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つげ義春インタビュー「なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。このまま終わってしまっていい」

「漫画家のつげ義春さん(現代の肖像)」

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります

ねじ式」「紅い花」から20余年。

三たびブームである。生と死への不安漂う作風が、若い世代の心をとらえる。

(文・佐野眞一

───今度、映画になった「無能の人」シリーズが雑誌に発表されたのは1985~86年。87年は自伝的要素の強い「海へ」と「別離」の2作だけですから、随分、長い休筆ですね。

目が悪いんです。ふだんの生活に支障はないんですが、集中すると、目の中に花火のようなものがチラついて、とてもマンガが書けるような状態ではないんです

 

───われわれは作品を通じて、つげさんの日常を想像するほかありません。実際には、1日をどう過ごされているんですか。

朝10時半頃に起きて、近くの市民プールに行きます。不安神経症をなおすため医者にすすめられたもので、もう10年以上続いています。午後は多摩川の近辺を自転車で散歩して、夜はボーッとしています。新宿に出るのは1年に1回くらいです。大体、外への関心というものが全くないんです

 

調布駅前の喫茶店の昼下がり、暗血色のマフラーで顔の下半分を覆ったつげ義春(よしはる)が、ボソボソとしゃべっている。反対側で私は、初めて会うつげの話をうなずきながら聞いている。いくつかの作品が点滅し、突然、あらぬ妄想がやってくる。いま目の前にいるのは現実のつげではなく、作品が実像として立ち現れた姿なのではないか……。

 

───「無能の人」はつげ作品としては、初めての映画化ですが、よく映画化を許諾しましたね。

話があった頃、息子が高校受験だったんです。もし私立に行くとなると、まとまったお金がいります。原作料が丁度、その額と同じぐらいだったから、お受けすることにしたんです

 

東京の川べりの船宿で生まれた父の末期を見て対人恐怖症になった

───そのお金のことですが、マンガも文章も書いていないとなると、生活費はどうされているんですか。

ひと月の生活費は17万円と決めています。ムダな出費はしないよう、昔から肝に銘じているんです。団地のローンも月に2万円くらいですので、親子3人、どうにか印税収入でやっていけているんです

 

床屋にも行かず、散髪は状況劇場元女優で妻の藤原マキの仕事である。つげは、畳の上に散らばった髪の毛を眺めては、これをなんとか金にかえる方法はないものだろうか、とぼんやり夢想することがあるという。

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。創作も大それたものとは考えていません。自分の生活が支えていければいいんです。マンガ以上に、外の社会とはずれる商売はないか、と毎日考えているんです

 

重くゆっくりした声は語尾にくると、水に沈んだように、くぐもって尾を引く。内語をもどかしげに伝える、吃音者の努力にも似たその口調には、相手を気がねさせまいとする神経がめぐらされ、痛々しいほどである。

昔のマンガ家仲間は「あんなやさしい人は見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐したが、それが素直に実感できた。

ぶしつけな質問に、時に眉根をピクリとさせるものの、内面に向かって靄ったような切れ長の目に、すぐ戻っていく。この人のガラスのような感受性は被弾しても外には飛び散らず、1枚残らず内側に突き刺さるのだろう。

1968年、『ガロ』発表の「ねじ式」で衝撃的な登場をしたつげ義春は、その後のマンガ文庫ブームで再度脚光は浴びたものの、その存在はそれ以降、大方の記憶から消えていた。

昨年公開された竹中直人監督の映画「無能の人」の、アンコール封切されるほどの人気や、やはり昨年出版された紀行文集『貧困旅行記』の、発売後3カ月足らずで8刷、4万7000部という好調な売れ行きは、記憶の彼方から三たび、つげをひっぱり出す牽引車の役目を果たした。

第3次つげブームともいうべきこの現象の特徴は、かつて「ねじ式」に熱狂した全共闘世代だけではなく、20代、10代の若者たちにも支えられていることである。

漫画評論家梶井純は、多摩川の河原で拾ってきた石を売る男や、鄙びた安宿を探して旅をする男の話に若い世代が共感するのは、彼らが前行世代ほど経済第一主義に汚染されずに済んだためではないかという。つげ自身は棒杭のように変わらず、そのまわりを去来する時代という川の流れが変わったことが、今回のブームの背景をなしている、というのである。

