Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

伝説の編集者 青山正明氏のこと(夏原武・永山薫・斉田石也の追悼文)

伝説の編集者 青山正明氏のこと

ミリオン出版『ダークサイドJAPAN』2001年10月号所載)

数年前になるが、某ライター氏から公開討論を申し込まれたことがある。そのことを雑談の中で青山正明さんに話したら、クスクス笑いながら「いいこと考えました。討論会に行きますって言っておいて、当日になってカゼ引いたんで欠席しますっていうのはナメきってていいと思いませんか」。それはいいということで、「じゃ当日、方角が悪いので行きませんっていうのもさらにナメきってていいですかね」などとくだらない話をした。僕自身の思い出は僭越ながら編集後記に記しておいた。

雑誌『FOCUS』で報じられた青山正明さんの記事ネットで流れた青山さんのニュース。どれもピンとこなかった。以前青山さんが僕に「僕の兄貴分と呼べるのは、夏原武さんと永山薫さんです」と語ったことを今でも覚えている。その兄貴分二人と、やはり青山さんにとって長年付き合いのあった斉田石也氏。三人のライター氏に追悼文、あるいは思い出をつづってもらうことにした。(編集部 久田将義

 

私にとって友人でもあるが恩人でもあった(文◎夏原武)

青山正明と知り合ったのはもう十五年近く前のことになる。くだらないことを何時間もよく話したものだ。ホラービデオがちょっとしたブームだったこともあり、死体や畸形の話をよくした。当時、エンバシーホームビデオにいたKさんと三人でロリコン話をして盛り上がったこともある。面白いやっちゃなあという印象だった。世間一般的なイメージである『突然変異』を作った男、というのは後に知ったことで、あくまでも趣味の合う友達だった。

青山正明が慶応大学在学中に編集していたミニコミ『突然変異』創刊号)

しばらくして、今はもうない大正屋出版という会社から『阿修羅』なるムック形態の雑誌を作ったと連絡をもらった。考えてみるとこれが『危ない1号』の原型かもしれない。その二冊目に原稿を書いてくれないか、彼からそう言われた時は正直嬉しかった。というのも、私はライター青山のファンでもあったからで、自分が敬愛する書き手から「書いてくれ」と言われるより嬉しいことはない。言われるままホドロフスキーの作品を中心に、原稿を書かせてもらった。その出版社があっという間に倒産したのは笑い話だが、彼は自腹を切って原稿料を振り込んできた。

記憶が曖昧だが、美女切腹写真を載せた『サバト』もこのころだったのではないか。まだ鬼畜という言葉こそなかったが、彼は少しずつ形にしたものを残していた。ペヨトル工房から出ていた『夜想』に優れたクローネンバーグ論を書いたのも同時期かもしれない。ケネス・アンガーの前衛映画に触れたのも、彼の影響だった。

三和出版刊『サバト 超変態世紀末虐待史』創刊号/廃刊号)

青山はシャイで人懐こい男だった。はにかんだような表情で待ち合わせに現れる。いつも時間に遅れてくる男で、こちらを見つけると首を前後に振るようにして「すいませ~ん」とやってくる。手足が長くてノーブルな顔立ちの彼にそんな風に言われると、文句を言う気もうせてしまう。酒を飲まないので、いつも会うのは喫茶店。二、三時間は話しこむのが定番だった。

ほんの短い期間だったが、編集者をしていたときに原稿を発注したことがある。『ビデオで~た』(現在は『DVD&ビデオで~た』)の星取表で、歯に衣着せぬ原稿を書いてくるので、何度か直してもらったことがある。映画評論家としてもやっていけるのではないかと思わせる鋭さがあった。

この頃、私が在籍していたのはSという編集プロダクション。緑は不思議だなと思うのは、怪しげな旅行雑誌の編集を離れた青山が就職したのが、このSとは兄弟づきあいのある同じ編プ口のJ社であった。両社はあるいて五分程度の距離にあり、行き来も頻繁だったが、まさかそこに彼が入るとは思いもよらなかった。『ぴあ』から請け負った仕事などしていたようだ。いくらもいずに辞めてしまったが、会社づとめは傍から見ても性に合わないのが分かった。

