小林小太郎インタビュー
- ド変態から死体・畸形 何でもあり雑誌誕生!
- マニアの名を借りて社会をおちょくってる
- 一緒にやってる連中をいばりたいんだよ。
- 【世界播種計画―あなたの町に伺います】
- 【好きなことだけをやる―偉大な自己中心派】
- 【専門家が見ると甘い?】
- 【出会いは絶対外さない!】
- 【そしてグロスは移動を開始する】
- 付記:小林小太郎の消息について
「平田広美さんに死体写真集を見せてもらった一瞬間。あ、これだ、いけるぞ、って」
編集人・小林小太郎
●スーパーへんたいマガジン『Billy』白夜書房発行
ご存知の変態マガジン。死体・フリークスの企画が1色、2色ページに充実
●禁じられた絵本『TOO NEGATIVE』吐夢書房発行
本格的な〈小林本〉。珍しいフリークスや死体のカラー写真が嬉しい。
●死体写真集『danse macabre to the HARDCORE WORKS』
写真と文●釣崎清隆 NG PUBLICATION,INC 1996年
小林氏プロデュースの日本初、死体専門カメララマン釣崎清隆の死体写真集。
小林小太郎
'53年生まれ。'82年より『ビリー』に携わり、'94年には『トゥネガティヴ』を創刊。現在『ウルトラネガティヴ』を準備中。
取材&文▶こじままさき
日本の〈死体・奇形・変態シーン〉の歴史と現在を語る上で避けられない人、それが小林氏。『ビリー』『トゥネガティヴ』の編集、死体カメラマン釣崎清隆の写真集制作など異形のモノに執着した仕事は、この本買ってしまった貴方なら拍手もののはず。聞き手はやっぱり『ビリー』の洗礼を受けて人生を踏み外したというBDのこじままさき氏。
ド変態から死体・畸形 何でもあり雑誌誕生!
高校生の頃、地元の本屋でふと立ち読みした『写真時代』に掲載されていた、ある雑誌の広告の写真。テーブルの上で全裸の外人女が股を広げている。彼女の肛門からは太いクソが垂れていて、そのクソの先は下で待ち構えている男の口の中へとつながっている。一般書店にスカトロ雑誌が並ぶ事など到底考えられない当時の状況の中、のほほんとした郊外の平凡な高校生にとってその写真は余りにインパクトが強過ぎて、思わず雑誌を閉じてしまった事を覚えている。その時に見たこの広告こそが、後に伝説の雑誌として語り継がれる事になる『Billy』の広告だった。
‘81年に白夜書房から創刊された『Billy』は、インタビュー記事を売りにした、単なるさえないエロ本だった(…らしい)。そんな『Billy』はしかし、徐々に形を変え、ド変態から畸形・死体なんでも有りの、パワー溢れるむちゃくちゃなカルト雑誌へと変化していく。
実際、ノってきてからの『Billy』は凄かった。畸形胎児のホルマリン漬の写真の連載や、キツい死体の特集があるかと思えば、SMはもちろん、放尿&ウンコのスカトロから、獣姦・幼児愛・衣装倒錯、果ては自分で自分のチンポコをフェラチオする男(!)まで、とにかく
「変なもの」「普通じゃないもの」「トンデモないもの」なら何でもありの、得体の知れない混沌としたパワーに満ちた《場》であったのだ。
そんな、単なるショボいB級エロ本が伝説のカルト雑誌へと変わっていった直接のきっかけ、それが編集者・小林小太郎の参加だった。
小林小太郎。小さな編集プロダクションでビニ本を作っていた彼が『Billy』に関わったのは、創刊から数号を経た後の事だった。
「最初はインタビュー雑誌だったんだよね。俺も創刊号見たけど、ひでえ本だなと思ったよ、あれは。つまんない。そしたら白夜でその担当だった中沢さんが振ってきたわけ。好きにやっていいって」
