非追悼 青山正明──またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み
“サブカルチャー”や“カウンターカルチャー”という言葉が笑われ始めたのは、一体いつからだったか? かつて孤高の勇気と覚悟を示したこの言葉、今や“おサブカル”とか言われてホコリまみれだ。シビアな時代は挙句の果てに、『鬼畜系』という究極のカウンター的価値観さえ消費するようになった。
「──鬼畜系ってこれからどうなるんでしょう?」編集部の質問に対し、単行本『鬼畜のススメ』著者であり、故・青山正明氏とともに雑誌『危ない1号』で電波・鬼畜ブーム"の張本人となった男・村崎百郎の答はこうだった。
「鬼畜“系”なんて最初からない。ずっと俺ひとりが鬼畜なだけだし、これからもそれで結構だ」
──最も青山氏に近い場所にいた男が初めて記す青山正明論。
真の鬼畜とは? そして“アウトロー”とは?
- まえがき
- 1 どうしてこんなに悲しくないんだろう?
- 2 本当に鬼畜なのは俺だけだった
- 鬼畜派宣言(ゲス急報)
- 3 “鬼畜の名誉”と“お嬢様カルチャー”
- 追記1 青山を尊敬するジャンキー諸君へ
- 追記2 アウトローとは何か?
「誰にどう思われようが知ったこっちゃない、俺は俺の好きなことをやる」
『危ない1号/第1巻』(1995年・データハウス刊)
『鬼畜のススメ』(1996年・データハウス刊)
『電波系』(1996年・太田出版刊)
『危ない1号/第2巻』(1996年・データハウス刊)
『危ない1号/第3巻』(1997年・データハウス刊)
『危ない1号/第4巻』(1999年・データハウス刊)
まえがき
「悲しくもねえのに追悼文なんか書けるわけがねえだろ!」
まっとうなライターなら、そう考えるだろうが、人でなし鬼畜のこの俺は違う。
依頼があれば何でも書く。書く気がなくてもとりあえずは引き受ける。後のことは締切りが近づいたら考えよう。内容なんか俺の知ったことか。パソコンに向かって適当にキーを叩いてりゃ後は村崎が出てきて適当に書いてくれる。俺は金次第で原稿だろうがセンズリだろうが何でも平気でコイちまえる誰よりも志が低く根性の腐った鬼畜ライターだ。感じてもいないことを感じたフリをして書くなど朝飯前なのだ。
今から二十三年前、俺にも暇潰しに「文学」を語り合う友人がいた。そいつは俺と同じ田舎者の分際で、何を間違ったんだか受験勉強を通して知った小林秀雄に深く傾倒し、文学よりも文学論に魅了され、すぐに小説よりも評論ばかりを読みまくってはやたらと高邁そうに聞こえる講釈をたれる嫌な野郎に成り下がっていった。それは読書好きが陥り易い「偉そうな本を読んでいると自分も同様の偉い人間のように思えてくる」という最悪の妄想パターンであるが、俺もわざわざ「カン違いするなよ」と助言する親切さなんか持ち合わせてはいなかったし、他人が腐っていくのを傍観するのはゾンビマニアならずとも実に楽しいものなので何も言わず放っておいた。そいつは受験勉強の合間に俺のアパートを訪ねて来ては「この世には読むに値する文学作品が少なすぎる!」と読んでもいない小説の批判をくり返していた。そういうヒネた文学論オタクの語る難解そうに聞こえる言説の数々は、当時「様々な小説を読むことで想像力や妄想力を刺激されて生じる新たな妄想や幻想が、自分のアタマの中に勝手に届く悪質な“電波”との闘争において、どれだけ有効に機能するか」だけがテーマで、もっぱら『SMマニア』、『SMセレクト』などに掲載されている淫猥なSM小説を読んでは、学校の理科室からかっぱらってきた試験管を肛門に挿入してアナルオナニー(ひんやりとしたガラスの感触が肛門に優しいので癒し系のアナルオナニーには最適です。