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人生 (ZIN-SÄY!) “電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

人生(ZIN-SÄY!

電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

 (平田順子著『ナゴムの話 トンガッチャッタ奴らへの宣戦布告』所載/絶版)

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1989年4月26日撮影。左から若王子耳夫石野卓球ピエール瀧、おばば(EX分度器)

電気グルーヴの前身バンドとして知る人ぞ知る人生。1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。その後、友人関係からメンバーが増え、流動的にいろいろな人が参加していた。ピエール瀧(当時は畳)もそのひとり。1986年に上京してからはライブパフォーマンスの面白さもあって大ウケ。ナゴムの新しいアイドルとなる。

85年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で人生を結成。同年3月25日、静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。この時は石野卓球ひとりでカラオケのライブ*1をやっていたが、その後友人関係からメンバーが増え、ピエール瀧も加入。彼は当時、畳と名乗っていた。ライブハウスや公民館でライブ活動をするだけではなく、歩行者天国でマイムマイムを踊ったり、夜中に地球儀をつけて町を徘徊する*2といったパフォーマンスも行なっていた。

人生の初ステージはひとりで、テープ回して。あっ、K太*3もいたか。K太にスライドやってもらったんだ。高2の春休みだったと思う。たしか3月のねー...25日。メリーノイズにちょっと息詰まってたし。違う事やりたいって思って。それからねーやっぱ日本語でやりたいなって思ってましたね。これは重要ですよ。メリーノイズはコピーばっかだったから英語で歌ってたんだけど、やるからにはやっぱ日本語だなって。その事はすごく意識した記憶がある。もう、コピーじゃない事をやりたかったんです。

こんだけでライブできるのは、えらい衝撃でしたね。オケさえあればひとりでできちゃうわけですから。まあ、いきあたりばったりだったんですけどね。自分でもあんま整理されてなかった。基本的には楽しけりゃいいって思ってましたね。で、うちに集まってる連中とも、ライブハウス以外の場所で面白いことできないかなーって事になって、歩行者天国でマイムマイム踊ったり、頭に地球儀つけて歩いたりし始めた。

人生って名前の由来はねえ...他愛のない事なんです。当時、僕のうちに集まっていた連中の流行り言葉だったというだけで。自転車こいでノイズ出しながら「これも人生だ」とか言って。

 

イベントとかに出て、静岡のニューウェイヴやってるバンドと一緒になるじゃないですか。あれが、もうイヤで。どいつもこいつも気取りやがってって。ニューウェイヴと称してやってることは普通のロックなんだもん。あの頃のニューウェイブのバンドって、本当にダメな奴が多かったですよね。コンセプトだとかメッセージだとか、言うことはもっともなこと言うんだけど中身がない。観ててもちっとも危険じゃない。そんなのばっかだったじゃないですか。なんてこと言うと偉そうなんだけど。でも、当時はそう思ってた。ホント、なめ切ってったなあ、世の中を。

でも放課後、ライブハウスに出た事って、今にしてみればいい思い出だなあ。学校では女から嫌われていたけど、ライブハウスでは嫌われた憶えはないし。当時の唯一の楽しみが集中してた。うん、それに、高校時代は世渡りがうまかったと思う。うぬぼれてたしね。唯我独尊。でも今はダメですね。今は世渡り下手だと思う。

 

で、人生に話を戻すと、メリーノイズよりも反響があって。ほら、客に瀧やイトチュー*4とかいたでしょ。イトチューというのは僕の中学時代の友人で高校は瀧と同じで、しかも瀧と同じ野球部だったヤツなんだけど。弱い者イジメが好きな人な(笑)。とにかく客にそんなのが集まってたから、ノリがすごくて。人間がステージに飛んでくる(笑)。当時はパンクで豚とか投げて話題になってたけど、僕らは人間投げて、お笑いでやってましたね。

 

親は相変わらず不気味がってた。中学の時はノイズのレコードが聴こえるだけだったのが、あげくの果てはグラインダーやチェインソー持ち込んで録音してる。母さんが朝起こしにくると枕元にそんなのがころがってて、普通ビビリますよ(笑)。しかも夜中まで友達は奇声を発して、部屋の中のドラム叩いてるわ、人生のライブで使う古タイヤだとか、学校から盗んできたハードルが散乱して...親は本気で病院連れて行こうとしてましたね(笑)。

妹も嫌がってましたね。当時、作文コンクールで入賞した詩で『お兄ちゃん』というのがあるんです。「お兄ちゃんがまたラジカセをかける/うるさくて勉強ができない/うるさくてテレビの音が聞こえない/でもその事はお兄ちゃんには言えない/だって言うと怒って叩かれるから」(笑)。めちゃくちゃディープになりましたよ。(石野卓球/人生)




石野卓球のTwitterから静岡時代の人生

そんな活動をしていた人生が、85年6月23日静岡モッキンバードで有頂天と対バン*5し、ケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)と知り合うことになる。

(観客動員0を記録した頃の有頂天。まだケラも卓球も無名同然だった)

僕はEP-4*6とかシンパシーナーバス*7ほぶらきん*8は好きだったけど、日本のインディーズで主流だったハードコア・パンクにはどうも魅力を感じなくて、日本のインディーズについてはぜんぜん知らなかった。

 


でも人生のレコードを出したいなと思って、どっか出してくれるレーベルはないかと雑誌『宝島』を見て、ナゴムを知った。有頂天というバンドのケラっていう人が主催するレーベルで、有頂天はステージでお芝居みたいなことをやったりする、すごくヘンなバンドだっていう風に紹介されていて。

その記事を見た2・3日後に、有頂天が静岡でライブをやるっていう話を聞いて。わざわざお金を払って見に行くのもなんだし、どうせなら一緒にライブをやりたいなと思って、モッキンバードっていうライブハウスに直接交渉した。そしたら実はチケットが10枚も売れてなくて困ってるから、チケットを手売りで10枚売ってくれたらOKだよって言われて。(石野卓球/人生)

まだまったく動員できなかった頃の“有頂天”が、静岡のモッキンバードでライブをやる時に、そのライブハウスに「フロント・アクトでいいバンドいませんか?」って相談したら、見つけてきたのが人生 (ケラ/有頂天)

グチャグチャな白塗りメイク。ステージには自転車やハードルといったライブとはおよそ縁遠い機材(?)が並び、マヨネーズを塗りたくるパフォーマンス*9、というのがこの日の人生のライブ。

(1985年11月28日静岡サーカスタウン。人生をクビになったピエール瀧がバンド再加入の打開策として女装姿で登場した時の映像。芸名は瀧レモン)

ステージに楽器はあまりなくて、自転車とかハードルがあった。で、ハードルをぴょんぴょん飛びながら、レジデンツとかデア・プランみたいな曲をやってた。(ケラ/有頂天)

有頂天は、東京のバンドだな、プロっぽいなと思った。あとケラさんは、顔デカいなっていうのが、第一印象(笑)。でもそんなに時間もなかったから、当日はケラさんに人生のテープを渡して、ちょこっと話しただけだった。

その時のライブは、ステージに自転車とかハードルを置いて。バンド演奏が半分、カラオケテープが半分。メイクは、塗ってればいいや、顔が見えなきゃいいやって感じで、最初はすごくグッチャグチャだった。だってポスターカラーを指とかで塗ってたからね。その頃のお客さんは、20人とか30人くらい。静岡の高校生だし、チケットも手売りだったし、ほんの友達レベルだよ。でも有頂天と一度一緒にライブをやったらけっこう評判よくて、うちらのぜんぜん知らない学校のヤツが来たりもしてたから、小さいなりにも広がりはあったとは思う。(石野卓球/人生)


その後、有頂天が静岡へ来るたびに人生が前座をつとめ、合計3回のライブ*10で共演する。そしてソノシート5連作のうちの1枚として、86年8月人生の1stソノシート『9TUNES(FOR MIRAI)』*11がリリース。その音源はすべて石野卓球が85年夏に勉強部屋で自宅録音したもので、「キンタマが右に寄っちゃった/オールナイトロング」という歌詞でおなじみの「オールナイトロング」や「男の中の男」など当時の代表曲が収録されている。

有頂天であまり同じフロント・アクターを使うことってないんだけど、人生は1回目に一緒にやったライブのインパクトが尋常じゃなかった*12から、その後も静岡に行った時に毎回前座をやってもらった。3回目に一緒にやった時に、卓球がレコードを出したいって言ったから、じゃあソノシートでも出すかっていう話になって。

ソノシートの音源は、もう卓球が自分の家でレコーディングしてて。そのテープを東京までわざわざ届けに来てくれたのが、すごく嬉しかった。なにかにつけてひと言多い、こまっしゃくれたヤツなんだけど、根は真面目なんだなと思った。彼はものすごく音楽が好きだし、自分の音楽をどうやっていくかってことにはある面ナーバスだった。いろんなことを前もって話し合いたいタイプだったんじゃないかな。(ケラ/有頂天)

ケラさんも1回目のライブでうちらのことを覚えてたみたいで、次から“有頂天”が静岡に来る時は、むこうからご指名で一緒にライブをやるようになった。それで3回目にやった時に「ナゴムからソノシートを新人で5枚出すんだけど、その中のひとつで出さない?」って言われて。ギャラは全部のバンド共通で、3万円だった。

いずれにせよナゴムの話があるないには関わらず、高校三年生の夏休みくらいから、卒業したら東京に出て行こうとは思ってたの。だからケラさんからソノシートの話をもらったのは、あまりに渡りに船だった。それで高校卒業してすぐ東京に出て来て、3・4ヵ月してソノシートが出たのかな。だから上京後すぐにナゴムのイベントに出たり、ケラさんのブッキングでライブをやったりすることが多くて。チケットの手売りとかもなかったから、バンドとしては恵まれてたんだろうね。ソノシートは全部自宅録音で、高校3年の夏休みにずっと録ってたテープをそっくりそのまま録音した。だってギャラ3万円だから、スタジオなんか借りれないしね。それにそういうテープがダンボール箱一杯くらいあったし。ミックスだけは、CSV渋谷っていう楽器屋のスタジオでやった。もすけさんの山口優さん*13と東京タワーズ岸野雄一さんがミックスして。そういえばCSVでミックスをやる前日に、4チャンのマスターテープにコーラをこぼしちゃって、全部ダメにしちゃったの。だから仮落とししてたカセットテープを使ったんだけど、なんの支障もなかったね(笑)。

ケラさんには「オールナイトロング」を入れたいって言われたのは覚えてる。別にこっちも断る理由もないから、入れたけど。ソノシートを出した反響はすごかった。同時発売された5枚の中では、一番売れたみたい。たぶんあの頃はいろんなことがタイミングよかったんだよね。(石野卓球/人生)

人生の東京進出初ライブは86年4月5日に新宿LOFTで行なわれたナゴムナイト・デラックス。この日は石野卓球、畳、おばば(EX分度器)の三人編成だった。それほどお客さんの入りはよくなかったが、「3年B組金パチ先生!」と叫びながらステージに出て来て、カラオケ・バックに歌と踊り、おばば(EX分度器)*14ボンカレーを自分の顔にかけるパフォーマンスなど、張り切ったライブを披露。お客さんだけではなく、共演者の度胆も抜いた。

京進出2回目のライブは、同年6月6日に四谷公会堂で行なわれた“第1回ナゴム総決起集会”。

(86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた第2回ナゴム総決起集会)

