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丸宝行晴「俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと」大里俊晴追悼文集『役立たずの彼方に』から

俊学晴峰信士(大里俊晴)のこと

丸宝行晴

 

仏様への追悼なのですが、何をどう書こうか、迷いました。お父様はこれを読むだろうし、九十歳になっても矍鑠(かくしゃく)としてらっしゃるから、彼がフェンシング部だった新潟高校時代ほか、生前の仏様の数かずの悪事(?)を書くわけにもいかない。

闘病中のことは、あらかた葬式でお話させていただきました。大学での素晴らしい業績を書くことは、先生方、学生、関係者にお願いしたい。プライベートな報告は、仏様の墓前にさせていただきます。

ということで、思いつくままに。命日がいつなのか、戒名は何か、今年(または来年)の十一月に覚えている人は少なかろう。でも、それは、大里が望んでいたことだよね? 大丈夫。今日も時は流れています。合掌。

 

◇一九八〇年頃

───どうして肉を食わないかって? 牛や鶏、豚を食べるなら、どうして人肉を食べないのか? ということになる。宗教的理由ではない。菜食主義ではない。菜食趣味だ。菜食者は気持ちがマイルドだって? 間違いだ。ヒトラーは菜食だった。

 

肝臓が弱り、死ぬか肉を食うか二択だ、と友人の阿部裕輔、青木裕太郎両医師に再三肉食を勧められたが、「わかった。食べるよ」と答えたものの、結局食べなかった。

 

───俺が出会い、買った本やレコードは、実は図書館とか、どこかに預けてあれば(俺でなくとも誰かが持っていれば)別に未練はないんだ。

 

◇一九九二年

丸宝、一生のお願いがある。何もいわずに、この原稿(『ガセネタの荒野』)を本にしてくれ。頼む。一円の印税もお金も受け取る気はない。ただし、一文字も変えずに出版してくれ。それ以外はすべてまかせる。古本屋で一〇〇円で売っている本のようなものであってほしい。これを出さないと、俺はこれから生きていけないのだ。パリからも帰れないのだ。

パリから郵送で届いた原稿を読んだ私は、「帰ってきて何が起こっても、覚悟はできて いるのか?」と当時高価だった国際電話で尋ねた。彼は静かに答えた。「できている」。余談だが、洋泉社の編集者は大里の承諾を得て、一文字だけ、内容、人名を変えた。また、『ガセネタの荒野』の表紙は当初、私は当時吉祥寺のライブハウスに来ていた、大竹伸郎さんにお願いする予定だった。

 

───フランスから帰って、何が嬉しかったかというと、ズズズ、と音をたててそばが食えることだな。パリでは決して許されない。成田に着いたら空港ですぐにそば屋を探した。帰国が決まって、金もなかったし、いくらか稼げるかやってみたかったので、パリのメトロ車内で、大道芸よろしくギターの弾き語りをした。ブリジット・フォンテーヌとか歌っても、誰も全然興味を示さない。『枯葉』とか名曲シャンリン歌うとみんな、黄色い猿がフランス語で歌ってるよ、てな感じで結構お金もらえた。ポンピドーセンターでも歌った。五日間毎日ずっと歌って三万円くらいだったかな?

 

◇一九九七年末

───俺が横浜国大の助教授になる。びっくりだろ?

 

◇二〇〇八年六月(すぐに来てくれないかと言われ)

───俺はもう長くない。何もしなければ二、三ヶ月と言われた。手遅れらしい。これは確実だ。手術はするが......。

こんなロックな生き方をしてきたのだから、こういう死に方は覚悟していた。痛いのはいやだが、怖くはない。後悔もしていない。最後の最後まで、人間的に生きたい。

そこで頼みがある。未帆ちゃんには一昨日、弟には昨日話した。ただ、主治医には父も母も死んでしまった、家族は弟しかいない、と伝えてある。だって、母が亡くなってから病気がちの親父に、入院、手術でもしもの時に病院から電話でも行こうものなら、ショックでそのまま死んでしまいかねない。だから絶対に親父にはいわないでくれ。もうすぐ「AA」のイベントで新潟に帰るから、元気なフリを親父に見せる。このことは俺がやる。それから、これとあれの処理を頼む。これはこうして、あれはああしてくれ。これはおまえに預ける。弟はどうしようもない奴だが、親父の面倒を見てもらわなければいけない。俺が死んだら、弟の就職相談にも乗ってやってくれ。

 

◇二〇〇八年十月(かなり体調悪し。友人たちは最後のことを相談した)

───恩師の墓参りに、できればパリに行けるといいが、それは講義が一段落した二月か三月にしたい。本とレコードも買いたい。体調的にどうしても無理なら、行きたいが諦める。

 

十一月の連休か年末年始に、友人数人がカンパして往復五日間くらいの渡航の計画を立てた。友人医師たちは越年は無理だ、というほどかなり状態が悪かったので、パリでの緊急医療体制も話し合っていた矢先、大里は大量吐血して入院。それ以来、パリ行きは断念せざるをえなくなった。大里もそのことを話さなくなった。

 

◇二〇〇九年四月(このころ新薬で一時奇跡的な回復)

───二月の誕生日が来るなんて、しかも4月まで生きてこんな綺麗な桜を見られるとは思わなかったな。奇跡だな。まだまだがんばるよ。可能性があって、しかもできることは何でもする。あきらめない。肉? うーん。考えてみる。

(本を売ったり、整理して、部屋の中に介護スペースを作れ、という助言に)どこにどんな本があるか、俺しかわからない。講義にも使う。だから整理できない。

 

◇二〇〇九年九月

───(友人たちの、講義続行、イベント出演等は自殺行為だ。もうやめたほうがいい。大学も休職しろ、との助言に)大丈夫だ、続ける。俺が行かないと…。

 

◇二〇〇九年十月

───わかった、わかった、こうなりゃ、肉食うよ。裕輔がそこまでいうなら。(死後に散骨とか、そういうこと考えるか?)いや、別に。

 

◇二〇〇九年十一月十六日二十二時三十分(危篤。ほぼ意識もうろう状態で)

───「ガセネタ」はすごいバンドだった。あんなバンド、ない。

 

◇二〇〇九年十一月十六日二十二時三十一分

───ジミ・ヘンはここで死なない。

 

皆が翌朝までもたないだろう、と予想した。早朝、弟が電話して親父さんも急遽上京し、午後大里と親子の最後の会話をした。私はそれだけは本当に良かったと安堵した。

夜、弟に頼まれて十五分ほどだけだが、病室で大里と二人だけの時間を過ごした。私はもうひとつ、闘病中の一年半どうしても聞いておきたかった(ここには書けない最後の)質問をした。大里はかすれる声を振り絞って答えた。

それがお別れだった。

 

 

エンディング。

終わること。

終わり続けること。

そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることが出来なかった。

エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。

僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。

だが、終わることが出来なかった。

終わりはやってこなかった。

どうやって終わるのだろう。

どうやったら終わることが出来るのだろう。

僕は、いつもそう思いながら演奏した。

エンディング。

僕らは、いつまでも終わり続けていた。

 

— 大里俊晴『ガセネタの荒野』

 

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大里俊晴(一九五八年二月五日~二〇〇九年十一月十七日)

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『役立たずの彼方に』オフィスOsato・2010年6月1日