トランスパーソナル心理学の現状と限界/果たして理論は禅を超えられるのか?
すべては絶頂体験から始まった
かつて、心理学には二つの大きな流れがあった。ひとつは個々の無意識に分け入って、そこに病根を求めるフロイトの精神分析。もうひとつは、人間のあらゆる行動と思考を、外界からの<刺激>に基づく<反応>の集積としてとらえる行動主義心理学である。
ところが、1930年代になると、こうした二大潮流に対し疑問を投げかける専門家が現れ始める。その代表格が、アメリカの心理学者マズロー(1908〜1970)だ。
マズローはこう主張する。「無意識の発見が進化論、特殊相対整理論と並ぶ偉大な業績であることは間違いない。しかし、残念なことにフロイトは無意識の病的な部分にばかり着目し、健康的な側面を全く無視してしまった」。
同時に彼は、行動主義についても、「人間特有の能力である良心や罪の意識、理想、ユーモア等を充分に説明できない」と、否定的な見解を表明した。
右の反省点に立った上で、マズローが提案したのが、“第3の心理学”、人間性心理学である。
早速、マズローは研究に取りかかった。対象としたのは心身ともに健康で、世間的に成功者と見なされた人たちである。臨床の不足は、アンケート調査で補った。結果、彼ら“自己実現”を果たした人々に、共通する心的現象が認められることが分かった。マズローは、それを絶頂体験(至高体験)と名づける。
絶頂体験というのは、スポーツをした後、仕事が上手く片づいたとき、お気に入りの音楽を聴いているときなどに突然襲ってくる、束の間の、それでいてとてつもなく強烈な幸福感を指す。そして、マズローによれば、自己実現の度合いが高まるほど、人は頻繁に“絶頂体験”を体験するらしい。
ともあれ、彼がその著作の中で説いた絶頂体験は、あくまで自然発生を待つ、という類の偶発的現象でしかなかった。これをして、マズローの限界と指摘する向きもある。しかし、それはマズローの身体的疲弊に基づく研究続行の限界であり、決して絶頂体験理論そのものの限界ではない。そう、論文にこそまとめられていないものの、晩年のマズローは、絶頂体験を意識的に呼び起こし、それによって自己実現を達成させる“第4の心理学”を打ち立てるべきだと発言しているのだ。
そんな彼の意向を受け、大衆レベルで絶頂体験の積極的意味づけを試みたのがご存知コリン・ウィルソンであり(71年の著書『至高体験』)、それとは別に学問の分野で継承・発展を企図したのが、チェコスロバキア生まれの精神病理学者スタニスラフ・グロフ(1931〜)である。
TP心理学の成立
LSDを用い独自に人間心理の研究をしていたグロフは、自分の構築しつつある理論がマズローのそれとほとんど同じであることを知り、彼との接触を図った。
至高体験にあって、人は過去の体験や記憶だけでは説明のつかない情報をしばしば知覚する。ということは、つまり人間には、個の意識を超えた“統一知識”が存在するのでは……。意気投合したマズローとグロフは話し合いを重ねた末、68年、“第4の心理学”を「トランスパーソナル心理学」と呼ぶことで合意に達する。トランスパーソナルとは、個と個をつなぐ、あるいは個を超えた、と言う意味だ。
と、ここでひとつ、問題というか、いたって素朴な疑問を提示しておこう。
自己実現のレベルが高い人ほど、絶頂体験の頻度が高い──。これは分かる。が、果たしてその逆が成立するのだろうか。仮に何らかの意識変容装置(メカあるいは薬物)や訓練法が開発されて絶頂体験の増大が可能になったとしても、それが直接、自己実現を促すというのはあまりに短絡的な発想のように思えてならない。もし絶頂体験が仏教の“悟り”と同等の心的現象を指すのであれば、まだ納得の余地はある。しかし、人間性心理学でいう絶頂体験は、それを感得した人間の意識ばかりか人生をも変えてしまうほどのダイナミズムを持たない。
マズローの著作を読むと、絶頂体験とは、誰も1度や2度は体験したことのあるちょっとした幸福感をも含む、極めて広い概念用語なのだ。もしかすると、意識的に絶頂体験を積み重ねていけば、いつの日か悟りに達するのかもしれないが、この点に関しては、理論的にも臨床的にも未だ証明はなされていない。
臨床医グロフのあがき
「絶頂体験→自己実現」と、成り立ちからして飛躍の観が拭えないTP心理学ではあるけれど、「人生を豊かにする糧として人間心理への積極的テコ入れを図ろう」と言う姿勢は、大いに評価すべきだと思う。
