Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

矢元照雄(国映創業者)インタビュー「日本最大のエロダクション国映とインディーズ映画プロダクションの時代」

矢元照雄(国映創業者)インタビュー

日本セクスプロイテーション映画興亡史

第2回 日本最大のエロダクション国映とインディーズ映画プロダクションの時代

取材・構成:鈴木義昭

協力:柳下毅一郎

映画秘宝』2007年7月号所載

日本テレビ版『ドラえもん』を製作した「日本テレビ動画」のルーツとして知られる謎のプロダクション「国映」。

その正体は、ピンク映画の語源となった作品を生み出し、名だたる映画監督を輩出した、知る人ぞ知るピンク映画の老舗であった。

そんな国映の知られざる功績を創業者の故・矢元照雄のインタビューから今一度ふり返ってみよう。

セクスプロイテーション映画とは……1970年代まで性表現の最前線にあったソフトコア・ポルノ映画の総称だ。アメリカではグラインドハウスで、日本ではピンク映画館で上映された「裸の出る映画」だ。大手スタジオではなく、小規模の独立系映画プロダクションによって作られている。国映は瀬々敬久いまおかしんじといった実力派監督の映画を製作する会社として、映画マニアに知られている。それだけではない。国映は日本で最も古い伝統を持つ元祖“エロダクション”だ。国映の歴史は、日本インディーズ映画の軌跡でもある。

エロダクションの時代~1960年代、日本ピンク映画を生み出した場所

文/鈴木義昭

「ピンク映画」という言葉の名付け親の村井実さんは数年前に亡くなったが、生前に何度かお会いした。TCC映倫の試写室へピンク映画の新作を拝見しに行くと、後ろのほうの席にニコニコ座っていらした。銀座の事務所へおじゃました時は(確かピンク映画の古い写真をお借りしに行ったんだと思う)、最近はピンクも少し飽きたから刀剣の本を作っているんだと言われ、立派な箱入りの本を見せていただいた。口には出さなかったけど、僕もいつまでもピンク映画の紹介記事ばかり書いているわけにはいかないなあと思った。あれはいつ頃のことだったか、すぐにはもう想い出せなくなってしまったのだが。

昭和38年(1963年)の夏、内外タイムスの記者だった村井実は『情欲の洞窟』という映画の撮影現場を取材した。同じスポーツ紙の記者仲間が声をかけてくれて、一緒にロケ先の奥多摩に出かけたのだ。沼尻麻奈美という新人女優が、監督の関孝二と「脱ぐ」「脱がない」でモメていたがそのうち思い切って全裸になり、ヘアも露に渓流にザブ~ンと飛び込んだ。彼女は「女ターザン」で森の中で暮らしているという設定だった。記事は9月9日付けの同紙に載った。ブルーフィルム程ではなく「セックス描写は、まあ、ピンク色の程度の映画」という意味で記事の中に「ピンク映画」という言葉を使った。もちろん彼の造語だ。当時同紙のデスクで後に芸能評論家として独立した藤原いさむは、「エロが売り物のプロダクション」だからと「エロダクション」というネーミングをした。この2つの言葉は読者に新鮮な感じを与え、言わんとすることもわかりやすかったらしく瞬く間にストリート・ジャーナリズムの世界で定着し頻繁に使われるようになる。『情欲の洞窟』を製作して村井さんたちを招待した映画会社の国映は、エロダクションの代表、草分けのような会社だった。立派な社名とは少しばかりアンバランスなお色気たっぷりの映画を量産して当時の映画界で台風の目のような存在になっていくのである。

戦後、混乱する日本映画界には次々とさまざまな独立プロダクションが誕生した。戦時中に統廃合させられた映画会社は、諸矛盾を抱えてその製作能力を低下させていた。映画が娯楽の王様だった時代であり、人々はどんな映画でもいいからどんどん見たいとばかり映画を求め、作り手もそれに応えようとしていた時代である。スタープロ、左翼系、娯楽派、子供向け、文化&教育畑などなどいろいろなジャンルの独立プロが登場した。「五社」といわれた大手映画会社は「協定」を結び、業界をコントロールしようとしていたが、くりかえし攻勢をかけてくる独立プロの新しい波に洗われてもいた。大手にできないことを独立プロはやってくれると、観客も期待していた。屋台骨の揺らぐ大手映画会社の一角新東宝に、活動弁士上がりで映画館や貸しスタジオを経営していた大蔵貢が乗り込んで新路線を提唱、『明治天皇と日露大戦争』を文字通り大ヒットさせた年、北海道の「材木王」がまさに電撃的に『電撃作戦11号』なる作品をもって映画界に攻撃を開始した。それは、後に国映を創立する矢元照雄の最初の攻撃であった!