途切れたと思えばまたつづく、こうしたつげ読者の流れは、つげが私小説家的素質を濃厚にもったマンガ家であることとも無縁ではない。熱心なつげの読者は、彼の作品と同時に、つげ義春という、いささか現世ばなれした物語も読んでいるのである。

だからこそ、作品の舞台となった土地を探索して歩く、つげ義春研究会なるものが結成され、貸本マンガ家時代の処女作に30万円という高値がつき、一時は年収90万円の時代もあった超寡作に比して、数十倍にもなるほどの評論が書かれてきたのであろう。

だが、一見私小説的なつげの作品は、当然のことながら、自分の過去や、日常生活を単純になぞっただけのものではない。自伝風作品と並んで彼の主要ジャンルをなす、旅もの、夢ものといわれる異空間、異時間に迷いこんだ作品が、つげの作品全般に重層感と深度を彫りこみ、読む者に、恐怖にも郷愁にも通底する既視感を与えている。

いわばつげは、私小説という伝統的手法を借りながら、異常とも思える抽象力で、その手法自体を宙づりにさせている。そして、この抽象力という喩の力は、彼の出自、とりわけ、水のたゆたいのなかで生まれ、幼児期を海と川の辺で過ごした遠い水の記憶が、おそらく大きな源泉となっている。

つげは1937年10月、東京・葛飾区立石の中川べりの船宿で生まれた。父の柘植一郎は岐阜県恵那市の出身の板前で、名古屋の割烹旅館で修業中、同じ旅館に働いていた母・ますと知り合った。豪農一族の父方は家柄の違いを理由にこの結婚に反対し、2人は棍棒や竹槍で山狩り同然に追われたあげく、伊豆の大島に難を逃れた。

つげが生まれたのは両親が一時避難的に住み込んだ大島の旅館を離れ、福島県の四倉で寿司屋を開いたものの失敗、失意のまま再び大島に戻る旅の途上だった。つげを産んだ中川べりの船宿は、母の実父の家で、大島に戻る途中産気づいた母が、産屋がわりに借りたものだった。

大島では4歳まで過ごし、その後1年は母の郷里の千葉県・大原で暮らした。夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を支えた母は、目の前の海につげを連れて行き、よく自分の背中につげを乗せて泳いだ。つげのなかに残る最も古い海の記憶はこのときのものである。

 

小学校卒業後、メッキ工場へ貸本マンガを描き始める

父は当時、東京・渋谷の旅館に出稼ぎ奉公に出ており、つげとはめったに顔をあわすことがなかった。その父はつげが5歳の時に死ぬ。つげはそのときの光景を今でも恐怖感をもって思い出すことがある。

死の直前、錯乱状態をきたした父は、出稼ぎ先の薄暗い蒲団部屋に隔離され、長く伸びた爪で中空を掻くような仕草をし、蒲団の間でしゃがんだまま息を引きとった。母は「これが父ちゃんだよ。よく見ておくんだよ」と、絶叫しながら、末期の父の前につげを引きずるようにして立たせた。

「人間が一番こわい」というつげの恐怖感は、たぶん、幼児期のこのただならぬ体験に始源を発している。

父の死後、母と、つげを間にはさんだ3人の兄弟は、つげを産み落とした葛飾区に移った。一家は京成立石駅近くの廃墟のような家に無断で住みつき、母はすぐ近くの闇市で2坪の居酒屋を開いた。だが、そんな収入では一家の生活を支えられるはずもなく、つげは小学校5年生時分から、兄と一緒に駅前でアイスキャンデーを売る生活を余儀なくされた。

