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雑誌周辺文化研究互助

ねこぢるへの批評など - 知久寿焼+スージー甘金+土橋とし子+松尾スズキ+逆柱いみり+岡崎京子+黒川創+唐沢俊一+柳下毅一郎+青山正明+村崎百郎+根本敬+山野一

知久寿焼ねこぢるうどんについて」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
にゃー子にゃっ太の表情は微妙だ。
たとえば人間でいうと、喫茶店や飲み屋のテーブルをはさんで向かい合って話してるんだけど、そして相手の人は確かに自分にむかって喋ってるんだけど、その視点はぼくのはるか後ろ遠くにピントを合わせていて、右と左それぞれの目線が上から見てほぼ平行なまま、それでも口もとはいくらか微笑んでいるっていう様な気味の悪さだ。 
 
猫の口もとが「ω」なのも手伝ってはいるが。そんな、キチガイのそれっていう感じの表情のまんま、身のまわりで起こる出来事に対して、情緒的なところをすこんと欠落させたみたいな単純でまっすぐな反応をする二匹──あれっ? やっぱりキチガイみたいだなぁ。そうか。そうです、ぼくは「ねこぢるうどん」の、この淡々としてキチガイなとこに感じちゃうんですよ。でも姉弟仲いいよね。
 
(ちく・としあき=ミュージシャン)
 
スージー甘金表裏差の激しいところが魅力」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
一見すると「キティちゃん」風なかわいらしい(?)ファンシーなキャラクター(?)が登場するのとは裏腹に、人を喰ったような内容で、かつきわめて残酷!という表裏差の激しいところが「ねこぢるうどん」の魅力の一つだと思います。読み終わった後、いつも頭の中に無理矢理天使と悪魔を一緒に入れられて、グチャグチャにかきまわされたような妙チクリンな気分になるのは私だけでしょうか!?
 
(スージー・あまかね=イラストレーター)
 
 
土橋とし子ねこぢるうどんは脳ミソが柔らかい」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
ねこぢるさんの漫画には子どもの時の無意識の残酷さ(行動も言葉も)みたいなもんがある。世間とかいうものの中でちょっと大人みたいに生きている私にはナカナカ出せない世界になってしまっているようで、懐しくなったりうらやましくなったりするわけです。知らない間に脳ミソが硬くて四角になりつつ自分に気がついてハッとして、ちょっと悲しくなったりするけど毎月、ねこぢるうどんを読むのを楽しみにしておる次第です。読んだあとはちょっと脳ミソがほぐれた気になれます。
 
(つちはし・としこ=イラストレーター)
 
松尾スズキ気持いいっす。」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
狂った人間の目つきの描写にリアルを感じます。逃げてない所が好きです。残酷にして牧歌的な現代のグリム童話。ガロの読者に読ませるのなんかもったいない。小学三年生とかでドラえもんの隣りに連載して欲しい。とにかく「ねこぢるうどん」は我々表現に関っている人間が仲々真正面から立ち向かう事が辛い闇の部分を、ノホホンと土足で濶歩するアナーキーさに満ちていて気持ちいいっす。本当ですよ。
 
(まつお・すずき=役者)
 
逆柱いみり絵がうまいのでうらやましい」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
電気カミソリで無いヒゲを1時間以上かけてジージージージー剃っているジジイはうっとおしいものだ。
 
台所で11時間以上もうろうろゴトゴト何をしているのかとイライラしているとガスの元栓が心配で眠れないらしい。そのくせ便所の水は流しっぱなしだったりする。死んでからも幽霊になって続けられるかと思うと気が減入る。 
 
「ションベンでもクソでも喰らえ」
渋谷の地下道を強力なインパクトを振り撒きながらブツブツと呪文のごとく繰り返し吐きだされていたキ印のババアの名言は自分を良識ある大人に引き戻してくださった 「こいつアブネー」うっとおしい奴をほほえましく見るのはムズカシイ。
 
 「ピンキー」と呼ばれるオバサンはほれころんだピンクの寝巻姿、ゴム草履の足で一日中徘徊している。その行動範囲は恐ろしく広く思わぬ所で出くわしビックリする。昔はえらい才女だったという噂だが、バランスの崩れた栄養と垢でどす黒く彫りの深い顔は印度の行者を思わせる小学生の人気者だ。前置きが長くなってしまった。変な奴のネタというのはキリがない。
 
