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『突然変異』青山正明インタビュー(81年秋・慶応義塾大学図書館/第23回三田祭 壁新聞)

377名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 22:52:44.33id:Yke+AjLZ>>378>>390

青山正明の大学時代のインタビューがあるけど、需要あるかな?
あるならここにボチボチ書き込んでいきます
内容は「突然変異」の幻の創刊号の話などです
378名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 11:00:11.90id:Fb6+DBZE
>>377
あるある
よろしく!
需要はありまぁす!
青山正明インタビュー
日時:1981年秋(『突然変異』は2号まで発刊されていた)
場所:慶応義塾大学図書館
経緯:この年の大学祭(第23回三田祭)に際し、室内バザーを企画した某学生団体が、壁のスペースを利用して模造紙に記事を書いて張り出すことにした。雑誌や出版に関心の高いその団体は、同じ慶大生で「突然変異」の中心人物の青山正明に注目してインタビューを申し込み、了承された。以下のインタビュー内容は、三田祭で展示された記事そのものである。質問者の発現は「ー」をつけて区別した。

ーはじめまして、ではまず創刊前後の様子などから・・・。

 ええ、まず今の編集メンバーのうち車田と西村が同窓で、それまで本なんか作った事の無かったこの2人が急に思い立って、昨年の春40万円で神楽坂に事務所を設けて広告打ったり事務所回ったりして人を集めて・・・
例えば創刊号の表紙描いたのが、アリス出版の『スノッブ』で「大島リンのネチネチパンティープレゼント」ってのをやってた人で、まあこの人はつい最近まで『HEAVEN』の佐内順一郎の恋人だった人で・・・そこらへん、マイナー系がらみの人がひっかかって・・・。
そこで去年の三田祭に創刊号を間に合わせるつもりだったのが、出来たものの内容がイマイチで、印刷所までは行ったんですけどやっぱりそこで直前にツブしちゃったんです。

 それでもっとスタッフを充実させなきゃってんで今里と、『メディアバルーン』からたどって僕が呼ばれて・・・で、今の、つまり創刊号のメンバーがそろったんです。それがちょうど去年の今頃です。

 ー幻の創刊号があるわけですか、なるほど。

 で、とにかく情報誌なんかは大手のがあるんで、無いものをやろうってことで、僕は前面にグロを出して作ろうと思ったんだけど、編集長が“ファッション誌がイイ”とか言い出してその辺で変わってしまって・・・とりあえず4人の持っている、溜まっているものを全部吐き出そうと。1号、2号ともみんな3日か4日で原稿書きあげたんです。

 ーウンコみたいですね。

いや本当に。雑誌のウンコというか・・・。とにかく面白ければなんでも載せるというー。
 ーそこらへんが極私的というか、アナクロ気味のウォーホルやニコにしても、“今なぜ〇〇なのか”と言う風なもっともらしさが全然ないんですね。
例えばフロイトヴィトゲンシュタインも出てきましたけど、突発的にラブコールしてそれっきりなんですね、あっけらかんと。ロリコンにしてもグロにしても読者の興味を引いて、お代を頂こうというサモしさが感じられない。“ワシらの狂いぶりを見よ!”ってな具合で。
―でも、あの調子である程度続けることによって市民権みたいなものを得る、そのぶん、武器となるイカガワシサのボルテージが減るというか、そこら辺はどう考えてます?

 同じ傾向でボルテージを上げようとすると、部数が増えて読者が増えてくと無理なんですね。ボルテージを上げつつ内容を変化させるしか無いですね。次の3号で多少内容が変わります。今の方向じゃこちらももたないんです。
やろうと思えば企画は色々あるんです。子供の歯を抜いてお守りとして売るとか、芸能人の食事を調べて同じものを食べて同じクソを作ってみるとか・・・。

―ますますウンコ雑誌になりますね。

 ・・・でもそんなのは本当にやりたい事じゃないし、実際売っていくには読者に何かを与えないと、それらしい正当な目的が無いとやっていけないんで。1号、2号は4人がやりたいことをやったらそれがとりあえずウケたという・・・
で、話題だけは撒いたんで、それに乗って4号あたりはプロのライターにも書いてもらって完全な商業誌に、『突然変異』の名前通りガラっと変わって、とにかく4号ぐらいから方向転換して読者にパワーを与える雑誌をやっていこうと。例えば『遊』ってのは、あれは学問のアクセサリーって言うか遊びで、あれが実際に血や肉になるようなーコリン・ウィルソンあたりの雰囲気のものを、と。
『HEAVEN』にしても、読んだその場で楽しいってだけの、澁澤龍彦あたりみたいに“浪費”なんですね。読んだあと虚しいだけです。あれじゃあツブれます。読んでる間だけ高揚するってのは。

あと、『突然変異』で気をつけてるのは、内容はグロいけど写真でグロいのは出さないってことで、『ヘッドロック』なんかは失敗ですね、アレ。あれじゃ売れない。『突然変異』は読者が半分女性なんで、スタッフ参加の申し込みなんか女性のほうが多いんですよ。女子高生から電話がかかってきて、「すぐ行くから」とか、そこらへんは約得ですよ。
 まあ1号2号ってのはコンセプトが無かったわけです。

―そこら辺がスリリングな魅力なんですけどね。

 ええ、あのままでもある程度の読者はつくだろうけど、何年もやってく自信が無いんで、ちゃんとしたものを、と。
でも4号にしても人にパワーをつけるものを半分、あと半分を変態チックなものとか、映画にしても音楽にしても、かなりねじくれたものを入れていこうと思うわけです。
まあ多少内容がまともになっても、不気味さとか毒とかは消さないつもりですが、その反面ウラ本っていうか、通信販売で、何もかもグチャグチャに盛り込んだ会員制の雑誌『エゴマニア』ってのを考えてるんですが、まあヤクザな商売でして。あと歌謡曲も取り上げたいんですけど、歌謡曲とプロレスは今マイナー雑誌の二本柱で、どこでもやってるんで・・・。

 ープロレスと言えば、この夏自費出版で『板坂剛の世界』を出した人に会ったんですけど、紀伊国屋書店に委託販売を断られたそうです。

いや実は、『突然変異』も断られたんですよ。あそこは雑誌仕入れの担当の人がエラく厳しい人で。あそこに置きゃ、絶対ハケると思うんですけどね。でっかい書店で平積みでボンと置かれると売れるんですね、『ポパイ』なんかの横で。
『ポパイ』とか『ぴあ』とか売れる雑誌、分かるんですよねそこらへん、やっぱし人にとって必要なものから出てくってのが。

―その“必要”っていう幻想をアオるのがまたうまいんですよね。

ええ、だから、もしああいった本が出てない状態だったら、僕もああいうのを作ってたと思います。
タイプミスや誤変換がチョコチョコありますね、申し訳ないです
でも、これがあの時代の青山正明の「肉声」です
あと少し残ってて、「いつもチンポ出して歩いてるような人にゃできないですよ」とか、そんな話です
広告取ってきたり書店回りしたり、まだミニコミの気分なんですね。本当は広告なしでやりたいんです、版元がついてくれさえすれば。早く雑誌コードも取りたいんですけど、気ぃつけないと、変な感じでエロ本なんかと置かれちゃうとね・・・。

―『ズームアップ』なんかが苦しんでたみたいに。

マイナーで売れてなきゃ何でもいいという人も一杯いるんですが、先の事を考えると、僕ももう3年生だし。多
少食えるようにはなりたいなあというのもあるし、マイナーを足場にして、というのもあります。

―ありますね、単なるマイナー中毒ってのが。僕も他人のことは言えませんが・・・。話を戻して、読者からの投書は多いですか?

 ええ、一杯、写真やらなんやら。おかしなのも一杯来ましたね。読者の中でスタッフ参加の名乗りをあげたりする人で、『突然変異』のメンバーは常に本の内容にあるようなことをしてるんじゃないかという意識で接してくる人とか。
実際、本を作って金を集めて書店回りをして印刷所と交渉して等々やるとなると、本当にいつもチンポ出して歩いてるような人にゃできないですよ。あくまでも僕の場合も、活字にした場合のキチガイという感じで。

読者にすごい人が一人いて、浪人ですけど、ものすごいヤバイことを書いてくるんで今までボツにしてたんですよ。でも3号はそれではページが無くなりまして、もう捕まってもいい、載せちゃおうというんで、ポンと・・・。「お年始ボランティア」っていうんですけど、楽しめますよ、今度の3号は。

―発行が遅れてるみたいですね。

今月の終わりごろになると思います。
―話が変わって、マスコミの反応ですが・・・。

色んなのが取り上げたんですが、一番うれしいのが『ヘイ!バディー』で高取英がエラくほめてくれたくれた
事で、ひどいのは朝日新聞で、椎名誠に「あんな本は本屋から撤去せよ」とかメチャクチャ書かれて、かえって宣伝になったぐらいです。

―『噂の真相』や『週刊宝石』とかはロリコンブームとからめて取り上げてたようですが。

平凡パンチ』や『スポニチ』もです。ロリコン雑誌を作るつもりは全然ないです。あのパートは僕が受け持って、で、僕は中学の頃からチャイルドポルノとかに凝ってて、たまたまその部分が時流に乗ってしまって。3号あたりでは削ります。

―あと、何か言いたいことがあれば。

 ウ~ン・・・腹立つのがフリーライター。あそこらへんは約束も守らないし、言った事をキチっと書いてくれないし、ケーハク極まりない。一番ひどいのが、『アングル』の野沢ってのが横須賀まで出てきて、わざわざ夜出向かされたら何のことは無い、エロ本が欲しいって言って、ありゃヒドいんで、次の号で名指しで叩いときます。

週刊宝石』の取材にしても、フリーの亀山ってのが来て、原稿は必ず内容確認させる、大学名は絶対に出さないって事だったのに・・・。

―出してましたね。

あれもひどい。

―こちらがマイナーで弱い立場だと思って。

そうそう、弱きをくじくってのは好きなんだけど、やられるとたまんないっていう・・・。とにかくフリーライターってのは質問もいい加減で何を聞いてるのか分かんない。だから『写楽』で取材があったんだけど、フリーみたいなんで拒否して。

―もったいないような気もしますが。

ああいうところへ行っても疲れるだけで・・・。

―はあ、じゃあこの辺でこのインタビューも切り上げましょうか。きょうはわざわざどうもありがとうございました。
以上、ちょうど40年前、21歳の若き青山正明へのインタビューでした
三田祭の展示では「大塚雅美氏へのインタビュー」という、本名での記事だったようです

ちなみに展示記事でのプロフィール欄には『法学部3年生 ジャーナリズム研究会に所属
“メディアバルーン” “カレン”の創刊に関わる ユーロロックプログレを好み、その手の雑誌の創刊も考えるが、“フールズメイト”に先を越される “ポップなオカルト誌”の構想アリ 愛読雑誌は“女性自身” “アサヒ芸能”と書かれています。
資料には1981年11月19日の日付があるけど、インタビューの日付なのか、展示の日付なのかは不明。

