Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

腐っていくテレパシーズ:角谷美知夫インタビュー

腐っていくテレパシーズは1970年代後半から1980年代前半にかけて活動していた天然サイケデリック・ロックバンド。中心人物は吉祥寺マイナー周辺のライブハウスで活動していたアンダーグラウンドなミュージシャンの角谷美知夫。1959年生まれの山口県出身のアーティストである。裕福な家庭に育つが1974年に中学を退学後、住所不定のヒッピーとなる。1977年に東京に移り住み、1978年から工藤冬里や木村礼子と共に音楽活動を開始。1979年にオット・ジョンを結成し吉祥寺マイナーを中心に活動する、その後、オット・ジョンは自然消滅し、以降は「腐っていくテレパシーズ」として活動するが、この頃から重度の躁鬱と幻覚幻聴に悩まされるようになる。精神分裂病がもたらす幻覚作用や霊的感覚を表現した、どうしようもなく崩れ落ちていく陰鬱なロック音楽は「他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊」と評された。その後、ジヒドロコデインリン酸塩というドラッグにはまり、1990年8月5日に31歳の若さでオーバードーズによるとみられる膵臓炎で夭折した。翌1991年6月、PSFレコードから生前の自宅録音とライブテープを再編集した追悼盤『腐っていくテレパシーズ』が発売される。なお中島らものドラッグ・エッセイ『アマニタ・パンセリナ』や自伝的小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』には「分裂病のガド君」として角谷が度々登場している。



ゆめゆめ うたがうことなかれ

大変な状態になっているんだ

狂った状態になっているんだ

俺の中に外が入ってくる

ゆめゆめ うたがうことなかれ

 

死ぬほど普通のふりをしているけれど

俺の中にはヨソモノが入りこんでいる

自分のかっこや 派出所や

ここがいったい何処なのか

わからないということが

恐怖して 君に会えない

金もなく 徹底的に一円玉と五円玉が

足の裏についているだけ

この屈じょくを

死ぬほど普通のふりをして耐える

 

 ────死ぬほど普通のふりをしなければ

(80年代初頭、東京のアンダーグラウンド・シーンで異彩を放っていた故・角谷美知夫の宅録音源。他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊

 

腐ってくテレパシーズ

角谷インタビュー

XXXXXXXXXXXXXXXXX

所収:1979年『Jam』特別ゲリラ号

角谷について、「日本のパンクの典型的な魂」という言葉を聞いた。この言葉には問題があるが、彼がこの現代の日本でいわゆるパンクをやるといういささか奇妙なこころみの真面目な負の曲率の極致だということは確かだろう。彼の下宿を訪ねて行くと、そこは表から見ると何気ないアパートだったが、中に入ると、30近くはあると思われる部屋がいびつな空間を形作り、廊下と階段は奇妙な方向を向いていた。そこは江戸川乱歩の小説の舞台を思わせる一方、何故か未来的な感じをおこさせた。ふと目についたある部屋のドアには次のような張り紙があった。

●新聞勧誘、セールスマンお断り。第一、新聞など読むことが出来ません。

この腐ってくテレパシーズ・インタビューは、角谷がお目当のテープをかけようとするのだが、どうしてもワーグナーがかかってしまうところからはじまる

角谷(K):あれ、おかしいな、このテープちょっとおかしいぞ。やっぱりおこりはじめたかなあ。物質の反乱。こういうのって共振みたいにして、緊張してて会話なんかを上手くやろうとするとおきるみたい。

X・BOY(X):物との間に。

K:そう、物と対応するわけ。本なんかの場合もあって、偶然開けた本の中に、あまりにも自分が問題にしていることが書いてあったりするわけ。

X:それはC・ウイルソンも、「オカルト」を書いている間に何度もそういう、「暗号」があったって書いているね。それが単なる妄想だったらわりと簡単なことなんだけど……。ボクも、ものすごく緊張して女の娘と公園を歩いていたら、むこうから来た子供連れの家庭の主婦が突然、「証拠を見つけたぞ」って喋ったのが聞こえてきたことがあるよ。それは女の娘も聞いているの。

K:(角谷の“僕ら糞ったれキリスト”のテープを聞きながら)そんなふうにして、ボクの波動の影響を他人が受けるわけ。だから、もうしかたがないから、どんどんかけていくわけ。

X:ははは、それはスゴイ。

K:それは正常な考えでやるわけだけど、ただ同時に、それが荒廃してきたら自分で制御できないわけ。エロティシズムの領域になってくるから。

X:はは、でもそれは他人も感じるわけ。たとえばさ、自分だけが……

K:みんな知ってる。

X:ああ、他人も知ってるわけか。それは気付いてなくてもいいわけ。

K:気付いていない人は一発で気付く。それはやっぱり困るわけよ。おかしい。腐っている。

X:物との関係ではそういうのないの。

K:ヴィアンの「心臓抜き」読んだ?

X:いや、読んでない。

K:閉鎖しているから、何もおきないから物の配列だけで変えていこうとするんだろうけど、それがなけりゃアナーキズムのような政治形態や宗教形態になるわけ。

X:閉鎖しているから並びかえるっていうのは、全てがこちらを向いているから並びかえて外部におけるっていうか…..閉鎖している状態っていうのは、あまりに並び方が秩序正しいから。自分の配列でもないし、他人の配列でもないし……。

K:でも、秩序正しいのもいいと思う。気持いいしさ。ところが、中年のだささとかにくたらしさとか糞ったれが浮き上ってくるとファシズムになるわけ。だけど、宗教の模型性(?)ていうのがあまりにきつすぎて、俺は宗教には行けなかったわけ。だから、「糞ったれキリスト」。自分自身にそのような妄想があるから。

X:だから、キャンディーズのように、「もう普通になりたい」

K:そう、そういう俗っぽいような、地獄のようなところもあるのね。問題はもう分っているんだけど、動けないんだ。全てを止めて外国に行くか、山にこもるか、「夜のはての旅」のようになしくずしになっていくか。

X:ヒュー(元「アーント・サリー」)とバンドをやる話があるって聞いたけど。

K:それはやりたいと思っている。ヒューってすごく覚めてて頭いいしさ。

X:クールなの。

K:したたか。さっぱりしている。

X:静かな曲はやる気ないの。

K:やる気ある。コードも弾かないような。上手くいえないけど。

X:呼吸とからめたような即興形式はあまり考えない。

K:そういうのはあまりない。むしろイコン。

X:ああ、ヨーロッパ的なんだ。

K:それとアフリカ的なのと。

X:ロックのルーツみたいなところね。

K:そう、やっぱりロックを選びたい。それから逆のところではグルジェフのような。

X:ロバート・フリップは聞いた?

K:昨日聞いたけど、あまり面白くなかった。次のが気になる。

X:でも、日本の場合、ああいう意識的な作り方っていうのはあまりないんじゃないの。

K:ない。(無調的な音階を単音で弾いていく)だめだなあ、いざやると。ポップ・ストックポップ!ストック!

X:何? それ。

K:そういうのがあるんですよ。自分にはポップのストックがいっぱいあるっていうのが。

X:資本主義みたいだね。ポップ資本主義。

K:あ、でもね。結局、ロシアの方がバラ十字のエーテル的なエロティシズムみたいなのが強いという気が最近している。冷えてて、空間的で、無駄がない。ただ、ロシア人ていうのは太っているけど。よく、ロシアの一家庭のイメージが浮ぶわけ。オフォーツクなんかの。

X:ドストエフスキーなんて興味ないの。

K:あるけど今さらって感じもあるし…。

X:そんなこと絶対ないよ。

K:それに、いい本屋がないから。旭屋書店なんて本当にひどいし。

X:どんな本屋が好きなの。

K:昔風の悲しい本屋。ヒューの影響だけど。……………………会話形式みたいになってしまうというか、他者との関係において倫理の封印がどうしても解けない。

X:どういうの、それ。

K:ボクの中の自尊心みたいなのが、究極におもむこうとした時、「結局、オレのいうことは面白くない」って感じになってしまう。

X:そういうのって、オレもよくあるよ。何かいおうとして、「もういいや」っていってしまうの。結果への思考が行為をどもらせるわけよ。

K:サービス精神。その反対が民族的なアストラル体的な、感情のみの……そういうのってバカげているんだ。本当にバカバカしいよ。

X:民族的な血でつながっているかのような?

K:他者の一人一人の問題が、抱えていることとか、いる状態が見えるわけ。

X:その時、まったく分らないやつがいたらすごいだろう?

K:ネガティブなグルみたいな奴。

X:毎日くらしてたって、たいてい分かってしまうわけだろう。サラリーマンにしろウエイトレスにしろ。まったく予想外の動きをする奴なんていないわけだろう。

K:しないからさ、ウエイトレスなんか感情的な目配せなんかできたりするわけよ。だからオレはまた緊張してしまう。「早く出ろ」とかさ。

X:だけどさ、そういう目配せにしたってだいたいの意味は分かるじゃない。「こいつはむさ苦しい奴だ」とかさ。

K:違うんだ、違うんだ。だって、サラリーマンなんかさ、すごく俺に共感を持ってくるんだ。体にさわってくるんだもの。悲しそうにして。

X:それはすごい。恐ろしい。

K:恐ろしいよ。

X:親しみを感じるわけかな。

K:バカなんだ。TVとかラジオなんかで、自分の今の状態をやさしさのヒーローみたいにしてやってたりさ、それが瞬間に偏在的におきちゃう。

X:糞ったれキリストだね。

K:キリストってすごく自己顕示欲の強い奴だと思わない。やさしいんだけど、ドラマにあこがれているわけ、スターなんだよ。

X:エロティックだけどね。

K:ホモセクシュアルの極致。そのへんからロゴスとか出てくるんだけど、あ、ロシアは逆ギリシャなんだ。エーテル体においてギリシャ的な形態をすごく持っている。それからバロックの空間意識。それがさ、ギリシャは暖かいのに較べて、逆に冷えているんだ。

X:そういうのを信仰してしまうとどうなるんだろう。

K:そうね、結局、最先端は銃口だろうな。

X:日本の場合は何だろう。何にもないのかな。昔、『JAM』の編集部にいた、八木さんなんかは、「バラのベッドに菊枕」なんていっているけど。

K:日本の場合はありすぎて、いろんなイメージやメディアや物質の表面をどんどん贖罪にしたり消化しているのだと思う。それが一つの誇りになっているのだと思う。

X:国家精神があらゆるものを象徴化してしまうのかな。

K:ちょっとドグマチックだけど、民の卑俗さがそれを最先端におし出していて、それが骨格を作るのに必要なんだ。残酷だけど、地球は今、そのような隣人愛的な闇に閉されているのを感じるよ。笠井(叡)さんは単にそういう霊界の事実を翻訳したにすぎない。でも、自分が王になるっていうのはどう思う。

X:うーん。ちょっと分んないな。

K:ああ、バカバカしい。

X:自分をコントロールできないっていうか、ある確信なんかが閃いても、現宝的な場面でそれを生きるほど強くはなれないっていうのは感じるけど。

K:自分の回路を開き切れないし、むしろそのやらないってところが誇りになっているから……。いろんな人の失敗が分かるだろう。シュタイナーのなしえなかったこととか、ユングのとかさ。そういうのを考えると、何もできなくなっちゃうというか、畏敬の念がなくなってしまう。

X:だから、それはさ、ある種のないものねだりだと思うけどさ、たとえばひとく抽象的になるけど、永遠なんていうのを信仰できれば、失敗にも納得があるわけでしょう。ところが、永遠は信じ込れないし、かといって社会の中のサラリーマン的な価値を問題にしているわけでもないから。

K:そこのところから冗談と本質のフラギリティが出てくる。最近のパンクを間いていると、そういう問題がいっぱい出てきている。「ヘブン」とか「スージー&バンシーズ」とか。

X:飯くいに行こうか。

K:うん。

二人で出かけた食堂はジャパニーズ・キッチュの極致といったところ。カラオケのテープを置いてあり、私小説文学で頭を腐らせたという感じの店主は、「どちらでもいいじゃないか」主義者にちがいない。ガラス窓ごしにストーンしたかのような中年の主婦やきらびやかな八百屋の店先を見ながら、角谷は話をしてくれた

K:この店、変な外人がくるよ。注文した後、よく歌を唱いだすの。この間なんか、そいつ路上につっ立って、ぶつぶついいながら自動販売機を見つめていた。

この間、井の頭公園でホモのオマワリに尋問されてキモチ悪かったよ。

X:えっ、ホモのオマワリ。荒々しい感じじゃなくて? オカマっぽいの。

K:そう、オカマっぽいの。でも、でっかくてさ。暗がりから懐中電燈でこっちを照らしながら近づいてくるの。

X:待ちぶせしてたのかなあ。

K:それで駅までついてくるの。急いで電車に飛び乗って振り切ったよ。

X:よくそういうのに会うね。

K:このあたりも変なの多いよ。この間なんか、近所の鉄鋼所でワーグナーを大音響でかけていた。

食事の後、新宿に出て、喫茶店に入る。注文をするとすぐ、隣のテーブルにコンパ帰りらしき大学生の一団がなだれ込んで来る

────てめえうるさいよこの野郎。

K:喧嘩だ。喧嘩だ。糞ったれ。気どりやがって、糞。

X:どんなコンサートをやりたい。

K:この間は、緊張して前に出れなくて、かえってそういうところがうけちゃったけど。

X:角谷はどちらかというと、毅然とやりたい方じゃないの。

K:毅然というか、めちゃくちゃ踊り狂ってやりたいけどね。それから、マースみたいに割れたサングラスに黄色い光をつけるとかさ。原始時代の混棒があるじゃない。

X:えっ?

K:石の棒で先が太くなっていてギザギザがいっぱいついたやつ。あんなので頭蓋骨をボクッとかガキッとか殴っていくわけ。ちょっと前に考えていたのは、握りがゴムの赤いハンマーとかね。

X:山手線の電車の中で、懐から突然力ナズチを取りだして、隣に坐ってた奴の頭をぶんなぐって殺した奴がいたけどね。

K:だから、よっぽど腹がたってたんだよ。

────人間は人間なんだよ、お前な

X:原始人みたい。

K:だけど、原始人はあんなに喋らないよ。東京の奴ってさ、結局、恥を内側に持ってて、いきがって喋っている。

バンドでやりたいのは痙レン。それに、粒子的な音のいらいらしたロックンロール。

X:粒子的って?

K:原子のドアを開いてね……うーん、開くっていうのはあまり好きじゃなくて、むしろ閉鎖した内側での電子の放電。

────人間なんていうのはな、学年じゃないんだ。人間性なんだよ。

K:気狂い。臭い。

茶店を出た後、ピカデリーで「さらば青春の光」を見、再び下宿に帰ってくる

K:ここはいろんな音が入るんだ。TVとか自衛隊の無線とかね。すごい時には、自衛隊のヘリからのやつが五分おきに入ってくるの。信じられないくらい、すごく飛んでいるよ。

X:西武池袋線江古田駅の踏み切りのわきにビデオ・テレビがあってね。そこの二階にカラオケ・スナックがあって、客が歌っているところをビデオで表に映しだしているわけなんだけど、夕方時のまだ何もやっていないんだけどスイッチだけは入っている時の画面がとてもきれいなんだ。様々な色の粒子が飛びかっていて、それが電車がわきを通るたびに変化をおこすんだ。

K:俺の場合は、そんな音の粒子をキャッチして、それをどんどんミックスダウンしていくわけ。

X:J・ケージのパーフォーマンスにそんなのがあるけど、あれは他人のやっているのを聞くより、自分でやった方がずっと面白いね。

K:低周波っぽい音になっていくみたい。

X:低周波といえば、あの装置をはじめて作ったやつが、どんな効果があるのか実験したら、内臓破裂かなんかで、あっという間に実験だいになったやつは死んじゃったらしいね。

K:ひでえ話だ。(文責・隅田川乱一

 

●ズルイロボット

ボクはズルイロボット

ボクはズルイロボット

ボクはズルイ素質が充分だから

ズルイロボットになりたい

ズルイ人間のズルイ精子がズルイ仲間を追いこしてボクができた

ボクの中でズルガシコイ光が炸裂する

ボクはズルイロボットになりたい

カガヤクマーケットの中でカガヤクツメタイズルイロボットに人間を追いこして

…………………

…………………

…………………

ボクはズルイ

 

●便所

みんなが彼のことを便所って呼ぶぜ

疑似感情

彼は便所でハーケンクロイツと菊の御紋章がつがっているのを見た

疑似感情

彼、腐ったガーゼみたいに生きるのさ

彼には何もかもそれですんじゃうのさ

疑似感情

彼には自殺なんて思いもつかないのか

彼は光の便所に入ってったのさ

壁に一列に並ばされて彼の一生は仲間と小便すること

 

●銀の幼稚園

ぼろぼろの銀の幼稚園に入園する

オレたちの中の犬

ふにゃふにゃした生物のヘルニアが俺たちを慰め隠す

 

俺のふるいふるい地下の貯水槽

 

体がだるい

不安にかられて習慣の眠りにおちる

俺自身の深いかかわりが眠りこける

子供はマスターベーションに夢中で

親指を吸い爪を噛み

お寝小をする

俺は解放されたかった

銀の幼稚園で

 

 

山崎春美談「角谷のシ」

俺 なんにも信じない

俺 信じる

ガチガチに凍ればいいのに

あたらしい天体 天体 天体

ナチスなんか 気にするやつはばかみたい

両方の意味なんか 死ねばいい

すごくあたたかい空 氷 水 氷ひょうのう

俺はなにも信じない すてき

神社の奥のバラバラマネキン

こんにちは を してます

カチャカチャ格闘している

つめたいあくしゅ をしてます

倫理の方眼紙が 死んで狂うのさ

この詩を書いた角谷美知夫は、現在19歳。田中トシと共に“オッド・ジョン” その後“腐ってくテレパシーズ”などのバンドを、短期間ずつやった事がある。通称、カド。今は田合へ帰って、脳病院で検査を受けている。分裂熱の初期と思われる被害妄想ががひどくて、道ですれちがった女の子に「ふん!」で鼻で笑われたとか、アパートの隣の住人が角谷を崇拝して、毎日壁の穴から覗いてるとか。そういえば彼の部屋には、灰皿に溜まった吸殻の山が、無造作に畳の上に捨てられてあった。

演奏は、延々と続くギター・リフの合間に、彼が歌おうとして何かに阻まれ、躊躇したあげくに中断する、といったものが多い。一時はヒューと一緒に演る話もあった。歌詞としてはこの外に、「ズルイ人間のズルイ精子がズルイ仲間を追いこしてボクができた/ボクはズルイロボットになりたい/カガヤクマーケットの中でカガヤクツメタイズルイロットに/人間を追いこして」とか「彼には自殺なんて思いもつかないのか/彼は光の便所に入ってったのさ/壁に一列に並ばされて/彼の一生は仲間と小便すること」などがあるが、実際にステージでは聞きとれない。

『宝島』1980年10月号掲載吉祥寺マイナーのはみ出し者(パンクス)たち」から抜粋(山崎春美著『天國のをりものが』収録

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それで、休刊後に山崎さん、『ロックマガジン』や『フールズ・メイト』で同じ『HEAVEN』ってタイトルで雑誌内雑誌やってるでしょう。香山リカさん*1野々村文宏さん*2祖父江慎さん*3なんかと一緒に。

 

山崎 祖父江慎は一時期、結核かかったっけ? 多いって結核高杉弾さんも結核になったって。高杉さんは病気を売り物にしてたから。

 

───高杉さん、糖尿病もそうでしょ。

 

山崎 いつ死んでもおかしくないとか書いてたね。結核は栄養とらなきゃならないし、糖尿は栄養とっちゃ……。そういえば群雄に出入りしてたカメラマンで、殺されちゃったのいますよ。市川の一家四人殺し事件で。

 

───市川の?

 

山崎 そう。どの死に方もまっとうじゃない。それで、僕が唯一、全然(話が)できないのは、篠崎さん(ロリータ順子)とかね。全然だめなのね、それは、どう考えても。

 

───まあ篠崎さんに関してはそうでしょうね。

 

山崎 だから(『Jam』『HEAVEN』にまつわる)ミュージシャン関係の取材は全部僕に集中するかもしれないけど。この『Jam』に載った“ 腐ってくテレパシーズの角谷(美知夫)の記事*4、書いたのは美沢さんだけど、まあ、僕にも多少責任あるんだけど。彼の「シ」*5は、あの頃一番強烈だった。僕が『Jam』に書いた小説に挿絵も描いてもらったんだ。

 

───亡くなったというのは、自殺ですか。

 

山崎 たとえば飲みすぎとか、そんな。

 

───アルコール?

 

山崎 違う違う。リン酸ジヒドロコデイン。僕もちょっとやったけど、あの人、全然(身体のこと)気にしてないの。彼の「シ」って異常だもん。精神科医の松本助六と話してた時に、いろんな変わったミュージシャンの話とかしてたんだけど、僕が角谷の話題ふったら、助六が「それは脈絡が違う」と。「僕は境界例の話をしてるんであって、あれは分裂病」みたいな話になったことはあるけど。

だけど、そういう人間を(『Jam』で)もてはやしたりスクープしたわけだから。その後、僕が追い討ちかけるようなことしたのは、吉祥寺マイナーの記事書いてくれって言われて、マイナーに出入りするミュージシャンの話を『宝島』で)書いて、その中で一番反響が多かったのが、彼のシ。凄かったから。読者の共感の仕方が

角谷って、お坊ちゃんでしょ。相当裕福な。だから、何が不満だったのか、典型的な例だと思うのね。それが中央線の四畳半で暮らしててさ。ファッションも、すごい変わってるでしょ。坊ちゃんから始まって、生活の条件すべて満たしてるのに、それなのに……。

 

───うん、わかります。

 

山崎 それで、僕が『ロックマガジン』とかで“アフター・ヘヴン”やったのも、アフター・ケアのアフターなのね。

 

───ああ……。

 

山崎 ひとつはね。だって、角谷に1ページ、篠崎さんに1ページとか。やったことあるし。

 

───いわゆる他誌での“アフター・ヘヴン”、“山崎ヘヴン”は、何回やられたんですか。

 

山崎 『ロックマガジン』で3回、あと、『フールズメイト』でも。『ロックマガジン』のやつは、羽良多さんのロゴ、ヘヴンのロゴをそのまま使ってるからね。……ちょっと待って。今テレビのニュースで……。

 

───(テレビ画面を見て)え? 酒鬼薔薇聖斗が捕まった?*6(インタビュー中断。一同、画面に目をやり、テロップを見て仰天する)

 

山崎 え? 14歳……。

 

─── 14歳!

 

山崎 14? へぇ……(そのまま酒鬼薔薇の話題にもつれこみ、インタビュー終了)

 

所収『Quick Japan』Vol.16(構成:竹熊健太郎

 

「彼が死んでしまった結果として、人は彼を、そんな自分の生き方を貫いた人として見るかもしれない。でも、人間は誰も、なにかを貫くことなどできはしない。どこにも至れない思いを常に抱えながら、生きてゆくしかない。そのことは、彼自身よく知っていた。だから、終わりたいというような言い方を万一したとしても、死にたいという直接的なことばを使ったことは最後までなかった……」

(ライナーノーツに寄せられた東玲子の文章の一節)

http://www.asahi-net.or.jp/~uh5a-kbys/discj/kadotani.htm

*1:香山リカ

精神科医。山崎版『アフター・ヘヴン』にもライターとして参加。香山リカ命名山崎春美によるもの。

*2:野々村文宏

後期『HEAVEN』に参加後、雑誌『ログイン』を経て80年代中盤の新人類ブームの担い手に。現在はヴァーチャル・リアリティ、マルチメディアのコンサルタントとして活躍。

*3:祖父江慎

多摩美マン研、工作舎を経てグラフィック・デザイナーとして活躍。『遊』や山崎版『HEAVEN』ではマンガも描いていた。

*4:角谷の記事

『Jam』の最終号というのは実は二つあって、その実質ラスト号に載った「角谷インタビュー」は、高円寺周辺の若者に「パンクの魂」として伝説視させたものだ。この意味不明なフレーズが彼を死にかりたてたのかもしれない。

*5:角谷の「シ」

ここの文章、いささか分かりにくい理由は竹熊とテープ起こし人が二人とも「詩」と「死」を取り違えていたため。しかし、角谷氏が死んだことは事実であり、なんとなく意味が通じてしまうのがコワイ。

*6:酒鬼薔薇聖斗

このインタビューが行れた1997年6月28日は、偶然にも酒鬼薔薇が逮捕された日だった。

エロ雑誌とオナニーと私―今をときめく天才編集者のエロ本原風景(青山正明)

エロ雑誌とオナニーと私

今をときめく天才編集者のエロ本原風景

青山正明

3度の飯よりオナニーが好きな私なのに、1日2回のオナニーしかできない寂しさよ…。いきなりダウンな出だしで恐縮だが、小学校5年生の夏の精通から数えて今年で26年、実に四半世紀以上にわたって毎日毎日オナニーし続けてきたこの私も、齢30の半ばを超えたあたりから、1日2回はどうにかイケるが、3回の射精は困難という状態に陥ってきた。ああ、寄る年波とは、げに恐ろしきものである。

オナニーを覚えたての当時は、『11PM』をはじめとする深夜番組には随分お世話になったし、‘80年前後、ビデオのハード&ソフトの普及以降は、いわゆるエロビデオも重要なマス材(ネタ)として数えきれないほど使用させていただいた。が、今日に至るまでなお、私のオナニーおいて欠くことのできない最重要のマテリアルは、ポルノグラフィーの類、いわゆるエロ本である。

 

ゴミをチェックしてエロ本を収穫

ここで言うエロ本も細かく分ければ、エロ雑誌、市販のエロ写真集、ウラ本、海外のポルノグラフィー等に大別されるが、私がベッドなり床なりにゴロッと横になった姿勢で陰茎をしごいて気持ち良く射精する際に活用してきたものは、これはあまねくエロ写真である。

世の中には少なからずいるようだが、私は文章や漫画では決してヌケない。したがって、ことエロ雑誌に限って言えばエロ写真さえ充実していればそれでいい、というのが私の持論であり、それ以外の要素として認められるのは、より豊かなオナニーへと導く道しるべ、要するにポルノグラフィーやエロビデオのカタログ紹介と、風俗情報のみと断言したい。

あっ馬鹿らしいので詳しい説明は割愛させていただくが、風俗遊びもセックスも、私にとってはオナニーの延長線上と言うか、オナニーのサブジャンルに過ぎないのである

今ではもうやっていないが、カネのない小、中学生の時分は、エロ本収集はほとんどゴミ拾いに頼っていた。ゴミが出される曜日は早起きして、近所を回って結束された雑誌を目にする度に、ひとつひとつ丹念に確認していき、発見したエロ雑誌を引き抜き、手にしたショッピングバッグに収めていった。「収穫祭」は当日の夜のお楽しみである。今宵のオナニーのことを考え、目眩を覚えるほどの劣情にかき立てられつつ学校から帰ると、その日の早朝に拾ったエロ雑誌をひもとき、股間にピンとくる写真があると、そのページをカッターで切り取って、ファイリングしていった。切抜きも100枚、200枚と溜ってくると、自然な流れで巨乳編、お尻の大きな女編、可愛い少女編等々、独自のテーマごとに分別して保存するようになっていった。

また、そうやって集めた雑誌の広告記事にも着目、「私の恥ずかしい写真密送します。切手500円分同封して下さい」といったものを片っ端からチェック、親の引出しから切手をガメて、バンバン注文しまくった。

そうこうしているうちに、あれは‘74年、中学2年の春、海外から一通のエアメイルが届いた。差出人はデンマークコペンハーゲンスカンジナビアン・ダイレクト・メイル。

開封してみると、中に入っていたのはオールカラーの豪華ポルノグラフィ・カタログで、ごくフツーの丸見え写真集に加え、スカトロもの、妊婦もの、黒人男性と白人女性の異人種姦もの、そしてチャイルド・ポルノ等々、ありとあらゆるポルノがジャンルごとに整理され、オマンコやオチンコ、肛門丸出しの写真に彩られた表紙がしめて100余掲載されていたのだった。

裏本が一般に流通し始める‘80年ぐらいまで、つまり高校を卒業する頃まで、私は、幾度もの税関での破棄処分通達にもめげず、お年玉を貰うたびに、その全てを投入して上記のSDM社に、様々なポルノグラフィを注文し続けた。そして、毎日毎日、最低2回、多い日には8回ものオナニー三昧の日々を過ごしたのである。

 

両親の見ている前でコレクションを焼かれる(涙)

今思い返せば、SDM社からのカタログが届いた中2の春から大学生になって、膣を使ったオナニーに耽けるようになるまでのおよそ5年の間は、誠に充実した毎日であった。第1次オナニー黄金期とでも称せようか。

が、楽あれば苦あり(逆か?)、陰陽の法則と言おうか、電脳時代の今なら0/1交互理論と言おうか、どのオナニーも心に残る楽しいものばかりというわけではなかった。

コレクションが親に見つかってしまい、両親の見ている前で、庭で全てを焼くことを強要され、涙したこともあった。また、とある事情で、隣に住む新妻から私の母へと苦情が舞込んだこともあった。

前述したように、当時の私は一晩に少なくとも2回は射精しており、その精液をぬぐったティッシュは自室のゴミ箱に捨てていたのであるが、いや、匂いが実にキツイのである。あの、何とも表現しがたいすえた精液臭が、自分の部屋ばかりか、家中にたちこめ、とてつもなく恥ずかしい状況になってしまったのだ。

これはイカン、親にバレる。まあ、今となっては可愛いもんだが、思い悩んだ私は、何をとち狂ったか、精液を拭き取ったティッシュを丸め、それを2階の自室の窓から、平屋だった隣の家の屋根の上にポンポンと捨てていった。そうして半年もたった頃、件の新妻の苦情が発生したのである。

雨樋から水がボテボテ滴ってきて、窓がビショビショになった。調べてみると、雨樋にはティッュがびっしりだった。これはおたくのお子さんの仕業に違いない──。

苦情の内容は右のようなものだったらしい。対応したのは母で、そんな報告だけを聞かされた私は、それらのティッシュが私の性欲処理に供せられていたものか否か等、ことの詳細を巡る会話が母と隣家の新妻との間で交わされたどうかはわからない。

ちなみに、その一件以来、20数年間、使用後のティッシュは、水洗トイレに流すようにしているが、トィレの排水管が詰まったことは2年前の1回のみである。

他にも、オナニーにまつわる失敗談は数えきれないほどある。

中3の身体検査のとき、「キミの身体は右半分に比べ腕も胸も左だけが異様に発達している。キミは左利きでテニスでもやっているのか?」そう担当医に言われた私だが、スポーツ等これっぽっちもやっておらず、心当りはなかった。

その晩、鏡の前にたって身体を映してみると、確かに左肩、そして左の胸筋が右よりも大きく迫り出しており、腕は太いばかりか、左の方が長かった。

ふと、そこで思い浮かんだのが、日課としてきたオナニーである。私は右利きなのだが、なぜかオナニーと糞をした後の肛門拭きだけは左手で行うクセがついていた。そう、毎日毎日、左腕だけを使ってオナニーを続けた挙げ句、左半身だけがいびつに発達してしまったのである。

その日以来、私は努めて、今日は左手、明日は右手と、左右交互に腕を使ってオナニーをするよう心掛けるようになった。この習慣は未だに続けている。

成人してからの失敗談と言えば、前の女房にはオナニー現場を10回以上も目撃され、あれは‘92年の春だったか、離婚直前、夫婦の関係が冷えきっていたこともあり、最後に彼女にオナニー現場を見つかったときは、それはひどい怒りようで、いきなりオナニーしている背後から無言のまま背中に蹴りを入れられ、彼女は家を出ていって、そのまま帰らぬ人となった。

あの時は、ダイニングルームのテーブルの下で、コレクションの巨乳編を床一面に広げ、極上のマリファナを吸いながらたいへん気持ち良くオナニーしていたと記憶している。フィニッシュまで持っていけなかったことは今もって残念でならない。

単なる自分の手指でのしごきに飽き、色々な複合技を模索した時期もあった。高校生のときだったか、扇風機の羽を束ねた中心部分に亀頭を押しつけ、気持ち良くなろうとしたのだが、そこはスベスベした金属製で摩擦率が低く、ちっとも刺激が得られない。

そこで、その部分にガーゼを貼付けてスイッチオン、グイッと亀頭を押しつけたものの、今度はあまりに摩擦がキツすぎ、私の亀頭粘膜は擦り切れて血まみれになってしまった。また、あれは大学を卒業してすぐの‘83年の夏、当時勤務していたコンピュータソフトの開発会社のトイレで、排便の快感と射精の快感を一時に味わってみたいと、ふと思い、しゃがみ込んで、オナニーを始め、脱糞のタイミングに合せて射精したことがあった。

が、射精した瞬間に肛門がギュッと締り、硬めのウンコであったにもかかわらず、ウンコは千切れて、射精&脱糞の快感は得られなかった。

後にピンクローターを購入、これならば肛門括約筋ごときで千切れる心配はなく、振動させ、それを出し入れしつつ、射精と疑似排便とのダブルの快感を堪能することができた。

こうした複合技を行うときも、もちろん私の傍らに常に、エロ雑誌の切抜きコレクションが広げられていた。

 

ドラッグとオナニーの関係

さて、複合技と言えば、セックスに媚薬がつきものなように、オナニーもまた、薬物の力を借りて行うと、快感は倍どころかケタ違いにアップする。

中でも一番のお薦めは、やはりマリファナ大麻)、ハッシシ(大麻樹脂)である。昨今、1,500円前後で手軽に誰でも手に入るようになったラッシュの類(プチルニトライト)を嗅いだり、カメラレンズの洗浄用のフロンガスをビニールの袋に吹き入れて、アンパン(トルエン)をやる要領で、吸い込む。

と、このふたつは、射精の瞬間に用いれば、かなりのインパクトで性感を高めてくれる。しかし、実際、合法的に手に入れるもので、マリファナ・レベルでの快感をもたらしてくれる物は存在しない。ここ数年流行りのハーバル・エクスタシーやら、クラウド9、ラプチャー等のリーガル・スタッフも、カバカバ、ヨヒンベ、ゴツコーラといった生薬等も、全然及びじゃあない。

