Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

Underground Magazine Archives

Jam/HEAVEN

百恵ちゃんゴミ箱あさり事件で有名になった自動販売機ポルノ雑誌『Jam』の編集長が明かすその秘密―わしらのフリークランド(宝島1979年12月号)

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スーパー変態マガジン Billy

1982年

山崎春美のスーパー変態インタビュー(第2回)「ウンチでビルが建った!? 群雄社代表取締役 明石賢生」

 山崎春美のスーパー変態インタビュー (第3回)「女房の流産を心底喜んだ!? 異端漫画家 蛭子能収」

 

月刊漫画ガロ

1992年

花輪和一インタビュー(ガロ1992年5月号)

ねこぢるインタビュー「ゲームの世界に生まれたかった」(ガロ1992年6月号)

1993年

丸尾末広インタビュー(ガロ1993年5月号)

山野一「食えませんから」(ガロ1993年6月号)

1994年

混沌大陸パンゲア刊行記念/山野一インタビュー(ガロ1994年2月号)

 

ねこぢる山野一

1992年

1993年

1994年

1995年

1996年

1998年

2000年

2005年

2006年

対談◎吉永嘉明×山野一「自殺されちゃった僕たち【Vol.3】正しく失望せよ!」

2008年

対談◎根本敬(特殊漫画家)×山野一(漫画家)「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

その他

隅田川乱一インタビュー(『Jam』ライター&コンセプター)

隅田川乱一インタビュー(『Jam』ライター&コンセプター)

所収『Quick Japan』Vol.14(構成:但馬オサム

ゴミから生まれた雑誌

ジャム』の前に『X-マガジン*1があるわけですけれど、『X-マガジン』の名前をつけたのは僕です。アメリカの雑誌に同じ名前のがあってカッコいいからそれをいただいたというわけですね。思考のエコロジー、ですか。

ここで「笑いガスの作り方」というのをやったんです。笑いガス自体は今でも合法なはずですよ。歯医者の麻酔でも使われているし、材料は全部薬局行けば買えます。ただし、爆弾と同じ材料だから薬局で過激派に間違われて面倒臭いし、ヘタに扱うと爆発したりするから、あんまりおすすめしないけど。実験の結果? う~ん、効いたような記憶はないなあ(笑)。

もともと『X-マガジン』というのは、高杉弾が、たまたま拾った自販機本に載っている写真に感動してエルシー企画に訪ねて行ったことから始まるわけですよ。

「おお、お前らもエロがわかるのか! じゃ一冊作ってみろ」、みたいな感じでまかされて、僕も高杉に誘われるんですけどね。

まあ、ああいう業界って編集やライターがエロの絡み*2をやったりすることが多いんですけど、それをやらされるんだったら、俺は田舎へ帰ってうどん屋やるよ、と最初に宣言しましたけどね。

僕は本はあまり読まないけど昔から雑誌は好きで、『宝島』*3も『ワンダーランド』*4のときから読んでるんですよ。で、『ローリングストーン』の日本版*5ってあったでしょ、ポール・ボウルズ*6を知ったのもあの雑誌で、すごく刺激を受けたんですけど……。あの雑誌が道端に山積みになっているのを発見したことがあるんですよ。三年間分ぐらいあったんじゃないかな。買って読んだことはほとんどないですね。だから『X-マガジン』に関して言えばね、要するにこれはゴミ箱から生まれた雑誌だという思いがあるんですよ(笑)。

『遊』*7も好きで、田中泯*8さんが都内のあちこちでゲリラ的に踊るというプロジェクトを工作舎*9が支援していると聞いて、工作舎に遊びに行くようになって。『ヘヴン』でインタビューもさせていただきました。日芸(=日大芸術学部)時代にも一度、田中さんに校内でパフォーマンスやってもらったりしたことがありました。

覆面レスラーのページ*10ですか? あれも高杉との共同作業ですね。違ったイメージの写真を左右に分けて読者に妄想してもらうわけです。このような観客参加の作品形態は現代美術の原点のひとつであるっていう話を高橋巌さん*11が書いてます。

あと、パティ・スミスのヌード写真*12をバラバラに切り貼りしてコラージュ*13にしたり。下宿部屋で台紙の上にペタペタ貼りつけていましたよ。

 

ルーツはアングラ誌

大学は六年いて結局中退です。担当の教授から「君はこのままいても卒業できないし、もう辞めたら」と言われたわけで。それで親戚のコネでイーストというテレビ製作会社に中途で入ってAD(アシスタント・ディレクター)やるんですけどね、このとき、テレビ業界の体質にはビックリしましたね。現場で先輩にイジメられるのは当たり前、関係している芸能プロダクションに行ったら、身体障害者の従業員が「おめえ、女とアレするときはどんなふうにするんだあ」と茨城訛りでいじめられているし、ドラマの主役の森繁が稽古中に口を開けて上を向くと、付き人が飛んで来て、胃薬と水を口に入れるんですよ。ここはアフリカの独裁国かと思いましたね。結局一ヵ月で辞めました。

ライターとして本格的に文章書いていこうなんて気構えみたいなのは別になかったんですよ。まあ書くといっても大学時代に高杉のやっていたミニコミに書くぐらいでね、そのミニコミ、『便所虫』ですけど、『BEE-BEE』と名前変えたあたりですね、僕が参加したのは。

アメリカのアンダーグラウンド・マガジンが好きだったんですよ。ヒッピーのニュースレター*14とか『ハイ・タイムス』*15とか『WET*16とか。

『WET』っていうのは面白い雑誌で、もともとユニット・バスを作っている会社の企業PR誌だったらしいんだけど、頭に穴の空いた少年の写真と一緒にブライアン・イーノのインタビューが載ってたりするし、まあとにかく変な雑誌でしたね。最後の方は、漢字や日本語を使ったレイアウトが目立ってきて、歌舞伎町のカブセル・ホテルやホモ専用ソープのレポートなんて日本ネタも多かったけど、それを書いていた日本の特派員が有名になる前のあの三浦和義*17だったのは笑えましたね。もしかしてあの人、『WET』の日本代理人みたいなことをやっていたかもしれませんよ。

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あと雑誌では美術関係が面白くて、日本では『美術手帖』。アメリカのカウンターカルチャーコンセプチュアル・アート、ウィーンのウンコや臓物を使ったパフォーマンス・アーティストの紹介など、ずいぶん刺激を受けました。ナム・ジュン・パイクオノ・ヨーコなどが参加した「フルクサス*18が出していた新聞も驚きでしたね。

そういったアンダーグラウンド・マガジン的なものや現代美術的なアイデアを『BEE-BEE』から『X-マガジン』『ジャム』『ヘヴン』という流れの中で表現したいという気持ちはありましたね。

隅田川乱一というペンネームは、むろん山上たつひこ氏の『喜劇新思想大系』のキャラクターからの無断借用です。顔と体型がそっくりだから別に文句ないだろうって。無茶苦茶な居直りですね。でも著作権を無視する態度は『ヘヴン』などをやっていたときに隠れたパワーになっていたと思いますよ。

 

プロレスとオカルト

それで『BEE-BEE』に書いたプロレスに関する記事が『本の雑誌』のミニコミ・コンテストで賞をとるんですけど、自分ではあんまり実感ないんですよ。おまけに、その賞のタイトルが「輝け!第一回全国ウスバカ的無価値的チリガミコーカン的ガリバン誌コピー誌熱血コンテスト」ですよ、お前は出版界の粗大ゴミだって言われてるみたいじゃないですか。揚げ句の果てには尊敬していた上杉清文さん*19に「廃人の文章だ」って言われるし、田舎帰ってうどん屋でもやろうかと思いましたよ。

椎名誠さんが格闘技好きなんで、変な角度から見た格闘技論っていうことが受けたんでしょうね。で、もう一人プロレス好きな編集者がいるっていうんで、三人でプロレスの本を出そうかという話もあったんですけどね、結局実現しませんでした。その編集者というのが村松友視さん*20だったんです。

例えば、学術的なアプローチってあるじゃないですか、そういうまともな論理じゃなくて妄想の論理こそがより深い現実を認識できるって感覚ですかね。これをつきつめて行くとオカルティズムになります。

高橋巌さんの『神秘学序説』の中でも、存在してない文献をもとに論文を展開するって話が載ってますよ。この考えを利用して『ジャム』にエイズハナモゲラ・ウイルスだというエッセイを書きました。エイズのことを日本で最初に紹介したのは俺だっていう自負はありますよ。

要するに、エイズの原因はウイルスであり、そのウイルスはハナモゲラ語*21のように表面の言語構造を変えているので、人間の免疫機能が働かないんだと、存在しない論文の紹介という形で書いたわけです。この指摘は当たってました。(隅田川氏が「エイズハナモゲラ論」を展開したのが一九八一年ごろ。竹熊健太郎氏の記憶によると、掲載誌は『ジャム』でなく自販機本の『コレクター』か『フォトジェニカ』ではないかとのこと。同じ『ヘヴン』スタッフだった山本土壺氏編集ということから考えて恐らく後者ではないかと思われる)。

当時、今エイズ裁判で問題になっている元・帝京大学副学長の安部英氏と話をする機会があったので、ウイルス=言語というバロウズ*22のことを話したことがあるんですが、ぜんぜん問題にされませんでしたね。この指摘の基本にあるのは妄想認識の発想で、優等生的にデータを分析するよりも、妄想した方が真実を突くのではないかという発想は『ヘヴン』の「存在しないレコード」紹介にも形を変えて利用させてもらってます。

格闘技の起源って祭祀、神事ですよね。ロックだってオカルティズムが絶対に結びついてるという確信があった。レゲエなんかは共同体の意志が滲み出ているでしょ。ある種、大衆文化と霊的なものがどこかで融合しているところに興味が湧くわけです。

その点で日本の音楽マスコミには疑問があります。例えば、プリンスっているでしょ、彼は名前無くしたじゃないですか。名前を消すってすごくイスラーム的な行為なんですよ。イスラームは偶像(象徴)を否定しますからね。

それから彼、自分のことを“スレイブ”って呼ぶでしょ。“イスラーム”ってのは“神の奴隷”、という意味なんですよ。まさしくスレイブなんです。本人が意識しているのか意識してないのかはわからないけど、このような観点からの発言があってもいいと思いますけどね。

ジャジューカ*23のようにコアな音楽はもっと紹介してもらいたいですね。バロウズに言わせると、ジャジューカの音楽は世界最古のロックンロールらしい。何しろ王室の音楽だから聴く人も限られている。去年、オーネット・コールマン*24がジャジューカのミュージシャンたちとイタリアでコンサートをやったらしいんだけど、そんな話、ぜんぜん日本に入ってこないですからね。ブライアン・ジョーンズ*25ビル・ラズウェル*26がそこへ入ったんだけど、その経緯を調べてみると結構面白いはずですよ。

ポール・ボウルズはブライアン・ガイシン*27と一緒にモロッコのタンジールで「千夜一夜茶屋(アラビアンナイト・キャフェ)」っていうジャジューカを聴くためのレストランを作ったわけなんですけどね。ポール・ボウルズがモロッコのラリパッパの兄ちゃんに喋らせて、それを小説として出版しているんだけど、そういう本をぜひ日本でも翻訳してもらいたいですね。

 

強烈なインド体験

八木(真一郎)さん*28との絡みで『冗談王』*29という雑誌にかかわるんですよ。これは一号で潰れるんだけど、全編パロディと冗談で行こうということで。広告まで全部パロディにしました。ちょうどそのころ『ビックリハウス*30なんかあってパロディというのが流行っていて、まあそういうのに田舎臭さとマイナー色を濃くしたような雑誌でしたね。

そこで僕と高杉で「若者のための戦争カタログ」ってのをやったんです。“戦争こそ娯楽だ、戦争に行きましょう” “君の戦争体験が明日の日本を変える”てな感じの。“一秒間に八発撃てるハッピー機関銃”とか嘘っぱちな商品を取り揃えた旅行企画の広告を作ったんです。今から振り返ると『サラエボ・ガイドブック』みたいなコンセプトでしてね。

この企画の発想はインド体験です。一八歳以上になったら皆インドへ送り込んで、帰ってきたヤツだけを日本国民にする。途中で追いはぎに遭ったり、だまされて帰ってくることができなかったヤツは帰ってこなくていいよ──このような法律を作れば、日本は本当にいい国になるのではないか。