どちらにしても、40年前のちょうど今頃、慶応大学の三田キャンパスではこのインタビューが掲げられてたわけです

どこまでがホンネでどこまでがポーズなのか、青山氏自身が一番どうでもいいと思ってそうだけど、なんでもいいから吐き出したい衝動と、読者にとって一時の娯楽で終わる情報でなく、人間の在り方を変えるようなものを届けたいという真摯な理想のせめぎあいがうかがえるような、今となっては貴重な内容だと思います
ありがとう
これが21歳の頃なら、ずっと軸がブレない人だったんだろうな
だけどそのブレなさに疲れたようにも思える
388名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 00:31:48.27ID:3W/nSF0L
>>387
386で「なんでもいいから吐き出したい衝動」と「人間の在り方を変えるようなものを届けたいという真摯な理想」って、インタビューの
印象を書いたけど、もう一つ「“売れたい”っていう率直な気持ち」っていうのも感じるね。僕は逆に、この三つ巴のせめぎあいに
常に振り回され迷い続けた人だったのかな、とも思った。

自分の中のエネルギーを、ものを書くとか雑誌や本を作るって形で世に問うのも、一種の表現行為だと思うけど、それはこの三つ巴に
巻き込まれながらの綱渡りなんだろうね。“売れたい”っていう欲求も、単なる売名じゃなくて、より多くの人に訴え、より多くの人を動か
し、必要とされたいっていう、表現者の宿命なんだろうね。

資料的価値としては、「突然変異」に幻の創刊号があったことや、青山がスタートメンバーじゃなくって途中から呼ばれて参加した事、
最初からコンセプトがはっきりしてたんじゃなくて方向性が迷走してたことなんかは、わりと知られてなかったんじゃないだろうか。
ちなみに、このインタビューを企画した学生団体ってのは、大学祭で古本バザーを開いてた文学部の連中らしい。
>>383
ありがとうございます
ゆっくり読もうと思います
>>377
需要ありすぎです 
貴重品うれしい... 時間をかけながら大切に読みます
391名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 22:11:09.71ID:9aFR3I1t
謎の眼病を患ってうつになったのか惜しい人を亡くした
人並外れた知性だった。物静かなタイプだった。しかしその知性と同様に巨大な好奇心を原動力に、
自分を実験台にする事を厭わず、行動に際しては、世間の基準や常識に(法律にさえ)縛られない人だった。
“同類”はいなかったので、瓶に詰めた手紙のように、それをエンターテイメントに加工して発信し、受信した

誰かの“何か”に届くことを願った。

鹿威しに少しずつ水がたまる。最後の一滴が落ちた時、一気に均衡が破れてすべての水がぶちまけられる。
どの一滴が本当の「原因」だったのか誰にも分からない。結論付けられることを青山は嫌うだろう。
多分青山は自分が「謎」であり続けることを望むだろう。青山にとって、自分や世界がずっとそうであったように。
青山正明BOTツイッターは名言が多くておすすめ
ファンにも恵まれている。
ここに書いてる人のレベルが高い 
青山正明の文章は読めない漢字が多いところが好きだ
395名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 23:15:40.63ID:0KwHDbbG
21歳の、グロネタの扱いに迷っている青山、ロリコンブームを警戒している青山、「僕ももう3年だから」と“職”の心配を
している青山・・・これから世に出ようという、大学時代のインタビューを読んだ感想を、20年後の青山にぜひ聞きたかったよ

没後20年経ってもスレが立ち続けてるんだから、確かに青山は読者に「血や肉」を与えてくれたんだろう
それは体を張った青山自身の血や肉に違いない

でも青山、読んでる間だけの娯楽でいいじゃないか、浪費でいいじゃないか、『HEAVEN』の高杉弾山崎春美みたいにシレっと
長生きした青山を見たかったよ

404↓

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ここまでのあらまし

 

オリジナルの記事*1は、はてな的にダメだったらしく削除されました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。

(世界中のWebサイトを渡り歩いても、こうなる運命だろう)

 

▼修正版はこちらをご覧ください

 

 

*1:日本初の男性向けエロ同人誌『シベール』全書評(抄録) - Underground Magazine Archives 2021年12月4日公開

日本初の男性向け同人誌『シベール』を考察する

1979年*1、第11回コミックマーケット(C11)にて、創作系ロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ内シベール編集部)創刊号が頒布された。

同誌は、男性向けエロ同人誌の記念すべき第1号として知られており、終刊直後から今日に至るまで、とにかく方々で神話的に語り継がれている。が、今となっては『シベール』の何が凄いのか、よく分からない人も多いだろう。

簡潔に言うと『シベール』は、手塚の系譜を受け継いだ伝統的・記号的な絵柄で、はじめて性描写を展開したエロマンガ雑誌である。それまでのエロマンガはリアルタッチの三流劇画しかなく、おたく的な青少年たちは、アニメ調のシンプルなラインで描かれた美少女のエロマンガが存在しないことに違和感を覚え始めていた。

そこで、時代の潮流として「かわいいエロ」が求められた。そんな中で出現したのが、同人誌『シベール』である*2

発起人の沖由佳雄*3は、今で言うアニオタ&ミリオタで、同じような連中が集まる漫画喫茶「まんが画廊」に入り浸るようになる。

まんが画廊の客は、アニメ好きのロリコン青年が多く、そこから蛭児神建孤ノ間和歩計奈恵豊島ゆーさく三鷹公一、早坂未紀、森野うさぎが参画した*4

以上が『シベール』発刊までのあらましである。

しかし、ネット時代になってから『シベール』の存在は忘れ去られた*5

萌え絵の起源をめぐるツイッターの騒々しい議論でも、同誌のバックグラウンドを説明できる人は皆無である*6。だが萌え絵の発信基地に「無気力プロ」と「まんが画廊」と「コミックマーケット」のトライアングルがあったのは否定しようのない事実である

このエントリーは、言及される機会がきわめて乏しい同人誌『シベール』にまつわる全書評を渉猟し、その抄録をまとめたものである*7。なお、内容についての考察は、批評同人誌『ロリコンブームの跡を追って増補改訂版』が詳しい。

 

原田央男(批評集団「迷宮」同人=コミックマーケット準備会初代代表)

第11回コミックマーケットは、約220の参加サークルと約3000人の一般参加者を迎えて盛況の極み。アニメサークルの増加は止まらず、もはや上映会などほかのイベントをやる余裕も、時間的にも空間的にもない有り様だった。/そんなこととは無関係に、増え続けるサークルの生み出す同人誌のなかから『シベール』のような、いわゆるロリコンまんが(少女を性愛対象としたまんが作品)誌が登場したのがこの第11回からである。『COM』の休刊からすでに7年を経て、まんがファンは自己表現に代わる新たなまんがの魅力を探し求めていた。そこに現れたロリコンまんがは「まんがならではの」純粋な快楽追求装置として強く男性読者に働きかけ、やがて来る80年代前半にブームを形成。それはロリコンがまんがである限りはれっきとした一つのジャンルであったが、後に不幸な事件と重ね合わせられることによって「表現是か非か」の問題へと発展していく。ここで言及すべきことではないがまんがの80年代の予兆は、すでにこの時から表れていたことになるわけだ*8

 

アニメック編集部

コミケットに異変が起きている。例年なら人気アニメのファンジンに集中する客足が、昨年あたりから別方向に向きはじめているのだ。すなわち……ロリコン・ファンジンの台頭。1980年12月に川崎市民プラザで開かれたコミケット16では、開場前からロリコン・ファンジンに長蛇の例ができ、会誌も早々に売り切れるというケースか続出。そのパワーの前にはさすがの『ガンダム』も顔色なしといった風情であった。さて、このブームの頂点に立っているのが、もはや伝説化しつつある同人誌『シベール』だ。少女愛好家の間に「シベールする」という新語まで流行させた、ロリータ同人誌の草分け的存在であり、その正体はいまだ明らかにされていないのだが……考えようによっては、シベールは非常に不本意な受け入れかたをされているようなのである。 昨年、一部商業誌で紹介されたことによって、何やらいかがわしい趣味を持った集団と勘違いされてしまった。シベールはもともと少女マンガを目指して組織された集団だ。メンバーもマンガ家のアシスタントやアニメーターが多く、画力や構成力もしっかりしている。メンバーの中のエース級、沖由佳雄孤ノ間和歩氏はプロデビューを目標に修業中。本当はとてもナイーブな集団なのです。最近はファンの方がエスカレートして、×××写真までが贈られてくるとか。感ちがいしないでください。シベールは美を求めるファンジンなのである*9

 

吾妻ひでお(漫画家)

劇画のエロは全然エロくないと俺は思ったんだけど、一般の人も実はそう思ってたらしい。だって『シベール』を出したら、そのあとみんなそういう雑誌になっていった(笑)。じゃあ、みんなそう思ってたんだって。みんな手塚さん石ノ森さんの絵や少女マンガの絵でエロを見たいんだって。『シベール』の直前ごろに少女マンガの模写をして、エロの落書きみたいなのを描いてたんです。特定の誰の絵かは思い出せないけど、少女マンガは顔だけ模写して、体は手塚・石ノ森系なんですよ。それを組み合わせると、すごいエロチックになるという。俺たち、そういうのが好きなのは少数なのかなという疑問があって。だから、自分らが描きたいのもあるけれど、人の描いたものを読んでみたいというのが根本にあった。僕はそのきっかけをちょっと。みんなの後押しをしたぐらいの感じですかね。もしやらなかったら、出るのは少し遅れたと思う。自分がやらなくても、いつかどこかから出てきたんじゃないかと。歴史の流れには必然性があるらしいから。でも、こんなにメジャーになるとは思わなかった。何人か増えて、描いてくれたら嬉しいなぐらいの感じで。そしたらあっという間に類似本がごちゃごちゃ出始めたんで。こんなに需要があったのかっていう*10

 

沖由佳雄(漫画家/シベール編集長)

当時は三流劇画ブームで、エロといえば人妻で、せいぜい女子高生。そういうのも別にいいんですけど、われわれが欲しいものとは違うという、物足りなさを感じていました。もう一つあったのが、女性サークルを中心とした耽美ブーム。これが許されるんだったら、俺たちもやりたいことをやっていいんじゃないかという。誰もやらないからとりあえず始めたんですが、自分たちで描くというよりは、上手い人が描いたのが見たい、というのが一番の目的でした。われわれがやらなければ、きっと誰か他の人がやったと思います。わりと皮膚感覚的に、そういう潜在的な需要はあるなとは思いました。まんが画廊の落書き帳を見たら、その手の絵が上手い人いっぱいいましたから。その落書き帳を見たくて、あるいはそこに描きたくて、行っていたところはありますね*11

 

蛭児神建(作家・編集者)

漫画画廊は、西武池袋線江古田駅から徒歩数分の、ビルの地下に在った小さな喫茶店である。常にアニメや特撮ソングが鳴り響くその店は、活気と独特のオーラに満ちていた。同人誌が病院の待合い室の雑誌のように無造作に置かれ、自由に読めるようになっていた。プロの漫画家やプロを目指す者、そしてただ純粋に漫画やアニメや特撮が好きな者が集い、対等に語り合う、そんな店だった。

私は、生まれて初めて、自分がいるべき場所、いても良い場所を得たと思ったのだ。学校をさぼり、週に何日も漫画画廊に通った。そして私は最初は恐る恐る、次第に強烈に自己主張を始めた。その店の「落書き帳」……ほとんどプロ級もしくは本当のプロの絵も描かれたノートに恐れも知らず、「私はロリコンです」と綴り始めたのだ。それで疎外される事は無かった*12。とゆうか、そのケの有る奴はけっこういたんだな。後に『シベール』の中核メンバーになる孤ノ間和歩も、既に私より古い常連だった*13