勃起機能の刺激回復薬として唯一日本で認可されている塩酸ヨヒンビンでさえ、それほどの効き目は期待できない。吐き気や幻覚等、多々問題はあるにせよ、いわゆる幻覚性成分シロシン、シロシビンを含んだキノコ、すなわちマジックマッシュルーム以外、合法的なもので、しっかりと媚薬の役割を果たすものはこの世には存在しない。これは、紛う方なき真実である。

マリファナを喫煙してのオナニーは、筆舌に尽くしがたいほど気持ちがいい。また、これに並ぶスタッフとして挙げられるのが、かのティモシー・リアリーが‘67年、米プレイボーイ誌で「最高の媚薬」と喧伝したLSDである。これを服用してのオナニーも、いやはや、まさに「終わりなき性感マッサージ」といったアンバイで、一度体験すると、病みつきになること間違いなし。

ただし、男性の快感、すなわち勃起~射精のメカニズムは交感神経と福交感神経の絶妙なチームワークによって成り立っており、LSDを使用するとチンポは勃ちっ放しで凄まじい快感が2~4時間も続くのだが、なかなか射精には至らない。

ただ、この欠点はセックス使用に限って問題になるのであり、「オマンコ痛い」等という苦情が一切出ないオナニーにあっては、射精時間の延長は喜ばしい限りである。

セックス・ドラッグもとへ、オナニー・ドラッグとして皆さんがパッと思いつくのは覚醒剤やコカインだろうが、これもLSDと同じく、勃起はするが射精せず。また長期使用に陥りやすく、たどり着くのは悲しみのインボテンツ。マリファナLSDはお薦めできるが、こと性感増大使用に関して言えば、シャブやコカインには手を出さない方がいい。

アルコールや睡眠薬といったダウナー(抑制剤)も少量の使用なら、性感を高め、心地よい射精を得ることができるが、オーバードーズするとチンポが萎えてしまうのであまりお薦めはできない。

ダウナーの王様、ヘロインはまったくダメ。用いたその瞬間から、まったく使いものにならなくなってしまう。あと、シンナー(トルエン)もダウナー故、オナニー使用には向かない。しかしながら、チンポはフニャフニャなれど、何故か快感は残るので、長時間無射精オナニーにトライしたい方は、シンナー使用もありだろう。

参考までに、大学生の頃、一時シンナーにハマッていた私は、同棲していた女が外泊したときに、純トル(純度の高いシンナー)・オナニーに挑戦した。

結果は、夜の11時から翌朝の8時まで9時間もただただフニャチンをいじくり回して、射精せずじまい。自分史に残る、耐久マラソンオナニーとなったが、まあそれなりに気持ちは良かった。

 

スマートドラッグで挑戦

‘95年に大麻取締法に引っかかって逮捕されてしまったこともあり、現在、私はイリーガル・スタッフを用いてのオナニーは行っていない。正直、非常に寂しいのだが、それを潮に、「合法モノで、イケるのはないか」という探求心に拍車がかかり、また冒頭に述べたように30代半ばを過ぎて、「良い勃ち、良いネタ(エロ写真&薬物)、良い射精」が叶わなくなってきたという悲しい身体の老朽化を打破する、よい機会になった。

抜本的な精力の回復、つまり回春。それが、四半世紀を超えてオナニーを続けてきた現在の私のテーマである。中高生のときは、気に入ったエロ写真さえあれば、いつでもどこでも思う存分サッパリ抜くことができた。

あの当時のパワーさえ取り戻せば、非合法的な薬物など必要ないわけだし、また幸いなことに、現在の女房は日課とも言える私のオナニーに理解を示してくれている。

ガキの頃の第1次オナニー黄金期、そして20代半ば、マリファナ&LSDを用いての第2次オナニー黄金期に次いで、私は現在、1日2回の射精がせいぜいではあるが、第3次オナニー黄金期と言える状況にある。

決め手は、ミネラル、アミノ酸、そしてホルモン剤をメインとするスマートドラッグだ。

亜鉛とセレニウムのふたつのミネラルを、角50mg、50マイクロg毎日摂取。それに加え、4種のアミノ酸を空腹時にコップ一杯のジュースと共に飲む。具体的にはDL-フェニルアラニン1000mgを1日3回(計3000mm)、L-フェニルアラニン1000mgを1日2回、そしてL-グルタミン1000mgを1日2回、チロジン5000円mg1日2回。それらに加えて、一昨年あたりから話題になった生体時計を司る体内ホルモンの首領、メラトニンを就寝前に服用、あと抗欝作用のあるDMAEという物質を1日400mg、男性ホルモンの前駆物質DHEAを1日300mg摂る。

日本で市販されているホルモン剤は、テストステロン等のもろホルモンで、直接摂取すると結局は体內で自力でホルモンを作り出す能力が損なわれ、元も子もなくなってしまう。

だが、DHEAやプログネノロンといった前駆物質、つまり男性ホルモンの材料を摂取して、それが体内でホルモンに生化合されていくというプロセスを採れば、そんな心配はなく、めきめき性欲は高まり、精液は濃くなる。

ミネラル&アミノ酸&スマートドラッグのトリプル・パワーの恩恵を受けて、1日2回のオナニーペースを維持、満喫している現在、巨乳好きの私は『バチェラー』(ダイアプレス)や『Dカップ・ジャパン』(蒼竜社)、等身大の裸体ポスターが付いている『GOKUH』(バウハウス)や『Bejeon』(英知出版)を毎日購入して相も変わらず切取り収集作業を続けている。

さすがに理解あるとはいえ、女房の目の前でオナニーはしないが、見つかっても、「あっ、邪魔してゴメン」の女房の一言で片づくから、家中どの部屋でも、何時でも思いっきりオナニーに没頭することができるので幸せだ。

ついでに言えば中央から左右別々のバッグで仕切られ、オナニーしても振動が寝ている女房には伝わらない、とても便利なWジェルベッド(サンヨー製)を購入したので、エロ雑誌の切取りを見つつ、時折女房の身体に触れながら独り射精するという、夢のようなオナニーも可能となった。

そうだ。今晩は川口湖のレイヴに行って女房は帰ってこないし、原稿ももう書き終わる。(ここで一時原稿書き中断)そう思って、切れた煙草を買いに近くのコンビニに行き、図らずも『アクションカメラ』(ワニマガジン社)12月号と『ザ・ベストマガジン』(KKベストセラーズ)12月号を購入、前者に掲載されていた望月もも嬢の2ページ目のグラビア(使いこんだ感の漂う巨乳がいい)と、後者の180ページに掲載された風俗店『アンフィニ』の沢田ルミ嬢の美乳で、たっぷりと時間をかけて2発連続射精を遂げた。

うん、やはり2発が限度か…。まっとりあえず原稿書きはおしまい。仕事とオナニーですっかり体力を消耗し、眠剤メラトニンと精液を濃くする3種のアミノ酸──アルギニン・オルニチン・リジン各1000mgをかっ食らって床に就く、“初老(40歳)”まであと3年、37歳の私であった…。

付記ながら、膣をオナニーに用いるとき女の濡れが激しくノレンに腕押し状態になったら、迷わずチンポを引き抜いてタオルで拭き、ついでにそれを棒状にして膣に突っ込んでよく拭き取ってから再開するといい。

また膣の具合いが悪く、どうにも亀頭への刺激がぬるい女の場合には、女を横向きにして、向い合った体勢でチンポを挿入、手で女の腰部を上から押えつけると、膣の締まりがよくなるので覚えておくといい。

初出:ワニマガジン社『エロ本のほん』1997年12月(絶版)

 

世間に衝撃を与えた青山正明氏編集の『危ない1号』

三流エロ雑誌の黄金時代(ガロ 1993年9月号 特集)

特集 三流エロ雑誌の黄金時代

月刊漫画ガロ 1993年9月号

ガロの読者に馴染みの深い作家達のほとんどが、一度や二度はエロ劇画誌に作品を発表したことがあるのではないだろうか。三大エロ劇画誌でいうと『漫画エロジェニカ』では川崎ゆきおが連載を持っていたし、『漫画大快楽』ではひさうちみちお平口広美、オージ、アベシンなどが描いていた。『大快楽』の後を受けて『ピラニア』『カルメン』が創刊されると、エビス、マディ、イワモトケンチ、丸尾末広、杉作獣(J)太郎なども執筆陣に加わった。『大快楽』はもともとアブノーマル系の作品が多かったが、それがガロ系作家起用の一因か? 他の執筆陣は土屋慎吾あがた有為羽中ルイ能條純一、前田寿安など。この頃、ガロの誌面にやたらセックスシーンが多くなったことがあったが、やはり三流劇画誌の影響だろうか。『ピラニア』もやはり変態っぽい作品が主流。『カルメン』は青春マンガ系が主だった。

 

鼎談/高杉弾末井昭南伸坊「素人はバクハツだ!!」

全てはエロ雑誌から始まった!!

画期的な雑誌りで次々と話題をふりまく末井氏

アングラ誌の草分け的存在の高杉氏

そして70年代『ガロ』編集長をつとめた南氏の三快人がくりひろげる大爆笑鼎談!!



いきなり編集長?

──まず、お二人が手掛けた雑誌は当時とても話題になり、その後、いろいろな方面に影響を与えていましたが、あの頃のはどんな状況の中で雑誌を作られていたのでしょうか。

 

末井:それは自動販売機を抜きには語れないんじゃないですかね。自販機本なんかはよくお手本にしてましたよ。

 

高杉:末井さんの『ウイークエンドスーパー』は取り次ぎ本だったけれど、僕がやっていた『Jam』や『HEAVEN』は自販機で売っていましたし。

 

末井:自販機がなきゃ高杉さんみたいな悪どい商売はできませんでしたよ(笑)。だってへんな記事をエロ本に入れていたでしょ。これ書店だったら売れませんよ。

 

高杉:分からないで買った人は自販機を蹴っ飛ばしてた(笑)。

 

──高杉さんはどういう切っ掛けて編集を始めたんですか。

 

高杉:知り合いに八木眞一郎っていうやつがいてね、彼がへんなパロディ雑誌をやっていたのでそれを手伝ったのが最初なんですよ。でもすぐに潰れちゃって、学校もやめちゃったししょうがないからブラブラしていたら、ある日ゴミ捨て場に捨ててあったエロ本を、全部拾って持ち帰って、見てたらその中に普通のエロ本とは違う、ちょっとヘンな雑誌に目が止まってね。ヒマだったもんでその編集部に遊びに行ったんですよ。そこがエルシー企画という所だったんです。

 

──『Jam』の発売元ですよね。

高杉:そうですね。それで『悦楽超特急』という雑誌の編集の人(=佐山哲郎:引用者注)に「じゃ、とりあえず8頁だけやってみない?」って言われてやったのが「Xランド」なんですよ。でも編集のこととかまったくわからないから、切り抜き写真なんて、ホントにハサミで切り抜いてましたね(笑)。でもその企画がウケて、「じゃ、一冊丸ごとやってみないか」ということで作ったのが、『Xマガジン』だったんです。まったくの素人だったんですけどね(笑)。

 

──『Jam』の前身となったものですね。

 

高杉:ええ、それからすぐに『Jam』になったんですよ。南(雑誌を見ながら)この“原爆オナニー大会”っていいね(笑)。結構編集してんじゃない、ちゃんと(笑)。

 

末井:山口百恵のゴミ大公開は? あれ凄かったですよね。

 

高杉:『Jam』の創刊号ですよ。

 

末井:でもこれ、エグイね。使用済みナプキン(笑)、これやらせっていうのはないんですか(大爆笑)。

 

南:キャプションがいいよね。“高一のときの生物のテストの67点”だって(笑)この“ストッキングの包み紙・妹のだろう”って決めつけてるのは?(笑)。

 

高杉:この時は二回行って拾ってきたんですが、一応車のなかで本当に百恵ちゃんの家のゴミか確かめるんだけれど、もうすっごいクサイんですよ(笑)。

 

南:あとこの奇怪なファンレター、っていうのもいいね。ちゃんと活字に起こしている……。完全にイッちゃってるねこの文章。この企画はもう犯罪だね。傑作だよこれは(笑)。

 

末井:この企画は山口百恵だけ?

 

高杉:いえ、『Xマガジン』でかたせ梨乃をやってます。そっちはほとんど話題にならなかったけど(笑)。

 

末井:どうして一回目がかたせ梨乃だったんですか?

 

高杉:それが、かたせ梨乃の住所しか知らなかったの(大爆笑)。ただそれだけ。

 

末井:でもこれ単行本にしたら売れますよ(笑)有名人五十人くらいやってね。

 

高杉:百恵ちゃんをやった時は週刊誌なんかが取材に来ましたね。でも相手は一応取材だから丁寧な口調なんだけれど、もう完全に非難している(笑)。「そんなことしてて良心が痛みませんか」なんていうんですよ(笑)。

 

──『Jam』はどのくらい売れていたんですか?

 

高杉:1万くらいかなあ。自販機本だから表紙が勝負なんですね。表紙しか見られないから。だからヒドイ時には業者の人が表紙をめくっちゃってエロッぽいグラビアを表にして入れてたりしてたんですよ。凄いことするなって思った(笑)

 

末井:表紙が二つあるのもあったね。一枚目はおとなし目で書店用、捲るとまた凄い表紙があってそれが自販機用(笑)。

 

──あの頃はそういう面白い悪知恵ってたくさんありましたよね。

 

末井:うちの社長は凄いですよ。「本を切る」って言うの。

 

──えっ? 切るっていうと…。

 

末井:僕がデザインをしてたんですけれど「末井さんね、本を半分に切るから、そういうふうにレイアウトしてくれ」っていうわけ(笑)。A4の雑誌を半分に切ればA5が2冊できる、だから計3冊できるわけですよ(大爆笑)。

 

南:自由な発想だよなァ(笑)。

 

末井:結局ね、高杉さんも僕もいきなり編集長なわけですよ。「やれ」って言われてね。だから好き勝手と言ってもみんなそれなりに試行錯誤している。で、それがメチャクチャになって行くんですよね。だから編集を十年もやっている人が始めると、こういうふうにはならないんですよ。

 

南:そう、プロは自分勝手しちゃいけないって思っちゃうからね。

 

──じゃ、入っていきなり編集長になってしまうんですね。

 

末井:いきなりも何も一人しかいないですから(大爆笑)。あとね、あの頃はエロ本が作りやすかった、っていうのもあってね。ヌードが入っていればそこそこ売れていたからあとは何をやってもよかったんですよ

 

南:長井さんが終戦直後やってたカストリ雑誌みたいなもんだね(笑)。

 

ガロの作家は安かった!

──お二人の雑誌にはガロ系の作家の方々も随分執筆していましたが……。

 

末井:ガロの作家は安いから(笑)。まあ、ガロが好きだったということもあるんですよね。僕、ガロに投書して載ったことあるんですよ(笑)。

 

高杉:僕も投稿してましたよ。定期購読もしてた(笑)。単行本が出ると直接買いにいったしね。長井さんが風呂敷に包んでくれるのが嬉しくってさ(笑)。

 

末井:僕は恐れ多くて買いには行かなかったけれど、昔のガロも持ってますよ。高く売れるかな(笑)。

 

高杉:ガロには絵がいい人が一杯いたよね。でもストーリーはよく分からないような感じがしたけれど(笑)。

 

末井:でもその分からないのが良かったね。僕はつげ義春さんや林静一さんが好きだったんですけれど、林さんなんか話は分からなくても凄く懐かしいような、情緒があるんですよ。

 

高杉:南さんが編集してたころはなんかモダンな感じでしたよね。

 

末井:糸井さんなんかも入ってきたし。

 

高杉:湯村さんのインパクトは凄かったですねえ。僕は湯村さんが大好きで『HEAVEN』で4色の漫画をやった時まず湯村さんのところに行ったんですよ。最初『ねじ式』をカラーてやりたい、っていうのがあったんだけれど、湯村さんに相談したら湯村さんはエビスさんの大ファンだったもんで「じゃ、まずエピスさんから行きましょう」ってなったんだ。

 

──それが『忘れられた人々』ですね。

 

高杉:そうですね。エビスさんは、『Jam』のころから描いてもらってましたね。池袋で初めて会ったんですけれど。「最近ガロで描いてないようですが、8頁描いてもらえませんか、ギャラはちゃんと払いますから」って言ったら「ホントですか、どういう雑誌ですか」ってなかなか信用してくれない(笑)。物凄いチンピラが来たと思われたみたいで

 

南:そのころ全然ガロに描いてなかった時だしね。ガロに描いてもタダだし、だめだと思ったんじゃない。で、ナベゾ渡辺和博氏)に接触したのは?

 

高杉:渡辺さんには『Jam』の最初の頃から漫画を描いてもらったんですよ。

 

南:その頃まだナベゾ青林堂にいてさ、例によってオレの脇腹をつついて「昨日物凄いヘンな奴に会った」って報告するんだよ(笑)。多分八木さんのことだと思うんだけれど、「革靴、素足にはいてんだけど、そのヒモ靴のヒモがない」ってオレにいいつける(笑)。

ガロの作家は安い、って言えばさ、末井さんが『ニューセルフ』の編集長やってた時に、嵐山(光三郎)さんに原稿を頼んでね、その頃、嵐山さんは(安西)水丸さんと組んでやってたんだけれど、「水丸は高いぞ、だから伸坊にしろ」って言って(大爆笑)。

 

末井:もっと詳しくいうとね「水丸さんにお願いしたいんですけど」って言うと「もっと安いヤツがいるぞ」っていうの。その安いヤツが南さんだった(笑)。

 

──じゃ、ガロ系では南さんが初めて登場したんですか。

 

南:そんなことはないと思うよ。末井さんが面白いと思った人はどんどん登場してたから。

 

末井:僕ガロのファンでしたからね。だから荒木経惟さんもガロでやってましたから、電話番号は南さんに聞いたんです。

 

南:荒木さんは最初ゼロックスで自分の作品をいろんな有名人に送っていて、赤瀬川さんのところにも来たんですよ。それで美学校の授業の時にそれを赤瀬川さんが見せてくれたのね。それでずっと覚えていてね、それで最初は文章をお願いした。花輪さんのこと。それから漫画家じゃない人に漫画のようなことをやってもらう、っていう企画を立てた時に荒木さんに写真漫画を頼んだんですよ。

 

高杉:末井さんの雑誌に荒木さんが登場したのはいつ頃だったんですか?

 

末井:雑誌は『ニューセルフ』の時でしたね。写真エッセイで『地球がタバコを吸っている』っていうのね。火葬場の煙突の写真なんですよ、ただの(笑)。煙りが出ていて遠目で撮っているから確かにそう見えるんですよ。で「ウマイな」なんて思ったりしてね(笑)。だから最初はヌードじゃなかったんですよ。でも荒木さんが連載したのはガロが最初だったんじゃないですか。

 

南:カメラ雑誌ではもちろんやっていたんだろうけれど、普通の雑誌での連載ってのはなかったかもしれない。

 

豪快な作家たち。

高杉:でも白夜書房の雑誌に登場してた人って凄い人が多かったですよね。絶対値が高いっていうか濃い人が一杯いましたね。まず末井さんからしてそうなんだもの(笑)。

 

──高平哲郎さんや、田中小実昌さん、上杉清文さん、巻上公一さん、名前を上げたらキリがないくらいですよね。

 

南:平岡さんは『ニューセルフ』では嵐山さんより早かったね。

 

末井:最初平岡さんの所に行ったら「どういう雑誌?」って聞くんで「オナニー雑誌ですよ」って言ったら「うん、わかった。じゃっオナニー論を書こう」って言った(大爆笑)。

 

南:上杉さんはいつだったっけ?

 

末井:上杉さんは『ニューセルフ』のとき奥成達さんに紹介してもらったんですよ。会ったのは読売ホールでやった「冷やし中華大会」の時だったですけど。僕は第1回目の主催者だったんだけれど、机を片付けていたら、黙ってこう机の端を持ってくれる人がいて、それが上杉さんだったの(大爆笑)。

 

南:スゴク上杉さんの感じ出てるね。ホントのことだから(笑)。オレさ、ずっと前に上杉さんと新宿歩いていたら、糸井さんと会ってね。で、二人は初対面だったから紹介すると、糸井さんはまあ普通の大人の挨拶してんだけど、上杉さん、「あっ」とかいって完全に横向いちゃって横にお辞儀してんだよ(笑)。

 

末井:最初に会った時って自閉症みたいな人になってるよね、上杉さんは(笑)。

 

──『ウイークエンドスーパー』は演劇関係の人達もよく出ていましたよね。

 

末井:あれね、ヌードモデルによく劇団の人を使っていたんですよ。だからじゃないかな。

 

──劇団の人をですか?

 

末井:そう、あの人達は安いからね(笑)あのころモデルは3万が相場だったけれどうちは1万しか出せなかったから。それで劇団に行って「芸術やりませんか」って言って探すんですよ(笑)。コストパフォーマンスっていうのね。安く作るのウマイですよ、僕は(笑)。

 

南:劇団て言えばさ、前に幻の名作って言われてる『恐怖奇形人間』ってものすごく期待して観たんだけれど、全然セコイの(笑)。それよりもその映画に出ていた一平(山田一平/ビショップ山田)さんの話のほうがずっと面白いよね。一平さんが書いた『ダンサー』っていう本に載ってるんだけどさ。末井一平さん、内臓人間の役をあてがわれたんだけれど、どうしたらいいのか、って困って大森の屠殺所に行ったんだって(大爆笑)。それでとりあえず内臓を買って桶にいれてそれを背負って電車で運んだんだよね(大爆笑)。

 

南:やること極端。絶対にその話のほうが面白い(笑)。

 

末井:でね、それを体に巻き付けて土方さんに見せたら「内臓人間はやめよう」て言われたらしいよ(大爆笑)。

 

高杉:すっげぇー!(笑)

 

──それから(故)鈴木いずみさんも凄い人でしたね。ホントにアングラっていう言葉が一番よく似合っていた人でしたよね。

 

末井:そうそう。高杉さんはいずみさんと結構付き合っていたんだよね。

 

高杉:期間はそんなに長くはなかったですけどね。

 

南:末井さんもよくいずみさんの電話に付き合ってあげてたよね。ものすごい長話聞いてあげてるの。やさしいんだよ、末井さんは。なかなかできないよ。

 

高杉:とにかく元気のある人でさ、夜中に電話があって「今から新宿に来い、来ないと原稿を渡さない」っていうからタクシーで行くと、原稿なんか出来てないの(笑)。

 

末井:なんかさ、そういうことしている自分がいとおしくない?(笑)。

 

高杉:ハハハッ。でさ、カラオケバーを何軒も引きずり回されるの。それでGSの歌を歌わないと怒る(笑)。「知ってるはずだ」って。

 

南:いずみさんが亡くなったのをしばらく知らないでいてね。それで、オレんとこで宴会やって盛り上がってたら、末井さんに電話入って、「いずみさんが死んだって。自殺、首吊り」っていったんだよ。あのタンタンとしてるのがまた、末井さんなんだよなァ。「子供の前でストッキングで首吊ったって」って。さすが「お母さんはバクハツだ」だよな(笑)

 

末井:でも前から「死ぬ」って言ってたんだよ。だからあまり驚かなかった。やることもないし書くこともない、ってよく言ってたもの。

 

南:思い詰めていくとそうなっちゃうんだろうね。書くことなんかなくたって別にいいのにね。

 

高杉:そうですよね。でも「いつ死んでもおかしくない」って感じはありましたよね。

 

──鈴木いずみさんは最初は何をしていた方なんですか?

 

末井:文学はもともとやってたんですよ。それからピンク女優や写真のモデルもやってたし。作家としては五木寛之さんが押してたよね。まあ、とにかく凄い人でしたよ。

 

いい加減も必要ですね。

──「写真時代」は最盛期にはどのくらい売れていたんですか?

 

末井:25万まで行きましたね。

 

高杉:ええっ、それは凄い!

 

南:『写楽』の方が先だったよね。

 

末井:そう、だってあれを真似して作ったんだもの(大爆笑)。判型も同じですよ(笑)。平とじでね。

 

高杉:これだけ堂々という人も珍しいね。

 

──ロゴは?

 

末井:ロゴも……まっ、『写楽』を『写真時代』にしただけで(笑)。『写楽』は面白かったですよ。カメラ雑誌はいっぱいあったけれど唯一あれが面白かったね。

 

南:でも『写楽』はあんまりクダンないことはしなかったからね。だから末井さんはあっちが我慢してた部分を全部やっちゃったわけだよ、オモシロイこと(笑)。それを「写楽」も後追いするみたいになっちゃった。

 

──『写真時代』はホントに写真が面白かったですよね。

 

末井:僕らね、写真を選ぶ基準を決めていたんですよ。いやらしいモノ、危ないモノ、インパクトのあるモノってね。で、創刊号は10万部刷ったんですけど、これね“ヤケクソ十万部”っていってね。その時会社が潰れかかっていて「もうだめだ」って言う状態だったんです。それなら「もういいやっ」ってヤケクソで10万刷ったんですよ(笑)。

 

南:でもそのヤケクソのエネルギーが伝わったんじゃないかな。みんな面白がってやってたし(笑)。

 

高杉:何年続いたんでしたっけ?

 

末井:7年。それで発禁になった(笑)。

 

──警告は何回受けました?

 

末井:49回(大爆笑)。

 

──『HEAVEN』は1年くらい出ていましたが、どうして終わってしまったんですか。

 

高杉:あれはね、社長がビニ本の方でパクられたんですよ。それでおしまい(笑)。社長がパクられたら余剰の部分をやる余裕がなくなっちゃうでしょ。

 

──『HEAVEN』は編集もさることながら、羽良多平吉さんのデザインも大きかったですね。

 

高杉:平吉さんとはね、工作舎で出会ったんですよね。そこの『遊』って言う雑誌が普段とは違う冗談の雑誌を作りたいっていうんで僕達が呼ばれて、そこで会ったんです。で、僕も平吉さんのファンだったもんで「表紙のデザインやってもらえませんか」って頼んでね。

 

南:あっ、オレその雑誌で山崎(春美)さんて人に取材されたけど、じゃ『遊』の編集部の人だと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだ。

 

高杉:そうなんです。

 

──でも『HEAVEN』に載っていた情報って物凄くアングラでしたよね。ああいう情報ってどこから仕入れていたんですか。

 

高杉:半分はウソ(大爆笑)。でもそれでいいんですよ(笑)。写真とかは道で拾った本から切り抜いていたし。

 

南:でも高杉さん自身が面白いと思ったものを選んでるんだから、それが編集なんだよ。

 

高杉:僕も全然勉強してないまったくの素人から編集を始めたんだけれど、末井さんもデザインの勉強していて編集者になったんですよね。

 

南:俺もそうだから末井さんとは似てるんだよね。

 

末井:そうそう。だから文字の方から入ったんじゃないから誤植とかあっても全く気にならないんですよ(笑)

 

南:前に『笑う写真』本にした時さ、オレが文字の校正すると末井さんがさ、「どうせ字なんか読まないって、同じだって」て言うの(笑)。

 

末井:雑誌ってこうペラペラと見るものだからさ、一字違っていても前後の関係ってわかるじゃない(大爆笑)。

 

南:たしかにそうなんだよな(笑)。長井さんが似てんだよ、末井さんに。大体でいい、わかればいいって。南、コらないでいいって(笑)。

 

高杉:時々前後の関係さえ分からなくなるときもあるけれどでも「まっ、いいか」ってなる(笑)。

 

南:エロ劇画雑誌もそうだと思うんだけれど、あの頃はみんなオレ達みたいに素人がイキナリ始めるって言う形だったと思うし、だから元気があったのかもしれないね。抑制きかないからさ、ワガママな素人だから、自分が面白いことをする。末井さんのパチンコ雑誌が売れたのは、末井さんが「パチンコ雑誌」のプロじゃなくて、パチンコ好きになった末井さんの気持ちが前面に出たからでしょ。

 

末井:でもエロは今ダメだよね。締め付けがあるから。警察だけならいいんだけれど、どこかのおばさんの団体とかいろんな所からくるからね、誰を相手にしていいのかわからなくなっちゃうね(笑)。でも確かにあのころはやりたいことができましたよ。やっぱり規制とか会議とかあると皆元気がなくなっちゃう

 

南:ちゃんとした会社になっちゃうとそうなるね。

 

末井:徹夜で一生懸命企画書書いて「これは面白い」って思っても会議で「なにコレ?」って投げたりする。うちの社長のことだけど(笑)。

 

高杉:僕のほうは自販機本だったからよけいそうかもしれないけれど、たいがい版元の編集者と会議をやるもんだけど、僕たちはそういうの一回もなかった(笑)

 

:エロ本作りにお金を出してくれる人がいて「とにかく売れればいい」っていう状況ではあったよね。「売れればいい」っていうのはハッキリしてていいよ。

 

末井:あとね、いい加減だったらよかったんですよ。いい加減っていうのは必要なんですよね。「これは雑誌なんだから」っていうさ。雑誌たる所以ですよ、いい加減さっていうのはね。それがないとつまらない(笑)。

 

南:でもき「会議やらなきゃ売れる」っていうもんでもないんだよね。だってガロなんて会議なくて勝手にやってたけど、売れなかった(笑)。

 

末井:あっ、それはね、ヌードがなかったからじゃないんですか。ヌードを入れていればよかったのに(大爆笑)。

 

南:ハハハ……、いい加減でイイなァ(笑)。

 

1993年7月8日

ガロ編集部

 

座談会・根本敬湯浅学幻の名盤解放同盟)× 原野国夫(元『EVE』編集部)「自販機本は廃盤歌手みたいなもんだよね」

自販機本のルーツはおつまみだ!

