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少女ヌード雑誌の変遷と現状分析『ヘイ!バディー』から『アリスクラブ』まで

ロリータ雑誌の現状分析/斉田石也

禁断の書!?のイメージがあるロリータ誌のたどってきた道を振り返ると、当時の世相、社会状況が見えてくる。いったいロリータ誌に人は何を見るのだろう。

 

※以下の文章は、1997年に刊行された『ワニの穴3 エロ本のほん』(コアマガジン・絶版)からの転載です。そのため本文では、1999年の児童ポルノ法成立や2015年に適用された児童ポルノ単純所持罰則化については触れられておりません。

2017年現在、一部記載内容によっては、現行法に抵触する場合がございます。記載事項の実施・応用等は、ご本人の責任と判断で行われることをお願い致します。

 

ロリータ雑誌って何だ?

一口でロリータ雑誌と言っても、一般社会とマニアの認識の間には、かなり大きなギャップがあるというのが現実だ。

一般の書店の商品管理担当者あたりでも、ブルセラ雑誌、エロ系のアニメ、ならびにゲーム関連、さらにはオタク系コミック雑誌と、一般的なロリータ・マニアが考えるロリータ誌を同じ物と勘違いしている傾向はかなり強い。

それは、ロリータの定義そのものが世間一般とマニアの間でかなりのギャップがあることに起因するものであるが、今、ここでそれを論じていると、与えられた紙面の大半を費やしてしまう恐れがあるので、ここでは、真性のロリータマニアが見て「自分達を対象にして製作されている」と信じるに足る雑誌の大まかな定義を説明するにとどめて置きたいと思う。

ちなみに、真性のロリータマニアとは、たとえば目の前に12歳と18歳と22歳の三人の女性が全裸で現れ「好きにして」と言った時に、迷う事なく12歳の少女を選ぶ人間のことを言う。

つまりは、ワイド ショーのコメンテイターやマスコミに登場するのが好きな心理学者などが定義する、18歳や22歳がいいと思いながらも、何となく気後れして少女の方に目を向けている「自称ロリータマニア」は、真性マニアの間では、自分達と区別して「単なる気弱なスケベ」と呼ばれている。

さて、これでようやく本題に入ることが出来るが、一般的にロリータ誌は小学校中学年から中学校2年ぐらいまで。つまり9歳、10歳から14歳前後までに限定して扱っている雑誌と言えば、一番、分かりやすいと思う。

間違っても『スーパー写真塾』(コアマガジン)などに代表される、高校生年齢をイメージさせる雑誌は、一般人にはロリータ雑誌に見えたとしても、マニアには「オバサン雑誌」と言う印象を以て迎えられざるを得ないわけだ。

それと同じ意味で、たとえ、ときおり中学生年齢の少女モデルが登場しているとは言え、最近の援助交際にドップリ嵌まっている、もしくはその予備軍と呼ばれるようなコギャル、マゴギャル(もう、死語に近い言葉だが)にスポットを当てた雑誌も、ほとんどのマニアからは敬遠されている。

そう言った意味で、現在、流通している雑誌の中で、狭義の意味でロリータ誌と呼べるのは、隔月刊で通巻66号を誇る『アリスクラブ』コアマガジン・昭和63年12月創刊)、読み物に重点を置いた『小説アリス』綜合図書・平成6年創刊)、そして、約半年の休刊を経てリニューアルした『スウィート・ローティーン』(黒田出版興文社・平成7年5月創刊)の三誌に絞られてしまう。

 

過激の一語だった黎明期

今となっては信じられないことだと思うが、昭和55年から61年ごろの数年間、ロリータブームと呼ばれる時期があった

この当時は、現在、書店の氾濫気味のヘアヌード写真集のように、毎月、十冊前後の、小学生ぐらいの少女のヌード写真集が店頭に山積みにされて販売されていた

この時期は、もちろんヘアは厳禁。しかし、もともとヘアのない子供の局部は、まだ性器でなく単なる排泄機関と見なされていたようで、ページをめくって行くとワレメちゃん丸見えの写真が次々と登場する写真集が堂々と販売されていた

そして、厳密な意味でロリータ誌と呼ばれる雑誌が市場を賑わせ始めたのも、まさに、そのロリータブームの真っ只中でのことであった。

いわゆる書店ルートで販売されていた雑誌から辿って行くと、当時、総合アダルト情報誌であった『Hey!Buddy』(ヘイ!バディー/白夜書房・昭和55年5月創刊)が、何度かのロリータ特集を経て、57年6月号からロリータ専門情報誌宣言をした時から、現在に至るロリータ誌の歴史が始まったと言えよう

そのバディが、投稿者の犯罪写真の掲載が原因で突如として廃刊に追い込まれるのが昭和60年11月*1。その1年半ほど前の59年6月には、当時も、そして現在でもSM雑誌中心にマニアックな世界を狭く深く掘り下げ続けている三和出版よりロリコンハウス』が創刊している。

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バディの場合、創刊当時からのしがらみや編集者の個人的好みを反映して、風俗嬢をモデルにしたグラビアやプロレス記事などがあり、また表紙も当時の二線級アイドル(中森明菜可愛かずみも登場しているので二線級と断言は出来ないが)を起用するなど、完全にロリータ一色とはなり得なかった感があったがロリコンハウス』は表紙、巻頭から全て少女、記事や小説、コミックも少女一色の本格ロリータ雑誌だったと言える。

一方では、当時、絶頂を極めていたビニ本ショップを販路としたロリータ雑誌も存在していた。発行年月順に列挙していくと『ありす』(57年11月/群雄社)、『みるく』(58年3月/花神社)、『CANDY』(58年11月/JOY企画)、『リトルクローバー』(59年6月/若葉出版販売)、『にんふらばぁ・ジャパン』(昭和60年6月/麻布書店)などである。これらは、当時、写真形態が大半だったビニ本業界にあって、どれも読み物に重点を置いた編集方針をとっていたこと、ならびに、一部を除くと、隔月で発行日が決まっていたことが特徴で、たんに販売ルートと発行部数が異なると言うだけで、前述したバディやハウスとほとんど変わらなかったと言えよう。事実、グラビアページでかなりの比重を占めたマニアの投稿写真は、書店ルート雑誌とビニ本ルート雑誌に重複して掲載されることも、決して珍しいことではなかった。

そして、このブーム全盛期のロリータ雑誌を全て読み耽っていたマニアは単に写真集や雑誌をコレクションして読んでいるだけでは片手落ちで、正しいマニア道を歩むためには、カメラを手に街に出て、少女のパンチラあるいは親水公園での着替えなどの写真や、さらには親しくなった少女を物陰に連れ込んで、軽くイタズラをした写真を撮って投稿しなければならないと思えて来るほど過激だった

おそらく、ほとんど無法地帯とでも言えるような当時の状況は、前述したとおり、大まかに言ってヘアが見えるか見えないかが猥褻書画としての摘発の基準だったことを拡大解釈した結果と言えるだろう。

今回、あらためて、これら全ての雑誌を見直して驚いたのは、明らかに犯罪の証拠写真と言えるような投稿写真が前述したビニ本ルート雑誌より、バディの方がはるかに多量に掲載されていると言う事実だ。

当時のロリータ誌の特徴として、ちょっと行動力のあるマニアなら、意図も簡単に読者の立場から投稿の常連と言う名の制作者の立場に躍り出ることが出来たと言う点が挙げられる。これは写真だけでなく、イラスト、コミック、そして小説やエッセイにも言えることで、ロリータブームの当時のロリータ雑誌に頻繁に登場している間にプロのカメラマンやライター、そして編集者となって現在も活躍している業界人は少なくない。

なぜなら、ロリータ趣味もその他のマニアックな世界と同様、本当のマニアでないと、継続的に読者を納得させる水準の作品を継続できない上に、急にブームとなったために、極端な人材不足状態であった。そして、いかにブームの真っ直中と言っても、一般のアダルト系雑誌のように、どこかのモデルクラブやプロダクションに電話を一本すれば、ドサッとモデルの宣材写真が集まると言うほど、モデルの供給がたやすいものでなかった。そのため、特にグラビアに関しては、読者の投稿に多くのページを割かねば雑誌が作れなかったことなど、意外と貧弱な台所事情があった

しかし、その投稿 カメラマンが幅を利かせていた時代に終焉を告げたのが、バディが 廃刊に追い込まれた投稿者とモデルにされた少女、そしてその両親とのトラブルであった。

そのため、後続のロリコンハウスは創刊当時の山添みずき、萩尾ゆかり。『ロリくらぶ』と誌面変更後の倉橋のぞみ、奈々子など、カバーガールを抱えて、特撮グラビアを中心とする編集方針を貫くようになって来る。しかし、一方では、ロリータブームの創始者の一人と言われる作家、川本耕次*2を監修者に迎えていた関係で、文章面での投稿はさらに充実していた。

かく言う筆者も、このロリータブームの当時に、CANDY、みるく、そしてロリコンハウスに投稿することで業界入りし、そのままフリーライターに転じた一人である。

 

M青年の事件と第二次ブーム

今から振り返ってみると『ロリコンハウス』と言う名前の雑誌が、大手の書店も含めて、一般書店で堂々と販売されていたこと自体、異常としか言い様がないかもしれないが、現在でも部数を重ねている『アリスクラブ』が創刊した翌年から平成元年にかけて、日本中を震撼とさせたM青年による連続幼女誘拐殺人事件が発生するに及んで、ロリータはブームどころか中世ヨーロッパの魔女にも匹敵する扱いを受けざるを得なくなってしまった。

そして、すでに『ロリくらぶ』と言うソフトなネーミングに変更していた旧ロリコンハウスは平成1年8月を以て廃刊を余儀なくされてしまう。

もっともこの廃刊は、誌名変更後のソフト路線が受け入れなかった結果の売り上げ不振が真相という説もあるが、詳細はさだかでない。

ここで、すでに創刊していながら奇跡的に生き残ったのが『アリスクラブ』だった。

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さて、一節で述べたように、『アリスクラブ』は現時点の最新号である平成9年11月号で通巻66号となる。バディが月刊で通巻88号だが、ロリータ専門誌化してから廃巻まで42号、ロリコンハウス~ロリくらぶは隔月刊でスタートし26巻目から月刊化、最終号が通巻40号であることを考えると、驚異的な長寿雑誌と言える。

アリスクラブ』の長い歴史の中で、その編集方針が徐々にではあるが変わり続けて来たことが、その長寿の一番の理由だと思われるが、その中でも、平成4年ごろから平成7年ごろまでの、ロリータ史データベース時代は特筆に値する。

この当時、ルイス・キャロル、ウラジミール・ナブコフ、そしてコリン・ウィルソンなどの著作研究など、とてもエロ本とは思えないような連載と平行して、かつてのブームの時代に発行された写真集を紹介、かなり真面目に歴史的考察を加えた連載が注目を浴び、第二次ロリータブームの引き金になったと言う事実である

数年前、ロリータブームが完全に去った後、古本屋の店頭で数百円で埃を被っていたロリータブーム当時の写真集が、アリクラで紹介されるようになると、徐々にプレミアがつきはじめ、最終的には数十万の値段がつけられたほどの第二次ブームは、アリクラの影響力の大きさと言うより、いかに読者の入れ替わりが激しいかを物語っていたとも言える

つまり、アリクラで紹介されるまでは、大半の読者は、その写真集の存在を知らない言うことだ。そして、アリクラが発売されると、そこに掲載されている写真集を求めて古本屋のハシゴをする。その結果、需給バランスが大きく崩れ、信じられないほどのプレミアを呼ぶと言う結果となってしまったわけだ。

ほどなく、中学生年齢とは言え、新刊の写真集がボツボツと発行されるようになり、また、欲しがっているマニアには一通り行き渡ったこともあって、ロリータバブルと言われたプレミア時代も幕を閉じることになった。同誌は現在、メインを子役アイドルの話題を中心にしたチャイル路線の定着を狙っている。

いずれにしろ、足掛け10年の歴史を持つ雑誌だけに、バックナンバーを一気に読破すると、M事件以降のロリータ市場の流れや、子役モデルがチャイドルとなって行くムーブメントが手に取るように分かって興味深い。また、そう言った資料的価値だけでなく、小説やコミック、そしてグラビアなども、やはり一日の長があると言わざるを得ない。

ロリータブームの台頭以来、『ヘイ!バディー』『ロリコンハウス』そして『アリスクラブ』と、まるで申し合わせたように新雑誌が創刊すると先輩雑誌が廃刊になり、一誌独占状態が続いていたロリータ雑誌市場の構造が『小説アリス』の創刊によって崩れることになる。時、あたかも第二次ロリータブームの真っ只中で、読者層が厚くなっていることを証明する事実だった。しかも、基本的に若年層が多いロリータ市場に向けてタイトルに真正面から「小説」をうたい、事実、カラー16ページのうち、グラビアは8ページ。あとはビデオの紹介とイラストで埋められ、残りはほとんど小説のみと言う構成は、当時のロリータ誌では考えられないことだった。

しかし、その後、追従した『アリスクラブ・シスター』(コアマガジン・平成6年11月創刊、通巻4号)や『リトルリップス』(東京三世社・平成7年7月創刊、通巻3号)と言った読み物中心のロリータ誌が短命に終わった中、月刊で36号まで継続しているのは、次々と新人を発掘しながら、吉野純夫、睦月影郎などベテランが連載小説を執筆すると言う編集面の努力の成果と言えよう。

合法的作品に限って言えば、グラビアでもビデオでも、ホンバンはおろか、オナニーさえもあり得ないビジュアルでひたすら妄想を膨らませているロリータマニアは、文字を読みながら妄想するのもそれほど抵抗がないのかも知れない。

平成7年5月に創刊、10号で一度休刊した後、平成9年8月に再スタートを切った『スゥイートローティーン』は、それまでのグラビア・情報誌と読み物誌の中間的スタンスからチャイドルなど情報路線への方向転換を狙っている様子。ただしこうなると老舗の『アリスクラブ』と完全にバッティングすることとなり、今後いかに独自のカラーを出して行くかが生き残りのカギと言えるだろう。

ただ、この『スゥイートローティーン』に限らずロリータ誌の場合は、未成年を性の対象として見ると言う体質が、いつ、法的に取り締まりの対象となるか分からないと言う危うさに常にさらされている

事実、一人の不登校女子中学生が売春容疑で補導され、偶然、その少女がモデルの仕事もしていたため、所属モデルクラブが職業安定法違反で摘発され、そのモデルを起用していた『15クラブ』『プチ・ミルク』『クラスメイトジュニア』などが軒並み廃刊に追い込まれたという事実も、比較的記憶に新しい。その意味で、現存する全てのロリータ誌が、そう言った売り上げ以外の要因で突然姿を消す恐れもないとは言えないのが現状である

斉田石也(さいだ・せきや)

1953年(昭和28年)生まれ。神奈川県出身。クラブ歌手、土木作業員、飛び込みセールス、住専社員、不動産業など職を転々とした後、ロリータ出版に携わる。フリーライターとしてロリータ、ブルセラ系雑誌を中心に小説やエッセイなどを執筆。『ロリコンハウス』(三和出版)や『アリスクラブ』(コアマガジン)など本邦ロリコン史における重要な少女雑誌でも執筆や編集を行う。現代ロリータ史の生き字引として歴史的観点からロリコンを読み解く数少ない作家の一人であり、少女に関するあらゆる表現媒体に深く関わった伝説的な人物である。ちなみにストライクゾーンはティーン手前で9歳から12歳まで。主な小説に『過激なロリータ』『うぶ毛のロリータ『半熟ロリータ桃色乳首(いずれも二見書房)などがある。

 

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山野一ロングインタビュー 貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし!!

