。

彼らの多くは、まず少女と友達になることから始める。少女に近づく方法は色々あるが、大学生なら家庭教師や塾の講師、それからプールの監視員、社会人ロリコンの場合は、ボランティア団体に加入し、休日、孤児院で働くといのがよく使われる手だ。

つい先だって、銀行勤めの友人S(31歳)が、都内の某ボランティア斡旋団体Tに赴き、「学習指導者」として団員登録を済ませた。その際、担当者に「希望施設の条件」を問われたSは、「女子中学生が多い施設」と真顔で答えたそうだ。

では、友達になった後は、どうするか。それは人によってまちまちで、自分の部屋に連れ込んで一緒に漫画本を読んだり、映画を観に行ったり、喫茶店でお話ししたり(いったい何を話すんだ!?)と、いたってメンタルな関係のままでいる者もいれば、ちょっとした悪戯をしでかす者もいる。

例えば、これまた知人の大学生T。彼は塾で知り合った小学4年生の女の子を、少女漫画をエサに下宿に招き入れた。そうして頃合いを見計らい、「おやつだよ」と、差し出したのはヨーグルト。ここまで書けば察しがつくだろう。そう、Tは教え子の女の子に、あらかじめ用意しておいた自分の精液入りのヨーグルト(!)を食わせたのだ。

そういえば昔、自分の精液をスポイトに入れ、それを持って早朝の児童公園巡りをしていた奴がいたっけ。そいつは公園に設置された飲料用の水道の蛇口に精液をつけ、少女がそこに口をつけて水を飲む様子を眺めては喜んでいた。

土方のおっさんとかがイノ一番で口をつけると、悲しくて……」屈折の極みである。

 

ロリコンから、犯罪者への逸脱

どうしても、少女の裸をナマで見たい。そんな願望をいとも簡単に実現してくれるのが、公衆浴場だ。彼らロリコンにとって最大の関心事は、いつ、父親に連れられ少女が入ってくるか、ということ。風呂場は暑いし、脱衣所は番台の目が気になる。存外、銭湯内で待ち続けるのは難しいらしい。

25歳のフリーターKは、4年ほど前、ついに究極の銭湯を発見した。京浜急行U駅下車、徒歩5分にあるU湯。まあ、言葉にしてしまえば、どうということもないのだけれど、この銭湯の真正面にはBという喫茶店があって、Kはそこで2、3杯コーヒーを啜りながら、銭湯に入る客をチェック。そして娘連れのオヤジを見たら、急いで会計を済ませ、銭湯にダーッシュ! ──銭湯内での少女へのアプローチ法に関しては、読者の皆さんのご想像にお任せしたい。

さて、こうした“ヘンタイさん”にとどまっているうちはまだマシなほうで、なかには稀に“犯罪者”になり果ててしまう者もいた。

僕がロリータ系のビニ本をこしらえていた頃、Fという男がしばしば編集部にやってきた。当時、30代半ば、定職に就かずぶらぶらしていた彼は、根っからのペドファイルで、投稿用にと、いつも自分で撮った写真やらビデオやらを携えていた。

今思えば、どれもこれもすこぶる危ない内容だった。家に連れ込んでの単なる裸の写真ならまだしも(これも立派な犯罪行為だが)、このおやじ、少女のスリットにペニスを擦りつけたり、押し当てたりと、神をも恐れぬ暴挙に打って出、それをクローズアップで撮影していたのである。相手の子は決まって小学校低学年。「アニメを見せるとか、お菓子をあげるとかして、気をそらすのが泣かせないコツ」「小学校3年生ならペニスの半分ぐらいまで入る子がいる」。

僕に写真やビデオを見せながら、彼は自慢げにそんなことを語っていた。

「Fさん! Fさん!」

女性の声。Fの家のドアを激しく叩く音。幼女と戯れていた最中、公園で娘をFに連れ去られたと知った母親が、慌てふためいて彼の家にやってきたのだ──!!

その一部始終を収めたビデオを見せられたときには、ホント驚いた。

その場はどうにか切り抜けたものの、Fはそれから約1カ月後に逮捕される。当然の報いだろう。

少女の膣より、少年の肛門のほうが入れやすい

そう言ってはばからなかったHが捕まったのも、確か同じ頃だった。彼は男子幼稚園児2人に50円ずつやって、公園のトイレで彼らのチンチンを睾丸ごと頬張った……。

 

ペドファイル・グループ

犯罪者になるのは御免と、たくさんのペドファイルがタイ北部の街チェンマイに飛んだ。ごく一部ではあるが、インドのボンベイやフィリピン、台湾、ブラジル、アルゼンチンなどに渡った者もいた。むろん、これらの国でも子供との性行為は認められていない。しかし、事実として、置屋には14~15歳の娼婦がいる。

最近の日本では、5万円も出せば女子中学生が買えるそうだが、それでも、少女買春を目的として海外を訪れる男の数は減ってはいないと思う。

東南アジアだけで毎年60万人から80万人の子供(国連の定義では18歳未満)が、性的犠牲者になっているという。加害者の大半は欧米の白人男性で、興味深いのは、彼らが組織的、に少女買春を行なっているという点である。

「8歳前にセックスを!」。そんなスローガンを掲げる会員数約5千人の米ルネ・ギヨン・ソサエティ、幹部が公の場で「セックスに同意できる年齢を4歳にまで下げろ!」と発言し、物議を醸したヨーロッパ最大の地下組織ペドファイル・インフォメーション・エクスチェンジ。また、アメリカのハワード・ニコルス・ソサエティは会員に向けて『子供とセックスする方法』と題されたパンフレットを発行している。

団体行動が好き、と内外からよく言われる日本人。ところが、実践派ロリコンに関しては、日本に数百から数千人規模の組織があるという話は聞いたことがない。相互に連絡を取り合う場がないためか、それとも、組織を形成するほどの数がいないのか?

重々しいエピソードを羅列してきたが、実際、買春や犯罪にまで及ぶペドファイルは、日本ではまだ極々少数である。ロリコンと言われる者の大半は、コミックスやグラビア、ビデオといったメディア内世界の住人にとどまっている。どっちも、ヤバイ存在であることに変わりはないのだが……。

『ポピーザぱフォーマー』制作秘話―デジタル製作チーフかく語りき―

以下の文章は、2018年に『ポピーザぱフォーマー』の増田龍治監督のインタビューがニュースサイトで公開されて話題になった時、元制作チーフの村井昌平*1Twitter上でひっそりと明かした制作秘話です。大変興味深い内容なので書き起こしてみました。また増田監督のインタビューを補完する内容にもなっているので、氏のインタビューと併せてご覧ください。

省力化について

安心モデル制作、緊急CGアニメーション、涙の編集の村井昌平です。

お話でなるべく作業が楽になるよう考えてもらえたのは有難かったのですが、繰り返しで同じシーンを使うパターン以外はあまり省力化にはなってませんでした。

太陽を半分にして画面の半分を影にしたのはお話的にはとても面白かったですが、キャラが見えてる側に寄るだけなのと、真横からでなく斜めから見せるカットが多い上に境界をぼかしてくれと言われたので影はフォグで表現する事になり、逆に重くなりました。そもそも普通のカットのレンダリング時間は大抵1枚10秒以内で済んでいました。

「STOP THE GUN」ではタイムスリップの度にケダモノが倍々で増えるので使いまわしが出来る以上にシーンが重くてえらい事になりました。全然楽では無かったです。面白かったですけども。

ちなみにポピーの指が3本なのは省力化ではなく確か一番最初のスケッチから3本でしたよ。でも指が3本なのは実際助かりました。たまに持つのが大変な物もありましたが。銃とか。ライティングも省力化の為、基本はカット毎に新たに手を入れずに済むよう先に考えて作っていました。後半では少し余裕が出てきたので場面によっては改めてライトを追加・調整しています。

一般に3DCGでは影が黒くなりがちですが、ポピーでは絶対に影が無彩色の黒にはならないように工夫しています。明るい印象にする為ですが、一部で陰惨な印象を与える為にわざと黒にしている所もあります。

続篇について

ポピーザぱフォーマーの続篇の話があったというのは自分も聞いてはいますが、正直やっぱり難しいんじゃないかと思いますね。まずは増田さんが話を作れるかどうか。それから作る人間の体力的な部分で、予算と人を増やせば確かに楽に作れるようにはなるでしょうが、果たして楽に作った物が同じだけのテンションを維持できるのかどうか。苦しめば良いという物ではないけど、本気で魂を込めてギリギリまで自分を追い込まないと出来ない物も中にはあります。ただ誰かに自分と同じだけ苦しめと言うのも忍びない。しかし今自分が前と同じ事をやったら今度は死ぬかもしれない…

また少人数だからこそやれたという事もあって人数が多くなると意見やイメージの統一が難しくなって来ます。

それからマシン環境や技術的には以前より格段に上がっているのでやろうと思えば前より遥かに綺麗には作れるでしょうが、もし綺麗にリアルに作ったら、「残酷? 何を言ってるんですか 所詮ポリゴンですよ」という誤魔化しが利かなくなって場合によっては不味い事になるかもしれません。

あの画面作りは、軽くする必要性とチープでポップなデザインとキャラクター性のギリギリのバランスで成り立っているので、何かを変えたら他も変える事になるでしょう。イメージを崩さずアップデートするのは相当難しいのではないかなあと思います

予算について

超低予算でしたが、これはポピーが実験だったからです。瑞鷹が自腹を切ってもし大失敗したとしてもそれ程痛くないギリギリの金額でした。増田家への月10万円は原作料を買い切りにしなかった為の数字です。

買い切りにしていればもう少し上がったはずですが、そうしなかったのは結果的には正解だったと思います。DVDが売れた際にその取り分の収入があったはずなので。

ただ苦労に見合う額だったかというと微妙な所かも知れないですね。

ちなみに全体の制作費も1本で10万円でした。音楽やテープ出力などのお金もここに含まれます。

一方瑞鷹社員だった自分達は予算とは関係なく会社から給料をもらっていました。その代わりいくらDVDが売れてもリターンはゼロ。DVDが売れた時やその後コロムビアのゴールドディスク大賞をもらった時には社長のポケットマネーで金一封頂きました。DVDが3巻で13万枚以上売れたのには本当びっくりしました。

増田さんの持ち味と制作方針について

死がシュールのくだりで恐らくみんな気付いたと思いますが、お察しの通りまず間違いなく増田さんはサイコパスです。葬式で知人の死に顔を見て吹き出してしまった蛭子さんと同種の人間です。感覚も視点も大抵の人とは違う。もちろんそれが悪いという事ではなく、だからこそ作れる面白い話があるんです。

ただサイコパスがそのまま突っ走るとサイコパスにしか分からない話が出来てしまう事がちょくちょくありました。

実家の熊本から送られてきたコンテを瑞鷹内の会議で開いてみんなで頭を抱えて「……分からない!!」ってなる事はしょっちゅうありました。しかし誰にでも分かる話を書いてくれと言ってはせっかくの持ち味を殺してしまうので、増田さんにはひたすらそのまま突っ走ってもらい、それを吉田さん始め瑞鷹内のみんなで分解再構成しつつ一般人や子供にも分かるような形に翻訳して作るということが多かったです(中には「DREAM」などほぼそのままで問題無く、しかも面白い話もありましたが)。またそのままでは4分の枠に収まらない事も多く、これをちゃんと構成して収めるのは吉田さんの仕事でした。

この辺、多分増田さん的には面白くなかったはずで、ステイン(引用者注:増田龍治の次作『ガラクタ通りのステイン』のこと)以後は直接指揮する形にしていると思います。ポピーと以後で作品の雰囲気が異なるのにはそういう事情もあります。

恐らくみんなが想像するのと違って実は増田さんはお話のかなりの部分を計算で作っているそうです。あの話が計算で作られているなんて逆に怖いと思いませんか? 頭の中には今までに見た膨大な作品のデータベースがあるようです。増田作品にはいろんな映画など(ホラーが多い)のオマージュがちりばめられていたりするので探してみると面白いかもしれません。あとこれはおそらく増田さんは与り知らぬところですが、自分や瑞鷹内ではポピーを本気で「子供向きアニメ」として作っていました。相手がキッズステーションである事もありますが、本気でヒットを狙うのに子供というターゲット層は絶対に外せなかったからです。また子供相手に子供騙しが通用しない事もよく分かっていました(ハイジの会社ですからね)。クレクレタコラカリキュラマシーンなどを参考映像として研究していましたが、カリキュラマシーンはまさに大人が本気で子供向きに番組を作っていました。子供目線で子供にも理解できるように作る事。それができれば逆に大人の心にも届くだろうという事でこれも一つの目標でした。

あと、とにかくまずは目立つ事。嫌われてもいいから見た人の印象に残る事。心に何も引っかからず流されるのが一番不味い、という事でこれも重要事項でした

キツかった話

増田さんはずっと実家の熊本でシナリオやコンテを書いていたので家で倒れてた自分を直接起こす事はできません。実際に家まで起こしに来たのは制作ダ天使です。

当時3ヶ月程休み無しで毎日会社に泊まり込みで起きてる間中働いて、一週間に一回風呂と洗濯の為に家に帰る生活をしてたのだけど、ある日家に帰って寝たらあまりに疲れ過ぎて全く目が覚めなかった。それで夜になって制作ダ天使が大家さんに言って鍵を開けてもらい部屋に起こしに来たのだけど…うっすらした明かりの中でふと目が覚めたら頭の上から黒い人影が無言でじーっと見下ろしてて、仰天して飛び起きたっていう。

せめて何か声を掛けて欲しい。あれはめちゃくちゃ怖かった…

ダ天使に連れられて頭も体も動かないまま会社に着いた所で泣き崩れてしまいました。本当にあれが限界だったんだと思います

体中が常にどこか痙攣してたし、全身の皮膚がカチカチに硬くなってたし足もよく痺れてました。怖い。当時は伊藤君が入ってくれてすぐの頃で、今まで通り仕事しながらいろいろ教えなきゃいけない上にまだ戦力にはならないという一番きつい時期でした。伊藤君が慣れてからはカットを半分前後任せられるようになり、それまでより遥かに楽になりました。伊藤君はあれは地獄のようにキツイ時期でもう二度とやりたくないって言ってますけど

当時はようやく放送した番組の反応がインターネットの掲示板などでダイレクトに返ってくるようになった時期でした。

視聴者のコメントは全て目を通していました。また、キッズステーションに直接送られたメールやコメントなども印刷して頂いていました。みんなのコメントは前向きで温かく嬉しい物ばかりでした。本当に有難かった。あれが無ければとても続けていられなかったと思います。視聴者の反応を見て増田さんがお母さんたちの反応を期待してポピーにゴキブリを食わせた話がありましたが、多分あれで一番ダメージを負ったのは自分です

音楽やタイトルなどについて

ポピーザぱフォーマーの制作全体の中でプロデューサーである制作魔王や制作ダ天使のセンスや采配による部分はかなり大きかったです。ポピーのサンプルイメージの曲を集めてきたのは制作ダ天使。ポピーのイメージがまだ定まらない時にこれらの曲のイメージは地味に大きく影響しています。Dr.Bombay、李博士メテオール(特に「赤い自転車」)、中国娃娃などでした。この辺は完全に制作ダ天使の選曲センスです。夜中に煮詰まって来た時などよくこの辺の曲を大音量でガンガン流してドリンク剤を流し込みながら仕事をしてました

メインテーマの具体的な方針を決めたのは制作魔王で、「耳に残りやすいスカのリズムで、東北訛りの人にスキャットで歌ってもらったら面白そうだ。歌える人に心当たりがあるので当たってみよう」という事で割とストレートに出来上がりました。曲は音楽将軍の手塚さん。作品中の音楽から効果音まで全て手塚さんです。手塚さんはロストユニバーススレイヤーズメダロットなど色々なアニメの音楽をされてる方で、自身も前にCGをやっていたそうで興味を持って引き受けて下さいました。ポピーが音楽に助けられた部分は非常に大きいです。ボーカルは青柳常男さんですね。

ついでにポピーの音楽では多くの人が疑問に思っているであろうロアの曲との類似性ですが、あれはパクリとかそういうのではなく、ガムラン民族音楽)の旋律です。前に音楽将軍に聞いた所、買った音源の著作権フリーの素材の中にガムランがあり、それをアレンジして作ったのがポピーの劇中曲。ロアの曲も同じ素材を使って作ったのではないか、という事でした。ポピーのタイトルですが、決定には実は自分も噛んでいます。仮題のポピーザクラウンから正式タイトルを付けなきゃいけないという段で、魔王だったかダ天使だったかが出したタイトルが「ポピーのトラウマ大サーカス」で増田さんが「それは無い」と言って候補を沢山送って来ました。自分がその中で「ポピーザぱぁフォーマー」というのから、長いのでパフォーマーにしつつクルクルパーを強調するのにトイザらスのように一字だけひらがなで可愛さキャッチーさを演出、「ポピーザぱフォーマー」としたところそれに決まりました。

タイトルロゴは若子さんが作った物をマキプロできちんと清書してもらいました。この辺すごく普通のアニメっぽいですよね。

制作について

2話の製作が終わった頃にOP曲とED曲の完成版が出来、金曜日の夜10時頃に吉田さんから「やっとOPのコンテ出来たよー」と渡され、「収録は月曜日だからそれまでに作ってね。じゃ!」と全員帰ってしまい、土日一人でOPの映像を作りました。月曜日になってもEDの映像をどうするか決まってなかったので任せてもらい、半日でED映像を作りました。あれはカーテンコールのイメージですね。1話2話の劇中音楽が他と違うのは、その時点ではまだ青柳さんの声の入ったメインテーマが出来てなかったからです。

ちなみに各話の編集作業は朝から始めて土壇場の修正作業も並行しつつ夕方には終わります。

出来たらCDに焼いた映像をバイク便で音楽将軍に届けます。音が出来たら何話かまとめて円谷映像の出力参謀にベータカムで出力してもらい、キッズステーションに納品となります。

一話のCGを作るのにかかる日数は9~14日程。一日のカット数のノルマは7カット前後。コンテと音楽と出力以外は自分がやってました。10話から後はここに伊藤君(CG黒子)が加わります。

あと制作ダ天使にレンダリング後の映像に被写界深度やエフェクトをかけたり、小物類のモデリングをかなりやってもらっていました。

一週間に一本新作を放送するのですが、そのペースでは作れないので、1クール13本のうち半分を先に作ってからスタート、2週間に一本のペースで作り、最終話で追い付くというスケジュールでした。幸いな事に全39話一度も落としませんでした。ただ実は一回だけ落ちた事があります。キッズステーションの番組担当者が1クールを12本だと勘違いしたために納品したテープが机の上で忘れられていたそうです。掲示板を見ると楽しみにしていた視聴者の方に「CGは大変だからね。仕方ないね」って言われてて泣きそうになりました。

最初は1クール分の13話で終わる予定でしたが、好評だったのでもう1クール、さらに1クールと2回延長して合計3クールになりました。

あと当時CMやアイキャッチ、カウントダウンの番組などもありました。初期のアイキャッチなどでは他の会社にモデルごと渡して作ってもらったりしていました。かまくらの奴は自分ですね。あとカウントダウンの時には増田さんがステインで忙しくて出来ないと言われたので仕方なく自分が全部作っています。いろいろ酷いと評判のようです。マラソンのみ伊藤君にアニメーションをやってもらいました。あと地球が壊れるカウントダウンも伊藤君ですね。

無声で作るという事

無声でやる以上、全ての説明を表情や目線や身振り手振りで表現しなければなりません。これは大変でしたが、動きで表現するというのはアニメーターの本分でもあり、面白くやりがいもありました。

必然的にトムとジェリーみたいな感じになりますが、ついでに自分は日本人流のカートゥーンを新たに作るつもりで作っていました。これは上手くいったのかどうか…フォロワーは無いような気がします。けものフレンズサーバルちゃんが車にはねられたり、後頭部を蹴られて地面を転げ回る所で吹き出しましたが、あれって多分ポピーのオマージュ的なやつですよね。違うかな?