 

国映を創り上げた男

文/田野辺尚人

矢元照雄は1925(明治43)年11月13日、北海道に生まれた。矢元家は伊達藩に仕えた家柄で、1869(明治2)年、祖父の代のときに開拓殖民団に参加、北海道に移り住んだ。矢元は地元郵便局で局長を務めていたが、憲兵の資格を取っていたことにより、1936(昭和11)年に予備役招聘がかかる。8月に赤坂にあった東京憲兵場に集められ、中国大陸へ派遣されることが決まった。当時は日中戦争の最中で北京に日本の憲兵隊本部が作られたからだ。北京には軍の飛行場もあり、そこから飛び立つ日本軍の戦闘機が中華民国軍と空中戦を繰り広げていた。

矢元「召集されてきた兵士も多かったが、飛行機乗りは撃墜されたら死ぬしかないと思っていたのか、特に荒れていた。当時、北京に中流していた1万人の兵隊を、たった6人の憲兵で取り締まるんだから大変だった」

北京での勤務は2年間に及んだ。1937(昭和12)年に現地で任務交代を済ませ、矢元は東京に帰還。その年の春に皇太子が学習院初等科に入り、通学警護を担当する。この仕事を1年間続けた後、海外から入っている会社などにスパイが潜入していないかを見張る任務につく。このときは背広姿で仕事をした。

1940(昭和15)年、旭川の第7師団に憲兵として転属。矢元は北海道へ戻る。1942(昭和17)年に中野学校が設立されたことで、矢元は郵便局長の職に復帰。同時に材木業の仕事も開始する。

矢元「太平洋戦争には従軍はしていない。戦争中、函館を爆撃した米軍機が郵便局の近くに停車した列車を機銃掃射したことがあった。そのとき怪我人救出の指揮を執ったけれど、軍事行動には参加していない」

1945(昭和20)年8月15日、職場の郵便局で玉音放送を聴いた。矢元もその日以前から戦争に負けるだろうことはわかっていたが、口に出すことはできなかった。工場地帯のある室蘭が爆撃される様子も目にした。敗戦の日、「神も仏もない」と話していたのだという。

敗戦後、しばらくは郵便局長を務めていた矢元だったが、1950(昭和25)年に憲兵隊に所属していたことから公職追放の対象になる。そこで材木業が仕事の中心になるが、戦後の物資不足の中で事業は順調に展開、翌年には木がなくなってしまうのではないかという勢いだった。

1952(昭和27)年には東京の大塚にあった旅館や室蘭にあった東日本造船を買い取り、事業を拡大した。こうして仕事の幅を広げて行った矢元に転機が訪れる。戦後復興の中で映画が勢いを増す1955(昭和30)年、矢元は「大和映画株式会社」を設立することになる。

 

日本が太平洋戦争で勝った記録 幻の大ヒット戦記ドキュメント『電撃作戦11号』

『電撃作戦11号』は第二次世界大戦で日本が勝った世界で作られたドキュメンタリーである……と書くと、ディックの『高い城の男』のような改変世界SFを想像するかもしれない。残念ながらこれはそういうものではない。『電撃~』は実際の第二次世界大戦の記録フッテージを使った記録映画である。だが、ここには日本が負けている映像は出てこない。広島への原爆投下もなければ東京大空襲もない。キッツ島への上陸はあるがキッツ島玉砕はない。南京攻略戦のようないろいろ面倒な問題がある戦闘も登場しない。出てくるのは勇戦する日本軍の姿。フィリピンや中国で奮戦する陸軍兵士たち、海軍の爆撃機“銀河”の勇姿、そして勇壮な海軍のたたかいぶり。やがて戦局は不利に傾き、古賀連合艦隊総司令長官は戦死、御霊は靖国へと還る。総司令部は神風特別攻撃隊を編成して我らが日本を守るために奮戦するのである……。

敗戦後、日本の非軍事化が進められる中で、矢元照雄は国の命令を受けて戦った兵士たちの奮戦すらが貶められてしまう風潮に大いに疑問を感じていた。たとえ戦争は間違っていて、愚かな行為だったにせよ、死んでいった兵士たちの戦いに嘘はない。日本軍の勇戦映画を作ろうと考えた矢元は、昭和31年、進駐軍の占領が解かれるやいなや、記録映像をかき集めてこの映画を製作した。大蔵貢の一連の天皇映画などの先駆けとなる、日本軍再評価映画のはしりだと言える。記録映像の編集は矢元がおこなったので、「ワルキューレの騎行」を伴奏に中国戦線で戦う兵士、というコッポラをはるかに先んじた映像が出現することになった。矢元は軍服姿の宣伝隊を仕立てて銀座を練りあるかせ、映画を大いに盛り上げた。映画館には登場する兵士の遺族たちが詰めかけてスマッシュ・ヒットを飛ばしたのである。

ちなみに「作戦11号」とは真珠湾攻撃のコードネームとのこと。(柳下)

 

メイキング・オブ・『電撃作戦11号』

『電撃作戦11号』は1955年に製作がスタートし、翌56年に劇場公開された。矢元照雄はこの映画のために大和映画を設立。配給は洋画専門の優秀映画株式会社に委託する形で上映された。

矢元「大和映画はダイワエイガと読むんだ。本当ならヤマトエイガだが、この当時、その名前を使うのはまだ早いと言われた。配給をやった優秀映画は後に倒産したから、今はもうない。そういえば、『電撃作戦11号』ではしっかり宣伝費を抜いていった」