山野一ロングインタビュー
貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし!
 
山野一の描く漫画の世界は、実に悲惨だ。その世界では人々は例外なく強欲でどうしようもなく愚かである。時として好感の持てる人物が登場することもあるが、そういった人には情け容赦なく怒濤の不幸が押し寄せる。ああ、なんて夢も希望もないんだ ! でもこの世界、なんかどこかに似ていやしないか。「世の中バカが多くて疲れません?」放映中止になったあのCMに共感を覚えた人に絶対オススメの漫画家だ。
 
福崗で生まれた山野一は、二歳から中学二年の途中までを三重県四日市市で、中二〜高校卒業までを千葉で過ごした。大学で上京してからは、東京に在住している。喘息の街からヤンキーの世界へ、そしてセントポール・キャンパスという生活環境のどこで、あのニヒルでユーモラスで奥深い感性が育まれたのだろう。
 
──四日市市と言えば、工場の街というか、排煙が原因の喘息が問題になった街ですよね。本当に喘息の人が多かったんですか。
 
山野 えーと、うちの母も喘息でした。
 
──それは、そこに引っ越ししてからなったんですか。
 
山野 すぐになりましたね
 
──じゃあ、本当にそこに住むと喘息になるような環境だったんですね。
 
山野 ええ。喘息になる街なんです。
 
──でも、山野さんは喘息ではないですよね。
 
山野 僕は喘息ではなかったですけど、気管支炎でした。咳が止まらなかったみたいな。
 
──学校中の子供がみんなそうなんですか。
 
山野 喘息が)出ない子もいましたけど、出てる子が多かったですね。特に僕が最初に住んでいたところは非常に工場に近かったので、学校の窓ガラスも二重になっていて空気清浄機がついてました。幼稚園に行く頃に郊外、要するに東京の近郊にあるような山を切り開いて造成したような団地に移ってからは若干マシになりましたけど。それでも夏場は目が痛かったですね。
 
──四日市市というのは、愛知県の豊田市のような企業城下町なんですか。
 
山野 企業といえばほとんど◆◆◆とその下請けです。石油からプラスティックの原料を作るコンビナートの街ですね。
 
──じゃあ 、 工場に近ければ近いほど、もうわかりやすいように喘息になる確率が高くなる。
 
山野 そうですね。煙突が巨大だから真下はいくらか良かったかもしれないですね。
 
──なんかそれって、もうその街に住んだら喉悪くするわけじゃないですか、ほとんど。それでも住むんですか、みんな。
 
山野 ウチはまあ、その公害の原因をつくっている会社に勤めてましたんで加害者兼被害者でしたから。 
 
──でも、その会社に何の関係もない土着の人達がたくさんいるわけですよね。単なる被害者の人達。
 
山野 だから、引っ越したくて引っ越せる人はいいんだろうけど、そうもいかないですから。それに元々何も産業のない田舎の宿場町だったところで、国家的にコンビナートをつくろう、っていう計画が出てきたことによって労働力が集まってきて、街興しになったという経緯がありましたから......公害に関しても、恐らくはしりのほうだから、当初はそんな深刻に考えてなかったんじゃないでしょうかねぇ。 
 
──お父さんがその企業に勤めていたということですが、土着の人と企業の人、つまり公害問題で対立関係にある両者の間に挟まれて子供同士で妙な感情的わだかまりみたいなのはなかったんですか。
 
山野 そういうのはあまり感じなかったですね。僕が通っていた小学校の担任とかもひどい喘息持ちで、先頭をきって反対運動に加わっていましたけど、企業の子供を差別っていうのは無かったと思います。少なくとも露骨には。
まあ、嫌な気分ではいたんでしょうけどね。特にウチの親父なんか環境課っていうところにいて、反対運動の人たちが交渉に来たときに適当なことを言う、にこにこしながらお茶を濁す役目でしたから。
 
──窓口というか、矢面に立たされていたわけですね。そういう大人たちのややこしい関係は、子供心に影響を与えなかったんでしょうか。
 
山野 子供の頃はバカだから、大人はみんな工場に行って働いて、工場っていうのは◆◆◆で……そんな印象しかなかったですね。ほんとガキの頃は、海っていうのはタールが浮かんでいるもので、海岸っていうのは工場があるもんで、山ってのはつぶして団地になるもんでって、そういうもんだと思っていました、世界中が。
 
──やっぱり、うちっていうと団地っていう印象も。
 
山野 そう。うちっていうと団地。社宅に住んでたんですけど、それが団地だったんですよ。で、馬鹿馬鹿しい話なんですけど、非常ベルがあるんです。工場で何か大事があると団地に非常ベルが鳴り響くんです。まるで炭鉱の街。
 
──大手企業だし社宅だと周りが全員同じ会社の人でしょうから、貧乏感はないわけですよね。 
 
山野 ええ。ありません。
 
──四日市市自体も特に貧しい地方というわけじゃないですよね。
 
山野 ええ。だから、特徴といえばコンビナートだけの地方都市という感じじゃないですか。文化も何もないですよ。寄せ集めの労働者の街ですから。
今はきっと立派になってるだろうから怒られちゃうかもしれ ないですけどこんなこというと。中学以来一度も行ってないんですよ。
 
──どうも四日市のイメージからは作品の世界が彷彿としてきませんね。確かにビジュアル的には、工場の煙突と団地っていうのがかなり目立ちますけど……。当時はどんなことに夢中になってましたか。
 
山野 普通の公立学校に通って、特に目立たず、何もしてなかったですね。
 
──ハマったものがなかったとしても、何か娯楽はなかったんですか。繁華街でブイブイいわすとか。
 
山野 それがないんですよ。不良でもないし、インテリでもないし、読書家でもないし、スポーツもしない、本当に特徴のない子でしたね。
 
──そうはいっても、何か印象に残っていることがありませんか。今から思い起こして郷愁を感じる部分とか。
 
山野 だからあの、言ってみれば四日市ってのは無機的な荒廃なんですよ。その荒廃の中で、何もせずぼうっと暮らしていたんです。あえて無理に言えば、何もないっていうのが当時の印象ですね。だから、育ったところに対して郷愁なんて何もないですよ。 
 
──でも、さっきから伺っている四日市のイメージは東京しか知らない僕にはかなりシュールな印象なんですけど。
 
山野 東京と比較すると確かにシュールな世界です。小学校に通うようになって日本のこととか色々教わるようになるまでは、工場とタールの浮かんでいる海と、毎日毎日色の変わる川と団地だけ、そんな風景が何キロメートルおきにずうっと続いている……それが世界だと思ってましたからねぇ。僕は気管支炎だったんで、工場がやっている診療所に通っていたんですけど、それが巨大な煙突の真下にあったんですよ。その巨大な煙突で雲を製造してるんだと思ってました。
 
──なかなかファンタジックな話ですね。
 
山野 美しい話でしょ。巨大な煙突の上に飛行機がぶつからないように赤いランプが点滅していたのが印象に残ってますね。あと、工場の音。『イレイザーヘッド』のあれどこでしたっけ。工場街みたいなとこ出てるじゃないですか。暗い夜道を主人公が歩いてて、足がちょっと水たまりにはまったりして、あそこでコンビナートの音が流れているんですよバックに。あのシーンを見ると四日市にいた時の感覚が戻りますね。近くに巨大な鉄の建造物があるっていう感覚が。
 
──ああ、なるほど。僕なんかはああいうシーンを見るとシュールで奇妙な世界にハマっていくわけなんですが、山野さんの場合、非常に現実感のあるシーンなわけですね。
 
山野 そう。だから今思えば、シュールなんて自覚しないままにああいう世界の中で生きてきたんだと思うんです。ああいう荒廃したような感じのね。それが中学二年の時に千葉に移って、いきなりバカの真っ只中の世界に来てショックを受けたっていう。
 
──荒廃からバカへ(笑)
 
ヤンキー文化にまみれて
 
山野 そう。荒廃からバカへ。どちらも荒廃してるんですけど、荒廃の質が違うんですよ。不良の世界ですよね、アレ(=千葉)は。 
 
──千葉はヤンキーが多いみたいですね。
 
山野 ヤンキーの世界ですよね。
 
──ヤンキーってやっぱりバカですか。
 
山野 ええ。バカですね。呆れましたね。ボンタン・長ランを初めて見た時には強いショックを受けました。風にたなびかせてるじゃないですか、旗のように。何をやっているんだろうこの人たちは、と思いましたね。
 
──ああ、自分自身の中にそういうセンスがないとそうでしょうね。
 
山野 四日市にはボンタン・長ラン文化は無かったもので。それで、バカな世界があるんだなぁって思って。ほとんど不良なんですよ、若者は。
 
──荒廃の世界では何もせず過ごしてたということでしたが不良の世界には馴染めましたか。
 
山野 馴染んだという感じじゃなかったですけど、いじめられるというようなことはなかったですね。中学の時ですけど不良が夜中に遊びに来るんですよ、車で。二階の窓に石投げて何かなと思って外を見るとセドリックが止まってて友達が乗ってるんですよ。それで、ドライブいこうぜって。
 
──免許もないくせに(笑)
 
山野 ドライブいって、ダッシュボードとか開けてみるじゃないですか。そうするとなんか写真がいっぱいあって、全然知らない人が写ってるんです。それで「ひょっとしてこれ ?」って聞くと盗難車なんです。ガソリンがなくなるまで乗って捨てちゃうんですよ。そういうバカな世界でびっくりしました。
 
──でもちょっとだけ楽しそうじゃないですか。
 
山野 そうですね。僕も車とかバイクとかは好きでしたからね。
 
──作品の中でも車やバイクは中々丁寧に描き込んでありますもんね。じゃあ、そういうバカな世界が嫌いなばかりでもないですね。一応洗礼は受けている。
 
山野 そうなんです。さすがにボンタン履くほどにはなりきれなかったですけど、 毎日毎日、頭がこんなにあるような(※リーゼントのこと)やつと話してりゃやっぱり影響を受けますよ。受けないでいるほうが無理ですから、あのバカな世界では。だから影響は受けているんです。いまだにね、『シャコタン · ブギ』とか好きですしね。バカの名残がきちんと残ってます。
 
──慣れてしまえば結構楽なんじゃないですか、ヤンキー・カルチャーっていうのは。みんなちょっとバカかもしれないけど、まっすぐな人たちっていうか、素直じゃないですか。
 
山野 だから、あれは浪花節の世界ですよ。友情とか親とか大事にしますし。シンナーで目が血走ってるようなやつでも親父が倒れたらそっこうで病院に駆けつけますからね。
 
──軽犯罪は平気で犯しても、人には優しいっていうか。
 
山野 そうなんですよ。バイクで事故って死んだ友達の一周忌とかにみんなで集まったりとかね。義理堅いんです。
 
──そういうバカの世界で、適当に距離を置いて友達付き合いをしていたわけですね。でも、高校はたぶんバカじゃないですよね。
 
山野 高校はその地区ではいちばんの進学校でした。だからヤンキーはいませんでした。でも、高校に入っても、本当に合う人というのは一人もいませんでしたね。
 
──バカもダメ、秀才もダメ?
 
山野 なんていうんですかね。
大学になって初めて人間の世界に出てきたっていう印象でしたね。だから、もっといい家庭に生まれてね、もっといい友達と一緒にいればもうちょっとお利口な人間になったんじゃないかと思いますけどね。
 
東京駅で神の啓示を受ける
 
──立教大学に入学して東京に出てきたわけですけど、初めて体験する人間の世界(笑)には期待値は高かったですか。
 
山野 いくら千葉がヤンキーまみれの田舎っていったって、総武線一本で出てこれますからね。過大な期待なんていうものはありませんでしたけど、解放感はありました。なんでもできるんだっていう。でも、いざ出てくるとやることがありませんでしたね。やってたことっていったら麻雀とパチンコぐらいですか。
 
──都会幻想はなかったわけですね。でも大学四年間っていうのは、何もしなくていい期間ともいえるわけで、楽しいんじゃないですか。
 
山野 そうなんですよ。僕にとっていちばんいい状態っていうのは要するに、労働とかから解放されてる状態のことでしたから。だから、大学に入ってモラトリアムを手に入れたら、もう永久に自由になったような感じがしました。就職とかっていう現実感はまったく無かった。
 
──三とかになって周囲が就職のことを話しだしたりしても影響されませんでしたか。
 
山野 それは影響されない。自分が働いている姿なんて想像できなかったですから。もちろんアルバイトはやりましたけど。
 
──親とかも何もいわないんですか。
 
山野 親は散々いいましたけどね。でも、帰省も全然してなかったし、電話も引いてなかったし……大学生活も後半になると明らかにまずい状態になってるのに、不安感が全然ないんです。
 
──労働したくないっていうのは結構当たり前の感覚だと思いますけどね。でも、漫画を描くことだって、それで生活するようになればレッキとした労働ですよね。漫画とその他の労働では、どこが違うんですか。
 
山野 人と会わなくてすむってことですね。とにかくこう、人間関係がすごいプレッシャーになるんですよ。対人恐怖症とまではいかなくてもこれから八時間なら八時間、この人と一緒にこの部屋にいなくちゃいけないと思うと、すごいプレッシャーになるんですよ。
 
──じゃあ、もうあたまっからサラリーマンはないと思ってたんですね。
 
山野 ええ。大学二年か三年の時に神の啓示を受けたんです。それから安心感が出たんですね。
 
──それは部屋で?
 
