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人の命を奪う刑罰(死刑)と人の自由を奪う刑罰(終身刑)にまつわる報告

「人の命を奪う刑罰」

発表者:●●●●

報告者:虫塚虫蔵

2018年7月6日脱稿

まえがき

今回の発表は『死刑その哲学的考察』(萱野稔人ちくま新書、2017年)という書籍をまとめたもので、本書では死刑制度をめぐる様々な問題、存否、意義、そのあり方について5章にわたって考察されている。この発表では各章のメイン・テーマをピックアップし、根拠となる筆者の主張をその都度提示する構成となっている。

まったくの蛇足になるだろうし、あまり他人のふんどし(発表)で、くどくど私見を述べるのは忍びのないことなのだろうが、それでも付け加えておかねばならないことが二件ある。

2018年7月6日深夜から早朝にかけて、ぼくは徹夜でこのレポートを仕上げてて、6時ごろにようやく書き終わり、先ほどまで仮眠を取っていたのだが、寝ぼけまなこで朝9時に起きた時、同時に入ってきた二つの速報が「大雨による休校」と「松本智津夫死刑執行/オウム死刑囚7人同日死刑執行」であった。

まず徹夜で今日発表する予定のレポートを仕上げた意味がなくなった。

次にこのレポートで再三言ってきた「死刑でなく終身刑」というロジックが、全くの机上の空論であるということを思い知らされた。このロジックが通用ないし実現するには、おそらくまだまだ遠い未来なのだろうから。

二つのニュースは自分にとってダブルパンチ以外何者でもなく、とりあえず寝ることにした。「因果」というものがこの世にあるのならば、これを「因果」と呼ぶのかもしれない。

まず第1章では「文化相対主義」と「普遍主義」

を対立軸に死刑の是非について論じられている。「文化相対主義」とは、それぞれの文化によって価値観が異なる以上、あらゆる文化に適用できるような「絶対的な正しさ」は存在しないという考え方で、死刑に関しても、あくまで「文化の問題」として相対的にとらえ、各国の価値観に基づいて死刑の是非は判断されるべき、といったものである。。

一方で「普遍主義」とは、それぞれの文化を超えて適用できるような「絶対的な正しさ」が存在するという考え方で、例えば人権が「文化の違いで損なわれてはならない」のと同じ次元で、死刑に関しても普遍的な立場から論じるといったものである。

なお日本が死刑制度を維持している根拠として、しばしば持ち出されるロジックは「死刑は日本の文化だから」という“文化相対的“背景が挙げられるが、欧州各国は「死刑は文化だから」というロジックでは最早死刑を正当化することはできないと考える。

両者の意見を掛け合わせると「たとえ文化でも死刑を正当化できるのか」という問題になる。これが「文化相対主義」と「普遍主義」の対立構造である。

筆者の主張としては「死刑を肯定するにせよ否定するにせよ、できるだけ普遍的なロジックで考えなくてはならない」というもので、普遍主義寄りの立場を採用している。

 

第2章では「死刑制度の意義」

について論じられている。そもそも死刑は刑罰であり、人の命を奪うことが前提となっているが、死んだ方が楽だと考えるような犯罪者にとって、死刑は犯罪の抑止どころか、より凶悪な犯罪を誘発しかねなく、これでは死刑が刑罰としての意味をなさない可能性がある。

ならば、死刑よりも仮釈放なしの終身刑を極刑として導入した方がいいのかもしれないが、これを行ってしまうと”死刑を廃止しなくてはならない“という問いが浮かび上がる。なぜなら、死刑が存置されている限り、凶悪犯罪者に対する極刑は終身刑でなく死刑にならざるを得ないからである。

なお、日本には仮釈放付きの無期懲役刑が終身刑の機能を果たしており、もちろん無期懲役刑と終身刑は仮釈放の有無で明確に区別はされているものの、すべての受刑者が仮釈放になるわけでもなく、無期懲役刑は実質的に終身刑化しつつある。

