Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

Underground Magazine Archives

Jam/HEAVEN

百恵ちゃんゴミ箱あさり事件で有名になった自動販売機ポルノ雑誌『Jam』の編集長が明かすその秘密―わしらのフリークランド(宝島1979年12月号)

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近藤十四郎インタビュー(『HEAVEN』二代目編集長)

隅田川乱一インタビュー(『Jam』ライター&コンセプター)

山崎春美インタビュー(『HEAVEN』三代目編集長)

高杉弾インタビュー(『Jam』『HEAVEN』初代編集長)

 

スーパー変態マガジン Billy

1982年

山崎春美のスーパー変態インタビュー(第1回)「逮捕後の変態ロックバンド スターリン 遠藤ミチロウ」

山崎春美のスーパー変態インタビュー(第2回)「ウンチでビルが建った!? 群雄社代表取締役 明石賢生」

 山崎春美のスーパー変態インタビュー (第3回)「女房の流産を心底喜んだ!? 異端漫画家 蛭子能収」

 

月刊漫画ガロ

1992年

花輪和一インタビュー(ガロ1992年5月号)

ねこぢるインタビュー「ゲームの世界に生まれたかった」(ガロ1992年6月号)

1993年

丸尾末広インタビュー(ガロ1993年5月号)

山野一「食えませんから」(ガロ1993年6月号)

1994年

混沌大陸パンゲア刊行記念/山野一インタビュー(ガロ1994年2月号)

 

ねこぢる山野一

1992年

1993年

1994年

1995年

1996年

1998年

2000年

2005年

2006年

対談◎吉永嘉明×山野一「自殺されちゃった僕たち【Vol.3】正しく失望せよ!」

2008年

対談◎根本敬(特殊漫画家)×山野一(漫画家)「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

その他

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す―漫画家・山田花子の自殺

連載[師走の街から](7)

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す

五月の運動会から数日後のことだった。四年生を担当する女性教諭(50)が三十四人の教え子たちに手紙を託した。

〈これからは、子供たちの声にならない声に、もっともっと耳を傾けていきます〉

先生はおかっぱ頭。やせてはいても、東京郊外の小学校で「一番の元気者」を自慢にしていた。ところが、運動会が近づいたころ、長女が飛び降り自殺してしまった。手紙は、この悲しい出来事を静かに見守ってくれた父母たちにあてて書いたものだった。

長女は二十四歳、漫画家だった。「山田花子」のペンネームで、一時、「週刊ヤングマガジン」や月刊「ガロ」などに連載を持ち、単行本も二冊出していた。人間関係の息苦しさや疎外感を強調した漫画だ。内向的で感受性の強い主人公がいじめにあい、傷ついていく。遺(のこ)された十五冊の日記帳は、主人公が作者自身で、描くことで生きるつらさを乗り越えようとしたことを物語っていた。

日記や漫画を読んで先生はがく然とした。自分そっくりの教師が主人公に言う。「あなた、お友達がいなくて淋(さび)しくはないの」。確かに、友達が少なかった娘を同じ言葉でよく送り出した。日記の中の娘は一人で時間をつぶしては自ら服に泥をつけ帰宅していた。初めて知った。

教師歴二十八年。「いろんな子がいて当たり前。弱い子も強い子も個性を生かしてあげなきゃ」が口癖だった。いじめや登校拒否にも体ごと取り組み、二人の娘を育てた。「自由を口にしながら自分の型にはめようとしていたのか」

それから、追われるように仕事をした。救いは死後も絶えない読者からの手紙だった。「悩んでいるのは自分一人ではなかったと力づけられた」「私の人生を変えるのは山田花子かもしれない」

愛読していたという人気バンド「たま」知久寿焼(ちく・としあき)さん(27)は、霊前で「自分の姿を見るようで身につまされた」と涙を流した。これほど人の心を動かした「山田花子」の感性とは何だったのかと考えるようになった。

夫婦で娘のことを本にまとめようと決めた。毎晩、日記や作品、彼女の聴いたテープ、愛読書を整理する。書き始めたばかりの目次には大きく「学校といじめ―教師と母親の構造」とある。

「娘の供養ではなく、自分がこれから生きて行くために書き上げなくちゃ」と、先生は思う。(若江雅子)

(おわり)

所収:『読売新聞』1992年12月25日号 東京夕刊

山田 花子(やまだ はなこ、1967年6月10日 - 1992年5月24日)は、日本の漫画家。本名、高市 由美(たかいち ゆみ)。

自身のいじめ体験をベースに人間関係における抑圧、差別意識、疎外感をテーマにしたギャグ漫画を描いて世の中の矛盾を問い続けたが、中学2年生の時から患っていた人間不信が悪化、1992年3月には統合失調症と診断される。2ヵ月半の入院生活を経て5月23日に退院。翌24日夕刻、団地11階から投身自殺。24歳没。

青林堂創業者/漫画雑誌『ガロ』初代編集長・長井勝一インタビュー「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

古き良き青林堂をしのぶ。追憶・長井勝一

生前最後のインタビュー

「漫画雑誌『ガロ』会長・長井勝一(現代の肖像)」

『ガロ』編集長・長井勝一「貧しかったけど、心は貧しくなかったよな」

漫画家・白土三平に口説かれた。「漫画雑誌をやろう」。忍者漫画を通して人間の本質を描く白土の真摯さに、本気になった。

水木しげるつげ義春───。思想をもった作品を生んだ『ガロ』は、創刊者長井の度量が人をひきつけ、作家の個性を伸ばした「学校」でもあった。

土曜日のある夜、長井勝一(ながい・かついち)宅を一組の夫婦が訪れた。4コマ漫画の、あの勝又進である。長井は、さっそく自宅近くの天ぷら屋で一席設けた。

「授賞式に遠くから来てくれてありがとうな」

長井は小柄な体を縮め、かすれた小さな、少し高めの声でお礼をいう。勝又は恐縮する。

今年の6月下旬、長井は第24回日本漫画家協会賞の特別賞をもらったばかり。漫画雑誌『ガロ』を30年以上も発行し、多くの漫画家を発掘、育てたのが、その理由である。勝又もまた、作品発表の場が『ガロ』であった。学生と機動隊の衝突を、明るくのんびりと描いていた。

長井はキスの干物を手でむしり、食べながら、つぶやいた。

「これ、うまいなぁ。……魚に骨がなければ、もっといいのにな」

こんなことをいう人は初めてだ。勝又に、「長井さんは、どんな人ですか?」と水を向けると、

勝又が照れ笑いを見せ、

「オヤジさんという感じ。こうして顔を見るだけで安心するんです。実家に来るみたいですね」

と、話し終わるや、「来れば、おれも楽しいさ」と、長井は、うれしそうにいう。

長井が『ガロ』を創刊したのは、1964年7月24日である。B5判130ページで定価130円。東京オリンピック開催の2カ月半前だ。創刊号からスタートの予定であった白土三平の『カムイ伝』が登場したのは、4号目の12月号だった。

勝又は、隣の長井をちらりと見て、「『カムイ伝』が始まったあとでしたね。いつも、『ガロ』の編集部にいりびたっていたんですよね。松田さんも学生で上野さんも、みんな遊びに行っていた」と話す。

「貧しかったけど、心は貧しくなかったよなぁ。漫画が好きだ、描きたいという人が集まってきた。それでいて、人まねなんかしたくない人ばかりでなぁ」

長井は淡々とした口ぶりだ。

「それでいて、長井さんにはなんでもいえましたね」

勝又が、そういうと、

「おれはエバルような人とは付き合わないよな。いまでもそうだ」

長井はなんでもないようにいう。あまり飲んではいけない酒を口にしながらである。一滴一滴を、本当にうまそうに飲むのだ。

二人の間で名前の出てきた、松田さんは筑摩書房松田哲夫、上野さんは評論家・上野昂志である。そんな『ガロ』を舞台にした漫画家を少しあげてみる。白土三平水木しげるつげ義春、楠勝平、勝又進池上遼一永島慎二滝田ゆう佐々木マキ林静一つげ忠男矢口高雄高信太郎やまだ紫近藤ようこ蛭子能収……。作家・赤瀬川原平もいる。評論家・呉智英もいる。井上迅もいる。編集部育ちでは、南伸坊渡辺和博たちがいる。

個性的な顔と、その作風が浮かんでくる。目がくらむようだ。集団として徒党なんて組むことのない、まさに群像である。

『ガロ』育ちの人たちを、評論家・鶴見俊輔は次のように表現する。

「戦後の学問の歴史でいうと、今西錦司さんの作った今西学派というのはたいへん大きなものですが、そうした区分を超えて思想史を考えるとき、ガロ学派は今西学派に匹敵すると私は思っています」

“ガロ学派”───。鶴見はこうもいう。

「『ガロ』は漫画雑誌というだけでなく、一種の総合雑誌としての気分を持っている。これは、初期から上野昂志さんが『目安箱』というコラムを書いていることでもはっきりしている。とても鮮やかな評論で『中央公論』や『世界』の評論より鋭いっていう場合がある。そういうのを出し続けていった雑誌でもあるわけで、そこに出てくる漫画も思想性がある」

 

白土三平さんと会うまで金もうけりゃいいってね、漫画本出してた」

戦後という時代について、ふと考えるようなとき、今後に思いをはせるとき、『ガロ』の人たちの影響力は無視することは出来ない。

それを育てたのが出版人・編集人の長井勝一である。だが、長井は、アッケラカンと語る。

「創刊してから、ぼくが現場にいたころまで、編集会議なんて一回もしたことなんてないんです。会議をしたっていう奴がいたら、インチキだよ。ナベゾ渡辺和博)にしたって、南(伸坊)にしたって、ぼくの顔なんて見ませんよ。好きなようにやっていた。『来月号は誰と誰の漫画を載せる』。これだけ。ワンマンなんかじゃないんですよ。編集会議するような雑誌じゃないもの。原稿並べるだけなら誰でもできますよ」

それから、右手の指でマルを作り、

「これの話はよくやったよなぁ」

と、妻の香田明子に確認する。香田は、遠慮気味に「ウーン」と、うなずく。彼女は、『ガロ』発刊以前からのパートナーで、経理をみてきた。

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こんなエピソードが語り継がれている。南伸坊が編集部にいたころである。

「そりゃあそうだよ、人間だからな」

長井の口癖だ。人間だから失敗することもあるし、人をだますことだってある。

原点は50年前の8月15日である。日本は敗れた。腹の奥では、いままでの日本はないと思う。だが、人間の日常は同じ。飯を食べトイレにもいく。ナーンも変わらない。理屈ではない。それだけだ。

そして、その2日後、長井は浅草に出来た露店の一角に店を出した。捨てられた雑誌をバラし、表紙だけを新しくしたものを売るのであった。それがなくなると、クズ屋に出た漫画本を、適当に束ねなおして売る。途中に別の漫画が飛び出してくる代物だ。これが売れたのだった。娯楽なんてない。子どもへのお土産である。人間はいい加減なのだ。オレもそうだった。

ある日、長井に南が、「人間だから、といったって毛沢東はエライんじゃないですか」といった。「この名前さえ出せば、一本取れる」。南はそう思った。毛沢東という名前に全く意味はない。世間で有名だったからだ。返ってきたのは、

毛沢東だって、人間だからな……」

返品されてきた単行本のカバー替えをしながら、そういったという。

長井によると、こうである。

「人間って、誰もさ、日常に流されるじゃない?たとえ孔子だって流されるよ」

長井勝一は、大正10(1921)年生まれだから、今年で74歳である。4年前の91年、『ガロ』発行元の青林堂を身売りし、会長になった。『ガロ』の顔としての名誉職だ。それ以来、経営にも編集にもタッチしていない。長井に30年前の回想をしてもらう。『ガロ』発刊の動機だ。“ガロ学派”が生まれる舞台の始まりでもある。

白土三平さんと出会うまで、金もうけりゃいいやってね、漫画本を出してたんです。バクチはするわ、女とは遊ぶわ。ところが、三平さんの漫画を制作する態度をみていて、自分もきちっとやらなきゃと思うようになったんです」

戦後の体験から、そのまま漫画出版の世界に入る。56年、「日本漫画社」を始め、翌年の夏の終わりごろ、白土三平に会う。

出会いは、いつも必然である。貸本屋に卸すため、仕入れた漫画本のなかから、面白い本を見つけたのであった。白土の『こがらし剣士』である。ストーリーがいい。絵もいい。どんな人だろう。一週間後、長井のもとに、その白土三平が作品を持ち込んできたのである。返事はもちろんオーケーだ。白土は、「ここでもし、ダメだったら、もう漫画を描くのはやめよう」と思っていた。出会いは偶然、とよくいうが、そんなことはない。相思相愛がある。長井は、「願ってもない偶然」と振り返る。看板は白土の作品にした。貸本屋向けの単行本『嵐の忍者』『甲賀武芸帳』を立て続けに出し、59年暮れには、『忍者武芸帳』第1巻の刊行を始める。

 

「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

長井勝一白土三平コンビによる作品にいち早く注目したのが、のちの文化人類学者・山口昌男である。60年6月のある雑誌で、こう書いている。

「私の近所の貸本屋でも(白土三平は)人気ベスト・ワンであり、子供たちの中に割り込んで新作を借り出すのは仲々困難である」

白土作品の特徴として、上手な漫画、人間的な息吹、忍者をテーマにして組織の残酷さの強調などをあげ、「大人のマンガがエロのムードに酔っている時、残酷非道のムードを導入して単にそれによっているのではない白土の世界の方が、人間世界の把握では却ってその先のところにあるのかもしれない」と記している。

だが、『忍者武芸帳』刊行途中に、長井は結核で倒れた。七本の肋骨を切るという大手術を受けたのだった。

「『忍者武芸帳』を最後まで出せなくてね。入院中、これまでぼくは何をしてきたんだろうと思うと力が抜けていくような感じになって……。これでは、死んでも死に切れないと、ね」

退院してきた長井に、白土は「雑誌をやろう」ともちかけてきた。単行本には読者に限りがある。雑誌には広がりがある。そういった。

三平さんの大きなテーマは、いわれなき差別をなんとかしていこうということが願いなんです。その思いを大勢の人にわかってもらいたいと思っていたんじゃないでしょうか。『カムイ伝』がそうですよね。それに、その頃はいまと違って、漫画は日陰の状態にあって、これを日向に出すというか、文化の面にまで押しあげることはできないだろうかといったんです

記憶をたどるという様子は、全くない。長井にとって忘れようにも忘れることのできない話だ。

普通なら仕事が切れれば縁の切れ目だけど、三平さんは、ぼくの手術代から入院中の小遣いまで出してくれてね。三平さんと話しているうちに、ぼくは『できる』と思ったんです。もう、いいかげんな気持ちじゃなくなっていました。漫画のいい作り手を育てよう。『ガロ』の骨子は、新人を育てること、漫画の水準を押しあげること、それに世の中から差別をなんとかなくしていくことを、どこか底の底に持った雑誌を出版していこうと二人で話し合ったんです

雑誌の名前は、すぐ決めた。白土作品に『大魔のガロ』がある。長井によると「心優しく、技量のすぐれた忍者だったが、その優しさを逆手にとられ、彼になついた子どもを使った術にかかって悲惨な最期を遂げた忍者」だ。そこからとったのである。

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『ガロ』創刊である。すでに「青林堂」という出版社を作り、白土の『サスケ』を出していた。その売り上げを資金に発行するのである。白土は、翌年の65年6月号で「おのれの実験の場として、この『ガロ』を大いに利用していただきたい」との、文を載せた。実験と刺激の空間である。それを求めて、人は集まってきた。反響は意外なところからもやってくる。雑誌もまた人である。出会いを作っていく。

「私は、白土三平氏の漫画を大変おもしろく、且つ、貴重なものと思いながら、愛読しています。私は、京大経済学部の大学院に在籍し、マルクスの革命思想を研究し、公式的な石頭的公認マルクス主義の再生を日夜祈りながら勉強しております」

同年11月号、『ガロ』が行った「読者の感想文特集」の一通である。投稿の主は竹本信弘。これから7年後、全国に指名手配を受けることになる、全共闘運動のリーダー・滝田修である。大学生が漫画を手に取り、熱中する。その始まりが『ガロ』である。部数も創刊時の8千部から、66年暮れには10倍に伸びた。もちろん、多くの新人が登場してきた。

書籍取次店「トーハン」の出版調査機関・出版科学研究所によると、漫画についてのデータを取り始めたのは七六年からだという。出版刊行点数で、それを外して考えられなくなってきた。市場が急激に膨れ上がり、漫画の量産体制が始まっていたのだ。大手資本出版社の本格的な参入だ。零細企業にとって厳しさは増すばかりである。この2、3年前から『ガロ』は部数が減り始めてきた。『カムイ伝』も第一部が71年7月号で終わっていた。長井風にいえば、右手の指でマルを作ることが多くなってきたのだ。

 

南伸坊渡辺和博がよくいうんですよ、学校みたいだったよな」

毎月、資金繰りに追われる。税務署から、「管轄外ですが、もう少し、社員の給料を上げたらどうですか」といわれたこともある。しかし、会社をつぶすわけにはいかない。援助してくれた漫画家の人たち、印刷、製版関係の人たちがいる。なによりも、「これをやめて、お前になにが残るのか」と励まされるとピリオドはうてない。だが、とうとう力尽きて、91年、倒産よりもと身売りを選んだ。

「いまは天国みたいなもんです。こうして、起きては好きな山本周五郎司馬遼太郎の本を読んでるだけですから。会社をやってたときは地獄ですよ」

白土三平は昨年9月号の『ガロ』で、長井さんがいたからこそ『カムイ伝』が描けたという。普通の雑誌社だったら、ストーリーにクレームをつけただろう、と。

南伸坊は、「ナベゾ(渡辺)がよくいうんですよ。『ガロは学校みたいだったよな』って」と話す。南が編集者として『ガロ』にいたのは、72年から7年間だった。入社して、いきなり写植をまかされた。台割りで凝ると、長井が近寄ってきて「あんまり凝らないでなぁ、南」とささやいた。夏の暑い日、クーラーがないので、長井が「もういいか、今日は」というと、そのまま、みんなで銭湯に行った。

「ほら、学校で、先生が今日は外で遊ぼうか、ってあるでしょう、そんな感じでした」

雑誌『ガロ』で、作者に自由に描かせるのと同じ空間が編集部だった。勝又も松田も気ままに遊びに来ていた。南も、長井のことを「オヤジのような人」という。「長井さんに、自分のことがわかってもらえるのがうれしい」。“ガロ学派”は、「自分の好きなことをやる」と「長井さんにわかってもらうこと」が見えない校則かもしれない。人が人に出会う。すでに手垢にまみれてしまった、この言葉が、よみがえってくる。