『危ない1号』的な雑誌を作りたいという話は、この時期によくしていた。タブーと言われていること公序良俗に反することをやれる雑誌を作りたい。二人で熱っぽく語ったものだ。版元さえ見つかれば、そういう雑誌に打ち込めるのが一番だと納得しあったのは、要するに、当時は双方ともにやりたくない仕事をしていたからだろう。その発散として、松文館から出ていたビデオ雑誌でグロビデオ特集をやったこともあった。ギャランティの問題ではなく、やりたいことがやりたいんだ、とよく言っていた。『バチェラー』のフレッシュペーパーもそのひとつだったのか。

私にとって青山は友人でもあるが同時に恩人でもある。フリーになった後、くすぶっていた私に別冊宝島を紹介してくれたのも彼だし、その後、自分が単行本『危ない薬』を出すと、私にも単行本を書くようにすすめてくれ、データハウスを紹介してくれた。利害損得を越えた優しさを私には示してくれた。インテリで繊細な青山とろくでなしの私では、違いすぎるところが、よかったのかもしれない。『危ない薬』が出た時には、自身でサイン本を持ってわざわざ家を訪ねてくれた。まあ、それでも二人で何をしていたかというと、レンタル屋でV&Rのジャンクシリーズを借りてきて笑いながら見ていたのだから、ロクなもんじゃないのだが。

青山正明の処女単行本『危ない薬』)

『危ない薬』はよく売れた。十万部を超えたのだから立派なべストセラーだ。実際、出版後はドラッグの第一人者として羽ばたくのではないかと思っていた。テレビがコメントを取りに来たりしていた。だが、青山自身はドラッグを語ることに関しては興味を失いつつあったようだ。全部書いてしまったのは失敗だったなあ、と後日言っていたのが印象的だし、小出しにしておけば続編に使えたのにとも言っていた(続編は別人の著作)。

もっと後には、本を出したことによるメリットとデメリットをより強く感じていた。これまでの体験の集大成として作り上げたという自負、それに伴う評価。反面、取締り対象になってしまったのではないかという恐怖。ドラッグではなくてこれからは健康法だ、リラクゼーションだ、精神世界だという逃げを売ったのもそうした恐怖感があったのではないだろうか。いや、本人がそう言ったこともあったのだから、一因ではあったのだ。

この『危ない薬』と『危ない1号』は、ひとつのピークだった。特に後者はこれまでにない雑誌となったし、「鬼畜系」なる言葉まで生み出した。まったく新しいものを作るのがどれほど難しいかは、クリエイティブな仕事をしていれば誰にも分かることだ。そういう意味でも彼は編集者として抜群の力量を持っていた。ただ、完全主義者なので、どうしても抱え込み過ぎるのが欠点だったが。

しかし、私は編集者としてよりもライターとしての青山をより評価するし、尊敬する。どの原稿がではなく、どの原稿もいい。「これで全仕事はないよね~」と苦笑いしていた『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』を見れば分かるように外れがない。どの原稿も本当に面白い。もっともっと書いて欲しかった。発注する側ではなく、される側にいて欲しかった。

(単行本第2弾『危ない1号 第4巻 青山正明全仕事』)

去年の春に創刊された文春の『Title』では一緒に仕事をするはずだったが、眼病もあって彼は降りてしまった。やや気力を失っていたのを知っていただけに、この降板は残念極まりない。というのも、その半年ほど前に『危ない1号 第4巻』の仕上げ段階で偶然データハウスで会った時にも、「これからはライターは副業として正業をもちたい」と言っていたが、なんともったいないことを言うものだと、さんざ文句を言った。雑誌を作るのもいいが、もっと書くべきだ、と。肯定的な返事はとうとう聞く事はできなかった。

