ケラのブログ

身辺雑記

イメージの治癒力──「諦観」と「リズム」でハイな毎日を/青山正明遺稿

イメージの治癒力──「諦観」と「リズム」でハイな毎日を

青山正明

現在では、アジアの一部地域、南米や南太平洋の島々、東欧圏等にわずかに存在するにすぎないシャーマン。彼女たちが(シャーマンのほとんどは女性)、独自の方法で多くの人々の心身の病を治したという事例は、文化人類学マイケル・ハーナーをはじめ、医学を含む様々な学際的研究者たちの調査によって、数え切れないほど報告されている。

が、薬草使用にせよ、身体接触にせよ、シャーマンが患者に対して行う施術のほとんどは、今日の医学的知識や技術から見れば、“治療”ではなく“儀式”であって、そんな単なる“おまじないごと”で病気が治ってしまうというのは、説明不可能というか、あり得ないことなのだ。

しかし、事実は事実、シャーマンは先進諸国の医者たちがほぼ同じレベルの治療実績を上げている。ただし、これこそが重要なポイントなのだが、シャーマンがその治癒能力を発揮できる対象(患者)は、そのシャーマンのパワーを心の底から信じている閉ざされた共同体の住民に限定されるということ。これが何を意味するのかというと、神への信仰にも似た、シャーマンに対する絶対的信頼感があってはじめて、治療は成立するのである。

不安、失望、無気力、不信感といったペシミスティックな心が病気を引き起こし、希望、信頼感、絶対に治るといったオプティミスティックな心は病気を退け、癒す。

こういった「心の在り方」と「病気」との深い関係は、西洋社会でも長らく医療の常識・基盤になっていた。15世紀から16世紀に活躍し“医科学の祖”と呼ばれ、酸化鉄、銅といった金属化合物を初めて医薬品として使用したスイスのパラケルススでさえ、一貫して「治療における患者の想像力」の重要性を力説してたのだ。

ところが、17世紀になって“近代哲学の祖”であるデカルトが二元論を提唱したのを機に、「心」と「肉体」とは全くの別物として考えられるようになり、「心=イメージ」は医学の中核の地位を失ってしまう。そして、医者は「心の在り方」を無視して、まるで機械でも取り扱うように患者の「肉体/症状」のみに治療の重きを置くようになった。しかし、今世紀の半ば頃から、分子生物学オステオパシー(骨療法)、精神神経免疫学等々の研究者たちによって、このような二元的アプローチでは病気は治らないことが明らかになり、治療における「イメージ」の重要性が再び見直されるようになりはじめた。

例を挙げていくと切りがないので、ひとつ「プラシーボ効果」なるものを取り上げて説明してみるとしよう。プラシーボとは、「自分を喜ばせる」というラテン語に由来し、現在では、その症状に対して全く利き目のない乳糖等を含む「ニセ薬」を指して言う。ジェローム・フランクの調査によれば、プラシーボは、あらゆる薬物療法、外科的治療の治癒率とほぼ変わらぬ30%から70%の治療実績を上げるものと報告している。また、映画『ジュラシック・パーク』や、TVシリーズ『ER』の原作者として知られるマイケル・クライトンハーバード大学医学部在籍中に、心臓病患者の80%は悲観的心理状態が原因で、楽観的心的状態を引き起こすことによって治ることを発見し、その医療功績を認められている。

と、長々と「心=イメージ」が「肉体/疾病」に及ぼす影響を記してきたが、肯定的なイメージが、肉体にとどまらず、心の状態にも大きく作用することも、ここ最近になって立証、見直されるようになってきた。

“多幸感”や“快感”で心を満たす、ハイな気分で一生を送る方法は色々ある。趣味や娯楽活動、スポーツに打ち込む、知恵を絞って大金を手にする、努力の甲斐あって意中の人と恋愛関係が成立する、等々。しかしながら、努力やら能力やら勤勉やらが報われにくくなっている今の世襲制階級社会において、こうした回りくどい方法を取っても、それが成就する確立は非常に低い。が、だからといって、合法・非合法を問わず、向精神作用を有する物質を摂取してハイになるというのも、有効な手段でないばかりか、最終的には不安、鬱、混乱といった由々しき精神状態をもたらしてしまう。

なぜかと言うと、いわゆるドラッグを鍵に例えるなら、人間の脳内には、その鍵とピッタリ一致する鍵穴(レセプター)が存在する。鍵が鍵穴にはめ込まれて、人ははじめてハイを体験するのであるが、こうした行為を続けていくと、レセプターは次第に消耗/減少していき、いくらドラッグの量をふやそうがトベなくなるばかりか、レセプターの消耗/減少によって、前述したような精神状態の悪化をもたらしてしまう。

と、ここで特筆すべきは、ドラッグ(鍵)とピッタリ一致するレセプター(鍵穴)脳内に存在するという事実だ。つまり、このことは元来、人の脳や免疫系が、ドラッグと同じ物質(神経ペプチド/化学伝達物質)を自ら生み出していることを意味するのだ。しかも、こうした内因性ドラッグは、レセプターを破壊することもほとんどなく、トビはドラッグと同じにして、なおかつ安全という嬉しい性質を持っている。

では、内因性ドラッグを分泌させ、脳内や免疫系、全身のあらゆる細胞に働きかけ「ハイ」になるにはどうすればいいのだろう。

それは、今まで長々と記してきた「心=イメージ」と「肉体/疾病」の関係と同じく、常にオプティミスティックなイメージを思い描くようにすること、と言いたいところだが、しかし、そこには落とし穴がある。前論を全面否定してしまうようで何だが、希望、願望、信頼感といった楽観的なイメージは、換言すれば“欲望”であり、それが上手く達成されなかったときには、功を奏しないばかりか、かえって悪い精神状態を引き起こしてしまう。そこで、大切なのが、仏教に由来する概念、“諦観”という心の持ち方である。諦観とは、「あきらめる」という意味と共に、「悟る」という意味を持つ。

挫折・絶望と表裏一体である欲望を捨て去り、信じる者は救われる的なオプティミスティックな「イメージ」にも固執することなく、諦観の心──「あるがままを受け入れる」「足ることを知る」といった「イメージ」を常に持つようにして生きる。

そうすれば、必要に応じて「なすべきこと」が頭に思い浮かぶようになるし、また「ハイの状態」もその人の現在の精神状態や置かれた境遇に応じて、自然ともたらされるようになる。

この「オプティミスティックなイメージ」に代わり「諦観のイメージ」を持つことと、もうひとつ大切な概念というか思想に──「リズム」があるのだが、紙数にも限りがあるし、読者の皆さんに欲求不満を与えるようで申し訳ないのだが、ここでは、その一端をちょっと紹介するにとどめておこう。

映画『レナードの朝』の原作者として知られ、昨年『色のない島へ』が邦訳刊行された、アメリカの脳外科医オリヴァー・サックス。彼は日常生活もロクにできない精神薄弱児を対象に、こんな実験をした。

精神薄弱児にコーヒーをスプーンですくって、カップに入れ、そこにお湯を注いで、かき回すといった行為をさせた。その際、1、2、3、4等のリズム(掛け声なり手拍子なり)に合わせて行わせたところ、それまで自力でできなかった、こうした行動ができるようになったというのだ。これは生活全般にも言えることで、毎日決まりきった生活パターン(時間や内容)を心掛けるようにすると、これまた「ハイ」がもたらされる。日常生活にうんざり、刺激を求めて「リズム」を崩すと、却ってロクなことはないのである。テクノも「リズム」重視だしネ。

簡単な紹介になってしまったが、「イメージ=諦観」と「リズム」、このふたつのキーワードに着目することが、「幸福な人生」を送る鍵となり、また「安全かつ良質なハイ」をもたらすうえで重要であることを、各自、心に深く刻み込んでいただきたい。

さらなる、研究成果については、またいつか系統的な書物としてまとめられるよう、40歳にして、学習の毎日を送る青山でありましたぁ。 

青山正明 

1960年横須賀生まれ。『危ない1号』編集長、『危ない薬』『アダルトグッズ完全使用マニアル』(いずれもデータハウス)『表も裏もまるかじりタイ極楽ガイド』(宝島社)著者。

カルトムービーやテクノから異端思想、精神世界、そしてロリコン、ドラッグド、変態までディープシーンを広く論ずる鬼畜系文筆家の草分け的存在。

慶応大学在学中に幻の鬼畜カルトミニコミ誌『突然変異』を編集。ロリータや障害者、皇室まで幅広く扱う同誌は熱狂的な支持者を獲得したが、1982年朝日新聞を中心に、椎名誠等々の文化人に「日本を駄目にした元凶」「こんな雑誌けしからん、世の中から追放しろ!」とマスメデアから袋叩きにあいついにどこの書店も置いてくれなくなりあえなく廃刊。

その後、白夜書房入魂の伝説的ロリコン総合誌『ヘイ!バディ』や三和出版の『サバド』、特殊海外旅行誌『エキセントリック』などの創刊と廃刊に立ち会う。

1995年『危ない1号』を創刊、その年『大麻取締法』により逮捕される。1996年1月10日、新宿ロフトプラスワンで行われたトークイベント“鬼畜ナイト”は保釈出所したばかりの青山氏を励ます会と言うことで、日本中から鬼畜系あやしげな人たちが30人以上パネラーとして駆けつけた、たとえば村崎百郎や柳下毅一朗、根本敬石丸元章諸氏等が実に「危ないトークショー」を開催。