割れないように中にちり紙を詰めると良いですよォ~)に耽っていたゲスで下品な俺には馬の耳に念仏以下で、はっきり言って退屈だった。今にして思えば「あのよォ、小林秀雄もいいかもしんないけど、これからの時代はSMやアナルセックスが重要なんだぜ」、「“尻穴の快感が分からない奴には人生は分からない”って言うじゃん!」、「一生膣穴だけにハメるのが自然の摂理って……お前、全知無能の神どもの定めた穴だけで満足するなんて、知性ある人間として情けなくないかァ?」などと説得してやれば良かったとも思うが、「セックスよりもセックス論が重要」だと考えているようなおりこうな人間に通る理屈ではない。「こういうのも一種の“電波”なんだろうなあ…」と諦めて、適当に話を聞いてやっていた。
そいつとの仲が険悪になったのは、ある時会話中に俺が「言葉なんてロクなもんじゃねえよ。俺は自分で思っていないことだって平気で書けるぜ」と言ってからだ。俺がそう言った途端に、そいつは拳を振り上げて真顔で怒り出して「……馬鹿野郎! お前なんか死んじまえ!」と叫んで激しく俺を罵った。文学ではなく文学論に真剣に取り組み、言葉に対して深い思い入れを持っていたそいつには、言葉をゴミ同然に扱う俺の発言は到底許せないものだったのだろう。それから二十三年経った今、そいつとの縁は完全に切れているが、風の噂でそいつが某新聞の政治部の記者をやっていると聞いて妙に納得した。思ってもいないことを平気で書ける俺は、嘘しか書かないゲスで下品な鬼畜ライターになり、言文一致が信条のそいつは真実しか書けない、真実も現実も一つしかないと考えてる御立派な新聞記者になったというワケだ。
それから数年後、ウィリアム・S・バロウズの言語ウィルス論に出会い、(うすうすは気付いていたが)言語も“電波”の一味と確信した俺は、長年“電波”に苦しめられてきた個人的私怨と怨念から人間が本来持っている“自由意志”を奪い、これを隷属化せしめんとするすべての邪悪な幻想や妄想や電波(宗教詐欺、洗脳、陰謀史観、予言、預言、前世妄想、霊界妄想、恋愛妄想など)に対して終生闘い続けることを決意、以後“妄想潰しの鬼畜ライター村崎百郎”として生きることを選んだのだ。
そして青山正明は、そんな俺の妄想戦の中で出会った最高の同志の一人だった。
って書いたら素直に信じるかァ、お前ら?
全部嘘だよ、他人の言葉なんか簡単に信じるんじゃねえ!このバ〜~~~カ!
1 どうしてこんなに悲しくないんだろう?
「青山正明さんの死について書いてほしい」という本誌編集部の依頼を引き受けた理由は二つある。一つは業界の一部で囁かれている「村崎は青山の自殺を悲しんで落ち込んでいるらしい」という超悪質なデマを否定するためであり、もう一つは俺のおかげで“鬼畜編集者”などというありがたくもない肩書きがついたまま死んでしまった青山の名誉を回復させるためである。青山が死んでからしばらくして吉永嘉明と木村重樹(何となく敬称略)の二人が『BURST』誌の追悼対談で、意訳すると「青山は鬼畜系ブームの立役者みたいに言われているけど『危ない1号』で鬼畜、鬼畜って騒いでいたのは実は村崎百郎一人で、心根の優しい青山はもの凄く迷惑していて、自分が鬼畜系と呼ばれることを後々までず~っと気に病んでいたし嫌がっていた。『危ない1号』がゴキゲンなハッビー系の雑誌ではなく品性下劣な極悪鬼畜系雑誌に成り下がったのはみんな村崎のせいであいつが一番罪深い!」、「あ~そうそう、村崎のあのガタイと形相で迫られたらパイズリだろうとアナルセックスだろうと断われるオンナはいないよね。押し切られて精神を犯されて消耗した青山さんがカワイソ~!」などという感じの、まるで俺が青山の寿命を縮めた諸悪の根源みたいな発言をしていて、本屋で立ち読みした俺も「いやまったくあんたらの言う通り!」と激しく共感して思わず雑誌を万引きして持ち帰ろうと考えたが判型が大きいのでちょっと無理だと判断してヤメた……という万引き未遂の話などどうでもいいが、それにしてもこういう大切な真実は、他人から指摘されるよりも、俺が自分の口と尻穴で語るのがキン玉の裏筋というものだろう。だからこの件に関しては徹底的に真面目に書き残すつもりだ(嘘)。