さて「ねこぢるうどん」は、変な奴とネコとのからみで進行する話が印象に残るのだが、どちらも1つ目の世界の住人であり現在しか見ていないという辺りがミソだろう。自分の漫画も先を考えずに書くことが多く、終りのほうで苦労するのだが、「ねこぢる」もあんまり考えて描いて無いんじゃないだろうかと思える時があって親しみを感じてしまう。
 
ただ変な奴の場合現在が幸福であっても強力な個性のため、5分後には死んじゃってたりもするわけだが、その点ネコや子供やバカボンのパパなどはけっこう踏み外さない様である。
 
壊れてる者はどこまでも行ってしまうが、無邪気なものはちゃんと家に帰る(長井会長のパーティーの時、山野氏のところにとめていただいたのだが、山野夫人ことねこぢる様はちゃんと部屋にいてファミコンをやっておられた)まあ遊びに夢中になって友だち殺しちゃった子供とか、犯罪の一歩手前で止まるパターンをくり返すような狂人というのも少なくはないだろうから断定はできないが…
 
ところで山野夫妻は親切な方々でございました。今後も面白いまんがをファンのひとりとして期待しております。おわり
 
(さかばしら・いみり=漫画家)
 
岡崎京子「やだなぁ」
初出▶青林堂『月刊漫画ガロ』1992年6月号
 
ねこぢるさんのまんがを初めて読んだ時に「やだなぁ」と思いました。かわいいくせにすくいがどこにもなくてやりきれないのですから。ゆかいにむじゃきに「ぶちゅう」と虫をふみしだいてゆく2匹の幼いねこ姉弟働く職工が黒こげの丸やきになって単々と死んでゆく、「ふーん」とみつめる2匹。いやな感じ。やだなぁ。でも私はこの「やだなぁ」という感じは人間が生きてゆく上でとても大切なものだと思うし実は好きです。
 
(おかざき・きょうこ=漫画家)
 
黒川創ねこぢるって誰?」
初出▶青林堂ガロ』1995年10月号
 
先日、スーパーの文房具売り場をうろついていたら、「カブトムシのセット」が売られていた。直方体のプラスチックケースに、おがくずが敷かれ、なかにカブトムシが雌雄1匹ずつ入っている。たしかに「セット」には違いないが、シャープペンシルやノートと同じ棚に、カブトムシが“文具”として売られているというのはなんか変なかんじだ。
 
ねこぢるの「ねこ」も、このカブトムシに似ている。作者は、生身の「ねこ」なんかぜんぜん可愛がっていないし、たぶん、ペットショップとさえ、ほとんど縁がないだろう。むしろ、ねこぢるの「ねこ」には、西友ダイエーの文房具売り場あたりが、お似合いのではないだろうか。
 
スーパーで760円プラス消費税3%でカブトムシを買ってきて、夏休みのあいだ何かエサをやって最後にぶちぶちと六本節足をちぎっていく。そういう感触が、ねこぢるのマンガにもある。つまり、この人は、学校のウサギ小屋のウサギたちを血まみれになるまでたたきつけたり、プールに投げ入れてしまう少年・少女たちの白昼夢のような心情を、いまも共有しているのだろう。
 
ところで、私は、この作者・ねこぢると、何度か会ったことがあるのだが、あれが「ねこぢる」の正体であったかどうか、実はいまもってはっきりしない。何度か会ったとき、「ねこぢる」は20歳代なかばの小柄な可愛らしい女の子の皮をかぶっており、バーボンを好み、酔っぱらって、私はそのダンナと称する人物と、”彼女“を左右からぶらぶらとぶら下げて駅まで左右からぶらぶら運んだこともあるのだが、それがホンモノの「ねこぢる」であったかどうか、どうも明瞭ではないのである。
 
作品についてはすでに『ねこぢるうどん』第1巻の「解説」に書いたので、このことについて記しておく。
 
私に、ねこぢるとのご縁が生じたのは、たしか四年ほど前のことだ。ある業界紙にコラムを連載する機会があり、そこに毎回つけるイラストの描き手を探そうということになって、私は『ガロ』に「ねこぢるうどん」なるものを掲載していた未知のマンガ家を、担当編集者に推薦したのである。
 
担当編集者は、そのマンガを見て「わかりました」と私に言った。でも、彼は本心では、あまり「わかり」たくはなかったらしい。なぜなら、そのあと、担当編集者はすぐにねこぢるに電話を入れ仕事の件を依頼して、加えて「あなた、ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」とかイヤミなことを言ったらしいのだ。
 