この伝説の一夜は満員の怪しげな観客とともに次の日の朝6時まで繰り広げられた。その日の一日のトークの内容がデーターハウスより『鬼畜ナイト』として出版され7万部を記録する。

1999年夏、青山氏のライフワークであった過去数十年の貴重な原稿を厳選しまとめ上げた『危ない1号・第4巻』にて完結、廃刊になる。

「やりたかった事はやり尽くした!」との結論があって、天才編集者青山氏は裏社会から表社会に、影から光りに転向を決意。「神なき時代の神=思想」の創造をもくろみつつ、精神神経免疫学、分子栄養学、禅等々を学ぶ。 

この遺稿は『BURST』2000年9月号に掲載された。

解説──天災編集者・青山正明の世界

ばるぼら

青山による書き下ろしの論考『イメージの治癒力──「諦観」と「リズム」でハイな毎日を』は、精神世界への傾倒をにおわせる、いつになく難解な文章だった。

シャーマンの治療とプラシーボ効果デカルトによって切り離された心と体などの話題から始まり、人はもともとドラッグを受け入れる鍵穴(レセプター)を持っている、人間が分泌する内因性ドラッグでハイになるには「諦念」と「リズム」が重要である、「イメージ=諦観」はあきらめと悟りである、毎日同じ生活を繰り返す「リズム」によって人はハイになる……など、青山が模索していた次のステージの片鱗として興味深い内容ではあるのだが、『危ない1号』で見られたハッピーな文体とは違っていた。

この論考と、インタビューで語っていた「今は次の段階に行く充電期間……これからは“癒し”の時代だと思ってるんですけどね。まだ勉強不足と言うところがあって、近い将来そういう本を作れればいいな〜って……」という発言だけでは推測が難しいが、ドラッグと同じだけの幸福感を得られる合法な手段は、もはや精神の安定と充実にしか活路が見い出せなかったのかもしれない。この前後にビデオ紹介コラムなどを書いていたとの情報もあるが、名前を出したオフィシャルな原稿は、結果的にこれが最後のものとなる。

『Crash』1996年3月号掲載の『フレッシュ・ペーパー』最終回では、青山がこれまでの連載を振りかって分析し、ドラッグは最初から書き続けているが、その他の傾向として「ギャグ/グロテスクもの」「ホラー映画」「心理学/思想ネタ」の3つのテーマをあげている。しかしこれら「エロ/グロ/ナンセンス」については「もう飽きた」とのことらしく、今後はプロデュース&編集をメインに活動を続けるという宣言がある。

僕自身は、ドラッグ体験のさらに次のレベル「イメージ&リズム」を基調とした「死ぬまでハイでいられる思想(気づき)」の創造を評論なりエッセイなり小説なりで追及・展開していく心づもりです。既成の宗教や思想、心理学、それから大脳分子生化学に遺伝子研究と、学際的な探求が要求されるのでかなり時間はかかると思いますが、「エクスタシー思想」の考案こそが僕に課せられた使命だと思ってますんで(俺って、もしかして狂ってる?)、まあ、気長に、そして大いに期待して下さい。 

 青山が追求してきたのはまさに「暇つぶし」であり、その重要なファクターが「快楽」だった。暇つぶしのためにドラッグをやり、テイストレスなジョークネタを探し、ホラー映画を観て、テクノにハマる。しかし逮捕をきっかけに大きな割合を占めていたドラッグについて大っぴらに語れなくなったゆえに、別の快楽を探すことになった青山は、その行く末を人間の精神性と身体性(イメージ&リズム)に定める。

しかしその快楽を分かりやすく伝える言葉を見つけないまま、逝ってしまった。もしかしたらこれらではドラッグを超える快楽は得られないと気付いてしまったのかもしれない、とも考えられるが、答えは永遠にわからない。

2001年6月17日、青山正明は神奈川県の自宅で首を吊って、自殺した。

 

参考文献

『BURST』2000年9月号(コアマガジン帰って来た?天才編集者 青山正明インタビュー

ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第22回 - WEBスナイパー

ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者!青山正明の世界 第55回 青山正明と「Flesh Paper」/『Crash』編(11) - WEBスナイパー

吉永嘉明『自殺されちゃった僕』解説──掟破り、ということ/春日武彦

吉永嘉明『自殺されちゃった僕』

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解説──掟破り、ということ

春日武彦

自分にとって大切な人が、しかも妻を含めて、次々にこの世を去って行ったとしたら、これはかなりのダメージを心に受けることだろう。おまけにその死が若過ぎ、自殺であったとなると。

そんな事態になったら、おそらく自分が何か不吉なものや禍々しいものを発散しているかのように感じるのではないだろうか。死の縁をわざわざ歩きたがるような人を、向こう側へ突き落としてしまうような邪(よこしま)な要素を自分が備えていると感じるのではないだろうか。あるいは、自分が不幸を招き寄せる体質なのではないか、と。普通、こんな目に遭う人物なんて、滅多にいないのだから。

実は不幸の理由をわたしは知っている。本文を読み進めるうちに、すぐに思い当たった。簡単な話である。著者(以下、Yと略す)がこんな運命に陥ることになったのは、わたしのせいなのである。わたしはYと一面識もない。共通の知人も(たぶん)いない。すなわちYと当方とは接点がない。ただしこちらは彼の仕事を知っている。彼が作った『危ない1号』を読んでいるからである。当時勤めていた精神病院の医局に、なぜかこれが転がっていたので、好奇心半分に手に取ってみたのである。そしてクズみたいな本だと思った。志が低く、屈折した思い上がりが充満し、反社会的であることを自由や純粋さと履き違えているようなゴミ雑誌であった。プライドばかりが高く、しかし才能は乏しく、責任転嫁の得意な薄汚い若者の苛立ちに迎合するような安っぽい雑誌であると思った。おぞましいことこの上ない。洒落にもならないチープ感と虚勢とが、下卑たオーラとなって頁のあいだから悪臭のように漂い出てくるかの如きであった。

こんなものを作ったり書いたりする奴は、品性下劣な人間であると心の底から思った。わたしは、たまらなく不快であった。冗談抜きで、こんな本を作った奴に災いあれと呪ったのである。本気で、不幸が襲いかかりますようにと念じたのであった。
触るのも汚らわしいようなウンコ本であるから、呪いを掛けたあとはさっさと記憶から消し去るように心掛けた。そうしておよそ十年が経ち、わたしは自分の呪いが本当に効力を発揮していたことを知ったのである。したがってYの不幸はわたしの力に依るものであるが、さらに遡って考えれば、彼の不幸は自業自得なのである。わたしは彼に同情をする気はない。ついでながら、テクノ/トランスも大嫌いである。

Yの周囲にいて、早々と彼岸へと旅立ってしまった三人は、共通したトーンを備えている。なるほどYから見れば、才能をきらめかせ、強烈な個性に彩られ、衆愚に迎合しない気骨を持ち、けれどもきわめて繊細で傷つきやすい魂の持主たちということになるのだろう。所詮、澁澤龍彦を読むことで自分の精神が高貴であると自分に言い聞かせているようなレベルであろうと、やはり眩しい存在ということだったのであろう。サラリーマンを、その画一的なスーツ姿ゆえに内面もまた唾棄に値すると決めつけるような類の底の浅い精神性しか持ち合わせていなくとも、ランボオの末裔みたいに映ったのであろう。

彼らは、死に魅惑されていた。たとえ死を恐れようと、それ以上に死へ惹きつけられてた。なぜ死は魅力的なのか。最強のカードであり、多くの人たちをうろたえさせるからである。ただし、死は誰にでも訪れる。死なない人間はいない。死は月並みであり、たとえどんな死に方をしようと「死」そのものは凡庸である。どうして気取った人たち、自らを精神的な貴族と任じているような人たちは、かくも凡庸なものに固執するのか。そもそも死は生理現象の一環であり、そうした意味では汗や口臭や垢や便の仲間なのである。そんなものを特別扱いする心情が分からない。

自殺をする人たちを観察していると、彼らの動機は結局のところ二つであることが分かってくる。すなわち、《逆上》と《うんざり》である。前者は頭に血が上った状態で衝動的に行われる。後者は、この世の中や人間そのものや自分自身に心底幻滅した挙句の行為である。したがって両者が合体することもある。

彼ら三名は(そしてYも)、実家の家族内に歪(いびつ)な心性が潜在し、そうした家庭で育ったことによって、自分だけではコントロールのつけようがない怒りや自己嫌悪や空虚感を自身に内包してしまった気配がある。そのような観点からは、彼らは生まれながらの被害者的な側面もあるのかもしれない。傲慢さや傍若無人なトーンの背後には、深い「よるべなさ」や違和感や絶望感が潜んでいたに違いない。彼らは認めたがらないだろうけれど、家族への反感や怒りと同時にそのような感情を持ってしまった自分に対して罪悪感を覚え、それがために自身を持て余してしまう部分があったのかもしれない。

死は凡庸である。だからこそ、彼らは死に寄り添うとき、本音の部分において寛げたのではないのか。なぜなら、もはや虚勢を張らなくても良いのだから。誰にとっても前代未聞であるのに、呆れるばかりに退屈なしろものが死なのである。自分自身を持て余し、特別であろうとすることに疲れたとき、究極の凡庸に飛び込んでみたくなるのも無理からぬ話なのかもしれない。

