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ワンダーキッズ(高木秀隆)/フェアリーダスト(吉田尚剛)インタビュー「ロリータアニメの創り手たち」──アダルトアニメの黎明期

インタビュー「ロリータアニメの創り手たち」

構成・秋野宴

所載『ビデパル』1985年1月号

アダルトアニメは今年(1984年)7月以来今月迄ヒットチャート独占というビデオファンの圧倒的支持によって迎えられた。この分野のパイオニアワンダーキッズ。続いてそのマーケットを決定づけたのはフェアリーダストである。以下に二社のインタビューを併記する。

通常のアダルトビデオの流れは、本番ものブームでそれも次第にエスカレートしてきており、より可愛い子ちゃん、よりハードさをと、しのぎをけずっている。アニメの分野にもそれを引きうつしたように反映している。しかも、アニメはまさにイマジネーションのダイレクトな投射であるという点で生撮り以上に過激である。事実、くりいむしレモンの実売一万本というのは過去に代々木忠の『ザ・オナニー』に追随する本数であり、しかも多数のアニメファンをその数のなかに含んでいるということは、ビデオファン層をおし広げる役割もはたしていると云えるだろう。

現在、他に6メーカーが更にハードなアニメを製作中であるという。今号が店頭に並ぶころにはポチポチとおめみえするだろう。スケベ感覚ドキドキ期待といったところだ。インタビューにこたえる人はフェアリーダストの吉田尚剛氏(現・アミューズメントメディア総合学院代表取締役)とワンダーキッズの高木秀隆氏である。

 

ワンダーキッズ

中島史雄原作の『雪の紅化粧』『少女薔薇刑』の女高生ものから『仔猫ちゃんのいる店』の幼女ものオリジナルまで幅広い作品を製作

ロリータアニメの先駆者的存在。後にブームとなるための要素が全て、ここに集約されている。最新作は今、ベスト10の上位で安泰している。

──第一弾を出すにあたって全くこういうものがなかった訳ですから決断はどのようなところで。

高木:実写ビデオでアダルトはやりたくないというポリシーでアニメというセクションの中からビデオの持つ生の世界を表現したい。これだけロリータものが漫画の世界に定着しているのだからロリータアニメという形でビデオにしてもいいのではないかと
ワンダーキッズの他の業務は。作品の制作販売をやってます。ポニーやソニーの販路をかりて販売しているのですが。オフコース、テラ、スネークマンショー、とかカラオケなどですね。

 

──中島史雄氏の原作について。

高木:中島さんに話をもっていった時、自分の描いた絵が動くということが非常にロマンというか希望というかアニメビデオをやってみたいということで実現したわけです。それで、当初第10弾まで出そうということがあって、そのプロセスで進んでいます。

 

──製作行程に立入ってお聞きしたい。

高木:製作費は1500万くらい。16m/mで撮影しています。音楽はオリジナルで第三弾はマルチチャンネル録音でHi-Fiになっています。セル画は8000枚くらいつかい、人物の動きをナチュラルにしようと心がけています。

 

──音楽について。

高木:今の若い人は音楽で動いているとうところがありますから。事実、アンケート葉書をみると『音楽をたのしめてよかった』という反応があります。音を聴いて映像にひたれる。そこで桃源郷の世界に遊べるというか。

 

──キャラクターについて。

高木:第一弾、第二弾をみていただけるとおわかりと思いますが年令的に16、17才代の世界をつくりあげてしまった。原作では小学校四、五年の感覚なんですがあまりにも年令的に10才前後というのはいたいけなんですよね。

それでいやだと。5、6才あげれば、中学生、高校生であればそういう世界であってもおかしくないんでないかということでキャラクターを決めた訳です中島史雄ファンは怒ってますよ。中島史雄の世界じゃないと。

彩色ですが、アニメの世界では僕らのは異質なんですね。普通アニメでは紗がかかってるんですね。それに色のバランスとかいろんなことが決まってるらしいんです。それをみんなぶち壊してるらしいんです。色を原色にとかもっと鮮明になんて。ビデオは鮮明であるべきだっていう意識があるもんで。アニメーターは大変だったようです。異質なんでしょうね。つくってみて異和感はあったけどそれなりにいいなんていってましたけどやはり、『くりいむレモン』は違いますね。もっとファーとした紗のかかったファンタジックな世界ですね。

 

──ビデ倫について。

高木:僕自身ビデ倫は初体験で第三弾にしては7ヶ所修正して欲しいと。女性の陰部の線の描き方がリアルであると。

一、二本削ってくれればリアルでない。アニメーターは女性の部分は(直しを)今からやると大変だから反転(陰画)するしかない。線画の反転だとちょっとグロっぽいんですけど、そういう加工して再審査に持っていったら、いいですって。逆にその方がとってもリアルになってかえって線がはっきり見えますからね。ヒワイだと思うんですけど。

 

──草分けでやられてその反響は。

高木:『ワンダー=ロリータアニメ』っていう見られ方してましてね。はじめはそうじゃなかったんですよ。ビデオでアニメをやってみようと、よそでやってないアニメをというので始まり、それでアダルト的なものをやったんです。本当は普通のというかアダルトでないものをつくる気はあるんですがそれが何かっていうのが見つからないというのが現実ですね。私達の後続でフェアリーさんにっかつさんと知ってるだけで五社がつくってる。それだけ出てきたならアダルトはそちらにまかせよう。もっと違うものをやっていきたいです。

発売当初の反響はすごかったですね。1日100本200本はすぐ出ました。一時在庫が無くなって一週間くらいオーダーストップですよ。現金書留は一日二回ドサッとくるし。第一、二弾が5000本、三弾が8000本ですか。だんだん伸びてきています。なにしろ営業が二人しかいないので大変です。

 

──新作の工夫は。

高木:キャラクターはアニメ的に可愛く明るく、そして内容はSMの世界ですね。宙づりにしたりとか。それとフィルムからテレシネで1インチにあげる時に単純に引きうつすのではなくてビデオ効果ってありますね。そういうもの、DVとかミラージュをつかってやっています。

 

──アニメーターの人達について。

高木:最初の劇画タッチのアニメにはすごい抵抗があったようですね。第三弾はのりましたよ。『これだよアニメは』って。のりにのってました。

 

──今後の見通しは。

高木:ロリータアニメがどこまでいくかですね。普通の(ロリータものでない)アニメを、自分達は自分達の方法で開拓していきたいと思ってます。

ワンダーキッズは1985年10月21日発売の一般向けOVA『酎ハイれもん LOVE30S』を最後にOVA作品製作とリリースから撤退し、その後倒産した

 

フェアリーダスト

好評『くりいむレモン』シリーズで、近親相姦からSFまで、えんたーていなーする女の子を描いて人気上昇

くりいむレモン』シリーズが、アダルトアニメのブームを定着させたと言える。12作目は予想以上の売れ行き。男性ファンだけではなく、女の子の興味もひいているというナイーブな絵作りが魅力なのかも知れない。

──売れていますね。どのヒットチャートを見ても『くりいむレモン』が第一位です。

吉田:我々はこれまで『マクロス』とか『うる星やつら』とか手がけてきました。ポルノというよりアニメの延長ということでやってますから。単にエロアニメとは思ってません。これが一般のニーズに応えることができた理由だと思います。

 

──実際どれくらい売れてますか。

吉田:一万本は越えてますから。年内に15000は行くのではないかと。

 

──2タイトルともに。

吉田:はい。両方で30000。我々も非常にびっくりしてます。まさかこんなに出るとは。……はじめは5000本を目安にしてましたから。もう一ヶ月で一万本いきまして。すごいパワーですね。これで(美少女アニメの)34が(これまでと)違う傾向の作品なんでまた新しい局面ができるんではないかと思ってます。

 

──美少女アニメを制作する過程を。

吉田:企画段階でまず問題なのがキャラクターデザインをどうするか。ヒロインのそれが常にポイントになります。我々はこれ迄の体験でどういうキャラクターがいいかファンが何を望んでいるか熟知している訳です。現場ではこれまでテレビや劇場用のアニメをやってて子供対象の限界っていうものがあってやりたいことができないわけですよね。で、それがすきなようにやれということで現場がのりにのってですね。

……キャラクターを決定する過程でいろいろコンセプトが出て、基本的には可愛いというところで俗に云うロリコンファンが好むようなものを何十点か出たなかで選んで、どういうコスチュームか、髪の色はどうか、ひとつひとつ検討して、相当時間を費しますね。ストーリーとか設定よりもキャラクターのよしあしが売れゆきを決定しますからね

 

──セル画の使用枚数は。

1、2は6000枚。普通テレビでは3000~5000くらいですから使ってるほうです。3、4は通常枚数より大幅に出ちゃって、4なんか8000枚こえちゃって……。

 

──25分で8000枚! すごいですね。

吉田:驚異的ですよ。観ていただいたら劇場(用アニメ)をはるかに超えた内容になるでしょう。それでビデオ公開の準備をしています。


──セル画を撮影するのは何m/mで。

吉田:テレビなどは16m/mなんですが、その後の展開(劇場公開など)も考えて35mmで撮っています。(※アニメの製作工程はまずキャラクターをおこしセルに描き、それを一枚一枚35m/m(又は16m/m)に撮影する。一定時間内のセル枚数が多ければ多いほど動きはなめらかになる)

製作費は一タイトル全部いれて、2000万円。3、4は音楽をHi-Fiにしているので5000万くらいオーバーしています。1タイトルにかかるスタッフ数100人。普通の生撮りアダルトとは全然規模が違う。知らない人は(アニメなんて)すぐできると思うようですが。

 

──声優さんは。

吉田:主役の女の子がやってます。アニメファンはみんな解かりますから『この人じゃないですか』と云ってきますけど『ちがいます』ていってます。みんなわかりますね

 

──ビデ倫について。

我々も正直云ってビデ倫ってのが全く解からない状態で……どこがよくてどこが悪いか……経験がないんでそのまま出したらむこうはすごいショックだったようですね。判断できない訳ですよ。それで保留ということになって理事会を開いて、これはもう一度やりなおせと

 

──やり直しですか。

吉田:全くリアルそのもので全部男と女のからみでしょう。ものすごくリアルなんですよ。実写よりリアルなんですよ。(ビデ倫の審査員)お年の人達でしょう。言葉がでないというか。『いやー、すごいですね。』って。(やり直しで)我々はガックリですよ。

 

──成人向けアニメのヒットする訳。

吉田:今の若い人はマンガで育ってきてますから割と簡単にマンガに感情移入できるでしょう。それとピーターパンシンドローム的状況という時代背景もあると思いますね。

 

──他社でも製作にかかってるけど。

吉田:わからないですよ。柳の下にドジョウがいるかどうか。ポルノの意識で作ってもマニアがわかってなければ。アニメって簡単なようでなかなか難かしいですから。アニメファンは目が肥えてますからね。

 

──購買層は。

アンケート回答からみると20才前後が圧倒的に多い。この手のファンはすごいですよ。生撮りアダルトのものはレンタルショップでしか流れない。買ってみるということはしない。これは買うんですよ。買ってでも置いておきたいと。そういう意味で今後まだまだビデオマニアはアダルト以外のものに広がる可能性をもった分野だと思いますね。


●シリーズは今、絶好調。11月30日発売の第3、4作目は本誌別ページで紹介。前2作同様、またまたベスト10上位に喰い込むのは間違いないだろう。

 

またまたくりいむレモン美少女アニメの世界へ……連れてってあ・げ・る

構成・深谷智彦

キミは『くりいむレモン』を見たか?! ナヌ? 未だ? 一度ダマされたと思って、ボラれたと思って、観たんさい!

胸キュン少女ワンサカ、ハダカもバッチシ、オ毛々ナシの素晴らしい感動と官能の世界へタイムスリップできるだろう。その魅力的なキャラを一挙に紹介──!

再び登場の、ロリータ・アニメです。ロリータ・アニメといえば『くりいむレモン』です。先月号のAVフォーラムのページでも紹介しましたが、あまりの人気の為、拡大して今月再び贈ろう、とあいなった。

まあ見てくれ! 上だよ上ッ。かーいいったらありゃしない。パート2とガラッと変わって、新作③④は活劇モノ。かーいいアンヨとおテテでしっかり、えんたーていないしているのだ。アダルト物だから中学、高校生のボクたちは観られないけど、『くりいむレモン』GALsは18歳以上お断わり! 青い色香ムンムンの美少女美幼女しかダーメ。当然お酒も煙草もダメ、でもSEXだけはOK。恋に目覚め、性を意識し始める年頃、男と女の情念、けっ、そんなモンくそくらえっ! おままごと、のSEXだーい。だからかーいいんだーい。Part3の『POP♡チェイサー』のコンテを見ると、

カット112・頭、マイちゃん、左手でまさぐるしばいの後、カプッチョ。リオも動く……。
カット113・マイちゃんの右手。
カット117・前カットのポーズから頭上げて、リオ「アッアッ……ね、マイちゃん、もうやめましょ」マイ「いいえ……まだまだサービスしますわ」リオ「……ン……ン……」
カット118・カットいっぱい、ゆっくりPAN。2人とも、口をングングしている(F・O──)。
カット128・ピロピロやってるマイちゃん...。
──どうだ、もうタマンナイでしょ? あっ、立ってきた。ちょっと失礼……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はあ。あれ? 何見てんだよォッ

えっとォ、とにかく、シナリオのまんま、こんーなちっこい女の子が、イヤラシーことをやってくれちゃってます。『くりいむレモン』シリーズは今、アダルトソフトの中では一番売れている。だから新作がバンバン出ちゃうわけ。何でこんなに売れるのか、今更説明するまでもないよね。

おかげで各社がロリータアニメの製作に乗り出し、にっかつサンは内山亜紀の作品をビデオはもちろん、映画でも封切っちゃうというんだからね。ロリータアニメ以外ありえない御時勢になってきた。それもこれも『くりいむレモン』のおかげ。やっぱり元祖はオモシロイし、かーいい。では、その内容を紹介ー。

③『ポップチェイサー
西部の町ネオ・カンサスシティー。荒くれ無法者がまかり通る町に、ひとりのかーいい女ライダーが現る。ジャジャジャーン。「リオ」──少女は名乗った。この、さすらいの女ライダーは、女高生サロンでマイという、これまたかーいい少女と出会った。ここから愛とムフフの大バイオレンスセクシャル活劇が展開──!

④『SF・超次元伝説ラル
死ぬ程かーいい美少女が、ある日、異次元空間ラルにワープしてしまった。そこでラルは、やっぱり発作を起こす程かーいいユリア(ラル国王女)と知り合い、いわゆるダチになる。が、ユリアは悪い悪い騎士団のオッサン共に捕らえられてしまった。ムフフもんの辱かしめをめいっぱいされちゃうユリアを果たして救えるか──!。おぼえていいますかァ♪マクロスも敵わぬSF大冒険ファンタジーかーいい美少女の躍動感──これが今回の売り物。

どんな美少女も思いのまま、アングルも自由自在──“ナマ”が売り物の本番チョメチョメじゃ太刀打ちできないロリータ・ワールド。宇宙企画でも行けなかった大宇宙へ、今夜はワープ。ボクだけの美少女にエスコートされて『くりいむレモン』で夢のデートを!