*
では、最初に俺の名誉について自己弁護しておこう。俺が青山の死を知って悲しんでいるという噂は、根も葉もないどころか、日本軍による南京三〇〇〇万人大虐殺以上の(ここで従軍慰安婦級のと書かない所がミソ、というかクソ!)まったくのデマである。
冗談じゃねえよ、だいたい何で青山が自殺したぐらいで真性人でなし鬼畜の俺が悲しまなけりゃいけねえんだ? オレは長年の“電波”障害のせいで、ただでさえ自分の感情が実感できねえで、実の親父が危篤になってもちっとも悲しく感じられなくて、それどころか祖父の葬式も祖母の葬式も自分のセックス優先ですっぽかして、親類縁者一同が坊主の一読経を聞きながら悲しみの涙に包まれていた同時刻に、女のマンコにブチ込んだチンポの先から臭えマラ汁をトロトロ流して喜んでたド畜生の外道だぜ? 恩人の死でいちいち悲しんで泣いてたら鬼畜なんてやってられねえよ! どこのどいつが言ってんのか知らねえが、この俺に「悲しむ」なんていう人間的な感情が少しでもあったら今頃鬼畜ライターやってるわけねえだろ馬鹿! 尻穴かっぽじって聞いとけよ、青山の訃報聞いて俺が最初に思ったのは「ようし! これで青山からの借金はチャラだな! マンモスラッチ~!(少々古いね)」と「ああ、コレって仕事が遅れる言い訳に使えるぜ」なんだよ!
お前ら、俺の鬼畜性をナメんじゃねえええええ!
聞くところによると青山の死について、遺族でもないのに「悲しい」だの「涙が止まらない」だの「とてもひと事とは思えない。悲しくて仕事が手につかない」だのとホザいてそれを原稿にして公然と発表している連中がいるそうだが、まったくうらやましいかぎりである。俺は根性がひんまがっている上に、喜怒哀楽の感情をほとんど実感できないキチガイなので、平気で人前で感情を露にする連中のメンタリティが全く理解できねえどころか信用しねえ。ウソつくなよこの野郎! 俺は青山の自殺をダシにして、自分が抱え持つ安っぽいヒューマニズムを確認し、自己憐愍の道具にして自己満足に浸り込む根性の卑しい連中のミエミエの猿芝居なんか見たくもねえんだよ!
……って怒ってみせるぐらいのは、鬼畜の俺でも無理すればつけるんだが、とにかく悲しさを実感できねーのは本当だから仕方がない。一応、通夜も告別式も両方出席したが(通夜には遅刻して行った)、遺族の皆さんは全員、本当に悲しんでいたようなので、ちっとも悲しくない俺は「このたびは突然のことで御傷様です。何というか、これが本当の人生至る所に青山あり、ですなあ! フォッフォッフォッ!(注:“あおやま”と“せいざん”をかけ合わせたギャグのつもり)」というつまんねえギャグをかまして良いものか悪いものか判断がつかなくて少々困ったものだ。不謹慎ついでに書くと、ご焼香の後での青山との遺体との対面では、こみあげてくる笑いをこらえて窒息しそうになった。何しろ『危ない1号』の中のレビューの仕事で、気色の悪い死体ビデオばかりを二十本近く集めて俺に渡して、鼻からゲロを噴きそうになるくらいウンザリするほど死体映像を見せてくれた張本人が、締めくくりに自分が死体になって見事な死に顔を見せてくれたのである。これはもう笑うしかねえだろ?