この日のライブで人生の存在がファンに知れ渡り、そのライブに来ていたお客さんから、クチコミでさらに人生の面白さが広がった。

“第1回ナゴム総決起集会”を見に行った時、チラシに「人生とはなにか討論会」って書いてあったの。なんの討論会するのかなと思ったら、人生が白塗りメイクで出てきて、カラオケ・バックで踊りながらライブをやって、面白かった。(稲葉真人/ファン)

その後ギター&ベース兼ダンサーの若王子耳夫*15と、キーボード兼カラオケテープの入ったラジカセを操作する担当の紅一点、グリソンキム*16が本格的に加入し、更にパワーアップする。

(『ロッキング・オン・ジャパン』88年1月号所載)

ライブでは裸に木の格好をさせた人*17を後ろ向きに立たせてオブジェにしたり、ステージにスクーターや家のふすまを持ち込んだりし、奇抜なダンスやパフォーマンスをしていた。畳ことピエール瀧ゴルゴ13ドラえもん、殿様などの格好をして踊っていたが、当時はメンバーの中で一番人気がなかったそうだ。この頃はバンド演奏よりもカラオケテープ中心のライブだった。



“第2回ナゴム総決起集会”*18を見に行った時に、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人と知り合いになって。その人から人生のことを、あんなにすごいバンドは他にいないっていう話を聞いてたら、ちょうど人生が出て来て、その通りだということになった。卓球が目を赤と青に塗って、顔は白くて、コミカルな歌詞で、それを振り付けて踊るわけ。演奏はグリソンキムっていう女の人が、ラジカセのボタンをピッと押すと、曲が始まるっていう。なにも演奏らしい演奏はなかったけど、かなり衝撃だった。(高田潤一/ファン)

人生のことは、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人から聞いて知った。初めてライブを見たのはソノシート発売記念ライブ*19の時で、目から鱗というか「うわあ!! どうしよう」っていう感じだった。後に「それを認められたと勘違いして……」と笑いのタネにもなったけど、人生のライブ中に石野に「きみ、青空球児に似てるね」って言われたことがある(笑)(野村祐子*20/ファン)

86年10月19日、CSV渋谷でのライブを見に来た観客の中にHYという女子高生がいた。彼女は初めて見た人生のライブの虜になってしまい、ファンクラブ“人生教”を作ることを決意。同年11月6日新宿LOFTでのライブの日に発足。この人生教の発足メンバーには、後にナゴムからレコードをリリースすることになるマサ子さんのボーカル、マユタン*21もいた。

ナゴム最後の新人バンド「マサ子さん」のライブ)

 人生を知ったのは、マユタンが私の中学からの同級生で、人生がすごいって騒いでたから。初めて行ったライブはCSV渋谷でやったゴーバンズとのイベント。その時は一番前の一番真ん中で見てた。人生のライブの笑いはすごくて、私にとっては衝撃だった。それに音楽がそれまで私が聴いてたものと違って、ライブでは虜状態で唄ってた。「娘さんよくきーけよ/山男だよ*22っていう歌の、「山男だよ」っていうところで、分度器さんがバタッて跳ねて、そのシーンがすごい強烈だった。本当にお下劣極まりない歌詞なのに、なぜか私には品があるような感じがして。

私はもうとにかく卓球さんが好きで、本当に輝いてた。才能ありそうで、未来がありそうだった。ファンクラブを作ったのは、メンバーと友達になりたかったから。私が初めて行ったライブは東京進出直後だったんだけど、その前のライブは見てなかったから、なんか悔しかったの。

人生のメンバーは随分協力してくれて、写真もいっぱい撮らせてくれたし、人生教の会員のためだけのテープ*23を作ってくれたりもした。最終的に会員は300人くらいになった。(HY/人生教)

人生は最初にソノシートを聴いて知って、ライブを見たら「げげっ!」って感じだった。私が印象深かったのは、やっぱりおばば。分度器さんって呼んでたんだけど、私たちの間ではアイドルだった。もういるだけでかわいい。(マユタン/マサ子さん)

「分度器さんは、すごいセクシーで素晴らしかった。ボケっていうのかな。一番強いキャラクターだった。通称おばばっていうんだけど、私は眉毛が一緒だった*24から、おばばの妹って言われてた。今はね、細くなっちゃったけど(笑)(HY/人生教)

こんなアクの強いバンドに、更にアクの強いメンバー王選手*25が加入する。元々劇団健康のメンバーだった王選手は、“ナゴム総決起集会”にダンサーとして出演するなど、ナゴム界隈に出没していた。

ナゴム時代の筋肉少女帯。客席にダイブしている男が王選手)

そこで人生のメンバーとして捕獲。人生の中では飛び道具的な存在で、ダイビングや強烈なパフォーマンスを担当していた。

王選手のことは、うちらは“あっちゃん”て呼んでたんだけど、あっちゃんは劇団健康の劇団員で、オレが劇団健康の芝居に出た時に知り合った*26。稽古場に行ったら、壁に頭をぶつけてるヤツがいるんだよ。それで何やってるのって聞いたら、「頭を鍛えてるんだよ」って。うわー、狂ってるなコイツと思って(笑)。それからあっちゃんの行動を見てたら、次から次へと強烈なことをやるから、これはぜひ捕獲しなきゃって。

あっちゃんは普段から強烈だった。魚は骨が一番好きで「このホッケ骨もらってもいいかな。僕、骨が一番好きなんだよね」って言ったり、「この前の休みに自転車で御前崎まで行ってきたんだよ」とか、虫歯予防デーラソン一等賞とかいう賞状を持って来て「これファンクラブの会報に載せてよ。この前の週末に出たんだ」とか。あと真冬でもランニングでいたり。それで早稲田の学生なんだよね(笑)(石野卓球/人生)

日常生活でも奇行が目立つあっちゃんこと王選手が、87年10月3日に池袋のビルで行なわれたライブで、自分で壁に投げ付けた消火器が跳ね返って頭にあたり、4縫う大ケガ*27をする。しかし血まみれになりながらもライブを続行。30人ほどの観客はなぜか大爆笑。しかもその時着ていたTシャツは“人生教”の会報でプレゼントされた。

「豊島区を盛り上げる会」っていう企画で、池袋の廃墟のビルの中でライブをやったことがあったの。その時にあっちゃんが消火器を壁に投げ付けるパフォーマンスをしてたら、それが跳ね返って、あっちゃんの頭にガーンッて当たって。羊の格好しながら、血ダラダラ流して。でもやめないで延々壁に消火器を投げ付けてて、その後ろではバンドが演奏してるっていう、すごいライブだった(笑)(石野卓球/人生)

あっちゃんがライブ中にケガして、血がバーッとついた本当の血染めのTシャツを“人生教”の会報のプレゼントにするって言って持って来たことがある。でも血染めのTシャツなんてもらっても、たぶん誰も嬉しくないと思うよ。しかもあっちゃんのだし。一応ご好意だから、誰かに送ったんだと思うけど。もらった人はどうしてるんだろう。本物の血だから怖いし、茶色くなっててなんか臭そう。(HY/人生教)

人生教の会報『人生の手びき』をチェックしてみたところ、当選者は藤沢市の伊藤優樹さんでした。今そのTシャツはどうしていることでしょう。

87年5月にはソノシート付きEP『LOVE』*28、同年11月にEP『FASCINATION』*29、88年2月にソノシート付きLP『顔として…』*30と、ナゴムから立て続けにレコードをリリースする。

これら三作は、“仮面ライダーZS*31三部作”というシリーズになっている。

仮面ライダーZS三部作”は、ソノシートじゃなくて硬いレコードだった。そのレコードから、EGMっていうスタジオでレコーディングするようになって。レコーディングはなによりも楽しかった。自宅の多重録音とやってることは変わらないんだけど、規模がぜんぜん違うからいろんな可能性が出てきて、すごい開けた感じがした。ケラさんは『LOVE』のレコーディングにはずっと来てたけど、あとはもう来なくなった。でも来ても何をするわけでもなく、アドバイスとか選曲についても何も言われなかった。こっちはアマチュアだし、レコーディング代出してもらってるのにいいのかなって不安になったけど、まあ言わないってことはいいんだと思って。それはすごいやりやすかった。

レコーディングはほとんどオレがひとりでやって、シーケンサーとか持ってなかったから、キーボードの手弾きは(グリソン)キムに弾いてもらって。バンド演奏は楽器のメンバーを呼んできて、ここでこうやってって言って弾いてもらった。だからすごい人力で録ってた。あと、あっちゃんが学校でロシア語を専攻してたから、ロシア語のナレーションを入れたいって言って、『FASCINATION』で喋ってもらったの。その喋り出しが、「ユ~チュルビック*32って(笑)。それを未だにオレと(ピエール)瀧の間では、君ってことを指すのに使ってる。

レコードは売れたと思うよ。雑誌『フールズメイト』のインディーズ・チャートでは確実に上の方に入ってたから。まあインディーズなんて売り上げ枚数をちゃんと集計なんかできないだろうから、編集部の腹ひとつだろうけど(笑)。ギャラはいくらだったかぜんぜん覚えてないけど、こんなにもらっていいのっていう額じゃなかったことは確か。ケラは金払いが悪いってウワサを聞いてたけど、そんなことなかったよ。ただ後になるに従って、だんだん払いは悪くなってったけど。こっちもそれまでレコード出してたわけじゃないし、それでいいやって感じだった。(石野卓球/人生)

人生のレコードは、学芸大学にあるEGMってスタジオでレコーディングした。卓球が完全なプロデューサーとして、ひとりできりもりしてた感じだった。テキパキやってて感心したな。『LOVE』の時かな、卓球にちょっと音を重ねすぎじゃないかって言った記憶がある。僕はスカスカ感が好きだったから。だから人生は最初のソノシートが一番好きだし。だけどだんだんゴージャスなサウンドになっていって。でもきっとあのやり方が今の“電気グルーヴ”に繋がってるのかな。(ケラ/有頂天)

もともと宅録少年だった石野卓球はレコーディンクが楽しくて仕方がなかったようで、88年4月21日にはキャプテンレコードから『バーバパパ*33をリリースする。

シングル2枚出して、アルバムを出した次の月にまたシングルを出したいって言ったら、ケラさんにダメって言われたの。あまりにも立て続けだったから。とにかくその頃はすごくレコーディングがやりたくて、別にレコーディングができればどこのレーベルから出てもいいやっていうのもあったし。それでキャプテンに話を持って行ったら、キャプテンもちょうど傾いてた時で、じゃあ願ったり叶ったりだって。それで出したら、ぜんぜん売れなかった(笑)(石野卓球/人生)

ナゴムは“ナゴムギャル”と呼ばれる個性的な服装をした若い女の子のファンが、レーベルについていたことも特徴のひとつだった。しかし、ナゴムに関わったバンド全部がナゴムギャルに人気があったわけではない。人気があったのは、わりと笑いの要素やキャラクター性の強いバンドだったようだ。パフォーマンス性の強いステージングをする人生はまさにその典型で、客席は100%ピュア・ナゴムギャル。

人生のお客さんは、ご存じの通りナゴムギャル一色。100%ピュア・ナゴムギャル(笑)。ただ俺もその頃まだ18歳とかだったから、そんなに年齢も離れてないし、他のバンドに比べて年齢層が低いってことも、最初は分からなかった。まあ後になってちょっとこっちが醒めた時に、なんだこいつら音楽聴いてねぇな、見に来てるだけなんだなって思って。それはすごい徒労感があった。でもそんなにすれた子とかいなかったから、話しやすくてよかったよ。

