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伝説の編集者 青山正明氏のこと(夏原武・永山薫・斉田石也の追悼文)

伝説の編集者 青山正明氏のこと

ミリオン出版『ダークサイドJAPAN』2001年10月号所載)

数年前になるが、某ライター氏から公開討論を申し込まれたことがある。そのことを雑談の中で青山正明さんに話したら、クスクス笑いながら「いいこと考えました。討論会に行きますって言っておいて、当日になってカゼ引いたんで欠席しますっていうのはナメきってていいと思いませんか」。それはいいということで、「じゃ当日、方角が悪いので行きませんっていうのもさらにナメきってていいですかね」などとくだらない話をした。僕自身の思い出は僭越ながら編集後記に記しておいた。

雑誌『FOCUS』で報じられた青山正明さんの記事ネットで流れた青山さんのニュース。どれもピンとこなかった。以前青山さんが僕に「僕の兄貴分と呼べるのは、夏原武さんと永山薫さんです」と語ったことを今でも覚えている。その兄貴分二人と、やはり青山さんにとって長年付き合いのあった斉田石也氏。三人のライター氏に追悼文、あるいは思い出をつづってもらうことにした。(編集部 久田将義

 

私にとって友人でもあるが恩人でもあった(文◎夏原武)

青山正明と知り合ったのはもう十五年近く前のことになる。くだらないことを何時間もよく話したものだ。ホラービデオがちょっとしたブームだったこともあり、死体や畸形の話をよくした。当時、エンバシーホームビデオにいたKさんと三人でロリコン話をして盛り上がったこともある。面白いやっちゃなあという印象だった。世間一般的なイメージである『突然変異』を作った男、というのは後に知ったことで、あくまでも趣味の合う友達だった。

青山正明が慶応大学在学中に編集していたミニコミ『突然変異』創刊号)

しばらくして、今はもうない大正屋出版という会社から『阿修羅』なるムック形態の雑誌を作ったと連絡をもらった。考えてみるとこれが『危ない1号』の原型かもしれない。その二冊目に原稿を書いてくれないか、彼からそう言われた時は正直嬉しかった。というのも、私はライター青山のファンでもあったからで、自分が敬愛する書き手から「書いてくれ」と言われるより嬉しいことはない。言われるままホドロフスキーの作品を中心に、原稿を書かせてもらった。その出版社があっという間に倒産したのは笑い話だが、彼は自腹を切って原稿料を振り込んできた。

記憶が曖昧だが、美女切腹写真を載せた『サバト』もこのころだったのではないか。まだ鬼畜という言葉こそなかったが、彼は少しずつ形にしたものを残していた。ペヨトル工房から出ていた『夜想』に優れたクローネンバーグ論を書いたのも同時期かもしれない。ケネス・アンガーの前衛映画に触れたのも、彼の影響だった。

三和出版刊『サバト 超変態世紀末虐待史』創刊号/廃刊号)

青山はシャイで人懐こい男だった。はにかんだような表情で待ち合わせに現れる。いつも時間に遅れてくる男で、こちらを見つけると首を前後に振るようにして「すいませ~ん」とやってくる。手足が長くてノーブルな顔立ちの彼にそんな風に言われると、文句を言う気もうせてしまう。酒を飲まないので、いつも会うのは喫茶店。二、三時間は話しこむのが定番だった。

ほんの短い期間だったが、編集者をしていたときに原稿を発注したことがある。『ビデオで~た』(現在は『DVD&ビデオで~た』)の星取表で、歯に衣着せぬ原稿を書いてくるので、何度か直してもらったことがある。映画評論家としてもやっていけるのではないかと思わせる鋭さがあった。

この頃、私が在籍していたのはSという編集プロダクション。緑は不思議だなと思うのは、怪しげな旅行雑誌の編集を離れた青山が就職したのが、このSとは兄弟づきあいのある同じ編プ口のJ社であった。両社はあるいて五分程度の距離にあり、行き来も頻繁だったが、まさかそこに彼が入るとは思いもよらなかった。『ぴあ』から請け負った仕事などしていたようだ。いくらもいずに辞めてしまったが、会社づとめは傍から見ても性に合わないのが分かった。

『危ない1号』的な雑誌を作りたいという話は、この時期によくしていた。タブーと言われていること公序良俗に反することをやれる雑誌を作りたい。二人で熱っぽく語ったものだ。版元さえ見つかれば、そういう雑誌に打ち込めるのが一番だと納得しあったのは、要するに、当時は双方ともにやりたくない仕事をしていたからだろう。その発散として、松文館から出ていたビデオ雑誌でグロビデオ特集をやったこともあった。ギャランティの問題ではなく、やりたいことがやりたいんだ、とよく言っていた。『バチェラー』のフレッシュペーパーもそのひとつだったのか。

私にとって青山は友人でもあるが同時に恩人でもある。フリーになった後、くすぶっていた私に別冊宝島を紹介してくれたのも彼だし、その後、自分が単行本『危ない薬』を出すと、私にも単行本を書くようにすすめてくれ、データハウスを紹介してくれた。利害損得を越えた優しさを私には示してくれた。インテリで繊細な青山とろくでなしの私では、違いすぎるところが、よかったのかもしれない。『危ない薬』が出た時には、自身でサイン本を持ってわざわざ家を訪ねてくれた。まあ、それでも二人で何をしていたかというと、レンタル屋でV&Rのジャンクシリーズを借りてきて笑いながら見ていたのだから、ロクなもんじゃないのだが。

青山正明の処女単行本『危ない薬』)

『危ない薬』はよく売れた。十万部を超えたのだから立派なべストセラーだ。実際、出版後はドラッグの第一人者として羽ばたくのではないかと思っていた。テレビがコメントを取りに来たりしていた。だが、青山自身はドラッグを語ることに関しては興味を失いつつあったようだ。全部書いてしまったのは失敗だったなあ、と後日言っていたのが印象的だし、小出しにしておけば続編に使えたのにとも言っていた(続編は別人の著作)。

もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ。

この『危ない薬』と『危ない1号』は、ひとつのピークだった。特に後者はこれまでにない雑誌となったし、「鬼畜系」なる言葉まで生み出した。まったく新しいものを作るのがどれほど難しいかは、クリエイティブな仕事をしていれば誰にも分かることだ。そういう意味でも彼は編集者として抜群の力量を持っていた。ただ、完全主義者なので、どうしても抱え込み過ぎるのが欠点だったが。

しかし、私は編集者としてよりもライターとしての青山をより評価するし、尊敬する。どの原稿がではなく、どの原稿もいい。「これで全仕事はないよね~」と苦笑いしていた『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』を見れば分かるように外れがない。どの原稿も本当に面白い。もっともっと書いて欲しかった。発注する側ではなく、される側にいて欲しかった。

(単行本第2弾『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』)

去年の春に創刊された文春の『Title』では一緒に仕事をするはずだったが、眼病もあって彼は降りてしまった。やや気力を失っていたのを知っていただけに、この降板は残念極まりない。というのも、その半年ほど前に『危ない1号 第4巻』の仕上げ段階で偶然データハウスで会った時にも、「これからはライターは副業として正業をもちたい」と言っていたが、なんともったいないことを言うものだと、さんざ文句を言った。雑誌を作るのもいいが、もっと書くべきだ、と。肯定的な返事はとうとう聞く事はできなかった。