八木さんとはインドで知り合ったんです。といっても僕も彼も同じ日芸に籍を置いてたんですけど。大学入ってすぐだから、七〇年か七一年ですか。もちろん向こうの方が年上ですよ。『サンデー毎日』の編集長で岡本博さんという人がいたんですよ。その人が日芸の講師やってたんです。で、岡本先生が何度かインドへ行っていて、今度行くときは学生も連れて行こうということになって。僕も八木さんもそれに参加していたわけです。

印パ戦争の影響でね、カルカッタに着いたらそこらじゅうに戦車はいるわ難民がごろごろ転がっていて死んでいるのか生きてるのかもわからないわの状況で、ビックリしましたよ。煙草屋みたいなところでガンジャは売ってるわけだし、なんて国かと思いましたね。それで見ていると向こうの坊さんとか皆ガンジャ吸ってるわけですよ。僕はインドにずっと住んでいる日本人の坊さんと仲良くなったんですけど、インドじゃ当たり前だって言うわけですよ。日本だと宗教とドラッグに関する視点ってまったくないじゃないですか。何だ日本の学問や文化って大したことないじゃん、という気がしました。

僕にしても八木さんにしてもインドというのは、ものすごく強烈な体験としてあるんじゃないですか。

インドから帰ってから、八木さんも仕事しなくちゃいけないんで、ちょこちょこやるんだけど長続きしなくてね。『冗談王』が一号で潰れたあと、僕らが『X-マガジン』をやるようになって、今度はこっちから一緒にやりませんかって声かけたわけです。

 

山口百恵のゴミをあさる

『X-マガジン』は一号で終わって『ジャム』になるわけですよ。「山口百恵のゴミあさり」(『ジャム』創刊号掲載)がヒットして世間から注目されるというか、問題になるんですけど。あれは企画が僕で実行犯が高杉です。僕はいつもそうなんですけど、実務的なことや営業的なことはぜんぜん駄目なんですよ。銀行の社長なら勤まるかもしれないけど(笑)。だから普通言われているような編集者というのとも違いましたね。

高杉は、少なくとも僕に関しては、アイデアを引き出すのが上手いんですよ。アイデアを盗むのも上手いけど(笑)。だから僕の企画もいろいろあったけど、全て僕が考えたというわけじゃなくて共同作業ですね。やっぱり。

まあ、これもゴミから始まった雑誌だから、という当然の発想なんですよ。

ゴミあさり自体は社会学的なアプローチとして確立しているんですよ、アメリカあたりでは。ゴミから社会を見るという。暮らしぶりとかね、大衆文化とか。インドの乞食なんて前からそんな商売しているんじゃないですかね。ゴミを通して知った秘密を誰かに売るという商売を。

結局、百恵側から訴えられるってことはなかったです。まあ、売れてる雑誌じゃなかったし、変にことを荒立てて、他の雑誌に関連記事が載った方がイメージ的に損だと判断したんでしょう。ヤクザが脅しに来るってこともなかったですね。結構、頭いいと思いますよ。百恵のプロダクションの社長は。

 

 

明石さんの思い出

「百恵のゴミあさり」は自販機業界で一躍話題になり、そんなこともあって明石さん*31は僕らに好きなことをさせてくれたのかなあとも思いますよ。業界の事情はよくわからないけど。

明石さんに関して言えば、この人の偉大なところは、何にも口出ししなかったということにつきますね。普通、何か言いたくなりますよ。自分が金出しているんだから。よく“太っ腹明石”と言われるけど、僕が明石さんに感心したのは、あの何も干渉しない態度ですね。普通の人間にはできないですよ。あの人、出版やる前は下落合の赤塚不二夫さんの仕事場の近くに「クレジオ」って飲み屋をやっててね、友達がそこの常連だったので、僕も顔見知りだったんですよ。それで、高杉がエルシーで仕事をもらうようなので行ってみたら、社長があの「クレジオ」のマスターでしょう。『ヘヴン』の人と人の関係って、本当にオカルト的なものがありますよ。

でも僕と明石さんということでいえば、まあ他の人はどうか知らないけど、特別に恩義を感じているわけでもないんですよ。もの凄くお金をもらってるわけでもないしね、という感じですよ。明石さんとか佐山さん*32なんかと飲みに行ったなんてこともないし。だいたい当時、僕はお酒ぜんぜん飲まなかったんです。今では完全なアル中ですけどね。だから酒飲んでウダウダやってるヤツはみんな馬鹿だって思ってたし、明石さんと仲良くなって自分を認めてもらおうみたいな意識はなかったですね。だから、集英社講談社あたりが金出すから同じような雑誌作れって言ってきたら、平気でそっちへ行ってたと思うんですよ。まあ、ありえない話だろうけど(笑)。

別に自販機本だから何かやれそうだぞって意識もなかったですよ。ただ、『ジャム』や『ヘヴン』みたいなヘンな雑誌が世に出る土壤を作ったという意味で、やはり明石さんは大きな貢献をした人だと思いますね。

 

山崎春美との出会い

大学のロッカー室を勝手に仕切って『便所虫』の部屋を作ったって話はもう誰かに聞いてるでしょ。その隣に武邑光裕さん*33のサークルもあったんですよ。「神秘学研究会」。とにかく僕にはチンプンカンプンの難しい話をしていましたよ。本当に武邑さんて人は、よくわからないですね。

ある日『便所虫』の部屋へ行く途中、すごく心地よい音楽が聞こえてきてね。誘われるようにして、その音楽をたどって行ったら、春美が「神秘学研究会」の部屋にいて、“ガセネタ”*34の音楽をかけていたんですよ。それで春美とも知り合って。あれは“ガセネタ”の初期の録音だと思うけど、音がハジケていて、とても開放感を感じましたね。僕が一番好きなパンクロック・バンドです。

春美も最近は落ち着いてきましたね。あなたたちは昔の噂でしか彼を知らないから、どんなひどいヤツかと思ったかもしれないけど(笑)。基本的にはとても“いい人”ですよ。特に小さいころは、笑顔も奇麗で、友達思いのいい子だったと思いますよ。ただ、とっても過剰だから、バランスが崩れると、思考も感情も暴走することはあるでしょうね。まあ、その場合に居合わせたヤツが不幸だってことですか。

ひとつ言えるのは、人間関係が親密になればなるほど、たいてい彼とは決裂するような気がしますね。そういう意味では僕は親密じゃないんでしょう、きっと。酔っぱらって電話をかけたりして、迷惑をかけるのはやめようと思います。

 

武田崇元インタビュー

僕は先も言ったようにいわゆる“編集者”じゃないし、“フェイク”野郎ですから、雑誌に関してもプロの編集がやらないことをやりたかったんですよ。これも素人の強みを活かす、思考のエコロジーなんですけど、雑誌形態を毎号変えようと思ってたのね。雑誌なんてのはやってるうちに惰性になってくるんだから。同じヤツがまた次の号も書いてたり、マンガがあったら次もマンガが来るような、そういうのは、やりたくなかったんですよ。

例えば、『ヘヴン』第一号があるとすれば、二号は写真集とか色見本みたいな本で、三号は商品カタログになるとかね、毎号スタイルの全く違う雑誌になったっていいじゃないか。むしろその方が読者のライフスタイルには合っていると、今でも思いますね。いわゆる総合雑誌とか、専門雑誌っていう区分の発想は時代遅れだと思いますよ。

ビジュアル面に関しては、僕はほとんど関わってません。もし『ヘヴン』とかに、何か評価される点があるとしたら、羽良多さん*35の功績だと思います。『ジャム』に比べて『ヘヴン』での僕の比重はだんだん少なくなっていったんじゃないでしょうか。まあ、スタッフも増えましたしね。

武田崇元*36インタビュー」(『ヘヴン』第十一号掲載・八〇年)は面白かったですよ。疲れたけど。崇元さんとは以前から知り合いで、僕はあの人のキャラクターがすごく好きですね。彼の口利きで『ムー』の仕事とかやらせてもらったりしたこともあります。この武田崇元インタビューが、オウム事件のとき、ほうぼうで引用されていたという話だけど、本当ですか? 僕はまったく知りませんでした。どうして、日本のジャーナリズムは武田さんのところへ話を聞きに行かないんだって、まったく単純な疑問というか、いきどおりはありましたけど。

“麻原の理論的指導者”ですか? 武田さんが。まあ、そういうふうに曲解されて彼が批判される材料になっているとしたら、申し訳ないことしたと思いますね。だけど、武田さんはあんな麻原ごときの黒幕になるようなタマじゃないですよ。麻原が都合いいように勝手に引用したんじゃないですかね。

まあ、僕なんか調子のいい男ですから、ホイホイ企画を考えてインタビューをしに行くこともありましたけど、究極的にはインタビューってのは信用できないと思いますね。結局、雑誌のインタビュー記事っていうのは、基本的にテレビ・インタビューの退化した形式ですよ。

インタビューといえば、その『ヘヴン』の幻の最終号*37で、細野晴臣さん*38に話を聞きました。神秘学とネガティブな妄想世界の話ばかり聞いて、嫌がられたのを覚えてますよ。

 

お坊ちゃん感覚

『ヘヴン』をやっててね、特別に楽しかったって記憶はないんですよ。苦痛でもないけど。少しお金になるから、仕事がないから関わっているというのが本当のところで。でもまあ、そういう意味からいえば、どっちかというと楽しかった部類に入るのかなあ。

ただ、今考えれば、ちょっと中途半端かなって気がしますね。編集やるなら編集やるで個人個人がしっかりしたポジションにいれば責任も出てくるはずだけど。『ヘヴン』に関して言えば、責任の主体がはっきりしてないんですよ。逆に言えば、「あの雑誌は面白かった」とか「凄かった」とか、褒められたりしても誰が褒められてるんだってことになるんですよ。共同作業と個人プレーの区別がはっきりしないんですね。

僕も含めてですけど、『ヘヴン』の連中ってわりとそれなりの家庭でノホホンと育ったヤツらが多いでしょ。高杉んとこもけっこう名の通った会社の社長だし、春美のとこもバロウズ・コンピューターの仕事をしている。近藤とこの親父なんか大蔵省で金を刷るのが仕事なんだから家に行けばいくらでも金をもって帰れるし(笑)。だから、“フールズ”や“じゃがたら”のマネージャーやってた溝口さんあたりに「お前はお坊ちゃんだから」って言われちゃうわけですよ。溝口さんなんかだと、犯罪やってでも金作ってCDを出すぜ、みたいな印象があるでしょう(笑)。そういう根性はないですよ、私には。

まあ、そこいらへんのお坊ちゃん感覚が『ジャム』『ヘヴン』のいいところでもあったし、限界だったのかなあ、という気もしますね。

大人になれないというか。業界でトップを狙うとか文化をリードしようとか、そういう根性がないんですよ。上の方にもうちょっとセンスと経営手腕と営業能力があるヤツがいれば、また違ったんだろうけど、そういうことを期待できる会社でもなかったし、こちらもそんなことは期待してなかったですね。

だから、あなたがたがさ、僕らのやってきたことに影響受けたなんて言ってくれても、僕自身は実感はないし、何だか霊感商法の裁判に呼び出されて意見を述べさせられているような気分ですねえ。

 

山崎春美/WHO'S WHO 人命事典 第3回

美沢真之助〔みさわ・しんのすけ

隅田川乱一/X-BOY、1951~1998/享年46)

とかくミンナに隠れて密かにスーフィーを研究している謎の人物。なんのためかといえば、これが桃の木、あぶく錢だと。ナァル、そんなに宝籤買うわけね、さすが。

勇鼓奮い、誓って信条を言うなら、ただ唯一無二の人である。直感力ってそんな力のあるやらなしやら、天才。『Jam』『HEAVEN』はもちろんだが、そして“TACO”初期からの背骨(バックボーン)であり、(蛸に背骨かよ!との声あり)すべての鍵を「握っていた」のではなく、まさしく鍵穴そのものを「射抜いて」しまっていた。なにしろX-BOYなのだ。だかりこそ美沢さんを言葉で説明できない、できにくい。遣り辛い。さらに見逃せないのは、外からはそれが滅多に見えない(わからない)ことであろう。