説明を台詞に頼れない分、感情の表現力をあげる必要があったため、表情には非常に注力しました。

このあたりは制作陣との話し合いで出てきた事ですが、「少人数で非力な生産能力で目立つ作品を作る為には全てに力を入れるのではなく取捨選択が重要になる。目立つ部分、重要な部分にパワーを集中して作ろう。」ということで、それは表情であるという結論になりました。実際キャラのポリゴンからしても全身のポリゴン数の約半分が顔面に集中しています。まばたきや視線も大変重要な部分で、その為の簡単なリグを組んでサッケードなど、Dodgeの分類した眼球運動(というものがあると後に知りました。「眼球運動の分類」でWikipediaを探してみて下さい)を意識した動きをさせていました。

これに首の傾きや瞬きのタイミングを合わせることでかなり生きた感じを出せるようになったと思います。

ケダモノはお面なので表情は手描きですが、適当な感じを出すため、ペンタブはあるのにわざとマウスで描いてました。相当な数描いたと思います。ちなみに設定としては無いですが、CGモデルのケダモノはお面を外して正面から見ると間抜けで可愛い顔をしていますよ。見せられないけど。

当時は参考に出来るキャラクターCGアニメーションがまだトイ●ストーリーぐらいしか無かったので全てが手探りで試行錯誤しながら作っていました。台詞が無いおかげで、言葉の違う国や耳の聞こえない人にも楽しめるという話を後で聞き、なるほどそういえばそうかと納得しました。

残酷表現について

これは増田さんの作品では避けて通れない所があって、ギャグとしてやってるので外せなかったりするのですが、決して積極的に流血させたりしていた訳ではなく、出来る限り抑えて子供向きに配慮していました。抑えた結果があれです。一応なるべく鼻血ですませたり、額から垂れる程度にしてはいます。体が半分になっても流血しませんしモツも出ません。断面もパンみたいな感じです。制作者側としてはポピーでは残酷さは決して売りや目的ではないんです。ギャグの結果そうなるだけなのです。血はなるべくテクスチャーだけにしてリアルさを抑えるようにしていました。

よくトラウマだとか残酷だとかグロいと言われてますが、面白がって褒め言葉のつもりで表現したのがまともに受け止められて一人歩きしてしまってるような気がします。頑張って抑えてるからそこまででは無いんじゃないかなあ。どうでしょうか。

放送禁止について

よく放送禁止と言われてますが、放送禁止ではなく、キッズステーションでの再放送の自粛です。どの話も少なくとも一度は放送されています。キッズステーション以外にもTVKテレビ神奈川)など地上波でも放送されていてこちらは自粛はされていなかったと思います。

11話と27話ですが、一応どちらも理由は刃物を使うからとなっています(厳密に言うとほとんどの話が放送出来ないと思いますが…)。

11話の音楽が独特なのと声が入っているのは手塚さんがついノリ過ぎてサービスし過ぎたせいです。自分もあの回は流血をサービスし過ぎました。まあコンテ通りに作ったんですけど…。27話の自粛はちょっと不本意です。ラストが悪かったんですかねえ…

声と言えばカエルですが、あれはプロの声優さんに頼んでちゃんとスタジオで収録しています。

ポピーが動き出すまで

自分はフリーターやりながら趣味で絵を描いたりゲーム作ったり山に登ったりしながらふらふらしていた所、全財産の2000円の入った財布を落としてしまい、戻っては来たもののこのままではまずいと思いゲーム会社に就職。その頃、先輩後輩だった自分と増田さん若子さんはタ方の公園で「いつか一緒に何か作ろう」という話をしていました。これが全ての始まり。桃園の誓いならぬ公園の誓い。この話をする為に忙しい真最中の自分を勤務時間中に連れ出した増田さんは後でめっちゃ怒られてました。そりゃそうだ。

ちなみにこの頃自分はナムコミュージアム5のメインホールやワルキューレの部屋やキャラ、ナムコアンソロジー1のレッスルボールのムービーとかを作ってました。この頃、人間のモデリングのコツをつかみました。CGで人間らしい人間を作れる人はこの頃にはまだ少なくノウハウもなかったので、世間に先んじて何かが出来るような予感がありました。その後それぞれ退社。増田さんは無職のまま結婚します。

その後、増田さんがゲーム会社以前に社員だった瑞鷹で当時ハイジのTVアニメのリブートの話*2があり、それに自分が3DCGやデジタル製作のチーフ、増田さんが演出などで参加する予定で自分が先に入社して1年以上かけてデジタル製作の環境を調査して整えていた所、何だかんだあって話は中止になり、自分は東京で、増田さんは実家の熊本で宙ぶらりんの状況になってしまいました。先に吉田さんも同じくハイジの為に呼ばれていたが社内で宙ぶらりん状態に。非常にまずいと思っていましたが、増田さんは自分の計画をねじ込めるチャンスだと大喜び。自分も会社に「せっかく3DCGを作れる環境と人員を揃えたのだから何か作りましょうよ」と説得をするが具体的な話が無いため動けず。しばらくやる事がなくなります。

ちょうどその頃、瑞鷹でCD関係の特許を申請する事になり、その説明書を自分が漫画で描き提出(なぜ?)その実際のCDのサンプルを作る事になりました。熊本の増田家に単身出張して住み込みでやる事に。プログラマーは自分一人。

増田家ではこの少し前に赤ちゃんが生まれていて物凄く可愛かったです。結局半年ほど熊本にいたけど、この間にポピーとケダモノは生まれました。ある日仕事場に行ったら設定画が出来ていました。

見た瞬間に「これはいける!」と思いました。それまで他人のデザインしたキャラで作品を作るのは気が進まないと思っていたけど、見た瞬間そんなのは吹っ飛びました。それだけの力のあるキャラクターデザインでした。自分も世界観の設定画やその他キャラの絵を描き、出来たのが「未来人ポピー」でした。

実は同時期に先に増田さんはこじきの話をやりたいと言っていてそっちの話も進めていましたがこれは瑞鷹内の受けがあまり良くなく、保留にして後に回す事にしました。これが後のステインです

東京に戻った後、未来人ポピーの準備を進めていましたが、かなり作ったところで実際にアニメーションにさせるには背景が重過ぎる事、世界観が落ち着き過ぎて目立たない事から急遽二人のキャラ以外全部変える事になり、なるべく軽く派手にという事で作ったのがサーカスの広場でした

ポピーは未来人からクラウン(ピエロ)になり、サンプルムービーを作ってみる事になりました。出来たムービーを持って社長が「とりあえず試しにキッズステーションに行ってみるよ」と言って出て行き、数時間後「話決まっちゃったよ」と言って戻ってきました。地獄の始まりでした

キッズステーションの担当の添田さん(制作大王)は物産会社から出向してきた人で本当なら何年か働いて元の会社に帰るはずが、その間に元の会社が倒産して帰る場所がなくなってしまった可哀想な人です

ちょうどオリジナルの番組を欲しがっていた添田さんが軽率にポピーの放送を決めてしまったおかげで全てが動き出した間違いなく恩人です

しばらくすると添田さんは編成局長を経て社長になっていました。しかし元々他所から出向してきた人で一匹狼。社内の派閥争いの中では厳しい立場にありました。キッズステーション制作アニメの流れを作った添田さんの力を削ぐ為に対立する派閥にスケープゴートとして目を付けられたのがポピーでした。おかげで何度も無理難題を押し付けられる羽目に。

ポピーの手を5本指にしてくれというのもそうで、出来なければ放送はさせないと言われ、自分などは本当に頭に来てしまって、「そんな事を言われながらやる事は無い」と言ったのだけど、社長(制作魔王)に添田さんは恩人だし出来る限り何とかしたい」と言われ、それもそうだと考え直し、全員で必死に頭を捻った結果出てきたギリギリの妥協策がアレでした。ウルトラCだと思う。

しかしその後もずっと指に切れ目を入れさせられ、自分としては非常に不本意でした。OPを変更する回があったのも実はこれ絡みで、ポピーの手袋を脱がせてちゃんと5本指な所を見せて欲しいと言われて、やってやんよ、って作ったのがOP回です

確かに厳しい状況や無茶な要求を逆手にとってギャグに昇華して乗り越えた事で面白くなってる部分はありますね。追い詰められてみんなで脳をフル回転させた結果なんだと思いますが若干複雑でもあります。

しかし終わってみれば大変だったけどやりがいのある本当に楽しい仕事でした。今でも忘れられたりせず話題になったりしているのはとても嬉しいです。

 

P.S. 増田さんから参考にと渡された資料は人形劇でもヤン・シュヴァンクマイエルとかストリート・オブ・クロコダイルだったので、もしそっちで作ってたらポピーは芸術的過ぎてヒットはしなかったと思います。でも本人が作りたかったのはそっちだったんだよね。次がステインなのを見ればよく分かるように。まあ何だかんだで上手い事行って良かったです。

 

(本記事は村井昌平様の快諾・監修済です。ご協力ありがとうございました!! )

「今までに無い物を作るんだっていう気概や、何だかもう滅茶苦茶だし、めっちゃしんどいけどめっちゃ楽しい雰囲気が伝わればいいなと思います」(談)

*1:瑞鷹のCGデザイナー。本作のCGは彼1人(途中から2人)が社内で全部作っていた。

*2:頓挫したリメイク版アニメはCGアニメでなく手描きのデジタルアニメが予定されており、背景などで一部3DCGを用いることが検討されていたという。この企画が後の『低燃費少女ハイジ』と絡んだのかは不明だが、ハイジのアニメが採用されている「家庭教師のトライ」のCMのネタ出しには制作魔王(社長)や制作ダ天使(役員)もばっちり噛んでるらしいので、ある意味ポピーの遺伝子を受け継いでるといえる。

「(ハイジのCM企画は)自分が瑞鷹を出た後なのでそれほど良くは知らないです。ただハイジをCMに使いたいというオファーはずっと前から沢山来ていたものの、低燃費少女ハイジほど大々的に使ったのはあれが恐らく初めてですね。ハイジは瑞鷹の最重要コンテンツなのでイメージを崩すCMは勇気が要ったと思います」(談)

矢元照雄(国映創業者)インタビュー「日本最大のエロダクション国映とインディーズ映画プロダクションの時代」

矢元照雄(国映創業者)インタビュー

日本セクスプロイテーション映画興亡史

第2回 日本最大のエロダクション国映とインディーズ映画プロダクションの時代

取材・構成:鈴木義昭

協力:柳下毅一郎

映画秘宝』2007年7月号所載

日本テレビ版『ドラえもん』を製作した「日本テレビ動画」のルーツとして知られる謎のプロダクション「国映」。

その正体は、ピンク映画の語源となった作品を生み出し、名だたる映画監督を輩出した、知る人ぞ知るピンク映画の老舗であった。

そんな国映の知られざる功績を創業者の故・矢元照雄のインタビューから今一度ふり返ってみよう。

セクスプロイテーション映画とは……1970年代まで性表現の最前線にあったソフトコア・ポルノ映画の総称だ。アメリカではグラインドハウスで、日本ではピンク映画館で上映された「裸の出る映画」だ。大手スタジオではなく、小規模の独立系映画プロダクションによって作られている。国映は瀬々敬久いまおかしんじといった実力派監督の映画を製作する会社として、映画マニアに知られている。それだけではない。国映は日本で最も古い伝統を持つ元祖“エロダクション”だ。国映の歴史は、日本インディーズ映画の軌跡でもある。

エロダクションの時代~1960年代、日本ピンク映画を生み出した場所

文/鈴木義昭

「ピンク映画」という言葉の名付け親の村井実さんは数年前に亡くなったが、生前に何度かお会いした。TCC映倫の試写室へピンク映画の新作を拝見しに行くと、後ろのほうの席にニコニコ座っていらした。銀座の事務所へおじゃました時は(確かピンク映画の古い写真をお借りしに行ったんだと思う)、最近はピンクも少し飽きたから刀剣の本を作っているんだと言われ、立派な箱入りの本を見せていただいた。口には出さなかったけど、僕もいつまでもピンク映画の紹介記事ばかり書いているわけにはいかないなあと思った。あれはいつ頃のことだったか、すぐにはもう想い出せなくなってしまったのだが。

昭和38年(1963年)の夏、内外タイムスの記者だった村井実は『情欲の洞窟』という映画の撮影現場を取材した。同じスポーツ紙の記者仲間が声をかけてくれて、一緒にロケ先の奥多摩に出かけたのだ。沼尻麻奈美という新人女優が、監督の関孝二と「脱ぐ」「脱がない」でモメていたがそのうち思い切って全裸になり、ヘアも露に渓流にザブ~ンと飛び込んだ。彼女は「女ターザン」で森の中で暮らしているという設定だった。記事は9月9日付けの同紙に載った。ブルーフィルム程ではなく「セックス描写は、まあ、ピンク色の程度の映画」という意味で記事の中に「ピンク映画」という言葉を使った。もちろん彼の造語だ。当時同紙のデスクで後に芸能評論家として独立した藤原いさむは、「エロが売り物のプロダクション」だからと「エロダクション」というネーミングをした。この2つの言葉は読者に新鮮な感じを与え、言わんとすることもわかりやすかったらしく瞬く間にストリート・ジャーナリズムの世界で定着し頻繁に使われるようになる。『情欲の洞窟』を製作して村井さんたちを招待した映画会社の国映は、エロダクションの代表、草分けのような会社だった。立派な社名とは少しばかりアンバランスなお色気たっぷりの映画を量産して当時の映画界で台風の目のような存在になっていくのである。

戦後、混乱する日本映画界には次々とさまざまな独立プロダクションが誕生した。戦時中に統廃合させられた映画会社は、諸矛盾を抱えてその製作能力を低下させていた。映画が娯楽の王様だった時代であり、人々はどんな映画でもいいからどんどん見たいとばかり映画を求め、作り手もそれに応えようとしていた時代である。スタープロ、左翼系、娯楽派、子供向け、文化&教育畑などなどいろいろなジャンルの独立プロが登場した。「五社」といわれた大手映画会社は「協定」を結び、業界をコントロールしようとしていたが、くりかえし攻勢をかけてくる独立プロの新しい波に洗われてもいた。大手にできないことを独立プロはやってくれると、観客も期待していた。屋台骨の揺らぐ大手映画会社の一角新東宝に、活動弁士上がりで映画館や貸しスタジオを経営していた大蔵貢が乗り込んで新路線を提唱、『明治天皇と日露大戦争』を文字通り大ヒットさせた年、北海道の「材木王」がまさに電撃的に『電撃作戦11号』なる作品をもって映画界に攻撃を開始した。それは、後に国映を創立する矢元照雄の最初の攻撃であった!