ところでYは、物故した三名に比べれば遥かに凡俗である。だからこそ、コンビニで働いてでもこうして生きながらえている。凡庸さは生を肯定したがると同時に、死が凡庸の極みであるという事実はまことに興味深いが、Yがその両極をバランス良く携えていたからこそ、精神的に不安定な三人は彼の周囲に集まって来たのだろう。実際、Yはろくでもない本を作りジャンキーになりかけているボンクラであるが、優しい。善意があり、誠意がある。ウエットで、(気恥ずかしい位に)ロマンチストである。『危ない1号』と、本書から窺えるYの人柄とはしばしば繋がり難いように思えてしまう。だがその奇妙な併存の加減こそが、三名にとって気の休まる存在だったということなのだろう。

Yは、案外と不器用で立ち回りの下手な人物に感じられる。まあ小賢しい男であったならば三名は直感的に毛嫌いしたに違いないし、わたしから呪いを掛けられるような隙も見せなかったであろう。本書のような情けない物語を綴ったりもするまい。彼の人柄ゆえに三人は近付いてきて、やがて彼らは《逆上》だか《うんざり》だかで自壊していった。おそらくYの存在が少しばかり自壊の速度を遅らせ、才能を発揮させる触媒として作用したことだろう。だが結局は死へと突入し、Yはどこかでそれが自分の責任であるかのように感じている。それは錯覚である。Yに悪い部分はない。問題があるとしたら、中途半端な鬼畜編集者であったがゆえにゴミ雑誌を世に出し、読者であるわたしから呪われてしまったことだけであろう。

本書は、いったいどのように読まれるべきなのか。背徳風味のボリス・ヴィアン的な青春物語としてか。パーソナリティーに問題を抱えた人たちの症例報告か。ある種のカルチャーにおいてはスターであった人たちにまつわる内幕話か。それとも、愛する人たちを失った男による慟哭の手記か。

そのどれであっても、本書は詰めが甘く「ぬるい」。正直なところ、金を取って他人に読ませる水準の文章なのだろうかと首を傾げたくなる。Yはドラッグで脳が委縮しているのではないか。それとも、もともと駄目人間なのか。たぶん、両方とも正解のような気がする。ただし、注目すべきはこの本に限っては卑しげな雰囲気がないことであろう。自己憐憫にふけっていても、泣き言を述べていても、苦笑したくなるようなつまらぬ正論を語っていても、とにかく無防備で正直である。本文にこんな箇所がある。

本書の原稿のダイジェスト版をある出版社の女性編集者に見せたことがある。彼女は「私は早紀さんを知りません。そういう他人の立場から言うと、この原稿に書かれている早紀さんを好きにはなれないですね。オヤジに依存しバブルに踊り、生きにくくなったら死んじゃう。はっきり言って同情できません」

わたしも女性編集者と同意見である。しかしYは記す、「女性編集者が冷静でいられるは『愛』がないからだ」と。

ここで愛を持ち出してしまったら、もはや「ああそうですか」としか答えようがないではないか。まともな物書きであったなら、愛などという身も蓋もない言葉は持ち出すまい。あの三人が死という「掟破り」を持ち出したように、Yは愛という「掟破り」ですべてを肯定しようとする。そのなりふり構わぬところに、本書の意味はあるのかもしれない。言い換えれば、愛の無力さと盲目ぶりとがここに描かれているということになろうか。そのように考えてみれば、なるほど本書には予想以上の価値があるのかもしれない、『危ない1号』とは違って。

────精神科医

 

※この文章は2008年刊行の幻冬舎アウトロー文庫版より転載されたものです。

 

吉永嘉明

1962年(昭和37年)東京都出身。明治大学文学部卒業。特殊海外旅行誌『エキセントリック』編集部を経て青山正明の編集プロダクション「東京公司」の設立に参加。特殊海外旅行ムック『タイ読本』『裏ハワイ読本』(別冊宝島)などの編集に従事する。 

1995年より鬼畜系ムック『危ない1号』(データハウス)を創刊。同誌の副編集長を務めた後、第3巻では青山正明に代わり編集長を務めた。

その後、友人漫画家のねこぢる、同僚編集者の青山正明、最愛の妻の三人を自殺で立て続けに亡くし、吉永も重度のうつ病を患う。

その様子を見かねた赤田祐一からの執筆依頼で初の著書『自殺されちゃった僕』を飛鳥新社より2004年に上梓。2008年には精神科医春日武彦による解説を収録した文庫版が幻冬舎アウトロー文庫から再出版された。

眼孔姦にまつわる話──鬼畜系キャンパスマガジン『突然変異』にルーツを見る

今回のお題は御存知『眼孔姦』でございます

f:id:kougasetumei:20170910163348p:plain早い話がアレを眼にブチ込むってだけのプレイです。

人間「穴」さえありゃマジで何でもエエんかっちゅうか、まさに妄想力の可能性を感じさせるイヤ~なプレイである。

生身の人間でやったら普通に死ぬので二次元ありきの鬼畜系特殊性癖に留まっている(なお現実のAVでも「眼射」は一応ある)。

くれぐれも眼孔姦は死姦の内に留めておきたい。

さて白状すると肝心の自分は眼孔姦のプレイ内容が特殊すぎて“性的な意味”での興味は全然無いんである。そもそも眼孔姦世界的な普遍性を持ち合わせてるものなのか、それとも日本人という変態民族が築き上げたマイナーな性癖なのか、これもよく分からない。

別に自分としても眼孔姦という特殊性癖自体は一生わからないままで全然構わなかったんだけど、じゃあ何でこの話題を取り上げてるかと云うと、たまたま手に取った80年代の変態ミニコミ誌『突然変異 Vol.3』(突然変異社/脳細胞爆裂マガジン)に眼孔姦をテーマにしたレポートがあったからです。

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突然変異』といえばロリコンやドラッグなど鬼畜系の権威として知られる故・青山正明が編集に参加していたことで知られる慶応大学初のキャンパスマガジンで変態と知性が交錯する、日本一IQの高いトンデモマガジンでした(笑)。

しかし81年8月、『突然変異』に嫌悪感を抱いた椎名誠朝日新聞紙上で「ゴミ雑誌、ゴキブリ雑誌。バイキンをまき散らすだけの雑誌」「書店はもっと中身をきちんと見て扱った方がいい」と糾弾し、それが要因となって僅か4号で廃刊してしまいます*1

自分はこの『突然変異』に掲載されていた眼孔姦をネタにしたルポ記事を読んで、オタク文化特有のニッチな特殊性癖という偏見から、大昔のミニコミ誌でも取り上げられたほど歴史がある普遍的で多様性のある特殊性癖(?)ではないかと視点が変わっていったという訳ですな。

青山正明亡き今、著作権がどーのこーのとゆーのは置いとき、その元祖(?)眼孔姦記事を以下に大公開しちゃいます。

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お年始ボランティアの薦め/奥中亜紀

1. 一年をふりかえって(新年への決意)

“完全参加と平等”をテーマに健常者と障害者が、がっちりとスクラム*2を押し進めてきた国際障害者年(IYDP*3)も残すところ一ヶ月あまりとなった。

一体自分は、この一年、障害者のために何をしただろうかと、心を痛めている向きも少なくないと思う。しかし、実行は伴わずとも「ともに生きる」ことなら、あなたにとってこの一年は、決っして無為なものとはならなかったはずだ。そして来年こそは実践に移そうと固く心に誓っていることだろう。

そんな心ある読者のために先人の貴重な体験談を随所に織り交ぜながらサリ・マイ(手短か)にではあるが、「お年始ボランティア」なるものを理解する上で、何かヒントとなる様なものを記してみたい。

 

2.いきなり具体例

いきなり、具体例としてある少年の体験談を挙げよう。
「ポクは、今年女子大の3年になる目の不自由な女の人をお年始しました。彼女は身寄りがないのか独り暮らしでしたが、あらかじめ彼女の大学の点字同好会を通して紹介してもらっていたので快く招き入れてくれました。」

自らをラジオ・ピョンヤン日本語放送第2プログラム*4の熱心なリスナーと語る外国人の少年は、流暢な日本語でとつとつと語ってくれた。

「持参のきんとんを差し出すと、まあ、きんとんには目がないのよ*5と言うおねえさんのパヤイ基本的に目がないんじゃないですかと言ったら表情が曇ったんですけどやがて互いにうちとけてかるたとりでもしようかということになりました。結果はポクの完勝でした。だっておねえさんたら一枚もとれないんだもの あはははは……」

ここで急に少年は神妙な顔つきとなり、こう語を継いだ。

「その時なんです。ポクの心に住む悪魔が頭をもたげたのは。その、なんてゆーか、ポクは普段から、直腸ガンで今にも死にそうなおじいさんの人工肛門にチンポをぶっこんだらどんなに気持ちイイだろう、なんてよく考えるんですけども、このおねえさんのカラッポの眼窩だったら気持ちイさはその比ではないんじゃないかって思ったんです。

ズム!と彼女の左の眼窩にチンポを突っ込むでしょ。

そうすんと、やがて涙液で潤ってくる。まつ毛の微妙な感触と眼輪筋など眼筋の著しい収縮に耐えられなくなってものの一分も経たぬうち、ポクは奥歯をくいしばりながら気をやってしまう。

眼窩に満ち満ちたアポロンの子らは、暗黒の洞窟からの出口を求めて彷徨する。あるものは視束管から頭蓋腔内にあふれだし、果てしなきニューロンの海へと、あてどない船旅にでる。

またあるものは鼻涙管に楽園へのとばロを求め、鼻腔に下り、前鼻孔よりいったん外界をかいま見てから彼女のうす紅の唇に吸い取られ、あますことなく嚥下される。

せんぶ飲んじゃったの、との彼女をおもんばかるポクの言葉にこっくりとうなずき、“おのどが焼けそう…”と右の眼窩を涙でいっぱいにする彼女だが、その間もポクの手指は、あふれんぱかりの涙をたたえた右の眼窩を休むことなく、優しくくじり続ける。

