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『臨済録』の現在的解釈(ゼミのレポート)

臨済録』の現代的解釈

作・構成/虫塚虫蔵

臨済について

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臨済宗の開祖・臨済義玄(?-867)は、悟りや霊性を呼び覚ますため、「カーッ」と一喝して身体を棒で叩くという、禅のスタイルを「臨済
という究極的な形にまで押し上げた中国唐代の禅僧である*1

 

臨済録とは

臨済の言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』として没後まとめられ、「語録中の王」として現在も親しまれている。この『臨済録』は大きく分けて、臨済と弟子との問答「上堂」、弟子への講義「示衆」、他の禅僧との問答「勘弁」、伝記「行録」、付記「塔記」の5つから構成されており、今回は「元衆」編と「勘弁」編を中心に語録の解釈を行う。

なお、『臨済録』は“真意がとらえにくい禅問答”のような読み方ができるので、一義的に言いあらわすことは難しく、これが『臨済録』を難解と思わせてしまうゆえんとなっている。このレポートは臨済宗の禅僧、有馬頼底による解釈に負うところが大きいが、どのように『臨済録』を解釈するかは各個人の自由である。

 

語録① 殺仏殺祖

仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢(小乗仏教において悟りを開いた高僧)に逢うては羅漢を殺し。父母に逢うては父母を殺し。親族に逢うては親族を殺し。始めて解脱を得ん。(元衆)

仏に会ったら、仏を殺せ」というのは、たとえ相手が偉大な「仏」だろうと「親」だろうと「友」だろうと、自分を縛る「しがらみ」は断ち切るべきという意味であり、つまり自由自在に生きるためには、「あらゆる執着を殺す」必要があるということである。

逸話として、禅が西欧に初めて紹介された際、この一文に触れた敬虔深いクリスチャンたちに「禅はなんと恐ろしいものか」と大いに顰蹙を買ったというエピソードがある*2

 

語録② 無事是貴人

諸君、わしの言葉を鵜呑みにしてはならぬぞ。なぜか。わしの言葉は典拠なしだ。さし当たり虚空に絵を描いてみせて、色を塗って姿を作ってみたようなものだ。

諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、ちょうど便壺のようなもの。菩薩や羅漢も手かせ足かせのような人を縛る代物だ。

もし仏を求めようとすれば、その人は仏を失い、もし道を求めようとすれば、その人は道を失い、もし祖師を求めようとすれば、その人は祖師を失うだけだ。

端的に言えば、「仏であろうと、他人の言うことは、あてにならず、易々と他人に影響されてはならない」「他人の言うことは便壺を素通りする糞のようなものでしかない」「何か自分以外のものに過度に期待して判断を全面的に他者依存してはならない」「きちんと自分の頭で考えなさい」ということ。

外に向かって師や仏にすがっても、それは結局のところ、自分を縛る手かせ足かせとなり、真の自由は得られない。自分に自信がないからといって、他人の教えを最上のものと思ってはならない。

すなわち臨済は「仏さまを信じるな。説法を聞くな。経典に頼るな。他人に相談するな。俺の言うことも聞くな。世の中全てウソである。自分以外の何者も信じるな」ということを教授しており、臨済自身が自らの教えを全否定する教え、というパラドキシカルなメタ構造にもなっている。

 

語録③ 求めるは地獄へ堕ちる業作り

また臨済に言わせれば、修行して悟りを求めようとする行為自体が「地獄」を作る原因であるという。

仏を求め、法(ダルマ)を求めるも、地獄へ堕ちる業作り。菩薩になろうとするのも業作り、経典を読むのもやはり業作りだ。仏や祖師は、なにごともしない人なのだ。だから、迷いの営みも悟りの安らぎも、ともに〈清浄〉の業作りに他ならない。

日常の地獄(餓鬼・畜生・修羅)から解放されるには、知識、金銭、快楽、地位、恋愛、悟りといった、ありとあらゆる執着・欲望・妄執を捨て去らねばならない。他人の存在に惑わされず、何も求めず、何もしない。それが臨済の言う「無事の人」なのであり、『臨済録』とは、「無事の人」に到達しようとする臨済の苛烈な自己格闘の様子をまざまざと描き切った語録集なのでもある。

 

語録④ 臨済と普化

臨済録』の「勘弁」編には臨済の分身ともいえる普化(ふけ、生没年不詳)という禅僧が登場する。普化は「風狂」「神異」の僧であり、大悟した臨済の上を行く存在として描かれるが、その行動には異様なものが多い。例えば臨済と普化の対話に以下のようなものがある。

ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見た臨済は言った、「まるでロバそっくりだな」。すると普化は「メー」と鳴いた。臨済は「この悪党め!」と言うと、普化は「悪党!悪党!」と言うなり、さっと出て行った。

ロバのように生野菜をかじっている普化は一見奇人そのものに見える。

しかし、普化にとって生野菜をかじるという行為は、日常も非日常も関係なく普通のことであり、臨済の掛け合いに対しても、ただ、ロバのように「メー」と鳴く。普化は日常を淡々と生きており、臨済の言う「無事の人」を体現しているのである。

臨済と普化の対話は、ほとんど掛け合い漫才のようなものであり、「悪党」(馬鹿野郎)という掛け合いも、二人がお互いの真意を見抜き、認め合っているがゆえの言葉なのである。

 

語録⑤ 普化の最期

普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに頼んだ。皆がそれを布施したが、なぜか普化はどれも受け取らなかった。臨済は執事に命じて棺桶一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。

普化はみずからそれをかついで、町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って遷化するぞ」。町の人が競って後について行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門へ行って遷化しよう」。

こうしたことが三日も続くと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。そこで普化はひとりで北門から町の外に出て、みずから棺の中に入り、通りすがりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。

この噂はすぐに広まった。町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと中身はもぬけのからであった。

ただ空中を遠ざかっていく鈴の音がありありと聞こえるだけであった。

ある日、普化は自ら棺桶に入って忽然と姿を消した。淡々と生きて何も残さず風のように消え去ったのである。普化は生涯を通して風狂を貫き、「無事の人」を体現した。普化にとっては、死もまたひとつの風狂(ユーモア)であったのである*3

こうした普化の風狂は、のちに一休宗純(1394-1481)にも受け継がれた。なお、一休は臨済宗の僧侶であり、「一休さん」の説話でも広く知られる*4

 

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普化(ふけ、生没年不詳)

 

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普化を祖とする普化宗の僧侶「虚無僧」

 

参考文献

臨済録』 入矢義高訳注、岩波文庫、1989年

臨済録を読む』有馬頼底、講談社現代新書、2015年

※『臨済録』の本文・訳は入矢義高注、岩波文庫に依った。

*1:臨済の「喝」は、若き頃の臨済が、師匠の黄檗と問答を経たのち、平手打ちと喝を黄檗に喰らわして悟りの証明を得た「黄檗三打」と呼ばれる故事が由来となっている。

*2:もし、これがホトケとかでなく、キリストやムハンマドだったら滅茶苦茶に糾弾されていたことだろう。これも仏教の寛容さゆえの賜物か

*3:風狂とは禅において、あえて秩序や戒律を「破戒」することで、禅の自由闊達で自由自在な境地を表す所作全般を指す。

*4:一休の風狂は普化のそれを上回るもので、仏教では禁じられている飲酒や肉食も平気で行い、男女問わず性的に交わりもした。一休の風狂は形骸化して腐敗した日本仏教界に対する強烈なアンチテーゼであり、痛烈な批判精神と反骨精神に満ちている。一休は普化と並ぶ奇人であり、真の僧侶であった。