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人生 (ZIN-SÄY!) “電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

人生(ZIN-SÄY!

電気グルーヴ”の原点、驚異のダンスバンド登場!

 (平田順子著『ナゴムの話 トンガッチャッタ奴らへの宣戦布告』所載/絶版)

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1989年4月26日撮影。左から若王子耳夫石野卓球ピエール瀧、おばば(EX分度器)

電気グルーヴの前身バンドとして知る人ぞ知る人生。1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。その後、友人関係からメンバーが増え、流動的にいろいろな人が参加していた。ピエール瀧(当時は畳)もそのひとり。1986年に上京してからはライブパフォーマンスの面白さもあって大ウケ。ナゴムの新しいアイドルとなる。

85年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で人生を結成。同年3月25日、静岡サーカスタウンでデビューライブを行なう。この時は石野卓球ひとりでカラオケのライブ*1をやっていたが、その後友人関係からメンバーが増え、ピエール瀧も加入。彼は当時、畳と名乗っていた。ライブハウスや公民館でライブ活動をするだけではなく、歩行者天国でマイムマイムを踊ったり、夜中に地球儀をつけて町を徘徊する*2といったパフォーマンスも行なっていた。

人生の初ステージはひとりで、テープ回して。あっ、K太*3もいたか。K太にスライドやってもらったんだ。高2の春休みだったと思う。たしか3月のねー...25日。メリーノイズにちょっと息詰まってたし。違う事やりたいって思って。それからねーやっぱ日本語でやりたいなって思ってましたね。これは重要ですよ。メリーノイズはコピーばっかだったから英語で歌ってたんだけど、やるからにはやっぱ日本語だなって。その事はすごく意識した記憶がある。もう、コピーじゃない事をやりたかったんです。

こんだけでライブできるのは、えらい衝撃でしたね。オケさえあればひとりでできちゃうわけですから。まあ、いきあたりばったりだったんですけどね。自分でもあんま整理されてなかった。基本的には楽しけりゃいいって思ってましたね。で、うちに集まってる連中とも、ライブハウス以外の場所で面白いことできないかなーって事になって、歩行者天国でマイムマイム踊ったり、頭に地球儀つけて歩いたりし始めた。

人生って名前の由来はねえ...他愛のない事なんです。当時、僕のうちに集まっていた連中の流行り言葉だったというだけで。自転車こいでノイズ出しながら「これも人生だ」とか言って。

 

イベントとかに出て、静岡のニューウェイヴやってるバンドと一緒になるじゃないですか。あれが、もうイヤで。どいつもこいつも気取りやがってって。ニューウェイヴと称してやってることは普通のロックなんだもん。あの頃のニューウェイブのバンドって、本当にダメな奴が多かったですよね。コンセプトだとかメッセージだとか、言うことはもっともなこと言うんだけど中身がない。観ててもちっとも危険じゃない。そんなのばっかだったじゃないですか。なんてこと言うと偉そうなんだけど。でも、当時はそう思ってた。ホント、なめ切ってったなあ、世の中を。

でも放課後、ライブハウスに出た事って、今にしてみればいい思い出だなあ。学校では女から嫌われていたけど、ライブハウスでは嫌われた憶えはないし。当時の唯一の楽しみが集中してた。うん、それに、高校時代は世渡りがうまかったと思う。うぬぼれてたしね。唯我独尊。でも今はダメですね。今は世渡り下手だと思う。

 

で、人生に話を戻すと、メリーノイズよりも反響があって。ほら、客に瀧やイトチュー*4とかいたでしょ。イトチューというのは僕の中学時代の友人で高校は瀧と同じで、しかも瀧と同じ野球部だったヤツなんだけど。弱い者イジメが好きな人な(笑)。とにかく客にそんなのが集まってたから、ノリがすごくて。人間がステージに飛んでくる(笑)。当時はパンクで豚とか投げて話題になってたけど、僕らは人間投げて、お笑いでやってましたね。

 

親は相変わらず不気味がってた。中学の時はノイズのレコードが聴こえるだけだったのが、あげくの果てはグラインダーやチェインソー持ち込んで録音してる。母さんが朝起こしにくると枕元にそんなのがころがってて、普通ビビリますよ(笑)。しかも夜中まで友達は奇声を発して、部屋の中のドラム叩いてるわ、人生のライブで使う古タイヤだとか、学校から盗んできたハードルが散乱して...親は本気で病院連れて行こうとしてましたね(笑)。

妹も嫌がってましたね。当時、作文コンクールで入賞した詩で『お兄ちゃん』というのがあるんです。「お兄ちゃんがまたラジカセをかける/うるさくて勉強ができない/うるさくてテレビの音が聞こえない/でもその事はお兄ちゃんには言えない/だって言うと怒って叩かれるから」(笑)。めちゃくちゃディープになりましたよ。(石野卓球/人生)




石野卓球のTwitterから静岡時代の人生

そんな活動をしていた人生が、85年6月23日静岡モッキンバードで有頂天と対バン*5し、ケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)と知り合うことになる。

(観客動員0を記録した頃の有頂天。まだケラも卓球も無名同然だった)

僕はEP-4*6とかシンパシーナーバス*7ほぶらきん*8は好きだったけど、日本のインディーズで主流だったハードコア・パンクにはどうも魅力を感じなくて、日本のインディーズについてはぜんぜん知らなかった。

 


でも人生のレコードを出したいなと思って、どっか出してくれるレーベルはないかと雑誌『宝島』を見て、ナゴムを知った。有頂天というバンドのケラっていう人が主催するレーベルで、有頂天はステージでお芝居みたいなことをやったりする、すごくヘンなバンドだっていう風に紹介されていて。

その記事を見た2・3日後に、有頂天が静岡でライブをやるっていう話を聞いて。わざわざお金を払って見に行くのもなんだし、どうせなら一緒にライブをやりたいなと思って、モッキンバードっていうライブハウスに直接交渉した。そしたら実はチケットが10枚も売れてなくて困ってるから、チケットを手売りで10枚売ってくれたらOKだよって言われて。(石野卓球/人生)