「で、『Billy』の仕事やるようになったんだけど、いきなり変態路線になったんじゃなくて、最初2、3号はわりと普通だったのね。で、漫画家の平口広美さん、彼が当時まだ無名で食えなくて、彼と親しかった中沢さんが、彼にインタビューしてやってくれって言うわけ。つまりインタビューするとインタビュー料が発生するでしょ。それでインタビューそのものはそれほど面白くはなかったんだけど、終わった後の雑談で『最近何か面白いことありました?』『死体写真集が手に入った』って。何か、南伸坊さんから頂いたらしいんだけどね。で、平口さんからそれを見せてもらった、その瞬間だよ。あ、これだ、って。いけるぞ、って。」「それまでビニ本で変態っぽいのとか結構やってたし、素人のマニアからとんでもない写真とかもらったりして、変態っていう言葉だけじゃくくれないんだけど、何かちょっとシビレそうだなこれ、っていう感じが、点としてずっとあったの。そこに死体が、点と点がピッと線になってつながったんだと思うのね、その瞬間。あ、これでイケる、って、自分の中でさ」
こうして伝説のスーパー変態マガジン『Billy』は誕生した。’82年の事だ。あれから12年、彼が『TOO NEGATIVE』を創刊するまで、『Billy』に似た雑誌は残念ながら一冊も生まれていない。
マニアの名を借りて社会をおちょくってる
現在の日本という国は、世界に名だたるエロ大国だ。一般書店でウンコ専門誌が誰にでも買える国なんて、世界中で間違いなく日本だけである。エロはポルノショップを飛び出してマスメディアを浸食し、ポルノはどんどん細分化されてマニア道を邁進する。しかしその昔、エロがまだまだ日陰者だった時代は確かにあったのだ。そんな時代に『Billy』がどれほど異色な存在であったかは想像に難くないだろう。そして『Billy』が本当の意味で異色な存在であった理由は《変態や死体が載っているから》ではない。それは、その《変態や死体》に対する編集スタンスだ。マニアの視点やエロを求める読者の視点に立った雑誌ではない、「こんなヤツがいるんだよ、スゲーじゃん!」という、興味本位とも『GON!』的視点とも違う微妙なバランス感覚の上に成立する、アナーキーな編集視点。それこそが『Billy』のアイデンティティーだったのだ。
「そうだね、今でもやっぱりあれに似た雑誌って無いね。ほんとに好き勝手に作ってたんだよね。あの視点ってのは俺、今も変わってないよ。よくやらせてくれたよね。でも、後で分かったんだけど『何やってもいいよ』って中沢さんが言ってくれたのは、その頃白夜が経営ヤバくて、もう開き直ってたってことらしいよ。でもそのおかげで『Billy』が誕生して、最終的には7万部いってたんだから、驚異的だよね、ああいう内容でさ。」
「経営がヤバいって事もあったと思うんだけど、とにかく予算が無かったんだよ。それでグラビアの撮り下ろしはしちゃならんという。しょうがないからグラビアに関しては以前ビニ本で撮りためてたやつとか、後はカメラマンの持ち込み。セレクトやレイアウトはするけど、撮影は出来なかった。だからその分、1色・2色ページを思いっきりやりたいようにパワーをかけられたんだよね、死体とか畸形とか、普通エロ本に載ってないような事も含めてね」
そんな編集者の情熱と興味本位で暴走(←褒め言葉です♡)する『Billy』は、しかし編集者の予想外の反応を得る。それは全国の隠れた変態たちからの、熱いラブコールだった。そう、モンド雑誌(?)として軌道に乗りつつあった『Billy』に、本物のマニアたちがコンタクトをとりはじめたのだ。
「うん、なんなんだろうな。そういう奴らを受け入れるキャパのある雑誌なんて他になかったしね。で、俺、マニアなんて嫌なんだけど、でも興味をそそられるんだよ。つい突っ込んでインタビューしちゃうんだよ。すると奴らにとっては凄くプライドをくすぐられるんだよね。それまでは彼ら一人で悶々としてたと思うんだ。だから『よくぞやってくれた』って。やっと自分を人に見せられる、っていうか、分かってくれる奴がいるんだ、みたいな。それが『Billy』だったと思う。そういう奴らがみんな協力してくれたんだよ。そういう意味じゃ今でいう投稿写真誌の走りみたいなもんだよね」