彼はなぜ書くことに興味を失ってしまったのだろう。タフでないことは分かっていたし、私自身も怠け者だから少しは理解できるが、彼の才能は図抜けていた。それだけに惜しい。

今回、編集長から要請されたのは追悼文だが、とてもそんなものは書けなかった。十数年のほんの一端を駆け足で追った「思い出」を記すのが精一杯だ。それから敢えて青山正明ではないもう一人の「彼」については書かないことにした。色々な見方や意見もあるだろうが、私はあくまでも彼は「青山正明」として死んだと思っているし、もし、私が死んだ後で彼と会ってもやっぱり今までどおりに「青山さん」と呼びかけるだろうから。

(雑誌『FOCUS』2001年7月18日号で報じられた青山さんの死。「麻薬ライター」という表現は当たっていないだろう)

 

 

不良ジジイになった青山正明を見たかった(文◎永山薫

ここ何年か疎遠になっていた俺が、聞いた風なことを抜かしていいもんだろうかという逡巡はある。だが死者について付度するのは生き残った人間の特権だ。もとより過度に賛美したり貶めたりするつもりもない。とは言え知人に先立たれるというのは気持ちのいいものではない。訃報を聞いた時、最初の内は冷静に応答していたが、後半は周章狼狽のテイタラクだった。予期していなかった。年下だ。まだ40である。死ぬには早すぎる。物書きとしても編集者としてもこれから脂が乗る。寒鯖のようにテラテラと青光りする。そんな時期だ。まだまだガキどもをたぶらかして、だまくらかして、ブイブイ言わせる。それが不良青年だった男の義務ではないか。

友人たちから電話がかかってくる。「ネットで知ったけど、本当ですか?」とT。

青山正明とは同い年のライターだ。ヤツは結局しがみつくモノを見失ったんだと思う。死んでも死にきれないというモノがなくなったら、生きることはどうでもよくなる。所詮、遅いか早いかだ。人間はいずれ必ず死ね。絶対に死ぬ」

そんな話をTと交わした。俺たちは生にしがみついて、これしかできないから今の稼業にしがみついて、ナニゴトかを成し遂げない内には死ねない、死にたくない。ジタバタとあがきながら生き続ける。

「けどなあ」

「もう何を言っても取り返しがつかないんだけどさ」

話の合間合間にこのフレーズを何度となく繰り返す俺とT。

鬱病だったという話。青山正明は何年か周期で、ヘコんでも復活して来ていた。今回もそうだと思っていた。だが、今回は尋常ではなかった。ドン底まで潜って行って、浮かんで来られなかった。息が尽きた。発作的だったのかもしれない。人間には自分で自分がどうにもならなくなる刹那がある。全身が凍り付いたようになって、ダメだダメだダメだと思いながら、身体がヤバイ方に滑って行く。オートモードに入ってしまう。

言ってはいけないことを口走る。物を壊す。他人を殴る。自傷する。他人を殺す。自分を殺す。俺は物を壊すあたりで踏みとどまっている。コンクリの壁を殴って拳を青くする程度で済んでいる。運が良かっただけの話かもしれないが…。

「やっぱさあ、還暦までは生きるべきだよねえ」

Hがやるせない声で言う。Hはマジック・マッシュルームの研究家で最後のフーテンだ。Hは青山正明の死を半月後に知った。

彼には還暦、いや、70、80まで生き延びて欲しかった。

「若い時分にはムチャもしましたよ」

としたり顔で語るイヤなジジイになって欲しかった。

青山正明と最初に会ったのは80年代の初頭だった。

俺はその頃『Billy』という白夜書房の変態雑誌で複数のペンネームを使い分け、死体やフリークスやビザールや殺人術について書き殴り、誌面にも変態アーティストとして登場して恥を晒していた。

青山正明は『Billy』と並ぶカルトエロ雑誌でロリコングラフ誌の『Hey!Buddy』でドラッグや変態ビデオの記事を書いていた。

 

白夜書房刊『Billy』『Hey!Buddy』/ともに1985年廃刊)