そういう訳で、俺はちっとも悲しくない。無理をすれば悲しさを実感できないのが悲しい、と言うこともできるが、それは単なるレトリックで俺の感じたことではない。天然の鬼畜なんだからしようがないことなのだろう。
*
死後に一度だけ青山の電波が来たことがある。受信と同時に一瞬意識がさらわれて、どこか知らない。
広い浜辺で俺は静かに青山と対面していた。青山は長髪にいつもの不精髭でダラしない格好をして美味そうにクサをふかしながらゆっくりと俺に近づいて、瞳孔の開ききった眼をトロ~ンと鈍く輝かせながら照れ笑いを浮かべた。
「いや~とうとうやっちゃいましたよ」
「ああ、そうみたいだねえ……(なげやりな口調で)」
「でもまあ、やってみると、こんなもんですかねえって感じですよ」
「ああ、そうだろうねえ……(ホントにどーでもよさげな口調で)」
「すいませんねえ、忙しいのに通夜も告別式も来てもらっちゃって」
「いやいや、こちらこそ借金も払わず迷惑ばかりかけて……(ミエミエの社交辞令)」
(以下、極めて個人的で退屈な会話が続くが書くのも面倒なので省略)
空の色が限りなく透明に近いブルーだったのは妄想にしても出来すぎていたと思う。
そう考えると俺って、わりとイメージ貧困かも(少し反省)。
2 本当に鬼畜なのは俺だけだった
次に主張しておきたいのは「青山正明が鬼畜でも何でもなかった」という純然たる事実である。これだけは御遺族と青山の名誉の為にも声を大にして言っておくが、青山の本性は優しい善人で、決して俺のようにすべての人間に対して悪意を持った邪悪な鬼畜ではなかった。それは当時、青山と一緒に編集をしていた吉永嘉明の『BURST』誌上での証言でも明らかだが、『危ない1号』に「鬼畜」というキーワードを無理矢理持ち込んで雑誌全体を邪悪なものにしたのはすべてこの俺の所業なのだ。
その理由は、わざわざ書くのも面倒だが、「これだけ腐った時代と状況の中で、易々と他人に騙されず搾取されず強く激しく生き抜くために“超邪悪な妄想力と想像力”という“悪の叡智”の情報を前途ある若者たちに授けたかった」というのはもちろん嘘で、単に「時代の腐敗に加速度を加えたかった」のと「他者への漠然とした膨大な悪意から」というのが本当の所だろう。要するに俺は“この世に悪がはびこるのを無責任に喜ぶ悪の権化”なので、そのキャラクターに忠実に行動したまでである。俺の提示した“鬼畜”の定義とは「被害者であるよりは常に加害者であることを選び、己の快感原則に忠実に好きなことを好き放題やりまくる、極めて身勝手で利己的なライフスタイル」なのだが、途中からいつのまにか“鬼畜系”には死体写真やフリークスマニアやスカトロ変態などの“悪趣味”のテイストが加わり、そのすべてが渾然一体となって、善人どもが顔をしかめる芳醇な腐臭漂うブームに成長したようだが、「誰にどう思われようが知ったこっちゃない、俺は俺の好きなことをやる」というのがまっとうな鬼畜的態度というものなので、“鬼畜”のイメージや意味なんかどうなってもいい。参考までに、当時書いて未発表のままの「鬼畜派宣言」の全文をあげておく。
鬼畜派宣言(ゲス急報)