出会いは次の出会いを用意する。9月、松田哲夫は『頓知』という新しい雑誌を創刊する。アートディレクターは、南伸坊だ。松田は創刊に向け多忙な日々が続いている。初めに考えた部数の2倍の数字を取次が出してきたそうだ。反響の大きさに驚いている。

長井勝一の周辺でいつのまにか出来上がった群像は、キーパーソンに満ちている。有名というのではない。何かが始まり、何かを始める、そんなときに“カギ”になっている人のことである。扇子を開いたときの要である。

(文中敬称略)

長井勝一=ながい・かついち(1921~1996)

青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

白土三平水木しげるといった有名作家から、つげ義春花輪和一滝田ゆう安部慎一鈴木翁二古川益三蛭子能収内田春菊丸尾末広近藤ようこ杉浦日向子つりたくにこやまだ紫矢口高雄楠勝平、勝又進久住昌之根本敬みうらじゅん杉浦日向子佐々木マキ林静一ますむらひろしつりたくにこ川崎ゆきお渡辺和博山田花子ねこぢる山野一ひさうちみちお久住昌之西岡兄妹東陽片岡魚喃キリコ赤瀬川原平といった異才までを輩出していった名物編集長として知られる。

文・中川六平=なかがわ・ろっぺい(1950~2013)

ライター。編集者。1950年、新潟県生まれ。同志社大卒。学生時代、山口県岩国市で反戦喫茶「ほびっと」を経営。卒業後、新聞記者を経てフリー。日本の近代史に関心を持ち、雑誌『マージナル』編集長を務める。編著書に『天皇百話』(共編)など。2013年、逝去。

(所収『AERA』1995年8月28号)

 

漫画雑誌『ガロ』が30年間続いた秘密は

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『ガロ』。奇妙な月刊誌名である。白土三平の忍者漫画からもらった。

忍者「ガロ」は、優しさがあだとなって悲惨な最期を遂げた。「大好きな話だったんですよ」

1964年に創刊、20日には30周年の会が開かれた。

『ガロ』が育てた個性は多い。つげ義春林静一佐々木マキ川崎ゆきお蛭子能収……。「自分の感覚に合う作品を載っけただけなんです」。並外れていようとキラリと光る何かさえあれば、と。

「長期的な経営戦略はなかったねえ。その月、その月、好きなことでとりあえず食ってければいいってね」

大学生にも一目置かれ、67年、68年には8万部刷った。時代が熱かったころだ。しかし、70年代半ばに、部数はがくんと落ちた。原稿料を払えない状態が当たり前になった。

「楽しい思い出ねえ、うーん、浮かんできませんね。命を削るようにしてかかれた作品なのに、お金が出せなくて、悪いなあ、つらいなあってことばかりで」

「かかせてくれ」との申し出を、材木屋二階の編集部でひたすら待つ毎日。それでも芽吹き間近の才能が長井を慕い、『ガロ』の人間味を求めて集まった。何度か襲った雑誌存続の危機にも、どこからか支持者が現れた。

私の方が漫画家に面倒みてもらってきた感じです

3年前、山中潤社長に編集も経営も任せた。「お酒と本をやっと楽しめるようになりました」。ただし、今の漫画はまず読まない。

「漫画出版はお化けみたいな規模になっちゃった。その割に気の利いたものは少ない。若い人は活字離れするし。自分のやってきたことは良かったのかなんて思うけど、しょうがないよね。自分の器量では、ここまでがいっぱいいっぱいだから」

(文・鈴木繁)

所収『朝日新聞』1994年8月23日号

『ガロ』やる前は、金もうけもうまかったんですよ」。73歳。

 

付記「青林堂に関連する一連の報道について」(山中潤

2017年2月14日に『ガロ』元編集長である山中潤さんの声明が発表されました。以下全文のテキストを記載します。

創業者長井勝一氏および青林堂株主総会より正式な認証を得て青林堂を受け継いだものとして、最近の報道について、きっちり申し上げる責任があると思い、ここに記すことにいたします。

私は長井氏より「青林堂カムイ伝を連載するガロを出版するために作った」そして「ガロは差別を無くすために生まれた雑誌だ」という言葉をはっきりと聞いています。テーマも漫画家もいわゆるメジャー漫画誌では扱わないような「社会から零れ落ちそうな物を掬う」ということが根底にありました。

ガロに掲載された、芸術的作品も、面白主義や、差別や不条理を様々な方法で描いた作品も、全ての作品の根源には「カムイ伝」や「長井勝一の創業の精神」があります。

私もその魂を継続、拡大することが役目と思い、1990年より97年まで青林堂代表取締役兼編集長の職に挑んだつもりです。

会長の職に就いて頂いていた長井氏が96年に亡くなり、当時私が経営していたツァイトというパソコンソフトウェアの会社もWindowsの登場により、海外ソフトとの厳しい競争にさらされ、右肩上がりとは言えない状況ではありました。

そのとき、私をコンピュータの世界に引き上げたF氏にツァイトの社長を交代してもらい、私は青林堂に専念する事に決めました。ツァイトは自分で創立した会社だけれど、青林堂は私が預かっている“文化”であり、自分の事情でつぶすなどしてはならないと、本当に思っていました。

ところが、ツァイトの社長を頼んだF氏の父親が亡くなられ、F氏は心のよりどころを関西のO氏にゆだねるようになります。O氏は青林堂に興味を示し、青林堂の株式を取得するようにF氏を動かし始めました。

その様子が見えてきた時点で、私はF氏から距離を置くため、当時青林堂の株式を所有していた私の個人会社の印鑑を持って、極力東京から離れるよう努めました。

しかし、今、思い出しても胸が痛いのですが、私はF氏の様々な工作に乗せられ、無理やり青林堂まで腕づくで連れて行かれ、当時青林堂の実印と青林堂の株式を保有していた会社両方の実印をF氏に取られました。

その夜のことは、新聞などで大きく報道されたようですが、私は再度東京を離れたので、その後、ツァイトが私の社長名で倒産をしたこと以外は、詳しくわかりません。

その後の編集部の独立や新会社設立、その後の青林堂の動向は、内部の人間としてではなく、外部の人間として知る事になります。

とは言え、そこで踏ん張りきれなかったことは私の責任であり、今でも大きな悔恨として日々生きております。

報道されている現在の青林堂の社長であるK氏やW専務とは、97年以前より交流はありましたが、それは私個人の範囲であり、編集部との付き合いは極めて薄く、長井氏とは面識もありません。

つまり、現在報道されている青林堂は名前は同じであっても、創業者長井勝一氏とはまるで関係のない、単に株式を取得した人間が、元々の青林堂やガロの精神とは関係のないところで行っている全然別の事業に過ぎず、元々の『ガロ』とは無関係です。

私より、かつてのガロ・青林堂を愛して下さった、読者・作家・関係者、そして『ガロ』を今でも愛し続けてくださるファンの皆様が、様々な誤解や偏見に晒されることもあるかと思いましたのでこのような文章を記させていただきました。

『ガロ』元編集長・山中潤

図版

青林堂『月刊漫画ガロ』1971年12月号表紙(画・林静一

水木しげる『私はゲゲゲー神秘家水木しげる伝』角川文庫、2010年、194頁

勝又進作品集『赤い雪』青林工藝舎刊、2005年

高信太郎『ミナミトライアングル 解決編』(青林堂『ガロ』1977年6月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号表紙(画・山田花子

https://twitter.com/seirinkogeisha/status/966485502546161665

青林堂『月刊漫画ガロ』1972年5月号表紙(画・辰巳ヨシヒロ

白土三平他『忍法秘話19』青林堂刊、1965年

赤瀬川原平『おざ式』(青林堂『ガロ』1973年7月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1997年8月号表紙(画・Q.B.B久住昌之久住卓也)※休刊号(64年の創刊以来初の休刊、その後も断続的に復刊休刊を繰り返し、2002年の休刊を最後に今日まで『ガロ』は刊行されていない)

青林堂『月刊漫画ガロ』1983年4月号表紙(画・湯村輝彦

青林堂『月刊漫画ガロ』1968年5月号表紙(画・水木しげる

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第1回)「逮捕後の変態ロックバンド スターリン 遠藤ミチロウ」





 

先日、遊撃インターネットの管理人である北のりゆき氏(故・青山正明が編集長を務めた『危ない1号』では“死売狂生”というペンネームで書いていたライターさんで『危ない28号』にも寄稿していた結構スゴイ人)のご厚意により、未入手のスーパー変態マガジン『Billy』および『Billyボーイ』を10冊ほど完全な状態で入手することが出来た。

山崎春美のスーパー変態インタビューは『Billy』1982年1月号から連載が始まっており、第1回は遠藤ミチロウ第2回は明石賢生第3回は蛭子能収と、そうそうたる面子が並ぶ。

ちなみに『Billy』が本格的な変態路線に誌面を刷新するのは2月号からで、スーパー変態マガジンのコピーは3月号から見える。

この変態路線前の1982年1月号は、表紙からは割と清廉とした印象を受けるが、ページをめくってみると、ホモトルコや三島由紀夫そっくりさんSMショーなどなど、後の『Billy』の片鱗が存分に掴める内容となっている(それでも十二分におとなしめの内容だし、これに死体や奇形、お約束のスカトロをブッ込んだら完全に後の『Billy』になる)。

さて、このインタビューの冒頭で語られる山崎春美遠藤ミチロウの邂逅についてであるが、山崎の回想によれば遠藤ミチロウは『HEAVEN』の編集室にコンサートチラシの束を抱えて、いきなり乗り込んできたのだそうだ。まるで群雄社周辺から発せられていた「磁場」のようなものに吸い寄せられたかのように。

ちなみに坂本龍一町田町蔵遠藤ミチロウ佐藤薫らが参加したインディーズ史に残る歴史的名盤『タコ』(山崎主宰のロックバンド「TACO」の1stアルバム)は翌1983年にリリースされることになる。

 

高杉弾インタビュー(自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長)

高杉弾(自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長)インタビュー

所収『Quick Japan』Vol.19(構成:竹熊健太郎

 

高杉弾とは


「メディアマン」を自称する編集者、ライターAV監督、評論家作文家ステレオ写真家、旅行家、企画家、観光家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家、ラリ公、廃人、天才詐欺師、天災カルト仙人一九五四年、東京生まれ。日本大学芸術学部中退伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長として数多の伝説を築く。

一九七八年秋、道端で拾った自動販売機のエロ本を通じてエルシー企画の明石賢生佐山哲郎と出会い、そのまま編集者になる。七九年より山崎春美隅田川乱一、八木真一郎ら日大芸術学部の仲間を巻き込んで伝説の自販機本『Jamを創刊。創刊号の企画で山口百恵のゴミを漁り、ホリプロ関係者を激怒させる。

七〇年代後半からエロ、性的逸脱、ドラッグ、ギャンブル、バット・テイスト、モンド・カルチャー等、アンダーグラウンドサブカルチャーの分野に多大な影響を与えた人物であるが、高杉名義での著書が四冊しかないため、その活動の全貌はつかみがたい著書に『メディアになりたい』(JICC出版局)などがある。

高杉弾あるいは『Jam』の影響を受けた著名人に青山正明村崎百郎蛭子能収山田花子赤田祐一山野一竹熊健太郎手塚能理子がいる。

現在はくも膜下嚢胞、糖尿病、結核、手足の痺れ、関節炎、睡眠障害、勃起不全、難聴、認知障害、健忘症、心配性、失語症、貧乏症、便秘、痔、歯槽膿漏、ニコチン中毒、五十肩、老眼、ノイローゼ、対人恐怖症など多くの病を得て隠居療養中。

独自の世界観からの表現活動を極めて気まぐれに続けており、金銭的利益追求を第一義とするマスコミや出版業界は嫌いとのこと。青林工藝舎の漫画雑誌『アックス』に不定期で寄稿する以外は、超逸脱的オンラインマガジンJWEbBのみで活動している。詳細な経歴については高杉弾による自筆年譜を参照のこと。

 

そのむかし、パソ通の「NIFTYServe」に高杉弾という自称仙人が、ひっそりとCB(チャット)に顔を出していた。

掲示板にも「高杉弾通信」という連載をもっていて、その人のプロフィールに『HEAVEN』の文字があったのを覚えている。

おそらく、オイラにとって『HEAVEN』との出会いはそこにあったのだと思う。

何度か話していくにつれ、その重い腰つきと謎めいた存在感にTHC特有の「悟り」を感じずにはいられなかった。

「ぜったい、なにかをやらかして昇華しちまったおやじだ」

そう確信した。

メディアになりたかった人、高杉弾こと佐内順一郎。その人こそ初代『HEAVEN』の編集長だと知ったのは、それからずいぶん後になってのことだ。

いわゆるサブカル誌を読むにつれ、それらの雑誌のルーツを紐解いていくと、なぜかどれもが『HEAVEN』に行きついてしまう

いったいそれはどんな本だったんだ?

知れば知るほど興味はやがて深いものになっていく

「幻の自販機本」といわれるその本に、興味は一層募るものの、時は80年の自販機本。今となっては、どう尽くしても手に入る見込みはなかった。

すでに神田・神保町は歩き尽くしていたが、当時のカウンターカルチャーのなかに、ぼんやりと、でも一直線に光を燈していた「ハイ・ディメンション・幻覚マガジン」とも「アンダーグラウンド・インテリ・マガジン」とも銘打たれたその本を、自分の中で幻のままでは終わらせたくはなかった。

 

幻の自販機本『HEAVEN』にUGルーツを追え!」より

 

はじめに

●『Jam』『HEAVEN』関係者インタビューも、いよいよ大詰め。トリをつとめていただくのは、脳内リゾート研究家にして『メディアになりたい』等の著書でも知られる「作文家」の高杉弾氏だ。これまでの連載でも触れていた通り、高杉氏は本名の「佐内順一郎」で一九七八年暮れから八一年初頭まで『Jam』『HEAVEN』の編集長を勤めていた。

●筆者(竹熊)が直接高杉氏とお会いしたのは、比較的最近のこと。初対面の際、それ以前から筆者が勝手に抱いていた「高杉弾」のイメージとあまりに一致していたので、感心した覚えがある。

●氏のイメージを一言で言うなら「和製アンディ・ウォーホル」。内なる虚無を逆手に取り、あたかも真空掃除機のようにさまざまなイメージや人物を吸い寄せるウォーホルの才能は、実に編集的で、そのまま筆者の高杉弾像と重なる。ニヒリスティックなポーズの狭間に、時折り少年的好奇心が顔を覗かせるのもウォーホル的だ。となると、数々の異才を引き寄せた『Jam』編集部は、さながら和製ファクトリーと呼ぶべきか。

●そういえば『宝島』七九年一二月号に、氏が本名で『Jam』を自ら紹介した文章が掲載されているのだが、文中、佐内と高杉がまるで別人物のように書いてあるのを見てニヤリとさせられた。どこまでも虚実の狭間に身を置くのがこの人らしい。最近はライターとしての活動がメインのようだが、どこかで氏にメディアをまかせる「太っ腹」なスポンサーはいないだろうか。(竹熊)

 

高杉弾というペンネーム

───高杉弾というペンネームは植草甚一*1さんがつけたって、本当なんですか。

高杉 そう。植草さんが考えてくれたんだけど。三回ぐらいしか会ったことないんだけど。経堂の喫茶店で会って。俺の本名、佐内っていうのは、珍しすぎて覚えられない名前だから、名字は自分で考えて、高杉っていうのがいいんじゃないかなと。それで名前が考えつかないんですよねって言ったら、じゃあ君は鉄砲玉みたいな人だから、弾という名前はどうですかって言われたの。ああ、タマかと思って。

でもそれ、香港あたりで言うと、すっごい変な名前だと思うんだって。中国語って漢字の意味が一個しかないから。読みも一個しかないでしょう。弾は「ダン」でしょう。それで高いっていう字は、「コウ」というのは、一文字で名字だと思うらしいんだ。それで「杉弾」というのが名前だと思うらしいんだ。それで「チャンタン」と言うんだけど。すっごい変な名前なんだって。「杉でできたピストルのタマ」っていうのが、イメージであるらしいんだね(笑)。

(群雄社出版『HEAVEN』1980年12月号より。「オナニー&メディテーション」のキャッチフレーズに恥じない意味不明企画)

 

ミニコミ時代

───高杉さんは日芸時代『便所虫』*2ってミニコミをやられてたわけですよね。実は今日持って来たんですよ。コピーなんですけど。

高杉 ああ、懐かしいね。一九七五年の一三号……あらら。小竹町に住んでた頃のだ。

 

──途中から『BEE-BEE』って誌名になって。

高杉 どこから『BEE-BEE』になったのかな。えーと……二〇号からか。この段階で一三号ということは、月刊ぐらいで出しているはずだから。七四年からだね。

 

───七〇年代の頭ごろって、面白い雑誌がポコポコ出てたでしょう。

高杉 うん。植草さんの『ワンダーランド』*3とか、唐十郎さんがやっていた『ドラキュラ』*4とか。あとなんだっけ黒の……。

 

───『黒の手帖』*5?

高杉 『黒の手帖』。面白かったよね。あと、あの頃は雑誌だけじゃなくて、ジミヘンだのジャニスだの生きてたから。オーティス・レディングも新曲でヒットチャートで聞いていたわけだし、そういう時代の雰囲気みたいなのがあって。俺も中学時代に、やじ馬でデモを見に行ったりとか、親戚に中核派のやつがいて、お前も来いとか言われて、行ってたりしてたから。なんかそういう時代の気風が、一番面白い時だった。

一方で、家族とか学校とかの日常の社会があるでしょう。そういうののつまらなさと、時代の面白さと、ギャップがものすごかったから。中学生としては、頭を錯乱させられるわけじゃん。それでギャップを埋める方法というのを考えるわけでしょう、自分なりに。そうすると、たとえばジャズとか黒人音楽とか。そういうものにひかれるマインドというのが自然にできあがっちゃうわけだよ。

まあ、それがフォークだったりする人は多かったけどね。俺達の周囲二、三人はドアーズだったり。ローリング・ストーンズだったり、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドだったりするわけだよね。俺はその頃から少数派だったよね。

 

日芸で出会った仲間

───それで日芸に入学されて、後に『Jam』をやる仲間と出会うわけですね。

高杉 最初は誰かな。順序がよく分からないんだけど。真之助(美沢真之助隅田川乱一*6に会ったのは二年生だよ。確か。それから山崎春美*7、坂本ナポリ*8ナポリは今、どこかの音楽事務所でマネージャーやってるよ。

 

───近藤十四郎*9さんは、後輩にあたるんですよね。

高杉 近藤は一コ下かな。でも、俺達の場合、学年っていう概念があまりなかったんだよ。留年してたりさ。浪人してきたやつもいたからね。

 

───まあ、年齢的にはメチャクチャ。春美さんはだいぶ若いでしょう。

高杉 うん。春美はけっこう後だよね。そのへんの前後関係は、ちょっとあいまいだけど。俺自身五年ぐらいいたからね。日芸には。

 

───それで『便所虫』を始めるきっかけというのは、やはり美沢さんとの出会いが関係してくるんですか。

高杉 いや、関係ないと思うよ。真之助に会う前からやってたから。

 

───『便所虫』は、なんかサークルみたいになっていたとか?