まあ中にはちょっとおかしいヤツもいたけどね。おかしくなっちゃったのか、おかしいものが好きだからおかしくならなきゃいけないっていう強迫観念でおかしくなってしまったのか分からないけど、温い狂人が多かった。突き抜け方が足りないというか。狂ってるのか演じてるのかっていうのは、やっぱり分かるじゃない。その演じてる部分が見えてしまってる。まあ今考えれば、かわいいもんなんだけど。

でもオレはこの前つくづく思ったけど、10年間かけてナゴムギャルがやっと商品になったのが、篠原ともえだと思う。10年経てば、ナゴムギャルもお茶の間に進出(笑)石野卓球/人生)

人生のお客さんは、ニーソックスに、ラバーソール履いて、ミニスカートで、髪をふたつに結んで、いかにもナゴムギャルっていう格好の人が多かった。でも私とか友達はあまりお金がなかったから、上下いちまつ模様の服に、ちょっとラバーソールっぽい靴を履く程度だった。当時はファン同志でお友達になったりもしたけど、今はあまり会ってない。みんな結婚したとか、銀行員になったとか、ウワサに聞くくらいで。(HY/人生教)

京進出以降、人生はあっという間に有頂天、筋少、ばちかぶりに続くナゴムの看板バンドになっていった。そんな、人生の人気が頂点に達したのは、87年8月31日渋谷LIVE INNで行なったワンマンライブ。

(1987年8月31日の人生ワンマンライブ「俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ」@渋谷LIVE INN)

この日のライブで配られたパンフレット*34には「インディーズになっちゃった」と書いてあり、当時の自分たちが置かれている状況に対する複雑な気持ちがうかがえる。

人生はそれなりにインディーの人気者になっちゃって。雑誌にもよく写真とか載るようになっちゃって。上京してからそんな時間たたなくて、そこそこの人気はあったんじゃないかな。

その頃はそれなりに緊張感はあったんですよ。やっぱ、地方出身者だからチャンスは逃したくないみたいな。一生懸命やってた思う。とくに石野はプロねらってただろうし、僕はあんまそういう事は考えないし。あの男(石野)は上昇志向あるしね。練習とか真面目にやってましたよ。でも、人生みたいなのって、やってる方ががんばってるのがわかっちゃうとダメじゃないですか。そのへんが難しい。

石野は大変だったと思いますよ。やっぱ、ワンマンで500とか客が入っちゃうとねぇ、それなりに考えるじゃないですか。それは石野じゃなくても。僕は...、僕ってあんま人気なかったんですよ(笑)。いろいろとやってましたけどねぇ、ドラえもんとか。でも人気なかったしね、だから、気楽でしたよ。なんか、結構、客観的だった*35。人生がプロになる事で真剣に考えたりしなかった。(人生/ピエール瀧

あまりライブの動員がすごいよかったっていう印象はないな。筋少とかがすごかったからね。一番ピークは、渋谷LIVE INNで500人くらいじゃないかな。(石野卓球/人生)

渋谷LIVE INNでワンマンライブをやった時は、客席にござが敷いてあって、お客は靴を脱いで体育座りをさせられた。ライブっていってもカラオケ流して踊るだけなんだけど。その日はメンバーが素裸になったりして最高だった。(高田潤一/ファン)

その後、ファンの間でも人生のマンネリ化がささやかれ、当初の勢いが少しパワーダウンしているようにも見えた。しかし88年2月10日に王選手が脱退*36し、静岡時代にメンバーだったドラムの越一人*37が加入。テープよりもバンド演奏中心のライブになり、人気を取り戻した。そんな人生を取り巻く環境はバンドブーム一色。筋少など周囲の人気バンドはどんどんメジャーデビューしていった。

メジャーデビューは最初の頃は考えてなかったけど、途中でちょっと考えた。一度メジャーデビューしてみたかったっていうのが、今思うと正直な感想かな。してみないと分かんないっていうのもあったし。(石野卓球/人生)

しかし、人生と同じくらいレコードが売れているバンドにはメジャーデビューの話があるにもかかわらず、人生にレコード会社からの声はかからなかった。

88年6月リリースのナゴムオムニバス『おまつり』には、87年5月14日豊島公会堂の“第4回ナゴム総決起集会”で観客レコーディングした、石野卓球作詞・作曲の「革命の唄」を収録。この日ケラは水疱瘡のため欠席だった。

なんか卓球がその当日に作詞・作曲したとかいう歌のチラシをみんなに配って、三回練習して、本番になった。で、ケラに電話するとか言って、ステージから電話して。ケラが「すみません」とか言って会話して。「行けないよ」とか言って。やってる場所が豊島公会堂とか汚ない所なんで、学芸会みたいなノリだった。(稲葉真人/ファン)

バンド形態になり人気を取り戻したものの、人生のバンド内は倦怠期で、音楽的にも息詰まっていた。それは海外からヒップホップ、アシッドハウスといったダンスミュージック入ってきた時期でもあった。石野卓球はこれらの要素を人生に取り入れられないものかと考えたが、バンド編成になっていた人生には難しかった。

(バンド形態となった末期の人生)

そんな折り、静岡時代から一緒にやってきたおばば(EX分度器)が帰郷することになる。いわゆる「バンドで芽が出ないから故郷に帰って仕事に就く」という理由で。そして89年4月26日大阪バーボンハウスでのライブを最後に解散。

人生解散の時はよく憶えてますよ。スタジオでね、練習の時、石野が遅れてきて、いきなり「人生解散するから」って。予兆はありましたよ。煮詰まってたしねえ。ネタが尽きたというか。目新しさがなくなってきちゃって。やっててもつまらなくなってきて。無理にやるみたいな。ライブもスケジュールこなすみたいなノリになっちゃって。で、石野がいきなりそう言っても、メンバーも「そうか」みたいな。「やっぱりな」って。僕はね、人生やめたら、もうステージに立つ事ないなって思ってたんです。それは悲観じゃなくて、まあ、それはそれでいいやって*38。(ピエール瀧/人生)

アッシドハウスとかを88年か89年くらいに聴いて、いろんなことが自分の中でひっくり返っちゃったの。それを聴いて人生やめようと思ったし。最初は人生の中に取り入れられないものかと思って試行錯誤してたんだけど、やっぱりダメだった。しかもバンドももう飽きてきて、倦怠期になってたし。アマチュアでそれはあっちゃいけないよね。

…88年ですか。その頃は例のイカ天ブームのちょっと前かな。ビート・パンクとか出てきて。ホコ天とか盛り上がってた頃ですよ。筋少がメジャーでデビューした頃だ。で、ちょっとしてイカ天ブームがあって…あれって僕知らなかったんですよ。存在そのものを。その事を人から聞いてメンバーに話してみたら知ってる奴が何人かいて。で、見てみたら。こりゃ、マズイなって。その頃は筋少がメジャー行ったりで、結構あせってたりしてたから、あれに出たら出たでどうにかなったのかもしれないけど、やっぱ出なくて正解だったと思いますよ。イカ天なんかに出るバンドって、昔の人生みたいにギミックが前提にあってみたいなのが多かったでしょ。何か、ああいうのはもう違うなって思ってました。

でも何とかしなきゃいけないって気持ちはあったんですよ。丁度その頃、イエローを聴いてて、いや、『ブルーマンデー』と並んでショックを受けたんですけど。イエローってすごく変じゃないですか。それから『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム』*39やボム・ザ・ベースの『ビート・ディス』がヒットしてた。これだって思いましたよ。もう、こんな事やってる場合じゃないなって思いましたね。

人生を辞めるつもりはなかったんですよ。自分としてもライフワークとして続けたかったし。ここまでやってきたんだからって意識はあったと思う。でも明らかにパワーダウンしてた。僕もメンバーもその事は気付いてたと思いますよ。その頃の人生ってバンドだったんですよ。ドラマー入れて。練習はすごくしてた。一番練習してたと思う。でも、自分のやりたい事と人生のそれと開きができちゃって。ここでシンセ・ベース入れたいなって思ってもそれができる状態じゃなかったし。メンバーのテクニック的な問題もあったりして。ギターがいらない曲でも、おばばがいるからギター入れなきゃならないとか。遊ばしておくわけにもいかないじゃないですか。メンバー間の関係が悪くなるのもイヤだったし。だから人生とは別にもうひとつバンドやろうかなって考えたりもしたんです。

でもバンドになってから人生の人気は盛り返したんですよ。ロフトとか満員になっていたしね。でもね、あの頃についた客ってホント、うちの事勘違いしてたと思いますよ。パンクスとか来てたもん。それはやってるうちらに問題があるんだけどさ。ポゴダンスだったもんなあ。電気グルーヴになってからやったアンケートとか見ると、あの頃の客っていない*40。まあ、そんな状況も含めて、もうダメだって思った。ボム・ザ・ベースなんか聴くと、もうこんな事やってる場合じゃないぞって思ってましたしね。精神的にもディープになってたしね。

やっぱ彼女と別れるっていうあれがあって。あーもうダメだなって。8キロ痩せましたもん。うん、ま、そんな中で人生が解散するんだよね。いや、実にディープな時代でしたね。

おばばが田舎に帰るって話が出て。まあ、これだけやって芽が出ないっていうか、ずうっとこの調子だったらオレはできないっていう事になって。最初はおばば抜きでやろうかって話もあったんだけど、メンバー内もすごい倦怠期で。一番バンドの悪い状態になって。そこにいない奴の悪口は出るし。だから…もう、発展がないなって感じで。これは、もうダメだろうって。それを言うのは自分しかいないなって思って。で、自分から辞めるって言っちゃうんですけどね。みんなも、来たかって感じの対応でしたよ。(石野卓球/人生)

人生の解散は、最初卓球さんから電話で聞いた。すっごい暗い声で「人生やめるから。今話し合いしてるから、詳しいことはまた後で話す」って、それだけ聞かされて。その時は声があまりにもブルーだったから、びっくりしちゃって。その後会って、分度器さんが田舎に帰っちゃうから、この人がいなければ人生は成り立たないだろうってことになって、解散という風に聞いた。なんかもう「えぇー! 帰らないでくれ」って思って。でも私なんかが意見を言うことでもないし、ただひたすらショックだった。(HY/人生教)

同年4月27日、石野卓球若王子耳夫ピエール瀧を誘って電気グルーヴを結成*41。新しいスタートを切った。

(1989年8月20日大阪十三ファンダンゴにて電気グルーヴのデビューライブ)

人生は静岡時代にテープ派とバンド志向派といて、僕はテープ派だったんですけど、とりあえずテープでいこうと。

電気だとメンバーも石野と僕と耳夫と高橋だから、必然的にバンド形態じゃなく、打ち込みメインの音作りになった。その時に、後期の人生で忘れてた感覚がよみがえった。これはいけるなって。これはいけるなって感動がね、なかったんですよ。ずっと長い事。電気でそれがよみがえった。

とは言っても、最初の大阪でのライブの写真、今見ると笑いますよ。石野なんて長髪でセーラー服着てるし、高橋は背広着てたし、勘違いしまくり。それのどこがラップとかハウスみたいなね。なんだろこの人達は? みたいな。暗中模索でしたね。クラブもんの音楽が海外では流行ってるのは知ってたけど、自分らはとにかくラップやらハウスやら自分たちなりに消化する事で懸命だったんじゃないかな。でも、それらが自分らがずっと好きだった音楽、UKもんのテクノとかジャーマン・テクノとかと近しい匂いがあったしね*42。(ピエール瀧電気グルーヴ


