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浜野純インタビュー「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」

伝説かガセネタか

浜野純──You are so foolish man,my friend.

文=中山義雄(音楽評論家)

(“ガセネタ”たった一度のチラシ)

 

伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか

浜野純というのは、逢った当時から、物事を達観したようでいて、自嘲的な、とにかく独特の物の言い方をする人間だった。

それはいまも変わらない。

アングラってさ、伝説になりやすいんだよ

“伝説”はいまも口から口へと木霊(こだま)している。

ラウドで、凶悪なエレクトリック・ギターは都市空間の物怪だろうし、浜野純は、憑かれていたし、走っていたし、血を流していた。彼はいまも鬼っ子として座敷にでも幽閉されていたほうがいいような風情は多分にある。浜野純は違いの解る奇形児であり、大人になれなかった神童として、わたしの青春に登場した。

浜野がギタリストとして在籍した、ガセネタの伝説は、山口冨士夫ラリーズに求められている肉体の軋みをそのまま音像化したようなロックという日本のロック永遠の課題の模範解答だったというもので、その推定30人の目撃者の内訳の関係者含有率ではないかと思う。活動時期も、東京ロッカーズが始動したのと同時期のロック過渡期だったし、東京ロッカーズとアヴァン・ギャルド隣接するような場所で活動していたのだった。

見取り図のうえではそうかもしれないけど、現実には吉祥寺のマイナーくらいしか演奏できる場所はなかったという情ない事情もあってね。実際、東京ロッカーズ観たときは、単純に上手いな、と思った。これは大事なポイントでさ、要するに、アレはパンクじゃなくて、ハード・ロックとか演っていた人たちが、新しいロックに飛びついたんであって、ぼくらみたいにムチャクチャやってたわけじゃないわけですよ。それに東京ロッカーズ聴いて、ギターの音を厚くしたくなったけど、どうすればいいか解らなかった(笑)。でも、音の本質的な激しさとディレイとか使った厚みや激しさは違うものだからね。ラリーズにしても、エコー・マシーン使う前のほうが断然良かった。久保田麻琴が出たり、入ったりしてた時期だけど

 

浜野はそうとう早熟なロック・マニアだったのである。わたしが浜野と出逢ったのは、江古田の掘越学園こと、日本大学芸術学部の入学式でのことだった。

マニアなら必ず通る、中古盤屋、トニー・レコードの袋を持って、入学式に臨んでいる不思議な男(シド・バレットの目をしたブースカを想像してください)がいたので、わたしが声をかけたというのが、真相だ。お互いホーリー・モーダル・ラウンダーズが好きだったので、意気投合し、彼は「俺はベース弾きで、不二家のペコちゃんの袋にモズライトのベースを入れている。君はギターを弾くのか? 昔、一緒に演っていたドラマーに逢いに行こう。バンドの名前は……

そういうと浜野はくしゃくしゃになった紙に“コクヨ”と書いたのだった。

いま思えば、ここまではローリング・ストーンズと同じだったな(苦笑)。

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シド・バレットの目をしたブースカ

1981年当時、本人曰く“生傷が耐えなかった”という凶暴なギター、と灰野敬二の不失者で、“福生のライヴ・ハウスの壁をくずした”大音響のベースで、浜野は伝説だったのだ(東長崎の安アパートで、出入り禁止になったような類の話をタイニー・ティムをかけながら自嘲的に話してくれたというわけだが)。

派手に暴れたくても演奏する場所も、技術もない──結構、気味悪がられていた。日芸の頃の中山みたいなもんだな(笑)。それに、ピストルズやパンクを意識したことってなくて、中山は知ってるだろうけど、わたしは泣きのバラードというか、普通の音楽が好きなわけで、ドニー・フリッツとか、スプナー・オールドハム、ロニー・レインやヘロンとか。高校の頃は、ブラックホークに入って、レコード係を恫喝して『トラウト・マスク・レプリカ』とかかけさせていたけど、まあ、若気の至りです(笑)。中学の頃に灰野(敬二)さんと遊びでやっていたセッションは、モロにビーフハート風だったけど。大学で逢った頃、最低ビーフハートくらいは出来ないと駄目だ、とかいったけど、あれはハッタリです

連続射殺魔のHPにこう書かれていた。

浜野純は、俺と同じ中学(世田谷区松沢中学校)の一学年下である。彼はいつも構想について色々語ってはいるのだが、実際に曲を作って持ってきたことは一度もない。いかにして才能があるかと思われる振る舞いに、全存在をかけているようであった。

中学/高校時代の浜野と大学時代の浜野の違いは、“いかに才能がないように思われるかという振るまいに、全存在を賭けていた”ことになるだろうか。

その変化がガセネタと不失者の活動にあるのだろうと思う。確かに、わたしの知っている浜野は、大瀧詠一の「みだれ髪」やあがた森魚の「リラのホテル」が好きな男だった。

削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ

これもウェッブで拾った浜野の言葉。やっぱりオマエは激しい奴だよ。

 

ガセネタ『Sooner or Later』(1993)

録音:1978年春 明治大学和泉校舎 学生会館1F仮設スタジオ

間章氏が推薦の辞を寄せているからというわけではないが、ガセネタの音楽にはロックやパンクよりもむしろ、フリー・ジャズ的な混沌が刻まれているように感じる。いちばん近いのは、やはりオーネット・コールマンだろうか。和声進行をはじめ既成のジャズの様式を解体したことで知られるオーネットだが、彼の音楽はまた、自らの内面に迸る情動を絞り出すようにして爆発させた、“ブルース”でもあった。息が詰まるほど濃密な想念が、知らぬ間に既成の様式を追い越し、最終的には徹底した解体に向かわせる。そんな過程は、本作にも確実に見て取れる。スタイルだけ取り出してみれば、3コードに8ビートというきわめてオーソドックスなパンクだが、実体を持たない個人の過剰な想いが、空気の振動となって確実に聴き手に伝わってくる。(土佐有明

 

(ガセネタのレパートリーは「雨上がりのバラード」「父ちゃんのポーが聞こえる」「宇宙人の春」「社会復帰」のたった4曲しかなかった

 

ブルース・インターアクションズ

『ロック画報 08』(2002年)より