──今回「三流エロ劇画特集」ということなんですが、原野さんのやってらした『EVE』はマンガ誌ではなくて所謂エロ本、自販機本でも後期の頃ですよね。ですから時期的にはちょっとずれるんですが、根本さんの「死体マンガ」が一番初めに載った記念すべき雑誌ということで

 

根本:蛭子さんにギャンブルエッセイを初めて書かせたのも原野さんですよ。あの頃は結構すごいラインナップだったよね。桜沢エリカとかさ。

 

──自販機本というとエロ写真を主体にしたものと、劇画誌がありましたよね。

 

原野:自販機本て最初がさ、どうしようもない、おつまみの自動販売機あったじゃない。あれにヒントを得て(一同笑)。

 

湯浅:コレいいんじゃねえかって(笑)。

 

──自販機本のルーツはおつまみから始まった(笑)。

 

根本:つまみ食って一杯呑んで、じゃ寝る前に…(笑)。

 

原野:平口さんの「お札の先生」ってあったでしょ。あれのモデルになったのが、その自販機本の会社の、親玉みたいな人(引用者注:自販機本取次最大手の東京雑誌販売社長の中島規美敏のことかと思われる)なんですよ。ホントに成金でね。

 

──あの角栄みたいなの。

 

原野:そうそう。ホントにマンガのとおりの人間でね。

 

──それで財をなしたという(笑)。

 

根本:自販機成金。どうしてんの今。

 

原野:復活したんだよ。ダイヤルQ2で(笑)。

 

湯浅:するどい奴だなあ(笑)。

 

原野:やっぱり世の中ってそういう奴に味方するんだよ(笑)。

 

根本:そういう奴って一度駄目になっても復活するんだよね。

 

原野:絶対復活するんだよね(笑)。

 

根本:敗者復活するんだよ。

 

湯浅:いや、敗者じゃないんだよなもう。負けがないんだよ。まあ勝敗なき勝負っていうんですか(笑)。

 

原野:でも三流劇画って自販機であんまり売られてなかったんじゃないかなあ。

 

──所謂三大エロ劇画のうち、書店売りしてたのは一誌だけだったみたいですね。書店売りしてたものが10万部、残りの2誌でそれぞれ5万部程度だったと。80年前後が全盛期ですよね。最初は劇画誌よりもエログラフ誌が主だったんですかね。

 

原野:実話誌って呼ばれてたのがありましたね。劇画誌が売れてる頃はマンガがいろいろ出てたけど、売り上げが落ち始めたらエロの弱いものから切り捨てて行くでしょ。そうすると一番初めに切り捨てられるのは三流劇画誌だから。だから俺が入った頃ってほとんど末期だったから、グラフと実話誌は作ってたけどマンガ誌は作ってなかった。あの頃マンガで面白い雑誌ってなかったもんね。

 

湯浅:ちょうどあの頃ね、『ビッグコミック』がいっぱい出すようになったじゃん。

 

──『スピリッツ』とか『スペリオール』とか。『ヤングマガジン』とか『ヤングジャンプ』とかもあの頃でしたよね。

 

湯浅:それと入れ替わるようにして、自販機系というか、マイナーなエロ雑誌って無くなった気がする

 

レイアウト1ページ200円

──原野さんが入社したのはいつ頃ですか。

 

原野:81年かな。

 

根本:最初の1年間は営業だよね。

 

原野:川崎の自動販売機の本の営業とか、あと駄菓子屋のスタンドあるじゃない。俺はそのスタンドの営業やってた。そのあと編集部に入って、会社も池袋に移って。

 

根本:その池袋のビルからまた移った後、そのビルのアリスの編集部だったところがファッションマッサージ(笑)になったんだよね。誰だったか、元編集部の奴が行って、「社長の机があったとこでホルモン出してきた」って(笑)。

 

原野:湯浅さんはアリス出版とのつき合いは俺より長いんだよね。

 

湯浅:渡辺さんの友達が雑誌やってるって言うから、会ってみたらアリスだったわけ。で「2ページあげるから好きにやってくれ」って言われて。

 

──その時は何をやったんですか。

 

湯浅:何だっけな。ああそうだ、おすもうの小説を書いてたんだ俺。

 

原野:ああ、あったあった。あれ霜田さんがイラスト描いてたんだよね。

 

湯浅:いや、あの時は俺が描いてた(一同笑)。いや、だから俺が文章書いてイラスト描いてレイアウトして、2年半ぐらいやったかな。「愛のおすもう」っていうタイトルで。そうしたら『モニカ』っていう小説誌があって、そこで書きませんかって話が来たわけ。その時に霜田さんが描いてたんだよ。

 

原野:あれもいい加減な本だったよね。

 

湯浅:何でもいいんだもん、ページが埋まってりゃ(笑)。その頃スージーさんがレイアウトやってたんだよ。

 

根本:そう。全然食えない頃でね。『ピンク特報』っていう本で表紙とかやってたよね。あとビニ本1冊作ったりしてたよ。夫婦でキャプション考えてさあ、新婚の頃。

 

湯浅:写真だけ渡されて「好きにやっていいよ」って。一晩で1冊分アタリをとって、キャプションを夫婦で考えて。アレ結構いい金になったんだよね。だってあの頃、船橋のやってた『官能旋風』ってあったじゃん。あれなんかレイアウト1ページ200円でさあ(笑)。

 

根本:あのユンさん用の「ワレメちゃんパックリ」とかいうスペシャルエディション出した本(笑……詳しくは『因果鉄道の夜』177頁参照)。

 

湯浅:で、あそこのオヤジ古い人だから校正記号とかすごい詳しく入れとかなきゃいけないの、原稿に。面倒くさかったよあれ(笑)。

 

原野:200円...(笑)。

 

湯浅:10ページやって2000円だからね(笑)。

 

根本:100ページやって2万円(笑)。

 

湯浅:で、原野が「マンガ家で誰か面白いのいる?」とか言って、それで根本を紹介したんだよね。

 

根本:そう。それからのつき合いだよね。

 

湯浅:その前にもう同盟があったからな。

 

やりたい放題だった『EVE』

──「幻の名盤解放同盟」が世に出たきっかけというのは。

 

湯浅:あれは『コレクター』っていう雑誌をやってた群雄社の木村(昭二)さんっていう人が言ってきたんだよね。それで1回か2回やったんだよ。それをそのまま『EVE』でやって。

 

原野:あの頃一人で月5冊ぐらい雑誌作ってたけど、4冊までは会社の好きなものを作って、1冊は自分の好きなのを作ろうと思ったわけ。

 

──それで「死体マンガ」とかが世に出たと。

 

原野:そうそう。だってああいうことやったって、誰も何にも言わないんだもん。

 

根本:死体マンガは原野さんのアイディアだから。

 

湯浅:ゴッドファーザー・オブ・死体マンガ。

 

根本:で、「あの死体写真はどこから手に入れたんですか」ってよくいろんな人に聞かれるんだけど。

 

原野:あれ久喜(九鬼の誤字と思われる:引用者注)っていう出版社があったでしよ。あそこで死体写真集をすごい高い値段で出したの。その写真を借りてきて複写して。

 

根本:ケン太くんなんてアイドルになっちゃったもんね(笑)。「極楽劇場」ってのも原野さんのネーミングなんですよ。一応、エロ本の体裁さえとっとけば、あとはもう好きにできたもんね。原稿料もそんなに悪くなかったしね。だってあれで結構食ってたもん俺。『平凡パンチ』までは。

 

原野:『EVE』って何年くらい続いたんだっけ。

 

湯浅:23冊くらい出たんだよ。2年か。あの時スージーさんとさ、表紙の色をどっちがたくさん使うかとか競争してたんだよね。

 

原野:スージーさんの表紙すごかったもんね。かっこよかったな。

 

根本:『EVE』って湯村さんも描いたんだよな一度。

 

原野:終り頃ね。

 

湯浅:霜田さんのカラーマンガなんか連戦だったもんな。

 

根本:あと湯村さんのカラーマンガとスージーさんのカラーイラストと。

 

根本:それで「幻の名盤解放同盟」と死体マンガとさあ、蛭子さんのギャンブルエッセイとか、杉作J太郎桜沢エリカ、平口さんも描いてたもんね

 

原野:後半だと山野一とか。

 

──今考えるとすごい豪華ですよね。

 

原野:でもあの頃はまだみんな暇だったからね。

 

湯浅:それがエログラビアと一緒に載ってるという。

 

原野:そうそう。意味のないエログラビアと。

 

──意味のないエログラビア(笑)。

 

根本:毎回「何とか号」とか付くんだよ。あれが良かったよね。「像が踏んでも壊れない陽春号」とか(笑)。下らなかったよなあれ(笑)。

 

湯浅:グラビアの別冊誌みたいなのもあったよね。写真使いまわすやつ。

 

原野:いい加減な本。

 

湯浅:別の雑誌なのにどっかで見た写真が一杯載ってるの(笑)。

 

根本:女もピンからキリまで載ってたよね。

 

原野:「ブス特集」とかやったもんな。

 

幻の「廃盤レコードコンサート」

湯浅:モデルの名前を廃盤歌手の名前にしてさ(笑)。

 

根本:写真のタイトルはみんな廃盤のタイトルだったよね(笑)。

 

原野:コピーはみんな廃盤の歌詞でさ(笑)。

 

根本:「解放歌集」に感動したマニアは『EVE』のバックナンバー探さなきゃいけないよね。

 

──でもそれを、ある目的のために買う人がいるわけですよね(笑)。

 

根本:でも山田花子なんかさ、お父さんに買ってもらってたんだよ。高校生ぐらいの時に。『EVE』をお父さんに買ってもらって(笑)。

 

湯浅:お父さんにエロ本買わせてるの、娘が。

 

原野:自販機で(笑)。

 

根本:で、読むのって「解放レビュー」と「死体マンガ」(笑)。

 

原野:すごいね(笑)。

 

──ああいう本って固定読者って...。

 

原野:固定読者はいないでしょう。

 

──山田花子以外は(笑)。

 

湯浅:一度さ、「廃盤福袋プレゼント」って出したんだよ。一通も応募が来なかったもんね(笑)。

 

根本:記事のために買わないもんね。飽くまでもちょっと一本抜きたいからだから。

 

原野:でも、すんごい山奥から一年ぐらい後に読者カードが来たり、ハングル文字の読者カードが来たりしたよ(笑)。

 

根本:読者カードって、送ると何かもらえるんだっけ。

 

湯浅:何かもらえるって書いてあったよ。「モデルの着用したパンティーあげます」とか。

 

根本:でも送らないんだよね。今だから言うけど(笑)。

 

──「解放同盟」の活動が一般に認知されたのって最近ですよね。

 

原野:横浜で「廃盤レコードコンサート」やったりしたのにね。

 

根本:1月の5日。雪の中(笑)。それにも山田花子来たんだよな。

 

湯浅:来た。客3人だったよな。

 

根本:3人のうちの1人が山田花子だったんだよ。だって新横浜のラブホテルしかないとこだよ。

 

湯浅:あそこで3回くらいやったよな。「韓国ロック大会」とかな。

 

根本:普通雪の中来ないよな。

 

湯浅:俺、結婚してすぐでさ、30になって初仕事がそれだったんだよ(笑)。

 

エロ本業界ちょっとイイ話

根本:Hっていたよね。すごい業界の嫌われ者がいてさ、もう色んなとこで嫌われてたヤツがいたんだよ。床屋からエロ本屋になったヤツでさ。みんなで使ってる共同の茶碗とかに入れ歯入れたりするんだよね。

 

──ジジイなんですか。

 

根本:今考えれば若いよね。30歳ぐらいなんだけど、頭ツルッパゲでさ。

 

湯浅:『GORO』のバックナンバー全部持ってる(笑)。

 

根本:で、少しづつ会社のエロ本を隠匿して。一番俺の好きなエピソードはさ、当時だんだんエロ本からアダルトビデオに移りだした頃、まだビデオって普及してなかったんだよね。で、会社にビデオあるじゃん。ある日、原野さんが仕事してたら「原ボウ、今日は帰っていいよ、俺があとやっとくから」って急に言い出して。そこで原野さんはピンと来るもんがあったんだよね。しばらく近くの飲み屋で時間潰しててさ、夜中の2時とか3時にそぉーっと会社に行ってみると、明りは消えてるんだけどテレビの明りがチカッ、チカッてついてんの。で、原野さんは階下へ降りてって何回も電話して、出るとカチャッて切っちゃって(笑)。それを何回も繰り返して(笑)。その後、Hさん風俗営業の店に行ったんだよね。

 

湯浅:よくあったよね、アタリ取りながらセンズリかいてて見つかって辞めちゃう奴とかね。

 

根本:まあ、ズリネタ作ってる現場だからな。

 

湯浅:しょうがないよねアレ。

 

根本:結局辞めちゃうとこがイイよね。

 

湯浅:いりゃあいいのにさ。いて欲しいよね。

 

──結局、自販機本って何だったんでしょうね。

 

原野:もう雑誌じゃなかったよね。雑誌の体裁はとってるけど。

 

根本:廃盤歌手みたいなもんだよね(笑)。

 

原野:どんな本作っても誰も相手にしないしさ、誰も見ないし。被差別雑誌だよね(笑)。不可触雑誌というか。だからこそ好きなように出来たんだろうね。

七月九日・初台・LIBRAにて

 

大いなる勘ちがい―三流エロ劇画―(文・呉智英

時代のいきおいはしばしば奇妙なものを生み出す。服飾の歴史をふり返ってみれば、それは明らかだろう。ほんの2、3年もすれば人々の記憶から消えてしまうようなものが、時代の化石となってそこに残っている。もっとも、ネクタイの幅が広いの狭いのは、そのネクタイをしめて喜んでいる当人でさえ、別に不易の美が実現したのだとは思っていない。しょせん流行だと承知の上で、それを楽しんでいるだけなのだ。

ところが、時には、あたかもそれが歴史の牽引車であるかのように、自らも言い、人もそう思うものが現れる。後になって考えれば、なんであんなものがと思えるのだが、その当時は我も人も大真面目なのだ。「時代の産物」というのはこれだろう。しかし、だからといって、時代の産物を全部バカにしてはいけない。注意深い観察者には、その中に時代の駆動力や逆に歴史の危機の予兆が見えるからである、また、時代の産物でありながらも、時の淘汰に耐えうるものも存在している。いわゆる「三流エロ劇画」を考察する場合、以上のことが前提になる。

三流エロ劇画とは、エロを主目的として描いた劇画で、とりわけ自動販売機用の雑誌など、中小・零細出版社の出版物に掲載されたものを指す。劇画を含むマンガという表現形式にエロが描かれることは、もちろんこれに限らない。艶笑コントを4コマに割りふったようなお色気マンガは終戦直後から描かれていたし、戦前の地下出版の春画に現代のマンガにつながる技法を見いだすこともできるだろう。逆に時代を現在に近づければ、今もなおエロ劇画専門誌は出版され続けている。このように、マンガにエロが描かれることはいつの時代にもあることなのだが、三流エロ劇画とは、ほとんどの場合、1970年代初めから80年代初めにかけての10年余りの間に出現したものを指す。そこには、時代の産物とも言ふべき奇妙な熱気が満ちてるたからである。エロ劇画誌の嚆矢は1973年創刊の『エロトピア』だとされる。従来からあったお色気マンガではないポルノグラフィとしての性格の強いエロマンガ誌が登場したのである。60年代後半、マンガが飛躍的に発達し、大学生になってもマンガを手放さない風潮が広がりだした。それに対応して、マンガは単なる児童向け娯楽や社会諷刺の戯画ではなくなった。文学や映画と同じように、ほとんどあらゆるテーマを描きうるメディアとなり始めてるた。メディアとしてここまで成長すれば、純然たるポルノグラフィが登場するのも必然であった。

エロ劇画の勃興には、メディアとしてのマンガの成長の他に、マンガを作る人たち、すなわちマンガ家や編集者たちの気負いも大きな要因となっていた。

1970年代前半。それは戦後民主主義の退潮が始まった時期である。

家制度の解体、個人の重視、物質的欲望の第一義化、恋愛の讃美、性の解放……渾然一体となって民主主義・人権思想という形をとった戦後思潮は、60年代半ばまでの牧歌的な時代を経て、60年代末期には全共闘運動に代表される極相(クライマックス)を迎える。牧歌的な“反体制的秩序”さえもが崩壊の兆しを見せ始めたのだ。反体制的な若者たちが、夢野久作小栗虫太郎を愛読したり、日本浪漫派の思想家に惹かれたり、梶原一騎原作の『巨人の星』『あしたのジョー』に熱中したりするのは、明らかに“反体制的秩序”を逸脱したことであった。

しかし、その逸脱を当の“反体制的秩序”が準備したものであることは、これも明らかだった。ドストエフスキーの『悪霊』に倣って言えば、温和な進歩的理想主義者スチェパン・ヴェルホヴェンスキーは過激で破壊的なピョートル・ヴェルホヴェンスキーを生んだのである。そして、これも『悪霊』に予言されたように、内ゲバが始まり、1972年には連合赤軍事件が起きる。戦後民主主義はこうしてゆっくりと退潮を始める。ドストエフスキーの予言とちがっていたのは、思想は内部崩壊を起こして退潮を始めながら、日本の経済的繁栄だけは石油ショックも乗り切って安定のうちに継続したことである。戦後民主主義の敗残兵たちは、指導の旗を失ひながら、経済的繁栄に依拠して生き永らえた。

これを私は倫理的に非難するようなことはしない。ただ最低限、自分が何をしてあるのかという自覚は必要だろう。さらに望むらくは、時代の意味の分析が端緒だけでもほしい。話が少しわき道に外れた。ともかくも、1970年代前半、戦後民主主義がその極相を迎え、退潮を始めた。その余燼を抱えた者たちがエロ劇画製作の場所へ流入したのである

大手出版社の雑誌では売り上げと良識への配慮から、さまざまな表現上の規制が設けられていた。性、天皇、差別。この3つが表現上のタブーの最も強いものであったし、今もなおそうだ。エロ劇画に流入してきたマンガ家や編集者たちは、好んでこのテーマを……いや、好むもなにも、ここはエロ劇画界なのだ、性を過激に描くことは初めから望まれていた。性描写さえ一定の割合で登場させれば、他は何をやっても良いという“寛容”もあった。かくして1970年代の終はり頃、『エロジェニカ』『アリス』『大快楽』の俗称“エロ劇画誌の御三家”を中心に、中小・零細出版社の出すエロ劇画誌は奇妙な熱気をはらむようになった。

奇妙なと何度もくりかえす理由の説明は要しまい。当時エロ劇画誌の編集長をやっていた亀和田武が「三流劇画全共闘」を名乗ったの名乗らないので論争が起きたこともあった。亀和田が署名入りでそう名乗ったかどうかはともかく、確かに誌面にそれらしい言葉を見たことはある。いづれにしても、ポルノグラフィを目的とした工ロ劇画がどうして全学共闘会議の略称である全共闘と結びつくのか、今となってはこれも時代の産物としか言いいようはない。平岡政明が、犯罪者は警察と戦っているから革命家だと言い、上野昴志が、字をまちがえることは文部省的抑圧への挑戦だと言ったのと同種の、あやういレトリックであった。このレトリックのあやふやさに気づく人たちより、レトリックに魅せられた人たちの方が、少なくともその時点では多かったのである。

三流劇画は、1978、9年にそのピークを迎え、80年代に入ってから次第に熱気を失っていった。ポルノグラフィの世界も、ビニ本やビデオなどのライバルが現れ、エロ劇画の人気は下降した。大手出版社のマンガ誌に、もう少し上品で手の込んだ性描写が登場するようになったことも、下降の一因だらう。しかし、何よりも、作家や編集者に1970年代という時代の産物である大いなる勘ちがい、がなくなったことを挙げなければなるまい。80年代になって、みんな少利巧になった。勘ちがいよりは、なるほど良いだろうが、大いなる勘ちがいの価値をまるまる忘れてしまうのもつまらぬではないか。

 

自販機本の頃の神保町(文・渡辺和博

僕がウィーク・エンドスーパーを初めて見たのはまだガロで働いている頃だった。

そのころちょうど最初のビニール本ブームで神保町にもそれを専門に売るお店が出現していた。

ガロの田端にあった倉庫はエロ本屋さんとシェアして使っていたので、僕は時々いく倉庫整理の時に廊下にはみ出した返本のビニール本の山から何冊か抜き出して立ち読みしていたのだが、その頃から返本の山がなくなり、楽しいハーフタイムが出来なくなった。

もちろんブームでは良いことの方がたくさんあったわけで、それはまず自販機本を作っている会社が事業拡大の一環として漫画誌やグラビア誌を始めたことである。

そうなると漫画の作家が必要となってくるのだが、漫画の作家というのはたいてい出版社のおかかえみたいになっていて他の仕事をなかなかしてくれないし、ましてや新興勢力の出版社ではムツかしい。

そこでガロで描いているような人々に仕事をたのみにくる自販機本の編集者が増えたのである。

当時ガロに描いていた人はみなビンボーであった。

それは作品が一般出版社に受け入れにくいというのもあったけど、何よりも作家の性格や態度が世間から受け入れてもらえないような人ばかりだったからだ。

壊れた人物の描く、壊れた漫画というのは今なら受けたりするけど、当時あまり相手にする出版社はいなかった

自販機本の会社から仕事の来るようになったガロ作家の面々は、たちまち食べられるようになった。

中には僕が働いている編集部に来て「自販本は1ページ五千円くれはるので1時間で五千円札1枚作ってんのと同じですワ、赤セ川さんの時代にも自販機本があればあんなコ下されなくても良かったのに…」と白昼堂々自慢される方も現れた。

僕は、赤セ川さんはアートだから…と言いかけて、その「五千円」男が最近やっとカラーTVを買った話するので、まあしょうがないかと思った。

一方そのころウィーク・エンドスーパーのグラビア誌は、僕のようなヘタクソライター、イラストレーターにとって、とてもありがたい存在だった。

それはグラビアのソリ毛写真のウメ草になんか字と捨てカットのかける人間がいないか!と偉大なる末井昭編集長がおっしゃったからである。

末井氏は今でこそ、パチンコ誌を3誌も同時編集されている“僕たちの星”なのであるが。当時はグラビア写真に載るモデルのインモーを剃っておられた。

これを当時末井氏は、やや恥ずかしそうに「ソリマン」とおっしゃっていたが、この順法エロ写真は一部に大受けで、写真家荒木経惟氏のカメラによって今や神話である。

そして僕もその写真誌のイラスト+文の仕事をさせていただいていた、乗っていたオートバイをヤマハRD250からカワサキZ650にグレードアップすることが出来た。

今思い出すと、どれも楽しい思い出だけどその後自販機本ブームも去って、アダルトビデオのブームが来る。

そして神保町のビニ本屋はビデオ屋に変換されてゆくのだった。

 

三流劇画ブーム・抗争は燃え上がった(高取英・元『エロジェニカ』編集長)

ぼくが『漫画エロジェニカ』の編集をまかされたのは、1977年、25歳の時であった。

その直前に、この雑誌には、川崎ゆきおの連載が始まっていた。川崎ゆきおは、ぼくの出身大学の新聞に原稿を書いてもらったこともあって、お願いしたのである。エロ劇画誌に、『ガロ』のマンガ家が登場するのは、当時の業界では、掟破りであった。業界では、『ガロ』を別世界と考えていたのだ。

しかし、同じ会社の『快楽セブン』には、渡辺和博の連載も始まっていた。この会社は、唐十郎・編集の文芸誌『月下の一群』、ジャズ雑誌『ジャズランド』、詩の雑誌『銀河』などを発行していて、業界から少しズレていたのだ。社長は安保全学連くずれで、編集局長は日大全共闘くずれであった。『快楽セブン』の編集者は、『ジャズランド』からエロ劇画誌にうつり、彼も67年の羽田闘争に参加したことがあった。この会社にぼくは安西水丸などの紹介で入ったのだ。ぼくは、学生時代から『ヤングコミック』(上村一夫・真崎守・宮谷一彦が三羽ガラスといわれた頃だ)のようなマンガ誌をつくりたいと思っていた。この雑誌は、コラム欄も充実していて、奥成達平岡正明竹中労が、小説では筒井康隆などが書いていた。

『漫画エロジェニカ』をまかされた時、したがって、ぼくは燃えた。ポリシーは、決まっていた。〈掟破り〉だ。まず、読者欄を充実させようと思った。エロ劇画誌に読者はハガキなんかよこさないという、定説をくつがえそうと思ったのだ。同時に、マンガ家の名前を売ろうと思った。エロ劇画誌は、マンガ家名よりも、SEXシーンにしか興味がない、という当時の定説をくつがえそうと思ったのだ。

そのために、読者による人気投票を試み、マンガ家名を書いてもらって、記憶してもらおうと思った。マンガ家の人気投票は、大手の少年誌でもやっている。しかし、それは、公表されることはない。この《掟》を破ろうと思った。人気投票は、雑誌に、正直に毎月発表した。

偶然にも、このことが、執筆マンガ家たちを燃え上がらせることになった。やはり、トップをめざしたく力を入れたのだ。

当時、石井隆がエロ劇画家として大ブームとなっていた。ぼくたちは、石井隆に追いっき、追いこせと考えた。

執筆陣は、ダーティ松本村祖俊一中島史雄清水おさむ、といったマンガ家がレギュラーとなっていた。『ガロ』出身の蟻田邦夫もいた。そして川崎ゆきおだ。

川崎ゆきおがかいていれば、『ガロ』の読者も注目するだろうと思っていた。

確かにこの予想は当り、サン出版の雑誌で『漫画エロジェニカ』に注目、といった記事が掲載された。匿名の記事だったが、後に、米沢嘉博が書いたものだと知った。川崎ゆきおにも触れた記事である。

〈雑誌倫理協会〉というのがあり、この協会に会社は加盟していなかった。この協会は、確か、女子高生の表現には、気を配るようにとか、文書にしていたが、〈掟破り〉をめざしていたので、女子高生はテーマとしてメインにした。

先輩は、「肉体労働者、まぁトラックの運転手などが読むんだ」といったが、ぼくは、マンガ好きの学生中心に方針を変えていった

『快楽セブン』の編集者は、寺山修司の言葉をマネて、「性の失業者/セックス・プロレタリアートのためだ」といったので、それなら学生だろうと思ったのだ。これも〈掟破り〉だったのかもしれない。さらに、月刊エロ劇画誌に、連載ものは無理だ、というのがあった。

これを破ろうと思った。最初は一話完結形式で、村祖俊一が「娼婦マリー」を始めた。

大丈夫なので、連載は、北哲矢・北崎正人の「性春・早稲田大学シリーズ」など、増えていった。

ギャグ以外の全てのマンガ家と打ち合わせをした。テーマ、ストーリー、といったところだ。喫茶店での打ち合わせは、マンガ家が恥ずかしそうに原稿を見せたので、そういう日陰もののようではいけないと、ぼくは大っぴらに原稿を広げた。マンガ家の一人はそのことに感激した。

コラム欄も流山児祥のプロレス論、岸田理生のSF紹介、平井玄のロック論が好評となっていた。少女マンガ論はぼくが書いた。

まかされた時の発行部数は、5万5千部、返品率4割5分。

社長は、「売ってくれれば、何をしてもいい」といった。

結果、『漫画エロジェニカ』は、おそるべきスピードで発行部数を伸ばしていき、我々はあしたのジョーであると宣言した。全盛期には12万部発行、返品率1割へと上昇した。当時のエロ劇画誌のトップになったのだ。

読者のハガキは大量にやってきて、編集部にも、読者が次々に遊びにきた。

ただ残念なのは、こういう時も、東大生、京大生が一番乗りで、アングラ・サブ・カルチャーもエリートが早いのか、と思ったことだ。ほどなく京都府大に「エロジェニカ読者の会」ができた。

『漫画エロジェニカ』がブームになっていくと同時に、『大快楽』(7万部)、『劇画アリス』(3万部)というマンガ誌も、御三家と呼ばれ、セットで、三流劇画ブームといわれることが多くなっていった。

最初は、大阪の情報誌『プレイガイドジャーナル』で、ぼくと、『劇画アリス』『官能劇画』の編集者が座談会をもったのがきっかけであった。77年のことである。この時、司会の人に、「トレンディになって、若者が小ワキにかかえて、原宿や渋谷を歩くようになったら、どうします?」と問われた。「そんなことにはなりませんね」と答えた。「当局に弾圧されたら、どうしますか?」とも問われた。「それは、わからないけど、弾圧されるとしたら、『エロジェニカ』でしょう」とも答えた。

なにしろ、掟破りだったので、どこかで覚悟していたのだろう。

劇画アリス』の編集長・亀和田武は、自らの上半身ヌードを表2に掲載し、気を吐いていた。

執筆陣は、飯田耕一郎井上英樹、つか絵夢子などであった。

77年、『漫画エロジェニカ』と『劇画アリス』がまず、話題になっていった。

日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』などで『漫画エロジェニカ』が、『報知新聞』などで『劇画アリス』が記事になった。

そして、78年、9月に『11PM』がエロ劇画の特集を組み、出演したエロ劇画家4名のうち、中島史雄小多魔若史清水おさむと、3名までが『漫画エロジェニカ』のレギュラーであったことと、ぼくが出演して話したことが当局を刺激し、『漫画エロジュニカ』11月号(10月発売)は、発禁となった。

メインは、ダーティ松本の作品であった。彼は人気投票に燃え、性表現をエスカレートさせていた。他に村祖俊一、北哲也、小寺魔若史も問題となった。

NHKニュースはその日のラストに、このことを報道した。表紙が映った。その後、「君が代」が流れた。見ていた表紙のイラストレーターは、「俺の絵が全国ニュースで流れた」とコーフンした。

営業部長は、万才をし、「これで、もっと売れる」といったのだからたいしたものであった。安保全学連くずれの社長は、週刊誌の取材に、「遠いところで革命とつながっている」といったのだから、もうムチャクチャだった。

『別冊新評』は、「石井隆の世界」を出版した後、79年初春に「三流劇画の世界」を出版した。ブームはピークとなった。

79年に入って、『漫画大快楽』は、三条友美あがた有為などエロ劇画家の他に、『ガロ』で活躍していた、ひさうちみちお平口広美がエロ劇画を執筆し始めた。

劇画アリス』は、吾妻ひでおが連載し、奥平イラ、まついなつきが執筆した。

『漫画エロジェニカ』は、いしかわじゅんが『憂国』を連載、山田双葉(後の山田詠美)も連載、柴門ふみペンネームで執筆、いがらしみきおがデビューした。ひさうちみちお吉田光彦も執筆した。

三誌とも、エロ劇画+ニューウェーブ系マンガ家で、話題となったのである。

79年、その『漫画大快楽』のコラム執筆者・板坂剛(元・日大全共闘)が、『漫画エロジェニカ』のコラム執筆者・流山児祥(元・青学全共闘副議長)の批判を始め、「流山児殺し完成」とまで書いた。怒った流山児祥が、白昼、下北沢の路上で板坂剛をKOしてしまった。もう、ムチャクチャであった。流山児祥は、『劇画アリス』の亀和田武(元・成蹊大学全共闘)の批判もした。理由は、亀和田が構改系だったということらしい。「ミンセイみたいなもんだよ」といっていた。ぼくは、『劇画アリス』にマンガ論を書いていたが、これでパーになった。亀和田武は板坂の味方となり『大快楽』で流山児祥ではなくぼくの批判を始めた。頭にきたぼくは彼をKOしようとしたが、彼は逃亡した。それで高橋伴明(こっち側)と戸井十月(向う側)を立合人として果し合いを申し込んだが逃げた。

『漫画大快楽』と、『劇画アリス』をクビになった亀和田VS『漫画エロジェニカ』の抗争といわれるものだ。オーラル派VS武闘派の抗争であった。

次は我々が、『漫画大快楽』の編集者を攻撃するという噂も流れ、『大快楽』のマンガ家の中にも受けて立つという人もいたらしい。こっち側のマンガ家には日本刀で殴り込むと豪語する人もいた。天井桟敷の劇団員(コラム執筆者)も殴り込むといった。

もうハチャメチャであった。

しかし、『漫画大快楽』の編集者は、退社してしまった。

79年、『アリス』は、次の編集者の代で休刊、『大快楽』も編集者が代り、80年に『エロジェニカ』を休刊、エロ劇画ブームは沈滞した。

先日、小学館のパーティで、元『大快楽』の編集者の一人と会って、その頃のことを話した。みんな20代後半であった頃だ。なにしろ若かった。燃えていた。

「面白かったよね」と、元『大快楽』の編集者がいった。

「うん。セーシュンだったね」ぼくはいった。

「もう、あんなムチャクチャもないね」「そうだね」

三流劇画ブームは、歴史のかなただ。でも僕たちは、それをまだ胸にしまっている。

(文中敬称略)

 

「いかがかしい」―あ、名前だけでイッてしまう―(絵と文・友沢ミミヨ

“三流エロ雑誌”というものは、わたしから見ると、いかがわしさの王様揃いで、どれも一流品でした。皆さんの単行本の初出一覧の箇所に、『ピラニア』やら『カルメン』やら『大快楽』やら、くらくらする程いかがわしい誌名が、ズラーッと、これでもかというぐらいにオン・パレードしていると、それだけでコーフンしたモンです。憧れの世界でした。

執筆者の方々も、名前がカタカナまじりだったり、ケモノまじりだったりして、もの凄くいかがわしかった。

で、本人がまた、全然名前と違う顔だったりして、そのいかがわしさったらナイ。

編集者の方々は、ぱんこちゃんにいわせれば、「皆、鼻毛がのびてた」(笑)そうですが、一流の人達はヌケてたなァ(鼻毛が、じゃなくって)という印象。あまりいかがわしくなかった(ような気がしますが……)。

当時、ソフトボールが流行ってて『ピラニア』に描いてたイワモトケンチさんに連れられて、所沢の公園にいった時、エビスさんや平口さんや根本さんが、ヒドク非日常で、吃驚した。そんでもって、根本さんがこれまた超スピードボールピッチャーだったりして二度吃驚。その時、平口さんとキャッチボールをしたんですが、あまりの白日夢に、ボールをキャッチする度でっかい精子をうけとめているようで、アタシ、妊娠するかと思いました。(冗句)

忘年会に連れてってもらった時には、ドアを開けたらいきなり遠藤みちろうさんがカラオケ唄ってて、目がとび出した。……奇妙な時代。エロにもいかがわしいものとそうでないものがあります。ひと昔前のエロ本は、何やらわからんほど中身がぎゅうぎゅう詰まってて、いかがわしさがプンプンしていた。あたかも錬金術。今はそういうのが少ないので、人間も丸くなりがちです。皆、あの頃の本を古本屋で探して、そのいかがわしさを鼻から吸って(スニッフィンク)くらくら(トリップ)しましょう。すぐイケます(ウルトラヘブン)

 

とにかく感謝してます(蛭子能収

エロ劇画で一番思い出深いことは、私がまだダスキンの会社に勤めていた頃、33歳位だったかなー、渋谷のナイロン100%とかいうバーで渡辺和博さんとひさうちみちおさんと、あと奥平イラさんだったかな? ちょっと記憶があいまいになってますけど、この3人が展覧会をしているので、そのオープニグパーティに来ませんか? と佐内順一郎さん(高杉弾)に誘われて行った時のことです。

佐内さんは山崎春美さんという人と自動販売機にいれる、ピンク雑誌の編集をしていて私も仕事を何回か貰っていたんです。でもそのピンク雑誌が潰れてしまって、私に他のエロ雑誌の編集者を紹介するからと、そこへ来るのを誘ってくれたんですね。

その頃、私もダスキンの会社を辞めて、マンガでなんとか食っていけないかなーと考えていたので、ダスキンの会社の仕事が終わった後、その展覧会のオープニングパーティとやらに行ったのでした。

当時私は他の漫画家と接触したことがなく会場にいた、渡辺和博さんとかひさうちみちおさん、そして平口広美さん達を見て感激したことを覚えています。

そして数々の編集者や関係者が狭い部屋にぎっしり埋まっており、ムンムンとした中で私はこれがナウイパーティなんだなーと思ったのでした。

そこで佐内さんが私に菅野さんという人を紹介してくれました。

菅野さんはEUオフィスという事務所を小谷さんとやっていて、仕事はエロ劇画の編集でした。

そして菅野さんが私を見て「ああエビスさんですか。ちょうど良かった。エビスさんに頼みたいことがあるんですよ。今度『漫画ピラニア』というのを創刊するんですが、エビスさん、その雑誌に連載してくれませんか」と言うのでした。

私は、これは助かったなと思い、喜んで「お願いします」と返事したのでした。

茶店のようなバーの狭い所で編集者と漫画家がギッシリとひしめき合って、それぞれこの人と思う人に挨拶しては、又別の人の所に行く有様を経験して、漫画の仕事というのはこういうふうにして貰うのかなーと考えていたのであります。

それまで私のつき合いといえば高校の時の友達か会社の人、そして家族という具合で、同じ趣味を持った人とのつき合いというのは殆どなかったのです。

エロ劇画とは言え、私には華やかな業界に思え、喜んで飛び込んで行ったのでした。

ガロで漫画を発表していた食えない漫画家は大体エロ劇画を描いて生活しているようなふしもありましたし、また編集者もその頃は物わかりが良く、エロに関係なく好きなように描いて下さいという注文が多かったような気がします。今は物わかりのいい編集者も減ってしまったようで残念ですが、私は当時のエロ劇画編集者に感謝しています。

 

杉作J太郎レッスルマニア

1982年、より大人になるべく、俺はエロ漫画家としてデビューした。

高校時代の友人に左近(仮名)という男がいて、これは今も俺の無二の親友である。この左近が、高校時代、エロ漫画の大ファンであった……と、いうのが実は特筆すべきことなのだ。なぜなら、当時のエロ漫画というのは、親父だけが読む、年寄り臭いものだったからである。(俺も含めて普通の連中は、グラフ誌を愛好していた)。が、なぜか左近はエロ漫画だった。左近は大体において年寄り臭い男だった。高校時代からやたら内外の政治状況に詳しく、一度、クラスの女のコに沢田研二の話をふられ、「宮本顕二がどうしたって?」と問い返したりしてた。左近の部屋は物置を改造したものだったので、親の干渉が少なかったが、その代わりにネズミが出た。ある日、学校帰りに左近と一緒に部屋の扉を開けたら、ネズミの死骸が畳の上に転がっていたことがあった。驚く俺を無視して、まるで紙屑を蹴るように、平然とネズミを外へ捨てた左近の迫力……。本文とは関係ないが思い出したので書き記してみた。

その左近の部屋だが、いつ行ってもそこにはエロ漫画が山と積まれてあった。

それは、親父趣味丸出しの漫画群であった。

俺たちはその部屋でエロ漫画を学習した。左近は別にコレクターではなく、気にいったものは持ち帰っても文句は言わなかった。家に持ち帰って読んでいたら、通信販売(オナマシン、ガラナチョコ、南極Z号、穴あきパンティ等)の広告のページに金額を計算した痕跡があった。世の中には時刻表を眺めて旅行した気になる人が多いそうだが、左近はそうしたグッズを買った気になって楽しんでいたのだろう。翌日、学校でそのことを問い詰めると、いや、それは室田(仮名)に貸した時に奴が書いたものだと言い張ったが、その後17年に及ぶ付き合いの中で、それが左近の仕業だったことは疑うまでもない。

さて、そんな左近の活躍により、俺達ボンクラの仲間内では、エロ漫画が異様な盛り上がりを見せていた。特に、人気の高かったのが、あがた有為の作品であった。中でも俺達にバカウケしたのが、あがた有為の漫画に多く見られた、若い夫婦と年老いた男が同居するうちに事件が……という設定のものだった。いわゆる、ひとつ屋根の下ものである。

若い夫婦だから性交渉は毎晩である。だが、若妻は、常に奇妙な感覚を背中に感じていた。それはだれかに覗かれているような感覚であった。若妻は、男が苦手であった。どことなく陰湿で冷淡な、そして妙に若々しい男が苦手であった。そして、遂にある日、若妻は自分の感じていた奇妙な感覚が、実は男の視線だったことに気付くのだ。が、それを聞いた亭主は若妻の身体を責めながら言うのだった。「あれがお父さんの若さのエキスなんだよ」

当時、高校生の俺達がどうしてそんな設定に酔ったのかを俺は知らない。ただ、事実として、それぞれがあがた有為の漫画に登場するねばい老人を切り抜いて、生徒手帳に入れ、

「こういうもんですけどね」

警察手帳を見せる按配で互いに見せあって大いに喜んでいたものである。

なにをバカな、という気もするが、男女共学の高校で、ともすれば女色にヨヨヨと傾きそうになる軟派な心を戒めるには、「俺達、悪いけどおめえらみたいな小便臭いガキにゃ興味ないぜ。やっぱ、人妻の熟れた秘肉だよな兄弟!」

あがた有為の親父パワーが必要だったのである(腹が立つぐらいバカだねえ今考えると)。さて、そしてその頃が『ガロ』との出会いの時期でもあった。当時、『ガロ』は、一部インテリ系不良学生にはなぜか人気があったのだ。

「うちの兄貴が毎月読んでるんだよ」

ラグビー部の黒鶴(仮名)が持って来たガロを授業中に回し読みしながら、「俺は荒木の写真がいいよ」「クーッ、エロいな、おめえは!」

とつきあったボンクラ仲間も今ではオナニーも飽きた頃か……。

そんなわけで、俺達いわゆるポンクラ学生に人気のあった漫画が、エロ漫画、そしてガロだったのだ。

真面目な話をすると、俺達ボンクラは、勉学の成績こそ劣悪でも、心底はインテリ揃いであった(それが一種のコンプレックスから出たものであったとしても)。そして、ガロはもちろんのこと、当時のエロ漫画には、少年誌や青年誌では実現不可能な、俺達好みのインテリ漫画が多数掲載されていたのである。1982年。俺はさらにインテリ路線を進むべく、より大人になるベく、読み手では満足できず描き手として、エロ漫画家としてデビューした。(同年ガロは落選)。そして今日……。

万事は結果ではない。

                                                                                                                                       

スケベはエネルギーの源だ!(対談・『漫画大快楽』小谷哲VS『漫画ピラニア』菅野邦明)

『漫画大快楽』『カルメン』『ピラニア』を創刊させ、三流エロ劇画ブームのまっただ中を走ってきた劇画界の荒くれ者をいち早くガロの作家を起用し、また隠れた才能をひき出し、新たな漫画家を次々とデビューさせてきた二人が語る、三流エロ劇画界の裏話

 

新しいスケベを探す

── 一番最初に手掛けたエロ劇画雑誌はやはり『大快楽』だったんですか。

 

小谷:そうですね。僕がその発売元の檸檬社に入社したのは、先に知り合いが入ってそれで入れてもらったんですよ。その頃『黒の手帖』や『風俗奇譚』なんかを出していてね。その頃は『話の特集』が全盛の頃だったからそういう雰囲気の所に行きたいっていうのもあったし、それにどうせマトモには就職できないだろう、とも思っていたし。

 

──何年頃ですか?