TP心理学の最大の目的は、矮小な自我や近視眼的な自己実現を超越し、より広大かつ普遍的なレベルを目指して意識を“進化”させることにある。従って、旧来の心理学とは異なり、理解より“気づき”、理論より“体験や修行”を重視する傾向がある。ヨーガ、仏教思想、スーフィズム等々、東洋の神秘思想を精力的に取り入れているのは、そのような理由による。
さて、TP心理学が登場するまでの概略はこのくらいにして、次に、TP心理学の初期の枠組み、要するに今現在進行中であるTP心理学の方向づけを行ったふたりの功労者、スタニスラフ・グロフとケン・ウィルバーの研究成果、業績について触れてみよう。
グロフは、TP心理学の臨床面を支える重要人物である。
30余年にわたる臨床実験から、彼は、それぞれの人間が全宇宙ないし全存在に関する情報をも内包しているのだ、という結論を導き出した。この結論自体、疑問視せざるをえないのだが、まあ、それは無視して話を先に進めると、臨床医の立場からグロフは、TP心理学にふたつの業績を残したとされる。
子宮内の至福から、孤立の恐怖へ。グロフは、母親と<一体>となっていた胎児が、産道を通って外界へと放出され、母親と<分離>されるまでの過程を4つの段階に分け、それを「基本的分娩前後のマトリックス」=BPMと名づけた。そうして彼は、BPMのプロセスが、誕生後の人間にどれほど深刻な影響を与えるのかを証明したのだった。また、BPMの悪影響を取り払う方法として、グロフは、長時間にわたる深呼吸によって無意識に巣くうBPM(ブロック)を顕在化、それらを様々なボディ・ワークにて消滅させる「ホロトロピック・セラピー」を考案した。
こうしてみると確かにグロフは、偉大な学者である。何よりも、役に立つ心理学を生み出さんとする心意気が素晴らしい。しかし、である。よくよく考えればBPMプロセスはフロイトの「幼児体験とトラウマ」を押し進めただけという気がするし、ホロトロピック・セラピーにしても、その原型はハタ・ヨーガのプラーナヤーマ(呼吸法)。フロイト理論とヨーガのごく限られた行法を結び付け、「個を超えられますよ」と言われても、おいそれとはうなずけない。
絶頂体験なら喚起できるだろうが、どう考えてもこれで“悟り”は得られまい。言い忘れたが、マズローと違って、グロフは、一過性の絶頂体験にはあまり重きを置いていない。彼がなさんとしているのは、日常意識を統一意識のレベルに変容すること、すなわち“悟り”の短期実現なのである。が、正直、今の時点では、ホロトロピック・セラピーはまだ、TM瞑想のレベルにも達していない。
ミクスチャー心理学
TP心理学最高の理論家と称されるケン・ウィルバー。彼が打ち出した理論では、「意識のスペクトル論」と「アートマン・プロジェクト」が有名だ。
人の意識は7つの段階(スペクトル)に分類され、精神分析は自我のレベル、道教は統一意識のレベルといった具合に、ひと口に“意識の治療及び進化”と言っても、セラピーによって作用する意識のレベルは異なる──。「意識のスペクトル論」は、宗教を含めた諸セラピーの有効性を意識のレベルによって分類した画期的な理論である。しかしながら、意識の7つの段階というのは、ヨーガの7つのチャクラ、カバラにある創世の7日間、あるいはグルジェフの7つのセンター等々、ありふれた雛形というギミック感がつきまとう。
いまひとつのアートマン・プロジェクトは、意識は進化し、最終的には森羅万象合一したアートマン(真我)へと至るのでは、という仮説である。悟り=真我を意識の到達点とするのはグロフと全く同じなのだが、残念ながらウィルバーは、それを成し遂げるためのノウハウには言及していない。「将来、人類は意識の梯子を上り詰め、悟りに達する」これは理論と言うより、単なる願望である。
グロフ然り、ウィルバー然り。TP心理学者は現在、何とか“悟りの秘薬”を調合しようと、学際的見地から、すなわち大脳生理学、分子生物学、免疫学等々、ありとあらゆる分野の新たな研究成果を投入しつつ、古今東西の心身修養テクニックのミクスチャー実験を行っている最中である。この言わば“新旧セラピーのごった煮”から、いつの日か“悟りの秘薬”が生まれることを信じて……。
TP心理学の限界と禅
悟りを追い求めるグロフとウィルバー。TP心理学では悟りを“統一意識”と呼ぶ。その名の通り、統一意識は諸々の事象を無分別に受け入れる心を意味する。
光と闇、善と悪、生と死、快楽と苦悩、味方と敵、表と裏……。人はかような二元論に固執し、それらの片方のみ──光・善・快楽・味方・表──の増大を望む。が、これは、明らかに世の実相と矛盾する。なぜなら、闇のないところに光はなく、裏がなくてはまた表も存在しえないからだ。そうした観点に立ち、二元論を排して、全てをセットで受容しようというのが悟りの境地、TP心理学の提唱する統一意識の実現である(ウィルバー著『無境界』に詳述)。