蛭児神建の引退宣言「魔界に蠢く聖者たち」「蛭児神建日記」ほか

魔界に蠢く聖者たち

蛭児神建

第60話シー・ユー・アゲイン

所載『レモンピープル』1987年11月号

突然ですが……思うところあって、私はペンを折る決心をいたしました。だから勝手ですが、この連載も今回で終わりにさせていただきます。

ペンを折ると申しましても、もちろん文章を書く事自体をやめるわけではありません。私はそれ以外には、おおむね無能な人間ですから……。むしろ、これからこそ本気でバリバリと頑張らねばなりません。

つまり、漫画方面の仕事からいっさい手を引くというだけの話です。蛭児神建という作家は、どうか死んだものと思ってください。実をいえば、もう二年以上も前から考え続けていた事なのです。

L・Pの創刊以来、足かけ6年間…私はこの業界で仕事をしてきました。子供が小学校に入学して、そろそろ卒業しようかという期間ですわね。そして、気がつけば二十九歳。三十に手が届く年になったわけです。

その間、色々な事がありました。亜流誌にも書き、また私自身(これは最初からの約束で、L・P誌上で触れない事に決めていたけど、まあアチラも最後だから……)亜流誌の編集をしながらも、やはりL・Pが一番大切で愛着のある雑誌でしたね。それをさえ、あえて切る事に決めました。

正直に言って、いつまでもダラダラと“井の中の文化人を続けるのが嫌になったのです。私みたいに未熟な青二才が「先生」だのと呼ばれ、妙な権威だのカリスマだのが付くのが、実に気持ち悪い。それは長い間、私にとって手力セ足カセでありました。何度も振り捨てようと努力したのだけど、どうも上手くいかない。

ホめられるのは嫌いじゃないけど、必要以上の評価は精神を廃らせるだけの物です。まして実質に先行して売れる名前など、かえって一種の侮辱です。

漫画やアニメの可能性とやらを信じて、これまで必死で頑張ってきたツモリですけどね。見るだけの物は見た……可能性という言葉を安易に使う人間に限って、その可能性を平然と踏みにじってゆくのも見てきました。その本人に自覚がなく、もちろん罪悪感もないらしいのが、かえって悲しい。

だから、そろそろ自分自身の可能性を追求したいのです。今からでも、本来自分が目指していた、本当に書きたい物にジックリと取り組んでみたいのです。それができる、限界の年齢になってしまいましたし……。

今は文芸そのものが落ち目ですし、たぶんイバラの道でしょう。だからこそ、なおさらにやりたい。『ナマイキな青二才め若僧め』と呼ばれながら、ニタニタと笑い、少しずつでもハシゴ段をよじ登りたい……それが夢なのです。この業界でやれるだけの事は、もうやり尽くしましたしね。私は、根本的に熱血根性の人なのだ。一生、青春していたい人なのだ。

いごこちの良い、それこそヌルマ湯の様な世界ですから、思わず長居をしてしまいました。脳ミソのヒダには、いいかげんアカがたまっています。甘えた考えを切り捨てるためには、全てを捨てるしかない……私の精神は、そこまで腐れかけています。あと半年同じ事を続ければ、完全にダメになってしまうだろう事が自分で分かります。精神だろうが才能だろうが、腐る物はくさります。そんな情ない例……生きながらゾンビになった連中を、私はずいぶん見てきました。

だから私は、自分の内に在る“情熱を失い、腐臭を放ち始めた蛭児神建”を、この手で絞め殺します。全く無名の新人になって、文章修業を最初からやり直します。

これは私を支持してくれた、ファンと呼ばれる人達に対する裏切りかも知れません。しかし、どうか許してください。なおさら、私がジリジリと腐ってゆく姿を見せたくはないのです。それだけを悩んで、長い間フンギリがつきませんでした。正直言って、体の方も限界にきています。

とりあえずは少し休んでから、土方仕事でもしながら、武者修業の賞金稼ぎでも始めるつもりです。

あなたが、もし文章の本を読む人ならば、いずれどこかで再会するかも知れません。私は違うペンネームを名乗っていて、気がつかないかも知れませんが、その時はアリガトウ。

最後に、憶えていていただきたい事があります。

この世には、常識と呼ばれる嘘がいくつか存在します。その中で最も大きなものは〈子供は嘘をつかない〉ですね。これは、アンデルセン以来の歪んだ幻想です。

子供は、大人以上に多く嘘をつきます。自分の失敗をごまかすために……または、周囲の目を自分に向けさせたいために。

もちろん三十過ぎようが、いわゆる聖職につこうが、こうした性癖を残す人はいます。そして、気に入ってくっ付いていたはずの劇画家から『あの人の言う事は99%まで大嘘だから、気にするほうがアホをみますよ』などと言われるハメになります。〈人は、自分自身には嘘をつけない〉
これこそ、大嘘ですね。人は常に、己をダマしながら生きる者です。そしてまた、自分に対して多く嘘をつける人間は、他人に対しても平気で嘘をつけます。それが“真実”だと自分に信じ込ませる事が可能なため、良心の呵責を感じずにすむのです。加害者であるはずの人間が力押しで被害者になったりする例のアレですね。

☆そしてまた(これを言っちゃうと問題があるけど……)文章という存在そのものが、根本的に嘘を含んでいるかも知れないと思うのです。

これは、ある程度は内容のある文章を読む事に慣れ、自分でも書く事を知っている人間にだけ、なんとなく分かる事実です。人間の複雑な感情や思惑が、論理的な言葉などで表現しきれるものではありません。これは、どうしようもない限界です。理路然とした文章を書けば書くほど、それは“真実”から遠ざかったりします。また、言葉そのものに引きずられて、文章の主旨が変わる事もままあります。

まあ…….私自身としては、できるだけ読者に対して正直であろうと努力してきたつもりですがね……。

だから、中途半端な“活字信仰”はやめなさい。最近流行の字漫画(漫画やアニメみたいな話を文字にした小説)は、あまり好きくない。

漫画みたいな話なら、漫画で読めば良いと思うのですが……これには、日本人独特の活字信仰「とにかく、漫画より小説の方が高級なんだ」という、変な意味での(文章側の)思い上がりがあると思います。

小説・漫画・アニメ、それぞれ異なった表現手段であるのにすぎず、それにしか出来ない事があり、それ自体で高級低級の差はないと思うのです。結局は内容の問題なのですよ。

実際……あの手の字漫画にゃあ、そのへんの漫画より情報量が少ない(内容が薄い)作品がヤタラとあるからね……。

ともかく、これでシー・ユー・アゲインなのです。長い間、本当に有難う。

 

蛭児神建日記/最終回

蛭児神建

所載『コミックロリタッチ』1987年11月号

う~んとね唐突だけど、私はペンを折る事に決めたんだ。ダラダラと。“井の中の文化人”をやっているのも、いいかげんにアキたしねェ。そろそろ卒業して、マジに小説家を目指さなきゃイカンとフンギリをつけたんだ。

こうした絶筆宣言はレモンピープル誌上でもやったけど、アチラはまあ事実の一部をピックアップして書いたようなもの。レモンの読者には、あまりキツイ事を書きたくないなって気持ちも有る。

人間てえのは、これがまたナカナカに複雑な生き物で、本音でさえ一つではない。漫画や小説のキャラクターみたいに薄っぺらで単純な性格はしとらんで、誰でも色ーと多面的に絡み合った内側を持っているもんです。人間一人について、全てを正確に文章で書き表そうとしたら、百科事典が何冊有っても足らんでしょうな。

レモンで”文章には本質的にが含まれている”と書いたのは、そうした意味が有るわけなのですな(あれ、理解に苦しんだ人が多いんじゃないかい?)。言葉は、いくつかの真実は示せても“真理”そのものは表現できない。

そーゆー言葉の本質をとても端的に示しているのが、いわゆるコトワザや名言ってヤツ。どんなに心に響く言葉であっても、必ずといってよいほど、全く正反対と思える言葉が同じくらいの説得力を持って存在するわけ。“渡る世間に鬼は無し” “人を見たら泥棒と思えどちらも、正しいといえば正しい。それぞれが多角的な“真理ってヤツの、ごく一部分だけを表しているんだ。

つまり言葉ってのは、ごくごく単純な道具なのだよ。使う人間次第でどーにでもなる。それを使って、いかにして真理に近づくか人間を表現できるかって一生懸命に努力するのが、つまり文学ってヤツの永遠の命題なんだけどね。

それはともあれ、まあペンを折る理由だな。コチラはボチボチと書いてゆこうか。

まず最終的なキッカケとなったのは、身体の不調続きとチョイとしたノイローゼ状態──今回、パンドラの発行がいちじるしく遅れた原因も、おおむねソノせいなのだが──のために、劇画誌のコラムを四本ばかり落とした事だな。以前から「もし原稿を落としたらペンを折る」と公言していたし…まあ、その辺を誤魔化すのは簡単な事だけど根がイコジなまでに正直な私としては、嘘つきや卑怯者にはなりたくない。だいたい反面教師(やっていけない事の見本を実行してくれる人)が多すぎる世界だからなあ。

とはいうものの、ペンを折る事自体はもう二年以上も前から考え続けていたし、そもそもノイローゼの原因での内の最大が、ペンを折るべきかどーか悩んでいたってワケだから、ドウドウ巡りではある。だから私としては、これをむしろ一種のチャンスだと考えているんだ。

マジな話、いいかげん身体も限界だしね。

私は元々、文学とゆーウットーシー分野を目指していた人でね。純文も好きだけど、どちらかといえば幻想文学とか児童文学に趣味は偏るな。だから芥川や直木も嫌いじゃないけど、本当に欲しいのは泉鏡花賞か国際アンデルセン大賞(ムーミンや龍の子太郎がもらった賞だな)だね。しばらく休んで身体を元に戻したら、改めて必死でそれを目指すのさ。もう二十九歳そろそろ限界の年齢になってしまったし。

そんな私が、こんな業界に深入りしてしまったのはまあ、私ってのが意外とナリユキに弱い人でねえ。頼まれると嫌とは言いにくい、お人好しの性格もガンですな。

二十歳頃の私は、ギラギラとハイエナの様に飢えた目をしたガキだったねえ。それは飯を腹一杯喰おうと、マスをかこうと、本をいくら読もうと治まる種類の物では無くて、とにかく自分の内なる物を表現したいとゆー欲望だったな。“とにかく書きたい” そんな想いばかりが胸に満ち溢れて、まだ未熟で表現力が無かったため(ハッキリ言って、今でもそうよ)出口を持たない情熱で爆発寸前だったね。高校では文芸部…十代から純文サークルに参加してはいたけど、なんか欲求不満ではあったんだ。確かに、何か大切な物が足りなかったな。

漫画やアニメなどは、昔から好きで──お蔭で、今でも純文仲間から馬鹿にされていましてな。それに対してムキになって反論してしまう自分を、何だか妙に可愛く思ってしまう──以前、西武池袋線の江古田に有ったアニメーターや漫画家予備軍のタマリ場の喫茶店〈漫画画廊〉に通ったりしていた。時はおりしも、OUTがヤマト特集で火をつけた第一次アニメ・ブームとやらの頃。

そして、漫画同人誌との出会いですかね。

あの頃はまだ、一部のホモ本を除いては、エロ同人誌なんて無くてね。ともかく、みんな漫画が好きでヘタでも一生懸命に描いて、何か新しい物、自分達にしか出来ない事を追究して、利潤なんか考えず、赤字は当然の覚悟として、自分の作品を誰かに見てもらいたい…それだけを考える連中ばかりでしたな、当時のコミケは。今でも、そうしている人達はいるし(おおむね、いわゆるコミケットを見離し始めているよーだけど)私も、同人誌とは本来そうした物だと思いますな。

ともかく、ソンナ情熱に惑わされて、なんか漫画ってモノスゴイ可能性を持ったメディアかも知れんなーと思うよーになってしまった。もしかしたら、漫画その物を変えるだけの才能が有るんじゃねーかと思わせる何人かとも出会ったしね(ま、確かに変わったよーな気もするけど、少なくとも良い方にではねーな。その本人達も、情けねー状態だし)。だから、そんな漫画の行く末を眺めてみたくなってしまったんだ。

そして、私もそんな漫画同人誌に参加してみたくなってね。漫画画廊で出会った漫画家予備軍と一緒に、シャレ半分マジ半分で最初のロリコン同人誌なんてえのを作ってしまった。当時は、それが斬新でアナーキーに思えたんだけどね…。

ともかく、最初は売る側も買う側も恥ずかしそうにしていたソレに、平気で行列が出来始めた頃から何かが狂いだしたな。そんな同人誌ばかりが増え──まあ、それが本人達にとって一番やりたい事であるなら、それはそれで良いわけだけど──そんな物が妙に売れると分かれば、やがては単に金儲けだけを目的として作る連中が出る。

そうなると、もう悩んでしまってね。最初はコチラが蒔いた種とはいえ、そうした本来は邪道であったはずの物があんまり大きな顔をして、全体がそんな目で観られてしまったら、真面目にやっている人達に迷惑がかかる。それこそ、漫画同人誌と言うメディア自体の存続にかかわる。それが、私にずっと付きまとっていた悩みであり一つの原罪意識であったよな。

ましてや、同人誌の世界に妙な権威意識や派閥意識が入り込んでくるこうなると、もう理解できんな。同人誌をやるよーな人間は、世間からチョイと外れちまった若者ばかりでね。それが何故、わざわざ自分達の権威やらカリスマやらをデッチ上げて、一番醜い種類の社会のミニチュアを作らにゃならんのか?

私にも、そんな権威が押し付けられたけどね。それが、どーしょーも無く不愉快でウットーシかった。昔の私はケンカだの人の悪口だのが大嫌いで、誰とでもニコニコと仲良くしていたいとしてたわけだが、そうすると変な奴ばかりが寄ってきてね。気がつけば、妙な派閥に組込まれたみたいになっている。これも、困ったもんだ。

長い年月を宗教団体で過ごした私には、そうした物の怖さが誰よりも身に染みていてね。自分の意志を持っているつもりでいながら、いつの間にか集団の一部と化して、魂を腐らせてゆく。身も心も腐れはてたゾンビには、なりたくねーよな。物を書く人間の魂が自由でなくて、どうしようってのかね。

ともあれまー、ロリコン・ブームだとかゆー馬鹿騒ぎの中で、それで金儲けしよーとゆー商売人が動き、私も乗らされ踊らされ、ふと我に返ると変な意味での有名人になってしまっていた。嫌とは言いにくい、とてもナリユキに流されやすい性格(結局は、意志の弱さだな)による自業自得とはいえ、そんな事で名を売るのは正直言って不本意であったんだけどね。

そしてレモンピープルが創刊し、私も初めての月刊連載などをもらってまがりなりにも商業雑誌に書く事が一番の文章修業になると信じて、それこそ燃えたもんな。

するとまた変な人気が出て、ファンなんかが付いてくれる。そりやまあ嬉しくないと言ったら嘘になるけど、やっぱり理解出来ない話でね。

漫画雑誌における文章記事なんて物は、あくまで西洋料理のパセリみたいな引き立て役であるべきだ。それが、私の主義主張。それに反して、必要以上に目立ってしまう。こりゃもう、言動不一致のジレンマですわ。まして女性ファンが付くとなれば、わけがわかんねーや。金をいただくからには、出来るだけ面白い物を書こうと努力するのは当然の事。でも本当に面白いかどーかは、自分じゃ分からないしね。いったい、ドコがそんなに良いというんだろー?

まあ私の性格的欠点の一つが、時として果てしなく泥沼の自虐へと変化する、必要以上の謙虚さってヤツでね。これはもう、本能みたいに身に付いた性分。自己暗示も兼ねて、タマに思い上がりの演技をしたりもするんだけれど、どーもピンとこないなー。

私は、自分こそ最低の人間だと確信して生きている。無能で不器用で人格も酷いもんだ。実際にそーだもん。ただ自分を最低の基準にするってのは、それ以下の人間の存在を否定する事でね。客観的事実から、そーした連中もいるらしいと分かっていても、やはり納得しにくい。人間はみんな必ず死ぬと論理的に分かっていても、自分もいずれは死ぬとゆー事が信じられないのに似ているな。

私が最低の人問であるから、それ以下は人間で無いとゆー結論が出てしまう。これも困ったもんだ。思い上がりよりタチが悪いかも知れん。パンドラの編集を引き受けたのも、これがまた馬鹿馬鹿しいナリユキでね。一水社光彩書房)の劇画誌に何年か連載を続けていて、ある日とても出来が悪いコラムを書いてしまったんだ。落とすよりはマシだなと、とにかく届けたわけなんだけどね。担当の多田さんが難しい顔をして読んだ後、ボソリと言うには『ヒルコさん、最近忙しいの?』

これは、切られると思ったね。だから情けにすがるつもりで、『いーえ、とてもヒマでヒマで仕事が無くって』と答えた。すると、しばらくしてから『編集、やってみない?』と誘われたわけだ。

好奇心も有って引き受けた後でハッと気が付いたわけだが、それは連載している雑誌の亜流誌を作るって意味なんだよね。義理の板挟みで、かなり苦しんだ。亜流誌がヤタラと増えて、そんな罪悪感を持つ必然性そのものが無くなっても、それはずっと尾を引いたな。

例の、表紙に蛭児神建と名前を入れるとゆー恥知らずなアレも、お上が決めた事でね。編集が作家をさしおいて雑誌の表面に好んで顔を出すなんざ、それこそ最低の行為なんだよ。しかし名前を使われる以上は、蛭児神建が作ってるんだよーって必然性の有る本にしなけりゃならない。う~っ、ジレンマですよ。

まあ最初は四、五号も出れば潰れるだろうと確信していたから、シャレよシャレと自分を誤魔化していたんだけどね。ズルズル続くと、そーもいかなくなる。ともあれ、そうしたジレンマとヤケクソ気分の結果が、あのワケワカラン雑誌。それがまた、一部で変な評価を受けたりする。編集の皆様を含めて、あんたらの目はフシ穴かと言いたい。あれは全て偶然の産物であって、私はそんな有能な人間なんかじゃねーんだよ。

そしてねえ…まがりなりにも編集なぞを始めるとなれば、この業界の責任の一端が肩にのしかかってくる。そして、それまで気がつこうともしなかった業界の問題点も、露骨に見えてくるわけさ。

それらについてはサンザン書いたから、ここではもう触れない。私みたいな仕事をしながらあーゆー事を書くのは、それこそ偽善的と言われても仕方が無いくらいに自己矛盾を引き起こすものだけどね。誰かがやるべきだったし、本当にやるべき人間が何もしなかったしね。ま、損な性分ではあるよ。

しかしね、どんな理由が有ったとしても、たとえ事実であっても、やはり他人様の批判や悪口は原則として良くない事なのだ。だからあーゆー事を始めた以上は、蛭児神建もいずれ潰れなきゃイカンと決めていた。そーでなけりゃケジメがつかんもん。ロリタッチでこの連載をもらった時、適当な死に場所を得たと思ったもんさ。

それからまあ、最後だから書いちゃおうかね。誰もが忘れたがっている業界の古傷に、あえて触れてしまおう。

またパンドラが創刊したかどうかって時期だったと思うけど、漫画家が一人死んじゃってさ。以前にも心臓発作を起こした事の有る人問を、真夏のクソ暑い最中にロクに眠らせもせずにコキ使い、結局はメジャー進出を目前にして孤独な大死にをさせちまった編集連中が、何だか知らんがまるで自分達こそ被害者だとでもゆーよーな態度で『惜しい人を亡くした』だの『漫画界の損失』だのと泣いて見せる…加害者であるはずの人問が強引な力押しで被害者になるって例は、ずいぶん見てきたけど…あれはスゴイわ。そして葬式の席で単行本を出させて欲しいと頼んだり、追悼だの何だのとゆー馬鹿騒ぎで最後の金儲けをする私には、どうしても理解出来なかったよ。そもそも、親友だの面識が有る友人だのとゆー人達は、ボロ雑巾みたいな身体になって仕事をしていた彼を、どーして止めなかったのか? どーして誰も、自分が悪かったとは言ってくれなかったのか?