私には、担当編集者の不安がわかる。なぜなら、コラムの掲載は週二回、さまざまな雑多な話題を取りあげてのものであるにもかかわらず、かんじんのイラストレーターの作品は「ねこぢるうどん」しか見られていない。
 
そこでいきなり「ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」発言となるわけだが、そんなことおまえに言われる筋合いはねえよ、と思うのが、描き手の当然の気持ちだろう。元はと言えば、私が悪いのだ。
 
そんなわけで、担当者との打ち合わせの時間、所定の場所に、ねこぢるは現われなかったらしい。ただし、やや遅れて男の「ねこぢる」を名乗る人物がやってきた。それが山野一で、彼はこれまでのイラスト作品をささっと要領よく見せて、「じゃ、そういうことで」と、この連載の仕事を決めてしまった。──というような経過をたどって、私はそれから1年、山野一のイラストと組んで、無事その連載の仕事を終えることができたのだった。
 
ということは、このとき、山野一は、サギまがいの仕事の交渉をしたのだろうか?そんなことはないわけで、実はこの山野一、例の「ねこぢる」らしき女の子の夫で、その仕事のストーリー作り補助、ペン入れ下働き、スクリーントーン貼りつけ係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、「ねこぢる」というのは個人名というより一種の屋号で、その「ねこぢる」の成分には10%か20%、“山野一“が配合されているのだと考えられなくもない。それはそれでいいでも、だとすれば、あの「ねこぢる」の主成分らしき女の子、あの女性だけを呼ぶときには何と呼べばいいのかという、最初の問題に戻ってきてしまうわけである。
 
私は、あの女性と何度か食事をしたし、お酒も飲んだ。私は、そんなとき、彼女のことを「ねこぢる」もしくは「ねこさん」と呼ぶ。でも、どうもその「ねこぢる」という言葉には、20%ぐらい山野一が含まれているようで、落ち着かない。いったい、目の前の彼女、この本体が、それ自身だけの名前をもっているのかどうか、私は彼女だけを呼ぶことができるのかどうか、不安になってくるのだ。
 
私は、ひどいときには酔っぱらって、彼女の家に泊めてもらったこともある(もちろん、そのときには、20%の”山野一”成分付き)。そんな夜には、20%の山野一成分は、80%の主成分に向かって、なにか別の名前で呼びかけて良たのだが、どうも、その呼称がいつまでたっても私には覚えられないのだ。
 
というわけで、いまも彼女は私にとって「ねこぢる」である。
それでいいのだ。でも、私が彼女のことを「ねこぢる」と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(......ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。 ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう。
 
(くろかわ・そう=評論家
 
初出▶青土社ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「総特集=悪趣味大全」
 
幼児の持つ、プリミティブな残酷性をこれほど直観的に描き出した作品はないだろう。猫の姉弟の(猫ゆえに)基本的に無表情なままの残酷行為は、われわれが子供のころ、親に怒られても叱られても、なぜかやめられなかった、小動物の虐待の記憶をまざまざとよみがえらせる。そして、それを一種痛快な記憶としてよみがえらせている自分に気がついてハッとさせられるのである。
 
生命は地球より重い、とか、動物愛護、とかいうお題目をとなえて自己満足的な行動をおこしている連中に、これが人間の本質だ、とつきつけてやりたくなるような、そんな感じを受ける作品だ。他にも、差別、精神障害者の排除、貧乏人への理由なき侮蔑など、近代人が最もやってはいけないとされていることを平気でやる、イケナイ快感をこの作品は触発してくれる。かなりアブナイ。
 
(からさわ・しゅんいち=評論家)
 
唐沢俊一「予言の書」
初出▶文藝春秋ねこぢる大全 下巻』2008年10月
 
ねこぢるの描く猫の姉弟の悪意と残酷さを、よく人は“無垢な子供の”それ、だと指摘する。少なくとも、彼女が亡くなったときにはそんな論調の追悼がいくつも目についた。無垢であれば悪意も残酷さも許される、とでも言いたげな感じで。
 