確かに当時の『Billy』は凄かった。前述の「セルフ・フェラチオ男」を始め、「クソまみれスカトロ夫婦」「田舎の近所の犬とはだいたいヤリ尽くした獣姦男」「肛門にビール瓶を根元まで挿入したまま風呂に入ったら水圧でとれなくなって病院へ行ったアナルマニア」まで、常識的な視点で見ればほとんどギャグの領域に入っている様なブッ飛んだ奇人変人達が毎号登場していたのだ。しかし、それでも『Billy』はお笑い雑誌にはならず、相変わらずの形容しがたいパワーを持って走り続けていったのだ。
「うん、マニアの為っていうんじゃなくて、マニアの名を借りて、なんか社会をおちょくってる、みたいな感じかな。それにさ、我々の編集センスとかコントロールっていうよりも、何かそういう連中が集まってきて、うま~く分業出来たんだよね。とりあえずみんな面白くて、新鮮だった。俺が悔しいのは、なのに『Billy』が木っ端みじんに消えちゃったってこと」。
一緒にやってる連中をいばりたいんだよ。
彼が『Billy』に関わったのは、ほぼ2年位の間だ。その後、編集仲間とのいざこざから彼は『Billy』を抜ける事になる。そして‘84年12月、都条例との絡みもあって『Billy Boy』と名称変更、その9か月後に伝説の雑誌『Billy』はその歴史を終えた。
「当時いっしょに作ってた相棒と大喧嘩しちゃってさ。俺もまだ27で、カーっとなっちゃって、やめちゃったんだよ。でも、やっぱりあれは一つの方法論にまでするべきだったんだよ。だから今まで他にああいう雑誌が生まれてこなかったんだ。当時はほんとに不思議ないいムードで本を作ってこれた。いいチームであった故に出来たムードだと思うのね。だから、もっと頑張って、頑張るというか守るべきだったんだよね、ああいう内容の本を。廃刊って聞いた時はびっくりしたよ。バカか、お前らは!って。まあ自分で喧嘩別れしといて、そうは言えなかったけどさ(笑)。そりゃやっぱり寂しかったよ。でもその時はまた作りゃいいんだよなんて思ってたんだけど、それは甘かったね」
『Billy』を抜けた後の彼は、ビック出版という編集プロダクションを立ち上げる。このビック出版は順調に実績を延ばし、一時期は総勢20数人を抱え、月刊誌7~8誌を世に送り出す勢いを持つも、突然解散する。
「『Billy』の後、なんか金が欲しくなってね。ていうか、金が必要だと思った。で、プロダクション作って、結局20数人抱えてみんなを食わせながらって事でやってて、でもやっぱりダメなのね。自分の中で何かが違う。もう勢いだけでやってたんだよね。後には他(の雑誌)よりはいいだろ、ってそんな感じしかなかったんだ。会社やってる事が。で、一方的にスタッフのみんなにやめます、って言って全部つぶしてね。みんな怒ってたし、悪いとは思ったけど、でもこのままじゃダメだと思ったから。で、一人になって、それで編集としては一人でやってる。もうずーっとね」
その後、彼はアメリカに飛び、3年の月日がたち、そして再び日本の出版界で仕事を開始したのが『ORG』だった。
「3年間アメリカに行ってたんだけど、結局こっちに帰ってきて、その頃に作ったのが『ORG』。向こう行ってコピーも写植も無くて何もわかんない状態で、もうほんとに自分一人でつくったのね。経費ほとんどゼロで!」
皮肉な事に、経費がない為に過去の写真でディレクションされた『ORG』には、今のエロ本からいつの間にかなくなってしまっていた、濃厚な《空気》が凝縮されていた。現在のエロ本で、単に着衣で立っているだけの女の姿に俺.がエロを感じたのは、この『ORG』だけだ。
「そうして『ORG』始めて、そしたらまた周りに色々なひとが集まってきて、またムズムズしてきて、ああビリーみたいな本やりてーなってなって、それで『TOO NEGATIVE』につながったんだ。ビリーみたいなの。でも、ビリーじゃない、その次の段階、ね」
実際『TOO~』を見ると、死体・畸形はもちろん、かなりキツい医学写真からアバンギャルドなものまでが並び、更に加速したビリー、という印象も受けるが、一番の違いは死体写真を撮り下ろしているという点か。