TP心理学は、人をして統一意識を目覚めさせる理論と実践方法を模索している。しかし、理論面にしても実践面にしても、確たる成果は未だ提出されていない。実のところ、グロフにしてもウィルバーにしても、「テキスト化できるような理論や技法を編み出すのはしょせん不可能」と思っている嫌いがあるのだ。
グロフは「ホロトロピック・セラピーの原理」なる論文の中で、「“危機”こそ最大の成長の機会である」との旨を記している。「極限の“危機”を経ずして統一意識を目覚めさせることはできない」。TP心理学を日本に紹介した吉福伸逸氏も、昨年2月、ハワイで会ったとき、そう語っていた。ウィルバーは自分の理論が仮説であることを認めているし、また、彼が「意識のスペクトル論」の手本としたグルジェフ(意識の振動帯域論)も、「“危機”こそが意識レベルを上げる唯一無二の触媒である」と常々語っていた。
そう、TP心理学者は皆、「悟り=統一意識実現の“鍵”」が「心身の“危機”状況」にあることを認めながら、そこに踏み込めずに、理論やテクニックの創世にかかずらわっているのだ。
怪我、病、口喧嘩、離婚、愛する者の死、借金、失業。等々──。言うまでもなく、“危機状況”の内容は個々人によって異なる。ゆえに、「危機の発現」は、普遍性を重んずる学術理論やシステム化されたボディワークには馴染まなない。「危機の実現」=「悟りの発現」は、その多様さ、不合理さゆえに、学問となることをかたくなに拒み続ける。
真理の周縁を、永久にグルグル回り続けるTP心理学──。
と、僕が思うに、現段階で、個々人に相応しい“危機”を誘発しうるのは、禅において他にないのではあるまいか。
唐代末期の高名な禅匠、雲門はその師、睦州(ぼくじゅう)に片脚を折られ、不具者になったことによって初めて悟りを得た。同じく唐代の僧、臨済は「喝(かつ)」という叫びで、数多くの弟子たちを瞬時に悟りへと導いた。例を挙げていくと切りがないのだが、「危機」と「悟り」を不可分と見なす禅では、人の数だけ「危機」=「悟りの源」があるとし、その誘発方法も千差万別。極端な話“死ぬ”ことでしか悟りに到達しえない者もいる、と禅は説く。おお、コワッ……。禅問答に代表されるように、禅の技法が合理精神と合致しないのは当然なのである。あまつさえ、二元論の徹底的排除を根本原理とする禅にあっては、「問う者」と「答える者」の分離さえも否定する。これを精神科の領域でたとえるなら、「医師」と「患者」、「セラピスト」と「患者」との区別さえ無意味ということになる。つまり、悟りへと至る道筋は、問う者自らが見出さなくてはならないのだ。
あっ、ちょっと難しくなっちゃったな……。
鈴木大拙曰く。「禅は、この世で最も非合理で、想像を絶するものである」「内臓を九転させるほどの苦痛と葛藤を経てこそ、はじめて内なる不純物が一掃され、人は全く新しい人生観をもって生まれ変わる」(『禅の意味』56年より)。
統一意識=悟りに達するためには、人は先に挙げたように、個々人によって異なるその人なりの「危機状況=どん底体験」を経験しなくてはならない。そして目下のところ、個々人に適した危機を誘発せしめるシステムは、禅(非システム)以外に見当たらず、ありとあらゆるTP心理学の研究は、禅を組織化しようとするパラドクシカルな目論見に過ぎない。しかしながら、禅は全くもって理論や合理に馴染まない──。これがTP心理学、そして悟りに関する僕の見解である。ぶっちゃけた話、グロフやウィルバーの理論的限界は、彼らにとっての個人的な「危機」であり、読者(患者や被験者)ではなく、彼ら自身を悟りへと導く灯火なのである。
ってことですが、とりあえず期待はしてます、TP心理学。“死”をも肯定する禅は、やっぱ恐いもん……。
『危ない1号』第4巻 特集/青山正明全仕事
「Flesh Paper【肉新聞】No.133」より
日本の編集者・ライター。鬼畜系ムック『危ない1号』編集長。ドラッグ、ロリコン、スカトロ、フリークスからカルトムービー、テクノ、辺境音楽、異端思想、精神世界まで幅広くアングラシーンを論ずる鬼畜系文筆家の草分け的存在。ドラッグに関する文章を書いた日本人ライターの中では、実践に基づいた記述と薬学的記述において特異であり快楽主義者を標榜していた。2001年6月17日に神奈川県横須賀市の自宅で縊死。40歳没。