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さらばガセネタ―『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』に寄せて(JOJO広重)

さらばガセネタ

JOJO広重(非常階段)

人間とは裏腹な生き物だ。なければ欲しがるし、あれば欲しがらないくせに、またなくなると欲しがる。限定版のなんとか、とかはそういった類の心理をネタに商売をする卑怯なやり方だが、そもそも人間とはそういった姑息で卑怯な側面があるのだろう。

ガセネタ

ガセネタは文字通り伝説のバンドだった。

1978~1979年のわずかな間、関東でのみライブを演っていたバンド。実際のライブを見た観客の人数は全部あわせてMAXでも百数十人だろうか。メンバーは大里、山崎、浜野、ドラムは数回変わったが最後は吉祥寺マイナーのオーナー・佐藤。とにかくなにもかもがグッシャグシャで、ものすごいスピードで駆け抜けていったロックとパンクとサイケと現代音楽と文学もゴミもアクタも混濁の極みにして、つまりは最高で最低の音楽を演奏していたバンド。その後はPSFからのCD1枚、大里の執筆した単行本『ガセネタの荒野』あたりが情報源にして、しかしさらに不透明なままだったバンド。世間的にはそんな評価だったのではないか。なんだかわからないけどもの凄かったバンド・ガセネタ。

だが2009年、大里の死を契機にその全貌をまとめようという作業が始まる。大里の追悼文集、著作集、『ガセネタの荒野』の復刊、そしてこのCD10枚組『ちらかしっぱなし ガセネタ In The Box』のリリースである。特にこのCD-BOXはたった4曲しかレパートリーがなかったバンドの、現存するほとんどの音源を収録したもので、音楽を聞くためのCDというよりは記録して残すという資料集的な意味合いが強いアイテムだ。それにしてもこういったものが商品として制作発売され、それが完売したという事実は驚異に属するものだろう。

当時ガセネタのライブを見た人間の一人として、ガセネタのライブ音源をたまたま持っていた人物として、私はこのCD-BOXに関わることになった。CDディスク4の11曲目、「父ちゃんのポーが聞こえる」は私が持っていたカセットテープからのトラックだからだ

私は1978年から京都のロック喫茶「どらっぐすとぅぁ」のスタッフとなり、プログレ、パンク、現代音楽、フリージャズ、即興演奏などの世界にどっぷり浸ることになり、その流れでウルトラビデというバンドを結成することになった。このあたりの経緯は私の別のバンド・非常階段の単行本やあちこちの雑誌への原稿で触れているが、ガセネタの活動拠点となった吉祥寺マイナーと京都どらっぐすとぅあの共通点は多い。同じような時代に場として存在し、それぞれの地方で同じような役割を担ったということも興味深い。端的に言えば一般世間ではまるで相手にされていなかった音楽を愛好し、演奏し、追求しようとしていた若者が集った場所が東京は吉祥寺マイナーであり、関西では京都どらっぐすとぅあだったということだ

この2軒の店を橋渡ししたのがウルトラビデのエレクトロニクス奏者・渡邊浩一郎であり、NOISEの工藤冬里だった。渡邊浩一郎は東京から京都に転居してきた予備校生だったが、彼が個人的に東京方面でのライブを録音したカセットテープを大量にどらっぐすとぅあに持ち込んだのである。そこには当時のアンダーグラウンドなバンドの音源の他、灰野、大里、浜野などのセッション音源もたくさんあった。渡邊浩一郎は「この灰野と浜野のギターがすごいんだ」と言って、我々に解説付きで音源を聞かせてくれたものだった。思えば初期ガセネタや即興セッションによる演奏のテープだったはずで、当時関西に住んでいた人間にはまず聞くことの出来なかったような音をたくさん聞かせてもらったように思う。

やがて工藤がマイナーのライブのチラシやポスターをどらっぐすとぅあに持ち込むようになり、ガセネタというバンドの存在がわかった。そこに大里、浜野、山崎の名前があることも、我々は予備知識があった上で認識していたことになる。ほう、山崎春美は大阪の雑誌・ロックマガジンに寄稿していたヤツじゃなかったっけ、今は東京にいるのか、などと思ったことを覚えている。

(坂口卓也「伝達から可塑性誘発へ─『うごめく 気配 傷』の機能音楽屋達─」『ロック・マガジン』23号/1979年5月発行)

ガセネタのライブを初めて見たのは1979年2月だった。同年3月に関西のバンド、ウルトラビデ/INU/SS/アーント・サリーで関東方面のツアーをすることが決定しており、事前に関東のライブハウスを見ておこうということで上京したのだ。マイナーはその前年に工藤のライブを見に行っていたので場所の認識はあったのだが、ガセネタが当日の出演予定にあったので足を運んだのだったと思う。