高杉 サークルっていうか……学校へ行っても授業なんて出ないから、居場所が欲しいなと思って。文芸学科の四階にロッカールームがあったんですよ。それでロッカーを勝手に移動して、囲いを作っちゃって。そこにじゅうたんを敷いて、レコードプレーヤーと酒を置いて。サロンみたいにして、くつろいでいたわけよ。じゅうたんの上に寝っ転がって。

それであの頃は、パンクがはやっていた頃かな。セックスピストルズが出始めた頃だ。レコード買って来て、そのロッカールームで聞いてたね。そこに真之助とか女の子とかが大勢来て、なんかいかがわしい世界でしたけどね。学校の中では、完全にあいつらは不良だからとかって言われてたの。

 

───(笑)でも芸術大学でしょう?

高杉 まあね。だけど普通の学校だったよね。芸術家はどこにいるんだっていうようなさ。体育系のやつとかいるでしょう。そういうやつが妨害しにきたりして。俺達が壁になんか張ったりさ、『便所虫』を食堂とかにドサッと置いとくわけですよ。印刷できると。それ全部持って行かれて、焼かれたりしてた。学校の中で好き放題やってるようなやつなんか、連中にとって邪魔なわけだから。

 

───なんでそんなに嫌われてたんですか。

高杉 いやあ、やっぱり学校のキャンパスで一升瓶出して酒飲んだり、マリファナ吸ったりしてたからかな(笑)。

高杉弾の個人誌『便所虫』。同級生の女子をブス順に実名でランク付けする鬼畜企画など『Jam』につながるアナーキーなセンスはこの頃から既に健在だった。末期には隅田川乱一山崎春美も寄稿。後に『BEE-BEE』と改題し『本の雑誌』主催の「輝け!第一回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」で優勝した

 

『Xマガジン』と『Jam』

──それでエルシー企画に関わられた話を聞きたいんですけど。最初にSさん*10や明石さん*11と会われたわけですよね。

高杉 えーと、Sと明石は、会社に遊びに行った当日に会ったんですけど。そもそも俺は、拾ったエロ本に載ってたパンティストッキングの写真にグッときてさ。これ撮ったカメラマンに会わせてくれってエルシーに行ったわけ。そしたらSがいて、岡さんというカメラマンがいて、それから明石が来て。それでソファでこうやってしゃべってて。この写真を撮った武蔵野大門というカメラマンは誰なんだって言ったら、明石が俺、俺って。なんのことはない、武蔵野大門って、明石のカメラマンとしての名前だったんだ。

それで話してたら、「今、仕事どうしてんの?」って言うから、その時、俺、なんにもしてなかったからさ。「じゃあ、八ページやってみない」って。

 

(Xランドは高杉弾隅田川乱一コンビが、商業出版として初めてこしらえた八ページ。内容は独立宣言、架空のヒットチャート、Xインタビュー、ロックアルバム紹介、小説など。『Xマガジン』~『Jam』の原型となった)

 

───そのあと、もう『Xマガジン』*12?

高杉 そうそう、まるまる一冊やったのは、『Xマガジン』が最初だった。ほとんど真之助と二人でやったわけだよね。

 

───なるほど、それで「爆弾企画」と銘打って「芸能人ゴミあさり」*13をやってるわけですけど、最初にかたせ梨乃やってるんですよね。この時は全然話題にならなかったでしょう?

高杉 うん。それで誌名が『Jam』*14になって、百恵をやったのが二回目。芸能人のゴミというものに興味があってさ。本当は第一回でいきなり百恵をやるはずだったんだけど、住所が分かんなかったんですよね。

 

(『Jam』創刊号より「芸能人ゴミあさりシリーズ」)

 

───あれ、すごく話題になったじゃないですか。栗本薫*15があれをネタにして小説書いたり。それから『微笑』*16で記事になったの見た記憶ありますよ。

高杉 うん。『微笑』の記者はすっ飛んで来たね。最初に。でも、そんなに話題になってないでしょう。自販機だもん。自販機なんて、一般の人は買う本じゃないしさ。

 

───まあ、買ったって、買ったことを言わないような雑誌ですよね。

高杉 うん、だからそんなに思うほどは話題になってないですよ。

 

山崎春美

───山崎春美さんの話も聞きたいんですけど。どんな人だったか。高杉さんから見て。

高杉 俺から見たら、真之助も春美も別に変な人じゃないんだよね。普通の人なんだよね。ただ春美は物を考える時のやり方とか、現実に対する見方っていうか、見る方法が違うんだよね。つまり脳味噌の回路が違うんだ。

現実は、一つじゃないから。人間の数だけ現実は、あるわけだよね。現実っていうのは、一人一人の脳味噌がつくり出すもんなんだよね。そこが違うだけだからさ。全員、違う現実を見てると考えれば、皆、同じなんだよ。そんな、特別一人だけ変な人なんていないんだよ。

 

───でも面白かったわけでしょう。山崎春美さんは。

高杉 面白かったですね。文章書いたりさせると、面白いんだよ。言語感覚がね。変わってるよね。

 

───インテリジェンスと幼児性が混ざっているような……。

高杉 それもあるし、いろんなのが混ざってるね。コンプレックスと、何かなあ。あいつ、意外と野望がある人でね。野望っていうか、欲望の強い人なんだよね。たぶん育った環境とか、親のこととかあるんだろうけど。野心を持つタイプの人なんだよね。

 

───成功したいとか?

高杉 うん、そう。成功したいとか。自分の思い描いている理想の現実っていうのに近づいて行きたいっていうか、環境に対する欲望とかね。そういうの強い人だと思うから。そういうことが文章の中にもにじみ出るし、面白いですよ。根はシンプルだよね、あいつ。すごくきれいな人だよね。

(終刊号となった『Jam』特別ゲリラ号に掲載された「X人名事典」。第2回は1980年の『HEAVEN』2号に掲載。第3回は2017年の『Spectator』39号パンクマガジン『Jam』の神話」に持ち越された。いずれも山崎春美による)

 

鈴木いづみ

高杉 あとなに? 鈴木いづみ*17?

 

───うん。鈴木いづみ

高杉 そう言うと思った。なんで鈴木いづみに書かせたいと思ったか忘れちやったけど。俺も鈴木いづみのファンだったからかな。電話したんだよ。電話の時、俺、風邪ひいててさ。声がガラガラ声でさ。いきなり「あんた、声いいわねえ」って言われて(笑)。こっちは風邪ひいてただけだったんだけどさ。それで会って、原稿頼んで。その時に、阿部薫になんか似てたんだって。俺が。

 

───ああ、山崎春美じゃなくて?

高杉 山崎春美の前にね。それで、気に入られて、書いてもらったんだよね。それで春美に紹介したら、春美のこともすごい気に入ってて。

 

(群雄社編集局長の佐山哲郎が編集長を務めた『NOISE1999』2号掲載、山崎春美鈴木いづみベッドインタビュー」より。鈴木いづみは伝説のサックス秦者・阿部薫の妻であり『恋のサイケデリック!』等の著作を持つ、これまた伝説の小説家。1986年に自殺した。山崎春美をモデルにした小説「ラブ・オブ・スピード」は文遊社から刊行されている『鈴木いづみコレクション3』で読める

 

───気に入っちゃって。

高杉 うん。彼女、だいたいそういう人だからさ。目移りの激しい人だから(笑)。それで大変でしたよね。最初、俺、原稿取りに行っててさ。夜中の三時頃電話がかかって来て、今から来いとか、メチャクチャだったから。もう嫌になって。春美とかに原稿取りは任せちゃった。

原稿取り以外、個人的に呼び出されたことは、もう数知れずだけどね。俺、品川に住んでて。あいつ野方かなんかに住んでてさ。電話かかって来て、夜中の三時頃。「今から新宿まで来い」って。「どうやって行くんですか。電車ないし」「タクシーでもなんでもいいから、来い」「来ないと来月の原稿書かないぞ」って。新宿まで行って、なんか喫茶店とか引きずり回されて、しょっちゅうだよ。そういうの。

 

───けっこう、孤独な感じだった?

高杉 だと思うけどね。まあ、よく分かんない。気まぐれでしょう。

 

───身体とかボロボロだったんですか?

高杉 そうでもない。元気だったよ。それはもう、あちこち遊び歩いたね。それで彼女、小説も書いてたけど。どこどこの担当編集者はアホだとかさ。早川書房のやつとか、あちこちの編集者に文句言ってたね。

 

───なんか、悪口を延々聞かされるんでしょう。他人の悪口を。

高杉 それはあった。だけど、あの人はやっぱりすごい人でさ。なんにもしゃべんなくても、一瞬の人の表情とか、一瞬の気持ちの現れとか、流れとか、そういうものを見てる人だから。すごい人ですよ。やっぱり。ものすごく頭のいい人だからね。

 

マンガの話

 

(『Jam』4号より蛭子能収「不確実性の家族」※再デビュー作)

(『Jam』5号より渡辺和博ハード・キャンディー」)

 

───あと蛭子能収さんを復活させたのも、『Jam』でしょう。

高杉 ああ、あの頃の蛭子さんはもう『ガロ』に描かなくなってて。マンガも全部辞めて、長崎に帰ろうかなとか言ってたの。だからまあ、帰っちゃうのはしょうがないけど、その前に、ちょっとだけうちの雑誌に、マンガ、毎月一本でいいから描いてくれませんかと言って。原稿料はちゃんと出しますからって。それでやってもらったら、他からも注文が来るようになってさ。今はもうタレントになって良かったよね。だからあの人、なんかバカの一つ覚えみたいに、「自分がこんなふうになれたのは、高杉さんのおかげです」とか言ってんだけど、本当にそう思うんだったら、金貸してくれって(笑)、俺は言いたいんだけどね。

 

───それはそれ、これはこれでしょう。

高杉 一〇〇万ぐらい貸してくれてもいいのになあ。あの人もケチだからね。頭もおかしいしね。

 

───『Jam』の時の蛭子さんは、もう気が狂うほど、面白かったですね。

高杉 なんか変だったよね。面白かったよね。だから蛭子さんとかナベゾ渡辺和博)とか湯村(輝彦)さんとか、皆、『Jam』でマンガ描いてもらってね。それで『HEAVEN』*18になった時、カラーページ使えるようになったから、マンガに色をつけて。当時、蛭子さんのマンガを四色でやるなんて、誰も考えなかったでしょう?

 

───あれ、湯村輝彦さんがカラーリングしたんでしょう。

高杉 そう、その時、湯村さんが一番面白かったから。

 

───本人に色をつけてもらうということは、考えなかったんですか。

高杉 それは考えなかった。やっぱり、マンガ家というのは、マンガだけ描いてりゃあいい。

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(群雄社出版『HEAVEN』1980年11月号/1981年3月号より)

 

明石「太っ腹」伝説

───『HEAVEN』は、どれぐらい予算かかってたんですか。

高杉 知らない。そのへんは、俺、聞いたことないし。金のことは考えたことはないから。

 

───確か近藤さんに聞いたら、一番出てた時が三万部出てて。

高杉 すごいね。ほんと? 俺は部数とか予算とか全然分かんなくて、それは明石に任してたからね。

 

───これは小耳にはさんだんですが、他の部署ではまともなエロ本を作ってたわけじゃないですか。その人たちとちょっと確執があったとか、なかったとか?

高杉 俺はあまり感じたことはないけど。向こうというか、そういう人達は思っていたかも知れないけど。

 

───俺達が稼いでるのに、あんなところで金を使いやがってみたいな感じで。

高杉 ああ、群雄社の内部で? それはあったかも知れないね。でも関係ないわ。俺はその人たちの部下じゃないんだから。俺のボスは明石なんだから、明石がいいよって言ってる間はやるし、明石が辞めろって言ったら、即辞めると。最初からそう思ってるから。

 

───明石さんとしては、エロ本で稼いで、一方で『HEAVEN』とか、なんかああいう文化的なものというか、変な言葉だけども、そういうのをやりたかったらしいですね。

高杉 そう思うよ。だからまあ、優遇はされてたよね。だって、あんな儲からない本に金かけてくれたんだから。明石はとにかくいい人だよ。太っ腹。ザルとドンブリが一緒になったようなやつなんだ。

池袋にエルシー企画があった頃、『Jam』の仕事やってて、そろそろ帰ろうかなあと思ったら、明石が、いきなり三万ぐらいくれるんだよ。「風呂行って来い、風呂」って。くれるんだよ。現金を。あれ、ありがたかったね。「本当にいいんですか」って。それで三万もらって、そのうち一〇〇〇円ぐらい使って、うまいもの食って。

 

───風呂行かずに?

高杉 とりあえず食ってさ。そのまま帰ろうかなと思ったんだけど、やっぱり風呂行けって言われたんだから、行ったほうがいいだろうなと思って。だからとにかく飯を食わせてもらって、風呂も行かせてもらって。それが一番ありがたかったね。

 

───他人におごって、そのまま昇天しちゃった人生みたいな感じですよね。

高杉 いや、ほんとそうでしょうね。本当にザルとドンブリだよね。いやあ、明石には頭、上がんないですよ。『HEAVEN』の後はあんまり会わなくなってたけど、もし、また印刷物やるようなことがあったら、いつでも呼んでくださいって言ってて。もうノーギャラでもなんでもいいし、手伝うからって言って。でも、死んじゃったからねえ。しょうがないけどね。

(ありし日の明石賢生氏)

 

編集長交代劇

(群雄社出版『HEAVEN』1981年2月号より。高杉弾に次いで近藤十四郎二代目編集長に

 

───八一年に『HEAVEN』の編集長交替劇*19がありましたよね。近藤さんや春美さんからは既に話を聞いてるんですけど、高杉さんからも聞きたいので。

高杉 あれは、よく分かんないんだけど。俺の印象としてはね、制作予算の中から、近藤とか、スタッフのギャラを出してたでしょう。それで俺が異常に取ってたんじゃない? だから配分の問題が……なんでそんなに使うんだとかなっちゃって。なんでお前がって。

だけど冷静に考えればさ、仕事量としては、圧倒的に俺が多かったから。編集者とカメラマンもやったし、イラストも描いてたし、コラージュも作ったし。版下まで線引いてたわけだから。今で言えば、編集者と作家とデザイナーを一人でやったようなもんでしょう。だから俺に言わせりゃ少ないぐらいだよ。もっとくれって言いたかったけどね(笑)。

 

───そうすると、編集方針の違いとか、そういうわけではなかった?

高杉 それはないでしょうね。だって編集方針なんてないんだから。皆が思いついたことを、ページの許す限りやってたわけだから。だから俺の企画ばっかり通って、他の人の企画が通らないとか、そういう文句は全然なかったよね。

 

───それで高杉さんが辞められてからは、事実上、山崎春美さんが『HEAVEN』編集長ですよね。名目上は近藤さんだけれども。

高杉 まあ、そうだね。

 

───僕としては佐内(高杉)路線も山崎路線も両方面白かったですよ。どっちもアナーキーであることには変わりはなかったし。

高杉 春美は作家的な部分はやれる人だけど、編集者のタイプじゃないでしょう。まあ要するに、そういうギャラの配分の問題と、あと春美なりに『HEAVEN』を作りたいという意識があったのかも知れないね。

 

───なんか、近藤さんの見立てでは、もっと春美さんなりに字の詰まった雑誌、というか、もうちょっと普通の雑誌にしたかったっていう。何が普通だか、よく分かりませんけど(笑)。高杉さんは、もっとビジュアル的じゃないですか。ページのあちこちにいろんな図版をポーンと持って来たりとか。

高杉 うん。俺、もともと字より絵のほうが好きだからね。空間を広くとったスカスカのデザイン、好きだし。そういう違いはあったかも知れないね。とにかく、そういうギャラの話も含めて、そっちの方針でやりたいんだったら、俺は全然構わないし。俺も編集者二年もやって、体を悪くしてたから。

まあ、編集長辞めるのは、こっちにとっても、ちょうどいいタイミングだった。もう飽きてたからね。つまり雑誌なんて、一〇冊ぐらい出せば、やりたいこと全部できるじゃん。あとはもうマンネリになるし。今『HEAVEN』を見ると、だせえなあと思うもんね。古い。『Jam』のほうが面白いね。『HEAVEN』と『Jam』を比べたら、はるかに『Jam』のほうが面白いね。

 

もう雑誌は作らない

───これから雑誌作ろうなんてことは?

高杉 もう無いね。面倒臭い。まあ……楽に作れるものであればね。だけど、俺自身は無一文に近い人間だし、俺に雑誌作ってくれっていう人間なんていないと思うし、まあ無理だね。それよりも、それこそタイの島*20でのんびり暮らした方がいいよ。もう忙しいの嫌だしさ。余生を楽しむって感じで。

 

───ちょっと早い余生ですね(笑)。

高杉 だけど俺病気だからね。糖尿と、結核は今のところ再発してないけど。あと、脳みそおかしいからなあ。糖尿が一番重いね。足動かないし。電車とか乗れないしね。座ってるといいんだけど、立ってられないんだよね。歩いてるとまだいいんだよ。止まって立ってられなくて。足が痛くて立ってられなくなっちゃうんだよ。

 

───糖尿ってインシュリン打ってるんですか?

高杉 打ってますよ。インシュリン高いんだよ。なんか価格が変わったんだよ、三日ぐらい前に病院にインシュリン買いに行ったんだよ。一ヶ月分のインシュリンで一二〇〇〇円かな。信じらんないよ。病院が儲けすぎてるよ。糖尿病に対する意識が間違ってるんだよ。栄養取りすぎて贅沢病って思われてるだろ。全然それはウソだから。遺伝なんだよ。だから別に贅沢したからなるものじゃないし。

 

───でも、可能であればまだそういう気分はあるんでしょ? 雑誌は無理でも自分の本書きたいとか。

高杉 ん……原稿は頼まれれば書くよ。頼まれないと書かない。面倒臭いしね。だって、今年(編注・このインタビューは九七年に行なわれた)になって連載している雑誌二本つぶれたろ。今レギュラー一本も無いんだよ。一回目の原稿入れた雑誌があるけど、あれ二回目ボツったからな。天皇の話書いちゃったから。もう日本じゃ仕事できないなあ。別に仕事無くても金さえあればいいんだけど。

俺はね「こういうことはやめろ」とか人に言われるのが嫌なんだよ。「こうしたほうがいいよ」とかアドバイスされるのはいいんだけど。人がやろうとすることをなんで止めるのって。俺気持ちいいと思ってやってるんだからいいじゃないって。

 

───とりあえず誰にもかまわれない世界に行きたいってことでしょ。

高杉 そうそう。でもとりあえず日本国籍があるからなあ。日本国籍があると日本の法律に縛られるでしょ。でもね、日本人止めて無国籍にもなれるんだけど、結構大変なんだよ、旅行するときパスポートとれないし。俺はナショナリティはいらないんだけどパスポートは欲しいんだよな(笑)。

いずれにしても完璧に食えなくなりましたね。今、ひと月どのぐらいかな。競馬の予想屋で入ってくるぐらいだから二万円ぐらいか。

 

───あとはどうなさってるんですか?