どうやって仲良くなったのか忘れたが、当時は白夜書房や宝島編集部なんてのは若いライターの溜まり場だった。彼とはスプラッタ・ホラーや、鬼畜な嫌がらせのテクニックや、動物虐待や、神秘学や、変態の話で盛り上がった。ネコに唐辛子を突っ込んで全力疾走させる方法、スカしたクルマに乗ってるバーカを懲らしめるためのあらゆる方法、幾つかはネタになり、彼が編集していたロリコンエロ雑誌のフリをしたカルト雑誌に掲載された。

青山正明は気弱に見えて開けっぴろげだった。メジャー誌に呼ばれて「エロ雑誌関係者匿名放談会」みたいなことをやった時、彼はヤバイことをケロケロとぶっ放した。いいのか、お前、そこまでぶっちゃって!? とコチラの腰が引けるほどのサービス精神である。そう、気合いが違う。両手ブラリ戦法で踏み込んでくる。

ロフトプラスワントークショー青山正明とセットで出た。それが最後の対談だったかもしれない。俺と彼は業界関係者とガキどもの前で、オナニーの話をぶっこいた。

眠剤二本突っ込んで、イク瞬間にラッシュをキメるんですよ、ふわーっとなります」

「ヤバイよ、お前、死ぬよソレ」

彼は漫画やアニメでは抜けなかった。抜くのは写真だ。巨乳が好きだった。巨乳のスクラップを屏風みたいにして、それで抜いていた。想像するだにマヌケな姿だが、そういうマヌケな姿も平気でさらせる男だった。

カルト・ライターだとか、ドラッグ・ライターだとか、カリスマだとか、元祖鬼畜だとか、冠は色々あるだろうし、その側面も俺は否定はしない。虚像も実像の内だ。ただ、俺にとっての彼は気弱で優しいくせに大胆で捨て身でマヌケな男だった

「よく人間性とかヒューマニズムとか云いますけど、人間が動物と決定的に違うのは、裏切ったり、他人を騙したり、陥れたりする点ですよね。人間らしさって、卑劣さってことですよ」と、微笑みながら彼は俺に語った。しかし、少なくとも俺は彼に裏切られたことはない。世話して貰った憶えは一杯ある。

俺が青山と最後に会ったのは97年だ。青山のプロデュースで鬼畜な単行本を出す。そういう話だ。面白い仕事だし俺はカネが欲しかった。幾つかあるペンネームを使う。それでオッケー。

「一ヶ月で書いて下さい」

「そりゃムチャだな」

「やってくださいよ。一月で百万になると思えば楽勝でしょ」

気弱な笑みを浮かべながら、押しが強い。

いつの間にか押し切っている。

「これ、差し入れです」

輸入物のビタミン剤の巨大な薬瓶。正確にはサプリメントだが効いた。青山正明が持って来たクスリというプラシーボ効果

確かに彼はクスリには詳しかった。「メラトニンはいいですよ。体内時計を調整してくれますから、長生きできるかもしれない」

俺は長生きしたい。死ぬのが恐い。一分一秒でもこの世にしがみつきたい。残り時間を考えると全身が冷たくなる。

恐らく彼もそうだったのだろう。死を恐れ、生きることの快楽を楽しむ男だった。そんな男が自殺した。それが、俺には痛い。

青山正明は俺の保険だった。青山だって生きている。だから俺もなんとかなるだろう。安心できた。俺なんかよりずっとムチャやってもヘッチャラなヤツがいる。

そんな保険が失効した。

青山正明よ。スマンが、俺は70、80まで生きる。不良でバカでマヌケなガキどもの保険には役不足かもしれないが……。

 

青山正明は極端に人間臭い人間達との関わりを何よりも愛する繊細な心の持ち主だった(文◎斉田石也)