「そう、もう海外のメディアを紹介するだけじゃなくて、世界で通用するものをこっちでちゃんと作りたかったのね。で、釣崎に『死体撮るか?』って言ったら『いいっスよ』『え?』って。今まで何千人に聞いてきて『うん』って言った奴いないのに。」
そして彼は初の死体専門カメラマン・釣崎清隆をプロデュース、更に池尻大橋に「NGギャラリー」をオープンと、出版メディアだけにこだわらない多角的展開を見せている。
「でも、プロデュースとかそんなんじゃないよ。単に自分がやりたい事を、自分のパッションのままにやってるだけだし。要はいばりたいの、そいつらを。本はもちろんだけど、一緒にやってる連中を、どうだ、こいつら凄いだろ!ってさ。雑誌も人も含めて、全部《場》だからさ。でもまたそろそろ雑誌もつくらないとね」
彼が今後作るであろう新雑誌。期待して待ちたい。(1996.2.8/NGギャラリーにて)
【初出:『世紀末倶楽部』第2巻/1996年9月発行】
NG Gallery 小林小太郎氏に聞く
「マネされる前にお前らのところに行ってやる」
グロス・エキシビジョニストの旅
NG Gallery館長 小林小太郎氏に聞く
小太郎氏といえば『Billy』(白夜書房)、『TOO NEGATIVE」(吐夢書房)など、そっち系の人が必ず通ってきた伝説の雑誌の伝説の編集長だ。その小林氏は現在活字から離れて、都内でギャラリーを運営している。ギャラリーといってももちろんラッセンとか置いてケバいねえちゃんに呼び込みさせてるわけじゃない、死内臓体液系歪みアートの展示をやってるわけです。この本にこれほどふさわしい人はいるだろうか、いやいない、と言い訳しつつ多分に個人的ミーハー的に話を聞くことにし(てもらっ)た。
『Billy』と言えば胸の内に、まだ自分に可能性があると信じていた頃のきやきやした感覚が蘇る。誌面をモノトーンで彩った死体、奇形、熱帯病の写真は、その数年前のパンクとの出会いが私の音楽における嗜好を決定ししまったのと同じように、グロテスクを私の人生の通奏低音としてしまったのだ(スカトロもそうだろって? しかり、その通りだ)。その『Billy』編集長であった小林小太郎氏がギャラリーをやっていると聞いたのは雑誌からだったか、通信でだったか、ともかくも「出会い」はある日突然なのである。
私が初めてNG Galleryに行ったのは去年の8月のことだ(実にオープンから1年以上もたっていた!)。釣崎清隆氏の死体写真展の最中に行われた「V&Rお蔵入りビデオ上映会」である。初めて降りた東急線池尻大橋駅から場所もわからず電話してうろうろ回った末にようやく辿りついたそこには、壁一面に貼られた死体写真と、セットされたスクリーンに写し出される『死化粧師オロスコ』のビデオ、そして流れるデスメタル。こんなに素敵な出会いってそうはないぜ。
それ以降、催物が変わる度に行っているのだが、一大ロケ(と略奪)を敢行しての力展「軍艦島」を境に、なんか傾向が変わってきているような気がしたのだ。軍艦島はその歴史もその姿も確かにグロテスクな存在である。しかし、いわゆる死体・奇形系のポジテイブでパーソナルなグロテスクとは違って、見るものを考えこまさせずにはおかない静かで強烈なパワーがある。この人のグロテスク観はひと回り大きいぞ、そんなことを思って、2月の末にギャラリーを訪ねた。
お相手は小林氏と、そしてギャラリーの中心人物の一人、青砥純さん、青砥さんの娘さんのひかるちゃん(1歳半)、そして小林氏と深くて長いつきあいの写真家池尻清さんであった。豪華メンバーだ!
【世界播種計画―あなたの町に伺います】
しかしやっと出会えた小林氏の口から出たのは思いも寄らぬ発言であった。
「地方回ろうかと思ってんですよ」
ちょっと待った。
じゃあギャラリー紹介してもタイミングによっちゃーもうここにないってことか?