実はねこぢるを殺したのは、そういう無垢な悪意であった。死去の報を聞いたときにたまたま私と仕事をしていた若い女性編集者が、死の直前に、ねこぢるに原稿依頼の電話をしたという話をした。ねこぢるは、それまでつきあいもない、初めて電話をかけてきたその編集者相手に、「仕事依頼が殺到して(亡くなる前年に東京電力のCMに彼女の描いたキャラクターが使用されるという、本当に作品を読んだことがあるのか、と問い詰めたくなるような事態が生じ、彼女は“売れっ子”になりつつあった)自分の方向性や資質と違うことばかりやらされていて本当につらい。いきなり仕事量が増えて体力が消耗しきっているので、もうこれ以上何も考えられないし、何もできない」という内容のことを、泣きながらえんえんと長電話で訴えたという。それを聞いたとき、そこまで彼女は追いつめられていたのか、と思い、慄然としたものだ。
 
キャラクターが可愛いから、メジャーな表舞台に彼女を引っ張り出そう、という業界各社の思いは、つまるところ彼女にとっては、“無垢な悪意と残酷さ”でしかなかったわけである。
 
あの頃は、と書いてそれがもう十年も前か、といささか愕然とせざるを得なぃが、しかしなるほど十年も前のことなのだな、と納得もできるのは、無垢な悪意というものが十年前にはまだ、世の中の人の目にさほどついていなかったということだ。だから、読者であるわれわれは、ねこぢるのマンガを読んで、そこに描かれた悪意を、マンガの中のことだと思って笑えたわけである。そのキャラクターをCMに起用できたわけである。
 
奇しくもねこぢるの作品が多くの人の目につくようになってきた一九九七年に、あの酒鬼薔薇聖斗の事件が起った。この犯人は十四歳。何らの理由も原因もなく、自らの心の中の残酷さが命ずるままに、幼い子供二人の命を奪った。それからである、堰を切ったように“無垢な心の”少年少女たちによる、さしたる理由なき殺人が頻発しはじめたのは。そして、ネット上には今日も無垢な悪意の書き込みがあふれている。自分の一言で人が自殺したり、立ち上がれなくなることを“純粋にワクワクする心で”残酷に期待して。
 
思えばねこぢるの作品は、世界がそういう時代へ突入していくことの、大いなる予言の書であったのかもしれない。あるいは、いいかげんなねこ神さまが、ねこぢる本人の作品を現実にしてしまったのかもしれない。
ねこぢるはその予言が自らの身に降りて、早々とこの世を去った。その去り方があまりに突然だったので、われわれは一層、その作品の前で立ち尽くさざるを得ない。十年たった今、また、おそるおそる、そのページを開いてみれば、彼女があの頃、いったい“何を”見ていたのかが、わかるかもしれない。
 
(からさわ・しゅんいち=評論家)
 
中野崇
初出▶河出書房新社『文藝』2000年夏季号
 
僕はねこぢるさんに1回だけ会ったことがあります。それは休刊になってしまった『まんがガウディ』の原稿依頼に行った時です。当時同じ編集部のN柳さんが「ねこぢるさんに会いに行くんだけど、一緒に行く?」と僕に声をかけてくれました。『ねこぢるうどん』を読んでいて、すでにねこぢるファンになっていた僕はすぐその話に飛びつきました。
 
ねこぢるさんの第一印象は“とてもシャイな少女”でした。僕等は約束の日にねこぢるさんと町田駅で待ち合わせをして、近くの喫茶店で打ち合わせをしました。駅から喫茶店までの道のり、ねこぢるさんは前髪で顔を隠すようにうつむき、なかなか僕等の方を見てくれません。喫茶店に入ってからもねこぢるさんはそんな調子でしたが、話がねこぢるさんの好きなこと、特にご主人の山野さんとインド旅行に行った時の話になると顔をあげて、とてもイキイキと目を輝かせてしゃべってくれました。前髪からのぞくねこぢるさんの目は、ご本人が描かれるお馴染みのキャラクターとそっくりでした。その時、“にゃーこ”はねこぢるさん本人だ!と思いました。
 
「ぢるぢる旅行記」はエッセイ漫画として人気を博しましたが、“にゃーこ”にしろ“ねこ神さま”にしろ、ねこぢるさん本人を投影しているキャラクターなので、作品にはエッセイ的な要素が入っていると思います。この要素がねこぢる作品の魅力だと思います。
 
(なかの・たかし=編集者)
 