まだまったく動員できなかった頃の“有頂天”が、静岡のモッキンバードでライブをやる時に、そのライブハウスに「フロント・アクトでいいバンドいませんか?」って相談したら、見つけてきたのが人生 (ケラ/有頂天)

グチャグチャな白塗りメイク。ステージには自転車やハードルといったライブとはおよそ縁遠い機材(?)が並び、マヨネーズを塗りたくるパフォーマンス*9、というのがこの日の人生のライブ。

(1985年11月28日静岡サーカスタウン。人生をクビになったピエール瀧がバンド再加入の打開策として女装姿で登場した時の映像。芸名は瀧レモン)

ステージに楽器はあまりなくて、自転車とかハードルがあった。で、ハードルをぴょんぴょん飛びながら、レジデンツとかデア・プランみたいな曲をやってた。(ケラ/有頂天)

有頂天は、東京のバンドだな、プロっぽいなと思った。あとケラさんは、顔デカいなっていうのが、第一印象(笑)。でもそんなに時間もなかったから、当日はケラさんに人生のテープを渡して、ちょこっと話しただけだった。

その時のライブは、ステージに自転車とかハードルを置いて。バンド演奏が半分、カラオケテープが半分。メイクは、塗ってればいいや、顔が見えなきゃいいやって感じで、最初はすごくグッチャグチャだった。だってポスターカラーを指とかで塗ってたからね。その頃のお客さんは、20人とか30人くらい。静岡の高校生だし、チケットも手売りだったし、ほんの友達レベルだよ。でも有頂天と一度一緒にライブをやったらけっこう評判よくて、うちらのぜんぜん知らない学校のヤツが来たりもしてたから、小さいなりにも広がりはあったとは思う。(石野卓球/人生)


その後、有頂天が静岡へ来るたびに人生が前座をつとめ、合計3回のライブ*10で共演する。そしてソノシート5連作のうちの1枚として、86年8月人生の1stソノシート『9TUNES(FOR MIRAI)』*11がリリース。その音源はすべて石野卓球が85年夏に勉強部屋で自宅録音したもので、「キンタマが右に寄っちゃった/オールナイトロング」という歌詞でおなじみの「オールナイトロング」や「男の中の男」など当時の代表曲が収録されている。

有頂天であまり同じフロント・アクターを使うことってないんだけど、人生は1回目に一緒にやったライブのインパクトが尋常じゃなかった*12から、その後も静岡に行った時に毎回前座をやってもらった。3回目に一緒にやった時に、卓球がレコードを出したいって言ったから、じゃあソノシートでも出すかっていう話になって。

ソノシートの音源は、もう卓球が自分の家でレコーディングしてて。そのテープを東京までわざわざ届けに来てくれたのが、すごく嬉しかった。なにかにつけてひと言多い、こまっしゃくれたヤツなんだけど、根は真面目なんだなと思った。彼はものすごく音楽が好きだし、自分の音楽をどうやっていくかってことにはある面ナーバスだった。いろんなことを前もって話し合いたいタイプだったんじゃないかな。(ケラ/有頂天)

ケラさんも1回目のライブでうちらのことを覚えてたみたいで、次から“有頂天”が静岡に来る時は、むこうからご指名で一緒にライブをやるようになった。それで3回目にやった時に「ナゴムからソノシートを新人で5枚出すんだけど、その中のひとつで出さない?」って言われて。ギャラは全部のバンド共通で、3万円だった。

いずれにせよナゴムの話があるないには関わらず、高校三年生の夏休みくらいから、卒業したら東京に出て行こうとは思ってたの。だからケラさんからソノシートの話をもらったのは、あまりに渡りに船だった。それで高校卒業してすぐ東京に出て来て、3・4ヵ月してソノシートが出たのかな。だから上京後すぐにナゴムのイベントに出たり、ケラさんのブッキングでライブをやったりすることが多くて。チケットの手売りとかもなかったから、バンドとしては恵まれてたんだろうね。ソノシートは全部自宅録音で、高校3年の夏休みにずっと録ってたテープをそっくりそのまま録音した。だってギャラ3万円だから、スタジオなんか借りれないしね。それにそういうテープがダンボール箱一杯くらいあったし。ミックスだけは、CSV渋谷っていう楽器屋のスタジオでやった。もすけさんの山口優さん*13と東京タワーズ岸野雄一さんがミックスして。そういえばCSVでミックスをやる前日に、4チャンのマスターテープにコーラをこぼしちゃって、全部ダメにしちゃったの。だから仮落とししてたカセットテープを使ったんだけど、なんの支障もなかったね(笑)。

ケラさんには「オールナイトロング」を入れたいって言われたのは覚えてる。別にこっちも断る理由もないから、入れたけど。ソノシートを出した反響はすごかった。同時発売された5枚の中では、一番売れたみたい。たぶんあの頃はいろんなことがタイミングよかったんだよね。(石野卓球/人生)

人生の東京進出初ライブは86年4月5日に新宿LOFTで行なわれたナゴムナイト・デラックス。この日は石野卓球、畳、おばば(EX分度器)の三人編成だった。それほどお客さんの入りはよくなかったが、「3年B組金パチ先生!」と叫びながらステージに出て来て、カラオケ・バックに歌と踊り、おばば(EX分度器)*14ボンカレーを自分の顔にかけるパフォーマンスなど、張り切ったライブを披露。お客さんだけではなく、共演者の度胆も抜いた。

京進出2回目のライブは、同年6月6日に四谷公会堂で行なわれた“第1回ナゴム総決起集会”。

(86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた第2回ナゴム総決起集会)

この日のライブで人生の存在がファンに知れ渡り、そのライブに来ていたお客さんから、クチコミでさらに人生の面白さが広がった。

“第1回ナゴム総決起集会”を見に行った時、チラシに「人生とはなにか討論会」って書いてあったの。なんの討論会するのかなと思ったら、人生が白塗りメイクで出てきて、カラオケ・バックで踊りながらライブをやって、面白かった。(稲葉真人/ファン)

その後ギター&ベース兼ダンサーの若王子耳夫*15と、キーボード兼カラオケテープの入ったラジカセを操作する担当の紅一点、グリソンキム*16が本格的に加入し、更にパワーアップする。