でもね、本当に何より情無かったのは、彼の死を喜んだ連中がいた事。同人誌の愚劣な派閥意識のために、これで編集某(引用者注:オーツカ某=大塚英志のこと)が困るだろう、いい気味だとばかりにね。当時、私の周囲にはそんな連中ばかりだったよ。なにせ彼の死を最初に知ったのが、とても嬉しそうな声の電話だったからね。私も一緒に喜んでくれとでもゆーよーな調子だったよ(これがまあ、後にパンプキンで私の悪口を書いていた奴なんだけど)。冗談じゃねーやい、私は彼の絵が大好きだったんだいっ! 情無いし腹が立つしおかげで素直に泣く事さえ出来なかったよ。そんな気持ちが有って、レモンに「面識の無い漫画家の一人や二人死んだって、涙一つ出ない」と書いたんだ。
すると、その一言のために怒り狂った人がずいぶんいたみたいだね。私を「殺してやりたい」とまで書いた手紙も来た。なんてーのかなー、私はそれがかえって嬉しくてね。初めて正気の人間に出会った気がしてさ…読者って、ファンて、モノスゴイじゃない。たかだか一人の漫画家のために、誰かを本気で殺したくなるくらいに憎めるなんてさ…愚にもつかねー知識のおかげでウジウジ悩む事しできねー私なんかより、ずっと何百倍も純粋でさ…死んだ彼が、むしろ羨ましくなるくらい…それと較べたら、私なんてクズだぞ。

だから長い間、その手紙が私の宝物で何が有ろうと、読者という存在を信頼して今までやってこれたのは、そのおかげだと感謝している。

編集とは何だろうね? 人を殺しても未熟な人間を青田刈りして、その結果どーなろーと全ては本人の責任で、自分のせいじゃ無い。責任を感じる必要も無いそれで良いとゆー仕事なのかね。私は悩んでばかりいて、結局は偉そうな事も言えずハンパな仕事しか出来なかったけどね。

ともあれ、これでペンを折る。やっぱり、まだ死にたくないし…本当に良い物を一本でも書かない内は死ねないし。そろそろ、マジに自分の夢を追わなくてはね。雨宮さんあたりには『自分のホーム・グラウンドを捨てて、いい度胸だな』などと言われそうだけどね。そのくらい背水の陣の覚悟でなければドーショーも無いくらいに、私の精神も腐れかけているんだ。全てを捨てて、必死で壁に激突して、それで消えちまうよーなら、私は元々それだけの男だったという事だ。

ともあれ、今まで有難う。なかなか楽しかったよ。(おわり)



お坊さまになった元ロリコン教祖

土本亜理子ロリコン、二次コン、人形愛―架空の美少女に託された共同幻想」より別冊宝島104『おたくの本JICC出版局 1989年12月 102 - 115頁所載

蛭児神建。現在、埼玉県川口市に住むNさんは、かつてヒルコガミケンの名前で、コミケット同人誌即売会)に君臨した、ロリコン同人誌界の名士だったという。
髪を腰まで伸ばし、ハンチングにサングラス、トレンチコートにマスク。少女の人形を逆さまにぶらさげ、もう片手に鈴を持ってチリンチリン。こんな不気味ないでたちでコミケット会場に出没し、『幼女嗜好』と題した小説同人誌を売る。中身は、幼女に対する執拗なまでの性的興味から、犯し、死に至らしめるものが多いという。

まるで、今回のM事件のようだが、一部にかなりの人気が出て、小説やコラムが商業誌を次々と飾り、やがてロリコン漫画雑誌の編集長にまで出世(?)した。蛭児神さんは、いわゆるロリコンブームの創始者の一人だったという。

と、ここまでの情報は雑誌で調べたもの。ウソかホントか、幼女殺人のMが逮捕されるまで、この人が容疑者のリストに入っていたというのが、雑誌でのもっぱらの噂だった。

教祖とまで呼ばれた人物だが、数年前、ぷっつりと活動をやめ、姿を消したという話も聞いた。この人なら男たちの本音が聞けるかもしれない。そう思って出版社で電話番号を調べた。が、A社でもB社でもわからない。ようやくC社で「昔の番号なら」と教えてもらったが、昼にかけても夜にかけてもつかまらない。何日かかけ続け、ついに本人が電話口に出てくれた時は、こちらがドキッとしてしまった。

「ハア……。ロリコン漫画ねえ。井の中の文化人とでもいいましょうか、いいい私の忌まわしい過去でして。センセイと呼ばれて有頂天になっていた自分を思い出すだけで、布団の端を噛みながら叫び狂いたいほどのことで、とてもお話などできません」

事件で警察の捜査こそ受けなかったが、マスコミから追われていたらしい。取材はていねいに断わられた。あの世界を去って、すでに二年になるという。井の中の文化人、という言葉が耳に残り、「すでに過去ならば」と食い下がってみた。数日後、再び連絡した。「でもですね……」と蛭児神さん。

しばらく間があって、唐突に、「お通夜がなければ」とポツリ。「エッ、お通夜?」「私、じつは今、坊主なんです」

驚いた。三年間務めたロリコン漫画雑誌の編集長をやめて、仏門に入り、修行を終えて葬儀屋互助会と契約する月給十八万円の「サラリーマン坊主」になったというのだ。

なかなか連絡がとれなかったのは、お通夜やお葬式といった、ふいにやってくる“仕事”で、しじゅう家を空けているからだった。

いったいどんな人物なのか。申しわけなかったけれど、おそるおそるの心持ちで約束の場所、大宮駅構内のキングコングの像の前に行ってみた。蛭児神さんは、丸刈り頭だったからすぐ目についた。袈裟をまとえばたしかにお坊さま。茶色のスーツ姿の大柄な男性だった。

「ハンチングにマスクで来ると思いました? あれ、変質者のイメージのパロディだったんです。ロリコン→幼女嗜好→イコール変質者でしょ。どうせそう思われるなら、いっそのこと自分でやって見せてやろう。まあ、一種の変身願望かな。あの姿になるとなんでもやれる勇気が出たんです」

こんな話をしながら喫茶店に入った。なるべく隅の方の席を捜して座った。取材を自分で申し込んだくせに話の糸口がつかめない。とってつけたように年齢を聞いたら三十一歳。もっと年配に見えたが、ほとんど同じ。同級生だと思ったら、何だか急に気がぬけた。

 

「幼女なら自分の自由に動かせる」

青少年向けのエロ漫画には、いわゆるロリコン漫画と美少女漫画の二系統があるらしい。発行部数十四万部と業界ではトップを走る『ペンギンクラブ』は美少女漫画雑誌。編集長で漫画プロダクション「コミックハウス」社長の宮本正生さんによれば、「幼女趣味のロリコン漫画は、同人誌『シベール』の出現でいっとき隆盛を誇ったけれど、やがて美少女漫画に人気が移行した」という。理由はアニパロ。アニメ世代がアニメ作品に出てくる少女キャラクターにエッチをさせるパロディ漫画に人気が集まり、主人公が幼女から少女に変わったというのだ。しかも大人のエロ雑誌に出てくる劇画調の美女ではなく、アニメに出てくる美少女が主人公になった、と。

蛭児神さんは、この幼女から美少女へ、という嗜好の変節期を過ごしたが、自分の求めていたものはやっぱり幼女だったという。

「幼女って、妖精なんですよ。まだ人格が形成されていない白紙の女性。やさしくてあどけなくて、男が勝手に思い込める相手。ただひたむきな愛を一方的に注ぎ込める相手なんです。女性に対する支配的な愛の究極のかたちはひたすら自分を愛してくれることでしょう」

メンソール煙草をひっきりなしに吸いながら、言葉を選び、話を続けた。

「小説で愛を描くのに、大人の女性は空想でさえ動かせなかった。けれど幼女なら、好きに動かせますから」

徹底的に暗い物語を作ったという。不幸な女の子はいつか必ず幸せに、という物語のパターンを壊した、救われない暗い物語。これがコミケットでウケた。すると出始めた商業雑誌が目をつけて引き抜く。日本で初めてのロリコン漫画雑誌『レモンピープル』でデビュー。すでにコミケットで話題の人物でもあったため、またたく間に人気が出た。

「金は入るし、先生扱いだし、ファンは増えて、私の言動が一人ひとりに影響を与える。これは正直いってものすごい快感ですよ。でも、調子に乗って美少女漫画の編集長を請け負ってから、私の歯車が狂いだしたんです」

蛭児神さんにとってのロリータ、幼女は純粋な愛の対象だったという。が、時代はロリコンから、中学高校生ぐらいの美少女にエッチをさせるエロ漫画嗜好へ。ロマンチックからエロチックへの移行は不本意だったが、編集長ともなれば、売れることが第一前提だ。漫画家が不足すると同人誌から次々と引き抜く。作家自身がまだ未熟な状態でアマチュアの独善的な世界から卒業できていないから、作品も彼らの好みに偏ってしまう。プロ意識もないから、原稿の締切りの無視や逃亡は日常茶飯事。いいものができるはずはない。

「この世界で責任感なんて持ち出すのはバカですよ。よけいなお節介。でも、ある時ふっと自分のいる世界そのものがグロテスクに見えてしかたがなくなったんです。男の側からだけのわがままなセックス、そういうものを青少年に読ませていいと思いますか?」

☆○△□……?(絶句)だって、自分がそういう世界を作ってきたわけじゃあ……。

「たしかにそうなんです。だから、私、おかしくなったんです。誰も責任を持たないことに腹を立てて、結局、私自身、自己破産してしまった。最後の一年は、あちこちの雑誌や作家を名指しで非難し、えげつなくこきおろしてもうガタガタ。気が狂う寸前でした」

茶店のテーブルに重苦しい空気が漂う。大宮の街を歩き、場所を変え、食事をしながら話を聞いた。編集長を下りてからの蛭児神さんはまるで迷える仔羊だったらしい。キリスト教の洗礼を受け、レンタルビデオ屋の店員を経て、浄土宗の修行の道に入った。

「今は坊主ですが、これが最終目標ではありません。夏目漱石アンデルセンの世界を楽しみ、トーベヤンソンの小説に夢中になったことが、私に小説への道を開かせた。人が何かを書きたいと考えるきっかけは、いい作品に出会ったからでしょう。作品に対する恩返しは、いい作品を書くことでしかない。なのに私は裏切ってばかりいたのです」

三十歳を前にして、先々の自分に焦りを感じたともいう。わかる気がした。

「失敗を重ねながら生身の女性と出会った」ことも「卒業」への大きなきっかけだったらしい。

「幻想の世界は今も大事にしています。ただかつてのように幻想に逃げたりしない。支配できない愛のよさに気づいたからかもしれません。これって大人の発想ですか?」

吾妻ひでおと『漫画ブリッコ』の時代―ロリコンまんがの果たした役割(大塚英志「ぼくと宮崎勤の'80年代 第10回 マッチョなものの行方」)

ぼくと宮崎勤の'80年代 第10回 マッチョなものの行方

大塚英志

『諸君!』1998年7月号所載

中森明夫の「おたくの研究」が初掲載された『漫画ブリッコ』1983年6月号)

'80年代という時代の特異さは、男たちが作り、消費していく性的メディアが女性たちによって自己表出の場として強引に読みかえられていった点にある。それは性的なメディアの中では少数に属する事例かも知れないが、それを可能にした背景には'80年代のサブ・カルチャーに性的主体としての男を隠蔽する言説が存在したからである。上野千鶴子は'80年代のぼくたちの年代の男たちが「性的主体から降りてしまっている」という奇妙な評価(?)を下しているが、正確には隠蔽されただけで、それは温存されている。そのことが新たな問題となる予感があるが、ここでは男性的なものの隠蔽について検証する。まず'80年代におけるいくつかの言説のあり方を見てみよう。〈おたく〉や〈新人類〉たちの意外なマッチョさがそこにはみてとれるはずだ。

田口賢司中森明夫が彼らの共著である『卒業』の中で菊池桃子を以下のように評していることは以前、指摘した。

田ロ──菊池桃子ってやっぱり遊ぶタイプでしょう、寝るタイプでしょう。

中森──寝るタイプだけど、寝てしまったら、最後までつきまとわれるような納豆のような女でしょう。田ローいや、それを蹴れるかどうかは男の力だから。

彼らはいわゆるニューアカ用語を駆使し、松本伊代そして小泉今日子を賛美し、一転して菊池桃子をこう批判するのだが、彼らの俎上に載せられているこれらの少女アィドルたちの固有名詞は、もはやあの頃、彼女たちが背負わされていたはずの差異にまつわる意味を喚起しない。むしろそういった記号が剥離した今、彼らの発言に見てとれるのは、かつて彼らが賛美していたシミュレーショニズムとは、つまりは他愛のない処女崇拝に他ならなかったことぐらいである。

「寝るタイプ」の女を嫌悪し、「男の力」を口にする田口の屈託のないマッチョさは当時としても余りに古典的な男のディスコースに支えられている。同じことは'81年に発表された田中康夫『なんとなく、クリスタル』にも実は言える。274個の注によって批評的に支えられていたはずのこの小説はしかし当時、新人賞の選考で江藤淳がいみじくも以下のように評したようにこれもまた古典的な「男の力」の小説に他ならない。

気障な片仮名名前のコラージュのなかに、「ナウい」女の子を登場させて、しかも、惚れた殿御に抱かれりゃ濡れる、惚れぬ男に濡れはせぬ、とでもいうべき古風な情緒で「まとめてみた」点は、まことに才気煥発、往年の石原慎太郎庄司薫を足して二で割った趣きがある〉(江藤淳「三作を同時に推す」

『なんとなく、クリスタル』は空虚なぬ個の都市的な記号と対比する確かなものとして、語り手である「私」が恋人・淳一から「女の快感」を与えられ彼に「所属すること」になるという事態が描かれる。つまり田中康夫が当時〈クリスタル〉と形容した都市的な記号の集積からなる生活はしかし「好きな男でなくては濡れない」という男の力によって根拠を与えられるという構図になっている。

彼ら〈新人類〉(『朝日ジャーナル』の分類に従えば田中は「若者たちの神々」になるのだが)たちの'80年代前半に於ける男女関係に関わる思考が、その表層では'80年代的な記号を過剰に鏤(ち)りばめて語られながら、あたかもこの記号の群れに隠蔽されるかの様相を呈しているのは興味深い。ちょうどそれはかつての新左翼運動が、過剰なマルクス主義的言説とは裏腹に永田洋子が当時の指導者にレイプされ、あるいは逮捕された坂口弘慰安婦的に差し出される形でセクトから結婚を強いられる、といった類の「男の力」を暗黙の内に制度化していたことを想起させもする。