初出▶河出書房新社『文藝』2000年夏季号
 
人の死というのはつねに唐突なものだが、それにしてもねこぢるが自殺したときには驚いた。てっきり、そんなことはしないタイプだと思っていたからだ。じゃあ、誰なら自殺してもおかしくないタイプなのか、と問われると困ってしまうが、少なくともねこぢるは自分の狂気を対象化できるタイプだと思ってたのだ。
 
そもそも、ねこぢるがあれほどのポピュラリティーを獲得できた理由もそこだったはずだ。毒に満ち満ちた内容と、アンバランスな丸っこい描線の可愛らしい絵柄。ミスマッチとも言えそうだが、甘ったるい絵柄が毒をくるむ糖衣となったおかげで、ほど良く辛みを効かせることになったのだ。これが山野一ではそうはいかない。透明な、抽象度の高い絵で生々しさを抜いたからこそ、女子供にも愛されるねこぢるケータイストラップが作られたわけである。自分の中の毒にはまりこんでいたなら、そんなことはできないだろう。でもま、そんなこと考えるだけ無駄だっていうのがよくわかったよ。こざかしい知恵なんざ馬の糞ほどに役に立ちゃしないって、ねこぢるは教えてくれたのか。
 
(やなした・きいちろう=特殊翻訳家
 
鬼頭正樹
初出▶河出書房新社『文藝』2000年夏季号
 
商業的にはたぶん「キティ」に追いつきはないが、キャラクター商品としての「ねこぢる」の浸透力は凄まじい。街角の「ガチャ」にまで「ねこぢる」バージョンがあるくらいだ。漫画のストーリーとは別に、ともに昔から「オンナコドモ」が好むネコということや、カワイラシイ絵柄という点だけで考えると特に不思議ではない現象かもしれない。だが、自殺した作者「ねこぢる」と残された作品を考える上で、この二者を比較することは必要だ(両作者にとっては全くもって迷惑な事だろうが)。
 
サンリオと青林堂という180度別方向を目指す企業の作ったキャラクターも市場では並列におかれる。集英社青林堂のコミック単行本が書店で並んで置かれるのと同じだ。また社員デザイナーという作者のかげの薄い「キティ」と、「ねこぢる」から「ねこぢるy」へ移行しながらも続く「ねこぢるうどん」は、作者の匿名性によって読者から地続きの生活臭を消し去ってしまう。だから作中の不幸も死も切実さはなく「登場人物の純粋な無邪気さ」という言葉の陰に隠されていく。一方で、青林堂のもう一つのヒット商品との共通点も考えてみることだ。漫画家「蛭子能収」はその作品ではなく自分自身を肥大化した市場に送ってしまったが、そんなこともその他の二者のあらゆる現実と作品をも含めて、「ねこぢる」と「蛭子能収」こそが「ガロ」が二十一世紀に向けて懐妊した、純朴さのかげに狂気を秘めた強かな双生児ではないかと思えてならない。
 
(きとう・まさき=エディター)
 
初出▶朝日ソノラマねこぢるだんご』1997年11月1日発行
 
僕は豚汁が大好きなのだが、残念ながら猫汁はまだ一度も口にしたことがない。まあ、機会があれば、子猫を手に入れ、愛情を注ぎまくっ て大事に大事に育て上げ、しかる後、鍋にしてつついてみようかとは思っている。実際の味はともかく、ありし日のやんちゃな姿を収めた8㎜なんぞをモニターで観賞しつつ食する猫汁の味は、さぞ格別なものだろう。
 
さて、ありていに言えば、ねこぢる作品はイソップやマザーグースから今日のナンセンス&ビザール4コマまで連綿と続く残酷童話のひとつである。が、残酷童話という呼称はいいとしても、そうした類型に当てはまらない、ねこぢる独自の世界観というのが明らかに存在する。ねこぢるの創作する世界では、弱肉強食、強い動物は弱い動物にどんな暴力を振るおうが、その死肉を食らおうがお構いなしだ。ところが、その一方で、主人公たる猫一家は、奇妙なところは多々あるとはいえ、とりあえず仲むつまじい家族である。いつも手をつないで歩く、強く怖い父、分別ある母──。こうした家族のあり方は、今の世にあっては、現実とは程遠いファンタジーと言えよう。
 
つまり、ねこぢるの生み出す世界は弱肉強食という下界のビザール・ファンタジーと、そこにかろうじて点在する安住の巣、ファミリー・ファンタジーとのせめぎあいの所産なのだ。『つなみ』の女王とて例外ではない。彼女はひとりになることで、ようやく自分の意志と力でファミリーを築き上げられる可能性を手に入れたのである。
 