初めて見るガセネタは衝撃だった。特に浜野の顔。そう、顔だ。まるで殺人鬼のような、そんな殺気に満ちていたのを覚えている。ギタリストの顔じゃない、これはキチガイの顔だ、そう思った。ステージで山崎がビール瓶を割って転げ回っていたような記憶もあるが、私の目は演奏が始まるとあっという間に両手が血で染まっていくほどに無茶苦茶にギターをかきむしる浜野のギターに圧倒されてた。ベースやドラムが楽曲らしきコードとリズムをキープしているからロックバンド然とはしているが、訳の分からない歌詞を叫びまくる山崎と血まみれギターの浜野の二人はもう常人ではなかった。本当に訳の分からないバンド、疾走感、ロックの極地、そういう印象だった


その約1ヶ月後、3月24日に私はウルトラビデで吉祥寺マイナー(うごめく・気配・きず)に出演することになった。確か昼の12時頃からスタートしたロングランのライブイベントで、我々の他にはファーストノイズ、黒涯槍、ガセネタ、不失者、オッド・ジョン、INUが出演した。ガセネタと対バンということで、私には“このバンドには負けたくない“といったようなヘンなライバル心があったのを覚えている。同じ4人編成、ある程度の楽曲ベースはあるが基本即興演奏、訳の分からない音を目指しているといった、どこか曖昧ではあるが同じような音を目指しているという認識はあったのだろう。そして出来うることなら自分たちの音の方が新しくありたいと思っていたのである。

会場のマイナーに到着して、すぐに一番驚いたのは浜野の人相だった。2月に見た時のような狂気の様相はもうまるでなく、どこか普通の兄ちゃんのような形相になっている。これがあの浜野なのか? 同一人物なのか? と、非常に驚いた。そのことと、椎間板ヘルニアを煩っていた大里がとんでもないガニマタで、誰かに支えられながら歩きにくそうに階段を上ってきた光景を妙に覚えている。

この24日のウルトラビデの演奏もろくでもなかったが、ガセネタの演奏は2月に見た時のような緊張感、疾走感はなかったように記憶している。バンドとしてのピークは終わったのかも。そういう印象だった。なにより浜野のギターに迫力がなくなっていた。

3月中に数本、吉祥寺マイナーでガセネタのライブがあったようだが、私は見に行けなかった。ウルトラビデのツアー日程があり、吉祥寺には行けなかったからだ。知人経由で後日、3月30日のガセネタのライブを収録したカセットをもらった。その演奏は24日の演奏とは比較にならないくらいテンションの高いものだった。3月30日のライブがガセネタとしての最後の演奏だったと聞いて、会場に行けなかったことを悔やんだ記憶がある。

1979年8月、私は学生ならではの夏休みを利用して、後年非常階段のメンバーとなるZUKEと関東方面に旅行に来ていた。その流れで彼の友人宅がある茨城県に遊びに行ったところ、明日地元バンドのロックコンサートが公民館の講堂のような場所で開催される、東京のライブハウスにウルトラビデで活躍している私にはぜひ出演してもらい、地元の若者にハッパをかけてほしいと懇願された。一宿一飯の恩義がある私は断れず、当日演奏する高校生バンドにガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットを聞かせ、当日のリハでベースとドラムにこの曲のリフを延々と繰り返すよう指示した。ライブ本番、私はその音をバックに浜野のコピーのように借り物のギターを無茶苦茶に掻きむしり、山崎のコピーのようにステージで絶叫して転げ回った。もちろん会場の観客はドン引きだった

後日、そのZUKEの友人が語ったことには、あのライブの楽奏には観客は大変驚いたが感銘を受けた若者もおり、あの音楽はなんなのだと何度も聞かれた。あれはパンクだと答えたところ、地元のレコード屋にパンクのレコードはないかと買いに行った面々が何人もいた、というエピソードを聞かせてくれた。

ガセネタが私の非常階段での演奏に影響を与えたかどうかは、わからない。私にとっては同時期に演奏していたウルトラビデの頃のほうがガセネタを意識していたかもしれない。しかし非常階段でテレキャスターのギターを弾いていた時、渡邊浩一郎に「浜野が(テレキャスターを)弾いていたからだろう」と揶揄されたのを覚えている。彼も浜野のギターが大好きだったのだ。私も3月30日のガセネタ「父ちゃんのポーが聞こえる」のカセットテープは若い頃はずっと愛聴していた。この音よりももっとグシャグシャでもっと疾走感のある演奏を自分はするのだ、しなくてはいけないのだ、そう意識していたように思う

ガセネタの伝説は終わった。このCD-BOXがすべてだ。売り切れたのならそれでいい。買わなかった人間には結局は必要のないものだったのだ。ないなら欲しいか。ならばいつか手に入るだろう。でもガセネタはガセネタだ。本物であり、偽物なのだ。それでも聞きたければ聞けばよい。私が保証できるのは、こいつらはあの時代の最先端であり、最も異端であったし、最高に訳がわからないヤツラだったことだ

これは誉め言葉である。

(『nobody』36号 JOJO広重の文章から引用。同号は現在品切で入手は不可能だが、ガセネタの輪郭を知る上では必携の書であるといえる。ちなみにJOJO広重の回想によればガセネタ末期に浜野純の形相が著しく変化していたというが、大里俊晴の回想録『ガセネタの荒野』には特にそうした記述は見当たらない)

(“ガセネタ” たった一度のチラシ)

(たった4曲しかない“ガセネタ”のレパートリー