山野 部屋じゃなくて、東京駅の八重洲口だったんですけど。
 
──それは、「サラリーマンにならなくてもいいんだよ」っていう。
 
山野 ならなくていいという啓示だったんです。
 
──どこの神様だったんですか。
 
山野 いや、わからない。なんだかわからないから神様といってますけど、頭の上から声がして、その途端に漠然と持っていた不安のようなものが消えたんです。アシッドはやってませんよ(笑)
 
──もやもやしてたものがはっきりしたんでしょうね。
 
山野 はっきりした。その時は漫画家とまではわからなかったんですけど、部屋にずっと籠もって、何かを書く仕事になるっていうビジョンまで見えたんです。
 
感性の孤独
 
──絵っていつ頃から描きはじめたんですか、漫画形式で。
 
山野 大学三から四年にかけてぐらいですね。美術クラブに入っていて、そこで作っていた漫画誌に描きはじめて。
 
──独学ですか。
 
山野 デッサンの勉強をしたり、先輩に指導されたりっていうのはなかったですから、そういうのを独学っていえばそうですね。
 
──漫画っていうのはコマ割りとか構成とか考えなくちゃいけないし感性だけで描きなぐるのは難しいと思うんですけど、誰かに影響されたっていうのはありますか。
 
山野 自分では自覚がないですね。蛭子(能収)さんの漫画は高校の時に読んで非常にショックを受けましたけど、特に明確に影響を受けたっていうのはわからないですね。
 
──蛭子さんのぶっ飛んでいた頃の作品ですね。最近の漫画家で好きな人とかいますか。
 
山野 最近の人では花くまゆうさくさんですね。
 
──彼は東京の下町のほうの土着の感性がすごくよく出ていていいですよね
 
山野 初めて見た時から団地の匂いがぷんぷんと感じられて。絵も好きですし。
 
──それにしても、山野さんの漫画を読んでてよく感じるのは、なんでこんなこと思いつくのかなってことなんです。たとえば、劣悪な居住空間にイラついてる貧乏な一家が穴掘ってって広々とした下水道に住む話とか。例を挙げていったらキリがないですけど、どうしていつもリアリティがあるくせに突飛なアイデアを思いつくんでしょう。
 
山野 それはわかんないですね。
 
──思いつこうと努力しているんですか。
 
山野 それはないですね。ただ、とことん抑圧されている人たちの姿を想像すれば……。
 
──でも、山野さんはそこまで抑圧されていないですよね。先程からの話の中でも特に抑圧された環境に育ってきてるという感じではなかったですし、貧乏でもないし。
 
山野 どうしてなんでしょうね。
 
──あと、飛んでるアイデアにプラスして生活臭のある、ブルーカラーに対する愛情ある描き込み。情けない主人公が定食屋でラーメンを頼むと、必ず醜悪なウェイトレスが出てきて、しかもどんぶりに指突っ込んでますからね。手抜きがないですよね。
 
山野 それは、その主人公が食いに行く店が汚いラーメン屋でなくてはならないからなんですよ。こぎれいな兄ちゃんが白い帽子かぶって作るラーメンではどうしてもだめなんです。
 
──勝手に描いてるようでいて緻密ですしね。気分だけで描いてる漫画っていうのは、どんなに発想が素晴らしくても読んでてちょっと疲れますけど、山野さんの作品は飛んでるくせに妙にリアリティがあって、すんなり物語の世界に入っていけるんですよね。そういう点では統一性がとれてますよね
 
山野 僕にとって漫画を描くってことは、鼻をかんだりクソしたりせんずりこくのと一緒なんですよ。なんかを出してる、出さないと心のバランスが保てない。だからもし統一性がとれているとすれば、そういうものを吐き出していないと平常でいられないってことなんでしょうね。たぶん自分の中に同化できないようなものを出しちゃってるんだと思います。それが不満というものなんでしょうね。以前根本(敬)さんも同じようなことを言ってましたけど。
 
──なるほど、ということは、山野さんと同じ種類の不満を持っている人が読者になるという傾向はあるんでしょうね。やっぱり、普通の人が読むには少々ヘビィですからね。例えば僕の場合、子供の頃に誰にも理解されないっていう心理に陥ったことがあって。クラスメートも教師も、誰もが自分の言葉を理解してくれなくて、終いには周囲のみんながバカに見えて孤独だったんです。今から思えば自我に溺れた傲慢な心理だったんでしょうけど、それでノイローゼになりましたからね。
 
山野 その気持ちはすご~くよくわかります。僕もそんなふうに考えたこと、ありました。小学校の頃、歩いて通学する道すがら、世界っていうのは自分の夢なんだと、ずっとそんなことばかり考えていたんですよ。それで、周囲の人と話しても、誰も僕の言葉を全く理解してくれなくて、みんなバカでこいつらとコミニュケーションしてもしょうがないと思いましたよ。自分の親にもそう思いましたね。
 
──あ、それは同じですね。でも、そこでよくヒステリーにならなかったですね。
 
山野 何を言っても通じない人間には話しかけても無駄だし、世の中の人すべてがそうなら、もう内側に籠もるしかないじゃないですか。
 
──それは大人の考え方ですね。僕はそこで、精神の孤独に耐えられずにヒステリーを起こしたんですよ。「わかってくれよ!」って。
 
山野 僕も何度かそういう気持ちを訴えたことはありましたけど、結局誤解が誤解を生むだけでますます状況が悪くなるだけですからね。例えば親と話してても、向こうの言うことは良くわかるんだけど、こっちの言うことは全然通じないんですよ。こっちの不満はほんの少しも理解してくれない。だからもう、拒絶するしかないんですよ。
 
──でも山野さんの作品は、全く世の中を拒絶しているわけではありませんよね。確かにマイノリティの感性は顕在してますが、それでもどこか生への愛着が感じられる。ニヒルではあるけど破滅的ではない。だから、飛んでるんだけど、決して理解不能なところまでぶっ飛んではいない。
 
山野 やっぱり、これで食ってるわけですから、普通の人のことを考えるんですよ。それで、普通の人が読んでわかる日本語で書いて、普通の人が見てわかる絵で描こうというのは最低考えますね。そうやってなんとか、社会の末端のほうで生きさせてもらってるんです。
 
(聞き手・構成/吉永嘉明
 山野 一(やまの はじめ)
●1961年福岡県生まれ。立教大学卒。身長183cm、体重62kg。愛読書は『シャコタン・ブギ』。好きな音楽はテクノ。大学四年時に持ち込みを経て『ガロ』でデビュー。以後各種エロ本等に漫画を執筆。
「あの作風で食べていけるの?」という疑問を持つ人も多いみたいだが、完全に漫画だけで生計を立てているプロフェッショナル。最近は本来の作風を連載してくれる雑誌がないにも関わらず妙に忙しいという。このインタビューは1996年刊行の『危ない1号』第2巻からの転載です。

 

 

山野一インタビュー(ガロ1994年2月号)

山野一インタビュー(出典元:ガロ1994年2月号)


──表題を『混沌大陸パンゲア』としたのは、この中に収録されている「カリユガ」第1話の扉に書いてあるように、現代はヒンズー教の言うところの最末期の状態で、その時に破壊の神シヴァが宇宙を混沌に戻すということと、その最末期の状態のようなことが描かれた漫画作品集ということでつけたのでしょうか。

山野 何となくつけたんですけどね。何百億年だか前に、大陸がみんな一つだったというのを聞いた時に、閃くものがあったんです。自分が考えていたこと…、それは精神的なことだったんですけど、それと通じるものがあったんですよ。根を手繰れば一つみたいな、そういう意味がないわけでもないですね。

 

──その精神的なことというのは、どんなことだったのですか。

山野 真面目に話し出すとキリがなくなるから一言でいいますけど、ユングの集団的無意識でしたっけ、誰の中にも共通の原体験とかそういうようなものがあるということですね。

 

──ユングは夢を分析していますけど、この単行本には、現実と幻覚が交錯している夢のような話が多いですね。

山野 そういうのは大体エロ本に描いたやつですね。そこは辻褄合わせというか、起承転結みたいなものがちゃんとあって、誰が読んでも納得出来る漫画というのを、あまり要求しないんですよ。タレ流しというか、女の裸さえ入れれば何を描いてもほぼいいというような所だったんで、そういうのを描いてましたけど、読者にはつまらないんじゃないかと思いますね。

そういう漫画は自分で描いてると楽しいんですけど、読み手を想像すると申し訳ないような感じがしますよ。センズリこく為にエロ本を買ってきたのに、こんな理解できないような漫画が載ってたら腹を立てるだけなんじゃないかと思いますね(笑)。実際に夢で見たことが織り混ぜられているんですけど、そういうのを描いている時は、珍しく漫画を描くのが楽しいというか、自分で満足できますね。

 

──夢を題材にして描く時は、夢を忠実に再現しようと試みたりするのですか。

山野 漫画で夢の中の変なビジョンみたいなものを描き留めようとすると、どんどんズレてきて、書き終った後で眺めてみると、始めに描こうとしていたものとは、全く別のものになっていますね。僕らは起きてる時に常に五感から入ってくる複雑な情報を、自分でも意識しないうちに処理してそれに対処して喋ったり行動しながら生きているわけですよね。ただ寝ころんで畳を見ているだけでも、脳の中では状況を把握するという精巧な作業がされているから、毎日毎日寝ないでその作業をし続けるということは、出来ないわけですよね、多分。夢というのは、眠ることによってそういうものから解放されて起きてる時のストレスを解消するみたいな形で理不尽なものが沢山出てくると思うんです。夢の中って辻褄の合わないことが一杯出てきますけど、そういうものを日記なりに書き留める時でたらめなビジョンを現実と類似した形に整理していくという作業を、無意識のうちにやっちやうんですよ。夢の中にあるビジョンがあって、それを文字に書き連ねてなるべく正確に描写していこうとしていても、書いている最中に、ああ、これは書こうとしていることとちょっとずつズレていってるな、みたいなことがありますよね。言葉なり漫画なりで夢の中での体験を書き留めるというような、理不尽なものを整理しようとする作業は、精神的に不健康な感じがしますね。多分言葉や漫画という形で置き換えるのが不可能なぐらい、混沌としたものなんだと思いますよ、夢というのは。

 

──現実のことでもあまりに悲惨な状況の中にいたりすると、これは夢なんじゃないかと思ったり、現実逃避で妄想を抱いたりしてしまいますよね。山野さんはとことん悲惨な人達を描き続けていますけど、小誌の特殊漫画博覧会(92年10月号)での座談会で、そういった人を目撃する機会が多いと言われてましたね。

山野 自分と関わりのない人を第三者の立場で目撃することは凄く多いですね。例えば自分の妹がアレだとかそういうことはないですけど、傍観するような視界の中によくそういう人が登場しますね。

 

──子供の頃からそうでしたか?

山野 あったと思いますね。
生まれたのが北九州で、四日市にも住んでましたし。両方ともろくでもない労働者の町でしたからね。廻りに文化的な人間なんて一人もいなかったんですよ。自分の育った家庭は特に悲惨ではなかったんです。ごく当たり前の団地ファミリーというか、別に問題もなかったし。高校ぐらいまで何も感じないで生活していたようですね。何か激昂するようなこともないし、沈み込むようなこともないし、何も感じないで何もしないでただボーッとしていましたね。

強い、悲惨な体験とかをして考え方がこうなったというような憶えはないんです。何でこんなにひねた見方をするようになったのかということのハッキリとした原因は自分でもよく解らないんですよ。団地の側面の全く窓のないただっ広い壁とか、そういうのを見て育ったせいかもしれないですね(笑)。ヒビが入った処を漆喰でヒビの通りに塗り固めて補修してあるんですけど、それが何か妙な象形文字みたいな形になったりしてましてね、そういうのを見てるうちに、こうなっちゃったのかもしれないですけど(笑)。大学に入ってから池袋に住むようになって、そこでもダラダラしてましたね。家族から離れたというのもあるけど、毎日マージャンとかパチンコとかやってただけで、劇的なことなんか何もなかったですね。ただボーッと4年間を過ごしていた感じですね。

 

会話が空転する感じなんです

──サラリーマンにはなりたくなかっんたんでしたよね。

山野 対人恐怖症という程ではないんですけど、人と関わるのがもう耐え難いんですよ(笑)。アルバイトとかをするにしても、バイクで書類を届けるとかそういうのをやってたんです。それだと受渡しの時以外は道路をただバイクで走っているだけだから、誰とも話をしなくてもいいし、時間が余れば喫茶店で寝るなり本を読むなり自由に出来ましたからね。例えば上司と部下みたいな、ある関係で結ばれた人と、狭い場所で同じ時間を過ごすような不愉快なことが(笑)なるべく少ないアルバイトを選ぼうと思いましたね。人と心が通じ合うということが、あまりないせいだと思うんですよ。子供の頃から言葉が通じないなということをいつも感じてましたね。多分それは自分が変なせいだと思うんですけど。ある特定の言葉があって、その言葉によって包括されるある概念の範囲みたいなものがありますよね、概念の方を頭に思い浮かべながら自分はその言葉を相手に発しているのに、相手の頭の中にあるその言葉と概念の関係が、自分のとはズレてるんですよ。言わんとしたことが全然伝わらないんです。相手の言ったことも自分では解ってると思っているんですが、本当は解ってないのかもしれませんね。言葉のやりとりが空転するというか、噛み合わないような感じがしましたね。子供の頃からずっとそういう状態で、中学、高校となるにつれて、相手に合わせて話をするようになるから、そういうことを意識的にやっているのを、どんどん忘れていっちゃうんですよ。だから、そんなに苦痛でなくなってもいて、昔はそういうことを感じていたなということも、思い出さない限りは意識しなくなるんです。