(『ロッキング・オン・ジャパン』88年1月号所載)

ライブでは裸に木の格好をさせた人*17を後ろ向きに立たせてオブジェにしたり、ステージにスクーターや家のふすまを持ち込んだりし、奇抜なダンスやパフォーマンスをしていた。畳ことピエール瀧ゴルゴ13ドラえもん、殿様などの格好をして踊っていたが、当時はメンバーの中で一番人気がなかったそうだ。この頃はバンド演奏よりもカラオケテープ中心のライブだった。



“第2回ナゴム総決起集会”*18を見に行った時に、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人と知り合いになって。その人から人生のことを、あんなにすごいバンドは他にいないっていう話を聞いてたら、ちょうど人生が出て来て、その通りだということになった。卓球が目を赤と青に塗って、顔は白くて、コミカルな歌詞で、それを振り付けて踊るわけ。演奏はグリソンキムっていう女の人が、ラジカセのボタンをピッと押すと、曲が始まるっていう。なにも演奏らしい演奏はなかったけど、かなり衝撃だった。(高田潤一/ファン)

人生のことは、“第1回ナゴム総決起集会”に行った人から聞いて知った。初めてライブを見たのはソノシート発売記念ライブ*19の時で、目から鱗というか「うわあ!! どうしよう」っていう感じだった。後に「それを認められたと勘違いして……」と笑いのタネにもなったけど、人生のライブ中に石野に「きみ、青空球児に似てるね」って言われたことがある(笑)(野村祐子*20/ファン)

86年10月19日、CSV渋谷でのライブを見に来た観客の中にHYという女子高生がいた。彼女は初めて見た人生のライブの虜になってしまい、ファンクラブ“人生教”を作ることを決意。同年11月6日新宿LOFTでのライブの日に発足。この人生教の発足メンバーには、後にナゴムからレコードをリリースすることになるマサ子さんのボーカル、マユタン*21もいた。

ナゴム最後の新人バンド「マサ子さん」のライブ)

 人生を知ったのは、マユタンが私の中学からの同級生で、人生がすごいって騒いでたから。初めて行ったライブはCSV渋谷でやったゴーバンズとのイベント。その時は一番前の一番真ん中で見てた。人生のライブの笑いはすごくて、私にとっては衝撃だった。それに音楽がそれまで私が聴いてたものと違って、ライブでは虜状態で唄ってた。「娘さんよくきーけよ/山男だよ*22っていう歌の、「山男だよ」っていうところで、分度器さんがバタッて跳ねて、そのシーンがすごい強烈だった。本当にお下劣極まりない歌詞なのに、なぜか私には品があるような感じがして。

私はもうとにかく卓球さんが好きで、本当に輝いてた。才能ありそうで、未来がありそうだった。ファンクラブを作ったのは、メンバーと友達になりたかったから。私が初めて行ったライブは東京進出直後だったんだけど、その前のライブは見てなかったから、なんか悔しかったの。

人生のメンバーは随分協力してくれて、写真もいっぱい撮らせてくれたし、人生教の会員のためだけのテープ*23を作ってくれたりもした。最終的に会員は300人くらいになった。(HY/人生教)

人生は最初にソノシートを聴いて知って、ライブを見たら「げげっ!」って感じだった。私が印象深かったのは、やっぱりおばば。分度器さんって呼んでたんだけど、私たちの間ではアイドルだった。もういるだけでかわいい。(マユタン/マサ子さん)

「分度器さんは、すごいセクシーで素晴らしかった。ボケっていうのかな。一番強いキャラクターだった。通称おばばっていうんだけど、私は眉毛が一緒だった*24から、おばばの妹って言われてた。今はね、細くなっちゃったけど(笑)(HY/人生教)

こんなアクの強いバンドに、更にアクの強いメンバー王選手*25が加入する。元々劇団健康のメンバーだった王選手は、“ナゴム総決起集会”にダンサーとして出演するなど、ナゴム界隈に出没していた。

ナゴム時代の筋肉少女帯。客席にダイブしている男が王選手)

そこで人生のメンバーとして捕獲。人生の中では飛び道具的な存在で、ダイビングや強烈なパフォーマンスを担当していた。

王選手のことは、うちらは“あっちゃん”て呼んでたんだけど、あっちゃんは劇団健康の劇団員で、オレが劇団健康の芝居に出た時に知り合った*26。稽古場に行ったら、壁に頭をぶつけてるヤツがいるんだよ。それで何やってるのって聞いたら、「頭を鍛えてるんだよ」って。うわー、狂ってるなコイツと思って(笑)。それからあっちゃんの行動を見てたら、次から次へと強烈なことをやるから、これはぜひ捕獲しなきゃって。

あっちゃんは普段から強烈だった。魚は骨が一番好きで「このホッケ骨もらってもいいかな。僕、骨が一番好きなんだよね」って言ったり、「この前の休みに自転車で御前崎まで行ってきたんだよ」とか、虫歯予防デーラソン一等賞とかいう賞状を持って来て「これファンクラブの会報に載せてよ。この前の週末に出たんだ」とか。あと真冬でもランニングでいたり。それで早稲田の学生なんだよね(笑)(石野卓球/人生)

日常生活でも奇行が目立つあっちゃんこと王選手が、87年10月3日に池袋のビルで行なわれたライブで、自分で壁に投げ付けた消火器が跳ね返って頭にあたり、4縫う大ケガ*27をする。しかし血まみれになりながらもライブを続行。30人ほどの観客はなぜか大爆笑。しかもその時着ていたTシャツは“人生教”の会報でプレゼントされた。

「豊島区を盛り上げる会」っていう企画で、池袋の廃墟のビルの中でライブをやったことがあったの。その時にあっちゃんが消火器を壁に投げ付けるパフォーマンスをしてたら、それが跳ね返って、あっちゃんの頭にガーンッて当たって。羊の格好しながら、血ダラダラ流して。でもやめないで延々壁に消火器を投げ付けてて、その後ろではバンドが演奏してるっていう、すごいライブだった(笑)(石野卓球/人生)