彼はなぜ書くことに興味を失ってしまったのだろう。タフでないことは分かっていたし、私自身も怠け者だから少しは理解できるが、彼の才能は図抜けていた。それだけに惜しい。

今回、編集長から要請されたのは追悼文だが、とてもそんなものは書けなかった。十数年のほんの一端を駆け足で追った「思い出」を記すのが精一杯だ。それから敢えて青山正明ではないもう一人の「彼」については書かないことにした。色々な見方や意見もあるだろうが、私はあくまでも彼は「青山正明」として死んだと思っているし、もし、私が死んだ後で彼と会ってもやっぱり今までどおりに「青山さん」と呼びかけるだろうから。

(雑誌『FOCUS』2001年7月18日号で報じられた青山さんの死。「麻薬ライター」という表現は当たっていないだろう)

 

 

不良ジジイになった青山正明を見たかった(文◎永山薫

ここ何年か疎遠になっていた俺が、聞いた風なことを抜かしていいもんだろうかという逡巡はある。だが死者について付度するのは生き残った人間の特権だ。もとより過度に賛美したり貶めたりするつもりもない。とは言え知人に先立たれるというのは気持ちのいいものではない。訃報を聞いた時、最初の内は冷静に応答していたが、後半は周章狼狽のテイタラクだった。予期していなかった。年下だ。まだ40である。死ぬには早すぎる。物書きとしても編集者としてもこれから脂が乗る。寒鯖のようにテラテラと青光りする。そんな時期だ。まだまだガキどもをたぶらかして、だまくらかして、ブイブイ言わせる。それが不良青年だった男の義務ではないか。

友人たちから電話がかかってくる。「ネットで知ったけど、本当ですか?」とT。

青山正明とは同い年のライターだ。ヤツは結局しがみつくモノを見失ったんだと思う。死んでも死にきれないというモノがなくなったら、生きることはどうでもよくなる。所詮、遅いか早いかだ。人間はいずれ必ず死ね。絶対に死ぬ」

そんな話をTと交わした。俺たちは生にしがみついて、これしかできないから今の稼業にしがみついて、ナニゴトかを成し遂げない内には死ねない、死にたくない。ジタバタとあがきながら生き続ける。

「けどなあ」

「もう何を言っても取り返しがつかないんだけどさ」

話の合間合間にこのフレーズを何度となく繰り返す俺とT。

鬱病だったという話。青山正明は何年か周期で、ヘコんでも復活して来ていた。今回もそうだと思っていた。だが、今回は尋常ではなかった。ドン底まで潜って行って、浮かんで来られなかった。息が尽きた。発作的だったのかもしれない。人間には自分で自分がどうにもならなくなる刹那がある。全身が凍り付いたようになって、ダメだダメだダメだと思いながら、身体がヤバイ方に滑って行く。オートモードに入ってしまう。

言ってはいけないことを口走る。物を壊す。他人を殴る。自傷する。他人を殺す。自分を殺す。俺は物を壊すあたりで踏みとどまっている。コンクリの壁を殴って拳を青くする程度で済んでいる。運が良かっただけの話かもしれないが…。

「やっぱさあ、還暦までは生きるべきだよねえ」

Hがやるせない声で言う。Hはマジック・マッシュルームの研究家で最後のフーテンだ。Hは青山正明の死を半月後に知った。

彼には還暦、いや、70、80まで生き延びて欲しかった。

「若い時分にはムチャもしましたよ」

としたり顔で語るイヤなジジイになって欲しかった。

青山正明と最初に会ったのは80年代の初頭だった。

俺はその頃『Billy』という白夜書房の変態雑誌で複数のペンネームを使い分け、死体やフリークスやビザールや殺人術について書き殴り、誌面にも変態アーティストとして登場して恥を晒していた。

青山正明は『Billy』と並ぶカルトエロ雑誌でロリコングラフ誌の『Hey!Buddy』でドラッグや変態ビデオの記事を書いていた。

 

白夜書房刊『Billy』『Hey!Buddy』/ともに1985年廃刊)

どうやって仲良くなったのか忘れたが、当時は白夜書房や宝島編集部なんてのは若いライターの溜まり場だった。彼とはスプラッタ・ホラーや、鬼畜な嫌がらせのテクニックや、動物虐待や、神秘学や、変態の話で盛り上がった。ネコに唐辛子を突っ込んで全力疾走させる方法、スカしたクルマに乗ってるバーカを懲らしめるためのあらゆる方法、幾つかはネタになり、彼が編集していたロリコンエロ雑誌のフリをしたカルト雑誌に掲載された。

青山正明は気弱に見えて開けっぴろげだった。メジャー誌に呼ばれて「エロ雑誌関係者匿名放談会」みたいなことをやった時、彼はヤバイことをケロケロとぶっ放した。いいのか、お前、そこまでぶっちゃって!? とコチラの腰が引けるほどのサービス精神である。そう、気合いが違う。両手ブラリ戦法で踏み込んでくる。

ロフトプラスワントークショー青山正明とセットで出た。それが最後の対談だったかもしれない。俺と彼は業界関係者とガキどもの前で、オナニーの話をぶっこいた。

眠剤二本突っ込んで、イク瞬間にラッシュをキメるんですよ、ふわーっとなります」

「ヤバイよ、お前、死ぬよソレ」

彼は漫画やアニメでは抜けなかった。抜くのは写真だ。巨乳が好きだった。巨乳のスクラップを屏風みたいにして、それで抜いていた。想像するだにマヌケな姿だが、そういうマヌケな姿も平気でさらせる男だった。

カルト・ライターだとか、ドラッグ・ライターだとか、カリスマだとか、元祖鬼畜だとか、冠は色々あるだろうし、その側面も俺は否定はしない。虚像も実像の内だ。ただ、俺にとっての彼は気弱で優しいくせに大胆で捨て身でマヌケな男だった。

「よく人間性とかヒューマニズムとか云いますけど、人間が動物と決定的に違うのは、裏切ったり、他人を騙したり、陥れたりする点ですよね。人間らしさって、卑劣さってことですよ」と、微笑みながら彼は俺に語った。しかし、少なくとも俺は彼に裏切られたことはない。世話して貰った憶えは一杯ある。

俺が青山と最後に会ったのは97年だ。青山のプロデュースで鬼畜な単行本を出す。そういう話だ。面白い仕事だし俺はカネが欲しかった。幾つかあるペンネームを使う。それでオッケー。