 

──家に篭って一人で仕事が出来る漫画家という職業は、かなり理想に近いのでしょうか。

山野 僕は今でもほとんど人と会わないんですよ。妻と喋るぐらいで、あとは4、5人の編集者と打ち合せをする程度ですから。以前根本(敬)さんといろんな話をしていて凄いなと思ったのは、一度も労働したことがないって言うんですよ(笑)。一度も労働したことがなくて、一度も給料というものを貰ったことがないというのが凄くいいなと思いましたね。僕の場合は、会社に勤めて社員とか役職がつくとかそういうことは一度も経験したことはないんですけど、少なくとも給料というものを貰ったことはありますね。だから根本さんにそれがないというのが、本当に凄いなと思って。多分一生何処にも就職しないで何の肩書も付かないまま終わるんだろうなと思うと、羨ましい気がしますね。僕は何年間かの間働いたことがあるし、今考えてみると、非常に拭い難い汚点を残してしまったんじゃないだろうかというような気がしますね(笑)。今は一応漫画が仕事でそれで食っているわけですけど、職業という感じはあまりしないですね。自分の好みとは関係なしに、こういう漫画を描いてくれと注文されて、その通りのものを作っている時は仕事という感じが多少しますけどね。

 

──注文通りの漫画を描かされている時は、苦痛になりますよね。

山野 それはそうですが、自分では全然面白くないなと思っている漫画でも、ある程度好意的な反響があると、読者がどんな読み方をしているのかだんだん解ってくるんですよ。だから、こういう読み方をしている人には、こういう風なことを描けば喜ぶだろうな、ということが解ると、作るのがそんなに難しくなくなってきますね。

あまり注文をつけない出版社で好きなように描いていても、一応読者に理解させようという、無意識な力みたいなものは働いています。どんなにでたらめなビジョンを漫画の中で再現しようとしても、どうしてもコマを切ってフキダシを入れて、主人公や脇役や背景をカメラ的アングルで描くという、漫画の基本的な形態がありますよね、結局それから逸脱しては描けないんです。

主人公が主体の場合でも、その主人公を客観的に別の所から描かなくちゃいけないみたいな。主体が感じとる世界をそのまま漫画という形で表現するのは、とほうもない天才でも出てこない限り無理なんじゃないでしょうかね。

自分の性質と全然違うものを作るというのは、漫画家とはいえ一表現者として非難されたり、堕落していると思われるんだろうけど、それはサラリーマンでも何でも同じじゃないかなという気もしますけどね。例えば鈑金工でも何でもいいですけど、その人が生まれつき鈑金工で、ただひたすら鈑金する為だけに生きてるってわけでもないですから(笑)。多分しようがなしにやってるんでしょう。大体仕事というのは、殆どの人にとってそんなものなんだろうと思うから、漫画家も同じだとは思いますけどね。だから、自分の我が侭通りに好きなことが出来ないからといって、そんなに悲観したものでもないのかもしれないですね。

 

ネガティブな望みばかりですね

──必ずしも我が侭を通すことが自分にとっていいことであるというわけではないのでしょうか。山野さんにとっていい状態というのは、どんなものなのですか。

山野 普通はこうであればいいなというような状態をイメージして、それに近付けようという努力はするんでしょうけど、自分はいい状態というのをあまり想像できないんですよ、それは不幸でもないということなのかもしれないけど。お金が沢山あればいいとかそういう普通のことは考えますけど、多分お金が一杯あっても、いい状態ではないんじゃないかという感じはしますね。仮に何億円欲しいなと願ってそれが実際手に入っても、あまりいい状態ではないような気がするんです。我が侭なんだか解らないですけど、サラリーマンが「部長になれたらよかんべなぁ」とか思って、部長になれたら凄く満足したりするようなことに相当する望みが想像出来ないというか、そんな感じですね。でもまあ、漫画はもしそうさせて頂けるもんなら、好きにやらせてもらった方がいいに決まってますけど。

 

──理想が高いんでしょうかね。

山野 いやそうでもないです。アレをやりたいとかコレになりたいとかいうポジティブな理想はあまりなくて、あんな事はやりたくないこんな物にだけはなりたくないという、ネガティブな望みばかりです。中でも一番世の中に出るのは嫌いだから、そういう意味では割と自分の思い通りにはなっていると思いますよ。僕みたいな立場の人間が世の中で生きていくのに、職業にしろ住居にしろ結婚相手にしろ、選び得る範囲というのがあるでしょう。凄く貧しい選択肢しか許されてないわけですけど、その狭い範囲の中では、一番マシな形に収まったのかなという気はしますね。

 

──ヒンズー教では、与えられたカーストの中で生きていかなければなりませんよね、山野さんのそういった考え方と何か通じるものがあるように思えるのですが。この単行本の中でも、ヒンズー教の神話などを題材にしたものが多いですね。

山野 ヒンズー教の神様というのは凄く神様らしいじゃないですか。他の宗教の神様みたいに嘘をついてはいけないとか、貞節でなくてはいけないなんてつまらないことは言わなくて、シヴァが何百万年も性交をし続けるとか、息子の首をはねて象の首とすげ替えるとか、いい加減ででたらめなとこが、僕にとって神様のイメージに一番近いなという感じがしたんですよ。

神様って、勤勉であれとか人を殺してはならないとか、そんな低俗でケツの穴の小さいこと言わないと思うんですよ(笑)。僕の感じでは、ある子供を彼が欲するままに好き勝手にやりたいことを何も禁止しないで育てたら、神様になるんじゃないかという気がするんですけどね。無制限に食いたいものを食わせてやりたいことはどんな犠牲を払ってでも全てやらせて育てたら、野蛮で無慈悲なヒンズー教の神様みたいな人間が出来るんじゃないかと思いますね。

 

──『ヒヤパカ』(小社刊)の後書で幼稚園の頃の神様のイメージというのは、団地の給水塔だったと書かれていましたね。山野さんはそういう高い所から世界を眺めているような視点で漫画を描いているように思えるのですが。

山野 給水塔程度の高さから見える範囲の世界ですね。
幼稚園に入る前後の頃僕が住んでいた四日市という所は、コンビナートがあって、ちょっと郊外に山を切り開いて作った団地があるんですよ。それで、その団地の近くにスーパーマーケットがあって、小学校があってというような所だったんです。

世界が丸いということも知らなくて、荒涼としたユークリッド平面が無限に広がっていて、その上に、工場と学校とスーパーマーケットと団地をワンセットにした殺伐とした町が、ある間隔をおいて点在している、そういう状態がそれこそ宇宙の果てまで広がってるのかと思ってましたね(笑)。日本の形なんてものも知らなくて、四日市の海岸線というのは、埋め立てられて直線になっていたんですけど、陸と海はその直線のまま永久に隔てられていて、これまた宇宙の果てまで続いてるのかと思いましたよ(笑)。

でも、僕が3歳の頃の世界というのは、本当にそんな姿だったのかなという気もしますね。それで、学校で地球は丸いとか教わっているうちに、世界の形というのがだんだん丸まってきて、今解っている形に収まったというか、自分が知っている範囲でしか世界は存在しないみたいな気がしますね。誰とも会わないで部屋に篭っているせいですかね(笑)。

 

文責●ガロ編集部
一九九三年十二月三日


『月刊漫画ガロ』1994年2月号所載

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丸尾末広インタビュー(ガロ1993年5月号)

丸尾末広インタビュー(出典元:ガロ1993年5月号)

 

進学したって仕方がない

──丸尾さんはどんな少年時代を過ごしたのですか?

丸尾:家が超貧しかったんだよね。今思い出してみると、小学一年から六年までずっと同じセーター着てたんだよね(笑)。そんなこと全然覚えていなかったんだけれど、写真見てたら「アレッ、同じセーターじゃないの」って気が付いた。六年のときにはもう袖がツンツルテンになっててね、肘に穴が開いているんだよ。きっと入学式の時に買ったんだよね。そのままずっと着てたんだね(笑)

 

──たしか兄弟が沢山いる、と言ってましたよね。

丸尾:七人兄弟の末っ子。一番上の姉と歩いているといつも親子だと思われてた。姉って感じはしないよね、ほとんどおばさんだよ。

 

──それで、どんな少年だったんですか?

丸尾:いつも閉じこもっていた。もう家では何も喋らなかったね。

 

──親とも?

丸尾:うん、憎んでいたわけじゃなかったけれど全然興味がなかったの(笑)。なんか自分の親として認めたくなかったんだよね。「こんなのが俺の親であるはずがない」って思ってた(笑)。恥ずかしいっていうか、とにかく友達に見られたくないという気持ちが強かったね。

 

──親は「どうして喋らないのか?」と聞いてきたりはしなかったんですか?

丸尾:うん、言っていたような気もする。「変なやつだなあ」と思っていたみたいだよ。何かやりにくそうにしてたね。どうやってこいつに接すればいいのか分からない、って感じだったね。それまではそういうタイプの例を知らなかったわけだから、戸惑っていたみたいだった。

 

──それじゃ、たとえば、父親と喧嘩もしなかったんですか?

丸尾:一度もない(笑)。喧嘩にもならないんだよ。だって自分が生まれてから父親が死ぬまでに、全部合わせても五分くらいしか喋ったことないんだもの(笑)

 

──五分!返事だけまとめても、もう少し多いですよね(笑)

丸尾:そうだよね(笑)。きっと父親も内心「コイツ、何で俺と口きかないのか」って思ってたんじゃないかな。「嫌われている」とかねえ(笑)

 

──母親に対しても同じだったんですか?

丸尾:もうバカにしてたね(笑)。「何、この人」と思ってさ。

 

──子供の頃からすでにそういう感情を持つ、っていうのは結構マセた子供だったんじゃないですか。

丸尾:そうだよねえ。

 

──普通、末っ子って、いつまでも母親のあとをついていたりするけど・・・。

丸尾:あんなのの後ついて行ってどうすんの(笑)

 

──じゃあ、食事の時間なんて地獄のようじゃないですか。

丸尾:シーンとしてた(大爆笑)。おまけに父親は食事のときに喋ったりするのを嫌う人だったんで、みんな黙々と食べてさ、終わるとバラバラに散っていくの。マズイものをなおさらマズク食べていたよ(笑)

 

──普段は閉じこもってなにをしてたんですか?

丸尾:しょっちゅう絵をかいていたね。漫画の本見てそれを真似してかいていた。窓ガラスに漫画の絵をうつして模写するのをよくやっていたよ。『少年マガジン』の『エイトマン』とかさ。でもそうやっておとなしくしているのは家の中だけで、学校なんかではむしろ騒ぐ方だった。すごく目立つ子供だったね。

 

──外弁慶。

丸尾:そうだよね。外にでるともう騒いでたから。でも中学校から休み癖が付いちゃってさ、それからあまり学校へも行きたくなくなったんだよね。

 

──なにか原因があったの?

丸尾:それがさあ、昼の十五分くらいの連続ドラマで「氷点」をやってて、それが見たくて一週間休んだの。それが切っ掛け(大爆笑)

 

──そんなに休んでばかりいたら問題児になるでしょ。

丸尾:なるよね。やっぱり。「あいつなんでもないくせにウソついてすぐ休む」とかね(笑)。でももう行く気がしなくなっちゃうでしょ、そういう癖がつくと。

 

──高校進学も考えなかったんですか。

丸尾:進学したってしょうがないよ。それにとにかく家にいたくなかったから。

 

──だいたい、丸尾さんくらいの年代の人は、とりあえず高校までは行って、と考えるでしょ。中学でたばかりで親元を離れて、というのはちょっと考えにくいことですよね。環境のせいもあったのかもしれないけれど、結構自立心の強い少年だったんですね。

丸尾:我も強かったから人の意見なんて全然聞かない子どもだった。宿題やってると姉が「ここはこうだよ」って教えてくれるのね。そのほうが正しいのに自分の間違った答えを押し通すの(笑)。それに、もう家にも執着心がなかったからね。それで一人で東京に出てきちゃったんだよね。

 

19でスリの見張り役

──上京して何処に住んだんですか。

丸尾:凸版製本に勤めたから、最初は板橋の寮に入っていた。確か花輪さんは赤羽の大日本製本だったんだよね(笑)。三年いたって言ってたよ。でも俺は二年(笑)。15から17までね。凸版のなかで『週刊明星』とか『漫画アクション』の製本をやっていたんだよ。でも途中で寮を出て板橋の志村坂上に初めて部屋を借りた。四畳半で五千円だったね。ボロいアパートでさ共同の台所にナメクジが這っているんだよね。蛇口のあたりをヌメヌメと這っているの(笑)

 

──で、凸版はどうしてやめたんですか?

丸尾:それがまた一週間無断欠勤しちゃって(笑)。それでもういいや、やめよう、ってなったわけ。会社の人は喜んでたけどね(笑)

 

──いつも思いのもままですね(笑)

丸尾:そうそう。それで、やめてからメチャクチャになったんだけどね。

 

──それじゃ、そのメチャクチャなところを・・・。

丸尾:働かない、何もしない、金もない、だね(笑)。たまにアルバイトして金ができると引越ししてた(笑)

 

──万引きはそのころからしてた?

丸尾:うん、してたね(笑)。最初本を盗んだんだよね。それからやたらと盗むようになったの(笑)。あのね、俺、篠原勝之さんと同じ本を同じ店から万引きしてたんだよね。高畠華宵の限定画集で3万円のやつ(笑)。篠原さんは毎日行っては少しづつ位置をずらしておいて取ったってテレビで堂々と話してた(笑)。俺はさ、ガラスケースさわったら開いちゃったんで、ダンボールの箱はそこにおいたまま、中身だけもってきたの(笑)

 

──持ってきたって、剥き出しで?