ナゴムのことはアマチュア時代のいい思い出って感じかな。悪い思い出もあったんだろうけど、思い出せないし。やっぱりきっかけができたってことは、未だにすごく感謝してる。ナゴムと言うか、ケラさんだよね。単純にソノシートとかレコードが出せて、レコーディングすることもできたし、それによってプロモーションもできたし。あとライブハウスで手売りをしなくても大丈夫だったとか。それがなかったらね、今もたぶんちょっと違うだろうしね。(石野卓球電気グルーヴ

ほどなくして耳夫は電気グルーヴをクビになり、死ね死ね団にベーシストとして加入の後、Badge714に参加。石野卓球ピエール瀧は新メンバーにCMJKを加え、90年2月、TMN*43とのコラボレーション・シングル『RHYTHMRED BEAT BLACK』でメジャーデビューを果たした。その後はCMJK*44の脱退、まりん(砂原良徳*45の加入、脱退を経て石野卓球ピエール瀧のふたり組に。メジャー・シーン、アンダーグランウンド・シーンの両方を股にかけて活躍する。

人生時代の音源は1992年8月25日にリリースされた『SUBSTANCEⅢ』『SUBSTANCEV』の2枚のCDと、2006年3月23日にナゴムレコードからリリースされたベスト盤『人生/ナゴムコレクション』に収録されている。

参考文献

野田努+宝島編集部+電気グルーヴ『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』

人生(ZIN-SÄY!)パンフレット『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』『人生ウルトラスーパースター列伝スペシャル~ジャイアン・リサイタル』

*1:ライブは石野卓球ひとりでやっていたが、電気グルーヴのデビューライブにDJとして立ち合ったこともある、友人のK太がスライドとして参加。『どてらい男』などを映していた。視覚的な演出としてスライドを持ち込むなんて、今でいうVJのハシリ?

「人生は石野が一人でやってたんですよ。K太って奴がスライドやって、『どてらい男』とか映してた。おもしれえって思いましたね。それが人生ユニット1って言うんですよ」(ピエール瀧/人生)

*2:「人生ユニット2がギターとか入れて有頂天の前座やって、それで人生ユニット3ってのがあるんですけど、それがね、僕が初めて人生やったのなんだけど。ある夜中、石野の家で僕と石野と田中って奴と話してたらムラムラしてきたんですよ。それで今から何かやらねぇって事になって。で、考えついたのが、地球儀と靴べらとギターと何か持ってって、それらを体につけて、夜中の静岡駅を歩こうって、そういう事になったんですよ。それが人生ユニット3です。ホント、バカですね(笑)。これはねぇ、若い人には受けたんですよ。一緒に記念撮影して下さいとか言われたり(笑)。その次がねぇ、駿府公園(徳川家康が隠居生活を送った駿府城の跡地)ってとこで、演劇やってる人がヤグラ組んだんですよ。で、昼間だったらそこを自由に使っていいよって事で人生のライブやるんですよ。僕はシンセを弾くんですけどね。石野から借りて。50人ぐらいかな、客は。まあ、静岡では、そういうのってあんまないから、みんなもの珍しそうに観てましたね」(ピエール瀧/人生)

*3:石野卓球の転換期には、なぜか必ず登場するいい奴。現在は静岡にいる。瀧の逮捕後、卓球に「新しいオラフお前がやるの?」とメールで質問した。

*4:伊東忠。卓球の中学時代の悪友であり、瀧の高校時代の野球部のチームメイト。卓球と瀧の出会いを橋渡しした張本人。

*5:この日は石野卓球、越一人、狂人川井、くちづけの4人編成。くちづけは電気グルーヴ周辺を手がけるライター野田努の弟。

*6:佐藤薫が率いるエレクトリック・ファンクバンド。83年5月に「EP-4 5・21」と書いたシールをいたる所に貼り、予告テロや政治集会かと誤解され、話題を集めた。実際は一日で京都ビッグバン、名古屋、渋谷PARCO PART3の三ケ所を回るライブの告知だった。

*7:新沼好文によるテクノ/テクノポップ・ユニット。80年に雑誌『ロック・マガジン』編集長・阿木譲主催のヴァニティーからデビュー、現在も活動中。

*8:70年代後半に結成され、メンバーの弟の小学生がステージに上がって話題になった、滋賀県出身のお笑いパンクバンド。アンバランスレコードで活動し、その後アルケミーレコードからCDが出ている。当時石野卓球は「ほぶらきんYMOをクロスオーバーさせたのが人生さ」と言っていた。人生の作品も毎回送っていたそうだ。

「80年代のインディーズバンドなんだけど、メンバーに小学生とかいるんだよね(笑)。僕と瀧は非常に影響を受けていて、ほぶらきんがなかったら音楽をやっていたかどうかわからないぐらい影響を受けた」(人生/石野卓球

*9:「その日の人生のライブは、有頂天のマネージャーとして同行したから見てた。なんかステージでマヨネーズを塗りたくってて、やたら臭かったのを覚えてる(笑)」(能野哲彦/PCM)

*10:2回目は85年10月23日、3回目は86年1月26日。いずれも静岡モッキンバードで。

*11:参加メンバーは卓球、分度器、くちづけ、ポートピア83才、ひょでしからー渡辺、チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池、バンバラバンバンバンKIM、畳、MIRAI。ポートピア83才は『電気グルーヴのオールナイトニッポン構成作家や雑誌『SPA!』ライターとしてファンの間ではおなじみの椎名基樹。チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池は上京後、固定メンバーになる越一人。バンバラバンバンバンKIMはグリソンキム。MIRAIは後にミュージシャンとなる黄倉未来(おうくら・みらい)で収録当時は3歳だった(収録曲「人生のテーマ」の子供の声が彼)。

*12:メインであるはずの有頂天を食ってしまったという話もある。ケラ自身も「第一回ナゴム総決起集会」で人生を紹介する時「有頂天が静岡に3回行った時に毎回ゲストで出てもらって、毎回負けてたんですけども。いいでしょ、すごく」と言っていた。

*13:もすけさん、エキスポを経て、現在はマニュアルオブエラーズというレコード店やマニュアルオブエラーズ・アーティスツという事務所の運営をしている。当時CSV渋谷の店員でもあった。「人生のテーマ」と「カランコロンの唄」のミックスは山口優、その他は岸野雄一

*14:石野卓球が高校二年の時に手伝っていたOBJ(オブジェ)というバンドで知り合う。「俺もふざけたことをやりてぇ」と言って85年10月23日静岡モッキンバードのライブから正式加入。ギターとダンサー、作曲を担当。以前は分度器と呼ばれていた名残りで、レコードではおばば(EX分度器)というクレジットになっている。

*15:石野卓球の高校の同級生。85年7月23日静岡サーカスタウンのライブで加入するものの、ギャグレベルの低さによりその一回でクビに。86年10月10日静岡モッキンバードのライブから再加入。一浪して東京の大学に進学したため、87年春から東京でも活動する。嫌なヤツ担当。

*16:人生以前は“クセナキス”というサイケデリックなハードコアの女の子バンドをやっていた。石野卓球がキーボードを入れたいと思い、知人のタイガージョーを介して知り合う。85年11月28日静岡サーカスタウンのライブから加入。レコード屋店員という職を捨て上京。

*17:ブリーフ、革ベルト、アフロづらといういでたちで背中に“木”と書き、ただ立っている人。初代“木”は石野卓球と耳夫の高校のクラスメイト野獣で、86年6月10日新宿LOFTのライブで初登場。2代目はおばば(EX分度器)の弟こばば。野獣の行動は『FASCINATION』に収録の「エチオピア」という歌にもなっている。

*18:86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた。88年4月にオムニバスビデオ『昔、ナゴムレコードがあった』としてリリース。人生は「KISS×3」「はるかなる故郷」「オールナイトロング」の3曲を収録。

*19:86年8月23日新宿LOFTで行なわれた。対バンはミシン、ペーターズ、他。

*20:石野卓球曰くハードコア・ナゴムギャル。ナゴムギャルが昂じて人生のスタッフとなり、ライブ・パンフレットの制作などを手がける。電気グルーヴ初期のマネージャーでもあった。

*21:もともとはナゴムのお客さん(ナゴムギャル)のひとりだったが、のちに姉妹でマサ子さんという女の子バンドを組む。ギターの代わりに大正琴が入っていて、オカシイけどカワイくてポップなバンドだった。88年に『イカ天』出場後、90年4月にナゴムから『ムウ=ミサ』をリリース。『イカ天』終了後は正式に解散しないまま91年にバンド活動終了。94年、サブリナ・ブルネイの逝去に伴い無期限活動休止。代表曲はバート・バカラックの「雨にぬれても」をアレンジした「雨にヌレテモいーや」

ナゴムからマサ子さんのレコードが出た時は、完全にひと回りしたんだなって思った。それまでお客さんだった子たちが、今度はリリースする方になったっていうのは、なんか感慨深いものがあったね」(石野卓球/人生)

*22:『9TUNES(FOR MIRAI)』収録の「下剋上」という曲。

*23:ダビング絶対禁止として、人生教会員だけにカセットやビデオをプレゼントしたり販売したりしていた。

*24:素顔がどうだったのかは分からないが、おばばは眉毛がつながったメイクがトレードマークだった。

*25:以前いた暗黒舞踏団で仲間だったぱちかぶりの田口トモロヲの彼女を通じて、劇団健康に加入。最初は芸名が決まらず、井ノ頭健康とか健康地蔵などと名乗っていた。86年10月19日CSV渋谷でのライブから加入。後に王選手で芸名が固定する。

*26:しかし当時ミニコミのインタビューで石野卓球は「あっちゃんとは“第一回総決起集会”で会って、次に“第二回総決起集会”で会った時に人生のライブに出てみない?」と誘った。「カイカイデー(劇団健康 第3回公演)」ではない」と答えている。

*27:このライブは有頂天の所属事務所PCMが主催していた。社長の江口勝敏氏は「(ケガをしたのが)人でなくてよかったよ」と言ったそうだが、王選手は人ではないのでしょうか? たぶんお客さんじゃなくてよかったと言いたかったのでしょうが(笑)

*28:この時のメンバーは石野“卓球”ペルーニャ6世、御婆“分度器”、畳三郎、グリソン・アンダーソン・キム2世、王選手、渡辺耳夫、鼻夫、山本努羅美(マネージャー)。ケラや筋少大槻ケンヂもコーラスでゲスト参加している。

*29:この時のメンバーは卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫、王選手、畳、山本(マネージャー)

*30:この時のメンバーは石野卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫殿下、畳三郎、王選手。

*31:12ライダーの10番目として企画されたものの、テレビ番組化せず。アトラクションでしか見れなかった幻のライダー。

*32:「P-ONE」という曲。

*33:98年9月23日に再発盤がリリースされたので、インタビュー時点(2000年)では人生の中で一番手に入れやすい音源だった。

*34:ライブと同じく『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』というタイトルのパンフレット。インタビューや対談がまとめられている。

ちなみにこの日のテーマソングとなった同タイトルの曲は『顔として…』と91年11月21日リリースの電気グルーヴのセカンドアルバム『UFO』に収録。

*35:「まわりで騒いでもね、僕はそんなに騒ぐ程かなあって思ってました。もちろん楽しかったですよ。でも、だからプロになるってのは、考えた事なかった」(人生/ピエール瀧