「一ヶ月で書いて下さい」

「そりゃムチャだな」

「やってくださいよ。一月で百万になると思えば楽勝でしょ」

気弱な笑みを浮かべながら、押しが強い。

いつの間にか押し切っている。

「これ、差し入れです」

輸入物のビタミン剤の巨大な薬瓶。正確にはサプリメントだが効いた。青山正明が持って来たクスリというプラシーボ効果

確かに彼はクスリには詳しかった。「メラトニンはいいですよ。体内時計を調整してくれますから、長生きできるかもしれない」

俺は長生きしたい。死ぬのが恐い。一分一秒でもこの世にしがみつきたい。残り時間を考えると全身が冷たくなる。

恐らく彼もそうだったのだろう。死を恐れ、生きることの快楽を楽しむ男だった。そんな男が自殺した。それが、俺には痛い。

青山正明は俺の保険だった。青山だって生きている。だから俺もなんとかなるだろう。安心できた。俺なんかよりずっとムチャやってもヘッチャラなヤツがいる。

そんな保険が失効した。

青山正明よ。スマンが、俺は70、80まで生きる。不良でバカでマヌケなガキどもの保険には役不足かもしれないが……。

 

青山正明は極端に人間臭い人間達との関わりを何よりも愛する繊細な心の持ち主だった(文◎斉田石也)

青山正明殿

あなたは、絶対に越えられない、とてつもなくでっかい目標であり、憧れの人であり、そして、よき理解者でもありました。ご冥福を心よりお祈りしております。

私の元に青山正明氏の訃報が届いたのは、亡くなられた日の深夜であった。青山氏と私の共通の友人であり、同氏の家族との親しい女性ライターからの連絡だった。

突然、自殺といわれても、にわかには信じられなかった。これが、第一報を聞いた瞬間の偽らざる心境だった。それほどショックが大きかった。いや、正直なところ、今でも、青山氏と私の間で以前に何度もあったように、忘れた頃に、突然、連絡が来ると信じている部分が、私の中にある気がする。

幸か不幸か、全体の4割程度の原稿を執筆した情報誌の入稿時期で、仕事に没頭せざるを得なかった私は、何とか気持ちを立て直せたが、もし、それがなければ、現在も落ち込んだままだったかも知れない。

青山氏と初めて合ったのは、昭和60年(85年)のことで、当時、同氏が在籍していた出版社の六本木の事務所だった。既に青山氏はライター、そして編集者としても名の知れた存在だった。まだ、サラリーマンで、ライターが副業とさえいえないぐらいの駆け出しだった私は、青山氏から自己紹介を受け、名刺を差し出されて「わァ、あの青山正明だァ! 名刺までくれた」と感激した事を、今でも鮮明に記憶している。

早いもので、あの感激の名刺交換から6年が過ぎ、何度か疎遠になったことはありつつも親しくお付き合いさせて頂いてきた。

ちなみに、本誌の久田編集長に私を推薦してくれたのも、誰であろう青山氏であった。

そして、青山氏の死と直面した今、改めて、そうした日々を振り返ってみて、私は、何度となく氏の天才的ひらめきも目の当たりにする一方で、数多くのテーマに対して、実に深い探求心を持って挑んでいることも知っている。つまり、青山正明氏は、天才と秀才の相反する二つの気質を持ち合わせていたといえるのだろう。そんな青山氏の代表作は『危ない薬』、そして、結果的に出版業界での最後の一大事業となってしまったムックの『危ない1号』などが挙げられるだろう。

ただ、多少なりとも青山氏と交際のあった者として、この2つの仕事だけで短絡的にドラッグライター、あるいは鬼畜系プランナーと決め付けられるようなことにはなってほしくない、してはならないと考えている

確かに青山氏はドラッグやマリファナなどに関する知識は豊富だった。つまり、そういった世界に興味を惹かれていたのは紛れもない事実だ。『危ない1号』の内容からは、氏が様々な怪しげな世界に人脈や情報源を持っていたことは明らかである。

しかし、そうした知識や人脈があった事だけを挙げ連ねて、青山氏自身も鬼畜系であるかのように決め付けてしまうのは大変な間違いである。アブノーマルの世界を精力的に紹介していた時のことを思い出してほしい。

ロリコンだと誤解された時もあったし、何か、更にコアなフェチズムの持ち主だと、まことしやかに語られた事もあった。

そうしたスタンスは、氏の中で、様々な社会的マイノリティやフリークスの世界などへの深い関わりへと引き継がれていった。

氏のこうした好奇心、探求心の根源にあるのは、人間への興味である

たとえば、私が青山氏と出会った出版社はロリータ系専門の出版社である。しかし、青山氏がこの会社に籍を置いたのは、幼い少女に興味があったのではなく、ロリータマニアに強く惹かれたからであるのは、当時、氏と親しかった者なら、みんなが知っていた。

つまり、青山正明氏がフリークスに詳しいのも、薬物依存者について語れるのも、様々な破滅型、あるいは社会不適応者についての膨大な知識を持っていたのも、全て、そうした人間一人々々へのやむ事ない探求心のなせるわざであったのだ。氏をこうした社会的マイノリティの世界へと導いたのは、青山正明氏が、実は繊細な神経の持ち主であり、様々な立場の人とのかかわり合いに、何よりも喜びを感じていたからに他ならないと思う。

青山正明氏の名前とその業績が、今後も多くの人々に語り継がれる事を願ってやまない。

合掌。

『ガロ』のまんが道・白取千夏雄著『全身編集者』(おおかみ書房刊)の衝撃

白取千夏雄『全身編集者』(おおかみ書房刊)を読ませていただいた。

伝説の雑誌「ガロ」元副編集長が語り下ろした半生記・半世紀。

師・長井勝一との出会い、「ガロ」編集としての青春、「デジタルガロ」の顛末と「ガロ」休刊の裏側。

慢性白血病、最愛の妻の急逝、悪性皮膚癌発症、繰り返す転移と度重なる手術という苦難の中、それでも生涯一編集者として生きた理由、「残したかったもの」とは……

白取千夏雄さんは伝説の漫画雑誌『ガロ』の副編集長を務めた方で、壮絶な闘病生活の果てに惜しくも2017年3月に逝去された。

本書は彼の弟子・劇画狼(以下げウさん)が彼の生前から没後にかけて2年がかりで編集し、げウさん主宰のインディーズ出版社「おおかみ書房」から今年5月に刊行したものだ。

最初に刊行が告知されたのが2018年7月頃だったのでトータル1年ほど遅れた超マイペース刊行となったわけだが、読後の感想から言えば、発売まで一日千秋待ちわびた甲斐があった、とにかくスゴすぎる一冊だった。この一大プロジェクトを白取さん亡きあと、ほぼ独力で完走させたげウさんには感謝しかないです

でもってTwitterで本書の感想を見る限り、おそらく読者の6~7割以上はガロをリアルタイムで読んでいないか、名前しか知らないという人がほとんどらしい(みんなの感想は私がTogetterでまとめたのでそちらを参照してね)。なにせ、ガロ休刊から20年以上も経ってしまった。

結論から言えば、本書はガロを知ってても、知ってなくても興味深く読める本です。もちろん知ってたら新たな発見があるし、知らないなら知らないで、本書がガロの入門書(バイブル)となるだろう。