あっちゃんがライブ中にケガして、血がバーッとついた本当の血染めのTシャツを“人生教”の会報のプレゼントにするって言って持って来たことがある。でも血染めのTシャツなんてもらっても、たぶん誰も嬉しくないと思うよ。しかもあっちゃんのだし。一応ご好意だから、誰かに送ったんだと思うけど。もらった人はどうしてるんだろう。本物の血だから怖いし、茶色くなっててなんか臭そう。(HY/人生教)

人生教の会報『人生の手びき』をチェックしてみたところ、当選者は藤沢市の伊藤優樹さんでした。今そのTシャツはどうしていることでしょう。

87年5月にはソノシート付きEP『LOVE』*28、同年11月にEP『FASCINATION』*29、88年2月にソノシート付きLP『顔として…』*30と、ナゴムから立て続けにレコードをリリースする。

これら三作は、“仮面ライダーZS*31三部作”というシリーズになっている。

仮面ライダーZS三部作”は、ソノシートじゃなくて硬いレコードだった。そのレコードから、EGMっていうスタジオでレコーディングするようになって。レコーディングはなによりも楽しかった。自宅の多重録音とやってることは変わらないんだけど、規模がぜんぜん違うからいろんな可能性が出てきて、すごい開けた感じがした。ケラさんは『LOVE』のレコーディングにはずっと来てたけど、あとはもう来なくなった。でも来ても何をするわけでもなく、アドバイスとか選曲についても何も言われなかった。こっちはアマチュアだし、レコーディング代出してもらってるのにいいのかなって不安になったけど、まあ言わないってことはいいんだと思って。それはすごいやりやすかった。

レコーディングはほとんどオレがひとりでやって、シーケンサーとか持ってなかったから、キーボードの手弾きは(グリソン)キムに弾いてもらって。バンド演奏は楽器のメンバーを呼んできて、ここでこうやってって言って弾いてもらった。だからすごい人力で録ってた。あと、あっちゃんが学校でロシア語を専攻してたから、ロシア語のナレーションを入れたいって言って、『FASCINATION』で喋ってもらったの。その喋り出しが、「ユ~チュルビック*32って(笑)。それを未だにオレと(ピエール)瀧の間では、君ってことを指すのに使ってる。

レコードは売れたと思うよ。雑誌『フールズメイト』のインディーズ・チャートでは確実に上の方に入ってたから。まあインディーズなんて売り上げ枚数をちゃんと集計なんかできないだろうから、編集部の腹ひとつだろうけど(笑)。ギャラはいくらだったかぜんぜん覚えてないけど、こんなにもらっていいのっていう額じゃなかったことは確か。ケラは金払いが悪いってウワサを聞いてたけど、そんなことなかったよ。ただ後になるに従って、だんだん払いは悪くなってったけど。こっちもそれまでレコード出してたわけじゃないし、それでいいやって感じだった。(石野卓球/人生)

人生のレコードは、学芸大学にあるEGMってスタジオでレコーディングした。卓球が完全なプロデューサーとして、ひとりできりもりしてた感じだった。テキパキやってて感心したな。『LOVE』の時かな、卓球にちょっと音を重ねすぎじゃないかって言った記憶がある。僕はスカスカ感が好きだったから。だから人生は最初のソノシートが一番好きだし。だけどだんだんゴージャスなサウンドになっていって。でもきっとあのやり方が今の“電気グルーヴ”に繋がってるのかな。(ケラ/有頂天)

もともと宅録少年だった石野卓球はレコーディンクが楽しくて仕方がなかったようで、88年4月21日にはキャプテンレコードから『バーバパパ*33をリリースする。

シングル2枚出して、アルバムを出した次の月にまたシングルを出したいって言ったら、ケラさんにダメって言われたの。あまりにも立て続けだったから。とにかくその頃はすごくレコーディングがやりたくて、別にレコーディングができればどこのレーベルから出てもいいやっていうのもあったし。それでキャプテンに話を持って行ったら、キャプテンもちょうど傾いてた時で、じゃあ願ったり叶ったりだって。それで出したら、ぜんぜん売れなかった(笑)(石野卓球/人生)

ナゴムは“ナゴムギャル”と呼ばれる個性的な服装をした若い女の子のファンが、レーベルについていたことも特徴のひとつだった。しかし、ナゴムに関わったバンド全部がナゴムギャルに人気があったわけではない。人気があったのは、わりと笑いの要素やキャラクター性の強いバンドだったようだ。パフォーマンス性の強いステージングをする人生はまさにその典型で、客席は100%ピュア・ナゴムギャル。

人生のお客さんは、ご存じの通りナゴムギャル一色。100%ピュア・ナゴムギャル(笑)。ただ俺もその頃まだ18歳とかだったから、そんなに年齢も離れてないし、他のバンドに比べて年齢層が低いってことも、最初は分からなかった。まあ後になってちょっとこっちが醒めた時に、なんだこいつら音楽聴いてねぇな、見に来てるだけなんだなって思って。それはすごい徒労感があった。でもそんなにすれた子とかいなかったから、話しやすくてよかったよ。

まあ中にはちょっとおかしいヤツもいたけどね。おかしくなっちゃったのか、おかしいものが好きだからおかしくならなきゃいけないっていう強迫観念でおかしくなってしまったのか分からないけど、温い狂人が多かった。突き抜け方が足りないというか。狂ってるのか演じてるのかっていうのは、やっぱり分かるじゃない。その演じてる部分が見えてしまってる。まあ今考えれば、かわいいもんなんだけど。

でもオレはこの前つくづく思ったけど、10年間かけてナゴムギャルがやっと商品になったのが、篠原ともえだと思う。10年経てば、ナゴムギャルもお茶の間に進出(笑)石野卓球/人生)

人生のお客さんは、ニーソックスに、ラバーソール履いて、ミニスカートで、髪をふたつに結んで、いかにもナゴムギャルっていう格好の人が多かった。でも私とか友達はあまりお金がなかったから、上下いちまつ模様の服に、ちょっとラバーソールっぽい靴を履く程度だった。当時はファン同志でお友達になったりもしたけど、今はあまり会ってない。みんな結婚したとか、銀行員になったとか、ウワサに聞くくらいで。(HY/人生教)