丸尾:変に隠すと怪しまれるから。そんなもんだよ(笑)。で、喫茶店に入ってさ、ウットリと眺めていた(笑)。「ワッ、すごいっ」てさ(大爆笑)

 

──親は知っているんですか、そういうことやっていたのを。

丸尾:知ってるでしょ。だって家にいるときも親の金とってたから(笑)30円くらいなのにさ、そんなことで大騒ぎするんだからやだよねえ(大爆笑)。小遣いくれないから盗むのにねえ(笑)

 

──以前、青林堂で箱根に行って、土産屋をのぞいていたとき「こういう時だからやめてよね」って言ったらもうすでに袖にジャラジャラ入っていた、っていうこともありましたよね。

丸尾:あっ、あったねえ(笑)

 

──それで、大きな猫の置物見て「これは袖に入らないからだめだ」っていってたでしょ。

丸尾:そうそう、そんなことあったね、忘れてた(大爆笑)

 

──で、そのころは漫画は描いていなかったんですか?

丸尾:「描こう描こう」と思いながら全然描かなくてさ、何も目的もなくただブラブラしていただけだよ。描き始まったのは19くらいからかな。一度ガロに持ち込みしたことあったよ。あの階段を昇るとき、もうドキドキしちゃって(笑)

 

──何ていうタイトルでした?

丸尾:『卍仮面』だった(笑)。長井(勝一)さんが見て「これは面白くないね」って。たしか南(伸坊)さんが紅茶を入れてくれたっけ。その頃南さんがまだ髪の毛が長くてニヒルなインテリ青年みたいにしてたよ。

 

──で、それは持ってるんですか。

丸尾:捨てちゃった。

 

──サッパリしてるね(笑)スリのおじさんと出会ったのはそのころですか?

丸尾:そうだね、19の時だったね、おじさんがスリを働いているところを目撃したら、あっちから声をかけてきて、「一緒にやらないか」って言われたの。そのときたまたま知り合った漫画家志望のやつが一緒にいて、そいつ住所不定だったから先に知り合いだったんで紹介されたかたちでね。それで3人で一ヶ月くらい一緒に行動していたよ。赤羽あたりでやってた(笑)

 

──見張り役とかやってたんですか?

丸尾:そうそう。やり方なんでかなり大雑把でさ、荷物からちょっと離れたスキにパッと捕るだけなんだよね。人が考えるほど高等なテクニックじゃない。あれなら俺でもできると思ったけど、やっぱりできないんだよね。それにただの見張り役だったから、ご飯をおごってくれるだけで、金はもらってなかったよ(笑)

 

留置所で出たガロの話

──捕まったのはその後ですか?

丸尾:そう、その後万引きで捕まったんだよね。20くらいだったかな。

 

──どこで?
丸尾秋葉原のレコード店で。

 

──何を盗んだの?

丸尾ピンクフロイドとかサンタナとかね(大爆笑)。あのころ流行ってたから。それでガードマンに押さえられてさ。もうしょうがないと思って、一回留置所経験しようと開き直った(笑)

 

──どのくらい?

丸尾:二週間ぐらいかなあ。

 

──長いですねえ。

丸尾:それは、その時住所不定の無職だったからね。初犯だったら普通説諭だけで帰さたりするんだけどね。でも身元がはっきりしないと厳しいんだよ。俺さ、そのころは友達の所に荷物を預かってもらって、自分は蒲田の一泊五百円の木賃宿に泊まってたんだよね。

 

──取り調べも厳しかったんですか?

丸尾:それがさ、面倒くさくっていい加減に言っていたら向こうがすごく怒っちゃって(笑)チャランポランだし反省の色もないから、懲らしめようと思ったんじゃないの(笑)

 

──じゃ、その間ずっと雑居房に入ってたんですね。

丸尾:そう。留置所だからね。留置所、拘置所、刑務所だからね(笑)拘置所には入っていないから、起訴されてないからさ、前科にはなっていないんだよね。だから賞罰はないの(笑)それで、本は読んでもいいけれど、寝転がったりしちゃいけないんだよね。でも一日に一回タバコタイムがあってベランダみたいなところにだされてラジオ体操をしたあとに一服出来る。あっ、そういえばそのときの同じ房に、ガロ知っている人いたよ(大爆笑)

 

──やだねまったく!

丸尾:話をしていたら漫画の話題になってさ、「おまえ漫画好きなのか、ガロとか読んでないの」って聞くんだよね(笑)その人、組合運動で公務執行妨害で捕まったらしくてさ。池上遼一さんのファンだって言ってた。池上さんと林静一さんの特集号を持ってたって言ってた(笑)

 

──それで結局起訴にならずに釈放されて、その後も懲りずに万引きはやってたんですか?

丸尾:まあ、しばらくはやってなかったよ。で、また引っ越したりしていた。あと網走のパチンコ屋でバイトしたりしてね。

 

──網走!? どうしてまた?

丸尾:北海道に遊びに行ったら、たまたまそこのパチンコ屋で店員を募集していたのね。で、やろうかなって思って(笑)「東京の人間だけどいいか」って聞いたら「いいよ」っていうんでやったの。でも毎日便所掃除ばっかりでさ(笑)

それがきったねえ便所で、トイレットペーパーが水に溶けてドロドロになってるは糞はついてるしさ。それに寮に入れてもらってたんだけど、三畳の部屋がベニヤ板で仕切ってあって、醤油で煮しめたような布団しかないんだよね。そこに一ヶ月いたよ(笑)。ここにいた時、布団の中で新聞読んでいたら、歌手の克美しげるが愛人を殺して逮捕されたニュースがでてたよ(笑)

 

──結構平気で飛び込むんですね、そういうところに。

丸尾:そうそう(笑)

 

──でもやっぱりいつも漫画のことは頭から離れなかったでしょう。

丸尾:そうだね。引っ越しするたび「よし、今度こそちゃんとやろう」っていつも思ってたから。でもけっきょくやらないんだよね(笑)。でも一度どこかの雑誌に同人誌の募集して、それで一時期漫画家志望の人と会っていた時もあったけれどね。でもあのひとなんかそのときもう半分浮浪者みたいだったから、どうしているんだろうね。そのまま浮浪者になっちゃったかもね(笑)

 

丸尾漫画はパクリの集大成

──それで結局デビューしたのは24歳のときでしたよね。

丸尾:そう、サン出版の何ていう雑誌か忘れちゃった。確かポルノ雑誌だったと思うけど、そこで『リボンの騎士』でデビューしたんだよね。その後、久保書店とかに持ち込んで『漫画ドッキリ号』に描いていた。そこで随分書き溜めたから、単行本も出せたんじゃないかなあ。

 

──『漫画カルメン』とか『漫画ピラニア』とかに描いたのは、その後?

丸尾:そうだね。俺さ、『大快楽』とか『エロジェニカ』とか『劇画アリス』なんかではやっていないんだよ。一歩出遅れたっていうか、あのエロ劇画雑誌ブームからはもう二年くらいたっているときだったから。

 

── 一時期随分いろんな人が描いていましたからね。

丸尾ひさうちみちおさんや平口広美さんとかね。でも俺が描き始めたころはもうブームも下火になってきてたんだよね(笑)

 

──丸尾さんの絵柄というのはどこから生まれてきたんですか?

丸尾:あちこちからいっぱい引っ張ってきてミックスした絵なんだよね。だから絵柄なんてどうにでもできるよ。この絵はだめだからほかの絵柄にしろって言われたら、パタって変えられる(笑)

 

──でも、一番引っ張ってきたのはやはっぱり高畠華宵でしょ。

丸尾:そうだよね。とりあえずあれに一番近いね。

 

──最初に華宵を見たのはいつです?

丸尾:いつ頃だったかなあ。でも最初は全然好きじゃなかった。気持ちの悪い絵だなって思った(笑)。でも人物描写として1つのパターンがあるでしょ。だからそのパターンを華宵から持ってきたわけだよね。崩しながら。

 

──あと、よく夢野久作を引き合いに出されたりしませんか?

丸尾:よく「相当影響されたでしょ」なんていわれるけど、あんまり関係ないんだよね。だから要するにパクリなんだよ。あのさ、どうしてみんなパクリだっていわないのかなあ(笑)「影響うけてますね」とは言うけど「これパクリですよね」って誰も言わないよ(笑)『少女椿』のタイトルはモロにパクリだよね。パクリ以外の何物でもないよ(笑)

 

──まあ、いいづらいのもあるんじゃないですか。じゃ、丸尾さんの漫画はいろいろなところからパクっている、いわばパクリの集大成ですね。

丸尾:そう、パクリの集大成!(大爆笑)

 

──でも画力があるからパクれるじゃないですか。パクろうと思ったって、そう簡単にできませんよ。

丸尾:まあ、真面目にかいてますから。でも絵ってうまくなろうと思ってやらないとうまくならないよね。描いていれば自然にうまくなるって思っている人もいるけど、自然にはうまくはならないよ。どうすればうまく描けるかって自分で研究していかないとダメだよ。

──じゃあ、いろいろと研究しているから、次から次へと興味がわいてきて、一人のひとにものすごく傾倒する、っていうことはあまりないんですか?

丸尾:そうそう。一人の人にのめり込むまえに、今度はまた別の人が気になってくるんだよね。「ああ、こっちもいいな、あっちもいいな」ってやってると、何か全部ほしくなってくる。だからあんなゴチャゴチャになっちゃうのかも。二者択一ができないんだよね。

──ストーリーのほうもいろいろなところからパクリまくりですか?

丸尾:俺の漫画の話は設定自体があまり独創的じゃないしね。『日本人の惑星』だって日本がもし戦争に勝っていたら、って言う設定だけれど、ブレードランナーの原作者のP.K.ディックが同じようなSF書いているんだよね。

そういう設定はよくあるし。タイトルはもちろん『猿の惑星』のパクリだしね(笑)。あとさ、ラジオの人生相談きいて「お婆さんとセックスしている」っていう中学生がいて、それを漫画にした(笑)。そういうネタをストックしておくの。

 

──そういうことはまあ皆結構やってますよね(笑)。でも、『腐ッタ夜』なんかは江戸川乱歩の『芋虫』でしょ。

丸尾:そうそう、俺の漫画では親子にしちゃったけどね。そんなもんだよ(笑)

 

──目をなめるシーンがよく出てくるけれど、あれは?

丸尾:あれも何かに載ってたんだよね。でね、何であのシーンを繰り返し出したかっていうとあれも計算なんだよね。同じ事を繰り返し繰り返しやってたら登録商標みたいになると思って(笑)

 

──計算してますねえ(笑)

丸尾:それ、デビューしたときから計算したの。なにか1つだけでいいから「あ、また出てる、またやってる」って水戸黄門の印籠みたいなのを作ろうと思ったのね。するとみんな「あれはどういう意味ですか」て考えているらしい。でも意味なんてないんだよ(笑)。それに誰もやってないことを考えたとかそういうことじゃないしね。そんなこと誰だってやってるねよね。

 

リアルタイムで虜になる

──『無抵抗都市』はまた丁寧にかいてますね。

丸尾:漫画を書くのは久しぶりだったからね。でも今回はパクリあったかなあ。タイトルが『無防備都市』から『無抵抗都市』だね(笑)。なんかさ、パクっているとさ、自分で考えたものでも「これ、パクったんじゃないかなあ」って気になってくるよ(笑)。でもそれでいいんじゃないかな。

 

──あれは戦後の焼け野原が舞台になってますね。

丸尾:そう、ほんの一ヶ月くらいの間のことを描こうと思っているんだけどね。

 

──あの辺の時代って興味あるんですか?

丸尾:うん、あるね。見たことないけどさ、なんか風景も人間もゴチャゴチャしてて闇市とか露店とかあってさ。全体的な雰囲気に魅力を感じるよね。

 

──どこかの時代に戻れるとしたら、やっぱりその時代がいいですかね。

丸尾:いやっ、もう1つ前の大正時代がいいね。別に思想なんてないんだけどね。モダンな時代だったから風景も人も面白いんじゃないかなってただそれだけ(笑)。都会の風景ね。田舎はあまり興味がないから。田舎だと横溝正史になっちゃうからね。

 

──八ツ墓村とか(笑)

丸尾八つ墓村なんていやじゃない(笑)

 

──丸尾さんて思想とかそういうものじゃなくって感覚の方が大きいですよね。

丸尾:そうなんだよね。ビジュアル的なものが大きいから、読む方もあまり考える必要はないんだよ。

 

──そういったビジュアル的なものに高校生あたりの年代は結構敏感ですから丸尾さんの漫画は高校生、とくに女子高生に圧倒的な人気がありますよね(笑)

丸尾:そういうとさ「信じられない」って言う人がいるんだよね。メジャー誌の編集者とかそういう人は信じられないみたい。その辺の感覚ってずれているよね。俺の読者はつげ義春さんの読者と同じ人達だと思っているみたいよ。実際には全然違うでしょ。

 

──でもそういった若いファンが次々と出てくるでしょ。ファンにとって丸尾さんの漫画っていつでもリアルタイムなんですよね。

丸尾:そういうところはるかもね。卒業して行く人がいて、でも下からどんどん入学してくるみたいな(笑)

 

──大繁盛じゃないですか(笑)。やはり10代後半に好きになる絵なんですよ。なんか懐古的で危ないような、独占欲をかりたたせるような雰囲気がありますからね。興味を持ち出すととことんのめりこんでしまうじゃないですか。それに加えて絵に魅力がありますから。

丸尾:まあ、絵のほうは努力してるからね(笑)。でもこれから先、どうなって行くのだろうね。自分でもあんまり考えてないしさ。どうしようかなあ。この生活が一生続くのかな(笑)まっ、いつかは漫画もやめるだろうね。

 

──でも絵の方はやめないんじゃないですか。

丸尾:うん、そうだね。なにきゃらなきゃいけないし。でもとりあえず自分の好きなことやって飯が食えるんだからいいんだよね(笑)

 

──今もすでに、半分は画家みたいなもんじゃないですか。

丸尾:うん、漫画の注文とかはあまり多い方じゃないからね。

 

──まあ、雑誌はある程度限定されちゃいますからね。ジャンプなんかに載るようなタイプではないし。

丸尾:あっ、でも俺十代の頃ジャンプに持ち込んだことあったよ。だめだったけどね(笑)

 

──家族は漫画を描いていることは知っているんですよね。

丸尾:知っているけどね。たまーに帰ったりするとさ、一応こっちも気をつかって何か喋るんだけどシーンとしちゃってものすごくしらけるの(大爆笑)。俺の漫画の話なんか誰も触れようとしないしさ。禁句になってるんだよ。だめだよねもう。

 

── 一応単行本は送ってるんですね。

丸尾:うん、イヤミでね(大爆笑)

 

『月刊漫画ガロ』1993年5月号所載

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花輪和一インタビュー(ガロ1992年5月号)

花輪和一インタビュー(出典元:ガロ1992年5月号)

 

親の呪縛

──ガロ以外にも持ち込みをしたんですか?