それまで矢元は映画と関わることのない人生を送っていた。生業としている材木業は順調だった。

矢元「それで商用で東京に出るたび、映画館でかかっている映画が、日本が負けたものばかりだって気がついたのが、映画を作るきっかけになった。確かに日本は戦争に負けた。しかし戦争に勝っていて元気だった時代も確実にあった、そのことを映画にして見せられないかと思ったんだ」

真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の記録映像のみで『電撃作戦11号』は構成されている。フィルムのほとんどは戦時中に海軍が撮影したものだ。映画の後半では当時の軍による検閲印が残っている箇所もある。

矢元「ラストの靖国神社のシーンだけはカメラマンに撮影してきてもらったものだ。全体の話の流れを考えたのは私だ。作業のほとんどは、戦時中に撮影されたフィルムを集めては編集していくことで、これが大変だった。フィルムは新聞社や従軍カメラマンが保存していたものをツテを使って探した。それを細かくつなぎ合わせて、1年がかりで創り上げた」

構成を担当した原千秋は、大映の前身である新興キネマで監督をしていた人物だ。1949年、後に国映で多くの映画を撮る関孝二が設立したラヂオ映画社に入社している。戦時中には海軍省の嘱託だったという。

矢元「監修の安田日出男は記録フィルムの所有者を探しては調達してくるブローカー的な仕事をしていた。ナレーションの高橋博NHKに勤めていた男だった。『電撃作戦11号』は、当時の私が材木業で得た資金で作った映画だから、いろいろな人間が集まって作ったんだよ」

完成した『電撃作戦11号』を劇場公開するにあたって、矢元は他がまねできないような宣伝方法を編み出す。

矢元「軍服を着た宣伝マン20人と軍楽隊が軍歌を鳴らしながら銀座の街を行進して宣伝をやったんだ。これも話題になって、物凄い大ヒットになった」

『電撃作戦11号』の製作費は当時の金額で800万円だったが、収益は7000万円にも上った大ヒット作となった。上映した劇場は洋画上映館を中心に全国で600館にのぼった(地方では東宝、松竹の映画と同時上映された)。しかし、この映画について書かれた批評や記事は、いまとなってはほとんど目にすることはない。戦後映画史の中に潜伏する謎の大ヒット映画なのだ。

矢元「左翼系の新聞に悪く言われたんだ。ナレーションの中で『勇敢に戦った』というくだりが『好戦的だ』っていうことだった。だからまともな映画評は出なかった。ただ、当時の映画に『電撃作戦11号』のようなものはなかった」

戦後10年しか経っていない時代、果たして『電撃作戦11号』の公開に圧力はなかったのだろうか?

矢元「映倫からは上海事変に関する部分はカットするように指示があったから、そこは切った。その内容は捕虜収容所の記録フィルムだった。それにアメリカが文句を言ったという話は聞いているが、上映中にクレームが来たことはなかった。当時は、とにかく戦争は間違いだ、反省すべきだという論調のものばかりの時代だった。でも『それだけじゃない』という気運も間違いなく世の中にあったんだな。実際、日本が戦争に負ける映画を見せられることを、兵隊の遺族は嫌に思っていたんだ。劇場に詰めかけたお客さんの中には、戦争で死んだ家族の顔を探しに来た人が沢山いたよ。『あそこに息子が映っているから、その部分のフィルムを譲ってくれ』という問い合わせも随分とあったよ」

ちなみに『電撃作戦11号』は、タカ派の政治家・西村眞悟も少年時代に劇場で観ていたらしい。またこの頃から雑誌の戦記ものや戦艦や戦闘機のプラモデル・ブームが起こったが、これもまた『電撃作戦11号』によって影響を与えたであろうことも充分に考えられる。(田野辺)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る  総理大臣も出演した教育映画から日本テレビで放映されたアニメ作品まで

構成/鈴木義昭

──30年近く前に取材させていただいているんです。『ピンク映画水滸伝』という本を書かせていただきました。またお会いできて光栄です。まだまだお元気だとお聞きしまして。

矢元「元気ですよ(笑)。そうか、ああ、その本なら熱海の家に置いてあるよ。うん、何でも聞いてください。何でもしゃべるから(笑)」

 

──『電撃作戦11号』を見せていただきました。確かに不思議なフィルムですねえ(笑)。矢元さんの映画的なセンス、プロデューサーとしての感性を感じました。人のやらないこと、大手ではできない作品を作って、映画的なオピニオンを巻き起こしマーケットを切り拓いていく方法は、その後の独立プロだけでなく、映画界全体に大きく影響していると思います。今日はその辺をお聞かせ下さい。まず、もともと映画はお好きだったんですか?