 

小谷:74年のころかな。長髪だしロンドンブーツだしサングラスはかけてたしね(笑)。そのまま雇ってくれる所なんて限られていたし。

 

菅野:俺は後から入ったんだけれど、小谷くんをみたら「ああ大丈夫だ、俺も働ける」って思いましたよ(笑)。

 

──『大快楽』は創刊から手掛けたのですか?

 

小谷:僕は創刊からやってましたね。その頃、亀和田さんがいて、一緒に作ったんですよ。創刊する前に、もう『エロトピア』や『快楽号』が売れていて、すでに予兆はあったんですが、多くは実話誌的エロ漫画で、古いオヤジ体質ばっかりで、そういうのは嫌だなと。自分が抜けるぐらいのリアルなエロがほしいよね、なんて亀和田さんと理論武装したりなんかして(笑)。で、創刊したら売れちゃった。その後、亀和田さんはアリス出版に行って『劇画アリス』を創刊させたんだね。

 

菅野:亀和田さんが抜けて、それで俺が入ったんだよね。それまでは編集プロダクションにいて『別冊少女コミック』をやっていてね。萩尾望都さんの『11人いる!』の原稿取りとか、行ってたんですけど、『エロトピア』を見たときこっちの方が面白そうだな、って思って檸檬社に行って、それで俺は『別冊大快楽』をやったんですよ。

 

──その頃ガロは読んでいたんですか。

 

菅野:前から読んでましたね。鈴木翁二さんとか好きでしたし。

 

小谷:僕は高校のころから読んでましたね。どちらかというと『COM』よりも『ガロ』派だったなあ。

 

──『大快楽』ではひさうちみちおさんが随分と描いてましたよね。

 

菅野:あのころ『大快楽』はあがた有為能條純一羽中ルイが、三本柱になっていたんだけれど、能條さんが抜けてしまったので「新しいスケベなヤツを探そう」ということになっていろんな雑誌を見て探したんですよ。それでガロのひさうちさんを見て「この人がいいんじゃないか」ってなったんですよ。

 

──どの作品を見たんですか。

 

小谷:『パースペクティブキッド』です。あの作品は別にどぎついエロを描いたわけじゃなかったんだけれど、あの絵の感じっていうのが「ホントにスケベな奴だな」って。それでこの人にエロを描かせたら面白いんじゃないか、って思ったわけですよ。線も奇麗だし今までにないタッチだったし。要するになにかね、妙なニオイがしたんですね(笑)。

 

菅野:ひさうちさんは凄かったよね。プロットがあがって「それじゃこれでやってください」っていうと今度はコマ割持ってくるんだけれど、それを見るとガロで描いているようなコマ割でね。「うちはエロ本なんだからバーンッって見開きを入れたりしないと」ってさ。あの人くらい描き直しさせられた人はいなかったりして(笑)。

 

小谷:でもその絵コンテっていうのがさ、ボールペンで描いてあるんだけれど、殆ど仕上がりと同じなんですよ。僕はその絵コンテをしばらーく持っていたけれど、あれは凄かったね。

 

──でもひさうちさんはあの時期数々の傑作エロ漫画を描きましたよね(笑)。

 

菅野:最初はね、ちょっと危ない話だったんだけれど映画の『ジョニーは戦場に行った』と『女体拷問人間グレダ』を合わせたようなのをやってくれって言ったら「あっ、いいですねそれは」って(笑)小谷それが『女博士の異常な愛情』っていうタイトルになった(笑)。あれがひさうちさんのエロ劇画の始まりだね。

 

菅野:その後あの名作と呼ばれる“〇〇に捧ぐ”のシリーズを描いたんですよ。「誰が好きですか」って聞いたら「太田裕美です」っていうから、「じゃ太田裕美でやって下さい」って。それで始まったんですよ。

 

またヘンなヤツが来た?

──あと、やはり平口広美さんの『大快楽』デビューもインパクトありましたよね。

 

菅野:平口さんはね、持ち込みに来たんですよ。最初それが平口さんとは解らずに、またアブナイ奴が来たな、って思っちゃって(笑)。

 

小谷:そうそう、それで僕、菅野くんに押し付けてね。で、菅野くんが仕方なく応対したら「ちょっとちょっと、平口さんだよ」って(笑)。ビックリしましたよ。僕は『愛のタバコ屋』なんか大好きだったからさ。

 

菅野:ひさうちさんと平口さんの出会いっていうのも凄かったよ。平口さんの家にひさうちさんを連れていったら、平口さんが死体写真集を見せてさ「いいですねえ、いいですねえ」って二人で興奮してましたよ(笑)

 

──その頃ガロは忘年会とかあまりやらなかったんで、外の雑誌を通して知り合った、というのが多かったですね(笑)

 

小谷:でもガロの人達は仕事がやり易かったですよ。あのころって一人が一冊を作る、っていうのが殆どだったから、自分のカラーが出ちゃうでしょ。で、結構拘りに走ったりしちゃってね。だから作家の人達にも好きに拘ってくれれば、と思ったし、ガロの人達はよく拘ってくれたと思うし……。ひさうちさんは描くことにもフェティッシュだったね。トーンも使わずに一生懸命線を引いてる。「その時は何も考えなくていいんですよね」ていうから「あっ、オナニストだな」って(笑)。

 

菅野:俺ね、平口さんの漫画で凄いと思ったのは、新婚夫婦の家のゴミ箱からコンドームを拾い上げたオヤジが「外側は奥さんだな」っていうんだよ。これ、凄いセリフだなと思った(笑)。普通のエロ漫画でもここまでは出てこない(笑)。

 

小谷:いかに思春期にいい目を見てなかったか、だね(笑)。

 

菅野:あと鈴木翁二さんや安部慎一さんにも3回くらい描いてもらったね。

 

小谷:翁二さんはね、真夏に原稿を持ってきてくれたことがあったんだけれど、Tシャツ着ててさ、それも白い下着のシャツなんだけれど、ズボンもヨレヨレて貧乏な格好なのね。でもそれがピーカンの日差しの中で凄くカッコよかったな。

 

菅野:安部さんはね、初めて喫茶店で会った時、俺コーヒーを全部飲んじゃったら「もう少し飲みます」って俺のカップに自分のコーヒーをドボドボって入れたんだよね。変わった人だなあ、って思った(笑)。

 

小谷:あといしいひさいちさんの商業誌デビューは『大快楽』だったんですよ。高信太郎さんが紹介してくれたの。

 

──『大快楽』にはどのくらいいたんですか?

 

小谷:5年くらいかなあ。好きなことやってたから、あっという間で。

 

菅野:趣味が漫画とエロ本だったんですけど、仕事がそれもんになっちゃって要するに仕事すればするほど、趣味がなくなっていくという。ちょっと悲しかった。

 

小谷:その悲しみをオナニーにぶつけたりして(笑)。

 

菅野:そうそう(笑)。

 

──どのくらい出てたんですか?

 

小谷:売れてるって言っても12、3万部くらいだったかな。でもね、僕らとしてはガロの人達と付き合いを持つことで、凄く世界が広がりましたね。人脈も広がって行くしさ、流行の先端みたいなものにも引っ掛かってくるっていうか(笑)。そういう経験ができたのは嬉しかった。

 

菅野:それにもともと描いていた漫画家にしてもいい刺激にはなっていたみたいだね。全然毛色の違う作家が入ってくるわけだから。

 

ラストウェーブの中で

──それで『大快楽』を経て『ピラニア』『カルメン』に移って行くわけですが、その辺の話をちょっと……。

 

小谷:僕の場合『大快楽』で一つ盛り上がってそれが終わってしまった後に、『カルメン』・『ピラニア』と二枚腰でやらなきゃいけない、っていう辛さはありましたね。でもエロ劇画誌ブームの中ではあの2冊はラストウエーヴみたいな感じだったから、それなりの意味はあったって思いますよ。

 

菅野:檸檬社をやめて事務所を作ったばかりだったから、営業しなきゃいけない、っていうのもあったしね。それであの2冊を創刊する時カルメン』は平口さんが載せられるような雑誌、『ピラニア』は蛭子さんが載せられるような雑誌って思って創刊したんですよ(笑)

 

──でもあの2冊にはいろんな人が次々と登場して、面白かったですよね。桜沢エリカ吉田戦車原律子さんとか。

 

菅野:杉作(J太郎)さんは持ち込みに来たの早かったね。その当時から風貌がオヤジみたいなやつでさ(笑)。自分と同じくらいかな、って思ってたら10歳も下だったのには驚いた(笑)。

 

小谷:ひさうちさんなんかそのころもう売れっ子になっちゃってたんで漫画は無理だったからコラムをやってもらってたし。みんなメジャーにいっちゃって忙しくなっちゃってたから。

 

菅野:あっ、イワモトケンチさんも持ち込みだったね。リキテックスで描いたスクラップブック持ってきてさ。それが面白かったんで『アットホーム劇場』をずっと描いてもらってたね。あとさ、俺マディ上原さんは天才だと思うんだけれどね。だって陰毛漫画をやったのマディくんが初めてでしょ。陰毛を人の形にしたりしてさ、それをコピーして渡してくれた。あれ生原稿だったらヤダよね(笑)。

 

小谷:マディくんの4コマでさ、3コマまでで話が終わってしまって4コマ目に「ひとコマ余りました」っていうのがあったけれど、あれ、凄かったね(笑)。

 

──丸尾末広さんもあの2冊には随分描いてましたよね。

 

小谷:丸尾さんはね、時代をよく考えて描いていたね。その頃はもう80年代に入っていたわけだから、拘りを追求した70年代から、フワッって少し抜けていたね。自由な軽さがあったんですよ。あの漫画っていうのはコラージュとも、ポップとも言っていいんだろうし。で、あえて描く世界といえばドロドロとしたものだからさ。でもあの人の感性というのは少し浮いた状態で描くからそのバランスがちょうどいいんだよね。だから女子高生なんかでも受け入れ易いのかもしれないな。それに、丸尾さんはプレゼンテーションも上手いね。作品の中でパフォーマンスしてるでしょ。それは広告的な方法論に近いものがあって、その辺が80年代的だな、って思った。

 

菅野:でも発売元の営業からはよく怒られていたね。大変でしたよ(笑)。

 

小谷:切れっ、って言われるのがみんなガロ系の人達だったもんね(笑)。でも、ハイハイとか言いながらずっと切らなかったりして(笑)。結局マイナーな人達って好きだったんだね。

 

菅野:何か病気を持っていてそれでもちゃんと漫画を描いている人って好きだね。それを自覚している人っていいよね。自覚してない人は困るけど(笑)。

 

拘り方がセクシーだった

──基本的に小谷さんも菅野さんも漫画が好きなんですよね。

 

小谷:好きだよね。それにスケベなの好きだし。スケベな欲求っていうのはエネルギーでもあるしね。ものを作り出すエネルギーだよね。そこが感じるんだよ。で、つい抜いちゃったりする(笑)。俺さ、いろんな漫画で抜いたよ。小学校の時なんか『鉄腕アトム』で抜いたよ(大爆笑)。

 

菅野:ウランちゃんで? ヤダねえ(笑)。

 

小谷:劇画においては石井隆さんの存在っていうのも大きかったとおもいますよ。ずっと前にね、山上たつひこさんがどこかに「榊まさるも凄いけれど、石井隆はもっと凄い」ってコメントしていてさ、亀和田さんと「あの山上さんが凄いっていうんだから本物だよね」とか話したことがあったんですよ。榊さんの場合はエロを提供する、って言う感じだったけれど、石井さんの場合はエロでありながら作品を描きたい、って言う感じが強かったね。そのころ『別冊新評』で『別冊石井隆の世界』が出たんだけれど、あれだけさ、いろんな人が一人の作家について書きたがる、っていうのは本当に凄いことだと思うんだよね。

 

菅野:とにかくさ、エロに対する個人的な拘りがすごかったですよ、みんなね。その拘りかたがセクシーっていうか(笑)

 

小谷:あの頃は情報量が少なかったから拘り易かった、っていうのもあるかもしれないね。で、その拘りから妄想が生まれてきたりする。

 

菅野:そうだね、結局は妄想好きだったのかもしれませんね(笑)。俺たちもそうかもしれないし(笑)。

 

小谷:スケベっていうのは頭の中を非常に原始的な状態にしてくれるから(笑)。それって、一種のドラック的なものかもしれないね(笑)。

 

菅野:あとね、あの頃のことはよく時代的なことで片付けられていうけれど、まあ、確かにそういう面は大きいとは思うんだけれどね、それを方便みたいに使うのはよくないよね。

 

小谷:結局その時自分がやりたいことをやっているだけの話だからね。それは時代にマッチしている人は、才能のある人で、10年早すぎた、なんて言ってる人って結局マヌケなだけなんだよ(笑)。

 

菅野:まっ、早い人も遅いひともマヌケっていうことだね(笑)。

 

小谷:「迎合してる」なんて言いたがる人もいるけれどそうじゃないんだよね。

 

菅野:でも今はエロってあちこちに溢れてて情報量が多すぎるっていうか薄まっているというか、パワーが落ちてる、ってことはありますね。メジャー誌はエロはやっちゃイカンね(笑)。

 

小谷:そう、情報量の問題はあるね。エロの情報っていうのは貧乏だと妄想が肥大していくわけだけれど、今みたいにエッチなものがそこら中に散逸していると、集約された形にするのは難しいでしょうね。今『性愛の散逸構造理論』っていうのがあるからさ(笑)。

 

菅野:何いってるんだかね(笑)。でもしたたかなエロチズム、っていうのはあまり感じられないね。スケベな人が減ってきたのかなあ(笑)

 

一九九三年七月九日

文責・編集部

 

すぐれたエロ劇画はすぐれたひとりSMに似ている(S&Mスナイパー編集長・緒方大啓)

エロ劇画誌との出会いは、やはり『ガロ』出身作家との出会いによるところが大きい。真夜中のコンビニエンスストアーで立ち読みをした『大快楽』や『ピラニア』(それにしても凄い名前!)に掲載されていた、平口広美さんや、蛭子能収さん、根本敬さんの作品は、特に鮮烈に憶えている。暴力的で残酷なセックスを執拗に繰り返す平口さんの『白熱』や、チョン切られた女の首から、一すじにひかれた墨の色が、真っ白な空間に映えて、鮮血よりも生々しく赤かった蛭子さんの作品。そして、妊婦の腹をかっさばいた強盗が、取り出した胎児を別の女の腹を割いて中に入れ、御丁寧にも縫合までするという、空恐ろしい根本敬さんの作品に出会った時には、ただもう呆然として、コンビニエンスストアーのブックスタンドの前に立ち尽くしてしまったのを憶えている。

もとより『ガロ』の読者であったから、御三方の作品を愛読してはいたのだが、性欲の処理を目的としていた当時のエロ劇画誌で見たこれらの作品は、特に強烈だった。これではオナニー出来ない。ズリネタにならないエロ劇画は何なのだ、と思いながらも、何かエロ劇画誌はとんでもないことになっているのかも知れないと興奮したものだ。つぶさに見てみると、いつもの肉弾相討つ劇画の他にも、俺のはエロとはちょっと違うもんねと主張する若手の作品や、女性ライターのエッセイが並んでいたりして、中には作品のバランスが悪い本も多かったし、何を描いているのか判らないものもたくさんあった。それでも性欲の処理を意図しない面白い作品が載っているのは凄いことだった

そうした作品には圧倒的なまでの個性があった。エロなんてなんぼのもんじゃいという、声が聞こえた。叫び、犯し、ヤリまくる者も、笑いながら女を殺し屍姦する者も、田舎者も労働者も、都市生活者も、ともかく日常から逸脱せずにはいられない超個性的な性の世界を生きていた

彼達はきっと肉体を越えたセックスを目指していたのだと思う。あるいは、セックスの向こうにある欲望に突き動かされていたのだと思う。実は、少ないながら私が垣間見たSMの世界も、セックスの向こうにある欲望に近いような気がする。脚フェチやヒップフェチといったオナニズムに欲情する人々。ラバーで全身を包みこみ、通常の肉体を越えたところでしか欲情しない人こうした、個性的な性であり続けるのは、結構大変なことでもある。例えば始めてM女性を前にした男は、ムチひとつ振るうにしても相手の身体を気遣うあまり、貪欲なまでに男を求めるM女性の心理を捕えることなどとうてい出来ず、ともすれば、最終的にセックスでしめくくったりする場合がよくある。SMでの男と女の関係は、セックスを乗り越えた世界にもっと足を踏み入れたがっているはずなのに。相手を縛り、ムチを打ち、果ては浣腸を行い排泄を強要する、こうした手の込んだことをするのは、セックス以上の欲望を満たそうとする個性のあり方のせいだと思う。

すぐれたエロ劇画は、圧倒的に個性的だった。すぐれたエロ劇画は、日常のセックスを粉砕した。その時、作家は、自らの肉体的な欲情をがんじがらめに拘束していたのだろうか。それとも、全身を包んだラバリストのように、暗闇の中でほくそ笑んでいたのだろうか。すぐれたエロ劇画は、すぐれたひとりSMに似ているような、気がする。(違っていたらスミマセン。ところでSMエロ劇画のオススメは、三条友美の『少女菜美』シリーズであります)。

 

三流劇画15年目の総括(解説・米澤嘉博

三流劇画ブームと言われた時代から、既に15年が過ぎた。今だから言えるのだが、あれは、半ば作られたブームだった。僕や川本耕次あたりが中心となって、批評同人誌『漫画新批評大系』を核に、いろんなメディアに波及させ、業界の一部の人達がそれにノリ、『プレイガイドジャーナル』『別冊新評』が参画することで何とか形になっていったというのが、実際の流れだったような気がする。意図はと問われれば、面白がりたかったからと言うしかない。つまり、マンガはエロも描きうるのだし、マンガファンにも一般にも相手にされていなかった世界にも、才能と変革の意志を持つ作家や編集者がいることを知らせたかったからだ。

手塚を生み出した赤本、多くの劇画家を輩出した貸本マンガ……マンガは常にマイナーで俗悪な部分から収奪することで、次の時代を創ってきた。少女マンガが手垢にまみれ始めていた時代、三流劇画の垣間見せるパワーは、マンガ状況にとって有効な力たりえるという確信もあった。そして、実際この時期、自販機本の台頭とからむ形で、エロ劇画誌は日増しに面白くなり始めていたのである。

状況と歴史を整理しておこう。

────戦後まもなくのカストリ雑誌の中から、小出版社が生まれ、それは昭和30年代の大人漫画誌のブームを作り出していく。『土曜漫画』『週間漫画Tims』『漫画天国』といったそれらは、ヌードグラビア、実話、記事、大人漫画などで構成された大人の為のエロ週刊誌だった。その中にエロチシズムをテーマにしたストーリー物が現れるのは、1965年頃のことだった。そこから70年代頃にかけて、貸本劇画の作家や児童マンガの作家の参入、『漫画アクション』『ビックコミック』といった青年漫画誌の創刊ブームもあって、大人漫画誌は、エロ劇画誌へと変化していくことになる。記事やナンセンス漫画が減り、エロ劇画が中心になっていく。それでも70年代に入ってからも『トップパンチ』『ヒットパンチ』『漫画Q』などは、末だ古い誌面構成だった

大きな変化が起こるのは『漫画ベストセラー』改題の『漫画エロトピア』がヒットする74~75年頃のことだ。榊まさるの劇画的な描き込みによる肉体とその量感の生み出すエロチシズム。パタナイズされた性愛ドラマが大ヒットの要因だった。そして『事件劇画』というリアルな題材で描かれる雑誌に、石井隆が登場してくることになる。売れるものがあれば右へならえする利にさとい業界は、74~5年にかけて『ベンチャーコミック』『漫画大快楽』などを創刊させ、能條純一あがた有為羽中ルイつつみ進といった作家が人気を得ていくことになる。それは性愛をねちっこく劇画的な絵で展開する、榊の流れにある正縫エロ劇画だった。

これまた人気を得たことによって78~9年にかけて30~40のエロ劇画誌が創刊されることになっていく。雑誌の数が増えれば、作家の数も増加するわけで、様々な才能がひしめきあう場所へとそこは変わっていった。少年マンガや少女マンガから、貴村光、福原秀美、小山春男、水島健一郎、村祖俊一、貸本の流れから橋本将次、湧井和夫さがみゆき...。『COM』世代の作家達もデビューしていく。飯田耕一郎井上英樹中島史雄...。『ガロ』の作家達も描いていく。花輪和一丸尾末広平口広美ひさうちみちお...。

エロの部分さえ押さえておけば、あとは何をやっても許されるというある意味ルーズな了解が、宮西計三やいつきたかしといった作家を許容出来もしたし、ダーディ松本や清水おさむといったエロとバイオレンスのマンガを突出させていった。そして、いしかわじゅん川崎ゆきお吾妻ひでお、といった作家をも描かせていったのである。

そうした状況の中からエロ劇画界のエスタブリッシュメント的存在であった『大快楽』、意欲的に少女マンガ的なものを取り入れていた『漫画エロジェニカ』、戦闘的姿勢を売りにする『劇画アリス』の三誌は、御三家としてマスコミに取り上げられていくことになる。マイナーであるが故の自由さ、お祭り騒ぎ的な状況の中で、『エロジェニカ』『アリス』はさらに先鋭化していった。コラムの充実、マンガ評の掲載、山田双葉(詠美)、近藤ようこ柴門ふみ坂口尚、奥平イラ、峰岸ひろみ等の起用。それは閉塞状況にあったマンガ状況に対する新たな勢力の台頭といえなくもなかったのである。村祖俊一中島史雄は美少女路線をさらに推し進め、飯田耕一郎井上英樹は新たなエロスに挑戦し、宮西計三の絵はますます美しくもグロテスクになり、次々と登場してくる新鋭の作品も、ワンパターンだったエロ劇画の領域を拡大していった。インテリ文化人が注目し、女子高校生が『アリス』を求めて自販機を捜し、一般誌へ進出していく作家も出始める頃、『漫画エロジェニカ』が発禁をくらうことになる。

そして『別冊新評・三流劇画の世界』が出た79年頃より、業界はいっきに失速していくことになる。『エロジェニカ』が会社の倒産と共に休刊、『劇画アリス』もまもなく廃刊となり、『大快楽』も編集者がやめることになっていく。『カルメン』『ダイナミック』『ピラニア』など、後を荷負う方向性を持つ雑誌もあったし、『漫画ハンター』『漫画スカット』『ラブ&ラブ』など、面白くなっていた雑誌もあった。だが、幻の三流劇画全共闘内ゲバ(?)、当局の締め付け、自販機の衰退など様々な要因もあって、80年代に入ると、まるで祭りの後のような寂しい状況になっていった。

三流劇画の後を受けたマニア誌を中心にしたニューウエーブ・ブームも含めて、70年代末のマイナーなマンガ群は、80年前後に相次いで創刊されていった『ヤングジャンプ』『ヤングマガジン』などの新青年誌に、いいところだけ吸収されていくことになる。より安く、より有名作家による、明るいSEX物が出回れば、三流劇画誌はたちうちできなかった。また時代は、内山亜紀の人気でも解るように、劇画的な描き込み、青年マンガ的暗さより、明るいロリコン物を求め始めてもいた。エロ劇画誌そのものが、ロリコン誌という過渡期を経て美少女コミック誌へと転回していくのが80年代だ。

さらにエロも、自販機本、ビニ本裏本、アダルトビデオと、よりハイグレードなものへと進化していったことも、エロ劇画誌のよって立つ基盤を失わせていったのかもしれない。エロ劇画誌の読者には、マンガファンもいたが、大半は安手のポルノを求める読者達であったことは言うまでもない。ブームがエロ劇画に思想を植え付けてしまったことが、業界のジリ貧につながっていったという言われ方もされたが、それがなくとも、やがては終息していったはずである。20代から30代前半の、作家や編集者のエネルギーのカオスが、そのまま、一つの時代を創っていた。そう見るべきなのである。

あれから、マンガの中では時代は3回りも4回りもした。美少女コミック誌や青年マンガの「有害」コミック問題でさえ、今や忘れられようとしている。かってのエロ劇画の出版社は今も、そうした雑誌を出し、半分以上を美少女コミック誌に変えた。押さえつけられれば、サッと引き、大丈夫と見れば次々とエスカレートさせていく。そのしたたかさがエロ業界なのである。そして、そこは今もマイナーであるが故の自由さを残してもいる。エロ劇画、三流劇画誌は役目を終えたにしても、エロとマンガの蜜月は相変わらず続いており、それは常に可能性のカケラを秘めているのである。

 

近頃の自販機事情はどーなっているのか?(取材・ガロ編集部)

一般の目に触れにくい「自販機」というメディアの特性を逆手に取り、やりたい放題の誌面作りをすることによって独自のアンダーグラウンド文化を作り上げた「自販機本」。その誌面のブッ飛びようは今回の特集である程度お分かり頂けたと思う。

最近では自販機そのものも少なくなり、あっても中身は一般書店でめに入る本だったりするが(『BOOK VENDER』などというフザけた名前がついているものもある)、あの懐かしい自販機本は果たして無くなってしまったのだろうか。我々取材班は、自販機を求めて夜の町をさまようのであった。

中央線のK駅近くに、ちょっと冷しげな、イイ感じの自販機があるとの情報を得た我々は、早速現地へ赴いた。目当ての自販機はすぐに見つかったが、最近の自販機は本だけでなく、ビデオやオトナのオモチャまで売っている。一般書店で見かけないような、老舗の自販機本らしきものもあるにはあるが、普通に書店売りされている本の方が多い。しかたがないので3千円のダッチワイフを買う。

ダッチワイフにもピンからキリまであるが、1万円以下のものは大体下半身のみと考えてよい。しかし、ここで買ったダッチは3千円のわりにはなかなかよくできている(特にケツのラインがすばらしかった)。オトナのオモチャ屋で売っている「看護婦*1なんとか(1万円)」よりもずっとよく出来ていたぞ! 下半身だけのビニール美女なんて、アクセサリーとして部屋に置くのもちょっとキッチュでいい。さらに布団乾燥機をジョイントすれば「ズボン乾燥機」にもなりそうなので一石二鳥だ(本当か?)。

肝心な本の方はというと、いくつかの自販機をまわってみたものの、めぼしいものはない。写真主体のエロ本も自販機にはよく入っているが、むかーしのビニ本の焼き直しだったりする。一冊買ってみたが、スミの入れ方がものすごくて、アップのショットは何が何だか全然分からない。一発抜こうと思って自販機の前で散々迷った挙げ句、こんなものつかまされちゃたまらんだろうな。他には一般書店でも売っている投稿誌なんかがあったが、最新号ではなく、ちょっと古い号を多少安く売っている。まあ、古い号でも抜くのには問題ないか。

 やっぱりオモチャ関係に目が向いてしまう。「健康増大ポンプ」*2と「バールローター」*3がセットで7千円は安くないか。新宿のオモチャ屋ではローターだけで6千円で売っているぞ。「アヌス責め」とかいうオナニーグッズは、筒状のグミキャンディのような材質のもの(スゴイ例えだな)に肉棒を入れてシゴクものらしい。名前通りケツのアナ状の皺が刻まれている。ちゃんとローションも付いていて3千円。でもこういうオモチャって使い終ってから洗うのがムナシイだろうな。

というわけで、自販機本を探しに行ったつもりがオナグッズばかり見てきてしまった。

 

エロ劇画、自販機本出現以前、性表現に限らず、出版界には様々なタブーがあった(もちろん今でもあるが)。カッコ良く言えば、それ等のタブーを、試行錯誤しながら一つ一つ打ち破って行ったのが今回の特集で取り上げたような雑誌である。確かにそういった側面もあったのだ。今回のインタビューでも分かるように、そうした雑誌の作り手はほとんど素人だった。エロ雑誌の身軽さと、素人のムチャクチャが、20年前後の特殊な状況を作り出したのである。

 

編集後記

 ☆今月は対談の方でも楽しませてくれた高杉弾氏は、やっと結核も治ってメデタク退院したと思ったら、今度はまた糖尿で入院されてしまいました。糖尿はゲッソリと痩せてしましますが、もともと痩せておられた高杉氏はさらにガリガリになってしまい「なんとか40キロ台はキープしておきたいんだけれど」と嘆いておられました。デブには羨ましい話ですが、ビョーキはつらいので、励ましのお便りを出しましょう!

 

♡今月は特集を通じ、大勢の先輩編集者に聞く(読む)ことができ勉強になった。例えば白夜の末井さんは、『写真時代』で年商80億という現在の白夜につながる道をつくりだした人だ。「所詮雑誌なんだから」という言葉の深みをどう解釈するかが、今後のガロの課題だ。(山中)

〄「編集後記」というものはフツウ編集が終ってから書くものだが、これから書かなきゃならない原稿が6ページ分ある。ということは当然、1日発売は無理なわけで、書店に行って下さった方どうも済みませんでした。(浅)

🌸ヌマゲン氏と、憩写真帖の撮影をしていると、「何を撮ってるんだ」といかつい顔したおやじに聞かれることがありますが、「あの、憩の写真を......」と言うと、「ああ、憩ね!」と豹変します。不思議な力があるもんだ、憩には。限定本の予約をお待ちしてます。(高市

⛩その昔、私もエロ本にはお世話になったものです。青林堂の給料では食えず餓死寸前だった時、エロ本編集者の方々からお仕事をいただき命拾いしました。会社が終わるとそのまま白夜書房EUオフィスに直行して原稿を書いたりして。そういえばずっと前に給料をいっぱい貰っていた末井さんに「もうビンボーはヤだから末井さんの子供になりたい」といったら「いいですよ」と笑ってましたっけ。ハハハ(手塚)

♬あーまた買っちまったよ三脚と雲台! マクロレンズの接写用にミニ三脚と、微動装置付マクロスライダーだ。世の中にや世渡りがウマいっつーか運がいいっつーか、人からものを貰うのにッイてるヤツって必ず身近にいて、わしの場合はO場(仮名)営業部員がそーなんだけど、わしにゃ「マミヤの645、モデルチェンジしたから古いのあげるよ」とか「ハッセルブラッドあきちゃったからあげる」とか「ライカ、使いませんかのぉ」とかゆー人がちっとも現れないぞ。(当たり前だが)それどころか某カメラ雑誌(ガ●ケンの『CADA』)に恥をしのんでモニター応募したが見事に外れるし。こういう「物貰い運」は全てO場嬢が持ってってるのではないか。←やつあたり...さて先月山中編集長にカメラ俺にくれよお宣言をした私ではあるが、結果「あれ、面白かったよ」の一言であった。ケチ。(白取)

撮影用に購入したダッチワイフがそれから何処へ行ったかというと、実はまだ俺の部屋に居たりするのだが月の九十九里浜で浮き輪がわりにダッチワイフを小脇に抱えた坊主頭の男がいたら、気軽に声をかけてくれ。そいつがこの俺サ。(ぞの)

今月、青林堂内には資料用のエロエ口本がわんさかあって、ペラペラとみてたら、なんだか人生観が変わってしまいました。そういった事を何年も続けていると、北園さんのような立派なエロの帝王になれるのですね。(大場)

今月中旬に鳩山郁子さんの2冊目の単行本『SPANGLE』出版予定です。1冊目の『月にひらく襟』も同じ位に再版予定なのでこちらもよろしくお願いします。(志村)

*1:看護婦とうたいながら服は付いてないので看護婦でもなんでもない。箱の写真が看護婦なだけ。

*2:筒に肉棒を入れてをしゅこしゅこすると中の空気がぬけ、肉棒に血が集まってピンコ立ちになる機械の事。

*3:小型のバイブのようなもの。クリトリス管め、アナル責めなどに使う。

鼎談/高杉弾・末井昭・南伸坊「素人はバクハツだ!!」

鼎談/高杉弾末井昭南伸坊「素人はバクハツだ!!」

全てはエロ雑誌から始まった!!