本書はガロを知らない読者に対しても、どれだけガロが凄かったか、また作家のオリジナリティとは何なのか、そして作家・やまだ紫との出会いと別れ、師・長井勝一青林堂創業者/ガロ編集長)から薫陶を受けて導いた白取流の編集哲学「作家に対して尊敬を忘れない」などの金言が余すことなく(中学生にも分かるような文章で)説明されており、ガロの足がかりをつかむ上では最適の著書だと思う。

これは白取さんの文章が読ませるわざだと思うけど、多くの人間を突き動かし、サブカルチャーのみならず、日本漫画界の精神性(バックボーン)を象徴していたガロという偉大な雑誌が大前提にあって、その内幕や編集哲学が惜しみなく語られてるわけだから面白くないわけがない。

世の中の全編集者・全創作者に読んでもらいたい一冊だし、とくに作家の実売部数を「オマエは売り上げに貢献していない」とSNSで勝手に晒した幻冬舎の売らんかな社長はハゲのコピペ本を出す前に、本書を数百万回見直すことをオススメする。そして出版人としての矜持を(元からないと思うけど)心から取り戻して欲しい。

話は飛ぶが、白取さんが師と仰いだ長井勝一が書き下ろした著書に『「ガロ」編集長』(筑摩書房)というものがある。これはガロが創刊した1960年代半ばから白取さんが編集部に入る前後の80年代初頭までのガロについて書かれた長井視点の自伝/漫画史で、いわば本書の前日譚にあたる。そして、これ以降(84年~97年)の青林堂/ガロについて内部の人間が語り下ろした著作は存在しない。つまり長井勝一著『「ガロ」編集長』の続編に当たるのが本書である

そして本書の存在は、90年代のガロ再興~ガロ休刊という漫画史上最大のミッシングリンクを埋めるにあたって必要不可欠なマスターピースであったわけだ(もちろんガロ休刊の内幕以上に「生涯一編集者」として生き抜いた白取さんの超カッコイイ生き様を知って欲しいわけだが)。

僕はガロ休刊の年に生まれた、いわばガロを知らない世代である。だが、ウチにはガロのバックナンバーが100冊以上もある。もちろん青林堂青林工藝舎の出版物は宝物だ。今後売り飛ばすようなことも絶対ないと誓える。どれもなけなしの小遣いをはたいて学生時代に集めまくったものだし。

 

もはやガロという存在は雑誌という枠を超え、僕の血肉となって精神と一体化している。もちろん本書に登場する固有名詞(漫画家、ガロ編集部員、イニシャルの匿名)は、本書を読む前からおおよそマスターしていた。

私は白取さんから見たガロ史を「復習」するつもりで読み進めた。あの頃のボロくて貧乏な青林堂の建物や編集部の様子が目に浮かぶ。

休刊騒動の経緯は白取さんがウェブに遺した「顛末記」である程度知っているつもりだったから、ガロ休刊の章は殆ど「復習」がてらに読んだ。それでも休刊の章には自分の大事な雑誌がなくなる舞台裏がしっかり書かれているので心が張り裂けそうになった。その後、白取さんに待ち受ける病苦や、妻のやまだ先生との別れの章なんかは、とても言葉で言い表せない感情の波が渦巻いた。。。

で、13章「ガロ編集魂」からトートツにげウさんが登場。

一気に笑える内容になる。

いや、バランス感覚が凄いわ。

本当13章に救われた(笑)。

。。。で、最終章「全身編集者」は本書刊行の顛末をげウさんが書いている。編者を超えて、ほとんど共著者だ。しかも、あのげウさんが割と真面目な文章を綴っていて、実はこの章が一番ウルときったかもしれない。別に湿っぽい事なんてこれっぽっちも書いちゃいないんだけどさ(笑)。

最後にあとがきで山中潤さん(元青林堂社長・ガロ編集長/1990年~1997年)の文章を読んだ。読む前から暴露的な内容が含まれていると話題になっていた禁断のあとがきだ。そこでようやく自分は何も知らなかったことに気付かされた。こればかりは読んでもらうほかない。山中さんのあとがきはたった4頁だけど、白取さんの本文160頁を覆しかねない内容で、あまりの衝撃に読了後すぐこの文章をブログに書き始めた。

関係ないが、吉永嘉明という編集者の手記『自殺されちゃった僕』で精神科医春日武彦が軟弱な著者や本文の登場人物を否定というか罵倒しまくる鬼畜を文庫版に載せたことがある。その解説は数ページのものだったけど、それまで読み進めた200頁あまりの本文を完全にひっくり返していたのだ。そして、この解説があるとないでは著書に対する評価も違ったことだろう。著者の吉永氏は不本意だろうが、私はこの解説を高く評価している。解説者は本文の違和感やしこりを取り除く役目がある。決して著者のイエスマンでもない。そして、それは何よりも誠実さを意味する。

山中さんのあとがき読んで、今までアックスや青林工藝舎(ガロの後継出版社。白取さんは最期まで認めなかったけど)に抱いていた複雑な感情やモヤモヤが取れた気がする。

本書にあとがきを寄稿した山中潤さん、

それを是々非々の立場で載せたげウさん、

著者の白取千夏雄さん、

現・青林工藝舎手塚能理子さん、

本書を読んで思うのは、みな誠実な人だということだ。そう私は信じている。

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ガロは時代に左右されない普遍性を秘めた雑誌で、ガロ系の作品はいつになっても古くならないし「替え」がきかない*1。それこそガロ休刊から20年近く経った現在も一定多数の支持を常に集め続けている所以である。

そうした後生大事に取っておきたくなる唯一無二の出版物を、これからもおおかみ書房には作って頂きたい。きっと、みんなもそれを待っていると思う。

*1:替わりがない・型にはまらないマンガ…文字どおりの意味で「オルタナティブなコミック」がガロ系である。

鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号/『サイバッチ』2001年6月19日20時45分配信

サイバッチ!】 鬼畜のカリスマ逝く! 青山正明追悼号 [06/19]20:45

今月17日、あの青山正明が逝った。

自宅の部屋で首をくくって死んだそうだ。昼過ぎ、部屋から出ないのを不審に思った母親が、ドアを開けると青山が天井からブラ下がっていたそうだ。恐るべし青山正明。死ぬときまで、ただでは死なない。俺たちに、ちゃんとネタを残す心使いを忘れてはいないのだ。

青山といえば、鬼畜のカリスマだ。慶大在学中には、今でも伝説として語り継がれるカルト・ミニコミ『突然変異』で華々しくデビュー。その後、エロ雑誌や株屋の雑誌等に雑文を書き散らかした後、80年代後半に海外カルト情報誌『エキセントリック』に参画。90年代初頭にチンピラ系シンクタンク「東京公司」を結成。

『危ない1号』『アダルトグッズ完全使用マニュアル』、別冊宝島シリーズでは『気持ちいい薬』『薬のウラが分る本』『裏ハワイ読本』などを編集・制作。

著書『危ない薬』(92年)は世間から大顰蹙を買い、『フォーカス』にその素顔を盗撮されたが、その後も版を重ね、現在ではジャンキーのバイブルである。

 