高杉 だから、借金ですよ。今はすごいよ、俺みたいな人間にも金貸すやついるからね。恐ろしい時代だよ。月一万返済で借りると年利が一八%とかだから一二〇ヵ月とかで借りられるんだ。一〇〇万借りて二八〇万返せばいいんだから。目の前に食えないって事実が迫ってるからもう借りるしかないじゃん。そろそろヤバイんだよ。衝動的にテロに走る可能性はあるね。

 

───銀行強盗とか?(笑)

高杉 そうそう。置き引きとかさ。だから、そういうのは避けたいからタイへでも行ってハンモックから動かない生活がしたいんだよ。病気で貧乏でどうしようもないよな。病気、借金ある、仕事ない(笑)。

 

───いっそ私小説書いたらどうですか。

高杉 どうせ書くならコメディーにしたいよな。もう暗いの通り越して、貧乏とかがわかんなくなっちゃってて、頭ぶっとんでさ。

 

───涅槃状態になっちゃってる(笑)。

高杉 そう。もうすごいこと考えちゃってるってやつ。そういうのがいいんじゃない。小説も、何月何日までに小説を五〇〇枚書いて下さいっていったら俺は書くよ。簡単だもん。

 

───自分で書いて持ち込みとかはしないんですか。

高杉 しない。だって面倒くさいじゃん。歩いたりするの。

(『BEE-BEE』22号「次回予告」より)

 

山崎春美/WHO'S WHO 人命事典 第3回

高杉弾〔たかすぎ・だん〕

美沢さんがいたから見えた、知れたんだ。地平が展けたんだ。『十戒』のように? なんてこったと頭を抱えているのはたぶんC・ヘストンは共和党員で保守だったから、ちがうだろうって? 海が割れて裂けるときにいったい水道管の修繕に駆けつけた、まさにそいつはココロの親分の領域としてならあのスタイルで居続けてくれていたから、したがって野心からは程遠過ぎて、クラーク博士の激怒から破門は必至とはいうものの彼(か)の地、北海道にはさまざまな植物が自生していて、そのあたりの事情は三島(由紀夫)の「憂国」と並べて掲載(『中央公論』)されたという「風流夢譚」発表直後の「嶋中事件」で、常時の護衛が附いていた。それが西暦一九六〇年、昭和で三十五年。だから? だからね。編集長でいられた、という一種の陰口めいた本音も成立はするだろうが、もっと言えば、明石(賢生)さんに似て「頁は渡す(任せる)が口は出さない」「なにもしない」編集長であったからこそだ、とは間違いなく言える。「責任は一切とらない」ことを錦の御旗に掲げて「メディアになりたい」などと平気で、それも真顔で! 宣うた点も『Jam』『HEAVEN』というケッタイな媒体、何がしかの本質を支えた。

それはそうと彼には渾名がなかった。そもそも完全な「シラケ世代」の先頭を切るつもりならまず、ニックネームで呼び合うのは止めなくてはならない。ただ齢(よわい)差おおかた三つ四つは上方に年が傾く現実世界(単に年上が周りに多い)では、シンノスケであり近藤オムであり、その格好のサンプルとしてなら、たとえば本来、つまりは通常の社会常識規範からすれば、いかな現代といえどこの会場の中心に座っているべき高杉弾がでもね、もしいたりしたら今夜のこのイベント(「山崎春美と『Jam』『HEAVEN』の時代」/東京・銀座・EDIT TOKYO、二〇一七年三月二十二日)が、どんなに味気ない、徒に空疎で現実性に乏しく、みのり、まるで無き、どころかマイナスであって、衆愚の、実に真骨頂を極めて堕したことだろう。最低。ああ、ばかばかしい! 高杉弾はもちろんまだ生きている(んじゃないか?)だのに! ここにはいない! すばらしい! 完璧だ! それこそ彼の十八番であり且つまた、ひたすらに、いやこの辺で中断しなければなるまい。トークにお後は委ねたく。

(『Spectator』39号「パンクマガジン『Jam』の神話」より)

 

高杉弾/倶楽部イレギュラーズ 第4回「寝ててお金が儲かりたい」

みなさんこんにちは。私が最近「カルトの帝王」とか「不労所得の王様」とか「懲りない馬券王」とかいろいろ噂されている高杉ネーブルティーマスター(臍が茶をわかす)弾と申す者です。しかし世間の呼び名がぜんぶ「王様」なのが凄いですね。わはははは。

ところで私の銀行振り込み口座は「住友銀行・目黒支店・普通口座・0711926・高杉弾」ですが、最近この口座への無意味な振り込みが後を断たないのはいったいどうしたことでしょうか? エノモトカズオさんからは3000円、タカハシサトルさんから2000円、ワタナベトモコさんからはなんと12000円もの無意味な振り込みがありました。これら無意味な振り込みはすべて私がありがたく着服させいただいておりますが、いくら無意味な振り込みを続けても私は貴様らに対して何の見返りも用意してないのでそのつもりでいなさいね。

それはそうと、最近うちのFAXに「コカインください」とか「当たる馬券教えろ」とか陰毛丸見えのビデオ送れとかが殺到してますけど、そういう無駄FAXはやめてください。コカインとか当たる馬券とか陰毛丸見えのビデオとかは貴様らではなく私が欲しい物です。そういう無意味なFAXには「現金送れ」という返事を出しますからね。

それからFAXに電話をしても「ぴーぴーがーがー」いってるだけで何も聞こえませんよ。無駄ですよ無駄。こっちはうるさいだけなんだからね。

そりゃ私だってね、働かないで月に百万ぐらいは稼いでますよ。今の世の中、働いて稼げるお金より働かないで稼げるお金の方が多いに決まってますからね。一生懸命働いてるなんか単なる御苦労さんですよ。たいした者ですよ働いてる人は。私、働くの嫌いですからね。寝ててお金が儲からなきゃ嫌ですね。嫌ですよ、寝ててお金が儲からなきゃ。寝ててお金が儲からなきゃイヤなんだもーん。

だからね、こないだもロシアにクーデターが起きてバルチック艦隊が攻めてきた時なんか私、翌日にはモスクワ行ってましたよ。共産主義はもう駄目だっていうんで、ロシアの偉い人はもう全員資本主義のこと勉強しはじめてますよ。でね、私、ロシア人相手に資本主義の通信教育やろうと思ってね。モスクワの教育委員会の人と会ってたのね。「すぐわかる資本主義」ていうテキスト、とりあえず二千部ほど売ってきましたけどね。私は別に働かないですよ。みんな手下がやるの。私はクーデター見物ですよ。エリチンとお茶飲んだりしてね。もう大変ですよ。

だからね、ロシアはこれから一生懸命資本主義の勉強するわけでしょ。アメリカのマネしてね。だからね、ロスケにマリファナ売ったら儲かりますよ。モスクワのアンディ・ウォーホルとか、ロシアのギンズバーグとか養成するんですよ。通信教育でね。

これからロシアにも色んな奴が育ちますよ。ロシアのマクルーハン、モスクワのジミ・へンドリックス。ウラジオストックから出てきた女のロック・シンガーが麻薬で死んだりしなきゃ駄目ですよね。

モスクワの郊外にヘイト・アシュベリニコフていう街があるの、知ってますか? マリファナ吸ってラリッてる若い芸術家が住んでる街。「モスクワ・セブン」て呼ばれてる指導者もいますよ。ジェリー・ルービンニコフていうのが大将でね。もう大変ですよ。

お土産は「ペレストロいか」ね。薫製になってるイカですけどね。不味いから捨てましたけどね。ロスケの食い物なんて全部不味いですよ。マクドナルドがモスクワで売ってるハンバーガーね、あれ本当はハンバーグ入ってないですよ。シベリアで働いてる労働者の靴の底を焼いて入れてるんですよ。噓だと思うでしょ? 私も嘘だと思いますけどね。噓かも知れないし本当かも知れないですけどね。そんなことわかりませんよシロートには。

だからね、誰だって大変なんですよ。余裕なんかないですよ。日本もこれから二十年間不況が続くらしいですよ。二十年ですよ二十年。物価がどんどん上がってね。食パン一枚が一万円になるんですよ。だからね、今から食パン溜めといた方がいいですよ。腐らないように溜めといた方がいいですよ。食パンがお金の代わりになるんですよ。十パンあれば家賃ぐらい払えますよ。だからね、ウチのFAXに電話してもパンは貰えませんよ。「ぴーぴーがーがー」いってるだけですよ。一枚一万円ですよ。お金振り込んでから連絡してくださいね。そうすれば封筒にパン入れて送ってもいいですよ。場合によってはね。送るかも知れないですよ。

だからね、これからは寝ててお金儲けなきゃ駄目ですよ。私ら遊ぶのに忙しくて働くヒマなんかないですからね。寝てる時しかお金稼ぐ時間ないですからね。そうでしょ? 違いますか? そうでしょ?

(『月刊漫画ガロ』1992年2・3月合併号より)

 

高杉弾/倶楽部イレギュラーズ 第7回「春の嵐と心の旅」

春の嵐がまた私の心の中にやってきました。最近、私の周囲にもいよいよ本格的なヤキが回りはじめており、不況は私たちのようなチンピラのところに最初に回ってくるものだと、しみじみ感じております。もうどこにも、なにもありません。部屋から一切外へ出ず、体重は四十二キロに減り、血圧は下がり、睡眠時間を一日平均十時間とって、この極端な精神衰弱状態に耐えているところへ、病院に勤める知人から再三再四入院勧誘のお電話があります。

頭は錯乱し、腹は減り、猫は部屋中を駆けずり回る狂乱状態の中で「はいはいはいはい、そのうち行きますからね頑張ってくださいね」などと生返事をする今日この頃でございます。私にはもう生きている実感などどこにもないのです。自分と他人の区別がつかない状態が板に付いてしまい、起きていても夢を見ているような心地でひたすら食べ物のことを思い浮かべています。髭は伸び、身体中に垢がたまりました。何も考えられず、猫と一緒に床で寝たりしています。突然頭が重くなり、あまり面白くない駄洒落を思いついてへらへら笑っています。そうこうしているうちに部屋代と借金の支払い日が迫り、返済できないので高利貸しから借金をすると外はもう夜です。風の音がひゅうひゅう耳に突き刺さるように感じ、また自殺衝動が訪れます。

目に見えるものが意味を失ってただの形にしか見えず、胃には次第に黒い幕が降りはじめて、東京にも春がやってきました。蒲団にもぐり込んで震えているうちにいつしか眠ってしまい、悪夢にうなされてがっくりと疲れ、やがて朝が訪れると低血圧状態で猛烈に腹が減っています。ぼんやりとした光の中で、私はまだ自分が生きていることを確認します。なにか食べなくてはいけないと思い、冷蔵庫から魚を取り出して鱗を削ぎ落とします。友人からの手紙によると、織田信長はとうの昔に失脚しているとのことです。窓の外には桜が咲いて、今年も笑いながら歩く人たちの生活が路上の水溜まりに滲み込んでいくようです。旅の心もすっかり忘れてしまった頃に、私は故郷の野山を駆けめぐることを思い出して涙を流すこともありました。散歩と週末の競馬だけが人生の楽しみとなって、社会はどんどん私から遠ざかっていきます。嘔吐と暴食を繰り返し、鏡の中に悪魔の姿を見て、絶望の淵に立つ孤独と真紅に色どられた躁鬱を呪う言葉を吐き続けます。鍋ややかんは路傍の石にも似て何も語らず、黒い緞帳は私の人間芝居を厚く覆い尽くします。猫がにゃんと鳴き、鴉はかあと鳴いて陰欝な夕陽がこの世を焼きつくし、やがて来る闇の大王の囁きに耳を傾けるとき、私は一匹の野獣となってご飯を食べます。きょうのおかずはさんまのかば焼き。昨日よりも不幸の度合いが増して、憔悴がにじり寄るように私に微笑みかけている。自殺すらできない不幸な私。私はもうとうの昔に死んでいるのかも知れない。

病院は暗黒の遊園地、そして社会は明るい墓場のように感じられます。春はまぼろし、淡い光の中を大勢の亡者が笑いながら走って行く。硝子のように透き通った蛇がにやにや笑いながら私にすり寄ってきて「お前ももうおしまいだね」と囁きます。水道管の中を這いずりながら前に進む私。ああバナナが食べたい。鳥の蒸し焼きも食べたい。病院では大勢の上海の老人が壷に入った紫の液体を柄杓ですくって水浴びをしています。私にはわからない中国語で、しきりに呪いの言葉を呟きながら。ああ蕨餅が食べたい。葛切りでもいい。そして突然の頭痛。私は床に伏せって暗黒の宇宙を想い、大理石の思念にすべてを集中しました。猫が五万匹死んでいます。人間も八人死んでいます。空からはもう九十日間も針の雨が降り注ぎ、地面は血の海となってどろどろに覆いつくされました。神も仏もあるものか。この世の地獄を思い知れ。お前なんか人間じゃない。二度と生まれてくるな。八百年間いじめてやる。目が醒めると妻が台所で野菜を刻んでいました。妻は悪魔の化身でした。私を監視するために悪魔が使わした化け物でした。気圧が下がり、脳が圧迫され、やがて雨が降りはじめました。借金の支払いが迫り、食べ物はなく、猫は鳴き叫び、激しい絶望と吐き気が私を襲います。関節が痛み、頭は混乱し、咽喉は乾き、どんよりと垂れこめる雲が私の精神を錯乱するのです。春の嵐は、まだ私の心の中から出て行こうとはしません。

(『月刊漫画ガロ』1992年6月号より)

 

高杉弾の単行本

メディアになりたい』(1984年)

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メディアマン高杉弾の最初の単行本

人間の脳こそが唯一絶対のメディアであり、いかなるシステムも脳を凌駕することはできないことを冗談と隠喩と悪ふざけによって説き明かした世紀の名著。すでに絶版。

定価980円・JICC出版局(現・宝島社)・絶版

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週刊本38・霊的衝動 100万人のポルノ』(1985年)

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自販機エロ本からビニ本、アダルトビデオまでの“ポルノ黄金期”を3時間に渡って一気に語り下ろした著者会心の講演録。図版多数収録。

定価680円・朝日出版社・絶版

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楽しいステレオ写真』(1993年)

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ステレオ(立体)写真の初歩から撮影手法、裸眼立体視の方法までを丁寧に解説した入門書。裸眼で見るステレオ写真108点収録。

定価650円・竹書房文庫・絶版

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香港夢幻』(1995年)

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香港・マカオを舞台にしたギャンブル小説。雑踏、屋台、グルメ、九龍城砦、骨董、麻薬…香港リピーターのためのスーパー・ガイドブックでもあります。

定価1300円・大栄出版・絶版

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*1:植草甚一

評論家・エッセイスト。戦前戦後を通じて映画・ジャズ・ミステリーを中心とした海外サブカルチャー紹介で活躍、七〇年代は『宝島』の責任編集を勤めるなど、日本サブカルチャーの父とも呼ぶべき人物。七九年に享年七一で死去。

*2:『便所虫』

高杉氏が七四年から刊行していたフリーペーパー。高杉氏の読書記録や身辺雑記の他、隅田川乱一のエッセイも連載されていた。二〇号から『BEE-BEE』と改題。

*3:『ワンダーランド』

七三年八月に創刊された植草甚一編集によるサブカルチャー・マガジン。現在の『宝島』の前身である。

*4:『ドラキュラ』

七三年秋に創刊された唐十郎責任編集の季刊誌。『家畜人ヤプー』の覆面作家沼正三インタビューが掲載されたことで有名。

*5:『黒の手帖』

七一年五月に創刊された檸檬社発行のアングラ・マガジン。植草甚一にドラッグに関する文章を書かせるなど先鋭的な編集で名をはせた。

*6:真之助

『Jam』『HEAVEN』のコンセプター&ライター。詳しくは『Quick Japan』一四号の隅田川乱一インタビューを参照のこと。

*7:山崎春美

『HEAVEN』三代目編集長。ミュージシャン&ライター。ガセネタ&タコのボーカル。詳しくは『Quick Japan』一六号の山崎春美インタビュー参照のこと。

*8:坂本ナポリ

『Jam』に山崎春美と合作で「ナポリ夢日記」を連載した。ちなみに坂本ナポリは本名。

*9:近藤十四郎

『HEAVEN』二代目編集長。詳しくは『Quick Japan』一三号の近藤十四郎インタビュー参照のこと。

*10:Sさん

S氏は謎の歌人にして元エルシー企画&群雄社出版局長。あのスタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』の原作者でもあり、麻耶十郎の名で官能小説家としても活躍した。詳しくはWikipedia「佐山哲郎」参照のこと。

*11:明石さん

明石賢生(故人)。エルシー企画&群雄社社長。合併アリス出版では副社長だった。出版界に数々の伝説を残し九六年に急逝。詳しくはWikipedia「明石賢生」参照のこと。

*12:『Xマガジン』

自販機初のアンダーグラウンド・カルチャーマガジンとして七九年創刊。『Xマガジン』は最初の一冊のみで、二号目より『Jam』に改題。

*13:「芸能人ゴミあさり」

有名芸能人の自宅のゴミを勝手に回収し生理用品までグラビアで一挙公開してしまったバチ当たり企画。日本における「鬼畜系」の元祖はこの記事から?