「飽きっぽい性格ですからね。流行ってくるとイヤになってくるし、大体なにやってても2年で次を始めてるんですよね」
腰の落ち着かない人ではあるが、この移動ギャラリー、東京日帰り圏の外にいる人にとっては朗報であろう。思うに東京みたいにとりあえず自分の外になんでもあってそれを享受したり消費したりしているところと違って、自分で作り出さなければなにもない、というエリアに住んでいる人の方が創造性って爆発してんじゃないだろうか。エスエム投稿のすげーのってあんまり東京じゃないような気がするしね。関係ないですか。でもだとすると一周して帰ってくるころには思いもよらぬ凄絶な作品が集まっていることも大いに期待できる。“頑張れ地方人”って裏日本出身の私がいうことないけど。
たとえば蜘蛛には網を張って餌を待ち構えるタイプと、うろついて餌に飛びかかるタイプがある。小林氏のスタイルの変化、これは自律的に行われた進化なのかもしれない。そして実は移動ギャラリーにはもうひとつの隠された目的があった。
「それと地方でマネされる前にこっちから行っちゃう。マネさせねぇぞ、ってね」
【好きなことだけをやる―偉大な自己中心派】
「ギャラリーをやってるのは僕と青砥と田中(とものり氏)の3人。全員がということじゃないけど、毎日います。みんなNGのことばっかり考えてて、今後のこととか怒鳴りあってる」
青砥さんは某大手SM系AVメーカー出身で、そこで監督をやっていた釣崎氏を小林氏につないだのも彼女。また、田中氏は1月末から個展をやったデスメタル系エアブラシイラストレーター、ウェス・ベンスコッターをNGに引っぱってきた立役者。
「自分で全部やりたいっていう気持ちが強いんだ。でっかい会社になるとここまではいいけどここからはダメっていうのがあって、それがすごくイヤだった。『Billy』やってる時も、読者に主導権は渡さない、向こう主導になると終わりだと思ってやってた」
読者アンケートで作品の内容までが決まる雑誌とはえらい違いである。もちろん部数もえらく違うが。
雑誌を作るときも、バイトの人間がいるだけで、その雑誌の何分の1かはそいつのもんだと思うとイヤだったという生粋の自己中心派である。
「ミニコミとか昔のビニ本とか、自分ひとりで全部やってる人を見ると、負けそうって感じがある。『ORG』(吐夢書房の過激系ポルノ雑誌)のときは、家族でニューヨークにいたんだけど、日本語の新聞買ってきて文字切り貼りしてね、スペースがあいたら子供にイラスト書かせたりして作ってた」
この切り貼り感覚が現在のコピー誌『ULTRA NEGATIVE』に受け継がれている。原稿は写真とワープロ打ち出しの文字の切り貼り、それを普通のコピー機でガーガーとる。今でこそきちんと製本されたものも登場したが、創姦ゼロ号は単なる紙の束だった。
しかし雑誌からギャラリーへの移行というのは急展開に思えるが。
「前に池尻さんのギャラリーやってみて面白かったんですよ。思えば『TOO NEGATIVE』はギャラリーの要素の強い雑誌だったし。でもちゃんとしたギャラリーって興味ないから、雑誌のノリでやりたかった。自分のやりたいことがそのまま出せるような。オープンした頃は好きなことなんでもやってみようという感じだったから、ノイズやハードコアバンドのライブもやったりしたね」
ではホームページどうだろうか?