竹熊健太郎くんたちには悪いけど、ほぼ二十年前に『QJ』誌で行われたインタビューで竹熊くんらはまったく美沢さんの「本筋」が見えておらず、群盲象を、の譬えよろしく、ただ上っ面を撫でるに終わってしまったのである。それにしても、このエピソード一つ取ってもまさにOCCULT=カルト(隠された知)そのものではないか。そして思わず悪口めいた言辞を弄したが、(せっかく来場して頂いたというのに!)とはいえあくまでも為にする苦言なのだから黙って聞きたまへ。竹熊クンらがもしあのとき真摯に真剣に思い切り心底からの言葉で心情を発し吐露していたらきっと(...などと書くと、相田みつをかなんかに間違われそうだが、そも、ぼくにこんなコト書かせてまうジブンらが情けないんやで。反省または反論求む)人生や世界や(キミらの関心高い)オウム(真理教)やエヴァンゲリオンや、なんでもいいけどホンマに入れ込んだ対象やから見えてくる地平での本質論以外の話なんかなんぼしたって、近所に住む年輩者と天気の話してるんより始末が悪い。あんなにも内容のない、あそこまでつまらない取材にはならなかったろうに。覆水、盆に返らず。

いやいや御察しくだされ。而して、これらすべては自戒なのだヨ。それにしても若死にだけど、現代はとうてい美沢さんが生きるには値しないからではないのか。

*1:『X-マガジン』

『ジャム』の前身。一号で廃刊。特集は「ドラッグ」

*2:エロの絡み

エロ・グラビアの男役。AV男優なる本職が登場する以前はもっぱら若手編集者の仕事だった。

*3:『宝島』

70年代においてはポップ・カルチャーをいち早く紹介してくれるサブカル情報誌として、多くの若者の支持を受けていた。

*4:『ワンダーランド』

『宝島』の前身。奇代の枠人にして博学の徒・植草甚一が責任編集。

*5:ローリングストーン』日本版

あまりにも有名な米ロック評論誌の日本版。73年から76年まで刊行される。発行人・レックス窪田が麻薬で捕まり休刊となった。

*6:ポール・ボウルズ

米の作家。いわゆる「ロスト・ジェネレーション」のひとり。最初は作曲家として出発、世界各地を放浪の末、モロッコに居を定め、小説に手を染める傍らバロウズギンズバーグと親交を深める。代表作は『シェルタリング・スカイ

*7:『遊』

松岡正剛・編集の通称“オブジェマガジン”。現代思想、アート、ニュースサイエンスなどを独自の高踏趣味と電波でかきまぜた“狂った”センスは一部の自販機エロ本に強い影響を与えた。

*8:田中泯

日本を代表する前衛舞踏家のひとり。農作業をメソッドとする舞踏道場、「身体気象農場」を山梨県に設立。アート・キャンプ白州主催。

*9:工作舎

松岡正剛主催の出版社。山崎春美も一時期ここの編集員だった。

*10:『X-マガジン』掲載。

*11:高橋巌

日本を代表する人智学研究家。ルドルフ・シュタイナーとその思想を日本に紹介。

*12:『X-マガジン』掲載。あれはメープルソープが撮った写真か?

*13:仕上がりは、さながらバラバラ殺人現場の写真のようだった。

*14:ニュースレター

60年代のアメリカでさかんに発行されていたアンダーグラウンド新聞の総称。

*15:アメリカのドラッグ専門誌

*16:『WET』

カリフォルニアのヴェニス・ビーチから生まれた、お風呂好きのための雑誌。水に関係のある記事は何でも載せており、水を中心にした世界観で作られていた。

*17:三浦和義

ご存じ“ロス疑惑”のカズ。ちなみに彼は、自販機エロ本出版社である『土曜漫画』の編集に携わっていたこともあるらしい。

*18:フルクサス

リトアニア人芸術家G・マチューナスを中心に、60年代にNYで起こった芸術運動。ジャンル上の垣根を取り払ったグローバルな表現活動が特徴で、社会のアート化、生活のアート化を標榜。ジョン&ヨーコの平和のためのベッド・インはフルクサス精神にあふれている。

*19:上杉清文

劇作家・日蓮宗僧侶。著作に『ど~もすいません』『天覧思想大相撲』などがある。

*20:村松友視

作家。文芸誌『海』編集者時代に発表した『私、プロレスの味方です』は、すぐれた観客論であると同時にプロレス・ファンに理論武装することを啓蒙した画期的な書であった。小説『時代屋の女房』で直木賞受賞。

*21:ハナモゲラ語

タモリ創作によるデタラメ言語。ハレハンモ、イッヒトットハナモゲラ……てな具合に使う。

*22:言語=ウイルスのバロウズ

ウイルスが他の生命の遺伝子に入り込み増殖するように、「言語」が人間に寄生し操っているという考え方。ウィリアム・S・バロウズが小説の中で展開。例えば、マスコミによる思想の刷り込み、洗脳などもこれに当たる。言語を解体する「カットアップ」はこの言語ウイルスから身を守る悪魔払いの行為である、とバロウズは語っている。

*23:ジャジューカ

ロッコのリフ山地に住む山岳民族に伝わる音楽。ジャジューカはその村落の名前。植民地支配以前は宮廷の儀式などで演奏されることも多かった。その排他性と血族主義のためか、西洋文化圏に紹介される機会はほとんどなかった。

*24:オーネット・コールマン

フリージャズを代表するミュージシャン。ジャジューカのミュージシャンとの共演は『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』でも聴くことができる

*25:ブライアン・ジョーンズ

ローリングストーンズを事実上脱退後、単身モロッコに飛び、ジャジューカの演奏を録音。それを電子的にリミックスして誕生したのが名盤『ジャジュカ』である。LP盤は今やレア。

*26:ビル・ラズウェル

NYのミュージシャン兼プロデーサー。テクノ、ピップ・ホップからワールド・ミュージックまで幅広いスタンスで活躍。

*27:ブライアン・ガイシン

英の現代美術家バロウズカットアップ(文章のコラージュ)の手法を教えたことでも有名。

*28:八木真一郎

別名・ハマリの八木。『ヘヴン』を経て群雄社編集員に。

*29:『冗談王』

日本文華社(現・ぶんか社)が78年に創刊したパロデイ雑誌。わずか一号で廃刊した。

*30:ビックリハウス

渋谷公園通りを拠点としたタウン誌として出発、その後パロディ満載のサブカルチャー誌として急成長する。初代編集長は元・“天井桟敷”演出家の萩原朔美。ニ代目編集長は高橋章子

*31:明石賢生

エルシー企画ならびに群雄社社長。出版界に数々の伝説を残し、96年物故。

*32:佐山哲郎

群雄社編集局長。麻耶十郎の名で作家としても活躍。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者。

*33:武邑光裕

京都造形芸術大学助教授。神秘学に造詣が深い。『ヘヴン』では「Gurdjieff'sInputSystem」(翻訳)を連載。

*34:ガセネタ

山崎春美大里俊晴・浜野純・佐藤隆史によるパンクあるいは《驚異のハードロック》バンド。77年結成、79年解散。

*35:羽良多平吉

グラフィックデザイナー。『ヘヴン』の表紙デザインほかを担当した。

*36:武田崇元

高踏オカルト雑誌『地球ロマン』『迷宮』を世に送り出した日本オカルト界のご意見番的存在。八幡書店社長。

*37:『ヘヴン』幻の最終号

社長逮捕により編集作業半ばで流産した『ヘヴン』第10号。ちなみにこの号の予定されていたのは「肥満」と「ナチス」のカップリング特集だった。

*38:細野晴臣

細野氏が一時期、オカルト(特に神道系)にハマっていたのは有名な話。

近藤十四郎インタビュー(『HEAVEN』二代目編集長)

近藤十四郎インタビュー(『HEAVEN』二代目編集長)

所収『Quick Japan』Vol.13(構成:但馬オサム

(群雄社出版『HEAVEN』1981年2月・第8号。高杉弾に次いで近藤十四郎が二代目編集長に。鈴木清順鈴木翁二など、近藤の好みが見える)

『HEAVEN』二代目編集長

僕が『ヘヴン』に関わるきっかけは、やはり高杉弾さんなんだよ。「今度、自動販売機本の出版社で、一冊雑誌をまかされたんだけど、ちょっと面白いことができそうなんだ」なんていう話があってね。その雑誌というのが『X-マガジン』で、それが一号で廃刊して『ジャム』になるんだ。ただ、僕はまだ編集スタッフで参加してはいないの。『ジャム』のころは。原稿を一本書いたくらいで。「ゴミ漁りやりたいんだけど、誰か芸能人の住所知らない?」とか、何かあると相談されたりはしたけどね(笑)。

高杉さんとは同い年なのかな。日大芸術学部で、僕は七五年に二浪で入って、上に彼がいたからね。で、当時、日芸の文芸棟という建物の中にサークル室みたいな部屋があってね、もともとは、人形劇サークルとかポエムとか……何ていうの、夢見がちな人たちの集まる穏やか~な場所でさ(笑)。そこの一画を高杉さんたちが勝手にロッカーで小さな部屋みたいに仕切っちゃって、『便所虫』*1というミニコミを作っていたんだ。

僕も休講になったり時間が空いたりすると『便所虫』の部屋に入り浸ってたね。別に何するわけでもないんだけど、ゴロゴロしているから何となくメンバーみたいな感じになっていた。そうそう、同じく『便所虫』に出入りしていたコでジュンコっていう『JUNE』とかが好きな耽美少女がいてね。それが僕も出入りしているロック喫茶の常連だったりして。おかげで「オム」という僕の新宿での“通り名”が仲間うちに浸透しちゃった。あのね、浪人時代にさ、ちょうどフーテンなんかが流行っていて、連中が「イエス」とか「アパッチ」とか呼び合うのと同じようなノリで、アダ名がついちゃったわけだけど、名字が近藤だから「オム」って、あまりにもベタなダジャレだよね(笑)。

まあ、それはいいとして、『便所虫』では既に美沢真之助さん*2が、もう魅きつけるような文章を書いていてね。この人の文章は正直、凄いと思ったよ。だから高杉さんにしてみれば、美沢さんに発表の場を与えるという一面もあったんじゃないかな。『ジャム』に関してもそんな感じがしたね。まあ僕は後輩だから、あえて指摘する立場でもなかったけど。

『ジャム』のコンセプチュアルな部分は、美沢さんじゃないかな。それはね、高杉さんにコンセプトがないという意味ではなくて。器を作るのが好き、というのかな。もっと純粋に、エディター志向で、何しろ『メディアになりたい』*3って人だから(笑)。

美沢さんは当時大学六年生でね、その一年上の美術学科に八木さん*4がいたけど、ほとんど学校来てなくてね。その後『地球ロマン』*5あたりに出入りするんだよね。これは『ヘヴン』のころの話だけど、八木さん、『地球ロマン』の通帳とハンコを持ったまま失踪してね、武田崇元*6を慌てさせたことがあるの。俺たち、武田さんからの電話で知ったんだけどね。あの武田崇元を泣かせたんだから大したタマだよ。もっともあの人の失踪癖は、慣れっこだけど(笑)。

で、山崎春美*7は僕が卒業したあたりに日芸に入ってくるんですよ。まあ、のちの『ヘヴン』の主要メンバーがここで出揃うわけだ。

 

怪人・荒戸源次郎

でも先にも言った通り、『ジャム』に関しては、「先輩たちが面白そうなことやってるな」ぐらいの感じで傍観者だったんだよ、僕は。

むしろ自分としてはバンドとかの方が忙しかったし。浪人中にいっしょに芝居やろうとしてた永田麻琴*8とバンドやってたんだ。で、永田が天象儀館*9の美術をやってた関係で出入りするようになって、荒戸源次郎さん*10と知り合うんだ。これがのちに『陽炎座』のパンフレットとかに結びつくわけだけど。

“天象儀”というのは“プラネタリウム”の意味らしいんだ。で、荒戸さんはエアー・ドームで芝居やることを考えた。空気で中から膨らむ形のね。だから柱も梁もないんだ。入り口を回転扉にして空気がもれないようにしたりね。テント屋に発注したら、「そんなもの建つはずがない」って言われたんだって。荒戸さんは「いや俺の計算だと絶対建つ」と。あの人、確か東工大の工学部の出身だからね。まあ東京ドームも原理は一緒でしょ。だから東京ドームって荒戸さんの発明と言ってもいいよ。

でね、客入れのとき、中では「カノン」がかかっていて、ミラー・ボールが回っていて、それが半球型のドームに映ると、まさにプラネタリウムだよ。芝居になるとね、メイン・ステージを金魚鉢がダーッと囲んでいて、その一個一個に電球が仕掛けてあって三〇〇匹の金魚が泳いでる。それはそれはバカバカしくも素晴らしい舞台なんだ。まあ、それやるためだけに天象儀館は金魚を何百匹も飼っていてね、その水槽を作る手伝いに行ったりしたね(笑)。