*14:『Jam』

 七九年創刊。山口百恵のゴミ漁りで名を轟かせ、以後トラックやパンク系の記事の他、この世のものとも思えぬ冗談企画を連発し、八〇年エルシー企画とアリス出版が合併したことを機に『HEAVEN』と改題。

*15:栗本薫

女性小説家。代表作は『グイン・サーガ』『魔界水滸伝』『伊集院大介』シリーズなど。山口百恵宅のゴミ漁り事件の件で高杉弾をモデルとした小説「イミテーション・ゴールド」を執筆しており低俗週刊誌の記者がスキャンダル記事をでっちあげるためアイドルの家からゴミ箱を盗み出そうとする様子を描いている。後に本作は角川文庫『天国への階段』に収録された。二〇〇九年没。

*16:『微笑』

祥伝社発行の女性誌。七九年五月二六日号において四頁にわたる『Jam』の批判記事を掲載した。

*17:鈴木いづみ

鈴木いづみ伝説のサックス奏者・阿部薫(故人)の妻で、『恋のサイケデリック!』等の著書を持つこれまた伝説の作家。八六年に自殺した。

*18:『HEAVEN』

八〇年四月に『Jam』より改題。『HEAVEN』となってからは版型が大きくなり、羽良多平吉の表紙を中心にビジュアル面が強化された。当初はアリス出版が版元だったが明石賢生による群雄社設立とともに同社に移籍。八一年三月休刊。

*19:編集長交替劇

八一年初頭の『HEAVEN』編集長交代劇に関しては本誌一三号と一六号でそれぞれ近藤十四郎山崎春美の口からも語られている。ちなみに『HEAVEN』八一年二月号は、ほとんど全ページが残ったスタッフによる佐内順一郎高杉弾)糾弾に費やされるという、恐ろしい一冊だった。

*20:タイの島

事実、近年の高杉氏は一年のうち三分の一ほどをタイで過ごしているという。

山崎春美インタビュー(『HEAVEN』三代目編集長)

山崎春美インタビュー(『HEAVEN』三代目編集長)

所収『Quick Japan』Vol.16(構成:竹熊健太郎

 

山崎春美とは

タコガセネタといったバンドの中心人物であり、1970年代後半から80年代にかけてサブカルチャーシーンにさまざまな影響を及ぼしたライター・編集者の山崎春美

1970年代後半に当時高校生だった山崎は、阿木譲が編集長を務めた雑誌『ロックマガジン』でデビュー。上京後に松岡正剛の「遊塾」へ入塾して『遊』の編集を務めるかたわら、伝説の自販機本『X-magazine Jam』『HEAVEN』などで「鈴木いづみとのベッドインインタビュー」「山口百恵宅のゴミ漁り」などの衝撃的な企画に携わった。

また精神科医香山リカの名付け親であることや、マンガ家・蛭子能収の一般誌デビューを後押ししたことでも知られている。

このほか音楽面でもパンクバンド・ガセネタや、佐藤薫遠藤ミチロウ町田町蔵坂本龍一工藤冬里篠田昌已上野耕路杉山晋太郎宮沢正一らがゲスト参加した前衛音楽グループ・タコの中心メンバーとして活動。

ステージ上で自傷する「自殺未遂ライブ」や、日比谷野外大音楽堂アンダーグラウンドイベント「天国注射の昼」などを開催しインディーズシーンで注目を集めた。

 

タコ・山崎春美の文筆仕事まとめた本『天國のをりものが』」より

 

一九八〇年代初頭、山崎春美禍々しい数々の“伝説”に彩られた、アングラ・シーンで燦然と輝く存在だった。

そんな彼の周囲にいた大里俊晴香山リカは、まるで記憶に精神に奥底に深淵にこびりついて取れない澱の如く「山崎春美の時代」を整理するため(あるいは決着をつけるため)赤裸々なまでに当時を回顧し、唯一無二の回想録を著した。

それが『ガセネタの荒野』(大里俊晴洋泉社月曜社)であり、『ポケットは八〇年代がいっぱい』(香山リカ、バジリコ)であった。しかし、その中心に居たはずの山崎春美本人は決して多くを(赤裸々に)語ろうとはしない。

二〇一七年に雑誌『スペクテイター』三九号にて山崎春美が編集に関わっていた伝説の自販機本『Jam』の特集(パンクマガジン『Jam』の神話)が行われた際も、ついに山崎春美のインタビューが掲載されることはなかった。

以下に再録したインタビューは一九九七年に山崎春美が当時を回想した貴重なインタビューであるとともに、八〇年前後のアングラ・シーンを現代に伝える一級品のオーラル・ヒストリーでもある。(管理人)

 

「ガセネタ」は、事実をないがしろにするため/人を欺くため/人を混乱させるために故意に発信される。「ガセネタ」の不死鳥、山崎春美によって、我々はまたもや撹乱されている。

(ガセネタ「グレイティスト・ヒッツ」ライナーノーツより)

 

はじめに

群雄社の出入りのライターだった僕は、当時、一度だけ山崎春美氏に会ったことかある。たぶん八二年か三年頃のことだ。

●そこにいる人物が山崎春美だと認識した瞬間、僕は凍りついた。当時の僕は名もないライターに過ぎず、一方の春美はサブカル各誌総なめの売れっ子ライター。同時に「自殺未遂ギグ」を敢行した過激なカルト・ミュージシャンでもあった。また後期『HEAVEN』の実質的な編集長だったという点も、僕の中で山崎春美という名前を大きく見せていたことは否定できない。「凶凶しきオーラをまとった天才青年」。これが僕から見えた当時の氏の印象である。

●やがて群雄社は倒産し、春美さんも郷里の大阪に帰ったという噂を聞いた。それには薬物中毒治療のため」というまことしやかな尾鰭までついていた。また、氏と生活を共にしていたロリータ順子さんがこの世を去ったと聞いたのは八七年頃のことだ。

●僕はやがて群雄社と『HEAVEN』に関するルポを考え始めたが、ここでどうしても外せないのが山崎春美氏だった。しかし氏にまつわるさまざまな「伝説」を考えると、正直気後れしていたのは事実である。

●ところが昨年の暮れ、思いがけない場所で再び氏と遭遇した。新宿のロフトプラスワンに出演した後、楽屋の前で当の山崎氏本人から声をかけられたのだ。その時の腰の低い、折り目正しい口調からは、かつての凶凶しき「伝説」に彩られた山崎春美は想像もできなかった。年月が人を変えたのか。それとも?

●山崎氏への取材は今年の二月と六月の二回に分けて行われた。インタビューは終始なごやかに行われたが、まとめる段になって愕然としたのは、氏の口から出た人物の多くがすでにこの世を去っているという事実である。

●ちなみに二回目のインタビューは六月二八日に行われたが、この日は「ある事件」が解決した特別な日でもある。もちろん偶然に過ぎないのだが「やはり春美オーラは健在だった」と妙なところで感心してしまった。その事件が何かは最後までお読みになればわかるだろう。(竹熊)

群雄社出版『HEAVEN』八号より八一年当時の山崎春美

 

地球ロマンと遊とヘヴンと

Jam』や『HEAVEN』には、工作舎*1から流れてきた人脈が混じってますよね。山崎さんは遊塾*2出身でしよう。

 

山崎 そう……僕以外にだれが居たかな?

 

───えーっと松本助六*3とか。

 

山崎 はいはい、まあ彼はライターではあるけれど。僕は給料もらってたから。

 

───『Jam』『HEAVEN』って、工作舎をけっこう意識してたでしょう。それで僕は『遊』*4や『地球ロマン』*5も読んでましたから。それぞれ人脈もつながってましたしね。

 

山崎 なんか『遊』と『地球ロマン』と『HEAVEN』って、考えると僕が一番かかわっていることになるよね。まず僕は半年くらい工作舎の遊塾にいて、それ以降も工作舎で働いてた。『地球ロマン』とはどういう関係かっていうと、(編集長だった)武田崇元さん*6の紹介で、オカルト本のリライトをやってて。だからとても無関係とは言えない。それで『HEAVEN』でしょ......だからそんな風にまとめられると「うわー」って感じで(笑)。

 

───だから、八〇年代の裏の部分を準備したのがこの三誌だと思うんです。表に『ビックリハウス』『宝島』『OUT』*7があって。

 

山崎 実は『OUT』の創刊号にも原稿書いてるんだよね。同じ版元(みのり書房)で出してた『アラン』*8にもいたことがあって。それから『ロックマガジン』*9でも仕事してた。

 

───その後『宝島』でも連載されてたでしょう。じゃ、山崎さんって当時のサブカル誌にあらかた関係してたわけだ。すごいな(笑)。

 

日芸とガセネタと

(“ガセネタ”たった一度のチラシ)

 

───母校は日芸日大芸術学部)ですよね。『Jam』の主要メンバーはほとんど日芸ですね。年齢はどのくらい離れていたんですか。

 

山崎 四つくらい。当時は結構キツかったけどね。だってみんな四つも上だったんだもん。僕は入学する前の年に大阪から上京して。

 

───それが何年位ですか?

 

山崎 七六年が高校三年生で、その年には『ロックマガジン』で書いてた。それから東京で“ガセネタ*10ってバンド作って、日芸に入って美沢さん*11と知り合って。美沢さんがガセネタの音楽を聴いてくれてね。

 

───その頃は高杉さん*12と美沢さんも知り合いだったんですね?

 

山崎 もうそのへん全員知り合い。それで佐內さんの『BEE-BEE』ってミニコミに「何か書かない?」みたいな話になって。

 

───で、エルシーに出入りするようになって『X-マガジン*13や『Jam』になっていくと。

 

山崎 『X-マガジン』では、僕あれでしょ。訳詞を。シド・バレッドとかジミ・ヘンドリックスとか、マーク・ボランとか……。

 

───山崎さんが「ドラッグソング訳詞集」ってのをされて。それで七九年に『Jam』が始まっていると。

 

山崎 だから、そう……僕は七八年に何をやっていたのかというと、“ガセネタ”をやってた。僕がやってた音楽については、どっちかっていうと僕、もともと音楽ファンでしかないわけね。だけど(自分がステージで)やる段になった時に、僕がひっかきまわしちゃったから。痙攣やったり。基本的に痙攣。あまり細かい事を考えてないから。まず、当時のアンプとか音響設備では歌詞なんてまともに聞こえないわけだし、いくらがんばってもだめでしょ。だからパフォーマンスしかなかったわけだけど。

(“ガセネタ”時代の山崎春美

 (たった4曲しかない“ガセネタ”の名曲「社会復帰」と「宇宙人の春」)

 

工作舎と寝不足と

山崎 そんなんでやってて、暴れたりして青春をやっておってですね。で、七八年~九年に一体何が……まぁ爆発的にいっぱいあるんですが。浜野*14が“ガセネタ”やめて、バンドは無くなって、それでどうこうしていて。もともと僕は『ロックマガジン』にいて、そこに松岡正剛さん*15が文章書いてたんで、遊塾に入れたんだよね。

 

───じゃあ『Jam』やりながら“ガセネタ”解散して、同時に工作舎に出入りするようになったと。実にめまぐるしい(笑)。

 

山崎 あと、吉祥寺マイナー*16にも出入りしていて。それであのー、女の子とどうした、こうしたのってあって、三角関係みたいな……これが七九年。だからいっぱいやったなあって。とにかく一番困ったのが、寝不足で辞めたんですよ、工作舎はね。

 

───大学も行けないくらい?

 

山崎 大学はあんまり行かなかったけど。なにせバンドはあるわ、マイナーには入り浸るは、男女関係あるわ、『Jam』やるわ、それで工作舎はあるわで。まあ一生懸命やりましたけど。だから工作舎のトイレではよく寝た。とにかく寝たかった(笑)。もう全ての原因は寝不足。

 

───じゃあもう七九年はそんな事が有象無象にあったんですね…

山崎 そう、女の子の話になると「あの子とも七九年、この子とも七九年」みたいになってて。キチガイだなぁと思って。二股三股かけてて。

 

印刷ミスとパンクと

───『X-マガジン』とか『Jam』の前半に関しては、どの程度やってるんですか、山崎さんは。

 

山崎 『X-マガジン』はどうだろう。まずね、えーと。編集部には音楽分かる人がいなかった、自信ある人が。高杉さんは『ガロ』全部持っててっていう、そういうタイプでしょ。で美沢さんは一番音楽に強かったけど、別に業界人じゃないでしょ。そこへ僕が来たんで。僕は『ロックマガジン』で書いてたんだから。

 

───音楽に強いってことで山崎さんが?

 

山崎 だからえーと。パンク特集*17ってのはその次ぐらいにやるでしょ。『Jam』の創刊号で。記事は美沢さん。(誰が書いたか)わかんないけど、まぁこれは美沢さん。僕はもうキャッチを見ればどっちが書いたのかだいたいわかる。美沢さん書いてるときと高杉さんが書いてるときと、僕が書いてるときって全然ちがうって。

 

───確かに山崎さんって一発でわかる。高杉さんもわかる。美沢さんは独特に屈折したものがあるけど、文章自体はクリアーな。で、山崎さんの場合は意図的に幼稚な言葉とかまざってて、あー山崎さんって(笑)。

 

山崎 大きくなってからで申し訳ないんですが、馬鹿みたいなんだけど(笑)。

 

───それで、このパンク特集に山崎さんが協力して?

 

山崎 いや、僕……あー使われてるっていう。

 

───使われてる(笑)。

 

山崎 それから人間(バンド)のネタを提供してるじゃん。

 

───じゃあコーディネイターみたいな事をやってたんですか、この時は。

 

山崎 そういう事です。それで、この“スピード”*18の記事、知ってます?

 

───バンド名の部分にシール貼ってる(笑)。

 

山崎 “スピード”って貼ってある、シールが。シール何百枚もだぁーって。

 

───バンド名間違えたんだね。誤植で。

 

山崎 僕聞いて呆れたけど。

 

───“フリクション*19“スピード”を“フリクション”にしちゃったんだ、これ。

 

山崎 そうなんだけど。一枚一枚貼ってったの。ゴメンナサイ、話とんじゃって。で、“INU*20も記事に出てたでしょ。ここらへんのミュージシャンは全部、当時のマスコミのおさえ方からすると全然違うニュアンスでおさえてるんだけど。結果的に言うとほとんど正しかったと思うけど。

 

───そうですね。

 

山崎 それは驚くけど。あんまりそういう風に考えた事ないんだけど。みんな知り合いだし近すぎて。

 

蛭子能収と恩人と

───『Jam』でいうと、前半はそれほど関わってないわけですね。途中の号で「よいこ新聞」やってるじゃないですか。

 

山崎 あれは高杉さんと僕と。つまり共同作業、もう完全にそう。二人とも若かったから出来たんじゃないかな。このキャッチ?「明るい幼稚園」っていうのは工作舎で松岡さんが僕につけたイメージキャッチ。それから別の号で、このね、左ページが蛭子さん*21のマンガで右ページに文章のコラム入れるっていう構成、こういう風にやろうっていったのは僕だけど。

(『Jam』特別ゲリラ号より蛭子能収『地獄に堕ちた教師ども』)

 

───『Jam』の最終号ですね、この構成おもしろかったですよ。

 

山崎 それで、なんかの雑誌で蛭子さんが「山崎さんがいなかったら今の僕は無かったんですよ」って言ってたってのを聞いてびっくりして。

 

───僕も蛭子さんのエッセイを読んだことがあって、『ガロ』でデビューしたんだけど鳴かず飛ばずで、ある日、高杉と山崎という二人の「恩人」がやってきて、それから今の自分が始まった、みたいなことを。

 

山崎 なんでかっていうと、もともと高杉さんは『ガロ』を創刊号から持ってるんだから。それで蛭子能収蛭子能収って言ってて。僕は僕でガセネタやってるとき、浜野との間でかなり面白がっていたんだよね。『超能力』とか『疲れる社員たち』とか。ああいうマンガって考えられないものだったから。

 

───で、蛭子さんに会いに行った時、覚えてる事ってあります?

 

山崎 池袋で。喫茶店で。あの人が入ってきたとき、僕はこの人が蛭子さんかなとか思ったんだけど。向こうもヘンだなとは思ってたんだけど、キョロキョロして。こっちはあきらかにその喫茶店にそぐわない雰囲気で立ってるんだから。でもう、いつまでもそんなことやってるわけにいかないから、蛭子さんですかって。そしたら向こうが「あーっ」て言ったのは覚えてる。

 

───で、『Jam』に書いてもらったと。

 

山崎 一回も面白いと思ったことないけどね、『Jam』に載ってからは、『ガロ』に描いてた最初の頃だけでしょうね。

 

───いや『Jam』のだって面白いと思いまたけどね。

 

山崎 でもその前あるでしょ、『ガロ』の。なんか夢の中に一杯十円玉があったりとか、そういうイメージが凄かったからね*22。(復活してからは)、そういうのが全くなくなっちゃって。そうした方がたぶん売れたよね。たぶん。でも蛭子さん、未だに山崎さんと高杉さんに感謝してると。未だに言うもんね。だけど僕一番思ってたのは、根本(敬)さんが出てきた時。見て「あっ? これ、蛭子さん危ないな」って(笑)。で、ああいった人が出てきたから別の所へ転進して行ったんだろうね。芝居とかなんとかね。

 

鈴木いづみと篠崎順子と

───八〇年にエルシー企画とアリス出版が合併*23して、『Jam』が『HEAVEN』にリニューアルしますよね。で、それとは別に、アリス出版で変な本も出していたでしょう? 確かSさん*24が編集長をした。

 

山崎 『ノイズ1999』*25。僕の「鈴木いづみベッドインタビュー」*26ですね。編集部で「誰か小説家いないか?」って話になって、鈴木いづみを提案したらみんなが飛びついたの。鈴木いづみ、なんだか忘れ去られた存在だったのね。それで提案したら、ワーっと盛り上げたのはSさんだったのをよく覚えてる。

(日本では大変に珍しい雑誌企画。伝説の作家・鈴木いづみとのベッド・インタビュー)

 

───なるほど。それ以前から鈴木さんとは知り合いで?

 

山崎 まさか。鈴木いづみ、読んではいたけど、会ったことは。それでその後、鈴木いづみが僕をモデルにしている小説があるんだけど。あれ読むと完全に『HEAVEN』のことを書いているよね。『ラブ・オブ・スピード』って小説。

 

───鈴木さんとは、仲良かったんですか。

 

山崎 話すとすごい疲れる。正直にいうと(自分は)若い頃、もてたんだね。一時期、しかもある種の人々だけに。そん中に、有名人なんかいたら困るよ、絶対(笑)。それで、あれ、群雄社とか『HEAVEN』とかそのへんのことをすごくないがしろに書いている感じがするんだけど、僕が知っている事実関係を照らし合わせると、絶対そうじゃないのにね。その、すごい、僕は彼女がショックを覚えたんだと思うよ。

 

───何に対してですか?

 

山崎 分からない。彼女自身も分からなかったんじゃない。でも直観的に思うのは、あの小説に篠崎さん(ロリータ順子)*27がさんざん出てくるけど、あれは(鈴木が)何か言い残してるなとつくづく思うんだけど。(篠崎さんが出てくる)必然性がないもんだから。鈴木いづみが死んだのって何年だっけ。篠崎さんより一年ぐらい早かったっけ。

 

───鈴木さんは何かショック受けたんでしょうか。山崎さんや篠崎さんに対して。

 

山崎 いや、いつの間に世の中そうなったっけ、って思ったんでしょ。世の中そんなひどく変化したっけって。今の時代に対して。そんなんじゃなかったはずだ、みたいなニュアンスで書いているみたいな。

 

───戸惑い?