それはともかくもこの「男の力」の表現に於て'80年代を通じて顕著なのは、男の側が性的主体であることを当初からサブ・カルチャー的な表層によって隠蔽しようとする傾向にあることである。それはまんが表現に於ても変わらない。例えばぼくは'87年に上梓した『〈まんが〉の構造』の中で、同人誌のロリコンまんがの少女凌辱シーンに以下の傾向が顕著である、と指摘している。テキストとしてはロリコン同人誌の傑作選的な意味あいで刊行されていたアンソロジー『美少女症候群』(ふゅーじょんぷろだくと刊)を用いている。同書に描かれた少女凌辱シーンに於て、一体、彼女たちが「誰に」犯されているかを検証したものだ。

『美少女症候群』には、同人誌から採録された様々な〈少女凌辱〉のイラストレーションが収録されている。その構図はほとんど類型化されており、腰をおろした状態で膝を折り曲げ局部を露出させるという、文章で書くと何のことだかわからないけどかつてビニ本その他でしばしば見られた例のポーズが主流である。さらに局部には異物が挿入されており、少女の苦悶の表情が執拗に描かれている。

さて、これらのイラスト群をながめて気づくのは次の二つの特徴である。

a〈犯す〉主体である男性が描かれていない。

b それに替って少女を凌辱するのがメカニックやグロテスクな異生物である

やや、不毛な気もしたが同書に収録されたイラストやまんがのセックスシーン(連続するコマはそれぞれ1カットとして数えた)は、33カット、それを〈犯す〉主体によって分類したのが別表である。

33例中、男女のセックスシーンは3例。レズが7例と相応の比重を占めるが、半数以上の18例がメカニックや軟体動物風の生物によって少女を〈犯し〉ている。しかも、このメカニックや異生物を操る主体は、当然描かれていない。(大塚英志『〈まんが〉の構造』)

別表は省略するが、33例の内訳を改めて記しておく。男性3、女性7、メカニック9、異生物9、その他5。つまり、'87年の時点でロリコンまんがに於て少女を凌辱する主体として男性が描かれる割合は一割に満たないのである。レイプ、という「男の力」を行使しながら、その主体は空洞化している。

こういった「犯す」側の喪失が当時のいわゆるロリコンまんがの最大の特徴であった。それ以前のエロ劇画との決定的な違いはこの点にある。女性の性的な凌辱が描かれながら、凌辱する「主体」が描かれない。あるいは表現の中から隠蔽される。それはあたかも最近の「従軍慰安婦」をめぐる言説のようだ。それはともかくそこでは強姦者は不在である。

ロリコンまんが、とぼくはエロ劇画と表現技法上の区別を明らかにするため敢えてこのような名称を用いているが、ロリコンまんがはいわゆるチャイルドポルノとは異質の存在である手塚治虫の延長上にある記号的な絵と少女まんが的な文体を用いたポルノグラフィーであり、そこで犯される少女の大半は高校生程度の年齢であり、その点ではそれ以前のポルノグラフィーの凌辱対象と大きく変わっているわけではない。こういった技法面とは別にポルノグラフィーとしてのあり様として両者を隔てるものがあるとすれば、犯す主体としての男性がその画面から削除される傾向にあった点である

こういった犯す主体の喪失という事態は、まんが史的には、いわゆるロリコンんがの定型を確立したと考えられる吾妻ひでお陽射し』('81年)に既に見られるものである。アリス出版が自動販売機専門のエロ雑誌として刊行していた『少女アリス』('79年)に吾妻ひでおが連載した短編の連作をまとめた同書には9編が収録されているが、先の例に従い犯す主体を分類してみると異生物が5男が4となる。更に男が性的な主体である4つのうち1作は少女が人間ではなく、また9作のうち3作は少女の妄想的世界の中での、異類との性的な関係が描かれる。

数年後のロリコン同人誌ほどに顕著ではないが犯す側の喪失は既に定型化されていることがうかがえる。例えば表題作ともなった『陽射し』に於ては、少女に声をかける少年の顔は黒く塗られており、異性を拒否する少女の内的な世界に妄想とも思える異星人が現われ、異生物と夢とも現実ともつかぬ性的関係を持つ、というプロットになっている。興味深いのは、作品全体が主人公の少女の内的世界として描かれている点で、これは吾妻の描くロリコンまんがが24年組以降の少女まんがの強い影響下にあることによるものである。

少女の自閉した世界にあって現実の男性は拒まれ、非日常的な異類としての少年が恋愛の対象となるという、例えば萩尾望都の『ポーの一族』に見られるような構図を吾妻はここで援用したのである

吾妻ひでおは'70年代末から'80年代初頭、いわゆる少年組の次の世代にあたる「ニューウェーブ」(と当時称された)に属する描き手の一人であった。このニューウェーブの中には大友克洋高野文子、あるいは柴門ふみらが含まれており、24年組と比して一定の方向性を欠いていたのは今となっては明らかである。彼らの中にあって吾妻ひでおは二度の失踪を経て時代からフェードアウトしていくが、次の世代に与えた影響は吾妻が最も大きい自動販売機のエロ雑誌に『陽射し』を書いた当時の吾妻は少年週刊誌での長い連載を経て、徐々にカルトな作品をマニア誌に発表し始めた作家であった。例えばぼくが師事したみなもと太郎の時代には少年誌出身のまんが家がエロ雑誌に書くことは凋落を意味したが、わずか数年の後の吾妻ひでおの時代にはむしろそれは快挙となる。まんが界の中にあった少年週刊誌を頂点とするヒエラルキーを最初に崩した一人が吾妻だったのである

後の『エヴァンゲリオン』で反復されるSF小説からの無秩序な引用、いわゆる「不条理ギャグ」(この名称は吾妻の作品「不条理日記」に出自を持つ)など吾妻の与えた影響は〈おたく〉コミックの領域では限りなく大きい。ほぼ前後してデビューし、ほぼ同じ試行錯誤を行ないながら、みなもと太郎吾妻ひでおは次の世代に与えた影響という点では全く異なる。恐らく殆ど影響を残しえなかったみなもとに対し吾妻が強い影響力を持ち得たのは両者の作家としてのピークがわずか数年ずれたことと、吾妻の絵が手塚治虫ふうの記号絵の延長上にあったことの二つが原因であろう

だがこういったまんが史的な検証を行なっている余裕は今はない。それでも一点だけ強調しておきたいのは、いわゆるロリコンまんがを軸として肥大化した'80年代以降の〈おたく表現〉の出自は吾妻ひでおにあり、彼が性的表現に持ち込んだのは、手塚治虫的な絵と萩尾望都24年組が少女まんが表現の中心に置いた内面であった、という点である。

手塚的な絵と24年組的な内面は戦後まんがが獲得し得た最も特徴的な文体であったが、吾妻はこれらの文体がともに「性」を強く暗喩しながら同時に隠蔽してきた表現であることを、この二つを性的メディアに持ち込むことによって明らかにしてしまったのである。

その意味で吾妻ひでおが行なったことは戦後まんがが隠蔽し続けた性を戦後まんがの正統な文体を用いて描くことにあり、彼が沈黙した後に肥大していくロリコンまんがには山本直樹ら一部の例外を除き、こういった批評性は見えなくなっている

だがこういった文脈ゆえに吾妻ひでおが示したロリコンまんがの文体は、まんがの受け手の強い欲望を喚起することになる。劇画の文体が最初から反手塚的な暴力や性を伴うリアリティを体現すべく作られたのとは対照的に、吾妻は決して性を描いてはいけない表現で性を描いた。つまりそこには禁忌の侵犯があったのである

だが、吾妻の文体は画期的であったが故に容易に定型化する。吾妻の文体は商業雑誌を通じて拡大すると同時に、彼の周辺でアシスタントやとりまきをしていた同人誌系のまんが家によって再生産されていく。これらの固有名詞に今日、どれほどの意味があるのかぼくには判断しかねるが、早坂未紀、計奈恵沖由佳雄森野うさぎといった'80年代前半の同人誌系のロリコンまんがの描き手の大半は、吾妻ひでおの周辺にいた人物たちである。

ただ、吾妻と彼らの間には世代的なものとは別のディスコミュニケーションがあったことは指摘しておくべきだろう。吾妻は当初は少女の内面に仮託して描いていた離人症的な世界像をやがて私小説的な短編に収斂させ、私生活においては二度の失踪をする。つげ義春よりもつげ義春らしく吾妻は生きてしまう。そういう「私」への拘泥は彼のエピゴーネンたちには欠落している。

欠落しているからこそ、吾妻が定型化したロリコンまんがの文体の中でも性的な主体が削除されていく部分がより拡大していくのである。〈私〉への拘泥を持たないき手たちには〈私〉が欠落したロリコンまんがの文体は受け入れられ易かった。それに加えて少女を凌辱する場面を描くとき、犯す側が人間でなければ刑法に触れないという奇妙な神話がまんが業界の半ば自主規制のルールと化したこともあって、強姦者を空白にした、いわば「男の力」を隠蔽したポルノグラフィーとしてのロリコンまんがは'80年代を通じて拡大していくことになる

さて、こういったロリコンまんがに於て、犯す男たちが画面から消去されてしまうことで皮肉にもこれらの文体がある程度、男女に共用されてしまうという事態が生じる。
そもそも吾妻ひでおの文体は少女まんが的な〈内面〉表現を一方では擬態していた。また劇画と異なる手塚系のアニメ絵は女性の読み手の抵抗感を軽減する

'84年当時『漫画ブリッコ』には4割程度の女性読者がおり、その多くが高校生ないしは10代後半であった。一つには岡崎京子桜沢エリカの作品が相応に支持を集めていたこともあるが、むしろ吾妻ひでお的なロリコンまんがの方に読者の吸引力はあった。それはこの雑誌の読者欄を見直しても明らかである。読者欄には女性読者のハガキが意図的に採用されているが、そこに添えられた彼女たちのイラストには岡崎京子桜沢エリカの模倣は少ない明らかにアニメ、少女まんが系の絵柄を彼女たちは模倣している

漫画ブリッコ』は雑誌一冊で原稿料総額80万円という編集コスト故にページ単価をぎりぎりまで安くおさえる必要があり、その為、読者欄にハガキを寄せてくる読者のうち、比較的絵が上手そうな連中に声をかけ、まんがを描かせた。ハガキ一枚でまんがが描けるかどうか判断できるのか、と思われるかもしれないが、ハガキ一枚で十分である、とだけ記しておく

そうやって執筆者となった描き手には女の子が多く、それまでの描き手とプラスすると、『漫画ブリッコ』は常時、3割程度女性の描き手に支えられることになる。

雑誌が潰れた後、彼女たちの進路はほぼ3つに分かれた。

一つは岡崎京子桜沢エリカのようにサブ・カルチャー系の雑誌やレディースコミックに作品を発表しながら作家としての地位を獲得していく人々。

二つめは名前を変えるなどして、メジャー系の少女まんが誌で再デビューする人々。

そして、三つめが、そのまま性的なコミックの描き手としてこのジャンルにとどまる人々

無論、これらの進路には描き手自身の才能が強く作用していたが、意外であったのは三つめの描き手の存在である。彼女たちは、性を自分たちの表現に取り込んだ、という点では岡崎京子らのそれに近い。だが、岡崎たちが男たちが描く性を彼女たちのディスコースから描き直す一種のフェミニズムまんがであったのに対し、三つめの選択をした描き手たちはロリコンまんがの文体をそのまま継承してしまう

この類型化された男たちの手による性表現が女性たちに継承されてしまったところに、ロリコンまんがのもう一つの特異点があった。「男の力」が隠蔽されていることが皮肉にもそれを可能にしてしまった。

しかも重要なのは『漫画ブリッコ』に於て最も底辺の、つまり読者あるいは素人に近い描き手であればあるほど、この定型化した文体を援用する傾向にあったことである。そこには性表現の女性たちの領域に於ける大衆化という全く別の事態が進行していたのである。ただそれは決して性表現の解放などではなく、彼女たちのディスコースが男たちの創り出した性表現に容易に回収されていく過程でもあった。実際に実行には移さなかったが、ぼくは女性の描き手による女性向きのポルノグラフィーが成立するのではないか、と当時、考えていた記憶がある

他方ではなるほど、岡崎京子や、あるいはAVに於ける黒木香のように〈わたし〉の表現として、性的メディアが女性たちに作り変えられていくというプロセスが始まりつつあった。そのことは以前、触れた。

'80年代に於ける性的メディアの最大の特徴は、それがもはや男性のみのものではなくなってしまった、という点に尽きる。その中で、黒木や、あるいは岡崎のようなディスコースの批評的な読み換えがなされたことは重要である。

けれども他方で指摘せざるをえないのは、定型化されたポルノグラフィーを'80年代に於て女性の描き手と市場は男たちと共有してしまった、という事態である。

ロリコンまんがに於ては隠蔽してあった「犯す主体」は、性表現が女性の手に渡り、いわゆる〈やおい〉コミック、そしてレディースコミックといった新たな女性向け性表現の場が成立していくにつれて次第にその姿を回復する。

いわゆる〈やおい〉もの、女性読者向けのホモセクシャルものに於て、同性愛カップルの関係が、男役に犯されることによって女役が性的に喜々として従属するという関係が普遍的に描かれ、レディースコミックではエロ劇画の時代に先祖返りしたかと思えるような図式的なポルノグラフィーが描かれるに至る。

〈新人類〉や〈おたく〉表現が隠蔽した「男の力」、マッチョへの信仰は出来すぎたハロディあるいは皮肉として、彼らと同年代の女性たちの性的メディアの中に開花してしまっているのである。だがそれはぼくたちが隠蔽し、延命させたものに他ならない

宮崎勤はその公判に於て犯行そのものは否認せず、しかし、殺害行為の供述に於ては以下のように述べるのみだ。

すなわち、幼女が泣きだすとそれを合図に彼女がネズミ人間を呼び出したが〈その子がまたネズミ人間を裏切ったのでネズミ人間にやられて倒された〉のだと。彼の供述の中には未だ、幼女たちを殺す「主体」は登場せず、「ネズミ人間」によって代行されたままである。

隠蔽された「男の力」はまだ批評の俎上に載せられてはいない。(以下次号)

 

漫画ブリッコ』元編集長の大塚英志によるおたく論。『諸君!』(文藝春秋)で連載中断中だった「ぼくと宮崎勤の'80年代」を加筆・改稿して2004年2月に講談社現代新書から出版後、2007年3月に朝日新聞社より文庫化された同名書籍を底本とし、書き下ろしを加えて星海社から新書化したもの。本稿「マッチョなものの行方」は「新人類と男性原理」と改題され、第6章(pp.117-130)に収録されているが、宮崎勤に言及した最後の一文は削除されている。

漫画ブリッコ盛衰記─なつかしの業界ケンカ史

漫画ブリッコ盛衰記──なつかしの業界ケンカ史

美少女漫画の終末に到る道~誰もが気がつかなかった「昭和60年」の美少女漫画カタストロフ序章

池本浩一

所載『レモンクラブ』1991年8月号~12月号

中森明夫の「おたくの研究」が初掲載された『漫画ブリッコ』1983年6月号)

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ここまでずっと、1年間にわたって「美少女漫画」と呼ばれていた〈エロ漫画〉の新ジャンルが商業誌上の紆余曲折した歴史のなかで、特にエポックとなって重大状況の現場に関わってしまった部分のみをピックアップして書いてきました。

──それぞれの時代に特異点な存在となってしまった代表的な漫画誌の興亡史(これまでロリポップ、プチ・バンドラ、パンプキンなどにふれてきましたが)の一部分について──と、偶然とはいえ行きがかりでそれらの雑誌にかかわってしまったがために波乱の人生を歩むこととなってしまった数々の人物像(これまでに川瀬久樹氏、大塚英志氏、蛭児神建氏、大久保光志氏らの発言などをメインとして取り上げてきましたが)の一断面にスポットをあててきたわけです。

実のところは、ようするに部外者からみたならば単純にばかばかしいだけに過ぎない、新業界人=エリートおたく(嵐獣郎太氏が言うところの〈コミケット・ヒーロー〉たちの成れの果て)同士による、まるで自慰じみた「サル山の小ボス争い」的なケンカではあるのですけれども──、それではなぜ、こんなにまでして彼らが〈美少女漫画同人誌から派生したアニメ系キャラの〉エロ漫画雑誌だけへ執拗なまでにこだわり、またおたがいを憎しみ、怨み、畏れながら寡黙に戦い続けてきたのでしょうか。まるで日蓮大聖人の〈敵は内にあり〉という言葉を思い堀り起こすかのように、あるいは鏡面に映ったおのれ自身にむかって攻撃をしかけ続ける軍鶏のように、激しく敵対しあっていったのでしょうか?