これら制度を踏まえた上で、どれを凶悪犯罪者に対して適用すべきか考える上で、無視できないのは被害者遺族の感情である。とくに凶悪事件の場合、被害者遺族にとっては、加害者に極刑の死刑を科すことで被害者に報いたいという応報感情が存在する。

こうした応報感情がある以上、極刑に終身刑より死刑を求める流れは至極当然のことと思われる。ただし、被害者遺族の中には加害者が死んで簡単に全てを水に洗い流すような「ご破算」に納得がいかないものも多く、むしろ加害者に死刑よりも終身刑を与えることでより強い苦しみを生涯かけて与えることができるとわかれば、被害者遺族はより強い応報感情を満たせる場合もあり得ると述べられている。

実際、死刑と終身刑のどちらが苦しいかは、それぞれの受刑者が持つ考えによって異なってくるため、一概にどうとは言えないが、死刑が常に終身刑より苦しい刑罰になるわけでないというのは、下記に挙げるフランスとイタリアの事例*1をみても明白なことである。

しかし、道徳的歯止めという視点から考えれば、終身刑よりも死刑の方に意義が見いだせることがある。なぜなら、死刑制度には「命をもって罪を償わなくてはならない」という誰しもが納得できる道徳的な「歯止め」を見いだせ、これこそ死刑がここまで支持されてきた一つの背景にもなっている。そのため、死刑を廃止するとなると、前述の「歯止め」を取り払ってしまうことにつながってしまう。

しかし、「命を持ってしか償えない罪もある」という道徳的歯止めも「どうせ死ぬつもりなら何をしてもいい」という凶悪犯罪者の前では意味をなさない。そこで、犯罪者を司法によって罰した上で、死刑に処さなくてはならないという行為が必要になる。処罰することで死ぬこと以上の意味を、命による償いに付与することで、「死ぬのなら何をしてもいいというわけでない」という道徳の証明がなされる。

我々が凶悪犯罪者にとって強い処罰感情を抱くのは、その処罰によって道徳を証明する必要があるからで、「死刑の是非を考えるには、道徳の根源に迫ることが必要になる」と筆者は主張している。

 

次に第3章では「人を殺してはいけない」

という道徳的観点から論じられている。

例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては「悲しむ人がいるから」「自分がされたくないことを他人にしてはいけないから」「誰も他人の命を奪う権利をもっていないから」など至って道徳的といえる回答が用意されているものであるが、いずれにせよ限定的なパターンに収束される。

なお、筆者によれば、これら回答には「なぜを人を殺してはいけないのか」という問いに対する「究極的な」回答には程遠いものだという。

例えば「自分がされたくないことを他人にしてはいけないから」という回答には「自分も殺されていいと思っている人は他人を殺してもいいのか」という反論が導けるし、「悲しむ人がいるから」という回答には「身寄りがまったくなくて、悲しむ人がいなければ人を殺してもいいのか」という反論を招く恐れがある。「誰も他人の命を奪う権利をもっていないから」という回答も「人を殺してはいけない」という命題を別の表現で言い換えているだけに過ぎず、つまるところ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには一般に思われているほど明白で確実な答えも根拠もあるわけでない。

また場合によっては死刑や安楽死によって「人の命を奪うこと」が正当化されることもある。上に挙げたような道徳観は普遍的なものというよりは相対的なものなのであり、時と場合によって変化する。そのため、死刑に関して言えば肯定することも否定することもできないのが現状である(つまり道徳的理論では死刑の是非について決着は永遠に付けられない、ということである)。

 

第4章では「なぜ死刑に於いては人の命を奪うことが合法化されているのか」

が論じられている。死刑における殺人が合法なのは、「その殺人を行う主体」と「合法か違法かを決定する主体」が同じだからであるという。公権力は法を決定する権限を持つ主体であり、それゆえ人を殺すことも合法化できる。そして公権力の側から見れば、死刑は他の刑罰と同じく、人々を従わせるための究極的手段として扱われる。しかし、このことを死刑制度への批判材料として使うには早計である。なぜなら物理的強制力をともなう、その一方的な法的措置がなければ、そもそも「犯罪の処罰」が成り立たないからである。