 

山崎 戸惑いだね。ちょっと待ってよ、みたいな。そうだよね。自分は最近仕事してなかったから忘れてたけど、みたいな。特に『HEAVEN』の頃、僕も文章書いてて、鈴木さんも書いてて、彼女のニュアンスで。……だから僕めちゃくちゃ悪口書いてあるんだろうと思った。美沢さんから「鈴木いづみが書いてるぞ」って電話かかってきて、ウワッとか思って読んだら、まず思ったことは、ホッとしたの。自分がけなされてなかったから。ところが次に篠崎さんが、めちゃくちゃ書かれているもんで、さあどうしようって考えたのね。モロ“冷感症の女”みたいに、篠崎さんのことを。『HEAVEN』のこともいろいろ書いてるんだけど。で、まあ、それを含めて『HEAVEN』、群雄社自体がそういう(彼女の興味を引く)「磁場」を持ってたっていう言い方でいいのかな。だとしたら、あったと思うよ。でなければ書かなかったと思う。

 

───鈴木さんは何か「磁場」を感じていた。でも、言い残している感じで。

 

山崎 そう言い残している感じで。

 

編集長交代と人間模様と

群雄社出版『HEAVEN』八一年二月号=編集長交代号)

 

───じゃあ、ここらで『HEAVEN』の編集長交代事件の話を。結局、高杉さんが初代編集長を辞められた理由ってのは、山崎さんから見てどうだったんですか。

 

山崎 (高杉氏が)図版なんかそのまんま、なんかその辺の雑誌をパッと掴んで「これいいなあ」みたいな感じで使ってて。向こう(外国)の雑誌勝手に使って、それでレイアウト料取ってるもんだから、主に編集部の山本*28、田中*29あたりがブイブイ言い始めて。それが積もり積もって。パクリというより(高杉氏の)雑誌を作る姿勢にね。経費で自分の為のレコードをバンバン買っていたとか。まあ、今考えて(本当のところは)ちょっとつかみかねるけれど。それで「お前が言わなきゃ駄目じゃないか」みたいになってきて。春美がいわなきゃ駄目じゃないか、みたいに。

 

───よくわからないんですが、どうして山崎さんなんですか?

 

山崎 だから、お前は『宝島』とか『ウィークエンド・スーパー』*30でも書いてると。

 

───山崎さんが他にも露出しているから?

 

山崎 そうです…明らかに(笑)。

 

───(話がよくつかめずに)春美さんは、周囲から嫉妬されてたってこと?

 

山崎 (無視して『HEAVEN』のページを見ている)……このキャッチ、書いたのは僕なんですけど。「日本脳炎」ってページ。結構僕、ここ気に入っていたけど、誰が(このページを)やってるのか(読者には)わかんない。仕方の無い事なんだけれども。何となく自分の中に欲求不満として残っていたんだと思う。それがこのページにも現れていたんだと思うけど。

 

───ああここらへんメチャメチャですよ。精神分裂ぎみで。

 

山崎 あとはもうどうでも良かった。……で、段々しんどくなってきて、結局どっちにするのか(編集長への対応を)決めなきゃいけなくなってきた。それで、結局、僕とオム*31が首謀者ってことになっちゃったんですよ。後の二人(山本・田中)は何もしていないのに。僕はどっちでもいいのに。下から突き上げくらって情けないんですけど。……まあ、僕個人の理由として高杉さんに言いたかったのは、(雑誌の作り方として)もう少しなんとかならないのかっていう真面目指向だったのね。

で結局、社長の明石さんに直訴するしかない、ということになってきた。僕ってそんな事言い出すタイプでもなかったんだけど。高杉さんに(編集長を降りてくれないかと)言ったら「ああ、そう」みたいな感じで。

 

売れっ子と年功序列

───それで高杉さんが編集長を降りて、二代目編集長が近藤さん。でも以前、近藤さんにインタビューした時、「事実上の二代目編集長は春美だ」って言ってましたけど。

 

山崎 なんだろ?(他人が)どういうイメージを持っているのかわからないんだけど……『HEAVEN』の(高杉氏)追い出し号あたりまでのスタッフ・クレジットに、自分より近藤オム君の名前が先に来てる。……僕はこんなに書いているのに、オムは編集者で、僕は(編集スタッフとは)違うのか? みたいのがあったんですけど。

 

───それって年功序列なんですかね。

 

山崎 年功序列なんて関係無いでしょう?

 

───ええ。まあ。それで、山崎さんは(他のメンバーより)「年下」ということが気になっていたわけですか?

 

山崎 そうなんですよ。抑えておこうと僕は思ったんだけども……(編集部に自分より)四つ上が二人いて。田中一策、山本土壺、四つ上ってなんでこんなに多いんだろう? と思ってて。『宝島』に書いてた時も、当時の編集者で村松君も四つ上。とにかくみんな四つ上だった。相当(自分は)若造だったわけで。あちこちでいろんなことやってると……(口ごもって)……って感じなんですよ。

 

───若いのに、(他のメンバーを押しのけて)売れ始めたんじゃないか? みたいな?

 

山崎 ……だから、やっぱりケシカランみたいな。まあ『HEAVEN』の末期には僕も、いろんな人の原稿にずいぶん手を入れちゃって悪かったけど。

 

───じゃあ、みんながやったページとかを山崎さんがかなり、いじったりとか、そういうことはあったんですか。

 

山崎 平気でやってた。

 

───それでちょっと、編集部内の雰囲気がギクシャクしてきたってことあったのかしら。

 

山崎 編集部では、僕なんか一人で浮いてたから。だけど、それは、だって、ちょっと上に高杉さんがいるよね。それから山本、それと田中、トメ*32もいる。そうそう、トメもいるんだ。ああ何てことだ。すごいよな、メンツが。

だから、ちょっと地獄みたいなとこにいたから、そういうね、はい上がってきた気持ちになるんですよ。あんな連中の下にいたらそりゃ、気が狂わなかっただけよかったですよ。恐ろしい。どんな体育系のクラブへも入れる。

 

高杉さんとJ・レノンと

───それで話を戻しますが、高杉さんのことを最初はどう思ってたんですか?

 

山崎 いつ会ったかもよく覚えてないんだけどなんかね、何回が美沢さんと一緒にどっか行たりとか、バンド系だと思うけど。そこにいたんでしょ、きっと。で、紹介されたりして。よく覚えてんのは朝、家で原稿書いてたら高杉さんが来て、すごい普通なの。いわゆる話に聞く編集者が原稿を取りに来るという感じで。それも別に無理してるとかでもなくて、そういうもんなんだろうってやってる感じ。それが、最後のほうどんどんおかしくなったの、関係が。でもまあ、高杉さんは、こっちがちょっとブリッコすると、「しょうがないなあ」って感じでレコード買ってくれたりってこともあったんで(笑)。それはまあ……その場その場では楽しかったんだけど。

ただ(高杉氏に関して)『Jam』の頃で凄いと思ったのは、“ソフトマシーン” *33とか“タンジェリンドリーム” *34のファーストとか、キューピー人形とか、女の子の背中からネジが出てきているのとか、そういったのを僕に五ページくらいやらせてくれたりとか。そういうことでは高杉さんにお世話になってるんですけどね。もう好きなように。どこが音楽ページなんだ? って感じで(笑)。全然音楽の事を書いているようにみえない。でも好きにやらせてくれた、というようなことがあったりとか。

 

───まあ、高杉さんはクールな人って印象ですけど、ただ、去年の明石さん*35の葬式の時、僕はたまたま目撃しちゃったんだけど、泣いてましたね。

 

山崎 え? 泣いてたっていのは、ちょっと異常な話だから、教えてくる?

 

───いや、あの、あれはね、お通夜の最後に、帰る前に高杉さんがもう一度、明石さんの死に顔見たんですよ。で、見た後に、ちょっとああいう顔見ちゃうと耐えられないよな、ぐっときちゃうよなみたいな感じで。

 

山崎 そう言いながら?

 

───意外な話でした?

 

山崎 僕と高杉さんでいるときと局面が違いすぎる。僕と高杉さんの間に普通とか一般があって。僕と高杉さんがいる時空間があって、別のところに高杉さんが泣く時空間があって、その間にとんでもない普通っていう、一般があって。時々聞くんだよ、高杉さんが泣いたって。本当に驚くんだよ。最初に聞いたときひどく驚いたんだけど。

 

───これ(編集長交代記念特集号)はもう冗談で?

 

山崎 冗談って言っても、もうかなり進んでいたよ……実際。

 

───どこで“クーデター”ってのがあったんですか?

 

山崎 この号(八一年二月号)。もう表紙周りは出来ていたから、後ろのキャッチも高杉さんのものなんだけど……中にも高杉さんのページがあったんだけど。だからインサイドジョークみたいなものが酷くなるとこんな風になるんだなあと*36。なんか異常なことやったってのを覚えてる。この次の号も僕が全部書いて。キチガイじみたことをやってるんだよね。

 

───「サナイジュンイチロウ*37が辞めた! 読者一同一分間の黙禱!」……なんて書いてる(笑)。

 

山崎 そうそう。忘れもしない一九八〇年一二月に電話がかかってきちゃって。「今、銀座に居るんで」って凄い言い方なんで。

 

───え? 高杉さんから?

 

山崎 いや、オムから。これは何があったのかなって思って......僕も腹くくって「何でもいいから言ってくれ」って言ったら「あんましそんなに大した話じゃないんだけど。ジョン・レノンが殺された」(笑)。思わず「なぁんだ」って言っちゃったんだよね。それで同じ時期に高杉さんも『HEAVEN』辞めて、俺たちもその後マトモにやってたの二冊だけで。

 

デザイナーと最終号と

山崎 それで後期『HEAVEN』のヴィジュアルで評判いいのはさ、最終号の、戸田ツトムさん*38がレイアウトした武田崇元インタビューだと思うけど。文章の一行があんな長くて、対談形式で読めるかっていう、すごいびっくりした。あの文字組みは意図的だね。

 

───うん、でも読めましたよ。

 

山崎 読めたの。だいたい。ラインが長すぎるとむずかしいんだ。

 

───しかも、改行もないですからね。

 

山崎 そのときは、すごい楽しかったの、だから実際。

 

───ヴィジュアルワークですからね、『HEAVEN』といえばまず。当時、ヴィジュアル誌っていうのが、ものすごく輝いていて。羽良多平吉さん*39もいる、大類信さん*40もいる、戸田さんもいるって感じで。

 

山崎 つまりそういう時代だと。グラフィック・デザイナーが群雄割拠しているっていう、とにかく、その、なんてったって、目次でデザイナーの名前をいちいちページごとに記してあるっていう雑誌は、古今東西探してもないっていう。その意味ではあれなの、そういうデザイナー同士を競争させるっていうのは。じゃあ、ひとつ頑張ってくださいって。

ただ僕がつくづくこの最終号で思ったのは、素人に安易に任せちゃいかんなあと。(いい人悪い人の)落差が激しすぎて。せっかく競争原理を持ってきたのに。羽良多さん、戸田さん、類さん……といったうまい人がいて、一方でミニコミみたいなレイアウトする人が。ここで急にガクンと落ちるんですよ。それで羽良多さんたちに悪いなあと思って。

 

───でも、なんだかんだ言って最終号は傑作ですよ。ただこの辺、字が潰れているんだけど。

 

山崎 それは指定ミスです。

 

───ここなんか心霊写真みたいですね。

 

山崎 あっこれも指定間違いです。

 

───間違いと思わせないのが『HEAVEN』の凄い所ですね(笑)。

 

肥満とナチス

───実はもう一冊、幻の最終号*41があったという話ですが。「肥満」と「ナチス」のカップリング特集号だったとか。

 

山崎 死ぬ前に寺山修司が僕のことを色々言ってくれたってのは聞いた事があったんだよね。

 

───(話がつかめずに)へえ……?

 

山崎 それで、せいぜい一〇分位大山デブ子の話すると思っていたんだけど。僕はトンデモナイ事を言うんじゃないかと思ってて。三島由紀夫太宰治がいるけど、太宰治の方が肥満している印象がある……とかね。

 

───ええと、それは「肥満特集」で、寺山さんにインタビューされたということですか。

 

山崎 そう。で、向こうの人が頭抱えちゃって。三島由紀夫っていうのは身体鍛えていてがっちりしている人だと。で、太宰の方は痩せてて今にも死にそうな人であると。それで(笑)。僕も一生懸命にしゃべったから、聞いてくれた。

 

───じゃあ、一応取材はしたんですね。

 

山崎 うん、やってた。その辺はまともな雑誌にしようという意識があって。まともな雑誌にしようとした矢先でしたが……。

 

───これを出す前に終わっちゃつたと。

 

山崎 そう。「肥満」と「ナチス」同時にやったってのは、だから、やりたいことがいろいろありすぎて、ひとつひとつやってたらだいぶ先になっちゃうから。これもやりたい、あれもやりたいで、終わらないからだと思うんだけど。濃縮すれば、早いだろうから。

 

───それでカップリングに。

 

山崎 羽良多さんも賛成しそうな感じであるし。だから、基本的にすごくエネルギーがある時期ではあるんでしょう。そういうことで、また、巻き込まれるっていう。

 

角谷のシと酒鬼薔薇

それで、休刊後に山崎さん、『ロックマガジン』や『フールズ・メイト』で同じ『HEAVEN』ってタイトルで雑誌内雑誌やってるでしょう。香山リカさん*42野々村文宏さん*43祖父江慎さん*44なんかと一緒に。

 

山崎 祖父江慎は一時期、結核かかったっけ? 多いって結核、高杉さんも結核になったって。高杉さんは病気を売り物にしてたから。

 

───高杉さん、糖尿病もそうでしょ。

 

山崎 いつ死んでもおかしくないとか書いてたね。結核は栄養とらなきゃならないし、糖尿は栄養とっちゃ……。そういえば群雄に出入りしてたカメラマンで、殺されちゃったのいますよ。市川の一家四人殺し事件で。

 

───市川の?

 

山崎 そう。どの死に方もまっとうじゃない。それで、僕が唯一、全然(話が)できないのは、篠崎さん(ロリータ順子)とかね。全然だめなのね、それは、どう考えても。

 

───まあ篠崎さんに関してはそうでしょうね。

 

山崎 だから(『Jam』『HEAVEN』にまつわる)ミュージシャン関係の取材は全部僕に集中するかもしれないけど。この『Jam』に載った“腐ってくテレパシーズ”の角谷の記事*45、書いたのは美沢さんだけど、まあ、僕にも多少責任あるんだけど。彼の「シ」*46は、あの頃一番強烈だった。僕が『Jam』に書いた小説に挿絵も描いてもらったんだ。

 

───亡くなったというのは、自殺ですか。

 

山崎 たとえば飲みすぎとか、そんな。

 

───アルコール?

 

山崎 違う違う。リン酸ジヒドロコデイン。僕もちょっとやったけど、あの人、全然(身体のこと)気にしてないの。彼の「シ」って異常だもん。精神科医の松本助六と話してた時に、いろんな変わったミュージシャンの話とかしてたんだけど、僕が角谷の話題ふったら、助六が「それは脈絡が違う」と。「僕は境界例の話をしてるんであって、あれは分裂病」みたいな話になったことはあるけど。

だけど、そういう人間を(『Jam』で)もてはやしたりスクープしたわけだから。その後僕が追い討ちかけるようなことしたのは、吉祥寺マイナーの記事書いてくれって言われて、マイナーに出入りするミュージシャンの話を書いて、その中で一番反響が多かったのが、彼のシ。凄かったから。読者の共感の仕方が。

角谷って、お坊ちゃんでしょ。相当裕福な。だから、何が不満だったのか、典型的な例だと思うのね。それが中央線の四畳半で暮らしててさ。ファッションも、すごい変わってるでしょ。坊ちゃんから始まって、生活の条件すべて満たしてるのに、それなのに……。

 

───うん、わかります。

 

山崎 それで、僕が『ロックマガジン』とかで“アフター・ヘヴン”やったのも、アフター・ケアのアフターなのね。

 

───ああ……。

 

山崎 ひとつはね。だって、角谷に一ページ、篠崎さんに一ページとか。やったことあるし。

 

───いわゆる他誌での“アフター・ヘヴン”、“山崎ヘヴン”は、何回やられたんですか。

 

山崎 『ロックマガジン』で三回、あと、『フールズメイト』でも。『ロックマガジン』のやつは、羽良多さんのロゴ、ヘヴンのロゴをそのまま使ってるからね。……ちょっと待って。今テレビのニュースで……。

 

───(テレビ画面を見て)え? 酒鬼薔薇聖斗が捕まった?*47(インタビュー中断。一同、画面に目をやり、テロップを見て仰天する)

 

山崎 え? 一四歳……。

 

─── 一四歳!