 

国映を創り上げた男

文/田野辺尚人

矢元照雄は1925(明治43)年11月13日、北海道に生まれた。矢元家は伊達藩に仕えた家柄で、1869(明治2)年、祖父の代のときに開拓殖民団に参加、北海道に移り住んだ。矢元は地元郵便局で局長を務めていたが、憲兵の資格を取っていたことにより、1936(昭和11)年に予備役招聘がかかる。8月に赤坂にあった東京憲兵場に集められ、中国大陸へ派遣されることが決まった。当時は日中戦争の最中で北京に日本の憲兵隊本部が作られたからだ。北京には軍の飛行場もあり、そこから飛び立つ日本軍の戦闘機が中華民国軍と空中戦を繰り広げていた。

矢元「召集されてきた兵士も多かったが、飛行機乗りは撃墜されたら死ぬしかないと思っていたのか、特に荒れていた。当時、北京に中流していた1万人の兵隊を、たった6人の憲兵で取り締まるんだから大変だった」

北京での勤務は2年間に及んだ。1937(昭和12)年に現地で任務交代を済ませ、矢元は東京に帰還。その年の春に皇太子が学習院初等科に入り、通学警護を担当する。この仕事を1年間続けた後、海外から入っている会社などにスパイが潜入していないかを見張る任務につく。このときは背広姿で仕事をした。

1940(昭和15)年、旭川の第7師団に憲兵として転属。矢元は北海道へ戻る。1942(昭和17)年に中野学校が設立されたことで、矢元は郵便局長の職に復帰。同時に材木業の仕事も開始する。

矢元「太平洋戦争には従軍はしていない。戦争中、函館を爆撃した米軍機が郵便局の近くに停車した列車を機銃掃射したことがあった。そのとき怪我人救出の指揮を執ったけれど、軍事行動には参加していない」

1945(昭和20)年8月15日、職場の郵便局で玉音放送を聴いた。矢元もその日以前から戦争に負けるだろうことはわかっていたが、口に出すことはできなかった。工場地帯のある室蘭が爆撃される様子も目にした。敗戦の日、「神も仏もない」と話していたのだという。

敗戦後、しばらくは郵便局長を務めていた矢元だったが、1950(昭和25)年に憲兵隊に所属していたことから公職追放の対象になる。そこで材木業が仕事の中心になるが、戦後の物資不足の中で事業は順調に展開、翌年には木がなくなってしまうのではないかという勢いだった。

1952(昭和27)年には東京の大塚にあった旅館や室蘭にあった東日本造船を買い取り、事業を拡大した。こうして仕事の幅を広げて行った矢元に転機が訪れる。戦後復興の中で映画が勢いを増す1955(昭和30)年、矢元は「大和映画株式会社」を設立することになる。

 

日本が太平洋戦争で勝った記録 幻の大ヒット戦記ドキュメント『電撃作戦11号』

『電撃作戦11号』は第二次世界大戦で日本が勝った世界で作られたドキュメンタリーである……と書くと、ディックの『高い城の男』のような改変世界SFを想像するかもしれない。残念ながらこれはそういうものではない。『電撃~』は実際の第二次世界大戦の記録フッテージを使った記録映画である。だが、ここには日本が負けている映像は出てこない。広島への原爆投下もなければ東京大空襲もない。キッツ島への上陸はあるがキッツ島玉砕はない。南京攻略戦のようないろいろ面倒な問題がある戦闘も登場しない。出てくるのは勇戦する日本軍の姿。フィリピンや中国で奮戦する陸軍兵士たち、海軍の爆撃機“銀河”の勇姿、そして勇壮な海軍のたたかいぶり。やがて戦局は不利に傾き、古賀連合艦隊総司令長官は戦死、御霊は靖国へと還る。総司令部は神風特別攻撃隊を編成して我らが日本を守るために奮戦するのである……。

敗戦後、日本の非軍事化が進められる中で、矢元照雄は国の命令を受けて戦った兵士たちの奮戦すらが貶められてしまう風潮に大いに疑問を感じていた。たとえ戦争は間違っていて、愚かな行為だったにせよ、死んでいった兵士たちの戦いに嘘はない。日本軍の勇戦映画を作ろうと考えた矢元は、昭和31年、進駐軍の占領が解かれるやいなや、記録映像をかき集めてこの映画を製作した。大蔵貢の一連の天皇映画などの先駆けとなる、日本軍再評価映画のはしりだと言える。記録映像の編集は矢元がおこなったので、「ワルキューレの騎行」を伴奏に中国戦線で戦う兵士、というコッポラをはるかに先んじた映像が出現することになった。矢元は軍服姿の宣伝隊を仕立てて銀座を練りあるかせ、映画を大いに盛り上げた。映画館には登場する兵士の遺族たちが詰めかけてスマッシュ・ヒットを飛ばしたのである。

ちなみに「作戦11号」とは真珠湾攻撃のコードネームとのこと。(柳下)

 

メイキング・オブ・『電撃作戦11号』

『電撃作戦11号』は1955年に製作がスタートし、翌56年に劇場公開された。矢元照雄はこの映画のために大和映画を設立。配給は洋画専門の優秀映画株式会社に委託する形で上映された。

矢元「大和映画はダイワエイガと読むんだ。本当ならヤマトエイガだが、この当時、その名前を使うのはまだ早いと言われた。配給をやった優秀映画は後に倒産したから、今はもうない。そういえば、『電撃作戦11号』ではしっかり宣伝費を抜いていった」

それまで矢元は映画と関わることのない人生を送っていた。生業としている材木業は順調だった。

矢元「それで商用で東京に出るたび、映画館でかかっている映画が、日本が負けたものばかりだって気がついたのが、映画を作るきっかけになった。確かに日本は戦争に負けた。しかし戦争に勝っていて元気だった時代も確実にあった、そのことを映画にして見せられないかと思ったんだ」

真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の記録映像のみで『電撃作戦11号』は構成されている。フィルムのほとんどは戦時中に海軍が撮影したものだ。映画の後半では当時の軍による検閲印が残っている箇所もある。

矢元「ラストの靖国神社のシーンだけはカメラマンに撮影してきてもらったものだ。全体の話の流れを考えたのは私だ。作業のほとんどは、戦時中に撮影されたフィルムを集めては編集していくことで、これが大変だった。フィルムは新聞社や従軍カメラマンが保存していたものをツテを使って探した。それを細かくつなぎ合わせて、1年がかりで創り上げた」

構成を担当した原千秋は、大映の前身である新興キネマで監督をしていた人物だ。1949年、後に国映で多くの映画を撮る関孝二が設立したラヂオ映画社に入社している。戦時中には海軍省の嘱託だったという。

矢元「監修の安田日出男は記録フィルムの所有者を探しては調達してくるブローカー的な仕事をしていた。ナレーションの高橋博NHKに勤めていた男だった。『電撃作戦11号』は、当時の私が材木業で得た資金で作った映画だから、いろいろな人間が集まって作ったんだよ」

完成した『電撃作戦11号』を劇場公開するにあたって、矢元は他がまねできないような宣伝方法を編み出す。

矢元「軍服を着た宣伝マン20人と軍楽隊が軍歌を鳴らしながら銀座の街を行進して宣伝をやったんだ。これも話題になって、物凄い大ヒットになった」

『電撃作戦11号』の製作費は当時の金額で800万円だったが、収益は7000万円にも上った大ヒット作となった。上映した劇場は洋画上映館を中心に全国で600館にのぼった(地方では東宝、松竹の映画と同時上映された)。しかし、この映画について書かれた批評や記事は、いまとなってはほとんど目にすることはない。戦後映画史の中に潜伏する謎の大ヒット映画なのだ。

矢元「左翼系の新聞に悪く言われたんだ。ナレーションの中で『勇敢に戦った』というくだりが『好戦的だ』っていうことだった。だからまともな映画評は出なかった。ただ、当時の映画に『電撃作戦11号』のようなものはなかった」

戦後10年しか経っていない時代、果たして『電撃作戦11号』の公開に圧力はなかったのだろうか?

矢元「映倫からは上海事変に関する部分はカットするように指示があったから、そこは切った。その内容は捕虜収容所の記録フィルムだった。それにアメリカが文句を言ったという話は聞いているが、上映中にクレームが来たことはなかった。当時は、とにかく戦争は間違いだ、反省すべきだという論調のものばかりの時代だった。でも『それだけじゃない』という気運も間違いなく世の中にあったんだな。実際、日本が戦争に負ける映画を見せられることを、兵隊の遺族は嫌に思っていたんだ。劇場に詰めかけたお客さんの中には、戦争で死んだ家族の顔を探しに来た人が沢山いたよ。『あそこに息子が映っているから、その部分のフィルムを譲ってくれ』という問い合わせも随分とあったよ」

ちなみに『電撃作戦11号』は、タカ派の政治家・西村眞悟も少年時代に劇場で観ていたらしい。またこの頃から雑誌の戦記ものや戦艦や戦闘機のプラモデル・ブームが起こったが、これもまた『電撃作戦11号』によって影響を与えたであろうことも充分に考えられる。(田野辺)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る  総理大臣も出演した教育映画から日本テレビで放映されたアニメ作品まで

構成/鈴木義昭

──30年近く前に取材させていただいているんです。『ピンク映画水滸伝』という本を書かせていただきました。またお会いできて光栄です。まだまだお元気だとお聞きしまして。

矢元「元気ですよ(笑)。そうか、ああ、その本なら熱海の家に置いてあるよ。うん、何でも聞いてください。何でもしゃべるから(笑)」

 

──『電撃作戦11号』を見せていただきました。確かに不思議なフィルムですねえ(笑)。矢元さんの映画的なセンス、プロデューサーとしての感性を感じました。人のやらないこと、大手ではできない作品を作って、映画的なオピニオンを巻き起こしマーケットを切り拓いていく方法は、その後の独立プロだけでなく、映画界全体に大きく影響していると思います。今日はその辺をお聞かせ下さい。まず、もともと映画はお好きだったんですか?

矢元「好きは好きですけどね。戦後、映画が足りないというのを知っていましたからね。北海道でPTA会長なんかをやって、教材用の映画が足りないというのを知っていたんですよ。それで、東京へ出たら映画を作ってやろうと思っていました」

 

──『電撃』を製作した大和映画の次に国映という映画会社を立ち上げる。国映というのは、大きな名前ですよね。

矢元「由来というのはね、教育映画を始めようと思った時に憲兵時代の関係から当時首相になっていた岸信介に会いに行ったんですよ。監督の関孝二と2人でね。『おお、映画作るの始めるのか。応援するよ』って言われてね。岸も映画好きだったんだ。それで国も応援してくれるという話もあってね、それなら国映という名前にしようということで付けたんだ。国が予算を出してくれるんなら、ということでね。結局、ダメだったんだけどね」

 

──残念でしたね。でも、岸信介は矢元さんのお作りになられた映画に出ていますよね。

矢元「岸が国から金は出せないけど、『お前の作る映画に俺が出演してやるよ』と言ってね、出てくれたんだ」

 

──『総理大臣とわんぱく小僧』ですね。

矢元「そうそう。地方から修学旅行で出てきた子供が国会議事堂に行くんですよ、そこで岸信介が民主主義とはこういうもんだとやるわけなのよ。これ、完成後にちょうど選挙があってね、全国で候補者が特別出演するバージョンを作って上映して商売にもなった(笑)」

 

──教育映画、文化映画を製作する会社として国映は始まったんですよね。

矢元「そう、だいたいが文部省選定、20本ぐらい作ったかな。いろいろね。だけど4年ぐらいやって4000万円ぐらい損をした

 

──当時の4000万円というのは大きいですね。

矢元「木材じゃあ随分と儲かったんだけどね(笑)。教育映画は儲からなかったね。『わんぱく小僧』だけは儲かったけどね。結局、学校に配給するっていっても実費みたいな値段だったからね。全国の五社の直営館でないところに主に流したんですよ、600~700ありましたね、そういう劇場が。当時は同じ映画を1週間以上やったら商売にならないっていう時代だからね、新作映画が地方では足りなかったんですよ。次々に注文が来る。ところが、製作費に金を掛け過ぎている。『光と風と子供』というのは、相模大野の国立結核療養所に長期ロケをして撮ったんだけど、スタッフの言う通り『そうか、そうか』って金を出していたからね」

 

──教育映画はお金が掛かるので辞められたんですか。

矢元「教育関係の映画は、その後テレビ局と提携してね、主に日本テレビですが、日本放送映画(日放映)という会社を作ってそちらでやりました。『ぼくらは豆記者』という子供向けの番組とか、沢山作りましたね。ここでは日テレ初の長編アニメ『戦え!オスパー』を作ってだいぶ評判になりました。当時他局はアニメを作っていたのに日テレだけまだだったんだよね。そういう技術がないということでね。それを僕が企画から立ち上げて、2年間かけて完成させたんですよ。これは僕の功績のひとつだと思っていますけどね」

 

──アニメは儲かりましたか?

矢元「儲かったよ、映画ほどじゃないけどね。この会社ではアニメや子供番組をいっぱい作ったんだよ。みんなあんまり知らないみたいだけどね」

 

──ピンク映画を始められたキッカケは?

矢元「国映で教育映画を配給するのに、全国にセールスを置いて配給していたんだが、地方の映画館から、こんな堅苦しい映画ばかりじゃなくてもう少し柔らかい映画、色気のある映画はないかって言ってきたんだよ。『会社に言って、今度から色気のある映画持って来いよ』って、セールスがいじめられてねえ。それで『社長、少し色気のある映画作ったらどうですか?』って、みんな言う訳だ。それに当時、アメリカやフランスからヌード映画、ストリップを撮った映画がだいぶ入って来ていたんだよね」

 

国映の教育映画、初期テレビ時代への貢献

社名を国映とすることで、矢元は教育映画の製作に乗り出す。最初の作品は『わんぱく小僧と総理大臣』(1957・昭和32年)だ。

矢元「これは修学旅行に来たこどもたちに、岸信介が『民主主義とはいかに素晴らしいものか』と演説をする内容だが、これが評判を呼んで日本中で大ヒットした。当時は学校ごとに教育映画を観に来たし、文部省選定作品に選ばれると動員が手堅くなる」

『わんぱく小僧と総理大臣』が各地で話題になったことで、意外な反響が矢元のところに届けられる。

矢元「選挙があると、候補者が自分の演説を入れてほしいと話を持ってきたんだ。それで岸信介の演説シーンを丸ごとその候補者の演説と入れ替えた。(そんなバージョン違いを)全部で40本くらい作ったんじゃないかな?」

国映では続いて闘病映画『光と風と子供』(企画は『電撃作戦11号』でも組んだ原千秋)や社会科学習映画『ぼくらは豆記者』、科学啓蒙映画「人工衛星・宇宙への』といった作品を作り続けるが、この教育映画時代は4年間で終わりとなる。

また国映はこの時代、数多くのテレビ映画を製作・提供した。海外作品の配給も手がけたが、オリジナル作品も多く製作している。その第1弾は日本テレビで1965~67年に放映されたアニメーション『戦え!オスパー』(全52話)だ。この時代、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』といった人気番組が続々登場、日本テレビは出遅れていたため、矢元のところにオリジナル企画の製作依頼が来たのだ。矢元はこれを承諾、日本放送映画を立ち上げる。ムー大陸の生き残りの超能力者オスパーが悪い超能力者ドロメと戦うストーリーで、矢元は製作としてクレジットされる。メインの脚本家にニューウェーブSF作家の山野浩一、演出に『機動戦士ガンダム』の富野喜幸らを起用。主題歌は作詞・寺山修司、作曲・富田勲の布陣で番組放映に臨んだ。

矢元「テレビの仕事はなかなか大変だった。作品ができてからスポンサーに試写をやって初めて放映が決まるという段取りがあって、これでスポンサーに気に入られなければ、せっかく作った番組がオジャンになる。もっともそれで失敗したことはなかったが」

『戦え!オスパー』の成功を経て、日本テレビは子供向けの帯番組を編成することが可能となった。続いて矢元は『とびだせ!バッチリ』(66年)『冒険少年シャダー』(67~68年)の製作に携わるが、この後にテレビアニメの世界から手を引く。

矢元「テレビアニメの仕事も儲かったが、やはりピンク映画の収益に比べれば利ざやが大きくなかった。アニメはピンクほど儲からないよ」(田野辺)

 

 

初期ピンク映画を支えた幻の監督

文/鈴木義昭

関孝二監督は、矢元照雄の盟友ともいうべき存在だ。新興キネマ(後の大映)の大道具出身だが、戦前に『隣組』(1931年)で監督デビューしている。戦後はラヂオ映画撮影所を設立、教育映画の世界を歩いてきた。華北電影に入社したり大陸での軍務経験もあるので矢元照雄とは体験的に共有するものがあり、気持ちも通い合ったのではないか。

豊富な映画経験や知識に物を言わせて、子供向けのテレビ映画からピンク映画まで撮りまくる手捌きは驚異的だ。ただピンク映画監督としてのハデさが目立ち、従来のフィルモグラフィに『総理大臣とわんぱく小僧』をはじめとする諸作品が記述されていないことが多いのに納得できない。まさかピンク映画監督が岸信介首相出演の映画を監督していたのはいかがわしい、などの考えがどこかにあるとしたら噴飯ものである。ピンク映画も教育映画も、関孝二にとっては同じ映画という大好きな仕事のひとつとして分け隔てなくあったに違いないからだ。

ピンク映画での関孝二の仕事は目覚しい。『女ターザン』に続く『痴情の家』(64年)では女牧場主のSEXストーリーに馬の種付けが絡むというチン品を発表、その後も日本で初めての立体ピンク映画『変態魔』を監督するなど話題作に事欠かない。『透明人間・エロエロ博士』(66年)は伝説的な作品で、この手のアイデア喜劇に本領を発揮した。矢元の言う「笑わせる」ジャンルを一手に引き受けたのだ。『おヘソで勝負』『好色番外地』『ピカピカハレンチ』『モウレツ女とゼツリン男』などの題名だけでもう笑える作品群を発表し続けた。『スペシャル』(67年)では、後の「SMの女王」谷ナオミをデビューさせている。ウォーホール製作『悪魔のはらわた』(73年)を公開時に3Dメガネ着用で観たものとしては、『変態魔』もメガネ着用で体験したいのだが、フィルムがあるといいなあ。96歳(2007年当時)で兵庫県の施設でお元気なことが判明。会いに行きたい!