私が一人で作った初のロリコン文芸誌『愛栗鼠』*14は数十部のコピー誌だが結構売れた。やはり潜在的需要が有ったのだろう。そして、話はまた漫画画廊に戻る。あの店は、次第にロリコンの溜まり場の様になっていった。私が求心力になったのか、誰かが恥知らずにも最初にカミングアウトするのを、みんなが待っていただけなのかもしれない。男のアニメファンなど、八割がたロリのケが有るに決まっているのだ*15

蛭児神建『出家日記』あとがき漫画より)

初対面の沖由佳雄氏に手渡された本を見て、私の全身の血液は一瞬で頭に昇った。それは二つ折りのコピー紙をホッチキスでとめた、ほんの数ページの品である。しかしその内容は、彼の可愛い絵の少女が靴下だけの全裸になり、ワレメがくっきりと描かれた、当時としては衝撃的なものであった。私は頭がクラクラした。アニメ的美少女をエロの対象とする、その偉大なる先駆けは沖由佳雄氏である。全く、世界観が引っ繰り返るような思いをした。

私の、エロの血は燃え上がった。私は沖由佳雄氏に『シベール』の計画を教えられ、吾妻ひでお先生に紹介された。全く、当時の私としては夢のような出来事である。あの『不条理日記』や『シャン・キャット』をお描きになった吾妻先生である。偉大な、尊敬する漫画家であった。そんな先生の「仲間」になれとの誘いなのである。ただ自分はロリコンであると主張しているだけの、この無能な私にである。信じろと言われる方が無理である。本気で、夢かと思った。そんな気宇壮大な悪のプロジェクトに誘われるなど、悪の秘密結社の一員に加入した気分であった。ワクワクドキドキものの経験である。

私にとっての吾妻先生の印象は、とにかく大きく穏やかで優しい人であった。沖氏が長年アシスタントをしていて、一度も本気で怒っているのを見たことが無いと言っていた。だから、逆に壊れたんだな。/ともかく漫画画廊が存在しなければ、蛭児神建も『シベール』も無く、後のロリコン同人誌ブームも起こらなかったかもしれない。あんな小さな店に、あれだけの偉大な才能が集結したのは神秘というか、神の悪戯とさえ感じる。西洋の芸術史などを調べていると、複数の天才が同じ時代に誕生して寄り集い花開くという、神の意志としか思えない瞬間が幾度も起こるが、その小規模な形を私は目にしたのだ。

もちろん、漫画画廊にも健全な常連もいた。そんな一人に、ある日、吾妻先生の色紙を貰った。『少年チャンピオン』が読者プレゼント用に作った、印刷のカラー色紙である。奥にしまいこんで今は出てこないが、確か『ネムタくん』か『やどりぎくん』だったと思う。「吾妻ひでおのファンだと知られると、ロリコンだと思われるから、もういらない」と怒り混じりで言われた。そんな真面目なファンを置いて、先生は遠く危ない世界に突き進んでしまったのだなあ*16

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やおいがあったからこそ『シベール』ができたということもあるわけです。ロリコン同人誌を作ること自体、勇気が要ることだったんですよ。やおいがなければ、それをやる勇気はなかったかもしれません。やはり、いくら迫害されてもしようがないという意識があったわけです*17

コミックマーケットに出没した蛭児神建のイメージ)

 

米沢嘉博(批評集団「迷宮」同人=コミックマーケット準備会2代目代表)

79年4月『シベール』は、文字もない真黒な表紙のコピー紙としてコミケットに登場する。モノリスにも似たその形態は、まだ一般的ではなかった。ビニール袋に入れられたそれは、少女漫画が主流だった同人誌即売会の中では異端であり、薄気味悪かった。が、そこには男達の手による、アニメのパロディ、美少女キャラクター遊び、そしてエロチックな輝きが納められていたのだ。同人達の毎回変化するペンネーム、美少女(美幼女)を登場させるという一点でつながる作品、少年漫画やアニメの線に似たエロチックなペンタッチ。『シベール』は漫画同人誌界にマニアックな一つの世界を創りあげた。しかもその力場が多くの男の漫画ファンを魅きつけたのだ。コミケットが回を重ねるごとに『シベール』は部数を増やし、ついには小パニックを起こすまでの人気をかく得していった。500部はわずか1時間で売り切れ、多くのシベシンパが生まれた。そして、そこから多くのロリコン系マンガ同人誌が派生していった。現在あるそれらの同人誌はすべて何らかの形で『シベール』の影響下にあるといえるだろう。──正しく、すべては『シベール』から始まったのである。今や神話となった『シベール』の力が何であったかという考察はおくことにしても、ロリコン同人誌紹介第1回目はこういった具合になることはまちがいあるまい。『シベール』は休刊した。しかし、シベはなくとも子は育つのである*18

 

志水一夫(作家)

「シベの発現」は、ゆがんだ法律を主な原因とした俗世間のロリコン写真集ブームなどからも力を得て、本来それとは一線を画した存在であったはずの『クラリス・マガジン』などをも巻きこみ、一大ロリコン誌ブームの渦をひき起こした*19。ほど遠からぬ内に「かつてロリコン誌ブームというのがあったなァ」と言われる日が来るに違いない。しかし、「ロリコン誌ブーム」は確実にわれわれの中に何かを残して行きつつある。われわれは「ロリコン誌ブーム」というファンダムの変革を通りすぎることによって、今まさに何かを得ようとし、また失なおうとしているのである。ファンダムにおけるロリコン誌ブームは、ある種の「成長の儀式」なのではなかろうか。『シベ』は、正にマンガ界のモノリスだったのかも知れない*20

 

山本直樹(漫画家)

僕、並んでたんですよ、あの列に。コミケで本を買う行列ができたのは『シベール』の最終号が初めてなんじゃないでしょうか。会場への入場の行列は前からあったけど、会場の中で本を買うための行列は『シベール』の最終号のときが初めてだと思います。前の号を川崎市民プラザで見つけて。なんだこれは、俺の世界がなんでここにあるんだ、みたいな(笑)。見事にはまりました。あそこからロリコン美少女のビッグバンが。その後どーっと。その世界を作ったんですよ。それまではエロ本の同人誌は、エロまでいかないかな、女性向けの同人誌がやっぱメインで「耽美」って言っていたね、そのころ。で、『シベール』でしょ。もう宇宙創造ですよ(笑)*21

最後に暴論を吐きます。現在の日本のマンガの半分は手塚治虫が作ったものです。あとの半分はつげ義春が作ったものです。そのどちらか一人が欠けても現在のマンガの豊穣はなかったと思うのです。で、その二つを一番最初に融合させたのが吾妻ひでおだったと思うのです*22。だから吾妻ひでおマンガは異端ではなく現在につながる正統なんです。みんな忘れてるかもしれないけど*23

 

計奈恵(漫画家)

私見ですけど『シベール』爆誕以前のエロ漫画って劇画だったんですよね。吾妻先生が漫画アニメ風味のロリっ子エロを描いたら、その後のエロ漫画の画風も現状の萌え絵に進化するキッカケに成ったと思うのですよ*24。私的に「吾妻ひでお先生が居なかった世界」を想像するとエロ漫画は劇画時代が続いてSFやファンタジー作品のデビューが困難な暗黒時代が続いていたと思いますよ。特に「アニメ風美少女」画風の出現のファーストインパクト。ついでに言うと女性の(美少女系)作家の登場も遅かったと思います*25

 

遠藤諭(東京おとなクラブ)

少年マンガで女の子がカワイクカワイク描かれなければいけなくなったのは一体いつの頃からだったろう。この十数年間のあいだに少年マンガの中の少女の質は、飛躍的に向上したといえる。そして、この女の子を可愛く描くというスタイルが、更にワンステップ進み、少女を美しく描くということ、より少女的であるということを中心にすえたのが、吾妻マンガの到達した領域だといえる。吾妻ひでおは、それまでの数十年間に、幾百の少女マンガ家がそうしようとして試みてきたことを、たったこの数年の間に、ひとりでとびこえてしまったようなところがある。いまさらいうまでもなく、吾妻ひでおこそ、もっともエキセントリックに少女を描き続けている作家なのである*26

 

川本耕次(批評集団「迷宮」同人/少女アリス編集長/作家・編集者)

(今でもマニアから珠玉の名雑誌と評価の高い自販機本『少女アリス』)

いつも、前人未到の世界を一人で切り拓き、それでもそこに安住しないで新世界へと向けて旅立つ人で、決して「売れっ子」ではなかったが、天才でした*27

失踪日記』には「『Peke』で『どーでもいんなーすぺーす』連載。SFパロディを堂々とやる」とあるが、その『Peke』というのが、おいらが編集長として立ち上げた漫画誌で、当時『宇宙戦艦ヤマト』で当てた版元(みのり書房)がドサクサに紛れてマニアっぽい漫画誌を作ろうというので「この人、きっとSF好きだよなぁ」と、おいらが発注したのだ。なんで「SFパロディを堂々とやる」と吾妻せんせが書いているのかというと、おいらがそう注文したからです。この後、吾妻ひでおはSF系のカルト作家として売れるんだが、そんなせんせに美少女物の「純文学シリーズ」描かせて再度、途を誤らせたのもおいらです*28

まぁ、おいらの編集者時代の功績って、それくらいしかないんだが。「転機になる作品を描く時に、立ち会ってくれる人」というのはまた過大な褒め言葉で恐縮なんだが、跳ぼうか、留まろうか、迷っている崖っぷちの表現者の、背中を蹴飛ばすくらいの役割は果たしたかも知れない。おいらが40年前に考えた路線が、今でも通用する。編集者冥利に尽きる*29

 

高月靖(作家)

ロリコンマンガ誕生に貢献したのが吾妻ひでおだ。/1979年、アマチュア同人活動に参加して初のロリコンマンガ同人誌『シベール』を制作。1980年には自動販売機で売られたエロ本=自販機本『劇画アリス』『少女アリス』でエロチックなロリコンマンガの連載を始めるなど、マニアックな活動を続けた。手塚治虫の流れを汲む絵柄はシンプルでかわいらしく、少女マンガとも馴染みやすい。そうしたタッチでアニメ、SFの文脈も押さえながら美少女をエロチックに描く世界は、後のロリコンマンガの原型になったといわれる。同じ幼い少女を描いた成人マンガでも、エロ劇画系とアニメ美少女系は市場が異なっていた。オタクの世界で受け入れられたのは、もちろんアニメ美少女系のほうだ。エロ劇画系でも評論家などに支持される作家は少なくない。だが市場自体はあくまで実写ポルノの安価な代用だ。それに対してアニメ美少女系のロリコンマンガは二次元である点に存在意義があり、さらに非アダルト系のタッチが求められた。吾妻ひでお沖由佳雄千之ナイフ、早坂未紀といった当初の人気作家たちは、低学年向けのアニメ、少年マンガ、少女マンガのようにかわいらしくデフォルメされたタッチだ*30

 

斎藤環精神科医

当時、日本のロリコン文化に革命をもたらしたのが、マンガ家の吾妻ひでおサンだ。/吾妻サンたちのグループが1979年のコミケで販売したロリコン同人誌『シベール』こそが、その記念すべき第一歩だった。その中身たるやなんと、美少女キャラクターを素材としたポルノだったんだけどね。え? 同人誌なんだから当たり前だって? いやだから、その「当たり前」の本家本元が吾妻サンたちなんだよ! それまでのポルノコミックっていうのは、だいたい劇画調のリアリズム路線だったんだけど、吾妻サンは手塚治虫とかが作り上げた「かわいい」絵柄でセックスを描いた。これがおたくの皆さんのツボにダイナマイトヒットした、ってわけですね。ただしササキバラ・ゴウサンによれば、おたくにロリコンが多かったからそういう流れになったんじゃないらしい。むしろ、はじめはパロディやユーモアの表現だったんだよね。「やおい」モノにも似た経緯があって、ちょっとシャレで始めてみたら、マジにハマる人続出、みたいな。ともあれ、この手法のメリットは、もともとデフォルメされた絵柄だから少女をいくらでも変形できるってことにもあった。事実、吾妻サンは、『メチル・メタフィジーク』(奇想天外社、1980年)をはじめ、一貫して少女のメタモルフォーゼを描き続けていたしね。だから少女の変形は、ロリコンの歴史においては超重要な視点なんだ*31