 

山崎 一四? へぇ……(そのまま酒鬼薔薇の話題にもつれこみ、インタビュー終了)

 

*1:工作舎

六九年、カリスマ編集者・松岡正剛高橋秀元・中上千里夫らと設立した出版社。

*2:遊塾

七九年に工作舎が主催した無料の編集塾。松岡のカリスマに惹かれたインテリ青年が多数参加、知的サティアンの様相を呈した。

*3:松本助六

精神科医・ライター。医学生時代、山崎と共に遊塾に参加。

*4:『遊』

七一年創刊。独自の編集思想(遊学)に基づく難解な内容、凝りに凝ったレイアウトが日本の出版デザインに多大な影響を及ぼした。

*5:『地球ロマン』

七六年創刊。オカルトを「冷たい狂気」と定義し、国家の転覆を夢想する猛毒オカルト雑誌。

*6:武田崇元

東大卒業後『地球ロマン』『迷宮』編集長を経て、現在は八幡書店を主催する秘教神道家。

*7:『OUT』

七六年の創刊当時は初期の『QJ』に似たサブカル雑誌だったが、「ヤマト特集」をきっかけにアニメ雑誌に変貌。

*8:『アラン』

『JUNE』に対抗して創刊された少女向け美少年誌。休刊後、同誌編集者の南原四郎がコンセプトを継承し『月光』を創刊。

*9:『ロックマガジン』

七六年創刊。編集・発行人である阿木譲の強烈な個性に裏打ちされた、極端なまでに流行を先取りしようとする感性で後世までの語り草になっている。

*10:ガセネタ

山崎春美大里俊晴・浜野純・佐藤隆史によるパンクあるいは《驚異のハードロック》バンド。七七年結成、七九年解散。一五年再結成。

*11:美沢さん

美沢真之助。別名・隅田川乱一。文筆家。詳しくは『QJ』一四号の「天国桟敷の人々 隅田川乱一インタビュー」参照。

*12:高杉さん

高杉弾。本名・佐内順一郎。『Jam』『HEAVEN』初代編集長。脳内リゾート研究家。詳しくは『QJ』一九号の「天国桟敷の人々 高杉弾インタビュー」参照。

*13:『X-マガジン』

七九年創刊。ただしこの誌名は一号きりで、翌号で『Jam』に。

*14:浜野純

ガセネタ解散後、ギタリストを棄て灰野敬二の“不失者”に参加。『Jam』の絶体広告群の一ページにそのコンサートの告知が見られる。

*15:松岡正剛

早稲田大学中退後、「遊学」「言霊編集」「編集工学」を標榜してオブジェ・マガジン『遊』を創刊したカリスマ的編集者。

*16:マイナー

吉祥寺にあった不忠議な磁場を持つ空間として、あまりにも有名になった、日本で数少ない「文学カフェ」ならぬ「音楽カフェ」。『Jam』ではその出張ページが毎号連載された。

*17:パンク特集

『Jam』創刊号(七九年二月号)に揚載された。当時の東京ストリート・シーンの先鋭的なバンドが網羅されている。

*18:スピード

“東京ロッカーズ”と称された日本のパンク・ロックグループの一つ。

*19:フリクション

じゃがたら”と並んで、日本のバンド界の“裏”を二分する一方の雄。ちなみに山崎春美は『遊』の八一年一二月号の特集「流行る」の中で「日本のパンク・ロック」の一位にこのバンドを選んでいた。

*20:INU

芥川賞侯補作家・町田康(当時は町田町蔵)のメジャーデビュー作『メシ喰うな!』は永遠の名作として知られる。『Jam』掲載時の(オリジナルイヌ)のレコードが一枚だけ発売されており、中でも一番の聴きモノは「ガセネタ」というタイトルであるのは因縁深い。

*21:蛭子能収

ご存知、現在はタレントとしても活躍する異能マンガ家。

*22:十円玉

蛭子能収の初単行本『地獄に堕ちた教師ども』(青林堂青林工藝舎)に収録されている『愛の嵐』に出てくる謎のエピソード(初出は『ガロ』一九七六年七月号)。この作品を最後に蛭子さんは『Jam』で復活するまで3年間にわたり沈黙した。

*23:エルシー・アリス合併

明石賢生率いるエルシー企画と自販機本業界第一位のアリス出版は八〇年に合併したが、わずか一年で分裂。詳しくは『QJ』一五号「エロ本三国志」参照。

*24:Sさん

S氏は謎の歌人にして群雄社編集局長。麻耶十郎の名で官能小説家としても活躍。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者。

*25:『ノイズ1999』

新生アリス出版が旧エルシー企画のS氏を編集長に創刊したカルチャー・エロ本。三号で休刊。

*26:鈴木いづみインタビュー

『ノイズ1999』第二号に掲載された「鈴木いづみベッドインタビュー」のこと(聞き手・山崎春美)。鈴木は伝説のサックス秦者・阿部薫(故人)の妻であり『恋のサイケデリック』等の著作を持つこれまた伝説の小説家。八六年に自殺。山崎をモデルにした小説は、文遊社から刊行されている『鈴木いづみコレクション3』で読める。

*27:ロリータ順子

篠崎順子。別名・ロリータ順子。享年二五歳で自らの吐潰物を喉に詰まらせ事故死。山崎の音楽ユニット“タコ”にボーカルとしても参加。

*28:山本土壺

『HEAVEN』編集者。休刊後は白夜書房集英社でビデオ・ライターとして活躍。

*29:田中一策

東大を三日で中退した後、ゲイ雑誌勤務を経て『HEAVEN』編集者に。現在はワインのソムリエをやっているという噂。

*30:ウィークエンド・スーパー

末井昭編集で七〇年代末に創刊されたサブカルエロ本。赤瀬川原平南伸坊荒木経惟らの活動拠点だったことでも知られる。

*31:オム(近藤十四郎

別名・近藤オム。『HEAVEN』二代目編集長。詳しくは『QJ』一三号「近藤十四郎インタビュー」参照。

*32:トメ(金田トメ)

『HEAVEN』編集者。現在はインターネット裏モノ評論家として活躍。

*33:ソフトマシーン

バロウズの著名な小説の題名だが、ここでは英国で六〇年代末に結成されたロック・グループを指す。オリジナル・メンバーは、ケヴィン・エアーズやロバート・ワイアットがいた。

*34:タンジェリン・ドリーム

同じく六〇年代末に結成された。こちらはドイツのロック・パンド。山崎春美と親交の深かった間章がライナーノーツを手掛けたりした。オリジナル・メンバーには映画音楽で名を成したエドガー・フローゼや、七〇年代日本の中央線カルトの始祖クラウス・シュルツがいた。

*35:明石賢生

エルシー企画および群雄社社長。出版界に数々の伝説を遺し、九六年八月に急逝。

*36:インサイド・ジョー

編集長交代号(『HEAVEN』八一年二月号)は、表紙から巻末までほとんど全ページが残ったスタッフによる高杉氏への苦言悪口・当てこすりに費やされているという凄まじい一冊。

*37:サナイジュンイチロウ

佐内順一郎高杉弾

*38:戸田ツトム

グラフィック・デザイナー。工作舎を経てブックデザイン、及びコンピュータDTPの草分けとして活躍。

*39:羽良多平吉

ご存知『QJ』の表紙も手がけるグラフィック・デザイナー。初期YMOのジャケット・デザインや、『HEAVEN』の表紙デザイン等で有名。

*40:大類信

グラフィック・デザイナー。八〇年代『ロッキング・オン』の表紙・本文レイアウトで有名。

*41:幻の最終号(肥満特集)

「肥満とナチス」特集号は結局未刊行のままで終わったが、その一部の企画は『ロックマガジン』での山崎編集による出張版『HEAVEN』に掲載された。

*42:香山リカ

精神科医。山崎版『アフター・ヘヴン』にもライターとして参加。香山リカの命名は山崎春美によるもの。

*43:野々村文宏

後期『HEAVEN』に参加後、雑誌『ログイン』を経て八〇年代中盤の新人類ブームの担い手に。現在はヴァーチャル・リアリティ、マルチメディアのコンサルタントとして活躍。

*44:祖父江慎

多摩美マン研、工作舎を経てグラフィック・デザイナーとして活躍。『遊』や山崎版『HEAVEN』ではマンガも描いていた。

*45:角谷の記事

『Jam』の最終号というのは実は二つあって、その実質ラスト号に載った「角谷インタビュー」は、高円寺周辺の若者に「バンクの魂」として伝説視させたものだ。この意味不明なフレーズが彼を死にかりたてたのかもしれない。九〇年八月五日すい臓炎で死去。

*46:角谷の「シ」

ここの文章、いささか分かりにくい理由は竹熊とテープ起こし人が二人とも「詩」と「死」を取り違えていたため。しかし、角谷氏が死んだことは事実であり、なんとなく意味が通じてしまうのがコワイ。

*47:酒鬼薔薇聖斗

前書きにも書いたが、このインタビューが行れた一九九七年六月二八日は、偶然にも酒鬼薔薇が逮捕された日だった。

隅田川乱一インタビュー(『Jam』ライター&コンセプター)

隅田川乱一インタビュー(『Jam』ライター&コンセプター)

所収『Quick Japan』Vol.14(構成:但馬オサム

ゴミから生まれた雑誌

ジャム』の前に『X-マガジン*1があるわけですけれど、『X-マガジン』の名前をつけたのは僕です。アメリカの雑誌に同じ名前のがあってカッコいいからそれをいただいたというわけですね。思考のエコロジー、ですか。

ここで「笑いガスの作り方」というのをやったんです。笑いガス自体は今でも合法なはずですよ。歯医者の麻酔でも使われているし、材料は全部薬局行けば買えます。ただし、爆弾と同じ材料だから薬局で過激派に間違われて面倒臭いし、ヘタに扱うと爆発したりするから、あんまりおすすめしないけど。実験の結果? う~ん、効いたような記憶はないなあ(笑)。



もともと『X-マガジン』というのは、高杉弾が、たまたま拾った自販機本に載っている写真に感動してエルシー企画に訪ねて行ったことから始まるわけですよ。

「おお、お前らもエロがわかるのか! じゃ一冊作ってみろ」、みたいな感じでまかされて、僕も高杉に誘われるんですけどね。

まあ、ああいう業界って編集やライターがエロの絡み*2をやったりすることが多いんですけど、それをやらされるんだったら、俺は田舎へ帰ってうどん屋やるよ、と最初に宣言しましたけどね。

僕は本はあまり読まないけど昔から雑誌は好きで、『宝島』*3も『ワンダーランド』*4のときから読んでるんですよ。で、『ローリングストーン』の日本版*5ってあったでしょ、ポール・ボウルズ*6を知ったのもあの雑誌で、すごく刺激を受けたんですけど……。あの雑誌が道端に山積みになっているのを発見したことがあるんですよ。三年間分ぐらいあったんじゃないかな。買って読んだことはほとんどないですね。だから『X-マガジン』に関して言えばね、要するにこれはゴミ箱から生まれた雑誌だという思いがあるんですよ(笑)。

『遊』*7も好きで、田中泯*8さんが都内のあちこちでゲリラ的に踊るというプロジェクトを工作舎*9が支援していると聞いて、工作舎に遊びに行くようになって。『ヘヴン』でインタビューもさせていただきました。日芸(=日大芸術学部)時代にも一度、田中さんに校内でパフォーマンスやってもらったりしたことがありました。

覆面レスラーのページ*10ですか? あれも高杉との共同作業ですね。違ったイメージの写真を左右に分けて読者に妄想してもらうわけです。このような観客参加の作品形態は現代美術の原点のひとつであるっていう話を高橋巌さん*11が書いてます。あと、パティ・スミスのヌード写真*12をバラバラに切り貼りしてコラージュ*13にしたり。下宿部屋で台紙の上にペタペタ貼りつけていましたよ。


 

ルーツはアングラ誌

大学は六年いて結局中退です。担当の教授から「君はこのままいても卒業できないし、もう辞めたら」と言われたわけで。それで親戚のコネでイーストというテレビ製作会社に中途で入ってAD(アシスタント・ディレクター)やるんですけどね、このとき、テレビ業界の体質にはビックリしましたね。現場で先輩にイジメられるのは当たり前、関係している芸能プロダクションに行ったら、身体障害者の従業員が「おめえ、女とアレするときはどんなふうにするんだあ」と茨城訛りでいじめられているし、ドラマの主役の森繁が稽古中に口を開けて上を向くと、付き人が飛んで来て、胃薬と水を口に入れるんですよ。ここはアフリカの独裁国かと思いましたね。結局一ヵ月で辞めました。

ライターとして本格的に文章書いていこうなんて気構えみたいなのは別になかったんですよ。まあ書くといっても大学時代に高杉のやっていたミニコミに書くぐらいでね、そのミニコミ、『便所虫』ですけど、『BEE-BEE』と名前変えたあたりですね、僕が参加したのは。

アメリカのアンダーグラウンド・マガジンが好きだったんですよ。ヒッピーのニュースレター*14とか『ハイ・タイムス』*15とか『WET*16とか。

『WET』っていうのは面白い雑誌で、もともとユニット・バスを作っている会社の企業PR誌だったらしいんだけど、頭に穴の空いた少年の写真と一緒にブライアン・イーノのインタビューが載ってたりするし、まあとにかく変な雑誌でしたね。最後の方は、漢字や日本語を使ったレイアウトが目立ってきて、歌舞伎町のカブセル・ホテルやホモ専用ソープのレポートなんて日本ネタも多かったけど、それを書いていた日本の特派員が有名になる前のあの三浦和義*17だったのは笑えましたね。もしかしてあの人、『WET』の日本代理人みたいなことをやっていたかもしれませんよ。

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あと雑誌では美術関係が面白くて、日本では『美術手帖』。アメリカのカウンターカルチャーコンセプチュアル・アート、ウィーンのウンコや臓物を使ったパフォーマンス・アーティストの紹介など、ずいぶん刺激を受けました。ナム・ジュン・パイクオノ・ヨーコなどが参加した「フルクサス*18が出していた新聞も驚きでしたね。

そういったアンダーグラウンド・マガジン的なものや現代美術的なアイデアを『BEE-BEE』から『X-マガジン』『ジャム』『ヘヴン』という流れの中で表現したいという気持ちはありましたね。

隅田川乱一というペンネームは、むろん山上たつひこ氏の『喜劇新思想大系』のキャラクターからの無断借用です。顔と体型がそっくりだから別に文句ないだろうって。無茶苦茶な居直りですね。でも著作権を無視する態度は『ヘヴン』などをやっていたときに隠れたパワーになっていたと思いますよ。

 

プロレスとオカルト

それで『BEE-BEE』に書いたプロレスに関する記事が『本の雑誌』のミニコミ・コンテストで賞をとるんですけど、自分ではあんまり実感ないんですよ。おまけに、その賞のタイトルが「輝け!第一回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」ですよ、お前は出版界の粗大ゴミだって言われてるみたいじゃないですか。揚げ句の果てには尊敬していた上杉清文さん*19に「廃人の文章だ」って言われるし、田舎帰ってうどん屋でもやろうかと思いましたよ。

椎名誠さんが格闘技好きなんで、変な角度から見た格闘技論っていうことが受けたんでしょうね。で、もう一人プロレス好きな編集者がいるっていうんで、三人でプロレスの本を出そうかという話もあったんですけどね、結局実現しませんでした。その編集者というのが村松友視さん*20だったんです。

例えば、学術的なアプローチってあるじゃないですか、そういうまともな論理じゃなくて妄想の論理こそがより深い現実を認識できるって感覚ですかね。これをつきつめて行くとオカルティズムになります。

高橋巌さんの『神秘学序説』の中でも、存在してない文献をもとに論文を展開するって話が載ってますよ。この考えを利用して『ジャム』にエイズハナモゲラ・ウイルスだというエッセイを書きました。エイズのことを日本で最初に紹介したのは俺だっていう自負はありますよ。

要するに、エイズの原因はウイルスであり、そのウイルスはハナモゲラ語*21のように表面の言語構造を変えているので、人間の免疫機能が働かないんだと、存在しない論文の紹介という形で書いたわけです。この指摘は当たってました。(隅田川氏が「エイズハナモゲラ論」を展開したのが一九八一年ごろ。竹熊健太郎氏の記憶によると、掲載誌は『ジャム』でなく自販機本の『コレクター』か『フォトジェニカ』ではないかとのこと。同じ『ヘヴン』スタッフだった山本土壺氏編集ということから考えて恐らく後者ではないかと思われる)。

当時、今エイズ裁判で問題になっている元・帝京大学副学長の安部英氏と話をする機会があったので、ウイルス=言語というバロウズ*22のことを話したことがあるんですが、ぜんぜん問題にされませんでしたね。この指摘の基本にあるのは妄想認識の発想で、優等生的にデータを分析するよりも、妄想した方が真実を突くのではないかという発想は『ヘヴン』の「存在しないレコード」紹介にも形を変えて利用させてもらってます。

格闘技の起源って祭祀、神事ですよね。ロックだってオカルティズムが絶対に結びついてるという確信があった。レゲエなんかは共同体の意志が滲み出ているでしょ。ある種、大衆文化と霊的なものがどこかで融合しているところに興味が湧くわけです。

その点で日本の音楽マスコミには疑問があります。例えば、プリンスっているでしょ、彼は名前無くしたじゃないですか。名前を消すってすごくイスラーム的な行為なんですよ。イスラームは偶像(象徴)を否定しますからね。

それから彼、自分のことを“スレイブ”って呼ぶでしょ。“イスラーム”ってのは“神の奴隷”、という意味なんですよ。まさしくスレイブなんです。本人が意識しているのか意識してないのかはわからないけど、このような観点からの発言があってもいいと思いますけどね。

ジャジューカ*23のようにコアな音楽はもっと紹介してもらいたいですね。バロウズに言わせると、ジャジューカの音楽は世界最古のロックンロールらしい。何しろ王室の音楽だから聴く人も限られている。去年、オーネット・コールマン*24がジャジューカのミュージシャンたちとイタリアでコンサートをやったらしいんだけど、そんな話、ぜんぜん日本に入ってこないですからね。ブライアン・ジョーンズ*25ビル・ラズウェル*26がそこへ入ったんだけど、その経緯を調べてみると結構面白いはずですよ。

ポール・ボウルズはブライアン・ガイシン*27と一緒にモロッコのタンジールで「千夜一夜茶屋(アラビアンナイト・キャフェ)」っていうジャジューカを聴くためのレストランを作ったわけなんですけどね。ポール・ボウルズがモロッコのラリパッパの兄ちゃんに喋らせて、それを小説として出版しているんだけど、そういう本をぜひ日本でも翻訳してもらいたいですね。

 

強烈なインド体験

八木(真一郎)さん*28との絡みで『冗談王』*29という雑誌にかかわるんですよ。これは一号で潰れるんだけど、全編パロディと冗談で行こうということで。広告まで全部パロディにしました。ちょうどそのころ『ビックリハウス*30なんかあってパロディというのが流行っていて、まあそういうのに田舎臭さとマイナー色を濃くしたような雑誌でしたね。

そこで僕と高杉で「若者のための戦争カタログ」ってのをやったんです。“戦争こそ娯楽だ、戦争に行きましょう” “君の戦争体験が明日の日本を変える”てな感じの。“一秒間に八発撃てるハッピー機関銃”とか嘘っぱちな商品を取り揃えた旅行企画の広告を作ったんです。今から振り返ると『サラエボ・ガイドブック』みたいなコンセプトでしてね。

この企画の発想はインド体験です。一八歳以上になったら皆インドへ送り込んで、帰ってきたヤツだけを日本国民にする。途中で追いはぎに遭ったり、だまされて帰ってくることができなかったヤツは帰ってこなくていいよ──このような法律を作れば、日本は本当にいい国になるのではないか。

八木さんとはインドで知り合ったんです。といっても僕も彼も同じ日芸に籍を置いてたんですけど。大学入ってすぐだから、七〇年か七一年ですか。もちろん向こうの方が年上ですよ。『サンデー毎日』の編集長で岡本博さんという人がいたんですよ。その人が日芸の講師やってたんです。で、岡本先生が何度かインドへ行っていて、今度行くときは学生も連れて行こうということになって。僕も八木さんもそれに参加していたわけです。

印パ戦争の影響でね、カルカッタに着いたらそこらじゅうに戦車はいるわ難民がごろごろ転がっていて死んでいるのか生きてるのかもわからないわの状況で、ビックリしましたよ。煙草屋みたいなところでガンジャは売ってるわけだし、なんて国かと思いましたね。それで見ていると向こうの坊さんとか皆ガンジャ吸ってるわけですよ。僕はインドにずっと住んでいる日本人の坊さんと仲良くなったんですけど、インドじゃ当たり前だって言うわけですよ。日本だと宗教とドラッグに関する視点ってまったくないじゃないですか。何だ日本の学問や文化って大したことないじゃん、という気がしました。