もしかしたら、この世でもっとも信用できない「最大の敵」が自分そのものであるということに無意識のうちに気がついていたのかもしれませんが…。

そうした美少女漫画界にとってのトラウマが増殖されながらに当時の同人誌または商業誌などの主要な関係者の無意識下に巣喰いはびこりはじめていった〈第1潜伏期〉にあたるのが昭和57年末から59年までにかけての「第2次ロリコン同人誌ブーム」のときなのです。

そしてこのときに含蓄されていった不信の心がイッキに解放されてしまう結果となる「昭和60年」(1985年)という慟哭のビッグバンがくることなど、このときには誰すらも気づいてなどはいなかったのでした。

今回からの新シリーズのテーマは《美少女漫画の終末に到る道~誰もが気がつかなかった「昭和60年」の美少女漫画カタストロフ序章》というワケで、コミケットにおける世代交代が生んだセルフ出版=漫画ブリッコの最終兵器〈アオーク〉の残存放射能がおよぼした現在美少女漫画界への影響──について語ってゆくことになるかと思います。

この闘争の結果として漫画ブリッコを去っていったのが大塚英志であり、また「第2次ロリコン商業誌ブーム」の到来を告げる鐘をならしたのがアオークという存在に違いないのです。

そして、アオークといえば当然に触れていかなければならない重要人物こそが森野うさぎでしょう。彼こそが、それまで夢のまた夢のように思われてきた「同人誌の商業化」という概念をモデル化し、また初めての実証実験にも成功して、のちに〈まんがの森商法〉とも呼ばれるようになる「同人誌リンケージによる複合的な利潤追求」を完成させてしまった第一人者なのですから

彼の活躍がなかったなら次の時代を席捲することになるモルテンクラブから現代のMINIESCLUBにいたるまでの「販売活動を重視したサークルによる同人誌制作」が全盛となることもなかったでしょうし、あるいは商業誌でのデビュー以降に即売会を知った漫画家らが「なんの規制もない修整すらもないのが同人誌」と勘違いして続々とコミケットに参加してくるということもなかったでしょうし、コミックハウス系の漫画家が単行本収録を前提にして同人誌原稿を執筆していたようなことや、コミケット直前に発売された号の山賊版誌上の同人誌紹介ページに見開き構成でコミックハウス系漫画家らが参加していたサークルの位置を示した幕張メッセ会場見取り図が載って好評になることや、それらの同人誌の奥付住所がコミックハウス編集部気付になっていたなんていうことすらもなかったであろうと充分に推測できるほどに彼の功績は偉大なものであったのです。

ですからもちろん森野うさぎ氏がアオークに到るまでの足跡についてもふれてゆきたいとは思っております──順を追ってゆくことに…。

といったわけで、さて時代を一気にさかのぼってゆくことになりますが、まずはこの「第2次ロリコン同人誌ブーム」がどういったものであったのかについての説明もしなければいけないでしょう。

具体的なところでは創作系美少女モノからアニメ系美少女モノへの創造対象の変転といった状況が最重要なキーワードになっているといっても過言ではありません。

いまでこそ同人誌といえばアニメのエロパロが(それこそ男性向け創作からやおいトルーパーにいたるまで)代名詞で主流のようになってはいますが、かつてレモンピープルを誕生させるまでの礎石とまでなった昭和56年頃までの「第1次ロリコン同人誌ブーム」の時代においては、じつに現在におけるようなポルノ漫画誌としてのアニパロ同人誌は実質的に皆無な状態にあったのです。

まぁたしかにアニキャラのヌードイラスト誌といった類のものが全然なかったわけではありませんでしたが、後に大ブームとなって即売会場でもジャンルとしてブロックが形成されるほどの勢いになった『うる星やつら』系の一連のエロパロ作品のようにストーリィとしての完成度までも求めた漫画作品としてまでもハイレベルなアニパロなどというものなどはいっさい存在していないというような状態であったのだといってよいでしょう。

この時期までのロリコン系同人誌の主流となっていたのは、ロリコンまんが同人誌の元祖『シベール』であり、いまだ続いている老舗『ロータリー』であり、レモンピープルの直接的母胎となった『人形姫』であり、まいなぁぼぉい先生の『美少女草紙』であり、といった創作同人誌系サークルによるものであって、まだアニメ系同人誌によるエロ物としては、やっと『ヴィーナス』や『IMAGESOFIE(美少女自身)』といったところが出てきたばかりにすぎない時期だったのです。

そして、そのころ活躍していた同人のロリコン系作家の多くがレモンピープル誌上などでデビューするようになってしまうことで、創作系ロリコン同人誌によるブームはいったん鎮静していくことになってゆきます(世間の状況はガンダムの映画化をメインに据えた劇場版アニメブームの真っ最中のころ。アニメ系のサークルにしたところで正統派や健全パロディ派がほとんど幅をきかせていた時代なわけです)。

そして徳間書店による健全美少女漫画誌『プチアッブルパイ』が登場するなど現在の〈エロ漫画誌主流〉となっている商業誌状況からは想像もできない展開さえも見せていたのですが、この時期に同人誌即売会では誰さえもが気づかないうちにジャンルを越えた全体の一大潮流としてのサークル再編現象が怒濤の勢いで進行していたのでした!!

それは男性系のサークルにおいてはメカ(少女メカフェチ)系と美少女系(非エロ系が含まれる)という2つの流れをいつの間にか形成する方向に収束してゆきますが、この「再編」を断行していった新世代こそがマクロス派とも呼ばれる昭和40年以降生まれのカラーアニメ世代だったのです──そんな彼らの動きがロリコンの定義そのものすらも覆すようなことに!! 【以下次号】

(協力/後藤久美子・星☆萌菜架)

 

(あぽことかがみあきらが表紙を担当した1984年8月号)

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さて前回から始まった──この新シリーズでは、あの「パンプキンに至る道」を白夜書房が歩みはじめるキッカケとなったシンボル的存在の漫画誌であるところの『漫画ブリッコ』誌上において、幾多もの権力闘争の嵐をくぐりぬけ、ついには誌上における漫画家のプロデューサー覇権を確立させた大人物でもあり(ちょうどそのころ正式に漫画ブリッコの編集人という肩書きへと昇格になった大塚英志氏が共同編集者であった緒方源次郎氏の無きあと完全な独裁体制を確立していった昭和59年初春から60年初夏までにかけての超絶頂時代・後半期にもっとも隆盛を誇っていた)あの秘密結社「アオーク」の首魁的存在でもあった森野うさぎ氏が美少女漫画史上に標した価値と意義についてを書き連ねようとしているワケなのではありますが…。

(先っちょマガジン『ん』スタジオ・アオーク1984年12月23日発行

まずは延々とはなりますが重要な舞台装置ともなっている当時のロリコン系マンガ同人誌への即売会状況についてと商業誌関係における漫画ブリッコの存在位置などについて等々を先月に引き続いて述べていこうとは思っております(ここらへんの情勢についての説明をキチンとしておかないと「まんがの森」という白夜書房の直営する漫画専門書店がこれからはじまる各種事件に関していかにカギとなる役割をしてきたのかについてが分かりにくくなってしまうとは思いますので──特に東京園以外の読者のひとには地理的な関係が分かりにくいかも──ちょっとむかし話につきあっていただきたく思います)。

というワケで、先月に語ったところまで話題を戻しますと…。ときは昭和56年(1981年)末のこと、すでに一時のブームとしてのロリコン系同人誌から、一ジャンルとしての美少女系同人誌の発芽ともいえる現象さえ起こりはじめていたのです。

基本的にはより同人誌指向を強めてゆく過程において女性系サークル全般のマニア化傾向が美形キャラのホモパロ受けやおい(つまりは製作会社の公認FCを取りたいがためにアニメ作品の出来不出来にもかかわらずの翼賛ヨイショに明け暮れる従来型FC活動からはなれてアニメキャラの非現実的な言動そのものを痛烈に批判するフリーな同人活動)へと主流を移してゆき、これまで不可侵であったキャラの尊厳すべてを破壊し得るという自由さを得ることが、オモテ(商業誌)にはできない本音の主張をできる場所としての同人誌(ウラ)の位置づけを確立していった面こそあり、これに影響を受けた男性系サークルにおいてはメカ(少女メカフェチ)系のサークルが考証主義への程度の偏重のあまりに漫画同人としての意味づけを急速に失ってゆき、1枚絵としての完成度を追及する美少女イラスト系の同人誌群のなかへ収束してゆく一方で、漫画としてのストーリーの多様性に目覚めていった美少女系(非エロ系が含まれる)サークルではアニパロでありながらも物語性のある創作漫画としても「読ませる」作品を目指すようにと試行してゆくようになってゆきます。

この動きこそが読者の存在を意識した(つまり販売されることを前提にしている)同人誌活動を本当の意味において目覚めさせていきました。そしてこれら商業誌的な傾倒を顕著としたサークルの存在そのものが、これまで創作的同人誌活動の本流として純粋に漫技を切磋琢磨する場としての役割を担ってきた大学漫研の存在意義すらも変革してゆき後の個人誌サークル全盛時代への下地ともなってゆくのです。

では一方における商業劇画誌と同人誌との関係状況のほうは──。

一部の同人誌作家のあいだにおいてはエロ劇画誌におけるジャンルとして確立された美少女劇画の未来を試行しつつある動きも出始めてはいたのですが、それにおいてさえまだ同人誌界と三流劇画出版社系の商業誌のあいだには交流といえるような状況はあえて無かったともいってよかったかもしれません。

三流劇画ブーム時代における新志向劇画雑誌からの唯一の生き残りであった『漫画大快楽』においてさえも「ロリコン系漫画家がその雑誌内において3人以上に増えるとその劇画誌は衰退し廃刊してしまう」という当時の劇画編集部が共通してもっていたジンクスを破ることさえできなかったのですから。

《この頃にロリコン系の劇画作家といえばメインとなるのは野口正之内山亜紀)先生や谷口敬(野島みちのり)先生、またあるいは五藤加純先生(まだ中森愛先生は編集者をやっていてデビューしていなかった)という当時ではまだまだ新鋭の若手作家で通していたような面々であったり、評論家になってしまうまえの飯田耕一郎先生であったり、まだリアル志向で劇画らしい絵がらだったころの中島史雄先生だとか、エロジェニカでの連載以来の長編巨匠でもあった村狙俊一先生であるとか、またマイナーSF漫画誌Peke』や自販機本『少女アリス』や同人誌の『シベール』などにおいてロリコンの種をバラまき続けてきた始祖神の吾妻ひでお先生なんていうようなヘタすると現在ではその活動すらみることができないような先生方がドシドシおられたワケですがぁ》。

そして、このころ劇画誌史上初めての早過ぎた試みともいえるような「ロリコン系劇画誌」が初刊行されていたという事実もあるのです。

この雑誌こそ『ヤングキッス』という名称で、ちょうどメジャー漫画誌における第一期のヤングコミック雑誌ブームに便乗しているかのような体裁をみせながらも果敢にも史上初の「中とじ美少女コミック」でありました(ちなみに発行元は光彩書房──なんと『プチパンドラ』以前にもこのようなコミック誌を出していたのですねぇ)。この『ヤングキッス』こそは半年で休刊とはなってしまいますがレモンピープル』より以前の存在していた唯一無二の定期刊行コミックであったのです(──あ、ところでこれでもいろいろと各内容には機を使っているつもりなんですよお。なにしろうっかりするとネタの内容が二本柳俊馬先生や小倉智充先生のお書きになるジャンルの領域を微妙に侵して接触してるモンだからヘタすると…)。

まあ、それはさておいてー、ところで白夜書房なのですが、先月にも少し触れてはおきましたがチョットあとあとで意味が出てきちゃうので統一しておきますが『漫画ブリッコ』は創刊当時からある時点までのあいだまで発行元は「セルフ出版」でした!! このセルフ出版というのは白夜書房の2枚看板にあたる出版社名で、辰巳出版蒼竜社とか桃園書房司書房とか、久保書店あまとりあ社とか、一水社光彩書房なんかの関係と同じものだと思ってくれていいです(まぁ会社によっては一応それぞれを別会社としてわけて機能させているところもあればまったく看板だけの会社違いなんていうところもあるんですけどね)。

そしてまだ当時としては『ニューセルフ』だとか『コミックセルフ』なんていう誌名からもわかるように《元々、雑誌自動販売機専用の安価なエロ雑誌ばかりを作っていた三流出版社》としてのセルフ出版という会社名のほうが業界全体としては有名だったワケで、現在の〈発行・白夜書房〉となっている雑誌のほとんとが〈発行・セルフ出版〉となっていたようなワケです。まぁちょうど現在での白夜書房と少年出版社(現・コアマガジン)の間みたいな状況でイメージチェンジの意味もあって、それまでのエロ雑誌出版社としてのセルフ出版から脱却をしてコミックスと写真雑誌の白夜書房としてのウリをもくろんでいたというわけです(あぁーもう紙面がなくなってしまった)

次回にはセルフ出版と漫画ブリッコ編集長の大塚英志氏との間に深まってゆく対立のなかで「アオーク」がいかに登場してきたのかまで書ければと思うっ──!! 【以下次号】

(協力/藤久美子・星☆萌菜架)

 

(悶々が表紙を担当した1985年3月号)

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ところで、ちょっと継ぎ足して書いておきます。前々回に取り上げた第1次ロリコン同人誌ブームにおけるアニメ系同人誌の情景についての記述のなかで、あとから読み返してみたらちょっと誤解にみえそうな部分があったのでいまから補足をしておきますが《美少女自身》は《IMAGESOFIE》においてはアニメ系同人誌におけるエロ物のさきがけな一冊ではありましたが、サークル全体の活動としての《美少女自身》そのものについては、基本的にサークル代表者であった九浜幼七郎さんにはアニパロ指向があったワケなのですがメイン執筆者であった《はこづめやさい》さんがどちらかといえば創作系の指向が強かったためもあってサークル自体としての《美少女自身》は創作系の同人誌として引き続いていきました(よくあるメイン執筆者の力問係によってサークルの方向性がひっばられていく──ってヤツですね)──ですから《美少女自身》全部がアニパロ同人誌というコトではありませんので──。

といったわけで、まあそれくらいにアニメ系のエロ同人誌っていうのが無かった時代だったワケなのですが…。

そんなこんなで美少女系の同人誌界全体としては読者側からのアニメエロパロ指向の需要こそ強くありながら、まだこの時代においては同人誌サークル全体に「アニパロはオリジナル創作系よりもサークルとしてレベルが低い」というおかしなコンプレックスと思い込みによる偏見が根強くあり、執筆者本人にしても作品にたいしての批判を嫌うあまりに「描きたいものをスキに描く」といってはワザと読者からの距離をおくようなエセ芸術至上主義的な活動のポーズが、はばをきかせていたということもあって、非営利を通り越して絶対「損」主義とでもいったような姿勢がまだまだ多くみられていたのです。

この当時の情勢としてはアニメ系FCあるいはマンガ家FCが全盛の時代でもあり『ヴィーナス』のようなアニメキャラヌード同人誌にしたところであくまでもアニメFCブームから派生したアニメキャラ同人誌群の副産物的な存在としてだからこそ存在しえたような状況でした。それゆえに、このころのアニメ美少女系の同人誌活動としては余暇活動的にみられるコピー同人誌が主流であり、またオフセットで印刷をしたとしても原価販売で百部も作って即売会で戯れてドサクサに売っちゃうのがせいぜい──。とてもじゃあないけどナン千部単位で大規模な通信販売をやったり、漫画専門店の同人誌販売コーナーで横いっぱいに各種ならべてみたり、即売会場に超長い行列を並ばせて表紙フルカラーのオフセット印刷でアニメキャラの〇〇〇イラスト集を売るなんていうようなことなど、だれも予想だにしなかったようなところなのです。

この時代にはまだ、同人誌の発行に原価計算あるいはバランスシートといったようなサークル経営上での経済感覚が未発達段階にあったころですから同人誌活動にしてもあくまでも「発行すること=描くこと自体に意義がある」といった学校内クラブ活動的なサークル意識(会員から会費を集めて入った同人誌を原価のまま会員内にのみ頒布するのが前提であって、会員以外に対する会誌の販売はサークルの存在を一般にたいして告知するための目的のみに許されるといった閉鎖的な学漫タイプの活動)で同人誌を作っていたサークルがほとんどだったわけで、当然のごとくに活動資金(資本)の蓄積もできなければ発行部数(運用資産)の増加もありえないといった再生産性のまったくない活動形態であったのです。

毎年ごとに購読会員に対して会誌の印刷費用を捻出するために年会費を要求しては全額を使いきってしまってあたりまえと思うような、まるで国家予算的な感覚でのサークル選営がこの時代には当然とまかりとおっていたということです。