ああ、しどろなる情交の極北にあらわる、ろうそくの炎にも似た安定して不安定な、この、あえかな光は一体なんだろう。一体、このあえかな光は、あえかな光は……」

虚空の一点をにらんだきり、もはやいくら言葉をかけても何の反応も示さなくなった彼を鉄格子の向こうに残し、私はゆっくりと立ち去るのだった。

まあ、つまり少年は、単に気ィが狂ったというだけで実際にやったかやらなかったかは、誰にもわからない、ということだ*6。よろしく。

読者諸兄には、少年の当初の心構えのみを見習って頂きたい。

そりゃあ誰だって12歳ぐらいで、毛もそぞろのメクラの少女を地下室で秘かに飼ってみたい、なんちゅーことは考えることだが、それを実行するのとグッとこらえるとでは決定的な差異があり、その差異というのは、伊藤つかさ*7とオメコするのを想像してセンズるのと、本当に伊藤つかさとオメコするのとぐらいの差異である。

(中略)

さて、そろそろこのへんで、一応の総括を試みたい。

その前に、まず注意事項から。盲人用信号が赤のとき、あらかじめ用意したカセットテープレコーダーで“通りゃんせ”*8のメロディーを流す「ああ、人類愛の土俵際!自然淘汰ゲーム」は危険につき、絶対しないこと。手短かな人と動物園に行った折、手長猿は絶対目に触れさせぬこと。以上の二点を厳守し、誠心誠意「ともに生きる」ことを心がけよう。常に恵まれない人々とフィフティ・フィフティな間柄で接する気持ちを、我々は忘れてはならないのだ。

最後に結びの言葉として、国際障害者年のテーマを記す。

────完全参加と平等────

……どうですこれ(笑)

精神身体障害者をネタにする時点で不謹慎極まりないんですけど、内容がとにかく酷い(笑)そして背徳的な感じがエロいです。

さっきも言いましたけど、元々眼孔姦は日本の変態オタク文化(特にネット文化圏)が産み落とした新手の性癖だと勝手に認識してたけど、実は35年以上前に、しかも慶応のキャンパスマガジンがやってたというのは、眼孔姦の歴史(そんな歴史があるのか?)を覆す新事実ではないだろうか?

もしかしたら海外の変態小説あたりにも眼孔姦のルーツがあるのかもしれないけれど、こんな無名ブログでそこまでして探求しても埒があかないので、ひとまず終了──

*1:『突然変異』3号の編集後記より「予定より一ヶ月以上も発行の遅れたことをお詫びします。つまらない問題を抱えてしまい、雑誌作りの方に手がまわらなかったのです。椎名誠という前頭葉に蛆虫をわかしたネズミが血迷ったためです。オドシや抗議の電話が殺到しました。本誌はまだ体制の整っていないミニコミですので廃刊に追い込まれなかったことが不思議なくらいでした(引用者注:結局4号目を最後に廃刊)。『突然変異』に制裁を加えるとミニコミ界の独裁者気どりでいきまく椎名誠氏に言っておきます。朝日新開の権威を貸りて、『突然変異』を書店から閉め出そうとしたあなたは、同じミニコミを作っている人間とは信じられません。雑誌に対して、好き嫌いを明確にすることはいくらやってもかまいませんが、しかしあなたはその域を明らかに超えています。精薄児を笑いものにしているというのも所詮あなたの悪意的解釈に止まっているのですから。もっとも笑いの対象にしていると取られても、いっこうにかまいません。何も知恵連れの子供たちを特別視することはないと思っています。むしろあなたの方にこそ差別意識があると感じます。権威の頂点に立つ天皇も、弱者である精薄児も同じレベルでチャカしているわけで、そこには差別意識はないとハツキリ言っておきます。すべてを同等と考える上で、これは一つの試みである筈です。あなたが『良識』を振り回すなら、こちらにもこちらの『良識』があるのです

*2:むろん健常者は、障害者に対し、ある程度の手加減をしなければ怪我をする。

*3:IYDP=International Year of Disabled Persons

*4:ちなみに第1プロは日本人向け放送。

*5:事実きんとんは眼を有しないので少年の誤解かと思われる。

*6:犯らないことにしておけば無難である。

*7:今年の冬には聖子なみの人気になっていると思われる。

*8:「……帰りはコワイ~……」という歌詞が“不安を与える”とのことで、現在、改訂の動きがある。

日テレ版ドラえもん決定稿台本「のろいのカメラの巻」

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●声の出演
静香 - 恵比寿まさ子
ぼた子 - 野沢雅子
デブ子 - つかせのりこ
シャマ子 - 吉田理保子

●スタッフ
原作 - 藤子・F・不二雄*1

脚本 - 井上知士

CD - 上梨満雄

制作 - 下崎闊

製作 - 日本テレビ動画

著作 - 日本テレビ放送網

第14話「のろいカメラ作戦」→6-A話「のろいのカメラの巻1973年5月6日放送

 

 

のび太の部屋
 
のび太「うわーん」
 
のび太が大声で泣きながら帰ってくる
 
ドラえもん「ぬ ぬー またか!」
 
のび太ドラえもんの膝に泣き崩れる
 
のび太ドラえもん ぼ ぼくはもう くやしくてくやしくて!」
 
ドラが烈火の如く怒る
 
ドラ「いわなくてもわかってる またスネ夫にバカにされたんだろう あんチクショーッ 今日という今日はガマンならんぞ メッタメタにしてやるーっ!!」
 
云うなりビューンと外へ駆け出して行くドラを見送って のび太はクスンと鼻をすすり
 
のび太「まだ何も云ってないのにぼくの気持ちをわかってくれるなんて やっぱりぼくのドラえもんだな……クスン」
 
〇通り
 
ドラえもんがダンプのように駆けてゆく
 
ドラ「おのれ のび太を馬鹿にするということはぼくを馬鹿にするということだ ゆるせーん!」
 
道行く人や犬がふっ飛ぶ
 
ドラ「さて ところで問題はどうやってスネ夫をやっつけるかだが──」
 
ドラの顔が次第に恐ろしい悪鬼と化す
 
ドラ「ここに恐るべき機械がある 余りにも残酷なためにこれこそ悪魔の発明といわれる世にも恐ろしいのろいカメラだっ!」
 
ジャジャーン!
 
悪鬼のように笑ってポケットからとり出したのは 一見なんの変哲もないカメラであった
 
だがドラは恐ろしさにおののく
 
ドラ「もし こののろいカメラで スネ夫を写すとスネ夫はどうなるか…うーん 考えただけでも恐ろしい! し しかしぼくはやる あの憎いスネ夫をこらしめるために ぼ ぼくはやる!」
 
ドラが敢然と表をあげたとき むこうからスネ夫が静香と連れだって来る
 
スネ夫「とにかく静香ちゃん のび太なんかとつきあわない方がいいよ」
 
静香「アラ どうして?」
 
スネ夫「決ってるじゃないか あんなバカのマヌケのトンマ それに あのドラえもんがまたのび太に輪をかけたくらいの大バカのマヌケでね!」
 
電柱の陰でドラがうめく
 
ドラ「チクショウ いいたいこといっちゃって いまにみてろー!」
 
ドラはサッとカメラを構える
 
そんなことは夢にも知らぬスネ夫──
 
スネ夫「それに比べてぼくはどう お金持ちでハンサムで しかもどんなことが起っても驚かない男の中の男!」
 
電柱の陰からカメラを構えたドラが
 
ドラ「ぬ ぬーっ いまにその化けの皮をはがしてやるからなっ!」
 
とシャッターを押そうとするが……どうしても押せない
 
ドラ「ム ムーッ!」
 
タラリと油汗が流れる
 
ドラ「だ だめだ とてもできない たとえどんな悪人でも これを使うのは余りにも残酷だ!」
 
ガックリとうなだれたドラに スネ夫が気付いて
 
スネ夫「なんだ ノラえもんじゃねえか そんなところで何やってんだ ノラ公」
 
ドラ「ノ ノラ公?!……ノラ公とは何だ ノラ公とは!」
 
スネ夫「ヒヒヒ 怒れ怒れ おまえの怒った顔みてるとたいくつしないぜ」
 
ドラは怒りにふるえる
 
ドラ「ぬ ぬーっ いわせておけばーっ よ よおし もう許さんぞーっ!」
 
とカメラを構える
 
スネ夫「ヘエ 写真とってくれるってのかい いいねえ チーズ」
 
スネ夫はポーズをつくる
 
しかしドラはガタガタとふるえる
 
静香「あら どうしたの」
 
ドラ「だ だめだ や やっぱりぼくにはシャッター押せない!」
 
云い捨ててダッと駆け去るドラに
 
スネ夫「なんでなんでえ ヤイ ノラ公 おまえフィルムがおしいのか ドケチ虫!」
 
のび太の家・玄関
 
ドラえもんがくやし涙を流しながら帰ってくる
 
ドラ「クーッ ノラ公と云われ ドケチ虫とののしられてもぼくにはこの恐ろしいのろいカメラは使えなかった」
 
ドラは上りがまちにカメラを置いてガックリと座り込む
 
ドラ「でも これでよかったんだ ぼくさえガマンすりゃこののろいカメラを使わなくて済むんだもの あーァ あまり緊張して疲れちゃったなァ」
 
ドラはガックリと下駄箱によりかかる
 
〇仝 のび太の部屋
 
のび太「フフフ ドラえもん いまごろぼくの仇だって スネ夫のヤツをコテンパンにやっつけてくれてるだろうな よし 望遠鏡で見物してやろ」
 
のび太は望遠鏡をもって窓辺に立ち のぞく
 
のび太「えーと どのあたりから……あーっ!」
 
──望遠鏡がとらえたスネ夫は コテンパンどころか 元気いっぱいで いましも近所のノラネコをボインと蹴とばしていたではないか──
 
のび太「ど どうなってんの スネ夫のやつピンピンしてるじゃないか!」
 
〇仝・玄関
 
二階の階段からのび太が駆け降りる
 
のび太「おーい ドラえもん 話が違うぞーっ どこにいるんだ ドラ……あーっ ド ドラえもん!」
 
みればドラえもん 上りがまちに腰かけたまま 下駄箱にもたれて 鼻提灯をふくらまして「グウ」と寝ている その前にカメラ
 
のび太「のんきだなァ スネ夫をやっつけるなんていいながら カメラなんかいじって遊んでたのか」
 
のび太はカメラを持って
 
のび太「よおし 罰にそのおかしな寝顔写してやる」
 
のび太がシャッターを押した瞬間 ピカーッ! ゴロゴロ!
 