画期的な雑誌りで次々と話題をふりまく末井氏

アングラ誌の草分け的存在の高杉氏

そして70年代『ガロ』編集長をつとめた南氏の三快人がくりひろげる大爆笑鼎談!!



いきなり編集長?

──まず、お二人が手掛けた雑誌は当時とても話題になり、その後、いろいろな方面に影響を与えていましたが、あの頃のはどんな状況の中で雑誌を作られていたのでしょうか。

 

末井:それは自動販売機を抜きには語れないんじゃないですかね。自販機本なんかはよくお手本にしてましたよ。

 

高杉:末井さんの『ウイークエンドスーパー』は取り次ぎ本だったけれど、僕がやっていた『Jam』や『HEAVEN』は自販機で売っていましたし。

 

末井:自販機がなきゃ高杉さんみたいな悪どい商売はできませんでしたよ(笑)。だってへんな記事をエロ本に入れていたでしょ。これ書店だったら売れませんよ。

 

高杉:分からないで買った人は自販機を蹴っ飛ばしてた(笑)。

 

──高杉さんはどういう切っ掛けて編集を始めたんですか。

 

高杉:知り合いに八木眞一郎っていうやつがいてね、彼がへんなパロディ雑誌をやっていたのでそれを手伝ったのが最初なんですよ。でもすぐに潰れちゃって、学校もやめちゃったししょうがないからブラブラしていたら、ある日ゴミ捨て場に捨ててあったエロ本を、全部拾って持ち帰って、見てたらその中に普通のエロ本とは違う、ちょっとヘンな雑誌に目が止まってね。ヒマだったもんでその編集部に遊びに行ったんですよ。そこがエルシー企画という所だったんです。

 

──『Jam』の発売元ですよね。

高杉:そうですね。それで『悦楽超特急』という雑誌の編集の人(=佐山哲郎:引用者注)に「じゃ、とりあえず8頁だけやってみない?」って言われてやったのが「Xランド」なんですよ。でも編集のこととかまったくわからないから、切り抜き写真なんて、ホントにハサミで切り抜いてましたね(笑)。でもその企画がウケて、「じゃ、一冊丸ごとやってみないか」ということで作ったのが、『Xマガジン』だったんです。まったくの素人だったんですけどね(笑)。

 

──『Jam』の前身となったものですね。

 

高杉:ええ、それからすぐに『Jam』になったんですよ。南(雑誌を見ながら)この“原爆オナニー大会”っていいね(笑)。結構編集してんじゃない、ちゃんと(笑)。

 

末井:山口百恵のゴミ大公開は? あれ凄かったですよね。

 

高杉:『Jam』の創刊号ですよ。

 

末井:でもこれ、エグイね。使用済みナプキン(笑)、これやらせっていうのはないんですか(大爆笑)。

 

南:キャプションがいいよね。“高一のときの生物のテストの67点”だって(笑)この“ストッキングの包み紙・妹のだろう”って決めつけてるのは?(笑)。

 

高杉:この時は二回行って拾ってきたんですが、一応車のなかで本当に百恵ちゃんの家のゴミか確かめるんだけれど、もうすっごいクサイんですよ(笑)。

 

南:あとこの奇怪なファンレター、っていうのもいいね。ちゃんと活字に起こしている……。完全にイッちゃってるねこの文章。この企画はもう犯罪だね。傑作だよこれは(笑)。

 

末井:この企画は山口百恵だけ?

 

高杉:いえ、『Xマガジン』でかたせ梨乃をやってます。そっちはほとんど話題にならなかったけど(笑)。

 

末井:どうして一回目がかたせ梨乃だったんですか?

 

高杉:それが、かたせ梨乃の住所しか知らなかったの(大爆笑)。ただそれだけ。

 

末井:でもこれ単行本にしたら売れますよ(笑)有名人五十人くらいやってね。

 

高杉:百恵ちゃんをやった時は週刊誌なんかが取材に来ましたね。でも相手は一応取材だから丁寧な口調なんだけれど、もう完全に非難している(笑)。「そんなことしてて良心が痛みませんか」なんていうんですよ(笑)。

 

──『Jam』はどのくらい売れていたんですか?

 

高杉:1万くらいかなあ。自販機本だから表紙が勝負なんですね。表紙しか見られないから。だからヒドイ時には業者の人が表紙をめくっちゃってエロッぽいグラビアを表にして入れてたりしてたんですよ。凄いことするなって思った(笑)

 

末井:表紙が二つあるのもあったね。一枚目はおとなし目で書店用、捲るとまた凄い表紙があってそれが自販機用(笑)。

 

──あの頃はそういう面白い悪知恵ってたくさんありましたよね。

 

末井:うちの社長は凄いですよ。「本を切る」って言うの。

 

──えっ? 切るっていうと…。

 

末井:僕がデザインをしてたんですけれど「末井さんね、本を半分に切るから、そういうふうにレイアウトしてくれ」っていうわけ(笑)。A4の雑誌を半分に切ればA5が2冊できる、だから計3冊できるわけですよ(大爆笑)。

 

南:自由な発想だよなァ(笑)。

 

末井:結局ね、高杉さんも僕もいきなり編集長なわけですよ。「やれ」って言われてね。だから好き勝手と言ってもみんなそれなりに試行錯誤している。で、それがメチャクチャになって行くんですよね。だから編集を十年もやっている人が始めると、こういうふうにはならないんですよ。

 

南:そう、プロは自分勝手しちゃいけないって思っちゃうからね。

 

──じゃ、入っていきなり編集長になってしまうんですね。

 

末井:いきなりも何も一人しかいないですから(大爆笑)。あとね、あの頃はエロ本が作りやすかった、っていうのもあってね。ヌードが入っていればそこそこ売れていたからあとは何をやってもよかったんですよ

 

南:長井さんが終戦直後やってたカストリ雑誌みたいなもんだね(笑)。

 

ガロの作家は安かった!

──お二人の雑誌にはガロ系の作家の方々も随分執筆していましたが……。

 

末井:ガロの作家は安いから(笑)。まあ、ガロが好きだったということもあるんですよね。僕、ガロに投書して載ったことあるんですよ(笑)。

 

高杉:僕も投稿してましたよ。定期購読もしてた(笑)。単行本が出ると直接買いにいったしね。長井さんが風呂敷に包んでくれるのが嬉しくってさ(笑)。

 

末井:僕は恐れ多くて買いには行かなかったけれど、昔のガロも持ってますよ。高く売れるかな(笑)。

 

高杉:ガロには絵がいい人が一杯いたよね。でもストーリーはよく分からないような感じがしたけれど(笑)。

 

末井:でもその分からないのが良かったね。僕はつげ義春さんや林静一さんが好きだったんですけれど、林さんなんか話は分からなくても凄く懐かしいような、情緒があるんですよ。

 

高杉:南さんが編集してたころはなんかモダンな感じでしたよね。

 

末井:糸井さんなんかも入ってきたし。

 

高杉:湯村さんのインパクトは凄かったですねえ。僕は湯村さんが大好きで『HEAVEN』で4色の漫画をやった時まず湯村さんのところに行ったんですよ。最初『ねじ式』をカラーてやりたい、っていうのがあったんだけれど、湯村さんに相談したら湯村さんはエビスさんの大ファンだったもんで「じゃ、まずエピスさんから行きましょう」ってなったんだ。

 

──それが『忘れられた人々』ですね。

 

高杉:そうですね。エビスさんは、『Jam』のころから描いてもらってましたね。池袋で初めて会ったんですけれど。「最近ガロで描いてないようですが、8頁描いてもらえませんか、ギャラはちゃんと払いますから」って言ったら「ホントですか、どういう雑誌ですか」ってなかなか信用してくれない(笑)。物凄いチンピラが来たと思われたみたいで

 

南:そのころ全然ガロに描いてなかった時だしね。ガロに描いてもタダだし、だめだと思ったんじゃない。で、ナベゾ渡辺和博氏)に接触したのは?

 

高杉:渡辺さんには『Jam』の最初の頃から漫画を描いてもらったんですよ。

 

南:その頃まだナベゾ青林堂にいてさ、例によってオレの脇腹をつついて「昨日物凄いヘンな奴に会った」って報告するんだよ(笑)。多分八木さんのことだと思うんだけれど、「革靴、素足にはいてんだけど、そのヒモ靴のヒモがない」ってオレにいいつける(笑)。

ガロの作家は安い、って言えばさ、末井さんが『ニューセルフ』の編集長やってた時に、嵐山(光三郎)さんに原稿を頼んでね、その頃、嵐山さんは(安西)水丸さんと組んでやってたんだけれど、「水丸は高いぞ、だから伸坊にしろ」って言って(大爆笑)。

 

末井:もっと詳しくいうとね「水丸さんにお願いしたいんですけど」って言うと「もっと安いヤツがいるぞ」っていうの。その安いヤツが南さんだった(笑)。

 

──じゃ、ガロ系では南さんが初めて登場したんですか。

 

南:そんなことはないと思うよ。末井さんが面白いと思った人はどんどん登場してたから。

 

末井:僕ガロのファンでしたからね。だから荒木経惟さんもガロでやってましたから、電話番号は南さんに聞いたんです。

 

南:荒木さんは最初ゼロックスで自分の作品をいろんな有名人に送っていて、赤瀬川さんのところにも来たんですよ。それで美学校の授業の時にそれを赤瀬川さんが見せてくれたのね。それでずっと覚えていてね、それで最初は文章をお願いした。花輪さんのこと。それから漫画家じゃない人に漫画のようなことをやってもらう、っていう企画を立てた時に荒木さんに写真漫画を頼んだんですよ。

 

高杉:末井さんの雑誌に荒木さんが登場したのはいつ頃だったんですか?

 

末井:雑誌は『ニューセルフ』の時でしたね。写真エッセイで『地球がタバコを吸っている』っていうのね。火葬場の煙突の写真なんですよ、ただの(笑)。煙りが出ていて遠目で撮っているから確かにそう見えるんですよ。で「ウマイな」なんて思ったりしてね(笑)。だから最初はヌードじゃなかったんですよ。でも荒木さんが連載したのはガロが最初だったんじゃないですか。

 

南:カメラ雑誌ではもちろんやっていたんだろうけれど、普通の雑誌での連載ってのはなかったかもしれない。

 

豪快な作家たち。

高杉:でも白夜書房の雑誌に登場してた人って凄い人が多かったですよね。絶対値が高いっていうか濃い人が一杯いましたね。まず末井さんからしてそうなんだもの(笑)。

 

──高平哲郎さんや、田中小実昌さん、上杉清文さん、巻上公一さん、名前を上げたらキリがないくらいですよね。

 

南:平岡さんは『ニューセルフ』では嵐山さんより早かったね。

 

末井:最初平岡さんの所に行ったら「どういう雑誌?」って聞くんで「オナニー雑誌ですよ」って言ったら「うん、わかった。じゃっオナニー論を書こう」って言った(大爆笑)。

 

南:上杉さんはいつだったっけ?

 

末井:上杉さんは『ニューセルフ』のとき奥成達さんに紹介してもらったんですよ。会ったのは読売ホールでやった「冷やし中華大会」の時だったですけど。僕は第1回目の主催者だったんだけれど、机を片付けていたら、黙ってこう机の端を持ってくれる人がいて、それが上杉さんだったの(大爆笑)。

 

南:スゴク上杉さんの感じ出てるね。ホントのことだから(笑)。オレさ、ずっと前に上杉さんと新宿歩いていたら、糸井さんと会ってね。で、二人は初対面だったから紹介すると、糸井さんはまあ普通の大人の挨拶してんだけど、上杉さん、「あっ」とかいって完全に横向いちゃって横にお辞儀してんだよ(笑)。

 

末井:最初に会った時って自閉症みたいな人になってるよね、上杉さんは(笑)。

 

──『ウイークエンドスーパー』は演劇関係の人達もよく出ていましたよね。

 

末井:あれね、ヌードモデルによく劇団の人を使っていたんですよ。だからじゃないかな。

 

──劇団の人をですか?

 

末井:そう、あの人達は安いからね(笑)あのころモデルは3万が相場だったけれどうちは1万しか出せなかったから。それで劇団に行って「芸術やりませんか」って言って探すんですよ(笑)。コストパフォーマンスっていうのね。安く作るのウマイですよ、僕は(笑)。

 

南:劇団て言えばさ、前に幻の名作って言われてる『恐怖奇形人間』ってものすごく期待して観たんだけれど、全然セコイの(笑)。それよりもその映画に出ていた一平(山田一平/ビショップ山田)さんの話のほうがずっと面白いよね。一平さんが書いた『ダンサー』っていう本に載ってるんだけどさ。末井一平さん、内臓人間の役をあてがわれたんだけれど、どうしたらいいのか、って困って大森の屠殺所に行ったんだって(大爆笑)。それでとりあえず内臓を買って桶にいれてそれを背負って電車で運んだんだよね(大爆笑)。

 

南:やること極端。絶対にその話のほうが面白い(笑)。

 

末井:でね、それを体に巻き付けて土方さんに見せたら「内臓人間はやめよう」て言われたらしいよ(大爆笑)。

 

高杉:すっげぇー!(笑)

 

──それから(故)鈴木いずみさんも凄い人でしたね。ホントにアングラっていう言葉が一番よく似合っていた人でしたよね。

 

末井:そうそう。高杉さんはいずみさんと結構付き合っていたんだよね。

 

高杉:期間はそんなに長くはなかったですけどね。

 

南:末井さんもよくいずみさんの電話に付き合ってあげてたよね。ものすごい長話聞いてあげてるの。やさしいんだよ、末井さんは。なかなかできないよ。

 

高杉:とにかく元気のある人でさ、夜中に電話があって「今から新宿に来い、来ないと原稿を渡さない」っていうからタクシーで行くと、原稿なんか出来てないの(笑)。

 

末井:なんかさ、そういうことしている自分がいとおしくない?(笑)。

 

高杉:ハハハッ。でさ、カラオケバーを何軒も引きずり回されるの。それでGSの歌を歌わないと怒る(笑)。「知ってるはずだ」って。

 

南:いずみさんが亡くなったのをしばらく知らないでいてね。それで、オレんとこで宴会やって盛り上がってたら、末井さんに電話入って、「いずみさんが死んだって。自殺、首吊り」っていったんだよ。あのタンタンとしてるのがまた、末井さんなんだよなァ。「子供の前でストッキングで首吊ったって」って。さすが「お母さんはバクハツだ」だよな(笑)

 

末井:でも前から「死ぬ」って言ってたんだよ。だからあまり驚かなかった。やることもないし書くこともない、ってよく言ってたもの。

 

南:思い詰めていくとそうなっちゃうんだろうね。書くことなんかなくたって別にいいのにね。

 

高杉:そうですよね。でも「いつ死んでもおかしくない」って感じはありましたよね。

 

──鈴木いずみさんは最初は何をしていた方なんですか?

 

末井:文学はもともとやってたんですよ。それからピンク女優や写真のモデルもやってたし。作家としては五木寛之さんが押してたよね。まあ、とにかく凄い人でしたよ。

 

いい加減も必要ですね。

──「写真時代」は最盛期にはどのくらい売れていたんですか?

 

末井:25万まで行きましたね。

 

高杉:ええっ、それは凄い!

 

南:『写楽』の方が先だったよね。

 

末井:そう、だってあれを真似して作ったんだもの(大爆笑)。判型も同じですよ(笑)。平とじでね。

 

高杉:これだけ堂々という人も珍しいね。

 

──ロゴは?

 

末井:ロゴも……まっ、『写楽』を『写真時代』にしただけで(笑)。『写楽』は面白かったですよ。カメラ雑誌はいっぱいあったけれど唯一あれが面白かったね。

 

南:でも『写楽』はあんまりクダンないことはしなかったからね。だから末井さんはあっちが我慢してた部分を全部やっちゃったわけだよ、オモシロイこと(笑)。それを「写楽」も後追いするみたいになっちゃった。

 

──『写真時代』はホントに写真が面白かったですよね。

 

末井:僕らね、写真を選ぶ基準を決めていたんですよ。いやらしいモノ、危ないモノ、インパクトのあるモノってね。で、創刊号は10万部刷ったんですけど、これね“ヤケクソ十万部”っていってね。その時会社が潰れかかっていて「もうだめだ」って言う状態だったんです。それなら「もういいやっ」ってヤケクソで10万刷ったんですよ(笑)。

 

南:でもそのヤケクソのエネルギーが伝わったんじゃないかな。みんな面白がってやってたし(笑)。

 

高杉:何年続いたんでしたっけ?

 

末井:7年。それで発禁になった(笑)。

 

──警告は何回受けました?

 

末井:49回(大爆笑)。

 

──『HEAVEN』は1年くらい出ていましたが、どうして終わってしまったんですか。

 

高杉:あれはね、社長がビニ本の方でパクられたんですよ。それでおしまい(笑)。社長がパクられたら余剰の部分をやる余裕がなくなっちゃうでしょ。

 

──『HEAVEN』は編集もさることながら、羽良多平吉さんのデザインも大きかったですね。

 

高杉:平吉さんとはね、工作舎で出会ったんですよね。そこの『遊』って言う雑誌が普段とは違う冗談の雑誌を作りたいっていうんで僕達が呼ばれて、そこで会ったんです。で、僕も平吉さんのファンだったもんで「表紙のデザインやってもらえませんか」って頼んでね。

 

南:あっ、オレその雑誌で山崎(春美)さんて人に取材されたけど、じゃ『遊』の編集部の人だと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだ。

 

高杉:そうなんです。

 

──でも『HEAVEN』に載っていた情報って物凄くアングラでしたよね。ああいう情報ってどこから仕入れていたんですか。

 

高杉:半分はウソ(大爆笑)。でもそれでいいんですよ(笑)。写真とかは道で拾った本から切り抜いていたし。

 

南:でも高杉さん自身が面白いと思ったものを選んでるんだから、それが編集なんだよ。

 

高杉:僕も全然勉強してないまったくの素人から編集を始めたんだけれど、末井さんもデザインの勉強していて編集者になったんですよね。

 

南:俺もそうだから末井さんとは似てるんだよね。

 

末井:そうそう。だから文字の方から入ったんじゃないから誤植とかあっても全く気にならないんですよ(笑)

 

南:前に『笑う写真』本にした時さ、オレが文字の校正すると末井さんがさ、「どうせ字なんか読まないって、同じだって」て言うの(笑)。

 

末井:雑誌ってこうペラペラと見るものだからさ、一字違っていても前後の関係ってわかるじゃない(大爆笑)。

 

南:たしかにそうなんだよな(笑)。長井さんが似てんだよ、末井さんに。大体でいい、わかればいいって。南、コらないでいいって(笑)。

 

高杉:時々前後の関係さえ分からなくなるときもあるけれどでも「まっ、いいか」ってなる(笑)。

 

南:エロ劇画雑誌もそうだと思うんだけれど、あの頃はみんなオレ達みたいに素人がイキナリ始めるって言う形だったと思うし、だから元気があったのかもしれないね。抑制きかないからさ、ワガママな素人だから、自分が面白いことをする。末井さんのパチンコ雑誌が売れたのは、末井さんが「パチンコ雑誌」のプロじゃなくて、パチンコ好きになった末井さんの気持ちが前面に出たからでしょ。

 

末井:でもエロは今ダメだよね。締め付けがあるから。警察だけならいいんだけれど、どこかのおばさんの団体とかいろんな所からくるからね、誰を相手にしていいのかわからなくなっちゃうね(笑)。でも確かにあのころはやりたいことができましたよ。やっぱり規制とか会議とかあると皆元気がなくなっちゃう

 

南:ちゃんとした会社になっちゃうとそうなるね。

 

末井:徹夜で一生懸命企画書書いて「これは面白い」って思っても会議で「なにコレ?」って投げたりする。うちの社長のことだけど(笑)。

 

高杉:僕のほうは自販機本だったからよけいそうかもしれないけれど、たいがい版元の編集者と会議をやるもんだけど、僕たちはそういうの一回もなかった(笑)

 

:エロ本作りにお金を出してくれる人がいて「とにかく売れればいい」っていう状況ではあったよね。「売れればいい」っていうのはハッキリしてていいよ。

 

末井:あとね、いい加減だったらよかったんですよ。いい加減っていうのは必要なんですよね。「これは雑誌なんだから」っていうさ。雑誌たる所以ですよ、いい加減さっていうのはね。それがないとつまらない(笑)。

 

南:でもき「会議やらなきゃ売れる」っていうもんでもないんだよね。だってガロなんて会議なくて勝手にやってたけど、売れなかった(笑)。

 

末井:あっ、それはね、ヌードがなかったからじゃないんですか。ヌードを入れていればよかったのに(大爆笑)。

 

南:ハハハ……、いい加減でイイなァ(笑)。

 

1993年7月8日

ガロ編集部

初出:青林堂『月刊漫画ガロ』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」

対談企画『GON!』比嘉健二VS『危ない1号』吉永嘉明「卑屈でも鬼畜でも飯は食っていける!! 」

卑屈でも鬼畜でも飯は食っていける!! ザ・対談!!GON!』比嘉健二VS『危ない1号』吉永嘉明

(比嘉健二)

吉永嘉明

今、巷で話題の雑誌を仕掛けた張本人一人が、飲み屋で語った危ない編集裏話。あらゆる雑誌のスキ間を狙って活字世界に揺さぶりをかけるそのワケは…!!

初出:青林堂『月刊漫画ガロ』1995年12月号

☆遊び心を活かす面白さ。

吉永:比嘉さんが暴走族雑誌について受けたインタビューは、ずいぶん読んだ覚えがありますよ。結構でてましたよね。

 

比嘉:そうですねえ。『ティーンズロード』を編集してたときですけれど、『ユリイカ』とかに。そういうイメージのほうが強いんですよ、僕の場合は(笑)。でも『危ない1号』とうちの『GON!』とは読者が一部だぶってますよね。

 

吉永:アンケート葉書では、ほとんどの人が読んでる雑誌に『GON!』と『クイック・ジャパン』をあげてますよ。ほかに似ている雑誌が思い付かないみたいですね。

 

比嘉:うちのは『クイック・ジャパン』とは違うと思うけどなぁ(笑)。

 

〇『GON!』は創刊当時から話題になっていましたが、かなり暖めていた企画だったんですか?

 

比嘉:以前やってた『ティーンズロード』が成功したので、それはもう若い人たちにまかせて、また新しいことやろうと思いまして。それで何をしようか、と思ったんですが、もともと東スポが好きだったもんで、東スポを雑誌にしたいなぁってずっと思ってたんですね。そんな時にアメリカのタブロイド誌で『ウィークリーワールドニュース』を銀座のイエナで手に入れまして。東スポの一面に載っているような、生まれた子供が三百キロだった、とか、ETとクリントンが握手してる写真とか、うさんくさい記事を載せてることで有名なんですけれど、でも買っても英語が全然わからなくて(笑)。でも何かニオイたつものがあったんですね。表紙にドラキュラの骸骨の写真があって、それが発見されたという記事が一面にあるんです(笑)。あと、犯罪やフリークスものがてんこ盛りになっていて。

それでその雑誌を訳してもらったら、訳した人が「これは非常にレベルが高い」って言うんですよ。そんなレベルの高いものをそのままやるっていうのはできないけれど、マネなら何とか出来るんじゃないかと考えたんです。うさんくさい記事をメインに持ってきて、あとはいろいろな要素をいれていけば、日本のタブロイド誌に出来るんじゃないかな、と思って(笑)。

 

吉永:でも、よく創刊できましたね(笑)。

 

比嘉:普通そういうものが営業会議では通りにくいでしょ。でもたまたま「これは面白い」といってくれたやつがいまして。「売れないかもしれないけれど、こういう本の営業をしてみたい」って。でも自分としてはせっかく前の雑誌が当たって会社に貢献できたのに、これで失敗したらどうしようって、結構不安だったんですよ。誰も売れないと思ってた(笑)。でもラッキーなことにコンビニエンスでの展開ができまして、最初から十万部でスタートしたんです。

 

吉永:えーっ、十万まいたの。すごいなあ。メジャー誌より部数が多い(笑)。

 

比嘉:実売は全然ダメなんですけどね(笑)

 

吉水:でもさっき言ってました『ウィークリーワールドニューズ』って、確かに面白いですよね。だいたいメインの記事がウソなの。ウソなんだけれど面白いんですよ(笑)。それでサブの記事が事実なんだけれど、ちょっとヘンなやつばっかりなんですよね。だから僕はそういう小さいネタのほうが好きでした。小さいネタのほうが結構ジャーナリスティックなんですよ。

 

比嘉:それで、もう少しよく調べたら、あのタブロイド誌は、ワシントンポストやニューヨークポストなんかにいた連中が作ったらしいんですよね。もともと頭のいいやつが落ちてきて作ったやつだから、もう勝てない(笑)。

 

吉永:すでに基礎があったわけですね。

 

比嘉:だからアメリカはすごいなって思いましたよ。

 

吉永:遊び心をうまく活かせるというか、基礎がある人のお遊びですよね。

 

比嘉:それって余裕がないと出来ないですよ。余裕がないとマジで怒る人がいますから。

 

吉永:『GON!』でもそういう投書は多いんですか?

 

比嘉:多いですね(笑)。ちゃんとしたクレームはもちろん受けますけれど。でもそうでないものもありますよ。例えば“尾崎豊は生きていた”というネタをやった時なんか、テレビのワイドショーが信じてきましたよ(笑)。

 

吉永:マジで信じたんですか?

 

比嘉:そう、マジで(大爆笑)。

 

吉永:バカじゃないの(笑)。なんか楽しんで読む、っていうことが出来ないんですね。

 

比嘉:“スケボーおじさん”のネタをやったときもやっぱりテレビ局がきましてね。「どこにいるんですか」っていうから「砧公園にいるから捜してみて下さい」って(笑)。でも最近はウソだってわかったみたいで、全然こなくなりましたけど。でもそういうことで思ったのは、活字の恐さですよね。雑誌に載ってしまうと意外と信じてしまうというか。

 

吉永:ボードに手書きでかいてあっても信じないのに、活字になるとすぐに信じてしまうんですよね。でもそれちょっと知力がなさすぎますよ(笑)。

 

比嘉:ちゃんと取材した記事もいっぱいあるんで、そういう記事でくればこっちもちゃんと答えるんですけど、でも来るのはきわどいものばかりで(笑)。

 

吉永:うちなんて来たら困るなぁ。「あの強姦魔の人をインタビューさせてください」っていわれてもねえ(笑)。

 

〇吉永さんは、最初に手掛けた雑誌は『EXCENTRIQUE』でしたが、旅行雑誌というふれこみであったにもかかわらず、すでにあの雑誌に『危ない1号』の要素は入っていましたよね。

 

吉永:そうですね。あの雑誌は4人でやってたんですが、結局1年くらいで廃刊になってしまって、その後事務所を借りてくれるという条件でちょっと教育関係の情報誌をやって。でもそっちも危うくなってきたんで、宝島社に売り込みに行ったんです。「別冊宝島で『EXCENTRIQUE』をつくりたいんですけれど」って。そうしたら話をきいてくれまして「じゃ、特集部分だけを抜き出したものを別冊宝島でやりましょう」ってなって、それで作ったのが『別冊宝島EXタイ読本』だったんですけれど。

 

〇あれはタイの本当に知りたいところが書かれてあって、面白かったですね。

 

吉永:あれも、その後に出した『別冊宝島EX 裏ハワイ読本』も結構売れたんですよ(笑)。でもそうこうしてるうちに事務所がなくなってみんなバラバラになってしまったんですね。でもやっぱり仕事はグロスで受けたほうが好きなことができますから、それでまた集まって、まずクライアント探しでしたね。それでデータハウスさんと出会って、そこの社長さんが理解のある方で、『危ない1号』の企画が通ったんです。現在は3人ですけれど“東京公司”が一番力を入れているのが『危ない1号』なんですよ。でもこの本は取材をしてから出すまでに1年かかりました(笑)。実質ふたりでつくってますしね。もうひとりはプロレスの本なんかを作ってますから。

 

〇でも、売れましたよねえ。

 

吉永:売れたというか、僕の感覚では初刷部数が多かったんで、まずそれが不安でしたね。地方からガンガン返本がくるんじゃないかって(笑)。返本が多かったらもう2号はつくれないなって怖かったんですけれど。だって初刷2万って、相当ブランドイメージがついてないと絶対につらいと思うんですよ。ホントに心配だったんですが、でも今は5刷で4万かな。で、もうすぐまた再版がかかるんです。だから年内には5万くらいかなぁ。

 

比嘉:すごいねっ、5万!

 

吉永:でも、5万いったらこれ以上売れないように、読者の皆さんが買いたくなくなるようなテーマを入れなきゃいけないと思って。これが10万いってしまったら、もう好きには作れないでしょ。多分抗議の山だと思うんですよ。だからこれくらいで押えておきたい(笑)。

 

比嘉:ゆくゆくは月刊にするんですか?

 

吉永:いやそれは絶対に無理ですね。今の状態では人を雇えないし、また人を管理する能力もないし(笑)。来春あたりから隔月でいこうかな、と思ってるんですけれど。だから春からはちょっと人が欲しい。でもお金がないからボランティアでも募集しようと思って(笑)。『GON!』は何人で作ってるんですか?

 

比嘉:うちは今4人ですね。最近2人いれましたから。

 

吉永:えっ、少ないですね。あの細かい誌面を毎月4人でやってるんですか?

 

比嘉:そう、だからいつ倒れてもおかしくないですよね(笑)。でもうちは『危ない1号』さんみたいに単行本として耐えられるような内容じゃないから。ドラッグやったって上っ面で。だから数は出てるけれど、中身が全然ないの(笑)。

 

吉永:いや、でも『GON!』はストリート感覚の強い雑誌ですよ。

 

☆下世話なものは規制があったほうがいい

〇『GON!』は地方での反響はどうですか。

 

比嘉:わりといいんですよ。特に南のほうが。葉書や電話も多いですね。

 

吉永:でも、地方の読者は特に大事にしたほうがいいですよね。情報に飢えてますから、かえって敏感に反応してくれますよね。1号のアンケート葉書でも、次が買えるか心配です、っていう人もかなり多かったですから。

 

比嘉:あっ、同じですね(笑)。そういう不安は強いみたいですね。『ティーンズロード』なんかは読者が暴走族だから、東京よりも地方の方が売れていて、書店に置かれてる場所がすごく優遇されてましたよ、ジャンプの隣りに並んでたりしてね(笑)。

 

吉永:いい話ですねぇ(笑)。地方にはそこの文化っていうのがありますよね。『カミオン』っていうトラック雑誌なんかも結構いいところに置かれてますよね。根強い人気というか。でも『GON!』みたいな雑誌を作ってくれる人って少ないでしょ。出版社って東京に集中してるでしょ。それでインテリなんかが多くて、そういう人は地方のカルチャーというか、高校を卒業してすぐに工員になるような人達の気持ちが全然わからないんですよね。だからそういう人達に何かメッセージが伝わってくるような雑誌っていうのが実は少ないんですよ。だから『GON!』みたいな雑誌が増えていけば、活字文化は広まっていくと思いますよ。

 

〇面白ければどんなに活字が小さくても隅から隅まで読みますから。

 

比嘉:でもそれは多分うちの場合は記事が短いからだと思いますよ(笑)。週刊誌なんかで特集記事とかあっても長いと結局読まないんですよね。作ってる自分がそうんなんだから、読者ってそんなに長い文章を読むのかなって(笑)。だから自分が読者だったらこれくらいの本かなと。自分のレベルにあわせてるんですよ、実は(笑)。

 

吉永:でもそれはちゃんと読める雑誌を作ってるっていうことですよ。多分ね、『文藝春秋』とか『世界』とか買っても、あまり読んでないと思いますよ。一冊まるごと読む人ってあまりいないんじゃないか、って思います。入院してたり東京拘置所に入ってたりする人なんかは読むでしょうけれど(笑)。

 

比嘉:もともと日刊ゲンダイとかああいう新聞のほうが好きだったから、こういう雑誌にしたんだろうな。あまり長い文章だと自分でも理解できなくなっちゃうから(笑)。

 

〇そうすると、ものすごい量のネタが必要になってくると思うんですが、情報はどこからひろってくるんですか?

 

比嘉:創刊号を出してから、読者の反応がかえってくるんですよ。例えば「口裂け女を見つけたから取材にきてくれ』とか。そうするとすぐに電話して取材にいって、そうやってどんどん拡がってくるんです。今はファックスもかなり普及されてますから、地方の読者なんかはファックスで送ってきますね。

 

吉永:なんか『噂の真相』みたいになってますね。すばらしいことじゃないですか(笑)。

 

比嘉:でも8割がガセだけれどね。でも逆につい信じちゃって、なんだかバカみたいですよ(笑)。

 

吉永:でも『GON!』は読者とかなり一体感があるんじゃないですか?

 

比嘉:そうでしょうね。だから喜んでくれるんだと思うけれど。

 

吉永:うちの場合はわかってくれていない読者も多いんですよ。でもそれも嬉しいんですね。「じゃ、少しづつ鍛えていくか」っていう気持ちになれるじゃないですか。少し誤解しているんだけれど、正確に読みとってはいないんだけれど、でも何か感じとってくれてるんですね。そういうのはすごく嬉しいですね。逆に裏の裏まで読みとってしまうようなインテリの人から葉書もらっても嬉しくないですから。シニカルに分析されると、イヤ~な気持ちになりますよ(笑)。

 

比嘉:読者に女の子って多くないですか?