ここで考えるべきことは、死刑の権限を保持する/しない公権力のどちらが好ましいかについて考える上で最も重要なのは冤罪の可能性である。そもそも冤罪は犯罪捜査を行って犯罪者を処罰する公権力の活動そのものによって直接生み出されてしまうため、冤罪のリスクなしで公権力が対象の人間を処罰することは原理的に不可能である。しかし、冤罪で対象の人間が死刑となってしまったら、それこそ取り返しがつかない。そこで与えられる唯一の答えは「死刑を廃止する」しかない。

ここまで述べてきてわかることは「死刑の是非」は「冤罪の問題という具体的事案」と絡めてしか判断がつかないということである。

 

さいごに第5章「処罰感情」

についてまとめていく。上に挙げたように「冤罪の問題」は決して無視できないことであるが、それ以上に「犯人を罰するべき」といった「処罰感情」が先行してしまうため、これによって冤罪を予防することに対する意識の低下を招く恐れがある。死刑の是非について考える上では、人間に処罰感情があることを受け止め、死刑に負けずとも劣らない厳しい刑罰を死刑の代わりに置くことで人々の処罰感情に応えることが必要と筆者は訴える。

そして、その代わりになる刑罰の例こそが「終身刑」の導入であると筆者は提案する。「終身刑」は、これから凶悪犯罪を起こそうとする者に「死ねばすむと思ったら大間違いだ」というメッセージを突きつけるような刑罰になり得るからである。

 

質問

死刑は被害者遺族の応報感情を満たすかもしれないが、加害者家族にとっては身内が死刑を受けることで「精神的肉体的にダメージを受けるではという見方もできる。それについて何かしらの考慮やフォローについて本書に書かれていたか」という質問が出てきたが、本書の扱うテーマにそぐわなかったのか、ニッチなポイントの話題だったかで全く扱われなかった模様である

(→個人的な感想を言えば、身内が死刑になることのダメージよりも、加害者家族に対する世間の風評や嫌がらせの方がダメージでいえば大きいと思われる。例えば宮崎勤の父や加藤智大の弟は事件後自殺し、また加害者遺族の多くが辞職・転居に追い込まれている。中には社会復帰もままらなくなるほどのダメージを受ける場合もあり、加害者遺族の苦痛に関しては殊更注目されるべき話題だと思う)。

 

次の質問では1章の文化相対主義によるそれぞれの価値観の説明の補足として、それがどこまで適用されるかの具体例について求める質問が挙げられた。これに対して発表者は、インドなどで行われる姦通罪による石打ち刑(ちなみに姦通罪では女性しか死刑にならない)を挙げ、死刑制度が適用されることを自認する日本人もそれに対しては嫌悪ないし憐憫の情を示す(であろう)ことから、それぞれの文化に基づいた価値観と言えども、日本人はそれに対して拒否反応を示す場合もままある、という説明がなされた。

 

報告者の備考①…ウクライナ21と終身刑

ウクライナでは2000年2月に死刑制度が廃止されているが、2007年にウクライナドニプロペトロウシク(現・ドニプロ)で、19歳の若者2人が、わずか1ヶ月程度の間に快楽目的で21人(主に女性、子供、老人、ホームレスなど身体的・社会的弱者たち)を殺害する凶悪な事件が発生した。

犯行内容も人体破壊に加えて殺人行為をビデオで撮影するなど極めて残酷かつ愉快犯的なものであった。このスナッフ・ビデオは後にインターネットに流出して日本国内では「ウクライナ21」、国際的には「ドニプロペトロウシク・マニア」と呼ばれるようになる。

逮捕後起訴された犯人の2人は終身刑を宣告されたが、のちに行われた世論調査では市民の50.3%が量刑を妥当とする一方、48.6%はより重い量刑にすべきと回答し、ウクライナ国民の60%が本事件のような連続殺人事件には死刑を適用すべきであると回答した。

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(犯人のヴィクトル・サエンコとイゴール・シュプルンヤク)