一瞬カメラから すさまじい稲妻と雷鳴が轟く
 
「キャーッ!」
 
のび太は髪の毛を逆立て 卒倒する だが 次の瞬間 あたりはうそのように静まり返り ドラえもんも何事もなかったように「グウグウ」寝ていた
 
のび太「…変だな いまこのカメラからすごい雷が鳴ったようだったけど 気のせいかな あれ?!」
 
そのときカメラからポトリと何やら転がり出した みればそれは ドラえもんそっくりの小さな人形だった
 
のび太「へーっ こりゃおもしろいや このカメラで写すと写真のかわりに こんな人形がとれちゃうのか よし今度はお父さんとお母さんを写しちゃお!」
 
〇居間
 
お父さんとお母さんがニコニコしながら並んでいる のび太がカメラを構え
 
のび太「ハイ もっとくっついて」
 
お父さん「よしよしこうかい」
 
お母さん「うまく撮ってよ」
 
のび太「ヘヘヘ 知らぬが仏…ハイ チーズ!」
 
カシャ!とシャッターを押すと ピカッ! ゴロゴロゴロゴロ!
 
〇仝 のび太の部屋
 
のび太が机の上にドラとお父さんとお母さんの人形を並べて
 
のび太「さすがドラえもんのカメラだ 人形がとれるなんて仲々しゃれてるよ でも この人形どうするかな あっ そうだ 人形が好きなのは女の子だ 静香ちゃんにプレゼントしよう」
 
〇静香の家・表
 
のび太がリボンをかけた箱を静香に渡す
 
側で ぼた子がうらやまし気に見る
 
のび太「あのね こないだきみの誕生日になにもプレゼントしなかったろ だから」
 
静香「まァ どうもありがと わたし可愛いいお人形さんて大好き」
 
ぼた子「わたすもお人形大好きだべ」
 
〇仝・静香の部屋
 
静香が包みを開けて驚く
 
静香「アラ なに このお人形」
 
例のドラえもんたち三人の人形である
 
ぼた子「あんれま ドラえもん人形でねェか!」
 
静香「これじゃ あまり可愛いくないのね ぼた子さんにあげるわ」
 
ぼた子「わ わたすだって めんこい人形は好きだども…」
 
ぼた子もどうやらあまり嬉しくない
 
のび太の部屋
 
「えェーッ」
 
どらえもんが真っ青になって愕く
 
ドラ「そ そ それじゃこののろいカメラでとったぼ ぼ ぼくの人形をーっ!!」
 
のび太「ああ 静香ちゃんにあげちゃったよ」
 
ドラ「タハーッ な なんということをしてくれたんだ その人形が人の手に渡るとどんな恐ろしいことになるか知ってるの!?」
 
のび太「知らないよ」
 
ドラ「し 知らなきゃはっきり教えてやる まず こののろいカメラでのび太を写す!」
 
ドラがシャッターを押す
 
のび太「そうすれば ぼくの人形が出てくる」
 
カメラがポトリとのび太の人形が出てくる
 
ドラ「そう しかし この人形が問題なんだ みてろ 例えば釘でこの人形の腕をつっつくとどうなるか──
 
人形の腕をつっ突く
 
のび太「あらっ」と腕をもむ
 
ドラ「どうだ わかったかい?」
 
のび太「えっ!」
 
ドラ「ちぇ とろいなー じゃこうだ」
 
ドラ 人形の頭をコツンとたたく
 
のび太「ハレ」と頭をこづかれる
 
さらにドラ 人形にけたぐりをくわせたり くすぐったりする
 
それがそのままのび太に伝わって さんざんな目に会うのび太
 
ドラ「これでわかったろう このカメラでとった人形になにかされると 本人にそのまま伝わるんだ」
 
のび太「と ということは もしもだれかがドラえもんの人形をバラバラにしたら──
 
ドラ「決ってるじゃないかっ ぼくの体もバラバラになっちゃうんだよーっ!
 