サイバッチ!】自体もそれなりの影響を受けており、その血脈を受け継ぐとではいかないまでも、いかがわしい鬼畜な血を数リットルほど輸血くらいのご縁はある。一応、そういうことなので、今号では、青山の腹違いの弟である、青山とおるに追悼文を書いてもらった。身近にいたものだから書けるちょっといい話が満載である。合掌……*1

●鬼畜坊ちゃん、青山正明の青春

基地外宅間守の屑親父が、「デス・バイ・ハンギング!」って言ったからって、あんたが首吊ることはないだろう。って、突っ込みも入れたくなる、青山正明、享年40歳。

でも、あいつ真性ロリコンだから、7人ものいたいけな少女が殺されたことが、バッドトリップの原因になったのかもしれないね。

で、横須賀育ちの青山君は、何と自衛官の長男であります。

幼少の頃から、それはそれは優秀なお子さんで、神奈川県のほとんどの中学が参加するというアチーブメント・テストとか何とか言うモンで、2年連続トップになったそうです。しかし、彼の偉いところは、アカ新聞の蛆虫13号みたいに、3度のオナニーを1度に減らすみたいな、せこいことはせず、3度のオナニーを5度にも6度にも増やして、オナニーパワーで成績をぐんぐん上げていったことです。

それで、オナニー済みのティッシュを隣の家の屋根にポンポンと投げていったものだから、隣家の雨樋はザーメン臭いティッシュでいっぱいになってしまったんだそうです。

そんなせんずり力のおかげで、見事、慶應義塾大学法学部入学!

ある時、母校(中学校)の女子運動部の部室から下着を盗むことを思い立ち、夜中にこそこそ忍び込んでいきました。暗いのでそこら辺にあった紙に火をつけて下着をあさりました。後で燃やした紙を良く見ると、少女たちが地と汗と涙で勝ち取った賞状の数々だったそうです。

翌日、青山君は戦利品のブラジャーを密かに着けて大学に出かけました。で、部室(ジャーナリズム研究会かなんか)でそれを見せびらかすと、「奇遇だね、青山君」って、他にもブラジャー着けてる奴がいたんだそうです。恐るべし、慶応義塾大学とジャーナリズム研究会(かなんか)。

入学当初は第一勧銀マンを目指して「優」をせっせと蓄えこんでいた青山君も、本性は争えず差別ネタ満載のミニコミ『突然変異』に参加し、どんどん人生を踏み外していきます。

「不謹慎な雑誌だ」と文句をつけてきた椎名誠に、「じゃあ腕力で勝負だ!」と果たし状を突きつけたものの、相手は来ずに、決闘場所で待ちぼうけという武勇伝(?)も残されています。

そんな青山君も海外文化情報誌に関わったり、文名が上がったりして、海外(主に東南アジア)に行って、少女を買う機会が増えてきました。でも、彼には恐妻家の一面もあり、ばれないようにするのに必死でした。タイで買った少女に八重歯があり、フェラチオの時、ペニスに傷がつきました。日本に帰ってきてから彼はたいそう気に病み、結局エイズ検査を受けるのですが、その時もチンチンを火傷して病院に行ったんだけど、そん時、医師の使っていた布巾が血で汚れていたようだったから、とか苦しい言い訳していました。

でも、奥さんも人がいいからそれで通ってしまうんですね。

最初の奥さん(ロリ系)はデザイナーで、一時一緒の事務所で仕事してたんですが、その時は風俗行くのに苦労してましたね。奥さんが来ない日見計らって、吉原のソープにいそいそと出かけていました。「この巨乳の子いいだろう」ってナイタイで探して指名した女の子の写真を僕に見せびらかした、あの嬉しそうな笑顔が忘れられません。

「東京公司」結成後の愛憎ドラッグ渦巻く、情けなくも波乱の人生は、誰か他の人が『BURST』かなんかに書くでしょう。

二人も可愛い奥さんと結婚して、貢がせ、ファンの女の子にも手をつけてたみたいですから、僕や毒島みたいな三国人アパートでマスかいてる人間が同情するには及ばんでしょう。

ジャンキー、ロリコン、マザコンと三拍子揃った蛆虫の青山さん。

地獄でまたお会いしましょう。

 

P.S けれども青山君はセックスは弱かったようだ。
勝ったね。ワシ、毎日朝立ちするモンね。って、死人と争ってどうする。

 

*1:追伸

大月隆寛氏からメールが届いた。盗作事件がこれだけの騒ぎになっているのに、バックれてているクズ野郎の田口ランディと関係する言論封殺事件について、全部まとめて暴露してくれるそうだ。大月氏といえば、青山が女を取り合って泥沼に陥ってしまったK脇のかっての盟友ではないか。K脇も行方不明で死んだという話だが、青山の葬式の日に大月氏からメールが届くというのも皮肉な話である。

さらばガセネタ―『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』に寄せて(JOJO広重)

さらばガセネタ

JOJO広重(非常階段)

人間とは裏腹な生き物だ。なければ欲しがるし、あれば欲しがらないくせに、またなくなると欲しがる。限定版のなんとか、とかはそういった類の心理をネタに商売をする卑怯なやり方だが、そもそも人間とはそういった姑息で卑怯な側面があるのだろう。

ガセネタ

ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。

1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。メンバーは大里、山崎、浜野、ドラムは数回変わったが最後は吉祥寺マイナーのオーナー・佐藤。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。その後はPSFからのCD1枚、大里の執筆した単行本『ガセネタの荒野』あたりが情報源にして、しかしさらに不透明なままだったバンド。世間的にはそんな評価だったのではないか。なんだかわからないけどもの凄かったバンド・ガセネタ。

だが2009年、大里の死を契機にその全貌をまとめようという作業が始まる。大里の追悼文集、著作集、『ガセネタの荒野』の復刊、そしてこのCD10枚組『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』のリリースである。特にこのCD-BOXはたった4曲しかレパートリーがなかったバンドの、現存するほとんどの音源を収録したもので、音楽を聞くためのCDというよりは記録して残すという資料集的な意味合いが強いアイテムだ。それにしてもこういったものが商品として制作発売され、それが完売したという事実は驚異に属するものだろう。

当時ガセネタのライブを見た人間の一人として、ガセネタのライブ音源をたまたま持っていた人物として、私はこのCD-BOXに関わることになった。CDディスク4の11曲目、「父ちゃんのポーが聞こえる」は私が持っていたカセットテープからのトラックだからだ

私は1978年から京都のロック喫茶「どらっぐすとぅぁ」のスタッフとなり、プログレ、パンク、現代音楽、フリージャズ、即興演奏などの世界にどっぷり浸ることになり、その流れでウルトラビデというバンドを結成することになった。このあたりの経緯は私の別のバンド・非常階段の単行本やあちこちの雑誌への原稿で触れているが、ガセネタの活動拠点となった吉祥寺マイナーと京都どらっぐすとぅあの共通点は多い。同じような時代に場として存在し、それぞれの地方で同じような役割を担ったということも興味深い。端的に言えば一般世間ではまるで相手にされていなかった音楽を愛好し、演奏し、追求しようとしていた若者が集った場所が東京は吉祥寺マイナーであり、関西では京都どらっぐすとぅあだったということだ