個人的に驚くのは市民の半分も「終身刑で妥当」と回答したことであり、言い換えれば史上最悪の大量殺人をもってして、ようやく死刑と終身刑との間で人々の意見が半々に割れたというわけである。

国際的な死刑/終身刑論争を呼んだこの殺人事件は、日本ではスナッフ・ビデオのセンセーショナル性ばかりが注目されたため、事件の詳細なバック・グラウンドは全くと言っていいほど伝わっていない。ゆえに日本語の資料も極めて少ないのだが、この事件を報じたロシア語のニュース記事に、この論考と絡むような興味深い記述があったので以下に翻訳して抜粋してみようと思う。

10年前のこの日、ウクライナは新しい刑法として死刑の代わりに終身刑を採択しました。この決定がいかに正しいかについての議論は、今日も継続しています。/死刑推進派は、ウクライナの死刑の復活に関する法案を提出した。また共産主義者ヴァレリーは死刑の再開に関する法案を作成した。だが、議会では繰り返し拒否され続けた。/死刑反対派は、彼らの努力が支持を得ることはまずないと言う。死刑を回復するためには、ウクライナ欧州連合EU)との協定を見直す必要があるからである。/事件後犯人の2人は終身刑を宣告されたが、遺族たちはみな確信している。「これはあまりにも軽い罰」だと。

 

報告者の備考②…蛭子能収のロジックと見比べる

漫画家・タレントの蛭子能収はインタビューの中で以下のような発言を行っている。

いじめた相手が死んだときの対応が許せないんです。言い訳なんかしないで『私が悪かった』って責任をちゃんと取れよと。いじめるなら、一生かかって責任を取るくらいの覚悟でやってみろと。

いじめっぱなしで相手が傷ついたり死んでしまっても、ノホホンと社会生活したりしてるヤツらが許せないんですよ。そういう故意に相手を追い詰めて死なせた場合は、自分も死をもって償うのがオレは当然だと思いますね。 

蛭子能収インタビュー「暴言爆弾の絨毯爆撃! 人の悲しみをあざ笑う蛭子能収の真意とは何か!?」 OCN TODAY)

蛭子の言う「いじめで自殺に追い込んだ子供たちは死刑にすべき」というロジックは第2章で述べられた「命をもって罪を償わなくてはならない」とほぼ同義であり、日本が死刑制度を維持する以上、蛭子のロジックが「道徳的な歯止め」として人々を普遍的に納得させる意見として強力に作用することが伺える。しかし、仮に日本が死刑制度を廃止してしまった途端、蛭子のロジックは効き目を失ってしまう。そこで第5章で述べられる「処罰感情」が重要になる。つまり「死刑に負けずとも劣らない厳しい刑罰を死刑の代わりに置くことで人々を納得させる」ことが必要で、本書の結論から言えばその刑罰とは「終身刑」になる。

 

松本智津夫死刑執行/オウム死刑囚7人同日死刑執行に関して

2018年7月6日、一連のサリン事件(※とくに松本サリン事件では無実の人間に冤罪の嫌疑がかけられたことが問題になった)を起こしたオウム真理教の死刑囚7人の死刑が執行された。死刑囚7人が同時に絞首刑となったのは、東京裁判で1948年に処刑されたA級戦犯7人の例が唯一であり、国内では戦後2番目となる最大の死刑執行となった。

 

この出来事は世界に衝撃を与え、ドイツ外務省はオウム死刑囚の死刑執行に際して「他方、この犯罪がいかに重いものであろうとも、死刑を非人道的かつ残酷な刑罰として否定するというドイツ政府の原則的立場は変わらない。従って、ドイツは今後もEU各国とともに、世界における死刑制度廃止に向け積極的に取組んでいく」と声明を発表した。

また松本死刑囚は20数年にわたって心神喪失状態をふるまい、弁護側は「松本死刑囚心神喪失状態で訴訟能力がない」としていた。刑事訴訟法479条には「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とあるため、この刑執行は違法との声も一部であがったが、松本は執行直前に刑務官と意思疎通を行えていたことが報道で判明したことから、心神喪失の件に関して言えば、単なる詐病だったとして、これ以上の追及はされないとみられる。