ビザール&ファミリーのダブル・ファンタジーが織りなすねこぢるの世界には、凡百の残酷童話にありがちな説教めいた教訓などない。残酷と安寧、他者と家族。ねこぢるは、ただただこの世のありさまを、諦念と一縷の夢を胸に淡々と描き続ける──。 
 
最後に、これはあくまで僕の希望にすぎないんですけど、「ねこぢるが猫汁をすする」ようなことには、決してなってほしくないですネ。
 
(あおやま・まさあき=編集者・文筆家)
 
初出▶河出書房新社『文藝』2000年夏季号
 
深読みすれば一コマで軽く十年は楽しめるのがねこぢる漫画の魅力だろう。同じ電波系でも、石川賢のように絵は複雑だが話の構造が善悪二項対立に帰結する体育会系の男らしい単純な電波漫画と違って、読み手に膨大な種類の妄想を喚起させる点で素晴らしい。
 
とはいえ、こういう評価や感想がねこぢる氏にとって何の意味もないことも事実である。“電波発生装置としてのねこぢる氏と山野一氏の関係は、大本教における出口ナオと王仁三郎の関係に近いと思えば分かり易いだろうし、山野氏もどこかでコメントしていたが、ねこぢる漫画はねこぢる氏が抱えるカオスを山野氏が翻訳してどうにか我々一般人が楽しめる娯楽漫画の領域に押さえられたものだという。そのことを念頭に置き、ねこぢる漫画の中の「読者を楽しませるために加えられたと思われる明らかにウケ狙いの部分(と言うと語弊があるが)」を省いて精読すれば、あの漫画の本来の怖さと深さが実感できるだろう。
 
そこには不謹慎さや反倫理や反道徳や反社会性など微塵も感じられない。ねこぢる漫画の根底にあるのは何かに対立すの意識などではなく、非倫理、非道徳、非社会性ともいうべき、あらゆるものから隔絶し超然とした精神である。おそらく、ねこぢる氏は人類に対する愛も憎悪も関心も何もなく、読者のことなど何一つ考えず、人間の尺度で物事を考えていなかったろう。そういう強さや身勝手さやデタラメぶりは尊敬に値する。
 
(むらさき・ひゃくろう=工員・鬼畜ライター)
 
 
根本敬「本物」の実感
初出▶文藝春秋『月刊コミックビンゴ!』1998年7月号
 
大抵、自殺は不幸なものだ。
だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。
 
ねこぢるの場合がそうだ。
死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。
 
そのねこぢる「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。もちろん、個人的には、数少ない話の通じる友人であり、大ファンであった作家がこの世から消えた事はとても悲しい。が、とにかく、ねこぢる当人にとって今回の事は、世間一般でいうところの「不幸」な結末などではない。
 
とはいえ、残された山野さんにとっては、とりあえず今は「不幸」である。
 
何故とりあえずが付くかというと、ある程度の時間を経ないと、本当のところは誰にも解らないからである。
 
ねこぢるの漫画といえば、幼児的な純な残虐性と可愛らしさの同居ってのが読者の持つイメージだろう。それも確かにねこぢる自身の一面を表わしてはいるだろうが、ねこぢるだんこ」(朝日ソノラマ刊)に載っている俗や目常の遠い彼方に魂の飛んだ「つなみ」の様な漫画は、ねこぢるの内面に近づいてみたいなら見のがせない作品だと思う。まだ読んでないファンがいたら、是非読んでほしい。
 
年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。
 
俗にいうあの世なんてない。
丹波哲郎のいう大霊界などあってたまるか。
 
だが、この世以外の別世界は確実にあると思う。
ねこぢるは今そこにいる。
 
(ねもと・たかし=特殊漫画家)
 
根本敬ねこぢるうどん」......それはマンガで楽しむ山野家の「バルド・トドゥル」となるのか?」
初出▶青林堂ねこぢるyうどん①』2000年11月20日発行
 
ねこぢるyこと山野一もこの根本同様もう長いことマンガ家としてやっているのにその割には業界内に友人が少ない。だから自分にこの「解説」のお鉢が回ってきたのだろう。
 
その少ない友人の中に自分の場合、佐川一政という人がいる。佐川さんはいうまでもなく、81年に世界を震撼させた、あの「パリ人肉事件」の当事者だが、巷間、あの事件は狂気故の沙汰と思われている様だが、実際のところは『このままでは本当に狂ってしまう』という強いプレッシャーから逃れ、精神の安定を得るために実行されたとも思えるのである。
 