*36:早稲田大学の学生という名誉を捨て、沖縄で塾の講師(エテ講師?)になるために脱退。しかし、程なくしてクビになったので東京に戻って来た。ちなみに今は在庫品切れで入手困難だが、本稿が連載されていた『Quick Japan』0号に王選手の「モリッシー抱きつき男」という記事が載っている。

*37:石野卓球とは小学校からの同級生で、静岡時代から参加していたメンバー。二浪して明大生になったので上京。再び人生に参加するようになった。

*38:でも、卓球が一番最初にメンバーに誘ったのはピエールなんだよね。何だかんだ言っても二人の間には、きっと何か感じるものがあるのだ。

電気グルーヴは僕は参加しないはずだったんですよ。石野がメンバー集めてやってくだろうって。そういう気持ちで、『じゃあ俺は客として観に行くよ』って。そんな感じだったですね。そしたら奴から電話があって『やっぱ一緒にやらねぇ』って。楽器もできない男をよく誘ったなあと思いますよ。でも、つき合い長いし、その時は僕も『いいよ』って。例によって軽く返事をして。それで電気やるんですけどね。そん時は石野も、メジャー意識しないで気持ちよく活動したいってのはあっただろうしね」(ピエール瀧/人生)

*39:マースの87年のこのヒットによってハウスが広く一般に浸透した。同じ年にコールド・カット、ボム・ザ・ベースなどもヒットを飛ばした。

*40:「なにしろモヒカンのパンクスが観に来てたからな」(石野卓球/人生)。逆に初期の人生のファンだった人達は電気になってまた聴くようになったという。

*41:結成当初はもうひとり、高橋嵐というメンバーがいたが、耳夫と同時期に脱退したようだ。彼は後にタカハシテクトロニクス、ニュートロン、パロマティックというユニットを組む。

*42:ピエールもまた、こうした打ち込みの音が体質的に好きなんだ。だからハウスに対する反応も早かったもんなあ。

*43:今や超大物プロデューサーになられてしまった小室哲哉と木根尚人、宇都宮隆のバンド。99年に再結成したので、知っている人も多いのでは?

*44:キュートメン、コンフュージョンを経て、現在はALEXinc.で活動中。

*45:91年6月に加入し、99年4月2日脱退。現在はソロ活動をしていて、ACOのプロデュースなども手がける。

伝説の編集者 青山正明氏のこと(夏原武・永山薫・斉田石也の追悼文)

伝説の編集者 青山正明氏のこと

ミリオン出版『ダークサイドJAPAN』2001年10月号所載)

数年前になるが、某ライター氏から公開討論を申し込まれたことがある。そのことを雑談の中で青山正明さんに話したら、クスクス笑いながら「いいこと考えました。討論会に行きますって言っておいて、当日になってカゼ引いたんで欠席しますっていうのはナメきってていいと思いませんか」。それはいいということで、「じゃ当日、方角が悪いので行きませんっていうのもさらにナメきってていいですかね」などとくだらない話をした。僕自身の思い出は僭越ながら編集後記に記しておいた。

雑誌『FOCUS』で報じられた青山正明さんの記事ネットで流れた青山さんのニュース。どれもピンとこなかった。以前青山さんが僕に「僕の兄貴分と呼べるのは、夏原武さんと永山薫さんです」と語ったことを今でも覚えている。その兄貴分二人と、やはり青山さんにとって長年付き合いのあった斉田石也氏。三人のライター氏に追悼文、あるいは思い出をつづってもらうことにした。(編集部 久田将義

 

私にとって友人でもあるが恩人でもあった(文◎夏原武)

青山正明と知り合ったのはもう十五年近く前のことになる。くだらないことを何時間もよく話したものだ。ホラービデオがちょっとしたブームだったこともあり、死体や畸形の話をよくした。当時、エンバシーホームビデオにいたKさんと三人でロリコン話をして盛り上がったこともある。面白いやっちゃなあという印象だった。世間一般的なイメージである『突然変異』を作った男、というのは後に知ったことで、あくまでも趣味の合う友達だった。

青山正明が慶応大学在学中に編集していたミニコミ『突然変異』創刊号)

しばらくして、今はもうない大正屋出版という会社から『阿修羅』なるムック形態の雑誌を作ったと連絡をもらった。考えてみるとこれが『危ない1号』の原型かもしれない。その二冊目に原稿を書いてくれないか、彼からそう言われた時は正直嬉しかった。というのも、私はライター青山のファンでもあったからで、自分が敬愛する書き手から「書いてくれ」と言われるより嬉しいことはない。言われるままホドロフスキーの作品を中心に、原稿を書かせてもらった。その出版社があっという間に倒産したのは笑い話だが、彼は自腹を切って原稿料を振り込んできた。

記憶が曖昧だが、美女切腹写真を載せた『サバト』もこのころだったのではないか。まだ鬼畜という言葉こそなかったが、彼は少しずつ形にしたものを残していた。ペヨトル工房から出ていた『夜想』に優れたクローネンバーグ論を書いたのも同時期かもしれない。ケネス・アンガーの前衛映画に触れたのも、彼の影響だった。

三和出版刊『サバト 超変態世紀末虐待史』創刊号/廃刊号)

青山はシャイで人懐こい男だった。はにかんだような表情で待ち合わせに現れる。いつも時間に遅れてくる男で、こちらを見つけると首を前後に振るようにして「すいませ~ん」とやってくる。手足が長くてノーブルな顔立ちの彼にそんな風に言われると、文句を言う気もうせてしまう。酒を飲まないので、いつも会うのは喫茶店。二、三時間は話しこむのが定番だった。

ほんの短い期間だったが、編集者をしていたときに原稿を発注したことがある。『ビデオで~た』(現在は『DVD&ビデオで~た』)の星取表で、歯に衣着せぬ原稿を書いてくるので、何度か直してもらったことがある。映画評論家としてもやっていけるのではないかと思わせる鋭さがあった。

この頃、私が在籍していたのはSという編集プロダクション。緑は不思議だなと思うのは、怪しげな旅行雑誌の編集を離れた青山が就職したのが、このSとは兄弟づきあいのある同じ編プ口のJ社であった。両社はあるいて五分程度の距離にあり、行き来も頻繁だったが、まさかそこに彼が入るとは思いもよらなかった。『ぴあ』から請け負った仕事などしていたようだ。いくらもいずに辞めてしまったが、会社づとめは傍から見ても性に合わないのが分かった。

『危ない1号』的な雑誌を作りたいという話は、この時期によくしていた。タブーと言われていること公序良俗に反することをやれる雑誌を作りたい。二人で熱っぽく語ったものだ。版元さえ見つかれば、そういう雑誌に打ち込めるのが一番だと納得しあったのは、要するに、当時は双方ともにやりたくない仕事をしていたからだろう。その発散として、松文館から出ていたビデオ雑誌でグロビデオ特集をやったこともあった。ギャランティの問題ではなく、やりたいことがやりたいんだ、とよく言っていた。『バチェラー』のフレッシュペーパーもそのひとつだったのか。

私にとって青山は友人でもあるが同時に恩人でもある。フリーになった後、くすぶっていた私に別冊宝島を紹介してくれたのも彼だし、その後、自分が単行本『危ない薬』を出すと、私にも単行本を書くようにすすめてくれ、データハウスを紹介してくれた。利害損得を越えた優しさを私には示してくれた。インテリで繊細な青山とろくでなしの私では、違いすぎるところが、よかったのかもしれない。『危ない薬』が出た時には、自身でサイン本を持ってわざわざ家を訪ねてくれた。まあ、それでも二人で何をしていたかというと、レンタル屋でV&Rのジャンクシリーズを借りてきて笑いながら見ていたのだから、ロクなもんじゃないのだが。

青山正明の処女単行本『危ない薬』)

『危ない薬』はよく売れた。十万部を超えたのだから立派なべストセラーだ。実際、出版後はドラッグの第一人者として羽ばたくのではないかと思っていた。テレビがコメントを取りに来たりしていた。だが、青山自身はドラッグを語ることに関しては興味を失いつつあったようだ。全部書いてしまったのは失敗だったなあ、と後日言っていたのが印象的だし、小出しにしておけば続編に使えたのにとも言っていた(続編は別人の著作)。

もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ。

この『危ない薬』と『危ない1号』は、ひとつのピークだった。特に後者はこれまでにない雑誌となったし、「鬼畜系」なる言葉まで生み出した。まったく新しいものを作るのがどれほど難しいかは、クリエイティブな仕事をしていれば誰にも分かることだ。そういう意味でも彼は編集者として抜群の力量を持っていた。ただ、完全主義者なので、どうしても抱え込み過ぎるのが欠点だったが。

しかし、私は編集者としてよりもライターとしての青山をより評価するし、尊敬する。どの原稿がではなく、どの原稿もいい。「これで全仕事はないよね~」と苦笑いしていた『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』を見れば分かるように外れがない。どの原稿も本当に面白い。もっともっと書いて欲しかった。発注する側ではなく、される側にいて欲しかった。

(単行本第2弾『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』)

去年の春に創刊された文春の『Title』では一緒に仕事をするはずだったが、眼病もあって彼は降りてしまった。やや気力を失っていたのを知っていただけに、この降板は残念極まりない。というのも、その半年ほど前に『危ない1号 第4巻』の仕上げ段階で偶然データハウスで会った時にも、「これからはライターは副業として正業をもちたい」と言っていたが、なんともったいないことを言うものだと、さんざ文句を言った。雑誌を作るのもいいが、もっと書くべきだ、と。肯定的な返事はとうとう聞く事はできなかった。

彼はなぜ書くことに興味を失ってしまったのだろう。タフでないことは分かっていたし、私自身も怠け者だから少しは理解できるが、彼の才能は図抜けていた。それだけに惜しい。

今回、編集長から要請されたのは追悼文だが、とてもそんなものは書けなかった。十数年のほんの一端を駆け足で追った「思い出」を記すのが精一杯だ。それから敢えて青山正明ではないもう一人の「彼」については書かないことにした。色々な見方や意見もあるだろうが、私はあくまでも彼は「青山正明」として死んだと思っているし、もし、私が死んだ後で彼と会ってもやっぱり今までどおりに「青山さん」と呼びかけるだろうから。

(雑誌『FOCUS』2001年7月18日号で報じられた青山さんの死。「麻薬ライター」という表現は当たっていないだろう)

 

 

不良ジジイになった青山正明を見たかった(文◎永山薫

ここ何年か疎遠になっていた俺が、聞いた風なことを抜かしていいもんだろうかという逡巡はある。だが死者について付度するのは生き残った人間の特権だ。もとより過度に賛美したり貶めたりするつもりもない。とは言え知人に先立たれるというのは気持ちのいいものではない。訃報を聞いた時、最初の内は冷静に応答していたが、後半は周章狼狽のテイタラクだった。予期していなかった。年下だ。まだ40である。死ぬには早すぎる。物書きとしても編集者としてもこれから脂が乗る。寒鯖のようにテラテラと青光りする。そんな時期だ。まだまだガキどもをたぶらかして、だまくらかして、ブイブイ言わせる。それが不良青年だった男の義務ではないか。