なお松本と刑務官による最期の会話は以下の様なものであったという。

松本智津夫元死刑囚は、執行の7分前に、担当の刑務官から遺体や遺品の引き渡しについて問われると、「ちょっと待って」と少し黙り、刑務官から「誰でもいい、妻や子どもたちがいるでしょう。どうする?」と問われると、沈黙のあと、「遺灰は四女に」と意思を示したという。

(FNNニュース 7月11日)

 

世界に衝撃、非人道的と批判も

下記のニュース記事は朝日新聞デジタルがオウム死刑囚7人の死刑執行に際して報じた世界各国の死刑廃止状況である。端的にまとまっているので以下に転載させていただく。

戦後最大規模の死刑執行、世界に衝撃 非人道的と批判も

 

 欧州連合(EU)加盟28カ国とアイスランドノルウェー、スイスは6日、今回の死刑執行を受けて「被害者やその家族には心から同情し、テロは厳しく非難するが、いかなる状況でも死刑執行には強く反対する。死刑は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果もない」などとする共同声明を発表した。そのうえで「同じ価値観を持つ日本には、引き続き死刑制度の廃止を求めていく」とした。

 

 EUは死刑を「基本的人権の侵害」と位置づける。EUによると、欧州で死刑を執行しているのは、ベラルーシだけだ。死刑廃止はEU加盟の条件になっている。加盟交渉中のトルコのエルドアン大統領が2017年、死刑制度復活の可能性に言及したことで、関係が急激に悪化したこともある。

 

 法制度上は死刑があっても、死刑判決を出すのをやめたり、執行を中止していたりしている国もある。ロシアでは、1996年に当時のエリツィン大統領が、人権擁護機関の欧州評議会に加盟するため、大統領令で死刑執行の猶予を宣言した。プーチン大統領もこれを引き継いだ。2009年には憲法裁判所が各裁判所に死刑判決を出すことを禁じた。

韓国では97年12月、23人に執行したのを最後に死刑は執行されていない。05年には国家人権委員会が死刑制度廃止を勧告した。

 

 今回の死刑執行を伝えた米CNNは、日本の死刑執行室の写真をウェブに掲載。「日本では弁護士や死刑囚の家族に知らせないまま、秘密裏に死刑が執行される」と指摘した。

 

またロイター通信は、「主要7カ国(G7)で死刑制度があるのは日本と米国の2カ国だけだ」と指摘。日本政府の15年の調査で、国民の80・3%が死刑を容認していると示す一方で、日弁連が20年までの死刑廃止を提言していることも報じた。(https://www.asahi.com/sp/articles/ASL766R87L76UTIL055.html

 

NHK時論公論』より「死刑の秘密主義」の現状

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これは去年12月の情報開示で公開された前回の死刑執行に関する文書である。全体の半分以上が黒く塗りつぶされており、これでは死刑囚の精神状態がどうだったのか、そしてどのような形で死刑が執行されたのか把握することはできず、議論や検証を行う事も極めて困難になる。これは日本の死刑の秘密主義を象徴すると指摘されている。裁判員裁判での死刑判決も出ている中で、情報公開のあり方を検討する時期にきているのではないか。(NHK解説委員・清水聡

前掲したニュース記事にある「日本では秘密裏に死刑が執行される」という指摘だが、死刑にまつわる公開文書に関しても、画像のように非公開な部分が多いのが現状である。死刑の是非は、こういう部分から議論していく必要がある。

 

著者紹介

かやの・としひと=哲学者。コメンテーター。津田塾大学教授。専攻は政治哲学と社会理論。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。

*1:すでに死刑を廃止したフランスとイタリアで、2007年の1月と5月にそれぞれの国の終身刑囚320名が、「このまま生かされ続けて命を削られていくのは耐えられない。これなら死刑のほうがましだ。可及的速やかに死刑を執行してほしい」という旨の嘆願書を首相に出したことが話題になった。