矢元「好きは好きですけどね。戦後、映画が足りないというのを知っていましたからね。北海道でPTA会長なんかをやって、教材用の映画が足りないというのを知っていたんですよ。それで、東京へ出たら映画を作ってやろうと思っていました」

 

──『電撃』を製作した大和映画の次に国映という映画会社を立ち上げる。国映というのは、大きな名前ですよね。

矢元「由来というのはね、教育映画を始めようと思った時に憲兵時代の関係から当時首相になっていた岸信介に会いに行ったんですよ。監督の関孝二と2人でね。『おお、映画作るの始めるのか。応援するよ』って言われてね。岸も映画好きだったんだ。それで国も応援してくれるという話もあってね、それなら国映という名前にしようということで付けたんだ。国が予算を出してくれるんなら、ということでね。結局、ダメだったんだけどね」

 

──残念でしたね。でも、岸信介は矢元さんのお作りになられた映画に出ていますよね。

矢元「岸が国から金は出せないけど、『お前の作る映画に俺が出演してやるよ』と言ってね、出てくれたんだ」

 

──『総理大臣とわんぱく小僧』ですね。

矢元「そうそう。地方から修学旅行で出てきた子供が国会議事堂に行くんですよ、そこで岸信介が民主主義とはこういうもんだとやるわけなのよ。これ、完成後にちょうど選挙があってね、全国で候補者が特別出演するバージョンを作って上映して商売にもなった(笑)」

 

──教育映画、文化映画を製作する会社として国映は始まったんですよね。

矢元「そう、だいたいが文部省選定、20本ぐらい作ったかな。いろいろね。だけど4年ぐらいやって4000万円ぐらい損をした

 

──当時の4000万円というのは大きいですね。

矢元「木材じゃあ随分と儲かったんだけどね(笑)。教育映画は儲からなかったね。『わんぱく小僧』だけは儲かったけどね。結局、学校に配給するっていっても実費みたいな値段だったからね。全国の五社の直営館でないところに主に流したんですよ、600~700ありましたね、そういう劇場が。当時は同じ映画を1週間以上やったら商売にならないっていう時代だからね、新作映画が地方では足りなかったんですよ。次々に注文が来る。ところが、製作費に金を掛け過ぎている。『光と風と子供』というのは、相模大野の国立結核療養所に長期ロケをして撮ったんだけど、スタッフの言う通り『そうか、そうか』って金を出していたからね」

 

──教育映画はお金が掛かるので辞められたんですか。

矢元「教育関係の映画は、その後テレビ局と提携してね、主に日本テレビですが、日本放送映画(日放映)という会社を作ってそちらでやりました。『ぼくらは豆記者』という子供向けの番組とか、沢山作りましたね。ここでは日テレ初の長編アニメ『戦え!オスパー』を作ってだいぶ評判になりました。当時他局はアニメを作っていたのに日テレだけまだだったんだよね。そういう技術がないということでね。それを僕が企画から立ち上げて、2年間かけて完成させたんですよ。これは僕の功績のひとつだと思っていますけどね」

 

──アニメは儲かりましたか?

矢元「儲かったよ、映画ほどじゃないけどね。この会社ではアニメや子供番組をいっぱい作ったんだよ。みんなあんまり知らないみたいだけどね」

 

──ピンク映画を始められたキッカケは?

矢元「国映で教育映画を配給するのに、全国にセールスを置いて配給していたんだが、地方の映画館から、こんな堅苦しい映画ばかりじゃなくてもう少し柔らかい映画、色気のある映画はないかって言ってきたんだよ。『会社に言って、今度から色気のある映画持って来いよ』って、セールスがいじめられてねえ。それで『社長、少し色気のある映画作ったらどうですか?』って、みんな言う訳だ。それに当時、アメリカやフランスからヌード映画、ストリップを撮った映画がだいぶ入って来ていたんだよね」

 

国映の教育映画、初期テレビ時代への貢献

社名を国映とすることで、矢元は教育映画の製作に乗り出す。最初の作品は『わんぱく小僧と総理大臣』(1957・昭和32年)だ。

矢元「これは修学旅行に来たこどもたちに、岸信介が『民主主義とはいかに素晴らしいものか』と演説をする内容だが、これが評判を呼んで日本中で大ヒットした。当時は学校ごとに教育映画を観に来たし、文部省選定作品に選ばれると動員が手堅くなる」

『わんぱく小僧と総理大臣』が各地で話題になったことで、意外な反響が矢元のところに届けられる。

矢元「選挙があると、候補者が自分の演説を入れてほしいと話を持ってきたんだ。それで岸信介の演説シーンを丸ごとその候補者の演説と入れ替えた。(そんなバージョン違いを)全部で40本くらい作ったんじゃないかな?」

国映では続いて闘病映画『光と風と子供』(企画は『電撃作戦11号』でも組んだ原千秋)や社会科学習映画『ぼくらは豆記者』、科学啓蒙映画「人工衛星・宇宙への』といった作品を作り続けるが、この教育映画時代は4年間で終わりとなる。

また国映はこの時代、数多くのテレビ映画を製作・提供した。海外作品の配給も手がけたが、オリジナル作品も多く製作している。その第1弾は日本テレビで1965~67年に放映されたアニメーション『戦え!オスパー』(全52話)だ。この時代、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』といった人気番組が続々登場、日本テレビは出遅れていたため、矢元のところにオリジナル企画の製作依頼が来たのだ。矢元はこれを承諾、日本放送映画を立ち上げる。ムー大陸の生き残りの超能力者オスパーが悪い超能力者ドロメと戦うストーリーで、矢元は製作としてクレジットされる。メインの脚本家にニューウェーブSF作家の山野浩一、演出に『機動戦士ガンダム』の富野喜幸らを起用。主題歌は作詞・寺山修司、作曲・富田勲の布陣で番組放映に臨んだ。