青山正明殿

あなたは、絶対に越えられない、とてつもなくでっかい目標であり、憧れの人であり、そして、よき理解者でもありました。ご冥福を心よりお祈りしております。

私の元に青山正明氏の訃報が届いたのは、亡くなられた日の深夜であった。青山氏と私の共通の友人であり、同氏の家族とも親しい女性ライターからの連絡だった。

突然、自殺といわれても、にわかには信じられなかった。これが、第一報を聞いた瞬間の偽らざる心境だった。それほどショックが大きかった。いや、正直なところ、今でも、青山氏と私の間で以前に何度もあったように、忘れた頃に、突然、連絡が来ると信じている部分が、私の中にある気がする。

幸か不幸か、全体の4割程度の原稿を執筆した情報誌の入稿時期で、仕事に没頭せざるを得なかった私は、何とか気持ちを立て直せたが、もし、それがなければ、現在も落ち込んだままだったかも知れない。

青山氏と初めて合ったのは、昭和60年(85年)のことで、当時、同氏が在籍していた出版社の六本木の事務所だった。既に青山氏はライター、そして編集者としても名の知れた存在だった。まだ、サラリーマンで、ライターが副業とさえいえないぐらいの駆け出しだった私は、青山氏から自己紹介を受け、名刺を差し出されて「わァ、あの青山正明だァ! 名刺までくれた」と感激した事を、今でも鮮明に記憶している。

早いもので、あの感激の名刺交換から6年が過ぎ、何度か疎遠になったことはありつつも親しくお付き合いさせて頂いてきた。

ちなみに、本誌の久田編集長に私を推薦してくれたのも、誰であろう青山氏であった。

そして、青山氏の死と直面した今、改めて、そうした日々を振り返ってみて、私は、何度となく氏の天才的ひらめきも目の当たりにする一方で、数多くのテーマに対して、実に深い探求心を持って挑んでいることも知っている。つまり、青山正明氏は、天才と秀才の相反する二つの気質を持ち合わせていたといえるのだろう。そんな青山氏の代表作は『危ない薬』、そして、結果的に出版業界での最後の一大事業となってしまったムックの『危ない1号』などが挙げられるだろう。

ただ、多少なりとも青山氏と交際のあった者として、この2つの仕事だけで短絡的にドラッグライター、あるいは鬼畜系プランナーと決め付けられるようなことにはなってほしくない、してはならないと考えている

確かに青山氏はドラッグやマリファナなどに関する知識は豊富だった。つまり、そういった世界に興味を惹かれていたのは紛れもない事実だ。『危ない1号』の内容からは、氏が様々な怪しげな世界に人脈や情報源を持っていたことは明らかである。

しかし、そうした知識や人脈があった事だけを挙げ連ねて、青山氏自身も鬼畜系であるかのように決め付けてしまうのは大変な間違いである。アブノーマルの世界を精力的に紹介していた時のことを思い出してほしい。

ロリコンだと誤解された時もあったし、何か、更にコアなフェチズムの持ち主だと、まことしやかに語られた事もあった。

そうしたスタンスは、氏の中で、様々な社会的マイノリティやフリークスの世界などへの深い関わりへと引き継がれていった。

氏のこうした好奇心、探求心の根源にあるのは、人間への興味である

たとえば、私が青山氏と出会った出版社はロリータ系専門の出版社である。しかし、青山氏がこの会社に籍を置いたのは、幼い少女に興味があったのではなく、ロリータマニアに強く惹かれたからであるのは、当時、氏と親しかった者なら、みんなが知っていた。

つまり、青山正明氏がフリークスに詳しいのも、薬物依存者について語れるのも、様々な破滅型、あるいは社会不適応者についての膨大な知識を持っていたのも、全て、そうした人間一人々々へのやむ事ない探求心のなせるわざであったのだ。氏をこうした社会的マイノリティの世界へと導いたのは、青山正明氏が、実は繊細な神経の持ち主であり、様々な立場の人とのかかわり合いに、何よりも喜びを感じていたからに他ならないと思う。

青山正明氏の名前とその業績が、今後も多くの人々に語り継がれる事を願ってやまない。

合掌。