便所のどこかで聞いてくれ! これが最低の警告だ/世界はじんわり腐ってゆくさ/鬼畜なゲスがはびこるはびこる/正義感なし! 倫理感なし! プライドなし! 良識なし! 悪意あり! 下品! 下品! 下品!/ふざけきった現実的無立場/屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑日本の屑/アナル万歳!/ぜんぜんさわやかじゃねえええええ/このすかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕としてやる!/わかるか? 俺はお前の臭え包皮を剥いた上でかぐわしい恥垢ごと、女の腐れおめこに挿入する方法を懇切丁寧に指導してやろうというんだ! 有り難く思え/困難危険超卑猥、どんな仕事も引き受ける/妄想だよ、妄想!/人が心に想う事をお前らに止められるか/あくまで見た目は一般人、その実体は内面ドロドロの恐怖ゲス人間、それ行けジョニー、つっこめウィリー/女肉の土手の陰毛を一気に10本以上引きむしるような感触/日ごと夜ごとジワジワとけつの穴が広がるゆたかな生活を目指して/早くひひじじいになりたい/スローガンは「玉なめ生なめアナルなめ」/極めて肛門的/復讐大好き/ゴミ漁りの達人、スカベンジャー参上!/町のみんなは大きな迷惑/鬼畜系も細分化すると肛門派だの電波系だのナチュラル幻視系だのと……ええい! めんどくせえ!/身勝手、利己的、ご都合主義……何でもありだ/肥溜めの臭さを見つめていると、私に帰る所があるような気がする。だが、肛門を通った臭いオナラはもはや大腸へは帰って行かない/汚穢主義革命の根本の目的は、伝統的所有諸関係との最も醜悪な妥協である。したがってこの革命において現政治権力と醜いおかまを掘り合う事は不思議ではない/へびのようにしつこくなめくじのようにいやらしい/湯舟で脱糞猫よけのペットボトルを置きまくる心の狭い清潔な奴らの家にはこの村崎が小便制裁だ/ののしられるのは快感、快楽、至上の喜び/とにかく汚い事が好き/卑怯、卑劣は誉め言葉/裏切り大好き/女は天下の輪姦しもの/街じゅうのゴミ捨て場が俺の友達だ/ねえ、口でイカしてくれる風俗嬢のように移ろいイキ、溶けて幻にも似た夢見心地でイキまくっている女肉を将来に渡って犯し続けませんか/恍惚だ! 恍惚がやって来る!/お前らの怨念は全て引き受けた/罪はあっても罰を受けたことがない/警察大好き! ぼく、おまわりさん尊敬してます/権力はいいなあ、長い物には自ら巻き付け!/自民党っていいなあ、さわやかだよね/容姿端麗肉感的絶対服従令嬢肉奴隷随時募集中/俺の身体の妄想神経は夜の中で無限に伸びて、この腐った都市の下水道から各家庭の便所を通して、寝ている諸君達の肛門から入り脳へと到達する。思い出してくれたかな? きみ、ちょっとアナルを使い込み過ぎているよ/全共闘世代の左翼のバカどもは大嫌いだが、殴り倒してフクロにしてやると昔さんざん犬呼ばわりして馬鹿にしていた警察に駆け込んで助けを乞うような節操のないけつの穴野郎は俺達の仲間だ/特技は妄想的侵入、霊的レイプ/女はただの肉、肉、肉、人格が邪魔だ/夢の島の果ての果てには破れた夢や捨てられた純情が一山ナンボでテンコ盛りの光り輝くうす汚いみじめなスペースがある。そこが俺達のサイベリアだ/せんずりの手を休めて退屈しのぎに電波を聞けば、キチガイどものたわ言にまじって今夜も闇の奥のどことも知れない場所で犯されている女の悲鳴が聞こえてくる。美酒爛漫/すかし・てんじゃ・ねえ!