そのことばにゾーッとふるえ上るのび太
 
〇通り
 
ドラとのび太が狂ったように駆けてくる
 
ドラ「静香ちゃーん!」
 
のび太「さっきの人形 返してーっ!」
 
〇静香の家・表
 
静香「あら さっきの人形ならぼた子さんにあげちゃったわ」
 
のび太「えェーッ! ぼ ぼた子に?!」
 
ドラ「あの恐ろしいぼた子にーっ!!」
 
のび太「そ それでぼた子はどこにいるの!」
 
静香「さァ なんだかさっき 近所の小ちゃな女の子たちと遊んでたけど どこへ行ったのかしら」
 
のび太「よおし さがすんだ ぼた子 ぼた子ーっ!」
 
ドラ「どこだぼた子 ぼくの人形を返せーっ!」
 
と駆け出した途端 コテンとひっくり返るドラえもん
 
ドラ「痛てて! チ チクショウ ぼ ぼくの人形 投げ出したなっ!」
 
〇シャマ子の家・庭
 
芝生の上に人形が転がる
幼稚園に行くか行かないかくらいのシャマ子とデブ子が人形を見て
 
シャマ子「まァ 変なお人形!」
 
生桓(※生垣の誤字)の外からぼた子が
更にお父さんとお母さん人形をポイと投げ込んで
 
ぼた子「そんだらこつ言うもんでね これでもお医者さんごっこくらいできるだべ」
 
シャマ子「ちようね お医者(ちゃ)ちゃんごっこならできるわね」
 
デブ子「ちようちよう!」
 
シャマ子「わたちお医者ちゃん」
 
と道具の入った箱を持ってくる
 
デブ子「わたち 看護婦ちゃん」
 
と敷きものを持ってくる
 
のび太の家・居間
 
お父さんは寝っ転がってテレビを見ている
お母さんは編み物
 
お母さん「のび太ドラえもんも遅いわね せっかくの日曜だっていうのに」
 
お父さん「ま いいじゃないか それより母さん どうも体がムズムズするんだがね ノミでもいるんじゃないかね」
 
お母さん「まさか 変なこと云わないで」
 
そう云いながらお母さんもムズムズして
 
お母さん「アラ どうしたのかしら そういえば私も…変ね」
 
〇シャマ子の家・庭
 
デブ子がお母さん人形をベッドに置き
 
デブ子「ちぇんちぇ 診てくだちゃい お熱があるんでちゅ」
 
医者のシャマ子が体温計で計って
 
シャマ子「まァ 大変でちゅよ 八百度もありまちゅ 早く冷やさないと死んじゃいまちゅよ!」
 
デブ子「うーんと でもどうやって冷やちゅの?」
 
と縁側で見ていたぼた子が無責任にいった
 
ぼた子「そったらこつ 簡単でねえか 冷蔵庫があるべ 冷蔵庫が」
 
〇仝・台所
 
デブ子がお母さん人形をもって冷蔵庫に駆け寄る
 
デブ子「ちょうでちゅね 冷蔵庫に入れちゃえばいいんでちゅね」
 
のび太の家・居間
 
お母さんがゾーッとふるえ上る
 
お母さん「キャーッ 冷たいーっ!」
 
お父さん「ど どうしたんだね?」
 
お母さん「そ それが なんだか急に寒気がしてーっ!」
 
ガタガタとふるえるお母さん
 
〇シャマ子の家・庭
 
デブ子がお父さん人形をベッドに置く
 
デブ子「今度はお父さん人形の番でちゅ」
 
「ハイハイ」とシャマ子が体温計で計って
 
シャマ子「アラ 大変今度はお熱が全然ありまちぇん 早くあっためてくだちゃい」
 
デブ子「うーんと あっためるって どうちゅればいいの?」
 
又してもぼた子が無責任にいった
 
ぼた子「そったらこつ 簡単でねえか ガスレンジがあるべ ガスレンジが」
 
〇仝 台所
 
デブ子がお父さん人形をもってガスレンジに駆け寄る
 
デブ子「ちょうでちゅね ガスレンジに入れちゃえばいいんでちゅね」
 
のび太の家・居間
 
お父さんが真赤になって叫ぶ
 
お父さん「ウヘーッ 暑いっ た たすけてくれーっ 暑いよーっ!」
 
お父さんは七転八倒 着物をはぎ取る その側ではお母さんが何枚もふとんをかけた寝床でガタガタふるえている
 
お母さん「寒い 寒い──っ! 」
 
お父さん「暑い 暑い──っ!」
 
お父さんは扇風機を回し 滝のように汗を流す
 
〇空
 
ドラとのび太がヘリトンボで飛ぶ
 
ドラ「急げのび太 早く人形をとり戻さないと大変なことになるぞ!」
 
のび太「だからぼた子を探すんだ 急げ!」
 
ドラ「おーい ぼた子ーっ どこだーっ!」
 
のび太「人形を返せーっ!」
 
と突然ドラが空中でケタケタと笑い出す
 
のび太「お おい 気でも狂ったのかドラえもん!」
 
ドラ「ウヒャヒャヒャ そ それが急になんだかくすぐったくなって…フヒャヒャヒャ やめてくれ 体をなでまわすのはやめてくれーっ アヒーっ!」
 
〇シャマ子の家・庭
 
ベッドにドラ人形をねかせ シャマ子が体のあちこちを診察している
 
シャマ子「まァ 大変でちゅ この患者さん頭も胸もお腹も手足もみんな悪いでちゅね!」
 
デブ子「どうちまちょ!」
 
シャマ子「すぐ手術しないと手遅れになっちゃいまちゅ」
 
デブ子「でも 手術ってどうやってちゅるの?」
 
またまたぼた子が無責任に云い放った
 
子「そったらこつ 簡単でねえか まんず手術の前にこの注射器で麻酔すて それからこの包丁で サクッ!」
 
片手に注射器 そして片手に包丁をもって
ぼた子がニタッと笑った
 
ドラとのび太が空を飛ぶ
 
ドラ「フーッ やっとくすぐったいのは治ったけど なんだかイヤな予感がしてきたぞ」
 
のび太「急げ 一刻も早くとり戻すんだ!」
 
と突如ドラが「イテテテ!」と叫んだ
 
のび太「ど どうしたドラえもん!」
 
ドラ「な なんだか腕に注射されたみたいだ!」
 
のび太「エーッ そ そりゃ大変だ 今度は何をされるかわかんないぞ」
 
〇シャマ子の家・庭
 
シャマ子がドラ人形のお腹の上にグイと包丁を突き付けて
 
シャマ子「さァ いよいよ手術でちゅ!」
 
云いざまサッ!と包丁を振りあげた
 
あわや 人形のお腹にザックリ! と そのときデブ子が云った
 
デブ子「あら?!」
 
シャマ子「どうちたの?」
 
デブ子「かわいちょうに 死んじゃいまちた 手遅れでちゅ」
 
シャマ子「どうちまちょ」
 
ぼた子「そったらこつ 簡単でねえか 葬式すればええでねえか 葬式を
 
スネ夫「なに 葬式 おもしろそうじゃねえか おれ葬式って大好きなんだ やろうやろう おれも手伝うぜ
 
スネ夫は喜々として庭にマキを運び込む
 
ぼた子「あんれま マキなど集めてなにするだ?」
 
スネ夫「決ってるじゃねか ちゃんと本式に火で焼いて お墓に埋めるんだよ
 
〇空
 
ドラがヨタヨタになって飛ぶ
 
ドラ「フーッ なんとか首は切られなくて済んだけど こんどこそなにされるか分からない 頼むよのび太 早く捜し出してくれ!」
 
のび太「そ そんなこと云っても…あーっ いた あそこの庭だーっ!」
 
見れば 眼下の家の庭から一条の煙が昇っている と ドラが叫ぶ
 
ドラ「ウギャーッ アチッ アチアチ!!」
 
〇シャマ子の家・庭
 
たき火を囲んでスネ夫 ぼた子 シャマ子 デブ子の四人がお経をあげている
 
「ナンマイダ ナンマイダ ナンマイダ」
 
見れば火の中にドラ人形 と 突然一同の頭上から
「アチーッ!」という叫び声とともにドラが落ちてくる
 

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スネ夫「あれ ドラ公が化けて出やがったぜ
 
ドラ「バ バカッ やめろ アチチ あついじゃないか!」
 
スネ夫「へえ するとこのドラ人形になにかするとおまえも同じ苦しみに会うってわけか たとえばこうすると──
 
スネ夫はサッカーボールのようにドラ人形を足でポンポン蹴りあげると
 
ドラ「こ こら やめろっ ヒィーッ!」
 
ドラは人形と同じようにポンポンはずむ
 
ぼた子「おもしれーっ スネ夫 こんどはちょっくらこっちに投げて見れ!」
 
云いざまぼた子はバットを構える
 
スネ夫「よーし 行くぜ それーっ!
 
スネ夫の投げたドラ人形を ぼた子はフルスイング一発「カキーン!」とみごとに大空に打ちあげた 人形とドラが並んで飛んでゆく
 
「あれーっ!」とその人形とドラを空中でガッシリ受けとめたのはのび太であった
 
のび太「安心しろ た 助かったぞ!」
 
ドラ「チ チ チクショーッ スネ夫とぼた子のやつ よくもぼくをこんなひどい目に会わしたな この仇は必ずとってやるーっ!
 
〇通り
 
スネ夫とぼた子が「ウヒャヒャヒャ」と笑いながら行く
 
スネ夫「ウヒャヒャヒャ ドラえもんのバカが 思い出してもおかしいぜ ブヒャヒャヒャ」
 
ぼた子「んだんだ さだめしドラえもんもこのぼた子さまの力にはこんりんざい参ったことだべ ウヒャヒャヒャ」
 
と笑ったぼた子が「ム?!」となる
みればなんということか 彼女のスカートが突然ピラッとめくれたのだ
 
ぼた子「あんれま!」
 
とあわてて押えた彼女の手もとから ツルンとすべり落ちたのは なんとフリルのついたパンティだった
 
ぼた子「ハレーッ!」
 
道ゆく人は一瞬目をおおう スネ夫もハッ!と目をおおう と どうだろう 今度はスネ夫のズボンからジャーッとおしっこがほとばしった
 
スネ夫「ハ ハレッ!」
 
道ゆく人がこれを見て笑い転げる
 
スネ夫とぼた子はいたたまれず
 
は 恥ずかしーっ!」と無残なかっこうで逃げて行く
 
のび太の部屋
 
のび太とドラが「ウシシ!」と笑う
みれば のび太はぼた子人形のスカートをめくり
ドラはスネ夫人形の下半身にヤカンで水をかけていた
 
のび太「ケケケ ザマアミロ!」
 
ドラ「キキキ これで仇はとったぜ!」
 
──終──

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とりあえず経緯を話します。
この決定稿台本は今年7月に、まんだらけ様のオークションに出品されたもので、このたび偶然落札者様と連絡が取れ、全頁分のスキャンデータを提供して戴きました。
 
自分だけが読めても勿体ないし、そもそも本編自体が視聴不可能な訳ですから、全文を原文のまま書き起こしました。そしてこの度、貴重なデータを提供して下さったMark Acrylic様にこの場を借りて感謝の意を表したいと思います。──ケラ

*1:てんコミ4巻-第1話「のろいのカメラ」より

鬼畜系サブカルチャーの終焉/正しい悪趣味の衰退

鬼畜や悪趣味は数十年間隔で定期的にブームになる。3つ挙げるとすれば、大正末期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化、戦後混乱期に濫造されたカストリ雑誌群、そして世紀末の『危ない1号』*1を頂点とする鬼畜ブームである

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3つのブームは一見似ているが成立背景が異なり、特に世紀末の「悪趣味」は街が清潔になって汚穢が見えなくなった事の裏返し、怖いもの見たさがあった。

昭和初期も『グロテスク』(1928年-1931年)という元祖鬼畜本が存在していたが、当局より幾度となく弾圧され発禁処分になったことでも知られている*2

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しかし戦後を迎えると、それまでの激しい言論統制や出版規制から解放され*3、同時に「自由の象徴」として下品で低俗な大衆雑誌「カストリ雑誌が大量に発行された。これが広く一般に普及したのもまた「悪趣味の時代」だったのではないかと思う。

では90年代の「悪趣味」とは何だったのか?

まずブームの成立過程には「世紀末」という土壌が大きく作用していたといわれる。

特に1995年上半期に起こった阪神淡路大震災地下鉄サリン事件なる「戦後最悪の災害」と類例をみない「国内最大規模の化学テロ事件」が連続して起こったことは、よりいっそう大衆に「世紀末」という意識を強く根付かせた*4

そうした日常の均衡が崩れかけた時代の中で、サブカルチャーが迎えた世紀末とは正に「悪趣味の時代」だったのだ。

この鬼畜・悪趣味ブームはユリイカ』1995年4月臨時増刊号「悪趣味大全」において様々な文化に「キッチュで俗悪」な文化潮流が存在すると提示・宣言されて以来、神戸連続児童殺傷事件が起こる1997年頃まで続いたとされている*5

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唐沢俊一は世紀末に流行した悪趣味ブームの終焉について次のように語っている*6

鬼畜ブーム初期のライターは、村崎さんにしろ僕にしろ、人が読んで顔をしかめるようなネタを書くのは、今の社会の矛盾や醜悪さをカリカチュアしたもの、あるいは拡大して見せたものがすなわちこれだ、目をそむけちゃいけないよというメッセージを伝えようとしてたんだけど、その後に出てきた若い人たちには、単にストレートにグロテスクなものにはしゃいでるだけ、というタイプが多かった。それじゃ一般に拒否されても当然です。それ以降、鬼畜ブーム、悪趣味ブームが急速に終息していったのも当然でした。