「いや、あれは人まかせ。お願いしている人がいるんですが、なかなかやる時間も考える時間もなくてね。まずは作家と作品の紹介はやろうと。インターネットももっと使っていきたいんだけど」
【専門家が見ると甘い?】
ではグロ話に移ろうとしたのだが、小林氏本人は自己を評して、死体とかグロなもんについては素人ですよ、と言い切る
「実践ともなってないんですよ」
確かにボディピアスをしているわけでもないし、虫を体内に飼っているわけでもないようだ。機先を制される感じなのであった。
「『Billy』以前は死体写真に対する興味はゼロだった。平口広美さん(漫画家、AV監督)のところで死体写真集を見たときに、これはいけるってピンときたけど、その後も特別な愛着はない。でも載せるとかえって周りが盛り上がっちゃってね。読者やお客さんの方が絶対詳しいですよ。自分の中にはグロいのが好きな部分もあるけど、それがすべてじゃない。それが強く出るときもあれば弱くなってるときもあるっていうことです」
とはいえ『Billy』『TOO NEGATIVE』いうのはモロにそっち系の雑誌だった…。
「どうせやるのなら人間の中にあるヘンなものを全部暴き出すところまでやりたかった。ヘンなこと言う奴とかヘンなこと書く奴もいるじゃないですか。でもそういうことをやろうとすると、危ないとか差別用語だとかで縛られちゃって。『Billy』ではバカっぽいコピーとかつけて娯楽ものっぽくしちゃったけど、実際そういう人達に取材とかしたかったね。僕自身は今でも死体とかそのものよりも、その周りの人、たとえば解剖する人とか検死する人とかに興味がある。職人っぽい人が好きなんですよ。オロスコとかそうだよね」
やっぱり編集長なんですよ、小林氏は。読者の座にはいられないんだろう。そしてもちろん、小林氏の体からそっち系の人々を集めるフェロモンが発せられているのであろうことは想像に難くない。要するに阿片窟の主人だ。主人自身は阿片は吸わないものだが、阿片で客がどうなるかは知っているのである。「死体写真っていっても残虐なのとかあとあとまで残っちゃうアートっぽいのとかあるじゃないですか。僕はどちらかというとアートっぽい方が好きで、写真として認められないものはダメ。残虐な死体だったらビデオの方が絶対いいですよ。しかし警察で現場写真撮ってる人が見たらどういうかね。きっと『甘いよ』っていうんだろうなあ」
小林氏はかつて現場写真家だった人に接近遭遇している。『TOO NEGATIVE』をやっていた頃、目白のひなびた写真屋の70歳を超えると思われる店主と話をしているうちに死体写真のことになり、その店主は自分が現場写真を撮り続けていたと告白したのだ。そのうえ店主は自分の作品をこっそり持ち帰っていたという。しかし今度見せてくいと約束したのはいいけれど、それ以降いつも店が閉まっていて、結局それっきりになってしまったそうだ。まだ写真が残っているのだったらどんな形でもいいんでぜひ公開してください。これは全国津々浦々の現場写真家の皆様へのお願いでもあります。
【出会いは絶対外さない!】
NG Galleryでは死体写真ばかり展示しているわけではもちろんない。イラストや立体造形の展示も行っている。そういった作文の人達はどっから見つけてくるんだろうか。
「たまたま出会う、ってことが多いんですよ。呼び込むっていうか。でもその時絶対外さない自信はある。誰かと出会った瞬間にこれからの展開がスコーンと見えちゃうんだよね。とにかく俺の勘って当たるんですよ」
つまり小林氏自身が職人なのである。
「もう世に出ちゃってる人には興味ない。自分で、あっコレ、って思えないとやらないですよ。毎日ここにいるわけだから、展示品も毎日見てるわけ。それでも横を通る度にちらっとそっちを見ちゃうような、そんな作品でないと展示してても意味がない。一見誰それの個展だけど、自分の出る幕もある。ここは自分たちのギャラリーだっていう意識が強いから、展示に関しては作家自身よりも思い人れがあると思う」
こんな小林氏だから、展示内容が気に入らないと中止にしてしまうこともあったらしい。
「NGが面白いのは、気に入ってくれた人は次に来るときに必ず自分の作品を持ってくる。その1枚で終わっちゃうかもしれないけど、でもそれは絶対刺激になる。移動ギャラリーを始めたら、もっといろんな人と出会えると思うね」