 

吉田正高(歴史家)

70年代のコミックマーケットをはじめとした即売会の運営と活動は、女性ファン層が主導していたと総括できる。80年代初頭になっても、この状況に大きな変化はなかった。70年代〜80年代初頭のコミックマーケット参加者の男女比をみると、圧倒的に女性の参加率が高かったことがわかる。/そのような状況の中、男性ファンのコミックマーケットへの参入が目立つようになるキッカケの一つが、いわゆる「美少女同人誌」(当時の言葉でいえば「ロリコン同人誌」)の登場であった。その嚆矢とされる『シベール』の発行は1979年である。文字もない黒い表紙を持ったこの漫画同人誌を作った作家たちは、いくつかのサークルに分派しながら、1980年代に顕在化する数多の美少女同人誌の基盤を築いていった。現在の基準でいえば、創作少女系にも近いといえるこれら初期美少女同人誌の特徴は、後年男性向け同人誌の中心テーマとなるアニメーションのパロディ(アニパロ)よりも、むしろ人形愛、幼児嗜好、異生物愛、同性愛などを観念的、哲学的に表現する雰囲気を持っている点にあり、そこに漂う文学性は、『ガロ』『COM』などの60年代末〜70年代の実験的な商業漫画雑誌に、女性がこれまで作り上げてきた同人誌、ファンジンの要素を織り交ぜた結果の産物であったといえるだろう*32

 

大塚英志(作家)

「エロ劇画」から「ロリコンまんが」における性的コミック市場での商品の交代劇の背後にあるのは「肉」を欠いた手塚治虫的なエロティシズムの発見であった*33

吾妻ひでおが手塚的記号絵によって「性」を描き、ぼくやぼくの同年代の〈おたく〉たちがそれに欲情し得たのは、そもそも手塚治虫の絵が身体性を持たない記号絵として出発しながら、そこに「死にゆく身体」「成熟する身体」を見出したからこそである。記号的でありながら生身の身体性を付与された手塚的記号絵が戦後まんが史に存在したからこそ〈おたく表現〉が二次元的記号絵の少女の向こう側に性的な身体を発見し得たわけだ*34

それは隠蔽されたエロティシズムだったが、この時期、それは性的商品として再発見されたのである。符牒にすぎない、と手塚が自嘲した「記号絵」による性表現、それが、いわゆる「ロリコンまんが」の本質であり、新しいエロティシズムの形であった。だからこそ、ぼくはぼくの雑誌から、少女ヌードも含めたヌードグラビアも、そして「写実」という思想によって描かれる劇画も、ともに排す必要があったのである*35

このように吾妻ひでおは、80年代以降に到来する「ロリコンまんが」や「同人誌の時代」「不条理まんが」といった新しい潮流を、短期間の内にあらかじめ生きてしまったまんが家であった。もし吾妻ひでおが『少年チャンピオン』から自販機本に越境せず、そこで一連のロリコンまんがを描かなければ、彼のとりまきだった新人まんが家たちもまた登場せず、そして彼らを中心にしたぼくの雑誌も存在し得ず、そこで中森明夫が〈おたく〉という呼称を使うこともなかったとさえいえる。それは極端にしても吾妻ひでおがいなければ今日のおたく表現は随分と異なる風景となっていたはずだ*36

 

いしかわじゅん(漫画家)

吾妻ひでおのギャグ漫画は、読むのが苦しい。もちろん楽しいし、面白いし、しかし苦しい。それは彼自身の苦しさと同質のものだろう。吾妻ひでおの描くのは、いわゆるギャグ漫画だけではない。〈純文学シリーズ〉などという名前をつけられた、一連の不思議な味わいの作品群がある。それを創り出すことも、吾妻にとってはギャグと同じだったろう。彼にとって、ものを創ることは、既に快感という感覚を越えていただろう。神経を剝き出しにしたままに寒風に向うような、自己破戒の衝動にも似たものだったろう。どれだけ自分を傷つけ、壊してゆけるかを、彼が自分自身で試していたように、彼の描いたものを読みながら、ぼくはずっと感じていた。〈純文学シリーズ〉になるか〈ギャグ漫画〉になるかは、その方向と結果の差にすぎない。/彼は、アミダクジを引きながら、どんどん狭い小路に入っていってしまっていたのだ。その空間の狭さが、彼にとっての安らぎでもあったのだろうし、ますます暗く狭い場所に彼を追いこむ原因ともなっていたのだろう。/吾妻ひでおは、まだ本格的には仕事を再開していない。しかし、どこまでいこうと、ゆき止まりというものは、実は存在しない。どんな狭く暗い場所にゆき着こうと、目をこらせばその先があるのだ。彼はまた出てくるだろう。どこからかやってくるだろう。そして、ぼくらの視神経を、心の奥底を、突き刺し掻き回す作品をまた創り出してくれるに違いない。ぼくは、確信している*37

 

飯田耕一郎(漫画家)

吾妻さんが『劇画アリス』という三流エロ劇画誌に連載するという話を聞いたときには、ボクはホントに驚いたものだった。なんたって『劇画アリス』は三流エロ劇画誌の上に自動販売機専門の雑誌だったのだ。そういう雑誌に吾妻さんが描くのである。考えてみれば、この頃の吾妻さんはホントにすごくて、大手の雑誌で仕事をしながら、このようにマイナーの雑誌に執筆しながら、更に同人誌にも手を出すという幅の広さは、ギャグからSFからエロそして私小説、いや私マンガで純文学しながら、ひゅんひゅんと飛び回っていたのだ*38

 

森川嘉一郎明治大学准教授)

吾妻ひでおは、いくつかのマンガ評論の中で、まさにおたく文化の祖のように位置づけられてきた。そのような文脈でしばしばいわれるのは、吾妻が劇画調でなく、手塚治虫作品のようなマンガ的でかわいい絵柄で性描写を展開した、最初の漫画家だったということである。

吾妻ひでおがそうした潮流の起点になったことには、もとより、一般少年誌で連載し、かつSFのマニア層にも高い人気を博していたプロ作家が、同人界に降臨したことによる求心力が大きく働いていたとみることができる。しかし、そこで見過ごすべきでないのは、濃いアニメファンの巣窟だったまんが画廊から沖由佳雄がスカウトしてくる描き手たちに寄せた、吾妻ひでおのシンパシー、あるいは親愛の情*39である。

『シベール』に端を発するエロマンガ、さらには「萌え」につながる美少女表現のスタイルが、単に三流劇画ブームに対する不満感を超えて30年にわたって継続的に拡大し続ける潮流となったのは、「おたく」という自称を獲得するようになるアイデンティティと、その表現のスタイルとが、深く結びついたことによるのではないか。いわばそれは、世代を超えて共有されるようになる趣味的・人格的マイノリティーの自意識と、表現のスタイルとの結合である。

『シベール』というロリコン同人誌の主宰を通して吾妻ひでおが果たしたのは、いわばその仲人ではなかったか。まんが画廊が社交場となり、沖由佳雄が見合いを手配し、吾妻ひでおが仲人となり、コミックマーケットを式場兼披露宴会場として行われた結婚。その交合から、いかに多くのかわいい美少女たちが生まれたことか*40

 

 

*1:この年、ガンダムカリ城も出現した。萌え文化やアニメブームの、事実上の元年は1979年である。

*2:表紙画は、次の同人メンバーが匿名で寄稿している。

  • 吾妻ひでお(0号、ホワイトシベール)
  • 沖由佳雄(1号、4号)
  • 孤ノ間和歩(2号、3号)
  • 早坂未紀(5号)
  • 三鷹公一(6号)
  • 川猫めぐみ(7号)
  • 豊島U作(シベール補遺編/アニベール)

    *3:吾妻ひでおのアシスタント

    *4:彼らは吾妻ひでおの漫画『ななこSOS』『スクラップ学園』にサブキャラクターとして客演している。

    *5:私が産まれる遥か前の話ではあるが、シベールの歴史が継承されておらず、ここから発生した男性向けエロ「漫画」の存在が自明のものとされ、この発明がなかったことにされるのが歯痒かった。エロパロからパロディが抜け──エロ表現の発明の歴史とムーブメント、その一端を知れる素晴らしいエントリだ。

    ロリコンブーム」なんてあったなと振り返られることはなく、その発端が忘れられるほど定番化してしまった。そしてこの時代の「ロリコン」の言葉の扱い方があまりに無邪気だと驚く人もいると思う、驚いて当然だ、という視点も我々オタクは忘れてはならない。— 西田藍 (@iCharlotteblue) 

    *6:何度か 呟いてする言葉ですけどロリ漫画世紀では
    『つくづく 私達{シベール}ってミッシングリング
    (;^^;)』と言う実感W — 計奈 恵 (@kazunakei) 

    萌え絵の起源の話、よくツイートて流れてきたけど、若い人たちなのか、ほとんどあじまセンセの話する人見なかったので、シベールの話題、ちょっとスッとしたなあ…😅— B.L (@blqueen3)

    あれだけ語り草になるものですら、その背景が説明できないのでは議論が混迷するのは当然。— castroganga (@castroganga)

    昨今の萌え絵の話の大前提としてこのあたりの内容が前提とされていないのは問題だと思う。古い人には当たり前の知識として入っていても現在流通しているものと繋がる人はあまりいないという印象。コミケについても。 — notio (@nochi2009) 

    オタク第二世代である私には、オタク第一世代が持つシベールへの憧憬が分からなかったのだが、この評論によって分かった。凄いなこれは。— 中津宗一郎 (@nakatsu_s)

    シベールは、アングラなサブカルチャーの最右翼を一時的に担って、やがて有名になって、それが故に純粋な歪みが、別の歪みに飲み込まれて、更に実物を知らぬものから、一方的な評価・批判を享受するという、典型的な不遇を被るという文物によくある経緯を辿った。 — 沖中雅 (@SKEWBk4PCapsV6B) 

    *7:元はWikipediaシベール (同人誌)』に記載していたのだが、引用文の間投詞を取っ払ってるのがダメとか、重箱のスミをつつく指摘が入り、全削除されてしまった。よって同エントリーにそのまま転載している。

    *8:霜月たかなかコミックマーケット創世記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, pp.178-179 / Kindle版, 位置No.全2936中 2365-2382 / 80-81%。ISBN 978-4022732507。

    *9:ラポート『アニメック』17号(1981年4月)特集「“ろ”はロリータの“ろ”」P44

    *10:吾妻ひでお吾妻ひでお 2万5千字 ロングインタビュー 現代日本的美意識「かわいいエロ」の創造者」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』 pp. 30–34.