このような運営のしかたをやっていたのでは毎年に大量の新入会員が入ってくるか、あるいは慢性インフレ的な会費の大幅値上げでも繰り返さないかぎり、今年やっとコピー誌から発行を始めたというような弱小の新規サークルにとってオフセット本やらフルカラー表紙だなんていうモンは十年たったところで永遠の夢物語でしかありえないということがよくわかるのではないでしょうか。

この時代にもっとも大規模に会員制美少女系同人誌サークルとしての活動をおこなっていた旧世代の典型的な会費制サークルとして吾妻ひでおFC『シッポがない』本部事務局長をやっていた大西秀明氏が主宰していた《美少女学》がよい例としてあげられるでしょう。当初『シッポがない』の分派活動団体『美少女愛好会』として昭和56年に発足。アニメックレモンピープルなどの誌上での告知で会員を増やして百五十名もの会員を抱えることで、昭和58年には『シッポがない』からの独立をはたしています(百名以上の確定購読者をなんらかの形で抱え込まなければオフセットの同人誌など発行できえないと思われていた時代だということをお忘れなく)。

その形式上では会員相互の原稿持ち寄りによる金本位制サークルとはいいながら、会員数が百名をこえてしまうともう実質的には常連の執筆会員と予備軍会員(あきらかな購読会員であると同時に将来の執筆者となるべく編集長の添削指導をうけ続ける。また会費という名の印刷費用を負担し続ける)というべき2段階へとうぜん会員は分離されてゆきます。

基本的にすべての会員に会誌掲戴用のイラスト原稿などを執筆投稿することが事実上装務づけられており実体として『美少女愛好会』は編集長の大西氏自身による作家育成のための個人サークルと化していったわけです。

ノルマとリテークについていけずに脱落する新入会員が多発した時期をへて最終的には大西氏にえらばれた「執筆者エリート」と「執筆者にのし上がることが出来なかった一般人」に会員を選別するフルイとしてサークルは機能してゆくことになります。

当初の同人誌即売会の状況においては2百~3百部ていどの発行部数しかない美少女同人誌を確実に手に入れるためには執筆者に成り上がるか、会費=印刷費を収めることで会員頒布枠の恩恵にあずかるか、しか方法がなかった時代でした。

──2年後に大西氏は《美少女学》を発展解消しエリート会員のみを引き連れてオリジナル系の自主流通出版サークル『グライフ出版』を発足させてゆきます…。

多くの下層会員を支配下に抱えることによってはじめて大部数(といってもン百部ていどが限界)の同人誌を発行することを可能としていた会員制同人誌サークルは時代の役目を終わり消え去ったのです。

そんなころ一般的マニアが即売会に拠らない同人誌購入手段として新たに注目し出したのがアニメ雑誌によって急速に発達してきた同人誌紹介欄でした。一部サークルの余剰な同人誌をさばく手段として利用したところが好評であったために各誌がそろってサークルの在庫も考えずに大特集をするほどの過剰状況となるまでそれほどの時間すらもかかりませんでした。──そんな数百部ていどの小部数しか刷らない同人誌がアニメ誌でとりあげられたとしても通販など出来ようもありません──当然に即日完売してしまい、あとには完売通知に汗するサークルと買えずに悲しむ読者が大量発生という次第。なんとか子算をかけずに同人誌の増刷を可能とする方法はないものだろうかということになってきまして、その結果に生まれた方法というのが『復刻委員会』方式とよばれる変形通販だったのですが、これこそ、のちに「クラマガ集件」として同人誌および商業アニメ雑誌など多くを巻き込んだ大スキャンダルの前奏曲となっていったのです。【以下次号】

(協力/後藤久美子・星☆萌菜架)

 

森野うさぎが表紙を担当した1986年2月終刊号)

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あの事件はー、まさにアニメファン系同人誌がブームの絶頂期となっていた最中に数多くのアニメファンだとか同人誌マニアといった連中を巻き込んでの大スキャンダル事件となっていったのでした…。

この当時にマニア向けアニメ専門誌の双盤として一般のアニメファンに対してオピニオンリーダー誌的な権威すらもにおわせていた『OUT』およびに『アニメック』の両編集部をも泥沼のなかへと引きずり込んでゆき、そのあげくにはその事件の当事者が『アニメック』誌上においてまさに詐欺犯として決め付けられて本人所在不明のままに顔写真公開のうえ名指しで罵倒されるという人民裁判のオマケまでもつけてしまった、あしかけ4年にもわたって繰り広げられた、アニメ雑誌・同人誌の15年におよぶ歴史上においてすらも最凶最悪なる汚点的な結末を残してしまったあの事件ー、後世のオタク連中にもクラリスマガジン》事件と呼ばれて憶えられ忌み嫌われた、あの大醜聞事件について….、どうしてもふれておかないというわけにはいかないでしょう。

同人誌を大量部数で発行することによる《経済効果》に対して商業誌の編集部がいかに拘わっていったのかー、と同人誌を雑誌上において紹介することを生業とすることになる書評家たちの出現―。と、次々に発現しては同人誌を〈資本主義の道程〉へと進化を誘っては導いてゆく〈神々のみえざる手〉の正体についてのことを…。

なぜならば、この事件によってこそ現在の同人誌界の状況―晴海国際見本市会場やインテックス大阪みたいな巨大会場で何千サークルも集めた即売会が毎月のごとく開催されたり、フルカラープロセス4色+蛍光ピンクを使って表紙を刷って、さらにはタイトルを金箔押しにしたうえビニールコート仕上げといった商業誌以上で手間のかかった表紙印刷に本文ページにも紙替えやら刷色替え、多版刷りといった超豪奢なヒマー杯の同人誌がオフセット印刷で何千部も作られては売られてゆく、あるいは同人誌出身という肩書きをなびかせて愛読者ン万人という持参金つきでメジャーデビューをする新人漫画家がいるーといった現象のすべてがみえてくるに違いないからです。

それまでのアニメ誌にあったような会員募集のための告知板としてのみに機能していたファンジン紹介欄が時代の変化のなかで無理矢理にもその役割を変貌させられていったのがこの時期にあたるワケです。

いまだにこの会員募集の告知板としての形は『アニメージュ』などのアニメ誌に現在でもうかがうことができます。サークルガイドのページを開いてみてください。編集部があくまでもタテマエとしての〈サークル入会申し込み〉のための告知板であるという形式をまもっているために、各サークルはPR欄に会誌の発行形式(つまり季刊とか隔月刊とか)、会員数(要するに全国に愛好者仲間が3名いますとか)、入会金(まあ会員証の発行費用に五百円分必要ですとか)、会費(6ヶ月分の会費が1200円ですみたいなの)などのデータを掲示しなければいけないことにはなっているのではありますがぁー実際にはほとんどのサークルが、会誌の発行形式といっても発行物そのものがコミケごとの単発ネタ本だから当然に不定期刊行物なわけだし、会員数といっても執筆スタッフだけが若干名いるのみだし、とうぜんに入会金はナシで、会費も〈誌代としてン百円+送料・購読者のみを募集〉、といったかんじで事実上は同人誌の通販案内となっているようなコトなのです。

もう8年近くも前の時点ですでにアニメファンサークルという形態そのものが、一般アニメファンの中から突出し始めた一部のアマチュアリエーターたちによって、アニメ級作者やアニメ誌の編集者といった業界人の世界に自分たちが繋がるために必要な中観点として、自らが先生という存在に成り上がるための習作発表の場としてサークルの存在役割を変容させるようになってきており、愛好者同志のなかよしクラブとしての機能よりは会誌販売そのもののための媒介手段へと変貌しちゃっていたのです。

しかし、それにもかかわらずほとんど多くのアニメ情報(同人誌マニア同志が交流するために当時からあった唯一の受け皿でしょう)は、又いまだに現実の同人誌状況を直視もせずに安閑とした記事構成をつづけて(あるいは気がついているにもかかわらずにワザとを閉ざしているのかもしれませんが)いるままにあったのです。

まだそのころにおいては『レモンピープル』すらもやっと創刊したばかりの頃のこと、〈サークル〉の紹介ではなく〈同人誌〉そのものを誌上において紹介してくれるような商葉媒体といえば『ぱふ』『ふゅーじょん・ぷろだくと』などのような超マイナー系の漫画評論誌以外にはなかったと思われていたような時代であったわけですから…。

そこへアニメ雑誌系列として初めて、同人誌に対しての誌上書評欄を本格的に開始することによって実質的には初めて同人誌の通信販売活動を積極的に推し進める役割を担ったのが『アニメック23』からの連載となる〈ファンジンは今〉となったわけです。他のアニメ情報誌においては読者層がどうしても未成年者中心となってしまうがために積極的には打ち出すことができないままでいた〈モロに売買仲介そのもの〉である同人誌紹介のページ構成についても『アニメック』の読者層が他誌より5歳以上も高いというヘンな利点に救われてイケイケになったといっていいでしょう。

前回に取り上げた吾妻ひでおFC分派の「美少女学」であるとか、またサークルの代表人をやっぱり『アニメック』の編集者がやっていたという野口正之FC「妖精人形」などのように通販そのものによってサークルの同人誌発行規模を続出してゆくようにまでなってゆきます。

それはサークルによってはその発行規模を200部から2000部へといきなりの10倍増をさせ、現在の同人誌界においてすらも大手サークルとも居並ぶほどの発行部数をいきなりに売り尽くしたというほどの職異的な出来事であったわけです。

もちろんいきなり未経験者に千部以上もの同人誌を発送させようと思ったところでなかなかに出来るはずもありませんから当然にトラブルも起こってくるわけで…、編集部には通販サークルとこまめに連絡をとりながら、または発送作業を実質的に代行までしたり、また在庫不足のときなどには増刷方法のノウハウを伝授したりまでするなど余計な新しい仕事までが増えてきちゃったりなんかもして。

まぁこの同人誌紹介の企画によって、これまで同人誌などというものを手に入れることなど考えもしなかった地方のアニメファンを定期購読者に引き込み、そしてまたロコミによって新たなる同人誌情報めあての読者暦の開拓までが可能となったりと華やかなことであったというのも事実ですからー。

アニメック』による誌上通販によって、有名同人誌が即売会にいかなくても購入することが出来る!!ー感づいてしまった同人誌マニアたちの動きは、それまで即売会中心であった同人誌状況に新たなる展開をおこしてしまいます。

実はコレこそ〈大人数の会員制によって運営をされるFCや学漫タイプのマンモス同人誌サークルが会員数にまかせて群雄割拠していた旧漫画大会的な同人誌即売会〉から〈執筆者がメインのキャプ翼や聖・星矢などの女の子創作系同人誌サークル中心の現代型同人誌即売会〉にコミケットが生まれ変わる本当の原動力となっていってたのです。【以下次号】

(協力/後藤久美子・星☆萌菜架)

ー次回は『クラマガ』というバブルが如何にふくらんでいったのかだっ!!

 

5
とりあえずで、まっさきに書いておきますけども、このところ数ヶ月続けてここに書いている「美少女学のてんまつ」だとか「クラマガ騒動」といった件については、あくまでもこの第3部《ブリッコ盛衰記》の前振りとして、どうしても必要不可決な同人誌史上での出来事であると判断をしたから書いているわけですがー。

なにも一夜が明けたら「商業誌という存在をバックにして超大部数の同人誌を発行する巨大な執筆者集団」がイキナリに存在をしていたというようなワケじゃないですから、当然にソレに到るまでの社会的な経過というものについても書いていかなくてはならないわけでぇ…。

なぜ「内輪にこもりがちなアニメファンクラブタイプの会員制同人誌サークル同士の交歓の場でもあり、あるいは新しい同志を獲得するためのサークル広報の場」であったはずのマンガ同人誌即売会が、どうして現在に多く主流となっているような「非会員制組織で少数執筆者主導によって即売会での同人誌販売を活動の中心にしている」ようなサークルと「サークルが販売している出版物を唯一まとめて効率よく購入できるという利点のためだけに集まってくる何万人ものマニア連中との中間に入って売買上のトラブルを調整するために存在する一種の流通シンジケート組織へと変貌していくようになったのかーだとか、商業誌の編集部が同人誌というモノを商品としていかにつくりあげて、それを内部に取り込んでいったのかーといった(同人誌界における)社会的な情勢についてをまえもって書きつられておかなければ、なんで唐突に「商業誌をバックにした超大部数の同人誌を発行する執筆者サークル」(引用者注:同人誌のみならず『漫画ブリッコ』といった商業誌でも活動していた森野うさぎ中心の同人サークル「スタジオ・アオーク」のことを指すと思われる)が可能になったのか〈本来なら商業誌編集部にとっては作家に同人誌などというお遊びに熱中されることなどは迷惑以外のなにものでもないはずなのですから〉説明がつけられないのではないかと思ったからなのではありますが、なんかいきなりに前振りなしにまったく別の話題に移ってばかりいるような分裂症的な印象をうけてしまっている読者のみなさんもいるようでしたのでー。

あえて言っておきますが、いままでに書いているのはあくまでも本題に入るまえの〈前振り〉ですからーまだ当分の間は続くと思いますけども…、この「同人誌バブル」現象にかかわってくる象徴的な原罪といえるような出来事についてできるだけ多く、具体的に書いておこうと思っておりますので…〔毎回、とにかくいそいで書かなければいけないことが多すぎてどうしても未消化ながらにワープロで打ち出した文章を制限文字数オーバーの為に泣くなく無理やり半分くらいに削って載せているために(さらに私の文章構成能力が拙いばかりに)ただイヤミを言っているだけで論旨がまるではっきりしないわかりにくい文章になってしまってすみません〕。

といったようなワケで今回はまた枕話が長くなってしまいましたがぁ、やっと前回からの続きー。

とにかく、この「クラマガ事件」があったからこそ現在のように〈同人誌という存在が商売として成り立つ〉ということに周辺業界の人々が気がついてしまったのです。

もちろん誤解もけっこうありました。いまでもかなりの同人誌マニアと称する輩ですらも漠然と信じている〈何万部も売りまくってガッポリ儲かる〉式の勘違いが生まれたのがやはりこの「クラマガ事件」からなのですから、のちに同人誌界およびマイナー系の出版業界に与えた影響はことごとくでしょう。

すくなくとも同人誌の通販活動においてサークル側と購読者のあいだにおこるさまざまなトラブルの遠因として〈購読者がサークルに対して抱いている過大評価、およびにサークル側のほうでも自分たちが購読者たちから過大評価をされているのだということに気がついていない〉という認識のズレがあることは事実です。古代同人誌市場における会員制サークルという組織形態においては読者であるところの会員と同人誌の発行者であるところの会長との間では、当然のごとくに自分の所属するサークルの会誌の発行部数がン百部であって原価がナンボだけ印刷費としてかかっているのかトカ、すべてが認知されていたわけですから過大な「儲け主義」だとか「暴利を貪る」といった幻想など出てくるはずもなかったワケです。

ところが同人誌読者がことごとく「会社の成長を見守りつつ株主配当を待つ」ことを止めて「会社へ運転資金を投入し利潤をあげさせることで売買益をねらう」ような存在となってしまってからはもう、株主不在な株式会社みたいなものです。読者自身が〈あのサークルは大手だから〉といった自ら作り上げた虚像にすがりつき、またサークルにしてもその読者が築いた虚像をまもるために、さらに薄利多売へ直進するといった状況が根底にあったワケです。

ーが、それにしても購読者の描いているサークル虚像は大きくなり過ぎているのです。

サークルの皆さん!! 貴方がたの作っている冊子の発行部数のことを通販購読者は5倍増で見つめているのですよ。もしも貴方のサークルが500部の同人誌を発行していたとするなら読者には2500部も刷っているサークルなんだと勘違いされていると思ったほうがいい。

直接に即売会に同人誌を買いにくる読者にしてもほとんどが2倍増に発行部数を錯覚している(500部しか刷ってないサークルだったとしても1000部以上は刷っていると勘違いされている)者がほとんどだということですから、自分のところは弱小サークルだから関係ないやと思わないでくださいね。

そして同人誌を即売会まで買いに行ったことのあるみなさん、あるいは通販で同人誌を買ったことのあるみなさん! 貴方の考えているほどにほとんどのサークルはデカくはないのですよ。

ここのサークルは1万部以上も刷っているに違いないと思ったとすれば、実際のところは2000部から多くても5000部以下だと思ったほうがいいですよ。そして大部数を刷るっていうことは「暴利を貪る」ことじゃあなくて1冊あたりの単価を安くして買いやすい値段にしようっていうことなんですよ。

ーってあたりで同人誌関係者全般へのフォローはいいかな?