経済的貧困以上につげを怯えさせたのは、母と再婚した義父の冷酷な仕打ちだった。近所の中華ソバ屋に住み込んで働きだしたのも、家に帰りたくない一心からだった。

対人恐怖症はいよいよ募り、小学校6年の運動会直前、みんなの前で走るのが急に怖くなり、カミソリで自分の足の裏を切った。つげを慰藉してくれたのは、人に会わないで済むマンガ模写への耽溺と、突然現れた養祖父の溺愛だけだった。だが、その養祖父は間もなく浜の網を盗んだ容疑を受け、つげの前から姿を消した。つげにとって新しい事態の出来は、いつも厄災をはらんでいた。

やがて母と義父との間に2人の妹が生まれ、一家7人は貧窮にあえいだ。本田小学校を卒業後、中学には進まず、兄とともにメッキ工場に働きにでたものの、経済的困窮と、家の中のいさかいは深刻さを増す一方だった。

その重圧に堪え切れず、つげは2度も密航を企てた。結局失敗に終わるが、この企てには、父母との平穏な生活の記憶に結びつく海への回帰のイメージが隠喩されているような気がしてならない。

この時つげが折檻のため預けられたのは、自分の産屋でもある中川べりの祖父の船宿だった。つげは、その近くにある繋留船の家が死者を弔わず、そのまま川に流した、と叔父から聞かされ、激しい恐怖心を覚えた。つげは幼年期のすべてを、生と死のイメージが浮遊する水のまにまにおくるのである。

「紅い花」にしろ「山椒魚」にしろ、つげの作品はどれも、水への偏愛と、それゆえの忌避が遠い心音となっている。

つげの原風景となった立石駅周辺から、中川べりまで歩いてみた。川はすぐ近くを流れているはずなのに、白茶けて、くねくねと曲がりくねった迷路のような細い道は、なかなか川岸にたどりつこうとしない。

角を曲がると夏ミカンの実がなる黒塀囲いの家が現れ、次の角を曲がると日の丸の旗を出したタイル造りのタバコ屋が現れる。水神社と碑のある小さな社の横の苔むした石段をあがると、やっと、思わぬ近さで、大きく蛇行する黒い川の流れが飛びこんでくる。

遠近法が全くきかないこの風景に強い既視感を覚えたのは、私がこの街のすぐ近くに住んだことがあるという個人的事情以上に、それがつげの描く世界そのものだったせいだろう。ここでは風景全体を中心でひきしぼる焦点はなく、個々の景物は互いに折り重なるように畳み込まれている。

つげの弟で、やはり寡作のマンガ家として一部に熱狂的ファンをもつつげ忠男がかつて働いていた血液銀行の建物も、ゴム工場に目隠しされるように、今もこの川べりに残っている。

忠男はここで採血ビンを洗浄し、売血者が少なくなってからは、産院から引き取った胞衣や胎児を出刃包丁で切り刻み、肉片から血液をしぼりとる仕事までやった。その血液銀行に、つげは弟に顔を合わせぬようにして通い、売血で当座の糧を得た。

当時つげは立石の家を出、錦糸町の運河沿いの3畳間のアパートで貸本マンガを細々と描いていた。対人恐怖症は進行し、谷崎潤一郎やポーの小説を耽読することで、自殺を思いつめるほどの不安をどうにかしのいでいた。

「女を知れば度胸が出るかも知れない」と思い、自転車で立石駅裏の赤線に行ったこともあった。この時の体験はつげの「断片的回想記」に書かれているが、ここにはすでに、つげ作品の基本韻律がはっきりと刻まれている。

外に出ると急に勇気が湧いてきたように思えた。附近の中川の土手を無茶苦茶に自転車を走らせた。そして川べりで仰向けになっていると、嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。数日して、また彼女に逢いに行ったら、そのときは、他の客がついていた。胸が張裂けそうな思いだった。それから二度と赤線へは行かなかった

 

───つげさんの世界が確立したのは、『ガロ』66年2月号の「沼」だと思います。雁を撃ちにきた少年とオカッパの美少女の一夜を描いた幻想的な作品で全編に思春期特有のエロチシズムへの憧れと恐怖が漲っている。明らかにそれまでの作品とは異質です。心境の変化があったとしか思えません。

それはよく聞かれるんです。でも、自分でも答えが出ないんです。それにあの作品は不評で、マンガ家をやめて凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたくらいなんです

 

「沼」の舞台となった大多喜は、母方の郷里の大原からいすみ鉄道に乗り、40分ほど行った隠れ里のような城下町である。両側に小暗い森の広がる切り通しの軌道をゴトゴト走っていると、入眠体験にも似た甘美な幻想におそわれる。緑の蛇のような夷隅川の細い流れが、線路脇に現れては消える。

ここは白土三平の釣りの常宿で、白土が「つげを励ましてやろう」と誘ったのが、最初のきっかけだった。

 

初期の作品は難解だと酷評された水木しげるの助手で生計をたてた

ここでつげは、大原八幡岬の白い波頭が歯を剥く海の叙情とも、期限切れの血液の放流で深夜、真赤に染まる中川のよどみの情念とも違う水の姿態に出会った。ゆるやかに蛇行し、瀬で沼のような深い瀞をなす夷隅川の景観は、つげに、静逸という水の新たな隠喩を注いだ。

それだけではない。『ガロ』元編集長の長井勝一によれば、同誌の初期資金はすべて白土三平がまかない、白土は自分の「カムイ伝」の原稿料もとらず、つげら仲間に回していたという。

その白土が宿代も全額負担してくれた約1カ月の大多喜滞在は、つげにとってあらかじめ喪失されていた父性への渇望を、たとえかりそめの形であれいやしてくれたに違いない。

だが、大多喜で生まれた数編の安定感ある作品は、難解、文学的と酷評され、つげは、「ゲゲゲの鬼太郎」の人気で忙しくなった水木しげるのアシスタントとして、1日2000円のアルバイト料で長らく糊口をしのがなければならなかった。

この頃書かれた作品は、マンガ家であるより作中人物になってしまいたいという切実感がにじみ、読むのがせつない。貸本時代の仲間によれば、つげは自分の失恋体験を、絵まで描き、倦まず語ることがよくあったという。

水木プロ時代の蒸発も、自分以外のものへの逸走衝動の現れだった。

『貧困旅行記』のなかに、この出来事を回想したすごい文章がある。

現在は妻も子もあり日々平穏なのだが、私は何処からかやって来て、今も蒸発を続行しているのかもしれない

孤独と絶望からの救済を自己滅却に希求する。同じ志向は実際にみた夢に題材をとった作品への傾斜にもみられ、この分野の傑作「必殺するめ固め」では、未生の自分に戻る胎内回帰願望すらつき破り、胎盤の毛細血管の中にまでもぐりこむDNA的世界が表象化されている。

 

───不安神経症の方は少しはいいんですか。

よくないんです。毎日漢方薬を煎じて飲んでいるんです。子供にも飲ませているんです

 

15年前、妻の癌がわかった時、つげは、空に浮かんだ巨大な目が、じーっと自分を見ている幻想に怯やかされ続けた。

変化があることがこわいんです。変化はいつも不吉な知らせなんです

 

空中の巨大な目。それ自体がもう、つげの作品世界である。つげをよく知る編集者によれば、つげは世評ほど寡作ではなく、かなりの数の作品を構想途中で破棄しているという。

散歩の途中、ふと廃屋に気がつく。なかに入っていくと、机の端に万力がくくりつけられ、間に真赤な金魚がはさみこまれている。男はわれ知らずハンドルに手をかけ、まだ生あたたかい金魚に力を加えてゆく……。「万力のある家」と題されたこの短編も、未生のまま放置された作品の1つである。

 

───「無能の人」の子供は実に悲惨な顔をしてますね。自分の子供時代の過酷な体験が投影されていませんか。

子供を見ると不憫でならないんです。だから自分の子供を溺愛してしまうんです。子供がひどく内向的になったのも、甘やかしすぎた僕の責任だと思っているんです

 

いつもの散歩コースの多摩川土手に自転車でやってきたつげは、新聞もテレビも天気予報以外見ません、ヒマにみえますが、アレルギー体質の一人息子用にチラシで見た防ダニ蒲団を買いに行ったり、結構忙しいんです、と、相変わらずの誠実さで答えつづけた。