この2軒の店を橋渡ししたのがウルトラビデのエレクトロニクス奏者・渡邊浩一郎であり、NOISEの工藤冬里だった。渡邊浩一郎は東京から京都に転居してきた予備校生だったが、彼が個人的に東京方面でのライブを録音したカセットテープを大量にどらっぐすとぅあに持ち込んだのである。そこには当時のアンダーグラウンドなバンドの音源の他、灰野、大里、浜野などのセッション音源もたくさんあった。渡邊浩一郎は「この灰野と浜野のギターがすごいんだ」と言って、我々に解説付きで音源を聞かせてくれたものだった。思えば初期ガセネタや即興セッションによる演奏のテープだったはずで、当時関西に住んでいた人間にはまず聞くことの出来なかったような音をたくさん聞かせてもらったように思う。

やがて工藤がマイナーのライブのチラシやポスターをどらっぐすとぅあに持ち込むようになり、ガセネタというバンドの存在がわかった。そこに大里、浜野、山崎の名前があることも、我々は予備知識があった上で認識していたことになる。ほう、山崎春美は大阪の雑誌・ロックマガジンに寄稿していたヤツじゃなかったっけ、今は東京にいるのか、などと思ったことを覚えている。

(坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号/1979年5月発行)

ガセネタのライブを初めて見たのは1979年2月だった。同年3月に関西のバンド、ウルトラビデ/INU/SS/アーント・サリーで関東方面のツアーをすることが決定しており、事前に関東のライブハウスを見ておこうということで上京したのだ。マイナーはその前年に工藤のライブを見に行っていたので場所の認識はあったのだが、ガセネタが当日の出演予定にあったので足を運んだのだったと思う。

初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった


その約1ヶ月後、3月24日に私はウルトラビデで吉祥寺マイナー(うごめく・気配・きず)に出演することになった。確か昼の12時頃からスタートしたロングランのライブイベントで、我々の他にはファーストノイズ、黒涯槍、ガセネタ、不失者、オッド・ジョン、INUが出演した。ガセネタと対バンということで、私には“このバンドには負けたくない“といったようなヘンなライバル心があったのを覚えている。同じ4人編成、ある程度の楽曲ベースはあるが基本即興演奏、訳の分からない音を目指しているといった、どこか曖昧ではあるが同じような音を目指しているという認識はあったのだろう。そして出来うることなら自分たちの音の方が新しくありたいと思っていたのである。

会場のマイナーに到着して、すぐに一番驚いたのは浜野の人相だった。2月に見た時のような狂気の様相はもうまるでなく、どこか普通の兄ちゃんのような形相になっている。これがあの浜野なのか? 同一人物なのか? と、非常に驚いた。そのことと、椎間板ヘルニアを煩っていた大里がとんでもないガニマタで、誰かに支えられながら歩きにくそうに階段を上ってきた光景を妙に覚えている。

この24日のウルトラビデの演奏もろくでもなかったが、ガセネタの演奏は2月に見た時のような緊張感、疾走感はなかったように記憶している。バンドとしてのピークは終わったのかも。そういう印象だった。なにより浜野のギターに迫力がなくなっていた。

3月中に数本、吉祥寺マイナーでガセネタのライブがあったようだが、私は見に行けなかった。ウルトラビデのツアー日程があり、吉祥寺には行けなかったからだ。知人経由で後日、3月30日のガセネタのライブを収録したカセットをもらった。その演奏は24日の演奏とは比較にならないくらいテンションの高いものだった。3月30日のライブがガセネタとしての最後の演奏だったと聞いて、会場に行けなかったことを悔やんだ記憶がある。

1979年8月、私は学生ならではの夏休みを利用して、後年非常階段のメンバーとなるZUKEと関東方面に旅行に来ていた。その流れで彼の友人宅がある茨城県に遊びに行ったところ、明日地元バンドのロックコンサートが公民館の講堂のような場所で開催される、東京のライブハウスにウルトラビデで活躍している私にはぜひ出演してもらい、地元の若者にハッパをかけてほしいと懇願された。一宿一飯の恩義がある私は断れず、当日演奏する高校生バンドにガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットを聞かせ、当日のリハでベースとドラムにこの曲のリフを延々と繰り返すよう指示した。ライブ本番、私はその音をバックに浜野のコピーのように借り物のギターを無茶苦茶に掻きむしり、山崎のコピーのようにステージで絶叫して転げ回った。もちろん会場の観客はドン引きだった

後日、そのZUKEの友人が語ったことには、あのライブの楽奏には観客は大変驚いたが感銘を受けた若者もおり、あの音楽はなんなのだと何度も聞かれた。あれはパンクだと答えたところ、地元のレコード屋にパンクのレコードはないかと買いに行った面々が何人もいた、というエピソードを聞かせてくれた。

ガセネタが私の非常階段での演奏に影響を与えたかどうかは、わからない。私にとっては同時期に演奏していたウルトラビデの頃のほうがガセネタを意識していたかもしれない。しかし非常階段でテレキャスターのギターを弾いていた時、渡邊浩一郎に「浜野が(テレキャスターを)弾いていたからだろう」と揶揄されたのを覚えている。彼も浜野のギターが大好きだったのだ。私も3月30日のガセネタ「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットテープは若い頃はずっと愛聴していた。この音よりももっとグシャグシャでもっと疾走感のある演奏を自分はするのだ、しなくてはいけないのだ、そう意識していたように思う

ガセネタの伝説は終わった。このCD-BOXがすべてだ。売り切れたのならそれでいい。買わなかった人間には結局は必要のないものだったのだ。ないなら欲しいか。ならばいつか手に入るだろう。でもガセネタはガセネタだ。本物であり、偽物なのだ。それでも聞きたければ聞けばよい。私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ

これは誉め言葉である。

(『nobody』36号 JOJO広重の文章から引用。同号は現在品切で入手は不可能だが、ガセネタの輪郭を知る上では必携の書であるといえる。ちなみにJOJO広重の回想によればガセネタ末期に浜野純の形相が著しく変化していたというが、大里俊晴の回想録『ガセネタの荒野』には特にそうした記述は見当たらない)

(“ガセネタ” たった一度のチラシ)

(たった4曲しかない“ガセネタ”のレパートリー

ロリコン漫画はニューウェーブだったという話

ロリコン漫画雑誌で、まず思い浮かぶのが『COMIC LO』というのは比較的若い世代だと思います。今回はそういう方にも歴史を学ぶ感覚で読んで頂ければと思います。

まずロリコン漫画雑誌の歴史は80年代の第1次ロリコンブームを嚆矢とし、この頃からアニメの女の子キャラに恋愛感情を抱く二次コンという存在が顕在化するようになります。

ただし、この時点で二次コンやロリコンはあくまで身内で使う冗談というか、決して生理的嫌悪感を煽る差別語ではなく「ネクラ」「スキゾ」「パラノ」「ビョーキ」「◯金/◯ビ」といった本来的にネガティブなイメージを軽薄なノリでポップに表現する80年代的文脈で使われる一種の流行語のようなものだったと思います。