僕にしても八木さんにしてもインドというのは、ものすごく強烈な体験としてあるんじゃないですか。

インドから帰ってから、八木さんも仕事しなくちゃいけないんで、ちょこちょこやるんだけど長続きしなくてね。『冗談王』が一号で潰れたあと、僕らが『X-マガジン』をやるようになって、今度はこっちから一緒にやりませんかって声かけたわけです。

 

山口百恵のゴミをあさる

『X-マガジン』は一号で終わって『ジャム』になるわけですよ。「山口百恵のゴミあさり」(『ジャム』創刊号掲載)がヒットして世間から注目されるというか、問題になるんですけど。あれは企画が僕で実行犯が高杉です。僕はいつもそうなんですけど、実務的なことや営業的なことはぜんぜん駄目なんですよ。銀行の社長なら勤まるかもしれないけど(笑)。だから普通言われているような編集者というのとも違いましたね。

高杉は、少なくとも僕に関しては、アイデアを引き出すのが上手いんですよ。アイデアを盗むのも上手いけど(笑)。だから僕の企画もいろいろあったけど、全て僕が考えたというわけじゃなくて共同作業ですね。やっぱり。

まあ、これもゴミから始まった雑誌だから、という当然の発想なんですよ。

ゴミあさり自体は社会学的なアプローチとして確立しているんですよ、アメリカあたりでは。ゴミから社会を見るという。暮らしぶりとかね、大衆文化とか。インドの乞食なんて前からそんな商売しているんじゃないですかね。ゴミを通して知った秘密を誰かに売るという商売を。

結局、百恵側から訴えられるってことはなかったです。まあ、売れてる雑誌じゃなかったし、変にことを荒立てて、他の雑誌に関連記事が載った方がイメージ的に損だと判断したんでしょう。ヤクザが脅しに来るってこともなかったですね。結構、頭いいと思いますよ。百恵のプロダクションの社長は。

 

 

明石さんの思い出

「百恵のゴミあさり」は自販機業界で一躍話題になり、そんなこともあって明石さん*31は僕らに好きなことをさせてくれたのかなあとも思いますよ。業界の事情はよくわからないけど。

明石さんに関して言えば、この人の偉大なところは、何にも口出ししなかったということにつきますね。普通、何か言いたくなりますよ。自分が金出しているんだから。よく“太っ腹明石”と言われるけど、僕が明石さんに感心したのは、あの何も干渉しない態度ですね。普通の人間にはできないですよ。あの人、出版やる前は下落合の赤塚不二夫さんの仕事場の近くに「クレジオ」って飲み屋をやっててね、友達がそこの常連だったので、僕も顔見知りだったんですよ。それで、高杉がエルシーで仕事をもらうようなので行ってみたら、社長があの「クレジオ」のマスターでしょう。『ヘヴン』の人と人の関係って、本当にオカルト的なものがありますよ。

でも僕と明石さんということでいえば、まあ他の人はどうか知らないけど、特別に恩義を感じているわけでもないんですよ。もの凄くお金をもらってるわけでもないしね、という感じですよ。明石さんとか佐山さん*32なんかと飲みに行ったなんてこともないし。だいたい当時、僕はお酒ぜんぜん飲まなかったんです。今では完全なアル中ですけどね。だから酒飲んでウダウダやってるヤツはみんな馬鹿だって思ってたし、明石さんと仲良くなって自分を認めてもらおうみたいな意識はなかったですね。だから、集英社講談社あたりが金出すから同じような雑誌作れって言ってきたら、平気でそっちへ行ってたと思うんですよ。まあ、ありえない話だろうけど(笑)。

別に自販機本だから何かやれそうだぞって意識もなかったですよ。ただ、『ジャム』や『ヘヴン』みたいなヘンな雑誌が世に出る土壤を作ったという意味で、やはり明石さんは大きな貢献をした人だと思いますね。

 

山崎春美との出会い

大学のロッカー室を勝手に仕切って『便所虫』の部屋を作ったって話はもう誰かに聞いてるでしょ。その隣に武邑光裕さん*33のサークルもあったんですよ。「神秘学研究会」。とにかく僕にはチンプンカンプンの難しい話をしていましたよ。本当に武邑さんて人は、よくわからないですね。

ある日『便所虫』の部屋へ行く途中、すごく心地よい音楽が聞こえてきてね。誘われるようにして、その音楽をたどって行ったら、春美が「神秘学研究会」の部屋にいて、“ガセネタ”*34の音楽をかけていたんですよ。それで春美とも知り合って。あれは“ガセネタ”の初期の録音だと思うけど、音がハジケていて、とても開放感を感じましたね。僕が一番好きなパンクロック・バンドです。

春美も最近は落ち着いてきましたね。あなたたちは昔の噂でしか彼を知らないから、どんなひどいヤツかと思ったかもしれないけど(笑)。基本的にはとても“いい人”ですよ。特に小さいころは、笑顔も奇麗で、友達思いのいい子だったと思いますよ。ただ、とっても過剰だから、バランスが崩れると、思考も感情も暴走することはあるでしょうね。まあ、その場合に居合わせたヤツが不幸だってことですか。

ひとつ言えるのは、人間関係が親密になればなるほど、たいてい彼とは決裂するような気がしますね。そういう意味では僕は親密じゃないんでしょう、きっと。酔っぱらって電話をかけたりして、迷惑をかけるのはやめようと思います。

(“ガセネタ”たった一度のチラシ)

(たった4曲しかない“ガセネタ”の名曲「宇宙人の春」と「社会復帰」

 

武田崇元インタビュー

僕は先も言ったようにいわゆる“編集者”じゃないし、“フェイク”野郎ですから、雑誌に関してもプロの編集がやらないことをやりたかったんですよ。これも素人の強みを活かす、思考のエコロジーなんですけど、雑誌形態を毎号変えようと思ってたのね。雑誌なんてのはやってるうちに惰性になってくるんだから。同じヤツがまた次の号も書いてたり、マンガがあったら次もマンガが来るような、そういうのは、やりたくなかったんですよ。

例えば、『ヘヴン』第一号があるとすれば、二号は写真集とか色見本みたいな本で、三号は商品カタログになるとかね、毎号スタイルの全く違う雑誌になったっていいじゃないか。むしろその方が読者のライフスタイルには合っていると、今でも思いますね。いわゆる総合雑誌とか、専門雑誌っていう区分の発想は時代遅れだと思いますよ。

ビジュアル面に関しては、僕はほとんど関わってません。もし『ヘヴン』とかに、何か評価される点があるとしたら、羽良多さん*35の功績だと思います。『ジャム』に比べて『ヘヴン』での僕の比重はだんだん少なくなっていったんじゃないでしょうか。まあ、スタッフも増えましたしね。

武田崇元*36インタビュー」(『ヘヴン』第九号掲載・八〇年)は面白かったですよ。疲れたけど。崇元さんとは以前から知り合いで、僕はあの人のキャラクターがすごく好きですね。彼の口利きで『ムー』の仕事とかやらせてもらったりしたこともあります。この武田崇元インタビューが、オウム事件のとき、ほうぼうで引用されていたという話だけど、本当ですか? 僕はまったく知りませんでした。どうして、日本のジャーナリズムは武田さんのところへ話を聞きに行かないんだって、まったく単純な疑問というか、いきどおりはありましたけど。

“麻原の理論的指導者”ですか? 武田さんが。まあ、そういうふうに曲解されて彼が批判される材料になっているとしたら、申し訳ないことしたと思いますね。だけど、武田さんはあんな麻原ごときの黒幕になるようなタマじゃないですよ。麻原が都合いいように勝手に引用したんじゃないですかね。

まあ、僕なんか調子のいい男ですから、ホイホイ企画を考えてインタビューをしに行くこともありましたけど、究極的にはインタビューってのは信用できないと思いますね。結局、雑誌のインタビュー記事っていうのは、基本的にテレビ・インタビューの退化した形式ですよ。

インタビューといえば、その『ヘヴン』の幻の最終号*37で、細野晴臣さん*38に話を聞きました。神秘学とネガティブな妄想世界の話ばかり聞いて、嫌がられたのを覚えてますよ。

 

お坊ちゃん感覚

『ヘヴン』をやっててね、特別に楽しかったって記憶はないんですよ。苦痛でもないけど。少しお金になるから、仕事がないから関わっているというのが本当のところで。でもまあ、そういう意味からいえば、どっちかというと楽しかった部類に入るのかなあ。

ただ、今考えれば、ちょっと中途半端かなって気がしますね。編集やるなら編集やるで個人個人がしっかりしたポジションにいれば責任も出てくるはずだけど。『ヘヴン』に関して言えば、責任の主体がはっきりしてないんですよ。逆に言えば、「あの雑誌は面白かった」とか「凄かった」とか、褒められたりしても誰が褒められてるんだってことになるんですよ。共同作業と個人プレーの区別がはっきりしないんですね。

僕も含めてですけど、『ヘヴン』の連中ってわりとそれなりの家庭でノホホンと育ったヤツらが多いでしょ。高杉んとこもけっこう名の通った会社の社長だし、春美のとこもバロウズ・コンピューターの仕事をしている。近藤とこの親父なんか大蔵省で金を刷るのが仕事なんだから家に行けばいくらでも金をもって帰れるし(笑)。だから、“フールズ”や“じゃがたら”のマネージャーやってた溝口さんあたりに「お前はお坊ちゃんだから」って言われちゃうわけですよ。溝口さんなんかだと、犯罪やってでも金作ってCDを出すぜ、みたいな印象があるでしょう(笑)。そういう根性はないですよ、私には。

まあ、そこいらへんのお坊ちゃん感覚が『ジャム』『ヘヴン』のいいところでもあったし、限界だったのかなあ、という気もしますね。

大人になれないというか。業界でトップを狙うとか文化をリードしようとか、そういう根性がないんですよ。上の方にもうちょっとセンスと経営手腕と営業能力があるヤツがいれば、また違ったんだろうけど、そういうことを期待できる会社でもなかったし、こちらもそんなことは期待してなかったですね。

だから、あなたがたがさ、僕らのやってきたことに影響受けたなんて言ってくれても、僕自身は実感はないし、何だか霊感商法の裁判に呼び出されて意見を述べさせられているような気分ですねえ。

 

山崎春美/WHO'S WHO 人命事典 第3回

美沢真之助〔みさわ・しんのすけ

隅田川乱一/X-BOY、1951~1998/享年46)

とかくミンナに隠れて密かにスーフィーを研究している謎の人物。なんのためかといえば、これが桃の木、あぶく錢だと。ナァル、そんなに宝籤買うわけね、さすが。

勇鼓奮い、誓って信条を言うなら、ただ唯一無二の人である。直感力ってそんな力のあるやらなしやら、天才。『Jam』『HEAVEN』はもちろんだが、そして“TACO”初期からの背骨(バックボーン)であり、(蛸に背骨かよ!との声あり)すべての鍵を「握っていた」のではなく、まさしく鍵穴そのものを「射抜いて」しまっていた。なにしろX-BOYなのだ。だかりこそ美沢さんを言葉で説明できない、できにくい。遣り辛い。さらに見逃せないのは、外からはそれが滅多に見えない(わからない)ことであろう。

竹熊健太郎くんたちには悪いけど、ほぼ二十年前に『QJ』誌で行われたインタビューで竹熊くんらはまったく美沢さんの「本筋」が見えておらず、群盲象を、の譬えよろしく、ただ上っ面を撫でるに終わってしまったのである。それにしても、このエピソード一つ取ってもまさにOCCULT=カルト(隠された知)そのものではないか。そして思わず悪口めいた言辞を弄したが、(せっかく来場して頂いたというのに!)とはいえあくまでも為にする苦言なのだから黙って聞きたまへ。竹熊クンらがもしあのとき真摯に真剣に思い切り心底からの言葉で心情を発し吐露していたらきっと(...などと書くと、相田みつをかなんかに間違われそうだが、そも、ぼくにこんなコト書かせてまうジブンらが情けないんやで。反省または反論求む)人生や世界や(キミらの関心高い)オウム(真理教)やエヴァンゲリオンや、なんでもいいけどホンマに入れ込んだ対象やから見えてくる地平での本質論以外の話なんかなんぼしたって、近所に住む年輩者と天気の話してるんより始末が悪い。あんなにも内容のない、あそこまでつまらない取材にはならなかったろうに。覆水、盆に返らず。

いやいや御察しくだされ。而して、これらすべては自戒なのだヨ。それにしても若死にだけど、現代はとうてい美沢さんが生きるには値しないからではないのか。

 

*1:『X-マガジン』

『ジャム』の前身。一号で廃刊。特集は「ドラッグ」

*2:エロの絡み

エロ・グラビアの男役。AV男優なる本職が登場する以前はもっぱら若手編集者の仕事だった。

*3:『宝島』

70年代においてはポップ・カルチャーをいち早く紹介してくれるサブカル情報誌として、多くの若者の支持を受けていた。

*4:『ワンダーランド』

『宝島』の前身。奇代の枠人にして博学の徒・植草甚一が責任編集。

*5:ローリングストーン』日本版

あまりにも有名な米ロック評論誌の日本版。73年から76年まで刊行される。発行人・レックス窪田が麻薬で捕まり休刊となった。

*6:ポール・ボウルズ

米の作家。いわゆる「ロスト・ジェネレーション」のひとり。最初は作曲家として出発、世界各地を放浪の末、モロッコに居を定め、小説に手を染める傍らバロウズギンズバーグと親交を深める。代表作は『シェルタリング・スカイ

*7:『遊』

松岡正剛・編集の通称“オブジェマガジン”。現代思想、アート、ニュースサイエンスなどを独自の高踏趣味と電波でかきまぜた“狂った”センスは一部の自販機エロ本に強い影響を与えた。

*8:田中泯

日本を代表する前衛舞踏家のひとり。農作業をメソッドとする舞踏道場、「身体気象農場」を山梨県に設立。アート・キャンプ白州主催。

*9:工作舎

松岡正剛主催の出版社。山崎春美も一時期ここの編集員だった。

*10:『X-マガジン』掲載。

*11:高橋巌

日本を代表する人智学研究家。ルドルフ・シュタイナーとその思想を日本に紹介。

*12:『X-マガジン』掲載。あれはメープルソープが撮った写真か?

*13:仕上がりは、さながらバラバラ殺人現場の写真のようだった。

*14:ニュースレター

60年代のアメリカでさかんに発行されていたアンダーグラウンド新聞の総称。

*15:アメリカのドラッグ専門誌

*16:『WET』

カリフォルニアのヴェニス・ビーチから生まれた、お風呂好きのための雑誌。水に関係のある記事は何でも載せており、水を中心にした世界観で作られていた。

*17:三浦和義

ご存じ“ロス疑惑”のカズ。ちなみに彼は、自販機エロ本出版社である『土曜漫画』の編集に携わっていたこともあるらしい。

*18:フルクサス

リトアニア人芸術家G・マチューナスを中心に、60年代にNYで起こった芸術運動。ジャンル上の垣根を取り払ったグローバルな表現活動が特徴で、社会のアート化、生活のアート化を標榜。ジョン&ヨーコの平和のためのベッド・インはフルクサス精神にあふれている。

*19:上杉清文

劇作家・日蓮宗僧侶。著作に『ど~もすいません』『天覧思想大相撲』などがある。

*20:村松友視

作家。文芸誌『海』編集者時代に発表した『私、プロレスの味方です』は、すぐれた観客論であると同時にプロレス・ファンに理論武装することを啓蒙した画期的な書であった。小説『時代屋の女房』で直木賞受賞。

*21:ハナモゲラ語

タモリ創作によるデタラメ言語。ハレハンモ、イッヒトットハナモゲラ……てな具合に使う。

*22:言語=ウイルスのバロウズ

ウイルスが他の生命の遺伝子に入り込み増殖するように、「言語」が人間に寄生し操っているという考え方。ウィリアム・S・バロウズが小説の中で展開。例えば、マスコミによる思想の刷り込み、洗脳などもこれに当たる。言語を解体する「カットアップ」はこの言語ウイルスから身を守る悪魔払いの行為である、とバロウズは語っている。

*23:ジャジューカ

ロッコのリフ山地に住む山岳民族に伝わる音楽。ジャジューカはその村落の名前。植民地支配以前は宮廷の儀式などで演奏されることも多かった。その排他性と血族主義のためか、西洋文化圏に紹介される機会はほとんどなかった。

*24:オーネット・コールマン

フリージャズを代表するミュージシャン。ジャジューカのミュージシャンとの共演は『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』でも聴くことができる

*25:ブライアン・ジョーンズ

ローリングストーンズを事実上脱退後、単身モロッコに飛び、ジャジューカの演奏を録音。それを電子的にリミックスして誕生したのが名盤『ジャジュカ』である。LP盤は今やレア。

*26:ビル・ラズウェル

NYのミュージシャン兼プロデーサー。テクノ、ピップ・ホップからワールド・ミュージックまで幅広いスタンスで活躍。

*27:ブライアン・ガイシン

英の現代美術家バロウズカットアップ(文章のコラージュ)の手法を教えたことでも有名。

*28:八木真一郎

別名・ハマリの八木。『ヘヴン』を経て群雄社編集員に。

*29:『冗談王』

日本文華社(現・ぶんか社)が78年に創刊したパロデイ雑誌。わずか一号で廃刊した。

*30:ビックリハウス

渋谷公園通りを拠点としたタウン誌として出発、その後パロディ満載のサブカルチャー誌として急成長する。初代編集長は元・“天井桟敷”演出家の萩原朔美。ニ代目編集長は高橋章子

*31:明石賢生

エルシー企画ならびに群雄社社長。出版界に数々の伝説を残し、96年物故。

*32:佐山哲郎

群雄社編集局長。麻耶十郎の名で作家としても活躍。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者。

*33:武邑光裕

京都造形芸術大学助教授。神秘学に造詣が深い。『ヘヴン』では「Gurdjieff'sInputSystem」(翻訳)を連載。

*34:ガセネタ

山崎春美大里俊晴・浜野純・佐藤隆史によるパンクあるいは《驚異のハードロック》バンド。77年結成、79年解散。

*35:羽良多平吉

グラフィックデザイナー。『ヘヴン』の表紙デザインほかを担当した。

*36:武田崇元

高踏オカルト雑誌『地球ロマン』『迷宮』を世に送り出した日本オカルト界のご意見番的存在。八幡書店社長。

*37:『ヘヴン』幻の最終号

社長逮捕により編集作業半ばで流産した『ヘヴン』第10号。ちなみにこの号の予定されていたのは「肥満」と「ナチス」のカップリング特集だった。

*38:細野晴臣

細野氏が一時期、オカルト(特に神道系)にハマっていたのは有名な話。