荒戸さんというのも怪人物でね、凄い豪邸に住んでいるんだけど、浮き沈みの激しい人だから家賃払わなかったりするんだ。不動産屋が取り立てのヤクザを頼むでしょ。「どっちが強いか、やろうじゃねえか」って態度なの(笑)。

のちに『ヘヴン』で僕が「荒戸源次郎インタビュー」をやるんだけど、荒戸さんは凄く喜んでくれたんだ。「今まで受けたインタビューの中で一番、自分の肉声を感じる」ってね。

 

不思議の国のエルシー

大学を七八年に卒業して、小さな本屋に勤めるんだけどすぐに辞めて。その年の暮だったかは、新宿でふらふらしていたら、ばったり美沢さんに遭ったんだ。「今度、高杉が『ジャム』やめて新しい雑誌作るんだ」って──ホラ、自販機本って売り上げが下がるとタイトルを変えてまた出すって世界だから──「一緒にやるやつを探しているんだけど、オムどう?」って言うんだ。何でも、その日はエルシー企画の忘年会とかで、俺も誘われるままくっついて行ったんだ。そこで、何か凄くテキトーに「じゃ来年早々から頼む」みたいな話になって。

当時、エルシーは池袋の花輪屋のあるビルの三階にあってね、正月明けに行ってみたら高杉さん留守で、何か凄いチンケなソファに待たされて。でね、俺の目の前に偉そうな背中が見えるんだね、まあ机の位置からして偉いんだろうけど。その背中がふっと振り向いて、俺と目が合って、「ビール飲む?」(笑)。それが佐山哲郎さん*11でね。まがりなりにも会社なわけじゃない? 真っ昼間から「ビール!」(笑)。あと源ちゃん(宇佐美源一郎)がいて、俺の目の前で、佐山さんとチンチロリンなんかおっ始めるんだ(笑)。とんだところに来たなと思ったよ。

既にエルシーの末期だったよね。その年の春くらいにはアリス出版と合併したから。

“合併”というのはね、要するに「東雑」*12という自販機の総元締めがあって、そこが実権を握っていたんですよ。アリスもエルシーも東雑傘下の出版社だから。それで、制作側の発言力を強くしようという目論見だったわけ。それで、アリスの小向一實さんが社長で、明石賢生さん*13は副社長になって。まあ、アリスの方が通りがよかったからね。エルシー(L・C)って何の略かなと言うと、僕は勝手にルイス・キャロルのことかな、ってロマンチックに思ってたんだけど、深い意味はないようだね(笑)。

それから、これは僕の推測だけど、明石さんは将来的に自販機じゃない、取次系の出版を目論んでいたんじゃないかなあ。『ヘヴン』みたいなね、エロ本だかサブカル誌だかわけの分からないものを出させてたのも、要するに取次出版をするための布石だったような気がする。まあ、当然の成り行きというか、三、四号で東雑を外されちゃうんですよ、『ヘヴン』。自販機じゃ売れないから。

で、東雑を離れて書店に直販で卸していたんだけど、明石さんは一応アリス出版の副社長だから表立ってできない。そこで、明石さんがポケットマネーで高田馬場に部屋を借りてくれて、そこを編集部にして『ヘヴン』を続けさせてくれたんだ。“HEAVENエクスプレス”という名義で。でも当然耳に入らあね。東雑のボスから「明石、お前内部で反乱でも企ててんじゃねえのか」と詰めよられたらしい。で、明石は売り言葉に買い言葉で「わかりました。辞めます」ってことになっちゃった。その時、「合併アリス」の旧エルシーとアリス内の明石派がこぞってアリス出版を出て、それで群雄社が旗揚げになるんだけど。詰め寄られたことで反乱が本当になっちゃったんだ。

 

幻の一千万広告

で、高田馬場のマンション二フロアを借りて群雄社がスタートするんだ。途中から僕らもそっちへ移って。四畳半ぐらいの部屋が『ヘヴン』に割り当てられてね。商売にならない雑誌だったけど、結構優遇してもらってはいたよ。ただ、そのころはもうビニール本*14が主力商品だったからね、純粋にエロ本だけ作っていた人たちの中には、「俺たちが汗水たらしてスケベな本で稼いでるのに、ヤツらは……」みたいな思いがあっただろうね。でも山本土壺*15のようにビニ本班の人にも可愛がられるヤツもいたし、源ちゃんのようにビニ本班なんだけど、俺たちのやってること面白がってくれたりする人もいたから一概に仲が悪かったというわけじゃないけど。

営業の森藤吉さん*16、この人は明石さんの従弟だけれど、あからさまに意地悪するわけですよ(笑)。『ヘヴン』の配送に車貸してくれないの。「昨日からお願いしていたじゃないですか」って言ってもね、「急にビニ本の注文来たらどないするんや!」って。例の関西弁で。まあ、あの人は商売人というか山師だからね。それ以前は「私設電話帳」なんていう怪しげな商売をしていたらしい。ホラ、NTTの電話帳って分厚いだけで、あまり実用的じゃないじゃない。せいぜい番号が必要なのって市内でしょ。「そういう手頃な電話帳あったら便利でっせ」なんて言葉巧みに持ちかけて商店から広告費を取ってね。そりゃあ作るのは簡単だよ、元の電話帳写すだけだもん(笑)。

コブラの卵」*17? 「ヒスイの骨壺」*18? それは知らないな(笑)。会社とは別に、森が副業でやってたんだろ。まあ、そういう“押し”の強さを買って、明石がビニ本の営業に入れたわけだ。

不思議なことに、書店では結構評判はよかったんだ、『ヘヴン』は。紀伊國屋とかブックスラフォーレとか毎号、一〇〇冊置いてくれたんだ。こういうリアルな手応えは、手売りしているから知っているんだ。逆に、高杉さんは知らないんじゃないかな。内容は高杉さんと春美がメインで、俺は編集雑務と営業と、デッチみたいなものだから(笑)。

で、森さんに「広告取ってこい」と言われてね。でもあまり上手くいかなかったな。ゲイ雑誌の『MLWM』とは交換広告していた。これがなかなか面白い雑誌でね。男色異端文化誌。ここの編集にいたのがイッサク*19で。イッサクの他は編集部、全員オカマ。それもみごとなくらい汚いオカマ(笑)。ノンケは肩身が狭いって言ってたけどね(笑)。

『ヘヴン』の広告料金表っていうのも作ったんだ。表一が一番高くて一千万! 表紙が全面広告なんて雑誌ないじゃない? “HEAVEN”っていうロゴの下にばぁーっと“夜の殿堂・ハリウッド!”ってな感じで女の子がズラ~ッと並んでる図は面白いなあと思ったんだけど。

あとこれは自分でも凄いアイディアだと思うんだけどさ、“てんくに”って天ぷら屋があるの。“天国”と書いて“てんくに”。これの広告を表四に載せると、表が“HEAVEN”で裏が“天国”(笑)。断られたけどね。

それから“帝都典礼”という日本一大きい葬儀屋がありまして。ここには実際足を運んでね、「一〇年、二〇後の御社のことを考えた場合、若者にイメージを植えつけておくのは大切です」ってデマカセ言ってさ。「デザインもこちらでやらせていただきます」って。羽良多平吉デザインのもう、蓮の花が開いて、青空に霊柩車がビュンと飛んでるような、「天国って気持ちイイ!」ってノリの広告にしようと思ったんだけどね、相手にしてもらえなかったなあ(笑)。

 

社長の逮捕

そうしているうちに、高杉氏が『ヘヴン』を出て僕が編集長になったりするんだけど。

で、ある日、「明日、重要な会議がある」って言われてね。今思えば、明石さんは自分が逮捕されるのが判っていたんだな。そのための会議だったみたい。『ヘヴン』からは俺一人が出席することになっていたんだけど徹夜明けでね、「少し遅れます」って電話入れたら「会議は中止だ。明石が捕まった」って。

会社行ったら、午前中にガサ入れがあって、フジテレビのカメラも来てたっていう。もう明らかなスケープ・ゴート。「最近ビニ本は目にあまる」ってことで見せしめにされたんだね。でもね、面白いのは、ガサ入れでも『ヘヴン』の部屋は警察も素通りなんだよ。「ケッ、どうせチンポも立たん本や」って感じで(笑)。

これ、『噂の真相』にも書かれたことなんだけど、明石って人は学生時代の闘争の時に捕まって、二三日間完全黙否*20を貫いたんだ。まあ、それくらいの豪傑は他にもいただろうけど、明石はその時、獄中で淋病を発病している(笑)。で、淋病の発病時って飛びあがるほど痛いんだって(笑)。それを抱えながらの完全黙否だよ。でも今度は完黙ってわけにもいかない。住所はおろかブツも押さえられてるんだから。

それで、「猥褻がなぜ悪い」という裁判闘争に切り替えた。結局それは途中で辞めたんだけど、社長の逮捕がきっかけで『ヘヴン』は廃刊、ビニ本も今までのようにはハデにはできなくなった。会社としては大打撃だよね。でも、ここが明石の凄いところなんだけど、「これを機に神保町に移って取次の出版をやる!」って。普通は板橋とか練馬あたりに都落ちだよね。それ以前に池袋から馬場に会社を移したでしょ。確かに少しずつ“中央”に向かってるんだよ。で、苦しい時にあえて出版の総本山・神保町に打って出る。何かとってもカッコよかった。

 

陽炎座』伝説

神保町に移ってからは、とにかく単行本を数多く出せ、と。要するに雑誌コードを取るために取次に対してハクをつけるということなんだ。我が社はこれだけ実績ありますよ、っていう。そんなとき、荒戸さんに呼ばれてね。もうシネマ・プラセット*21を始めていて、前年に『ツィゴイネルワイゼン』が日本アカデミー賞をとっていたんだ。で、「今、鈴木清順*22の第二弾で『陽炎座』というのを撮ってるんだが」ってね。要するに映画のパンフレットを作りたいんだ、ってことなの。『ヘヴン』が終わって、俺も少しは身軽になったし、いわゆる普通の映画パンフなら会社の片手間にできるかな、と思って聞いていたけど、どうもそうじゃないらしい。

「定価は、LPレコードと同じ二八〇〇円。入場料と合わせて映画一本観て五〇〇〇円だ」。

しかも、プレミア・ロードショーに間に合うように作れ、って言うんだ。実質一カ月しかない。これじゃあ俺個人のバイト仕事では手にあまると思ってね、会社帰って明石に相談したんだ。そしたら「一度会おうか」って。

実際に二人会わせてみたら、一目で「おう」「何だお前か」って感じでさ。お互い顔ぐらいは知っている仲だったんだよ。明石の奥さんが昔、自由劇場にいたから、その関係かね。二人は映画の話も本の話もないままに、それはもう「よし、受けた」って暗黙の了解なわけ。で、明石は俺に一言「好きなように作れ」と。

でもパンフ作るにもスチールがなくてさ、映画の編集したあとのフィルムの切れっ端を貰ってきて、それを一コマづつ切って使ったんだ。フィルムを貰って夜中に会社帰ったら、明石さんが製版屋の社長とか印刷屋とかハード面の関係者を集めていてくれて、「イケる」「まあ金のことは言わんから思いっきりいいもの作れ」みたいになってね。俺はもう「よし!」だよ。

観音開きは(羽良多)平さんと相談して決めた。平さんとの付き合いは『ヘヴン』からだね。観音開きで片方にスチール集、片方がシナリオ。要するに二つの本が向かい合ってる構造ね。手間は二冊分、いやそれ以上。さらにそれをハードカバーで包むわけだから。シナリオは本物と同じくザラ紙にタイプ活字にしてさ。でも註釈を写植で入れるから、結局はオフセット印刷。ザラ紙っていうのはね、本来ロールで刷るようになっていてね、だからオフセットの機械には入らない。で、ロールをわざわざ平面に断裁して。安っぽい雰囲気を出すために、逆に金がかかるという(笑)。でね、どうせ手作業で張り付けるならって、見えなくなるページに伊藤晴雨の責め絵を印刷して剥がれたときのお楽しみにしたの。

陽炎座』は一冊作るのに三〇〇〇円かかってるって? いやいや、そこまでは行ってないよ。ハード面だけで二一〇〇円。原稿料一切タダでね。まあ確かに原価割れなんだよ。取次の掛け率考えれば、出荷するだけで自動的に“赤”になっちゃう。

執筆者*23には全員、試写を見てからコメント書いてもらったんだけど、映画がタダで見れます、っていうのが実質の原稿料代わり。もう毎日誰かしら試写してるドームに連れて行くんだ。