京進出以降、人生はあっという間に有頂天、筋少、ばちかぶりに続くナゴムの看板バンドになっていった。そんな、人生の人気が頂点に達したのは、87年8月31日渋谷LIVE INNで行なったワンマンライブ。

(1987年8月31日の人生ワンマンライブ「俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ」@渋谷LIVE INN)

この日のライブで配られたパンフレット*34には「インディーズになっちゃった」と書いてあり、当時の自分たちが置かれている状況に対する複雑な気持ちがうかがえる。

人生はそれなりにインディーの人気者になっちゃって。雑誌にもよく写真とか載るようになっちゃって。上京してからそんな時間たたなくて、そこそこの人気はあったんじゃないかな。

その頃はそれなりに緊張感はあったんですよ。やっぱ、地方出身者だからチャンスは逃したくないみたいな。一生懸命やってた思う。とくに石野はプロねらってただろうし、僕はあんまそういう事は考えないし。あの男(石野)は上昇志向あるしね。練習とか真面目にやってましたよ。でも、人生みたいなのって、やってる方ががんばってるのがわかっちゃうとダメじゃないですか。そのへんが難しい。

石野は大変だったと思いますよ。やっぱ、ワンマンで500とか客が入っちゃうとねぇ、それなりに考えるじゃないですか。それは石野じゃなくても。僕は...、僕ってあんま人気なかったんですよ(笑)。いろいろとやってましたけどねぇ、ドラえもんとか。でも人気なかったしね、だから、気楽でしたよ。なんか、結構、客観的だった*35。人生がプロになる事で真剣に考えたりしなかった。(人生/ピエール瀧

あまりライブの動員がすごいよかったっていう印象はないな。筋少とかがすごかったからね。一番ピークは、渋谷LIVE INNで500人くらいじゃないかな。(石野卓球/人生)

渋谷LIVE INNでワンマンライブをやった時は、客席にござが敷いてあって、お客は靴を脱いで体育座りをさせられた。ライブっていってもカラオケ流して踊るだけなんだけど。その日はメンバーが素裸になったりして最高だった。(高田潤一/ファン)

その後、ファンの間でも人生のマンネリ化がささやかれ、当初の勢いが少しパワーダウンしているようにも見えた。しかし88年2月10日に王選手が脱退*36し、静岡時代にメンバーだったドラムの越一人*37が加入。テープよりもバンド演奏中心のライブになり、人気を取り戻した。そんな人生を取り巻く環境はバンドブーム一色。筋少など周囲の人気バンドはどんどんメジャーデビューしていった。

メジャーデビューは最初の頃は考えてなかったけど、途中でちょっと考えた。一度メジャーデビューしてみたかったっていうのが、今思うと正直な感想かな。してみないと分かんないっていうのもあったし。(石野卓球/人生)

しかし、人生と同じくらいレコードが売れているバンドにはメジャーデビューの話があるにもかかわらず、人生にレコード会社からの声はかからなかった。

88年6月リリースのナゴムオムニバス『おまつり』には、87年5月14日豊島公会堂の“第4回ナゴム総決起集会”で観客レコーディングした、石野卓球作詞・作曲の「革命の唄」を収録。この日ケラは水疱瘡のため欠席だった。

なんか卓球がその当日に作詞・作曲したとかいう歌のチラシをみんなに配って、三回練習して、本番になった。で、ケラに電話するとか言って、ステージから電話して。ケラが「すみません」とか言って会話して。「行けないよ」とか言って。やってる場所が豊島公会堂とか汚ない所なんで、学芸会みたいなノリだった。(稲葉真人/ファン)

バンド形態になり人気を取り戻したものの、人生のバンド内は倦怠期で、音楽的にも息詰まっていた。それは海外からヒップホップ、アシッドハウスといったダンスミュージック入ってきた時期でもあった。石野卓球はこれらの要素を人生に取り入れられないものかと考えたが、バンド編成になっていた人生には難しかった。

(バンド形態となった末期の人生)

そんな折り、静岡時代から一緒にやってきたおばば(EX分度器)が帰郷することになる。いわゆる「バンドで芽が出ないから故郷に帰って仕事に就く」という理由で。そして89年4月26日大阪バーボンハウスでのライブを最後に解散。

人生解散の時はよく憶えてますよ。スタジオでね、練習の時、石野が遅れてきて、いきなり「人生解散するから」って。予兆はありましたよ。煮詰まってたしねえ。ネタが尽きたというか。目新しさがなくなってきちゃって。やっててもつまらなくなってきて。無理にやるみたいな。ライブもスケジュールこなすみたいなノリになっちゃって。で、石野がいきなりそう言っても、メンバーも「そうか」みたいな。「やっぱりな」って。僕はね、人生やめたら、もうステージに立つ事ないなって思ってたんです。それは悲観じゃなくて、まあ、それはそれでいいやって*38。(ピエール瀧/人生)

アッシドハウスとかを88年か89年くらいに聴いて、いろんなことが自分の中でひっくり返っちゃったの。それを聴いて人生やめようと思ったし。最初は人生の中に取り入れられないものかと思って試行錯誤してたんだけど、やっぱりダメだった。しかもバンドももう飽きてきて、倦怠期になってたし。アマチュアでそれはあっちゃいけないよね。

…88年ですか。その頃は例のイカ天ブームのちょっと前かな。ビート・パンクとか出てきて。ホコ天とか盛り上がってた頃ですよ。筋少がメジャーでデビューした頃だ。で、ちょっとしてイカ天ブームがあって…あれって僕知らなかったんですよ。存在そのものを。その事を人から聞いてメンバーに話してみたら知ってる奴が何人かいて。で、見てみたら。こりゃ、マズイなって。その頃は筋少がメジャー行ったりで、結構あせってたりしてたから、あれに出たら出たでどうにかなったのかもしれないけど、やっぱ出なくて正解だったと思いますよ。イカ天なんかに出るバンドって、昔の人生みたいにギミックが前提にあってみたいなのが多かったでしょ。何か、ああいうのはもう違うなって思ってました。