矢元「テレビの仕事はなかなか大変だった。作品ができてからスポンサーに試写をやって初めて放映が決まるという段取りがあって、これでスポンサーに気に入られなければ、せっかく作った番組がオジャンになる。もっともそれで失敗したことはなかったが」

『戦え!オスパー』の成功を経て、日本テレビは子供向けの帯番組を編成することが可能となった。続いて矢元は『とびだせ!バッチリ』(66年)『冒険少年シャダー』(67~68年)の製作に携わるが、この後にテレビアニメの世界から手を引く。

矢元「テレビアニメの仕事も儲かったが、やはりピンク映画の収益に比べれば利ざやが大きくなかった。アニメはピンクほど儲からないよ」(田野辺)

 

 

初期ピンク映画を支えた幻の監督

文/鈴木義昭

関孝二監督は、矢元照雄の盟友ともいうべき存在だ。新興キネマ(後の大映)の大道具出身だが、戦前に『隣組』(1931年)で監督デビューしている。戦後はラヂオ映画撮影所を設立、教育映画の世界を歩いてきた。華北電影に入社したり大陸での軍務経験もあるので矢元照雄とは体験的に共有するものがあり、気持ちも通い合ったのではないか。

豊富な映画経験や知識に物を言わせて、子供向けのテレビ映画からピンク映画まで撮りまくる手捌きは驚異的だ。ただピンク映画監督としてのハデさが目立ち、従来のフィルモグラフィに『総理大臣とわんぱく小僧』をはじめとする諸作品が記述されていないことが多いのに納得できない。まさかピンク映画監督が岸信介首相出演の映画を監督していたのはいかがわしい、などの考えがどこかにあるとしたら噴飯ものである。ピンク映画も教育映画も、関孝二にとっては同じ映画という大好きな仕事のひとつとして分け隔てなくあったに違いないからだ。

ピンク映画での関孝二の仕事は目覚しい。『女ターザン』に続く『痴情の家』(64年)では女牧場主のSEXストーリーに馬の種付けが絡むというチン品を発表、その後も日本で初めての立体ピンク映画『変態魔』を監督するなど話題作に事欠かない。『透明人間・エロエロ博士』(66年)は伝説的な作品で、この手のアイデア喜劇に本領を発揮した。矢元の言う「笑わせる」ジャンルを一手に引き受けたのだ。『おヘソで勝負』『好色番外地』『ピカピカハレンチ』『モウレツ女とゼツリン男』などの題名だけでもう笑える作品群を発表し続けた。『スペシャル』(67年)では、後の「SMの女王」谷ナオミをデビューさせている。ウォーホール製作『悪魔のはらわた』(73年)を公開時に3Dメガネ着用で観たものとしては、『変態魔』もメガネ着用で体験したいのだが、フィルムがあるといいなあ。96歳(2007年当時)で兵庫県の施設でお元気なことが判明。会いに行きたい!

 

和製ディズニー動物映画? 『海魔の逆襲』メイキング

矢元照雄は関孝二と組んで多くのこども向け作品を世に送り出した。1960年代に人気を呼んだディズニーの「ネイチャー」シリーズ(『砂漠は生きている』をはじめとする教育ドキュメンタリーや、『三匹荒野を行く』のような動物に「芝居を演じさせる」ドラマもの)を向こうに回し、国映でも謎の動物映画『海魔の逆襲』(62年)を作っている。

海魔とはタコのことを指す。『海魔の逆襲』は陸に上がったタコの活躍を描く中篇なのだという。実はこの映画の前に『海魔陸を行く』(50年、東京映画配給)が伊賀山正徳によって作られている。対する関孝二は『海魔の逆襲』と前後してテレビ向けの動物番組も手がけているが、現在ネット上にアップされている関孝二のフィルモグラフィに『海魔の逆襲』は記録されていない。幻の映画扱いであるが、公開当時は話題を呼んだ。

『海魔の逆襲』の撮影は千葉で行われた。

矢元「この映画が良かったのは、現場にある在りものを使うだけで撮影ができたことだ。セットを作らずに映画を作るのは国映の特徴だ」

映画に脚本は存在せず、撮影する内容は現場に行ってから考えたのだという。

矢元「この映画の見せ場はタコの芝居で、スイカやトウモロコシを盗んで食べるシーンが評判になった。『こんなもの、見たことがない』って、お客さんはビックリしたんだよ。タコに芝居をやらせる秘訣は……8本の足の中の1本を針金で縛って引っ張るんだ。それでも当時はタコが自分で動いていると信じるお客さんがいたんだな。それから2匹のカニを決闘させるシーンがあるんだが、そこにタンゴを流すと、カニが手を取り合って踊っているように見えるんだ。曲を選んだのは、手許にあったレコードをあわせてみただけなんだ。あれこれ考えて作っていたわけじゃない。でも音楽をつけることで本当にカニが踊るように見える。これはうまくいった」

映画にはタコが10匹ほど出演した。いくらタコとはいえ、見た目がまったく違うものでは困ると、撮影現場近くの猟師に頼んで、同じような姿をしたタコを調達した。ちなみに撮影が終わるとタコはスタッフに食事として振舞われた。