どうもこのところテキが多くなっちゃって…(ちなみに前段での発行部数の認識調査は2年前に『アットーテキ』で同人誌棚を担当していた当時に実施したアンケートから)。

まあ、それは置いといてー。

クラリスマガジンがその商業誌上において大々的に取り上げられたのが『アニメック17』(昭和56年4月発行)の特集記事「“ろ”はロリータの“ろ”」からであるということは絶対に忘れないでおいてくださいねーそれ以前には、あくまでも東京の同人誌即売会というローカルかつ限定された場所においての内輪ネタとしての存在にしか過ぎなかったのですから。

全25ページにもわたってアニメ誌の巻頭においてロリコン美少女特集があったという事実ーこれこそ空前絶後といってよい大特集です。

そして、そのなかでアニメ美少女の代表格として大々的に取り上げられていたのが『カリオストロの城』のヒロインであったクラリスというワケだったのです。

そして丸々1ページ近くも使って新聞大見出しなみの大活字で「クラリスマガジンも大活躍だ」としてこのAWSC発行による同人誌を大々的に宣伝しているのです。

東京のロリコンならもっていない人はいないという『クラリス狂専誌』があるのです。その名はズバリ『クラリスMAGAZINE』〉【以下次号】

(協力/後藤久美子・星☆萌菜架)

―当分の間はクラマガ篇をやります。すっ、すみません。

 

フレッシュ・ペーパー【肉新聞】No.10(編集人/青山正明)

Flesh Paper 肉新聞 No.10

編集人=青山正明+股見けい子




 

リーガルドラッグ体験手記 その2 コルゲンコーワ鼻炎ソフトカプセル

序文

その使用が何ら法的なお咎めの対象とならないトビ薬リーガル・ドラッグ。薬草、漢方薬、市販の薬品、はたまたバナナ・シガレットにレタス・オピウムと、その種類はたくさんある。「合法幻覚剤全書」のコーナーでは、それら一つ一つについて詳細なる解説を施している訳であるが、それと併設して、この「リーガル・ドラッグ体験手記」では、それらリーガル・ドラッグを実際に筆者自ら服用し、その効能を実体験にそって綴って行く。先々月号の“ナッメグ”に続いて、第二回の今号は、一般用市販薬である「コルゲンコーワ鼻炎ソフトカプセル」

医師の処方箋無しに買える一般用市販薬に含まれている成分で、トビ薬として有名なものに、ケシから抽出されるコデイン、麻黄から産するエフェドリン、チョウセンアサガオのエキスであるダツラ・アルカロイドベラドンナのエキスであるベラドンナアルカロイドハシリドコロの成分ロートエキス等がある。

今回服用した「コルゲン~カプセル」には、エフェドリンベラドンナアルカロイドがタップリと含まれている。

 

本文

5月28日(土)、荻窪駅近辺の薬局で「コルゲンコーワ鼻炎ソフトカプセル・24カプセル」を1600円で購入。

同日、PM11時、実験開始。ドラッグで飛ぶ(いい気持ちになる)には、それなりのシチュエーション作りが大切だ。いくら良質のマリファナがあったところで、みんなでガヤガヤやっていては素晴らしい体験は期待出来ない。

まず、部屋を暗くして、ろうそくを2本ともす。そしてBGMには、イーノの「オン・ランド」。座禅を組み、ろうそくの沼を見つめながら心を静める。まだカプセルは服用(の)んでいないが、こうやって静かに畑を見つめてすわっているだけで体が宙に浮くようでハイな気分。一回一粒、一日三回の用法であるカプセルをまずは、6つ、水で喉に流し込む。

PM11時半。

体表に薄い電気の膜がかかっているようだ。特に肩から首、後頭部にかけて、皮膚がジンジンしびれる感覚がする。非常に気持ちいい。

PM11時45分。

さらに6カプセルを服用(の)む。

PM12時30分。

心臓の鼓動が激しくなった。しかし、体全体が不快に鼓動するのではなく、左胸部でトコトコと、“心臓が小気味よいリズムを刻んでいる”といった良質のものである。じっとしていると、頭の表皮が激しくしびれ始める。そのうち、そのしびれが頭全体(内も外も)に広がり、頭に大量の麻酔薬を注入されたような状態になる。一寸、気を取り直して、姿勢を正すと、麻痺感は去り、普通の状態へ戻る。しかし、しばらくすると再び頭部が麻痺してくる。

AM1時。

少し嘔吐を催し、フトンに入る。そのまま寝入る。

AM3時。

心臓の鼓動が異常に速い。一分間に200回前後の心拍数である。吐く程ではないが、気分が悪い。

AM3時15分。

小用に立つ。一歩足を進める度に、心臓の鼓動は速く大きくなり、吐き気が襲って来る。平衡感覚が全く働かず、フラフラとしてまともに歩けない。

先に実験したナツメグと同様、立っていると頭の中に炭酸水でも入っているかのようなシューッという感覚がする。また、ジーという、これもまた炭酸水の泡が無数に飛び散るような音が聞こえる。10歩も歩くと、体中が心臓の鼓動で激しく脈打ち、胃はむかつき、頭の中では、血が沸き立ったような感覚。ジーッというアブラゼミの鳴き声のような音が鼓膜を襲う。幻聴である。

また、視覚が異常をきたし、色と光が日常と異なって見える。

トイレの壁にかけてあった少女の絵(レーノルズの「ヘア君」)のバックの緑が、パーッと輝いて、その光で少女の姿が全く見えなくなっているのだ。

(レーノルズの「ヘア君」のバックの緑が、パーッと輝やいた)

幻聴と幻視。この2つの特異な体験を得られたものの、気分はとても悪い。

横になると気持ちいいが、起きると吐き気。こんな状態が少日回一日中続き、月曜の朝になりようやく元の状態に戻った。

それでも、月・火と食欲がなく、喉が渇き、気分最悪。

 

結語

5~6粒に留めておけば、適度に激しい心臓の鼓動と頭部のしびれで、一日ボーと快適(?)に過ごせるだろう。

12粒というのは、幻聴、幻視は経験出来ても、前記の通り、麻痺感と嘔吐感、そして早鐘のように鼓動する心臓と冷たい血の渦巻く脳。そして著しいめまい。

これらマイナス要素を考えると、2カプセルというのは勧められない。

 

正明君のリーガルドラッグ奮闘記

フレッシュ・ペーパーも、もう来々月の10月号で連載二年目に入ります。連載当初は、ドラッグの事なんかこれっぽっちも知らず、只々ネタ探しに東奔西走。日本では、群雄社出版でレイアウトやってる神崎夢現さんがその道の大家。何回か三鷹の御自宅におじゃまして、参考になる話をたくさん聞かせてもらいました。アリガトサン。他にも、大麻不法所持で逮捕歴のある友人数人にも、体験に根差す貴重な助言をいただきました。

しかしながら、すでに日本の雑誌や文献に紹介済みのネタをゾロ持ち出して書き写してちゃぁ週刊プレイボーイになっちまう。このフレッシュ・ペーパーの執筆に当たっては、本邦未公開の資料、それも信頼ある研究者の筆なる確かな洋書をマスター・ソースにしています。また、併せて専門の薬学書、薬用植物図鑑、漢方大医典等で、日本での研究状況も出来得る限り渉猟し、原稿を認めているつもりです。時間が許せば、もっと足を使って取材もしてみたい。しかし、ウィークデーは仕事があって全く身動きのとれない身上。今年の秋には有給でも取って、白夜の編集の人々とキノコ狩りにでも行きたいなあ。

さてさて、一年余りの連載で買い揃えた資料は凡そ十万円分。知識も大分備わったつもりです。でも、あまり詳しく突っ込んで書きだすと、雑誌としての機能(読み捨て)から逸脱してしまうし、かといって、分りやすく軽薄に手広くやっても僕自身が欲求不満に陥ってしまうし。

また、この雑誌内新聞では、読者が読んですぐ実行出来るようにと、合法ドラッグを主に扱っているのですが、やっぱりドラッグは違法のモノホンでなくっちゃグッド・トリップ出来ないんですよね。

毎月簡単にポイポイ執筆してるみたいだけど、自分で試して“ヒドイ”というので、わざわざ資料を揃えながら掲載を断念したリーガル・ドラッグもたくさんあるんです。エフェドリンの原料である麻黄、総アルカロイド7%という黄速、4月号で紹介した菖蒲根、精神安定剤として有名な漢方香附子。原宿にあるイスクラ薬局に通って、これらを取り寄せ、吸ったり、煎じて飲んだり、オブラードに包んで呑み込んだり……。金はかかるわ、まずいわ、ゲーゲー吐くわ、いやー体を張った原稿です。

体内の二酸化炭素量が増すと幻覚を見るというので、息を4分間止めたり……確かに目前がキラキラしたけど……苦しいだけでした。はたまた、副腎皮質から分泌されるアドレナリンが体内でアドレクロームとなると、これの化学構造がアンフェタミン覚醒剤)と酷似していて、人に幻覚をもたらすということを何かの文献で発見。アドレナリンを分泌するには、肉体を極限状態に置かねばならないというんで3日寝ないで、体中をカミソリで傷つけたり……はしませんでした。あとまあ、バナナの繊維で作ったタバコとか、レタスの芯から作ったオピウム(阿片)だとか……今後、一つ。一つ試してみるつもりです。

一万七千円払ってペヨーテ三つ買っちゃったし、シンセティック・マリファナ(化学合成された合法マリファナ)も入手出来そうだし……先は明るい!

アメリカ版リーガル・ドラッグの文献も2冊見つけたし、それらリーガル・ドラッグのカタログも大量に入手したし……ウヒヒヒヒ。今年の夏から誌上でドバーッと大放出しますので期待してて下さいね。

付言ながら、今回の「リーガル・ドラッグ体験手記」でもちょこっと触れたけど、瞑想ってのも実に気持ちいいもんだね。松果腺からLSDが分泌されるっていうしね。

あっ、それから、女性が中絶する時、ヘロインを注射するって知ってた? “中絶してトリップ男性にも中絶手術を!” なーんてね。

 

ベラドンナ

ヨーロッパでは紀元前から毒殺用植物として悪名高いナス科の植物。中世ヨーロッパでは、魔女たちがベラドンナアルカロイド(植物塩基)を用いて、“空飛ぶ軟膏”を作り、これをほうきの柄に塗って肛門や膣に挿入し、トリップしていた(ほうきに股がった魔女というのはこれから出たイメージ)。また、この植物の一滴を眼にさすと、瞳孔が拡大するので、女性が瞳を美しく見せるために好んで用いていた(日本の目薬にも最近まで入っていた)。ベラドンナというのは、イタリア語で美しい貴婦人という意味だ。詳細は11月号を。

 

エフェドリン

重要な漢方薬の一つである麻黄から抽出されるアルカロイド。発汗、解熱、鎮咳作用があり、喘息の特効薬としてよく用いられる。化学構造がアンフェタミン覚醒剤)に酷似していて、反感神経を刺激し、連用で不安や幻覚を見ることがある。以前は、ピュアなエフェドリンが一般用市販薬として販売されていたが、現在では医師の処方箋が無いと入手不可能。カゼ薬、鎮咳薬に微量含まれている。

 

ベラドンナアルカロイドエフェドリンを含んだ主な薬剤。

●コルゲンコーワ鼻炎ソフトカプセル(興和

 di塩酸ノルフェドリン75mg

 ベラドンナアルカロイド0.4mg(3cap中)

コンタック600(住友化学

 ベラドンナアルカロイド0.2mg(1cap中)

●ルル鼻炎カプセル(三共)

 ベラドンナアルカロイド0.2mg

 無水カフェイン50mg(1cap中)

アルペンせきどめ(中外製薬

 リン酸ジヒドロコデイン5mg

 メチルエフェドリン12.5mg(10ml中)

●新エスエスブロン液(エスエス製薬)

 al塩酸メチルエフェドリン45mg(30ml中)

●せきどめベンザ(武田薬品

 dl塩酸メチルエフェドリン25mg(3錠中)

パブロンせき止め液(大正製薬

 リン酸ジヒドロコデイン30ml

 dl塩酸メチルエフェドリン75ml(30mm)

●新コデジール錠(日野薬品)

 リン酸ジヒドロコデイン30mg

 dl塩酸メチルエフェドリン75mg(9錠中)

●サラリン錠(大塚製薬

 ベラドンナエキス3mg(1錠中)

(これは猛烈に効く下剤)

尚、総合感冒薬は割愛しました

 

私は毎日新聞のお嫁さんになりたい!!

(これが毎日新聞1983年5月29日付に掲載された問題のイラスト)

やったね! パチパチパチッ。私は惜しみない拍手を毎日新聞に送りたい。

最近、大麻禍が芸能界を席巻してるみたいだけど、大麻を吸ったことのない芸能人、文化人などいるわけがないのである。

こんなことでいちいち逮捕してたら日本中の芸能人、文化人は皆摑まっちゃうよ……と私は言いたい。まあ、沢田研二クラスとなると、いくらパカパカやってても警察も見て見ぬふりなんだろうけどね。

ところで、先月号のFPでも触れたように、井上陽水らが逮捕された時は、マスコミの大麻総攻撃に反して、只一つ、毎日新聞だけが「大麻で騒ぐなんて後進国」と、担当記者のネーム入りで論陣を張って頑張ってくれたのだが、今回の騒ぎに対しては、過激な毎日さんもダンマリという姿勢かとガッカリしていた。

しっかし、やりました。5月29日付の日曜くらぶで、「マリファナ節考、老人を処分することも、大麻を処分することもいけないことなのであります」と、イラストでマリファナ擁護をやってくれちゃったのでした。日暮真三なる人物は、次のような台詞をふきだしに入れていました。

「それにしても、最近、『大麻を持っているとの情報に基づき』次々に捕まっているけど、誰が情報を流しているんだろうね。気持ちワルイね」

気分爽快。毎日バンザイ! 大麻バンザイ!

 

P.S. 毎日新聞で何度か大麻擁護をブチ上げた記者さん、それが理由で左遷されちゃったみたいです。あくまで、噂ですけど。麻生結氏なき第三書館然り、毎日新聞も、今後はもう大麻解放を謳った記事は載せないでしょうね。(1999年9月/データハウス刊『危ない1号』第4巻「青山正明全仕事」所収)

 

SFロリータポルノ小説「ロリータメコちゃんねたまれた学園」第5回

作/ケイ・マタミーノ

メコは気がついた。頭に鈍痛がある。

「ここはどこかしら」

メコは身動きひとつできない。両手足に重い鎖がつながれている。

「そうだわ、サーティワンで雅美ちゃんと別れたあと、うしろから誰かに口をふさがれて……ああっ、頭が痛いっ」

「路里田メコ。気がついたようね」

一人の女がメコの顔を覗き込んだ。

「あなたは何者なの、何の理由があって私をこんな目に合わせるの」

「私は岩崎純子。青山手の学生よ、先日はあんたんとこのチビをかわいがってやったわ」

「そ、それじゃああなたがあかねちゃんを……」

「そうよ、そして次はあんたの番!」

純子の背後の人影が一歩前へ歩み寄った。彼の姿が薄明りに照らし出されるやいなや、メコは悲鳴をあげた。いつかテレビで見た「エレファントマン」のジョン・メリックのようにまた、彼は重度のレックリングハウゼン病患者だったのだ。それもその筈、その男はジョン・メリックの孫にあたる、ジョン・メリックⅢ世なのだ。ジョンはヨタヨタしながら身動きできないメコの顔に自分の股間を近づけた。

「いや──っ、やめて──っ」

メコは頭を左右に振る。ジョンはすでに全裸になっている。できものだらけの体に、だらりと性器が垂れ下がっている。性殖器だけは正常なのだ。正常どころではなく、40cmはある立派なものだ。エレファントの鼻のようである。ジョンは気味悪い声でメコ、メコと呟きながら、ブラウスとスカートはそのままにしてパンティだけをメコの肢体から剥ぎ取った。手足につながれた鎖のせいでメコは抵抗することすらできない。

「おねがい、やめて──っ」

メコの股間からキラキラ光るものが溢れ出す。あまりの恐しさで失禁してしまったのだ。ジョンはすでに大きくなっている一物を、そのキラキラ光る泉のあたりに力一杯突きつけた。「ああーっ」メコの悲痛な叫びが響いた。あたり一面に処女の鮮血が飛び散った。裂けてしまったメコのメコにジョンは容赦なくものすごい勢いで突進してくる。入れたり出したり、入れたり出したり。……普段おとなしいエレファントが興奮すると恐しい野獣に変身する。ジョンも同じだった。メコは最初の一撃ですでに気を失っていた。ジョンの後ろには3匹の野獣が自分の順番が来るのを待っている。メコのメコやいかに? 次号を待て!

