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亀和田武「劇画アリス総括」『劇画アリス』通巻22号/アリス出版

総括

亀和田武

すでに幾つかの雑誌などで取り上げられたりもしたので承知の読者もいるかも知れないが───私の編集する『劇画アリス』は前号で終わった。本来ならば、前号のうちに、〈総括〉文書の呈示とまではいかなくとも、“編集長が変わります!”といったたぐいのお知らせぐらいは載せるのが、毎月この雑誌を買い、読んでくれている読者への義務ではあっただろう。

それをしなかったのは、ひとえに私の怠惰によるもので、この事に関しては弁解の余地はない。だが、あえてその間の事情を説明するなら以下の如くである。

前々号の校正が終わった時点で、私が『劇画アリス』の編集から手をひくことが決まった。そして、次の号の企画・題割りに関しては、従来通り私が責任を持ち、実際的な作業に関しては、私の後を引き継ぐ若い諸君=迷宮'79のメンバーが担うこととなった。この時点で、私は表2の編集長メッセージでその旨を語るつもりであった。しかし、時間が経過するに従って、私が読者に向けて語ろうとすることは徐々に膨らんでいった。とても、従来までの表2・編集長メッセージでは書き尽しせない程の量になることが明らかだった。

今までのはいってみれば、ごくごく簡潔なアッピールである。しかし、最後の“編集長アッピール”ならば、私は、それまで私の内に溜ってきたく劇画〉に対するさまざまな思いを吐き出したいと思った───それも、感情的な言葉を書きつらねる式のものではなく、一応整理された形でもって、しかも『劇画アリス』創刊から現在に至る経過を説きおこしながらの、〈総括〉文書的性格を有したものにしたいというふうに───。そして、そう思っているうちに時間が経ち、締め切りが迫り、考えはまとまらず……結局はヘッドコピーの「我、遠方より来たりて、遠方に行かん」と、出稿日の日に撮った3点のポラロイド写真でお茶を濁すことになった。

大して重要ではないが、あえて私の手から編集が離れた今になって、表2を使って〈総括〉を発表するに至った理由というのは、以上のようなものである。

さて、先程も書いたように、今、私は多くのことを語ろうと思っている。何人かの読者は気付いていたかもしれないが、私の表2における“メッセージ”を始めとする自分の雑誌上での発言というのは、実に控え目、かつストイックなものであった。そして、幾つかの雑誌に発表された私の〈劇画評論〉もその延長上にあった。

表2に編集長自らが、しかも上半身裸の写真入りで登場し、発言するという、そのショッキングな現象面だけが宣伝され、何やら私は自己顕示欲の塊の如くに思われもし、また、あえて私自身もそれを否定しないということて、劇画界周辺ではそれは定説にまでなってしまったが、事実は逆である。

別に、これは私の弁解でも何でもない。私は、『劇画アリス』をやめた少し後に、ある雑誌の身辺雑誌風エッセイで、現在の心境はといえば、案外アッサリと、かつ担々としたものであると書いた。また、次のようにも書いた私は、この雑誌しかないと思い込むほど純情な世間知らずでもなければ、また、たかが仕事じゃないかという具合いに自分の仕事を割り切っていくほどスレッカラシでもなかった、と。

要するに、そういうことなのだ。私は、クソでもない作品を載っけながら、編集後記やコラム・ページで、それと裏腹なことを舌足らずの文章で書きつづる“アノ手”の雑誌が大嫌いだった。そうした、語っていることと、現実のギャップが、その人間をひどくみすぼらしく、下品なものに見せているというそのことに気付きもしない連中が嫌で嫌で仕様がなかった。

そして、自分の脆弱な観念を投影する対象としてのみ〈劇画〉が存在するかのような、大方の〈劇画評論〉の在り方が嫌いだった。

私は、そうした一切の甘ったれた傾向を排そうと決意していた。私が、どのような雑誌にも、かたくなまでに「劇画アリス編集長」という肩書きを付けて臨んだのも、その表れであった。

私は、かなり本気で、自分をいわゆる〈三流劇画〉のスポークスマンであると自己規定していたのだ。それは、この『劇画アリス』に関しても同様だった。ある時期から、私は、この雑誌を〈三流劇画〉ムーヴメントの“機関誌”であると規定していた。

そんなふうに書くと、何やら悲愴に聞こえるかもしれないが、そんなことはなかった。
毎号、毎号、手応えは確実にあったから、その感触に比べたら、たかが自分の雑誌、たかが自分の劇画への想いに執着するのは卑少なことに思えて仕方がなかった。

私と、私の仲間が今なそうとしていることが、今までの脳天気な、あるいは陰湿な〈劇画〉理解、〈劇画〉への取り組み方を根底から覆えしているという確信があったから、私は必要以上に自己に抱泥せずに済んだのだ。効果を見据えた言動以外は一切しない、それが見込めないときには沈黙する───今、思い返してみても、私は自分のストイックな感情に忠実であったと思う。