そうしてるうちに、平さんが写真の赤を蛍光ピンクで印刷したいって言い出して。現実の色とは違っちゃうよね。監督が見て何というかなあ、と思ってさ。でもいざ印刷したら肌色なんかもの凄くきれいに仕上がってねえ。幻想的で。

清順がさ、本見て「きれいな本になったね」って言ってくれた。プラセットの清順番の女性もね、「近藤さん、よかったわね。とにかく“褒めない人”なのよ」って。

清順監督は『ヘヴン』を気に入ってくれてたみたいなんだ。“日本アカデミー賞おめでとう”みたいなこと誌上でやったからかな。いきなりね、『ヘヴン』宛に封筒が届いてね。中を開けるとティッシュが一枚。広げると、“キュウリ”と“切れ目の入ったコンニャク”の直筆の絵でね。要するに男と女のナニのことなんだけど、ちょっと粋でしょ、ティッシュなんて。今でも大事にとってあるよ。

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編集長交代劇

陽炎座』が僕の編集者としての……人生最大といっていいかなあ、快作ですよ。

『ヘヴン』にしても二代目編集長といいながら、結局は編集雑務だったから。要するに、高杉氏が抜けたあと、実質的には春美が編集長なんだよね。ただ、俺の方が“上の方”に通りがよかったから、編集長になっただけで。まあホラ、春美はああいう人だから(笑)。

「編集長交代号」の誌上で僕が就任の挨拶しているよね。それで女の子を間にはさんで僕と春美が並んでいる写真がボンと扉で使われているでしょ。どっちが編集長かわからない(笑)。

(ひきつった笑いを無理に押し浮かべる近藤新編集長と山崎春美。中央はモデル)

だから、『ヘヴン』で俺の企画したページといえば、鈴木清順がらみの記事と「荒戸源次郎インタビュー」ぐらいで、あとは細々したもの。本当に細々した無署名原稿で。まあ、その中で面白かったのは、“存在しないレコード”のレコード評。勝手にレコードをデッチ上げてさ、存在しないレコードだから、読者がそれ読んでレコード屋に行っても手に入るわけがない(笑)。

あ、そうそう『ヘヴン』の創刊号に何にも印刷してない真っ白なページがあったでしょ。あれやったの、俺なんだ。今までの出版史上誰もやらなかったことをやろうぜ、って冗談で。

 

(※引用者注:雑誌掲載時、ここから二ページに渡り、何も印刷してない「白紙のページ」が掲載されていた。これは『ヘヴン』創刊号のアイデアを拝借したもので、発案者の近藤十四郎氏がインタビューで「白紙のページ」について話す部分の文章とシンクロさせて編集したつもりだったというが、乱丁本と判断する書店が出たり、読者からは「欠陥本じゃないのか」といったクレームが寄せられたという)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だって雑誌じゃ絶対しちゃあいけないことじゃない。ラジオでアナウンサーが一〇秒黙っちゃったみたいなもんでさ。本当は四ページやりたかったんだけど、どうにか裏表二ページ分使わせてもらって、今見ると、何であんなことに固執していたんだろと思うけど(笑)。

『ヘヴン』のビジュアルに関しては、高杉氏のセンスが強いと思うよ。最初の段階でね、一応販機本だからヌードも載せなきゃってことになって。最小限の制約でね。でも普通の裸じゃやる意味がないんで、フェティッシュな感覚のね、パーツ撮り、要するに局部アップだよね。例えば、淡い色調で印刷の網点粗くして肛門のアップをドン、と。一瞬見たら何だかわからない……わかるか(笑)。まあ、とにかく、そういうセンスだよ(笑)。

編集長交代劇の真相?……こりゃ困ったな。あのね、それまで『ジャム』は美沢さんの色が濃かったわけで、それが『ヘヴン』になると美沢色が薄れて高杉色がどんどん出てきて結果的には高杉氏の個人誌になっちゃうんだ。で、高杉氏はそれこそ外国の雑誌から図版をパクってボーンと、それだけで一ページ作っちゃうようなところがあって。コラージュ的というか、やっぱり『メディアになりたい』の人だから。それで、デザイン料も発生させちゃうのね。給料の他に。むろん俺がデザインすれば、俺にもデザイン料が入るけど。まあちょっと他人には安直に見えるやり方でもあるわけよ。欲しいレコードや本は資料として経費でガンガン買うし。

そういうことに対して春美も俺もさ、もっと記事モノが充実した雑誌らしいものを作りたいって思いがあって。結局、高杉氏が孤立しちゃうんだよね。でも、そこで高杉氏が「俺が編集長だ」って押し通さずに、あっさり身を引いたのは、ちょっと意外だった。

ただね、『ヘヴン』は高杉氏が孤軍奮闘してたのは事実で、俺と春美になってからは、月刊のペースではおぼつかなくなってたからね。

 

27歳で社長

鳴り物入りで公開された『陽炎座』が大コケで。これはつまり、清順が二年連続で最優秀選手になるわけなくてね、やはり代打逆転ホームランの似合う人でしょ。

でもシネマ・プラセットとしては動き出した以上、ここで歩を止めるわけにはいかない。で『ヘリウッド』*24っていうのを撮ったんだよ、群雄社が製作費出して。結果は『陽炎座』以上の大コケ。プラセットは窮地に追い込まれた。この時点で、荒戸‐明石ラインで「エロビデオをやろう」という話が持ち上がってたんだな。

俺はぜんぜん話を聞かされないまま、明石に車に乗せられて、荒戸さんの事務所行って。荒戸さんは「どうせ捕まるんだから、俺んとこの下っ端を出す」なんて話をして、明石は「いやオムが……」なんて言い出して。「え? え?」みたいな。そのあと何故か三人でサウナ行って、荒戸さんのマンションでね、日本シリーズのデイ・ゲーム見て。何も話さないまま、帰りしな明石が「こいつを社長にするから」。聞いてないよ!!(笑)。

俺もさすがにキレてさ、「ザルとドンブリの会話にはつき合えない」て言っちゃった。あまりにも大雑把過ぎて。そしたら、二人で言い合い始めちゃうんだ。「お前がザルだ」「俺はドンブリだからまだ底がある!」なんてね(笑)。

まあ、明石らしいというかさ。これはもう少しあとの話なんだけど、もう完全に会社が傾きかけててね。俺とあと何人かが土曜の夜、会社に残っていて、「このままじゃ群雄社はダメだよ」なんて話をしていたんだ。そこにひょっこり明石が顔を出してね。俺たちは思いのたけをぶつけて、「明石さん、せめて会社としての方針を立てて下さいよ」って進言したんだ。明石は「う~ん」と考えて「わかった。月曜に朝礼やるから。そこで発表する」って。

でね、朝礼なんだよ。明石が出てきて何かちょこちょこっと喋ったあと、「えー、我が社の方針は……」って。来たぞっ、て思ったら「……ない! 以上」(笑)。もう器が違うわと思ったね(笑)。

それはおいといて、とにかく、シネマ・プラセットのスタッフと俺の四人で八二年に「VIP*25がスタートするんだ。渋谷のマンションを事務所にしてね。俺は二七歳で社長だよ。

最初の作品は『女子便所』シリーズ。まあこれは群雄社のお家芸だからね(笑)。

トイレのセットを組んで、女の子五人待機させ、いつでもスタンバイできるようにしておく。何故五人かというと、一人だと一回オシッコすると間があくでしょ。できればウンコも撮りたいから、ビールがんがん飲ませて、メシ食わせて、傍から見れば大宴会だよね。

これを一本三万円で売るわけ。何でかというとね、当時、三万円で七〇〇本も売れたビデオがあったの。杉良太郎後援会の“杉さまリサイタル”ビデオ(笑)。三万円で一〇〇本なら三〇〇万、七〇〇本なら二〇〇〇万、大変な利益になるのよ。それくらいはいけるよな、って皮算用。“人はエロには金惜しまない”って悪い教訓があるわけよ、ビニ本時代に覚えた。

『女子便所』のころは、まだ販売ルートはビニ本と同じで、大人のオモチャ屋とかで売られていたんだ。そのあと宇宙企画ビデ倫モノの最初のアダルトビデオ出したけど、まあエロもの撮り下ろしで言えばうちが元祖だったね。

でね、ビデオって編集前のテープには右上にタイムレコーダーってのが出るんだ。何ロール目の何分何秒何コマ、ってね。それを知らなかったから俺たち、シーンごとにいちいちカチンコ鳴らしてたの。カットを細かく割って照明なんかも作りこんでね、実に映画的に撮ってたんだ。宇宙企画のビデオなんか見ると、回しっぱなしでさあ、女の子が「私の趣味はぁ……」なんてね。何だこりゃ、と思ったけど、エロビデオの撮り方でいえばそっちの方が正解だったね。

まあ俺たちは独自の文芸路線で行こうと思ってたから、映画の人たちと組んで、たこ八郎主演で『ナントカ八犬伝』みたいなビデオ撮ったり。興奮すると四人の男の金玉に文字が二つずつ浮かぶ、という下らないビデオ(笑)。

 

最後の予感

今考えると、VIPの社長になった時、俺は明石や荒戸みたいな人間になりたいという思いがね、あったんだよ。あの二人には影響受けたもの。それが俺の間違いでさ、力量がついていかなかったね。荒戸さんとは血液型も星座も一緒なんだけどね。まあ、関係ないか(笑)。

俺の方も少しずつ気力がなえちゃってたね。プロダクションとかどこもそうかもしれないけど、人身売買みたいなとこあるんですよ。そういうのを見ているとだんだんいやになってきて。そうしたら今度、群雄社本体の方で『スクリュー』という風俗雑誌をやる話があって。それで、他に適任者いないから、お前やれ、と。正直「またか」と思ったよ。同時に「これが最後だな」という予感があった。いつもそういうのに回されるんだよ、俺は。まあ、明石にしてみれば、俺には言いやすいところがあるんだろうけどね。「オム、ちょっと頼むぞ」って感じで。

VIPと掛け持ちで『スクリュー』立ちあげて、もうここいらへんでいいだろうと思ってね、ある日、明石に「実は俺、会社辞めようと思うんです」って切り出したんだ。

明石はね、「……そうか」。で、「呑みに行こう」ってことになって。

「……実はなあオム、会社は数ヶ月後に不渡りが出るのは決定的なんだ」

あの巨体が、珍しく酔っ払ってね。

それで愚痴なんか言う人じゃないんだけど、「白夜(書房)の森下(社長)だけは潰しておきたかったなあ……」ってポツリとね。

“潰す”というのは要するに、エロ本出身の出版社として肩を並べたかった、という意味の明石流の言い方だろうけどね。ただね、その言葉がやたら耳に残っちゃったんだよ。

群雄社辞めたあとは、適当にぷらぷらしながら『シティロード』のレコード評とか好きな原稿だけ書いてね。あと友達の会社の倉庫番みたなことやっていた。そうしているうちに女が出来て。そいつに食わしてもらったり。

群雄社当時の仲間で、潰れたあと白夜に拾われた人結構いたよね。そこいらへんに顔出せば、仕事はいくらでもあったろうけど、俺、「潰したかった……」ってセリフ聞いてたからさ。まさか明石さんの前で「今、白夜の仕事しています」とは言えないし。それで佐山さんの先輩の編集プロダクションを手伝う形で、復帰してデザインや装幀の仕事も始めたんだ。

ヤクザの映画で親分のことを「オヤジ」って呼ぶじゃない。明石さんってのはやはり「オヤジ」なんだよ。佐山さんが若頭でね、「兄貴」というか。で、荒戸さんは「オジキ」かな。

二四歳で大学出て、二七で社長、二九で辞めてるから、『ヘヴン』を含めて明石のところにいたのは正味五年か。短いね。でも較べるのも何だけど、“ビートルズ”の活動期間もそれくらいでしょ。人生でそういう非常に濃密な数年間って、やっぱりあるんだよね。

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『HEAVEN』では「ウルトラヘヴン放送局」というラジオ番組を放送していた時期もあった。DJは高杉弾近藤十四郎のかけ合いで毎回ゲストを呼んでいた。オープニングの曲は“ペンギン・カフェ・オーケストラ