 

和製ディズニー動物映画? 『海魔の逆襲』メイキング

矢元照雄は関孝二と組んで多くのこども向け作品を世に送り出した。1960年代に人気を呼んだディズニーの「ネイチャー」シリーズ(『砂漠は生きている』をはじめとする教育ドキュメンタリーや、『三匹荒野を行く』のような動物に「芝居を演じさせる」ドラマもの)を向こうに回し、国映でも謎の動物映画『海魔の逆襲』(62年)を作っている。

海魔とはタコのことを指す。『海魔の逆襲』は陸に上がったタコの活躍を描く中篇なのだという。実はこの映画の前に『海魔陸を行く』(50年、東京映画配給)が伊賀山正徳によって作られている。対する関孝二は『海魔の逆襲』と前後してテレビ向けの動物番組も手がけているが、現在ネット上にアップされている関孝二のフィルモグラフィに『海魔の逆襲』は記録されていない。幻の映画扱いであるが、公開当時は話題を呼んだ。

『海魔の逆襲』の撮影は千葉で行われた。

矢元「この映画が良かったのは、現場にある在りものを使うだけで撮影ができたことだ。セットを作らずに映画を作るのは国映の特徴だ」

映画に脚本は存在せず、撮影する内容は現場に行ってから考えたのだという。

矢元「この映画の見せ場はタコの芝居で、スイカやトウモロコシを盗んで食べるシーンが評判になった。『こんなもの、見たことがない』って、お客さんはビックリしたんだよ。タコに芝居をやらせる秘訣は……8本の足の中の1本を針金で縛って引っ張るんだ。それでも当時はタコが自分で動いていると信じるお客さんがいたんだな。それから2匹のカニを決闘させるシーンがあるんだが、そこにタンゴを流すと、カニが手を取り合って踊っているように見えるんだ。曲を選んだのは、手許にあったレコードをあわせてみただけなんだ。あれこれ考えて作っていたわけじゃない。でも音楽をつけることで本当にカニが踊るように見える。これはうまくいった」

映画にはタコが10匹ほど出演した。いくらタコとはいえ、見た目がまったく違うものでは困ると、撮影現場近くの猟師に頼んで、同じような姿をしたタコを調達した。ちなみに撮影が終わるとタコはスタッフに食事として振舞われた。

矢元「監督の関孝二は私と同じ齢だ。撮影中に『それはダメだ』と注文すれば『ハイハイ』と答える、順応力のある監督だったよ」

現在『海魔の逆襲』を観ることはできない。いまのシネフィルが持っている「先鋭的なピンク映画会社」としての国映のイメージと『海魔の逆襲』には隔世の感があるように思えるが、登場人物が毒蜘蛛や毒蛇にかまれて次々と死にイカ墨だらけの地獄に堕ちる、いまおかしんじの『おじさん天国(絶倫絶女)』は初期国映魂に実は忠実だ。そんないまおかは現在準備中の『つちんこ』(仮題)で、今度はツチノコ映画に挑戦する。本物のツチノコを使って撮影することは不可能なので、『ミートボールマシン』の西村映像が特殊効果で参加予定。リアルな造型のツチノコは登場するが、ひょっとすると針金で引っ張られる可能性もある。(田野辺)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る2  日本初の女ターザン映画『情欲』シリーズから、映画の黎明時代へ

構成/鈴木義昭

──ピンク映画の前にヌード映画、ショ一映画を撮られていたんでしたね。『ウエスト・ヒップ・ショー』『赤と黒のヌード』とか。

矢元「ストリップを撮ったのが先なんだ。だけどストリップだから、セリフがあるわけじゃないしね。人間は違っても、毎回5~6人のストリップを撮るだけだからね。15分か20分ぐらいの映画しか撮れないのよ。そういうのを一緒に配給すると、映画館は喜んでねえ」

 

──教育映画とストリップを一緒に!?

矢元「教育映画もストリップも、映画館は何でもいいんだよ。金になんなくちゃ仕様がないってことでね。早く言えばセールスの方から注文が来て作り始めたっていうところもあるんだね。だけどストリップの映画ばかりじゃ飽きが来ちゃったんですよ。パターンはどれも同じだからね。これまた困ったと、何か女性を裸にする方法はないかと考えた結果が、『女ターザン』なんだ。

 

──どうも今回調べましたら、『女ターザン』の前に『世界桃色全集』という映画でドラマも撮られているようなんですが。

矢元「これは台湾との合作映画。日本から俳優の八名信夫なんか連れて行ったんだ。女優も何人かと監督やスタッフもね、それで台湾に1カ月ぐらい行って撮った。もちろん僕も行ってた。ショーとドラマと両方って感じの映画だね。ところが向こうの女優が下手で話しにならない。こっちに持ってきたら、こんな下手な芝居が入っていたら商売になんないよってことでオクラになったんだよ。契約書には撮影するって書いてあったんだけど、こっちでは中止。台湾でだけ上映しているはずだね」

 

──そして、いよいよ『女ターザン』!

矢元「水上温泉から奥に入ったところに宝川温泉というのがあるんですよ。そこに熊とか猿とか動物を5~6匹飼っている小動物園のような施設があって、そこから動物を借りたね」

 

──第1作の『情欲の谷間』ですね。密林の女王が全裸で渓流を泳いだり、農家の娘の行水とか女王に密猟者が獣欲に燃えて襲いかかったり、話題のシーン満載だったようですね。

矢元「そうそう。女ターザンというアイディアは私が考えたんだ。当時、女性のヌードを見せられるものといえばターザンだった。山火事のシーンがあって、消防と相談したら、それは大変だって言って撮影中は消防車が1台待機していてくれたからね。それは大掛かりにやっているのよ、2ヶ月くらいはロケをしてたからね」

 

──これが大当たりして続篇の『情欲の洞窟』を翌年製作されるわけですね。

矢元「今度は奥多摩。虎の皮の褌でね。今だったら、バカバカしいくらいなんだけどね(笑)。裸は全然だめな時代だったからね」

 

──女優さんはどちらでスカウトされたんですか。

矢元「この沼尻(麻奈美)は松竹にいたのかな。『情欲の谷間』の峰は新東宝か何かにいたんじゃないか。要するに売れない女優。顔は良くても芝居が下手だと売れないんですよ」

 

──監督は、どちらも関孝二さん。

矢元「もともと教育映画畑で、動物映画なんか撮っておったんだね。戦前は新興キネマにいたらしいね。教育映画からピンク映画へ、ウチではずいぶん活躍しているよ。その後も立体映画とか光る映画とか、ユニークな企画を次々に考えて、なかなかのアイデアマンだった」

 

──関さんは動物の扱いがお上手だったようですね。

矢元「それはもう、いろいろ撮っていたからね。だけど、この後に撮影で使った猿を僕が自宅で飼っていたら、子猿だったのが大きく育っちゃって、5年位した時に近所に逃げ出してねえ、大捕り物。警察や上野動物園の人に来てもらって大騒ぎ、猿なんか飼うもんじゃないって思った(笑)」

 

──それは大変でしたね。ところで『情欲の洞窟』のロケ現場を内外タイムスの記者だった村井実さんが取材されて書いた記事が、「ピンク映画」の語源のようですね。

矢元「そうなんだ。村井もその後しょっちゅう取材に来て。『この次、行ってもいいの?』なんて声かけてきて、取材にはよく来た。「あなたが来ると悪口ばかり書くからダメだよ」なんて言ってたけどね(笑)」

 

──ピンク映画の国映ということになるんですね。

矢元「地方では東宝や松竹の2本立てに国映の映画を入れて3本立てにしたんだよ。国映の映画を入れないと商売にならないって言われたんだから、東宝や松竹じゃこういう映画は作れないからね。出来るのはウチだけなんだよ(笑)。だからフィルムの値段が高くても、売れたんですよ」

 

──フィルムが何本あっても足りなかった。

矢元「そう、注文が来て『お宅のところに行くのは3週間後だ』なんて言ったら仕事にならないからね。『フィルム代はこっちが出すから焼いて送ってくれ』って、映画館が言ってきたんだ。

 

──当時は、製作費も今のピンクとは比べられないぐらい掛けていたようですね。

矢元「白黒で500~600万円は掛けていた。300万映画といわれるのは少し後からだから。週刊誌に『国映ピンクの作り方』なんて書かれてね、300万円あれば旅館なんかを使って映画を作れるみたいに書かれました。出てくるんですよ、次々にプロダクションが。記事を見て俺もやって見ようなんて連中で、何本か撮ってすぐやめちゃうようなのが(笑)」

 

和製女ターザン映画『情欲の谷間』&『情欲の洞窟』

戦後もターザン映画の人気は高かった。僕でさえ何人かのジェーンの健康的なエロチシズムを連想できる。和製『女ターザン』なんて聞けば、男どもはソイツハミテミタイとなったことだろう。昭和37年秋、群馬県宝川温泉に約2ヶ月におよぶ長期ロケをした『情欲の谷間』が公開される。誘拐された少女が森の中で熊の一族に育てられ密林の女王になっているという物語で、主演は新東宝や日活でチョイ役をしていた峰和子。「大自然に生きる動物と人間の愛情の世界を描き、不当な欲望に生きる人々への警告としたい」というのが製作意図。密林の奥のヒスイ鉱を狙い密猟者がやってくる。「主眼はお色気に」とスポーツ紙も報道、国映初のピンク映画は大ヒットする。いや、まだ「ピンク」の呼称はなかった。お色気を売りにした長編劇映画をピンク映画と呼ぶようになるのは、この続篇で翌年公開の『情欲の洞窟』からである。発想のヒントにはベストセラー『野生のエルザ』もあったそうだが、動物映画も手がけた国映のノウハウがあったのは言うまでもない。(鈴木)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る3  ピンク映画の黄金時代~第二映倫設立騒動まで

構成/鈴木義昭

──エロダクションの第1次黄金時代というか、ブームのようになるわけです

ね。

矢元「彼らは作っても配給する方法がないんだよ、それでウチに買ってくれって言ってくる。国映は全国に支社とセールスを置いて配給していたわけだから、大蔵映画は小屋も持っていて大きかったけど次がウチという規模だった。今の新東宝興業が出来るのは何年かしてからだから、あれは関西系の映画館を中心に出来たんだが、当時のウチの支社や社員を引き継ぐところも少なくなかったんだ」

 

──大蔵映画の大蔵元さんは、やはりライバルというふうにお考えでしたか?

矢元「ライバルだね。ウチが国映シネマという配給専門の会社を作って、当初は新東宝や葵映画や日本シネマといったプロダクションの作品を配給していた時も大蔵は入らなかったし、大蔵がOPチェーンというのを作った時も国映は参加していない。大蔵さんは新東宝からやっていたんだろうけど、ピンク映画においてはウチが老舗という意識はあった。昔は国映の作品を待っていてくれる映画館も沢山あったからね。国映という名前は大事にしたいと思っていたんだ」

 

──初期のピンク映画の話題作は国映が多いですね。例えば『妾』とか。

矢元「『妾』はよく入ったねえ。松井康子は良かったね。学生にも人気があったんですよ。彼女は子爵の娘だったんです」

 

──「ピンクの山本富士子」ですね。初期でご記憶に残る女優さんは他にもいろいろ……。

矢元「いろいろいました。東芝ネグリジェ歌手で歌っていた内田高子なんか綺麗だったね。監督の向井寬の奥さんになったんだけど。

 

──先日熊本で、香取環さんに会ってきたんですが。

矢元「一番初期の頃の女優だね。『新婚の悶え』とか若松孝二の『甘い罠』とかウチでも何本かあるんじゃないか。芝居はうまかったねえ。なかなか脱げて芝居の出来る女優はいないんだけどね」

 

──専属の女優さんがいた時代も。

矢元「初期の頃です。新宿コマのダンシングチームにいた橋桂子なんてのは専属だったね」

 

──若松孝二監督は国映で監督デビューしていますよね。

矢元「私のところでデビューして10本くらい撮ってる。さっき言った『甘い罠』がデビュー作。ハワイで撮った『太陽のへそ』も若松だ。1000万円掛けたカラー大作で、ピンク映画としてカラーは初めてだったんだよ。まだ多くの映画が白黒の時代だから。

 

──雪の中を女優さんが走る映画もありましたよね、若松さんの作品で。

矢元「『情事の履歴書』。あれも相当儲けたんですよ。とにかく、五社だとかテレビだとかで作れない映画を作れって、監督たちに厳命した。最初に裸になる時は必ず後ろ姿にして、なかなか見せないようにする。私は脚本の段階で厳しくチェックしたからね。どういう映画を作るのか、契約書に書いてあるから。必ず見せ場を作る、1時間5分から10分の映画の中に見せ場を4つか5つ入れるってことでね」

 

──見せ場とはカラミのことですね。

矢元「要するにカラミですよ。カラミのある映画じゃないと出せないし、逆に延々と裸ばかり出してもダメだからね。監督たちには『笑わせる』『泣かせる』『話題がある』これが必要だと言っていた。脚本を読んで、こことここを泣かせるようにしろと直させた」

 

──当時の週刊誌などで、ピンク映画は、「大人の性教育」「大人の非行防止」だっておっしゃっていましたね。

矢元「当時のマスコミがすぐに『ピンク映画は~』なんて書くから、『あなた、ピンク映画の内容知らないだろ』ってね。私は教育映画をやってきたしね、これは大人の性教育なんだってことを言ったの。私が直接プロデュースしている時は暴力や相手を困らせる描写はやらせなかった。緊縛もだ。ウチの映画を見て悪いことしてるなあとか女を泣かせてるなあとか、いろいろ考えてくれりゃいいって言ったんだ。そこにウチの映画の価値もある。その為に18歳以上じゃないと観れない様になっているんだからね」

 

──「第2映倫」というのを構想されたこともおありですね。これも成人映画、ピンク映画の可能性を追求するというお考えがあって。

矢元「それもあります。しかし、映倫の審査の基準がかなり曖昧だったんですよ。同じようなシーンでも、五社作品は切らないのに独立プロの作品にはカットを要求してくる。おかしいじゃないか、と。映倫の審査担当者というのは、実は五社から雇われている人間なんだ。自主規制の機関だから、大手の映画会社の連中で構成しているわけ。そうすれば独立プロに厳しく五社に甘いというのも人情なんだ。こんな審査と基準じゃ独立プロはやってはいけないからって、自分たちで新しい組織を作るしかないって考えた」

 

──ピンク映画の手法やテーマを五社が取り入れていくという流れもありましたしね。

矢元「五社が作った映倫で、独立プロの作品はあそこがダメここはダメと言われると、カラッポになってしまうからね。映倫マークがないと映画館で上映できないということもあるわけだから」

 

──他の独立プロも賛同してくれたんですか。

矢元「してくれたよ。大蔵元さんも賛成してくれた。第2映倫が出来なかったのは、いざ審査員を誰にするかという時になって適任者が見つからなかったの。第1映倫よりも資格のある人間を考えたんだ。弁護士とか代議士とか、あるいは有識者とかいろいろ候補を上げたんだけど、みんな『映画のことはよくわかんないよ』なんて言ってやってくれない。そうかといって私が審査するなんていったら、国映の社長に何がわかるんだって言われちゃうからね(笑)」

 

──第2映倫が実現していれば、その後の独立プロの可能性は広がったかも知れない。

矢元「武智鉄二が『黒い雪』などで苦労していたのもこの頃でね。武智の作品を切ったら、右へならえで独立プロ全般に波及するんじゃないかって考えた」

 

──その後、60年代後半には製作の現場を息子さんの矢元一行さんに譲られますね。

矢元「一行は映画のプロデュースをやりたいと言うんで任せたんだ。早くに亡くならなければ(1982年没)、もっともっといい仕事をしてくれたと思うよ。高橋伴明をはじめ若い監督との交流もいっぱいあったからね」

 

──最近の国映作品はご覧になりますか。

矢元「今、僕らは製作にタッチしていない。若い人に作品発表の場を提供するということでは頑張ってほしいね」

 

──今まで話してきた昔の国映映画のフィルムはまだあるんでしょうか?

矢元「私も探しているんだよ(笑)

 

──見つかったら、ぜひDVDにして欲しい。

矢元「そうだね。今見ると、映画としての素晴らしさを正しく理解してもらえるんじゃないか(笑)」

 

──ぜひぜひ、お願いします。(了)

 

芸術祭不参加作品『裸虫』

『七人の刑事』などにチョイ役で出演していたタレントの大須賀美香が主演に抜擢された

裸虫たちの恋。ロケは千葉県の白浜でおこなわれた

まだテレビ界にもゲリラ的な人物が多数いた頃のことだった。矢元一行氏と親交があったらしいTBSの名物ディレクターで後にテレビマンユニオンを結成する今野勉が「グループ創造」の名前で監督した幻のピンク映画が『裸虫』(64年)。工場で働く信介少年の体験する性と青春の悲劇で、一部には「二回見ないとわからない難解な作品」といわれた芸術派ピンクだった。国映は勢い込んで同年秋の「芸術祭」に参加を申請するが、あえなく拒否される。矢元社長曰く「審査員は時代感覚のずれた老人ばかりだ。来年からは文部省に対抗して、独立プロの芸術祭をやりますよ」(鈴木)

大須賀美香)

人生 (ZIN-SÄY!) “電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

人生(ZIN-SÄY!

