大塚英志『教養としての〈まんが・アニメ〉』では吾妻ひでおの『夜の魚』という短編について10頁ほど紙幅を割いて取り上げている。
この作品は「吾妻本人の無意識」が非常に顕著に出ており、おそらく吾妻本人も大塚の指摘で、この作品の真価を知ったのかもしれない。
例えば『夜の魚』にある、男たちがリアルな女性に怯みながら「昆虫のような異形の存在とは、かろうじで性交可能」という描写は「記号絵を介してしか女性の身体性と向き合えない男たちの性意識」を冷徹に表現していると大塚は語る。
大塚はこうした1980年代のロリコン文化(おたく)が生んだ現代まで地続きの「不毛」*1を『夜の魚』に見い出だし、やはり、それを「ロリコン漫画の生みの親」である吾妻ひでお以外が描き得なかった事に、真の価値を置いているのだろう。
また吾妻の描くリアルな女性像は、例えばつげ義春作品の「リアリズム調に描かれた醜悪な女性や老女」(ガロ時代の『沼』『紅い花』『もっきり屋の少女』などに登場する「おかっぱ頭の幻想的処女」とは対照的な生々しい存在としてのそれ)とよく似ている*2。
もっとも『夜の魚』は、つげ的な「個人の心象風景」の体裁を取りつつ、80年代という特殊な「時代性」をも反映しているところに価値があるんだろうけども。
『夜の魚』は1984年の作品だが、大塚がそこに見い出した批評性は未だに薄れていない。そもそもロリコンブーム自体が「成熟を拒む不毛さとねじれ」の表出であったはず。また大多数のおたくは「おたく表現の負の側面」に対峙せず、それどころか年々おたく文化は人口に膾炙して、現在も余計な軋轢を生んでいるが、それをここで言及する余裕はない。
結局、現実を直視せず都合の良い方向に流れていくだけで、理想の女性像を空想(二次元)に仮託することは、ある意味で不健康であり、しかも自閉的かつ非生産的だ。突き詰めれば、おたくのいう「理想の女性像」とは都合の良さに尽きる。
ロリでもオネでもショタでもレズ(百合)でもインピオでもふたなりでも男の娘でもSFでも異形(メタモルフォーゼ)でもモブ顔(規則34)でも何でもいけるというのも、よく考えれば壮絶な話だ。業が深い。
受験体制と性産業の発達とも連動して現実の体験は乏しく妄想はよりたくましく。そして、おたく文化はそれを許容する「空想に仮託する文化」として大成長し、いつしか、おたく本人もそうした不毛をフラットに受け容れてしまえる強靭なメンタリティ(カルマ)が培われていった*3。
そして根は同根である僕は彼らを責める理由も資格も持っていない。
(文責/ケラ)
「実際(生身の女性と)付き合うと面倒臭い、何々を奢らなければいけない、どこどこに連れて行かなければいけない、セ○クスしてみると重いし臭いし(笑)そこらへんのギャップってすごくデカイでしょ」とは25年前の故・青山正明の言葉。
*2:「吾妻ひでおは、COM的な要素とガロ的な要素を両方とも兼ね備えている、稀有の存在。/常に、自己否定から入ってくる。少女漫画や少年漫画で地歩を築いていたという枠を、自ら壊す。SFで評価され、神様扱いされるようになると、居心地悪くなるのか、またそれを破壊して、そこから出ていこうとする。/吾妻ひでおの革命は、手塚系の絵でエロを描いたところ。絵柄は手塚、中味はつげ。吾妻氏が偉いのは、採算を度外視して挑戦し続けるところ(確立したルーチンを守っていれば、安泰なのに…)」(川本耕次)
*3:初音ミクとの結婚が最近話題になったけど、個人的に否定的感情が沸かない(昔なら完全に変態扱いだろう)。大人になって「おたく的なもの」を排除(卒業)するのでなく、自ら取り込めるだけの業をフラットに培ってしまった彼らこそ「真のおたく」だと思う。