また当時流行したロリコン的なものはリアルな大人の恋愛ないし三次元に対するカウンターというより、「ニューウェーブ」「パロディ」「ヘアヌードの代替物」といった側面が強く、作り手もそっちの方が面白いし売れるからと追従し、良い意味でも悪い意味でもロリコン一つで自由で新鮮な誌面を形作れたので、ロリコンは当時のサブカルニューウェーブの受け皿として欠かせない存在となったのです。

ただ『COMIC LO』のように作家も編集も読者も自称・全員ロリコンという「ロリコンの、ロリコンによる、ロリコンのための漫画雑誌」と明確に言えるような雑誌は当時殆どなく、あくまで当時のロリコン漫画は「少女漫画風のソフトな絵柄でエロ漫画を描くと面白い」という意外性を逆手に取ったニューウェーブ的なパロディ意識が原点です。

この面白がり方に近い例を挙げるのなら70年代に『東京25時』というタウン誌が「サザエさんのSMパロディ漫画」を載せたことでしょう。これは国民的漫画のキャラが不謹慎なことをするという意外性を逆手に取った面白がり方で、両者の端緒はそんなに大差はないものだと思います。

さて次回はわずか8号で終刊した幻のロリコン漫画雑誌『アリスくらぶ』の誌面紹介も交えて当時のロリコン雑誌の世界観を知ってもらおうと考えてます。

今の漫画には愛すべきクズが少ない

今の漫画には愛すべきクズが少ない

文◎虫塚虫蔵(Twitter @pareorogas

はっきり言って、今の漫画やアニメには人格破綻者やトラブルメーカー(平たく言えば愛すべきクズ)の割合が少ないように思える。

ひと昔前の漫画には、いじわるばあさんとか、イヤミ(おそ松くん)とか、こまわり君(がきデカ)とか、スナミ先生(トイレット博士)とか、バカボンのパパ天才バカボン)とか、ヒゲゴジラハレンチ学園)とか、目ん玉つながり(天才バカボン)とか、諸星あたる&メガネ(うる星やつら)とか、きんどーさん(マカロニほうれん荘)とか、アラレちゃん(Dr.スランプ)とか、両さんこちら葛飾区亀有公園前派出所)とか、クレヨンしんちゃんとか、(セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!)マサルさんとか、ハマーさん(ピューと吹く!ジャガー)とか、にゃーことにゃっ太ねこぢるうどん)とか、稲中の前野と田中と井沢とか…。

パッと思いつくだけで、こんなに厄介で強力なトラブルメーカーがいた*1こういうトラブルメーカー(ほとんど愛すべきサイコパス)は無頼かつ無作法ながら、心根は優しく無垢で愛嬌があり、どこか憎めない存在、堅苦しく枠にとらわれた窮屈な世界に生きる僕らにとっては紛れもないヒーロー的存在だった。

もっとも、列挙したトラブルメーカーは、魅力的だけど、身の回りにいたら嫌かもしれない。でも読者目線から見たら笑えるし、愛されていた。そこに常識観や倫理観を求めるのもナンセンスだろう。かつてはクズキャラを受け容れる寛容さがあったわけだ。

また、こういう愛すべきクズキャラが画面一杯に暴れまくって周囲をかき乱し、振り回す様子は、漫画に必然と求められていた最もプリミティヴな表現だったし、作者のいう「キャラが動く」という比喩表現も、得てしてこういうハチャメチャなキャラを指していたのだと思う。

読者は、そういうメチャクチャで欲望に忠実なキャラクターに触れることで、現実では得ることの出来ない安心感やカタルシスを得ていたと思うし、本音と建前の窮屈な世界で生きていく以上、読者には必然的・潜在的に「本音の代弁者」が必要だったのだろう

読者は他人にとらわれないイノセンスなクズキャラを見て欲望に忠実に生きてきた子供時代の自分と対峙していたのかもしれないし、潜在的にどこかでそれを求めていたのかもしれない。

また近年、突然変異的に登場して大ヒットを記録したマンガやテレビ番組(『おそ松さん』『ポプテピピック』『斉木楠雄のΨ難』『水曜日のダウンタウン』など)にも「共通点」を見いだすとすれば、結構な「毒要素」「クズ要素」「悪ふざけ要素」が顕在している(かつ送り手と受け手で一体感がある)。

一方、最近のつまらない漫画や番組を見ると、毒にも薬にもならない淡泊なものばかりが目立つこれは送り手側がコンプライアンスを言い訳にしてるか、あるいは「毒」に対しての意識が乏しいからだろう)。

昔のマンガやテレビには、こういう「毒」がありふれてたし、送り手も受け手も「毒」の扱い方に長けていた、言い換えれば「耐性」があったのだ。

 

しかし最近の漫画は良い子ばかりで、クズやバカがいない気がする現実には、それこそ根本敬西原理恵子清野とおるのエッセイに出てくるような破天荒で魅力的なゲス、クズ、ダメ人間が大勢いるのに、最近の漫画には作品に出す価値があるのかないのかよく分からない「ハリボテ人形」のように薄っぺらい善良&人畜無害なキャラばかりで、どうにもつまらない。

一方、最近見た50年前の初期サザエさんAmazonプライムで配信中)は、磯野家揃ってキチガイ染みた言動をとるし、口より先に手が出るキャラばかりで、最近の保守的な漫画やアニメに心底うんざりしていた自分にとっては、もはや感動的ですらあった*2
























(Ⓒ長谷川町子美術館

とてもアクティブで、今のアニメにない「画面の躍動感」には胸がすいたし、自分が求めていたものは、こういう「人間的な猥雑さ」だったと気付かされた*3

しかし、最近のアニメはプリミティヴな漫画的表現よりも、キャラ同士の他愛もない漫才染みた「どーでもいい会話*4に重点が置かれるので、僕のような注意力散漫な人間だと数分見たらすぐ飽きてしまう(そんな会話は「現実的でもなければ漫画的でもない、実に退屈なもの」以上でも以下でもない)。

ちなみに漫画家志望のフォロワーさんは僕のこの指摘を受けて、こういうツイートをされた。これが本当なら漫画雑誌の審査員なんて何の役にも立たないロートルだと思う。

今回審査して下さった先生は、こういう意味のないどうでもいい会話を重視する先生だったな… 落選理由も、そういうのが入ってない だった。その前は、御託が多い…だったか。

心底趣味が合わないんだなって思った。もう、趣味の合わない先生が審査の時には二度と出さない。

 

まとめ

愛されるクズが主人公でなくなった、むしろ、できなくなった、というのはフィクションに対して過剰なまでに常識観を押し付け、不快な表現を悪として排除しようとする不寛容な人間が増えたからかもしれない。そういうわがままが常識として正義として善としてまかり通る世の中は控えめに言って狂ってる。

結局のところ、ぼくはダメ人間のドタバタ喜劇や人情ギャグが好きで、どこまでもキャラクターに人間臭さや人間本来に備わった醜さ、しょーもなさ、情けなさを求めてしまうのだ。また絶望的でシリアス向きの世界観を、ギャグ目線で面白おかしく描くような「逆転の発想」が今の漫画家には必要だと思うし、実際に吾妻ひでお卯月妙子山野一のように、悲惨な現実をギャグなどのユーモアによって真意を隠しながらも、読者の胸を心の底から打つような天才作家だって実際にいるのだ