*
今読んでも意味不明のたわごとが多くて読むのもタルいだろうが、外に向けて放たれた悪意だけは伝わるだろう。俺には正義を求める心など一片もない。幼い頃、日本が戦争で鬼畜米国に負けたことを知ってメシが咽喉を通らないぐらい激しいショックを受けて復讐を誓った俺は(このあたり、どう考えてもキチガイですな)、「人は正しく生きるのが正しい」と教え込む戦後民主教育の悪しき洗脳から完全に解放されて「あの戦争で我々が反省すべき点は“負けた”こと以外何もない。我々が考えねばならないのは世界平和や後進国への援助などではなく“どうやったら次の戦争で勝てるか”だけだ!」という日本人ならば極めて当たり前の真理に到達することができた。
「規則や法律はそこらじゅうに存在するが、そんなものは実際に犯罪が行われる現場ではクソの役にも立たないお上品な妄想で、ボヤボヤしてたらへタレ被害者に成り下がるだけだ。そう考えると、この世にはやっちゃいけないことなど何もないし、清く正しく生きねばならない義務も根拠もどこにもない。正しく生きようが悪の限りを尽くそうが、人は死ねばそれまでで、後はただ永遠の虚無があるだけなんだから、神や悪魔や天国や地獄を気にしてビクビク生きる必要なんかまったくねえんだよ。我々はオカルトを科学的に否定してくれる大槻教授のおかげでタタリを気にせず思う存分人が殺せる! こうなったら俺は好きなだけ好き放題やるぜえええええ!」というのが鬼畜の真理で、この発想が広く世にはびこれば、世界はさらにアナルセックスと破壊と暴力と血と犯罪に満ちあふれ、俺が望むゲストピア(ゲス+デストピアの造語)が実現するだろう。そのために頑張った第一歩が『危ない1号』だったのだ(爆笑!)。
3 “鬼畜の名誉”と“お嬢様カルチャー”
『危ない1号』の邪悪さを示すいい例をあげよう。創刊当時に青山と交わしたこんな会話は今でも良い思い出となって俺の心に残っている。
青山「この前、創刊号を『クイック・ジャパン』の赤田君にあげたんだけど……」
村崎「フーン」
青山「そしたら彼、ビビッちゃっていいんですか青山さん、こんな本出して!」って真顔で言うんですよ」
村崎「けっ、そいつはあきれたお嬢様野郎だな!」
青山「ハハハハハ」
村崎「この程度でビビるようじゃ終わってんぜ。そんなんじゃ、どーせ『クイック・ジャパン』とかいう雑誌もお行儀の良いお嬢雑誌なんだろう」
青山「……ですよねえ、ハハハハ」
『クイック・ジャパン』と赤田とかいうお嬢様野郎の名誉にかけて書き添えておくが、人でなし最低鬼畜の俺が馬鹿にするということは、鬼畜的発想で考えればヘタレだが、その逆にまっとうな人間たちのまっとうな世界では正当に評価されるべき極めてまっとうな物件だということだ。実際、俺の見たかぎり『クイック・ジャパン』はどんなにヤバい人やテーマを取り上げて取材しても、ライターも編集部も上品で優秀な人材が揃っているせいか、すべてバランス良く健全にまとめて「文部省特選」が付いてもおかしくないほどオシャレで清潔で、父兄同伴で安心して読める“オモテのサブカル誌”になっている。オレが世間知らずの清くて正しい善良な田舎のガキだったら、毎月発売日に本屋へ走って買いに行き、ドキドキしながらページをめくったことだろう。これは皮肉でも何でもない。本や雑誌というのは素直に読めば作り手の顔が見えてくるものなのである。明るく健全すぎる『クイック・ジャパン』には、『危ない1号』のように読者を悪に目覚めさせ、あわよくば鬼畜に堕として地獄の快楽を味わわせてやろうという邪悪な意図や悪意などまったく感じられないし、『危ない1号』に邪悪さを感じて“いいんですかこんな本出して!”と思う人間の感覚の方が、鬼畜の俺よりもはるかにマトモで正しいのだ。そういう経緯があったので、通夜の後で青山の友人たちと「ムカつくけど、こういうのもネタにされちゃうんだろうな」、「『クイック・ジャパン』なんかに追悼特集組まれたらオワリだよな」、「ああ、でもどんな奴が書くんだろう?」、「青山さんのことを良く知らない馬鹿でしょう」、「きっとこういう所に来ない奴だぜ」などという会話をしたものだが、フタを開けたら本当に通夜でも告別式でも顔を見なかった野郎が書いていたから思いっきり笑ったぜ!