 

吉永:あっ、実はうち半分が女性です。

 

比嘉:うちもそうなんですよ。でも最近アナーキーさがなくなってきたんで、これはちょっとイカンなって思ってるんです。「親と一緒に読んでます」なんて葉書もくるし。でも違うんだよね。親には「こんな本は読んじゃいけません」って言って欲しい(笑)。

 

吉永:でもアンケートの半分が女の人だっていうのは、勇気づけられますよね。事務所にも電話はよくかかってきますよ。でもちょっと困るのは「あのぉ、シャブってどこで買えるんですか、こっそり教えて下さい」なんていう電話ですね(笑)。そういう時は「一応ここは普通の編集室なんでそういう質問にはお答えし兼ねるんですけれど。一応覚醒剤はイリーガルになっておりますので」ってちゃんと応対してますよ(笑)。

 

〇どちらも店頭に並ぶ本なので、読者が考えているよりもタブーには敏感なところがあるんじゃないかと思うんですが?

 

比嘉:うちはもうコンビニエンスにきられたらおしまいですからね。だからそういう意味では読者も誤解してるところはありますよね。「タブーに挑戦してくれるところが好き」とか「SPA!でもできない過激なことをやる」とかいわれるんだけれど、そんな大層なもんじゃないんだよね。姑息に売れてほしいってだけだから(笑)

 

吉永:うちもタブーだらけ、もう自主規制の嵐ですよ

 

比嘉:やっぱりそうですよね。

 

吉永:本屋で売る本は、顔も知らない人に買ってもらうわけだから規制だらけですよ。というか自分で規制してしまいますね。まったく規制のないドロドロしたエグイ本はそういう人達に見せちゃいけないですよね。でも見たい人もいるだろうから、そのうち通信販売の本を出そうかと思ってます(笑)。

 

〇規制のない本っていざつくるとなると結構難しいですよね。逆に書きっぱなしになってしまう危険があるから。

 

吉永:要するにオナニーみたいなもんでしょ。みうら(じゅん)さんみたいに人にみせるオナニーができる人はいいですよ。でもたいがいの人はそういうオナニーってできないんですよ。サービス精神がないから。

 

比嘉:やっぱりある程度規制があったほうが、逆に面白いですね。もともとエロ本作ってましたから(笑)。『写真時代』とかも規制の中でいろいろ面白いことやってましたよね。荒木(経惟)さんなんか、ちょとミを出したりして、それで怒られると「ごめんなさい」して、今度はスケパンはかしてとかってあの手この手で考える、そういう悪さをしてるのが楽しいんだから(笑)。だから全部いいですよ、なんて言われちゃったら何かつまらないでしょ。だから僕は規制があったほうが、こういう下世話なものはいいと思うんですよ。

 

吉永:そうなんですよね。規制があると、ない頭を絞ろうとするでしょ。それは予算の規制ってことでも同じことが言えますよね。『危ない1号』も制作費があまりなかったから、表紙のモデルも渋谷のセンター街で調達に行ったりして(笑)。

多分お金のあるところの編集者っていうのは、デザインはどこにたのむ、写真は誰にって分業するでしょ。それはもちろんいいことなんだけれど、あまり恵まれていると、自分で細かいところまで工夫しようっていう気にはならないですよ。だからうちは同人誌とメジャー誌の中間のスタンスですね。でも次号の表紙はエロ本にモデルを配給している事務所から探しました。写したのは顔だけですけれど(笑)。

 

比嘉:でもこの1号の表紙はスタジオ撮りでしよ。

 

吉永:いや、倉庫の中で撮りました(笑)。

 

比嘉:でもオシャレにみえますね。

 

吉永:それは今回の反省点です。この表紙、ちょっとスカしてるじゃないですか。こんなにスカしちゃったら、地方の工員の方々は手にとってくれないですよね。「あっ、俺には関係ないな」って瞬間的にね。そういう人達ってスカしに敏感ですから。きっと『スタジオボイス』なんか雑誌だと思ってないでしょ

 

比嘉:いやそれよりも知らないかもしれないですよ。『ティーンズロード』やってたときにね、読者の暴走族が面白いこと言ったんですね。暴走族雑誌の表紙っていうのは、たいがいネームがごちゃごちゃしてて、それでバイク写真の切抜きがあったりして、という感じでね。で、一時期うちが表紙をモノトーンにして気取ったときがあったんですね。そうしたら反応がすごく悪くて「こんなの全然よくない」っていうんですよ。「なんで、カッコいいじゃない」って言っても全然受け付けないんですね。感覚が違うというか、表紙は電車の中刷広告と同じで、それを見て買うか買わないか決めるんです。シビアといえばシビアですよね。だから『スタジオボイス』みたいにスコンってやっちゃうと、何だかわからねえや、って。

 

吉永:ホントにそういうところは敏感ですね。だから僕も日々闘いですよ。自分のスカしをどう押えるかって。やっぱりどこかスカしたところありますからね(笑)。それをどう押えてあけすけにしていくかってデザインなんかもカッコいいんだけれども読みやすく、っていうのを一応基本にしてるんですよ。

 

比嘉:恥ずかしいでしょ、うちの表紙、すごく恥ずかしい(笑)。自分じゃ買わないよ

 

吉永:低俗なネタと高尚なネタがあって、普通はどっちも好きなんだけれど、でもそれが両立する雑誌ってなかなかないんですよね。そういう雑誌を作りたいんですよ。スカしちゃえば簡単なんですけれど、でもわかりにくいじゃないですか。わかりやすいんだけれど、ちょっと高尚なものも入ってるっていうね。『GON!』なんかはその中間の線でうまくいってるのかも知れませんね。

 

☆“くだらない”部分をこだわる?

〇そのお手本になる、というか好きな雑誌はありますか?

 

比嘉:僕の好きな雑誌はみんな廃刊になっちゃう(笑)。『写真時代』や『Billy』とか、ああいうのが好きでしたよ。あと、みんなあまりしらないんじゃないかと思うんだけれど『タイフーン』っていう雑誌があったんですよ。僕はちょうど『POPEYE』世代で、あれが出たときはすごい衝撃を受けたんですね。でも読んでいるうちに、何かウソくさいなって思ってきて。最初はあこがれてたんだけれど、西海岸ってそんなにいいのかなぁって(笑)。

そうするうちに、ペップ出版からそれとはまったくアンチの、悪ガキ版『POPEYE』みたいな雑誌がでたんです。それが『タイフーン』という雑誌でね。それが結局『ティーンズロード』の原点になってるんだけれどね。そのころは暴走族の全盛期だったから、千葉の九十九里ブラックエンペラーがどうした、とか、総長の話なんかがあったりさ。でもつくりは『POPEYE』なの。レイアウトなんかがそっくりで(笑)。そこにまたボブ・ディランのインタビューが入ったりしてて、もうめちゃくちゃなんですが、それがすごくおかしかった。でも廃刊になってしまって(笑)。

 

吉永:きっと売れなかったんでしょうねぇ(笑)。

 

〇吉永さんは、どんな雑誌を読んでいたんですか?

 

吉永:あまり読んでいないんですけれどね。高校のときに読んでたのは恥ずかしいものばかりで(笑)。『世界』『朝日ジャーナル』『噂の真相』『現代の眼』。ちょっとかわいげがないでしょ(笑)。それで大学に入ると『ユリイカ』や『夜想』なんかを読んでいたんですが、自分で仕事をするようになってからは、逆にそういうものが嫌いになりましたね。単なる一読者のときは、そういう雑誌を読んで背伸びするのが好きだったんだけれど、編集の仕事を始めたら、スカしたものが嫌いになってしまいました(笑)

そもそも僕は『世界』を生協で買ってたんですが、でも一冊読むのに半年かかるんですよ。だから年刊でいいんじゃないかなって(笑)。自分の仕事でそういうものは作っちゃダメだなって思ってね。だから読んでた雑誌で影響されたものはないです。まあ、反面教師ですね。

 

〇やっぱり読者でいたときと実際仕事に携ってからだと、いろんな意味で考え方が違ってきますよね。お二方が作るような雑誌を編集してみたい、と思っている若い人達も多いと思うのですが…。

 

比嘉:どうなんだろうね。やっぱりちゃんとした大学に入ってちゃんとした道があるんだったら、こういう雑誌は作らないほうがいいですよ(笑)。だって最初からスタンスが全然ちがうじゃない。やっぱりミリオンってどうしようもない会社だから。高卒が当たり前っていう世界だからね(笑)。そういうやつらでもここまでやれるっていう話だけであってさ。だからこの雑誌がコンビニエンスで『VIEWS』や『BURT』と一緒に並んでいるのを見るのは快感ですよ。やっぱり卑屈な根性はあるから(笑)。

 

吉永:でも『GON!』がこれだけ売れていると、いい影響ががあるなと思うのは、大学を出て大手の出版社に勤めてカタイ媒体の仕事をして、でもそれがあきらかに肌に合わないなって自覚してる人達もいると思うんですよ。「俺ってちょっとキチガイなんじゃないかな」って不安を持っているんだけれど、反面どうにか世間に妥協を持っている、そういう人達を勇気づけてくれますよね(笑)。世の中にはもっとおかしな人達がいっぱいいて、その程度じゃおかしくないんだ、それを仕事に活かしている人もいるんだってね。うちが鬼畜系路線で言ってるのもそういうことなんですよ。人と違っていてもそれは別におかしいことじゃない。本当は人と違ってなきゃいけないと思うんですよ。モラルとか道徳観っていうのは、限りなく偏差値に近い人のためにあるものだから。だいたい平均の人なんて面白くも何ともないじゃないですか。ちょっと違ってて危なっかしいような人のほうがいいんですよ。それでもちゃんと生きていけるし、飯も食っていけるんだから(笑)

 

比嘉:でも、みんながこんなふうになったらちょっとイヤだよね(笑)。

 

吉永:岩波書店が『GON!』出したらイヤだよね(笑)。信じていたものがガラガラと崩れてしまいますよ(笑)。

 

比嘉:改めて考えてみると、ちゃんとした雑誌って意外とないんですよね。一見ちゃんとしてるように見えるんだけれど、書いてあることといったら「三浦和良がどうしたこうした」でしょ。結局あまり差がないんですよ。まっ、うちはそこにつけこんだワケですけれど(笑)。だからもっと立派な本がどこかから出ればうちはもっと売れるかも(笑)。

 

吉永:要するにリッパな本とね、あっ、いや『GON!』がリッパじゃないって言ってるワケじゃないけど(笑)。

 

比嘉:リッパじゃないですよ(笑)。

 

吉永:さっきも言ったように、高尚な本と庶民的な本ってあるでしょ。それやっぱり両立できるんですよね。どっちも読めるようなものが出てくる、というのが本当だと思うんですよ。どっちもなくてどっちも読めないっていうのが今なんですよ

昔、エロ本が元気だったころは、その中間というようなものがいっぱい出てきたじゃないですか。『写真時代』とかね。でもあくまでも商売が前提ですから、何等かの理由でうまくいかなくなると、どんどん追いやられていって、情報化を辿るでしょ。情報は情報で役に立つんですけどね。でも『GON!』を定着させたら、比嘉さんは『GON!』と『文藝春秋』みたいなものを両方つくればいいんじゃないですか。カッコいいですよ。あの人は何でもできるんだって尊敬されますよ(笑)。

 

比嘉:でもうちの雑誌はきっとマネするところが出てくるところ(引用者注:コアマガジン時代の『BUBKA』は『GON!』の完全な亜流誌だった)が出てくるでしょうね。だけど一言いいたいのは『ティーンズロード』があれだけ売れたのに、マネしないところはズルイですよね(笑)。

そこに編集者のヒキがありますよね。だってやりたくないよ、暴走族相手にしてさ。取材しながら一緒に走るのイヤじゃない(笑)。でもそれはカルチャーっぽいっていえばカルチャーっぽいでしょ。だからなんでまず『ティーンズロード』をマネしなかったんだって(笑)。

 

吉永:でも、言わせてもらえば『ティーンズロード』こそカルチャーでしょ。ドップリとその世界に浸ってますから。あの雑誌は自分も時々読んでたんですが、要するに自分の知らないカルチャーなんですよね。だから違う世界を見るようで楽しかったですよ。知らない世界って興味がわきますから。

 

〇これから先、どのようなスタンスを保って行こうと思ってますか?

 

比嘉:とにかく、くだらない、というところを、すごく拘って守っていきたいですね(笑)。

 

吉永:うちもいろいろと出版計画はあるんですけれど、今のところできないんですよ、人がたりなくて。比嘉さんのところはライターは足りてます?

 

比嘉:いや、全然足りないですね(笑)。

 

吉永:でも月刊でこれだけ出てるんだから凄いですよ。月刊誌なんて今売れてないじゃないですか。大手の月刊誌って売れてないですよね。だから『文藝春秋』『噂の真相』に次ぐ売上を誇るのは『GON!』かもしれないですよね。総合誌としては(笑)。

 

比嘉:だからうちのライバル誌は『SPA!』なんですけどね(笑)。

 

吉永:じゃ、うちのライバルは『文藝春秋』かな(笑)。裏文春と呼ばれたい、な~んちゃって(笑)。

 

1995年10月9日 文責:編集部

 

 

GON!』1995年12月号

11月17日発売!

(発行:ミリオン出版編集長:比嘉健二)〈企画予定〉

〇フリークス完全図鑑

図鑑フリークスカード、フリークスグッズ、フリークス映画・CD等、フリークスに

関するすべてを大公開!!

〇95年版死体捜査ツアー

富士の樹海で死体発見! 樹海に自殺に来た少女に遭遇!!

〇日本猟奇犯罪史

女がチ〇ポを斬る時-19人の阿部定

〈その他の読み物〉

日本一の悪趣味雑誌を捜せ! ウンチ料理の鉄人首都圏売春ダンピング表初公開!

水元公園の怪獣ついに撮影に成功等々、度胆を抜く企画で迫る!!

 

『危ない2号』1995年11月27日頃発売予定!

(発行:データハウス/編集:東京公司

特集「キ印良品」

誰も教えてくれなかった“世も末”のお楽しみ鬼畜系カルチャー&アミューズメント入門講座!!(殺人死体変態ボディ・アートフリークスコミックス読書音楽

〈その他の読み物〉

アムステルダム・コーヒー・ショップ詳細ガイド、95年度・東京『殺人事件現場』巡礼、ビデオ&ムービーデジタル・ネットワーク盗聴)マップ、渋谷界隈で急増する“強姦チーム”悪夢の集団射精、痴呆性老人の世界等々

危ない記事が満載!!

偉大なるロリコンの先駆者・杉本五郎(つゆき・サブロー)ロング・インタビュー 「日本のルイス・キャロルと呼ばれた男」


水木しげる墓場鬼太郎』『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する吸血鬼エリートこと霧の中のジョニー)

(世界的フィルムコレクターとしての杉本五郎

杉本五郎大塚康生/1979年撮影)

 

 

ある少女愛好家の告白

杉本五郎ロング・インタビュー

●以下の文章は、80年代に刊行されていたロリコン専門誌『Hey!Buddy』(白夜書房)1985年9月号~11月号(休刊号)に掲載された、杉本五郎つゆき・サブロー)インタビュー記事の再録です(本記事は太田出版から刊行されたつゆき・サブロー名義の単行本『寄生人』に再録された文章に基づいています)。

●文中、つゆき・サブローの氏名表記は、すべて杉本五郎(フィルム・コレクター名)に統一されており、文中の小見出しは初出とは異なります。また元記事に掲載されていた写真や資料は再録しませんでした。

第1回 日本人版ルイス・キャロル登場! 今だに少女に操を立てて童貞を守る・杉本五郎・60歳。

真のロリータ・マニアがここにいた。戦前から少女の写真を撮り、絵を描き、そのモデルのヌード写真を撮り、小説を書き、人形を作る、という、それこそルイス・キャロル顔負けのロリコン者だ。そして60歳にして今だに童貞。その杉本五郎氏の全体像を浮かび上がらせる杉本氏の作品、コレクションを公開しよう。次回からはモデルの少女などについて個々に追って行くつもりなので、期待するように。

ロリコン。という言葉が使われ出してから、どれほどの月日が経ったというのだろう。今ではロリコン雑誌も増え、少女の写真もふんだんに見られるが、それもここ2年ばかりのことであり、『12歳の神話』*1が出たのもたかが10年前のことである。

それ以前に少女のハダカが掲載されたものというと、医学書等、ごく限られた範囲でしか見出せなかったはずだ。

ところがここに杉本五郎さん(60)という方がいる。その年齢からも分かる通り、まさに昭和の時代そのものを丸がかえに生きた人で、戦後は読売アンデバンダン等に少女の裸体の絵を発表。かたわら少女の裸体写真を絵を描く上での参考に処すため、数多く撮られていたという。

えっ、戦後すぐの少女のハダカ写真がある? そりゃ、凄ェー、ってんで、さっそく東京は西のハズレ、立川まで行き青梅線に乗った。降りた駅で横田米軍基地めざし、八高線の線路をまたぐと米軍のジェット機が低空飛行。轟音とどろかし、ひたいをかすめ飛ぶと(感覚的には決してオーバーではない)、単線の線路がグニャッ。杉本さんは別に基地の中にいるのではなく、その周辺に散らばった米軍ハウスのなごりのひとつに、今住まわれている。お宅にお邪魔すると、フィルム蒐集家で古いフィルムが五千本ほど。物珍しいものが多く、テレビ局に貸し出しては生活のなりわいとしている。

ところで本業とは別、肝心の少女の写真だが、惜しいことに昭和46年7月の出火であらかた焼いてしまった、という。だが、かろうじてスクラップ帖7冊に、その難をまぬがれたものが残っていた。フチが焼け焦げていたりで、紙焼きの状態は決してベストとは言い難いが、昭和20年代から30年代の少女の裸体写真はまぎれもなく存在した。そして8mmに撮ったものも、わずかだが残っている。

今回はその一部と、蒐集家として集められた写真集等の一部を掲載させてもらい、いろいろお話をうかがったのだが、戦後に少女の裸体写真を撮る以前、戦中戦前にすでに独自にロリコンしているので、今回はそのあたりから堀りおこしてみよう。

 

戦前ロリコン雑誌の状況

杉本さんが生まれた時代の雰囲気をまず伝えるには、昭和2年の杉本さんがまだ二つだった頃だが、いやに鮮明に憶えているという浅草の光景の一コマを伝えるのが一番だろう。

ひょうたん池があり、噴水があり、ズラリと並んだロック映画街。ハズレには花やしきがあって、その手前にはヘビを首に巻いてる薬屋がいるし、かつらや衣裳が置いてあって、それを付け、白粉を塗って写真を撮ってくれる写真館もそこにあった。その隣りは木馬館で、当時はまだ水族館で、つまらない魚ばかりがいて、だがその上はカジノ・フォーリーといって、まだ無名のエノケンがレビューをやっていた。金曜日になると、女優がズロースを落とす、ってんで大変な人気だったとか。エログロナンセンスと言われてた時代で、杉本少年の親父さんは上でレビュー、哀れ少年は下でつまらない魚を見て待っていた。

だが、この親父さん、いいところがあって、当時は浅草のオミヤゲといえば、日本髪の赤いカスリの着物の女の子がひく大正琴だったのだけれど、12歳の時にチャカチャカと手でまわす、オモチャの映写機を買い与えてくれたのだ。以来、少年は8mmのクズフィルムを骨とう屋を廻っては買い集めるようになる。

さて杉本少年があとひとつ買い集めたのが雑誌であり、それが昂じて戦後、貸本屋も開くようになるのだが、何を読んでいたかというと『少女クラブ』であり『少女の友』だったのだ。もちろん『ヘイ!バディ』などあるはずがない。『少女の友』は対象が少し上で中学生ぐらい。『少女クラブ』は小学四年生ぐらいから。『幼年クラブ』になると小学三年生以下で、男の子も女の子もいっしょになってしまう。『少女クラブ』は講談社発行の歴史の長い雑誌で、大正15年には百号記念号をすでにもう出していた。漫画はまだ少なかったが、『のらくろ』の田河水泡が、『風船だぬき』といって、オバケのQ太郎みたいな風船のたぬきが迷い込んで生活を共にする、夢のあるお話を描いていた。井元水明は絵物語で『長靴三銃士』という、なんと長靴を頭にかぶった少女三人が外国を旅するお話を連載していた。

それより楽しみだったのは、なんといっても口絵だったそうで、蕗谷虹児中原淳一の少女の絵が何より印象に残っているとか。

他に写真物語といって、物語を写真で撮ったようなものがあったそうだが、モデルはなぜか、みなブスだったという。音羽ゆりかご会等の童歌手がよくモデルに使われていたらしいのだが、歌や踊りはうまくても、モデルとしては美形とはいえなかったようだ。

あと挿絵は随分うまい人がいて、小説の挿絵に出てくる女の子はちょっとした仕草でも上手に描かれてあったとか。『少女の友』は妙に気取ってお嬢さんぶって、杉本さんはつまらなかったと。

その上を行くのが『令女界』という雑誌で、いきなり16、17の名家令女が映っていて、なんとか華族何々さんのお嬢さんと写真がまず冒頭に入っていて、いわば見合い写真みたいなもので、中には少女小説が入っているけど、かなり大人っぽい。男の方だとちょうど『新青年』にあたり、そちらは江戸川乱歩がよく書いていたけど、『令女界』のほうは結婚予備軍というよそおい。当時は15、6でもう結婚予備軍だし、20歳過ぎれば売れ残りといわれた時代でもある。

SEX記事は『婦人クラブ』に行くとやっと見受けられ、男の方では『キング』あたりになると、犯された人妻の話などが出てきた。江戸川乱歩の『黄金仮面』とか『パノラマ島奇譚』は『キング』連載で、やっと女の人のハグカの挿絵が出てくるといった塩梅。

そんな時代だから、少女のハダカの絵もなければ、写真とくれば何をかいわんやだ。

今回杉本さんにお借りした昭和30年頃の『少女』の巻頭カラー・グラビアをかざった少女スターの入浴写真ですら、その頃婦人会やPTAが騒ぎ出し、レコード会社に編集長の黒崎勇氏が詫び状を入れるという問題にまで発展しているぐらいなのだ。

まして戦前、杉本さんはC・H・シュトラッツの『子供の体』のような医学書を見るしかなかったのだ。

ただ『少女クラブ』でも、まれに口絵で、小学二年生が用水路みたいなところで水浴びしている写真が遠目で載ったりしたことはある。それもエロというより、あくまで健康的なものとしてのあつかいで、そういった感じで映画館が『朝日こどもニュース』で子供たちがウジャウジャ、プールで泳ぐシーンを映したことがあるが、その時は本編はどうでも、映画館にねばってそこのところだけ二度見たりしたとか。あと、ハダカ体操で上半身ハダカの小学六年生が映ったりした貴重品がなかった訳ではない。

要するに健康という意味のハダカに対しては非常にオオメに見られていたのだ

昭和17年頃の『写真週報』に載った、ちょうちんブルマーに上半身ハダカで片手に大根をかかげた少女のふくらみかけたオッパイは鮮烈だったという。けなげにも農家を手伝う少女ということで、掲載されたようなのだが、存外、少女のエロスが匂うような写真だった。

ところでちょうちんブルマーなのだが、あれは当時スカートの上から履くものであって、体操の時スカートがまとわりつくのを防ぐためで、現在のようにズロースの上から直接履くものではなかった。

ついでにいえば、それ以前の体操着はハカマで、杉本さんは明治時代の少女が平均台の上で、裁っ着け(ママ)バカマに、上は儒袢をきて体操しているフィルムを持っているとか。

 

ロリータ・スナイパー

さて少女雑誌が当時ロリコン雑誌の代用になっていたのを見てきたのだが、杉本さんは戦争中、すでにカメラを手にロリコンしていたのだ。

新宿のジャブジャブ池でプロカメラマンの渡羅さん(編註・カメラマン兼ライター。現在は『アリスクラブ』で活躍中)が400mmのカメラをタオルでくるんでうずくまり、どこを撮っているのか分からないように、距離を置き用心して撮っているのを見たことがあるが、まさに杉本さんもそれと同じようなことをしていたのだ。

えっ? 当時、新宿のジャブジャブ池みたいなものがあったのか? しかり、あったのである。

東京は荒川の日の丸プールといって、真ん中が荒川放水路につながった細長い池で、片側はプールになっていたが、もう片方は開放されていて誰でも自由に使えるようになっていた。こちら側はプールと違ってタダで見張り人もいないので、学校帰りの子供がよくこっそり泳ぎにきては、泳ぎ疲れて草原の中で昼寝をしていたという。ジャブジャブ池と違ってるところといえば、廻りが都会のジャングルではなく、芦草がおい茂っていたことだろう。放水路には犬の死骸がプカプカと浮かんでいたりしたが、水は透明で魚が泳いでいるのが分かり、ポンポンと足にぶつかるぐらいだったという。

杉本さんはカメラを新聞紙にくるんで、随分撮りに行ったという。それもコダックのハガキ判のボックスカメラで、これはレンズの焦点距離が11・5でライカ判の小さなフィルムを装填して、超望遠で撮っていた。ファインダーは目見当で、おまけに超望遠ということで、いいものはなかなか撮れなかったとか。

あと東京湾に面した洲崎の先端に防波堤があり、ちょうど川が流れこんでくるところがあって、そこが小さな滝になって海に入るまでは、かっこうの水浴び場になっていた。

ところが戦争が激しくなって、そこに赤い旗が立ち、どうやら要塞化していたらしいのだが、知らないで海岸へ出ようとした杉本さんは、憲兵に呼び止められ、あわてて逃げたが、もしつかまっていたら新聞紙にくるんだカメラを持っていたことから、スパイ容疑で怪しまれ、今思うとどうなっていたかと、ゾッとするそうだ。

それまで洲崎は毎夏、お化け大会があって、ろくろっ首や猫の化けものが電気仕掛けで動く小屋が置かれ、途中ところどころ細い道があって、アルバイトの学生がお化けを棒の先に付けたのをグッと出したりしていた。

お化け大会は夜から始まるので、それまでは海岸で泳いで、夜になると家族連れがやってきたという。真ん中にかなり大きい大入道がしつらえてあって、それが鈴なんかチリンチリンと鳴らして、かなり遠くからも見えたとか……。

 

等身大の少女人形

早見裕香(編註・当時のロリータ・アイドル)の『不思議の国の少女』の中に等身大型どり蝋人形と関節人形が二体でできたのは記憶に新しいが、なんと杉本さんは戦時中に同じように等身大人形を二体、やはり作っているのだ。

最初は石膏で少女の全身を型どりしようとしたが、石膏は少しでも散らかるし、子どももいやがるので、張り子で作ることにした。

当時立体写真像という会社があって、立体写真で像を作る方法で人間を立てておいて、そこに細い光線をタテにあて、人間をまわしながら、3度の角度で光をあてて写真で順ぐりに撮り、その引き伸ばしたやつを銅版に焼きつけてハサミで切り、組み立てて、彫像を作っていた。写真のように彫像ができる、って訳なのだが、かえってソックリすぎて似ない、って感じもあったらしい。

杉本さんはそれを『子供の科学』の記事かなんかで読んで、これで少女のものを作れば面白いと思ったのだが、そんな大掛かりのものは出来ない。というので結局は物理的に細い棒でヨコに1センチづつ少女の体の寸法を取り、ボール紙で型を取ったのを地図のように重ねていくと、中は空洞の張り子となり、日本紙を張り、その上からかなり厚く胡粉を塗ると、等身大の日本人形みたくなる。

関節を作ると、立ったり坐ったりは出来るが、その部分がどうしても出っ張ってしまうので、そちらはモンペを着せてカバーし、ガラスの箱に入れ、床の間に飾ったが、もうひとつのほうは自分の好みの立ち姿で関節は作らず、少女そのままの裸体を楽しめるようにした。

だが関節人形のほうは、いつかネズミに食われて、構造が複雑なぶん、バラバラになってしまう。というのは張り子は基本的に紙で出来てるゆえ、うどん粉で出来たような糊を使うのと、胡粉の中にもニカワでなくフノリが入っていたので、ネズミに穴をあけられるはめになったのだが、裸体人形のほうは戦後の火事で焼けるまでは残っていたという。

この裸体人形のほうを少し詳しく述べれば、髪は髪文字屋(カモジャ)でツケ毛を買ってきて、市松人形がやっているオカッパの長いような頭にした。目は豆電球のガラスを切り、裏から瞳を描きハメ込む。歯はセルロイド板。手だけは石膏で型どり。だが型を取られた近所の子は翌日は手に包帯を巻いてきて、もう取られるのはイヤと意思表示をしたとか。

もちろんワレメもあるが、一番苦労したのが肌の色で、いろんな絵の具をつかったが、結局、歯磨き粉にちょっと黄色い染料を入れると、ちょうど肌の色に近くなったが、しばらくはハッカみたいな歯磨き粉の匂いがプンプンしていた、とか……。

初めて人形が出来、微用で出掛け帰ってきて、ひょいと戸を開け、人形が立っているのを見てギョッとしたそうだ。等身大の人形っていうのは自分で作っておきながら、なんか人間がいるみたいな実在感で恐いものだそうだ。

この人形の最後もゾッとするもので、昭和46年の火事で焼けてしまうのだが、こちらの人形のほうは胡粉のかわりに外側に石膏を溶かして塗ってあったので、焼け残ってところどころ焦げてるものだから、まるで焼死体そっくりに転がって、気持ち悪いことおびただしい。焼けあとに、髪の毛が焼けちぢれた、少女の死体そのものがあるみたいで、杉本さんはすぐにぶちこわしたのだが、なんか怪奇な雰囲気を感じさせる話だ。

戦後になると、この火事のいきさつといい、杉本さんと少女にまつわる話はいよいよ佳境へとつづく。

 

第2回 中1の少女に求婚/少女はお尻を撮られたがらなかった/ヌードを撮った少女は35人

前回の約束どおり、今回は杉本氏の撮影した少女ヌード写真を中心に紹介しよう。その写真のほとんどが焼失してしまっていて、厖大な量のはずだった写真のすべてを見ることができない事は残念でしかたないが、ここに掲載したその一部から、少しはその全貌をうかがう事はできると思う。また、次回にもここに掲載できなかった写真を公表する予定なので期待するように。

昭和20年3月9日、当時杉本さんは横須賀の海軍工廠に徴用でとられ、工場まで荒川区小台銀座から通勤していたのだが、B29の東京空襲が益々激しくなってきたので、リヤカーを引っぱって埼玉の大宮市で見つけた売家にひとまず荷物を疎開することになる。

だがちょうどその日に赤紙(招集令状)が来て、『館山海軍航空隊に入営せよ』との通知。そしてまた因果なことに、3月10日の東京大空襲で荒川の家は跡形もなく焼けてしまう。8月15日の終戦は、やはり疎開先の大宮に居をかまえることになる。その戦後の話に移る前に、館山海軍航空隊での、ちょっとしたお話から入ろう。今回はインタビュー形式で。

 

少女スタア高峰秀子

──戦後の話に移る前に、戦前戦中に、ロリータ・アイドルというか、そうとまでいかなくとも少女スターみたいな人はいたんですか?

杉本五郎(以下杉本):高峰秀子がカワイくて凄い人気だったですね。『綴方教室』とか、少女が主人公の映画は彼女がほとんど主演してましたからね。

 

──デビューはいくつぐらいだったんです?

杉本:三つかな。たしか四歳か五歳の頃は男の子役ばっかりやってましたね。それは昭和の初めでまだ映画がサイレントだった頃で、トーキーになってから、秀子の何々という調子で、秀子の車掌さん、秀子の応援団長という具合で盛んに出てましたね。非常にカワイイ少女で人気がありましたね。今は憎らしいことを言うオバサンですけどね。ズケズケ言うオバサンでね。かなりカワイクないオバサンですけどね。

 

──その憧れのスターと映画に出られたとか。

杉本:館山航空隊に『アメリカ本土爆撃隊・アメリカようそろ』(“ようそろ”とは海軍用語で宜しく候の略)という映画の撮影に東宝のロケ隊の一行としてきたんです。『ハワイ・マレー沖海戦』などに続く一連の航空映画で、円谷英二が特撮を担当して、最後はアメリカ本土に向って爆撃隊が、片道の燃料を積んでまっすぐに突っ込んでいくシーンで終わる映画でしたね。昭和20年12月8日の開戦記念映画として封切られる予定で、8月に撮影してたんです。その時エキストラに駆り出されて、4カットですけど、分隊長役の岩井半四郎の戦友役で並んで映ってたんで、封切になったらと楽しみにしてたら、15日に終戦になったでしょ。そのフィルムが全部燃やされちゃったわけで、封切りされずじまいですよ。残念! 高峰秀子も隊長の娘役で出てましてね。当時余興で歌をうたったりもしましたね。

 

──へー。当時高峰秀子はいくつだったんです?

杉本:私と同い年ですから、もうロリータとは言えないですけど、ズバリ憧れの女優と一緒に映画に出られたことで凄く印象に残ってますね。

 

―そして終戦、ですね。

杉本:まさかバンザイとは口には出せませんけど、気持ちはいっしょで、あんまりニコニコしてるもんだから、古参兵に「この野郎、白い歯なんか見せやがって、非国民め!」と睨ましたけどね。でももうブン殴られはしませんでした。

 

ロリコン漫画家の頃

──杉本さんは戦後すぐロリコン怪奇小説を書かれてますね。

杉本:怪奇小説江戸川乱歩をはじめとして、いくらでもありましたけどね。ただしみんな相手が大人なのを、それを少女に置きかえて書いたもので、時代が変わればこういうのも出るかと思って、戦後すぐに書いてみたんだけど、やはり受け入れられなかったですね。

戦前から少女関係の事件記事は犯罪から美談まで切り抜いて集めてましたけどね、それも全部無くなっちゃったですね。

 

──すると昔から幼児を犯すとか、少女犯罪みたいなものは結構あったんですか?