精神の安定を得るため人はとんでもない事をしでかしてしまう時もあるがそれ位精神の安定は重要なものなのだ。運命の残酷な仕打ちや思いがけない事態に直面したときに求めるものは何よりも精神の安定だろう。
 
「ガロ」に連載されている「ねこぢるうどん」をはじめ、ねこぢるy名義での諸作品を制作する過程で山野さんは別世界にいる、ねこぢると交感し、精神の安定を得ていたのではなかろうか。
 
ところで別世界とは......。
矢面に立つ山野一がまずいて、そのすぐ後ろにもう一人の山野一がいて、その後ろに更にもう一人の山野一がいて、実はその後ろにも山野一がいて、更にまたその後ろに──という様に背後には、数え切れぬ程の山野一がいるのだが、後ろに行く程、その背景はグニャリとトロけて、時空は歪み、四次元、五次元、正に別世界の様相を呈して来る。そして、ねこぢるの今いる別世界の入り口はそのあたりのどこかにあるのだと自分は思う。
 
ねこぢるうどん」が真の評価を受けるのはまだ先の事だろう。何故ならこの作品はどこかへ向かうためのバルドっていうんですか、その途上にあるから。
 
一体どこへ辿り着くのか?それは─山野さんの脳内で行われる─山野さんとねこぢるによる「脳内コックリさん」でコインがどの方向へスーッと動くのか、それによって決まるだろうが、どちらが主導権を握るか、それによって道筋も違って来る。が、いずれにせよ辿り着く先はひとつだろう。
 
(ねもと・たかし=特殊漫画大統領)
 
山野一「タコねこ」
初出▶文春ネスコ『インドぢる』2003年7月30日発行
 
その目を初めて見たのは、彼女が暇を持てあまして書き殴っていた画用紙だ。大きな猫の顔に、タコのような足がついている。
 
「体はタコなの?」
 
「ちがう、この四本が足でこれがしっぽ」
 
なるほど、そう聞けばそう見える。
 
私はそれを「タコねこ」と命名した。
 
タコではないが、本人もその名前は気に入ったようだ。ほんの数秒で描ける一筆書きなのだが、得もいわれぬ妖しい魅力を放っている。
魅力は確かにあるのだが、その正体がよくわからない。目は人間のようにアーモンド型。瞳が大きく白目が少ない。無表情、焦点が合っているんだか合っていないんだかもビミョー。
 
口元はやや笑っているようでもある。可愛いようで怖い。単純なようでもあり計り知れなくもある。安全なようで危険。諸々……。絵の形や意味するものを捕らえようとする前に、なにかよくわからない物がいきなり直接意識の奥に飛び込んで来る、そんなかんじ。
原始人のケイブアート、あの半ば記号化されたような動物や人、あるいは六芒星ハーケンクロイツといったシンボリックな図形。
 
そういった要素が、描いた本人も無自覚なうちに備わっているのではなかろうか?そんな気がする。
 
「どれが一番いい?」
 
ほぼ同じなのだが微妙に崩れ方がちがう。
 
「んー……、これかな」
 
「次は?」
 
「そうだな……」
 
ねこぢるはすべてに順位をつけ終わるまで許してくれない。どうにか選び終わると、すぐまた別の画用紙に十個ほど描いてくる。
 
「どれが一番いい?」
そのタコねこが、「にゃーこ」と「にゃっ太」の原型だ。その一番最初の画用紙は、今は残っていない。 
 
(やまの・はじめ=漫画家)
 
山野一「あとがき」
初出▶文春ネスコ『インドぢる』2003年7月30日発行
 
る日起きると彼女は冷たくなっていた。普通に寝ているような穏やかな顔だった。
 
「もう亡くなっています」
 
救急隊の人の言葉の意味はわかるが、今目の前にあるものが現実とはかんじられない。いろんな人が来ていろんな事をいった。私はねこぢるの顔を見つめたまま「はい、はい」と受け答えをしていた。しかしこれは夢で、すぐに覚めるものだと頭の半分で思っていた。
 