*1:高杉氏発行のフリー・ペーパー。のちに『BEE-BEE』と改題。

*2:隅田川乱一の筆名で『ジャム』『ヘヴン』で活躍。

*3:JICC出版局(現・宝島社)から刊行された高杉弾の著書表題。

*4:別名“ハマリ”の八木。『ヘヴン』を経て群雄社編集部員に。

*5:アナーキズム(政治)とオカルト(神秘学)が合体した、奇妙かつ高踏的な専門誌として有名。

*6:『地球ロマン』『迷宮』を世に送り出した、日本オカルト界のフィクサー的存在。

*7:工作舎編集部員を経て『ヘヴン』メンバーへ。バンド「ガセネタ」「タコ」でも活躍。

*8:グラフィックデザイナー。近藤氏とバンド「バカず」を結成。

*9:荒戸源次郎主宰の劇団。脚本家として、上杉清文が参加。

*10:演出家、映画プロデュサー。『ツィゴイネルワイゼン』『どついたるねん』などの製作の他、近年『ファザー・ファッカー』で監督デビュー。

*11:エルシー企画・群雄社編集局長。スタジオジブリ製作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者。

*12:おつまみ販売機のリース会社から転身、自販機エロ本の取次として大躍進をとげる。

*13:エルシー企画および群雄社社長。出版界に数々の伝説を遺し、96年8月に急逝。

*14:内容のキワドさで一世を風靡したマイナー出版社系エロ写真集。ビニールに包まれ、売られていたことから、こう呼ばれた。

*15:青函連絡船で『ジャム』を拾ったのを縁に、『ヘヴン』メンバーに。

*16:明石の従兄弟にして群雄社営業部長。どう見ても“スジの人”。群雄社解散後はAVメーカー「レッツ」を主宰し、アダルトアニメ『女子大生 聖子ちゃん』『オフィスレディー 明菜ちゃん』を企画・制作。後に縄文時代の遮光器土偶を模したキャラクターグッズ「GOUX」をプロデュース。

*17:インド産コブラの卵の焼酎漬け。森氏が精力剤として販売を計画。群雄社の但馬オサムは森氏に無理やり試食させられたというが、気分が悪くなったそうだ。

*18:孤独なお年寄り(ただし、要貯金)に来世の幸せを約束する森流商法のひとつ。「おばあちゃん、お金はアチラへは持っていけませんがな。それより、まずは日頃の心がけ、次に品格のある器や。お壺は、お浄土に行く乗り物みたいなもんやで。ボロボロの粗末な車乗って行ってみい、向こうで待ってはるおじいちゃん、悲しい顔しまっせ。さしずめ、このお壺、最高級のロールスロイスや」

*19:田中一策。東大中退後、ニューヨーク放浪を経て出版界へ。『ヘヴン』後期メンバー。

*20:現行法では、逮捕者に対し、まず二日間の拘留、その後申請すれば一〇日の延長が二回まで認められている。二三日間は未決の拘留では最高の日数である。むろん、その間、取り調べは続き、完黙は容易なことではない。

*21:荒戸源次郎主催の映画製作会社。エア・ドームでの全国巡回上映など、独自の興行システムでも注目された。

*22:映画監督。古巣・日活からの解雇以来、映画製作の場から離れていたが、途中『悲愁物語』を挟み、『ツィゴイネルワイゼン』で一〇年ぶりの復活。一部にカルト的な人気を持つ。

*23:厳谷國士、沢渡朔大林宣彦アラーキー等そうそうたる面々。

*24:フォーク・シンガーの“エンケン”こと遠藤賢司主演のカルトSFミュージカル映画。他に斎藤とも子、羽仁未来、佐藤B作らが出演。

*25:群雄社の映像部門としてスタート、群雄社倒産後も存続し、アダルトビデオを製作し続ける。現・社名は「アトラス21」

対談◎根本敬(特殊漫画家)×山野一(漫画家)「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

対談◎根本敬特殊漫画家)×山野一(漫画家)

「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

山野 デビューの頃の話から始めましょうか。当時、すでに結婚して一緒に住んでいたんですが、僕が漫画を描いてるときに、彼女は仕事を持っていなかったので、ヒマじゃないですか。それで落書きをしていたんです。そのネコの絵が面白かったので、これを漫画にしたら面白いんじゃないかということで始めたのがきっかけです。それを『ガロ』に投稿したら載っけていただいたというのが最初で。当時は漫画家になるとかそういうことはまるで念頭になかった感じでしたね。

 

根本 最初は名前が違ってたよね。「ねこじるし」。

 

山野 そうです。適当につけた名前で(笑)。変えた理由も明確なわけじゃないですけど、途中から本人がそっちのほうがいいということで。最初からコンセプト的にやってたわけではなくて、とりあえずできたものを載っけてもらった、よかった、ぐらいの感じでしたね。だから、漫画家としての訓練──私も別に受けちゃいませんけど(笑)──は何も受けてない。描いていたのもペンとかじゃなくて、フェルトペンやマジックで描いてましたし。そのへんは根本さんもよくご存じでしょうけど。

 

根本 デビュー前から知ってるけど、たまたま旦那が漫画家で、紙の空いたところに描いたネコの絵がいつの間にか独り歩きして、すごく大きくなっちゃったという感じだった。でも、俺にとっては別に区別はないから(笑)。いつの間にか周りが「ねこぢるねこぢる」って騒ぐようなっただけで。

 

山野 根本さんにすれば、「なんで漫画描いてるの?」みたいな感じだったんじゃないですか。

 

根本 でもね、意外と「なんで?」って感じはしなかった。山野さんと知り合う前から、俺の『花ひらく家庭天国』とか読んでたらしいしね。

 

山野 あ、僕と会うもうずっと前から根本さんの作品は熟読してましたね。

 

──山野さんは彼女の絵のどこがいい思ったんですか?

 

山野 ちょっと口では説明しづらいんですけど、何ていうのかな、尋常ではない何かがあって、無表情なのにかわいい、それでいてどっかに狂気が宿ってる、みたいな部分。

 

根本 目に見えないものとか、言葉にできないものとか、ね。

 

山野 同じネコの絵を執拗に描く。ほっとくといつまでも描き続けてるみたいなところも尋常でないものを感じましたね。

 

根本 それを自分で説明できる子だったら、かえって表現できない世界だよね。

 

山野 たとえば、初期の蛭子能収さんの、何も考えないで描く人間の顔なんかも、当の蛭子さんが無自覚な狂気みたいなものまで、見る者に伝えたりするじゃないですか。それと似たようなもの、言語化不可能なある種の違和感かもしれないけど、大人に解釈されたものではない生々しい幼児性というか、かわいさと気持ち悪さと残虐性が入り交じった、奇妙な魅力みたいなものがあったんだと思いますよ。

 

──そのうち、原稿の注文が増えてくるわけですよね。

 

山野 注文が来るなんてまったく思ってもいなかったから、不思議な気がしましたね。普通、漫画家はほかの出版社に漫画を描くときは、別のキャラクターを作るじゃないですか。でも、うちの場合、『ガロ』を見たいろんなとこから来たのが全部このネコの絵でやってくれということだったので、出版社によってキャラクターが変わるということがなかった。

 

根本 タイトルが変わっただけでね(笑)。

 

山野 タイトルも多少、文字が変わってるぐらいで、ほとんどねこぢるナントカですから、よくそれで出版社がOKだったなと思いますね。

 

根本 ねこぢるじゃなくて「ねこぢる」に仕事が来てたんだよね。

 

山野 まあ、そういうことだと思いますね。

 

──彼女の中で「ねこぢる」は、自分だけの作品だったのか、山野さんとの共同作業だったのか、どちらだったんでしょう?

 

山野 仕事とかにもよりますが、役割みたいなものも描いてる連載によって違いますし。どっちにしろ混じっていたのは確かですね。ただ、漫画好きではあったけど、漫画を描いたことがなかったので、いきなり商業誌で「八ページでこんなものを」と言われても無理なんです。アイディアは当人が出すにしても、それを漫画という形にして、いただいたページ数におさめるという作業は僕がやるという感じでしたね。

 

根本 漫画ってちょっと特殊ですもんね。面白いアイディアがあっても、それを具体的なセリフや、コマ割りで展開するというのは、小説とも違い、ある種の特殊技能ですよ。

 

山野 本人は多分、漫画家になろうという意志もないままになってしまったんだと思います。ですから、ある程度、事務性の高い作業は僕が代わりにやるという感じでしたね。

 

──ねこぢるの漫画のセリフはほとんど書き文字ですが、何かこだわりがあったんですか?

 

山野 本人が書いた字がなかなか味わいがあると思ったので、「そのままでいいんじゃないの」と僕が言ったのが最初だと思うんです。それで、普通なら鉛筆で書いて写植を入れるようなところをフェルトペンとかで書き込んじゃって、出版社のほうでもそれでいいという感じだったので、そのまま印刷されちゃったんだと思いますね。

 

根本 それがもう、ごく自然な流れでそのままスタイルとして定着して。

 

山野 そうです。でも、あんなに原稿が大したチェックも入らず、スイスイ入っていくというのは驚きでしたね。僕なんかエロ漫画誌で描かせていただいて食ってましたけど、「これはおっぱいが小さいじゃないか」とか言われて、「すいません」ってその場ででっかく描き直したりとかしていて、うるさく言われるのが当たり前だと思ってました。ねこぢるの場合、差別表現とかどうしても外せない部分ではあるでしょうけれども、それ以外の制約はほとんど受けてこなかった。許されてる枠内で割と自由にやらせてもらっていましたね。

 

根本 そういうところをひっくるめて“才能”なんだよね。

 

年を取ることを異常に嫌っていた

山野 以前、ねこぢるが二の腕の内側の静脈瘤というのかな、もつれた細い静脈のかたまりみたいなものを取り除く手術を受けたことがあるんです。座ったままできる簡単な手術なんですけれど、僕は体に刃物が入るとか、怖くて見ていることができないんです。でも、ねこぢるはずーっと手術の様子を凝視してたんです。医者も妙な顔をしてました。それがすごく印象的で。きっとどんなのが出てくるのか見たかったんでしょうね。そうやってじーっとまっすぐに、ある意味無遠慮に、いろんな物や人を見つめるみたいな性質はありましたね。

 

根本 「にゃーこ」の目にそれが象徴されてますね。

 

山野 あるとき、新宿駅で歩いてたんですよ。そしたら、今までおとなしく座ってたプー太郎がいたんですけど、いきなり宇宙語みたいなのをわめきながらまっすぐねこぢるのとこに走ってきて、腕をガツーンとつかんだんです。なぜあの無数に歩いている通行人の中から彼女のところにまっすぐ走ってきて腕をつかんだのかは謎ですね(笑)。

 

根本 それ、ポイント、絶対に何かあるんですよ、そこに。

 

山野 あと、ねこぢるって異常に年を取らなかった。容貌もあまり変わらないですけれども、精神的にずーっと子供のままみたいなところがありましたね。年を取ることをすごく嫌ってましたね。

 

──最後まで、お二人だけで描いていたわけですよね。

 

山野 そうです。でも、スクリーントーンとか、ベタとか、そういう仕上げの作業みたいなものは主に僕がやってたんで、最後まで働いてるのは僕みたいな感じではありましたね(笑)。

 

根本 マネジャー兼チーフアシスタント。あと、まかないのオバさん(笑)。

 

山野 そうなんですよね。

 

──背景とかは、山野さんが描いてるわけですか?

 

山野 いや、背景もペン入れは全部彼女がやってますけど、たとえば背景の下書きみたいなものは僕がやる。

 

根本 だからある意味、世に出た最初からねこぢるは絶頂期のフジオプロの赤塚不二夫先生だったんですよ。山野さんは一人で古谷三敏から高井研一郎から長谷邦夫から何から兼ねてたんですよ、もう全部(笑)。

 

山野 でも、何かやっぱり持ってるものが僕とは全然違っていたと思いますね。

 

──根本さんは「ねこぢるブーム」みたいなものをどういうふうにみていたんですか?