花輪:当時池袋の印刷屋に勤めていてね、合間をみてはペン画のイラストを少年画報社なんかによく持ち込んでましたよ。でも「ダメ、ダメ」って言われて…。そんな時、たまたま近所の貸本屋でガロを立ち読みしていたら、そこにつげさんの『李さん一家』が載っていてね。あれはペン画みたいな漫画でしょ。漫画っていったら手塚治虫みたいな絵じゃないとダメだって、自分で思い込んでいたから。だからつげさんの漫画を見た時に、「あっ、こういう絵で描いてもいいんだ」って思ってね。じゃあ、自分もガロに描いてみよう、と思ったんです。

 

──それで、初期の漫画は、エログロナンセンスという言葉でもって、よく取り上げられましたね。

花輪:うん、そう。あの頃漫画を描くにはエログロが当たり前だと思っていたんですよ。何かそれらしいこと描かなきゃいけない、と思うとついエログロになってしまう。それにあの頃は明治時代の毒婦なんかが面白くて、そういうのばかり描いていたな。好きだったんだね(笑)。

 

──池袋から上野に移り住んでから、ずいぶん不忍池を散歩していたような事を書いていましたね。池のカメを捕まえて甲羅に何か描いていた、とか……。漫画を描いたり不忍池に行ったり、毎日そんなふうな暮らしだったんですね。

花輪:うーん、だからあの頃は眠っていたんですよ。精神状態がね。眠っていたんだけれどそれに気付いていなかった。こういうもんだろうって。心なんか問題にしていなかったから。きっと子どもだったんだよね。もう現実のつらい事は一切拒否して、誤魔化して、それでカメと遊んでいたんですよ(笑)。

 

──それでは、花輪さんを眠りから醒めさせた原因は何だったのですか?

花輪:やっぱり母親の死だね、死んでからバーっと一気に出たわけ。あの時は本当に自分が分からなくなっちゃったね。それまでは本当に夢うつつで生きてきたから、人生全部ドブに捨てた感じ。それをお袋の死で初めて気が付いてさ、自分は一体何だったってね。俺が3、4歳の頃、お袋が再婚したんですね。その義理の父が大嫌いだった。すごく嫌いだった。

丸尾:夜中に茶碗は投げる、暴れては鍋は投げる、そういう人だったんでしょ。

花輪:そう、もう地獄ね、アウシュビッツ収容所の記録フィルム見てさ「ああ、これって俺の家と同じじゃないか」って思ったもの(笑)。ものすごく恐かったし。

丸尾:そりゃ恐いでしょ。暴力ふるうんだもの。

花輪:いやそうじゃなくて、もっと何か違う恐さがあったの。

丸尾:あっ、要するにヨソの人っていう感じがあったんじゃないの。

花輪:そう、だからヨソの人だけれどヨソの人ではない。

丸尾:そういうヨソの人が家に入って来ているから違和感を感じたんでしょ。その人が隣りに住んでいれば全然恐くないけど、血の繋がりもないのに突然家の中に入ってきて、それを父親としてみなきゃいけない。なんでこの人が父親なんだって思っちゃうよね。だから違和感から恐怖感が生まれて、話もしたくなくなる。

花輪:そうそう。もう家に入るのが嫌なんですよ(笑)。一緒にいると、外に行きたいんだけれど出られない。スッて行くと悪いんじゃないかと思ってね。それでいろいろ考えて自分で無理矢理用事を作って「俺はその用事をするんだからオヤジの前から消えてもいいんだ」って自分に言い聞かせて外に出る。だから、義理のオヤジには憎しみと呪いを感じていたね。俺は本当に呪っていたね。もう呪って呪って呪い抜いた。「アレは死ね!! この世から消えろ!!」ってさ。もう、ありとあらゆるオヤジの残酷な死に様を思い描いてさ、汗びっしょりかいて「アイツは死ね!!」って思ってた。

 

葛藤のタマモノ

──花輪さんの漫画にはよく“極楽”という言葉が出てきますよね。主人公が「しあわせになりたい、しあわせになりたい」っていうところがありましたでしょ。

花輪:結局、しあわせってどういう事なのか分からないんですよ。

あるがままに生きるのが幸せだ、平々凡々と質素に生きる、そういうふうになればね、性格的にね、山奥の辺鄙なところに嫁にいって、そこで小さな畑を一所懸命耕して、あまり外にも出ずにおばあさんになっちゃって、でも「ああいい人生だった」って死ぬ人いっぱいいるでしょ。そういう人って凄いなあ、と思うね。「私は幸せだった、本当に楽しかった」と思える。ああいう人になれればいいなあ、と思いますよ。

ずっと抑圧されて抑圧されて、それでオヤジの事が大嫌いで……。そんな現実から目を伏せていたんでしょうね。だから眠ったままだった。そして、お袋が死んだとき、それがきっかけでね、「ああ、現実ってこんなに凄いんだ」って改めて思いましたよ。いかに自分が幼かったか。子どもだったてね。

 

──強烈な体験をされてきたんですね。でも、眠りからさめて、いろいろ葛藤はあるでしょうけれど、以前と比べると、少しは気持ちも代わりました?

花輪:うん、そうですね、なんていうか、子供の頃から共生依存があったんですね。要するに、自分の中に憎しみを取り込んでしまって、だから自分自身も憎かったんでしょ。自分自身に自信が持てない。劣等感、自己無価値感…。そういう悪いことだけを考えていたんです。だから、ずーっとボンヤリ生きてきたという事じゃないですか。

他人の服を着てずっと人生を歩いてきたような、そんな感じです。それに気づいたときには、もう取り返しがつかない。自分の人生が失敗だった、という思いで、すいぶん悩みましたけれどね。

 

──数珠を握りしめながら津軽海峡を渡って北海道に行ったのも、その頃だったんですね。

花輪:そう、津軽海峡を渡れば救われるというか、業が取れると思いました(笑)。

 

──まだ葛藤は激しかったんですね。

花輪:だって苦しいから逃れたんだもの。まだ凄い抑圧はあったし……。だから渡れたんだろうね。「東京でもラクに生きられるんだ」って分かればさ。葛藤とね、あと不安感。一番心の底にあったものはそれだね。

 

──でも、北海道に渡ってから漫画の中に、地獄、極楽、宇宙やお経などもよく出てくるようになりましたよね。そういう世界が。

花輪:それは葛藤のタマモノですね。

 

──そんな世界になってきてから、よく子どもが描かれていますね。

花輪:自分の心の中にはすごく、ああいう子どもの部分ってあるんですよ。自分でも分かるのかね。そのたび「ああ大人になりたい」と思っているんだけれど(笑)。

 

──花輪さん自信が投影されているんですね。

花輪:うん、そうですね。だから描きやすいんじゃないのかな。自分の心の中に子どもの部分がいっぱいあってさ、大人になれない部分が。やっぱり徐々に階段を登るようにして大人になっていくでしょ。でも、そうじゃなかった。

 

──でも、花輪さんの描く子どもは、すごく逞しいですね。

花輪:きっと、そうなればいいなあ、と思っているからですよ。

 

ほかのマンガ家

──花輪さんも丸尾さんも、描きあがった原稿を見ると、隅から隅まで描き込んであって、ものすごい時間がかかりますよね。

丸尾:あれは要するに空間恐怖症なんですよ。画面に白いところがあれば効果的だって分かっているんだけれど、白い部分があると不安になってくる(笑)。とにかく絵が四角く閉じ込められていないと安心しないんだよね。

花輪:あ、そうそう、ガロに描いているころ、枠の中に吹き出しがあるでしょ。あれが何か邪魔でさ。全部絵を描きたいと思っていた。

丸尾:なんかそれをさ、職人根性とかサービス精神とか解釈するんだけれど、そうじゃないんだよね。ただの空間恐怖症。楳図かずおとかギーガーなんかもそうじゃないかな。


──じゃあ、白っぽいところが多い人のマンガなんか見るとダメ?
丸尾:いや、自分には描けないからいいな、と思いますよ(笑)。


──他人のマンガなんかは、どういうふうに見ていますか。

花輪:ぱんこちゃんは面白いですね。少女の感性で描いていて。

丸尾:僕は山田花子さんが好きだね。女の人のマンガでは一番好きなんだよね。

花輪:あと、根本敬さんの村田藤吉さん好きですね。それに根本さんのマンガに出てくる小さいメガネをかけたオヤジ。全然怖いものなしでしょ。憧れますね。ああいう感じ(笑)。


──花輪さんは、確か吉田戦車さんも好きだったんですよね。『伝染るんです』なんか。

花輪:そうそう。あれ。モロに俺の事描いているような気がするよね。包帯少年って出てくるでしょ。あれなんか感情移入できる(笑)。

丸尾:斎藤さんは?カブト虫の。すぐ泣いてブーンって飛んで行くやつ。

花輪:ああ、あれは凄く理解できるよ。のどちんこの見える泣き方が凄く気持ちいいというかさ、思い切り泣いてくれて嬉しいよね(笑)。あのマンガはスーパーで立ち読みして、いつも笑っていたよ。全部理解できちゃうんだもの(笑)

 

『月刊漫画ガロ』1992年5月号所載

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ねこぢるインタビュー(ガロ1992年6月号)

ねこぢるインタビュー
ゲームの世界に生まれたかった(出典元:ガロ1992年6月号)

──本誌で好評連載中の「ねこぢるうどん」。作者である、ねこぢること山野夫人と山野一氏にインタビュー。山野氏の「ねこぢるうどん」への関り方や発想の源、そして山野漫画の基盤を語る。

 

──『ねこぢるうどん』を始めた切掛というのは。

山野 僕の漫画の手伝いをやりたいと、いつも言ってたんですが、絵のタッチが全然違うんで、絵に合ったストーリーを創ったんです。

 

──では、山野一で描いている漫画と『ねこぢるうどん』の原作は、別個の物として考えているんですか。

山野ねこぢるうどん』はもう完璧にねこぢるの物だから、気に入らないと言われればネームを書き直したりしています。絵は何とか描けるんですが、漫画の形に体裁を整える作業が出来無いんで、僕が手伝っている様なものです。

 

──構成を山野さんが。

山野 コマ割とかが、苦手なんです。
元々紙にイタズラ描きをしていた様なものだから。たまに僕の考えも入ったりする事もありますが、これならいいという物であれば入れてます、ダメな物も結構多いけど(笑)。“ねこさいばんの巻”は、僕の原作なんですが、嫌われてますね(笑)。

ねこぢる ネコだけでも十分幼稚なのに、
その上虫まで出てくると、幼稚すぎる感じがしたから(笑)。

 

──主人公がネコというのは?

山野 ネコしか描けないんだよね(笑)。
元々イタズラ描きで描いてたのがネコなんですよ。
だから理由とか、意味なんて無いんです。

 

──では、人物等は山野さんが描かれてるのですか?

山野 キャラクター、背景等のデザインで、若干アドバイスする事はありますが、実際に描くのは彼女です。

 

──“ねこぢる”というペンネームには、何か由来があるのですか。

ねこぢる 昔、二人で汁っていう言葉はキタナイなんて
冗談で言っているうちに、自然に生まれたんです。

山野 “犬汁”とかね。オレンジジュースって言うと綺麗だけど
“オレンジ汁”と言うとキタナイ感じでしょ(笑)。

 

── 一番気に入っている作品は何ですか。

ねこぢる “大魔導師の巻”です。これは自分から
魔術師が出てくる話を創って欲しいと頼んだ位で。

山野 結末は、家も家族も捨ててサーカスに付いて何処かに行っちゃうほうがいいと言われたんですが、そうすると次の話が創れなくなってしまうんで(笑)、家族の元に留まらせました。

 

──“山のかみさまの巻”にも、ドーガ様の様なキャラクターが出て来ますね

山野 全く同じ顔で衣裳だけ違うんですけど(笑)、これも魔術師というか、超能力者が出てくる話を創ってくれというリクエストがあったもので。

ねこぢる “大魔導師ドーガ”というキャラクターは、『ファイナルファンタジー3』だったかな、それそのものが出てくるゲームがあるんです。下僕の様なネコちゃん達を従えていて、カッコイイんですよ(笑)。

山野 僕はやって無いから分からないんですが、彼女はゲームに入り込むとボロボロ泣いてたりしますよ(笑)。ファミコンのロールプレイングのゲームが好きで、それに入っちゃうと、中々仕事をやってくれないんです(笑)。一日二十時間位やってても平気で、ゲームの世界に生まれれば良かったなんて言ってるくらいなんです。

ねこぢるファイナルファンタジー』とは別のゲームなんですが、自分の為に命を捧げてくれるというのに凄く感動しちゃって、知らないうちに涙が出てきた。

山野 でもゲームソフトが子供に及ぼす影響は漫画の比じゃないですね、多分。
表面上は勇気だとか冒険だとか謳ってますが、あんな有害な物は無いと思いますね(笑)。人間を虜にするだけの魅力を持ってますから。

 

──自分達の漫画をゲームに出来たら、なんて思いますか。

山野 大変そうだけど、面白そうですね。世界そのものを創れますからね、こぢんまりとした世界の雛型かもしれませんが。ゲームをやっていると、ゲームと現実世界を重ねちゃうところがありますよね。ゲームの中のキャラクターが、そのプログラマーを知る事が絶対不可能な様に、現実の世界で動かされている我々人間がこの世界そのものをプログラムした創造主というか、神の様な者を認知する事が不可能であるみたいな、そんな馬鹿な事を考え出しちゃうんですよ。

 

──漫画家も紙の上での創造主になれますよね。

ねこぢる 自分はユーザー的な立場で見ているのが楽しいんだと思う。

 

──以前、ねこぢるさんの見た夢が題材になっている話もあるとお聞きしましたが、夢の話はよく使われるんですか。

山野 漫画の全てでは無いけど、何本か混ってます。とりとめの無い話を、後ろで話してたりするのを書き留めて、漫画にしたりする事もあります。

 