友人たちから電話がかかってくる。「ネットで知ったけど、本当ですか?」とT。

青山正明とは同い年のライターだ。ヤツは結局しがみつくモノを見失ったんだと思う。死んでも死にきれないというモノがなくなったら、生きることはどうでもよくなる。所詮、遅いか早いかだ。人間はいずれ必ず死ね。絶対に死ぬ」

そんな話をTと交わした。俺たちは生にしがみついて、これしかできないから今の稼業にしがみついて、ナニゴトかを成し遂げない内には死ねない、死にたくない。ジタバタとあがきながら生き続ける。

「けどなあ」

「もう何を言っても取り返しがつかないんだけどさ」

話の合間合間にこのフレーズを何度となく繰り返す俺とT。

鬱病だったという話。青山正明は何年か周期で、ヘコんでも復活して来ていた。今回もそうだと思っていた。だが、今回は尋常ではなかった。ドン底まで潜って行って、浮かんで来られなかった。息が尽きた。発作的だったのかもしれない。人間には自分で自分がどうにもならなくなる刹那がある。全身が凍り付いたようになって、ダメだダメだダメだと思いながら、身体がヤバイ方に滑って行く。オートモードに入ってしまう。

言ってはいけないことを口走る。物を壊す。他人を殴る。自傷する。他人を殺す。自分を殺す。俺は物を壊すあたりで踏みとどまっている。コンクリの壁を殴って拳を青くする程度で済んでいる。運が良かっただけの話かもしれないが…。

「やっぱさあ、還暦までは生きるべきだよねえ」

Hがやるせない声で言う。Hはマジック・マッシュルームの研究家で最後のフーテンだ。Hは青山正明の死を半月後に知った。

彼には還暦、いや、70、80まで生き延びて欲しかった。

「若い時分にはムチャもしましたよ」

としたり顔で語るイヤなジジイになって欲しかった。

青山正明と最初に会ったのは80年代の初頭だった。

俺はその頃『Billy』という白夜書房の変態雑誌で複数のペンネームを使い分け、死体やフリークスやビザールや殺人術について書き殴り、誌面にも変態アーティストとして登場して恥を晒していた。

青山正明は『Billy』と並ぶカルトエロ雑誌でロリコングラフ誌の『Hey!Buddy』でドラッグや変態ビデオの記事を書いていた。

 

白夜書房刊『Billy』『Hey!Buddy』/ともに1985年廃刊)

どうやって仲良くなったのか忘れたが、当時は白夜書房や宝島編集部なんてのは若いライターの溜まり場だった。彼とはスプラッタ・ホラーや、鬼畜な嫌がらせのテクニックや、動物虐待や、神秘学や、変態の話で盛り上がった。ネコに唐辛子を突っ込んで全力疾走させる方法、スカしたクルマに乗ってるバーカを懲らしめるためのあらゆる方法、幾つかはネタになり、彼が編集していたロリコンエロ雑誌のフリをしたカルト雑誌に掲載された。

青山正明は気弱に見えて開けっぴろげだった。メジャー誌に呼ばれて「エロ雑誌関係者匿名放談会」みたいなことをやった時、彼はヤバイことをケロケロとぶっ放した。いいのか、お前、そこまでぶっちゃって!? とコチラの腰が引けるほどのサービス精神である。そう、気合いが違う。両手ブラリ戦法で踏み込んでくる。

ロフトプラスワントークショー青山正明とセットで出た。それが最後の対談だったかもしれない。俺と彼は業界関係者とガキどもの前で、オナニーの話をぶっこいた。

眠剤二本突っ込んで、イク瞬間にラッシュをキメるんですよ、ふわーっとなります」

「ヤバイよ、お前、死ぬよソレ」

彼は漫画やアニメでは抜けなかった。抜くのは写真だ。巨乳が好きだった。巨乳のスクラップを屏風みたいにして、それで抜いていた。想像するだにマヌケな姿だが、そういうマヌケな姿も平気でさらせる男だった。

カルト・ライターだとか、ドラッグ・ライターだとか、カリスマだとか、元祖鬼畜だとか、冠は色々あるだろうし、その側面も俺は否定はしない。虚像も実像の内だ。ただ、俺にとっての彼は気弱で優しいくせに大胆で捨て身でマヌケな男だった。

「よく人間性とかヒューマニズムとか云いますけど、人間が動物と決定的に違うのは、裏切ったり、他人を騙したり、陥れたりする点ですよね。人間らしさって、卑劣さってことですよ」と、微笑みながら彼は俺に語った。しかし、少なくとも俺は彼に裏切られたことはない。世話して貰った憶えは一杯ある。

俺が青山と最後に会ったのは97年だ。青山のプロデュースで鬼畜な単行本を出す。そういう話だ。面白い仕事だし俺はカネが欲しかった。幾つかあるペンネームを使う。それでオッケー。

「一ヶ月で書いて下さい」

「そりゃムチャだな」

「やってくださいよ。一月で百万になると思えば楽勝でしょ」

気弱な笑みを浮かべながら、押しが強い。

いつの間にか押し切っている。

「これ、差し入れです」

輸入物のビタミン剤の巨大な薬瓶。正確にはサプリメントだが効いた。青山正明が持って来たクスリというプラシーボ効果

確かに彼はクスリには詳しかった。「メラトニンはいいですよ。体内時計を調整してくれますから、長生きできるかもしれない」

俺は長生きしたい。死ぬのが恐い。一分一秒でもこの世にしがみつきたい。残り時間を考えると全身が冷たくなる。

恐らく彼もそうだったのだろう。死を恐れ、生きることの快楽を楽しむ男だった。そんな男が自殺した。それが、俺には痛い。

青山正明は俺の保険だった。青山だって生きている。だから俺もなんとかなるだろう。安心できた。俺なんかよりずっとムチャやってもヘッチャラなヤツがいる。

そんな保険が失効した。

青山正明よ。スマンが、俺は70、80まで生きる。不良でバカでマヌケなガキどもの保険には役不足かもしれないが……。

 

青山正明は極端に人間臭い人間達との関わりを何よりも愛する繊細な心の持ち主だった(文◎斉田石也)

青山正明殿

あなたは、絶対に越えられない、とてつもなくでっかい目標であり、憧れの人であり、そして、よき理解者でもありました。ご冥福を心よりお祈りしております。

私の元に青山正明氏の訃報が届いたのは、亡くなられた日の深夜であった。青山氏と私の共通の友人であり、同氏の家族とも親しい女性ライターからの連絡だった。

突然、自殺といわれても、にわかには信じられなかった。これが、第一報を聞いた瞬間の偽らざる心境だった。それほどショックが大きかった。いや、正直なところ、今でも、青山氏と私の間で以前に何度もあったように、忘れた頃に、突然、連絡が来ると信じている部分が、私の中にある気がする。

幸か不幸か、全体の4割程度の原稿を執筆した情報誌の入稿時期で、仕事に没頭せざるを得なかった私は、何とか気持ちを立て直せたが、もし、それがなければ、現在も落ち込んだままだったかも知れない。

青山氏と初めて合ったのは、昭和60年(85年)のことで、当時、同氏が在籍していた出版社の六本木の事務所だった。既に青山氏はライター、そして編集者としても名の知れた存在だった。まだ、サラリーマンで、ライターが副業とさえいえないぐらいの駆け出しだった私は、青山氏から自己紹介を受け、名刺を差し出されて「わァ、あの青山正明だァ! 名刺までくれた」と感激した事を、今でも鮮明に記憶している。

早いもので、あの感激の名刺交換から6年が過ぎ、何度か疎遠になったことはありつつも親しくお付き合いさせて頂いてきた。

ちなみに、本誌の久田編集長に私を推薦してくれたのも、誰であろう青山氏であった。

そして、青山氏の死と直面した今、改めて、そうした日々を振り返ってみて、私は、何度となく氏の天才的ひらめきも目の当たりにする一方で、数多くのテーマに対して、実に深い探求心を持って挑んでいることも知っている。つまり、青山正明氏は、天才と秀才の相反する二つの気質を持ち合わせていたといえるのだろう。そんな青山氏の代表作は『危ない薬』、そして、結果的に出版業界での最後の一大事業となってしまったムックの『危ない1号』などが挙げられるだろう。

ただ、多少なりとも青山氏と交際のあった者として、この2つの仕事だけで短絡的にドラッグライター、あるいは鬼畜系プランナーと決め付けられるようなことにはなってほしくない、してはならないと考えている

確かに青山氏はドラッグやマリファナなどに関する知識は豊富だった。つまり、そういった世界に興味を惹かれていたのは紛れもない事実だ。『危ない1号』の内容からは、氏が様々な怪しげな世界に人脈や情報源を持っていたことは明らかである。

しかし、そうした知識や人脈があった事だけを挙げ連ねて、青山氏自身も鬼畜系であるかのように決め付けてしまうのは大変な間違いである。アブノーマルの世界を精力的に紹介していた時のことを思い出してほしい。

ロリコンだと誤解された時もあったし、何か、更にコアなフェチズムの持ち主だと、まことしやかに語られた事もあった。

そうしたスタンスは、氏の中で、様々な社会的マイノリティやフリークスの世界などへの深い関わりへと引き継がれていった。

氏のこうした好奇心、探求心の根源にあるのは、人間への興味である

たとえば、私が青山氏と出会った出版社はロリータ系専門の出版社である。しかし、青山氏がこの会社に籍を置いたのは、幼い少女に興味があったのではなく、ロリータマニアに強く惹かれたからであるのは、当時、氏と親しかった者なら、みんなが知っていた。

つまり、青山正明氏がフリークスに詳しいのも、薬物依存者について語れるのも、様々な破滅型、あるいは社会不適応者についての膨大な知識を持っていたのも、全て、そうした人間一人々々へのやむ事ない探求心のなせるわざであったのだ。氏をこうした社会的マイノリティの世界へと導いたのは、青山正明氏が、実は繊細な神経の持ち主であり、様々な立場の人とのかかわり合いに、何よりも喜びを感じていたからに他ならないと思う。

青山正明氏の名前とその業績が、今後も多くの人々に語り継がれる事を願ってやまない。

合掌。

『ガロ』のまんが道・白取千夏雄著『全身編集者』(おおかみ書房刊)の衝撃

白取千夏雄『全身編集者』(おおかみ書房刊)を読ませていただいた。

伝説の雑誌「ガロ」元副編集長が語り下ろした半生記・半世紀。

師・長井勝一との出会い、「ガロ」編集としての青春、「デジタルガロ」の顛末と「ガロ」休刊の裏側。

慢性白血病、最愛の妻の急逝、悪性皮膚癌発症、繰り返す転移と度重なる手術という苦難の中、それでも生涯一編集者として生きた理由、「残したかったもの」とは……

白取千夏雄さんは伝説の漫画雑誌『ガロ』の副編集長を務めた方で、壮絶な闘病生活の果てに惜しくも2017年3月に逝去された。

本書は彼の弟子・劇画狼(以下げウさん)が彼の生前から没後にかけて2年がかりで編集し、げウさん主宰のインディーズ出版社「おおかみ書房」から今年5月に刊行したものだ。

最初に刊行が告知されたのが2018年7月頃だったのでトータル1年ほど遅れた超マイペース刊行となったわけだが、読後の感想から言えば、発売まで一日千秋待ちわびた甲斐があった、とにかくスゴすぎる一冊だった。この一大プロジェクトを白取さん亡きあと、ほぼ独力で完走させたげウさんには感謝しかないです