それは葬儀が終わってからも変わらず、抱いて帰った白い箱に線香を上げるのだが、ねこぢるに上げているという気はしなかった。
 
ふと気が抜けると「あれ、ねこぢるどこ行ってんだっけな?」とすぐ思ってしまう。いつものように近所のコンビニか、遠くても駅前の繁華街にいるような気でいるのだ。
 
「私は長生きなどしたくない」
 
ねこぢるは出会った頃からよくそんな事をいった。長年聞いていると麻痺して、機嫌が悪いからまたそういう事をいうんだろう、ぐらいにしか思わなくなっていた。そういう慢性的な不安要因はあったものの、実際に引き金を引かせた動機はわからない。前の夜は仕事が一段落して、二人で酒を飲みながら、テレビでやっていた「マスク」という映画を見て笑っていたのだ。丸一年、白い箱と暮らす。
 
疑問はどんどん湧いてくるが、答えは何一つ与えられない。すべて憶測のまま放置される。考えは同じ所を堂々巡りして、そこから抜け出せない。
「私が死んで『オレが悪かったよぉー』って毎日メソメソ泣けばいいんだ」
怒った時などねこぢるはよくそういった。
 
いたずらっ子のような顔が浮かぶ。好きだった酒を遺影に供え、線香を上げ、手を合わせるのだが「何という身勝手なやつなんだ。意味わかっててそれやったのか?」そういう反感が、どうしても混じってしまう。確かに自分がそんなにいい夫だったと思わない。しかし、私が死ぬまで徹底的に無視され続けなければならない程ひどかったとも思えないのだ。
 
ようやく墓を建て、一周忌の法事を兼ねて納骨する。しかし、ひとかけらだけその骨を残してロバの絵の小さい壺に入れておく。
 
ねこぢるが好きだったインドで壺から骨のかけらを出し、手のひらに包んで海水につけた。日差しは強く首の後ろが焼けるようだが、海水は冷たい。波の力が強く、もろいかけらから小さな断片をさらって行く。波が引くとき手を開いて流してしまおうと思った。次こそと思うのだが、何度もやりすごしてしまう。結局手を引き上げ、もとの壺に納めてしまった。
 
ある日、知人がMacをセットアップしてくれた。ずっと放置してあったパソコンだ。マウスでグリグリと無意味な線を引き、消し、またグリグリ……。そうやっているうちに自分でも思いがけずハマっていた。Macねこぢるの絵を描いていると、かつて故人と机を並べていた時のように、なにか対話しながら描いているような気がする。
 
それは錯覚なのだが、少なくとも紙よりは孤独でないと私にはかんじられる。墓や仏壇に向かっているより、Macのモニターの中に「にゃーこ」や「にゃっ太」を描いている時の方が、故人とシンクロできるような気がするのだ。正確には、私の頭の中の故人像とではあるが。
 
「ちがうっ、そうじゃなくて……、ああ、バカへたくそっ」
 
線を引く耳元で、ねこぢるがずっとそういい続けているような気がする。その声に従ったり、無視したり、教えられたり、反抗したり、感心したり、癒されたり、やさぐれたりしながら「ねこぢるyうどん」1~3巻を描いた。最後の書き下ろしの部分では、消耗しすぎて私の目の下のクマは顔中に広がり、死に神みたいな顔になった。
 
ねこぢるに対する私の受け答えは、全部実際に口から漏れていたから、その姿を見た人は、急いでその場を離れたかもしれない。
 
ねこぢるは自分のキャラクターを本当に愛していた。
 
仕事をしながら何気なく、「にゃーことにゃっ太はどっちが君なの?」と聞いた事があった。返事がないので、聞いていないのかと思いそのまま忘れていたら、だいぶたってから、「んー……、どっちかに決められない」といった。ずーっと考え込んでいたのだ。
 
ねこぢるが亡くなったあと、私が漫画を描き続けるのはやめてくれ、という読者の声もあった。
 
そういう声には私もえぐられる。遺書にこそ書かれていないが、自分が死んだ時の事について何度か話していたからだ。
 
「絶やさないでほしい」
 
「やめてほしい」
 
その時々の気分によっていうことは変わった。
 
つまり私がやっている事は、黒でもあり白でもある。かつてねこぢるとしていたやりとりを、今は脳内のねこぢるとしている。
 
それがやっていい事なのか悪い事なのか、それになにか意味があるのかないのか、今のところなんともいえない。
 
(やまの・はじめ=夫・漫画家)