──日常話している中で、何か面白い事があるとメモして置くんですか。

山野 そうですね、見た夢の事とかよく話しますが、夢ってどんどん流れて行くから首尾一貫してないでしょ。そのままだと余りにも散漫になるので、漫画の形に多少は脚色してますけど。訳の分からないイメージみたいな物を無理矢理漫画にした事もあります。

 

──夢以外に作品の題材となっている物はありますか。

山野 大体、描き始める一時間位前に話を創るんですよ。だからその時偶然思いついた事をパッと描いてしまうんで、根がどこだったかなんて、ハッキリしない事が多いですね。

 

──では、潜在意識が描かせている様な処があるんでしょうか。夢ってそういうものですよね、『ねこぢるうどん』を読むと、悪い夢を見ていて、ハッと目覚めた様な気持ちになる事がありますけど。

山野 そんな上等な物じゃ無いですね(笑)。
バタバタした中で描いてますから首尾一貫して無い事が多いんでしょう。

 

──漫画の中で、ネコ姉弟の子供らしさがリアルに描かれていると思うのですが、実際に子供の頃の体験等が、題材になっていたりするんですか。

山野 ソーセージの話(かわらの子の巻)は、そうだよね。

ねこぢる 幼稚園の時、親戚の家に遊びに行ったら、その家の前に住んでいるビンボー臭い子供が(笑)「一緒に遊んでくれたら、ソーセージあげる」って言ったんです。自分はそれまで真赤なソーセージを見た事も食べた事も無くて、何だかよく分から無いけど貰おうとしたら、いとこに「そういう物は、食べると体に毒だから。」って止められました。

 

──よく背景に描かれている、電信柱のある一本道や、工場や石油タンクなんかはお二人が子供の頃に見た原風景なんですか。

山野 原風景なんて立派な物じゃないですけど(笑)、石油タンクは僕の方ですね、四日市だったんで。非道い所でしたよ(笑)、ひたすらタンクだのパイプだのが入り乱れてる様な。毎日川の色が変わるんですよ、繊維の染物工場があって、その日に染める色で川の色が決まっちゃうんです。緑色の川とか、赤い色の川とか、日野日出志さんの漫画の様な世界でしたね。

 

──畸形の魚が上がったりしたんですか。

山野 いたでしょうね。
釣とかしなかったんで分からなかったけど(笑)。コンビナートからかなり離れた海水浴場でも、タールの様な物が浮いてるんです。泳いでるとそれが肌に付いたりして、ギトギトでちょっとやそっとでは取れないんですよ。僕の親父は公害をタレ流す方だったんです、三菱化成という所に勤めていて、そこの環境課に居たんですよ。そこへ“団結”なんて書いてあるハチマキを絞めた住民が山の様に訪れると、曖昧な笑いを浮かべながらお茶を濁す様な役目だったんです(笑)。

それで、僕の小学校の担任が…これが日教組の豚みたいなオールドミスで、ひどい喘息持ちなんですよ。こいつが公害反対住民同盟の運動員で、まだわけもわからない子供に企業がいかにひどい犯罪を犯しているかという事を述べたてるんですよ。ゲホゲホあさましい程せきして油汗ダラダラ流しながら…。だから子供ながらに教室で肩身が狭いったらない(笑)。それで、親父がローカルのTVに出てたりするのを観て、当時は純真な子供でしたからイヤな物を感じましたけど、今はなんとも思わないですね。

 

── 一番先頭に立って、交渉を受ける立場だったんですか。

山野 そうですね。コンビナート関係の従業員とかは、実際喘息を持っていても届け出をするとマズいんですよ。そこに勤めている人だけが行く喘息の診療所があって、そこから至近距離に直径が10m以上で、曇りの日には先端が雲に隠れる様な巨大な煙突があるんです。先からモウモウと煙が出ているのを見て、ここでは雲を製造しているのかと思いましたね(笑)。幼稚園に入る前位の時でしたが。

 

──メルヘンですね。

山野 嫌なメルヘンですけどね(笑)。
しばらくしてから、余り空気が悪いんで郊外へ引越しましたけど。コンビナートのすぐ近くだと非道いみたいで、体育館の窓ガラスが二重になっていて、エアクリーナーをかけないと子供が運動出来無いんです。表に出て「ワー」なんて走ると、バッタリ倒れたりするんですよ(笑)。走るとイヤな空気を思いきり吸い込みますから。

 

──ねこぢるさんの子供の頃の環境は、どんな所でしたか。

山野 普通の所だよね。埼玉県の住宅地みたいな所で、近くに団地があって、何でこんな所に住んでるんだろうと思ったって言ってたよね(笑)。

ねこぢる どうしてこういう所に人が住んでるのか理解出来無かった。自分は普通の一建家に住んでたんですけど、近くに公団住宅みたいな二階建ての建物が一杯並んでる、迷路の様な団地があったんです。団地って必ず公園が付いてますよね、それが楽しくていつもそこで遊んでたんですけど、お父さんに、自分もこういう所に住みたいと言ったら、エラく怒られました。

 

──(笑)。漫画の中で、お父さんが無職で焼酎を飲んでゴロゴロしているという設定は、どこから出てきたんですか。

山野 僕らの家は、普通の家庭だったんですが、ねこぢるが小学校の頃、そういう家庭の子の家に届け物をしたんだっけ。

ねこぢる 同じクラスに登校拒否の子がいて、家がすぐ近くだったから、担任に手紙とかを渡しに行く様に頼まれて。〇〇子っていうんだけど「〇〇子さーん」て呼んでもアパートのドアの入口の所に居るのに、居留守使って出なかったりするんで、凄くイヤだった。仕様が無いから手紙を床の上に投げて置いてきたりした(笑)。その子は貧乏のクセに、体だけデカくて、小学五年の時に皆から「体は中二、頭は小二」て言われてて(笑)。学校にも、お母さんのワンピースにお父さんの菱形のワンポイントの付いた紺の靴下をはいて来る様な子で、皆から馬鹿にされてた。

 

──そういった変な人には出会う機会が多いんですか。

山野 何か呼ぶ物があるんでしょうかね。ねこぢる新宿駅に立っていた時、雑踏のずっと向こうにいる浮浪者が、ニコニコしながら手を振ってるらしいんですよ。どう考えても自分に振っているとしか思えないらしくてね。

ねこぢる 働いてた時、帰りにいつも頭の足りなそうな人がバス停で後ろに並んでて。

山野 2、3mの間を行ったり来たりするのを、繰り返す人がいたんだよね。

ねこぢる その時、雨が降ってきたから折り畳み傘を広げようとしたんですけど、カサッて音がするとその音に敏感に反応してクルッと180度向きを変えるんです(笑)。

山野 直線的な動きをする人なんだよね。
勤め先の倉庫の大家さんの息子もオカシかったんだっけ。

ねこぢる パジャマ姿でいきなり降りて来て
「ラジオが壊れた」とか「誰かが盗聴してる」とか言い出したりして(笑)。

山野 親が「そんな事してると、また病院に送るぞ」とか言うんだっけ。親の暖みとか全然感じられませんね、もう厄介者としか思ってない様な感じだね。

ねこぢる パートのおばさんが「病院にいると、色々覚えてくるのよねェ」なんて、こっちが聴いてなくても話したくてウズウズしてる感じで話しかけてくるんです。「性の事とか古株の人が教えるらしいのよねェ」とか、嬉しそうに話してた。

 

──子供の頃から身近にいたんですか、例えば“きよしちゃん”みたいな子供とか。

山野 本当にきよしちゃんという子がいて、体を動かさないと知能発達しないんで、よく近所の暇なおばさん連中が手伝いに借り出されて、陽気なリズムに合わせてお一、二、一、二て体操してましたけど。

 

──山野さんの漫画にも、ねこぢるさんの漫画にも、そういう人はよく出てきますね。

山野 面白いと思っているから描いているだけなんです(笑)。人間のムチャクチャな状況を傍から見てるのは好きですが、その只中に放り込まれるのはゴメンですね(笑)。

 

──そういう部分での共通性はありますけど、先程、山野さんは自分の漫画と『ねこぢるうどん』は全く別の物だと言われましたが、ねこぢるさんの漫画をどうご覧になっていますか。

山野 僕は人に嫌われる漫画ばかり描いてますけど、それよりはちょっと人に読まれ易いかな、という気はします。

 

──ねこぢるさんは山野さんの漫画をどうご覧になっていますか。

山野 イヤな漫画だと思ってたよね(笑)。

ねこぢる 『四丁目の夕日』はちょっとマニアックすぎて好きじゃないかな、貧乏人の話が嫌いっていうのもあるけど。『人間ポンプ』とか『ビーバーになった男』(※青林堂刊『ヒヤパカ』に収録)とか、スコンって抜けた感じでセリフ廻しのいいヤツが好きかな。映画なんかだと割と後味の悪い方が好きなんですけど、例えばクローネンバーグの『ブルード』とか観た後、凄くイヤな気持ちが残るんですが好きなんですよね。でも『四丁目の夕日』は余り好きじゃないなァ…(笑)。

 

──『四丁目の夕日』から『ヒヤパカ』になって、山野さんの絵は随分変わりましたね。

山野 ああ、絵は節操無く変えていきますね、担当の編集者の言われるままに(笑)。

 

──抵抗は無いんですか。

山野 最初のうちは、なんとか背景だけでもという感じで、控え目な態度で抵抗してたんですが(笑)、その内力尽きた感じになって今では何でも言われるままにやってます。もしラブコメ描けと言われたら描きますよ(笑)。根本敬さんの様な強靭な精神は僕には無かったんですね(笑)。今はもうエロ本関係でも、そんなに自由に描かせてくれませんから兎に角絵を明るくして、高校生が読んで抜けなきゃダメなんです。理解ある様な態度を示している所でも、取り敢えず最低限可愛い女の子を出して、セックスシーンがあって、それでまぁ余った部分で山野さんらしさを出して貰えればなんて(笑)、そんな体のいい話無いですよね(笑)。

 

──山野さんの漫画で一貫しているのは、悲惨で本当に救いようが無いんだけど、それを笑える感じにしていますよね。

山野 僕の場合、先月号の花輪和一さんの様に心の奥底にある根深い葛藤の様な物を作品の中でどう解消していくかという様な深刻な描き方をしていなくて、こう言っては失礼かもしれませんが、根本さんと似たスタンスで描いているつもりなんです。自分は笑える作品を描いてるつもりで、自分の中で悲惨な事と可笑しい事にそれ程距離を感じないんです。むしろ同じ位に思ってますね。

 

──言うならば、笑いの質ですね。

山野 そうですね、自分で楽しんで描いてるんです。飲み屋で気心の知れた連中と話している様な事を描いてますから、なんの制約もなければ、ずっとああいう漫画を描き続けていると思います。漫画が生活の手段で無かった頃は良かったんですけど今は編集の意向とかで、タイプの違ったのを描いてますけど。

 

──山野さんの漫画は登場人物の全てに救いが無いですよね。

山野 加害者も被害者も一様に不幸だという(笑)。

 

──支配者と被支配者がハッキリと分かれていますよね。『四丁目の夕日』に“世の中には奉仕する者とされる者との二種類の人間がいて、それは地下鉄の駅の様に明確に区切られている”というセリフがありましたが。

山野 惨めな境遇にある者が、幸福になるなんて絶対に許せないですよね(笑)。正しくないですよ。僕は正しい漫画を描いているのにな(笑)。理不尽な差別を受けて、皆から嫌われ蔑まれている者が爽やかな幸福を手に入れるなんて誰も納得しませんよ。

 

──その考え方は、何時頃から固まったものなんですか。

山野 何時頃からなんでしょうね、世間で誰からも“コイツは駄目な奴なんだ、自分がどう転んでもコイツ以下の人間には成ら無いんだ”って思われている様な者が幸福に成るのは、人間が生理的に一番我慢出来無い事なんじゃないかと思うんです(笑)。何か自分の拠り所というか、“支え”が無くなりますよね。

 

──そういった考え方が基本になっているんですか。

山野 『四丁目の夕日』を描いている時、あの頃は貧乏だったし、決して幸福な状況では無かったんですが、ナチの共産党嫌いってありますよね、自分が貧乏にもかかわらず貧乏が許せないという、それに似ているのかもしれませんね。
この世の中を動かしているシステムの様な物に、生まれた時点で無理矢理適応せざるをえない訳ですよね、それが不条理な物であると認めつつも何とか適応しているにもかかわらず、正論なんかを言い出す奴がいると、納得出来無いんですよ。
労働者が惨めな住宅に住んで、貧しい物を喰って、という状況を強いられている様な社会構造が間違っているなんて言い出す事事態が、何かおかしいんじゃないかと思うんです。別にしっかりした理論の裏付けがある訳でも無いんですが、体質的にそうなんですね、もう、根付いているというか。

 

──…直感で。

山野 ええ、納得出来無いシステムで、自分に不本意な地位しか与えられてないという事に甘んじているにもかかわらず、労働運動をする……まあ、今は賃上運動ですけど、そういう事に納得出来無いんですよ。徒党を組んで権利を主張するとか大嫌いなんです。労働者とか、日教組の教師とか大嫌いでしたね。

 

──山野さんは、学生時代に三畳の部屋に住んでいた事があるそうですね。

山野 それは納得出来るんです。
ヒンズー教徒では無いですが、神に与えられた地位でいくら自分が納得出来なくても、それに耐え続けるしかないという考えがあるのかもしれませんね。

 

──運命には逆らわない主義なんですか。

山野 というよりも、運命からは逃れられないという所がありますね。

 

──自分でも逃れようとは思わないんですか。

山野 上手く言葉では説明出来無いけど、自分が幸福に成るという気が全然しないんです。

 

──流れに身を任せる、という感じですね。ところでねこぢるさんは、今後の『ねこぢるうどん』の展開をどうお考えですか。

ねこぢる 自分は向上心が無いし、イヤな事があるとすぐ拒否するんで、今は仕事があるから続けてますけど、無くなったらキッパリやめられます。一時は、このまま続ける必要も無いんじゃないかと思ってました(笑)。

 

──今でもやめたいと思ってるんですか。

ねこぢる 一生懸命がんばります(笑)。

 

1992年4月2日
文責●ガロ編集部


『月刊漫画ガロ』1992年6月号所載

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トランスパーソナル心理学の現状と限界/果たして理論は禅を超えられるのか?(青山正明)

トランスパーソナル心理学の現状と限界/果たして理論は禅を超えられるのか?