再び言うがこれをフェロモンと呼ばずして何と呼ぶか。小林氏には周りの人々のグロな面(それが真実の顔なんだろう)を刺激して放出させないではいられないナニカがあるのだ。ギャラリーの入っているビルの下の階にはかつてヤクザから右翼に華麗な転身を遂げた事務所があったという。ある日、常連さんが訪れるとビルの入口から血まみれの死体が運びだされるところだったそうだ。確かに何かが起きるのである。
【そしてグロスは移動を開始する】
移動ギャラリーの具体的なプランを聞いてみた。
「なんでもありだからねー。大きな音出して、終わったらどんちゃん騒ぎして。だから自分の作品を後生大事にしてる作家には向いてないね」
ギャラリーオーナーとは思えない過激な発言である。
「まず松山、これは池尻さんの実家があるんだけど、そこでやって、夏頃から本格的に回りたい。土地々々の誰かと知り合って、やるんならあそこが大丈夫ですよ、とか教えてもらって、そこがダメになったら別のところを探して歩くような。東京の人達にはね、2年間世話になったし、どこかに4畳半とか3畳とかの拠点を置いて、持ち切れない作品なんかはそこに置いてって、やっぱりお客さんに見てもらえるようにして」
「あとはインターネットも使って伝えていきたいね。次はどこに行きますよ、って告知から、現場の様子とか写真やビデオで。NGの作家って作品以上に内面が面白い奴が多いんで、それを紹介したり。誰がどこにいてもNGはここにありますよって」
実際のギャラリーはどこにあろうと、URLを打ち込めば彼等に会える。物理的に店を構えるギャラリーを超えてインターネット上に拠点を置き、本体はどこかそのへんをさまよっている。素敵にマルチメディアな展開である。最初は蜘蛛かと思ったがそれどころではない。もしかしたら有鉤条虫かなんかの方が適切なたとえかもしれない。宿主の体のそこいらじゅうにうにょうにょと体節を延ばしてそこでまた殖えていくのである。日本がムシバマレテいくのであるよ。
「俺は自分で自分を揺さぶるようなことをやってる。そういう感覚がなくなったらもう止めるしかないね」
最後に青砥さんに聞いてみた。小林さんってどんな人ですか?
「ソバ打ち職人、かなー」
言いえて妙なり。ただひたすらガラスの向こうでソバ粉を打ち、リズミカルに一定間隔に切り続け、人の口に入るものに仕立て上げる。そしてそのソバは喰らったものの血となり肉となるのである。確かに小林氏にはそんなイメージがぴったりだ。
取材も終えて原稿も書き上げた矢先にビッグニュースが飛び込んできた。NG Galleryはこの夏、名古屋での本格的展開を考えているらしい。増殖の詳細はいまだ闇の底だが、ホームページでの告知を刮目して待て!
【初出:『世紀末インターネット大全 鬼畜ネット』1997年5月発行】
付記:小林小太郎の消息について
(2019年5月20日に阿佐ヶ谷ロフトAで筆者が撮影。登壇者は右からケロッピー前田、姫乃たま、ロマン優光、石丸元章、釣崎清隆、福田光睦の6人。当日出演が予定されていた元『BURST』『BURST HIGH』編集長のピスケンこと曽根賢は体調不良で欠席した)
小林小太郎について一番知っている人、と考えて最初に思い浮かんだのが小林がプロデュースした死体カメラマンの釣崎清隆であった。ここからは私事になるが、2019年5月20日に阿佐ヶ谷ロフトAで行われた雑誌『バースト・ジェネレーション』企画のトークイベント「90年代サブカル最高会議」を本稿の筆者は観覧しており、登壇者の釣崎に話しかけて小林の動向について詳しく聞き出すことが出来た。
このような質問を投げかけた理由であるが、鬼畜系の草分けである青山正明(故人)が活動していた80年代前半から90年代後半という全く同時期に独自路線で悪趣味文化を国内で開拓しながら鬼畜系が下火となった2000年代以降、メディア上から忽然と姿を消してしまった小林の足跡と思考の変遷を辿っていくことによって、一部の有識者からも懐疑的な「鬼畜系総括」なる不毛な議論に「悪趣味を仕掛けた側の編集者」が見据えた「眼差しの行方」という目線を与え、何らかの落としどころを見いだせるのでないか、と考えたからである。
以下の談話はトークイベント終了後、筆者が釣崎から聞いた話をインタビュー形式で原稿化したものである。
以下の談話はトークイベント終了後、筆者が釣崎から聞いた話をインタビュー形式で原稿化したものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
筆者:小林小太郎さんって今、何をなさっているんですか?