でもってTwitterで本書の感想を見る限り、おそらく読者の6~7割以上はガロをリアルタイムで読んでいないか、名前しか知らないという人がほとんどらしい(みんなの感想は私がTogetterでまとめたのでそちらを参照してね)。なにせ、ガロ休刊から20年以上も経ってしまった。

結論から言えば、本書はガロを知ってても、知ってなくても興味深く読める本です。もちろん知ってたら新たな発見があるし、知らないなら知らないで、本書がガロの入門書(バイブル)となるだろう。

本書はガロを知らない読者に対しても、どれだけガロが凄かったか、また作家のオリジナリティとは何なのか、そして作家・やまだ紫との出会いと別れ、師・長井勝一青林堂創業者/ガロ編集長)から薫陶を受けて導いた白取流の編集哲学「作家に対して尊敬を忘れない」などの金言が余すことなく(中学生にも分かるような文章で)説明されており、ガロの足がかりをつかむ上では最適の著書だと思う。

これは白取さんの文章が読ませるわざだと思うけど、多くの人間を突き動かし、サブカルチャーのみならず、日本漫画界の精神性(バックボーン)を象徴していたガロという偉大な雑誌が大前提にあって、その内幕や編集哲学が惜しみなく語られてるわけだから面白くないわけがない。

世の中の全編集者・全創作者に読んでもらいたい一冊だし、とくに作家の実売部数を「オマエは売り上げに貢献していない」とSNSで勝手に晒した幻冬舎の売らんかな社長はハゲのコピペ本を出す前に、本書を数百万回見直すことをオススメする。そして出版人としての矜持を(元からないと思うけど)心から取り戻して欲しい。

話は飛ぶが、白取さんが師と仰いだ長井勝一が書き下ろした著書に『「ガロ」編集長』(筑摩書房)というものがある。これはガロが創刊した1960年代半ばから白取さんが編集部に入る前後の80年代初頭までのガロについて書かれた長井視点の自伝/漫画史で、いわば本書の前日譚にあたる。そして、これ以降(84年~97年)の青林堂/ガロについて内部の人間が語り下ろした著作は存在しない。つまり長井勝一著『「ガロ」編集長』の続編に当たるのが本書である

そして本書の存在は、90年代のガロ再興~ガロ休刊という漫画史上最大のミッシングリンクを埋めるにあたって必要不可欠なマスターピースであったわけだ(もちろんガロ休刊の内幕以上に「生涯一編集者」として生き抜いた白取さんの超カッコイイ生き様を知って欲しいわけだが)。

僕はガロ休刊の年に生まれた、いわばガロを知らない世代である。だが、ウチにはガロのバックナンバーが100冊以上もある。もちろん青林堂青林工藝舎の出版物は宝物だ。今後売り飛ばすようなことも絶対ないと誓える。どれもなけなしの小遣いをはたいて学生時代に集めまくったものだし。

 

もはやガロという存在は雑誌という枠を超え、僕の血肉となって精神と一体化している。もちろん本書に登場する固有名詞(漫画家、ガロ編集部員、イニシャルの匿名)は、本書を読む前からおおよそマスターしていた。

私は白取さんから見たガロ史を「復習」するつもりで読み進めた。あの頃のボロくて貧乏な青林堂の建物や編集部の様子が目に浮かぶ。

休刊騒動の経緯は白取さんがウェブに遺した「顛末記」である程度知っているつもりだったから、ガロ休刊の章は殆ど「復習」がてらに読んだ。それでも休刊の章には自分の大事な雑誌がなくなる舞台裏がしっかり書かれているので心が張り裂けそうになった。その後、白取さんに待ち受ける病苦や、妻のやまだ先生との別れの章なんかは、とても言葉で言い表せない感情の波が渦巻いた。。。

で、13章「ガロ編集魂」からトートツにげウさんが登場。

一気に笑える内容になる。

いや、バランス感覚が凄いわ。

本当13章に救われた(笑)。

。。。で、最終章「全身編集者」は本書刊行の顛末をげウさんが書いている。編者を超えて、ほとんど共著者だ。しかも、あのげウさんが割と真面目な文章を綴っていて、実はこの章が一番ウルときったかもしれない。別に湿っぽい事なんてこれっぽっちも書いちゃいないんだけどさ(笑)。

最後にあとがきで山中潤さん(元青林堂社長・ガロ編集長/1990年~1997年)の文章を読んだ。読む前から暴露的な内容が含まれていると話題になっていた禁断のあとがきだ。そこでようやく自分は何も知らなかったことに気付かされた。こればかりは読んでもらうほかない。山中さんのあとがきはたった4頁だけど、白取さんの本文160頁を覆しかねない内容で、あまりの衝撃に読了後すぐこの文章をブログに書き始めた。

関係ないが、吉永嘉明という編集者の手記『自殺されちゃった僕』で精神科医春日武彦が軟弱な著者や本文の登場人物を否定というか罵倒しまくる鬼畜を文庫版に載せたことがある。その解説は数ページのものだったけど、それまで読み進めた200頁あまりの本文を完全にひっくり返していたのだ。そして、この解説があるとないでは著書に対する評価も違ったことだろう。著者の吉永氏は不本意だろうが、私はこの解説を高く評価している。解説者は本文の違和感やしこりを取り除く役目がある。決して著者のイエスマンでもない。そして、それは何よりも誠実さを意味する。

山中さんのあとがき読んで、今までアックスや青林工藝舎(ガロの後継出版社。白取さんは最期まで認めなかったけど)に抱いていた複雑な感情やモヤモヤが取れた気がする。

本書にあとがきを寄稿した山中潤さん、

それを是々非々の立場で載せたげウさん、

著者の白取千夏雄さん、

現・青林工藝舎手塚能理子さん、

本書を読んで思うのは、みな誠実な人だということだ。そう私は信じている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ガロは時代に左右されない普遍性を秘めた雑誌で、ガロ系の作品はいつになっても古くならないし「替え」がきかない*1。それこそガロ休刊から20年近く経った現在も一定多数の支持を常に集め続けている所以である。

そうした後生大事に取っておきたくなる唯一無二の出版物を、これからもおおかみ書房には作って頂きたい。きっと、みんなもそれを待っていると思う。

*1:替わりがない・型にはまらないマンガ…文字どおりの意味で「オルタナティブなコミック」がガロ系である。

鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号/『サイバッチ』2001年6月19日20時45分配信

サイバッチ!】 鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号 [06/19]20:45

今月17日、あの青山正明が逝った。

自宅の部屋で首をくくって死んだそうだ。昼過ぎ、部屋から出ないのを不審に思った母親が、ドアを開けると青山が天井からブラ下がっていたそうだ。恐るべし青山正明。死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちに、ちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ。

青山といえば、鬼畜のカリスマだ。慶大在学中には、今でも伝説として語り継がれるカルト・ミニコミ『突然変異』で華々しくデビュー。その後、エロ雑誌や株屋の雑誌等に雑文を書き散らかした後、80年代後半に海外カルト情報誌『エキセントリック』に参画。90年代初頭にチンピラ系シンクタンク「東京公司」を結成。

『危ない1号』『アダルトグッズ完全使用マニュアル』、別冊宝島シリーズでは『気持ちいい薬』『薬のウラが分る本』『裏ハワイ読本』などを編集・制作。

著書『危ない薬』(92年)は世間から大顰蹙を買い、『フォーカス』にその素顔を盗撮されたが、その後も版を重ね、現在ではジャンキーのバイブルである。

 

サイバッチ!】自体もそれなりの影響を受けており、その血脈を受け継ぐとではいかないまでも、いかがわしい鬼畜な血を数リットルほど輸血くらいのご縁はある。一応、そういうことなので、今号では、青山の腹違いの弟である、青山とおるに追悼文を書いてもらった。身近にいたものだから書けるちょっといい話が満載である。合掌……*1

●鬼畜坊ちゃん、青山正明の青春

基地外宅間守の屑親父が、「デス・バイ・ハンギング!」って言ったからって、あんたが首吊ることはないだろう。って、突っ込みも入れたくなる、青山正明、享年40歳。

でも、あいつ真性ロリコンだから、7人ものいたいけな少女が殺されたことが、バッドトリップの原因になったのかもしれないね。

で、横須賀育ちの青山君は、何と自衛官の長男であります。

幼少の頃から、それはそれは優秀なお子さんで、神奈川県のほとんどの中学が参加するというアチーブメント・テストとか何とか言うモンで、2年連続トップになったそうです。しかし、彼の偉いところは、アカ新聞の蛆虫13号みたいに、3度のオナニーを1度に減らすみたいな、せこいことはせず、3度のオナニーを5度にも6度にも増やして、オナニーパワーで成績をぐんぐん上げていったことです。

それで、オナニー済みのティッシュを隣の家の屋根にポンポンと投げていったものだから、隣家の雨樋はザーメン臭いティッシュでいっぱいになってしまったんだそうです。

そんなせんずり力のおかげで、見事、慶應義塾大学法学部入学!

ある時、母校(中学校)の女子運動部の部室から下着を盗むことを思い立ち、夜中にこそこそ忍び込んでいきました。暗いのでそこら辺にあった紙に火をつけて下着をあさりました。後で燃やした紙を良く見ると、少女たちが地と汗と涙で勝ち取った賞状の数々だったそうです。

翌日、青山君は戦利品のブラジャーを密かに着けて大学に出かけました。で、部室(ジャーナリズム研究会かなんか)でそれを見せびらかすと、「奇遇だね、青山君」って、他にもブラジャー着けてる奴がいたんだそうです。恐るべし、慶応義塾大学とジャーナリズム研究会(かなんか)。

入学当初は第一勧銀マンを目指して「優」をせっせと蓄えこんでいた青山君も、本性は争えず差別ネタ満載のミニコミ『突然変異』に参加し、どんどん人生を踏み外していきます。

「不謹慎な雑誌だ」と文句をつけてきた椎名誠に、「じゃあ腕力で勝負だ!」と果たし状を突きつけたものの、相手は来ずに、決闘場所で待ちぼうけという武勇伝(?)も残されています。

そんな青山君も海外文化情報誌に関わったり、文名が上がったりして、海外(主に東南アジア)に行って、少女を買う機会が増えてきました。でも、彼には恐妻家の一面もあり、ばれないようにするのに必死でした。タイで買った少女に八重歯があり、フェラチオの時、ペニスに傷がつきました。日本に帰ってきてから彼はたいそう気に病み、結局エイズ検査を受けるのですが、その時もチンチンを火傷して病院に行ったんだけど、そん時、医師の使っていた布巾が血で汚れていたようだったから、とか苦しい言い訳していました。

でも、奥さんも人がいいからそれで通ってしまうんですね。

最初の奥さん(ロリ系)はデザイナーで、一時一緒の事務所で仕事してたんですが、その時は風俗行くのに苦労してましたね。奥さんが来ない日見計らって、吉原のソープにいそいそと出かけていました。「この巨乳の子いいだろう」ってナイタイで探して指名した女の子の写真を僕に見せびらかした、あの嬉しそうな笑顔が忘れられません。

「東京公司」結成後の愛憎ドラッグ渦巻く、情けなくも波乱の人生は、誰か他の人が『BURST』かなんかに書くでしょう。

二人も可愛い奥さんと結婚して、貢がせ、ファンの女の子にも手をつけてたみたいですから、僕や毒島みたいな三国人アパートでマスかいてる人間が同情するには及ばんでしょう。