自分は「漫画らしい漫画」が読みたい。漫画に求めてるのは、それだけ。そう、たったそれだけなんだ。

 

追伸

このエントリーを書いた後、タイムリーなことに、最近『男はつらいよ』の寅さんが「迷惑で強引な存在で、自分は好き放題しておいて他人はやたらと口をはさみ、逆に自分が指摘されると逆ギレするばかり」で「現代にそぐわないから大嫌いという意見が出て議論になりました。また、それに対して興味深い意見・反論が多々あったので、一部を下記に転載しておきます。結局、このエントリーの内容は漫画に限らず、現在のコンテンツ全体に言えることかもしれない。

 

寅さんは非日常の象徴。ロマンチズムの象徴。一般社会(安心な生活)の外に生きる。本来あらゆる愛(家族愛、友情、恋愛)は不合理の果てにある甘美だ。寅さんがヒーローとして在れた時代とは民衆が無意識にまだ合理性よりロマンチズムを信じていた時代だ

 

こち亀両津勘吉も初期は寅さん風味だったし、ああいう無頼で不器用で無作法な人が実はいい人で情に厚いみたいなのがある種のヒーローの典型みたいな時代があったよね

 

亡くなった父は寅さんシリーズが大好きでした。医者の息子に生まれ 自由な生活は出来ず 親の力が強い時代を生き抜いた父。亡くなる直前まで 全作VHSのビデオで寝たきりの父は寅さん見てました。自由奔放に生き、行きたい所に行ける 寅さんに自分の思いを重ねていたかもです

 

当時だって寅さんは『迷惑で強引な存在』で、柴又界隈でも鼻摘まみ者だったからさくらちゃんは散々、肩身の狭い思いをしてたわけで、『時代の精神』の話ではないと思う。あの厄介さの裏にある、人に対する優しさや善良さの魅力は今でも通じるし、むしろ家族や周りの人のあり方の方が変ったんだと思う

 

寅さんにしろ、植木等のスーダラ社員にしろ、迷惑な存在は昔から。社会の価値観が変わったわけではありません。自分にもそうした負の部分があるのを自覚した上で、負の部分を周囲が上手にあしらう筋が受けたのでしょう。今よりずっと互いをさらけ出した上での人間関係が主だった時代の作品です

 

寅さんの良い所は、度々自省していると思われるシーンがある所ですね。『俺は自由だ!いいだろう?』なシーンは見た記憶がないです。学もない、協調性もない、女にもモテない、人生いろいろ上手くいかない、寅さんは無神経な人ではなくて、弱い所が沢山ある人って事が人気があるのでは?

 

男はつらいよは、誰目線で見るのかで印象はだいぶ変わる。寅さん目線で見れば喜劇だし、さくら目線で見ると悲劇だ。寅に腹立つ人は、潜在的にひろしやタコ社長目線で物語を見ているんだと思う

 

私は逆に、今若い人は寅さんが大好き、と聞いた。どうもこんな世知辛い世の中で、あんなに自由に生きたい、との憧れがあるらしい。でもITの発展や社会の制度の変化で、そんな世の中が近づいているのかも?

 

自分の身近/身内にいたら、さぞ困った人物だったろうなあと思ったことあります。同居してなくて、少し離れた係累なら『でもほら、あの叔父さん、人は悪くないし』とか言ってるでしょうけれど。まあ、作品として見れば、『愛すべきキャラクター』という点に美しさや愛しさを見るということが心に響くわけで、逆にシャーデンフロイデ的な部分にコミカルさと皮肉を描き出している『家政婦は見た』の石崎秋子の方が職分通り越して好奇心だけで人の家庭を引っ掻き回しているのでたちが悪いなー、なんて思ったりします^ ^;

 

寅さんみたいな『外れた者』を温かく見守る大らかさみたいなものがあった。気心知れた身内には自分勝手だけど、悪意はないし、根っこに優しさがある情に厚い人だってことを好きな人は理解していたと思います。時代が変わったのでしょうね

 

寛容さが日本社会から失われている感覚があります。『あれはダメこれもダメ』『あいつは嫌いだから付き合わない』などとお互いに縮こまった結果、つまんない予定調和の世界になっていってしまうのかなあなどと考えてしまいます。他の方が指摘している通り、寅さんの一部分しか見てないのもしかり

 

飛び抜けて魅力的なところもあるけど、ずっと一緒にいると大変だし迷惑って人いると思うんですよ。本人だって、マトモな人間になりたいと思いながら、そうなれないダメな自分の狭間で苦しんでる。寅さんはそういう人間の可笑しさと哀しさを味わえる人向けですね

 

落語の登場人物なんてほぼほぼ寅さんみたいに周りに迷惑掛けっぱなしな人たちなんです。でも、そこから笑いや涙が生まれる。芝浜なんていい話ですよ

 

古典落語などの登場人物もそうなのですが、いろんな人がいてトラブルなどもあるのですが、それを許して笑いに変えたりして共存している様子はとても素敵なことに思えます。寅さんが大嫌いだ、という人は今も昔もいたかもしれませんが、そんな人もひっくるめて共存していける社会を目指したいものです

 

僕なんかは寅さんを見ていると『最近はこーいう人がいないなぁ、もっと大雑把でいいんでねぇの?』なんて思ったりします

 

悪気は無いが上手く生きれないそんな人を描きたかったのかな…

*1:もっとも、作品によっては登場人物全員がほぼトラブルメーカーというのもあるが…(例:赤塚不二夫レッツラゴン』、高橋留美子うる星やつら』、漫☆画太郎珍遊記』他多数、久米田康治さよなら絶望先生』など)

*2:「個人的に今回公開された初期『サザエさん』最大の魅力は、単純にアニメとしての魅力、つまり絵がバリバリ動いて、その上に話や演出が面白いところにあると思います。端的に言えば、活き活きしている。今の『サザエさん』は動きが少ないアニメです。基本的に家の周辺で何かしらの小さな事件が起きて、その事件は会話劇で完結する。これが今の基本形です。一方の初期は、全力投球のドタバタコメディ。キャラクターは走り回り、物は壊れ、リアクション過多、いわゆる“顔芸”も非常に豊かです。また、国民的アニメでなかったがゆえに、ドタバタ・時事ネタ(万博に行く。カツオたちがゲバ棒&ヘルメットで武装するなど)・しんみり系と、脚本の幅も今より広く、演出も凝っている。今なお続く“サクっと観ることができるから、ついつい次の話まで観てしまう”系の、ショートコメディとして普通に面白い」

*3:山上たつひこがシリアス路線からギャグ路線に転向したのも、こういう理由があったらしい。詳しくは『KAWADE夢ムック 山上たつひこ 漫画家生活50周年記念号』の3万字ロングインタビューを参照。

*4:別に小気味良い台詞回しがあるわけでもない