釣崎:今はね、福島で、除染作業員をやってるの。
筆者:除染作業員ですか! あの『エロ本黄金時代』(河出書房新社・2015年)という本では東良(美季)さんっていうライターが(小林は)エロ本業界から退いて今はどこにいるか分からないというようなことを書かれていたんですけど、また志を持って「そういうこと」をやられているんですか?
釣崎:いや。あのね、田舎に戻ったのよ、一時期。彼は四日市(出身)なんだよね。NGギャラリーで知り合った俺のシネマジック時代(筆者注:かつて釣崎が在籍していたアートビデオやSMビデオを得意とする老舗アダルトビデオメーカー)の上司の●●さん(※一般人につき匿名)と結婚したんだ。それで、自分の田舎の三重県四日市市に引っ込んで、子供がふたり生まれて、その子供が巣立ったわけ。もう大人になって(子供が)東京に来たりとかしてるわけよ。ちゃんと、もう働いたりしているから。 それで彼が嫁に対して「そろそろ俺を自由にしてくれ」って言ったんだ。今はもう彼は65歳かな。それで嫁が「じゃあ勝手にどこどこに行き」って言ったら、彼は福島に行ったんだ。それで俺が福島第一原発で(作業員を)やっている時期(筆者注:この時期の釣崎については彼のエッセイ『原子力戦争の犬たち 福島第一原発戦記』に詳しい)とちょっと被るのよ。俺は2年間やったけど。そしたら2年目の時に彼が入ってきたんだ。
筆者:それは釣崎さんが福島第一原発に行ったからというのもあるんですか?
釣崎:いや全っ然違う。
筆者:全く関係ないんですね。そうなると、ふたりには何か根底で考えてることで、つながっている部分があるのかなって思うんですが。
釣崎:根底はつながっているかもしれない。なぜかというと例えば「グラウンド・ゼロ」(旧ワールドトレードセンター跡地)っていうか、福島の象徴的な「ああいう現場」でギャラリーをやりたいって言ってんだよ。
筆者:え! あそこでですか! いまギャラリーの計画中とか?
釣崎:うん。もうすでに土地を見つけてやってる。
筆者: 今後また「小林小太郎」という名前が出てくるかもしれないですね。
釣崎:まあね。
筆者:もう20年くらい(彼はメディアから)消えているというか。
釣崎:消えてる。消えてる。
筆者:また出てきたら何かやるかもと…。
釣崎:まあ彼も歳だからな。ただ、今、福島であいつは毎週週末に弾き語りライブをやってるらしいっす。
筆者:詳しい話をありがとうございました!
(於・阿佐ヶ谷ロフトA /2019年5月20日)
小林は第一線からは退いてはいるものの、いまだにギャラリーに対する熱意があるようで、福島県内でインディペンデントな表現活動を続けているらしい。野心家の彼が震災を経て、どのようなギャラリーを開こうとしているのかなど、もろもろ聞きそびれてしまったが、短い談話ながらも彼の引退後の動向について詳しく知ることが出来た。なお、90年代の悪趣味系サブカルチャーに関わった作り手の多くは気を病み、失踪、自殺、被殺人など「非業の最期」を遂げた人物が複数いるのに対し、小林が引退したとされる理由が結婚と育児であったというのは、ある意味で救いのように感じられた。ちなみに「小林小太郎」と言う名前は本名ではないため、すでに彼は別名義で新たにギャラリーを開いているのかもしれない。
筆者が近年の鬼畜系総括ブームで感じたことは、ひたすら「後ろ向き」ということであった。なぜなら90年代サブカルという特殊な過去の文化を現在の価値観(ポリティカル・コレクトネス)で断罪するという行為自体に何のビジョンも見えてこなかったからである。しかし小林はしっかりと前を見据え、今もなお野心を失っていなかった。全世界で千体以上の死体写真を撮影してきた釣崎清隆との交流が途切れ目なく現在まで続いているのが何よりの証拠である。