ジャンキー、ロリコン、マザコンと三拍子揃った蛆虫の青山さん。

地獄でまたお会いしましょう。

 

P.S けれども青山君はセックスは弱かったようだ。
勝ったね。ワシ、毎日朝立ちするモンね。って、死人と争ってどうする。

 

*1:追伸

大月隆寛氏からメールが届いた。盗作事件がこれだけの騒ぎになっているのに、バックれてているクズ野郎の田口ランディと関係する言論封殺事件について、全部まとめて暴露してくれるそうだ。大月氏といえば、青山が女を取り合って泥沼に陥ってしまったK脇のかっての盟友ではないか。K脇も行方不明で死んだという話だが、青山の葬式の日に大月氏からメールが届くというのも皮肉な話である。

さらばガセネタ―『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』に寄せて(JOJO広重)

さらばガセネタ

JOJO広重(非常階段)

人間とは裏腹な生き物だ。なければ欲しがるし、あれば欲しがらないくせに、またなくなると欲しがる。限定版のなんとか、とかはそういった類の心理をネタに商売をする卑怯なやり方だが、そもそも人間とはそういった姑息で卑怯な側面があるのだろう。

ガセネタ

ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。

1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。メンバーは大里、山崎、浜野、ドラムは数回変わったが最後は吉祥寺マイナーのオーナー・佐藤。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。その後はPSFからのCD1枚、大里の執筆した単行本『ガセネタの荒野』あたりが情報源にして、しかしさらに不透明なままだったバンド。世間的にはそんな評価だったのではないか。なんだかわからないけどもの凄かったバンド・ガセネタ。

だが2009年、大里の死を契機にその全貌をまとめようという作業が始まる。大里の追悼文集、著作集、『ガセネタの荒野』の復刊、そしてこのCD10枚組『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』のリリースである。特にこのCD-BOXはたった4曲しかレパートリーがなかったバンドの、現存するほとんどの音源を収録したもので、音楽を聞くためのCDというよりは記録して残すという資料集的な意味合いが強いアイテムだ。それにしてもこういったものが商品として制作発売され、それが完売したという事実は驚異に属するものだろう。

当時ガセネタのライブを見た人間の一人として、ガセネタのライブ音源をたまたま持っていた人物として、私はこのCD-BOXに関わることになった。CDディスク4の11曲目、「父ちゃんのポーが聞こえる」は私が持っていたカセットテープからのトラックだからだ

私は1978年から京都のロック喫茶「どらっぐすとぅぁ」のスタッフとなり、プログレ、パンク、現代音楽、フリージャズ、即興演奏などの世界にどっぷり浸ることになり、その流れでウルトラビデというバンドを結成することになった。このあたりの経緯は私の別のバンド・非常階段の単行本やあちこちの雑誌への原稿で触れているが、ガセネタの活動拠点となった吉祥寺マイナーと京都どらっぐすとぅあの共通点は多い。同じような時代に場として存在し、それぞれの地方で同じような役割を担ったということも興味深い。端的に言えば一般世間ではまるで相手にされていなかった音楽を愛好し、演奏し、追求しようとしていた若者が集った場所が東京は吉祥寺マイナーであり、関西では京都どらっぐすとぅあだったということだ

この2軒の店を橋渡ししたのがウルトラビデのエレクトロニクス奏者・渡邊浩一郎であり、NOISEの工藤冬里だった。渡邊浩一郎は東京から京都に転居してきた予備校生だったが、彼が個人的に東京方面でのライブを録音したカセットテープを大量にどらっぐすとぅあに持ち込んだのである。そこには当時のアンダーグラウンドなバンドの音源の他、灰野、大里、浜野などのセッション音源もたくさんあった。渡邊浩一郎は「この灰野と浜野のギターがすごいんだ」と言って、我々に解説付きで音源を聞かせてくれたものだった。思えば初期ガセネタや即興セッションによる演奏のテープだったはずで、当時関西に住んでいた人間にはまず聞くことの出来なかったような音をたくさん聞かせてもらったように思う。

やがて工藤がマイナーのライブのチラシやポスターをどらっぐすとぅあに持ち込むようになり、ガセネタというバンドの存在がわかった。そこに大里、浜野、山崎の名前があることも、我々は予備知識があった上で認識していたことになる。ほう、山崎春美は大阪の雑誌・ロックマガジンに寄稿していたヤツじゃなかったっけ、今は東京にいるのか、などと思ったことを覚えている。

(坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号/1979年5月発行)

ガセネタのライブを初めて見たのは1979年2月だった。同年3月に関西のバンド、ウルトラビデ/INU/SS/アーント・サリーで関東方面のツアーをすることが決定しており、事前に関東のライブハウスを見ておこうということで上京したのだ。マイナーはその前年に工藤のライブを見に行っていたので場所の認識はあったのだが、ガセネタが当日の出演予定にあったので足を運んだのだったと思う。

初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった


その約1ヶ月後、3月24日に私はウルトラビデで吉祥寺マイナー(うごめく・気配・きず)に出演することになった。確か昼の12時頃からスタートしたロングランのライブイベントで、我々の他にはファーストノイズ、黒涯槍、ガセネタ、不失者、オッド・ジョン、INUが出演した。ガセネタと対バンということで、私には“このバンドには負けたくない“といったようなヘンなライバル心があったのを覚えている。同じ4人編成、ある程度の楽曲ベースはあるが基本即興演奏、訳の分からない音を目指しているといった、どこか曖昧ではあるが同じような音を目指しているという認識はあったのだろう。そして出来うることなら自分たちの音の方が新しくありたいと思っていたのである。

会場のマイナーに到着して、すぐに一番驚いたのは浜野の人相だった。2月に見た時のような狂気の様相はもうまるでなく、どこか普通の兄ちゃんのような形相になっている。これがあの浜野なのか? 同一人物なのか? と、非常に驚いた。そのことと、椎間板ヘルニアを煩っていた大里がとんでもないガニマタで、誰かに支えられながら歩きにくそうに階段を上ってきた光景を妙に覚えている。

この24日のウルトラビデの演奏もろくでもなかったが、ガセネタの演奏は2月に見た時のような緊張感、疾走感はなかったように記憶している。バンドとしてのピークは終わったのかも。そういう印象だった。なにより浜野のギターに迫力がなくなっていた。

3月中に数本、吉祥寺マイナーでガセネタのライブがあったようだが、私は見に行けなかった。ウルトラビデのツアー日程があり、吉祥寺には行けなかったからだ。知人経由で後日、3月30日のガセネタのライブを収録したカセットをもらった。その演奏は24日の演奏とは比較にならないくらいテンションの高いものだった。3月30日のライブがガセネタとしての最後の演奏だったと聞いて、会場に行けなかったことを悔やんだ記憶がある。

1979年8月、私は学生ならではの夏休みを利用して、後年非常階段のメンバーとなるZUKEと関東方面に旅行に来ていた。その流れで彼の友人宅がある茨城県に遊びに行ったところ、明日地元バンドのロックコンサートが公民館の講堂のような場所で開催される、東京のライブハウスにウルトラビデで活躍している私にはぜひ出演してもらい、地元の若者にハッパをかけてほしいと懇願された。一宿一飯の恩義がある私は断れず、当日演奏する高校生バンドにガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットを聞かせ、当日のリハでベースとドラムにこの曲のリフを延々と繰り返すよう指示した。ライブ本番、私はその音をバックに浜野のコピーのように借り物のギターを無茶苦茶に掻きむしり、山崎のコピーのようにステージで絶叫して転げ回った。もちろん会場の観客はドン引きだった

後日、そのZUKEの友人が語ったことには、あのライブの楽奏には観客は大変驚いたが感銘を受けた若者もおり、あの音楽はなんなのだと何度も聞かれた。あれはパンクだと答えたところ、地元のレコード屋にパンクのレコードはないかと買いに行った面々が何人もいた、というエピソードを聞かせてくれた。

ガセネタが私の非常階段での演奏に影響を与えたかどうかは、わからない。私にとっては同時期に演奏していたウルトラビデの頃のほうがガセネタを意識していたかもしれない。しかし非常階段でテレキャスターのギターを弾いていた時、渡邊浩一郎に「浜野が(テレキャスターを)弾いていたからだろう」と揶揄されたのを覚えている。彼も浜野のギターが大好きだったのだ。私も3月30日のガセネタ「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットテープは若い頃はずっと愛聴していた。この音よりももっとグシャグシャでもっと疾走感のある演奏を自分はするのだ、しなくてはいけないのだ、そう意識していたように思う

ガセネタの伝説は終わった。このCD-BOXがすべてだ。売り切れたのならそれでいい。買わなかった人間には結局は必要のないものだったのだ。ないなら欲しいか。ならばいつか手に入るだろう。でもガセネタはガセネタだ。本物であり、偽物なのだ。それでも聞きたければ聞けばよい。私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ

これは誉め言葉である。

(『nobody』36号 JOJO広重の文章から引用。同号は現在品切で入手は不可能だが、ガセネタの輪郭を知る上では必携の書であるといえる。ちなみにJOJO広重の回想によればガセネタ末期に浜野純の形相が著しく変化していたというが、大里俊晴の回想録『ガセネタの荒野』には特にそうした記述は見当たらない)

(“ガセネタ” たった一度のチラシ)

(たった4曲しかない“ガセネタ”のレパートリー

ロリコン漫画はニューウェーブだったという話

ロリコン漫画雑誌で、まず思い浮かぶのが『COMIC LO』というのは比較的若い世代だと思います。今回はそういう方にも歴史を学ぶ感覚で読んで頂ければと思います。

まずロリコン漫画雑誌の歴史は80年代の第1次ロリコンブームを嚆矢とし、この頃からアニメの女の子キャラに恋愛感情を抱く二次コンという存在が顕在化するようになります。

ただし、この時点で二次コンやロリコンはあくまで身内で使う冗談というか、決して生理的嫌悪感を煽る差別語ではなく「ネクラ」「スキゾ」「パラノ」「ビョーキ」「◯金/◯ビ」といった本来的にネガティブなイメージを軽薄なノリでポップに表現する80年代的文脈で使われる一種の流行語のようなものだったと思います。

また当時流行したロリコン的なものはリアルな大人の恋愛ないし三次元に対するカウンターというより、「ニューウェーブ」「パロディ」「ヘアヌードの代替物」といった側面が強く、作り手もそっちの方が面白いし売れるからと追従し、良い意味でも悪い意味でもロリコン一つで自由で新鮮な誌面を形作れたので、ロリコンは当時のサブカルニューウェーブの受け皿として欠かせない存在となったのです。

ただ『COMIC LO』のように作家も編集も読者も自称・全員ロリコンという「ロリコンの、ロリコンによる、ロリコンのための漫画雑誌」と明確に言えるような雑誌は当時殆どなく、あくまで当時のロリコン漫画は「少女漫画風のソフトな絵柄でエロ漫画を描くと面白い」という意外性を逆手に取ったニューウェーブ的なパロディ意識が原点です。

この面白がり方に近い例を挙げるのなら70年代に『東京25時』というタウン誌が「サザエさんのSMパロディ漫画」を載せたことでしょう。これは国民的漫画のキャラが不謹慎なことをするという意外性を逆手に取った面白がり方で、両者の端緒はそんなに大差はないものだと思います。

さて次回はわずか8号で終刊した幻のロリコン漫画雑誌『アリスくらぶ』の誌面紹介も交えて当時のロリコン雑誌の世界観を知ってもらおうと考えてます。