 

根本 ねこぢるブーム! そんなのがあったんですか(笑)。

 

山野 わかんないですけどね(笑)。

 

根本 まあ、傍から見れば、東京電力のコマーシャルにキャラクターが使われるようになったり、アチコチで見かけるから、ああ、すごく儲けてるなって思ったくらいですかね。

 

山野 でも、家賃六万のアパートにずっと住んでましたし(笑)。とくには何も変わりないという感じでしたけど。

 

根本 だって、それで変わるようだったら、そもそも「ねこぢる」は生まれない。でも、皮肉にも忙しくなったよね。

 

山野 そうですね。ある漫画を描きながらも次、その次の漫画のネタを練ってるみたいな状態ではありましたね。

 

根本 いつの間にか気付いたらプロの漫画家になってて、しかも売れっ子の(笑)。

 

山野 本人の中にも仕事をちゃんとこなしたい、もっとやりたいという気持ちと、もうやめたいというのが両方あった気がするんです。意外と責任感があるんで。でも、やっぱり時間的な制約の中で、背景をもっと描きたいんですけども、減らされていったということはあったと思いますね。元の絵が単純といえば単純なんで、劇画とか描かれてる方よりは早く終わるとは思いますけど。でも、それでも、たった二人でやってますから、できる量というのは限られてきますよね。

 

──二十四時間、ずっとお二人一緒だったんですよね。

 

山野 まあ、不健康っちゃ不健康なんですけどね。生活も仕事もみんなその狭いアパートで二十四時間一緒に共にしてるわけですからね。すごく売れてる頃とかでも、近所のコンビニでおでん買ってきて二人で食ってるとか、そんなんでしたから。ただ。僕が仕上げで二日か三日ぐらい徹夜でやってて。起きてきた彼女が「『ジャンプ』」と言うんです。『ジャンプ』の発売日っていうと五時に店頭に並ぶから、朝五時に寒い中急いで『ジャンプ』買いに行くわけです。で、まだコンビニで荷ほどきされていない『ジャンプ』の横で、「まだ? もう五時だよね? さあ早く」という顔で待っとるんですね(笑)。帰ってきて俺が仕事を続けてる横で『ジャンプ』を読んでる。『ジョジョの奇妙な冒険』がお気に入りでした(笑)。まあ、私もヘトヘトですからね、いくらか理不尽な思いはありましたよ。でも、そこで何か言い合いを始めるより買いに行ったほうが早いんで。

 

根本 でしょうね~、それはねえ~、うん。

 

遺骨と丸一年暮らす

──ねこぢるさんが亡くなった直後、山野さんはどんな感じだったんですか。

 

山野 白木の遺骨と丸一年暮らしてました。世間的には非常識な事らしいですが、葬るべき墓が無かったのでいたしかたないです。その後近所の霊園に墓を建て、一周忌の法要の時にようやく墓に入れました。自分はまあ家に引きこもって、持病の椎間板ヘルニアが出た時などは、コンビニの出前で暮らしてました。二百円払うと何でも配達してくれるんですよ。

それから家か二〇〇mぐらいのとこにあるカウンターのみの汚い居酒屋に呑みに出るようになりました。七十過ぎで江戸っ子のおじいちゃんと、三十後半のちょっと天然な息子さんがやっていて、ナイターを見ながら野球をまるで知らない僕に色々教えてくれましたよ。何一つ覚えちゃいませんが(笑)。でもそんなこんながちょうど居やすかったんでしょうね。他に客はめったに来ないので、仕入れた肴をどんどんただで出してくれました。これが当時の主食でしたね(笑)。ところがこの店が、ある日予告もなく潰れてまして。おじいちゃんに何かあったのかもしれません。それから製麵所を兼ねた蕎麦屋兼居酒屋みたいなとこにトグロを巻いてて、ここも客の入りはサッパリで、ただでつまみをくれるのはいいのですが、程なく潰れましたね、やはり(笑)。食べ物の善し悪しにうるさかった店主がコンビニで弁当チンしてもらってるとこに出くわしたのはバツが悪かったなあ(笑)。僕が通う店はなぜかみんな潰れちゃうんですよね、僕が載っけてもらってた雑誌がことごとく潰れたみたいに(笑)。

 

根本 そこは僕も負けませんよ!(笑)。

 

山野 まあそんなアル中もどきな明け暮れで、健忘症みたいになっちゃって、人とした約束をみんな忘れてしまうんですよ。何もしないでいるのが良くなかろうというので、貰ったまま放置してたMacを、何だかいじくりはじめました。

 

──その後、山野さんは「ねこぢるy」として作品を発表されました。それを拝見すると、やはり以前の「ねこぢる」とは作風が違いますね。

 

山野 そうですね。どちらかというと僕は、側にいて翻訳する係、漫才でいうツッコミ的位置づけだったかもしれない。

 

根本 そう、そうなんですよね!!

 

山野 すごく面白い人がいても、その面白さを表現するのが上手とは限らないじゃないですか。だから、その面白さみたいなものを翻訳する係のような位置づけというと、わりと近いかもしれない。

 

──あっちとこっちをつなぐ人みたいな。

 

山野 たとえば、「ぶたろうは、のろまだけどおいしいにゃー」みたいな言葉を本人はまるで無自覚に言ってるんです。ブタの「のろま」という性質と「おいしい」という性質のあいだにあるギャップみたいなものは、それを意外に思ってハッとする隣の人間がいないとなかなか捕らえられないんです。本人は無自覚なので、それが面白いと思ってもいないから流れてしまうんです。根本さんもいろんな電波な人と会ってるでしょうけど、それを傍で聞いていて面白いと思う人がいて、通訳しないと、その人はそれがとりたてて面白いと思っていないから、そこで流れてしまいますよね。

 

根本 そうなんです。

 

山野 それを拾い上げるのが俺の役割だったんだと思います。

 

根本 うん(深く頷く)。

 

幼児を金しばりにするジワッと来る衝撃力

山野 今でも、ねこぢるの夢を繰り返し見るんです。死んだのか、いなくなったのかがたいてい曖昧になってる夢で、ある日、急に帰ってくるんです。それで、家を普通に歩き回って、「どこ行ってたの? 何してたの?」みたいなことを言ってもちゃんとした返事もなく、というか、そんな質問に興味がないって感じで、何日かうちをウロウロしたあと、またいなくなっちゃうんです。冷淡この上ないですよね(笑)。

 

根本 夢に出てくるんですね。

 

山野 出てきますね。あと、レイブのようなカルトのような一種独特な雰囲気の若者達が、運河の近くの廃墟のようなビルに住み着いていて、商売をしたり、なにかの装置で化学的な実験をしたりしているんですよ。雰囲気はちょっと異様なんだけどまあ平和なかんじで、雑草だらけの庭にはそこにはいないはずの昆虫や小動物がいたりするんですが、そこにいるんですよね、ねこぢるが。「なんでこんなとこにいるの?」と聞くんですが、まあ適当な受け答えするんだけど、やはりそっけなくて(笑)、結局、事情がよくわからないままに夢が終わる。それもけっこう見ますね。

 

根本 それはいつ頃からですか?

 

山野 いや、もう死んでからずっとですね。パターンはいろいろありますけれども、まあ、そっけないってことでは一貫してますね(笑)。

 

根本 ハーン、成程。しかしわかります、それこそ言葉以前のところで。ところで、うちの息子が三つぐらいの頃かな、テレビのアニメとか見だした頃、ねこぢるのアニメを見せたんですよ。子供だから、退屈だったら飽きたとか、イヤだったらイヤだとか、そういう感情とか表現するでしょう? そうしたら最初から最後まで一時間、固まったまま(笑)。本人、どうしていいかわからなくて。

 

山野 そうですか(笑)。釈然としないまま見たんですね。

 

根本 俺も、ちょっと問題あったかなと思ったんだけど、本人が画面を見つめて動かないし、しょうがないから時間が経つのを待つしかなかった(笑)。ねこぢるの漫画は、それぐらいジワッと来る衝撃力があるんだよ。今読んでもまったく古びていないしね。それは十年後、二十年後でも絶対に変わらないと断言しますよ。

 

所収『ねこぢる大全 下巻』p.790-796(絶版)

 

「本物」の実感 根本敬

大抵、自殺は不幸なものだ。

だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。

ねこぢるの場合がそうだ。

死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。

そのねこぢるが「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。もちろん、個人的には、数少ない話の通じる友人であり、大ファンであった作家がこの世から消えた事はとても悲しい。が、とにかく、ねこぢる当人にとって今回の事は、世間一般でいうところの「不幸」な結末などではない。

とはいえ、残された山野さんにとっては、とりあえず今は「不幸」である。

何故“とりあえず”が付くかというと、ある程度の時間を経ないと、本当のところは誰にも解らないからである。

ねこぢるの漫画といえば、幼児的な純な残虐性と可愛らしさの同居ってのが読者の持つイメージだろう。それも確かにねこぢる自身の一面を表わしてはいるだろうが、「ねこぢるだんこ」(朝日ソノラマ刊)に載っている俗や目常の遠い彼方に魂の飛んだ「つなみ」の様な漫画は、ねこぢるの内面に近づいてみたいなら見のがせない作品だと思う。まだ読んでないファンがいたら、是非読んでほしい。

年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。

 

俗にいう“あの世”なんてない。

丹波哲郎のいう“大霊界”などあってたまるか。

だが、“この世”以外の“別世界”は確実にあると思う。

ねこぢるは今そこにいる。

 

文藝春秋『月刊コミックビンゴ!』1998年7月号より再録)

 

人物紹介

ねこぢる

1967年、埼玉県生まれ。漫画家。高校卒業後、漫画家の山野一と結婚。90年、『月刊ガロ』6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこじるし」で、後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博す。著書に『ねこぢるうどん』『ねこ神さま』『ねこぢる食堂』『ねこぢるだんご』『ぢるぢる旅行記』『ぢるぢる日記』『ねこぢるせんべい』『ねこぢるまんじゅう』など。1998年5月10日死去。享年31

山野一

1961年生まれ。1983年、『ガロ』でデビュー。著書に『四丁目の夕日』『どぶさらい劇場』『混沌大陸パンゲア』『貧困魔境伝ヒヤパカ』など。妻であったねこぢるの死後、「ねこぢるy」として『ねこぢるyうどん』を発表。

根本敬

1958年生まれ。特殊漫画家、文筆家、その他。著書に『生きる』『亀ノ頭スープ』『キャバレー妄想スター』『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』など。「幻の名盤解放同盟」として廃盤レコードの復刻も手がける。

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

前説1. 前回の蛭子能収インタビューで聞き手の山崎春美「やはりバイオレンスは、平和な笑顔とウラハラに産まれるもんだなァと、つくづく実感したものである」と記している。

確かに蛭子さんの漫画はすぐ人が死ぬし、まったく意味が分からない作品(というより漫画の体裁を装った訳の分からない何か)ばかりである*1

それなのに本人の風貌はいたって「カワイイおじさん」であるため、昔はよく「漫画と本人にギャップがあり過ぎる言われていた。

一方、鬼畜系特殊漫画根本敬山野一は若い頃いわゆる「二枚目」で、蛭子さんとは逆のベクトルでギャップがあったものである。

ちなみに蛭子さんがテレビ露出する以前、読者がイメージしていた作者像の特徴を総合すると「神経質で青白そうな美大くずれのインテリ青年」だったのだが、今にして思えば、だいぶ可笑しな話である。

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情報手段が発達していなかった当時、みんなのイメージでは図版右(裸のラリーズ・ブート)のような人が描いていると思いきや、実際は図版左(『私立探偵エビスヨシカズ』書影)のような人だった*2

いつもはスッとぼけて無意識過剰に見せている蛭子さんであるが、さすがに自身の風貌と作品とのギャップについては強く自覚しているようで、花輪和一*3と初めて会った際の印象も交えて著書『ひとりぼっちを笑うな』の中で蛭子さんは次のように語っている。

花輪和一さんという、結構おどろおどろしい漫画を描く人がいて、彼の漫画のファンだったんです。でも、実際にお会いした花輪和一さんは、漫画のイメージとまるで違う感じの人でした。お笑い芸人さんみたいな見た目の方だったかな。

花輪さんも、勝手にイメージしていた風貌と漫画とにギャップがあったんです。そのときに感じました。「おどろおどろしい漫画を描いている人が、意外とひょうきんだったりすることもあるんだな」って。でも、よくよく考えてみたら、むしろそっちのほうが多いかもしれない。

漫画家に限らず、本人と作品のイメージって必ずしも一致しませんよね。歌手のように表に出る機会の多い人は顔と作品が一致するかもしれないけど、漫画家や絵描き、小説家など、普段あまり表に出ることのない人は、得てしてそういうことが多い気もします。

だから、僕の顔を見て、がっかりしないでほしい……な。

 

前説2. 赤塚不二夫の名言に「常識人でないとギャグは生み出せないんだよ」「ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバカになんなきゃいけないの」というのがある。

娘のりえ子いわく赤塚不二夫常識が分かるからこそ常識のどこを壊せばギャグになるかが、すごく分かっていたという。常識に縛られず、新しい物事に挑戦していくには、やはり「常識」から入らなくてはならないものだ。

そもそも世間一般的に「アウトサイダー」と言われる、まるで常識とは無縁であるように思える異端派の送り手たち(例えば鬼畜系作家や、80年代のエロ本関係者など)にこそ教養ある文化人や常識人が多いことに薄々感づいていたが、これを如実に表したのが根本敬「だいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね」という言葉だった。