矢元「監督の関孝二は私と同じ齢だ。撮影中に『それはダメだ』と注文すれば『ハイハイ』と答える、順応力のある監督だったよ」

現在『海魔の逆襲』を観ることはできない。いまのシネフィルが持っている「先鋭的なピンク映画会社」としての国映のイメージと『海魔の逆襲』には隔世の感があるように思えるが、登場人物が毒蜘蛛や毒蛇にかまれて次々と死にイカ墨だらけの地獄に堕ちる、いまおかしんじの『おじさん天国(絶倫絶女)』は初期国映魂に実は忠実だ。そんないまおかは現在準備中の『つちんこ』(仮題)で、今度はツチノコ映画に挑戦する。本物のツチノコを使って撮影することは不可能なので、『ミートボールマシン』の西村映像が特殊効果で参加予定。リアルな造型のツチノコは登場するが、ひょっとすると針金で引っ張られる可能性もある。(田野辺)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る2  日本初の女ターザン映画『情欲』シリーズから、映画の黎明時代へ

構成/鈴木義昭

──ピンク映画の前にヌード映画、ショ一映画を撮られていたんでしたね。『ウエスト・ヒップ・ショー』『赤と黒のヌード』とか。

矢元「ストリップを撮ったのが先なんだ。だけどストリップだから、セリフがあるわけじゃないしね。人間は違っても、毎回5~6人のストリップを撮るだけだからね。15分か20分ぐらいの映画しか撮れないのよ。そういうのを一緒に配給すると、映画館は喜んでねえ」

 

──教育映画とストリップを一緒に!?

矢元「教育映画もストリップも、映画館は何でもいいんだよ。金になんなくちゃ仕様がないってことでね。早く言えばセールスの方から注文が来て作り始めたっていうところもあるんだね。だけどストリップの映画ばかりじゃ飽きが来ちゃったんですよ。パターンはどれも同じだからね。これまた困ったと、何か女性を裸にする方法はないかと考えた結果が、『女ターザン』なんだ。

 

──どうも今回調べましたら、『女ターザン』の前に『世界桃色全集』という映画でドラマも撮られているようなんですが。

矢元「これは台湾との合作映画。日本から俳優の八名信夫なんか連れて行ったんだ。女優も何人かと監督やスタッフもね、それで台湾に1カ月ぐらい行って撮った。もちろん僕も行ってた。ショーとドラマと両方って感じの映画だね。ところが向こうの女優が下手で話しにならない。こっちに持ってきたら、こんな下手な芝居が入っていたら商売になんないよってことでオクラになったんだよ。契約書には撮影するって書いてあったんだけど、こっちでは中止。台湾でだけ上映しているはずだね」

 

──そして、いよいよ『女ターザン』!

矢元「水上温泉から奥に入ったところに宝川温泉というのがあるんですよ。そこに熊とか猿とか動物を5~6匹飼っている小動物園のような施設があって、そこから動物を借りたね」

 

──第1作の『情欲の谷間』ですね。密林の女王が全裸で渓流を泳いだり、農家の娘の行水とか女王に密猟者が獣欲に燃えて襲いかかったり、話題のシーン満載だったようですね。

矢元「そうそう。女ターザンというアイディアは私が考えたんだ。当時、女性のヌードを見せられるものといえばターザンだった。山火事のシーンがあって、消防と相談したら、それは大変だって言って撮影中は消防車が1台待機していてくれたからね。それは大掛かりにやっているのよ、2ヶ月くらいはロケをしてたからね」

 

──これが大当たりして続篇の『情欲の洞窟』を翌年製作されるわけですね。

矢元「今度は奥多摩。虎の皮の褌でね。今だったら、バカバカしいくらいなんだけどね(笑)。裸は全然だめな時代だったからね」

 

──女優さんはどちらでスカウトされたんですか。

矢元「この沼尻(麻奈美)は松竹にいたのかな。『情欲の谷間』の峰は新東宝か何かにいたんじゃないか。要するに売れない女優。顔は良くても芝居が下手だと売れないんですよ」

 

──監督は、どちらも関孝二さん。

矢元「もともと教育映画畑で、動物映画なんか撮っておったんだね。戦前は新興キネマにいたらしいね。教育映画からピンク映画へ、ウチではずいぶん活躍しているよ。その後も立体映画とか光る映画とか、ユニークな企画を次々に考えて、なかなかのアイデアマンだった」

 

──関さんは動物の扱いがお上手だったようですね。

矢元「それはもう、いろいろ撮っていたからね。だけど、この後に撮影で使った猿を僕が自宅で飼っていたら、子猿だったのが大きく育っちゃって、5年位した時に近所に逃げ出してねえ、大捕り物。警察や上野動物園の人に来てもらって大騒ぎ、猿なんか飼うもんじゃないって思った(笑)」

 

──それは大変でしたね。ところで『情欲の洞窟』のロケ現場を内外タイムスの記者だった村井実さんが取材されて書いた記事が、「ピンク映画」の語源のようですね。

矢元「そうなんだ。村井もその後しょっちゅう取材に来て。『この次、行ってもいいの?』なんて声かけてきて、取材にはよく来た。「あなたが来ると悪口ばかり書くからダメだよ」なんて言ってたけどね(笑)」