    *11:森川嘉一郎吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』181 - 182頁。

    *12:

    私的に『ロリコン』界隈に参戦したのは
    同人誌シベールからなのですけど 当時
    「まんが画廊」と言う溜り場で ロリコン
    パロって「俺はオバコン」「俺はベビコン」
    等々 ギャグや皮肉で「~コン」と言う呼称が
    飛び交って居て もう誰のドレが元祖なのやらな
    状況でした(;^^A)

    — 計奈 恵 (@kazunakei) 2021年3月26日

    *13:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「私はロリコンです」角川書店 2005年11月 pp.36-39

    *14:

    f:id:kougasetumei:20200125131117p:plain

    C10(1978年冬のコミケ)で頒布された日本初のロリコン同人誌『愛栗鼠』(1978年12月創刊号のみ)。アリスマニア集団・キャロルハウス出版部(蛭児神建の個人サークル)発行。数十部程度のコピー誌(蛭児神すら現物を所持していない)かつ性的要素がない文芸誌のためか『シベール』ほどの知名度はない。その後、吾妻ひでおらと協賛関係を結び『シベール』の作家陣も参加した同誌増刊号『ロリータ』(1979年4月発行、同年7月の2号で休刊)が創刊される。

    f:id:kougasetumei:20200309175504p:plain

    『愛栗鼠』臨時増刊号として蛭児神建がC11(1979年春のコミケ)で頒布したロリコン同人誌『ロリータ』。同年7月の2号で休刊。アリスマニア集団・キャロルハウス出版部発行。『シベール』と協賛関係を結んだ唯一の同人誌で、吾妻ひでお沖由佳雄孤ノ間和歩も原稿やイラストを寄稿した。

    *15:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「初のロリコン文芸誌『愛栗鼠』」角川書店 2005年11月 pp.39-45

    *16:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「吾妻ひでおとの出会い」角川書店 2005年11月 pp.46-52

    *17:森川嘉一郎吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』181 - 182頁。

    *18:阿島俊ロリコン同人誌ピックアップ 第1回 シベール神話の誕生」『レモンピープル』1982年2月号(創刊号)あまとりあ社(2004年9月に久保書店から発行された阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』23頁に再録)

    *19:シベールする…シベの発現…当時としても画期的存在だったんだなぁ…。日本の表現界はこうした人たちが開拓してきたんだなぁと。そうして常に外圧と戦ってきたんだ。— シロタツ (@SHIROTATSU3231)

    *20:原丸太「ロリコンファンジンとは何か──その過去・現在・未来 ロリコン同人誌界分布図の試み」『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」ラポート pp.92-98

    *21:吾妻ひでお山本直樹「リスペクト対談:吾妻ひでお×山本直樹」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』141頁。

    *22:吾妻ひでおは、COM的な要素とガロ的な要素を両方とも兼ね備えている、稀有の存在。/常に、自己否定から入ってくる。少女漫画や少年漫画で地歩を築いていたという枠を、自ら壊す。SFで評価され、神様扱いされるようになると、居心地悪くなるのか、またそれを破壊して、そこから出ていこうとする。/吾妻ひでおの革命は、手塚系の絵でエロを描いたところ。絵柄は手塚、中味はつげ。吾妻氏が偉いのは、採算を度外視して挑戦し続けるところ(確立したルーチンを守っていれば、安泰なのに…)」(川本耕次

    *23:吾妻ひでお『オリンポスのポロン』第2巻,早川書房,2005年2月,249頁(解説/山本直樹

    *24:私見ですケド シベール爆誕以前のエロ漫画って

    劇画だったンですよね 吾妻先生が漫画アニメ風味の
    ロリっ子エロを描いたら その後のエロ漫画の画風も
    現状の萌え絵に進化するキッカケに成ったと思うのですよ
    正しく 黒本は ・・ pic.twitter.com/34ZLPa6Sjp

    — 計奈 恵 (@kazunakei) 2019年10月22日

    *25:私的に「吾妻ひでお先生が居なかった世界」を

    想像するとエロ漫画は劇画時代が続いて
    SFやファンタジー作品のデビューが困難な
    暗黒時代が続いていたと思いますよ
    特に「アニメ風美少女」画風の出現の
    ファーストインパク
    ついでに 言うと女性の(美少女系)作家の
    登場も遅かったと思います

    — 計奈 恵 (@kazunakei) 2019年12月23日

    *26:Y・エンドウ「美少女まんがの頂点 吾妻ひでおの世界」『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」P80

    *27:川本耕次 (2019年10月21日). “代表作はガス屋のガス公”. ネットゲリラ. 2020年1月27日閲覧。

    *28:川本耕次 (2012年1月31日). “自販機エロ本ではありませんw”. ネットゲリラ. 2020年2月15日閲覧。

    *29:川本耕次 (2018年11月25日). “怪しい編集者”. ネットゲリラ. 2020年1月27日閲覧。

    *30:高月靖ロリコン―日本の少女嗜好者たちとその世界』バジリコ、東京、2009年10月7日、154頁。ISBN 978-4-86238-151-4。極めて広範な知見より考察された、密度の濃い研究書。

    *31: 斎藤環『おたく神経サナトリウム』(二見書房・2015年)-「ロリコンは『少女の変形』の夢を見る」の中「ロリとペドの違い」より。

    *32:吉田正高 (2008年1月20日). “コミケ73カタログ出張版「戦後コンテンツ文化の発展にみるコミックマーケットの意義―その1」”. AIDE新聞(共信印刷Web事業部). 2020年6月20日閲覧。

    *33:大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年 81頁

    *34:大塚英志ササキバラ・ゴウ教養としての〈まんが・アニメ〉講談社講談社現代新書〉2001年、95頁。ISBN 978-4061495531

    *35:大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年 81頁

    *36:大塚英志ササキバラ・ゴウ教養としての〈まんが・アニメ〉講談社講談社現代新書〉2001年、97頁。ISBN 978-4061495531

    *37:いしかわじゅん「アミダクジの果て―吾妻ひでおに代ってのあと書き」(吾妻ひでお『夜の魚』太田出版 1992年 192-195頁)

    *38:吾妻ひでお『夜の魚』(太田出版 1992年)帯より。

    *39:吾妻ひでお先生には、明治大学における「吾妻ひでお美少女実験室」展および「吾妻ひでおマニアックス」展の開催や、「シベール」誌の成立についての取材などに際し、大変お世話になりました。取材でとりわけ印象深かったのは、おたくの人たちに対する先生の優しいまなざしでした。 pic.twitter.com/KpFsKpbujg

    森川嘉一郎 (@kai_morikawa) 2019年10月21日

    *40:森川嘉一郎吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』、 179 - 186頁。本稿に引用された証言は、明治大学博物館における『吾妻ひでお美少女実験室』展(2011年4月23日〜5月23日)に向けた調査のために、明治大学准教授の森川嘉一郎が行ったインタビューに基づく。吾妻ひでおは2011年2月15日(同誌巻頭インタビューと併行して実施)、蛭児神建(元)は同年2月25日、沖由佳雄は同年3月8日にそれぞれインタビューが行われた。

楳図かずおはゾクゾク毒電波だ(山野一エッセイ)/所載『図書新聞』1995年6月10日号

楳図かずおはゾクゾク毒電波だ

山野一

「身も心もボロボロになって、ようやく最後のページを閉じたとき、聡明な少女は気付くだろう。その作品がかくも自分を魅きつけたのは、その世界が実はずっと昔から自分の中にあり、自覚されずにいたものだからということを」(談)

あのくせっ毛頭の中にあっちの世界を見通す能力と冷徹な知性。さらにボランばりのパンタロンスーツで「まことちゃん」。つまりこのヒトはすでに...

「へび少女」「まことちゃん」「漂流教室」...。

日本中の深層に恐怖と笑いのトラウマを植えつけた漫画界の鬼才・楳図かずおが作家デビュー40周年を迎えた。その楳図ワールドのポップ、ハチャメチャ、無間地獄をめぐる漫画家・山野一氏のエッセイ。

 

もうどう見てもウメズカズオッ!

私が初めて接した楳図作品は、少年サンデーに連載された漂流教室だった。少年誌に掲載されているのが信じられない程シリアスな内容。独特の、一目見たら忘れられない絵。それは他のどんな作品とも明らかに異質の、特殊な電波を放っていた。当時小学生だった私はすぐその電波(たぶん毒電波)に当てられ、まるで売人を待つシャブ中患者のような気持ちでサンデーの発売日を待ち、なけなしの小遣いで作品集を買いあさるハメになった。

氏はよく異色の漫画家と評されるが、それはコピー作家がいないことをみても解る。普通人気漫画家は後進の漫画家にマネされるものだが、楳図かずおのコピー作家というのを私は知らない。大体絵一つとっても特異過ぎる。もうどう見てもウメズカズオッ!

画面はすみずみまで、その病的なほど神経質な線で埋めつくされている。氏が空間恐怖症で、激しい脅迫観念に責め苛まれながら、ガリガリ描いているのではないかと心配したくなるほどだ。これはコピーできまい。しかしマネできない最大の理由は、氏が作品を生み出す姿勢そのものにある。

漫画家には大雑把に分けて、二つのタイプがある。それは自分が表現したいものを描くタイプと、読者が読みたいと思うものを描くタイプ

しかしまあ現実には完全にそのどちらかということはありえず、すべての作家が、二つのタイプの間のどこかに位置していると思われる。

今の漫画の主流は、絶えず読者の意見を聴取し、作品にフィードバックさせるという出版社の方針どうり、後者のタイプに大きく傾いている。最もその傾向が強い出版社では、人気漫画のスジそのものが読者の要望で変更されるらしい。悪く言えば作家が、お手軽で日当たりのいい快楽ばかり求める読者の、奴隷に成りはてたということだ。コピー作家が氾濫するのは、この漫画の質の構造的な非個性化、陳腐化によるものだと思われる。

 

ある種、神話に通じる高貴さと普遍性

ところで楳図氏はどちらのタイプに近いのか?

少なくともご自身の中では限り無く前者に近いと想像する。普通作家の傾向が前者に近づけばそれに比例して、またその個性が強ければ強いほど、人気はなくなる。しかし楳図氏の場合、この図式は全く当てはまらない。極めて特異な個性をいかんなく発揮し、なおかつ四十年もの長きにわたり、常に漫画界の第一線で活躍されているのだ。これはもう私のような、常に漫画界の最底辺で蠢いてきた者にとっては、驚異以外のなにものでもない。

ではどうしてそんなことが可能なのか?