 

Fresh Sex News【セクスポ82】

セクスポ(Sexpo)というのを聞いたことがあるだろうか。セックスとエクスポの合成語で、去年、ニューヨークで催された“性の博覧会”の呼称である。当日、ニューヨークで最も有名でファッショナブルなパーティ・スペースの一つである、パーティ・ファクトリーに4つの会場が構えられ、そこに百店以上の大人のオモチャ屋が設置された。

4日間にわたって開催されたセクスポ82、もちろんその主旨は、今日の成長産業である“セックス産業”の販売促進であることは言うまでもない。

セクスポ82では、性活動の報告、フィルム、ビデオ、本、ランジェリー、クリーム、バイブレーター等がところ狭しと陳列棚にひしめき、数千人の客と多大なパブリシティを勝ち得たという。

ポルノグラフィ禁止をうたう女性団体の争議もあったようだが、大きな騒ぎになる前にセクスポ4日間の幕は閉じられたようだ。主催者側は、来年はもっと出品者を募り、より充実した博覧会にするとのことである。

しかし、こういう大規模な動きというのは日本のセックス産業にはないねー。日本でセックス産業って言うと、トータルすれば年間兆単位の収益をあげているのに、“超大手”とか“メジャー”な会社が一つもなくて、何かウジウジしてて日陰的存在なんだよね。

プレイボーイとか、ペントハウスなんか集英社講談社が出す本じゃないでしょ。あれは、日本で言えば辰巳とか笠倉とか白夜が出して然るべき雑誌ですよ。日本では、オカルト、ドラッグ、バイオレンスを基調にした欧米のようなサブ・カルチャーも存在しないしね。みんなが体制なんだよね、日本文化って。

もっと、恐しくて、刺激的でヘンテコな文化をつくろうよ。高杉弾さん、今度一緒にお食事でもしましょうね、そちらのおごりで。

(伝説のカルト雑誌『Jam』『HEAVEN』元編集長の高杉弾青山正明が業界入りするきっかけを作った、日本のアングラ/サブカル界の元凶的存在)

 

青山正明の時事呆談

新聞読んでます? なーんとびっくらこきました。

小学校六年生の少女が25才くらいの男性と同棲、覚醒剤までやってたっていうんですからねえ。所は大阪、東淀川区内にある小学校の六年生である少女Aは、昨年9月中旬に家出。キタやミナミのゲーム・センターで遊んでいるうちに男と知り合い、西区の民家で同棲。いやー、羨ましい限りですねえ。なんせ、毎日毎晩女子小学生とおまんこしながら覚醒剤ですよこりゃー、我々一般庶民の50年分の快楽を数ヶ月間に濃縮したようなもんですよ

さらに大阪じゃあ、ヤクザ屋さんのこしらえた女子小学生本番ビデオ『処女の泉』というのがあるらしい。いやー、大阪って本当にヤクザですねえ。実に羨ましい。東京でも歌舞伎町なんて所は、おまんこ大好き家出少女がたくさんいて、裏ビデオなんかもドバーッとあるようだけど、規模が小さいしね。それに、最近、“歌舞伎町を浄化しよう”という住民運動なんかも盛んそうだし、ある知り合いの大学教授の話では、5年後を目処に、新宿からセックス産業を一掃し、それをそのまま吉原に持ってって赤線を復活させようなんて計画もあるらしい。

全部が全部ヤクザになっちゃ困るけど、大都市の片隅に無法地域があってもいいと思うけどなあ。

今年の夏は、タイにでも行って少女とお○まん○こしながら、大麻でも吸おっと。金が無くて、海外旅行出来ない貧乏学生の君! 横須賀のドブ板通りで米軍兵士から大麻買って、早朝の歌舞伎町のゲーム・センター前で、家出中学生でもひっかけてボロ下宿に連れ込めばいーんじゃない。勇気と行動力さえあれば何だってやれるさ。

 

 

【サングラス】

ケネディフレイザーというファッション・オブザーバーが、ファッショナブル・マインドという本の中で、「水着は年々小さくなっているが、サングラスはそれと反比例して大きくなっている」と報告していた。

彼女が言うには、「サングラスは、女性にとって上品さの最後の境界」ということらしい。セックス本位の男女の出会いに対して、もっと、“情緒的で本質的な事柄”を尊重したいという女性の欲求が、自らの顔にマスク(サングラス)をつけることにより、“貞節な思い”を守ろうとしているのだ。小股の切れ上がった恥丘もろ出しの水着を身につけた大胆なチンポコ大好き少女でも、サングラスなんかかけてる娘ってのは、少しは羞恥心があるのかもしれないねー。

でも、日本人の女って大きなサングラス似合わないんだよねー。鼻が低いから。

 

Fummy Commodity Of The World 奇妙な商品♡カタログ

ウェット・Tシャツ

今、アメリカの若者の間で流行ってるファッションにWet-T-Shirtsというのがある。よく、エロ本等で、モデルが濡れたTシャツを着て乳首クッキリなんてのがあるでしょ。あれです、あれ。あの濡れたTシャツを普段着にして町に出るというのがウェット・Tシャツなのです。

このウェット・Tシャツ。プレゼントとしても大人気だそうで、アメリカはニュージャージー州にあるW・T・Sという会社では、水の入ったジャー(大きな口広ビン)にTシャツを詰めて通信販売しています。

普段の乾いた状態で見るTシャツと違って、ウェット・Tシャツは濡れている時の色とサイズで品選びをしないと、後で濡らして、「おっ、やばい」ということにもなりかねない。

ウェット・Tシャツなんか着て冷房の効いた茶店なんか入ったらかぜひいちゃうね。

W.T.S.Co.

Box325,Hazlet,Nem Jersey

07730 USA

Wet・T・Shirts $10.95プラス $2.50(手数料)。

サイズはS・M・Lの三種。色は白のみ。

 

キュクロプス・TV・スコープ

先月号でドドーンとやった特殊メイクのネタが今回はちょっと滞ってまして……それでも、まあ、頑張ります。

先日の6月1日映画日、新宿グランドオデヲンで、『13日の金曜日パート3』を観た。もちろん見物は3D(立体)方式によるグログロシーン。

まっ、立体映画なんてのは、『オズの魔法使い』等々、昔からあったんで、お父さんお母さんの年代の人にとっちゃ、そう珍らしい代物でもありますまい。しかし、テクノロジーの80年代。20年も30年も前の立体映画とは迫力に差があって当然。

僕なんか、もうのっけのタイトルでド肝を抜かれてしまった。真っ赤な字がビロビロビローンと鼻先30センチぐらいの所迄伸びて来るんだもんね。音楽もまた、ニューウェーヴ調のリズムで迫力満点。

とにかく、蛇とかバットとかTVのアンテナとか、細くて長い物なら、びっくりして思わず目を閉じてしまう程近くを飛び出して来る。

一番の圧巻シーンは、狂人が両手で青年の頭を押し潰す場面。潰された青年の眼孔から眼球が飛び出て、それがそのままスクリーンから観客の所迄ビョーンと飛んで来るというキワモノ。

監督のスティーブ・マイナーとスーパーバイザーのマーティン・ジェイ・サドフによるスーパー3D。もう、遊園地に行ってシャトル・ループにぶっ続けで一時間乗ったという感覚の映画でした。いっしょに行った股見けい子は、あまりのショックに「止まっていた生理が復活した」というアクシデントに見舞れた。

ところで、この3D方式。既成の映画作品全てこの方式に作り直せるそうで、ジョーズⅢはもろに3Dを売り物にするそうです。

さて、オモシロ商品の紹介に付入ります。アメリカで、キュクロプス・TV・スコープというのが売られてまして、なんでも、これでTVを見ると、番組が全て立体に見えるそうであります。けど、これを使用すると、かなり頭と目が疲れるそうで、子供には使用させてはいけないとのこと。それと、何故か18才未満は申込み不可だそうです。

BS&A

Box02246 Clumbus,

Ohio4 3202 USA

$5.0に送料($5.00)を加算してエア・メイルでどーぞ。

(文責・青山正明+股見けい子)

青山正明「六年四組学級新聞」(ミニコミ誌『突然変異』3号所収)

青山正明「六年四組学級新聞」第2回

初出:突然変異(突然変異社)第3号

 

先月(10月)の17日、私は二階の自分の部屋で独り横たわり、友達ののんこから借りた「おはようスパンク」の第2巻を読んでいました。

すると突然何かおへその下の方に、うずくような感じがしました。あっと思ってスカートの中を覗いて見ると、ももの所まで赤いものがくっついてました。

女の子から女になった私。クラスのみんなはもうすんだのかな。きもちわるいけど、大人になったって感じ。これからは、お姉さんらしくしなくちゃ。しっかりしなくちゃ。

好きな男の子が私のこといやがらないかしら。不潔だなんて言って……。やさしい男の子なら分ってくれるわね。喜んでくれるわね。私、大人になったんですもの。

人はどうして大人になると、悲しい恋をするのかしら。私は、私のこの手で夢をつかむの。ステキな事がいっぱい起こって、ステキな人が私を待っていてくれる。きっと素晴らしいお嫁さんになるわ。たくさんの子供たちに囲まれて……。

 

ここ2~3年、夜半ふと目を覚ますと、そのまま朝まで眠れない事がしばしばでした。台所仕事をしていると、ポッと顔がほてったり……。

歳40も半ばを過ぎた頃、覚悟はしていました。そして、今年。偶然にも一番下の娘にお祝いをしてやったこの年に、とうとうその時を迎えました。

少女の夢を追い、それが実を結び、平和な家庭を築き、子を生み、育て、女としての存在が絶対的なものとなった今。あの時、幼な子から女になったように、今度は再び、女をはなれ、人間としての完成に向かいます。

老年というのは、人生を見下ろす豊かな高みに、ゆっくりした足どりで歩む時期でしょう。時期ここに及んで、私にもまだ一つ夢があります。

若い頃知りあい、ずっと私のそばにいてくれた夫。私の人生というほんとうにささやかなドラマをいっしょにこしらえてきてくれた夫。そんな夫と、そっとお互いの手をとって、安らかな人生の終息を迎える夢が……。

米沢嘉博「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータコンプレックス」(みのり書房『月刊OUT』1980年12月号)

病気の人のためのマンガ考現学/第1回

ロリータコンプレックス

米沢嘉博

所載:みのり書房月刊OUT』1980年12月号 pp.96-97

さて、連載第一回目なので、このページの目論見を記しておくことにしよう。

同病相憐れむとか言って、病気の人にはなんとなく仲間を見つけだして安心したいという気持ちがある。ましてや、ちょっと変ったそれならなおさらのことだ。だが、そういった人達は孤立していることが多く、そのことがますます病気を進行させていく。そこで、この連載が人民を救うテキストとして役立つわけである。つまり、世の中の同じ病気を持つ人達に安心と勇気を与え、人生の指針を示し、さらには連帯を呼びかけるというありがたいものなのである。また、自らの内に巣食う病気を自己診断する為にも役立つだろう。まあ、世の中には進んで病気になりたい人もいるだろうから、そういった人にはガイドブックとして見てもらいたい。

なにはともあれ、ロリコンメカフェチ、SM、ホモ、ピグマリオニズム、コレクター、ディテール症候群……とその筆を進めていくことにする。では、まいる。

 

病気としてのロリコン

精神病理学の分野では、ペトフィリア(幼女嗜好症)と称され、三~十歳ぐらいの少女にしか性的興味を覚えない人を一種の精神病として把える。昨今流行語のロリコンもこの一変種だが、その語源はウラジミール・ナボコフの『ロリータ』というベストセラー小説からきている。ハンバード・ハンバートという中年インテリ男が十三歳の少女ロリータに熱愛を寄せ、狂っていくという内容だが、あのスタンリー・キューブリックが映画化したことで一般的になった。精神病理学的には、正常な女性と正常な交際が出来ない場合に、性的でない「少女」に目を向けるという道をたどるという。普通には、ロリコン少女愛好者に投げかけられる悪口であり、賛辞である。が、少女を愛した数学者ルイス・キャロルの様に、もっと下の年令にいくと「アリス趣味」と言われ、少々危そうな徴候を見せ始める。ハイジコンプレックス―ハイコンの他、ベビコン、ラナコン、マユコン、ヒルダコン......もちろんマイコンとかトウコンとかいうのは少し違うのだけれども、なにやら様々なロリコンのバリエーションが不気味にマンエンしつつあるのだ。

 

ロリコンマンエンマンガ界

さて、この恐しい病気であるロリコンなるものを媒介するものとして、新しい宿主、マンガが今注目されている。

少女マンガ、ことにA子たんなぞのオトメチックラブコメを男共が見ると言われ始めた頃に気がつけばよかったのだ。あるいは、江口寿史の『すすめ!パイレーツ!!』や、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』の女の子がかわいいと評判になった頃に注意しておけばよかったのだ。

いやいや、金井たつおの『いずみちゃんグラフィティ』のパンチラや、柳沢きみおの『翔んだカップル』など、少女がやたら出始めた頃に大事をとっておけばよかったのだ

だが、もう遅い。吾妻ひでおがもてはやされ、高橋留美子の『うる星やつら』が大人気で、細野不二彦の『さすがの猿飛』が面白く、鳥山明の『Dr.スランプ』のあられちゃんが大評判という「今」となっては、もはや手遅れかもしれない

高橋葉介の『宵暗通りのブン』や、藤子不二雄の『エスパー魔美』等も、それに力を貸している。中島史雄村祖俊一内山亜紀(野口正之)等所謂三流劇画のテクニシャン達の単行本が売れ、『リトルプリテンダー』『小さな妖精』等々の少女写真集はレジの横に積み上げられる。今や世界はロリコンで一杯だ!!

 

ロリコンの為のマンガ入門

で、ロリコンで何が悪いか!と言われれば別に何処が悪いわけでもなく、マンガの中のカワユイ少女を喜ぶのは、男共にとって当り前なのだ。少女そのものになって少女マンガを楽しむよりはずっとマットウなんである。

が、しかし、病歴が少しづつあなたを犯しつつあるのだよ。

第一期症状―マンガの中にカワユイ少女がやたら気になり始め、そういったマンガばかりを追いかけるようになる。おとめちっくラブコメやら月光、高橋葉介吾妻ひでお高橋留美子等が好みとなる。

第二期症状―はっきりと自分の趣味をロリコンであると自覚を始め、前記のマンガを好む以上に現実の少女達を気にするようになる。自動販売機で『少女アリス』(毎月6日発売)を捜し求め、『リトルプリテンダー』や『12歳の神話』等の写真集を集め、さらにひろこグレース等のポスターを盗み始める。

第三期症状―さらに病気は進み、同好の士を集めてロリータ趣味の同人誌を出したり、少女について語りあったりするようになる。ビデオにその手のCFを集め、少女を求めて色々なものに手を出す。例えばリカちゃん人形やジュニア小説だ。少女以外目に入らずに全て少女に結びつけて考え、行動するようになる。

それでも構わないという人達の為にロリコン(?)マンガ、あるいはロリコンを刺激するマンガ作品をあげておくことにしよう。

弓月光──『エリート狂走曲』『ボクの初体験』etc..….強い少女とマゾ的少年のドタバタ。男共ファンが多いのもうなづける。美少女度B。

高橋留美子──うる星やつら』『ダストスパート』……美少女乱舞のSFコメディ。人気急上昇中で美少女度C。

中島史雄──『幼女と少女がもんちっち』……所謂エロ劇画系の作家だがこの作品と『もんしろちょうちょのパンツ屋さん』は秀作だ。美少女度B。

内山亜紀(野口正之)──『気ままな妖精』……全編これロリコンの為のロリコンエロ劇画。その妄想大系は第三期症状をこえている。美少女度A。

吾妻ひでお──『みだれモコ』『オリンポスのポロン』『純文学シリーズ』etc……ロリコンマニアのアイドル。何も言うことなく、美少女度A。

この他に、ヒルダファンでアリスマニアの和田慎二、少女マンガのちばてつや川崎苑子の『りんご日記』等々沢山あるが、じゅりン子チエは趣味の問題となるだろう。マンガ同人誌『シベール』はコミケットなぞで見かけたら買っておくこと。汚染度90%である。

こういった宿主を経てロリコン菌は広がっていく。その感染経路は未だ明らかではないが、撲滅は遠いと思われる。それから逃れるには南極にでも逃げるしかなさそうだ。

まあ、そういうわけで、病気の人も、病気になりたい人も、それなりに頑張ってほしい。ただ趣味のロリコンと病気のロリコンは基本的に違うものであることは理解しておいた方がいいだろう。今や病気もファッションの時代だからだ。だが、少年が少女を愛することはまったく正しいというところで今回は終り。

次回はディテールにこだわりながらメカフェティシズムを扱かってメカに淫してみることになる。

では、病気にかからず元気ですごしてもらいたい。ごめん。