電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

 (平田順子著『ナゴムの話 トンガッチャッタ奴らへの宣戦布告』所載/絶版)

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1989年4月26日撮影。左から若王子耳夫石野卓球ピエール瀧、おばば(EX分度器)

電気グルーヴの前身バンドとして知る人ぞ知る人生。1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。その後、友人関係からメンバーが増え、流動的にいろいろな人が参加していた。ピエール瀧(当時は畳)もそのひとり。1986年に上京してからはライブパフォーマンスの面白さもあって大ウケ。ナゴムの新しいアイドルとなる。

85年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で人生を結成。同年3月25日、静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。この時は石野卓球ひとりでカラオケのライブ*1をやっていたが、その後友人関係からメンバーが増え、ピエール瀧も加入。彼は当時、畳と名乗っていた。ライブハウスや公民館でライブ活動をするだけではなく、歩行者天国でマイムマイムを踊ったり、夜中に地球儀をつけて町を徘徊する*2といったパフォーマンスも行なっていた。

人生の初ステージはひとりで、テープ回して。あっ、K太*3もいたか。K太にスライドやってもらったんだ。高2の春休みだったと思う。たしか3月のねー...25日。メリーノイズにちょっと息詰まってたし。違う事やりたいって思って。それからねーやっぱ日本語でやりたいなって思ってましたね。これは重要ですよ。メリーノイズはコピーばっかだったから英語で歌ってたんだけど、やるからにはやっぱ日本語だなって。その事はすごく意識した記憶がある。もう、コピーじゃない事をやりたかったんです。

こんだけでライブできるのは、えらい衝撃でしたね。オケさえあればひとりでできちゃうわけですから。まあ、いきあたりばったりだったんですけどね。自分でもあんま整理されてなかった。基本的には楽しけりゃいいって思ってましたね。で、うちに集まってる連中とも、ライブハウス以外の場所で面白いことできないかなーって事になって、歩行者天国でマイムマイム踊ったり、頭に地球儀つけて歩いたりし始めた。

人生って名前の由来はねえ...他愛のない事なんです。当時、僕のうちに集まっていた連中の流行り言葉だったというだけで。自転車こいでノイズ出しながら「これも人生だ」とか言って。

 

イベントとかに出て、静岡のニューウェイヴやってるバンドと一緒になるじゃないですか。あれが、もうイヤで。どいつもこいつも気取りやがってって。ニューウェイヴと称してやってることは普通のロックなんだもん。あの頃のニューウェイブのバンドって、本当にダメな奴が多かったですよね。コンセプトだとかメッセージだとか、言うことはもっともなこと言うんだけど中身がない。観ててもちっとも危険じゃない。そんなのばっかだったじゃないですか。なんてこと言うと偉そうなんだけど。でも、当時はそう思ってた。ホント、なめ切ってったなあ、世の中を。

でも放課後、ライブハウスに出た事って、今にしてみればいい思い出だなあ。学校では女から嫌われていたけど、ライブハウスでは嫌われた憶えはないし。当時の唯一の楽しみが集中してた。うん、それに、高校時代は世渡りがうまかったと思う。うぬぼれてたしね。唯我独尊。でも今はダメですね。今は世渡り下手だと思う。

 

で、人生に話を戻すと、メリーノイズよりも反響があって。ほら、客に瀧やイトチュー*4とかいたでしょ。イトチューというのは僕の中学時代の友人で高校は瀧と同じで、しかも瀧と同じ野球部だったヤツなんだけど。弱い者イジメが好きな人な(笑)。とにかく客にそんなのが集まってたから、ノリがすごくて。人間がステージに飛んでくる(笑)。当時はパンクで豚とか投げて話題になってたけど、僕らは人間投げて、お笑いでやってましたね。

 

親は相変わらず不気味がってた。中学の時はノイズのレコードが聴こえるだけだったのが、あげくの果てはグラインダーやチェインソー持ち込んで録音してる。母さんが朝起こしにくると枕元にそんなのがころがってて、普通ビビリますよ(笑)。しかも夜中まで友達は奇声を発して、部屋の中のドラム叩いてるわ、人生のライブで使う古タイヤだとか、学校から盗んできたハードルが散乱して...親は本気で病院連れて行こうとしてましたね(笑)。

妹も嫌がってましたね。当時、作文コンクールで入賞した詩で『お兄ちゃん』というのがあるんです。「お兄ちゃんがまたラジカセをかける/うるさくて勉強ができない/うるさくてテレビの音が聞こえない/でもその事はお兄ちゃんには言えない/だって言うと怒って叩かれるから」(笑)。めちゃくちゃディープになりましたよ。(石野卓球/人生)




石野卓球のTwitterから静岡時代の人生

そんな活動をしていた人生が、85年6月23日静岡モッキンバードで有頂天と対バン*5し、ケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)と知り合うことになる。

(観客動員0を記録した頃の有頂天。まだケラも卓球も無名同然だった)

僕はEP-4*6とかシンパシーナーバス*7ほぶらきん*8は好きだったけど、日本のインディーズで主流だったハードコア・パンクにはどうも魅力を感じなくて、日本のインディーズについてはぜんぜん知らなかった。

 


でも人生のレコードを出したいなと思って、どっか出してくれるレーベルはないかと雑誌『宝島』を見て、ナゴムを知った。有頂天というバンドのケラっていう人が主催するレーベルで、有頂天はステージでお芝居みたいなことをやったりする、すごくヘンなバンドだっていう風に紹介されていて。

その記事を見た2・3日後に、有頂天が静岡でライブをやるっていう話を聞いて。わざわざお金を払って見に行くのもなんだし、どうせなら一緒にライブをやりたいなと思って、モッキンバードっていうライブハウスに直接交渉した。そしたら実はチケットが10枚も売れてなくて困ってるから、チケットを手売りで10枚売ってくれたらOKだよって言われて。(石野卓球/人生)

まだまったく動員できなかった頃の“有頂天”が、静岡のモッキンバードでライブをやる時に、そのライブハウスに「フロント・アクトでいいバンドいませんか?」って相談したら、見つけてきたのが人生 (ケラ/有頂天)

グチャグチャな白塗りメイク。ステージには自転車やハードルといったライブとはおよそ縁遠い機材(?)が並び、マヨネーズを塗りたくるパフォーマンス*9、というのがこの日の人生のライブ。

(1985年11月28日静岡サーカスタウン。人生をクビになったピエール瀧がバンド再加入の打開策として女装姿で登場した時の映像。芸名は瀧レモン)

ステージに楽器はあまりなくて、自転車とかハードルがあった。で、ハードルをぴょんぴょん飛びながら、レジデンツとかデア・プランみたいな曲をやってた。(ケラ/有頂天)

有頂天は、東京のバンドだな、プロっぽいなと思った。あとケラさんは、顔デカいなっていうのが、第一印象(笑)。でもそんなに時間もなかったから、当日はケラさんに人生のテープを渡して、ちょこっと話しただけだった。

その時のライブは、ステージに自転車とかハードルを置いて。バンド演奏が半分、カラオケテープが半分。メイクは、塗ってればいいや、顔が見えなきゃいいやって感じで、最初はすごくグッチャグチャだった。だってポスターカラーを指とかで塗ってたからね。その頃のお客さんは、20人とか30人くらい。静岡の高校生だし、チケットも手売りだったし、ほんの友達レベルだよ。でも有頂天と一度一緒にライブをやったらけっこう評判よくて、うちらのぜんぜん知らない学校のヤツが来たりもしてたから、小さいなりにも広がりはあったとは思う。(石野卓球/人生)


その後、有頂天が静岡へ来るたびに人生が前座をつとめ、合計3回のライブ*10で共演する。そしてソノシート5連作のうちの1枚として、86年8月人生の1stソノシート『9TUNES(FOR MIRAI)』*11がリリース。その音源はすべて石野卓球が85年夏に勉強部屋で自宅録音したもので、「キンタマが右に寄っちゃった/オールナイトロング」という歌詞でおなじみの「オールナイトロング」や「男の中の男」など当時の代表曲が収録されている。

有頂天であまり同じフロント・アクターを使うことってないんだけど、人生は1回目に一緒にやったライブのインパクトが尋常じゃなかった*12から、その後も静岡に行った時に毎回前座をやってもらった。3回目に一緒にやった時に、卓球がレコードを出したいって言ったから、じゃあソノシートでも出すかっていう話になって。

ソノシートの音源は、もう卓球が自分の家でレコーディングしてて。そのテープを東京までわざわざ届けに来てくれたのが、すごく嬉しかった。なにかにつけてひと言多い、こまっしゃくれたヤツなんだけど、根は真面目なんだなと思った。彼はものすごく音楽が好きだし、自分の音楽をどうやっていくかってことにはある面ナーバスだった。いろんなことを前もって話し合いたいタイプだったんじゃないかな。(ケラ/有頂天)

ケラさんも1回目のライブでうちらのことを覚えてたみたいで、次から“有頂天”が静岡に来る時は、むこうからご指名で一緒にライブをやるようになった。それで3回目にやった時に「ナゴムからソノシートを新人で5枚出すんだけど、その中のひとつで出さない?」って言われて。ギャラは全部のバンド共通で、3万円だった。

いずれにせよナゴムの話があるないには関わらず、高校三年生の夏休みくらいから、卒業したら東京に出て行こうとは思ってたの。だからケラさんからソノシートの話をもらったのは、あまりに渡りに船だった。それで高校卒業してすぐ東京に出て来て、3・4ヵ月してソノシートが出たのかな。だから上京後すぐにナゴムのイベントに出たり、ケラさんのブッキングでライブをやったりすることが多くて。チケットの手売りとかもなかったから、バンドとしては恵まれてたんだろうね。ソノシートは全部自宅録音で、高校3年の夏休みにずっと録ってたテープをそっくりそのまま録音した。だってギャラ3万円だから、スタジオなんか借りれないしね。それにそういうテープがダンボール箱一杯くらいあったし。ミックスだけは、CSV渋谷っていう楽器屋のスタジオでやった。もすけさんの山口優さん*13と東京タワーズ岸野雄一さんがミックスして。そういえばCSVでミックスをやる前日に、4チャンのマスターテープにコーラをこぼしちゃって、全部ダメにしちゃったの。だから仮落とししてたカセットテープを使ったんだけど、なんの支障もなかったね(笑)。

ケラさんには「オールナイトロング」を入れたいって言われたのは覚えてる。別にこっちも断る理由もないから、入れたけど。ソノシートを出した反響はすごかった。同時発売された5枚の中では、一番売れたみたい。たぶんあの頃はいろんなことがタイミングよかったんだよね。(石野卓球/人生)

人生の東京進出初ライブは86年4月5日に新宿LOFTで行なわれたナゴムナイト・デラックス。この日は石野卓球、畳、おばば(EX分度器)の三人編成だった。それほどお客さんの入りはよくなかったが、「3年B組金パチ先生!」と叫びながらステージに出て来て、カラオケ・バックに歌と踊り、おばば(EX分度器)*14ボンカレーを自分の顔にかけるパフォーマンスなど、張り切ったライブを披露。お客さんだけではなく、共演者の度胆も抜いた。

京進出2回目のライブは、同年6月6日に四谷公会堂で行なわれた“第1回ナゴム総決起集会”。

(86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた第2回ナゴム総決起集会)

この日のライブで人生の存在がファンに知れ渡り、そのライブに来ていたお客さんから、クチコミでさらに人生の面白さが広がった。

“第1回ナゴム総決起集会”を見に行った時、チラシに「人生とはなにか討論会」って書いてあったの。なんの討論会するのかなと思ったら、人生が白塗りメイクで出てきて、カラオケ・バックで踊りながらライブをやって、面白かった。(稲葉真人/ファン)

その後ギター&ベース兼ダンサーの若王子耳夫*15と、キーボード兼カラオケテープの入ったラジカセを操作する担当の紅一点、グリソンキム*16が本格的に加入し、更にパワーアップする。

(『ロッキング・オン・ジャパン』88年1月号所載)

ライブでは裸に木の格好をさせた人*17を後ろ向きに立たせてオブジェにしたり、ステージにスクーターや家のふすまを持ち込んだりし、奇抜なダンスやパフォーマンスをしていた。畳ことピエール瀧ゴルゴ13ドラえもん、殿様などの格好をして踊っていたが、当時はメンバーの中で一番人気がなかったそうだ。この頃はバンド演奏よりもカラオケテープ中心のライブだった。



“第2回ナゴム総決起集会”*18を見に行った時に、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人と知り合いになって。その人から人生のことを、あんなにすごいバンドは他にいないっていう話を聞いてたら、ちょうど人生が出て来て、その通りだということになった。卓球が目を赤と青に塗って、顔は白くて、コミカルな歌詞で、それを振り付けて踊るわけ。演奏はグリソンキムっていう女の人が、ラジカセのボタンをピッと押すと、曲が始まるっていう。なにも演奏らしい演奏はなかったけど、かなり衝撃だった。(高田潤一/ファン)

人生のことは、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人から聞いて知った。初めてライブを見たのはソノシート発売記念ライブ*19の時で、目から鱗というか「うわあ!! どうしよう」っていう感じだった。後に「それを認められたと勘違いして……」と笑いのタネにもなったけど、人生のライブ中に石野に「きみ、青空球児に似てるね」って言われたことがある(笑)(野村祐子*20/ファン)

86年10月19日、CSV渋谷でのライブを見に来た観客の中にHYという女子高生がいた。彼女は初めて見た人生のライブの虜になってしまい、ファンクラブ“人生教”を作ることを決意。同年11月6日新宿LOFTでのライブの日に発足。この人生教の発足メンバーには、後にナゴムからレコードをリリースすることになるマサ子さんのボーカル、マユタン*21もいた。

ナゴム最後の新人バンド「マサ子さん」のライブ)

 人生を知ったのは、マユタンが私の中学からの同級生で、人生がすごいって騒いでたから。初めて行ったライブはCSV渋谷でやったゴーバンズとのイベント。その時は一番前の一番真ん中で見てた。人生のライブの笑いはすごくて、私にとっては衝撃だった。それに音楽がそれまで私が聴いてたものと違って、ライブでは虜状態で唄ってた。「娘さんよくきーけよ/山男だよ*22っていう歌の、「山男だよ」っていうところで、分度器さんがバタッて跳ねて、そのシーンがすごい強烈だった。本当にお下劣極まりない歌詞なのに、なぜか私には品があるような感じがして。

私はもうとにかく卓球さんが好きで、本当に輝いてた。才能ありそうで、未来がありそうだった。ファンクラブを作ったのは、メンバーと友達になりたかったから。私が初めて行ったライブは東京進出直後だったんだけど、その前のライブは見てなかったから、なんか悔しかったの。

人生のメンバーは随分協力してくれて、写真もいっぱい撮らせてくれたし、人生教の会員のためだけのテープ*23を作ってくれたりもした。最終的に会員は300人くらいになった。(HY/人生教)

人生は最初にソノシートを聴いて知って、ライブを見たら「げげっ!」って感じだった。私が印象深かったのは、やっぱりおばば。分度器さんって呼んでたんだけど、私たちの間ではアイドルだった。もういるだけでかわいい。(マユタン/マサ子さん)

「分度器さんは、すごいセクシーで素晴らしかった。ボケっていうのかな。一番強いキャラクターだった。通称おばばっていうんだけど、私は眉毛が一緒だった*24から、おばばの妹って言われてた。今はね、細くなっちゃったけど(笑)(HY/人生教)

こんなアクの強いバンドに、更にアクの強いメンバー王選手*25が加入する。元々劇団健康のメンバーだった王選手は、“ナゴム総決起集会”にダンサーとして出演するなど、ナゴム界隈に出没していた。

ナゴム時代の筋肉少女帯。客席にダイブしている男が王選手)

そこで人生のメンバーとして捕獲。人生の中では飛び道具的な存在で、ダイビングや強烈なパフォーマンスを担当していた。

王選手のことは、うちらは“あっちゃん”て呼んでたんだけど、あっちゃんは劇団健康の劇団員で、オレが劇団健康の芝居に出た時に知り合った*26。稽古場に行ったら、壁に頭をぶつけてるヤツがいるんだよ。それで何やってるのって聞いたら、「頭を鍛えてるんだよ」って。うわー、狂ってるなコイツと思って(笑)。それからあっちゃんの行動を見てたら、次から次へと強烈なことをやるから、これはぜひ捕獲しなきゃって。

あっちゃんは普段から強烈だった。魚は骨が一番好きで「このホッケ骨もらってもいいかな。僕、骨が一番好きなんだよね」って言ったり、「この前の休みに自転車で御前崎まで行ってきたんだよ」とか、虫歯予防デーラソン一等賞とかいう賞状を持って来て「これファンクラブの会報に載せてよ。この前の週末に出たんだ」とか。あと真冬でもランニングでいたり。それで早稲田の学生なんだよね(笑)(石野卓球/人生)

日常生活でも奇行が目立つあっちゃんこと王選手が、87年10月3日に池袋のビルで行なわれたライブで、自分で壁に投げ付けた消火器が跳ね返って頭にあたり、4縫う大ケガ*27をする。しかし血まみれになりながらもライブを続行。30人ほどの観客はなぜか大爆笑。しかもその時着ていたTシャツは“人生教”の会報でプレゼントされた。

「豊島区を盛り上げる会」っていう企画で、池袋の廃墟のビルの中でライブをやったことがあったの。その時にあっちゃんが消火器を壁に投げ付けるパフォーマンスをしてたら、それが跳ね返って、あっちゃんの頭にガーンッて当たって。羊の格好しながら、血ダラダラ流して。でもやめないで延々壁に消火器を投げ付けてて、その後ろではバンドが演奏してるっていう、すごいライブだった(笑)(石野卓球/人生)

あっちゃんがライブ中にケガして、血がバーッとついた本当の血染めのTシャツを“人生教”の会報のプレゼントにするって言って持って来たことがある。でも血染めのTシャツなんてもらっても、たぶん誰も嬉しくないと思うよ。しかもあっちゃんのだし。一応ご好意だから、誰かに送ったんだと思うけど。もらった人はどうしてるんだろう。本物の血だから怖いし、茶色くなっててなんか臭そう。(HY/人生教)

人生教の会報『人生の手びき』をチェックしてみたところ、当選者は藤沢市の伊藤優樹さんでした。今そのTシャツはどうしていることでしょう。

87年5月にはソノシート付きEP『LOVE』*28、同年11月にEP『FASCINATION』*29、88年2月にソノシート付きLP『顔として…』*30と、ナゴムから立て続けにレコードをリリースする。

これら三作は、“仮面ライダーZS*31三部作”というシリーズになっている。

仮面ライダーZS三部作”は、ソノシートじゃなくて硬いレコードだった。そのレコードから、EGMっていうスタジオでレコーディングするようになって。レコーディングはなによりも楽しかった。自宅の多重録音とやってることは変わらないんだけど、規模がぜんぜん違うからいろんな可能性が出てきて、すごい開けた感じがした。ケラさんは『LOVE』のレコーディングにはずっと来てたけど、あとはもう来なくなった。でも来ても何をするわけでもなく、アドバイスとか選曲についても何も言われなかった。こっちはアマチュアだし、レコーディング代出してもらってるのにいいのかなって不安になったけど、まあ言わないってことはいいんだと思って。それはすごいやりやすかった。

レコーディングはほとんどオレがひとりでやって、シーケンサーとか持ってなかったから、キーボードの手弾きは(グリソン)キムに弾いてもらって。バンド演奏は楽器のメンバーを呼んできて、ここでこうやってって言って弾いてもらった。だからすごい人力で録ってた。あと、あっちゃんが学校でロシア語を専攻してたから、ロシア語のナレーションを入れたいって言って、『FASCINATION』で喋ってもらったの。その喋り出しが、「ユ~チュルビック*32って(笑)。それを未だにオレと(ピエール)瀧の間では、君ってことを指すのに使ってる。