それにしては───それにしては、この〈総括〉は、自分を語り過ぎているのではないか。───私もそう思う。しかし、今のところ、私は、私の関わってきた雑誌と、その雑誌が中心になって惹き起こしたムーヴメントの昂揚とを適切に解明し、読者に興味深く読んでもらえる方法を他に知らない。

私は、およそ“使命感”などという言葉とは無縁のような男ではあるが、少なからず関わりを持ってきた〈劇画〉に関しては、それに似た感情を持っている。そして、私が、自分のなしてきたことを当の雑誌で表現することは自分に課せられた“義務”だと考えている。

だから私は、これから、『劇画アリス』と、それが担ったムーヴメントについて・多くのことを語らなくてはならない。

 
承前

劇画アリスの創刊は、77年の9月8日である。昨日、編集部から持って来て貰った劇画アリスのバックナンバーを眺めながら、これを書いているところであるが、創刊号の体裁は、ザッと次のようなものであった。表紙(表1)が、『増刊SOUPX』、裏表紙が(私の手許にあるバックナンバーは、裏表紙が千切れているため、記憶に頼るしかないのだが)確か『劇画アリス』であった。

 表1には、『ヌードと劇画』という、かなり大きなコピーも入っている。表紙を描いたのは、辰己四郎で、彼の絵が、左右逆版にされて、裏表紙にも使われていたはずだ。この創刊号の特徴は何といっても、先程の謳い文句にもあるように、“ヌードと劇画”が一緒に入っていることであり、表1には、辰己四郎描くイラストのバックに、3点の写真が収まっている。定価も三百円である。

題割り的にいえば、最初の4ページが、カラー・ページで、次に16ページ、モノクロが
る。そして、活版ページがページ続く。それが終わると、また巻末に、モノクロが16ページ、カラーが4ページである。そして、この、カラー8ページ、モノクロのページにヌード写真が入っている。例の表2はどうなっているかというと、私自身も驚いたのだが、すでにメッセージ広告になっているのである。どこかから出来合いの写真を流用して使ったのだろう、こちらを見据えた黒人の写真が1ページ大に拡大されて、そこに自動販売機でなぜ悪い!”というコピーが横書きで大きく入っている。

劇画の方の巻頭は、羽中ルイ『地獄の季節』、23ページの作品である。続いて、高信太郎のギャグが4ページ。その他の作品も順を追って列挙していくと次のようになる。あがた有為『魔の匂い』22ページ、飯田耕一郎『ちぎれた指』、玄海つとむ『獲物を漁る人妻』(またしても、この2作の間にまたがる数ページが紛失しているため、ページ数がわからないのだ)、大谷かおる『落のつっぱり姉ちゃん』18ページ、宍倉幸雄のギャグ4ページ、そして、最後が石原はるひこ『蝶』28ページ───これで全部である。

意味なく、体裁、内容を列挙した訳ではない。これらの、体裁、メンバーから、劇画アリスという雑誌が、発刊の当初から持っていた、あるいは持たされざるを得なかったある性格が浮かび上がってくるのだ。

私事に渉るが、私がアリス出版に入社したのは、その前年の76年の7月である。それまで私は、檸檬社という、やはり、実話、ヌード、エロ漫画誌を刊行している出版社に在籍していた。大学を卒業した年───74年の9月からだから、2年弱余りである。

この手の零細出版社の例に漏れず、4人で3冊の雑誌を編集する、といった形態がとられていたが、私が携わっていた雑誌の一つが、『漫画大快楽』という雑誌であった。この雑誌は、創刊から退社するまで編集スタッフとして関わった。途中で、『漫画バンバン』という雑誌も併行して出したが、4号だか5号でポシャッた。

私が、檸檬社から、アリス出版に移籍する際に、周囲の友人たちが、親切に忠告してくれたのは、「だって、キミ、あそこは自販機専門の雑誌社だよ。ああいうところに堕ちたら、もう二度と、マットウな編集者稼業は出来なくなるよ」というものだった。アリス出版は、当時は、編集者は私以外には、檸檬社で同僚だった社長のみ、他には事務の女のコが一人いるだけだった。現在は自動販売機に関連している雑誌社の数も多いが、その頃はアリと同じ販売ルートではLC企画があるのみだったし、他にも、千日堂出版、アップル社がるのみだった。出版文化の中でも、エロはその最底辺と言われてきたが、その中でも、自販機専門出版社はカーストの最底辺を形成していた。