青山正明

 

すべては絶頂体験から始まった

かつて、心理学には二つの大きな流れがあった。ひとつは個々の無意識に分け入って、そこに病根を求めるフロイト精神分析。もうひとつは、人間のあらゆる行動と思考を、外界からの<刺激>に基づく<反応>の集積としてとらえる行動主義心理学である。

ところが、1930年代になると、こうした二大潮流に対し疑問を投げかける専門家が現れ始める。その代表格が、アメリカの心理学者マズロー(1908〜1970)だ。

マズローはこう主張する。「無意識の発見が進化論、特殊相対整理論と並ぶ偉大な業績であることは間違いない。しかし、残念なことにフロイトは無意識の病的な部分にばかり着目し、健康的な側面を全く無視してしまった」。

同時に彼は、行動主義についても、「人間特有の能力である良心や罪の意識、理想、ユーモア等を充分に説明できない」と、否定的な見解を表明した。

右の反省点に立った上で、マズローが提案したのが、“第3の心理学”、人間性心理学である。

早速、マズローは研究に取りかかった。対象としたのは心身ともに健康で、世間的に成功者と見なされた人たちである。臨床の不足は、アンケート調査で補った。結果、彼ら“自己実現”を果たした人々に、共通する心的現象が認められることが分かった。マズローは、それを絶頂体験(至高体験)と名づける。

絶頂体験というのは、スポーツをした後、仕事が上手く片づいたとき、お気に入りの音楽を聴いているときなどに突然襲ってくる、束の間の、それでいてとてつもなく強烈な幸福感を指す。そして、マズローによれば、自己実現の度合いが高まるほど、人は頻繁に“絶頂体験”を体験するらしい。

ともあれ、彼がその著作の中で説いた絶頂体験は、あくまで自然発生を待つ、という類の偶発的現象でしかなかった。これをして、マズローの限界と指摘する向きもある。しかし、それはマズローの身体的疲弊に基づく研究続行の限界であり、決して絶頂体験理論そのものの限界ではない。そう、論文にこそまとめられていないものの、晩年のマズローは、絶頂体験を意識的に呼び起こし、それによって自己実現を達成させる“第4の心理学”を打ち立てるべきだと発言しているのだ。

そんな彼の意向を受け、大衆レベルで絶頂体験の積極的意味づけを試みたのがご存知コリン・ウィルソンであり(71年の著書『至高体験』)、それとは別に学問の分野で継承・発展を企図したのが、チェコスロバキア生まれの精神病理学者スタニスラフ・グロフ(1931〜)である。

TP心理学の成立

LSDを用い独自に人間心理の研究をしていたグロフは、自分の構築しつつある理論がマズローのそれとほとんど同じであることを知り、彼との接触を図った。

至高体験にあって、人は過去の体験や記憶だけでは説明のつかない情報をしばしば知覚する。ということは、つまり人間には、個の意識を超えた“統一知識”が存在するのでは……。意気投合したマズローとグロフは話し合いを重ねた末、68年、“第4の心理学”を「トランスパーソナル心理学」と呼ぶことで合意に達する。トランスパーソナルとは、個と個をつなぐ、あるいは個を超えた、と言う意味だ。

と、ここでひとつ、問題というか、いたって素朴な疑問を提示しておこう。

自己実現のレベルが高い人ほど、絶頂体験の頻度が高い──。これは分かる。が、果たしてその逆が成立するのだろうか。仮に何らかの意識変容装置(メカあるいは薬物)や訓練法が開発されて絶頂体験の増大が可能になったとしても、それが直接、自己実現を促すというのはあまりに短絡的な発想のように思えてならない。もし絶頂体験が仏教の“悟り”と同等の心的現象を指すのであれば、まだ納得の余地はある。しかし、人間性心理学でいう絶頂体験は、それを感得した人間の意識ばかりか人生をも変えてしまうほどのダイナミズムを持たない。

マズローの著作を読むと、絶頂体験とは、誰も1度や2度は体験したことのあるちょっとした幸福感をも含む、極めて広い概念用語なのだ。もしかすると、意識的に絶頂体験を積み重ねていけば、いつの日か悟りに達するのかもしれないが、この点に関しては、理論的にも臨床的にも未だ証明はなされていない。

臨床医グロフのあがき

「絶頂体験→自己実現」と、成り立ちからして飛躍の観が拭えないTP心理学ではあるけれど、「人生を豊かにする糧として人間心理への積極的テコ入れを図ろう」と言う姿勢は、大いに評価すべきだと思う。

TP心理学の最大の目的は、矮小な自我や近視眼的な自己実現を超越し、より広大かつ普遍的なレベルを目指して意識を“進化”させることにある。従って、旧来の心理学とは異なり、理解より“気づき”、理論より“体験や修行”を重視する傾向がある。ヨーガ、仏教思想、スーフィズム等々、東洋の神秘思想を精力的に取り入れているのは、そのような理由による。

さて、TP心理学が登場するまでの概略はこのくらいにして、次に、TP心理学の初期の枠組み、要するに今現在進行中であるTP心理学の方向づけを行ったふたりの功労者、スタニスラフ・グロフとケン・ウィルバーの研究成果、業績について触れてみよう。

グロフは、TP心理学の臨床面を支える重要人物である。
30余年にわたる臨床実験から、彼は、それぞれの人間が全宇宙ないし全存在に関する情報をも内包しているのだ、という結論を導き出した。この結論自体、疑問視せざるをえないのだが、まあ、それは無視して話を先に進めると、臨床医の立場からグロフは、TP心理学にふたつの業績を残したとされる。

子宮内の至福から、孤立の恐怖へ。グロフは、母親と<一体>となっていた胎児が、産道を通って外界へと放出され、母親と<分離>されるまでの過程を4つの段階に分け、それを「基本的分娩前後のマトリックス」=BPMと名づけた。そうして彼は、BPMのプロセスが、誕生後の人間にどれほど深刻な影響を与えるのかを証明したのだった。また、BPMの悪影響を取り払う方法として、グロフは、長時間にわたる深呼吸によって無意識に巣くうBPM(ブロック)を顕在化、それらを様々なボディ・ワークにて消滅させる「ホロトロピック・セラピー」を考案した。

こうしてみると確かにグロフは、偉大な学者である。何よりも、役に立つ心理学を生み出さんとする心意気が素晴らしい。しかし、である。よくよく考えればBPMプロセスはフロイトの「幼児体験とトラウマ」を押し進めただけという気がするし、ホロトロピック・セラピーにしても、その原型はハタ・ヨーガのプラーナヤーマ(呼吸法)。フロイト理論とヨーガのごく限られた行法を結び付け、「個を超えられますよ」と言われても、おいそれとはうなずけない。

絶頂体験なら喚起できるだろうが、どう考えてもこれで“悟り”は得られまい。言い忘れたが、マズローと違って、グロフは、一過性の絶頂体験にはあまり重きを置いていない。彼がなさんとしているのは、日常意識を統一意識のレベルに変容すること、すなわち“悟り”の短期実現なのである。が、正直、今の時点では、ホロトロピック・セラピーはまだ、TM瞑想のレベルにも達していない。

ミクスチャー心理学

TP心理学最高の理論家と称されるケン・ウィルバー。彼が打ち出した理論では、「意識のスペクトル論」と「アートマン・プロジェクト」が有名だ。

人の意識は7つの段階(スペクトル)に分類され、精神分析は自我のレベル、道教は統一意識のレベルといった具合に、ひと口に“意識の治療及び進化”と言っても、セラピーによって作用する意識のレベルは異なる──。「意識のスペクトル論」は、宗教を含めた諸セラピーの有効性を意識のレベルによって分類した画期的な理論である。しかしながら、意識の7つの段階というのは、ヨーガの7つのチャクラ、カバラにある創世の7日間、あるいはグルジェフの7つのセンター等々、ありふれた雛形というギミック感がつきまとう。

いまひとつのアートマン・プロジェクトは、意識は進化し、最終的には森羅万象合一したアートマン(真我)へと至るのでは、という仮説である。悟り=真我を意識の到達点とするのはグロフと全く同じなのだが、残念ながらウィルバーは、それを成し遂げるためのノウハウには言及していない。「将来、人類は意識の梯子を上り詰め、悟りに達する」これは理論と言うより、単なる願望である。

グロフ然り、ウィルバー然り。TP心理学者は現在、何とか“悟りの秘薬”を調合しようと、学際的見地から、すなわち大脳生理学、分子生物学、免疫学等々、ありとあらゆる分野の新たな研究成果を投入しつつ、古今東西の心身修養テクニックのミクスチャー実験を行っている最中である。この言わば“新旧セラピーのごった煮”から、いつの日か“悟りの秘薬”が生まれることを信じて……。

TP心理学の限界と禅

悟りを追い求めるグロフとウィルバー。TP心理学では悟りを“統一意識”と呼ぶ。その名の通り、統一意識は諸々の事象を無分別に受け入れる心を意味する。

光と闇、善と悪、生と死、快楽と苦悩、味方と敵、表と裏……。人はかような二元論に固執し、それらの片方のみ──光・善・快楽・味方・表──の増大を望む。が、これは、明らかに世の実相と矛盾する。なぜなら、闇のないところに光はなく、裏がなくてはまた表も存在しえないからだ。そうした観点に立ち、二元論を排して、全てをセットで受容しようというのが悟りの境地、TP心理学の提唱する統一意識の実現である(ウィルバー著『無境界』に詳述)。

TP心理学は、人をして統一意識を目覚めさせる理論と実践方法を模索している。しかし、理論面にしても実践面にしても、確たる成果は未だ提出されていない。実のところ、グロフにしてもウィルバーにしても、「テキスト化できるような理論や技法を編み出すのはしょせん不可能」と思っている嫌いがあるのだ。

グロフは「ホロトロピック・セラピーの原理」なる論文の中で、「“危機”こそ最大の成長の機会である」との旨を記している。「極限の“危機”を経ずして統一意識を目覚めさせることはできない」。TP心理学を日本に紹介した吉福伸逸氏も、昨年2月、ハワイで会ったとき、そう語っていた。ウィルバーは自分の理論が仮説であることを認めているし、また、彼が「意識のスペクトル論」の手本としたグルジェフ(意識の振動帯域論)も、「“危機”こそが意識レベルを上げる唯一無二の触媒である」と常々語っていた。

そう、TP心理学者は皆、「悟り=統一意識実現の“鍵”」が「心身の“危機”状況」にあることを認めながら、そこに踏み込めずに、理論やテクニックの創世にかかずらわっているのだ。

怪我、病、口喧嘩、離婚、愛する者の死、借金、失業。等々──。言うまでもなく、“危機状況”の内容は個々人によって異なる。ゆえに、「危機の発現」は、普遍性を重んずる学術理論やシステム化されたボディワークには馴染まなない。「危機の実現」=「悟りの発現」は、その多様さ、不合理さゆえに、学問となることをかたくなに拒み続ける。

真理の周縁を、永久にグルグル回り続けるTP心理学──。
と、僕が思うに、現段階で、個々人に相応しい“危機”を誘発しうるのは、禅において他にないのではあるまいか。

唐代末期の高名な禅匠、雲門はその師、睦州(ぼくじゅう)に片脚を折られ、不具者になったことによって初めて悟りを得た。同じく唐代の僧、臨済は「喝(かつ)」という叫びで、数多くの弟子たちを瞬時に悟りへと導いた。例を挙げていくと切りがないのだが、「危機」と「悟り」を不可分と見なす禅では、人の数だけ「危機」=「悟りの源」があるとし、その誘発方法も千差万別。極端な話“死ぬ”ことでしか悟りに到達しえない者もいる、と禅は説く。おお、コワッ……。禅問答に代表されるように、禅の技法が合理精神と合致しないのは当然なのである。あまつさえ、二元論の徹底的排除を根本原理とする禅にあっては、「問う者」と「答える者」の分離さえも否定する。これを精神科の領域でたとえるなら、「医師」と「患者」、「セラピスト」と「患者」との区別さえ無意味ということになる。つまり、悟りへと至る道筋は、問う者自らが見出さなくてはならないのだ。

あっ、ちょっと難しくなっちゃったな……。

鈴木大拙曰く。「禅は、この世で最も非合理で、想像を絶するものである」「内臓を九転させるほどの苦痛と葛藤を経てこそ、はじめて内なる不純物が一掃され、人は全く新しい人生観をもって生まれ変わる」(『禅の意味』56年より)。
統一意識=悟りに達するためには、人は先に挙げたように、個々人によって異なるその人なりの「危機状況=どん底体験」を経験しなくてはならない。そして目下のところ、個々人に適した危機を誘発せしめるシステムは、禅(非システム)以外に見当たらず、ありとあらゆるTP心理学の研究は、禅を組織化しようとするパラドクシカルな目論見に過ぎない。しかしながら、禅は全くもって理論や合理に馴染まない──。これがTP心理学、そして悟りに関する僕の見解である。ぶっちゃけた話、グロフやウィルバーの理論的限界は、彼らにとっての個人的な「危機」であり、読者(患者や被験者)ではなく、彼ら自身を悟りへと導く灯火なのである。

ってことですが、とりあえず期待はしてます、TP心理学。“死”をも肯定する禅は、やっぱ恐いもん……。

 

所載『危ない1号第4巻 青山正明全仕事

「Flesh Paper No.133」より

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青山 正明

日本の編集者・ライター。鬼畜系ムック『危ない1号』編集長。ドラッグ、ロリコン、スカトロ、フリークスからカルトムービー、テクノ、辺境音楽、異端思想、精神世界まで幅広くアングラシーンを論ずる鬼畜系文筆家の草分け的存在。ドラッグに関する文章を書いた日本人ライターの中では、実践に基づいた記述と薬学的記述において特異であり快楽主義者を標榜していた。2001年6月17日に神奈川県横須賀市の自宅で縊死。41歳没。