唐沢に言わせれば、ただ死体や畸形を持て囃すだけで何ら思想に昇華できてない人間が増えたから悪趣味ブームは終焉を迎えたという

また鬼畜系の元祖的存在であった青山正明ですら「目で見て明らかに分かるグロテスクさに人気が集中している。表層的な露悪趣味に、終始しているんじゃないか」*7と濫造される「悪趣味」に幻滅し、晩年は「鬼畜系」から「癒し系」に転向を図ったぐらいである*8

『危ない1号』の作家で「猟奇犯罪研究家」を自称する特殊翻訳家柳下毅一郎も悪趣味ブームには懐疑的で「死体も殺人鬼も刺激物として喜んでいる連中が大勢いて、それを説教する人も、自制が働く人もいない。ああいうのは、まっとうな人間がやることじゃないという“つつしみ”が、80年代以降なくなった」とぼやく始末である*9

青山は『危ない1号』第4巻「青山正明全仕事」のあとがきで次のように述べている。

94年11月に日本全国で症例50名前後という眼病疾患、奇病MPPEを患い、失明の恐怖を背負いこんで加速度的に“悟り”の境地へ。本書を最後に、“路線変更”を決意……と、まあ、そんなこたぁ、どうでもいいか……

しかし眼病による路線変更とかは実は言い訳で、青山は鬼畜・悪趣味ブームに嫌気がさしての転向ではないかと思う。吉永嘉明によれば青山は「俺は鬼畜じゃない。あれはシャレなのにマジに鬼畜と言われてしまう」という葛藤があったという。青山は「真の鬼畜というにはあまりに感じやすい人」だったのだ。吉永も『危ない1号』を降りた理由の一つとして「作り手より読者のほうが過激になっていった」ことを述べている。

自分が「妄想にタブーなし!」と宣言して書いていた冗談を真に受けて犯罪に走る人間がいるのを青山は負い目にしてた節もあるだろう。実際の青山は健康面にも気を使いすぎるほどの繊細さと人懐っこさを持っていたという。

現実の自己像と鬼畜系のギャップは、青山の鬱を加速させた遠因になったのではないだろうか。ライターのばるぼら「『良識なんて糞食らえ!』のノリを本気で実行する人間が現れることについての想像力の欠如が『危ない1号』以降の青山の迷走につながっている」と推察している*10

鬼畜ライターを自称していた村崎百郎も自身が「鬼畜」であるのに、世間がしっかりと機能してなければ「鬼畜」を名乗れる建前や立場がないのであろう。これについて特殊漫画根本敬は次のように語っている*11

90年代の悪趣味ブームを支えていた人たちっていうのは教養があって知的な人が多かったし読んでいる方も「行間を読む」術は自ずと持っていたと思うんですよ

それに「影響受けました!」っていう第二世代、第三世代が出てくるにつれどんどん崩れて、次第に単に悪質なことを書いてりゃいいや、みたいな”悪い悪趣味”が台頭してくるようになるだいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね

村崎さんにしろ、オレの漫画にしろ、結局世の中がちゃんとしていてくれないと、立つ瀬がないわけですよ。でも、世の中がどんどん弛緩していっちゃって、もう誰もがいつ犯罪者になるのか、わからないような状況になっちゃったのが鬼畜ブームの終わり以降。とりわけ90年代終わりからここ数年、特に激しいじゃない?

ここまで通して分かるように鬼畜ブームの作家というのは、鬼畜の皮を被っておきながら、ゲスな文脈で反語的に正義や哲学、世の真理といったメッセージを読者に伝えていたわけで、そこには冷徹な観察眼とリテラシー能力があった

しかし、書き手の意図や真意までを見抜けなかった中二病読者や薬物中毒者には、青山も村崎も辟易させられたろうし、不甲斐なさも感じていたはずであ*12

結局、青山正明は2001年6月に引きこもってた実家で「赤いきつね」を食べた直後に首をくくって自殺。村崎百郎に至ってはキチガイの逆恨みを買って、2010年7月に自宅で滅多刺しにされて殺されてしまった*13

やはり鬼畜ブームで一番ゲスだったのは、書き手でも何でもなく表面的にしか文章を読み解けない無知文盲な読者達だったのだ。こうした鬼畜ブームを象徴する最悪の例酒鬼薔薇聖斗その人なのである。

ニッポン戦後サブカルチャー』の講師である宮沢章夫は次のように述べている。

おそらく『危ない1号』において青山が発したメッセージの「良識なんて糞食らえ!」にしろ「鬼畜」という概念にしろ「妄想にタブーなし!」にしろ、すべて「冗談」という、かなり高度な部分におけるある種の「遊び」だったはずだ。しかし、良識派に顰蹙をかうのは想定内だっただろうが、一方で冗談が理解できずにまともに受け止めた層が出現したのは想定外だったということか。

その後、インターネットの普及によって2000年代以降は軒並みサブカル雑誌が潰れていき、理性のある悪趣味も失われていった。その代わり、2ちゃんねる的な匿名性を持った無責任で無秩序な「デジタルの悪趣味」が台頭するようになる。

死体写真やフリークス、いわば見世物小屋的な露悪趣味は、サイト上の不謹慎な動画・画像コンテンツ(主に戦争ポルノ・リベンジポルノ・いじめ現場・強姦現場・屠殺現場・リンチ現場・事故現場・自殺現場あるいは自殺の生中継etc...)へと推移していき、ドラッグやロリコンなどの裏情報は深層ウェブに偏在していった。

特殊編集者今野裕一ペヨトル工房主宰/夜想編集長)は、ネット以前と以後のブラックユーモアの違いについて次のように述べている*14

少なくとも村崎百郎がいた90年代前半ぐらいまでは、ブラックなものを笑い飛ばすような楽しさがあったし、実際にうつ病っぽい子でも、まぁ何とかやっていけてたんだよねそれがネットが出てくるようになってから、なんだか現実の死まで行っちゃうような、実際に死んだり病んだりするところまで行ってしまうってのはね、昔はなかったですよ。本当の意味でのヤバさみたいなものが現れるようになってきた

今まで僕や村崎がやってきたようなのとは全く違う、単にネガティブな思いがだだ漏れになってきたブラック95年以降、本当にそういうのに触れる機会が多くなったで、村崎もそういう新手のブラックは処理し切れなかったのかもしれない。

また今野は、2ちゃんねる的な悪趣味を「デジタルの悪意」とし、弟子にあたる村崎百郎の「ゴミ漁り」といった悪趣味は「アナログの悪意」として完全な別物として捉えている*15

村崎や僕がやってきたブラックっていうのは「今朝ゴミ漁りやってきただろ」とか、身体的にわかって共有できた。だけどネットで走っている言葉の裏にある悪意って、身体的につかめない

2ちゃんねる的な、 暗闇でいきなり後ろから殴り倒すみたいな風潮は村崎とは対極的な位置にあるネガティブさで、日本文化の大きなマイナスになってきているよね。言葉が勝手に走っていってしまうようなのはまったく新しい現象で……ものすごいスピードで言葉が流れていく中で、真意が見えないまま、言葉に書かれている別の意味を勝手に読み取り、物語を作ってしまう夜想』もブラックなものには触れてきたけど、それとは対極な部分でのブラックだと思う。

これは新しい時代の新しいブラックの誕生だろうけど……村崎に実はデジタルな悪意はなかったひどいことを言いながら、ダメな奴を励ます。「お前もダメだけど、俺なんかもっとダメ、だけどこんな人間でも立派に生きてるんだぜ」って。生きて生き抜いて他人に肉体を擦り付けながらイヤミを言うのがあいつのやり方なんだけど、それって結局「生きろ」ってことでしょ。

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*1:青山正明の率いる「東京公司」のメンバーが1995年7月に創刊したムック本。データハウスから全4巻が刊行。鬼畜ブームの先駆けであり、商業的に成功したという意味でも特異な存在。後発の便乗本も数えきれないほど出版され、サブカル界を巻き込んだ一大ブームとなったが、それでも『危ない1号』を超える鬼畜本と、青山正明を超える人間は未だ現れていない

*2:昭和初期のエログロナンセンス文化を代表するサブカルチャー専門誌。編集長は梅原北明。1928年(昭和3年)創刊。当局より幾度となく弾圧を受け、グロテスク社、文藝市場社、談奇館書局など当局の弾圧をかわすために発行所を変えつつ、1931年(昭和6年)まで全21冊が出版された。発禁処分の際には新聞に『グロテスク』死亡通知の広告を出した事でも有名。

*3:だだし戦後に表現が大きく解放されたとはいえ、刑法175条のわいせつ物の頒布等の取り締まりによって、カストリ雑誌ゾッキ本の摘発が相次いだ。またチャタレー事件など文学作品も「公共の福祉」に反すると弾圧された例がある。PTAが主導した有害図書追放運動や手塚漫画の焚書など、正義の暴走とも取れる一連の運動は、戦後の表現多様化に追い付けない大人達の「老害」では無かったのだろうか。日本国憲法で保障されている「表現の自由」も時代と共に揺らぐ不明瞭で曖昧な存在なのだ。このへんは現代社会論の授業でも取り上げられている

*4:20160619ニッポン戦後サブカルチャー史

*5:根本敬ブームの終焉を見たなと思ったのは『ホットドッグプレス』(96年8月25日号)で悪趣味特集やった時ね」とも述べている。その後、神戸の重大事件を受けて本屋の鬼畜・悪趣味コーナーは縮小に向かいブームは収束していった。