でも何とかしなきゃいけないって気持ちはあったんですよ。丁度その頃、イエローを聴いてて、いや、『ブルーマンデー』と並んでショックを受けたんですけど。イエローってすごく変じゃないですか。それから『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム』*39やボム・ザ・ベースの『ビート・ディス』がヒットしてた。これだって思いましたよ。もう、こんな事やってる場合じゃないなって思いましたね。

人生を辞めるつもりはなかったんですよ。自分としてもライフワークとして続けたかったし。ここまでやってきたんだからって意識はあったと思う。でも明らかにパワーダウンしてた。僕もメンバーもその事は気付いてたと思いますよ。その頃の人生ってバンドだったんですよ。ドラマー入れて。練習はすごくしてた。一番練習してたと思う。でも、自分のやりたい事と人生のそれと開きができちゃって。ここでシンセ・ベース入れたいなって思ってもそれができる状態じゃなかったし。メンバーのテクニック的な問題もあったりして。ギターがいらない曲でも、おばばがいるからギター入れなきゃならないとか。遊ばしておくわけにもいかないじゃないですか。メンバー間の関係が悪くなるのもイヤだったし。だから人生とは別にもうひとつバンドやろうかなって考えたりもしたんです。

でもバンドになってから人生の人気は盛り返したんですよ。ロフトとか満員になっていたしね。でもね、あの頃についた客ってホント、うちの事勘違いしてたと思いますよ。パンクスとか来てたもん。それはやってるうちらに問題があるんだけどさ。ポゴダンスだったもんなあ。電気グルーヴになってからやったアンケートとか見ると、あの頃の客っていない*40。まあ、そんな状況も含めて、もうダメだって思った。ボム・ザ・ベースなんか聴くと、もうこんな事やってる場合じゃないぞって思ってましたしね。精神的にもディープになってたしね。

やっぱ彼女と別れるっていうあれがあって。あーもうダメだなって。8キロ痩せましたもん。うん、ま、そんな中で人生が解散するんだよね。いや、実にディープな時代でしたね。

おばばが田舎に帰るって話が出て。まあ、これだけやって芽が出ないっていうか、ずうっとこの調子だったらオレはできないっていう事になって。最初はおばば抜きでやろうかって話もあったんだけど、メンバー内もすごい倦怠期で。一番バンドの悪い状態になって。そこにいない奴の悪口は出るし。だから…もう、発展がないなって感じで。これは、もうダメだろうって。それを言うのは自分しかいないなって思って。で、自分から辞めるって言っちゃうんですけどね。みんなも、来たかって感じの対応でしたよ。(石野卓球/人生)

人生の解散は、最初卓球さんから電話で聞いた。すっごい暗い声で「人生やめるから。今話し合いしてるから、詳しいことはまた後で話す」って、それだけ聞かされて。その時は声があまりにもブルーだったから、びっくりしちゃって。その後会って、分度器さんが田舎に帰っちゃうから、この人がいなければ人生は成り立たないだろうってことになって、解散という風に聞いた。なんかもう「えぇー! 帰らないでくれ」って思って。でも私なんかが意見を言うことでもないし、ただひたすらショックだった。(HY/人生教)

同年4月27日、石野卓球若王子耳夫ピエール瀧を誘って電気グルーヴを結成*41。新しいスタートを切った。

(1989年8月20日大阪十三ファンダンゴにて電気グルーヴのデビューライブ)

人生は静岡時代にテープ派とバンド志向派といて、僕はテープ派だったんですけど、とりあえずテープでいこうと。

電気だとメンバーも石野と僕と耳夫と高橋だから、必然的にバンド形態じゃなく、打ち込みメインの音作りになった。その時に、後期の人生で忘れてた感覚がよみがえった。これはいけるなって。これはいけるなって感動がね、なかったんですよ。ずっと長い事。電気でそれがよみがえった。

とは言っても、最初の大阪でのライブの写真、今見ると笑いますよ。石野なんて長髪でセーラー服着てるし、高橋は背広着てたし、勘違いしまくり。それのどこがラップとかハウスみたいなね。なんだろこの人達は? みたいな。暗中模索でしたね。クラブもんの音楽が海外では流行ってるのは知ってたけど、自分らはとにかくラップやらハウスやら自分たちなりに消化する事で懸命だったんじゃないかな。でも、それらが自分らがずっと好きだった音楽、UKもんのテクノとかジャーマン・テクノとかと近しい匂いがあったしね*42。(ピエール瀧電気グルーヴ


ナゴムのことはアマチュア時代のいい思い出って感じかな。悪い思い出もあったんだろうけど、思い出せないし。やっぱりきっかけができたってことは、未だにすごく感謝してる。ナゴムと言うか、ケラさんだよね。単純にソノシートとかレコードが出せて、レコーディングすることもできたし、それによってプロモーションもできたし。あとライブハウスで手売りをしなくても大丈夫だったとか。それがなかったらね、今もたぶんちょっと違うだろうしね。(石野卓球電気グルーヴ

ほどなくして耳夫は電気グルーヴをクビになり、死ね死ね団にベーシストとして加入の後、Badge714に参加。石野卓球ピエール瀧は新メンバーにCMJKを加え、90年2月、TMN*43とのコラボレーション・シングル『RHYTHMRED BEAT BLACK』でメジャーデビューを果たした。その後はCMJK*44の脱退、まりん(砂原良徳*45の加入、脱退を経て石野卓球ピエール瀧のふたり組に。メジャー・シーン、アンダーグランウンド・シーンの両方を股にかけて活躍する。

人生時代の音源は1992年8月25日にリリースされた『SUBSTANCEⅢ』『SUBSTANCEV』の2枚のCDと、2006年3月23日にナゴムレコードからリリースされたベスト盤『人生/ナゴムコレクション』に収録されている。

参考文献

野田努+宝島編集部+電気グルーヴ『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』

人生(ZIN-SÄY!)パンフレット『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』『人生ウルトラスーパースター列伝スペシャル~ジャイアン・リサイタル』

*1:ライブは石野卓球ひとりでやっていたが、電気グルーヴのデビューライブにDJとして立ち合ったこともある、友人のK太がスライドとして参加。『どてらい男』などを映していた。視覚的な演出としてスライドを持ち込むなんて、今でいうVJのハシリ?