レコードは売れたと思うよ。雑誌『フールズメイト』のインディーズ・チャートでは確実に上の方に入ってたから。まあインディーズなんて売り上げ枚数をちゃんと集計なんかできないだろうから、編集部の腹ひとつだろうけど(笑)。ギャラはいくらだったかぜんぜん覚えてないけど、こんなにもらっていいのっていう額じゃなかったことは確か。ケラは金払いが悪いってウワサを聞いてたけど、そんなことなかったよ。ただ後になるに従って、だんだん払いは悪くなってったけど。こっちもそれまでレコード出してたわけじゃないし、それでいいやって感じだった。(石野卓球/人生)

人生のレコードは、学芸大学にあるEGMってスタジオでレコーディングした。卓球が完全なプロデューサーとして、ひとりできりもりしてた感じだった。テキパキやってて感心したな。『LOVE』の時かな、卓球にちょっと音を重ねすぎじゃないかって言った記憶がある。僕はスカスカ感が好きだったから。だから人生は最初のソノシートが一番好きだし。だけどだんだんゴージャスなサウンドになっていって。でもきっとあのやり方が今の“電気グルーヴ”に繋がってるのかな。(ケラ/有頂天)

もともと宅録少年だった石野卓球はレコーディンクが楽しくて仕方がなかったようで、88年4月21日にはキャプテンレコードから『バーバパパ*33をリリースする。

シングル2枚出して、アルバムを出した次の月にまたシングルを出したいって言ったら、ケラさんにダメって言われたの。あまりにも立て続けだったから。とにかくその頃はすごくレコーディングがやりたくて、別にレコーディングができればどこのレーベルから出てもいいやっていうのもあったし。それでキャプテンに話を持って行ったら、キャプテンもちょうど傾いてた時で、じゃあ願ったり叶ったりだって。それで出したら、ぜんぜん売れなかった(笑)(石野卓球/人生)

ナゴムは“ナゴムギャル”と呼ばれる個性的な服装をした若い女の子のファンが、レーベルについていたことも特徴のひとつだった。しかし、ナゴムに関わったバンド全部がナゴムギャルに人気があったわけではない。人気があったのは、わりと笑いの要素やキャラクター性の強いバンドだったようだ。パフォーマンス性の強いステージングをする人生はまさにその典型で、客席は100%ピュア・ナゴムギャル。

人生のお客さんは、ご存じの通りナゴムギャル一色。100%ピュア・ナゴムギャル(笑)。ただ俺もその頃まだ18歳とかだったから、そんなに年齢も離れてないし、他のバンドに比べて年齢層が低いってことも、最初は分からなかった。まあ後になってちょっとこっちが醒めた時に、なんだこいつら音楽聴いてねぇな、見に来てるだけなんだなって思って。それはすごい徒労感があった。でもそんなにすれた子とかいなかったから、話しやすくてよかったよ。

まあ中にはちょっとおかしいヤツもいたけどね。おかしくなっちゃったのか、おかしいものが好きだからおかしくならなきゃいけないっていう強迫観念でおかしくなってしまったのか分からないけど、温い狂人が多かった。突き抜け方が足りないというか。狂ってるのか演じてるのかっていうのは、やっぱり分かるじゃない。その演じてる部分が見えてしまってる。まあ今考えれば、かわいいもんなんだけど。

でもオレはこの前つくづく思ったけど、10年間かけてナゴムギャルがやっと商品になったのが、篠原ともえだと思う。10年経てば、ナゴムギャルもお茶の間に進出(笑)石野卓球/人生)

人生のお客さんは、ニーソックスに、ラバーソール履いて、ミニスカートで、髪をふたつに結んで、いかにもナゴムギャルっていう格好の人が多かった。でも私とか友達はあまりお金がなかったから、上下いちまつ模様の服に、ちょっとラバーソールっぽい靴を履く程度だった。当時はファン同志でお友達になったりもしたけど、今はあまり会ってない。みんな結婚したとか、銀行員になったとか、ウワサに聞くくらいで。(HY/人生教)

京進出以降、人生はあっという間に有頂天、筋少、ばちかぶりに続くナゴムの看板バンドになっていった。そんな、人生の人気が頂点に達したのは、87年8月31日渋谷LIVE INNで行なったワンマンライブ。

(1987年8月31日の人生ワンマンライブ「俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ」@渋谷LIVE INN)

この日のライブで配られたパンフレット*34には「インディーズになっちゃった」と書いてあり、当時の自分たちが置かれている状況に対する複雑な気持ちがうかがえる。

人生はそれなりにインディーの人気者になっちゃって。雑誌にもよく写真とか載るようになっちゃって。上京してからそんな時間たたなくて、そこそこの人気はあったんじゃないかな。

その頃はそれなりに緊張感はあったんですよ。やっぱ、地方出身者だからチャンスは逃したくないみたいな。一生懸命やってた思う。とくに石野はプロねらってただろうし、僕はあんまそういう事は考えないし。あの男(石野)は上昇志向あるしね。練習とか真面目にやってましたよ。でも、人生みたいなのって、やってる方ががんばってるのがわかっちゃうとダメじゃないですか。そのへんが難しい。

石野は大変だったと思いますよ。やっぱ、ワンマンで500とか客が入っちゃうとねぇ、それなりに考えるじゃないですか。それは石野じゃなくても。僕は...、僕ってあんま人気なかったんですよ(笑)。いろいろとやってましたけどねぇ、ドラえもんとか。でも人気なかったしね、だから、気楽でしたよ。なんか、結構、客観的だった*35。人生がプロになる事で真剣に考えたりしなかった。(人生/ピエール瀧

あまりライブの動員がすごいよかったっていう印象はないな。筋少とかがすごかったからね。一番ピークは、渋谷LIVE INNで500人くらいじゃないかな。(石野卓球/人生)

渋谷LIVE INNでワンマンライブをやった時は、客席にござが敷いてあって、お客は靴を脱いで体育座りをさせられた。ライブっていってもカラオケ流して踊るだけなんだけど。その日はメンバーが素裸になったりして最高だった。(高田潤一/ファン)

その後、ファンの間でも人生のマンネリ化がささやかれ、当初の勢いが少しパワーダウンしているようにも見えた。しかし88年2月10日に王選手が脱退*36し、静岡時代にメンバーだったドラムの越一人*37が加入。テープよりもバンド演奏中心のライブになり、人気を取り戻した。そんな人生を取り巻く環境はバンドブーム一色。筋少など周囲の人気バンドはどんどんメジャーデビューしていった。

メジャーデビューは最初の頃は考えてなかったけど、途中でちょっと考えた。一度メジャーデビューしてみたかったっていうのが、今思うと正直な感想かな。してみないと分かんないっていうのもあったし。(石野卓球/人生)

しかし、人生と同じくらいレコードが売れているバンドにはメジャーデビューの話があるにもかかわらず、人生にレコード会社からの声はかからなかった。

88年6月リリースのナゴムオムニバス『おまつり』には、87年5月14日豊島公会堂の“第4回ナゴム総決起集会”で観客レコーディングした、石野卓球作詞・作曲の「革命の唄」を収録。この日ケラは水疱瘡のため欠席だった。

なんか卓球がその当日に作詞・作曲したとかいう歌のチラシをみんなに配って、三回練習して、本番になった。で、ケラに電話するとか言って、ステージから電話して。ケラが「すみません」とか言って会話して。「行けないよ」とか言って。やってる場所が豊島公会堂とか汚ない所なんで、学芸会みたいなノリだった。(稲葉真人/ファン)

バンド形態になり人気を取り戻したものの、人生のバンド内は倦怠期で、音楽的にも息詰まっていた。それは海外からヒップホップ、アシッドハウスといったダンスミュージック入ってきた時期でもあった。石野卓球はこれらの要素を人生に取り入れられないものかと考えたが、バンド編成になっていた人生には難しかった。

(バンド形態となった末期の人生)

そんな折り、静岡時代から一緒にやってきたおばば(EX分度器)が帰郷することになる。いわゆる「バンドで芽が出ないから故郷に帰って仕事に就く」という理由で。そして89年4月26日大阪バーボンハウスでのライブを最後に解散。

人生解散の時はよく憶えてますよ。スタジオでね、練習の時、石野が遅れてきて、いきなり「人生解散するから」って。予兆はありましたよ。煮詰まってたしねえ。ネタが尽きたというか。目新しさがなくなってきちゃって。やっててもつまらなくなってきて。無理にやるみたいな。ライブもスケジュールこなすみたいなノリになっちゃって。で、石野がいきなりそう言っても、メンバーも「そうか」みたいな。「やっぱりな」って。僕はね、人生やめたら、もうステージに立つ事ないなって思ってたんです。それは悲観じゃなくて、まあ、それはそれでいいやって*38。(ピエール瀧/人生)

アッシドハウスとかを88年か89年くらいに聴いて、いろんなことが自分の中でひっくり返っちゃったの。それを聴いて人生やめようと思ったし。最初は人生の中に取り入れられないものかと思って試行錯誤してたんだけど、やっぱりダメだった。しかもバンドももう飽きてきて、倦怠期になってたし。アマチュアでそれはあっちゃいけないよね。

…88年ですか。その頃は例のイカ天ブームのちょっと前かな。ビート・パンクとか出てきて。ホコ天とか盛り上がってた頃ですよ。筋少がメジャーでデビューした頃だ。で、ちょっとしてイカ天ブームがあって…あれって僕知らなかったんですよ。存在そのものを。その事を人から聞いてメンバーに話してみたら知ってる奴が何人かいて。で、見てみたら。こりゃ、マズイなって。その頃は筋少がメジャー行ったりで、結構あせってたりしてたから、あれに出たら出たでどうにかなったのかもしれないけど、やっぱ出なくて正解だったと思いますよ。イカ天なんかに出るバンドって、昔の人生みたいにギミックが前提にあってみたいなのが多かったでしょ。何か、ああいうのはもう違うなって思ってました。

でも何とかしなきゃいけないって気持ちはあったんですよ。丁度その頃、イエローを聴いてて、いや、『ブルーマンデー』と並んでショックを受けたんですけど。イエローってすごく変じゃないですか。それから『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム』*39やボム・ザ・ベースの『ビート・ディス』がヒットしてた。これだって思いましたよ。もう、こんな事やってる場合じゃないなって思いましたね。

人生を辞めるつもりはなかったんですよ。自分としてもライフワークとして続けたかったし。ここまでやってきたんだからって意識はあったと思う。でも明らかにパワーダウンしてた。僕もメンバーもその事は気付いてたと思いますよ。その頃の人生ってバンドだったんですよ。ドラマー入れて。練習はすごくしてた。一番練習してたと思う。でも、自分のやりたい事と人生のそれと開きができちゃって。ここでシンセ・ベース入れたいなって思ってもそれができる状態じゃなかったし。メンバーのテクニック的な問題もあったりして。ギターがいらない曲でも、おばばがいるからギター入れなきゃならないとか。遊ばしておくわけにもいかないじゃないですか。メンバー間の関係が悪くなるのもイヤだったし。だから人生とは別にもうひとつバンドやろうかなって考えたりもしたんです。

でもバンドになってから人生の人気は盛り返したんですよ。ロフトとか満員になっていたしね。でもね、あの頃についた客ってホント、うちの事勘違いしてたと思いますよ。パンクスとか来てたもん。それはやってるうちらに問題があるんだけどさ。ポゴダンスだったもんなあ。電気グルーヴになってからやったアンケートとか見ると、あの頃の客っていない*40。まあ、そんな状況も含めて、もうダメだって思った。ボム・ザ・ベースなんか聴くと、もうこんな事やってる場合じゃないぞって思ってましたしね。精神的にもディープになってたしね。

やっぱ彼女と別れるっていうあれがあって。あーもうダメだなって。8キロ痩せましたもん。うん、ま、そんな中で人生が解散するんだよね。いや、実にディープな時代でしたね。

おばばが田舎に帰るって話が出て。まあ、これだけやって芽が出ないっていうか、ずうっとこの調子だったらオレはできないっていう事になって。最初はおばば抜きでやろうかって話もあったんだけど、メンバー内もすごい倦怠期で。一番バンドの悪い状態になって。そこにいない奴の悪口は出るし。だから…もう、発展がないなって感じで。これは、もうダメだろうって。それを言うのは自分しかいないなって思って。で、自分から辞めるって言っちゃうんですけどね。みんなも、来たかって感じの対応でしたよ。(石野卓球/人生)

人生の解散は、最初卓球さんから電話で聞いた。すっごい暗い声で「人生やめるから。今話し合いしてるから、詳しいことはまた後で話す」って、それだけ聞かされて。その時は声があまりにもブルーだったから、びっくりしちゃって。その後会って、分度器さんが田舎に帰っちゃうから、この人がいなければ人生は成り立たないだろうってことになって、解散という風に聞いた。なんかもう「えぇー! 帰らないでくれ」って思って。でも私なんかが意見を言うことでもないし、ただひたすらショックだった。(HY/人生教)

同年4月27日、石野卓球若王子耳夫ピエール瀧を誘って電気グルーヴを結成*41。新しいスタートを切った。

(1989年8月20日大阪十三ファンダンゴにて電気グルーヴのデビューライブ)

人生は静岡時代にテープ派とバンド志向派といて、僕はテープ派だったんですけど、とりあえずテープでいこうと。

電気だとメンバーも石野と僕と耳夫と高橋だから、必然的にバンド形態じゃなく、打ち込みメインの音作りになった。その時に、後期の人生で忘れてた感覚がよみがえった。これはいけるなって。これはいけるなって感動がね、なかったんですよ。ずっと長い事。電気でそれがよみがえった。

とは言っても、最初の大阪でのライブの写真、今見ると笑いますよ。石野なんて長髪でセーラー服着てるし、高橋は背広着てたし、勘違いしまくり。それのどこがラップとかハウスみたいなね。なんだろこの人達は? みたいな。暗中模索でしたね。クラブもんの音楽が海外では流行ってるのは知ってたけど、自分らはとにかくラップやらハウスやら自分たちなりに消化する事で懸命だったんじゃないかな。でも、それらが自分らがずっと好きだった音楽、UKもんのテクノとかジャーマン・テクノとかと近しい匂いがあったしね*42。(ピエール瀧電気グルーヴ


ナゴムのことはアマチュア時代のいい思い出って感じかな。悪い思い出もあったんだろうけど、思い出せないし。やっぱりきっかけができたってことは、未だにすごく感謝してる。ナゴムと言うか、ケラさんだよね。単純にソノシートとかレコードが出せて、レコーディングすることもできたし、それによってプロモーションもできたし。あとライブハウスで手売りをしなくても大丈夫だったとか。それがなかったらね、今もたぶんちょっと違うだろうしね。(石野卓球電気グルーヴ

ほどなくして耳夫は電気グルーヴをクビになり、死ね死ね団にベーシストとして加入の後、Badge714に参加。石野卓球ピエール瀧は新メンバーにCMJKを加え、90年2月、TMN*43とのコラボレーション・シングル『RHYTHMRED BEAT BLACK』でメジャーデビューを果たした。その後はCMJK*44の脱退、まりん(砂原良徳*45の加入、脱退を経て石野卓球ピエール瀧のふたり組に。メジャー・シーン、アンダーグランウンド・シーンの両方を股にかけて活躍する。

人生時代の音源は1992年8月25日にリリースされた『SUBSTANCEⅢ』『SUBSTANCEV』の2枚のCDと、2006年3月23日にナゴムレコードからリリースされたベスト盤『人生/ナゴムコレクション』に収録されている。

参考文献

野田努+宝島編集部+電気グルーヴ『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』

人生(ZIN-SÄY!)パンフレット『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』『人生ウルトラスーパースター列伝スペシャル~ジャイアン・リサイタル』

*1:ライブは石野卓球ひとりでやっていたが、電気グルーヴのデビューライブにDJとして立ち合ったこともある、友人のK太がスライドとして参加。『どてらい男』などを映していた。視覚的な演出としてスライドを持ち込むなんて、今でいうVJのハシリ?