それは氏の作品が、他の漫画とは全く違うプロセスで読者にうったえているからだと私は想像する。ありきたりな漫画がファーストフードで、読者の舌先で味わわれるものとするなら、楳図作品はさしずめベニテングダケといったところか。暗い森にそそり立つ、見るからに気味の悪いその毒キノコを読者はなぜだか口にせずにはいられない。飲み下されたその菌類は、直接五臓六腑に染み渡り、その者の意識をも変容させずにはおかない。

例えばいたいけな少女が、洗礼の一ページ目を開いたとしよう。その陰鮮な絵に、忌まわしい展開を予想しつつも、もうページをめくって読み進まずにはいられない。なぜならこの時すでに彼女は、画面から放出されている楳図電波に支配されているのだから。泣き叫び目をおおっても、そのおおった指のすきまから、次のコマを覗いている。驚き、おびえ、身も心もボロボロになって、ようやく最後のページを閉じたとき、聡明な少女は気付くだろう。その作品がかくも自分を魅きつけたのは、その世界が実はずっと昔から自分の中にあり、自覚されずにいたものだからということを。

こんな魔術師みたいな芸当ができるのは、氏が人間の心の世界に精通しているからに他ならない。どんなに異常で残忍で、見るもおぞましい修羅場が画面をおおいつくしていようとも、作品を通して見たときそこに、ある種神話に通ずるような高貴さと普遍性が感じられるのはそのためである。氏が自身の心の奥底、おそらくは深層心理と呼ばれる領域まで踏み入っておられるのは作品の様々な描写からも一推測できる。

例えば『神の左手悪魔の右手』に見られる、精神と現実の溶解融合、そしてもう明らかにドーパミン系の論理の飛躍等々…。これはもうあっち側まで突き抜けちゃった人しか知りえない世界だ。そしてさらに、私がすごいと感じるのは、これら収拾不可能とも思えるモチーフを、みごとに構成構築し、説得力ある完成度の高い作品に仕上げているということだ。

あっちの世界まで見通す能力(右脳系)と、蛇のように冷徹な知性(左脳系)が、あのくせっ毛頭の中に同居しているのだ。そんなお方が時には、マーク・ボランばりのパンタロンスーツでまことちゃんを描いたりもするのだから、もうほとんど人間の域を越えている。

 

深層心理という化け物

ところで私は過去に何度か、深層意識の世界をかいま見たことがある。ものの本に書いてあるとうり、そこはとほうもない、圧倒されるような世界であった。様々なビジョンが次から次とすごいスピードで現れて、あっけにとられ、身じろぎもできないまま、ただどんどん流されている…、そんな感じだった。もっと奥まで行くと、入ったら最後うっとりして二度と帰りたくなくなるような天国や、阿鼻叫喚の無間地獄が実在するそうだ。実際キャリアを積んだセラピストも、そんな領域に沈潜する場合は、同僚に誘導してもらい、危なくなったら引き戻してもらうという。

そんな物騒な世界に不用意に、あるいは不幸にして深入りした者は、まず例外なく現実への適応力を失っていく。それは例の教団の、ヘッドギアをつけたような方々の例を見ても明らかだ。現実の存在が信じられなくなり、ひたすら幻想世界に沈潜したあげく、悲惨(ご本人にとっては至福か?)な末路をたどる。私のまわりにもそんな人がたくさんいる。ある人はインド方面に旅立ったまま消息が知れず、またある人は十年来ビョーインで壁を見つめている。そしてある女性漫画家は、謎のような遺言を残して、団地の十一階から飛び降りた。

ミイラとりがミイラ、自分のアイデンティティーが、深層心理という化け物にいともたやすく飲み込まれてしまうのだ。

しかし、実に四十年もの間、人間の狂気を見つめ、テーマの主軸にすえてこられた楳図氏が、ご乱心なさったなどという話は聞いたことがない。あの重厚な作品世界を構築した大作家が、なんだかもうあっけない程ひょうひょうとしておられるのだ。けだし天才とはこんなもんかもしれない。とほうもないことを実に無造作にやってのけるのだ。

私にはこんなビジョンが浮かぶ。普通の人ならたちまち喰い殺されてしまうであろう獰猛な猛獣。そして襲い来る猛獣のキバやツメを、ひょいひょい気軽にかわしつつ、強靱なムチをふるって手なずけてしまう猛獣使い。

天才とキチガイ紙一重、という言葉がある。

巷に溢れるあまたのキチガイ諸兄が、全員天才であるなどということはありえない。しかしその逆は、アインシュタインやダリの例を引くまでもなく真理であろう。ところではなはだ失礼ではありますが、楳図かずお氏ほどこの、天才となんとか…という言葉がふさわしい人物はいないと、私は思うのである。(漫画家)

 

所載『図書新聞』2249号(1995年6月10日号)

電波系ビラ―東京・新宿一丁目

絵を拾った。

森山塔をホーフツとさせる華奢な女性キャラクターに作者のフェチが見える。おそらく5〜60代男性による筆だろうか? 作者が気になります。





拾った場所:新宿一丁目の電話ボックス

採集日:ハロウィン前夜の10月30日

形態:B4コピー用紙を八つ折りした小冊子

 

付属品


アダルト系出版社のルーツを探せ!—高倉一インタビュー、『風俗奇譚』『りべらる』『SMセレクト』の原風景、白夜書房の成り立ちetc.

アダルト系出版社のルーツを探せ!

永江朗フリーライター

現在、百社はあると言われるアダルト系出版社。
その成り立ちは? したたかさの根拠は? 系統樹なき業界の原点はどこだ!


(文献資料刊行会『風俗奇譚』1960年6月号)

所載:別冊宝島240『性メディアの50年―欲望の戦後史ここに御開帳!』1995年12月

はじめに

常日頃、いろいろな意味でお世話になっているアダルト本業界であるが、不思議とそのルーツや変遷を知らない。それでも、この業界とつかず離れず仕事をしていると、たとえば官能ノベルや『漫画エロトラブ』の蒼竜社辰巳出版の子会社であるとか、『写真時代』で一躍有名になった白夜書房は、昔はビニ本やオトナのオモチャの会社だったらしいとか、そういうウワサは耳に入ってくる。

アダルト系出版社がどのようにして生まれたのか。裸が好きなのは誰しも同じとはいえ、それを生業にしようとした人たちはどんなことを考えていたのか。そんなことをぜひとも知りたいと思った。

とはいうものの、何をもってアダルト系出版社と呼ぶのか。その定義が意外と難しい。

だいたい「アダルト」の四文字からしてヘンではないか。わざわざ英語にしてからカタカナに置き換えるところに、すでに「あまりあからさまに言ってはいけないもの」という雰囲気が漂っている。ヘンだけど「成人向け」では語呂が悪い。「エロ本」という呼称もいいけど、作っている本人が自称するならともかく、そうじゃない場合は、なんだか見下したような傲慢な臭いもする。ここは大雑把に、雑誌を作っている当人たちが「私たちはアダルト系です」と自覚していると思われる出版社をアダルト系出版社と呼ぶことにしよう。

 

ゾッキ本屋からの出発

いま世の中には、いったいどのくらいの数のアダルト系出版社があるのか。そこで、ミリオン出版の平田明社長を訪ねることにした。ミリオン出版はSM誌の代名詞『S&Mスナイパー』や超キレイなグラビア誌『URECCO』、セーラー服誌『クリーム』などを発行している。日頃社員たちに「出版は長期戦です」と諭す平田さんは、とかく山師的な社長が多いこの業界では珍しくマジメで温厚な人物として知られる。飢え死にしそうな私を助けてくれたこともある。

せいぜい百社っていうところですか」と平田さんは私の疑問に答えて言う。出版社の数は全国に四千社から五千社といわれるから、意外に少ないといえるかもしれないが、私にはこの百社すべてのルーツ探しをしている時間も体力もない。

ぼくは業界に入ってまだ二十年ちょっとだから、あまり古いことは分かりません。でも、大雑把な印象としては、辰巳書房(現・辰巳出版)の系統、三世社(のちに三世新社、現・東京三世社)の系統、そして新樹書房の系統の三つが、この業界の大きな流れだと思う

このうち、新樹書房はもうない。

ぼくが業界に入ったのは司書房から。たしか昭和47(1972)年でしたね。司書房ができて間もなくだったんじゃないかな。最初は『ホットマガジン』の編集部に入りました。いわゆるアダルトものの、ヌードと性情報を中心にした雑誌ですよ

平田さんは国立大学の建築学科を出たあと、建築事務所を経て、司書房に入社という、いささか変わった経歴を持っている。

ミリオン出版のスタートは20年近く前になりますが、実は一番最初の社長は、ぼくではないんですよ

ミリオン出版の初代の社長は、編集プロダクションをやっていたH氏という人だった。ところが、このH氏はわずか3カ月ほどで辞め、当時29歳だった平田さんが社長に迎えられた。

ミリオン出版の親会社は大洋図書である。ミリオン出版から出る雑誌・書籍の発売元は大洋図書で、営業機能も大洋図書が持っている。

この大洋図書は特価本(ゾッキ本)の取次店として戦後間もなくはじまった。ちなみに、特価本、ゾッキ本というのは、いまでいうならアウトレット。本来は出版社などが在庫を抱えきれずに放出処分した本で、定価の数割引きから数分の一の破格値で売られる。通常の本とは違って、古本屋などを中心に流通する。大洋図書は、ミリオン出版だけでなく、自社でも出版を行なっている。よく似た名前の大洋書房も、大洋図書の子会社だ。

ちなみに、大洋図書については、青林堂長井勝一会長の自伝『「ガロ」編集長』(ちくま文庫)にも出ている。1959(昭和34)年、長井氏は他の二人と一緒に三洋社という出版社をはじめるのだが、そのうちの一人が大洋図書の小出英男社長。もう一人の夜久勉氏は神保町に人生劇場というパチンコ屋を持ち、日本文芸社のオーナーでもあった。この三人がまだ戦後のドサクサ気分の残る出版界で、札束で頬を張りとばして力ずくで本を買い入れるような悪行三昧をやらかしたと長井氏は書いている。

平田さんがミリオン出版の社長になったときは、この小出氏はすでに亡くなっていた。当時、高校生だった小出氏の子息が、現在の大洋図書の社長である。

平田さんが社長になったころのミリオン出版は社員もほとんどいなくて、経験者に嘱託として来てもらっていた。発行する雑誌もすべて編集プロダクションに外注していた。なんとか社内で編集する雑誌を作りたいと平田さんが苦労して創刊したのが、かの『S&Mスナイパー』だ。

ぼくは司書房にいたときも、SM誌を本格的に作ったことはなかったんですよ。せいぜい『SMファン』の撮影を横で見ていたぐらい

わずか2、3人ではじまったミリオン出版も、いまでは従業員数60人弱の所帯。10万部を超える雑誌も数誌ある。

 

ルーツ御三家と育成条例

平田さんはアダルト系出版社のルーツ探しをするうえで、手掛かりを一つ教えてくれた。不健全図書指定の歴史を見てみることだ。

昭和39(1964)年の10月から、『東京都青少年の健全な育成に関する条例』が施行されたんですよ

通称「育成条例」と呼ばれている。条例では、優良図書類には推奨と表彰を行ない、不健全な図書類の販売等を規制することを定めている。

輝く不健全図書指定第一号は、辰巳書房の『紳士専科』1964(昭和39)年12月号。他には、

  • 『実話と秘録』(広晴社)
  • 『100万人のカメラ』(新風社)
  • 『裏窓』(あまとりあ社
  • 『女の手帖』(手帖社)
  • 『特集夫婦生活』(手帖社)
  • 奇譚クラブ』(天星社)
  • 『風俗奇譚』(文献資料刊行会)

などが続々と指定を受ける。

この最初期の指定を受けた出版社でいまも健在なのは、現在は久保書店であるあまとりあ社、『実話と秘録』を発行する明文社、そして辰巳出版(書房)ぐらいのものだろうか。育成条例ができて早々、毎度毎度の常連となるのは、辰巳書房、新樹書房、三世新社など。平田さんの挙げる三大潮流である。

ちなみに、○○出版が××書房になったりと社名が微妙に変わることがよくある。これは誤植や勘違いではなく、倒産したり経営危機になるたびに、別の会社になっているからである。もっとも、名目上の社長の名前だけを変えて、やってることは変化なしというケースが多かったらしいが。

このほか、御三家(と勝手に呼ばせていただく)以外に、60年代の指定一覧に顔を出すのは、

  • 淡路書房(『奇談マガジン』)
  • 文献資料刊行会(『実話情報』『グラマーとヌード』『風俗奇譚』)
  • 季節風書店(『100万人のよる』)
  • パン・フォト・プレス(『ユーモア・グラフ』。のちに光彩書房
  • 檸檬社(『キューティ画報』)、土曜出版社(『土曜漫画』)など。

70年ごろは、『平凡パンチ』(平凡出版。のちのマガジンハウス)や『プレイボーイ』(いわゆる『週プレ』、集英社)も不健全図書に指定されている。キネマ旬報社の名前もある。いまは不健全図書といえばアダルト系出版社のものばかりだが、条例ができたころは大手出版社もアダルト系出版社も関係なく指定されていた。

その後、大手出版社で作る雑協などでは自主規制が進み、指定を受けるような雑誌はあまり出さなくなった。一方、アダルト系出版社も、11年前に警視庁の音頭取りで出版問題懇話会を作り、性表現の暴走がないように自主規制をしている。現在、懇話会には20数社が加盟している。

 

風俗資料館へ行こう!