「人生は石野が一人でやってたんですよ。K太って奴がスライドやって、『どてらい男』とか映してた。おもしれえって思いましたね。それが人生ユニット1って言うんですよ」(ピエール瀧/人生)

*2:「人生ユニット2がギターとか入れて有頂天の前座やって、それで人生ユニット3ってのがあるんですけど、それがね、僕が初めて人生やったのなんだけど。ある夜中、石野の家で僕と石野と田中って奴と話してたらムラムラしてきたんですよ。それで今から何かやらねぇって事になって。で、考えついたのが、地球儀と靴べらとギターと何か持ってって、それらを体につけて、夜中の静岡駅を歩こうって、そういう事になったんですよ。それが人生ユニット3です。ホント、バカですね(笑)。これはねぇ、若い人には受けたんですよ。一緒に記念撮影して下さいとか言われたり(笑)。その次がねぇ、駿府公園(徳川家康が隠居生活を送った駿府城の跡地)ってとこで、演劇やってる人がヤグラ組んだんですよ。で、昼間だったらそこを自由に使っていいよって事で人生のライブやるんですよ。僕はシンセを弾くんですけどね。石野から借りて。50人ぐらいかな、客は。まあ、静岡では、そういうのってあんまないから、みんなもの珍しそうに観てましたね」(ピエール瀧/人生)

*3:石野卓球の転換期には、なぜか必ず登場するいい奴。現在は静岡にいる。瀧の逮捕後、卓球に「新しいオラフお前がやるの?」とメールで質問した。

*4:伊東忠。卓球の中学時代の悪友であり、瀧の高校時代の野球部のチームメイト。卓球と瀧の出会いを橋渡しした張本人。

*5:この日は石野卓球、越一人、狂人川井、くちづけの4人編成。くちづけは電気グルーヴ周辺を手がけるライター野田努の弟。

*6:佐藤薫が率いるエレクトリック・ファンクバンド。83年5月に「EP-4 5・21」と書いたシールをいたる所に貼り、予告テロや政治集会かと誤解され、話題を集めた。実際は一日で京都ビッグバン、名古屋、渋谷PARCO PART3の三ケ所を回るライブの告知だった。

*7:新沼好文によるテクノ/テクノポップ・ユニット。80年に雑誌『ロック・マガジン』編集長・阿木譲主催のヴァニティーからデビュー、現在も活動中。

*8:70年代後半に結成され、メンバーの弟の小学生がステージに上がって話題になった、滋賀県出身のお笑いパンクバンド。アンバランスレコードで活動し、その後アルケミーレコードからCDが出ている。当時石野卓球は「ほぶらきんYMOをクロスオーバーさせたのが人生さ」と言っていた。人生の作品も毎回送っていたそうだ。

「80年代のインディーズバンドなんだけど、メンバーに小学生とかいるんだよね(笑)。僕と瀧は非常に影響を受けていて、ほぶらきんがなかったら音楽をやっていたかどうかわからないぐらい影響を受けた」(人生/石野卓球

*9:「その日の人生のライブは、有頂天のマネージャーとして同行したから見てた。なんかステージでマヨネーズを塗りたくってて、やたら臭かったのを覚えてる(笑)」(能野哲彦/PCM)

*10:2回目は85年10月23日、3回目は86年1月26日。いずれも静岡モッキンバードで。

*11:参加メンバーは卓球、分度器、くちづけ、ポートピア83才、ひょでしからー渡辺、チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池、バンバラバンバンバンKIM、畳、MIRAI。ポートピア83才は『電気グルーヴのオールナイトニッポン構成作家や雑誌『SPA!』ライターとしてファンの間ではおなじみの椎名基樹。チュルルチュッチュッチュルチュルイェー菊池は上京後、固定メンバーになる越一人。バンバラバンバンバンKIMはグリソンキム。MIRAIは後にミュージシャンとなる黄倉未来(おうくら・みらい)で収録当時は3歳だった(収録曲「人生のテーマ」の子供の声が彼)。

*12:メインであるはずの有頂天を食ってしまったという話もある。ケラ自身も「第一回ナゴム総決起集会」で人生を紹介する時「有頂天が静岡に3回行った時に毎回ゲストで出てもらって、毎回負けてたんですけども。いいでしょ、すごく」と言っていた。

*13:もすけさん、エキスポを経て、現在はマニュアルオブエラーズというレコード店やマニュアルオブエラーズ・アーティスツという事務所の運営をしている。当時CSV渋谷の店員でもあった。「人生のテーマ」と「カランコロンの唄」のミックスは山口優、その他は岸野雄一

*14:石野卓球が高校二年の時に手伝っていたOBJ(オブジェ)というバンドで知り合う。「俺もふざけたことをやりてぇ」と言って85年10月23日静岡モッキンバードのライブから正式加入。ギターとダンサー、作曲を担当。以前は分度器と呼ばれていた名残りで、レコードではおばば(EX分度器)というクレジットになっている。

*15:石野卓球の高校の同級生。85年7月23日静岡サーカスタウンのライブで加入するものの、ギャグレベルの低さによりその一回でクビに。86年10月10日静岡モッキンバードのライブから再加入。一浪して東京の大学に進学したため、87年春から東京でも活動する。嫌なヤツ担当。

*16:人生以前は“クセナキス”というサイケデリックなハードコアの女の子バンドをやっていた。石野卓球がキーボードを入れたいと思い、知人のタイガージョーを介して知り合う。85年11月28日静岡サーカスタウンのライブから加入。レコード屋店員という職を捨て上京。

*17:ブリーフ、革ベルト、アフロづらといういでたちで背中に“木”と書き、ただ立っている人。初代“木”は石野卓球と耳夫の高校のクラスメイト野獣で、86年6月10日新宿LOFTのライブで初登場。2代目はおばば(EX分度器)の弟こばば。野獣の行動は『FASCINATION』に収録の「エチオピア」という歌にもなっている。