「人生は石野が一人でやってたんですよ。K太って奴がスライドやって、『どてらい男』とか映してた。おもしれえって思いましたね。それが人生ユニット1って言うんですよ」(ピエール瀧/人生)

*2:「人生ユニット2がギターとか入れて有頂天の前座やって、それで人生ユニット3ってのがあるんですけど、それがね、僕が初めて人生やったのなんだけど。ある夜中、石野の家で僕と石野と田中って奴と話してたらムラムラしてきたんですよ。それで今から何かやらねぇって事になって。で、考えついたのが、地球儀と靴べらとギターと何か持ってって、それらを体につけて、夜中の静岡駅を歩こうって、そういう事になったんですよ。それが人生ユニット3です。ホント、バカですね(笑)。これはねぇ、若い人には受けたんですよ。一緒に記念撮影して下さいとか言われたり(笑)。その次がねぇ、駿府公園(徳川家康が隠居生活を送った駿府城の跡地)ってとこで、演劇やってる人がヤグラ組んだんですよ。で、昼間だったらそこを自由に使っていいよって事で人生のライブやるんですよ。僕はシンセを弾くんですけどね。石野から借りて。50人ぐらいかな、客は。まあ、静岡では、そういうのってあんまないから、みんなもの珍しそうに観てましたね」(ピエール瀧/人生)

*3:石野卓球の転換期には、なぜか必ず登場するいい奴。現在は静岡にいる。瀧の逮捕後、卓球に「新しいオラフお前がやるの?」とメールで質問した。

*4:伊東忠。卓球の中学時代の悪友であり、瀧の高校時代の野球部のチームメイト。卓球と瀧の出会いを橋渡しした張本人。

*5:この日は石野卓球、越一人、狂人川井、くちづけの4人編成。くちづけは電気グルーヴ周辺を手がけるライター野田努の弟。

*6:佐藤薫が率いるエレクトリック・ファンクバンド。83年5月に「EP-4 5・21」と書いたシールをいたる所に貼り、予告テロや政治集会かと誤解され、話題を集めた。実際は一日で京都ビッグバン、名古屋、渋谷PARCO PART3の三ケ所を回るライブの告知だった。

*7:新沼好文によるテクノ/テクノポップ・ユニット。80年に雑誌『ロック・マガジン』編集長・阿木譲主催のヴァニティーからデビュー、現在も活動中。

*8:70年代後半に結成され、メンバーの弟の小学生がステージに上がって話題になった、滋賀県出身のお笑いパンクバンド。アンバランスレコードで活動し、その後アルケミーレコードからCDが出ている。当時石野卓球は「ほぶらきんYMOをクロスオーバーさせたのが人生さ」と言っていた。人生の作品も毎回送っていたそうだ。

「80年代のインディーズバンドなんだけど、メンバーに小学生とかいるんだよね(笑)。僕と瀧は非常に影響を受けていて、ほぶらきんがなかったら音楽をやっていたかどうかわからないぐらい影響を受けた」(人生/石野卓球

*9:「その日の人生のライブは、有頂天のマネージャーとして同行したから見てた。なんかステージでマヨネーズを塗りたくってて、やたら臭かったのを覚えてる(笑)」(能野哲彦/PCM)

*10:2回目は85年10月23日、3回目は86年1月26日。いずれも静岡モッキンバードで。

*11:参加メンバーは卓球、分度器、くちづけ、ポートピア83才、ひょでしからー渡辺、チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池、バンバラバンバンバンKIM、畳、MIRAI。ポートピア83才は『電気グルーヴのオールナイトニッポン構成作家や雑誌『SPA!』ライターとしてファンの間ではおなじみの椎名基樹。チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池は上京後、固定メンバーになる越一人。バンバラバンバンバンKIMはグリソンキム。MIRAIは後にミュージシャンとなる黄倉未来(おうくら・みらい)で収録当時は3歳だった(収録曲「人生のテーマ」の子供の声が彼)。

*12:メインであるはずの有頂天を食ってしまったという話もある。ケラ自身も「第一回ナゴム総決起集会」で人生を紹介する時「有頂天が静岡に3回行った時に毎回ゲストで出てもらって、毎回負けてたんですけども。いいでしょ、すごく」と言っていた。

*13:もすけさん、エキスポを経て、現在はマニュアルオブエラーズというレコード店やマニュアルオブエラーズ・アーティスツという事務所の運営をしている。当時CSV渋谷の店員でもあった。「人生のテーマ」と「カランコロンの唄」のミックスは山口優、その他は岸野雄一

*14:石野卓球が高校二年の時に手伝っていたOBJ(オブジェ)というバンドで知り合う。「俺もふざけたことをやりてぇ」と言って85年10月23日静岡モッキンバードのライブから正式加入。ギターとダンサー、作曲を担当。以前は分度器と呼ばれていた名残りで、レコードではおばば(EX分度器)というクレジットになっている。

*15:石野卓球の高校の同級生。85年7月23日静岡サーカスタウンのライブで加入するものの、ギャグレベルの低さによりその一回でクビに。86年10月10日静岡モッキンバードのライブから再加入。一浪して東京の大学に進学したため、87年春から東京でも活動する。嫌なヤツ担当。

*16:人生以前は“クセナキス”というサイケデリックなハードコアの女の子バンドをやっていた。石野卓球がキーボードを入れたいと思い、知人のタイガージョーを介して知り合う。85年11月28日静岡サーカスタウンのライブから加入。レコード屋店員という職を捨て上京。

*17:ブリーフ、革ベルト、アフロづらといういでたちで背中に“木”と書き、ただ立っている人。初代“木”は石野卓球と耳夫の高校のクラスメイト野獣で、86年6月10日新宿LOFTのライブで初登場。2代目はおばば(EX分度器)の弟こばば。野獣の行動は『FASCINATION』に収録の「エチオピア」という歌にもなっている。

*18:86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた。88年4月にオムニバスビデオ『昔、ナゴムレコードがあった』としてリリース。人生は「KISS×3」「はるかなる故郷」「オールナイトロング」の3曲を収録。

*19:86年8月23日新宿LOFTで行なわれた。対バンはミシン、ペーターズ、他。

*20:石野卓球曰くハードコア・ナゴムギャル。ナゴムギャルが昂じて人生のスタッフとなり、ライブ・パンフレットの制作などを手がける。電気グルーヴ初期のマネージャーでもあった。

*21:もともとはナゴムのお客さん(ナゴムギャル)のひとりだったが、のちに姉妹でマサ子さんという女の子バンドを組む。ギターの代わりに大正琴が入っていて、オカシイけどカワイくてポップなバンドだった。88年に『イカ天』出場後、90年4月にナゴムから『ムウ=ミサ』をリリース。『イカ天』終了後は正式に解散しないまま91年にバンド活動終了。94年、サブリナ・ブルネイの逝去に伴い無期限活動休止。代表曲はバート・バカラックの「雨にぬれても」をアレンジした「雨にヌレテモいーや」

ナゴムからマサ子さんのレコードが出た時は、完全にひと回りしたんだなって思った。それまでお客さんだった子たちが、今度はリリースする方になったっていうのは、なんか感慨深いものがあったね」(石野卓球/人生)

*22:『9TUNES(FOR MIRAI)』収録の「下剋上」という曲。

*23:ダビング絶対禁止として、人生教会員だけにカセットやビデオをプレゼントしたり販売したりしていた。

*24:素顔がどうだったのかは分からないが、おばばは眉毛がつながったメイクがトレードマークだった。

*25:以前いた暗黒舞踏団で仲間だったぱちかぶりの田口トモロヲの彼女を通じて、劇団健康に加入。最初は芸名が決まらず、井ノ頭健康とか健康地蔵などと名乗っていた。86年10月19日CSV渋谷でのライブから加入。後に王選手で芸名が固定する。

*26:しかし当時ミニコミのインタビューで石野卓球は「あっちゃんとは“第一回総決起集会”で会って、次に“第二回総決起集会”で会った時に人生のライブに出てみない?」と誘った。「カイカイデー(劇団健康 第3回公演)」ではない」と答えている。

*27:このライブは有頂天の所属事務所PCMが主催していた。社長の江口勝敏氏は「(ケガをしたのが)人でなくてよかったよ」と言ったそうだが、王選手は人ではないのでしょうか? たぶんお客さんじゃなくてよかったと言いたかったのでしょうが(笑)

*28:この時のメンバーは石野“卓球”ペルーニャ6世、御婆“分度器”、畳三郎、グリソン・アンダーソン・キム2世、王選手、渡辺耳夫、鼻夫、山本努羅美(マネージャー)。ケラや筋少大槻ケンヂもコーラスでゲスト参加している。

*29:この時のメンバーは卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫、王選手、畳、山本(マネージャー)

*30:この時のメンバーは石野卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫殿下、畳三郎、王選手。

*31:12ライダーの10番目として企画されたものの、テレビ番組化せず。アトラクションでしか見れなかった幻のライダー。

*32:「P-ONE」という曲。

*33:98年9月23日に再発盤がリリースされたので、インタビュー時点(2000年)では人生の中で一番手に入れやすい音源だった。

*34:ライブと同じく『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』というタイトルのパンフレット。インタビューや対談がまとめられている。

ちなみにこの日のテーマソングとなった同タイトルの曲は『顔として…』と91年11月21日リリースの電気グルーヴのセカンドアルバム『UFO』に収録。

*35:「まわりで騒いでもね、僕はそんなに騒ぐ程かなあって思ってました。もちろん楽しかったですよ。でも、だからプロになるってのは、考えた事なかった」(人生/ピエール瀧

*36:早稲田大学の学生という名誉を捨て、沖縄で塾の講師(エテ講師?)になるために脱退。しかし、程なくしてクビになったので東京に戻って来た。ちなみに今は在庫品切れで入手困難だが、本稿が連載されていた『Quick Japan』0号に王選手の「モリッシー抱きつき男」という記事が載っている。

*37:石野卓球とは小学校からの同級生で、静岡時代から参加していたメンバー。二浪して明大生になったので上京。再び人生に参加するようになった。

*38:でも、卓球が一番最初にメンバーに誘ったのはピエールなんだよね。何だかんだ言っても二人の間には、きっと何か感じるものがあるのだ。

電気グルーヴは僕は参加しないはずだったんですよ。石野がメンバー集めてやってくだろうって。そういう気持ちで、『じゃあ俺は客として観に行くよ』って。そんな感じだったですね。そしたら奴から電話があって『やっぱ一緒にやらねぇ』って。楽器もできない男をよく誘ったなあと思いますよ。でも、つき合い長いし、その時は僕も『いいよ』って。例によって軽く返事をして。それで電気やるんですけどね。そん時は石野も、メジャー意識しないで気持ちよく活動したいってのはあっただろうしね」(ピエール瀧/人生)

*39:マースの87年のこのヒットによってハウスが広く一般に浸透した。同じ年にコールド・カット、ボム・ザ・ベースなどもヒットを飛ばした。

*40:「なにしろモヒカンのパンクスが観に来てたからな」(石野卓球/人生)。逆に初期の人生のファンだった人達は電気になってまた聴くようになったという。

*41:結成当初はもうひとり、高橋嵐というメンバーがいたが、耳夫と同時期に脱退したようだ。彼は後にタカハシテクトロニクス、ニュートロン、パロマティックというユニットを組む。

*42:ピエールもまた、こうした打ち込みの音が体質的に好きなんだ。だからハウスに対する反応も早かったもんなあ。

*43:今や超大物プロデューサーになられてしまった小室哲哉と木根尚人、宇都宮隆のバンド。99年に再結成したので、知っている人も多いのでは?

*44:キュートメン、コンフュージョンを経て、現在はALEXinc.で活動中。

*45:91年6月に加入し、99年4月2日脱退。現在はソロ活動をしていて、ACOのプロデュースなども手がける。

伝説の編集者 青山正明氏のこと(夏原武・永山薫・斉田石也の追悼文)

伝説の編集者 青山正明氏のこと

ミリオン出版『ダークサイドJAPAN』2001年10月号所載)

数年前になるが、某ライター氏から公開討論を申し込まれたことがある。そのことを雑談の中で青山正明さんに話したら、クスクス笑いながら「いいこと考えました。討論会に行きますって言っておいて、当日になってカゼ引いたんで欠席しますっていうのはナメきってていいと思いませんか」。それはいいということで、「じゃ当日、方角が悪いので行きませんっていうのもさらにナメきってていいですかね」などとくだらない話をした。僕自身の思い出は僭越ながら編集後記に記しておいた。

雑誌『FOCUS』で報じられた青山正明さんの記事ネットで流れた青山さんのニュース。どれもピンとこなかった。以前青山さんが僕に「僕の兄貴分と呼べるのは、夏原武さんと永山薫さんです」と語ったことを今でも覚えている。その兄貴分二人と、やはり青山さんにとって長年付き合いのあった斉田石也氏。三人のライター氏に追悼文、あるいは思い出をつづってもらうことにした。(編集部 久田将義

 

私にとって友人でもあるが恩人でもあった(文◎夏原武)

青山正明と知り合ったのはもう十五年近く前のことになる。くだらないことを何時間もよく話したものだ。ホラービデオがちょっとしたブームだったこともあり、死体や畸形の話をよくした。当時、エンバシーホームビデオにいたKさんと三人でロリコン話をして盛り上がったこともある。面白いやっちゃなあという印象だった。世間一般的なイメージである『突然変異』を作った男、というのは後に知ったことで、あくまでも趣味の合う友達だった。

青山正明が慶応大学在学中に編集していたミニコミ『突然変異』創刊号)

しばらくして、今はもうない大正屋出版という会社から『阿修羅』なるムック形態の雑誌を作ったと連絡をもらった。考えてみるとこれが『危ない1号』の原型かもしれない。その二冊目に原稿を書いてくれないか、彼からそう言われた時は正直嬉しかった。というのも、私はライター青山のファンでもあったからで、自分が敬愛する書き手から「書いてくれ」と言われるより嬉しいことはない。言われるままホドロフスキーの作品を中心に、原稿を書かせてもらった。その出版社があっという間に倒産したのは笑い話だが、彼は自腹を切って原稿料を振り込んできた。

記憶が曖昧だが、美女切腹写真を載せた『サバト』もこのころだったのではないか。まだ鬼畜という言葉こそなかったが、彼は少しずつ形にしたものを残していた。ペヨトル工房から出ていた『夜想』に優れたクローネンバーグ論を書いたのも同時期かもしれない。ケネス・アンガーの前衛映画に触れたのも、彼の影響だった。

三和出版刊『サバト 超変態世紀末虐待史』創刊号/廃刊号)

青山はシャイで人懐こい男だった。はにかんだような表情で待ち合わせに現れる。いつも時間に遅れてくる男で、こちらを見つけると首を前後に振るようにして「すいませ~ん」とやってくる。手足が長くてノーブルな顔立ちの彼にそんな風に言われると、文句を言う気もうせてしまう。酒を飲まないので、いつも会うのは喫茶店。二、三時間は話しこむのが定番だった。

ほんの短い期間だったが、編集者をしていたときに原稿を発注したことがある。『ビデオで~た』(現在は『DVD&ビデオで~た』)の星取表で、歯に衣着せぬ原稿を書いてくるので、何度か直してもらったことがある。映画評論家としてもやっていけるのではないかと思わせる鋭さがあった。

この頃、私が在籍していたのはSという編集プロダクション。緑は不思議だなと思うのは、怪しげな旅行雑誌の編集を離れた青山が就職したのが、このSとは兄弟づきあいのある同じ編プ口のJ社であった。両社はあるいて五分程度の距離にあり、行き来も頻繁だったが、まさかそこに彼が入るとは思いもよらなかった。『ぴあ』から請け負った仕事などしていたようだ。いくらもいずに辞めてしまったが、会社づとめは傍から見ても性に合わないのが分かった。

『危ない1号』的な雑誌を作りたいという話は、この時期によくしていた。タブーと言われていること公序良俗に反することをやれる雑誌を作りたい。二人で熱っぽく語ったものだ。版元さえ見つかれば、そういう雑誌に打ち込めるのが一番だと納得しあったのは、要するに、当時は双方ともにやりたくない仕事をしていたからだろう。その発散として、松文館から出ていたビデオ雑誌でグロビデオ特集をやったこともあった。ギャランティの問題ではなく、やりたいことがやりたいんだ、とよく言っていた。『バチェラー』のフレッシュペーパーもそのひとつだったのか。

私にとって青山は友人でもあるが同時に恩人でもある。フリーになった後、くすぶっていた私に別冊宝島を紹介してくれたのも彼だし、その後、自分が単行本『危ない薬』を出すと、私にも単行本を書くようにすすめてくれ、データハウスを紹介してくれた。利害損得を越えた優しさを私には示してくれた。インテリで繊細な青山とろくでなしの私では、違いすぎるところが、よかったのかもしれない。『危ない薬』が出た時には、自身でサイン本を持ってわざわざ家を訪ねてくれた。まあ、それでも二人で何をしていたかというと、レンタル屋でV&Rのジャンクシリーズを借りてきて笑いながら見ていたのだから、ロクなもんじゃないのだが。

青山正明の処女単行本『危ない薬』)

『危ない薬』はよく売れた。十万部を超えたのだから立派なべストセラーだ。実際、出版後はドラッグの第一人者として羽ばたくのではないかと思っていた。テレビがコメントを取りに来たりしていた。だが、青山自身はドラッグを語ることに関しては興味を失いつつあったようだ。全部書いてしまったのは失敗だったなあ、と後日言っていたのが印象的だし、小出しにしておけば続編に使えたのにとも言っていた(続編は別人の著作)。

もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ。

この『危ない薬』と『危ない1号』は、ひとつのピークだった。特に後者はこれまでにない雑誌となったし、「鬼畜系」なる言葉まで生み出した。まったく新しいものを作るのがどれほど難しいかは、クリエイティブな仕事をしていれば誰にも分かることだ。そういう意味でも彼は編集者として抜群の力量を持っていた。ただ、完全主義者なので、どうしても抱え込み過ぎるのが欠点だったが。

しかし、私は編集者としてよりもライターとしての青山をより評価するし、尊敬する。どの原稿がではなく、どの原稿もいい。「これで全仕事はないよね~」と苦笑いしていた『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』を見れば分かるように外れがない。どの原稿も本当に面白い。もっともっと書いて欲しかった。発注する側ではなく、される側にいて欲しかった。

(単行本第2弾『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』)

去年の春に創刊された文春の『Title』では一緒に仕事をするはずだったが、眼病もあって彼は降りてしまった。やや気力を失っていたのを知っていただけに、この降板は残念極まりない。というのも、その半年ほど前に『危ない1号 第4巻』の仕上げ段階で偶然データハウスで会った時にも、「これからはライターは副業として正業をもちたい」と言っていたが、なんともったいないことを言うものだと、さんざ文句を言った。雑誌を作るのもいいが、もっと書くべきだ、と。肯定的な返事はとうとう聞く事はできなかった。

彼はなぜ書くことに興味を失ってしまったのだろう。タフでないことは分かっていたし、私自身も怠け者だから少しは理解できるが、彼の才能は図抜けていた。それだけに惜しい。

今回、編集長から要請されたのは追悼文だが、とてもそんなものは書けなかった。十数年のほんの一端を駆け足で追った「思い出」を記すのが精一杯だ。それから敢えて青山正明ではないもう一人の「彼」については書かないことにした。色々な見方や意見もあるだろうが、私はあくまでも彼は「青山正明」として死んだと思っているし、もし、私が死んだ後で彼と会ってもやっぱり今までどおりに「青山さん」と呼びかけるだろうから。

(雑誌『FOCUS』2001年7月18日号で報じられた青山さんの死。「麻薬ライター」という表現は当たっていないだろう)

 

 