(文献資料刊行会『風俗奇譚 緊縛フォト集Ⅲ』所載)

戦後間もなくのころのことを聞こう。そう考えて、神楽坂に向かう。坂を上り始めてすぐ脇のビルに風俗資料館がある。ここはいわゆる会員制の有料図書館だ。SM雑誌を中心に、書籍やビデオがコレクションされ、会員は自由に閲覧できるようになっている。なかには伊藤晴雨の原画のような貴重なものもある。

館長の高倉一氏は、かつてアダルト雑誌の編集者としても知られた人だ。

大正ひと桁生まれ、それも前半のほうだよ」と笑う高倉さんは、実際の年齢よりもかなり若く見える。毎日、四度の酒を欠かさないという。

風俗資料館がスタートしたのは1984(昭和59)年の11月。

ぼくは昔、『風俗奇譚』という雑誌をやっていたことがあるんだ。そこでときどき原稿を書いてくれていたある男が、資料をかなり持っていた。雑誌だけじゃなく、晴雨の原画なんかもあってね。わざわざマンションの一室を借りて、そこに置いてあった。彼と彼の息子とぼくの三人で話をしているうちに、資料館を作ろうってことになったんだ。このまま捨て置くのももったいないし、これも一つの文化なんだからね。見たいという人だっているだろうし

このコレクションに高倉さん自身のコレクションも加えて、館はスタートした。もっとも会員制の有料図書館とはいえ、収益は度外視している。高倉さん自身もまったくの無給だ。館の一部を事務所がわりにして、編集や執筆の仕事に使っている。

わざわざ関西まで出かけて資料を購入したこともあった。というのも、アダルト系出版では関西は東京と違った文化をもっていたからだ。関西独自のカストリ誌も多かったし、地下出版の歴史もある。かの『奇譚クラブ』も初期は大阪の曙書房から出ていた(のちに天星社に移る)。

現在、風俗資料館の会員数は千二百人を越えている。

ときどき蔵書を寄贈する会員もいる。亡くなった会員の未亡人が寄贈してくれる場合もあるし、結婚することになったので、ということもある。

雑誌や本が溜まって困る人も多い。息子は理解してくれてるからいいけど、孫が大きくなってくると......ってね。資料館をはじめたころは、雑誌のバックナンバーにも欠号があったけど、そうやってだんだん埋まっていきました

アダルト系出版社の多くは、資料室などもっていないし、自社の出版物すらきちんと保存していないところも珍しくない。そういう出版社にとって、風俗資料館はありがたい資料室で、調べものに来る編集者も多い。

ぼくがこういう手のもので一番最初にやったのは『夫婦生活』(鶴書房)。創刊にはタッチしてないけど、三号目ぐらいからやりました。たしか1949(昭和24)年ごろだったかな。もう45年ぐらい前のことだね

もともと高倉さんは文芸誌の編集者だった。それが鱒書房(のちのビデオ出版)から誘われて、『夫婦生活』の編集者になった。

だが、この『夫婦生活』、巷で語り継がれているようなアダルト雑誌とはちょっと違うと高倉さんは言う。

あれはなんていうか、セックス解放になってからの、正しい意味での性の啓蒙雑誌だよね。だから書いているメンバーがすごかった。大宅壮一をはじめ錚々たる人びとが書いていたんだから

はじめ、発行部数は7万部。ところが売切れ店続出で、急遽増刷した。

カラーで印刷するのが間に合わなくて、白い表紙で作った。そのころは雑誌で増刷するなんて、珍しいことだったんですよ

が、発行元のM社長も亡くなり、高倉さんは『夫婦生活』を辞める。

高倉さんがこの業界に入ったころからすでに出版活動をしていたのが辰巳出版だ。

辰巳出版のはじまりは早かった。終戦間もなくはじまった。たしか、最初はカストリ雑誌からはじまったんじゃなかったかな。はじめのころは単行本なんかも出してたんだけど、うまくいかなくて、いちど潰れているはずだ。社長のH君の奥さんの里が資産家でね、その援助を受けて建て直したはず。

そういえば、辰巳出版から枝別れした出版社っていうのは、あまり聞かないねぇ。笠倉出版? あそこは池袋の洋紙屋に面倒みてもらってはじめたんだよ

『夫婦生活』を辞めた高倉さんが作ったのは『女の百科』。出版社は新樹書房だ。例のアダルト系出版社御三家の一社である。

この新樹書房の設立に関して、高倉さんから意外な話が出てきた。

新樹書房っていうのは、はじめからぼくがタッチしてたんだ。新樹書房のバックは春陽堂、昔は文学の名門ですよ。いまも日本橋にあるけど

春陽堂といえば、春陽文庫などの時代小説で知られる老舗。それがアダルト系出版社の親会社だったとは。まぁ、いまでいうなら、ビジネスマン向け啓蒙書の三笠書房と、アダルト向け文庫のフランス書院の関係のようなものだろうか。

まっとうなものだけでは経営が苦しくてね、柔らかいものでやってくれないかということで、ぼくがはじめたんですよ。新樹書房のそもそもの社名の登録者はぼくになってる。はじめは春陽堂のビルの三階に編集部を置いて、『女の百科』っていうのを作った

高倉さんが新樹書房にいたのは三年間ぐらいだった。

そのうち春陽堂で定員オーバーになった社員たちが新樹書房にどんどん入ってきて、それじゃあっていうんでぼくは辞めちゃったんだけどね

親会社のリストラの受皿でもあったのだ。

この新樹書房で編集部長をしていたW氏が、大亜出版(のちのダイアプレス。『バチュラー』などのいわゆる洋ピンものや、『アダムス』などの発行元として知られる)を作り、営業部長だったS氏は若生出版を作った。

 

白夜書房の成り立ち

新樹書房を辞めた高倉さんは、しばらくフリーであちこちに原稿を書いていた。芸文社もその一つ。

芸文社は昔は銀座にあってね。のちに神田に移ったとき、枝分かれしてできたのが平和出版(『新風写真』など)だよ

数年間のフリー生活ののち、高倉さんは『風俗奇譚』を創刊する。1959(昭和34)年のことだ。

最初は神田にあったメッキ屋がバックでね、『奇譚クラブ』(曙書房)みたいな雑誌をやってくれないか、と言われたんだ。ところがうまくいかないんで、文献資料刊行会という会社を作った。昭和36(1961)年ごろかな。こんどのスポンサーは上野の日正堂

当初『風俗奇譚』のバックだったゾッキ屋が経営難に陥り、その債権者の筆頭が日正堂だった。

たしかに日正堂には若干の援助は受けたけれども、文献資料刊行会はあくまで独立した会社だったんだ

この日正堂もまたゾッキ屋として知られる。戦後しばらくして、倶楽部雑誌がブームになった時代があり(後述)、日正堂は双葉社の倶楽部雑誌をゾッキで扱い、大きくなった。のちに日正堂は大洋図書と同じく、出版も行なうようになったが、それにも高倉さんが大きく関与している。

日正堂からウチで売る本も作ってくれないか、と言われて、実話誌や写真集を作ってね

白夜書房(初期はセルフ出版。少年出版、現在のコアマガジン社も同様)も、発売元を日正堂にしていることが多かった。

白夜書房のM社長は、はじめ日正堂に面倒をみてもらったんですよ。ビニ本を作ってたときに日正堂に面倒をみてもらい、白夜書房を作るときも取次ぎに口をきいてもらった

高倉さんは現在も日正堂の役員をつとめている。

 

『漫画大快楽』の思い出

『風俗奇譚』のころの雑誌作りについて聞いてみた。

グラビアの撮影は、都内だと向島あたりの旅館を借りたり、熱海あたりにちょこちょこ出かけたりしてね。当時は早朝なら海岸でも撮影ができたんだよ

編集者自らカメラマンである。しかし、肝心のモデルは?

そのころはスタジオっていうのがあってね。手ぶらで行っても写真機貸してくれて、ヌードを撮れる。そういうところの女を口説いてモデルにしてた

みんなお金が欲しかったんだろうなぁと高倉さんは思い出すように言う。

ギャラ? 覚えてないな。でもあの当時だからそんなに高くはないよね。あのころで一万円も出したかな。うーん、熱海なんかだと泊まりがけだからそれくらい出したかもしれないけど、都内だと三千円とか五千円ぐらいだったんじゃないかな

もっとも、移動時間は別として、ほとんどの撮影は二時間ぐらいで終わるのが普通だった。現在は撮影の前にプロのメイクがモデルを念入りに化けさせるし、カメラのほうもカットごとにライティングを変えたり、ときにはモデルのコスチュームもメイクも変えたりする。ほんの四、五ページのグラビアでも、早朝に集合して、終わるのはちょうど夕食時ということが多い。撮影というものが、ずいぶん変わってしまった。

昔だって食事ぐらいはごちそうしたけれどもね(笑)

もう一つ高倉さんが作った出版社に、檸檬がある。この会社もいまはない。

作ったのは文献資料刊行会とほとんど同じころ。昭和36年ぐらいだったかな

檸檬社では『小説読切』や『オール読切』といった小説誌や実話誌を作っていた。

ヤングマン』っていう雑誌をやってたこともあったな。これはちょうどいまの『週刊プレイボーイ』の前身みたいな雑誌でね。

赤字続きでやめちゃったけど。結局、売れるよりも、かかるほうの金が多かったんだ(笑)。あのころで全部写植で雑誌を作ったんだから。やるんなら、ほかでやらないことをやりたいと思ったしね。

『風俗奇譚』で知り合った三島由紀夫には、『ヤングマン』に原稿を書いてもらったこともある

官能劇画誌の草分け、『漫画大快楽』もこの檸檬社から出ていた。1974(昭和49)年ごろのことだ。

『漫画大快楽』は編集者に自由にやらせたんだよ。最終的なところは見てはいたけどね

檸檬社『漫画大快楽』1982年10月号)

檸檬社は1982(昭和57)年に解散するまで続き、一つの時代を作った。檸檬社からサン出版(考友社)や桜桃書房に移った編集者もいる。

 

パトロンは紙屋さん

つぎに、アドベストセンターの石川精亨社長を訪ねることにした。アドベストセンターは三和出版の子会社で広告代理店。AV情報誌の『ベストビデオ』や『カルテ通信』などのマニアックなSM誌の発行元として知られる。

三和出版の雑誌広告は、同社がすべて扱う。こうした例はそう珍しくはなく、たとえば白夜書房は宣伝ルームという子会社が広告を担当している。

ぼくが一番最初に入ったのは『りべらる』という雑誌でね。出版社は太虚堂っていうところです。『りべらる』っていうのは、『ロマンス』(ロマンス社)とか『猟奇』(茜書房)とともに、いわゆるはじめのころのカストリ雑誌ですよ。一時は飛ぶように売れたんです