*18:86年8月29日に豊島公会堂で行なわれた。88年4月にオムニバスビデオ『昔、ナゴムレコードがあった』としてリリース。人生は「KISS×3」「はるかなる故郷」「オールナイトロング」の3曲を収録。

*19:86年8月23日新宿LOFTで行なわれた。対バンはミシン、ペーターズ、他。

*20:石野卓球曰くハードコア・ナゴムギャル。ナゴムギャルが昂じて人生のスタッフとなり、ライブ・パンフレットの制作などを手がける。電気グルーヴ初期のマネージャーでもあった。

*21:もともとはナゴムのお客さん(ナゴムギャル)のひとりだったが、のちに姉妹でマサ子さんという女の子バンドを組む。ギターの代わりに大正琴が入っていて、オカシイけどカワイくてポップなバンドだった。88年に『イカ天』出場後、90年4月にナゴムから『ムウ=ミサ』をリリース。『イカ天』終了後は正式に解散しないまま91年にバンド活動終了。94年、サブリナ・ブルネイの逝去に伴い無期限活動休止。代表曲はバート・バカラックの「雨にぬれても」をアレンジした「雨にヌレテモいーや」

ナゴムからマサ子さんのレコードが出た時は、完全にひと回りしたんだなって思った。それまでお客さんだった子たちが、今度はリリースする方になったっていうのは、なんか感慨深いものがあったね」(石野卓球/人生)

*22:『9TUNES(FOR MIRAI)』収録の「下剋上」という曲。

*23:ダビング絶対禁止として、人生教会員だけにカセットやビデオをプレゼントしたり販売したりしていた。

*24:素顔がどうだったのかは分からないが、おばばは眉毛がつながったメイクがトレードマークだった。

*25:以前いた暗黒舞踏団で仲間だったぱちかぶりの田口トモロヲの彼女を通じて、劇団健康に加入。最初は芸名が決まらず、井ノ頭健康とか健康地蔵などと名乗っていた。86年10月19日CSV渋谷でのライブから加入。後に王選手で芸名が固定する。

*26:しかし当時ミニコミのインタビューで石野卓球は「あっちゃんとは“第一回総決起集会”で会って、次に“第二回総決起集会”で会った時に人生のライブに出てみない?」と誘った。「カイカイデー(劇団健康 第3回公演)」ではない」と答えている。

*27:このライブは有頂天の所属事務所PCMが主催していた。社長の江口勝敏氏は「(ケガをしたのが)人でなくてよかったよ」と言ったそうだが、王選手は人ではないのでしょうか? たぶんお客さんじゃなくてよかったと言いたかったのでしょうが(笑)

*28:この時のメンバーは石野“卓球”ペルーニャ6世、御婆“分度器”、畳三郎、グリソン・アンダーソン・キム2世、王選手、渡辺耳夫、鼻夫、山本努羅美(マネージャー)。ケラや筋少大槻ケンヂもコーラスでゲスト参加している。

*29:この時のメンバーは卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫、王選手、畳、山本(マネージャー)

*30:この時のメンバーは石野卓球、グリソンキム、おばば(EX分度器)、耳夫殿下、畳三郎、王選手。

*31:12ライダーの10番目として企画されたものの、テレビ番組化せず。アトラクションでしか見れなかった幻のライダー。

*32:「P-ONE」という曲。

*33:98年9月23日に再発盤がリリースされたので、インタビュー時点(2000年)では人生の中で一番手に入れやすい音源だった。

*34:ライブと同じく『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』というタイトルのパンフレット。インタビューや対談がまとめられている。

ちなみにこの日のテーマソングとなった同タイトルの曲は『顔として…』と91年11月21日リリースの電気グルーヴのセカンドアルバム『UFO』に収録。

*35:「まわりで騒いでもね、僕はそんなに騒ぐ程かなあって思ってました。もちろん楽しかったですよ。でも、だからプロになるってのは、考えた事なかった」(人生/ピエール瀧

*36:早稲田大学の学生という名誉を捨て、沖縄で塾の講師(エテ講師?)になるために脱退。しかし、程なくしてクビになったので東京に戻って来た。ちなみに今は在庫品切れで入手困難だが、本稿が連載されていた『Quick Japan』0号に王選手の「モリッシー抱きつき男」という記事が載っている。

*37:石野卓球とは小学校からの同級生で、静岡時代から参加していたメンバー。二浪して明大生になったので上京。再び人生に参加するようになった。

*38:でも、卓球が一番最初にメンバーに誘ったのはピエールなんだよね。何だかんだ言っても二人の間には、きっと何か感じるものがあるのだ。

電気グルーヴは僕は参加しないはずだったんですよ。石野がメンバー集めてやってくだろうって。そういう気持ちで、『じゃあ俺は客として観に行くよ』って。そんな感じだったですね。そしたら奴から電話があって『やっぱ一緒にやらねぇ』って。楽器もできない男をよく誘ったなあと思いますよ。でも、つき合い長いし、その時は僕も『いいよ』って。例によって軽く返事をして。それで電気やるんですけどね。そん時は石野も、メジャー意識しないで気持ちよく活動したいってのはあっただろうしね」(ピエール瀧/人生)

*39:マースの87年のこのヒットによってハウスが広く一般に浸透した。同じ年にコールド・カット、ボム・ザ・ベースなどもヒットを飛ばした。

*40:「なにしろモヒカンのパンクスが観に来てたからな」(石野卓球/人生)。逆に初期の人生のファンだった人達は電気になってまた聴くようになったという。

*41:結成当初はもうひとり、高橋嵐というメンバーがいたが、耳夫と同時期に脱退したようだ。彼は後にタカハシテクトロニクス、ニュートロン、パロマティックというユニットを組む。

*42:ピエールもまた、こうした打ち込みの音が体質的に好きなんだ。だからハウスに対する反応も早かったもんなあ。

*43:今や超大物プロデューサーになられてしまった小室哲哉と木根尚人、宇都宮隆のバンド。99年に再結成したので、知っている人も多いのでは?

*44:キュートメン、コンフュージョンを経て、現在はALEXinc.で活動中。

*45:91年6月に加入し、99年4月2日脱退。現在はソロ活動をしていて、ACOのプロデュースなども手がける。