糠雨に煙る川面から夜の気配が漂いだし、対岸のマンションの明かりがひんやりとした外気ににじみはじめる。

もう、妻と子供が待つ団地に帰る時間である。そこは、対人恐怖への理解と慰藉が待つ安寧の場所であり、それと引きかえに得た生活の煩悶から離脱する衝動を監視する、桎梏の場所でもある。

自分自身が物語そのものだったら、どんなによかったろう。

自転車のスタンドを外してペダルを踏みこむと、つげは、宵闇が濃さと冷気をます土手下の道を、材木のような長身をまっすぐに立て、小さな至福と大きな不安が待つ世界に吸いこまれるように走り去って行った。

(文中敬称略)

さの・しんいち

1947年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。著書に『業界紙諸君』『紙の中の黙示録』『昭和虚人伝』など。このインタビューはアエラ』1992年3月10日号に掲載された。

 

「必殺するめ固め」のつげ義春さん 内なる不条理漫画に託す

つげ漫画のファンには楽しみな本が出た。「夢の散歩」以来六年ぶりの作品集。昭和50~55年に発表された12編を集めている。年平均2編という相変わらずの寡作である。

ええ、なまけ者なんでしょうね。経済的に追い詰められないと描けない悪いクセがあるんです。ことにこの1年ほどは、精神のバランスを崩してしまい、仕事がつらかった

神秘的な漫画家、とさえ言われるつげさんだが、その目も語り口もあくまで穏やかだ。

代表作の「紅い花」「ねじ式」「沼」など、暗い情念を主調にする不条理漫画が若い世代に鮮烈な一撃を与えたのは、大学紛争に象徴される昭和40年代初め。漫画=芸術論争に知識人が熱くなったのも、つげ作品がきっかけだった。以来10年―。時代も漫画も変わったが、つげさんは同じものにこだわり続ける。

ひとが生きていることの不確かさ、その不安感とでもいうのでしょうか。ボクの関心はそこにしかない。外の世界への興味はありません。作品の中に社会的な広がりがあるとしても、それはボクの潜在意識の中で内化された社会なのでしょうね」。

そして、存在することの不安を、最も鋭いイメージで示してくれるのが夢という。作品集のほとんどの作品は、実際に見た夢を描いている。明確なストーリーのない作品も多いが、得体の知れない不安感が色濃く漂う。

夢はボクにとって(現実の)体験以上に強烈です」というつげさんは、進駐軍兵士に追われて必死に逃げる夢をよく見る。今度の本で最も好きだという「窓の手」は、そうした夢を5年間も発酵させた作品だ。

精神の健康もほぼ回復し、「ボクも43歳、年相応に自然の風物などを淡々と描いてみたい」という。東京・調布市の緑に囲まれた団地の3DK。わきで息子さんが積み木遊びに余念がなかった。

(読売新聞・東京朝刊 1981年6月8日号)

 

水木しげるさんを悼む 葛藤、悩み、本棚には哲学書 つげ義春

水木しげるさんが亡くなられたということは、大変なことで、しかも突然で、うまく言葉で言い表すことができません。

私が、水木さんのアシスタントを務めていたのは、水木さんがすごく忙しかった1960年代後半の4〜5年だった。当時、掲載していた雑誌「ガロ」の編集部からお願いされて、1か月に4、5回、手伝いに行くようになった。雑誌への掲載と、水木さんの手伝いで私の生活は成り立っていた。水木さんは無口で、私的な会話をした記憶はほとんどない。ただ、水木さんの本棚に哲学書がいっぱいあるのを見た時、驚いた。テレビなどでは、とぼけたところや、変人みたいな態度を取っていたけれども、内面はそうではなく、葛藤や悩みがたくさんあったのではないかと思った。その解決を、哲学書などに求めていたのではないでしょうか。

水木しげるさんと私の家は同じ東京都調布市にあるが、線路を挟んで、水木さんは北、私は南に住んでいる。歩けばわずか15分くらいなのだが、私たちを線路が分断しているみたいで、それを越えていくことがなぜかできなかった。