*6:アスペクト刊『村崎百郎の本』220頁より。

*7:世紀末カルチャー 残虐趣味が埋める失われた現実感

*8:新人類世代の閉塞 サブカルチャーのカリスマたちの自殺

*9:世紀末カルチャー 残虐趣味が埋める失われた現実感

*10:天災編集者! 青山正明の世界 第66回『BACHELOR』における青山正明(3) - WEBスナイパー

*11:アスペクト刊『村崎百郎の本』334-339頁より。

*12:これこそ彼らが興隆していく悪趣味ブームとは対照的に年々活動を縮小させていった大きな理由になっているのではないだろうかと邪推する。

*13:2010年7月23日午後5時頃、村崎は読者を名乗る32歳の男性に東京都練馬区羽沢の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされ殺害された。自ら警察に通報して逮捕された容疑者は精神病により通院中で、精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となった。

*14:アスペクト刊『村崎百郎の本』126頁より。

*15:アスペクト刊『村崎百郎の本』127頁より。

「面倒くさい」は狂気の始まり

あーえーと ケラです。

精神科医春日武彦先生と作家の平山夢明先生の対談本『「狂い」の構造』(扶桑社新書)を読んでます。人間の狂気というと、実は漠然としすぎて掴み所がない、といった印象ですが、本書ではそれらの理解の互助になると思います。

まぁ本書の主題では無いんですけど、障害やビョーキを語る時って「差別の肯定」と「現状の認識」を履き違えた頭の固い(悪い)偽善者が色々うるさいんで、どーしてもオブラートに包みがちで、「逆差別」「不謹慎狩り」「人権ファシズムなる新語が出る始末ですが、両者間での議論は未だ平行線のままです。

そんでもって公の場では「まとも」に障害やビョーキに関する話が出来てないよーに思ってたんですが、さすがはこの二人、歯に布を着せずズバズバ語ってます(笑)。

 さて面倒くさい・無気力・怠慢・尊大・鈍感・無意味・・・これら人間が無意識のうちに持つ「面倒くささ」が実は「狂気」に直接結びついてると、二人は語ります。

本書では特に触れられていませんが、以前「北九州一家監禁殺人事件」を起こした主犯格の松永太が個人的に気になり、彼が事件を起こした「動機」が気になったことがあって、ググったら知恵袋の以下の回答に辿り着きました。

>>何で松永太は、こんな事を起こしたんでしょうか???

働きたくないからですね。
普通の人は金を得る手段に普通は貴賎をつけるもんです。周りの人を苦しめない方法で稼ごうとするのは当然ですから。ですがサイコパスは爬虫類的な思考回路なので一番効率の良い方法を取ろうとします。金を騙し取るとか、殺して奪うとかね。

事件の顛末など卵を産まなくなった雌鳥を〆るような、畑から大根を引っこ抜くようなそんな状況を見ているようです。サイコパスは法に触れれば逮捕されるのを知っているので隠蔽工作は入念に行います。法に触れるから普段はやらないだけというのが恐ろしすぎる。

 働きたくない・楽して金を稼ぎたい・・・

これらも「面倒くさい」に起因する感情ですよね。普通の人なら「ニート」「引きこもり」「株投資」といったものに落ち着くんでしょうが・・・一部の人やサイコパスにとっては他者から搾り取るという思考に結びつくようです。

こうした「面倒くささ」が実際に殺人といった重大事件や、それ以外にも些末な数多くのトラブルに結びついてると認識してる人は実は少ないのではないでしょうか。

 さて、僕は発達障害アスペルガー)なんですが、障害を言い訳に好き放題する人間・・・まあ病気を免罪符にする人間全般が大嫌いなわけですね。タチが悪いのは個人の資質の問題を「自身を不幸にした」として社会に責任をなすりつけ、最悪の場合では無差別殺人とか凶行に及ぶなんての。

そのくせ「俺は悪くない!」といった、むしろ被害者意識まで持っていて、自身の責任を何処か他所にぶんなげる。これも「人間の弱さ」のひとつなんだろうけど、障害やビョーキ持ちだと、ソレが顕著に出てるよーな気がする

「私はビョーキなの!!私は悪くない!こんな私にした社会が悪い!分かったなら私をいたわれ!クソブタ定型者!」って感じに、こんなんに憐憫の情なんて抱けるかっての(笑)。暴発的なルサンチマンには本当に困りますね(笑)。

そもそも発達障害とか、そうゆう概念はマジョリティ側の人間が、理解しがたい少数派相手に勝手につけた符号みたいなもんで、そんな曖昧な符号を自分のアイテムにしたり、SNSで傷をなめ合ったり・・・正直マジョリティの手のひらで踊らされてますよソレ。本書にはこれら自分の思ってたことが割とそのまんま書かれてたので、下記に引用させてもらいます。それではまたお会いましょう。

春日 病名が免罪符になるようなこともあると思うんだよね。そういう意味では、「ナントカ症候群」とか新しい病名が「今年の新商品」みたいなところもあるよ。

 

平山 「春夏ブランド」みたいな?

 

春日 そうそう。

 
平山 でもさ、身の回りのものを片づけられない人がいて、「昔から私は整理整頓が苦手だし、どんどん落ち込んでダメになりそうだったけど、”多動性注意何とか症候群”とか”ADHDだとか言われて、『そうか、私は病気だったんだ。私がだらしないんじゃなかったんだ』と思ってバラ色になりました」みたいな。
 
春日 だけど、実際の現状は何も変わらない。
 
平山 同じなんだよね。でも確かに、そうやって苦しんでいる人が、そんなふうに言われて幸せになる、気持ちが安定することはあるんでしょうけどね。
 
春日 まあ、立つ瀬を与えるんだか、逃げ口上になるんだかは知らないけどね。

 

平山 ねえ。だからさ、案外ね、「狂気」っていうのはおいしいんだと思うんですよ。

 

春日 だいたい「狂気」っていうのはいろんな考え方があるけど、一つには生活の知恵っていうのがあるわけでさ。健忘症になって、「私は誰でしょう?」って言われたら、追及のしようがなくなっちゃうわけじゃない。ま、無意識レベルでやってるにしても、ねえ。

 

平山 なるほどね 。 狂気って、庶民の生活の知恵だったんですね。

 

春日 そう。案ずるより狂うが易し、ってね。

「差別を肯定してるわけではない」幼児特有の残酷性・ねこぢる

猫の絵柄で幼児特有の残酷性を描き人気を博した漫画家の故ねこぢるに対して「障害者差別だ許せねえ!」とムキになっておられる、ずいぶんと頭の固い良識な方がいらっしゃったが、まぁ色んな意見があるってのは良いとして、そもそも子供は酒乱のジジイや障害者(知的・身体など)を見たら「ママ~変な人がいるよ〜」って指さして普通に言っちゃうし、そもそも「ねこぢる」は差別を肯定している訳では無い

まぁ障害者の話を美化したり偽善ぶって描いてる奴の方がよっぽどヤバイと思うけどな。表面的な「善」しか疑わず、逆にモノの本質を突きすぎる存在に対しては、社会から抹殺しようとか、袋だたきにしようとか、作者の人格否定とかいう異常なヒステリーや良識ファシズムを引き起こす。こんな奴らってのは村崎百郎の言う、上っ面の正義を愛し、人を身なりや外見で判断したり、清潔で美しいものは愛するが醜いものや汚いものは思い浮かべるのも嫌いという「表層的にはとてつもなく上品な人々」が該当するんだろうな。

別に、ねこぢるは障害者の話を積極的に描いていた訳でも無いし、そういう描写を絶対に認めない奴は障害者の感動ポルノで満足しておけば?と思うよ。少なくともガロ系には全然向いてないから『ワンピース』とか、そのへんに転がってる「分かりやすい漫画」でも読んでれば良いよ、そんな奴。

街を歩けばコジキやキチガイも居るし、そうゆうのを漫画の世界に出すと差別云々と言われるのは逆差別だよね。その存在を認めてない訳だから。教育プロパカンダに洗脳されきって善と悪の単純な二項対立でしか物事を考えられない思考停止状態のバカにこそ、ねこぢるの漫画を与えるべきであると思うよ。まあ救いようが無い良識バカはまた額面通りに受け取っちゃてキーキー猿みたいに騒ぐんだろうけど。

まぁ、この話は置いといて、特殊漫画家・根本敬大先生の名著『因果鉄道の旅』の中で、大変胸がすく箇所があったので、ちょっとその部分を引用させてもらって、今日の所は〆させてもらいます。それでは、また必ず!

例えばPTAや女性人権擁護ナントカ団体のババアがAV見れば、そりゃAVってのはヒドイ物で糾弾されるべき代物だよ何しろ平口(広美)さんやアナル市原なんかが2人、3人で女の子を輪姦して、たて続けに顔面に精子かけたりするんだもん。そりゃPTAらが怒るのはもっともだ、けしからんよ、AV は

しかし、だからといってAVが間違っているって事ではない。この場合どうあれ、そういうババア達がAVを見た、という事が間違っているんだよ。

AVはひどい事をやってて、そのひどさがまた、良さでもあるんだけど、白と黒、善と悪の2元論でしか、モノを考えられない奴らには、AVは勿論(しおさいの里の)本多さんや勝新の良さは理解出来ないだろう。「美談」か「告発」か、どっちかの切り口でしか提示出来ないのがマスメディアの限界なんだろな。(文庫版 『因果鉄道の旅』344-345頁「しおさいの里」 より)

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単行本ってもう殆ど絶版なんだよね…もったいないね。。。