ムカついたといえば、青山の死亡記事を「麻薬ライター」とか「無名ライター」などと失礼極まりない表現で書いていた『フォーカス』にはマジでムカついた。カン違いしてんじゃねえぞ馬鹿野郎! こっちこそ、たかがノゾキ雑誌の嫌味ったらしいチンカス記事書いてたゲスライターどもなんか、創刊当初に少しだけ載ってた藤原新也氏(この方だけは別格/敬称略しません)以外、ただの一人も憶えてねえし憶える気もねえし印象にも残ってねえんだよ! 確かに正統ノゾキ・ジャーナリズムの世界では青山は「無名の麻薬ライター」だったかもしれないが、ドラッグカルチャーやシャブカルチャーの世界では多くのマニアの尊敬を一手に集めるカリスマ・ドラッグマスターだったのも事実なのだ。ドラッグいらずの電波系体質のためドラッグにまったく縁のない俺だが、それでも青山の書いた『危ない薬』をはじめとするクスリ関連の本や雑誌のドラッグ情報の数々が、非合法なクスリ遊びをする連中に有益に働き、その結果救われた命も少なくなかったであろうことは推測がつく。こんな話はネガティヴすぎて健全な善人どもが聞いたら顔をしかめるであろうが、この世にはそういう健全な善人どもには決して救いきれない不健全で邪悪な生命や魂があることも事実なのだ。青山の存在意義はそこにあった。それは決して常人には成しえない種類の“偉業”だったと俺は信じている。
追記1 青山を尊敬するジャンキー諸君へ
頼むからこれ以上お前らのシャブ畑に青山の銅像を建てるのは止めてくれ。お前らが青山を尊敬する気持ちも分かるが、たとえ銅像でも、奴を自由で無責任な鳥どもが落とす糞を被るだけの存在にされるのは個人的にどうにも我慢ならねえんだ。
追記2 アウトローとは何か?
当初、担当氏に「掲載される雑誌ってどんなの? テーマが青山の事ならなおのこと、お嬢様雑誌だけはカンベンしてほしいんだけどさ」と贅沢を言ったら「『アウトロー・ジャパン』という雑誌です」と聞き「ヤクザや極道の話? 彼らは一般社会の枠組みから外れているという意味では“アウトロー”かもしれないけど、(たとえ建前上でも)義理と人情に厚いコトを考えれば立派な“人間”でしょ。カタギの世界の規則や規律が嫌で自由を求めてヤクザの世界に飛び込んでも、ヤクザの世界はカタギの世界以上に理不尽なうえにルールがキツくてシビアじゃん。それって結局、“レールから外れて自由になったつもりでいたけど、気づいたら別のレールに乗って走らされてただけ”だよね。どこがアウトローなの?」と「答えたのが契機で、それを含めたアウトロー論を書く予定だったが紙幅が尽きた。機会があればこの続きはいずれ……
村崎百郎(むらさき・ひゃくろう)
1961年シベリア生。自称中卒。80年に上京、陰惨な傷害事件を繰り返しながら多くの工場や工事現場を転々とする。現在は鬼畜ライター。
旧HP:http://data-house.oc.to/users/100/
初出:宮崎学編『アウトロージャパン』第1号(2002年・太田出版)
参考リンク:ある編集者の遺した仕事とその光跡 天災編集者! 青山正明の世界 第23回 - WEBスナイパー
恥のみ多かりし三十余年の人生で<私>とは一体何であったのか。/私、私の眼、私の耳、私の声、私の手、私の血、私の存在、私の記憶、私の死、私の街、私の反逆、私の時間、私の虚妄、私のあなた、そして私のテレビジョン……。そこにはまっ白い空間の中をスローモーションで走るようなもどかしさがあるだけだ。/所詮、<生きること>は死ぬ迄の暇つぶしでしかない。
萩元晴彦、村木良彦、今野勉『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(1969年3月15日発行/田畑書店)