不良ジジイになった青山正明を見たかった(文◎永山薫

ここ何年か疎遠になっていた俺が、聞いた風なことを抜かしていいもんだろうかという逡巡はある。だが死者について付度するのは生き残った人間の特権だ。もとより過度に賛美したり貶めたりするつもりもない。とは言え知人に先立たれるというのは気持ちのいいものではない。訃報を聞いた時、最初の内は冷静に応答していたが、後半は周章狼狽のテイタラクだった。予期していなかった。年下だ。まだ40である。死ぬには早すぎる。物書きとしても編集者としてもこれから脂が乗る。寒鯖のようにテラテラと青光りする。そんな時期だ。まだまだガキどもをたぶらかして、だまくらかして、ブイブイ言わせる。それが不良青年だった男の義務ではないか。

友人たちから電話がかかってくる。「ネットで知ったけど、本当ですか?」とT。

青山正明とは同い年のライターだ。ヤツは結局しがみつくモノを見失ったんだと思う。死んでも死にきれないというモノがなくなったら、生きることはどうでもよくなる。所詮、遅いか早いかだ。人間はいずれ必ず死ね。絶対に死ぬ」

そんな話をTと交わした。俺たちは生にしがみついて、これしかできないから今の稼業にしがみついて、ナニゴトかを成し遂げない内には死ねない、死にたくない。ジタバタとあがきながら生き続ける。

「けどなあ」

「もう何を言っても取り返しがつかないんだけどさ」

話の合間合間にこのフレーズを何度となく繰り返す俺とT。

鬱病だったという話。青山正明は何年か周期で、ヘコんでも復活して来ていた。今回もそうだと思っていた。だが、今回は尋常ではなかった。ドン底まで潜って行って、浮かんで来られなかった。息が尽きた。発作的だったのかもしれない。人間には自分で自分がどうにもならなくなる刹那がある。全身が凍り付いたようになって、ダメだダメだダメだと思いながら、身体がヤバイ方に滑って行く。オートモードに入ってしまう。

言ってはいけないことを口走る。物を壊す。他人を殴る。自傷する。他人を殺す。自分を殺す。俺は物を壊すあたりで踏みとどまっている。コンクリの壁を殴って拳を青くする程度で済んでいる。運が良かっただけの話かもしれないが…。

「やっぱさあ、還暦までは生きるべきだよねえ」

Hがやるせない声で言う。Hはマジック・マッシュルームの研究家で最後のフーテンだ。Hは青山正明の死を半月後に知った。

彼には還暦、いや、70、80まで生き延びて欲しかった。

「若い時分にはムチャもしましたよ」

としたり顔で語るイヤなジジイになって欲しかった。

青山正明と最初に会ったのは80年代の初頭だった。

俺はその頃『Billy』という白夜書房の変態雑誌で複数のペンネームを使い分け、死体やフリークスやビザールや殺人術について書き殴り、誌面にも変態アーティストとして登場して恥を晒していた。

青山正明は『Billy』と並ぶカルトエロ雑誌でロリコングラフ誌の『Hey!Buddy』でドラッグや変態ビデオの記事を書いていた。

 

白夜書房刊『Billy』『Hey!Buddy』/ともに1985年廃刊)

どうやって仲良くなったのか忘れたが、当時は白夜書房や宝島編集部なんてのは若いライターの溜まり場だった。彼とはスプラッタ・ホラーや、鬼畜な嫌がらせのテクニックや、動物虐待や、神秘学や、変態の話で盛り上がった。ネコに唐辛子を突っ込んで全力疾走させる方法、スカしたクルマに乗ってるバーカを懲らしめるためのあらゆる方法、幾つかはネタになり、彼が編集していたロリコンエロ雑誌のフリをしたカルト雑誌に掲載された。

青山正明は気弱に見えて開けっぴろげだった。メジャー誌に呼ばれて「エロ雑誌関係者匿名放談会」みたいなことをやった時、彼はヤバイことをケロケロとぶっ放した。いいのか、お前、そこまでぶっちゃって!? とコチラの腰が引けるほどのサービス精神である。そう、気合いが違う。両手ブラリ戦法で踏み込んでくる。

ロフトプラスワントークショー青山正明とセットで出た。それが最後の対談だったかもしれない。俺と彼は業界関係者とガキどもの前で、オナニーの話をぶっこいた。

眠剤二本突っ込んで、イク瞬間にラッシュをキメるんですよ、ふわーっとなります」

「ヤバイよ、お前、死ぬよソレ」

彼は漫画やアニメでは抜けなかった。抜くのは写真だ。巨乳が好きだった。巨乳のスクラップを屏風みたいにして、それで抜いていた。想像するだにマヌケな姿だが、そういうマヌケな姿も平気でさらせる男だった。

カルト・ライターだとか、ドラッグ・ライターだとか、カリスマだとか、元祖鬼畜だとか、冠は色々あるだろうし、その側面も俺は否定はしない。虚像も実像の内だ。ただ、俺にとっての彼は気弱で優しいくせに大胆で捨て身でマヌケな男だった

「よく人間性とかヒューマニズムとか云いますけど、人間が動物と決定的に違うのは、裏切ったり、他人を騙したり、陥れたりする点ですよね。人間らしさって、卑劣さってことですよ」と、微笑みながら彼は俺に語った。しかし、少なくとも俺は彼に裏切られたことはない。世話して貰った憶えは一杯ある。

俺が青山と最後に会ったのは97年だ。青山のプロデュースで鬼畜な単行本を出す。そういう話だ。面白い仕事だし俺はカネが欲しかった。幾つかあるペンネームを使う。それでオッケー。

「一ヶ月で書いて下さい」

「そりゃムチャだな」

「やってくださいよ。一月で百万になると思えば楽勝でしょ」

気弱な笑みを浮かべながら、押しが強い。

いつの間にか押し切っている。

「これ、差し入れです」

輸入物のビタミン剤の巨大な薬瓶。正確にはサプリメントだが効いた。青山正明が持って来たクスリというプラシーボ効果

確かに彼はクスリには詳しかった。「メラトニンはいいですよ。体内時計を調整してくれますから、長生きできるかもしれない」

俺は長生きしたい。死ぬのが恐い。一分一秒でもこの世にしがみつきたい。残り時間を考えると全身が冷たくなる。

恐らく彼もそうだったのだろう。死を恐れ、生きることの快楽を楽しむ男だった。そんな男が自殺した。それが、俺には痛い。

青山正明は俺の保険だった。青山だって生きている。だから俺もなんとかなるだろう。安心できた。俺なんかよりずっとムチャやってもヘッチャラなヤツがいる。

そんな保険が失効した。

青山正明よ。スマンが、俺は70、80まで生きる。不良でバカでマヌケなガキどもの保険には役不足かもしれないが……。

 

青山正明は極端に人間臭い人間達との関わりを何よりも愛する繊細な心の持ち主だった(文◎斉田石也)

青山正明殿

あなたは、絶対に越えられない、とてつもなくでっかい目標であり、憧れの人であり、そして、よき理解者でもありました。ご冥福を心よりお祈りしております。

私の元に青山正明氏の訃報が届いたのは、亡くなられた日の深夜であった。青山氏と私の共通の友人であり、同氏の家族とも親しい女性ライターからの連絡だった。

突然、自殺といわれても、にわかには信じられなかった。これが、第一報を聞いた瞬間の偽らざる心境だった。それほどショックが大きかった。いや、正直なところ、今でも、青山氏と私の間で以前に何度もあったように、忘れた頃に、突然、連絡が来ると信じている部分が、私の中にある気がする。

幸か不幸か、全体の4割程度の原稿を執筆した情報誌の入稿時期で、仕事に没頭せざるを得なかった私は、何とか気持ちを立て直せたが、もし、それがなければ、現在も落ち込んだままだったかも知れない。

青山氏と初めて合ったのは、昭和60年(85年)のことで、当時、同氏が在籍していた出版社の六本木の事務所だった。既に青山氏はライター、そして編集者としても名の知れた存在だった。まだ、サラリーマンで、ライターが副業とさえいえないぐらいの駆け出しだった私は、青山氏から自己紹介を受け、名刺を差し出されて「わァ、あの青山正明だァ! 名刺までくれた」と感激した事を、今でも鮮明に記憶している。

早いもので、あの感激の名刺交換から6年が過ぎ、何度か疎遠になったことはありつつも親しくお付き合いさせて頂いてきた。

ちなみに、本誌の久田編集長に私を推薦してくれたのも、誰であろう青山氏であった。

そして、青山氏の死と直面した今、改めて、そうした日々を振り返ってみて、私は、何度となく氏の天才的ひらめきも目の当たりにする一方で、数多くのテーマに対して、実に深い探求心を持って挑んでいることも知っている。つまり、青山正明氏は、天才と秀才の相反する二つの気質を持ち合わせていたといえるのだろう。そんな青山氏の代表作は『危ない薬』、そして、結果的に出版業界での最後の一大事業となってしまったムックの『危ない1号』などが挙げられるだろう。

ただ、多少なりとも青山氏と交際のあった者として、この2つの仕事だけで短絡的にドラッグライター、あるいは鬼畜系プランナーと決め付けられるようなことにはなってほしくない、してはならないと考えている

確かに青山氏はドラッグやマリファナなどに関する知識は豊富だった。つまり、そういった世界に興味を惹かれていたのは紛れもない事実だ。『危ない1号』の内容からは、氏が様々な怪しげな世界に人脈や情報源を持っていたことは明らかである。

しかし、そうした知識や人脈があった事だけを挙げ連ねて、青山氏自身も鬼畜系であるかのように決め付けてしまうのは大変な間違いである。アブノーマルの世界を精力的に紹介していた時のことを思い出してほしい。

ロリコンだと誤解された時もあったし、何か、更にコアなフェチズムの持ち主だと、まことしやかに語られた事もあった。

そうしたスタンスは、氏の中で、様々な社会的マイノリティやフリークスの世界などへの深い関わりへと引き継がれていった。

氏のこうした好奇心、探求心の根源にあるのは、人間への興味である

たとえば、私が青山氏と出会った出版社はロリータ系専門の出版社である。しかし、青山氏がこの会社に籍を置いたのは、幼い少女に興味があったのではなく、ロリータマニアに強く惹かれたからであるのは、当時、氏と親しかった者なら、みんなが知っていた。

つまり、青山正明氏がフリークスに詳しいのも、薬物依存者について語れるのも、様々な破滅型、あるいは社会不適応者についての膨大な知識を持っていたのも、全て、そうした人間一人々々へのやむ事ない探求心のなせるわざであったのだ。氏をこうした社会的マイノリティの世界へと導いたのは、青山正明氏が、実は繊細な神経の持ち主であり、様々な立場の人とのかかわり合いに、何よりも喜びを感じていたからに他ならないと思う。

青山正明氏の名前とその業績が、今後も多くの人々に語り継がれる事を願ってやまない。

合掌。

『ガロ』のまんが道・白取千夏雄著『全身編集者』(おおかみ書房刊)の衝撃

白取千夏雄『全身編集者』(おおかみ書房刊)を読ませていただいた。

伝説の雑誌「ガロ」元副編集長が語り下ろした半生記・半世紀。

師・長井勝一との出会い、「ガロ」編集としての青春、「デジタルガロ」の顛末と「ガロ」休刊の裏側。

慢性白血病、最愛の妻の急逝、悪性皮膚癌発症、繰り返す転移と度重なる手術という苦難の中、それでも生涯一編集者として生きた理由、「残したかったもの」とは……

白取千夏雄さんは伝説の漫画雑誌『ガロ』の副編集長を務めた方で、壮絶な闘病生活の果てに惜しくも2017年3月に逝去された。

本書は彼の弟子・劇画狼(以下げウさん)が彼の生前から没後にかけて2年がかりで編集し、げウさん主宰のインディーズ出版社「おおかみ書房」から今年5月に刊行したものだ。

最初に刊行が告知されたのが2018年7月頃だったのでトータル1年ほど遅れた超マイペース刊行となったわけだが、読後の感想から言えば、発売まで一日千秋待ちわびた甲斐があった、とにかくスゴすぎる一冊だった。この一大プロジェクトを白取さん亡きあと、ほぼ独力で完走させたげウさんには感謝しかないです

でもってTwitterで本書の感想を見る限り、おそらく読者の6~7割以上はガロをリアルタイムで読んでいないか、名前しか知らないという人がほとんどらしい(みんなの感想は私がTogetterでまとめたのでそちらを参照してね)。なにせ、ガロ休刊から20年以上も経ってしまった。

結論から言えば、本書はガロを知ってても、知ってなくても興味深く読める本です。もちろん知ってたら新たな発見があるし、知らないなら知らないで、本書がガロの入門書(バイブル)となるだろう。

本書はガロを知らない読者に対しても、どれだけガロが凄かったか、また作家のオリジナリティとは何なのか、そして作家・やまだ紫との出会いと別れ、師・長井勝一青林堂創業者/ガロ編集長)から薫陶を受けて導いた白取流の編集哲学「作家に対して尊敬を忘れない」などの金言が余すことなく(中学生にも分かるような文章で)説明されており、ガロの足がかりをつかむ上では最適の著書だと思う。

これは白取さんの文章が読ませるわざだと思うけど、多くの人間を突き動かし、サブカルチャーのみならず、日本漫画界の精神性(バックボーン)を象徴していたガロという偉大な雑誌が大前提にあって、その内幕や編集哲学が惜しみなく語られてるわけだから面白くないわけがない。

世の中の全編集者・全創作者に読んでもらいたい一冊だし、とくに作家の実売部数を「オマエは売り上げに貢献していない」とSNSで勝手に晒した幻冬舎の売らんかな社長はハゲのコピペ本を出す前に、本書を数百万回見直すことをオススメする。そして出版人としての矜持を(元からないと思うけど)心から取り戻して欲しい。

話は飛ぶが、白取さんが師と仰いだ長井勝一が書き下ろした著書に『「ガロ」編集長』(筑摩書房)というものがある。これはガロが創刊した1960年代半ばから白取さんが編集部に入る前後の80年代初頭までのガロについて書かれた長井視点の自伝/漫画史で、いわば本書の前日譚にあたる。そして、これ以降(84年~97年)の青林堂/ガロについて内部の人間が語り下ろした著作は存在しない。つまり長井勝一著『「ガロ」編集長』の続編に当たるのが本書である

そして本書の存在は、90年代のガロ再興~ガロ休刊という漫画史上最大のミッシングリンクを埋めるにあたって必要不可欠なマスターピースであったわけだ(もちろんガロ休刊の内幕以上に「生涯一編集者」として生き抜いた白取さんの超カッコイイ生き様を知って欲しいわけだが)。

僕はガロ休刊の年に生まれた、いわばガロを知らない世代である。だが、ウチにはガロのバックナンバーが100冊以上もある。もちろん青林堂青林工藝舎の出版物は宝物だ。今後売り飛ばすようなことも絶対ないと誓える。どれもなけなしの小遣いをはたいて学生時代に集めまくったものだし。

 

もはやガロという存在は雑誌という枠を超え、僕の血肉となって精神と一体化している。もちろん本書に登場する固有名詞(漫画家、ガロ編集部員、イニシャルの匿名)は、本書を読む前からおおよそマスターしていた。

私は白取さんから見たガロ史を「復習」するつもりで読み進めた。あの頃のボロくて貧乏な青林堂の建物や編集部の様子が目に浮かぶ。

休刊騒動の経緯は白取さんがウェブに遺した「顛末記」である程度知っているつもりだったから、ガロ休刊の章は殆ど「復習」がてらに読んだ。それでも休刊の章には自分の大事な雑誌がなくなる舞台裏がしっかり書かれているので心が張り裂けそうになった。その後、白取さんに待ち受ける病苦や、妻のやまだ先生との別れの章なんかは、とても言葉で言い表せない感情の波が渦巻いた。。。

で、13章「ガロ編集魂」からトートツにげウさんが登場。

一気に笑える内容になる。

いや、バランス感覚が凄いわ。

本当13章に救われた(笑)。

。。。で、最終章「全身編集者」は本書刊行の顛末をげウさんが書いている。編者を超えて、ほとんど共著者だ。しかも、あのげウさんが割と真面目な文章を綴っていて、実はこの章が一番ウルときったかもしれない。別に湿っぽい事なんてこれっぽっちも書いちゃいないんだけどさ(笑)。

最後にあとがきで山中潤さん(元青林堂社長・ガロ編集長/1990年~1997年)の文章を読んだ。読む前から暴露的な内容が含まれていると話題になっていた禁断のあとがきだ。そこでようやく自分は何も知らなかったことに気付かされた。こればかりは読んでもらうほかない。山中さんのあとがきはたった4頁だけど、白取さんの本文160頁を覆しかねない内容で、あまりの衝撃に読了後すぐこの文章をブログに書き始めた。

関係ないが、吉永嘉明という編集者の手記『自殺されちゃった僕』で精神科医春日武彦が軟弱な著者や本文の登場人物を否定というか罵倒しまくる鬼畜を文庫版に載せたことがある。その解説は数ページのものだったけど、それまで読み進めた200頁あまりの本文を完全にひっくり返していたのだ。そして、この解説があるとないでは著書に対する評価も違ったことだろう。著者の吉永氏は不本意だろうが、私はこの解説を高く評価している。解説者は本文の違和感やしこりを取り除く役目がある。決して著者のイエスマンでもない。そして、それは何よりも誠実さを意味する。

山中さんのあとがき読んで、今までアックスや青林工藝舎(ガロの後継出版社。白取さんは最期まで認めなかったけど)に抱いていた複雑な感情やモヤモヤが取れた気がする。

本書にあとがきを寄稿した山中潤さん、

それを是々非々の立場で載せたげウさん、

著者の白取千夏雄さん、

現・青林工藝舎手塚能理子さん、

本書を読んで思うのは、みな誠実な人だということだ。そう私は信じている。

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ガロは時代に左右されない普遍性を秘めた雑誌で、ガロ系の作品はいつになっても古くならないし「替え」がきかない*1。それこそガロ休刊から20年近く経った現在も一定多数の支持を常に集め続けている所以である。

そうした後生大事に取っておきたくなる唯一無二の出版物を、これからもおおかみ書房には作って頂きたい。きっと、みんなもそれを待っていると思う。

*1:替わりがない・型にはまらないマンガ…文字どおりの意味で「オルタナティブなコミック」がガロ系である。