まあモノホン精神異常者(いわゆる電波系)や、人間味のない鬼畜(ほか特殊全般)といった壊れた人達は「非常識がデフォ」なので、勝手に見世物にはなるだろうが、彼らが送り手の立場になってコンテンツ大衆相手に創造できるかどうかは、かなり怪しい

つまり「非常識な人間」が意味不明なモノを作ったとしても相手にはまず伝わらない。だから「非常識をよく知る常識的な人間」の方が意味不明なモノでもキチンと処理できるし、コンテンツの形にして相手に広く伝えることが出来るのだ。

やはり「悪趣味」を創造する送り手には、知性・教養をかね備えた上、変態的な才能とユーモア精神(あと少しの社交性)が無いといけない。これらのどれかが欠けると途端に「悪趣味」は陳腐な悪趣味」になってしまうものだ*4

 

前説3. 前置きが超長くなったが、海外アニメの『サウスパーク』や『Happy Tree Friends』は見事に大衆化に成功した「悪趣味」の例である。

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両者とも作品世界は、常軌を逸していて、とても常識的とは言えないが、あの手この手で常識を破壊し続ける精神は、まさに知性&変態&常識を知る「完全無欠の常識人」だからこそ出来た業である。

だが、視聴者の大半は「作者は頭おかしいし、正気じゃない」とか「そもそも何を考えて、これを作ったのか理解できない」といった失礼かつ当然の感情を抱かずにはいられないであろう。

ここでサンフランシスコにある『Happy Tree Friends』の制作会社Mondo Media社のインタビューをご覧いただく。このインタビューは特に「作者は頭おかしい」なんて見当違いな誤解をしている人にこそ読んで貰いたい。

 

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

Special interview about HTF in Mondo Media

2011年10月現在、120話以上を公開するハピツリの生みの親、モンドメディア社。ハピツリの誕生秘話や、どのような工程を踏んでストーリーができるかなど、クリエイター陣に突撃インタビューをした。

 かわいいキャラクターが残虐でグロテスクな死に至るなど、バイオレンスな描写のギャップが人気の核となるハピツリ。このストーリーは一体どのように誕生したのか、共同制作者のケン・ナヴァロ氏をはじめとする、クリエイター陣に直撃インタビューをした。

ケン・ナヴァロ(以下、KN)/ケン・ポンタック(以下、K)/ジョン・エヴァーシェッド(以下、J)/ウォレン・グラフ(以下、W)

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──ハピツリはどのような経緯で作られたのですか?

KN:最初は当時のスタッフのロードやウォレンと、仕事の合間にとてもかわいいキャラクターが残虐な目に遭うというイラストを冗談で描きあい、お互いにふざけあっていました。ある日、ロードがスプレッドシートポスターにカドルスの原型になる黄色いうさぎを描き、抵抗は無駄だと書き添えて、社内の人々に見えるように自分のデスクに貼り付けたんです。

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「このキャラクターを使うように」という“洗脳作戦”が成功を収め、企画会議で提案するようにプロデューサーのジョンに勧められ、短編アニメ制作のチャンスが与えられました。当初は「Banjo Frenzy」バンジョー・フレンジー)というタイトルでしたが、後に現在のハピツリに改名しました。

www.youtube.com

──どのように人気が出ていったのですか?

W実は、人気があったことはまったく知らなかったんです。2000年はインターネットの全盛期でしたが、まだダイヤルアップの時代で、視聴回数もまだ出ない時でした。私たちは、ただ週に1度、ストーリーをウェブ上にアップするという作業を続けていただけです

KNもっとも子供用のアニメではないですし、メッセージ性もありません。だから、スポンサーはつかないですし、売りようもないですね(笑)。DVDをリリースすることになった時、800本の販売目標がありました。私は毎日ウェブをチェックして数字を追っていたのですが、日ごとに数字が伸びていき、1ヶ月も経たないうちに目標はクリアするどころか、さらに数字が伸び続けていたので、驚いたのと同時に、「ひょっとして、すごいことになっているのでは?」と気づいたんです。

J:まだ、ダイヤルアップ接続だったインターネットが全盛期を迎えた2000年や、YouTubeが初期の時代(2006年〜)に、すでにウェブ公開を開始していたこと。これが成功につながったのでしょうね。

 

──マーケットの反応に対する感想を聞かせてください。

K:もちろんうれしいです。これまでプロとして自分がやってきたことの選択は、まちがっていなかったと思わせてくれました。

KN:全米最大のコミックイベント「コミコン・インターナショナル」では、「あなたが原作者のケン・ナヴァロ氏?」と声をかけてきてくれ、私だとわかるととてもエキサイトしてくれました。しかし、ある日、自宅に電話がかかってきて「ハッピーツリーフレンズ」と言われた時には、さすがに引きましたけどね。

 

──なぜ、あのようにグロくて暴力的なのですか?

K:暴力とは神経質になり、不快だという意味合いがあると思いますが、私たちのストーリーで使用する暴力は、ただの副産物でパンチラインのひとつに過ぎません。

KN:「トムとジェリー」のトムが、ジェリーをぺしゃんこに押しつぶしても、ただ意味もなくおかしいと思えるように、「実際にこんなことはありえない」とか「こんなこと、ばかげている」と思えるものは、ユーモアの一部になりえます。アニメだから行き過ぎると面白い。

 

──このストーリーで伝えたいことはなんですか?

K特にメッセージ性があるわけではなく、何かのレッスンがあるわけでもありません。ユーモアをベースに作っている私たちが、楽しくて笑っているから、視聴者たちにも楽しく笑ってもらいたい。そんな純粋なエンターテイメントです

W:80年代のかわいらしいキャラクターが登場して物語がスタートし、それぞれのキャラクターの個性を生かしたユーモアとジョークが満載のストーリーが展開される。「楽しかったね、はい、おしまい」。そんな感じで、とにかく楽しんでもらいたい。ただそれだけです

 

──普段は暴力的な人たちなのでしょうか?

K:ケン・ナヴァロという人はネガティブなことがあっても、必ずポジティブに捉える、いい意味でとても楽観的な人です。温厚でとてもステキな人格者ですね。ストーリの源がやさしい心を持つ人にあること、それがクオリティにつながるのだと思います。また、私たちは大きな子どもで、決していじわるが好きな集団ではありません

KN:ストーリーを考案するためのミーティングを毎回8時間持ちますが、今日の取材のように、とにかく私たちは四六時中笑っています。たわいもないことを話し合って笑い、その笑いがピークに達したものを、最後の40分でハピツリのストーリーに仕上げています

K:ケン(ナヴァロ)は小心者なんです。目玉が2つに割れた時の中身をアニメに描写するために写真のリサーチをしていましたが、吐き気を催して、リサーチが続行できなくなりました

KN:アニメだから正確さは求められていないので、グレープフルーツを輪切りにした状態を想像して、それを描くことで代用しました(爆)

 

──制作過程中、おもしろいことはありましたか?

W:通常8時間のミーティングでは、よく話し、よく笑うと話しましたが、ハピツリのストーリーになったエピソードを話します。私が幼いころ、母が料理中にコンロの火がエプロンに燃え移り、洋服まで燃え始めたんです。それを見た父が急いで毛布を持ってきて母を抱きしめ、火を抑えたということがありました。今となって笑い話ですが、その話をした時、父が持ってきた毛布にも火が移って、一緒に燃えてしまったというストーリーにしてみたらどうかという案が出ました。それが現在公開されている「Who 's to Flame」というストーリーです。

 

──今後、新しいエピソードはいつ制作される予定ですか?

J:2011年の秋には製作に取り掛かる予定ですので、また、みなさんに観てもらえる日が近いと思います。

KN:私たちのコンセプトスケッチブックには書き溜めているストーリーがたくさんありますし、ストーリーはエンドレスです。

Wすべてストーリーにするまでは死ねないと思っていますから、期待していてください。

www.youtube.com

インタビューに答えてくれたモンドメディアのスタッフたち

 

Kenn Navarro

(ケン・ナヴァロ)

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「HTFのキャラクターはすべて私の大切な子どもです」とハピツリの生みの親らしい発言のケン・ナヴァロ氏。

共同制作者、ディレクター、脚本、作画、演出、Flash制作、絵コンテ、アニメーター、イラストレーター、カドルス、フリッピー(通常時)、リフティ、シフティの声優と、なんでもこなすHTFの心臓みたいな人。

しいて言うならランピーが好き。「いつもばかげていて、いつもおもしろい。自分の性格の一部を表していると思います」と語る。

 

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「今ではアドビフラッシュがあるので、修正も瞬時に、しかも簡単に行えるんですよ」と、修正もお手のもののケン・ナヴァロ氏。アドビフラッシュを使用して動画にするのもアニメーターのケン・ナヴァロ氏が担当。

 

Ken Pontac

(ケン・ポンタック)

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アニメーションライター。「ストーリーがクリアであること、できる限りおもしろくすることを心がけています。また、ストーリーが各キャラクターの性格に基づくようにしています」と、マジメに答えているが、「いつも赤ちゃんを危険な状態に陥れる父親の行動を見るのが好き」という理由で、好きなキャラはポップ&カブ。

 

Warren Graff

(ウォレン・グラフ)

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アニメーションライター。トゥーシーの声優。複雑なストーリーを作ろうとするとかえって煮詰まるので、極力シンプルに、そしてキャラクターの行動が理にかなうように、それでいておもしろくなるように考えているんだそう。やっぱりランピーが好き。「すごくおもしろくて、ばかげているキャラクター。これは自分の一部にも当てはまりますね」とどこかで聞いたようなコメント。 

 

John Evershed

(ジョン・エヴァーシェッド)

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モンドメディア代表取締役社長、エグゼクティブプロデューサー、共同経営者、CEO。ライターの3人にとって自由な環境を整えるよう気を配っている偉い人。HTFでは、ランピーが好き。「どのような役割になってもベストを尽くそうとするところに、自分自身を見いだすことができます。ばかげている性格も憎めないですね」。偉い人はマジメ。

※このインタビューは『HAPPY TREE FRIENDS e-MOOK 宝島社ブランドムック』(2011年12月発行/絶版)に掲載されたもので、最新の情報とは異なります。

*1:読者は作品の「意味のなさ」から感じる「狂気」を追体験することで、ある種のカタルシスを得ていたのかもしれない。本来の蛭子漫画の読まれ方はここにあると勝手に推測。

*2:青林工藝舎『アックス』113号 12頁 2016年

*3:猟奇的な作風を得意とする『ガロ』出身の漫画家。

*4:少なくとも知性&教養&変態&諧謔すべてを併せ持つような人間は天才か変態か、あるいは両方だと思います。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第3回)「女房の流産を心底喜んだ!? 異端漫画家 蛭子能収」

 
【解説】「ボクは妻の流産を喜ぶ男を、はじめて見たのだった」再デビューの仕掛人山崎春美による、蛭子能収初期のインタビュー。これは現在管理人が確認している蛭子能収インタビューの中でも2番目に古い。
蛭子能収恐怖伝説のひとつ「女房の死産を喜んだ」というのは、おそらくここが初出であろう。話は飛ぶが、この蛭子能収インタビューが掲載されたBilly』(白夜書房発行/後のアングラ系サブカルチャー「鬼畜系」に多大な影響を与えた伝説的なエロ本・85年廃刊)が「スーパー変態マガジン」になったのは、何の因果か本号(82年3月号)からである。その為か連載1回目の記事がやたらと多い。
 
 
山崎春美*1は、漫画家をやめていて消息不明だった蛭子さんを見つけるため、青林堂渡辺和博に問い合わせるなどして捜し出し、1979年に伝説的自販機本『Jam』(エルシー企画)で再デビューさせた張本人のひとり(あとのひとりは高杉弾)でもあるのだが、結局このインタビュー記事を最後に、TACOのCDボックス発売記念イベントで2012年に再会するまで、2人とも世紀をまたいで30年間一切会わなかったという、実に「らしい」後日談も残っている。
 

*1:『Jam』編集者のち『HEAVEN』3代目編集長。1979年に解散したロックバンド「ガセネタ」のボーカルニューウェーヴ音楽集団「TACO」主宰。このインタビューから半年後の1982年9月1日、中野plan-Bにて“ハードコアという枠を飛び越え、多くのパンクファンを色んな意味で震えあがらせた”伝説のギグ「自殺未遂ライブ」を行った。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第2回)「ウンチでビルが建った!? 群雄社代表取締役 明石賢生」

これが明石賢生の最初で最後のインタビューになってしまった。 
白夜書房Billy』1982年2月号所載 

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