 

──ピンク映画の国映ということになるんですね。

矢元「地方では東宝や松竹の2本立てに国映の映画を入れて3本立てにしたんだよ。国映の映画を入れないと商売にならないって言われたんだから、東宝や松竹じゃこういう映画は作れないからね。出来るのはウチだけなんだよ(笑)。だからフィルムの値段が高くても、売れたんですよ」

 

──フィルムが何本あっても足りなかった。

矢元「そう、注文が来て『お宅のところに行くのは3週間後だ』なんて言ったら仕事にならないからね。『フィルム代はこっちが出すから焼いて送ってくれ』って、映画館が言ってきたんだ。

 

──当時は、製作費も今のピンクとは比べられないぐらい掛けていたようですね。

矢元「白黒で500~600万円は掛けていた。300万映画といわれるのは少し後からだから。週刊誌に『国映ピンクの作り方』なんて書かれてね、300万円あれば旅館なんかを使って映画を作れるみたいに書かれました。出てくるんですよ、次々にプロダクションが。記事を見て俺もやって見ようなんて連中で、何本か撮ってすぐやめちゃうようなのが(笑)」

 

和製女ターザン映画『情欲の谷間』&『情欲の洞窟』

戦後もターザン映画の人気は高かった。僕でさえ何人かのジェーンの健康的なエロチシズムを連想できる。和製『女ターザン』なんて聞けば、男どもはソイツハミテミタイとなったことだろう。昭和37年秋、群馬県宝川温泉に約2ヶ月におよぶ長期ロケをした『情欲の谷間』が公開される。誘拐された少女が森の中で熊の一族に育てられ密林の女王になっているという物語で、主演は新東宝や日活でチョイ役をしていた峰和子。「大自然に生きる動物と人間の愛情の世界を描き、不当な欲望に生きる人々への警告としたい」というのが製作意図。密林の奥のヒスイ鉱を狙い密猟者がやってくる。「主眼はお色気に」とスポーツ紙も報道、国映初のピンク映画は大ヒットする。いや、まだ「ピンク」の呼称はなかった。お色気を売りにした長編劇映画をピンク映画と呼ぶようになるのは、この続篇で翌年公開の『情欲の洞窟』からである。発想のヒントにはベストセラー『野生のエルザ』もあったそうだが、動物映画も手がけた国映のノウハウがあったのは言うまでもない。(鈴木)

 

矢元照雄、初期国映作品を語る3  ピンク映画の黄金時代~第二映倫設立騒動まで

構成/鈴木義昭

──エロダクションの第1次黄金時代というか、ブームのようになるわけです

ね。

矢元「彼らは作っても配給する方法がないんだよ、それでウチに買ってくれって言ってくる。国映は全国に支社とセールスを置いて配給していたわけだから、大蔵映画は小屋も持っていて大きかったけど次がウチという規模だった。今の新東宝興業が出来るのは何年かしてからだから、あれは関西系の映画館を中心に出来たんだが、当時のウチの支社や社員を引き継ぐところも少なくなかったんだ」

 

──大蔵映画の大蔵元さんは、やはりライバルというふうにお考えでしたか?

矢元「ライバルだね。ウチが国映シネマという配給専門の会社を作って、当初は新東宝や葵映画や日本シネマといったプロダクションの作品を配給していた時も大蔵は入らなかったし、大蔵がOPチェーンというのを作った時も国映は参加していない。大蔵さんは新東宝からやっていたんだろうけど、ピンク映画においてはウチが老舗という意識はあった。昔は国映の作品を待っていてくれる映画館も沢山あったからね。国映という名前は大事にしたいと思っていたんだ」

 

──初期のピンク映画の話題作は国映が多いですね。例えば『妾』とか。

矢元「『妾』はよく入ったねえ。松井康子は良かったね。学生にも人気があったんですよ。彼女は子爵の娘だったんです」

 

──「ピンクの山本富士子」ですね。初期でご記憶に残る女優さんは他にもいろいろ……。

矢元「いろいろいました。東芝ネグリジェ歌手で歌っていた内田高子なんか綺麗だったね。監督の向井寬の奥さんになったんだけど。

 

──先日熊本で、香取環さんに会ってきたんですが。

矢元「一番初期の頃の女優だね。『新婚の悶え』とか若松孝二の『甘い罠』とかウチでも何本かあるんじゃないか。芝居はうまかったねえ。なかなか脱げて芝居の出来る女優はいないんだけどね」

 

──専属の女優さんがいた時代も。

矢元「初期の頃です。新宿コマのダンシングチームにいた橋桂子なんてのは専属だったね」

 

──若松孝二監督は国映で監督デビューしていますよね。

矢元「私のところでデビューして10本くらい撮ってる。さっき言った『甘い罠』がデビュー作。ハワイで撮った『太陽のへそ』も若松だ。1000万円掛けたカラー大作で、ピンク映画としてカラーは初めてだったんだよ。まだ多くの映画が白黒の時代だから。

 