杉本:随分あったです、あったです。少女売春で8歳の娼婦がいたとか、そんなのもありましたね。戦前の『犯罪実話』なんて完全なエロ本で、警察の調書から取った実際の事件をみんな仮名にして抜き書きしたりしてましたけど、その中に少女ものがあると切り抜いといたんですけどね。わりと、なまなましく書かれてましたね。

 

──そういうのが小説のヒントにもなっていたと思いますけど、少女怪奇マンガもまた描かれていたとか?

杉本:それは少しあとで、昭和30年代になってからで。当時貸本マンガというのがあって、少女モノは描き手が少ないというので、ページ70円で頼まれて描いてたんです。あと怪奇マンガも描いていたんですけど、自分としては少女怪奇モノで、少女のヌードが出てくるやつが描きたかったんですけど、それは全部ダメでした。全部蹴られましたね。

 

──それはどんなモノだったのです?

杉本:少女が恐いめにあって、しかもヌードになるなんて、絶対受け入れられない! 少女が石膏づめにされて型を取られるような話でしたね。

 

──アレレ今なら受けそうですね。

杉本:石膏をぶっこわして、助け出される時、どうしてもハダカのシーンが出てきちゃうんです。その頃のことですから、腰にキレは巻いてあるんですけど、ダメでしたね。煽情的であるし、いくら貸本でもそこまで落ちたくないとかいって、許可されなかったです。たしか日の丸文庫で、ネームまですっかり入れて、印刷の直前で止めちゃったのが二つあったな。残念だったなー。

 

──早見裕香の全身型どり記事が『ヘイ!バディー』に載って、あれは面白かったけど、同じようなことを、怪奇モノでマンガで描かれていたわけですね。

杉本:でもマンガからはすぐ足を洗いましたね。あれは手間ひまはかかるし、一日仕事で写真は撮れないし、少女となんにも出来ないこともあって、また兎月書房がつぶれた時は一時、水木しげると二人で売り込みにまわったことがありました。水木さんは週刊誌で賞をとって急遽売れていくんですけど、自分は少女モノでいくのか怪奇モノでいくのか方向性が決まらないうちに、結局やめてしまいましたね。

 

少女裸体画

──でも、少女の絵は随分描かれていたみたいですね。

杉本:読売アンデパンダン展に10回、独立美術展に5回、少女の絵ばかり出してましたね。少女のヌード自体珍しかったし、絵の前にじいっと動かないで立っている人を見てはその気のあるヤツだなと、大体見当が付きましたね。

 

──展覧会の時はずっと自分の絵のそばにいたんですか?

杉本:ひとまわりしちゃ、人がたかってると、後ろ行って聞いてるわけですよ。どんな批評してるかなと思って。この絵変わってるなー、とみんな言ってましたね。それから「アッ、またこの人の絵出てるよ。この人の絵のとこに来ると、ウチの女の子がヤダといって見ないで、むこうへ駆けていっちゃうんだ」なんて話しているのもありましたね。

 

──もう完全な常連さんになってたわけですね。ひとまわりしても、まだ同じ人が見てたりとかありました?

杉本:ありましたね。高校生なんか随分同じ人が立って見てましたね。

 

──あと、どんなことが言われてましたか?

杉本:私の絵はズロースのゴムのあとや、細い血管が見えるのまで青く描かれてあったんで、なんか不思議な感じがする。フツーの絵と違うなー、って言ってましたね。妙にリアルだ、と。それから、目がみんな、こっち向いてると言われましたね。それはモデルを写真に撮ってから描いているので、シャッターを切る時、みんなこっち見るわけです。ヨコ向いてても、目はこっち向いてるんです。

それから少女を写真に撮る時、後ろ向きは嫌いますね。後ろ向きは撮らせたがらないですね、なぜか。後ろ、ヤダって言いますよね。自分で鏡見て、見られないポーズって嫌いますね。だから後ろ向きって余り写してないですね、ヤダっていうから。

 

──結構ポーズなんかつけたんですか?

杉本:相手に自由にさせといて、それをただ撮る方針でしたね。足の位置がちょっと悪いと直したら、とたんにキマリ悪がっちゃって、あとポーズが固くなっちゃって、どうしようもない。ちょっとでも体、触られたことがね。

 

──逆に淫らなポーズされちゃって困ったりとか?

杉本:それはよく、淫らというより、子供だからふざけてね。何人かをいっしょに撮ると、いく人かがふざけるんです。わざと片足あげたりとかね。そういうのも随分撮りましたけど、でも当時、エグイという言葉は知らないけれども、そういうものが印刷物になるなんて想像もつかない時代でしょ。みんな火事で焼けちゃいましたね。

 

──それは惜しいことを。モデルの少女はどこで見つけていたんですか?

杉本:当時、大宮で貸本屋をしてまして、そこに本を借りにくる少女の中から、モデルに使ったりしてましたね。

 

──アトリエとお店はくっついていたんですか?

杉本:ええ、壁をへだててくっついてたんですけど、真ん中に小さな窓がありまして、額がかかってたんですよ。その額をどけると、後ろ側から向こうへ出入りできる穴があるわけです。向こうで用が足りない時は、そこを開けっ放しにして、アトリエのほうから店へ顔を突っこんでいって、店のほうと話をしたりしてましたけど、店番がいる時はそこをバチッと閉めちゃって、向こうからは開かないんです。こっちから鍵をかけてあるから。こっちから用がある時は開けて、向こうから用がある時は、トントンと叩いてもらって、ナニって開けて聞くわけです。

 

ヌードを撮ったモデル35人

──ヘー、面白い! それでモデルですが、何人ぐらい、写真に撮られたんですか?

杉本:35人ぐらいですか。いろんな子がいましたね。絶対脱がない子もいましたね。バンツは脱がない。上はハダカになってもズロースだけはどうして

も脱がない。そこだけはウチでお母さんに脱いじゃいけない、って言われてるから脱がない。って子がね。それからボーズつけるのに、触ってもいいけど、おヘソから膝までの間は、触っちゃダメ。それから胸は触っちやダメ。胸触ると赤ちゃんができた時、オッパイが出なくなるから、なんて変なこと言う子もいましたね。それ以外ならボーズつけるのに触ってもいいという、そういう限定がありましたね。子供らしいというか。

 

──ヌード写真を撮られるまでに、少女をどんなふうに説得していくんですか?

杉本:その前にフツーの写真を随分撮りますよね。それをあげたりして、その内に、いろんな衣装が用意してあって、カツラだとか装飾品がいろいろあって、そういうのをつけさせて撮っているうちに、だんだん脱がせちゃいますね、結局。この辺までいいだろうで、だんだん。結局はみな同じ手じゃないですか。それから絵とか彫刻をやっている芸術家である、ということで、彫刻なんかはヌード当たり前ですからね。それとなく感じてくるんじゃないかな。ま、相手の相談にも乗ってやるし、勉強も見てやるし、絵も教えてやるし友だちになって、その内に向こうから、いろいろ世話になって欲しいモノ買ってもらったりすれば、自分のほうから奉仕するものがないから、結局、「モデルになってお礼しよう」になるんじゃないかしら。そんな気分になるまで、自然に持っていくしかないし、だから撮るつもりが、結局ダメだった場合が随分ありますよ。

 

──結構、時間がかかるもんですね。それだけ時間をかけて脱がしても、存外モデルに不向きだった場合もありましたか?

杉本:ありますね。ヤセて、お腹ばかりが長かったり、脚がひどくまがってたりね。

 

──脚が曲がってるってどんなんですか?

杉本:脚がガニ股で、O脚ですか、脚にスキ間が大きいのは、絵としてカッコウが悪いですね。

 

──当時の体型は今と違って、なんか特徴ありますか? やっぱりO脚が多かったです?

杉本:O脚多いですね。座ってますから、膝がしらが出っ張ってる子が多いんです。お尻がデンと下がって、膝がしらが出っ張ってる、いかにも日本式でね。それから胴が太い、ズン胴。バスト・ウエスト・ヒップが同じ52センチという、計ってみると。バレエの衣装をこしらえるので、小学四年生か五年生の子で、完全に同じ子がいましたね。でも女の子は一年ぐらいの内に急速に変わっていきますけどね。そのカタチの変わりようは早いです。逆に一回カタチが良かったと思うと、バカにくずれちゃったりとかもありますね。

 

──あと、今と違うところというと?

杉本:米のメシとオコウコの時代だから、なんかポチャッとしてんですよね。今のように肉を食ってるように、しまってないんですよね。なんか水っぽくて、ポテッとしてますよね。柔かくて、いかにも植物質の感じですね。大根みたいな感じでね。ブヨブヨとしててね。なんか水でふくらんでいる感じですよね。今のように、油でって感じじゃないですよね。

 

──当時は初潮も遅かったんですか?

杉本:13、14ぐらいですか。

 

──当然下の毛がはえるのも遅い?

 

杉本:私の場合、一番長く撮った、オサゲの子だけですね。うっすらと毛がはえてきたのを見たのは。結局映画のフィルムの蒐集と貸し出しのほうが忙しくなって、貸本屋のほうを助手にまかせたら、少女をモデルに使うのはお店のほうに影響するから、やめてくれと言われて、モデルをオサゲの子ひとりに絞っちゃって、その子は中学二年になるまで、一番多く撮りましたね、二千枚ほどですか。だから最後は劇団フジなんかに本格的少女モデルを頼んだりしてましたね。

 

──オサゲの子とはいつ頃からですか?

杉本:小学二年生から撮ってますか。

 

──それでは体や性器の発達もつぶさに見てこられたわけですね。

杉本:性器のカタチもどんどん変わってきますね。最初はハミ出さないんですが、左右にちょうどチョウチョの羽みたいに小陰唇がでてきて、急速にカタチが変わってきますね。乳房が発達すると同時に、左右の小陰唇が出っ張ってきますね。

 

──あと写真を見て感じるんですけど、髪の毛が短い子が多くて、このオサゲの子は珍しく長いですよね。

杉本:髪の長い子って、なかなかモデルになってくれなかったですね。それで初めての髪の長い子がオサゲの子で、古くさい三つ編みでね。それが気に入って随分撮ったんですよね。

 

──当時は短いのがハヤってたんですか?

杉本:そういうことよりも、髪の長い子は性格的にハダカになりたがらなかったですね。髪の短い、オカッパ頭の子って、性格的にも活発で冒険心もあって、なんか変わったことがやりたいふうで、撮りやすかったんですね。

 

貸本屋とそこに集まる少女

──モデルの子は貸本屋に遊びにきた子ということで、みんな大宮の近所の子ですよね。

杉本:ところが適当に手練れたなと思う頃に、引っ越して行っちゃうんですよ。遠くに行っちゃうとなかなか来ないんですよね。呼び出そうにも今みたく各家庭に電話が無いから、電話で呼び出すこともできないんです。だから手紙しか使えないから、本を送るんですよ。それも暗号で、本のページのところに丸がついてたら、その日に来い、という。つまり前もって話しといて、今度本送るから、そこに丸が付いてる日はウチはヒマな時だから、その日に来いよ。と言っとくわけです。

 

──なんか女の子の冒険心をくすぐる、いい手ですね。ほんとに来ました?

杉本:ええ、来ます来ます。

 

──貸本屋に少女が本を借りにくるのは、いくつぐらいまでなんですか?

杉本:高校生になるともう来ませんね。中学生になっても最初のうちは来てるけど、来なくなったら不良化したと思ってまず間違いない。そうすると貸本屋行ってますというので、親がたずねてくるのです。「おたくへいっつも来てるそうですが?」「いやー、かれこれ5カ月ぐらいウチに来てませんね」。じゃー、どこに行ってんだろうとなると、ボーイフレンドとどっか、しけこんじゃってるんです。

 

──それはいくつぐらいで?

杉本:中学二年、三年になると、怪しくなりますね。口紅を付けるとか、服装がそれとなく、だらしなくなるとか、逆にハデになるとか、この子少しおかしくなってきたなって分かりますね。

 

──ちょうど異性をハッキリと意識し始める頃ですよね。ちなみに子供たちはどんな本を借りてったんですか?

杉本:『りぼん』とか『なかよし』ですね。男の子なら『少年マガジン』とか。それからゲームの機械も置いといたんですよ。ピンボールっていうんですか。あれは買うと高いので、電磁石で引っ張るようにして、いろんなオモチャをくっつけては、ウチでこしらえたんですよ。景品に最初アメ出したんですけど、遊技場になるから出さないでくれとケイサツのほうから言われて、玉を集めると本を借りられるようにしたんです。コンピューターのブロックくずしのゲームが出る前で一カ月に一回、必ず工夫して手製のゲーム機を置いといたんです。

 

──でも女の子はやらない?

杉本:いや、女の子でもいましたよ。中一の女の子で、うつむくとブラジャーしてないから、胸のかすかな膨らみが見える子で、その子には結婚を申し込んだんですけどね。

 

──えっ、中一の子に!

(残念、次回につづく)

 

第3回 日本人版ルイス・キャロル 杉本五郎、60才、童貞/高峰秀子似の中一少女に求婚/少女へ8回も求婚/でも、すべて流れてしまう

何と、杉本さんは少女に8回も求婚していたのだった。前号の最後に触れた中一の少女への求婚から、杉本さんはずっとストイックに少女との結婚をめざしての人生を送っているのだ。それはルイス・キャロルのストイックさに通じてると言えるだろう。今回、連載の最後は、その求婚した少女と杉本さんとの悲しい顛末を詳細に追う。

初めて求婚した少女

──先月号で中一の子に求婚とのことでしたけど、どんな子だったんですか?

杉本:『プチトマト』の24号の子が非常によく似てんです。

 

──ビデオの『花嫁人形』にも出てましたね。

杉本:その子と高峰秀子を混ぜたような顔で割りと小柄でやせてて、体格も似てるんですよね。ちょっと発育が悪い感じで。

 

──どんな感じで結婚を申し込まれたんですか?

杉本:中一の夏休みだったから、12歳だったかな。私はその頃30いくつだから、二まわり以上、上ですよね。でも、この子カワイイ子だと思って、「君、お嫁に来るか?」って言ったら、子供のほうが「いいよ」って言う訳。

 

──OH、なんたるEASY、ウラヤマシイ。

杉本:じゃ申し込みに行くからって、母子家庭ですから、その家に行って母親に会って、「お宅のお嬢さんをお嫁にもらいたいけど、どうだろう」と言ったら、「この子の姉さんに相談してみる」って言うんです。姉さんが芸者してんですよね。

 

──それじゃ、お袋さんもそういう仕事で?

杉本:お袋はなんにもしてないんですよ。どうもどこかの2号さんであるような気もするけど、なんにもしてない。そいで、芸者の姉さんがウチに見に来ましてね。店で働いているような人はダメだけど、この人は主人だから、これなら大丈夫ということで、姉さんも承知しました。外交官やってる兄さんもいまして、それも承知しましたということで、じゃ、いいでしょう、この子を嫁に行かすことにします、ということになったんだけど、もう少し大きくなってからじゃないとしょうがない、ということで……。

 

──即結婚とは行かず、婚約したみたいなもので、待ちの態勢ですね。

杉本:それから夜、貸本屋の店が閉まるのが10時ですから、夜遅くよく訪ねていくわけです。もう夜中に近いのに向こうは起きてるわけです。30分ぐらい話して、いざ帰る段になると、その子が送って行きますと言うんで、夜のガード下暗いんですよね。そこを通って送って来て、するとこっちも暗いとこ帰すのが心配になっちゃって、また送って帰って、歌の文句みたいに、行ったり来たりを2、3回やって帰って来る、みたいなことをしてましたね。

 

──いやー、危うい道行きですね。そんな時間を共有してくれる子って、きっと素敵な子なんでしょうね。ウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ!!

杉本:そのうちに母親が家にある、ありあわせのものですけど、オミヤゲにって、なんかフワフワしたぬいぐるみみたいなものを新聞紙にくるんだやつをくれたんですよ。ウチに行って開けてみたら、これが枕なんですよ。

 

──マクラですか? なんと意味深な!

杉本:その家行ったら、やっぱり、同じ枕があるわけです。作った時材料が余りましたから、作りました、って。

 

──いやー、暗い夜道をわざわざ送って来る娘といい、枕を送る母親といい、卑猥ですねー。そういうのは大好きですけど。

杉本:でも、ことによると、オッカサンのほうが気があるんじゃないかなー、と思って、こりやー、串だんごになっちゃうといけないな、って気になってたんですけど、別にどうってこともなくて、そのうち母親が、うちの子、14歳の春かな、初潮がありました。もうじき大人になりますから、16ぐらいになったら差しあげますから、と言ってきたんです。

 

──それがどうして、なんの関係もなしに、ダメになっちゃったんですか?

杉本:母親がそのうち変な宗教に凝りだしましてね。地区の代表みたいな具合になって、こっちも宗教入ってくれなきゃ、ダメだと言いだして、ちょっと付いて行けなくなったのと、上の兄さんが結婚して、3つぐらい年上の女の人と一緒になって、その嫁さんが子供に言うわけですよ。「女ってのは、自分より年下の若い男と結婚するのが福なんだよ。私なんか幸福の絶頂にいる。年の離れた人と結婚したってロクなことないよ」て吹きこむもんだから、気が変わってくるわけですよ。

 

──ひでえオバサンだ。

杉本:それで4年目くらいに話がくずれちゃって、ハッキリ別れましょうということで、なんの関係のないまんまに。

 

──もったいない話ですね。

杉本:ウチのオヤジが後で言うには、早く引き取っちゃえばいいのに! 朝起きるのは大変かもしんないけど、学校やんのはウチから出してやればいいんだから、早いとこ結婚しちゃったほうが良かったよ。

 

──そうですね、まったく。もったいない。

杉本:それと同時にもうひとつ、私がやんなったのは、少女の手相が自分の我がままから離婚する相なんですよ。こりゃ。ちょっとムズカシイ性格もってるな、と思ったんです。そしたらやっぱり少女は18の時に19の工員と結婚して、2年目に別れちゃいましたね。それから数年経って、子供連れで訪ねてきましたよ。女の子ひとり連れて。ヨリ戻したいって気があったんじゃないですか。少し、オバサンになった感じでね。

 

──今度はその子供のほうがカワイかったりして。

杉本:そう。女の子がカワイイんですよ。こりゃまずいな。まただんごだって。断っちゃいましたけどね。

 

少女への求婚歴8回

──求婚は全部で何回ぐらいですか?

杉本:8回ですが、結婚を意識したのなら、いっとう最初は戦前まで測りますね。それは友だちの妹で、ウチに映画よく見に来た子で、11ぐらいかな。私、子供の頃からオモチャの映写機でカチャカチャやってましたからね、アツイ、アツイなんて、バサパサ、ハダカになって脱いで、ちょこっと見えたりして。あの頃、ほら冷房なんかないから、部屋しめちゃうと、アツクてアツクて。

 

──ユカタみたいの着てたんですか?

杉本:ええ、キモノですからね、あの頃は。帯とって、パタパタと、アツイ、アツイって。

 

──その子が嫁にもらおうかと思った最初の子ですか?

杉本:ええ。でも兵隊に行く前に16ぐらいになっていたかな。八人兄弟で一番下の子をおぶっているのに会いに行ったのが最後で、東京は丸っきり焼けちゃって、それっきり行方知れずなんです。そういえば、兵隊に行ってから、9歳の子にラブレター書いたなー。

 

──え、ラブレター? 9歳の子に?

杉本:それが兵隊に入ると、すぐにラブレターを書かせるんですよ。それを別に届けてくれる訳じゃなく、その人の性格を知るために。結婚してたら妻君に、好きな人がいたら、その女性に手紙を書かせるんです。入隊して3日目ぐらいですか。実はその人の文章力とか知能程度とか、国に対する考え方を知るために、ラブレターが一番具合がいいっていうんで、いつの間にか、どこの隊に入った連中もみな、それを書かされたんです。

 

──それで送ってはくれないんですか?

杉本:くれないくれない。ただその人を見るためだけのものですから。ただみんな気分が変わることもあって、また万一前線へ行って戦死した場合は、その人の遺品のひとつとして、届けることはあり得るわけで、訓練以外は時間が余ってますから、みな一生懸命書くわけです。

 

──結婚してた人はかなりいたんですか?

杉本:同時に入った300人の中で3人ぐらいでしたか。

 

──するとほとんどが好きな女性にラブレターを書いた?

杉本:ええ、だけど9歳の子供にラブレター書いたのは私だけだったらしい。しばらく評判になりましたね。

 

──どんなふうにですか?

杉本:「今子供で分かんないだろうけど、そのうち性に目覚めるような時が来たならば、私の考えも分かるでしょう」みたいなこと書いたんで、“性に目覚める”って言葉が班長室で、流行っちゃったんです。班長もみな若いですからね。あすこにおかしな奴がいるよ、みたいなことで。あの“性にめざめる”奴、呼んで来いとか言って、演芸会の時、あいつに何かやらせろ、ってなことで、『のんき節』のひとつでも唄うとか。で、要領がよくて面白い奴だってんで、重宝がられましたね。

 

──その9歳の子、っていうのは?

杉本:荒川で袋物商やってた時の、隣の米屋の娘で、入営の時も送ってくれたし、わりとカワイイ子だったし、ウチによく遊びに来てましたしね。写真も随分撮りました。

 

──それは戦時中のことで、フツーの写真ですよね。

杉本:それでも夏のことだから、ズロースひとつぐらいの写真は随分撮りましたけどね。

 

──荒川の日の丸プールですか?

杉本:荒川ではなくて、よく夏の夕方なんか、その辺を遊びまわってますよ。9歳ぐらいの子は当然、ハダカで遊びまわっていますよ。黒いズロース一枚で。あの頃、健康的な意味で、ハダカってそんなに気になってなかったんですよ。今のほうがむしろ、なんていうか、小さい子がハダカになりたがらないんじゃないかな。

 

──ということは当時、夏の夕暮れ、ズロース一枚のハダカではしゃぎまわり、路地を駆けぬける少女たちに自然と出っくわすことができたんですね。いいなー。

杉本:その9歳の子とは終戦後、疎開先の大宮で偶然再会することになるんです。

 

──少し大きくなってました?

杉本:翌々年だから、11になってたのかな。兵隊から帰ってくると、南方ボケみたく、しばらくはボケてんですよ。ウチの裏が芋畑で、そこが片付いて空地になっていて、子供たちが野球をやってるのをボンヤリ見てた訳です。食うものもロクにない時ですから、なるべく動かないで腹減らないように、ボンヤリしてたんです。そこをたまたま荒川の米屋のオカミサンが歩って通りかかったんです。

 

──当然話しかけた訳ですね。

杉本:すると今、越ケ谷にいるというんで、自転車で一時間半かけて訪ねていったら、その子が六年生になってて、あの頃から見るとポチャッとなって大人っぽくなって、割りと発育がいい子で、ユカタなんか着てね。そしたら今晩泊まっていきなさいということで、そこに泊まってって、田舎のことだから、行水かなんか浸かっているのをチラッと見て。

 

──胸なんかもすると…..?

杉本:ポチャッとなって、かなり体格良くなったなー、と、より好きになったわけですよね。前から好きな子だったから。あ、この子にしよう。この子を嫁にもらおうって気分になった訳ですよ。

 

──その子にも結婚を申し込んだんですか?

杉本:そのつもりで、あんまり訪ねて行くもんで、少しうるさがられましてね。訪ねていけば、向こうも歓待しなくちゃなんないけど、食い物苦しい訳ですよ。あんまり来てもらうのは迷惑だって顔しはじめたんで、しばらく行かなかったら、ちょっと会わないうちに、どんどん大きくなって、私より背が高くなっちゃったんです。うちのオヤジがそろそろ申し込んだら、って言うんで、いや、ちょっと待ってくれ、体が大きすぎる。で立ち消えです。

 

美少女姉妹を巡って

──これぞ美少女のキワメツケみたいな子いました?

杉本:初めて大宮へ疎開するんで、家を見に行った時に、その途中でお菓子屋の前で子供が地面に絵描いて遊んでるんですよ。それがもの凄い美人でね。中原淳一の絵に良く似てんです。目が大きくて卵型で。二人姉妹で、姉さんはどっちかというと原節子タイプの古風な美人で、妹が中原淳一の絵に似てんです。それが戦後大宮で貸本屋をやる前、袋物屋の店を出すんですが、その借りた店の持ち主が隣に住んでいて、美人姉妹がそこの娘だった訳です。だからよく上の子は店手伝ってくれましたね。下の子は気位が高くて手伝わなかったけど。

 

──その子らの思い出に残る写真あります?

毎年夏に、逗子に日帰りで、近所の子を連れて、その中にモデルにしたいような子を混ぜて、海水浴に出掛けたんですけど、昭和26年ぐらいまではちゃんとした水着なんか着てる子よりも、大きい子はシミーズで泳いでるし、小さい子は白いズロースで泳いでたんです。それでその美人姉妹ともうひとり近所の美人で、これは現代的由美かおるタイプでしたけど、美人三人組を水辺で撮ったのが印象に残ってますね。

 

──つまりズロースとシミーズ姿で?

杉本:ええ、姉さんは割りと開けっぴろげですから、ピチャッとなって、透きとおっちゃうようなシミーズ付けてましたね。妹のほうはオシャレだから、変な水着持ってましたね。下が黒で上が横縞になっている、田舎くさい水着、着てましたけどね。

 

──由美かおるタイプは?

杉本:もうズロースだけで、ピチャピチャにくっついちゃっていましたね。その子は小学四年生でしたから。

 

──美人姉妹は?

杉本:上が中学生で、下が小学五年生でしたか。いまだにあれほどの美人って知らないですね。

 

──その三人のいずれかに結婚申し込まれましたか?

杉本:3人が18から20歳になって大きくなってから、順ぐりに三人全員に結婚申し込みましたけどね。いずれも断られました。

 

──確か一番多く写真を撮られたオサゲの子にも結婚申し込んできますよね。

杉本:器量はよくないけど、色白で肌はキレイだし、“大福モチ”って呼んでたんですけど、性格はいい子なので、18になってもうそろそろ結婚を申し込んでもいいだろうと思って訪ねていったら、もうすでに結婚してて、しかもその日が姉さんの結婚式の前日で、ちょうど家に居たんですけど、フスマの陰に隠れて出て来なかったですね。

 

──また間が悪い時に。

杉本:それで“大福モチ”の下に“ニンジン”という赤ら顔でヤセた妹がいて、その下の妹を代わりにくれ、と言ったら父親が怒ったわけですよね。凄い憤概で、そのうち娘の写真がたくさん撮られていて、それがどんな写真かも大体分かっちゃった訳です。そうこうしてるうちに、火事になったんです。

 

昭和46年7月12日出火。蒐集フィルムの4分の3と少女写真の大方を消失。出火原因は不明。少女写真を燃やすための放火とも勘ぐれるが、その他にもいろいろ出火原因は考えられ、今となってはその真相を知る由もない。それを境に杉本さんは少女写真は撮っていない。

(協力/竹熊健太郎なみきたかし、高桑常寿、白夜書房

 

水木しげる特別インタビュー 友人・杉本五郎と兎月書房の思い出

──初めて杉本五郎さんに会った時というのは、どんな印象だったんでしょうか?

水木:変わったモンだと思った。かなり変わってましたよ。五郎ちゃんは。私のところへは、普通の人間というより、どっちかと言うと、変わり者が来てましたからね。(昔を思い出しながら)あの男は、いろんなものを収集してましたね。戦時中のフィルムを。……そういえば、杉本五郎っていう名前の中佐なんかいたでしょ? 戦時中に。彼は、それから名前を取ったんじゃないのかな。で、彼は、熱烈な水木サンのファンだったんですよ。だから、大宮(埼玉県)で貸本屋やってて、水木サンのマンガを少女たちに薦めるんだそうです。でも、なかなか少女たちは読んでくれないんだって。いっぺん読めばいいわけですけどね、水木サンのマンガを。いっぺん読めばいいわけです。面白いんですから。

 

──その頃、先生は『鬼太郎夜話』(三洋社・1960年)などを描いていた頃ですか?

水木:そうそう、描いてました。彼が私のところに訪問する時は、(両手を広げて)必ずこ~んな大きなプラモデル持ってくるわけですよ。アメリカの軍艦を。で、水木サンが「おおっ!!」って言うと、ものすごく喜ぶわけですよ。「驚かしてやろうと思いましてね」なんて言って(笑)。色の白さも普通じゃなかったですねー。白かった。で、唇が赤いから。口の中も赤いわけですよ。だから、あなた、「霧の中のジョニー」の主人公(編注・『墓場鬼太郎』に登場する吸血鬼のこと)に選ばれるわけですよ。血を吸ってもおかしくないような。その白さっていうのも、生き生きとした白さでしたからね。唇は赤いし、それで、彼はわりと四角い顔だからね。

 

貸本マンガ収集家

──知り合って間もなく水木マンガのキャラクターにされたんですか?

水木:ええ、間もなくですな。彼を見た途端に“吸血鬼”ってことを思い浮かべたわけですよ。なんか、日本人離れしてましたね。後は、スペインの血か何か入ってたんじゃないのですか。混血ってわけじゃないの? 日本人らしくない考え方でしたよ、彼は。顔も日本人らしくなかった。怪奇趣味も一歩か二歩進んだグロテスクでしたからね。それと、少女趣味なんかもね。(改めて杉本の写真を見ながら)しかし、ほーんとに変わった顔してますね。でも、わりとキビキビしてましたよ、彼は。そういえば……どうして死んだんですか?

 

──再生不良貧血で亡くなったらしいです。食事を作る時間を惜しんでフィルム収集に熱中していたから、自分はインスタント・ラーメンしか食べなかったって噂もありますけど。

水木:でしょうね。かなり(昔のフィルムを)集めてましたからね。水木サンは彼に「小学校の絵の審査員に来てくれ」って頼まれて2回くらい行ったような気がしたねえ。その時(大宮に)行って、杉本五郎の貸本マンガの収集がすごいってことが判ったんですよ。あれ。火事になって燃えたって話ですけど、ほんと、火がつけば早いと思いますよ。あのバラックみたいな建物の中に、膨大な量ですよ。

 

──どんな傾向の貸本マンガを集めてたんですか?

水木:どんな傾向もなにも、あれは全部に違いないです! おそらく、出版されたものは全部持ってたんじゃないですか。ものすごい量でしたよ。何列も本棚があって、もう何列あるか判らないくらいですよ。両側に山ほど(貸本が)あった。

 

──先生のマンガも、全部持ってたんでしょうね。

水木:ファンでしたからね、水木サンの。だから全部持ってたようですよ。2、3冊ずつ持ってたんじゃないのかね。

 

ロリコン趣味

──杉本さんは、少女マニアだったようですね。

水木:そうそう! いつも彼の周りには、少女がたむろしてるから、そのことを雑誌社の編集者に言ったわけですよ。そしたら、その人が杉本五郎ちゃんに話したらしくて、「水木さんがそういう風に言ってた」と。そしたら、怒って電話かけてきましてね。「私はそういう趣味はないですよーっ!」って、興奮してね。ところが、あるじゃないですか、ねー。こんな写真集(『杉本五郎アンティック少女写真館』さーくる社刊)まで出しちゃって(笑)。

 

──貸本屋に来る少女たちに、モデルになってもらったりして、撮ってたようですが。

水木:彼の周りには、いつも少女が5、6人いましたからね。で、ニコニコ、ニコニコしとるんですよ、彼は。あの、ずっと前に事件起こした宮崎……ナニガシ、アレもこういう趣味なの? “オタク”とかなんとか言われてたけど。その、いわゆるロリコン趣味については、最後まで水木さんには隠しとったな。いつも少女がいるから。多い時には7、8人いるわけですよ。それで、真ん中でニヤニヤしてるんですよ。その時の顔が、あなた、“吸血鬼エリート”の顔なんですよ! それで少女にお菓子をふるまうわけだな。大事にするわけですよね。そういう術も、不思議に持ってましたね。で、好かれてるような感じなんですよ。「変だな」とは思ってたわけです。

 

──今はロリコンって珍しくないですけど、当時(昭和30年代)ロリコンは、あまり公にできなかったんじゃないですか。先生は『寄生人』と『ミイラ島』のカバー画を両方お描きになってますが、これは杉本さん本人から依頼されたんですか?

木木:そう、頼まれたんです。彼は水木サンにいろんなものをくれたりして、便宜をはかってくれてたんでねえ。

 

──貸本版『河童の三平』に『寄生人』のカバーの絵と同じコマがありますよね。

水木:そうそう。彼はね、マンガの才能もあったんだから、描けばよかったんですよ。あんまりこっち(少女)の方にかまけてたから、時間がなくなったのかもしれん。

 

水木しげるファン

──杉本五郎のマンガについては、どうですか?