最後に会ったのは、4、5年前。水木さんの家の近くの神社で開かれていた骨董(こっとう)市の近くでばったり会った。そのとき、水木さんが「つまらんでしょう」と言ってきた。私も話を合わせるために「つまらないですね」と応じた。すると、水木さんは「やっぱり」と弾むように言った。会話はそれだけだったが、水木さんがそう言ったことの意味は何となく分かった。大人気になり、大家になったけど、内心では自分の人生はつまらないと思っていたところがあったのではないか。長い人生を、納得せず、常に悩みを持ち続けておられたのだと思う。(漫画家、談)

(読売新聞・東京朝刊 2015年12月1日号)

 

日本漫画家協会賞・大賞 つげ義春さん 空想と現実の間に漂う

◆「生活くさい漫画を描きたかった」「このまま終わってしまっていい

新作は30年前から描いていない。だが「ねじ式」「無能の人」といった作品が与えた衝撃はいまだに大きい。今月9日、第46回日本漫画家協会賞コミック部門の大賞に漫画家のつげ義春さん(79)の一連の作品が選ばれた。表舞台にほとんど出てこない伝説的漫画家が電話インタビューに応じ、創作の原点について語った。(文化部 川床弥生)

<ぼくはたまたまこの海辺に泳ぎに来てメメクラゲに左腕を噛(か)まれてしまったのだ>

1968年に発表した代表作「ねじ式」は、左腕の静脈が切れてしまった男が医者を探し回る幻想的な物語。最終的に女医にねじで血管をつないでもらうことになる。

説明するのが難しくて発売当時も話題になりました。しっかりしたテーマをつかんで描いたものではないんです。見た夢をヒントに、想像と混ぜたんですね

 空想と現実が入り混じった独特の世界観の作品が数多く生まれた背景には、雑誌「ガロ」の存在が大きいという。

 幼い頃は、手塚治虫のまねから始め、小学校を卒業後、メッキ工場や、新聞販売店などで働いた。17歳で漫画家デビュー。だが2、3年で、当時の人気漫画の主流だった空想冒険活劇に物足りなさを感じ始める。

早く働きに出て、現実の生活を見ていますから。生活くさい部分を持った作品を描きたいと、だんだんリアリズムを求めるようになりました

「ガロ」では自由に描かせてもらえた。「娯楽物から脱却して、自分なりに質のいいものを表現したいと」。一瞬のひらめきで思いついたという「紅(あか)い花」(1967年)は、少女が大人に成長する様子を川を流れていく花で表現し、女性からも高い支持を得た。売れない漫画家の日常を描いた「無能の人」(85年)はお気に入りの一つだ。

緻密(ちみつ)で不思議な美しい背景は、映画雑誌に掲載された写真を模写したり、自身が旅行した時に撮影した写真を描き写したりした。

ラストはあえて曖昧にして、読者の想像をかきたてる作品が多い。「まとまり過ぎちゃって終わるのは面白くない」。幻想の世界を描いてきたが、源流にあるのはやはりリアリズム。「現実から浮き上がりすぎた漫画はつまらないと思うんです

87年に発表した「別離」を最後に、漫画は描いていない。病気の妻を看病するため中断し、以後、創作意欲が戻らなかったという。現在は長男と2人暮らしで、生活に追われる日々だ。これまで描いてきた原画や道具も押し入れにしまったまま。「ありがたいことに作品が繰り返し再版されるので、何とか食いつないでいます」。唯一読む漫画は、数年に一度発行される「表現にこだわり、現実を描く」漫画家たちの作品を集めた単行本のみだ。

今回の大賞受賞は「漫画界の中でも異色の存在で、その作品世界は芸術性も高く追随を許さない」が理由だ。以前から作品に対する評価は高かったが、意外にも賞を取るのは初めて。「一作一作、一生懸命やってきたつもりなのでうれしい」と喜ぶ。

気になるのは新作の可能性だが、「今後も描くということは考えておりませんし、このまま終わってしまっていいと思っています」。

 (読売新聞・東京朝刊 2015年5月18日号)