(太虚堂書房『りべらる』1951年4月号)

ときに1952(昭和27)年。
1929年生まれの石川さんは、まだ早稲田大学の仏文科の学生だった。

就職難の時代だったから、『りべらる』の編集者募集には500人ぐらいの応募があったんです。ぼくは編集者になるつもりはなかったんだけど、試験を受けたら採用2人のうちの1人に入っちゃった。“まぁいいか、エロ雑誌の編集でも”と入ったのが、ぼくのエロ雑誌人生のはじまりですよ(笑)

このとき石川さんとともに『りべらる』に入ったもう一人の人物は、学者・エッセイストとしても知られ、いまでは某大学の学長も務めている。

『りべらる』っていう名前は、菊池寛がつけた。太虚堂文藝春秋の人が社長でしたからね。そもそも『りべらる』っていうのは、エロではなくて、いわゆるリベラルな、風俗雑誌だったんですよ。それがだんだん変わっていって、最後にはエロになっていった

が、『りべらる』は石川さんが入って間もなく、1953年ごろに潰れてしまう。石川さんは一時、映画会社のシナリオ部に入ったものの、ふたたび出版社に戻る。こんどは三世社だ。そう、アダルト系出版社御三家と私が勝手に呼ばせていただいてるところの一社である。

昔、文藝春秋から『モダン日本』という雑誌が出てたんですよ。戦争中は非常に勢いのある雑誌でした。この『モダン日本』には吉行淳之介さんもいましたね。それが潰れて、中身はそっくり三世社に移ったんです

さてこの三世社のルーツはいかに。すると石川さんは「三世社も元はゾッキ屋」と言う。一三堂というゾッキ本屋が三世社の前身だったのだ。

『モダン日本』と、『読切倶楽部』と『実話雑誌』をやるので、メッキ屋が金を出して作った会社なんですよ。いわば、大洋図書も日正堂も、みんな仲間。みんな特価本屋です。最初はそうです。メジャーな本を作ろうと思っても、出発がそうだから、なかなか色が抜けないんだなぁ

あるベテラン編集者もこれを裏づけるようにつぎのように言う。

初期のアダルト系出版社のパトロンといえば、ゾッキ本屋か紙屋だった。メッキ屋は流通ルートをもっていたし、物のない当時は、紙の供給ルートをまず押さえないと出版はできなかったから

 

実話雑誌の原風景

高倉さんの話にもあったように、1955(昭和30)年前後というのは倶楽部雑誌の全盛期だった。三世社の『読切倶楽部』もそうしたブームをあてこんで創刊された一冊だ。

当時メジャーだったのは講談社の『講談倶楽部』、光文社の『面白倶楽部』、桃園書房の『小説倶楽部』、そして三世社の『読切倶楽部』。このうち、『小説倶楽部』だけが、編集方針や形態を少しずつ変えながら現在まで残っている。

もっとも、この倶楽部雑誌はアダルト雑誌ではない。大衆向け娯楽総合誌とでも呼べばいいのか。私が、「『オール読物』みたいな、大衆小説誌ですか」と聞くと、「いやいや、そんな立派なものじゃなくて、もっといろんな記事がゴチャゴチャ入っててね。ルポだの落語だの座談会だの」と石川さんは言う。

『読切倶楽部』には『モダン日本』から移ってきた吉行淳之介もいた。もっとも、病弱だったうえ、すでに作家として注目されはじめていた時期で、めったに会社には出てこなかったと石川さんは言う。

吉原の取材は吉行さんの専売特許だった(笑)。すごいんだ、吉行さんは。一軒に入ったかと思うと、出てきてすぐ隣に入っていく。ただ、からだの丈夫な人ではなかったから、セックスはしなかったんだと思うんだけど。色街の哀歓みたいなものを見ていたかったんでしょう

いまでいう風俗ルポのハシリのようなものだ。こうした経験は吉行淳之介の小説のモチーフになっていく。

中村メイ子もいた。

吉行さんの父親と中村メイ子の父親は、ともに新感覚派の仲間ですから、その縁で入ってきたんでしょうね。座談会やインタビューを受け持ってましたね。文字数を計算して割り付けするなんてことはダメだけど、人から話を聞いたりする能力は抜群でしたね

吉行淳之介芥川賞を取って三世社を辞め、中村メイ子も声優として成功して辞めていく。こういう人たちと、のちにアダルト本業界の中枢を担っていく人たちが一緒に働いていたのが倶楽部雑誌だ。ゴチャゴチャと、混沌としていたのだろう。

石川さん自身も三世社を辞めて、『サンケイスポーツ』の記者となった。

ところが、あんまり給料が安いんで、また三世社に戻ったんです。それが昭和42(1967)年ごろ。『読切倶楽部』は昭和37(1962)年ごろまで続いたと思います

石川さんが三世社を出たり入ったりしているこの数年間に、アダルト系出版社と雑誌の数が一挙に増えたという。

昔は、出版社を作ってもすぐ潰れちゃったものですよ。競争が激しくてね。それが昭和40年を過ぎるころから、アダルト雑誌がワーっと増えて、まさに群雄割拠の時代になりましたねぇ

そういえば東京都青少年育成条例が施行され、不健全図書の指定がはじまるのは1964(昭和39)年からだ。

三世社に戻った石川さんは『実話雑誌』の編集部に入った。『モダン日本』『読切倶楽部』もアダルト雑誌ではなかったが、この『実話雑誌』は違った。

これは週刊誌のハシリですね。いま実話誌というと、ヤクザの記事なんかが多いけれども、ああいうんじゃなくて暴露記事、スッパ抜きですよ

『実話雑誌』の編集長が、のちにサン出版(子会社に考友社。『SMコレクター』、『投稿写真』、『さぶ』などを発行する)を率いるMさんだ。

Mさんが『実話雑誌』以外に三世社で作った雑誌に『SMセレクト』がある。『奇譚倶楽部』や『猟奇』とは違った、モダンなSM誌はこの『SMセレクト』からはじまるといってもいい。『実話雑誌』が扱うテーマは実に多種多様だった。芸能界のスキャンダルから、性風俗情報、性の告白記事など。

海外の雑誌に載った性風俗情報の翻訳などもあった。漫画もあった。こうした実話誌がのちのアダルト雑誌の原型となっていく。現在のアダルト雑誌は、実話誌が細分化して分離独立していったものともいえるかもしれない。

暴露記事が中心でしたから、もちろんそこらじゅうから抗議がきましたよ。プロレス全盛の時代に、“力道山だけが儲けてる!”なんてやったこともある。力道山が怒って、三世社をぶっつぶす! って言ってね。編集長のM君も逃げたし、記事を書いたライターなんか、日本全国を逃げて回ってました

『実話雑誌』にはグラビアページもあった。これもアダルト誌のグラビアページの原型かもしれない。

映画会社のグラマー女優(肉体女優)を裸にしたんですよ。映画の全盛時代でしたからね。『読切倶楽部』に載せるというようなことを言って、騙して裸にしたんだ。グラマーっていったって、いま見ればたいしたことはないんだけどね(笑)。最初は水着から撮影に入って、だんだん脱がしていくわけですよ

当然、問題になる。映画会社からも猛烈な抗議がくる。出入り禁止のペナルティを科してくる映画会社もあった。

もっとも、映画会社のほうも本腰を入れて売り出していく女優たちと、いわゆるグラマー女優は区別していたようで、『実話雑誌』に載るのPRの一つと受け止め、しだいに協力的になっていったという。

いまの芸能ジャーナリズムのパターンがこの実話誌から生まれている。

もちろん女優にはギャラを払いましたよ。『実話雑誌』には専属のカメラマンなんていないので、『近代映画』にいたM君や『映画情報』のKに、アルバイトで撮ってもらったんですよ

この『実話雑誌』は、1973(昭和48)年ごろ、Mさんが退社してサン出版を作るまで続く。一方、石川さんはそれと前後して1971(昭和46)年、桃園書房に移る。桃園書房のアダルト部門として、司書房を設立するためだ。

 

三和出版を立ち上げる

『ソフトマガジン』や『SMファン』なんかを作ったわけです。ミリオン出版の平田君もそのうち入ってきた

石川さんが司書房を辞めて、他の四人と共同出資して三和出版を作るのは1982(昭和57)年のことだ。

三和出版はマニア向けの高い本を作ろんだよね。それと、再生本の作り方がうまいんだ。それは昔の三世社の専売特許だったんだよ

再生本というのは、雑誌の通常号に載ったグラビアページだけを数号分まとめて写真集にし、増刊として売るものだ。カラーページなどは製版代が高いが、再生本は原版をそのまま流用するのでコストを抑えられる。しかも、大取次から一般書店に流れるだけでなく、ゾッキ本として売る分も計算に入れて本を作る。アダルト系出版物独自のノウハウだ。

 

「オレはエロだぜ」という自覚

「時の移り変わりが激しいのがエロの業界」と石川さんは言う。いま聞くと、実に簡単に出版社を作ったり、潰したりしている。取次ぎと口座を新規に開設するのは大変だから、潰れかかった出版社を丸ごと買い取ってしまうようなことも頻繁に行なわれたらしい。

ある編集者と飲んでいたら、こんな話が出た。

「ぼくのいる会社はスト破りててきたんですよ。ある出版社に労組ができて長期ストに入っちゃった。経営者も困ったけど、そこから仕事を請けてた紙屋・製版屋・印刷屋も困った。それで三者か四者が合同で出資して、スト破りのためにこの会社を作ったんですって」

出版社といっても、一般企業のレベルでしえれば、零細企業が圧倒的に多い。なんともイージーに作れてしまうのだ。

敗戦後、カストリ雑誌からはじまったこの業界は、60年代になると雑誌も出版社もどっと増えた。70年代には白夜書房英知出版のように、ビニ本業界などの異業種から参入してきたところが大きくなった。いまや白夜書房高田馬場に、英知出版は神楽坂に大きなビルを構えている。

90年代になると、アダルト系出版物の世界も大きく変わっていく。ヘアヌードをいち早く出したのは、出版問題懇話会に加盟するアダルト系出版社ではなかった。

アダルト系出版社だと、どうしてもそういう目で見られるから、出すのは控えようっていう気持があったのかもしれない

こうミリオン出版の平田社長は言う。SMも変態も一般メディアに頻繁に登場する時代だ。もうアダルト系。非アダルト系も、雑協加盟も懇話会加盟も、ミクロ的に見ればそこで扱う性表現にあまり違いはない。

また、アダルト系出版社のほうも、裸と性だけではなくなった。

たとえばダイアプレスが大きくなったきっかけはクルマ雑誌だったし、白夜書房の屋台骨を支えているのはいまや裸よりもギャンブルだ。ミリオン出版もヤンキー雑誌『ティーンズロード』やデマと噂の専門誌『GON!』が大好調だ。

にもかかわらず、もはやアダルト系、非アダルト系なんて区別はないよ、とは言いたくない。何か違うのだ。たとえば日頃私がおつき合いさせていただいているアダルト系出版社の人びとには、「オレはエロだぜ」という自覚がある。

こういうのはアナクロなのかもしれないけれども、非アダルト系出版社の人には感じられないものだ。カストリ雑誌とメッキ屋と紙屋ではじまったルーツが、アダルト系の人びとをしたたかにしているのかもしれないが、そういう仕事ができるのが私の密かな誇りだったりする。(了)