入社してから、劇画アリスを創刊するまで、私が作り続けていたのは、現在600円で自販機で売られているヌード写真集だった。これは、実際、作りまくったといっていいだろう。その過程で、自動販売機台数の飛躍というデー夕を拠り所に、ヌード写真集以外の雑誌が企画される。その第一弾が、77年の初頭に刊行され、現在も続いている『ガール&ガール』と『SOUP・X』である。

それに続く第3弾が『劇画アリス』という訳である。企画の段階で、上司から出た発言は「とにかく、東日販を通している漫画誌にはないもの。自販機独自の漫画誌」というものであった。無論、エロも絶対に入れなくてはいけない───これは、当時の状況から考えれば言わずもがなであった。

こうした条件を満たそうとした苦肉の策が、定価600円の、ヌードと劇画を折衷した『劇画アリス』となったわけだ。結局、これは失敗ということになり、第2号からは、現在の劇画専門の体裁に落ち着くことになる訳だが、正直言って、創刊当時の私の心境は、決して明るいものではなかった。

すでに、漫画大快楽の編集を退いてから、一年余りのブランクが私にはあった。また、いちから劇画誌の発行を始めるのは、正直シンドイことだったし、この時点では、2号、3号が続いて出るということも確定していなかったのだ。(だから、創刊号と2号の間には、二ヵ月程のブランクがあったはずだ)劇画アリスの月刊化がハッキリ確定したのは、半年ぐらい経ってからのことではないだろうか。

私に劇画誌を出すようにという上司の好意は痛い程判ったが、有形無形の制約も私を憂鬱にさせた。私は、前の会社をやめた時点で、出来ることなら、職業と趣味は重ね合わせたくはない、劇画に関してはマニアのままでいたいという心境に傾斜していたのだと思う。実際、マニアにとって、不本意な形でもって、自分の趣味と職業を結びつけるのは怖ろしく辛いことなのだ。

気乗り薄ではあったが、私は企画作成と、原稿依頼を開始した。その結果が、先述のメンバーなのだが、結局は、前の編集部にいたときの人間関係が主になっている。しかし、その一年の間に、たとえば羽中ルイ能條純一は“売れっ子”になっており、羽中ルイは創刊号には御祝儀原稿をくれたが、その後は両者とも古原稿でお茶を濁すこととなった。

加えて、自動販売機専門誌ということでの、劇画家の方からの辞退も幾つかあった。
初期の劇画アリスは、そういったことに規定されて、そして私の劇画編集者としての流れからいえば、一種の“切れ目” “断続性”を余儀なくされていた。

そして、そのことが、結果的には、既成のルーティン化したエロ劇画編集とは異なる方向へと私を向かわせていくことになる。

第2号のメンバーは、安部慎一宮西計三羽中ルイ(ただし、古原稿)、飯田耕一郎玄海つとむ、あがた有為、じょうづかまさこ、森田じみい、清水おさむ(この人も、古原稿であった)、そして、ギャグが高信太郎高井研一郎という具合いだった。ちなみに、第2号の表2は、「本屋で買うよりも/自動販売機で買う方が/NOWだと思うのです。/僕たちは。/アリス出版」となっている───これは、友人のデザイナー、Hのアイデアだった。

怖らくこの段階(これに続く数号も含めて)では、後における劇画アリスの強烈な個性は未だ発見することはできない。控え目に言ってしまえば───飽くまでも控え目な語り方であって、傲慢なそれではない───担当編集者の趣味の良さが判る無難な劇画家のセレクト、あるいは、今まであるエロ劇画誌の中では一番マシな方じゃない、という形容に落ち着く、そして落ち着かざるを得ない種類の雑誌だったと思うのだ。表2のメッセージに、後の展開の萌芽が見えないこともないが、それも可能性の域は決して脱してはいない。

センスの良さといい、一風変わった感じといい───要するに、決して相対性の外には出ないものだったのだ。

しかし、そうした状況の中で、2号、3号と出し続けていくうちに、私に一種の覚悟といっては大げさだが、この雑誌を、何物かにしよう、してみせるといった決意が生まれてきていた。

私にとって最も頼りになる相談相手=劇画に関する名ブレーンである飯田耕一郎との深夜の長電話も再開されていた。私は飯田耕一郎に実に大くのものを負っている。単に、有望新入作家の指適、あるいは、自分の編集した最新号の劇画家たちの問題点の抽出といった次元にそれは留まらない。劇画界全体を視野にいれ、将来の展望までを射程に入れた劇画アリスの雑誌活動=私の劇画理解は、彼というブレーンの存在がなかったから、もっと独善的、あるいは自閉的になっていたことだろう。

が、そうして培ってきた、“劇画理解”が更に尖鋭なものとなり、また、誌面に反映していくというのに際して、二つの事件が触媒とも言える様な役割を果たすことになる。

私が『本の雑誌』に載せた文章をめぐっての、『漫画主義』同人との論争と、井上英樹の登場である。(次号に続く)