水木:面白いとは思ってたけど……もうちょっと絵が上手くなればよかったなと思っとったわけです。だから、一年ほど一生懸命やればよかったわけです。でも、多趣味だったから、気が散るんだな。変わり者だったから。マンガ描けば面白いものができたかも判らんのに、完成せずに死んじゃった観がある。もうちょっとやってれば、面白いものができたかも判らん。面白い怪奇モノがね。と、思うんですよ。もうちょっと描き続ければねー、良かったと思いますよ。(原本のコピーを眺めながら)あー、これは水木さんの絵真似しとるな。はっはっはっ(笑)。

 

──水木先生をモデルにした話も考えてたらしいですね。水木しげるが肥溜めに落ちて死んでしまう、というマンガを描く予定があったらしいです。『寄生人』の主人公も水原しげる君っていうんですよね。

水木:はっはっはっ(笑)。彼は水木サンの熱烈なファンだったからね。私は肥溜めに興味持ってましたから、その話をしたのかも判らん。

 

兎月書房しかなかった

──兎月書房についてもお聞きしたいんですが。

水木:私はね、兎月書房は、一人の作家に一冊描かせないのが不満だったんですよ。原稿料が安いから、もう一人(短篇作品を)入れるって考え方は、いけないと思います。これはね、非常に卑しい考え方ですよ。(堰を切ったように)一生懸命描こうと思ってるのに、描けなくなるじゃないですか。全部任されてこそ、一冊を責任持ってやろうって気になるじゃないですか。それを、原稿料が安いからって、他の短篇をちょっと入れて、水木サンのマンガを3分の2くらいにするってやり方は、出版人として最低だと思います。私は前からそう思ってた。『鬼太郎夜話』(三洋社)はね、どんなに厚くても一冊でやらせましたからね、長井勝一さんは。これが正常なやり方だと思います。こういう兎月のやり方はきたないというか、

作品を評価するという考え方がぜんぜんない。編集と称するケイちゃんというのがおったんですよ。そいつが、何も分からんただの人なんです。それに随分やられましたよ。我々はいじめられましたね。待遇は悪かった。そういう点では、長井勝一は作家というものをよく理解してましたよ。だけど、長井さんが入院してから、なんか具合が悪くなってきて。それで結局、兎月書房に帰らざるを得なかったわけですよ、描くところがなくて。だから、大変でしたね、この頃は。原稿料は安いし。

 

──『寄生人』を出した頃は、兎月書房の末期ですよね。

水木:うん。だから、彼にとっては、末期で待遇が悪かったということもあったかも判らん。売れない作家に対しては、想像を絶する無愛想ですからね。そういうことも手伝って、彼はマンガを止めたのかも判らん。貸本マンガは、メシは食えないですからね。作家はね、がまんして描くわけですよ、貸本マンガの人たちは、作家と認めてないわけです。乞食を救済してるくらいの感覚しかないから。長井さんは、そういうことはなかったですね。ちゃんと作家として認めてた。兎月は描きにくかった。でも、描きにくくても、描くしかないわけですね、メシ食うためにね。みんな、食えないから(貸本マンガを)やってたわけです。他の仕事って言ったって、ないからね。当時はね、日本中、金がなかった感じでしたね。ビックリするほど金がなかった感じでしたね。

(於・水木プロダクション

杉本五郎が登場する水木しげる作の伝記漫画集)

 

 

日本のルイス・キャロルと呼ばれた男(解説・米沢嘉博

ずっと気にかかっていたマンガ『寄生人』のつゆき・サブローとフィルム・コレクター杉本五郎が結びつき、しかも彼が伝説的な「少女」コレクターであることを聞いたのは、86年頃、あるロリコン雑誌の編集部だったと思う。戦後まもなくから描き続けた少女の絵が3千枚、撮った写真が1万枚、大半を火事で失なったものの、それからさらにコレクションを集めたという。まさに日本のルイス・キャロルロリコンの先駆者というその存在は、業界では伝説となっていた。インタビューを編集部に進言したが、もたもたしている内に『ヘイ!バディー』に先を越されてしまったのだが、もたもたしていたのには理由がある。ロリコンであることを、「少女」コレクターであることをカミングアウトすることは、危ないおじさんであることを宣言することであり、活動の障害になるかもしれないということと、本物の危いおじさんを誌面に出すことは、当時ファッショナブルに「ロリコン」で遊んでいた雑誌をディープにしてしまうのでは、という危惧からだった。

だが、杉本五郎は何のてらいもなく、「少女」コレクターであることを語り、自らのコレクションさえ披露してくれたのである。そこには、筋金入りの、天に恥じることのないロリコン・マニアの姿があったのだ。まもなく、ロリコン系のマニア出版社であるさーくる社から『アンティック少女写真館』という一冊の杉本五郎コレクションとでもいうべき本が出た。そこには彼のロリコンとしての仕事とコレクションが、暗い情熱を持って展開されていたのだ。

また多くの少女写真は、戦後まもなくから撮っていたもので、経営する貸本屋に出入りする少女たちをモデルに、ある時はヌード写真集のポーズを真似させ、様々な衣装を着せ、割れ目もモロに裸体を写し撮っていた。プロの少女モデルを雇い、ボディペインティングをほどこしたカラー作品が最後の少女写真であったというが、昭和44年まで、計35人の少女たちを、つゆき・サブローはフィルムの中に収めている。時代を感じさせるその少女写真は、性的欲望ではなく、アンファンテリブルな妄想に満ちている。

そして、彼は、こうした少女写真を元に多くの油絵を描いた。昭和23年より「独立美術展」で4回入選、その後、「読売アンデパンダン展」に連続14回出品。「群像・世界の子供たち」「木の葉をもつ少女」など、その全てが裸体の少女たちを描いたもので、つゆき・サブローの名で描かれている。50号から150号という大作だ。これ以外にも発表する予定もなく、多くの少女画が描かれた。少女マンガ『磯千鳥の唄』で貸本マンガにデビューしたというのも、そうした流れからのものだったのかもしれない。

やがてそれらは、実験的手法のコラージュ・アニメへと発展していく。少女雑誌から切り抜かれた少女、自ら撮った裸の少女、自ら描いた少女イラスト、そうした素材を元に、少女をテーマに独自の世界が展開されていく。動かない、切り取られた時間の中の『少女』たちに生命を吹き込む作業が行なわれていくのは昭和40年代に入ってからだった。『少女たち』『12歳の神話』『てまりうた』『海と少女と貝がらと』『千代紙と少女』などが、今残されている。また、自ら挿絵を入れたロリコン怪奇小説なども書いていたという。

アニメについては一部に評価されているが、彼の情熱ほどには「表現」は受け入れられなかったというのが真実だろう。そうして、全ての「表現」に少女が大きなテーマとしてあったこともまちがいない真実なのだ。その点には、遠い子供の時間への逃避の欲望が潜んでいたようにも思う。日本のルイス・キャロルという伝説を生きたのではなく、彼は少年の時の神話の中に生きようとしたのである。つゆき・サブローは様々な意味で、時代に早過ぎた人間だったのかもしれない。今だから、逆にそう、思えるのである。

太田出版刊『Quick Japan』16号「三つの顔を持つ男・露木三郎伝説」最終話)

*1:『12歳の神話』―まだロリコンなる言葉もない1969年(昭和44年)にノーベル書房から刊行された日本初の少女ヌード写真集。杉本氏は、この『12歳の神話』や他の写真集より写真を切り抜き、新たに描かれたアニメも挿入し、映像版『12歳の神話』(昭和45年・128mm・12分・カラー)を作成した。

マンガ、映画、雑誌、文学……を面白くする「Hカルチャーから育った天才・鬼才」(週刊『SPA!』1992年10月28日号所載)

マンガ、映画、雑誌、文学……を面白くする

Hカルチャーから育った天才・鬼才

低予算、タイトなスケジュール、それに人手不足。Hメディアの条件は厳しい。

そのかわかり、制約は少なく、自由。個人の裁量も最大限、生かせる。

だからこそ、Hメディアで奔放な才能を生かし、伸ばした人は数多いし、

「バブルがはじけて予算管理ができるおれたちにようやく仕事が回ってきた」(若松孝二監督)という強みさえある。

バブルなカルチャーズが死の状態に追い込まれつつある今、注目すべきはH系カルチャーの天才・鬼才だ!

漫画―Hでマイナーな舞台だからこそ、個性が磨かれる!

いしかわじゅん(漫画家)「デビューできたのも、新分野を開拓できたのも、エロ劇画だった…

オレがデビューした‘76年前後には、業界内に’70年安保の頃、学生をやってた連中がたくさん入ってきててね。学生運動の中心だったヤツは、もちろんまともな仕事には就けないし、積極的にやってなかった学生たちでも、体制側に入るのは何となく抵抗があるといった具合でさ。で、その受け入れ先がエロ映画とかエロ劇画とかいう“エロ系”のメディアだった。間口は広かったし、出版業界なら、いちおう“腐っても出版”だし、「オレはエロ本作ってるけど“意識”を持って作っている!」みたいなね。彼らが編集者になって、エロ本は変わってきた。それまでは、エロ本イコール“どれだけたくさん裸を見せられるか”だったのが、彼らは現場で仕事しているうちに、「7割エロを入れ込めば、残りの3割は何をやっても売れ行きには関係ない」って気づいたんだ。一冊の雑誌の3割を好きに作れるなんて、大手出版社に入った連中には考えられないほど自由な状況だよね。その3割のページにひきつけられて、いろんな才能が集まった。『劇画アリス』『漫画大快楽』『漫画エロジェニカ』の御三家が部数を伸ばし、いわゆる“三流エロ劇画ブーム”になった。まあ、この3割を拡大しすぎて全体がポシャっちゃったけどね(笑い)。

オレは最初、メジャー系雑誌に持ち込んだんだ。でも、ストーリーギャグだったから「赤塚不二夫のマネ」とか言われてさ。マンガ知らないバカばっかりだなあと思って、エロ劇画誌に行ったら、あっという間にエロ本界の売れっ子」になった。‘79年に、今は劇作家になっている高取英(当時『エロジェニカ』編集長)が、「どんな内容でも何ページでも、描いただけ載せるから連載をやって」って言ってきたんで、『憂国』って漫画を始めた。自分の中では、ひとつのジャンルを作った作品なんだけど、これも高取があんなに自由な場をくれたからできたと思う。もう一度あんな仕事やってみたいね。

 

小谷哲(三流劇画誌『漫画大快楽』元編集長)「こだわりすぎるやり方が作家も編集者もイキイキとさせていた?」

あの頃って、ずうっとお祭りやってたような気がしますね。70年代の後半ですから、まだ全共闘運動の名残みたいな気分もあったりして、戦闘的なイメージっていうのが、けっこうリアリティあったわけです。

で、エロ漫画といわずに、エロ劇画っていってましたね。ハードで先鋭的な感じが欲しかったのと、「劇画」10年の歴史の総決算みたいな意味も込められていたというか。好きなマンガと好きなエロを好きに作れたんですから、そりゃあもう楽しくてウハウハでしたね。

ウハウハ言いながら仕事してました。ぼくの編集してたのが『漫画大快楽』で、高取英(現・劇作家)が『漫画エロジェニカ』を、亀和田武(現・作家)が『劇画アリス』ですね。この3誌が“エロ劇画界の御三家”と呼ばれ、多くの雑誌を引っ張っていたという格好です。

劇画家の先達として、石井隆がいました。この人が一番エライです。現在は“マンガも描く映画監督”などと冗談で言われるほど映画の仕事が多くなってますが、当時はちょっと上のほうの雑誌で、エロにこだわりすぎる作家として、ペースをつくっていたわけです。このこだわりすぎるっていうのをやりたくて、マイナー出版社特有の1人1冊的な編集状況ですし、広告が入ってどうの、という世界じゃないから、いろんな突出の仕方ができたわけです。要するに民主主義じゃないんですね。

メインのエロ作品が7に対して、ヘンなもの作品を3という比率にして、一般的なエロ(笑い)ではなく、できるだけ個人的なエロを突出させようという方針を徹底させてました。

メインのほうの御三家が、あがた有為羽中ルイ能條純一で、ヘンなものの御三家は、ひさうちみちお平口広美蛭子能収でした。ほかに、宮西計三丸尾末広、ひろき真冬、三条友美ですか。おわかりのように、エロ系とガロ系の合体です

この流れは伝説の(?)『漫画ピラニア』などに受け継がれましたが、今思うと、一人ひとりの作家が個人的であるがゆえに、それぞれが独立したメディアだったというか、Hメディアは制約がないといわれますが、その分、ヤケになった感じで、自分のこだわりを拡大表現しちまうわけです。

今はコンビニの審査に迎合してますからね。人畜無害になっちゃって。むしろこの傾向は“男も読めるレディスコミック”としての矢荻貴子や森園みるくなどに見られます。

※『漫画大快楽』=三大エロ劇画誌のひとつ。蛭子能収ひさうちみちお、平ロ広美、能條純一などの鬼才を数多く育てた。

 *

吉田戦車西原理恵子とがしやすたか。メジャーな青年コミック誌の巻末2色などで活躍中の3氏はそろって、H系雑誌のイラストなどを描くことから仕事を始めた。けしてメジャーとは言えない彼らの作風、感性はそこで磨かれ、一般に受け入れられるようになっていったのだ。

吉田戦車(漫画家)「マンガ以外もAV評や風俗体験ルポをこなしたH本業界での日々」

高校の同級生が、ビック出版(=スーパー変態マガジン『Billy』編集部)というところにいて、そこでイラストとか四コマの仕事をもらい始めたのが、H本との関係の始まりです。漫画家としてもそこからデビューしました。8年ぐらい前のことです。

その頃はまだ学生で、H本の熱心な読者でもあったので、H本の世界というのはとても面白かった。マンガ以外でも、アダルトビデオのレビューを毎月10本とか、風俗体験ルポとか、ライターのような仕事もして、H本をみんなでワイワイ言いながら作っている、という感じでね。

で、その頃、ぜんぜん行ってなかった大学をやめようと思って、両親に「漫画を描くからやめます」と言ってモメたんです。その時に連載していたH本の名前をつい言っちゃったら、両親がそのH本探して買ってしまったんです。初めて自分の漫画を両親に見られ、わけわからないもの描くなと、ひどく怒られました。ちょうどマンガを描き始めて1年ぐらいのコトでした。

その業界で、4年ぐらい仕事をしていましたが、H本は自分の好きなコトを始めるきっかけを与えてくれた場所であり、原点のようなものですね。

よしだせんしゃ●1963年8月11日、岩手県生まれ。'85年、『ポップアップ』(ビック出版)でデビュー。『コミックボーイ』、『漫画ピラニア』、『アップルJr.』などのエロ本系で活躍後、『コミックバーガー』で、「戦え!軍人くん」の連載を始める。平成元年『ビッグコミックスピリッツ』の巻末2色カラーページで「伝染るんです」の連載を開始する。平成3年、第37回文藝春秋漫画賞を受賞。主な単行本は『鋼の人』『伝染るんです。』など。

 

とがしやすたか(漫画家)「エロ本だから誰も見ていないと思って好き勝手にやってました」

知り合いが、サン出版の『GANG』という雑誌で仕事をしていて、その人が病気になっちゃったんで、その代役で、というのがデビュー作なんです。サン出版にはたくさん雑誌があって、その後、だんだん社内のいろんな雑誌から声がかかるようになったんです。みんなエロ本ですから、Hモノの四コマとか、ギャグ漫画を描いていましたね。この時代のペンネームは“ピストンやすたか”で。で、エロ本だから誰も見てないだろうと思って、“交尾クン”とか、“ただマン君”とか、とんでもないタイトルで好き勝手にやっていました。デビューから半年ぐらいした頃、同じ社内の『さぶ』から、「ちょっと描いてみない?」って依頼がきたんですね。いや~、この時はさすがにキンチョーしましたね。最初はホモのことがよくわからないので、「こーゆー時ホモの人はどーするの?」って編集部の人に取材しながら描いていました。『さぶ』には現在も連載中です。でも、ぼくは違いますよ。エロ本系を中心に仕事をしていたのは約3年ぐらいで、もう好き勝手にやっていて、そのうちに現在の四コマの基本が-すべてできたんです。また、仕事をしているとH情報がたくさん入ってくるのと、忘年会でAVギャルに会える!というようなフロクもあるから少し続けてます。

とがしやすたか●1959年11月17日、東京都生まれ。劇画村塾に通い同期の山本直樹氏たちと同人誌を制作。処女作を発表。商業誌デビューは25歳のとき。現在、『ヤングサンデー』(小学館)をはじめとして、青春四コマを人気連載中。趣味はゴルフと野球。主な単行本は『8%のしあわせ』「闘え!サラリーマンくん』など。

 

西原理恵子(漫画家)「絵で食べていきたかった漫画家デビューは成り行きです」

高校は中退なんです、私。で、逃げるように上京して、大検を受けて美大に入学したんです。とにかく絵で食べていければ何でもよかったから、在学中からエロ本にイラストを描きまくってましたね。最初の頃は自分の作品なんてないから、高橋春男さんとか原律子さんのイラストをトレースして編集者をダマしてた。お二人には本当に感謝してます(笑い)。その当時の私の「売り」は、締切厳守と作品を出版社に持参すること。他の人に仕事を取られるのが怖くて、その場で描いたり……ただ、その絵とサンプルで見せた絵が全然違ってて、編集者が首をかしげたりするとドキドキしちゃって。根が小心者ですから。

イラストの仕事は、紹介の紹介の紹介でネズミ講的に増えたんだけど、エロ本って小さな編集プロダクションで作ってることが多いから、単価が安い上にちゃんとお金をくれないところまで…。でも、そのイラストがマンガ雑誌の編集者の目に留まったらしいんですよ。でも、「マンガを描いてみないか」って言われても、描き方を知らない。Gペンも丸ぺンもスクリーントーンの使い方すらわからなかったんですから。それでも強引にマンガを描き始めたのは、経済的に安定するんじゃないかという理由からですね。それもすぐに勘違いだとわかりましたけど。ごく最近ですよ、どうにか人並みの生活ができるようになったのは。ただね、今度はいつ仕事がなくなって、坂道を転げ落ちるかが心配なんです(笑い)。

さいばらりえこ●1964年、高知県生まれ。武蔵野美術大学卒業。大学3年の時に現在も『ヤングサンデー』連載中の「ちくろ幼稚園」で漫画デビュー。その後『ビジネスジャンプ』『まんがくらぶ』『近代麻雀ゴールド』などで活躍。単行本『ゆんぼくん』『まあじゃんほうろうき』など。最新エッセイ&コミック集『サイバラ式』が発売中。童顔で小柄な外見とはうらはらに、大歓みでバクチ好き(という噂)

 

映画―厳しい制作状況にいた者こそ強い!

中原俊(映画監督)「人々が本当にいいものを求め、映画界に自然淘汰が起こる」

本当に自分のやりたいことを考えなければいけない時代がきたっていう感じがするよね。戦後の日本の発展は、統一されたファッションで流れてきた。その申し子がバブルの人たち。で、その価値観が弾けたわけだから、いろんなものが出てくる可能性がある。

広告代理店やテレビ局が一番苦しいんだろうけど、映画界だってそんなに変わらないと思うよ。もともと映画にはバクチ的要素があったわけで、カネのあるヤツを利用するみたいなね。制作会社は苦しいんじゃない。本来、カネ集めも映画制作者の重要な能力なんだけど、ここ2~3年は何もしなくても集まってきたから。ただ、映画がころがしの道具に使われたり、素人監督がゾロゾロ出てくるなんて

ことはなくなるだろうけど。ロマンポルノがつぶれた時、スタッフが言ってた。「苦しくなれば映画の好きでないヤツは離れていく」って。そしてその通りになった。今回はその拡大版みたいなもんでしょう。

だから、これからが本当のしのぎ合い、サバイバル競争でしょう。ぼく自身は、いくら低予算のポルノ出身とはいえ、会社のカネで作ってたわけだから、カネ集めの能力はない。でも、もっともっと不景気になってみんなが暇になったほうが面白い。暇になれば、いいものを探すし映画も真剣に観てくれると思うし。時代が自分のほうに向かってきたと感じてます。

ただ、現時点ではお客さんがいい映画を観ようと思っても、正しい選択ができないシステム的な問題がある。とくに地方に顕著なんだけど、正常な配給が行われていないんだ。そこまで含めての映画界編成しか道はないでしょう。

なかはらしゅん●1951年、鹿児島県生まれ。東京大学文学部宗教学特業。'76年、日活に助監督として入社。根岸吉太郎市川崑などにつく。'82年、『犯され志願』で監督デビニュー。同作品でヨコハマ・映画祭新人監督賞を受賞。以後、にっかつロマンポルノを9本撮った。'85年にフリーとなり、'86年には初の一般映画として小泉今日子主演の『ボクの女に手を出すな』90年制作の『櫻の園』では、同年度の映画賞を多数受賞した

 

細谷隆広(新宿武蔵野館副支配人)「ピンク映画は貧乏所帯だが、今でも夢の砦。これからの日本映画を担う天才・鬼才の宝庫だ!」

映画監督への最短コースのピンク業界は、いつの時代も血の気の多い映画バカの梁山泊だった。メジャー撮影所が国立大学なら、さしずめ私立文系浪人組か。とにかく、現場では誰でも即戦力、10人以下のスタッフの中でなんでもやらなければならない。だが、裸のカラミさえある程度あれば、自由な発想の映画作りができる。貧乏所帯だが、今でも~夢の砦」で、本当の意味での、日本唯一の映画学校ではなかろうか……。

ピンク映画が社会的に認知されたのは、若松孝二監督の登場なくして考えられない。そして、山本晋也高橋伴明、中村幻児、周防正行、田代広孝など、現在活躍中のフリー監督の多くが若松プロの洗礼を受けた。また、若松監督の「早く、安く、面白く」というプロの映画作りが見直され、いまでは売れっ子監督のひと

りとなった。片や、現在公開中の『死んでもいい』の石井隆監督は劇画家出身で、にっかつロマンポルノの人気シリーズ「天使のはらわた」の原作・脚本を4作手がけ、シリーズ5作目で監督デビューを飾った人だ。一方、同じピンク映画出身の和泉聖治は、現在ハリウッド映画に挑戦している。3本以上とったピンク時代の和泉監督はテンポのよさとシャープな映像が売り物だった。前述の周防監督は高橋伴明派の制作集団「ユニットファイブ」のひとり。3年に唯一のピンク映画『変態家族兄貴の嫁さん』で監督デビューした。この作品は小津安二郎への偏愛丸出しで、立教大学での恩師・蓮実重彦らの評価を受けた。今年の話題作『シコふんじゃった』では、ヒネリの利いた端正な演出を見せていたが、次回作が待たれる。これから(正月)公開の小泉今日子主演『病院へ行こう2』の滝田洋二郎監督も、喜劇からレイプものまで幅広く器用にピンク映画を撮り、獅子プロ時代には「滝田ブランドにハズレなし」とまで言われていた。このように、いまやメジャー映画会社の看板監督はピンク系、ロマンポルノ系ばかりである。

さらに、高原秀和(『新・同棲時代』)、広木隆一(『さわこの恋』)、小水一男(『星をつぐもの』)、水谷俊之(『ひき逃げファミリー』正月公開予定)など、若手ピンク映画監督の一般映画進出は目白押しだ。

ピンク映画人口は年々減っているが、第二の周防、滝田監督が出てくる余地はまだまだある。とりあえず、ピンクの現場のほうがTVやビデオより、映画作りの勉強になる。また、いつでもスタッフ募集しているほど安いギャラゆえに、貧乏でも映画が作れて酒が飲めればいいと考える者のみが生き残れる世界だからである。

 

望月六郎(映画監督・AV監督)「最低の部分を知っているから向上心さえあれば、何も怖くない」

ぼく自身が演出するAVは、現在月イチ程度ですね。2年くらい前までは、月に3本以上作ってて出口が見つからずにイライラしてたけど、最近ようやくAVを楽しめるようになった気がします。自分が(Hを)好きだということがわかってきたのかもしれない(笑い)。

映画を撮りたいと思ったのは、大学を中退してから何となく通ってた「イメージフォーラム」で出会った金井勝さんの影響が大きい。居候までさせてもらって本当にお世話になりました。で、金井さんが、「お前はプロになったほうがいい」と言ってくれて。とりあえずプロになるにはピンクが早道だっていうんで、脚本を書いて持ち込みですよ。最初のうちは脚本ばかり書いてましたね。ようやく自分で撮らせてもらえるようになったら、AVの台頭でピンク映画の制作本数がどんどん減っていっちゃった。そんな時期に子供まで生まれちゃって(笑い)。あまり気が進まなかったんだけど、AVの仕事を始めたんです。フィルムがどうとかいうこだわりはないけど、気分的な問題ですよね。まあ、AVのおかげで好きな作品も撮れるようになったし、常に現場を味わっていられるんだけど。集務所の連中に言ってるんですよ、「向こう側に選ばれるんじゃなくて自分たちが選ぶ」心意気でやっていこうってね。ぼくらは、予算、日程その他の部分で最低を知っているんです。それ以上悪くなることはないだろうし、貧乏の方法が活かせる時代だと思うんです。ただ、どんな状況でも健全な向上心だけは持ち続けたいですね。

もちづきろくろう●1957年、東京都生まれ。慶應義塾大学中退後、イメージフォーラム付属映像研究所を卒業。ピンク映画、ロマンポルノの脚本を多作。’86年よりAV監督として、人気シリーズ『逆ソープ天国』『フラッシュバック』などを撮る。'90年には一般映画『スキンレスナイト』を監督し、世界10数か所の映画祭に招待された。現在、AV男優を主人公にした一般映画『ヌードマン』の撮影準備中である。

 

雑誌・文学―そこにはブンガク的熱気がある!

久住昌之(デザイナー・漫画家・コラムニスト)「タブーがあったから燃えた限界があったから楽しめた」

ぼくが自販機のエロ本に文章やマレンガを書いてたのは10年くらい前。あの頃は編集の人に元気があったね。その頃の編集の人はアングラ劇団みたいな謎のパワーがあったね。ゲリラ的な。それはエロの限界というタブーがあったからだろうね。AVもビニ本もなかったし。どうだまそうかと燃えるし、面白がれるし、よし、やっちゃおうと盛り上がってくるものもある。悪企みの楽しさだよね。

自販機そのものがなんかいかがわしいでしょ。後ろめたさってタブーの近くにあるじゃない。作り手に後ろめたさがあると、それを創造的な何かに転嫁して自分を納得させようとする。そういうのがあると力が出るじゃない。自分は本当はエロがやりたいわけじゃないんだ!という部分を少しでも主張したいとガンバっちゃってた。今のAVみたいに「明るい本」じゃないし、モデルもブスだし(笑い)。だからおよそエロに関係のないようなぼくらにマンガを頼んできたんだろうね。ゲリラ的な気持ちがあったから『ガロ』とかに描いてる人たちに共感したんじゃないかな。予算も時間もないからたいへんだけど、そのぶん楽しんでサービスして面白がろうぜという気持ちが編集者との共有感としてあったよね。

ぼくがエロ本から学んだのはそういうサービス精神。それこそたけしとかが浅草のストリップ劇場でギャグやってるのと同じ。誰もたけしを見に来るわけじゃないでしょ。だから露骨なサービスをしないとダメみたいな。自分は自販機なんだし、ゲリラなんだし、思いっきり独りよがりになってできるというのが一方にありながら、一方で、でも単にマイナーなことを書いてもダメだぜというのがあった。オナニーするために本買った男がついぼくの文章やマンガを見ちゃって、つい笑っちゃったっていうのを書きたかったから。マイナーもメジャーも関係ない、ギャラも損得も関係なかったね。

くすみまさゆき●1958年、東京都生まれ。法政大学社会学部卒業。学生時代からPR誌や社内報にカットを描くかたわら、自販機本にコラムを発表。また、泉晴紀と組み、泉昌之ペンネームで『ガロ』や自販機本にマンガを描く。そのほか、イラスト、デザイン、エッセー、作詞・作曲と多方面で活躍。著書に『いい大人』『かっこいいスキヤキ』など。最新刊は『脳天記』『ハイテクがなんだ!』

 

末井昭白夜書房取締役編集局長)「まず自分が面白いものを作る。そのパワーが読者に伝われば雑誌は売れる」―編集職人の主張

エロ本を作るつもりは全然ありませんでしたよ」──ビニ本以降のアダルト系出版界に新しい方向性を開いた雑誌として語り継がれる『写真時代』を作った末井昭氏は言う。

「エロ本とは、それでオナニーができることが条件ですよね。洒落や冗談はご法度で、真面目に作るもんなんです。どうも苦手なんですよね(笑い)。最初は荒木(経惟)さんだけの雑誌を作ろうと思ったんです。本人に相談したら、『売れないよ。だったら写真雑誌を作ればいい』って」

確かにアラーキーなしでは成立しえない雑誌だったが、執筆陣の顔ぶれもすごい。森山大道南伸坊嵐山光三郎赤瀬川原平渡辺和博……。「読者のことはあまり考えずに自分が原稿を頼みたい人に依頼していただけですよ」

もともと末井氏は、デザイン畑の人だった。白夜書房の前身セルフ出版、そのまた前身のグリーン企画で自販機本やビニ本のレイアウトをしていた。出せば売れる時代である。

「昭和49年、社長が予算35万円で書店で売る雑誌を作れと言ったのが、白夜書房の始まりです。試行錯誤して『写真時代』になったんですが、読者なんて見えてませんよ。誰が買ってるんだか……。イケイケ的パワーは作りながら自分で感じてましたけどね。その点、今、作ってるパチンコの雑誌は面白いですよ。発売日にパチンコ店に行くと必ずその号に載

せた攻略法を実行している人がいるし、はがきや電話も山のようにきますからね。情報が直接お金に結びつくわけですから、真剣ですよ」

そう、彼は『写真時代』でエロ本を書店の前面(たいがいエロ本は書店の奥のほうにコーナーがあった)に並べることに成功したばかりでなく、パチンコ専門月刊誌を日本で初めて成功させた人なのである。今でこそ、コンビニの雑誌コーナーには同様の攻略本がズラリと並んでいるが、すべて彼の『パチンコ必勝ガイド』の後追いなのだ。そんな独自の感性を持つ末井氏は、今の出版業界をどう見ているのか。

「他力本願のマガジンハウス的な雑誌作りはできないだろうし、アパレル誌なんかもタイアップがなくなって四苦八苦していると聞きます。そういう状況になると、現場で覚えた職人的な実力は強いと思いますね。安いコストで作るノウハウだけじゃ

なく、収益を上げないと次が作れないという強い意識。それがパワーの源になって面白いものができるんじゃないでしょうか。雑誌は“ちゃんとお客さんに買ってもらう”のが基本だし、面白いものが売れるのは当たり前のことなんだからね」

 

梶原葉月(作家・ルポライター)「ヘンなオトナとの出会いが印象深いエロ本ライターの頃」

高校1年の時に、原宿でサン出版の編集部の女性に声をかけられたのが、ライターを始めたきっかけ。その時は、写真入りのコメント取材だったけど、「作文書ける?」と誘われて、600~800字の告白モノや投稿モノを書くようになったんです。高校で話題になる身近なことだったから比較的ラクだったし、いろいろな立場のコになりきるのも、楽しかったですね。あまり注文もなく、自由に書けたし。でも、一番よかったのは、文章修行とかそういうんじゃなくて、編集部でヘンなオトナの人に出会えたこと。渡辺和博さんや南伸坊さんなど、今では有名になった方もたくさん出入りしてて、私はおマメ状態でウロチョロさせてもらったって感じ。それまで親と先生しかオトナを知らなかったから、こういう生き方もあるんだな、と教えられました。

今の仕象とは人脈やスタイルがまったく違うんで、直接つながってはないけど、高校の頃からそういういい意味で不良の、個性あるオトナに遊んでもらったことは、生きていると思います。

かじわらはづき●1964年、東京都生まれ。政大学法学部卒業。16歳からライターとしてH系の雑誌にかかわり、少女雑誌の編集のアシスタントもつとめる。大学卒業後、銀行に就職したが、1年で退職して『アイドルなんて大きらいっ!』で作家デビュー。その後、ルポも手がけ、現在、『アエラ』でコラム、『ストルーダ』で小説を連載中。11月に『僕らの恋の失くし方』『大好きって言って!』を出版予定。

 

荒木経惟(写真家)「写真は、わがまま自由にやっていかなきゃダメなんだ!」

『写真時代』は末井昭が俺だけの雑誌を作ろうといって始まったんだ。あいつのすごいところは広告を取らないというより、こないのをやろうって。そうじゃなきゃパワフルな雑誌は出せないわけ。内容だけで売ろうとなると、人間力出すだろ。それとあいつは作家たちには存分に自由にやらせたね。陰でみんな自分がかぶって作家には自由に萎縮しないようにさせてた。俺の場合だって、ヘアだろうが性器だろうがファックシーンだろうが、何をやったって止めなかった。彼が責任をもって、最後まで俺を警察に行かせなかったから。そういう編集者が最近少ないんだよな。

今、一番自由にやってるのは『S&Mスナイパー』だね。これも広告なんて取れないっていうか取らない。やっぱり公にやれないようなことがいいんだよ。そのかわりに自由。だから元気いいだろ。写真の場合、わがままな感じでやっていかなきゃダメなんだよ。『S&Mスナイパー』はこれからも連載をバンバン変えちゃうよ。もっとパワフルにもっとHに。だって、今みんな何もないじゃない。関係が乾いててもいいとかさ、気どってるだろう。やっぱりセックスは重なってやるもんだとかさ、女は態るもんだとかさ、そういう一番基本ていうか原初的なことをみんな今こそ一番欲してるわけなんだよ。それに刺激与えなくっちゃ。やっぱ、Hてのはさ、元気の要素だよな。

そのためにもやっぱりヘアぐらい解禁しなくちゃ。他力本願ふうでよくないけど、そうすれば、また雑誌も作家も燃え上がるんじゃない。

あらきのぶよし●1940年、東京都生まれ。千葉大学工学部卒業。'64年に「さっちん」で第1回太陽賞を受賞。以後、新婚旅行を撮った「センチメンタルな旅」、私写真”シリーズなど、話題作を続々と発表。'92年には写真展「写真狂日記」の展示作品が猥褻容疑で押収された。10月25日に写真集『天使祭』『10年目のセンチメンタルな旅』『東京は、秋』を発売。

 

山川健一(作家)「文学でも、雑誌でも、制度を超えようとするパワーが必要」

20擺くらい本を出しているけど、デビュー作を除くと、出版社から頼まれないで書いたのは『スパンキング・ラブ』が初めてなんです。その頃は、湾岸戦争があったりしてむしやくしゃしていて、すごく暴力的な小説を畫きたくて、『S&Mスナイパー』に連載を頼んだんです。この雑誌はSMというテーマで、編集者も作家も情熱的に作っているから、リアルに訴えかけてくるものがあって、梶井基次郎の停様の爆弾のようなパワー、危険さがある。

ぼくは制度を超えていこうとするものこそが、面白いと思っています。純文学であれ、エンターテインメントであれ、ポルノグラフィでも、雑誌であろうが、ワクのなかにとどまっているものは面白くないんだけど、最近はそういうものばかり。目の前にある(幻想としての)制度を、超えようとする意志に貫かれているか、そういうパワーがあるかが、今、問題なわけ。小説を書くのもそういう意志のためだし、またそういうパワーがある「S&Mスナイパー」を発表の場としたのも、制度を超えられなくとも、つかめることぐらいはできるのでは、と考えたからです。

やまかわけんいち●1953年7月19日、千葉県生まれ。早稲田大学商学部卒業。在学中に「天使が浮かんでいた」で早稲田キャンパス文芸賞を受賞、'77年に「鏡の中のガラスの船」で群像新人文学賞優秀作となり、作家デビュー。近作に『ザ・ベストMAGAZINE』に連載した『ジゴロたちの航海』。『S&Mスナイパー』に現在も「カナリア」を連載中。音楽活動も大学時代から続け、メジャーデビューも果たしている

自由に、ラジカルにHカルチャーは、これからも、疾走しつづける!

取材・文/泉淳一  土井千鶴  村田伸一  まくべろくろう

初出:週刊『SPA!』1992年10月28日号所載