──雪の中を女優さんが走る映画もありましたよね、若松さんの作品で。

矢元「『情事の履歴書』。あれも相当儲けたんですよ。とにかく、五社だとかテレビだとかで作れない映画を作れって、監督たちに厳命した。最初に裸になる時は必ず後ろ姿にして、なかなか見せないようにする。私は脚本の段階で厳しくチェックしたからね。どういう映画を作るのか、契約書に書いてあるから。必ず見せ場を作る、1時間5分から10分の映画の中に見せ場を4つか5つ入れるってことでね」

 

──見せ場とはカラミのことですね。

矢元「要するにカラミですよ。カラミのある映画じゃないと出せないし、逆に延々と裸ばかり出してもダメだからね。監督たちには『笑わせる』『泣かせる』『話題がある』これが必要だと言っていた。脚本を読んで、こことここを泣かせるようにしろと直させた」

 

──当時の週刊誌などで、ピンク映画は、「大人の性教育」「大人の非行防止」だっておっしゃっていましたね。

矢元「当時のマスコミがすぐに『ピンク映画は~』なんて書くから、『あなた、ピンク映画の内容知らないだろ』ってね。私は教育映画をやってきたしね、これは大人の性教育なんだってことを言ったの。私が直接プロデュースしている時は暴力や相手を困らせる描写はやらせなかった。緊縛もだ。ウチの映画を見て悪いことしてるなあとか女を泣かせてるなあとか、いろいろ考えてくれりゃいいって言ったんだ。そこにウチの映画の価値もある。その為に18歳以上じゃないと観れない様になっているんだからね」

 

──「第2映倫」というのを構想されたこともおありですね。これも成人映画、ピンク映画の可能性を追求するというお考えがあって。

矢元「それもあります。しかし、映倫の審査の基準がかなり曖昧だったんですよ。同じようなシーンでも、五社作品は切らないのに独立プロの作品にはカットを要求してくる。おかしいじゃないか、と。映倫の審査担当者というのは、実は五社から雇われている人間なんだ。自主規制の機関だから、大手の映画会社の連中で構成しているわけ。そうすれば独立プロに厳しく五社に甘いというのも人情なんだ。こんな審査と基準じゃ独立プロはやってはいけないからって、自分たちで新しい組織を作るしかないって考えた」

 

──ピンク映画の手法やテーマを五社が取り入れていくという流れもありましたしね。

矢元「五社が作った映倫で、独立プロの作品はあそこがダメここはダメと言われると、カラッポになってしまうからね。映倫マークがないと映画館で上映できないということもあるわけだから」

 

──他の独立プロも賛同してくれたんですか。

矢元「してくれたよ。大蔵元さんも賛成してくれた。第2映倫が出来なかったのは、いざ審査員を誰にするかという時になって適任者が見つからなかったの。第1映倫よりも資格のある人間を考えたんだ。弁護士とか代議士とか、あるいは有識者とかいろいろ候補を上げたんだけど、みんな『映画のことはよくわかんないよ』なんて言ってやってくれない。そうかといって私が審査するなんていったら、国映の社長に何がわかるんだって言われちゃうからね(笑)」

 

──第2映倫が実現していれば、その後の独立プロの可能性は広がったかも知れない。

矢元「武智鉄二が『黒い雪』などで苦労していたのもこの頃でね。武智の作品を切ったら、右へならえで独立プロ全般に波及するんじゃないかって考えた」

 

──その後、60年代後半には製作の現場を息子さんの矢元一行さんに譲られますね。

矢元「一行は映画のプロデュースをやりたいと言うんで任せたんだ。早くに亡くならなければ(1982年没)、もっともっといい仕事をしてくれたと思うよ。高橋伴明をはじめ若い監督との交流もいっぱいあったからね」

 

──最近の国映作品はご覧になりますか。

矢元「今、僕らは製作にタッチしていない。若い人に作品発表の場を提供するということでは頑張ってほしいね」

 

──今まで話してきた昔の国映映画のフィルムはまだあるんでしょうか?

矢元「私も探しているんだよ(笑)

 

──見つかったら、ぜひDVDにして欲しい。

矢元「そうだね。今見ると、映画としての素晴らしさを正しく理解してもらえるんじゃないか(笑)」

 

──ぜひぜひ、お願いします。(了)

 

芸術祭不参加作品『裸虫』

『七人の刑事』などにチョイ役で出演していたタレントの大須賀美香が主演に抜擢された

裸虫たちの恋。ロケは千葉県の白浜でおこなわれた

まだテレビ界にもゲリラ的な人物が多数いた頃のことだった。矢元一行氏と親交があったらしいTBSの名物ディレクターで後にテレビマンユニオンを結成する今野勉が「グループ創造」の名前で監督した幻のピンク映画が『裸虫』(64年)。工場で働く信介少年の体験する性と青春の悲劇で、一部には「二回見ないとわからない難解な作品」といわれた芸術派ピンクだった。国映は勢い込んで同年秋の「芸術祭」に参加を申請するが、あえなく拒否される。矢元社長曰く「審査員は時代感覚のずれた老人ばかりだ。来年からは文部省に対抗して、独立プロの芸術祭をやりますよ」(鈴木)

大須賀美香)